*第191回〜第200回

2017年11月01日

連載小説「龍の道」 第200回




第200回 NEW YORK (2)


 「あっ──────!!」

 開いたドアの向こうに広がる壮大な夜景に、宏隆は思わず息を呑んだ。
 いったい此処はどこの高層ビルで、この階は何階なのか。周りに見えるまるで星屑を散りばめたようなビル群も決して低くはないが、いま宏隆が観る目線よりも、どれもかなり下に見えている。

 山の手の家から一千万ドルと喩えられる神戸の夜色を見慣れている宏隆には、シアトルやサンフランシスコは無論、ナポリ、シドニー、香港など、どこへ行ってもそれほど驚くようなことはなかった。だが、この景色は六甲山や ”スペースニードル” から見下ろすそれとは少し違って、まるで夜景の中に自分が居るような感覚になってくる。
 【編註*:スペースニードル(Space Needle):ワシントン州シアトルの万博記念塔。UFOが塔の上に乗っているような奇抜なデザインで知られる】


「ようこそ、ミスター・カトー。よく来てくれましたね」

「やっぱり・・あなたが現れると思っていました」

「初めまして、ではないね──────WASILLA(ワシラ)の山荘で、すでに君と顔を合わせているから」

「カーネル(Colonel=大佐)、でしたね。雪の山荘では、暖炉の前でシガーとコニャックでお寛ぎの最中に、たいへん失礼をしました」

「ははは・・君はおもしろい。若いのに、まるで老練な人間のような話し方をする」

「さて、僕に話があるようですが、それにしては、ずいぶん大掛かりな招待の仕方ですね。誕生日のサプライズというワケじゃなさそうだし」

「ははは、敵地に侵入して見事に脱出もする手腕ばかりでなく、ジョークもジェームスボンド並みだね。君とはじっくり話ができそうだ」

「話なら、街角のカフェでもできる。わざわざ手の込んだ誘拐をしなくても、ね」

「まあそこに掛けたまえ。何か飲むかな?、ミスター・カトーは珈琲がお好きだったね。  
 それに、かなり腹も減っていることだろう。あいにくKOBEフロインドリーブのゲベック(ドイツ風のペイストリー)やニシムラコーヒーこそ無いが、ここのキッチンではアメリカ伝統の美味いサンドウイッチならすぐに用意できる。具はターキーがお好みだったかな? 好きなものを何でも、遠慮なくそこのバトラーに申し付けてくれたまえ」

「ほう、すでに僕のことをよくご存知のようだ────────
 では、お言葉に甘えて、フランス式のキャフェ・オレに、6インチのイタリアンロール・サンドウイッチ、中身はローストターキーにオールド・イングリッシュ・チーズを添えて、ブラックオリーブ、オニオン、マスタードは多めに、アーモンド入りのバジルソースで。
 それに、ライブレッドのBLT(ベーコン・レタス・トマト)もだ。ライブレッドは日本のホテル・オークラのレベルとは言わないが、中粗挽きの全粒粉でキャラウエイシード入りならなお結構。軽くトーストをして。それに、水から茹でた5分30秒のボイルドエッグを2個付けて」

「・・Certainly, sir.(かしこまりました)」

 捕らわれの身の宏隆が、立て板に水を流すように堂々と食事を注文するので、カーネルに従(つ)いているバトラーは少し呆れ顔で去って行く。
 だが、腹が減っては戦(いくさ)が出来ぬ。機を伺ってここから脱出するにしても、空腹でヨロヨロしている状態では何も思うようには動けない。相手が敵だからと言って感情的になっていては闘う前に負けたも同然だ。せっかく食事を提供するというのだから、先ずは充分に腹拵えをして行動のエネルギーを確保し、然るべき時に備えるのが正しい──────
宏隆には、そう思えたのだ。

「なるほど、その人間の出自や本性は本人の食べ物でも分かると聞くが、本当らしい。
 心が貧しい人間は、たとえどれほど金持ちになっても、その貧しさ自体は少しも変わらないままだが、反対に、豊かさをカネや物で測らない人間は、どんなに惨めな時でも、その豊かさが何も変わらない、という──────君は良い家に生まれたようだな」

「そんなことより、宗少尉はどこに居る? 先に無事を確認させてくれ」

「ああ、Ms. Zong Lihua(ミズ・宗麗華)は、別の部屋で話を伺っているところだ。
 取るに足りない台湾のちっぽけな秘密結社だとは言っても、君たち玄洋會はなかなか手強い集団で、以前から興味があったからね。キミを拉致しようと企んだ北朝鮮の特殊部隊をいとも簡単に潰滅させてしまうのだから大したものだ。あの時は君も大活躍だったようだね。
 相変わらず秘密結社の皆さんはカンフーの訓練をしているのかな?、ハァーッ、ハッッ、ハァッ!、アチョォーッ!、などとやるのだろう? あははは・・」

 カーネルは、少しおどけた格好で手足を振りまわし、映画のブルースリーのように拳や足を振り回して物真似をした。

「貴方たちの目的はいったい何だ? 何のためにわざわざ僕らを捕らえ、遙々アラスカからここに連れてきたのか、先ずはそれを聞かせてもらおう」

 宏隆が、少し語気を強めて、そう言った。

「ふむ、怒ったかね? 人間は誰も空腹だと怒りっぽくなるものだ。間もなく食事が来るから、まあ落ち着きたまえ。そうだ、ちょっとこの夜景でも観てみないか」

 高い天井から床まである、大きなガラスの窓際に歩いて、宏隆をいざなう。

「うーむ、見事な夜景だ。たぶんニューヨークだな、ここは──────」

「おお、流石は Kobeite(神戸っ子)だ! 眠らされて空路をアラスカから連れて来られたというのに、夜景を見ただけで、すぐにここがニューヨークと判るのか?」

「ただの直感だ。あなたがユダヤ人で、こんな世界一の大都会で高層ビルを所有する、非常にリッチな人間だということは、特徴のあるその顔を見れば分かるが」

「ミスター・カトー、今ここに見えている景色の、ほとんど全ては、私たちが造ったものなのだよ」

「ほう?・・つまり、あなた達はニューヨークの建設業者ということかな」

「ははは、君は本当におもしろい。だが、まだ若い──────この世界が一体どのように動いているのか、きちんと知っているかね?」

「ユダヤの国際資本家たちが、我が物顔に世界を牛耳っているらしいのは聞いているが」

「ふむ、それはそれで正しい。だが流石にその真の目的までは分かっていないはずだ」

「目的は極めて単純だろう──────グローバリゼーション、経済構造の改革を武器に、ユダヤ人の考え方で、世界を恣(ほしいまま)に支配することではないのか?」

「君が想うような支配が目的なのではない。それに、支配自体が目的なら現時点でほぼ完遂しているとも言える。そして、これからは、わずか数十年の間に、さらにそれがシステマティックに行われるようになる」

「大きく出たものだな。それを証明できるのか?」

「できるとも・・君は銀行預金やクレジットカードを持っているかね?」

「今の世の中は、それが無ければ始まらない。先進国ではなおのことだ」

「そのシステムを創ったのは、私たちなのだよ」

「資本家や銀行家のやった事だというのは、よく分かっている。だがそれで世界を支配できるというのは、少々烏滸(おこ)がましいのではないか?」

「社会のシステムを、キミはまだ分かっていないようだ。君たちが所属する社会の構造というものが、どのように出来ているかを全く認識していない、ということになる」

「多くの民族があり、領土があり、そこに居住する人々によって造られる国家があり、そのような国家が多く存在する地球という惑星が太陽系にある──────簡単に言えばそういうことだ」

「では、君の言う ”国家” とは、何によって統治されているのかね?」

「どこの国家も、主権としての統治権を持つ政治組織によって統治されている」

「つまり、政治とその制度が国民を統治している、と言うことかね?」

「そうだ、そんな事はどの国の小学生でも知っている」

「あははは・・・これは可笑しい!!」

「なにが可笑しいんだ?」

「いや、まだそんな戯言(たわごと)を言うスパイが地球に居るのかと思ってね」

「それを戯言だと言うのか? それに僕はスパイじゃない。祖国や自分を脅かす人間に対して当然の抵抗しているだけだ」

「ふむ、なるほど・・・だが、国家を統治しているのは政治ではないよ」

「では、何だというのだ?」

「BANK──────キミもよく知る、銀行だよ!」

「国家を支配しているのは、銀行だと言うのか?」

「そのとおり、だからこそ私たちは、”銀行” というシステムを発展させてきたのだ」

「あはは、そんなバカな。銀行家は国家元首よりも偉いとでも言うのか?」

「そうだ。それは厳然たる事実なのだ。今日では銀行のシステムは、実際に国家の支配だけでなく、世界を支配することまで出来るようになってきた」

「まるで狂人の妄想のように聞こえるが・・では、その可笑しな理論を、アタマの悪い僕にも分かりやすく解説してもらえないか?」

「良いとも。君の考えを根本から改めてあげよう──────例えば、事業を興すには資本が必要だね。その資金は銀行から融資を受けるか、株券や債券を発行するか、いずれにせよ金融機関を通す必要が出てくる」

「だからと言って、銀行が国家を支配しているとは言えない」

「まあ、私の話を最後まで聞いてほしい・・・銀行と取引があれば、大きなお金を融資してもらう事ができる。ビジネスを大きくするためには融資が必要になる。君の父上のような大きな資産家でも、必ず銀行との取引があるはずだ」

「それはそうだが」

「そして、銀行から融資を受ければ、銀行は企業の債権者となり、反対に企業は銀行の負債者となる。つまり企業は銀行から借りたお金を返済する義務を負うわけだ」

「そんな事くらい、誰でも知っている」

「そう、そして銀行は、企業の債権者であるがゆえに、その経営状態を把握することができるし、経営それ自体についても口を夾む権利がある。つまり、銀行を利用した時点ですでにチカラ関係としては企業よりも銀行のほうが強い立場と言えるのだ」

「それはそうなのだろう。だが、そのこと自体が国家の統治力に勝るとは言えないはずだ」

「そうかな? では国家は、その国を営むための収入を、どこから得ているのだろう?」

「税金に決まっている。どの国も、税金がなければ国家経営は成り立たない」

「そうだ。だがその税金、商品に掛かる物品税や所得税、消費税などは、各企業が営利活動を行うからこそ、そこに国家が税金を掛けることができる。政治家にしても、よほどの資産家の息子でもない限り、企業からの政治資金の献金がなければ選挙資金さえ賄えず、政治活動自体が成り立たない。要するに、企業が利益を出さなければ国家の運営も政治も成り立たない、と言うことになる」

「つまり、銀行>企業>国家という図式──────国家よりも企業、企業よりも銀行の方が強い、というチカラ関係になる、と言いたいのか?」

「そのとおりだ。ミスター・カトー、なかなか物分かりが良いじゃないか」

「だが、実際は国家が銀行や企業の存在を認めて、その営利活動を法的に許可しているからこそ、銀行も企業も成り立っているはずだ。それが法治国家というものだろう」

「確かに、表向きにはそのとおりだ。だが本当のところは、それは建前に過ぎない。
 実質的には銀行と企業が国家の上に君臨している。だからこそ、このような貨幣経済社会に於いては、お金を持っている者と、お金を操作できる者が、最も強大な権力を持つのだ。大資産家である君の父上の言うことも、日本の政治家は喜んで聞いていることだろう」

「世界はカネで回っている、それを支配できる者が世界を支配する、ということか。
だから、マイヤー・アムシェル・ロートシルト* は、『私に一国の通貨の管理権を与えてくれれば、誰が法律を作ろうとかまわない』などと、豪語したのだな」

【註*:Mayer Amschel Rothschild(1744~1812)=ロスチャイルド財閥の基礎を築いた初代。フランクフルトでユダヤ人銀行家オッペンハイム家に12歳から丁稚奉公し、古銭商人を経てヘッセン・カッセル方伯(ほうはく)家の御用商人となって成功し、ナポレオン戦争で大きな財を成した。当時のフランクフルトのゲットーに住むユダヤ人には家名がなかったが、暮らしていた家が赤い表札であったため、ロートシルト(ドイツ語で”赤い表札”)と名乗り、以後もそれが家名として使われた】


「そのとおり、よく知っているじゃないか、はははは・・」

「経済のシステムは勉強を始めたばかりだ。特に通貨システムの裏側を知らなくては、世界がどのように動いているか、本当のところは全く分からないと、今の話を聴いて思えるようになってきた」

「それはとても良いことだ。格闘に精通し拳銃を振り回していても、世界は分からない。
君の言うとおり、この世はカネで動いているのだから」

「だが、世界がカネで動いていても、それを人生の目的としない人はいくらでも居る。人生の目的を人間性の成長におき、精神的により進化していくことこそ、人として最も尊いことだと僕は信じている。この広い宇宙には、そんな精神的進化を遂げた生物が多く存在しているはずだ」

「Oh、ゼン・メディテーションだね!・・なるほど、そういった趣味も必要かもしれない。絶対的な支配を受けている事へのストレスを紛らすには、たしかに良い健康法だろうな」

「禅や瞑想は趣味で行うものではない。それは古今東西の賢者たちが見出した、人が人としてより高く進化していくための優れた方法だ。そんなことがカネの亡者に分かるものか」

「それは失礼した。だが、君の父上もその意見に賛成するだろうか?」

「何だって・・・?」

「日本でも有数の資産家である君の父上、ミスター・ミツオキ・カトーには、近々私たちと一緒に働いてもらおうと考えているのだ」

「父を、お前たちの配下にするつもりか?!」

「配下ではない。同じ立場で仕事に携わってもらいたいと思っているだけだ」

「ば、ばかな──────息子を誘拐して監禁した挙げ句、言いたい放題を言うような人間に、父がそう簡単に協力関係を築くワケがないだろう!」

「ははは、そうかな・・?」


                                ( つづく)





  *次回、連載小説「龍の道」 第201回の掲載は、12月1日(金)の予定です

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2017年07月01日

連載小説「龍の道」 第199回




第199回  NEW YORK (1)


 ニューヨーク(New York Sity)はアメリカ最大の都市で、都市圏の人口は2,000万人、総生産は六千億ドル(50兆円)で、東京に次ぐ世界第2位の経済都市として知られる。
 1920年代初頭、ニューヨークはロンドンを抜いて世界最大の人口となり、1930年代には人口が1,000万人を超えて、人類史上初のメガシティとなった。

 因みに、ニューヨークの総生産は神戸や大阪とほぼ等しく、東京圏の総生産は1兆5,200億ドル(167兆円)でニューヨークの3倍以上、人口は3,700万人で、カナダの人口よりも多い。国連統計局によれば、1955年(昭和30年)に世界最大であったニューヨークを抜いて以来、60年以上も世界一の経済都市として君臨し続けているが、なぜか日本人にはあまり知られていない。

 ニューヨークを最初に発見したのは英国人のヘンリー・ハドソンで、大航海時代にオランダに雇われ、「大西洋からチャイナへ繫がる道」を探し求めて、現在のニューヨーク湾に辿り着いた。1609年9月2日のことである。
 ハドソンはニューヨーク湾を観て、それが千艘の船が安全に停泊できる天然の良港であることを確信し、さらに大きな川を遡って探検をしたが、それはチャイナと繫がっていなかった。後にその川はハドソン川と呼ばれた。

 その後、1614年にはオランダ人が毛皮貿易のために植民地支配を始め、その辺りで暮らしていたインディアンが「マナ・ハタ(丘の島)」と呼ぶ島を約600ドルで買い取った。これが今日のマンハッタン(Manhattan)である。オランダのユダヤ資本家たちは、アムステルダムを「新エルサレム」と呼び慣わす一大商業地へと発展させた勢いで、ユダヤが25%以上を持つ「東インド会社」がマンハッタン地区を買い取ったのだ。

 ハドソンが発見したその良港にオランダ船が戻ってきたのは1624年である。当時、東インド会社を南アジアに展開して巨大企業に成長していたオランダは、その成功を新大陸でも実現したいという想いで「西インド会社」を設立、ニューヨークは西インド会社のアメリカ本社を置く場所として期待された。
 その地は交易場として開かれ、ニュー・アムステルダムと呼ばれたが、やがて1664年にはイギリスの支配が始まり、当時のイングランド王、ヨーク・アルバニーの名にちなんでニューヨークと名を改めた。
 ニューヨークは現在でもユダヤ人(Jew)が多いことから、Jew York(ジュー・ヨーク)などと皮肉られる。


 New York City Never Sleeps──────眠らぬ都市ニューヨークでは、市内の交通機関が24時間運行し、人口密度は高く、人種も多様で170以上の言語が使われ、人口の36%がアメリカ以外に母国を持つ人たちである。
 かつて19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカに渡った何百万人もの移民を出迎えた自由の女神像は変わらずニューヨーク港のリバティ島に立ち、第二次大戦からつい最近まで世界金融の中心地であったウォール街も、地上39階・地下3階建ての国際連合本部ビルも国際政治の中心としてこの町に存在している。

 世界恐慌の時代には、改革派のフィオレロ・ラガーディア(Fiorello LaGuardia)が中産階級のユダヤ系市民の大きな支持を取って市長となり、それまで市政を支配してきた民主党の利権団体・タマニー・ホールは、その80年間に及ぶ政治支配に終わりを告げた。
 この物語に登場するラガーディア空港は、1934年から1945年まで市長を三期務めた彼の名に由来するが、何故かイスラエルのテルアビブには、彼の名前を冠した大通りやホテルまでが存在している。

 ラガーディア空港は国際空港であるが、入国審査と税関検査は行われない。その為、この空港を利用できる国際線は、米国外の出発空港にて事前入国審査が行なわれる15の空港だけに限られている。
 ほとんどの主なフライトは国内線とカナダ線に限られ、騒音問題や環境保護の観点から、一部の例外を除いてボーイング767やエアバスA300等の大型機や、飛行距離が2,400km以上の路線の発着は行わないとされているが、日本の羽田空港やイスラエルのテルアビブ空港からラガーディアへのフライトは、その ”一部の例外” として常に運行されている。

 また、他のニューヨーク都市圏空港である、「ケネディ国際空港」「リバティ国際空港」と共に、その管理、運営、警備の全てはすべて同地域の地域開発公団である『ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社(The Port Authority of New York & New Jersey)』によって行われている。

 9.11テロ事件で崩壊した110階建てのWTC(ワールドトレードセンタービル)の建設、経営、管理をしていたのも同じ港湾公社だが、事件のわずか6週間前に突然その所有者が不動産業界の大物ユダヤ人、ラリー・シルバースタインに委譲された。彼はWTCの二つのビルに35億ドルの保険をかけ、事件後は推定90億ドルもの保険金が支払われた。
 このワールド・トレードセンターは、ロックフェラーの一族が理想として掲げているところの、「World Peace through Trade(貿易を通じた世界平和)」から命名され、9.11のテロ事件までは5万人の勤務者と毎日20万人の来館者を誇る、ニューヨーク最大の商業センターであった。

 2014年に 9.11の跡地に再建された新しいWTC(1−WTC)の土地も同様に、この港湾公社が管理している。”THE TOP OF AMERICA” と呼ばれる、世界第三位の高さを誇るこのビルは、あまり周りのビルとの調和も取れているとは思えず、地元の評判も今ひとつのようで ”不気味なデザイン” と評する人も多い。

 閑話休題───────



「うぅむ・・どこだ、ここは・・・?」

 どれほどの時間が経ったのか。ようやく目が覚めた宏隆の手には、もうプラスチックベルトの手錠は掛けられていない。
 辺りを見回せば、周りの壁も床も、すべて無機的なコンクリートの打ち放しの、ガランとだだっ広い部屋で、天井のライトが煌々として、やけに眩しい。
 ゆっくりと起き上がってみると、そこはベッドではなく、病院や美術館の休憩用に置かれてあるような類いの大きな固いソファだ。部屋にはその長椅子以外には何もない。

 当然の事だが、身体検査をされたのだろう。銃器などの武器はもちろん、装備の入っていたザックや腕時計、帽子やベルトなどもすべて取り上げられ、ご丁寧にブーツまで脱がされている。これでは何をすることも出来ない。

 少し頭痛がする。そう言えば機内で目が覚めた時に水のようなものを飲まされたが、またすぐに眠ってしまったところを見ると、睡眠薬でも入っていたのか。

「いまは昼か、それとも夜だろうか・・?」

 腕時計が無いので、今日が何日で何時なのかも分からない。たとえ時計があっても、敵が日付や時間を変更していれば錯覚をさせられてしまう。

「宗少尉は大丈夫かな───────」

 自分が生きているのだから、宗少尉も取り敢えずは無事なのだろうが、姿が見えないと、やはり安否が気になる。

「よっこらしょ、っと・・」

 起ち上がって、この部屋の様子を探る。
 窓は無く、入口には如何にも頑丈そうな分厚い鉄のドアがひとつ。高い天井には埋め込みのエアコンがあって、監視カメラがひとつ、その天井の隅に取り付けられている。
 試しにソファを動かしてみるが、床に固定されていてピクリともしない。

 宏隆は同じ部屋の中を、できるだけ動き回った。

「よし、腹は減っているが、何とか身体は動かせそうだぞ」

 ガランとした何もない部屋をウロウロして、歩いたりしゃがんだりしているのは、部屋の偵察というよりは、長い時間眠らされて使わずにいた身体を起こし、イザという時にすぐに動けるようにするための、言わば準備運動の意味合いが強い。
 事実、万一敵地に囚われた場合には、体力を落とさないために看守の目を盗んで効率的なトレーニングに励み、脱出は体力の有るうちに、できるだけ早く行わなくてはならないと、宏隆は教えられていた。特にインナーマッスルに関わる運動は、見た目には筋骨隆々にはならず、看守の目を誤魔化せるので推奨されている。

「ふむ、つまり、ただ鉄格子が無いだけの、バカでかい監禁室ってコトだな。ジタバタしても仕方がなさそうだ。これからが本番、というわけか・・」

 ジロリと、宏隆は監視カメラのレンズを見上げてつぶやいた。

 身ぐるみ剥がされ、何もない部屋に監禁され、カメラで監視されているのだから、目を覚ませば誰かがやって来るに決まっている。ならば、今さらジタバタしても始まらないではないか。儘(まま)よ、とばかりに、宏隆は再びソファに寝転がった。

 案の定、間もなくギィときしむ音を立てて、ぶ厚い扉が開いた。

「そら来た、いよいよ敵さんのご登場だ」

 暢気な顔をして、むくりと起き上がったが、

「ヘ、ヘレン────────!?」

 銃とバトン警棒を装備した、いかにも屈強そうな二人の男が入ってきて、扉の左右に立ったが、まるで彼らに守られるように現れたのは、誘拐されたまま行方が判らなかった、あのヘレンであった。

 予期せぬ出会いに唖然として言葉も出ないが、ヘレンも何も言わない。

「ヘレン、無事だったんだな、ずいぶん心配したんだぞ・・けれど、どうしてここに?」

 ようやく宏隆が口を開くが、

「ごめんなさい・・・」

 ヘレンはただ謝るだけで、俯(うつむ)いて目を潤ませている。

「Wasilla(ワシラ)の山荘を偵察しに行ったときに、窓のところにヘレンの姿を見たような気がしたんだ。あれは君だったのか?」

「ヒロタカ、ごめんなさい。わたし・・」

「そうか。考えたくは無いが、ただ謝るばかりということは、やはり君も中佐と同じ、敵側の人間だったと言うワケなのか?・・親子揃って玄洋會を欺いていたと・・」

「そのとおりだよ──────」

「ヴィルヌーヴ中佐!!」

 後ろから、ヴィルヌーヴ中佐が入って来た。

「まんまと私に欺かれて、身柄を拘束されてこんな所に居る。人生は勝ちか負けしかない。君たちは私に負けたから此処に居るのだ、それが現実だよ」

「くっ・・・」

「それより、気分はどうかね?」

「変なモノを飲まされたらしく、少し頭痛と胸やけがする」

「水分を摂ってもらうために飛行機の中でサービスしたのは、抱水クロラール入りの冷たい紅茶だ。溶けやすくする為にエタノールも少々含ませている。確かにあれは味が悪く、頭痛や胸やけの副作用もある。何よりも、ひどい悪臭を放つので、私はあまり機内では使いたくなかったのだが、薬がそれしか無かったのだ、悪く思わないで欲しい」

「ふん、農薬のDDTが原料の睡眠薬を飲ませたんだな、道理で頭痛がするはずだ。しかし、こんな事になるとは─────あなたを信頼していた僕が馬鹿だった」

「いや、やがて君は私に感謝することだろう、もっと私を信頼するがいい!」

「え・・・?」

 取り方によっては辛辣な皮肉にも聞こえないことはないが、ヴィルヌーヴ中佐の眼はじっと宏隆の瞳を見すえて、言葉には偽りが無いと思える。

 だが、本当は何を言いたいのか─────
 少なくとも、その言葉には、何らかの含みがあるように宏隆には思えた。

「君に新しい提案をしたくて、わざわざこんな手の込んだことをやったのだよ」

「何の事か全く分からない。あなたは誰に雇われているのか・・組織の正体は何だ?・・・
いや、それよりも宗少尉は無事か?、いったい僕たちをどうしようというんだ?!」


 ──────CIAによれば、敵に捕らえられた人間には8種類の性格類型があるという。
 だが、捕虜となった兵士の態度はだいたい決まっていて、笑顔をつくって好意的に敵に取り入ろうとするか、または不機嫌な顔で悪態をつき、敵意を露わにして反抗的な態度を取るか、大抵はそのふたつにひとつであるという。

 宏隆は、わざとムキになって、相手の反応を見ようとしていた。

「感情的になるのも無理はないが、まあ、落ち着いて話をしよう」

「ふざけるなっ!、父娘(おやこ)で人を欺いておいて、何処だか知らないがこんな所に監禁した挙げ句に、落ち着いて話をしろというのか!!」

「ならば、もっと居心地の悪い狭い部屋で、君の心が落ち着いてその気になるまで、ずっと何日でも過ごして貰うしかないが──────」

「むむ・・・」

「どうするかね?」

「分かった、話を聴こう。だが、先に宗少尉の安否を訊いておきたい」

「心配はいらない。宗少尉は別の部屋で、同じように大切に扱わせてもらっている」

「そうか──────」

「安心したかね。ここに着替えと靴がある。先ずはシャワーを浴びてほしい」

 部屋の外に控えていた部下が前に進み出て、一流ホテルのバトラーのように恭しく着替えと靴を差し出す。宏隆が武器にできないよう、それらは平らな紙の箱に入っている。

「シャワーを?、どこで浴びろというんだ・・」

「そこにバスルームがある」

 入口に立っている部下の一人に合図をすると、奥の壁が開いて、トイレ付のバスルームが出てくる。コンクリートの壁だと思えた所は、実は電動のドアであった。

「勝手にいろいろ動かれては困るので、この部屋の物は目立たないようにしてある」

「まるで陳腐なスパイ映画だな。どうも君たちはつまらない閑人の集団らしい」

「ははは、ある意味ではそうかも知れない。ともかく、旅の汚れを落として、着替えてもらいたい。終わったら迎えを寄越そう」

「シャワーを浴びさせて、迎えをよこして、それから何処へ連れて行くつもりだ?」

「この建物の、もっと景色の良い部屋だよ。君と話をしたい人が、そこで待っている」

「なるほど、やっとボスの登場か。この状況でそれを否定しても意味が無さそうだな・・・それでは礼儀正しく、身だしなみを整えて行くとしようか」

「分かってもらえて嬉しいよ。では、のちほど──────」

「ヒロタカ、私は・・」

 中佐と入れ換えに、後ろに居たヘレンが何か言いたげに近寄ろうとしたが、

「ヘレン、もう行くぞ!─────彼とは、またゆっくり話す機会もある」

「は、はい・・・」

 父親の言葉に、すぐに踵を返して部屋を出た。


 シャワーを済ませると、ほどなく迎えが来た。迎えの男は独りで、よく鍛えられた体に、きちんとダークスーツを着て、ネクタイまで締めている。

 用意された着替えは、長袖のTシャツにスウェットの上下。靴はヒモ無しのスニーカーという格好で、もし脱出できても、戸外(そと)が寒ければ行動が限られてくるはずだ。

「ご案内します、どうぞ──────」

 言葉は丁寧だが、スーツの下には拳銃がスタンバイしているに違いない。
 敵はたった一人なので何とかなるかも知れないが、建物の状況も、敵の様子も分からないまま、こんな所で闘っても仕方がない。ヴィルヌーヴ中佐も宏隆がそう考えると分かって、わざと迎えを一人で寄越したのだろう。

「こちらへ──────」

 男は部屋を出て、長い廊下を先に立ってどんどん歩く。
 廊下には窓もなく、ほかに部屋が無いのか、扉のひとつも見当たらない。

 ひたすら細長い灰色の通路を進んで行くと、突き当たりにエレベーターの扉が見えた。
 階数の表示は無く、しばらくすると壁のランプが点き、扉が開いた。

「どうぞ、こちらへ・・」

 先に中へ入って、宏隆を促す。

 エレベーターの中には、目的フロアを指定する階床ボタンは四つしかない。
 意外と小さなビルだったか、と宏隆は思ったが、男が一番上のボタンを押すと、その小さな空間はすごいスピードで上り始めた。

「む・・長いな、こいつは相当な高さのビルだ」

 気圧の影響があるので、宏隆は耳抜きをした。通常、ビルの1階から30階までは高さにして約100mで、およそ12hPa(ヘクトパスカル)ほどの気圧低下が起こる。
 一般的な住居マンションのエレベーターは分速30〜60mだが、これは明らかにその何倍ものスピードで、これから向かう所がかなりの高層階なのだろうと思えた。


                    ( Stay tuned, to the next episode !! )




  *次回、連載小説「龍の道」 第200回の掲載は、8月1日(火)の予定です


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2017年05月01日

連載小説「龍の道」 第198回




第198回  P L O T (18)



 いったい、どこに追っ手が居るというのか────────
 薄暗くなった窓の外をあちこち見渡しても、何も見えない。

「ワナかも知れない。取り敢えず、降りるわよ!」

 疾(と)っくに目を開けてスタンバイしている宗少尉が宏隆に言った。
 もちろん、会話は直接口にせず、指のタップでモールス信号を送り合うので、前の席に気付かれることもない。

「降りるって、今すぐ?」

「そういうコト」

「OK、それじゃ、行きますか・・」

 ドライバーの肩越しに見えるスピードメーターは、ほぼ時速40マイル(約64km)を示している。飛び降りて転がった時に、もし立木か何かにぶつかれば、十数メートルの高さから飛び降りたのと同じ衝撃を喰らう速度だ。

 走行中の車や列車から飛び降りる訓練は、どこの国の特殊部隊でも行われ、技術だけではなく刻々と変化する状況を判断する能力や度胸も要求される。

 無論、ただ度胸を決めて飛び降りれば良いのではない。自動車のドアから外へ飛び降りる場合、進行方向に対して斜め後方に飛ぶ。また荷台や後部ハッチからは、そのまま真っ直ぐ下へと、荷物が落ちるように飛び降りる。
 いずれの場合も、空中に投げ出された身体は、走行している車や列車と同じスピードで動いており、着地と同時に進行方向への強い慣性が働き、激しく転がされることになるので、飛び降りる際は体をできるだけ丸くし、頭部が直接地面にぶつかるのを避け、上手く受身を取る必要がある。

 訓練では、初めは時速20km程度から行い、徐々に慣らしていって最終的には60〜70kmにも対応できるようにする。時速70kmの車から飛び降りて何かにぶつかると、その際の衝撃は20mの高さから飛び降りたものに等しく、80km以上になると生命が危ぶまれる。

 着地の訓練は充分に積む必要がある。例えば、低い高度から飛び出し、かつ降下速度も速い軍用パラシュートでは、スポーツダイビングとは異なり、着地の際には2階から飛び降りたほどの衝撃がくる。自衛隊の空挺部隊では「五接地転回法」という方法で身体を回転させて着地の衝撃を緩和させる。
 読者なら興味がお有りだろうから、その順序をご紹介しておこう。
 まず必ず両足先の裏を着地し、次に片方の足の脛の外側、そして同じ足の大腿部外側から臀部、反対側の肩甲骨下部へと、それら五ヶ所を接地させながら転がって行く。
 着地の瞬間には必ず両足が用いられなくてはならない。猫が高いところから飛び降りても怪我をしないのは、必ず四本の足で着地して衝撃を緩和しているからであり、片足で着地すると足を痛めてしまう。



「次のカーブで出るわよ、ドアを開けるから先に飛んで!」

「ラジャッ・・・」

 自動車でも列車でも、走行中の車両から飛び降りる際には、少しでもスピードが落ちるタイミングを見計らって行うことが必要だ。カーブやワインディング、上り坂では必ずスピードが落ちるので好いチャンスとなる。また、着地する場所が少しでも柔らかく、そこが斜面であれば、より衝撃が緩和されることになる。
 例えば、スキーのジャンプ競技で踏み切って飛び出す速度は時速85kmにもなるが、着地が斜面なので衝撃はかなり緩和される。K点から先は着地面の傾斜曲率が低くなり、平地に近くなるほど衝撃が増え、それ以上飛ぶと着地時に危険を伴う事になる。


 ───────前の席に気付かれないよう、ギリギリまで待って、

「3・・2・・1・・・ゴーッ!!」

 カウントを数えて素早く席を立ち、ドアのハンドルに手を掛けたが、

「あっ─────?」

「どうしたの?」

 しかし、開けようとした、スライド式ドアのハンドルが動かない。

「ロックが掛かっていないのに!」

 確かに、ロックボタンは下がっていないが、なぜかドアは開かない。

「ああっ・・・!!」

 同時に、運転席の方を気にして見た宏隆が声をあげた。
 フロントシートと後部座席の間が、いつの間にか透明な分厚いガラスで仕切られ、カーゴスペースに閉じ込められてしまったのだ。

「窓も開かないわ!」

「くっ、まずいっ・・!!」

 宏隆が即座に銃を構え、ドアのロック部分を撃とうとするが、

「撃ってはダメよっ!!」

 宗少尉が怒鳴った。

「宗少尉の言うとおりだ、それはやめた方が良い─────先ほど、このクルマの防弾性能はそれほどでもないと言いましたが、それは外部からの攻撃に対しての事で、内部からの破壊に対しては滅法強く造ってある。防弾装甲車とは用途が違うということです。銃を撃てばそこら中に跳弾して危険極まりない」

 スピーカーから、ヴィルヌーヴ中佐の落ち着いた声が聞こえた。

「ここを開けなさいっ、私たちをどうするつもり?!」

「中佐っ、やっぱり貴方は僕らの敵だったんだな!」

 ヴィルヌーヴ中佐は答えない。仕切られた防弾ガラスを強く叩いても、振り向きもせず、車はひたすら進んで行く。

「そうそう、言い忘れましたが、このクルマは気密性も高い」

 その言葉が終わらないうちに、シューッという噴出音が聞こえ始めた。

「ガ、ガスだっ──────!!」

 後部へ走ってハッチを開けようとするが全く動かず、銃のグリップで手当たり次第に窓ガラスを叩いてもビクともしない。
 二人はバンダナを口に当て、腹這いになって、床の隅に顔を近づけて呼吸をした。
 
「無駄ですよ、そこからは逃げられません」

 ヴィルヌーヴ中佐の声が聞こえる。

「く、くそっ・・どうしようか?」

「こんな時に使われるのは、きっと無力化ガスね。そうだとしたら、あと十秒もしないうちに意識がなくなる。こうなったら覚悟を決めるしかないわね」

「そ、そんな・・きっと何か方法が・・!」

「ヒロタカ、落ち着くのよ、訓練どおりにしなさい・・また後で会いましょう・・」

 静かにそう言うと、宗少尉はゴロリと、仰向けに床の上に大の字になった。

「宗少尉─────────」

 だが、宏隆はそれを見て呆れたわけではない。
 宗少尉の行動は意識を失うことが予想される際に、頭部などに被害を受けないための予防であり、意識が戻った際にきちんと物事に対処できるよう、精神を整えておく為でもあるのだと、学んできたことを思い出した。

「・・ええい、儘(まま)よっ!!」

 そう言って、宏隆もそれに倣って同じように寝転がったが、言われたとおり、わずか数秒後に急速に意識が遠のいてきた。


 敵を死に至らせない、いわゆる「非致死性兵器」は化学兵器の類であり、古くから各国で盛んに研究されてきている。
 因みに、ハンカチに湿らせておいたクロロホルムを嗅がせて人質を連れ去る、などというのはドラマだけの話で、決して実際的なものではない。クロロホルム、つまりトリクロロメタンはかつて吸入麻酔薬として用いられていたが、その毒性への懸念から、麻酔剤の主力はジエチルエーテルへ移行した。
 クロロホルムを嗅がせれば、強い刺激臭の為に頭がクラッとして意識を失うかもしれないが、眠るわけではない。効かせるには5〜10分ほど時間が必要で、もし一瞬で眠らせる量を用いれば中毒や死に至る場合もあるので、誘拐には向かない。

 宏隆たちに用いられたのは無力化ガスの一種で、1970年代にレニングラード(現・サンクトペテルブルク)の秘密研究施設で開発された ”KOLOKOL-1”(コールコル・アヂン)という薬物で、エアロゾルにして噴射すると数秒後から効果を発揮し、2〜6時間ほど意識不明にする事ができる。

 2002年10月、チェチェンからのロシア軍撤退を要求して42名の武装勢力が922名の観客を人質にとった『モスクワ劇場占拠事件』では、FSB(ロシア連邦保安庁)のアルファ特殊部隊が突入する際にこのガスを使用し、その名が世界に知られるようになった。
 使用の結果、武装勢力の全員が意識不明で倒れ、短時間で制圧することができたが、当然人質もこのガスを吸って意識不明となり、内129名はガスによる吐瀉物が呼吸器に詰まったために窒息死し、後に訴訟にまで発展した。
 ロシアのアルファ部隊は要員250名、表向きは国内の活動に限られているが、アフガニスタン侵攻の際に大統領官邸を襲撃し、アミーン大統領を殺害したことでも知られる。


 ────────車はさらに森の中を走り、急なT字路を左に折れて、Camp Gorsuch Road. (キャンプ・ゴーサッチ・ロード)と書かれた案内板に従ってしばらくの間走っていたが、やがて小さな池を過ぎて、冬の間は閉鎖されているビジターセンターや幾つかのロッジが立ち並んだ所で、道が行き止まりとなった。
 静まり返って全く人気(ひとけ)が無い。おそらく此処は、夏場はボーイスカウトやスポーツクラブなどが森を歩いたりカヌーをしたりするキャンプ施設なのだろう。だが冬の最中の寒い夜に、わざわざこんな所に来る人間が居るはずも無かった。

 いつから駐まっていたのか、奥からヘッドライトが2度点滅し、黒塗りのステーションワゴンが近づいてきた。ヴィルヌーヴ中佐がドアを開けて降りて行くと、向こうからも革のコートを着た男が降りて来る。傍らには強そうな二人の護衛が従(つ)いている。

「予定どおり来たという事は、万事上手く行ったと言うことだな」

 男はそう言うと、手にしたシガーを上手そうに吹かしながら、

「良くやった、ご苦労だった─────」

 微笑みながら、そう言った。

「いえ、相手がこの二人ですから、ただ単に運が良かっただけです」

「だが彼らより、君の方が経験は深いはずだ」

「戦闘能力は劣ります。射撃競技なら何とか張り合えても、実戦ではどうなるか・・」

「相変わらずご謙遜だな。だが現に彼らはこうして君の手の内にあるじゃないか」

「こんな方法を取らなくては二人を拘束できませんでした。心情的には卑怯な方法と思えますが、戦術的には彼らの負けです。いつまでも事の全体が見えず、整った戦略を立てられないまま、その場その場で行動する事を余儀なくされた結果でしょう」

「事の全体が見えないように吾々が仕組んだからな。山荘でもわざと深追いはしていない。此方の力がそれほどではないと思えたからこそ、カトーは単身で乗り込んできた。あの時に捕らえられなかったのは誤算だったが」

「宗少尉が戻ってくるとは思いませんでしたが」

「だが結局は、結果的に最後に残った者が勝者なのだ。より緻密な戦略を立てて、それを成功させる為の努力を惜しまず、知的に繊細に修正し対処し続ける。それこそが勝利の秘訣なのだ」

「まさに、そのとおりですね」

「いずれそう遠くない将来に ”吾々の世界” がやって来る──────これ自体は小さな仕事に過ぎないが、その大仕事に向けて世界中で行われている準備の一つだ。疎かにはできない」

「お手伝い出来て、嬉しく思います」

「ははは・・この場所は冷えるから、つい熱く語りたくなるな」

「エドモンズ湖の方から風が吹いてきました。これから一層冷えてくるでしょう、宜しければそろそろ」

「では出発するかな、まずは予定どおり─────」

「イエス、SWDへ向かいます。しかし、あのような目立つ所で良いのですか?」

「堂々と振る舞えば、かえって誰も怪しまないものだ。それに、あそこの係官にはいつもたっぷり謝礼をはずんでいるから、心配は無用だ」

「Money opens all doors. (地獄の沙汰も金次第)ですね」

「A Golden key opens every door. とも言う。世界に通じるその ”黄金の鍵” を、すでにもう吾々は手にし始めているのだ。わはははは────────」

 ほどなく、2台の車はまた森の路を戻って再びハイウェイに出ると、アンカレッジに向かって走り始めた。

 ヴィルヌーヴ中佐が言った「SWD」とは、アンカレッジから南に約120kmほど下った、アラスカ湾に突き出す半島の中ほどに位置する、Seward Airport(スワード空港)の空港コードである。
 スワードは人口2千800人ほどの、漁業を中心とする小さな港町で、アラスカ鉄道の南の終着点としても知られ、人口の72%が白人だが全体の17%を先住民が占める。その地名は、1867年にロシアからアラスカを購入した、ウィリアム・スワード国務長官の名に因む。


 それから2時間半ほどが経ち、すっかり暗くなった小さな空港に、2台の車が滑るように入って来て、ひとつの格納庫の中に入った。格納庫のすぐ前には、真っ白な小型自家用機がすでにエンジンをかけたスタンバイ状態で駐機している。

 ゲートが広く開いた格納庫で待ち構えていた3人の空港職員が、手にした折り畳み式の車椅子を広げ、急いでバンの後ろに付ける。

「降ろして車椅子に乗せるんだ。大事な人間だから、頭部に気をつけて運べ!」

 運転をしてきた、中佐の部下が空港の職員に指示をする。

「ご病気ですか、それとも気を失っているんですか?」

「余計なことは訊かなくてもいい。聞いた為に後悔するのと、仕事をしてたくさん報酬をもらうのと、お前はどっちがいい?」

「イ、イエッサー、失礼しました・・」

「機内へは3人で、そっと担ぎ上げろ、そっとだぞ!」

 入口のハッチまでそれほど高さのない小型飛行機とは言え、気を失っている人間をタラップの上まで運ぶのは、やはり容易ではない。

「ふう・・やっと済んだ」

「よし、それでいい────────」

「この時間は他の飛行機の発着はありません。いつでも飛べるよう準備ができています」

「ご苦労だったな、これは今日の報酬だ、仲良く分けろ。細かい事に目を瞑ってくれた管制官にも忘れずに渡しておけよ」

 封筒に入った分厚い札束を、ポンと無造作に手渡す。

「こんなに?!・・いつもありがとうございます」

「良いさ、取っておけ。また頼むぞ。ただし、見たことはすべて忘れるんだ」

「イエッサー、お約束します。何でもやりますから、いつでも声をかけて下さい」

 彼らにしてみれば、たったひと晩の働きで、ひと月分以上の報酬が手に入る。
 この町には約900世帯/500家族が暮らしているが、半数は夫婦で生活をしている。ほとんどが共稼ぎで、一人当たりの年収は約200万円。人口の10%以上、18歳未満の13%が貧困線(最低限の生活を維持するのに必要な所得水準)以下の生活をしている。
 多少のリスクを犯すことになっても、やはり ”稼ぎ” には換えられない。美味しい話があればつい乗ってしまうような事情があるのだ。


「機長、夜分にご苦労だが、今日も頼むぞ」

「カーネル(Colonel=大佐)、こちらこそ有難うございます。行き先はいつものニューヨークでご変更はありませんか?」

「ああ、それでいい」

「畏まりました。出発までしばらくお待ち下さい。機内に佳いシャンパンが冷えています、どうぞごゆっくり」

「そうか、ありがとう───────」

 アラスカからニューヨークは北アメリカの西と東で、約7時間ものフライトになる。
 機内にはカーネルと呼ばれる男と護衛の男たちが二人、ヴィルヌーヴ中佐と部下のドライバーが乗り込んでいて、中佐はカーネルと共にシャンパンで夕食を摂りながらしばらく談笑していたが、やがて仮眠に入った。
 いちばん後ろの席に座らされた宏隆と宗少尉は、まだグッタリとしたままで、武器は全て外され、手首には近ごろ軍が開発したプラスチックベルトの手錠を掛けられている。


 やがて、東の空が白んできたころ、乗務員の女性が珈琲を持ってきた。

「珈琲をどうぞ、ブルーマウンテンで淹れました。間もなく目的地です」

「良い香りだ、ありがとう」

「ヴィルヌーヴ中佐、今向かっている空港には、初めて降りるかな?」

「はい、ニューヨークではいつも、JFK(ケネディ空港)を利用していましたから」

「もうすぐその上空になる。機長に少し旋回するよう言っておいたから、滑走路と駐機エプロン、そしてターミナルビルが織り成す景色をよく見てごらん」

「何か特別なものでも見えるのですか?」

「ははは、大したことじゃない。ただのイタズラだよ」

「それは楽しみです──────」

「空港と名付くものは、世界に44,000ヶ所もあるのだそうだが、その内15,000ヶ所はこの国に有る。アメリカは世界で最も多くの空港がある国というわけだ」

「そのようですね」

「その中のひとつ、今から降りる LGA(LaGuardia Airport/ラガーディア空港)は、吾々がひと工夫して造ったものなのだ」

「えっ・・空港を、造ったのですか?」

「そのとおり。ニューヨークにある三つの空港は全て吾々が造ったものだ。中でも LGA は規模こそ最も小さいが、空の上から観て偉大な眺めとなるように設計した」

「上空から見て、偉大な眺めに・・?」

「ははは、論より証拠、もう見えてきたぞ」

「ああ、あれですね・・・普通の空港のように見えますが?」

「もっとよく見てみなさい──────」

「あ、ああっ!・・こ、これは・・・?!」

「はははは、気が付いたかね?・・どうかな、この出来映えは」

「ニューヨークのど真ん中に、こんな空港が?」

「そうだ、なかなか面白いだろう?、わはははは・・・」

 多くの利用客の中で、そのことに気付く人が、いったい何人居るだろうか。
 夜が明け始めたニューヨークの、高度700mほどの上空から眺めるラガーディア空港は、まるで三角形の上辺の中に据えられたひとつの眼と、そこから照射される何本かの光の筋のように見えた。



                    ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第199回の掲載は、5月15日(月)の予定です


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2017年04月15日

連載小説「龍の道」 第197回




第197回  P L O T (17)


「もし君の言うように、あの山荘にヘレンが囚われているとしたら、作戦を立てて救出に向かわなくてはならない、だが・・・」

「ボクの見間違えだったら、作戦の意味がありませんから、先ずはあの館をじっくりと探るべきだ、という事ですね?」

「そのとおりだ───────宗少尉、貴女はどう思われますか?」

「こうなったらもう、山荘を探っても仕方がないでしょうね。あれだけの騒ぎを起こして、敵も対策を取っているだろうし、ヘレンが囚われて居たとしても、私なら他所(よそ)に移動させるところね」

「・・なるほど」

「取り敢えずは、ほとぼりが冷めるのを待って再調査し、捜索するしかないですね」

「そういうコトよ」

「ふむ、やはりそれが一番良いだろうな・・では、違う所から調査を始めよう」

「・・では、私たちはこれで帰ることにします。ヒロタカ、行くわよっ!」

「ま、まあ、そんなに慌てなくても。ついさっき激しい襲撃に遭ったばかりだし、色々と今後の打ち合わせなども、じっくりとして行きたいし・・」

「襲撃には慣れているので、大して疲れてもいません、どうぞお気遣いなく。それに、この辺りは敵の土地勘のあるところだから、ヘレンの捜索と救出作戦を立て直すのは、一度戻ってからの方が良いと思います」

「そうか、分かった。だが君たちを襲撃したのは恐らくキャンベル曹長だ。ああ見えて中々執念深そうだから、まだ近くを探し回っているはずだ。いま外へ出るのは危険だよ」

「襲撃は曹長ではなく、ヤンかもしれませんね──────」

「ほう、ヒロタカは何故そう思うのかな?」

「僕たちがあの町に居ると見当を付けられるのは、ヴィルヌーヴ中佐と、土地勘のあるキャンベル曹長くらいでしょうが、曹長にしては少々攻撃が雑に思えます」

「だが、それだけではヤンによるものと特定できないだろう」

「襲撃は計画的でした。おそらく密かに吾々の跡を尾けて、どこに泊まったかを確認し、あのカフェに来るのを予測して、根気よく向かいの森から機を窺っていたのでしょう。ぼくを本気で殺す気が無いキャンベル曹長は、そこまでする必要がないはずです」

「ふむ・・確かにヤンかもしれないな」

「初めに山荘で見つかって一時退散する途中で、セキュリティと思われる男が、首を絞めるための細いワイヤーを手にしたまま、無惨に首を折られて殺されていました。それを発見した直後に、ちょうど近くから車のエンジンが掛かって去って行ったのですが、その時に、それがヤンで、この男も彼奴が殺ったのだと直感したのです」

「キャンベルが君を殺すつもりが無い、と思えるのは?」

「これ迄の経緯を見ても、そこまで深追いするタイプではないでしょう。それに、キャンベル曹長は少々オッチョコチョイのようなところがあるし」

「Scatterbrain(おっちょこちょい)?」

「はい、山荘で、先ほどお話しした ”謎の男” に捕らえられそうになった時に、覆面をしていても声色は使わず、いつもの声のままで、その男の名前を呼んでしまったのです」

「ほう・・」

「だから思わず笑って、それは頭隠して尻隠さず、その男みたいに声色でも使わなきゃ、正体が丸分かりですよ、と言ってやりました」

「・・・・・・」

「曹長はかなり動揺していましたが。その謎の覆面の男のことを何と呼んだか・・・」

「・・・・・・」

「何と呼んだか、中佐は興味がありませんか?」

「もちろん興味はあるさ・・彼は何と呼んだのかな?」

「コンフェラ、と言いました──────」

 宏隆は、じっと中佐の眼を見つめている。
 少しでも変な反応をすれば、謎の男は中佐である確率が高いはずだ。
 宗少尉は黙って聴いているだけに見えるが、もし中佐や部下たちが動く気配を見せたら、あっという間に素早い行動を取るに違いない。

「ほう、何だか変な名前だな、初めて聞くが・・」

 だが、中佐はちょっと首を傾げただけで、動揺しているような気配は全くない。

「暗号名でしょうが、英語の confer は give の類語で、”与える・授ける” といった意味ですから、そんな立場の人間なのかも知れませんし、もとはラテン語のような気もします。
 落ち着いたらじっくり調べてみます、ボクは暗号や謎解きが好きなので、きっと解明してみせますよ」

「そうか・・だが、それよりも今は先ず、これからどうするかを考えなくてはいけないな。日も傾いてきたことだし、取り敢えず、このセーフハウスで良ければ、好きなだけ逗留してもらって構わない」

 腕時計を見ながら、そう言った。季節はまだ冬だが、日照時間が最も短い冬至の頃と比べると日がだんだん伸びてきていて、現在はこの辺りの日没は午後7時くらいだ。アラスカは南に位置するアンカレッジでも、12月の日照時間は一日に5〜6時間しか無い。

「さっきも言いましたが、私たちの事なら大丈夫です。どうぞお構いなく─────」

 宗少尉は鰾膠(にべ)も素っ気もないが、

「わかった。それじゃ歩いて行くわけにもいかないだろうから、せめて送らせてくれ」

 と、親切に言ってくれる。

 だが未だ不安は拭えない。どうしたものかと二人で顔を見合わせるが、すぐに宗少尉が、

「・・あのクルマで、ですか?」

 無数の銃弾の疵痕(きずあと)でボコボコにへこんだ、庭先の黒いバンを見ながらヒョイと肩をすくめた。

「大丈夫、ガレージにもう一台バンがある。防弾性能は少々劣るがね」

「それじゃ、お言葉に甘えてお願いしましょう!・・ね、ヒロタカ」

「え?・・あ、ああ、そうですね・・」

 中佐に送ってもらおうと安易に言うので、果たしてさっき指で合図を送った内容を、宗少尉はちゃんと理解したのだろうかと、宏隆はますます不安になった。
 だが、それを口に出して言うわけには行かず、此処で再び合図を送ることもできない。
成り行きに任せるつもりか、とも思ったが、今は様子を見るしかない。


 部下が出してきたクルマは、色がグレーの、同じような大型のバンだ。
 後部カーゴスペースもほぼ同じ造りで、横向きのベンチシートの片側に並んで乗り込む。宗少尉は座るとすぐに銃の弾倉を外して残りの弾数をチェックし、新しいマガジンに換えた。

 宏隆のベレッタ92は15発、宗少尉のシグ・ザウエルP220は、7.65mmのパラペラム弾なら10発分を装填できる。こういう立場の人間が常に残った弾丸の数を把握しているのは言うまでもないが、いつ何が起こるか分からないので、使った方の弾丸数の少ないマガジンを予備に取って、新しいものと入れ換えたのだ。


「よかったら、そろそろ出発しますが・・?」

 さっきの精悍な顔つきのドライバーが運転席に着いて、後ろに声をかけた。

「OK、ありがとう──────」

 助手席にはヴィルヌーヴ中佐が座っている。

「ところで、どこへお送りするのか、まだ聞いてませんでしたね。燃料はたっぷり入っているけれど、アラスカは広いですから、そう遠くまでは行けません。ははは・・」

「アンカレッジまで、お願いします」

「アンカレッジの、どのあたりですか?」

「5th Avenue Mall(5番街モール)・・」

「ああ、ダウンタウンのショッピングモールですね、今日はウィークデーだから、21時ごろまで開いているけれど、そんな所に行ってどうするつもりですか?」

「規則で、それは言えないわ。送って貰える事にはとても感謝しているけれど」

「はは、水くさいなぁ・・私も同じ玄洋會の一員ですよ」

「いえ、失礼だとは思うけど、ヴィルヌーヴ中佐は玄洋會北米支局の協力員─────つまり Level1または2の要員というワケだから、Level 4、時にはLevel 5 さえ許される私たちとしては、その立場の人に対して、当然それ以上詳しく話せない内容もあるのです」

「そうでした、失礼しました。もう余計なことは訊きません、私たちがアンカレッジまで安全にお届けしましょう」

「ありがとう────────」


 相手は中佐と運転手の二人だけで、こちらも二人、つまり2対2の対等の立場だ。
 そして後部席に居る自分たちから見れば、相手は背中を向けており、万一何かあった時には当然こちらの方が有利なのは分かりきったことで、そのような位置関係を最初から許しているヴィルヌーヴ中佐が、クルマの中で何かを仕掛けてくるとは考えにくいし、本当に敵だとしたら、もっと部下を連れて、後部席に載せていたはずだと思える。

 宏隆は、並んだ宗少尉の左側、つまり進行方向から見て後ろ側に座っているが、隣の宗少尉の腿(あし)に、右手の指でそっと合図を送り始めた。もちろん運転席側からは何をしているか分かるはずもない。
 宗少尉も同じように、指をタップしながら返事を宏隆に返している。


 先ほどもセーフハウスで密かに合図を送ったそのやり方は、勿論モールス信号である。
 英語で Morse Code と呼ばれるモールス信号は、モールス符号という符号化された文字のコードを用いる信号の通信手段で、その名称はアメリカの発明家サミュエル・モールスが現在とは異なる符号で電信の実験を行ったことに因んでいる。

 モールス信号は遠洋航海の船舶間や陸上との通信に常用されていたが、通信衛星の登場によって今日では非常用の通信手段としても基本的に使われなくなり、海上保安庁やNTT、KDDIなどもモールス符号を用いた通信業務を停止している。
 現在でもそれを用いているのは一部の遠洋漁業無線、陸上自衛隊の野戦通信、アマチュア無線などで、陸上自衛隊の教育学校や各地の水産学校では、今もモールス信号の学習訓練が行われている。
 
 日本語での通信はモールス符号の短点を「トン」、長点を「ツー」と表現し、欧文では短点を「dot(dit)」、長点を「dash(dah)」と表現する。その組み合わせで全ての言葉を送信するのである。和文はイロハニホヘトの順に符号が割り振られ、当然ながらアルファベットよりも数が多く、その分だけ覚えるのが大変である。数字は欧文の符号と同じものが使われている。

 よく知られる「SOS」の遭難信号は「トントントン、ツーツーツー、トントントン」で、世界共通である。これは無線に限らず、例えば遭難した場所で地面に石などを置いてその表現をしても、飛行機から見て救難信号と認識することができる。
 因みに、かつて船舶の無線通信室に備えられた時計には、毎時 0・15・30・45分の位置から3分間のところに色が塗られていて、その間は通信を停止し聴取体勢を取らなければならないというルールが二十世紀の終わりまで存在していた。世界中の船舶を呼び出せる通信周波数は500KHzだが、遭難信号や非常通信が通常の通信で掻き消されないよう、その時間帯は世界中の無線局が固唾を呑んで静かに聴取していたのである。

 モールス符号には和文・欧文以外にも、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、キリル文字、アラビア文字、中国語、朝鮮語などがある。中国語は信号にするのが大変で、漢字のひと文字に対して四桁の数字が割り当てられ、漢字を数字に、或いは数字を漢字にするためのコードブックが存在する。また朝鮮語もいったんアルファベットに転写し、その後欧文として送信するので非常に手間がかかる。

 余談だが、ソフトバンクの携帯電話に電話をかけると、呼び出し音の前に「プププ」という音が流れる。これは Softbankの「S」を意味するモールス符号の「・・・」である。
 また、朝日放送のニュース速報では、「NEWS」を意味する(ー・・・ーー・・・)」のモールス信号を流したあとでテロップを掲出している。何の為にわざわざそんな事をしているのかは、分からないが。

 モールス符号による通信は無線に限らず、発光信号や音響によるものもあり、この場合の宏隆のように、指で叩くことで相手に伝えることも可能な、大変便利なものと言える。
 

 閑話休題───────


 さて、アンカレッジの行く先まで気にして訊ねてくれる言葉に、ヴィルヌーヴ中佐の親切が感じられて、これまでの疑いも自然と解けて来ざるを得ない。何よりも、敵意が全く感じられないのだ。

 そんな想いが、宏隆たちに生じ始めたのだろう。さっきまでの必死の攻防戦の疲れもあってか、さすがに居眠りはしないものの、少しばかり寛いで、二人とも、いつもよりボンヤリしているように見える。

「いくら歴戦の強者(つわもの)たちでも、ちょっと疲れたでしょう。まあ、ゆっくりして居てください。アンカレッジまでは僅か45マイル(約73km)ほどです。こんな凍った路でも1時間半もあれば着きますよ」

 二人の気持ちを見透かすように、前の席からヴィルヌーヴ中佐が声をかける。

「ありがとうございます」

 宏隆が答えたが、宗少尉はすでに目を瞑(つぶ)っている。


 どれほど走っただろうか───────

 凍てついた雪道は、時間も距離も、感覚が鈍って分かりにくくなる。
 それが少し疲労している時なら、尚さらのこと。

 アンカレッジに向かうアラスカ1号線、グレンハイウェイの途中にあるニック・ブリッジを過ぎたのは、朧気(おぼろげ)ながらに憶えている。
 その先のニック・アームと名付けられた、腕のような形をした細長い湾に沿った、針葉樹林帯の中に幾つか点在する小さな湖の近くを走っていると、突然に車が大きくハンドルを切って、ハイウェイを外れた。
 
「・・どうしました?!」

 眠そうな目をこすりながら、宏隆が中佐に声をかけた。

「追っ手だ、攻撃してくるぞ──────!!」

「え・・ど、どこに・・?!」

 車は、なだらかに下る路を、そのままどんどん森の中へと入って行く。



                    ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第198回の掲載は、5月1日(月)の予定です


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2017年04月01日

連載小説「龍の道」 第196回




第196回  P L O T (16)



「ドオォォーンッッッ──────────!!」

「うわわぁああっっっ─────!!」

 こんな時にグレネードランチャーで狙われたらアウト、と言ったばかりだが・・
 そのグレネード(擲弾)がすぐ近くで炸裂し、爆風で車の片側がフワリと浮いた。


 グレネード弾には、ここで用いられた40mmの他にも、散弾、催涙弾、発煙弾、照明弾、演習弾などがある。弾丸はいずれも蓋の丸い小型スプレー缶のような形状で、榴弾の場合は爆発によって弾丸の破片が広範囲に飛散するよう設計されている。
 グレネードランチャーは最大有効射程が広域で350m、定点で150m程度。最小安全距離は30〜35mとされている。

 擲弾(グレネード)とは本来、敵に向けて投擲して攻撃する爆弾という意味だが、手で投げるものを手榴弾と呼ぶようになってからは、擲弾は投射器(ランチャー)を用いて遠くまで飛ばす爆弾を指すようになった。

 火薬を陶器や金属の容器に詰めて投げる爆弾は、既に宋の時代に使われていたというが、グレネードという名が用いられたのは17世紀の英国の名誉革命からで、黒色火薬を詰めたクリケットボールくらいの鉄球に導火線を付けて、投げて使っていた。
 また、南北戦争では南軍北軍ともに、着地の衝撃で爆発するタイプの手投げ弾(ハンドグレネード)が用いられている。

 第一次世界大戦に入ると、スペインやフランスの軍隊がライフルの銃口にグレネードを装着して飛距離を得るライフル・グレネードを盛んに用いるようになったが、実はこれは、日露戦争の旅順港閉塞作戦に於いて、世界で初めて用いられた『小銃擲弾』のコピーで、そのオリジナルは海軍の砲術長である秋沢芳馬が研究開発した日本の新兵器であったとも言われている。


「急げっ!──────モタモタしていると殺(や)られてしまうぞ、早く乗れっ!!」

「どうしますか?、ワナじゃないという保障は無いですよ・・」

 小声で宗少尉に問うが、

「ええい、しょうがないっ!・・取りあえず、乗るわよっ!!」

 取り敢えず腹を決めて、黒いバンに乗り込む。

「よしっ、クルマを出せっ、GO, GO, GO, GO・・次の攻撃が来るぞ!」

「ブォオオ─────ロロッッッ」

「ドドォーンッ・・・・!!」

 たった今、そこに停まっていた所に、2発目のグレネードが炸裂した。
 無数の細かい破片がバンのボディに当たり、突き刺さる音がする。

「M79* か、なかなか派手にやってくれるな・・よし、ここで止めろ!」

【註* M79:主にベトナム戦争で使われた中折れの構造を持つ40mm擲弾銃。
 現在でも暴動鎮圧用にゴム弾を装着して使われることがある】

 少し走ったところで中佐がドライバーに怒鳴った。ちょうど街路樹の陰だ。
 停まるか止まらないかのうちに、スライド式の小窓を開けて素早くライフルを撃つ。

「ダンッ、ダンッ、ダンッッッ──────────!!」

 森の中の、敵が撃ってくる木陰の辺りを目がけて、正確に銃弾が飛び続けるが、

「ダン、ダンッ、ダン、ダン、ダンッッ─────!!」

 敵も負けじと、撃ち返してくる。

「ふむ、腕はそんなに悪くないようだな・・」

 一発がタイヤにヒットしてクルマが揺れたが、なぜかパンクしない。
 完全防弾の戦闘用車両なので、タイヤもエアレスなのだろう。勿論これだけの装備を持つクルマを用意するには個人では難しく、かなりの組織力が要る。

 2016年夏に、500台余りのトヨタのランドクルーザー70やハイラックスがアメリカ特殊部隊に導入されて話題になったが、それは直接の戦闘用ではなく、主に特殊作戦に於ける通信器機を搭載する装甲車両というものであった。
 普通に市街地を走っていても目立たない特殊車両を造るには、莫大な費用と時間、そして細部への工夫が必要なのは言うまでもない。防弾と言っても、単にボディの鉄板を厚くするだけではやたらと重量が増えて走行性能が低下してしまう。防弾ガラスなどは、実は普通の常用車でも注文が可能で、その手の職業の人が多く装着しており、町を走っていても一般市民にはあまり見分けがつかない。


「・・よし、今だ、出せっ!!」

「ダンッ、ダンッ、、ダンッ、ダンッッッ・・・!!」

 再び走り出してからも、さらに中佐が撃ち続ける。
 これでは敵も動けないに違いない。案の定、完全に攻撃が止まった。

「追っては来ませんね。武器はご大層ですが、おそらく敵は単独でしょう」

 数百メートルほど走ったところで、中佐の部下らしい同乗者の一人が言った。

「ああ、そうだな」

「いったい、敵は何者なのでしょうか?」

 宏隆がヴィルヌーヴ中佐の顔を見るが、

「まあ、およその見当はついている。それも後で話そう」


 少し走ると、いつもどおりの閑散としたアラスカの風景が目の前に広がる。ついさっきまで銃撃戦をしていたのが嘘のように思える。

 黒い大きなバンのリアカーゴ(荷室)は、運転席の直ぐ後ろ側に武器庫があり、左右両側がベンチシートで、6〜8人ほどが向かい合って座れるようになっている。そこにはヴィルヌーヴ中佐以外にも二人、普通の市民と変わらぬ服装をした、兵士上がりのような体格の良い男たちが黙って座っている。

 宗少尉は、その男たちとは少し離れて、出口に近い所に腰掛けて、いつでも銃を出せるように身構えているが、ヴィルヌーヴ中佐と二人の男は、全くと言って良いほど殺気を感じさせない。どう見ても味方としか思えないエネルギーしか感じられないのである。


「ヴィルヌーヴ中佐────────」

 宏隆が何かを訊こうとしたが、表情でそれを察して、

「積もる話は後にしよう。先ずは追っ手を撒(ま)いて、ポリスも上手く躱(かわ)さないと。早々にクルマも換える必要があるし、な・・」

 そう言って、慣れた手つきでライフルをケースに仕舞い始めた。

 確かに・・と、宏隆は頷いた。如何に長閑(のどか)なアラスカの田舎とは言え、カフェがライフルで銃撃されて、さらに大通りでこれだけの爆破と銃撃戦が起こって、警察が黙っているわけがない。

 銃弾とグレネードの攻撃でボコボコになったバンは、田舎道を数マイル行ったところの交差点を、さらに寂しい方へと曲がり、森の中の小路(こみち)をどんどん入って行き、やがて鬱蒼とした雑木林の中に佇む、古そうな木造の家の前で停まった。周りには人も建物も、何も見当たらない。

「さあ、着いたぞ─────」

 奥に座っていた二人の男たちが素早くドアを開け、宏隆と宗少尉を外に出るよう促す。


「滅多に使わないので掃除が行き届いていないが・・さあ、宗少尉も、中へどうぞ」

 アラスカでよく見かける、木造平屋建てにペンキを塗った質素な家である。
 庭と言うよりは、単に家の前にクルマが5〜6台駐まれるスペースがあり、母屋の隣には2台は入れそうな大きなガレージが付いている。
 家の裏側はすぐ森で、そのまま北極海まで原野が続いていそうな未開の地だ。


「ここは私たちのセーフハウス(safe house=隠れ家)です。安心して寛いで下さい・・・何か飲み物は?」

 中を見渡している二人に、ヴィルヌーヴ中佐が気を遣うが、

「危ないところをタイミング良く助けてくれた事には感謝するわ。だけど、別に遊びに来たわけじゃないんだから、この際いろいろ説明してもらう必要があるわね」

 宗少尉が立ったままで、やや語気を荒めて、怖い顔を向けた。

「お噂はかねがね伺っていましたが、宗少尉とは初対面ですね。私は玄洋會・北米協力員の Joseph Villeneuve(ジョセフ・ヴィルヌーヴ)です、初めまして・・」

「台湾シェンヤンフイ(Xuanyang Hui=玄洋會)の Zong Lihua(宗麗華)です。先ほどは危ないところを助けて頂き、感謝しています」

 相手が紳士的な態度で接してくるので、宗少尉も言葉を改めてそれに応える。

「ヴィルヌーヴ中佐、伺いたいことが山ほどあります──────」

 宏隆が話の口火を切った。

「オーケー、私からも話したいことがたくさんある」

 宗少尉はそれとなく、この家の間取りや出口の数、ドライバーを含めたヴィルヌーヴ中佐の部下たちがどの位置に居て、今すぐにどう動けるか、武器はどうかを把握しようとしている。

 宏隆にしても、これまでの経緯があるので、中佐を頭からすべて信用しているわけではない。宗少尉と同じように警戒しつつ、取りあえず相手の動向を窺っているが、中佐の三人の部下はかなり訓練を積んだ身体で、動きにも俊敏さが見える。

 バンを運転してきた部下はそのまま外で見張りとして立っているが、あとの二人は中佐と共に家の中に入り、リビングの隅に対角線上に立っている。何か有った時にはこちらが完全に不利なポジションを取られている──────と宏隆は思った。


「まずは座りましょう。立ったままでは、まるで敵同士みたいだから・・ははは」

 中佐が自分から率先して座ったので、宏隆たちも席に就く。

 セーフハウスは、別荘やリゾートマンションと用途が違うのは当り前だが、普段人が住んでいないので如何にも仮住まいらしく感じられる。リビングとは言っても、粗末なソファとテーブルが並んでいるだけで、すぐ向こうには小さなキッチンと、アメリカのどんな家にもあるような、大きな冷蔵庫が見えている。

 お茶でも淹れるつもりか、気を利かせて部下の一人が湯を沸かし始めた。


「実は僕たちは、中佐に教えられた山荘に行ってきたのですが─────」

「おお、やはりそうだったか。私はちょうど君たちを探して合流しようとしている最中に、あのカフェが襲撃されているのを見つけ、すぐにピンときて駆けつけたのだ」

「それじゃ、さっきは全く偶然に通りかかったというわけですか?」

「そのとおりだ。山荘のあるワシラの周辺は小さな町が幾つかあるだけだから、どこに居るか、およその見当はつく。居心地の良さそうなパーマーの町なら私も拠点に選ぶし、あのカフェはなかなか珈琲が美味いからね」

「装甲車のような、あのバンでわざわざやって来たのは?」

「ああ、あれは何も特別な物じゃなく、私たちが常用するクルマだよ。商売柄、何があってもおかしくないのでね」

「ヒロタカ、もっとズバリと訊きなさいよ─────」

「ヴィルヌーヴ中佐、実はどうしても疑問に思えることがあって、まず最初にそれを解決したいのですが」

「いいとも、私で分かることなら何なりと尋ねてくれ」

「中佐は昨夜、あの山荘に・・キャンベル曹長の居る、あの館に居られましたか?」

「・・・・・・・」

「きちんと答えて下さい。お返事の内容によっては、吾々も──────」

 返答に詰まった中佐を見て、宗少尉が今にも動き出しそうに腰を浮かせたが、部屋の隅に控えている二人の部下たちは平静で、別に動揺する気配もない。

「ははは、何を訊きたいのかと思えば・・あまりに突拍子もないことを言うので、つい絶句してしまったよ!」

 ヴィルヌーヴ中佐が、高らかに笑い始めた。

「・・え、それじゃ?」

「奴らの調査をしている立場の私が、その山荘に居るわけがないじゃないか。一体どこで私を見かけたと言うんだ?」

「それは、こういうことです────────」

 宏隆は、あの山荘を探ろうとしてキャンベルに発見され、取りあえず逃げ切ったが、再び単独で様子を探ろうとして潜んで行った際に、部屋の中から漏れてくる声がヴィルヌーヴ中佐によく似ており、それを確かめようとして敵に気付かれてしまい、護衛を倒して思い切って部屋に侵入したが、その声の主が覆面をして声色を使ったので、ますます疑念に駆られ、確かめようとしたが、敵の反撃に遭ってやむなく退却した──────という顛末を分かりやすく、手短かに告げた。

「ほう・・そうだったのか、それは大変だったね。二人だけで、よくやったものだ」

「では、あそこに居たのは、中佐ではない、と─────?」

「私はこの前話した別件を追って、昨夜はアンカレッジに居た。どれほど声が似ていたとしても、双子でもない限り、それは不可能というものだ」

「そうでしたか─────宗少尉、やはり僕の勘違いだったのかも知れません」

「・・・・・・・」

「宗少尉・・?」

「いいから、もう少し話を続けて」

 ソファで腕組みしたまま、目を開けているのか瞑っているのか、何かを考えているのか、分からないが─────ともかく憮然とした表情で、また黙ってしまった。

「紅茶です。よろしければ、どうぞ」

 キッチンで湯を沸かしていた部下が紅茶を淹れてきた。
 宏隆たちと、ヴィルヌーヴ中佐にも同じポットからマグカップに入れて出す。

「アラスカは水だけは安心して飲めるね。どこの川の水でもそのまま飲めるような土地は、まず余所では滅多に聞いたことがないが」

「そうですね、それだけ自然が豊かで、汚染が無いということでしょう」

「喉が渇いたでしょう、さあどうぞ。幸い紅茶は缶入りだから、滅多に使わないセーフハウスに置いてあっても、まだまだ香りが良い」

 ヴィルヌーヴ中佐は、まるで宏隆たちを安心させるように、先にマグカップを手にして、美味そうに紅茶を啜った。宏隆はチラリと宗少尉の顔を見たが、中佐が飲んだのを確かめてからカップを取り上げた。

「あの山荘にキャンベル曹長が居たのは間違いありません。やはり奴らの手先として雇われているのでしょう。僕が捕らえられそうになった時には、謎の男と同じように覆面をしていましたが、声色を使っていないので丸分かりでした」

「そうか、やはりキャンベルが・・」

「それから、その部屋に ”大佐” と呼ばれる老人が居ました。覆面の男が特別な扱い方をしていたので、かなり重要な立場の人間らしいことが分かります」

「大佐か・・何か大物が絡んでいるのかも知れないな。この事件は結構奥が深そうだ」

「ところで、これは美味しい紅茶ですね、英国製ですか?」

「さあ、私は気にもしたことがないが」

「いや待てよ、これは、どこかで味わったような香りだ・・・」

「ははは、どうせ誰かが置いていった安物だ、加藤家の御曹司にじっくり味わってもらえるような代物(しろもの)ではないよ」

「いや・・・・」

 宏隆が一瞬、何かを思いついたような顔をしたが、

「・・やはり、そうですね、勘違いのようです──────」

 すぐに普通の顔に戻って、ちょっと深めの呼吸をし、また紅茶を啜った。

「そうだ、大事なことを言い忘れていました」

「何か思い出したかな?」

「あの山荘の窓に、ヘレンの姿が見えたような気がしたのです」

「何だって・・?!」

 思わず中佐が起ち上がった。

「最後の追っ手を躱して退却している時に、窓のところにチラッと見えたような・・」

「・・そ、それは確かか?」

 そう言って、宏隆の言葉に顔をしかめ、如何にも落ち着かない様子で、腕を組んで部屋の中を歩き始めた。

「山荘の部屋の電灯に照らされていただけで、ハッキリとは分かりませんでしたが、あの雰囲気やシルエットはおそらく、ぼくの見間違いでなければ・・・」

「うーむ・・・」

 そんな話をしながら、宏隆がすぐ左側に座っている宗少尉の腿の側面を、上着の裾に隠れた指先でそっとリズミカルに叩き続けていることを、ヴィルヌーヴ中佐も、二人の部下も気付いてはいない。



                    ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第197回の掲載は、4月15日(土)の予定です

taka_kasuga at 23:58コメント(14) この記事をクリップ!
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