*第161回 〜 第170回
2016年02月01日
連載小説「龍の道」 第170回
第170回 SURVIVAL (2)
夜になると、いちだんと気温が下がってきた。
午後7時、手もとの小さな温度計は、すでにマイナス24度を示している。
「しかし、冷えるなぁ─────野外(そと)がこんなに寒いとは!」
「何と言っても冬のアラスカだからな、暖房完備のUAFの宿舎とは大違いだよ」
「フェアバンクスよりも緯度が南なのに?」
「たかだか90マイル(150km)くらいだ、あまり関係ないさ」
「南のアンカレッジやコディアック島まで下れば、かなり暖かいんだろうけどな」
「Oh、ここに比べたら、あそこはハワイみたいなもんさ!」
「♬ Alo- ha- Oe〜〜!!(アロハ・オエ=わが愛をあなたに/ハワイ民謡)」
「あははは・・・・」
焚火に薪を焼(く)べながら、皆でそんなことを言って笑う。
日の落ちないうちにテントを設営し、薪を集める。どんなキャンプでもこれは鉄則だ。
そして夜明けと共に目覚め、行動は日中に、手早く計画的に行わなくてはならない。
今夜は風もなく、食事は皆で焚火を囲んで取る。
夕食は、例によってMREレーション(Meal, Rready-to-Eat=野戦糧食)のパックだが、このような訓練では、MCW(Meal, Cold Weather)という寒冷地仕様が支給される。
と言っても、本体が凍らず、十分に温められるというだけの話で、スペシャルメニューというわけではない。24種類のメニューのうち、今夜は ”MENU NO.9” と書かれたビーフシチューだ。
寝る前にきちんとタンパク質を摂っておくと、夜中に体が冷えずに済むので、マズかろうが何だろうが、とにかく食べる。
MREは1パック1食分がおよそ700g。表面にはライフルを構えた兵士のイラストが入っていて微笑ましい。
パッケージの中身はメインディッシュとそれを化学反応で温めるヒーター、クラッカーとお定まりのピーナツバター、インスタントコーヒー、水ナプキンや、タバスコの小瓶、食後のガムまで入っていて、カロリーや栄養素、食べ方などが書かれた紙も添付される。水で発熱する化学反応ヒーターは、メインディッシュを10分ほどで56℃に温めてくれる。
この時代のMREは、保存性に重点を置いて造られ、27℃で3年間、38℃で6ヶ月保管できること、マイナス51度からプラス49度まで変動のある環境でも、短期間なら腐敗しないことを条件に造られているが、そのために味が非常に不味く、兵士たちの不評を買って、その頭文字をもじって ”Meals, Rarely Edible”(滅多にない魅力的な食品=とても食えたモンじゃない)、などと皮肉られている。
案の定、ここでも────────
「MREは、Meals Rejected by the Enemy(敵も食わない食い物)って言われる割には、このシチューはなかなかイケるじゃないか」
誰かがそんなことを言い始める。
「うむ、これなら何とか喰える。もっとも、腹が減っていれば何でも喰えるが・・」
「アメリカ軍のコンバット・レーションは、世界でいちばん不味いと評判らしい」
「野ネズミの方が、ちっとはマシかも・・」
「野外だとウサギが食べたくなるな」
「ウサギより、リスの方が美味いけどね」
「リス?・・リスを食べるのかい、ジョージ?」
「そう言えば、イングランドじゃ肉屋でリスの肉を売ってるんだって?」
「ああ、北の方なら売っている。リスは害獣なんだが、甘くて美味しいんだ」
「カトー、日本じゃスーパーでイルカの肉を売っているらしいが」
「確かに、イズという地方では売っているね。その辺りの猟師にとっては害獣だから」
「テレビの Flipper(邦題:わんぱくフリッパー)を観ていたから、イルカを食べるなんて考えられない」
「あはは、僕だってディズニーの映画を観たら、リスもシカも食べられないさ」
「民族によって、価値観も、食べ物も違っているからな」
「軍隊の糧食で量の一番多いのは、イタリアとオーストラリアだって」
「米軍の2倍のボリュームがあるってウワサだが」
「食いしん坊の国はイイな」
「フランスやイタリアの軍隊糧食には、ワインが付くらしい」
「ホントに?・・チーズもあるってか?」
「ははは、まさか─────」
「台湾軍は、大きめの缶詰めを何種類か開けて、みんなで食べるんだよ」
「カトーは、台湾に詳しいな」
「いや、聞いた話だけどね・・・」
「イギリス軍のは、必ずチョコレートプディングが入っているらしい」
「そうそう、間食のメニューもあって、ティータイムセットが入ってるって」
「ワオ、こっちはインスタントコーヒーにガムだぜ、うらやましい・・」
「ドイツ軍は?」
「もちろん、ジャガイモと豚肉、インゲン豆は欠かせません!!」
「それに、ビールも必需品!」
「♬ Ein Prosit, Ein Prosit, der Gemutlichkeit !!(アイン プロージット、アイン プロージット、デル ゲミュートリッヒカイト=さあ乾杯だ、乾杯だ、心地良く乾杯だ=ドイツの乾杯の歌)」
「イェーイ!!」
「コリアは、いつでも何処でも、ビビンバとキムチ!」
「人民軍チャイナは何を食べてるんだろう?」
「四つ足はテーブル以外、二本足は、親以外なら何でもOKアルよ!」
「あははは・・・」
「さてと、バカを言ったあとは、凍死しないように気を付けながら寝るだけだ」
「薪ストーブがあるから楽勝だな、これで凍死したらホントの馬鹿と言われる」
「だけど─────」
宏隆が、少し心配そうな顔をして、皆の方を見る。
「ストーブの無い野営も訓練にあるらしい。その時には気を付けなきゃいけないな」
「何を気を付けたら良いの─────?」
Alba(アルバ)が、心配そうな顔で聞く。
「シュラフの中は暖かくて快適だけど、ヒトはひと晩で500ccもの汗をかく。その水分はシュラフの中に放出され、内側から湿ったシュラフは凍って防寒機能を失う。そのまま寝ていると凍傷や低体温症を引き起こしてしまうんだ」
「わぁ、怖い・・そんなことになったらどうしよう・・」
「カトーの言うとおりだ」
チームリーダーの Howard(ハワード)が深くうなずいた。
「こんな環境では、人は寒さに対しては非常に警戒を高めるが、なぜか自分のかく汗にはあまり注意を払わない。だが、実は自分の汗こそ最も身近な敵であると言える。
実際、極北の地を旅する人は、余りに気温が低いので、汗をかいて水分が失われていることに気づかず、脱水症状を起こしてしまうことが多い。シュラフの中の湿気と同じで、日中の行動で汗で濡れた下着をきちんと着替えなければ、同じことが起こってしまうんだ」
「オオ・・笑いごとじゃないな」
「ああ、お互い気を付けないと、クサイ下着はモトから絶たなきゃダメ・・」
「たぶん、お前よりは清潔だけどな」
「オレは訓練前に、ちゃんとバブルバス(泡風呂)に浸って洗ったよ」
「Radar Bubbles(レーダー網)を搔い潜ってか?」
「ははは、冗談はともかく、同じ意味で、テントに入る時には、お互い協力して、服に着いた雪をよく払い落としてから入るんだ。決して手で擦らず、揺らしたり叩(はた)いたりして、雪が繊維の隙間に入らないようにすることが大切だよ」
「了解・・!!」
流石はリーダーに選ばれるだけのことはあるな、と宏隆は感心した。
ハワード(Howard)の姓は、もとはゲルマン語の「主席管理者」という意味で、古語に「羊の番人」とか「勇者」という意味も見られる。いかにも頭の良さそうな、このリーダーには相応しいドイツ系の名前である。
正直なところ、亜熱帯や熱帯モンスーン気候の台湾と温暖な神戸がベースの玄洋會では、やはり寒冷地に対応する訓練が不足しがちなのは否めない。
もし亜寒帯の北朝鮮にでも潜入するようなことがあったら、このような訓練無しではとても身が持たないだろうと思える。
「北朝鮮に、潜入──────────?」
なぜか突然、そんな突拍子もないことを想った自分が、宏隆には可笑しかった。
早々に食事を終えてテントに飛び込み、薪ストーブの上にコッヘルをかけ、雪を溶かした水を沸かして淹れた、砂糖と粉ミルク入りの熱い珈琲をすすり、濡れた衣服を乾かしつつ、しばし昼間とは別世界の幸福に、誰もが寡黙に浸っている。
この薪ストーブは、極北の地に居るのが嘘のように思えるほど暖かい。薄いブリキでできた組み立て式の粗末なストーブとは思えないほど快適な暖かさを提供し、一日の訓練の疲れを癒し、緊張して強ばった心まで溶かしてくれそうだ。
テントは1チームにひとつ。男も女も、のっぽもチビも、肌の色の違いも何も関係なく、空いている空間にシュラフを並べ、寄り添って雑魚寝をする。
何かの縁で共に行動している者たちが、ただひたすら、ひとつの目的に向かって、それぞれが持つ能力の限りを尽くし、辛くとも逃げず、挫けず、チームメイトを労(いたわ)り合い、互いにケアし合いながら、前向きに立ち向かって訓練を全うしようとしているという、ただそれだけの、極めて純粋な、爽やかで気持ちの良い空間なのである。
これを「戦友」というのだろうな─────と宏隆は思う。
実際に戦地に赴いた経験は無いが、常に死と隣り合わせの、本当の辛苦を共にした者同士の絆は、何ものにも勝って深い。これに比べれば、普通の社会での友人や同僚といった関係性の、何と希薄に思えることだろうか。
やがて夜が明ける────────ひと晩中燃えて綺麗な熾炭(おきずみ)になっているストーブに、誰かが新らしく薪をくべて、皆が寝袋の外に出やすくしてくれる。
仲間想いの、小さな親切である。
アラスカ大学の宿舎のように起床ラッパこそ鳴らないが、凍えつく野外訓練でも、起床と点呼の時間は決まっている。起床時間までに勝手に起きて動き回ってはならないし、点呼時には準備万端で整列しなくてはならないことも同じだ。
要するに軍隊では、寝起きに至るまで規則があり、自分勝手にできる事は何ひとつ無い。その訓練こそが、敵に立ち向かえる真の強さをつくるのだ。
「Company, Fall in !! ────────(中隊、整列!)」
雪が降ってきた。寒さのためか、粉のように細かく、日本なら北海道や北陸で見られるような、さらりと柔らかい雪である。同じアラスカでも、これが北極海沿岸のバローなどになると、さらなる寒さと強風で、雪の質はずいぶん硬くなるに違いない。
「Attention!(気を付けっ!)」
「At ease!(休めっ!)」
「今日は標高1,500メートル付近を行軍して、渓沿いに下山し、少し幅の広い河を渡って、次の野営地まで歩く。その間、いつも通りコンパスを使って地図を読みながら、途中で射撃の訓練も行う。雪の尾根をつたい、谿沿いを下って氷結の河をわたる雪中行軍と、森の中を潜行しての進軍および射撃、これらの訓練を行う予定だ。
朝食後は各チームのリーダーとサブリーダーが集合して教官軍曹と出発前の打ち合わせをする。他の者はテントの撤収と出発準備を行い、0730(午前7時半)にAチームから順に出発を開始する─────分かったか?!」
「イエッサー!」
「それから、寒いからと言って、服は何枚も着込んで厚着をするな。ちょっと寒いかなと感じる程度がちょうど良い。汗をかいて凍傷になりたくなければ、工夫をすることだ」
今日もまた、肩にライフルを提げ、重いバックパックを担いで、真っ白な雪原をひたすら歩く。もうかなり太陽が昇ったというのに、腕時計のベルトに付けた小さな温度計はマイナス18℃を指したままで、そこから上がってくる様子もない。
「ヘイ、アルバ────────大丈夫かい?」
雪原を3キロほど歩いたころ、前を行くアルバの様子が何となくソワソワとして見えたので、宏隆が声を掛けた。
「ええ、大丈夫よ・・」
「何か気になる事があったら、どんな些細なことでもバディに相談するんだ。心の中に呑み込んだり、我慢したりせずに。そのためのバディだからね」
「あの・・実は、お手洗いに行きたくなったの」
「何だ、そんなことか」
「でも、休憩までには、まだ少し時間があるでしょ?」
「大丈夫だよ、ちょっと待っていてくれ」
まずホイッスルを吹いてチームの歩みを止め、少し後ろに居るリーダーの許へ走る。
リーダーは頷いて、皆に5分間の休憩を命じた。
「ありがとう、朝から珈琲を飲みすぎたみたい。みんなの迷惑になるから、なかなか言い出せなくて・・」
「いいんだよ、皆もそろそろ行きたい頃だ─────ほら、あそこの樹の陰まで行けば、誰からも見えないよ」
「サンキュー、ヒロタカ!」
このチームのもう一人の女性、リーダーのハワードとバディを組んだ、Chloe(クロエ)もアルバと一緒に駆けて行く。
慣れてしまえば、大小に拘わらず、野外で用を足すことは恥ずかしくも何ともなくなる。むしろ屋内より爽快で病み付きになりさえするが、やはり女性は、よほどアウトドアに馴染んだ人でもない限り初めは抵抗があるし、まして男たちの前ではなかなか言い出せない。
しかし、誰でもこれだけ歩けば汗をかき、血圧が上がり、尿が増えるので用を足したくなるのは当然である。言うまでもなく、きちんと尿を排泄することは非常に大切なことで、小便を我慢すると腎臓に負担がきて、体がむくみ、だるくなり、めまいやふらつきが起こり、高血圧や貧血にまで関係してくる。
また、大便を我慢していると肛門手前の直腸に便が溜まり、渋滞した便が長時間大腸に停留して、便の水分が体内に吸収されて硬くなり、徐々に排便が困難になる。さらには便意を感じる脳の排便反射機能が混乱をきたし、直腸が膨らまないと便意を感じなくなって、便秘になる。
そうなると、野外で短時間に用を足すことは大変困難になり、寒冷地では生命にも関わってくる。大切なのは、便意を感じたらすぐに用を足すこと、行動前に用を足す習慣を付けること、水分補給や繊維質の摂取を心掛け、甘い物を食べ過ぎない、などの基本を守ることである。
別に極限状態のサバイバルでなくとも、このくらいは普段の常識として知っておくべきであり、それに疎いようでは、そもそも危機回避どころではない。
また、頻尿に悩まないようにする為には、珈琲や緑茶など利尿作用のある飲み物を控え、カフェインの摂取を少なくすることだ。カップ一杯の珈琲には140mgのカフェインが含まれている。朝からブラック珈琲をたっぷり飲んで寒いフィールドを歩けば、早々に利尿作用が起こるに違いない。
そして、用を足したら必ず水分を取らなくてはならない。水分を取らなければ脱水症状を起こし、脳の機能が低下し、やがて心臓が停止して死の危険に直面することになる。
脱水症は暑い時だけとは限らない。よく誤解されるが、それは単なる水分不足ではない。脱水症は「体から水分と電解質が失われた状態」であり、ニュアンスとしては「脱塩水症」に近い。要は汗で体液が失われ、体液の供給が不足しているわけである。
めまい、ふらつき、口中の渇きなどを感じたら脱水症を疑ってみる。症状が進めば頭痛、悪心が生じ、重度となると意識障害、けいれん、昏睡、錯覚、幻覚さえ起こるようになる。めまいやふらつきは水分不足で、ケイレン、しびれ、脱力感は電解質の喪失が原因である。
脱水症の予防には、水分と電解質、ミネラルの補給が大切だ。
”飲む点滴” を目指して造られたスポーツドリンクは確かに便利だが、非運動時と運動時とで種類を選ぶと良い。例えば、ポカリスエットは運動前の疲労予防に、VAAM は運動中という具合に用いる。また、日本の味噌汁は血液と塩分濃度がほぼ同一で、発汗による塩分の減少を補うには理想的である、ということも覚えておきたい。
「─────みんな、水分は少しずつ補給するんだ。喉が渇いているからといって、一度に冷たい水を飲んだら、体温が急激に下がってショック症状を起こす、ひと口ずつ、口の中で温めるようにして飲むんだ!」
水分を補給しているメンバーに、リーダーが注意するが、
「・・あっ、だめだ!!」
言い終わらないうちにハワードが突然、クロエの手を強く掴んで止めた。
「えっ・・な、何が・・?!」
クロエがひどく驚いた顔をする。
「直接、雪を食べては、絶対にダメなんだ」
「わ、わたし・・少しずつ水分を補給しろと言われたから、雪を・・・」
「グローブを着けているから分からないだろうが、気温はマイナス20℃近い。その雪を口に入れたら、口の中がたちまち炎症を起こしてしまう。そうなったら、しばらくの間は食事ができなくなるぞ」
「そうだったの・・・気をつけるわ、ありがとう!」
「みんなもよく注意してくれ。こんな極北の地では、ちょっと油断するといくらでも災難が降り掛かってくる。夕方にはグッと気温が下がる。取り出すのが面倒でも、水筒はザックの奧の方に入れて凍らないようにするんだ!」
「了解─────────!!」
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第171回の掲載は、2月15日(月)の予定です
2016年01月15日
連載小説「龍の道」 第169回
第169回 SURVIVAL (1)
アラスカに長い冬がやって来た。
アラスカ州内陸部の気候は亜寒帯に分類され、最も低い気温はフェアバンクス周辺で記録されている。つまりその辺りはアメリカで最も寒いところ、ということになる。
フェアバンクスの夏の気温は30℃代の前半ほどで、冬の平均はマイナス20℃、場所によってはマイナス50℃くらいまで下がる。一般家庭用の冷凍庫がマイナス18℃であることを思えば、冬の間は冷凍食品が溶けない気温の中で日々を過ごすわけだから、それが如何に厳しいことかが分かる。ましてや、わざわざその寒空の下で訓練を行うとなれば、その艱苦のほどは想像に難くない。
「Fall In !!──────── (整列っ!)」
「Attention !! (気をつけっ!!)」
「At Ease !!(休めっ!)」
「予備役士官訓練部隊の士官候補生諸君、NWTC(Northern Warfare Training Center:米陸軍北方軍事行動訓練センター)へようこそ。私は U.S. Army Special Forces(米陸軍特殊部隊)、2LT(Second Lieutenant:少尉)の Harry Lewis(ハリー・ルイス)だ」
ずらりと ROTC(予備役将校訓練課程)の士官候補生たちが整列して、正面の高い壇に立った、グリーンのベレー帽を被った訓練教官が語る、入所式の講話に耳を傾けている。
ここは北緯64度49分、アラスカ大学フェアバンクス校から南に90マイル(150km)ほど下ったアラスカ山麓の原野─────その名も Black Rapids(ブラックラピッズ=黒い早瀬)という、湖のように幅の広いデルタ川に沿って造られた、米軍の訓練施設の中にある大きな蒲鉾型の体育館である。
「君たちは、これからこのアラスカの原野で特別な軍事訓練を受ける。訓練内容は幾つかのコースに別れている。氷河やタイガ地域でのオリエンテーリング、山岳地帯での偵察や戦闘訓練、ヘリコプターからのラペリング(懸垂下降)訓練、雪原での野営訓練、極寒の環境の中で分隊や小隊を率いて行ける指導者の養成、そして寒冷地での極限状態におけるサバイバル訓練などだ。
これらの訓練で君たちに最も学んで欲しいことは、”本物の兵士の質” についてだ。
例えば、身勝手な考え方と創意工夫とは全く異なるし、真の勇気と暴勇とは異なる。
軍隊では真っ先に ”規律” を教えられることを、よく思い出してもらいたい。整列、気を付け、敬礼、体格の差を無視して要求される一糸乱れぬ行進、服装、装備、荷物やベッドメイキングに至るまで常に規定通りに整然としていなくてはならない。そこには ”自己” の思い入れが入る余地がカケラも無いことは、アラスカに来て2年目の諸君らは、すでに身に染みて理解していることだろう。
しかし、規律が大切とされるのは、単純に上官からの命令を聞ける、盲目的に従属する人間を作るためではない。実は、規律によって養われた精神こそが、ひとえに君たち自身の生命を守り、同朋戦友の生命を脅かすことなく、共に無事に戦地敵地から生還できる ”質” に直接繫がっているのだ。それは人間としての崇高な精神性を育成するためのものであり、ふだん気にも留めなかった自我と向かい合うための鑑(かがみ)なのだ。
それゆえに、規律を学ぶ精神が欠落している者は、より厳しい危機に晒される戦場から、決して無事には還れない。
実際の戦場を経験してきた者は、誰でもそのことを身に染みて解っているが、君たちのような学生兵士は、まだまだその意識が徹底できず、個性のユニークさを個人的な能力と勘違いし、自我の強さを強靭な精神力と思い込み、それらこそ困難を乗り越えて生還できる源泉であると誤解してしまいがちだ」
「──────────────」
「だが、それは心して戒められなくてはならない。ここの訓練は非常に厳しい。特殊部隊の兵士たちも、わざわざここにやって来て厳しい訓練を受ける。ここでの訓練は、君たちの頭の中にある一般的な常識や貧しい判断力では、何ひとつ乗り越えることができないだろう。敵兵こそ存在しないが、この訓練所は君たちに次々と危機の試練が与えられる、立派な戦場なのだ。
しかし、だからと言って身勝手な工夫をしても、ジタバタと自己を主張して強がっても、何の役にも立たない。軍人の、兵士の本当の強さというのは、正しい軍事知識を学び、それに基づいた訓練を、一分の隙も無く正確に積み重ねることによってのみ、各個人に本物の実力として養われるものなのだ。
平和と安全が空気や水のように当り前だと思える世界で、私たちは日常を生きている。
好きなように物事をとらえ、勝手な思い込みで世界をとらえ、ニュースで語られるままを鵜呑みにし、いざとなれば周りと同じ事をしていれば良いと思うか、あるいは少々工夫を凝らせば何とかなると思えるような・・・一般人が錯覚しているそんな考え方が何もかも修正されて、本当の危機に際してそれを乗り越えて行ける新しい考え方を学び、どのような困難な状況に置かれても、自己の立場と責任を全うして生還できる能力を身に付けること、それこそが軍隊で要求される真の兵士の ”強さ” というものなのだ。
そして、兵士は誰よりも強靭な心身を持つ人間でなくてはならない。
これは、どのような国家にあっても変わらない不変の定義であり、真実でもある。
だが人は元々、誰もがひどく弱く、信じられぬほど脆(もろ)いものだ。私は長年ここで教育指導をしているが、強靭な心身を持つ人間など、ひとりも見たことがない。
その反対に、どうしようもなく弱い人間、恐怖に怯え慄(おのの)き、未経験の非日常に際してたちまちパニックに陥るような、呆れるほど弱い人間たちが、地道な訓練によって、素晴らしく強い兵士へと生まれ変わっていく姿を、数え切れないほど見てきた。
人は強くなければならないのではない。己の脆さ弱さを認め、恐怖と向かい合い、それから逃げずに、正面から立ち向かおうとする魂を養ってゆく必要があるだけなのだ。
この訓練所にやって来た多くの者たちがそれを理解したように、今度は君たちがそれを学んで理解する番だ。どうか真の兵士を目指すことに誇りを持ち、厳しい訓練に立ち向かい、全員がそれを乗り越えて、堂々と卒業してもらいたい───────清聴を感謝する」
学生兵士たちが皆、思わず起ち上がって拍手をした。
やはり極限の訓練を積んできた人は普通の人とは違うものだと、宏隆は感心した。
ルイス少尉の講話を聴いていると、王老師やK先生の話が思い出される。そして同じ特殊部隊の出身である陳中尉、宗少尉などにも等しく共通する、厳しさの中で挑戦を繰り返して鍛え上げられた人間の、曇りのない澄み切った魂が感じられ、爽やかな感動が胸に残った。
一夜が明けると、原野を渡る風はだんだん強くなり、薄く積もった新雪が地吹雪となって濃い霧のように舞い、陽の光を弱々しく朧(おぼろ)に曇らせている。
昨日フェアバンクスから此処に移動してきたばかりなのに、何故かしばらくこのNWTCに居たような落ち着きが自分の中にあるのが不思議だが、ともあれ、今日から2週間、厳寒の中での訓練が始まるのだ。
最初の訓練は、雪の針葉樹林帯に分け入り、全く道のないところを行軍しながら、地図で地形を読み、コンパスで方角を計り、野営をしながらまた出発し、ある時は凍りついた河を渡り、氷河を越えながらひたすら歩き続ける─────雪中軍事オリエンテーリングとでも言うべきものである。
以前にUAF(アラスカ大学フェアバンクス校)で実施された行軍と異なるのは、真冬の原野を行くことや、アラスカ山脈沿いの険しい山岳地帯であること以外に、それが敵地に潜入侵攻していくという想定で行われることだ。
服装は、今は厳寒の冬季だから、寒冷地用の保温・速乾性の下着を付け、上衣にはダウンに代わる化繊素材のハーフコートを着る。
背負うバックパックには寝袋は無論、他の野営用具も入るし、通信兵は通信器機も背負わなくてはならない。手には凍傷を防止するための分厚いグローブをはめて、足もとはバニーブーツ(Bunny Boots)と呼ばれるボッテリした白いゴム靴を履く。これはマイナス46度の中でも6時間まで足を守ることが出来るのだそうだが、ウサギの足どころか象の足のような格好で、歩き難いことと言ったらこの上ない。
雪の深いところではその上にスノーシュー(かんじき)を履いたり、クロスカントリースキーで山岳地帯を行軍したりもする。もちろん重さ30kg近いバックパックと4.5kgのライフル、200発の実弾や予備マガジン、1QT(one quart=約1リットル)の水筒を2本装備してのことだ。
「全隊、止まれ─────!」
雪原を数マイル(5〜6km)ほど歩いたところで通信兵に訓練教官から無線が入り、リーダーがチームに停止の指示を出した。
しかし、声に出してそれを言うわけではない。右手を大きく真っ直ぐ上に伸ばし、掌を前に向けて、その命令が全員に行き渡るのを待つ。
これを Arm-and-Hand Signals(アーム&ハンドシグナル:手信号)という。いま出されたハンドシグナルは、HALT, or STOP(立ち止まる、停止する)を意味している。
軍隊ではこのような手信号を、様々な場合に備えて80種類ほど覚えさせられる。また、同じ意味の信号でも、夜間に光源を用いて行うものはスタイルが異なるし、敵地に侵入した際に用いるものは、小さな動作で手信号を発せられるように工夫されている。
「これより Contest Area(コンテストエリア:競合地帯)に入る。隊列を FORK(フォーク)に取れ!」
「Roger─────(了解)」
競合地帯とは敵と競り合っている地域を意味し、敵ばかりではなく、敵と戦っている味方も存在する地域のことである。敵しか存在しない Control Area(制空権下や支配地帯)とは異なり、競合地帯では味方も存在するので、同士撃ちや誤射、誤爆に常に細心の注意を払わなくてはならないと、宏隆は戦術原理の授業で教わっていた。
ここでのチームは8名1組。このような極寒の地にあっては、さらに安全を期するため、スクーバ・ダイビングのように2人1組のバディシステムで常に互いをケアをし合う。
宏隆の属するチームは、一列縦隊で歩いていた隊列を即座に戦闘用に組み直した。流石にこの辺りはキャンパスのグラウンドで散々訓練を重ねてきた成果が見られて頼もしい。
敵地の中では、すべて Radio(無線)や手信号で伝達が行われ、リーダーが他の隊員に大声で命じたりすることなどは有り得ない。
敵地へと侵入していく訓練では、重い荷物を背負って長い距離をひたすら歩かせる基本の行軍訓練とは目的を異にしている。
まず、互いの距離を、最低でも10メートルほど間隔を空ける。全員がひとつの固まりになって歩くことは絶対にあってはならない。待ち伏せた敵の格好の標的になり、わずか数分でチームが全滅することになるからである。イスラエル軍の訓練では原野や砂漠地帯では20メートルの間隔を取るように指導される。
砂漠や平原のような広い場所では、今回のように「FORK(三つ叉のフォーク)」のような隊形を取ることが多い。今日の場合も雪原の真っ只中であるから、同様に隊形を組むことになったのである。
ここで、隊形の説明をしよう。
8名のチームの場合、フォークの柄の先が進行方向となり、その先頭に「リードトラッカー(Read Tracker)」を配置する。トラッカーとは猟犬や猟師という意味であり、武器をもって目標を追跡する人のことを指す。
リードトラッカーは、進行方向に向かって左右45度ずつ、合計90度の前方を警戒する。
その10メートル後方には「カバー(cover=掩護)」を配置し、前のリードトラッカーを含めた前方90度を警戒する。
フォークの柄の終点、三つ叉の基点に当たるところには「チームリーダー(指揮官)」が位置し、そのすぐ後方、三つ叉の真ん中の串の中心部には「通信兵」が配置される。チームリーダーと通信兵は主に後方の警戒に当りながら歩く。これは敵地から脱出の際にも同様に適用される。
なお、いかなる場合も、通信兵は必ずリーダーの傍に置かれる。いつ緊急指令が入るかもしれず、敵地に入れば入るほど、誤射や同士撃ちなどの可能性が出て来るからだ。
フォークの三つ叉の左右に当たるところでは、前方にトラッカー、後方にカバーが配置される。「右トラッカー」は進行方向から右の90度を主に警戒し、その後ろの「右カバー」は進行方向から右へ30度から120度程度の、やはり90度ほどを担当して警戒にあたる。
同様に「左トラッカー」と「左カバー」は進行方向の左側を警戒する。
最後尾に当たる左右のカバーは、絶えず交互に警戒角度を変化させながら、チーム全体の安全を図る。
隊形で進行する際には、各々のポジションが正確であること、間隔を守ること、自分のポジションが担当する警戒角度を守ること、そして何よりも常に相互支援が可能になるよう、心掛けなくてはならない。
もし敵襲が気になるあまり、自分勝手にキョロキョロして、他の隊員がカバーしている角度を凝視している間に、自分の担当角度内に敵が出てきたのを見逃してしまったら初期対応が遅れ、隊全体に大きな損害を被りかねない。
こんな時にも、学んだ事をきちんと守る、正しく命令を守る、ということが徹底されなくてはならない。整列、気をつけ、右向け右、回れ右、前へ進め、全隊停まれ、など、一見戦闘には何の関係も無いことを徹底して叩き込まれるのは、その為なのである。
この隊形は宏隆が授業で学んだように、実際に図に描いてみるとよく理解できる。
「ピィーッッ!!」─────と、ホイッスルの音が広い雪原に甲高く響く。
ただし、普通のホイッスルでは、こうは行かない。
120dbを超える音圧で鳴る、この軍用の全天候型ストームホイッスルは、ネイビーシールズや沿岸警備隊の標準装備としても用いられ、陸上で800m、水の中でも15m先まで音が届くほどの性能を持つ。
120dbというのは、飛行機のエンジン付近の騒音と同じ大きさで、緊急時に注意を促したり、自分の居場所を知らせるのに大きな効果がある。
この訓練でも、全員が Dog Tag(ドッグタグ:兵士の認識票。”犬の鑑札” の意)と共に首から提げることになっている。
「全隊、止まれ!、集合っ─────」
フォーク型に隊列を組んで進んでいたチーム8名が、中央のリーダーの処に集合する。
「軍曹からの連絡を伝える。今日はあの高い樹の向こうに見える、穏やかそうな森の中でキャンプをすることになった。到着後は歩哨を立て、設営場所を選び、テントを張り、火を熾して暖を取りながら食事の準備をする。以上だ」
「了解─────!」
盆地のような雪原から、少し小高くなった森の中に歩みを進めて、設営に適した場所を探す。そうしている間も、一人はライフルを手に歩哨に立ち、周囲を警戒する。これも訓練である。
テントを張る場所が決まり、素早く設営する。
テントはOD(Olive Drab)色の大型で、モンゴル人の家である「ゲル」のような形をしていて、8名が寝ることができ、テント内に薪ストーブを設置することができる。OD色のままでは目立つので、上に雪の色と同じ、白いカバーをかける。
ついでながら、日本人は「パオ」と呼ぶことが多いが、それは内モンゴルを実効支配する中国の言語である ”包(pao)”に由来しており、モンゴルの国民がそう呼ぶわけではない。
やがて火も熾きて、皆の緊張した顔も少しばかり弛んでくる。
「Alba(アルバ)、 今のうちに靴下を取り替えておくといいよ─────」
「・・あ、そうね。ありがとう、ヒロタカ!」
防寒着とヘルメットの間から、スペイン系の浅黒い顔がニコリと笑った。
今回はチームリーダーではないが、宏隆はサブリーダーを任じられ、男性6名、女性2名で構成するこの小隊では、リーダーと同様に、女性隊員とバディを組むことになった。
緊張した顔のままの、その相棒のアルバに、宏隆は少しでも気持ちが楽になるようにと、優しく声を掛けたのである。
「なかなか良い心掛けだな、Cadet Kato !(カデット・カトー:加藤士官候補生)」
「Sergeant !!(軍曹殿!)」
突然現れた教官に、宏隆は気を付けをして姿勢を正した。
チームの設営現場に、教官軍曹がいつの間に現れたのか、設営で忙しい隊員たちはそれどころではなく、誰も気付かなかったのだ。
「他の者も、よく聞いておけ!、今日は雪原の中を何マイルも歩いて、誰の靴の中も汗でびっしょりのはずだ。だが行軍をやめて設営を始めると、だんだん体温が下がってきて、汗で濡れた足を体温で保つことが出来なくなってくる・・・そうなると?」
「────やがて、凍傷になります」
宏隆が答えた。
「Affirmative(そのとおりだ)。だから、こんな条件下では靴下をマメに取り替えなくてはならない。カトーはその大切なことを、まず初めに女性のバディに優しく分かりやすく伝えた。彼こそは雪原の紳士というものじゃないか!?」
皆が笑って拍手をした。
と言っても、分厚いグローブをしているので、ふつうの拍手の音にはならない。
そのことに気づいて、宏隆もアルバも、一緒に笑った。
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第170回の掲載は、2月1日(月)の予定です
2015年12月15日
連載小説「龍の道」 第168回
第168回 BOOT CAMP (17)
応接室を出るとすぐに、ガラス張りの玄関ホールから、キャンベル曹長が早足でやってくるのが見えたので、
「パパ・・・・」
ヘレンが中佐の袖を引いて、それを知らせた。
「ん・・ははあ、あれが噂のキャンベル君か」
苦笑しながら歩いて行くと、曹長が7〜8歩手前のところで立ち止まり、姿勢をあらためて慇懃に陸軍式の敬礼をした。
「失礼ですが、ヴィルヌーヴ中佐でしょうか?!」
「いかにも─────────」
中佐も、それを受けて海軍式に答礼を返す。
敬礼は世界各国で行われているが、同じ国の軍隊でも、陸海空の各軍で各々スタイルが異なるのが普通である。
「自分は、当アラスカ大学予備役訓練過程の SMSI(上級戦術原理教官)、キャンベル曹長であります。急用ができ、ご挨拶に上がるのが遅くなり、大変失礼をいたしました!」
野太い、よく通る大きな声で礼儀を正す。
軍隊で最も大きな声を出せるのは、彼ら軍曹たちを措いて他に無い、とはよく言われることであるが、これが武術の道場なら、さしずめ師範代や指導員がそれに当たるだろう。何れも誰よりも大きな、腹から出る声でなくては示しがつかない。
「キャンベル曹長は、この予備役の訓練には無くてはならない存在だと聞いている。娘もお世話になっていることだし、先ずは父親として御礼を申し上げたい」
「身に余るお言葉をありがとうございます。ヘレンさんの父君でしたか、知らぬとは言え、ご息女には粗略があったかも知れません。ご無礼の段は何とぞご寛容くださいますように」
恭(うやうや)しく頭を下げたが、ふと、隣に居る宏隆を一瞥して、
「中佐は、そこのカトー君ともお知り合いですか?」
不思議そうな顔をして、そう訊ねる。
「いや、今日初めて会ったところだが、この大学切っての射撃の名手と聞いて、ぜひ親しく話をしてみたくなったのだ。娘の親しい友人でもあることだしね」
「・・そうでしたか」
「キャンベル曹長も、銃の腕は相当なものだと聞いている。どうかね、ひとつ今度、ここに居合わせている者たちで腕試しでもしてみないか?」
「恐れ入ります。しかし自分は、それほどの腕ではありません」
「ははは、ご謙遜だな。だが、その立ち方を見れば、腕のほども判ろうというものだよ」
「立ち方で、ですか?」
「そうだ。日本の禅や武士道では、その人の歩き方や座り方、果ては姓名を聞くだけでも、その人がどういう生活をし、考え方をしているかが分かる、と言われている」
「中佐は、日本文化にもお詳しいのですか?」
「いや、ただの聞きかじりだよ、ははは・・」
「恥ずかしながら、近ごろは全く射撃をしておりません。元々大した事がない腕も、とっくの昔に錆びついております」
「ほう、本当にそうかな───────?」
「は・・・?」
「長い期間、銃を撃っていない者は、肩や腕の辺りが一般人のように弛んで見えるものだ。キャンベル曹長は、まだ充分訓練を重ねている者の身体をしている。それに何より、近ごろ銃を撃った証拠に、硝煙の臭いがプンプンしているじゃないか」
「────と、とんでもありません、自分は・・」
「ははは、何をそんなに慌てているのだ──────冗談だよ、訓練教官なら年がら年中、硝煙の臭いに塗(まみ)れているのは当り前じゃないか」
「は・・・・」
突然、痛いところを衝かれて、キャンベル曹長は冷や汗をかいた。
ヴィルヌーヴ中佐が宏隆と一緒に居ることが、どうにも気になって仕方のないところへ、追い討ちをかけるように、そんなことを言われては心も乱れる。
この人までが自分のことに審(つまび)らかで、なおかつ疑っているとしたらと思うと、うかうか返答することもできないのである。
「それじゃ、あまり時間が無いから、私たちはこれで・・」
「お呼び止めして、失礼いたしました!」
改めて威儀を正し─────しかし少々ホッとしながら敬礼をしたが、
「ああ、そうそう・・・」
もう何歩も歩きかけていた中佐が、突然ふり返って、
「君が遅刻しているので、LTC Professor(中佐の教授)が怒っていたぞ。君の上司に当たる人だろう?、私に廊下で行き合って詫びておいたと言っておくといい」
言葉は親切だが、中佐の眼差しはジロリと射貫くように鋭い。
「イエッサー、恐れ入ります!」
キャンベル曹長は、いかにも恐縮した様子で再び敬礼をしたが、中佐たちの後ろ姿が玄関から外へ出るのを見届けると、詫びるべき上司が待つ応接室には目もくれずに通り過ぎて、学生寮へと向かう細い廊下を急ぎ足で歩いて行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「まったく、穏やかじゃないわね・・」
久しぶりに会った父親に、自分で丁寧に豆を挽いて淹れた珈琲を運ぶ。
「いったい、ヒロタカの周りで何が起こっているのかしら?、それについて、電話や無線じゃなく、パパから直接、もっと詳しく聞きたかったのよ」
そのヘレンの声には振り返らず、宏隆は窓の傍に立ってじっと外を観ている。
アラスカの原野は、まるでキャンパスに描いた風景画のように、窓の枠組みに収まって見える。宏隆はこんなふうに、だんだん秋が深まって、やがて冬を迎えようとしている景色が好きであった。
────────ここはアラスカ大学の構内にある、ヴィルヌーヴ中佐のために用意された来客用の部屋である。念のために予め盗聴器の有無までチェックした上で、ここなら誰にも気兼ねなく、何の心配もなく話ができると、ヘレンがこの会合に選んだのだ。
「ああ、色々と話はある。だがその前に、私も玄洋會の端くれとして、念のためパスワードを確認し合いたいが」
中佐が笑ってそう言う。
「そうでした、ルール・ナンバーワンですからね。では先ず、中佐からお願いします」
「幽遠也、黒而有赤色者為玄(Yōuyuǎn yě. Hēi er yǒu chise zhě wei xuan)」
「それじゃ僕からも─────象幽、而入覆之也(Xiang yōu, er ru fu zhī yě)」
以前にもアラスカ鉄道でヘレンと交わしたパスワードである。玄洋會では、後漢時代に書かれた中国最古の漢字の字典であり、聖典ともされている ”説文解字” の「玄」の字義を合い言葉のひとつに設定している。”説文” とは、文字の原義と成立を説くという意味である。
「ははは・・やっぱり中国語は娘の方が上手いな。では自己紹介をしておこう。私のコードネームは Redriver-3019、ジョセフ・ヴィルヌーヴだ。玄洋會の Cooperator(協力員)として、つまりは君の仲間として働いている者だ」
「Kurama-5523、加藤宏隆です。ヘレンから中佐のことを聞き、お目にかかれるのを楽しみにしていました」
「今回の事態について私の考えを告げる前に、まず本人のミスター・カトーがどう思っているかを聞いておきたいが」
「どうぞ、”ヒロタカ” とお呼び下さい、中佐─────」
「OK、玄洋會では君の方が立場が上だが、そうさせて貰おう。だがヒロタカ、君も教官たちや学生の居ない、こういうプライベートな席では、私に対して畏(かしこ)まる必要などない。結社の同志として、またヘレンの父親としての付き合いだ、何も遠慮はいらないよ」
「ありがとうございます」
爽やかで気持ちの良い人だな、と宏隆は思った。海軍の気質というものか、国は違えど、陳中尉や宗少尉にも共通する、独自のフィーリングが感じられるのだ。
それに、言葉に無駄がなく、常に相手に分かりやすく話をするので、かなり頭脳も明晰であることが分かる。現場でも相当に腕の立つ諜報員なのだろう。カナダ政府の公安部やCIAにも協力しているこの人を玄洋會がスカウトしたのは、至極尤もなことかも知れなかった。
「それで─────ヒロタカ自身はどう観ているのかな?、わざわざ日本からアラスカくんだりまで軍事訓練を受けに来たというのに、初っ端(しょっぱな)から巧妙な罠にかけられて拉致をされ、墜落事故の憂き目にあったり、訓練中に二度もライフルで撃たれたり、果ては冷たい滝壺に落とされたり、と・・」
「ほんとに、心配ばかりかけるんだから、もう・・」
ヘレンがちょっと怖い顔で溜め息をついた。
「コールドフットで拉致を仕組んだのも、訓練中に銃で撃たれたのも、いずれも北朝鮮がらみでした。やはり今回も考えられるのは、初めて台湾に渡航をした時からずっと続いている目的を同じくする路線─────つまり、僕を人質にして父を脅し、彼の地でさんざん洗脳をして向こう側のスパイに仕立て、Kill two birds with one stone(一石二鳥*)で父も味方に付けて資金提供をさせる、というオペレーション(作戦)の一環でしょうか」
(註*:よく誤解されるが、一石二鳥は元々17世紀の英国の諺で、四文字熟語はその訳語であり、漢籍の言葉ではない)
「そう思うのは尤もだけれど、パパはそう考えてはいないみたいよ」
「中佐は、敵は北朝鮮ではない、とお考えなのですか?」
「もしNK(北朝鮮)の仕業なら、回りくどくヒロタカをライフルで脅したりせず、麻酔銃で眠らせてそのまま拉致すれば良いだけの話だ。手っ取り早くそうしないのは、台湾の潜入工作員やフィリップが失敗したことに懲りているからではなく、おそらく北朝鮮とは異なる、まったく他の立場の人間が、他の目的で君に関わろうとしているからだと思える」
「ほかの人間、と言いますと・・?」
「それは今探っているところで、確証も無いのでまだ何とも言えないが、ヒロタカの父君も同時にターゲットにされているのは、まず間違いないと思う」
「父がターゲットに?・・それは僕のような、狙うべき標的になっている、と・・?」
「いや、そうではないと思う。君の父親、資産家である加藤光興(みつおき)氏の周りでは少し以前から、ビジネスの現場で何やら不可解な事ばかり起こり始めている。ちょうど田中角栄の ”日中国交正常化” 以来、徐々にその兆候が顕著になってきているようなのだ」
「田中角栄首相の訪中と日中共同声明、そして台湾との断交は、政治オンチだった高校2年生の僕にも少なからず衝撃的でしたが、それにも関わりがあるのでしょうか?」
「つまり、個人をどうしようという話ではなく、政治がらみ、経済がらみ、という事のようだね。これは日本の資産家を巻き込んだ計画であり、キャンベルたちはヒロタカを脅すことで、何かをアピールしているに過ぎないのだと思う」
「僕を危険な目に遭わせて、父を脅迫しようという魂胆でしょうか?」
「そんな単純なものではなく、もっと巨(おお)きな力が働いているに違いない。それも君の父親だけ、日本人だけというものではなく、世界的な規模で同じことが着々と進行しているような気がするのだ」
「日中国交正常化からと言うと、やはり中国が関わっているんですね?」
「それは確かだろうが、おそらく中国はその主犯格ではない─────」
「難しいですね、どういう事なんでしょうか?」
「もっと大きなチカラ、としか今は言いようがないが・・」
「うーん、まだ余りにも情報が少ないと言うわけですね」
「経済の問題よ、たぶん。国際的な経済システムの、ね・・」
「ヘレン、君はそれが何であるかが分かるのかい?」
「直感で、少しね。今でこそ、こんな迷彩の軍服に身を固めているけれど、本当は経済学を学びたかったの。そこらの経理業務なんかじゃなくて、世界経済の動きに興味があるのよ」
「世界経済?─────うわぁ、僕がまったくお手上げのジャンルだな・・」
「これからの時代のスパイは、経済が理解できないとまともな活躍が出来ないわよ」
「ははは、ボクはスパイじゃありませんし、スパイになる気もないからね」
「そう言うヘレンも、つい最近まで経済観念のカケラも無かったじゃないか」
「あら、そんなコトないわ、パパ。小さい頃の貯金箱だって開けずに取ってあるし!」
「それはご立派だね。僕なんか、いつでも開けられる貯金箱しか持ったことがない」
「ははは・・・」
「冗談はともかく、その国際的な経済問題と、この僕と何の関係があるんですか?」
「パパ、ヒロタカに、もう少し突っ込んだ説明をしてあげたらどう?」
「いや、今は余りにも不確定要素が多くて、私も混乱してしまうほどなのだ。ヒロタカには後日、情報を整理して詳しいことを説明するよ」
「わかりました・・僕の方も、今そんなことを言われてもサッパリですから」
「ただ、ひとつ言えるのは─────」
「ひとつ・・?」
「ヒロタカの身に起こっていることは、おそらく False Flag Operations だという事だけは確かだろうな」
「フォールス・フラッグ(偽の旗)?」
「そう、あたかも他の者によって行われているように見せかける、秘密オペレーションのことで、もとは自国の国旗の代わりに他国の国旗を掲げて敵を欺くという、軍の作戦に由来している。有事の軍事作戦に限らず、平時の工作員の活動でも多く用いられているものだ」
「あたかも、他の者によって・・・行われているように、見せかける・・・」
「そうだ、何か気がつかないか?」
「あっ・・ああっ・・・!!」
「どうやら、分かったかな─────」
「ぼくを狙うのは北朝鮮がらみだと・・そう僕に思わせたい、と?」
「そうだ、おそらくヒロタカや父君を狙う者たちは、それがまるでNKの仕業(しわざ)であると見せかけたいのだろう」
「それじゃ、ヤンやキャンベル曹長は、北朝鮮の命令で動いているのではなく・・」
「いや、敵を欺くには先ずは味方から、と言う。雇い主は朝鮮だと、彼らは思い込まされているに違いない」
「・・で、では、本当の雇い主は?・・そしてその狙いは?」
「少し時間が掛かるかも知れないが、それをこれから詳しく調査してみる。君のお父さんとも会って、いろいろと情報交換をしてみるつもりだ」
「では、その結果を待つことにします」
「それまでの間、変なライフル弾を喰らわないように、十分気を付けることだね」
「ありがとうございます、中佐も呉々も気をつけてください」
「そうだな、この敵はかなり手強いかもしれない・・君は、もし苦手なら、世界経済についてヘレンに少し教えて貰うといい」
「はい、そうする事にします」
「ただし、それは経済学ではない。君は武術の極みを目指すソルジャー(兵士)なのだから経済学を学ぶ必要はない。これから世界中に広がろうとしている経済理論の、その背景に隠されている政治思想や世界観を、きちんと認識することが必要なのだ」
「難しそうですが、経済学よりは、その方が自分に向いていそうですね。ヘレンはそのような事をすでに知っているわけですね?」
「少しだけね。私も勉強をし始めたところよ」
「それじゃ、一緒に勉強させてもらうかな・・」
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第169回の掲載は、1月15日(金)の予定です
2015年12月01日
連載小説「龍の道」 第167回
第167回 BOOT CAMP (16)
「そういえば───────」
美味しそうに飲んだ紅茶のカップを置きながら、宏隆がそう言った。
「十年ほど前に、”My Fair Lady” という映画がありましたが」
「オードリー・ヘプバーンの映画だね。もとはブロードウエイで2,700回に及ぶロングラン公演を果たした、ジュリー・アンドリュース主演の有名なミュージカルだった。映画の方はその後に作られ、アカデミー賞にもなったと思うが・・それがどうかしたかね?」
「さすがにブロードウエイには行けませんでしたが、あのお話で、下町の花売りの主人公を立派なレディに仕立てようとした教授の名前が、これと同じ ”ヒギンス” でした」
「そうか、そういえば、そんな名前だったかな─────」
もし直ぐに宏隆の言わんとすることを分かって貰えれば、話題がそのまま美味しい紅茶のお供にもなるのだろうが、キャンベル曹長には、どうもそれがピンと来ないらしい。
「その映画の舞台になったのは、18世紀以降にロンドン随一の高級住宅街となった Mayfair(メイフェア)でした。現在もアメリカ大使館や王立芸術院、大企業のオフィス、高級品店などが立ち並ぶ一等地です」
「私はロンドンには行ったことが無いが、君はなかなか英国にも詳しいんだね」
「映画では、ヘプバーンが演じる、下町のコックニー(cockney)訛り丸出しで喋っているイライザという花売りを、ヒギンス博士が友人のピカリング大佐に四ヶ月でレディにするという賭けをした事がきっかけで、彼女を自宅に住み込ませ、訛りの修正や、レディとしての礼儀作法の厳しい特訓を受けさせ、ついには貴婦人として社交界にデビューさせる、という面白いストーリーでした」
「そうそう、なかなか面白い話だったな─────」
「コックニー訛りの特徴は、いわゆるクイーンズ・イングリッシュとはまるで違っていて、エイをアイと言ったり、単語の ”h” を抜かして発音したりするわけで、ABCはアイビーシー、rain はライン、make はマイク、take はタイク、station はスタイシャン、today はトゥダイ、day はダイ、here はイア、have はアヴ、といった具合になるわけですが」
「イギリスの労働者階級の移民が多いオーストラリアも、そんな発音らしいね」
「映画のタイトルは ”My Fair Lady(わが麗しのレディ)” ですが、実は主人公のイライザが、その高級住宅街 ”メイフェア” をコックニー訛りで発音すると ”マイフェア” になる、という洒落でもあるわけです。ですから、映画のタイトルは、メイフェア・レディでも良かったかもしれませんね」
「なるほど、なかなか面白いな────────」
キャンベル曹長は、話題の内容が物足りなさそうな顔つきをしている。
無骨な軍人には、マイフェアレディの物語は少し退屈に過ぎるのかもしれない。
「お代わりはいかがですか?、横から失礼ですが、この紅茶の名も ”Mayfair” ですよ」
美しい秘書が、にっこりと微笑みながら、メイフェアをマイフェアと、わざと訛りながらお茶を注いでくれる。宏隆もそれを聞いて笑みを零(こぼ)した。この女性も、ヘレンと同じフランス系カナダ人の顔だ。
「ヒギンスが、そのメイフェアに店を構えているからですよね」
「まあ、カトーさんは、色々とよくご存知ですね!」
「この秘書のスーザンは、なかなかの食通でね。イギリスからヒギンスを取り寄せてくれたのも彼女なんだよ」
「I am sorry to interupt you, sir.(横から口を出して申し訳ありません、曹長)」
「なに、構わんさ。食通どうし、カトー君とスーザンは話が合いそうだ───────
そう言えば、あの有名な ”London Bridge(ロンドン橋)” の歌でも、歌詞の最後には、必ず ”My Fair Lady” というのが付いていたな・・」
あまり話に興味の無さそうだったキャンベル曹長も、自分の秘書が宏隆の知識に感心するのを見て、ようやく話題に乗ってきた。
「マザーグースは不思議な歌ばかりですが、このコックニーにも、古くからその町の人たちにだけしか判らない *Cokney Rhyming Slang という、シークレットランゲージ(隠語)のような言い回しがありますね」
(*註:Rhyming=ライミングとは韻を踏むこと。honey と money のように強勢のある母音以下の音が同一でそれ以前の子音とは異なっている。Slang は特定の社会、階層、仲間だけに通じる語句、俗語のこと)
「ほう、それは一体どんなものだね?」
「例を挙げますと、露天商の物売りたちが、ちょっと法に触れるような物を売っている時や対抗勢力をやり過ごしたりする時などに、その地区の者同士で、ひどい訛りの言葉を、さらに暗号のように使うのです」
「たとえば─────?」
「Money(お金)と言ったら Bees and Honey(蜂と蜂蜜)、つまりボスが出席する正式な集会の意味です。 Stairs(階段)は Apple and Pears(リンゴとナシ)で、計画や仲間との関係が上手く行かないことを表します。Sick(病気)と表現したら、Bobby and Dick(警官と刑事の俗語)のこと。Boil(ゆでる)は Conan Doyle(シャーロック・ホームズの作者)で、つまり誰かが探索にやって来たという意味になります」
「ほう・・そいつは面白そうだね。だが、Bees と Honey で、どうしてボスが出席をする会合という意味になるのかね?」
「Honey はもちろん ”愛する人” を表す言葉ですが、他にも、媚びる、取り入る、などという意味合いもあるので、それがボスを表すのでしょう。Bees は女王蜂の下で働くミツバチの事ですから子分という意味、そこからボスのもとに集まるとか、仕事の寄り合いを行う、などという意味が生まれたようです─────」
「ほう・・しかし君はよくそんな事まで知っているな。まだ他にもあるのかね?」
「Phone(電話)は Dog and Bone(犬と骨)、つまり面倒な奴とその子分を表します」
「ははは、なるほどね、それは分かりやすい!」
曹長が膝を叩いて笑った。
「もっと面白いのは Boots(ブーツ)で、それは Daisy Roots(デイジーの根っこ)を表しています」
「ほう、それにはどんな意味があるのかな?」
興味津々で、身を乗り出したが、
「デイジー(ヒナギク)には色々な意味があるのですが、英語に pushing up the daisies(肥やしになってヒナギクを押し上げる=死んで土に葬られる)という熟語があるように、自分を殺しに来た者、誰かに狙われて殺されそうな危険な状況─────というような、死の不吉さを英国的に表現したものだそうです」
「・・・・・・」
誰かに狙われて、殺されそうな危険な状況────────そう宏隆が言った時に、キャンベル曹長の目がギラリと輝いた。
「君は実によく物事を観ている・・すでに、何でもよく知っているようだな」
あらためてソファに深々と座りなおすと、静かな声でそう言い放った。
自分が宏隆を狙って撃ったという事を、やはり既にお前は知っているんだな、と確認するかのように、宏隆の眼を凝視している。だが宏隆も負けてはいない。
「いえ、自分の勉強が足りず、いずれもアウトラインばかりで、まだ解らないことだらけです。確かにここは Boot Camp ではありますが」
「む・・・・」
思わず、キャンベル曹長は、口をへの字に曲げた。
無論、「アウトラインばかりで」というのは、自分に対して誰が何をしているのか、その概要程度なら既に分かっている、という表明である。
また、ブートキャンプの Boot は、日々兵士たちが履く軍靴そのものを意味しているが、自分をライフルで狙った曹長に対し、たった今話題にしたその「Boot(ブーツ)=誰かに狙われて殺されそうな状況」に「Boot Camp=死の不吉さが感じられる訓練キャンプ」を掛けて・・さらに、ヤンに狙撃場所には二つのサイズのブーツの跡があったと告げたことにも掛けて、曹長に向けて明らかに挑戦とも受け取れるような言葉を投げかけたのである。
相手にしてみれば随分と小癪(こしゃく)な言い方であるが、ここでそれを咎めるわけにも行かず、複雑にならざるを得ない表情を、宏隆に気取られまいとするのが精一杯である。
だが宏隆は、むしろ曹長の顔色が変わるのを期待するかのように、一瞬も目を離さず、次に発せられる言葉を待っている。
「わははははは・・・・!!」
突然、大きな声で曹長が笑い始めた。
「カトー君、きみは非常に優れたユーモアのセンスを持ち合わせているようだね。年齢に似合わず、驚くほど多くの知識も持っているし、度胸も、それを裏打ちする実力もある・・・日本には ”skilled in both scholarship and military arts”(文武両道)という言葉があるそうだが、まさにその類いだな」
敵も然(さ)る者、何と言っても軍曹の中で最上位という立場の人である。やはり、まだ若い学生に過ぎない宏隆の挑発などには、そう易々と乗せられはしない。
「Thank you for the praise. I will do my best to respond to the praise.(お褒め頂き、ありがとうございます。それに恥じないよう努力します)」
褒められた宏隆は、姿勢をあらためて丁寧に御礼を言った。
因みに、日本人なら、目上の人に褒められれば「とんでもありません」とか「恐縮です」などと、否定的な表現で謙遜し通すのが普通だが、英語では決してそう表現はしない。
たとえば、自分の子供を「素晴らしいお子さんですね」と他人に褒められたような場合、日本人はつい「とんでもありません、出来が悪くて・・」などと言ってしまう。だが欧米社会でそんな事を真顔で言えば、子供を嫌っている親に見られたり、大きな誤解を生んでしまうことになる。
英語はもともと、日本語のように繊細で深い意味合いを持つ言語ではない。彼らの表現は先ずはストレートに自分の言いたいことを言い合うことが基本で、褒められたら素直にそれを受けて謝意を表し、もし内容に自信がなければ、褒められたことに恥じないよう頑張る、という意思表明が必要となるのである。
それを機(しお)に、宏隆は席を立った。
ここでこれ以上話をしていても、何の情報も得られそうもないと思えたからである。
「美味しい紅茶を、ありがとうございました」
「今日はよく来てくれたね、またいつでも気が向いた時に寄ってくれ。そうだ、今度はヒギンスの珈琲を楽しもうじゃないか。実はスーザンは、紅茶よりも珈琲を淹れる方が得意なんだよ」
「それはとても楽しみですね。それでは失礼します────────」
教官の執務棟から一歩外へ出ると、すぐにヘレンが駆け寄って来た。
「ヒロタカ─────よかった、無事だったのね!」
「大丈夫だよ。いくら何でも、美人の秘書の前でボクを撃ったりはしないさ」
「まあ、美人の秘書に見惚れるような余裕があったってワケね、私が寒空の下でハラハラしながら待っていたというのに!!」
「いや、美味しい紅茶のおかげで、美しく見えたのかも知れない」
「まあいいわ・・冗談はともかく、話の内容はどうだったの?」
「狙って撃ったのは曹長だという事を、すでに僕は知っていると、ほのめかしてやった」
「そ、それで・・・相手は?」
「少し慌てていたが、結局は笑い飛ばされたよ。流石は百戦錬磨のサージャント、したたかなものだ」
「これから、どうするつもりなの?」
「向こうの組織も、目的も、何も分からない。これじゃ、為されるが儘でいるしかないから、とりあえず作戦会議だな」
「それじゃ、協力者を呼んで、じっくり作戦を練りましょう」
「協力者って・・?」
「実は、こうなると思って、もう呼んであるの。明日、父がここに来るのよ」
「君のお父さん?・・初対面のときにアラスカ鉄道の車中で、近々ぼくと会うことになる、って言っていたけれど」
「そういうコトね─────」
ヘレンの父親は、台湾海軍で戦術指導をしていたアメリカ海軍の中佐で、現在はCIAに引き抜かれて情報収集の仕事を依頼されている。また、カナダ国籍を取ってRoyal Canadian Mounted Police(王立カナダ騎馬警察)の公安部(カナダ安全情報局の前身)でも仕事をしているが、つい近年に台湾国防部情報局の依頼で、玄洋會北米支局の協力員となった。
(註:龍の道 第134回・ALASKA #3参照)
「君のお父さんは確か、主に*TRIAD(トライアド)の監視を続けていると言っていたね。アメリカやカナダの中国人がらみの犯罪や陰謀は、ほとんど彼らの仕業だ、と・・」
「今回の問題がトライアドと関係しているかどうかは分からないわ。この際、じっくり父と相談してみることね」
(*註:TRIAD=トライアドとは、中国の黒社会を代表する秘密結社。世界中に巨大なネットワークを誇る国際的な犯罪組織 ”三合会” のこと。龍の道 第134回・ALASKA #3参照)
翌日の午後、ヘレンの父親が待つ、アラスカ大学の玄関奧にある応接室へ事務員に案内されたが、用意された場があまりにも想像と違っていたので、宏隆はとても驚いた。
伝統の重さを感じさせるようなその部屋には、重厚なソファとテーブルを囲んで、アラスカ大学フェアバンクス校の学長や、ROTC(予備役将校訓練課程)の教授たちなどがズラリと並んで、三つ揃いを着た学長以外は皆、きちんと軍装を着用して座っていた。
訓練用の迷彩服であるBDU姿の宏隆は、部屋に入った途端に急いで脱帽して姿勢を正し、敬礼をした。一緒に入って来たヘレンも、もちろん宏隆と共に直立不動で敬礼をする。
一体どうなっているんだ・・と宏隆は思った。まるで、来る部屋を間違えたような気分である。ヘレンはただ、父親が昼過ぎに待っているので中央棟の応接室に行きましょうと言っただけで、それ以外に何の説明もなかったのだ。
「やあ、ちょうど良い、カトー君も一緒に来てくれたね─────」
そう言ったのは、この大学の学長である。入学のときに父の寄付について延々と感謝を述べられて閉口した相手だったが、その隣には海軍のドレスブルー(夏を除く3シーズンに着用する通常勤務服)を着て座っている人が居る。このROTCは陸軍の管轄なので、海軍のネイビーブルーの制服を目にすることは非常に珍しいと言って良い。
「イエッサー!」
「こちらはアメリカ海軍の Commander Villeneuve(ヴィルヌーヴ中佐)だ。激務の合間を縫って、*Norfolk(ノーフォーク)からご息女のヘレンさんに会いにアラスカまで訪ねて来られたのだ。ヘレンさんから君の噂を聞かれているとかで、よく知られたライフルの名手でもある中佐は、射撃訓練で常に好成績を出している君にもぜひ会いたいと言っておられるのだ。もっとも、ヘレンさんとは、すでに知り合いのようだが・・・」
(*註:ノーフォーク海軍基地。バージニア州にある世界最大の海軍基地)
宏隆は、ようやくヘレンに驚かされた事を理解し、横に立っているヘレンをジロリと睨みつけた。ヘレンはケロリとして ”為(し)て遣ったり” という顔をしている。
そのヴィルヌーヴ中佐が席を立って宏隆の前までやって来た。
「ヒロタカ、こちらが父の Joseph Villeneuve(ジョセフ・ヴィルヌーヴ)よ」
胸に数々の略章(勲章と同形同色の小型略式の勲章)を付け、両袖には中佐の階級を示す三本の太い金線が付けられている。
「I am Hirotaka Kato. It is an honor to meet you, sir.(ヒロタカ・カトーです、お目にかかれて光栄です)」
宏隆は姿勢を正し直して、敬礼をした。
「・・やあ、いつもヘレンがお世話になっているようで、感謝しているよ」
気さくに握手の手を差し伸べてきて、そう言う。
「いえ、反対に私の方がいろいろとお世話になっております」
訓練中の学生兵士が、海軍中佐に握手を求められる事など、まず有り得ないので、さすがの宏隆も緊張せざるを得ない。
中佐というのは、たとえば宗少尉の上が陳中尉の階級であるが、さらにその上には大尉、少佐と続き、少佐の上が中佐、そして大佐となり、その上には最上級である将官の少将や、中将、大将、そして元帥があるだけで、中佐というのは、あのキャンベル曹長の階級から比べると十数階級も上になる。
UAF(アラスカ大学フェアバンクス校)のROTC(予備役将校訓練課程)の教授陣でも、最上級は LTC(Lieutenant Colonel=中佐。海軍のコマンダーとは呼び方が違う)で、しかもその LTC Professor of Military Science(中佐 / 戦術原理・軍事行動教授)は1名しかいない。その下は CPT(Captain=大尉)の教授が2名、次は MSG(曹長)となる。
キャンベル曹長には階級以外にも、SMSI(Senior Military Science Instructor=上級戦術原理教官)という指導者の肩書きがある。Instructor(教官)は、Professor(教授)や Assistant Professor(助教授)の下に位置しており、Senior はその上級職を意味している。
「キャンベルはどうした?、ここに来いと言っておいたのだが─────」
その、大学にたった一人しか居ない LTC Professor of Military Science(中佐・戦術原理 / 軍事行動教授)が、少し怒ったような顔をして言った。
「お呼びして参りましょうか・・」
部屋の隅に控えていた事務職員が、恐る恐るそう言う。
「そうしてくれ。まったく、中佐に失礼じゃないか・・!」
「ああ、私は構いませんよ。どうぞお気になさらず──────それより、あまり時間も無く、よろしければ娘と話をしたいので、外に出たいのですが」
「どうぞどうぞ・・ご挨拶に間に合わなかったキャンベル曹長は、よく叱っておきます」
「それでは────────カトー君も来て、話をしてくれるかな?」
「イエッサー!、ご一緒させて頂きます」
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第168回の掲載は、12月15日(火)の予定です
2015年11月15日
連載小説「龍の道」 第166回
第166回 BOOT CAMP (15)
「ヘイ、リーダー!、教官がお前を呼んでるぜ!」
図書館から出てきたばかりの宏隆に、トーマスが声をかけた。
同じチームとして行軍訓練に行った、背の高い、あの ”疑い深い” トーマスである。
「教官って、どの・・?」
「MSG(Master Sergeant=曹長)の Campbell(キャンベル)だよ、キミに会ったら部屋に来るように言え、って」
「そうか、もう呼び出しが来たか─────」
「鬼教官どもを取り仕切ってる、お偉い曹長なんかに呼び出されて・・何かマズイことでもやったのか?」
「いや、案外、褒められるのかもしれないけどね」
「Ha ha・・Good luck with that!(あはは、それじゃ、頑張れよ!)」
「Thanks ─────!」
近々必ず、向こうから探りを入れて来るはずだとは思っていたが、こんなに早くそうなるとは以外だった。だが、昨夜闇に紛れてヤンの部屋を偵察をしたことまでは、おそらく知られていないはずだ。
それに、構内放送で呼び出せば済むことなのに、わざわざトーマスに呼び出しを命じた事にも、何やら不自然さが感じられる。恐らく他の教官にそれを知られたくないのかもしれないが、もしトーマスが自分と会えなかったらどうするのか。
あるいは、すでに自分が今どこに居るかを把握していて、近くに居たトーマスを使いに遣らせたのかもしれない。トーマスは大学の広い構内の、他の施設とは離れた所にある図書館に自分を呼びに来たのである。
向こうがどのような組織かも、その目的も分からないが、その位のことはやってのける連中だろうと思える。
教官の部屋へ向かいながら、ヘレンに知らせるためにペイジャー(Pager)を鳴らす。
ペイジャーとは、いわゆるポケベル(ポケットベル)のことで、電波で小型受信機にメッセージを送る通信器機であり、Beeper(ビーパー:ビーッと呼出し音が鳴る物の意)とも呼ばれる。
ポケベルはこの時代にあっては大発明で、アメリカでは1958年から初期のサービスが開始されたが、当初は電話交換手に呼出番号を伝えるという程度のものであった。
日本では60年代から90年代まで大いに活躍をした。'93年には「ポケベルが鳴らなくて」というドラマや歌まで流行したほどである。
スマートフォン全盛の現在でも、ポケベルはその信頼性や低コストが大きな利点となる医療現場や鉄道事業など、今なお世界中で使われ続けている。
「さっそくコレが役に立つな、台湾じゃ ”BB-CALL” って言うけれど・・」
ヘレンは、宏隆がついに行軍中に狙撃されたという事態を重く見て、昨夜別れ際にこのペイジャーを宏隆に渡した。同じ大学の構内に居る時でも、緊急時にお互いにどこに居るかを探し合っていては話にならない。訓練中や授業中に無線機を持つわけにも行かないので、何かあった時にはこれですぐ連絡を取り合おうと言うわけである。
─────と言っても、昨今の携帯電話のメイルのようなわけには行かない。今では信じられない事だが、ポケベル通信の黎明期には呼び出し音を鳴らしたり、電話番号を表示するだけのシステムだったので、相手に送れる情報は ”数字” しか無かったのである。
だから Pager Codes(ペイジャーコード)というものがあって、早い話が暗号で送信するわけである。例えば 00=See you later、11=I miss you、36=Meeting、99=Night, night などという専用のコードを用意し、送信相手もナンバーで区別し、割り当てる。
日本では数字の語呂合わせでメッセージを送ることが、女子高生を中心に大流行した。
たとえば、オヤスミは 0833、お仕事は 04510、ごめんなさいは 500731、遅れるは 0906 などとなる。
英語は数字で語呂合わせというわけには行かないが、上記の例のように See you later の ”00” は、まるで眼で見ているような形だし、Meetingの ”36” は、3がM、6がGを表しているようにも見え、工夫がみられる。よく使われた 99=Night, night などは、オヤスミの聞こえ方そのままであり、07734 は、それを180度ひっくり返すと hELLO(ハロー)と読めるなど、なかなか凝っていて面白い。
やがてポケベルの機能が向上すると多機能化が行われ、入力した数字を平仮名、英語、記号に変換して表示できるようになった。
「えーっと、I'm going to see the MSG・・でいいかな。コードだと面倒くさいね、やっぱりトランシーバーの方が楽で良かったかな」
宏隆が使っているものは初期型なので、数字コードでしか送信できない。その暗号コード表もペイジャーと一緒にヘレンから渡され、記憶したら処分するように言われていた。
「呼び出されたの?」
─────すぐに返事がかえってくる。
「そういうコト」
「大丈夫かな?」
「There is nothing for it. What will be, will be.(仕方ないね、なるようになるさ)」
「充分気をつけて、私は中庭で待機します」
「Roger─────(了解)」
曹長の部屋に行くと言っても、もちろん教官が寝起きする、学生たちにヴィラ(Villa=郊外や田舎の邸宅・別荘)と呼ばれる宿舎ではなく、執務棟にある曹長室のことである。
真鍮製の名札に、MSG・CAMPBELL と刻まれた重厚なドアをノックをすると、すぐに秘書の女性が出てきた。
「カトーです。キャンベル曹長がご用があるとのことで参りました」
「はい、曹長は中でお待ちです、どうぞお入りください」
秘書が言い終わらないうちに、奧のドアが開いて曹長が出てきた。
「やあ、カトー君だね、よく来てくれた・・」
「サージャント(軍曹)!」
姿勢を正して、直立不動で言葉を発する。
「トーマスから聞いて参上しました。何か自分にご用でしょうか?」
兵士としてはまだ二等兵にさえ届かない、見習い兵士の立場である宏隆から見れば、相手は7〜8階級も上に位置する下士官であり、普段訓練で宏隆たちを扱(しご)いている鬼教官たちから見ても1〜3階級は上なのである。
因みに、曹長以下、一等から三等までの軍曹への敬称は、階級の区別なく全て Sergeant(軍曹)と呼ばれる。
「まあ、先ずは入ってくれ・・楽にして良いから、そこに掛けなさい」
「サンキュー、サー!」
言われるとおりに、指差されたソファに腰掛ける。
教官の職務室に入るのは初めてだが、中は広く、執務をする為の立派なデスクと、応接用の重厚な革張りのソファーがあり、壁際にはたくさんの表彰盾や写真の額が飾られた木製のサイドボード、壁には雪を戴いたデナリの大きな油絵が掛かっている。デスクの後ろの窓の外にはアラスカの原野と空がどこまでも広がっている。
さすがにアラスカ大学に軍事教練として赴任する下士官の部屋だけあって、良い部屋である。決して豪華ではないが、軍人らしくきちんと整い、凛としたものが感じられる。
「体は、もう何ともないのかね?─────行軍訓練で滝に落ちたと聞いたので、他の教官たちも随分心配していたんだが」
「ご心配をおかけしました。渡河をする河床の具合を探っていたのですが、濃霧で滝口がよく分からず、気になって滝壺を覗き込んでいたところ、折からの雨でうっかり足を滑らせてしまいました─────幸い、体は打ち身があっただけで、もう何ともありません」
うっかり足を滑らせた、と告げた時に、曹長の顔色が少しだけ変った。そうでないという事は本人が一番よく知っている。だが、それを隠すように、すぐにまた元の表情に戻った。曹長はまだ、宏隆が自分を狙撃した人物を特定できていないと思っているらしい。
「・・そうか、それは良かったな。後遺症が出ないように、よく休んでくれたまえ」
「ありがとうございます」
「ところで─────」
「はい、何でしょうか?」
「先日の射撃訓練の際には、危ない目に遭わせてしまって、大変申し訳なかった」
「ライフルの不具合による、ジャミング(弾丸詰まり)の所為だと聞きましたが」
「そのとおりだ。射撃の後で第五班の学生がジャミングしたと言うので、教官が確認していたのだが、珍しくなかなか詰まりが抜けないので、色々といじっていると、何かの拍子に暴発してしまったらしい」
「ちょうど、ターゲットを確認していた自分の足許に銃弾が飛んできました」
「私たちの監督不足、管理不足だった。遅くなってしまったが、この私からも謝罪を述べさせて貰いたい。大変申しわけなかった─────」
「いえ、もう過ぎたことですし、誰も怪我をしなかったのですから」
「そう言ってくれると少しホッとするよ。何しろ君のお父上は、このUAF(アラスカ大学フェアバンクス校)に多額の寄付をして下さっている貢献者ということだ─────
つい最近、総長からその事を知らされたばかりだが、そんな君に事故で怪我をさせたりしたら、私なんぞは即刻クビになってしまうかもしれないよ、ははは・・」
そう言って鷹揚に笑うキャンベル曹長は、もしここに第三者が居れば、とても宏隆をライフルで狙っていた人間とは思えないはずだ。宏隆は昨夜もこの人から暗視スコープ付きのライフルを向けられたばかりなので、相槌を打って笑う顔も強張りそうになる。
もし自分があの時に撃たれていたら、曹長はその事態をどう釈明するのだろうか。動物が居たので撃ったと言うのだろうか、それともヤンが撃ったことにしてしまうのか・・・
「アラスカ大学の地球物理研究所には、日本の政府も資金援助をしていると聞いています。父は政府の仕事も少しばかり請け負っているようですから、その関係で寄付をさせて頂いているのだと思います」
「そのようだね。それに、君の家は日本でも最も歴史が古く、古来から直接間接に日本文化を担ってきたノーブル(noble=高貴)な家柄だそうだが─────」
「血液的にはそうらしいですが、現在は普通の市民に過ぎません。それに、自分はそのようなものから逸脱した、高貴さなどにはほど遠い ”good-for-nothing(出来損い)” であると自覚しています。もともと家に居着かない風来坊タイプですし、実際に兄などからは、お前は出来損ないだとよく言われました」
「ははは、若さに似合わず謙虚だな。だがエジソンもアインシュタインも、学校では劣等生だったという。”出来損ない” には天才的な資質を持った人が多いのかもしれない」
「恐れ入ります」
「そうだ、何か飲むかね?、ここには美味い珈琲も紅茶もあるが」
「ありがとうございます、それでは紅茶を戴きます」
「このオフィスに用意してある珈琲と紅茶はイギリスのヒギンス製だ。君は口が肥えているだろうから、気に入ってくれると良いが─────」
「近年、エディンバラ公(エリザベス女王の夫)からの御用依頼で、Royal Warrant(ロイヤルワラント=王室御用達)の栄誉を間もなく授かると噂されているヒギンスですね。
ロンドンの看板には ”H.R.Higgins Coffee-man Ltd.” とあるので、てっきり珈琲専門かと思っていましたが、紅茶も扱うのですか?」
「現時点ではまだ紅茶は大っぴらに売られていないが、二代目を継いだ息子が密かに研究を続けている。ここにあるのはその試作品だ。向こうに知人が居るので、特別に送ってきてくれたんだよ」
「それは楽しみです」
─────曹長が秘書を呼んで、紅茶を淹れるように命じた。
「しかし、さすがに詳しいな。ヒギンスを知っているアジア人など珍しい。ここの教官たちや大学の総長でさえ、誰もその名を知らないのだから・・君は西洋の姓氏にも造詣が深いらしいな」
「誰からそんなことを聞かれたのですか?」
「いや・・誰だったか、何処かでそんな事を小耳に挟んだ─────」
気軽に飲み物の話をしていて、つい口が滑ったのだろう。キャンベル曹長は慌てて言葉を濁し、秘書が出て行ったばかりのドアを気忙しそうに見回した。
「曹長、お伺いしたいことが有るのですが、よろしいでしょうか?」
「おお、遠慮なく─────何なりと訊きたまえ」
「あのとき、ライフルの暴発事故を起こした学生は、何という名前でしょうか?」
「・・・君の居たところからは、姿が見えなかったのかね?」
「かなり距離があったので、顔まではハッキリと判りません」
「そばに居た教官の顔も、か・・?」
「はい、同じ距離ですから、教官の顔までは判りませんでした」
「そうか─────しかし、本人の名前を聞いてどうする?、まさか今さら文句を言いに行くと言うのでは無いだろうな」
「そうではありません。本人が気にしてはいけないと思い、自分から話をしてみようと思っただけです」
「それなら良いが─────彼は第五班に所属する、Michael Jung(マイケル・ヤン)という学生だ」
「ああ、ヤンですか・・」
「すでに顔見知りだったかな?」
「いいえ、行軍訓練で滝に落ちてしまった自分をチームが捜索してくれていた時に、根掘り葉掘り、僕のことについていろいろと訊ねてきた、というので─────」
「ふむ、君はROTC(予備役将校訓練課程)では成績優秀な有名人だからな。他の学生たちが興味を持つのも無理はない」
「失礼ですが、曹長は─────」
「・・何かね?」
「曹長ご自身は、行軍訓練の際は、コース内で視察されて居られましたか?」
「ああ、仕事だからね。それがどうかしたかな─────?」
思い掛けずそう訊かれてギクリとしたが、さすがに顔には出さない。
「いえ・・ただ、行軍中にどこかでお見かけしたような気がして」
「君のチームがどの辺りに位置していたかは分からないが、私はほとんど三班と共に居た」
「三班というと、五班のすぐ前でしたね」
「─────そうなるのかな?」
「そうです、マイケル・ヤンがいる第五班の、すぐ前方です」
「────────────」
露骨に際どい話題で突(つつ)いてくるので、曹長は嫌な顔をしたが、宏隆は間髪を入れず、なおも話を続けてゆく。
キャンベル曹長のカーキ色の軍服の肩に付けられた階級章は、上に尖った山形が三本、下にも三本の弧がデザインされた威厳のあるものであり、新兵はそれを見ただけでも、畏れ多くて会話も出来ないのが普通である。
二等兵(Private, PVT)の扱いになる宏隆は、下士官の下である兵卒の最下位に当たり、階級章さえ与えられない。これが一等兵(Private, PV2)になると初めて一本の山形を与えられる。上等兵(Private First Class, PFC)になると、その山形の下に一本の弧が付けられる。
兵卒の上は下士官で、伍長(Corporal, CPL)、三等軍曹(Sergeant, SGT)、二等軍曹(Staff Sergeant, SSG)、一等軍曹(Sergeant First Class, SFC)、そして曹長(Master Sergeant, MSG)と階級が上がって行く。
因みに、英語で兵卒のことを Private(プライベート)と呼ぶのは、かつての封建時代に領主が ”私的に” 兵を集めていたことの名残りである。ノルマンディー上陸作戦を舞台にしたスピルバーグの「Saving Private Ryan(邦題:プライベートライアン)」という映画は、直訳すれば「ライアン一等兵の救出」となる。
「曹長は、かなりの銃の腕前であると伺っていますが?」
「ははは、誰から聞いたのか・・私はそれほどの腕ではないよ」
「特にライフルでは、かつて右に出るものが居なかったと・・」
「いやいや、君こそ、このアラスカ大学始まって以来の、天才シューターだと噂されているじゃないか。私など大したことはないよ、それに現役を退いてからはロクに射撃訓練もしていないしね」
「いえ、ご謙遜でしょう─────最近は、ライフルで射撃をされましたか?」
「いや・・ライフルは、近ごろずっと撃っていない」
ふたたび曹長の顔が曇った。
「お待たせいたしました────────」
秘書がティーポットとカップをテーブルに並べ、鮮やかな色の紅茶を注いだ。
「そのヒギンスのお茶だ、ぜひ君にも試してもらいたい」
「うーん、これは素晴らしい香りですね。まるで荒涼としたアラスカの大地に、鮮やかな花が咲き乱れているような・・」
ティーカップを手にした宏隆が、眼を細めてそう呟(つぶや)いた。
曹長はカップに満たされた液体を、ただ無言で見つめている。
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第167回の掲載は、12月1日(火)の予定です