*#61〜#70

2016年06月26日

練拳Diary #70「武術的な強さとは その14」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私たちのブログは、ともすれば精神論が多いと感じられる方もいるかもしれません。

 なぜ、もっと武術の核心である戦いの技術について書いてくれないのか。
 なぜスープカレーやシーカヤックの話でお茶を濁すのだろうか、と。

 もちろんお茶を濁すつもりなど毛頭なく、むしろ日頃から道場で指導されていることは、「太極拳の修得は、道場以外での普段の生活に掛かっている」ということであり、それを厳しく言われている私たちにとっては、普段どのような意識を以て生活に臨み、自分を鍛えていくべきかということは、非常に重要なことなのです。
 なぜなら、高度な武術は精神的に成熟していかなければ修得できず、自分の精神性は道場に居る限られた時間ではなく、普段の生活でこそ養われるからに他なりません。

 それはきっと、他のどのような芸術の分野であっても同じはずで、何であれ高度なものを理解し修得するには、ちっぽけな自分を捨てて“それそのもの”になる必要があります。

 自分の実力に太極拳の魅力を付加したい。
 鍛えた逞しい身体とフットワークがあるから、後は強烈な発勁ができれば言うこと無し。

 そのような夢を胸に太極武藝館の門を叩いた人も居ましたが、それこそそんな夢のような話は、逆立ちしたって叶わないのです。
 今までやってきたこと、自分の考え方、そして日常的な発想さえも否定して、ようやく垣間見ることの出来る世界。
 稽古で突きつけられるのは太極拳の難しさではなく、凝り固まったどうしようもない自分のアタマです。

 「やり方」を追えばそんなものは無いと言われ、「在り方」を求めてもなってないと言われる。そんな稽古にかじりつき、己の無力さに打ちのめされては、またかじりつく。
 ただひたすらに、本物の武術を希求する自分の信念だけを信じて立ち上がり続けた人だけが、武術とは何か、太極拳とは何かを理解することができるのです。

 そのための一助になれば、という思いで記事を書いているわけですから、当然、護身術的な攻防テクニックや戦闘技術など、軽々しく書けるはずもないのです。

 もちろん、正直に言えば、太極拳の戦闘技術を知られたくないという思いもあります。
 それは、昔から一門派が集まって練習をするときには、他門派に盗み見されないように様々な工夫をしていたことと同じです。
 知られれば、それを元に対抗策を研究されます。どれほど隠して動こうとも、その人が長年練ってきた拳は身体に現れてしまうもので、戦いの原理法則が見破られる可能性が出てきます。一門、一家、一国を守る立場にある武術家にとって、それほど恐ろしいことはないのです。

 ただ、ひとつ言えることは、私たちの戦闘方法は運動ではないということです。
 運動とは、相手よりも速く、強く、大きな力を巧みに出すための動きです。
 そのために筋トレを行い、走り込みをして、サンドバッグを打つ。それはそれで何の問題もありませんが、そこに緻密で繊細な術理は存在しません。

 格闘技と武術の一番の違いは、術理の有無だと言えます。
 そして太極拳の戦闘術理は科学的に理論が組み立てられているもので、たとえばその術理の一端を教授され、僅かに2時間ほどの実践を重ねれば、子どもから老人に至るまで誰でも運動と術理の違いを理解することができます。

 例えば、相手の攻撃に対するこちらのアプローチは、攻撃が当たらない位置に移動することでもなく、攻撃を手で払いながら反撃することでもありません。
 まず、相手の攻撃はどのようなもので、それによってこちらがどのような影響を受けるのか、じっくり勉強していきます。それは同時に、自分から相手への攻撃が実際にどのように伝わり、どうしたら有効になるのかを知ることにもなります。

 つまり、そこには言葉で説明できないことや、科学的根拠のないあやふやなことは一切存在しないのです。誰でも見て、聞いて、理解することができます。ただし、指導された通りのことをそのまま受け取って実践できる素直な気持ちがないとできません。

 師父はいつも、『太極拳は決して難しいものではない。できないのは、君たちのアタマが邪魔をしているからだ』と仰います。
 自分の考え方を挟まないこと。ただそれだけのことの、なんと難しいことでしょうか。
 子どもから老人まで、逞しい筋肉や大きな体がなくても戦えるその素晴らしい戦闘術理が取れるか否かは、やはり自分の精神性と意識の高さに懸かっているのです。


 さあ、それでは以上のことを踏まえた上で、「散手」について述べていきましょう。
 なぜいきなり散手なのかと言えば、散手こそが武術を学ぶ人なら誰もが手に入れたいと思っている「戦い方」を知るための鍵に他ならないからです。

 先ず一点、断っておかなければならないのは、本当の太極拳の戦い方というものは、これ迄に一切公開されたことがないということです。それは、私たち太極武藝館の門人でもそう易々と見られるものではなく、稽古で行われている散手は、あくまでも太極拳の戦い方を理解するための稽古方法のひとつでしかないのです。

 その散手には、普通どのようなイメージが持たれているのでしょうか。
 小館ホームページ内の「動画集」にある「太極拳の勁法」には、散手の一部が紹介されていますが、かつて師父の散手を実際に見た門外の方には、“「気」も使っているのですか?”と聞かれたことがあります。つまり、そう思えるほど力と力のぶつかり合いがなく、相手の攻撃は無効にされ、足を掛けていないのに身体は宙を舞い、師父の手足はさほど速く動いているように思えないのに、相手は無抵抗のまま打たれる、蹴られるということが繰り返されるのです。
 その様子は、研究会の稽古中でも、「確かにこれを撮影して公開しても、インチキに見えるかも知れませんね」という会話が聞かれるほどです。もちろん、師父に掛かっていく本人たちは何とか一発でも当てられないものかと、毎回必死の思いであることは言うまでもありません。

 このような師父が見せて下さる散手に比べて、私たちが持っている散手のイメージは、より格闘技の試合に近く、技の応酬をしている中で相手に隙を作り、決定打を打つというようなものではないでしょうか。
 或いはもっと極端に、相手の懐に音もなく入り込み、触れた瞬間に発勁で吹っ飛ばすようなものでしょうか。・・なんだか、マンガのような話になってきましたね。

 本当の戦い方が公開されたことがない故か、一番見覚えのあるスタイルをイメージしてしまう私たちは、常に師父に指摘されます。
 『そんなテレビゲームのような発想では、絶対に生き残れない─────────』と。

 戦闘のプロ集団である軍隊でのトレーニングと一般的なトレーニングとの違いは、まさにこのひと言に表されているような気がします。
 相手よりも高得点を取れることを目指すのか、今日生きて帰れることを胸に刻むのか。
 そこには、相手を発勁でどれ程吹っ飛ばせるかとか、真っ直ぐ棒立ちの相手に正面から押していって耐えられるか否かなど、そんなことは何の問題にもならないのです。

 問題は、なぜそのような訓練方法が存在するのか。
 その訓練方法によって、何が養われるのか。

 不思議なことに、私たちがブログやホームページで紹介してきた幾つかの訓練方法に、甲乙をつけるコメントが外部から聞こえても、その訓練方法の意味するところに言及されたことは一度もありません。
 それはもしかしたら、ひとつずつの訓練を各々相手との勝負のように考えているからかも知れない、と思います。

 私たちが行う対人訓練では、勝負として行われるものはひとつも存在せず、勝ち負けがあるとすれば、たとえその場で倒されても身体が要求通りに正しく守られていれば負けではなく、反対にその稽古の意図を外れて一時的なその場限りの勝ちを求めた状態こそ「負け」となります。
 それは散手のようにお互いに何をしても良いというルールであっても同様で、その場限りの勝ちは一時の満足感を与えても、本当に生き残れるための戦闘法が身に付くことはないため、厳しく戒められます。

 ここのところがきちんと理解されないと、「捨己従人」や「後発先至」などの先人たちが残した珠玉の言葉は、永遠に理解できないことでしょう。


                                (つづく)



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2016年05月27日

練拳Diary #69「武術的な強さとは その13」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 さて、今回は「武術的な強さ」というものを、別の角度から視てみたいと思います。

 それは、「団結」ということです。
 
 武術修行とは本来個人的なことであり、人生を投入して自己の精神的・肉体的成長のために道を歩むことは、まさに孤独の道とも言えます。

 それでは、なぜ戦闘のプロ集団である軍隊では、新兵の時から団体生活を行わされ、どこに行くにもひとりでの単独行動は禁止され、最小単位は2人組み(バディ)と決められているのでしょうか。

 これは、ひと言でいえば、団体で生活し、訓練を行い行動することで、より精神的・肉体的に鍛えられるからです。
 規律を守り、やる気を高め、責任を全うするということまでなら、ある程度の人なら誰でも出来ます。けれども、そこに仲間との”団結”という要素が入った途端に、ハードルは高くなるのです。

 目的は同じでも、異なる考え方と生き方をしてきた者同士では、当然取り組み方も違ってくるわけで、共同作業となると当然衝突が生じます。
 一般社会なら、そこで「あいつは嫌いだ。合わない」と切ってしまえば済むこともあるでしょうが、軍隊ではそうはいきません。

 たった2人の諍いが班内の不調和をもたらし、一個班の遅れが一個小隊を足止めすることになるのです。命懸けで任務を遂行しなければならないときに、それが最終的にどれ程の損失になるのかは容易に想像できるものではありません。

 特に時間の厳守が要求されるのも、自分の中に規律を持つということと、ひとりの遅れが部隊の全滅に繋がるという危機意識を持つためですが、それ以外にも、仲間との協調性を養うという利点があると、私は思います。

 定められた時間は、個人の都合で変更できるものではありません。言い方を変えればそれは絶対的な権力であり、守られなければ厳しい罰が待っています。しかも連帯責任なので、自分さえミスをしなければ良いという考え方では通用しません。
 その認識を誰もが持っているために、例えば日頃意見の合わない不仲な者同士でも声を掛け合うようになります。どのように在ればスムーズに任務を遂行できるのか、どのように接すればお互いに嫌な思いをしなくて済むのか、自然と考えるようになります。

 自分ひとりならいくらでも強さを示すことができるかも知れませんが、それは本当の実力ではなく、太極で表現すれば「陽」というたった半分の要素でしかないのです。

 面倒でややこしく、なかなか円滑に進まない団体行動では、協調性を持たなければ到底やってはいけず、その協調性とは、私たちにとって馴染みのある言葉で言えば、「合わせる」ということそのものだと言えます。


 実は、団体行動で養われた力を最も実感するのは、単独行動の時です。
 自分がライフルを扱うときや荷物のパッキングをするとき、或いはひとりでランニングをするようなときでさえ、そのことを強く思い知らされます。

 先日、初めてカヤックに挑戦してきました。
 もともと水遊びが好きな私は、誰かと湖に行けば自分から手漕ぎボートに乗り込み、率先して漕ぎ手となって腕がくたびれるまで漕いでいる方です。

 つまり、恋人にボートを漕いでもらってのんびり湖の景色を眺めるタイプではない、ということですが、それはさておき、ボートに乗る機会は割とあるものの、とりわけボートが好きだというわけではありません。
 ボートは大きくて数人乗れる代わりに、漕ぐときには結構な力が必要です。しかもボートに固定されている2本のオールを握って漕ぐものだから、漕ぐたびにガチャンガチャンと音がします。澄み渡る湖畔をゆっくり味わいたいときには、どうしても雰囲気台無しの感が否めません。
 ボートが些かスマートさに欠けることに加えて、進行方向に背を向けて漕ぐという点が、どうしてもボートを好きになれない理由のひとつでした。
 自分の進みたい方向をきちんと目視できない。背後に何者が潜んでいるかも分からない。案外危険で非武術的な乗り物だと、ボートに乗るたびに思ったものです。

 そのような中で知ったのが、カヌーやカヤックの存在です。
 カヤックはカヌーの一種で、パドルと言って1本の棒の両端にブレードがついているものを使い、左右交互に水面に挿し込んでは水を掻き、行きたい方向に舟を進めていきます。
 このパドルの漕ぎ方で、前進、後退、左旋回、右旋回、そしてその場で回転することが出来るわけです。

 陸の上で大体のパドルの動きを確認したら、直ぐに水上へ出て実際に漕ぎ始めます。
 なにしろ、ジッとしていたら水と風に流されてあっという間に進んでしまいます。
 ちょうどその日は晴天で風速8メートル。カヤックはあまり風に強くなく、ガイドさんが「雨でも良いから、風がない方がよかった」と呟いたほどです。

 さて、本題です。
 漕ぎ始めて真っ先に感じたことは、「合わせなければ進めない」ということでした。
 カヤックはボートよりも軽くて細いため、僅かな身体の揺れでも舟が傾きます。そうであるにも拘わらず、舟を前に進めようとすると、パドルにものすごい重さが掛かるのです。
 確かに、パドルに掛かる水の抵抗によって前に進むことが出来るのですから、重くても当たり前なのですが、これをやっていたのではすぐに腕にきてしまい、目的地には到底行けないことが分かります。

 そこで気がついたのが、前に進む方法には、水に挿し込んだパドルを支点にして舟を前に出そうとすることと、挿し込んだパドルが水を掻く角度を調整することで、あたかもパドルが水の抵抗を受けたかのように舟が前に進むことの2種類がある、ということです。
 前者が私が最初にやろうとしたことで、後者は、表現すれば飛行機の羽根が空気抵抗を受けて機体が浮き上がるようなものです。
 つまり、自分は前に進もうとはしておらず、水がパドルを推してくれて前に進むような感覚です。実際には、もちろんパドルを水に挿し込んだだけでは前に進まないので、水を掻く動作はしています。けれども、パドルのブレードを支点にする漕ぎ方とは、まさに雲泥の差がありました。

 なんとも軽快に、おもしろいほど進むのです。
 先ほど、「水を掻く角度を調整する」と述べましたが、これこそ頭で計算することも出来なければ、考えて調整することもできません。
 全ては「合わせる」ことで可能になります。なぜなら、水に挿したパドルの深さや角度によって、水の固さも波のうねりも変わってくるのです。手で漕ぐことを止めればたちまち風に流されてしまうような小さな手漕ぎ舟では、一定のリズムで漕ぎ続ける必要があります。そのような中では、予測することも、思考している暇もありません。
 さらに、自分の行きたい方向にはお構いなしに風が吹いていますし、水も流れていますから、自分の好きなペースと力加減などでは、まともに動けるはずもないのです。

 ひたすらに、舟と自分と、パドルと水とを感じ、間隙なく合わせ続ける意識を持つようにしました。すると、それまで水に拘束されていた舟が、まるで自分の手足のように動かせるようになってきたのです。

 そうして発見したことは、今自分が動いている動きはまさに太極拳の動きである、ということでした。パドルを左右交互に掻いていくその動き。そうです、それこそ「内転」の動きそのものだったのです。
 さあ、それからは、軸足の取り方や肩・胯の在り方など、全てを総動員して漕いでみましたが、いかに太極拳の身体の使い方が効率が良いか、軸を感じやすく整えられているかを実感しました。まさに、「合わせる」ためにその形があると言っても過言ではないでしょう。


 今回のカヤックツアーでは、他にお客さんがいないのを良いことに、通常初めてのツアーでは行かないような、比較的流れが強く、視界の広いところにまで出させてもらいました。
 湖で流れが強いということは、風も強いということで、行きに追い風なら帰りは向かい風です。行きには波の背中に乗ってあっという間に漕ぎ出ることができましたが、Uターンしての帰り道は、なんと真正面に白波が幾つも立ちはだかり、ダッパーンと容赦なく水を浴びせてきます。場所は浜名湖ですから、塩水です。
 ガイドさんには、「覚悟してくださいね」とは言われていたけれど、やはりやってみるまでは分からないものです。しかも楽しいのなんの。パドルを休めたらたちまち元居た場所に戻されてしまいます。
 先ほど運河のような静かなところでスイスイ漕いでいたときには、それこそ、「♪すぐ美味しぃ〜、すごく美味しぃ〜♪」なんて気分だったのが、いきなり荒波の中に放り出された小舟となり、ザッパザッパと水を浴びせられながら必死に漕いでる有り様です。
 当然、腕に力みも入りますが、やはり力んでいるとすぐに疲れて漕げなくなってきますので、波と風に合わせて、身体を動かし続けます。
 ようやく向かい風と荒波を越えて、水面の穏やかなスポットに入って休憩したとき、自分が今必死に漕いできたところを振り返ると、何とも穏やかな水面にしか見えません。
 これが、波の背中側から見るか、腹側から見るかの違いなのだと教えてもらいました。


 自然は、それ自体が完成された循環を持っていて、それ故に彼らはすでに合っているのです。だから、自然は私たちに合わせてはくれません。その中で活動しようとするならば、私たちの方から合わせる必要があり、そうして生活のための知恵や、生き残るための工夫が生まれてきたのだと思います。

 私たちもまた、自然の一部として「合わせる」ことを学ばなければならないと思います。
 なぜなら、合わせられるということは、自分とは違う他人とも合わせられるということであり、人のことが分かる、考えられるということは、敵のことが分かるということでもあるからです。

 団体で行動することは、自然の中に放り出されるよりも厳しいことかも知れません。
 けれども、そこで流されるのでもなく、自分を押し通すのでもなく、「合わせる」ことが理解できたならば、得られることはものすごく大きいはずです。

 人のことが分かる、感じられる人とは、一緒にいてとても心地よいものです。そして、そういう人に共通しているのは、気配りを絶やさないということです。

 『隙が無いこととは、常に気配りができることである』──────────とは、先日のCQC講習会で師父が仰った言葉です。

 訓練を共にした人たちが、最初からそうであったとは思いません。
 何かが上手くいかなかったとき、ひとりでも不機嫌な顔をした人がいると、それだけで全体の訓練効率が落ちます。まるであくびが移るように、人の心も移っていきます。
 そのようなことに気づいていった人たちが、自然と身につけたひとつのことが、気配りであり、合わせるということだったのだと思います。
 それが、結果的に自分に隙が無いことを養っているとは、彼らは夢にも思わないことでしょう。

 道場という限られた時間と空間の中では、誰もが他人と共に稽古を行います。
 稽古は自分ひとりの問題であり、同時に、自分ひとりの問題ではないのです。


                                 (つづく)


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2016年04月09日

練拳Diary #68「武術的な強さとは その12」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 今年に入ってからというもの、道場でもこのブログでも、「危機」に対する話題が多く取り上げられるようになりました。
 
 そしてその効果は思いのほか大きく、門人の皆さんの危機に対する意識はこれまでと比べて格段に上がり、今後起こり得る大小の危機に備えて、実際に行動を起こす人が増えてきました。

 その変容の様子を目の当たりにすると、自分を含めて、これまでの危機意識の低さが不思議に思えるほどですが、考えてみればそもそもの危機に対する認識が薄く漠然とした状態であり、その根本的な原因を探ってみれば、結局のところ「自分だけは大丈夫」という、全く以て根拠のない勝手な思い込みでしかなかったわけですから、意識の低さもある意味仕方のないことと思えます。

 私たちの意識の変容は何から始まったのかと言えば、それは「危機の認識」です。

 これまでは、目の前に身に迫る危険がないから「自分は大丈夫」だと思えた気がしていましたが、まさに気のせいで、本当は危機を危機として認識できていなかったのです。

 これは、視野を広げて「国家レベル」で見た場合にも、同様のことが言えると思います。
 若者から年配の方に至るまで、私たち国民は普段の生活の中で、一体どれ程の危機を認識し、危機感を感じ、それに対して備えているのでしょうか。

 もしも現在、自分に国民としての危機感がなかったとしたら、少しでも考えてみた方が良いでしょう。そして、仮に一切の国民的危機感がなかったとしても、危機について興味を持つ、考えてみる、そして自分の対応能力を知ろうとすることによって、必ず危機の認識が出てきます。

 危機に対する認識が深まるほどに、私たちはまるで危機感を持たないように導かれてきた気がしてなりません。

 できるだけ鈍く、温和で、細かいことに疑問を持たないような人間・・。

 スマートフォン片手に、自転車に乗って街を走る人々を見掛けるたびに、そんなことが頭をよぎります。

 
 私は武術を学ぶひとりとして、単に強くなるだけ、心身を鍛えるだけで満足しているようでは、はっきり言って無能だと思います。

 世の中には、あらゆる職業があり、専門家が居ますが、彼らが日々研究しているのは、ゆくゆくはその研究が社会のために、子孫のためになるようにと、その貢献のために行っているはずです。
 農家でも音楽家でも、画家だって、彼らは自分が描いた絵が社会に与える影響を、考えないはずはありません。皆、各々の分野でしか成し得ない何かしらの影響力を持ち、それが何かしらの形で社会への貢献へと繋がっているのだと思います。

 さて、武術家だけが持つ影響力や、社会に対してアプローチできることとは何かと考えた場合、やはり「危機に対する能力」というものが挙げられると思います。

 自分に対して厳しく、孤独と向かい合い、諦めることなく目標に向かって邁進する・・などということなら、どの分野の人でも同じことを言っています。

 武術家は、負けないこと、戦えること、生き残ることを学びます。
 スポーツ選手も戦います。けれど、自分と同じ種目をトレーニングしている、限定された人と競うのです。

 武術家は、相手を選べません。相手の持っている武器も、戦いが始まる時間も事前には分かりません。
 そう、さながら軍人のようでなければ、本当の危機を乗り越えられないのです。

 自衛隊は様々な職種に分けられていますが、たとえ音楽隊の人であっても、ライフルが撃てます。ライフルが撃てるようになって、それから音楽の練習に入るのです。

 日本の武術家は、全員銃を撃てるように訓練しておいた方がいい、とは言いませんし、この国では自衛隊にでも入らない限り難しいでしょう。
 けれども、危機に対応できるエキスパートとして日々稽古をし、自分たち以外の人々に、危機に対する考え方や心構え、実際の行動の起こし方などを伝えていくことはできます。

 私たちは、野菜の種蒔きの時期を知らないし、育て方も分かりません。けれど、種蒔きをしているときに、どのような心身の状態であればより危険を回避できるのかは、知っています。
 例えばそのように、敵に襲われたときの身の守り方や戦闘技術といった大仰なことではなく、誰にでも理解できて、誰にでも直ぐに実践することができるような、ほんのささやかなことでも良いのです。
 そのようなことの積み重ねによって、小さな子どもから老人まで、危機意識を持つことが出来るようになると思いますし、靴を正しく履く、安全に荷物を持つ、きちんと自転車に乗る、ということも、当たり前のこととして認識されていくのではないでしょうか。

 自分たちにしか出来ないことが、誰か他の人の役に立つ。
 人の役に立つことだと思えば、自分のやっていることに責任も出てくるし、より深く掘り下げる必要も、出てくるというものです。


 さて、またしても危機感の話で始まり、そして終わりそうですが、今回はもうひとつ、近頃感じている生き残るために必要な、大事なことを述べたいと思います。

 丈夫な身体を造り、心身を鍛え、頭の回転を良くしておくことの他に、忘れてはならない大事なこととは、心と身体のケアを怠らないことです。

 どのような機械も、車も、定期的にメンテナンスをしなければ直ぐにポンコツになってしまいます。
 人間の身体は、年齢に関係なく鍛えれば鍛えた分応えてくれるということですが、やはり正しくケアをしなければ、せっかくの鍛えた身体も一時的なものとなり、最悪の場合は、鍛えていたはずが壊してしまって使い物にならなくなります。

 身体を造るのには時間が掛かりますが、壊してしまうのは一瞬です。
 以前に稽古で打撲を負ったとき、それは全身に複数個所点在していたのですが、軽いものだからと甘く見て大した処置もせずにいたところ、次の日には身体が満足に動かなくなってしまい、結局回復して自分のトレーニングを再開できるまでに丸一週間掛かりました。
 自分でトレーニングメニューを組んで取り組んでいるときの一週間は、大きいです。

 新しい練功を教わったときに、それをひたすらやって没入したくなる気持ちは、よく分かります。そうすることで、鍛えている実感を得たり、充実感を得ることができますが、やはり、気持ちだけでは生き残れないのです。

 師父が稽古で常々仰るように、私たちは何ごとにも「知的に」取り組まないと、正しい成果も出せなくなってしまいます。

 プロのスポーツ選手でも、イチロー選手が学生の頃に、朝晩お父さんの手で足裏のマッサージをしてあげていたことは有名な話ですし、プロのアスリートほどトレーニングに掛けた時間と同じくらいの時間を使って身体をほぐし、整え、次のトレーニングに繋げています。

 ところが、格闘技や武術系の人たちから聞くお話は、大抵の場合が「稽古のやり過ぎで身体を壊した自慢話」なのです。
 套路のやりすぎで足がパンパンに腫れて歩けなくなったとか、肩を脱臼したとか、組手のやりすぎで血尿が出たとか、内容は様々でしたが、不思議とちょっと誇らしげに話をされるのが印象的でした。

 熱血精神で突っ走ることも大事ですが、プロ意識を持ってトレーニングに取り組むのであれば、負傷して動けない身体は何を意味しているのか、考える必要があります。
 そして、つまらない怪我や不調のためにトレーニングが中断されることがないように、日々のトレーニングの後には、必ず身体をニュートラルに戻すような気持ちで、疲労と筋肉の強張りを取ってあげることが大切です。

 トレーニングが「陽」なら、ケアすることは「陰」でしょうか。
 これをトレーニングとセットで行うか否かで、次の日の身体の状態が格段に違います。

 そして、身体のケアと同じように心のケアも大事です。
 これはよく見過ごされがちですが、鍛えるためのトレーニングが、何かしらの具合で少しずつ心のストレスになり、気がつかないうちに身体に支障をきたすことがあります。

 例えば、自分の組んだメニューをひたすらこなすことだけを考えてしまっている場合などは、徐々に効率が落ちてくることがあります。
 そのようなときには、勇気を出して一度頭を切り換え、大好きなお茶を飲んだり、音楽を奏でてみる、やったことのないレジャーに挑戦するなど、してみても良いかもしれません。

 動けるための身体を手に入れることは、単に身体に鞭打つことではなくて、鍛える中で自分を見つめ、自分自身と対話をすることだと思います。

 何れにしても、トレーニング中に何かしらの大きな不調が出てきた場合は「自己管理不十分」であることをよく理解して、トータルなトレーニングを行い、本当に生き残れる身体、使える頭を養いたいものです。

 
 少し前のことですが、稽古の対練中に、師父から「あとは度胸があればいいな」と言われたことがあります。
 日頃から臆病さを自覚している私は、咄嗟に「確かに、前へ出ていく度胸、尻込みしない度胸は足りないな」と考えました。
 ところが、一呼吸置いて師父が言われたのは、まるで私の心を見透かされたかのように、「常に柔らかい状態で居られる度胸だ」という言葉でした。

 自分が「強い度胸が足りない」と感じたこととは反対の「柔らかい状態でいられる度胸」だと仰ったのです。

 その瞬間、自分の中の力みが抜け落ちていくような感覚を覚えました。
 確かに、自分に足りないのは相手に対して強く在ることへの度胸ではなくて、どんな状況でも柔らかい状態でいられる度胸でした。

 この言葉は、戦闘に対する考え方、訓練に対する考え方を含めて、私に多くのことを教えてくれました。

 皆さんもぜひ、自分で考えてみて頂ければと思います。



                                 (つづく)

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2016年03月09日

練拳Diary #67「武術的な強さとは その11」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 武術を志す人にとって危機感の不足は致命的である──────────とは、前回述べたことです。

 身の回りのありとあらゆる事柄に対して神経を研ぎ澄まし、起こりうる危機を事前に察知して、回避する。仮に、それを十分に行っていたとしても免れないことがありますし、それが危機というものの質なのだと思います。

 大事なことは、何が危機であるのか、正しく認識を持つことです。

 普段耳にする国内外の情勢についても、一般に報道されていることのほとんどは情報を操作されており、誰かにとって都合の良い方向へ仕向けられていると聞きます。

 一般人は、事情がよく解らない上に知る術もないので、わけの分からない不安ばかりが大きく募ってしまいます。そんな時に、どこかの誰かがテレビで「ココアが身体に良い!」と言ったら、とにかくココアだとスーパーに走り、1〜2週間はココアが品薄になる、なんてことになります。

 これが「ココア」や「納豆」程度ならともかく、どこかの誰かが言った「これは使える、便利です!」という物に対しても、「あいつが悪い、悪党だ!」という言葉に対しても、全く同じ心理が働いているのです。
 これでは、いきなり「右向け、右!」と言われたら、理由も分からないまま取り敢えず右を向いておけば良いという判断をしてしまうことになり、いいように利用される駒のひとつになりかねません。

 何も知らないまま赤の他人に利用されることほど、愚かなことはありません。
 正しい認識を持つためには、日頃から自分で考える習慣が必要です。

 日常生活で、考え方や対応の仕方が分からないことは、沢山出てきます。
 そのようなとき、たとえ時間が無くても、どのように考えたら良いか分からなくても、そのままにしておかないことが大切です。そして、最初から何もかも分かっている人など居らず、誰もがそのスタート位置から始まったのだと思えば、何かしらの取っかかりやヒントが見えてくるはずなのです。

 そのヒントをたくさん集められる方が、知るまでに必要な時間も早いわけですが、一先ずスピードは置いておいても、諦めたり見なかった振りをするのではなく、疑問に思ったことや自分が知らなかったことに対して、ひとつでも解決しようとすること。その姿勢が後々大きく役に立ちます。

 不思議なもので、何かを理解するために自分の力で動き始めると、たとえそれが牛の歩みであっても、徐々に自分の周りに必要な情報が集まってくるようになります。
 それは、本であったり人からの情報であったりと形は様々ですが、形成され始めた自分のネットワークを丁寧に広げていくことで、勉強はよりスムーズなものとなります。


 自分で考える習慣と併せて必要になるのは、本当に動ける身体でしょうか。
 この、「動ける(使える)身体」というものは、普通はイコール筋肉量だと勘違いされやすいようです。
 確かに、格闘技やスポーツ競技を行う人達は、筋力トレーニングをして身体を鍛えます。
 格闘技であれば、走り込んでスタミナをつけ、パンチ力が上がるように腕立て伏せやダンベルを行い、相手に倒されないように足腰を鍛えるのでしょう。また、スポーツ競技であれば、自分の種目に特化した身体作りを行うはずです。

 それでは、武術に特化した身体とは、どのような身体をいうのでしょうか。

 私たちは、武術的であることは生き残れることであると述べてきました。
 ですから、武術に特化した身体とは、言い換えれば「生き残れる身体」とも言えるはずなのです。
 反対に考えると、ジムに通って体力や筋力を鍛えた人が、それだけで様々な状況を生き残れるかというと、恐らくは厳しいはずです。

 私はこれまでに、外気温30度を軽く超える真夏日の訓練で、普段からトレーニングに励む20代前半の男性が、身体も細く年齢も遥かに上の女性よりも短時間でバテたり倒れたりするという状況を、何度も見てきています。
 面白いことに、過酷な状況で好成績を残す人達は、ジムに通う筋力に覚えのある人ではなく、普段から登山をする人や、フリークライミングをする人、或いは歩荷(ぼっか=山小屋などに荷揚げをすること)の仕事をする人でした。
 その人たちは皆一様に疲れにくく、疲労しても回復が早いのが特徴です。

 重い荷物を背負って、何日も歩く。
 それは、世界中の何処の軍隊でも行われている訓練です。

 私たちは、師父に軍隊式のトレーニング方法を紹介して頂いたときに、その内容の一般的トレーニング方法との違いに、皆で驚いたことがあります。
 それは、部分的な筋肉を鍛えるものではなく、たとえ腕立て伏せひとつ取っても、その形も、速さも、全て全身に負荷が来るような条件が整えられているのです。

 どこの軍隊でも体力検定が設けられ、一定の等級以上の体力が求められます。
 例えば自衛隊では、二つの体力検定が用意されていて、1つ目は年齢別に各種目の得点表があり、2つ目は年齢に関係なく採点され、等級がつけられます。
 その両方で、全種目1級を取得できた場合にのみ、体力が優秀であることを示す、“体力徽章”を着けることができるのです。

 参考までに、「体力検定1」の30〜34歳に該当する得点表の1級合格基準を載せておきます。

 腕立て伏せ:2分以内に73回
 腹筋   :2分以内に71回
 3000m走 :11分22秒以内

 *3000m走の高校生男子の平均タイムは12分。自衛隊でその年齢だと、10分38秒以内でなければ1級が取れません。

 次は、「体力検定2」の1級合格基準です。

 懸垂   :17回
 走り幅跳び:5m10cm
 ボール投げ:60m

 ちなみに、「体力検定2」の1級合格得点は70点以上で、上に挙げた3種目の数値は最低ラインの70点に於ける数値です。

 腕立て伏せは、腕は肩幅で指先をやや内側に向け、自分の顎を床に置いた補助者の手の甲に触れることで1カウント。
 懸垂は、反動を使ってはならず、順手で顎が鉄棒の高さまで上がり、そこから腕が伸びるまでゆっくりおろして1カウント。部隊によってはその姿勢で3秒ホールドしてからまた上げることを繰り返すところもあるようです。
 何れも、自分の好きな形や速さで行う事は出来ず、正しいフォルムと速さが守られた上での数値が測定されます。

 当然のことながら、体力検定で合格すれば軍隊が務まるというわけではなく、そこからようやく訓練を開始できるというもので、本当の動ける身体は様々な訓練によって総合的かつ効率的に養われていきます。

 重い装具を身につけて、足場の悪いところを行き来し、時には這いずり回り、時にはよじ登る。身体が余すところなく使われる状況では、当然「動ける身体」が養われるはずです。

 強くなければ生き残れない。
 生き残れなければ祖国を守れない。

 その志で日々訓練に励む彼らのトレーニング方法と、自分たちが行っている強くなるためのトレーニング方法とを比較してみれば、自ずと目指しているものの違いが見えてくるような気がします。



 日常生活の中で常に危機感を持って過ごすのは、それほど簡単ではない、と思います。
 その理由の一つに、危機感はある種の緊張状態であることと、それを続けていることで心身が疲労してくることが挙げられると思います。

 ましてや、日々の生活は一見平和そのもの。
 緊迫した状況で危機感を持つことは容易いですが、のんびりした中では、人間は徐々に楽な方へと傾いていきます。

 危機管理をすることが楽しくなってくる。
 危機感を研ぎ澄ますことに執着心を持つ。

 何の危機感も持たない人からは、その様子は少し異様に映るかもしれません。けれど、それが当たり前にならなければ、今という時代を生き残るのは難しいのだと思います。



                               (つづく)

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2016年02月08日

練拳Diary #66「武術的な強さとは その10」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私が、武術を学ぶ理由とは何か──────────

 武術を学び始めてからというもの、幾度となくこの問い掛けを自問してきましたし、ブログの練拳ダイアリーでも、すでに何回か書いてきています。

 それは、その理由が分からないからではなく、自分の武術に対する認識の甘さや、危機感の足りなさ、そして人としての至らなさを痛感するたびに出てくるのです。

 もしかしたら、武術を学び続ける限り消えることのない、問いなのかもと思えます。
 或いは、武の道を究めた偉大な先人たちの声なのかも知れません。

 お前は、そんなことで武術を学んでいる気になっているのか?、と。


 武術家にとって最も致命的なことのひとつには、危機感の不足が挙げられます。
 危機感とは、なにも敵と相対したときに感じる危機だけではなく、起こり得るかも知れない危機に対して、それを察知するセンサーがあるかどうかが問われるのです。


 生き残れること。
 そして生きて帰れることとは、当然危機からの生還または事前に危機を察知し、回避できることを指しているわけです。
 それ故に、武術家にとって危機感の不足は致命的だと述べたのですが、改めて危機について考えてみたとき、自分を含めて、あまりにも危機に対して鈍感であるという事実に気がつきました。

 迫り来る危機に対しては対策の立てようもありますが、まだ目に見えていない危機に対してはどうしたら良いか分からないことが多く、ほとんどの人が無頓着であるように見えたのです。それも、災害やテロといったものではなく、日常の危機に対してです。

 つまり、そもそも何が「危機」であるのかが、分かっていないのです。

 危機に対する対処方法を知っているか否かではなく、何が危機なのか分からない。
 目の前に危機が迫っていても、それを危機とは認識できない。
 これこそ立派な平和ボケの証しだと言えるでしょう。
 
 さて、この記事を読まれている皆さんは、「日常の危機」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?


 地震、台風、熱中症、通勤・通学時の交通、食品添加物や食料生産地、部屋のホコリ・カビ、ゴキブリ、野生動物・・など、このようなものを筆頭に、もっと多くの危機が挙げられるかもしれませんが、実は、もっと身近なところに危機はあるのです。

 たとえば、道場に通う門人であれば、きっと誰もが一度は聞いたことがあると思われる、師父のこの言葉。

 「皆さん、今日は傘を持っていますか?」

 雨が降っていればもちろんのこと、特に稽古の途中から雨が降りだしたときには、稽古の途中で早退する人にも、最後までいた人達にも、必ずこのように声を掛けられます。

 以前には、傘を忘れて来る人もいましたが、今では滅多に忘れてくる人はいなくなり、事前に天気予報を見てきたとか、雲行きが怪しいから折りたたみ傘を入れてきた、という声が聞こえてきます。

 これは、ひとりひとりに天候の変化に対する意識が芽生えたからであり、“雨に濡れないようにする”ということは、紛れもなく危機回避の一端であると言えます。

 雨に濡れると、体温が奪われて身体が冷えてきます。
 冷えた身体を元に戻そうとして、エネルギーを消耗します。

 よく、多少雨に降られても直ぐに乾くから大丈夫だという声を聞きますが、もしもその時に何らかの事情でもう一度外に出なければならなくなったなら、どうするのか。身体が冷えて消耗しているまま、動かなければならなくなったら、どうするのか。
 それを考えた上で、少しくらい濡れても大丈夫だと言っているのかといえば、恐らくはそこまで考えていなかったはずなのです。

 天気予報を見てみる、傘を入れておく、着替えを一枚持っておく。
 そのほんの一手間によって、自分のベストコンディションが保てるのです。

 たかが雨。

 されど雨。

 極限状態を経験した人は、生命というものが何によって守られ、また何によって奪われるのかをよく知っています。

 私たちが考えている、

 “まあ、きっと大丈夫”

 “この前も大丈夫だったから”

 “大丈夫だと聞いた”

 ・・などの言い訳は、実は何の根拠もなく、単なる希望的観測で言っているに過ぎないと師父に言われたことがあります。

 確かに、改めてよく考えてみるとそうなのです。
 雨の話にたとえてみれば、自分が傘や着替えを持つことが面倒なために、「走って行けばそんなに濡れない」とか、「濡れても大丈夫」ということを言っているのであって、実際に自分がどれだけ濡れてしまうのか、どのくらいからだが冷えるのか、乾くまでに何分掛かるのかを解った上で「大丈夫だ」と言っているわけではないのです。
 それが、よく考えなければ分からないほど、鈍感になっているのです。

 問題は、雨に濡れたか濡れなかったか、多少濡れても風邪などひかなかった、ということではなく、雨が降っている、或いは降りそうだというときの自分の「考え方」で、勉強にも仕事にも、その他日常の全ての事柄に向かっているということなのです。
 

 師父はこうも言われました。

 「敵がナイフを持って向かってきたその時にも、“この前も大丈夫だったから、きっと今回も大丈夫”と言うのだろうか?」と。

 そう考えれば、まるで大丈夫なはずが無いと誰もが思えるはずですが、朝の曇り空を見上げたときには、そうは考えられないのです。

 危機を認識しようとすることは、そっくりそのまま自分自身を認識しようとすることに繋がります。そして、認識するためのセンサーが、どんどん磨かれていきます。
 そのセンサーが、敵と対したときに役に立つであろうことは、想像に難くありません。

 日常の危機を認識すること。
 たとえば、

 〇日までにこれをしなければならないが、なかなか時間が取れない。

 今日は少し寝不足だ。

 車の調子が良くない。

 懐中電灯の電池が切れた。

 ・・これらも立派な危機です。
 問題は、何度も言ってきたように、それらの危機に対して自分がどのように考え、行動したのか。その考え方で、どのような状況からでも生きて帰ることが出来るのか、ということなのです。


 突然話が変わりますが、今年に入ってから自分でスープカレーを作ってみました。

 そうです。
 あの、北海道名物(?)であり、師父がたった一度食べただけで作ってしまったという、(編集者注:練拳ダイアリー#63参照)スープカレーです。

 今回は、野菜の素揚げと鶏肉を入れたスープカレーで、師父のリクエストにより、野菜の素揚げにはサツマイモを加えて、最後に目玉焼きを乗せた物を作ることにしました。

 スーパーに出掛けて足りないものを補充し、鶏のスープを取るために鶏肉と野菜を鍋に放り込んで火に掛け、その間にカレーに入れる鶏肉や野菜の下準備をします。
 スパイスで下味をつけた鶏肉を焼き、ベースとなるカレーの味を、玉ネギ、ニンニク、スパイスで作ります。

 鍋に一杯のスープカレーが満たされたら、野菜の素揚げをして器に盛りつけ、目玉焼きを乗せて完成です。

 自分がイメージしたものを作り出すことの、なんと難しいことでしょうか。
 特に、カレーの味を調えることに苦戦しました。
 思わず顔が青くなったときもありましたが、終始一貫してとても楽しかったです。

 以前から挑戦してみたかったとは言え、人様の夕飯に自分が初めて挑戦するものを作るのは相当なプレッシャーでしたが、実際に作って食べ終えてみれば、空になった器とは対照的に、自分の手の中に大きな実感が残りました。
 そして、すでに次のスープカレーに向けたフィードバックが、自分の中で始まっていたのです。


 一見武術とは関係のない、料理ということ。
 けれども、その一品を作ることで料理が私に教えてくれたことは、考え方を知る、常に自分と材料とを観る、そして材料をはじめ、火や包丁、その他の調理道具などと対話をするということで、それはまさに稽古であり、道場で学んでいることと何ひとつとして変わりませんでした。

 いつか師父に、「幾何学の勉強は、幾何学の中にはない」と言われたことの意味が、少し分かったような気がします。

 変わってきたのは、その後の自分で、例えば片付けの手際が良くなったり、集中力が増えました。
 そして何よりも、人の話に対してその真意を汲み取るということが、少しだけ出来るようになりました。
 それがスープカレーを作ったことと直接関係あるかどうかは分かりませんが、これまでだと他人の言い方や感情に対して表面的に反応していたものが少なくなり、その人が何を伝えたくてその言葉を放っているのかに、意識が向くようになったのです。

 考えてみれば、未知の分野に足を踏み入れるときには、自分にできるという保証は無い状態で「一」から考えなければならず、しかもやり直しが利かないので瞬間瞬間に修正し続ける必要があります。
 そんな、切羽詰まった状況で、自分の能力が開発されないはずがないのです。

 そのようにして、ふと自分を振り返った瞬間、
 『まずは謙虚に──────────』という言葉が、脳裏に浮かびました。

 この言葉は、毎年師父とスタッフの手で製作されている太極武藝館オリジナルカレンダーの、今年の1月のページに、美しい自然の写真とともに書かれた最初の言葉です。

 『まずは謙虚に、原初の一個の生命に還ることだ──────────』

 深く、頭の芯にまで染み込むその言葉は、まさに人が何かを学ぼうとするときに必要な、整えられるべき条件であるように思います。

 また、その気持ちと心があれば、危機に対する心構えも変わってくると思いますし、危機に際しての自分の考え方も、整ってくるのだと思います。



                               (つづく)

xuanhua at 12:30コメント(16) この記事をクリップ!
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