*#71〜#80

2017年10月25日

練拳Diary #80「台風に思うこと」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 先週末、10月22日に超大型の台風21号が静岡県の御前崎を直撃し、本州に上陸しました。
 強風域の直径2,200km、最大風速50mという「超大型」の呼称のまま日本に上陸した台風は観測史上初めてということですが、普段から雨が少なく、めったに大雨に降られることがない本部道場でも、この日は窓一面に大粒の雨がひっきりなしに叩き付けられ、稽古を終わろうという夜中になっても、渦巻く風の音が止むことはありませんでした。
 その日は、いつものメンバーに加えて、札幌、東京、長野からも、門人が稽古に出席するために来ていました。
 「大事な稽古が行われる」となれば、たとえ超大型の台風が来ていようとも彼らには関係なく、帰るための交通機関が動いている間は問題無いとして、一心不乱に稽古に励むのでした。
 きっと、本当は交通機関がストップしようとも、貴重な教えを受けられるのであればそれで良い、とさえ思っているに違いないのです。また、そう思えるだけの教授内容がこの道場には確かに存在するし、それを修得するためには、並大抵の熱意と努力では報われないことが感じられるからこそ、緊急速報で避難準備警報が鳴り響く中であっても稽古に没頭できるのだと思います。

 さて、この日も充実した稽古が十分に行われた後のこと、とある問題が発生しました。
 帰り支度をしていたAさんとBさんの2人にふと目を留めると、いつもの稽古帰りと同じ服装をしていて、とても今から暴風雨の中を帰るとは思えませんでした。
 念のため「合羽を持っていますか?」と聞くと、Aさんは何と「家にあります」と答え、Bさんは「車の中です」と答える有り様です。
 台風が一日中荒れ狂った挙げ句、あと数時間で最大のピークを迎えるという大雨と暴風の状況下で、カッパの一枚も無いという事態に、師父と私はとても驚きました。

 もちろん、台風が来ることは事前に分かっていたはずですし、彼らにその準備をする時間が無かったわけでもないのです。けれども、Aさんは先日のキャンプで使用したカッパを焚き火臭いという理由で、拭いて家に干したままにしており、Bさんは駐車場まで持ってきていながら、わざわざ車に置いてきていました。
 きっと、2人が稽古に来るために外に出たその時は、雨が止んでいたのでしょう。けれども、帰りたい今この時に、暴風雨を遮るためのカッパが無いのです。

 普通の人は、結果的に無事に家まで帰ることが出来た場合には、もしかしたら、「雨具がなくてもそれほどひどい目には逢わなかった」「自分は無事だった」と考えるかも知れません。しかし、それは全く結果オーライではないのです。

 『一番の問題は、そのとき結果的に無事であったかどうかではなく、超大型の台風が直撃するその日に、鞄に合羽を入れてこなくても大丈夫だと思えてしまうような、その高を括れてしまう精神性のままでも、太極拳のような高度な武術を修得できると思っていることだ』と、師父は仰います。
 また、『人間の中身はひとつなので、日常の備えに対しては高を括ってしまうけれど、深遠なる太極拳には真摯に向かい合う、などという器用なことは出来ない』とも仰いました。

 確かに自分のことを振り返ってみても、何かを軽んじている時や、何かに対して傲慢になっている時というのは、その対象となる「何か」が問題になるのではなく、常に自分自身が軽薄であったり傲慢であったりしますので、対象毎に自分を分けることは出来ません。
 太極拳は、自分にとってとても難しい武術だと感じられます。けれども、その「難しさ」を掘り下げていくと、何もかもが「自分勝手に出来ないこと」に辿り着きます。太極拳が難しいのではなく、自分勝手に出来ないために難しいと感じられていたのです。
 示されていることを、自分を挟むことなく、そのままその通りに受け取れること。それを可能にする精神性と意識を養うために、道場には細かい礼儀作法や道着、身嗜みなどまでもが細かく定められているのだと、今となってはよく分かります。

 「高を括る」ことは、言わばその場限りの自己満足です。今回の事で言えば、カッパを鞄に入れていかなくても良いと判断したとき、不測の事態に備えることよりも、自分の都合を優先したというわけです。
 ちなみに師父はその日、台風の影響で帰宅が困難となっても良いように、日常の装備に加えてビバーク(不時の露営)の出来る準備と、ガスストーブなども持って来られていたと聞きました。
 結局それらの装備は使わずに済みましたが、もしもその日帰れない状況になったとしたらどうでしょうか。たとえば、台風で倒れてきた木が車に直撃して動かせなくなっていたとしたら・・真夜中の駐車場に来て潰れた車を見て呆然としている時点で、師父はカッパの上下に身を包み、ザックには防水カバーまで掛けてありますが、彼ら2人はすでに全身びしょ濡れで、どんどん体温と体力が奪われていきます。その後、仮に風雨を凌げる場所を見つけたとしても、濡れた服がカッパだけなのと、着ていた服装の全部がビショ濡れの場合とでは、身体を温めたり、お湯を沸かしたり、温かい食事を摂ったりするための、次の行動に取り掛かるまでの時間や労力が大幅に変わってくることでしょう。
 実際にどのような状況でも動ける人と、限定された状況でしか動けない人との違いが、ここに表れるような気がします。

 私たち現代人は、ともすれば「今までもこれで大丈夫だったから」という浅薄な発想から物事を判断し、実行してしまいます。なぜ「これではダメかも知れない」とは考えないのでしょうか。
 思い当たることは、いつも師父が私たちに仰るように、周りを見渡せば24時間開いているコンビニがそこら中にあり、手元には万能とさえ思える魔法のスマートフォンがあるからなのだと思います。コンビニが悪いのではなく、コンビニがあるから大丈夫だと思える私たちの頭がオカシイのです。便利さ、安易さ、簡易なことが当たり前になってしまっていること、これほど恐ろしいことは無いと思えます。なぜなら、便利さと引き換えに、私たちは「自分で考える力」を失っているからです。

 さあ、それなら人間の野生と本能を呼び覚ますために野外訓練をしよう、と思い立てば、もちろん雨具は持って行くに違いないのですが、今度は野営のための火が熾せないという事態が起こります。
 すぐに火の着くガスレンジや電子レンジで育った私たちにとって、野外で火を熾すことはとても難しいことなのですが、やはり、そこには「これで火が着くはずだ」という自分勝手な思い込みが存在します。私が太極拳を難しいと感じることと、火を熾すことを難しいと感じることは、実は同じことなのです。
 何が問題で、何が解決になるのか。それを瞬時に分かり、解決のために実行できるようになるには、一朝一夕には不可能です。
 普段から、根拠もなく「きっと大丈夫だ」と思うのではなく、「何が起こっても大丈夫なように準備しておく」というその心構えが、自分が修得したいと思える太極拳に向かう心構えと同じであり、その心構えで修練を積み重ねた結果として、戦って生きて帰れる強さへと繋がっているのだと思います。

 本部道場で開催された『CQC特別講習会』では、日常生活から被災時を含む様々な状況での危機管理についても講習が行われていますが、今回のようなことが起こると、その講習の中で師父がいちばん初めに仰っていた、『誰もが自分だけは大丈夫だと思っている』という言葉が思い起こされます。

 大型台風が御前崎を直撃したその日、札幌から稽古に来ていたCさんは、やはり豪雨の対策となる物を何も持っておらず、コンビニでカッパを買って最終電車に乗り込んだものの、到着した駅から24時間営業のファミリーレストランに向かい、バスの出発時間まで温かな数時間を過ごすつもりが、向かう途中で風雨の酷さに身の危険を感じて引き返し、駅付近にあるバスターミナルの地下で風雨を凌ぐことになりました。結局その夜は、稽古の帰り際に師父に頂いたリンゴとバナナが夜食になったそうです。
 後日ご本人から聞いた「本当に美味しかったです」という言葉からも、Cさんがどのような心境で一夜を過ごしたかが伺えます。

 「災害時には不測の事態が起こる」と言われていますが、今回の台風のことから、実は日常生活においても、本当はずっと不測の事態が起こっているのだと思いました。ただ、それが幸いにも大ごとでは無いために気付かなかったり、慣れてしまって何とも思わなくなっているのではないでしょうか。
 日常の自分勝手な習慣を、身体面でも精神面でも否定し、物事本来の正しい法則を見つけて、身に着けていくこと。これは太極拳の修得に欠かせないことですが、同時に災害時に生き残ることや戦争時に生きて帰れる事にも繋がり、延いては人間性の成長にも繋がるはずです。

 「降らずとも傘の用意──────」

 千利休が遺したこの言葉の意味を、今一度深く考え直してみようと思えた、この度の台風でした。

                                   (了)

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2017年07月27日

練拳Diary #79「武術的な稽古」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 梅雨が明けて暑さが一段と厳しくなり、照りつける日差しが容赦なく肌を焦がすようになりました。ここ本部道場の稽古では、以前にも増して高度な内容が展開され、消化するのに必死な毎日です。

 さて、今回は稽古の中でも「対練(対人訓練)」に焦点を当てて、思うところを述べたいと思います。

 対練の稽古には幾つかの稽古方法がありますが、主なものには「役割を攻撃と防御に分けたもの」と「役割を分けずに行うもの」があります。
 対練で役割を分けることには、他にも「受け」と「取り」と呼ばれるものがあり、その時々の対練で、師が示された課題を行う側が「取り」で、それに対して「取り」が技法を学べるように、打つ・崩すなどの攻撃を仕掛けて行く側を「受け」と呼びます。正に、相手の技術を受けてあげるわけです。

 対練は、どちらの役割でも太極拳の基本功で学ぶ正しい身体の整え方と使い方が要求されるので、こちらが「受け」の立場でも、決して相手の技や力を受けて、打たれたり崩されたりしてあげるわけではなく、あくまでもこちらの攻撃が相手に対して実際的に有効であることが条件となるわけです。

 ちょっと極端かもしれませんが、料理でたとえれば ”作り手” と ”食べる人” とも表せるでしょうか。
 「取り」を作り手、「受け」を食べる人とすると、食べる方は出された料理をただ「食べられる」とか「美味しい」と言って食べてあげるのではなく、その料理を深く味わい、料理した人のことまで分かるような状態で居ることです。
 余談ですが、私は料理を作る事とそれを食べること、つまり「食事」に於いては、料理が美味しいだけでは不十分ではないかと考えたことがあります。たとえばその料理人と料理とが一流であるならば、それを余すところなく味わい、それが一流であることを見抜けるだけの、食べる側の一流の資質が必要であり、自分が一流を志す姿勢がなければ、作り手と食べる人による「食事」という行為も完結しないような、そんな気がするのです。
 そう考えると、作る側も食べる側も、一期一会の真剣勝負となり、たかが食事といえども武術と何ら変わらないものと言えそうです。

 さて、実際の対練についてです。
 「受け」の攻撃に対して「取り」の動きが優位であった場合には、当然「受け」の攻撃は無効になり、反対に「取り」の反撃が有効になります。
 武術的に考えた時、「受け」は「取り」の反撃に対してもまだ動ける身体の状態が要求されます。
 たとえば、その対練でのみ有効な力みや踏ん張りは、相手の攻撃がナイフなどの武器であった場合には何の効果もなく、それらは非武術的な行為であると言えます。
 正しい稽古の状態として、「取り」が優位であるために「受け」が反撃された場合、あるいは「受け」が反撃を躱して避けることしかできずに優位に立てなかった状況は、稽古中に幾らでも生じてくるのですが、そのような稽古風景の動画を見た外部の方より、『あれは馴れ合いで倒されている、同門同士でなければ通用しない』といった内容の感想を耳にしたことがあります。
 それは、ことさら私たちの道場に限ったことではなく、斯界ではよく話題になることらしいので、この際「馴れ合い」について少し考えてみることにしました。

 馴れ合いとは、既にお互いに動きや力の大小、向かって来る方向などが分かっている状態で、相手の力や技に対して適当に折り合いをつけて、いい加減に受けたり流したりすることである、と言えるでしょうか。
 これを武術的に考えてみると、例えば、お互いにナイフを持っている、または片方だけがナイフや銃を持っているとすると、その途端に馴れ合うことは大変難しくなります。
 なぜなら、いずれも実際に傷つき、怪我をする可能性が出てくるからです。
 稽古ではもちろん本物の銃を持って向かい合うことは出来ませんが、たとえ電動ガンでも弾丸の入った銃口を向けられた時には、お互いに ”馴れ合う” などという気持ちにはとてもなれないものです。
 また、稽古では実際に本物のナイフを持って素手の相手に斬りつけて行くこともありますが、通常ならどう考えても武器を所持している方が有利に思えるところが、実際に大型ナイフを持って相手に向かうと、相手が素手であっても、ある種の緊張感で一杯になります。
 それは、下手な動きをすればナイフを持っている自分も危ういということが、理屈ではなく身体で実感出来るからであり、私の場合は何度行っても、決して有利に立ったとは思えませんでした。
 ナイフは、それ自体が十分な殺傷能力を持つ物です。そして、それを手にして構えたときの緊張感は「危機感」とも言い換えることができるので、武術の稽古中に馴れ合う事が出来る状況とは、「危機感が欠如した状態」であると考えられます。

 それでは、「馴れ合いではない状況」とは、どのようなものなのでしょうか。
 先ほどの検証からも分かる通り、先ずは「危機感が存在する」ということが言えます。そしてそれは、「武術=戦闘」の為の稽古をしている限りは、武器の有無に関係なく、常に持っていなければならない感覚です。
 たとえスポーツの世界でも、試合のための練習で ”馴れ合う” などという事は考えにくいですし、たとえ実際の試合を想定したような練習ではなくても、遊びではなく練習である限りは、馴れ合いの感覚は上達の妨げになると思えます。

 反対に、「馴れ合いであってはならない」と言う場合、一般的にはそれがどのように捉えられるのかも考えてみましたが、それは、お互いに「本気で打ち合う」とか、実際に相手に「ダメージを与えられるようにする」ということになるでしょうか。
 確かにこれだと、相手にやられる危機感もあれば、それを必死に防ぐ工夫もできるのかも知れませんが、やはりそれでは肝心なことが抜けてしまっています。
 それは、本物のナイフを持った時に、お互いに本気で刺し合ったり、相手にダメージを与えることを目的にしていたのでは、全く稽古にならないということです。
 つまり、「実戦のための練習なら殴り合うのが手っ取り早い」という考え方もまた、所詮は危機感の欠如から来るものであり、実際に生命が脅かされないような、「術理の必要性」が無いような稽古は、限りなく ”馴れ合い” に近いと言えます。

 私たちが「武術の稽古」について度々述べる機会を設けるのは、日々の稽古で、まさにここのところが重要だと考えるからです。

『その対練は、お互いに武器を持っていても、同じ考え方で、同じ様に動いていたか?』
  ────────この問い掛けを、稽古中に何度言われたか分かりません。

 危機感の欠如は、私たち現代人が武術を修得しようとする上で、ひとつの大きな問題となって降り掛かってきます。
 相手がナイフを持っていなくても、持っているかのような気持ちで向かい合えること。
そして、お互いにナイフを持って向かい合っても、ただ相手の身体に刃を当てることを目的とせずに、実際に相手に有効な攻撃ができる身体操作の追求を目的とすることで、「武術」としての稽古が可能になり、ただの一本の攻撃が、術理の力を伴った有効な攻撃に変わるのだと思います。
 実際に、稽古で最初から相手の打撃に恐怖を覚えるような状況では、術理としての自分の身体操作や、相手との間合いを充分に心掛けることなども難しくなります。

 『稽古では実戦のように、実戦では稽古のように』とは、拝師弟子や一般門人を問わず、武術を志す者の心構えとして、師から幾度となく指導されてきたことですが、先ほど述べた「危機感の欠如」と同じく、その精神状態が身に付くのは容易なことではありません。

 武術という術理の世界を正しく認識し、正しい稽古を積み重ねていくこと。
 ありきたりのことかも知れませんが、やはりそれしか無いのだと思えます。


                                   (了)


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2017年03月26日

練拳Diary #78「武術的な強さとは その20」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 「武術的な強さとは」について書き始めてから、もう20回目となります。
 読み返してみると、自分のことについてこんなにも書いたのか?、と驚くほど自分の想いや考え方を率直に、その時々の言葉で綴っていました。
 練拳ダイアリーだから何を書いても良いのでしょうが、今振り返ると少々恥ずかしさを覚えるような拙い表現などもあり、改めて文章として書き残すことの重大性を感じざるを得ません。

 第1回目は約2年前の投稿で、「強さ」とひと言で言っても実際には様々な種類の強さがあり、とりわけ私たちが求める “武術的な強さ” がどのようなものであるのか、一般的にはもちろんのこと、私たち自身も明確に認識してないのではないかという疑問からこのタイトルが生まれました。
 内容としては、試合と実戦の相違点に着目することから始め、勝てる強さではなく負けない強さ、即ち「生き残れること」を軸に様々な角度から光を当てて述べてきましたが、当初自分で考えていたよりも話が広がっていくこととなり、その分新しい発見も多く毎回勉強できたことが大きな実りでした。
 この第20回目を機会に、武術的な強さについて纏めてみたいと思います。


 さて、生き残るためには自分を鍛えなければならず、負けないためにはただ筋力や打撃力を増強するだけでは無意味です。なぜなら、30歳を過ぎれば誰でも実感するように、体力筋力は年々衰え身体の回復が遅くなります。
 太極武藝館に入門してくる格闘技出身の人たちが言うには、現役で動けるのは精々頑張っても30代後半までということで、自分が年を重ねても若い人に負けずに動くことが出来て戦うことも出来る、そういう男になりたいという理由で入門する人が大勢居ました。
 彼らから聞いた話では、普通は何をどのようにして鍛えていくのかが曖昧であったり、その方法に極端に偏りがあるもので、概ね指導者の経験から得られた方法を教わるようです。しかし、もしその結果身体が故障したり、それが武術として使えない身体を造ってしまう原因になってしまっては何にもなりません。

 太極武藝館の門人は、入門から1年も経つと例外なく姿勢が良くなり、多くの人が「健康診断で身長が伸びた」と言います。60歳を過ぎた人がそのような報告をしてくるとさすがに驚かされますが、実際に体つきや顔色が変わって動作も機敏になってくるので、練功に対する正しい取り組みの重要性を否応なしに実感させられます。何十年もサラリーマン生活をしてきた70歳を越えようという人が、師父に大きく投げられて綺麗に受身を取って立ち上がる姿は感動ものです。
 何をどのようにして鍛えていくのか。それこそが “秘伝” と呼べるものだと思いますし、それ無しに套路を何種類も覚えたり秘技絶招をどれほど習ったところで、武術的にどのくらい役に立つのかは甚だ疑問です。

 先日、幸運にも軍隊のトレーニングを間近に見る機会がありました。
 一般市民に公開展示するようなイベントではない本物の訓練であり、部隊名やトレーニング内容の詳細を明かすことはできませんが、室内で行われていたそのトレーニングは多くの一般人が想像する軍隊のトレーニングとは全く異なるもので、とりわけ印象的だったのは訓練の最初に行われていたエクササイズです。
 それは床に寝転んだ状態から始められていましたが、驚いたことに太極武藝館のセミナーで行われた内容とほとんど同じものだったのです。まさか、自分が何年も前にセミナーで受講した内容が、そのまま実際の軍隊のトレーニングで行われているなど、まったく想像も及ばぬことでした。
 広い訓練棟で戦闘服に身を包んだ訓練兵士が教官に指導を受けている様子には一切の一般的な戦闘イメージはなく、反対に深く静かに自分自身をみつめて精神的な自己制御のシステムを養っているように見えました。しかも、そこから始められた3つのトレーニングは、私たちが道場で指導されていることやCQC特別講習クラスで教授されていることと、驚くほどピッタリと一致していたのです。
 師父は、道場での稽古指導に於いては、滅多にその練功がどのような種類のものなのか、それを稽古することでどのような成果が出るかを説明されることはありません。そしてそれ故に、私たちは教わる内容を、まるで太極拳の学習としては当たり前の、どこの太極拳でも教授されているものだと考えがちです。
 ところが、そのとき軍隊で教官が説明していたのは、“軍人にとって欠かせない特殊な意識訓練” であること、そして “体力筋力を養うと同時に脳を鍛えること” だったのです。
 もちろん、そこで行われていたトレーニングは静的なものだけではなく徐々に動的なものへと移行し、更には素早い動きの中で複雑な指示を的確にこなしていくというものまで行われていたことを付け加えておきます。

 プロの戦闘要員育成トレーニングが、私たちの稽古内容と一致する。────────それは、激動の時代を生き抜いてきた太極拳の歴史を見れば何の不思議もないことですが、現代太極拳の練習内容を見聞する限り、まるで肝心な “武術的要素” がスッポリ抜け落ちてしまったかのように思えてしまいます。つまり、たとえ勁力などの非日常的なチカラが存在していたとしても、その使用方法となる戦い方は明確に示されていないのです。多くの発勁動画を観てもあまり武術的な脅威を感じないのは、その辺りの理由からかも知れません。
 軍隊で武器(力)を正しく扱える知識と身体を養うように、武術家にも同等の過程が必要なはずで、その過程を経ることによって、ただの強さではない “武術的な強さ” が身に付くのだと思います。

 軍隊式トレーニングが筋力体力を頼みにするものではなく、ましてや単なる格闘訓練や銃火器訓練だけでもなく、もっと根本的な自己統御から行われているということは、彼らのその統率された集団行動や命令系統の確立からも納得できると同時に、武器の有無に関係なく戦うことが出来るし、たとえ最後のひとりとなっても為すべき事を為しながら戦い続けることが出来るという、そのような人間を育成していることがはっきりと分かります。

 研究会の稽古で時々道場を離れて山に入って特別訓練を行うのも、同じ目的であると感じられます。
 特別訓練と言っても、いきなり山中に放り出すような荒っぽいやり方は(今のところは)せずに、まずは非日常の環境に身を置いて寝床を作り、火を熾し、食事を作るという、ごくありふれた野外生活を経験させられます。
 慣れ親しんだ日常から一歩離れた非日常の中では、自分が行ったことが全て自分に還ってきます。その時に自分は何をどのように考え、問題にどのように向き合うのか。また、自分独りなら何とかなったことが、仲間と共に行動しているために一手間も二手間も掛かるように感じられることも多々あって、一致団結のためには誰もが自分から率先して動く必要が出てきます。
 そうして少しずつ、太極拳という武術に向き合う自分自身の根本的な問題──────危機感の欠落、ご都合主義でコンビニエンスな考え方など──────と直面し、大袈裟でなく一個の生命としての活動に目覚め始めるのです。

 常に危険や危機と隣り合わせの状態では、否応なく武術的な強さが希求されます。それは理屈ではなく、頭で考える暇もなく唯々生き残るために全身全霊で求めるのです。
 危険と言っても、たとえば岩がゴロゴロしている川原を歩くということでも充分危険な状況です。そこで正しい考え方と歩き方を教わり様々な変化応用を伴って縦横無尽に行き来する、たったそれだけでも不思議と軸が整った立ち姿に変わり、身体はいつの間にか柔らかくしなやかに動き、足元は自然と軽くなります。
 言い換えれば、人間はそれ程までに “危機” に対して頭も身体も鈍感になっているということです。

 かつてない種類の激動の時代に入っている現代では、誰もが危機に対して敏感になり、どのような危機に対してもきちんと対応してそれを乗り越えられるだけの知識と身体が必要になると思えます。その場合には武術学習の有無は関係なく、誰もが日常生活の中で “武術的な強さ” を求めて生活することで、敵の思うがままにおめおめとは遣られない意識と精神力とが養われるものと思います。
 僅かばかりの油断が悪いとは言いません。そのささやかな油断にさえ意識的に気付ける自分で居られることこそが、「武術的な強さ」を理解するために欠かせない重要なヒントになるはずです。

 20回をかけて述べてきた「武術的な強さとは」については、今回で一応の区切りとすることにします。武術的な強さとは何であるのか、ここに明確な回答が得られたわけではありませんが、それを確実に手繰り寄せて行けるだけの実感が両掌に感じられます。

 この記事が武術を道とする皆様の、また日々を武術性の追究に向けられている方々のささやかなお役に立てて頂ければ望外の幸せです。

                                  (了)


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2017年02月24日

練拳Diary #77「教示されていること その2」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私たちが学んでいる太極拳は、大きく分けると基本功と套路と推手、そして散手に分けられます。稽古では、ある時にはグローブを着けてミットを打ったり、キックミットを構える相手に蹴っていくことも行われますが、稽古全体に見られる最大の特徴は、それがどのような稽古でも「物事を理解するための稽古」になっていることです。

 たとえば「拳打」についても、打ち方を覚えたら後はひたすら打つ練習をする様な稽古ではなく、先ず拳を打つということの考え方を学び、それが戦闘に際してどのように理に適っているかを体験し、それから実際に動く練習に入ります。
 特に「考え方」の勉強では、自分の中にある程度出来上がっていた「拳打」というものが引っ繰り返され、映画やマンガなどに観られる戦闘中の拳打の用い方などとは全く異なることが分かります。
 拳打とは何かを解った上で稽古をすると、無闇に拳の威力や速さを鍛える必要がないことが分かりますし、さらにそこで得られた理解を次の稽古に繋げていくことができるのです。

 私が太極拳の稽古を始めた頃は、なぜもっと拳打の稽古をしてサンドバッグなどを打つ練習をしないのか疑問でしたが、やがて「勁力」や「纏絲勁」ということを知り、それを手に入れるためにはサンドバッグを殴るよりも他にやることが山ほどあることを認識すると同時に、太極拳では「打つ」ことも「勁力」でなければ意味がないことに気がつきました。
 他所の格闘家が練習しているように、拳を鍛えてミットやサンドバッグをバシバシ叩く方がよほど充実感を得られる気がするし、自分が成果を上げていることも実感しやすいだろうと思えます。けれども、それを私たちがやったらわざわざ太極拳を学んでいる意味が失われてしまうことでしょう。

 拳打について、じっくりと時間を掛けて身体と拳打の動作が一致することを稽古したら、実際に相手に触れてその力がどのように伝わるのかを見ていきますが、もちろんそこでも等速・等力の要求は守られ、一切の力みを持ち込まずに行います。
 その練習過程は、拳を鍛えるというよりは拳を打つ自分の意識を変えて鍛えていく稽古だと言えますし、それは他のどのような練功にも共通していることです。それはまさしく、太極拳の要である『用意不用力』を理解するための稽古であり、そのお陰でミットを使用する稽古でも、力や勢いに任せた拙力の稽古にならずにすむのです。

 先日行われた、拘束の稽古でもそのことが顕著に見られました。
 それは、片腕を相手の両手でしっかりと拘束された状態から、それを解いていくという稽古で、普通は腕一本に対して二本の腕で拘束されると腕に自信のある人でも容易には外せません。多少心得のある人なら、腕を動かす方向や角度の工夫で外すことは出来ますが、拘束を解くまでに時間が掛かることと、その間相手が大した影響を受けずに自由に動ける状態であること、つまり反撃可能であることが問題となります。
 そこで指導されたことは、拘束の外し方ではなく相手との関わり方でした。
 そもそも拘束とは、お互いにどのような状態なのかを認識することから始まり、結果的に拘束が解かれてしまうような、相手が腕を掴んでいられずに崩れて倒れてしまうような状態を作り出すのです。しかも、そこには一切の抵抗力もなければ、反対側の手を使う必要さえありません。
 指導され、自分の考え方では拘束を解けなかった人がいとも簡単にそれを出来るようになると、皆さん一様に不思議そうな顔をします。

 その稽古は、一般護身術的な “こうされた(されそうになった)ら、こうする” というものではないので、腕を掴まれたときにしか使えないということもなく、そこで学んだ相手との関わり方は広く散手にまで通用させることが出来ます。
 シンプルで、誰にでも理解できるその考え方を教われば、たとえその時に相手を崩せず拘束を解けなかったとしても、それこそ繰り返し稽古を重ねていくことでやがては出来るようになると確信できます。
 しかし、そのような考え方や関わり方の学習なしに、ただ腕の拘束を外すために力の強弱や速さの緩急をつけたり、空いているもう一方の手や身体を使ってテコの原理で外すなど様々に工夫してみても、相手によっては困難な状況が生じると思えますし、ましてや単に套路で身体の動きを覚えて、推手の中で相手との攻防を繰り返している中からそこに繋げていくのはとても難しいと思えます。
 正しい考え方と身体の用い方、そして相手との関わり方。その理解のために歩法や套路が用意されていると思うと、その緻密な学習システムを残してくれた先人たちに頭が下がる思いです。

 稽古で行われている「物事を理解し、考え方を学ぶ学習方法」は、キャンプなどの野外訓練でも生きてきますし、むしろそれがなければ、ただ街から山に道具を持って移動しただけの “野外ごっこ” にしかならないことでしょう。
 野外とは、普段身の回りに当たり前のようにある物がなくなる不便な状況です。寝床を自分で拵え、燃料となる薪を集めてかまどを作り、その日の疲れを取って明日に備えるために食事を準備する。何てことのない日常の所作は、家という覆いを取り外した途端に戦闘状態へと変化します。火が熾きない、タープが張れない、食材を忘れた、気がついたら身体が冷えていたなどなど、それはそれはたくさんの問題が生じます。
 だったら、不便な野外でも便利に過ごせるように沢山の道具を持って行けば良い・・というわけではないと、師父は言われます。普段身近にあった便利な物が無いとき、初めてそこに工夫が生まれ、本当の実力が養われるのだと。
 確かに、火が熾きなかったら雨の日でも使える着火剤と最新ハイテクのターボライターがあれば良いという考え方では、結局その道具がなければ火が熾せないのです。それは道具が火を着けたのであって、自分が熾したとは言えません。たいそうな武器を持っていてもそれを奪われたらお手上げになってしまうようなものです。
 私たちは、野外訓練で「火が熾きる法則」を学びます。木ぎれに火を着けることは子どもでも出来ますが、それでは火遊びと大差ありません。そこから暖を取ったり調理が出来るようにするには、「やり方」ではなく「考え方」を学ぶ必要があります。

 野外訓練をするようになってからのことですが、火が熾きる条件を知ることはそのまま相手に拳が当たる条件を見出すことと同じであることに気がつきました。これは、相手に拳を当てる小手先の工夫をしていても当たらないはずです。
 自分が火を着けるのではなく、火が熾きる条件を整えるのと同様に、相手に拳を当てるのではなく、相手に拳が当たる条件を整えるのです。なるほどこの状態なら、散手の稽古中に師父の動きがゆっくりなのに拳が見えないとか、殴られる気がしないのにいつの間にか大きくヒットしているということも、納得できます。

 「考え方」の稽古がもたらすものは野外訓練だけに留まらず、普段の生活そのものが変わってくるとは、門人から聞こえてくる言葉です。
 彼らは言います。
 『普段の生活は、家族との関わり、仕事との関わりと、対象が変わっても全てが自分とそれ以外との関係性の問題であることが分かる。そうすると、まず最初に意識的に関わろうとすることができるので、自分の言いたいことやりたいことの主張ではなく、相手や仕事を含めてどのように物事を進めていったら良いかが見えてくる。もちろん人間だからぶつかることもあるけれど、今までだったらそこで話が拗れてしまったり、それ以上進まなくてどちらかが諦めたりしていたことが、川に岩があっても水は流れていくように、流れる方向が分かるようになってきた。それが太極武藝館で学んでいることだと気がついたのです』と。

 「やり方」ではなく「考え方」を変えるようにとは、ずいぶん昔から師父が仰っていたことです。
 当時は “一体太極拳をどう考えたら良いのか” ということで悩んでいましたが、今ようやく言われていたことの全体が見えてきた気がします。
 まだまだ五里霧中であるようには感じられますが、少なくとも真っ暗闇の暗中模索ではなく、遠くに小さな灯りを見つけた思いです。

                                 (了)


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2017年01月26日

練拳Diary #76「教示されていること」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私たちはよく、稽古時間が長いことについて驚かれることがあります。
 自分たちでははそれほど気にしていませんでしたが、確かに一般武藝クラスでは1回4時間強、健康を目的とする人が集まる健康クラスでも2時間から2時間半程度行われ、研究会ともなると1日10時間前後に及ぶ稽古が行われています。
 もちろん、稽古時間は長ければ良いということではなく、そのクオリティが問題であるということは、常日頃より師父からご指導を戴いているところです。

 トップアスリートのトレーニング方法にしても、巷では「長時間の練習は身体を壊す」とか「一流と二流の違いは、練習と休息のスケジューリングの違いにある」など、様々なことが言われていますが、彼らの普段の練習量と生活スタイルを見てみれば一概に長いとダメだというわけでもなく、まさに三人三様であることが分かりますし、結局のところ成績を残しているプロの人たちは、ジャンルを問わず食事と練習量と身体の回復に重点を置きつつ、自分に合ったトレーニング方法を確立しているわけです。そして、それは国を守る任務にある軍人であっても同様です。

 さて、今回私が述べたいのは稽古時間の長さの話ではなく、その長い稽古で行われている中身についてです。
 稽古では、歩くことだけで2時間が過ぎるということも珍しくありません。それも、ただ延々と同じことを繰り返すのではなく、太極拳という武術に必要とされる歩法とは一体どのようなものであるのか、その歩法が戦闘時にどのような役割を持つのか、正しく歩くために身体をどのように整える必要があるのか、という説明に始まり、そのためのトレーニングを入れながら、日常生活ではさほど気にしていなかった「歩く」ということについて、じっくりと取り組み、学んでゆくのです。
 ときには師父と一緒に歩いて動きを比べ、ときには障害物を設けて歩くなど、様々な方向から歩法を検証する中では、私たちはその人間の理に適った歩法のシステムに驚き、感動させられます。更にはそれが歩法だけに留まらず、基本功や対練へと繋げていけることに、太極拳の学習体系の大きさと厚みを感じずにはいられません。
 最も驚くべきことは、その歩法の集大成が直接戦闘技術に結びついている点です。
 いきなり「散手」とはいかなくとも、対練で相手が攻撃してくるものはもちろん、組みついて倒しに来るものまで、その歩法の理論を知っているのと知らないのとでは、結果に雲泥の差が出てきます。それこそ、勁力と拙力の違いと言いましょうか、相手への影響の現れ方やチカラの種類が明らかに異なってくるのです。
 つまり、私たちが教わる「歩法」とは、単なる一般的な歩き方や足の使い方とは異なり、太極拳の構造から生じる高度な身体操作そのものであり、それが相手にとっては非常に戦いにくく、制しにくい状態を生み出します。

 ところが、私たち門人にとっては無論のこと、太極学を学問として研究するための材料としてみてもたいへん貴重なその指導内容は、師父から見ればご自身が学び修得され、さらに長い年月を掛けて研究発展させてきた全伝の内容からみて、僅か5%にも満たないものだと言われます。
 私たちが普段の稽古で教示され、これこそが太極拳の深奥であると歓喜し感動しているものが、実はわずかに5%であったとは誰が推測できたでしょうか。
 そして、その5%からは、とても全体の100%を想像することはできません。一体どのような内容がそこに内包されているのか、どれほど考えてみても、すでに我々の想像の範疇を遥かに超えてしまっているように感じられます。

 しかし、幸いにも私は、普段教示されている5%以外のほんのささやかな数%を指導されたことがあります。ひとつは対練に於ける要点について。もうひとつは、この新年早々に行われた、正式弟子特別稽古でのことです。
 当然ながら、その稽古内容について此処で書くことは許されておりませんが、普段から一般門人とは異なる高度な内容を教わっている彼らが何に驚き、感動したかということについて、書いてみることにします。

 特別稽古は、普通なら誰もが期待するような派手な吹っ飛ばし方や、高度な纏絲勁理論の教授、套路の第何段階目を稽古する・・といった内容ではありませんでした。むしろ地味で静かな感覚を覚えるような、じっくりと太極拳そのものに自分を浸して染め上げていくような稽古であると言えます。
 稽古が進められる中で何度となく繰り返し聞こえてくるのは、彼らの「すごい!」という言葉でした。何がそんなに凄いのかと言えば、その指導の仕方が通常の稽古とは異なり、ある練功では先ず示されたことをその通りに行い、その中で新たな感覚が生じてきたときに、初めてその感覚が何であるのか、その時に生じた現象が太極拳での何にあたるのかを説明されます。
 それは最初から説明されるものではなく、恐らくそれが稽古中に生じることがなければ、その後も一切説明されなかったのではないかと思われます。つまり、取るも逃すも自分次第だという緊張感をリアルに感じさせるものだったのです。その点だけを取り出しても、まさに「生きた稽古」と言える、伝承というものが決して紙に書かれた秘伝書の受け渡しなどでは為し得ないことを感じました。

 また、太極拳の学習に必要なひとつのことを理解するために、様々な方向からアプローチをしていくことは一般の稽古でも行われていますが、そのひとつひとつが普段とは比べものにならないほど細かいものでした。
 その中には、

 『なぜ站椿で立つ必要があるのか』
 
 『太極拳に必要な身体とはどのようなものか』
 
 『套路とは、何を練るものなのか』

 ということも含まれていました。

 対練でも、最初の対練から次の対練、そしてまたもうひとつの対練へと、架式やスタイルを変えて行われる稽古は、全て段階的に繋がったものとして実感することができます。そのために、相手を如何に遠くまで飛ばすか、などということではなく、なぜ「四両撥千斤」が可能になるのか、なぜ「用意不用力」を理解しなくてはならないのか、その大元を辿ることができるのです。

 特別稽古で行われた稽古内容が、全伝の何パーセントにあたるのかは皆目見当がつきませんが、その日の稽古の始めと終わりとでは彼らの立ち姿も変わり、軸は強くしなやかなものに変容したと感じられました。そして何より、各自の太極拳に対する考え方がより鮮明になってきたと感じられたことが、印象的でした。
 ──────これは、教わらなければ絶対に分からない。套路の形を覚え、推手の数をこなすようになっても、太極拳を教わったことにはならないし、ましてや太極拳を知ったことにはならない。そんな感想を覚えました。


 今年に入ってから、稽古の指導内容がより繊細に、よりダイナミックにパワーアップしているように感じられます。
 それは、一般武藝クラスで指導されていることが研究会レベルに近いものだったりすることが多々見受けられ、その度に研究会に所属する門人は目を丸くして話を聴いていますし、平日の稽古で行われたことを正式弟子に伝えると、その内容の高度さに仰天するのです。
 師父が凄いことを仰ったときには、決してその場で騒がない。それは私たちの中でいつしか秘密を守るためのルールとして根付いたようですが、それでもやはり隠しきれずに、表情や仕草に動揺が現れてしまいます。

 太極武藝館では「健康太極拳クラス」の高齢者でも二十代の若者を軽々と飛ばしてしまいますが、太極拳のすごさは、誰もが容易に相手を飛ばせるようになることではなく、その戦闘方法をトータルに理解するための学習システムが精密に整備されていることにあると、私は思います。
 確かに、その詳細は師父について順序よく教わらなければ理解できませんし、伝承の性質上、正式弟子のための特別稽古と一般門人のクラスを同じ内容で行うことは出来ません。
 けれども、示される形も質も、説明される言葉さえも一切そのシステムを外れたものではなく、それは正に太極拳そのものなのです。つまり、私たちが注意深く耳を傾け、示されることを正しく観ることができれば、それは初めからすでに目の前に在ったということが分かるはずです。

 新年も早くもひと月が過ぎようとしていますが、一段と高度になった稽古内容や、それに伴う門下生の成長の様子を見ても、今年は色々な意味でとても楽しみな年となりそうです。

 皆様にとって、実り多き良い年となりますように。

                                 (了)


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