*第131回 〜 第140回
2014年09月15日
連載小説「龍の道」 第140回
第140回 A L A S K A (9)
「動くな────────不穏な動きをしたら、遠慮なく撃つぞ!!」
「ヒロタカ・・・!?」
バリー夫妻が驚いて宏隆を見上げた。
「フィリップ、両手を高く挙げて、ゆっくり向こうの壁際へ行け!」
「Oh, Enter Batman !! …..Then a Hero of Justice suddenly appeared and defeats
the villain. haw-haw !!(おお、バットマン登場!、そして正義の味方が突然現れ、悪者を倒すってか、わははは!!)」
宏隆の出現を、茶化して笑う。
余裕があるのは、別の仲間が潜んでいるか、何かを企んでいるからかもしれない。
油断はならない、と宏隆は思った。
銃を両手で構えたまま、素早く階段を降りつつ、他の敵の有無を確認する。
フィリップの表情や視線の向きまで細かく気にしなくては、その企みを見破れない。
「もっと向こうだ、その椅子の向こう側まで行け!」
「OK, OK, Don't make a big deal out of it !! …. Everything is on schedule.
(わかった、わかった、そんなに騒ぐなよ、すべて予定どおりなんだから)」
階段を降りきって、フィリップを壁際に促しながら、他に敵が居ないかどうか、気を配り続けるが、逆転して銃を向けられているフィリップが、どこか余裕のある口ぶりが妙に気になるし、”on schedule(予定どおり)” というのも少し引っ掛かる。
しかし、今はそんなことをいちいち確かめている訳にはいかない。
「フィリップ、さっき会ったばかりだが、もうこんな所に来てバリー夫妻を拘束しているとは思わなかったぞ・・・お前は、本当はとんでもない悪党(villain)だったんだな」
「Not really.(そうでもないさ)────────────」
「床に手を着いて、その椅子の下に足を入れて、腹這いになれ!」
「ほう、まるで老練な警官みたいな事を言うじゃないか。バリーに習ったのか?」
「無駄口をたたくな。痛い目に遭う前に、素直に従った方が利口だぞ!」
「よしよし、わかったよ、こうすれば満足かい?」
フィリップは宏隆に素直に従い、床に腹這いになって椅子の下に足を入れた。
「もっとだ、脚の横木の上に足を差し込め。そして両手を頭の後ろで組むんだ」
「やれやれ、ご丁寧なこった────────────」
頭に銃を向けながら、武器を持っていないかどうか身体をチェックする。
幸い、どこにも銃やナイフを隠し持ってはいないようだ。
「そのまま動くな。お前に銃が向けられていることを忘れるな」
「ははは・・心配ないよ、こうなったらどうにも動けないじゃないか」
ただ腹這いになるだけなら、俊敏な者なら反撃の機会も無くはないかもしれないが、そのうえ手を頭の後ろで組まされると、すぐには動けない。ましてや、重そうな椅子の脚に絡めるように両足を入れさせられていれば、尚さらのことである。
もしホテルの従業員たちを殆ど瞬時に倒したのがフィリップだとすれば、まずは彼を動き難くしておくことが重要だという、宏隆の判断であった。
「バリー、もう大丈夫だ・・・・」
フィリップに銃口を向けたまま、左手でフォールディング・ナイフを開き、バリーの手を縛っているロープを切り、そのナイフをバリーに渡す。バリーは自分の足のロープを切り、次いで妻のロープも切った。
こういう時には、片手で瞬時に刃が出せる軍用ナイフが便利だ。
「バリー、何をしているんだ?・・・早く銃を取って!!」
「お、おぅ・・・!!」
フィリップがソファの上に置いたショットガンを、バリーが掴んだ。
拘束されて疲労しているのか、何かを考えているのか、何故かバリーの動きが遅々として鈍い。
「バリー、一体何があったんですか?、ここが火事になったと聞きましたが?」
「ヒロタカ、これには色々と複雑な事情があってな────────────」
「事情?・・・それよりも、フィリップがどうして貴方たちを拘束したのか、先ずはその理由を知りたいですが」
その時、玄関をノックする音が聞こえた。
「誰が来たのか確認して!・・・ぼくはフィリップを見張っています」
「よし─────────」
「こんばんは、こんな夜中にすみません」
「ジェイムスじゃないか・・ヒロタカ、ジェイムスが来たぞ」
「オフィサー・・・・」
「やあ、ミスター・カトー、どうして此処に?」
「ちょうど良いところに来てくれました。あれから気になって、バリーのところへ来てみようと思ったんです。フィリップがバリー夫妻を拘束しているのが窓から見えたので、ともかくバリー夫妻を助けなくてはと思って────────────」
「ううむ、バリーの直感があたっていたのか・・」
「まだ彼を縛っていないから、早く手錠を掛けた方がいい。ここは駐在所を兼ねているのだろうから、Lockup(留置場)の設備も在るはずです」
「B.B.(Barry Bolton の呼び名)、ヒロタカの言うことは本当かい?」
「そのとおりだ、ヤツは突然入って来てショットガンで脅して私たちを拘束したんだ」
「かつてバリーがフィリップのボスの息子に法を執行したことを恨んで、復讐のために、そのボスのもとへ拉致して行こうとしていたようです」
宏隆がジェイムスに、掻い摘まんで説明をする。
「ちょうどフィリップが私たちを連れ出そうとしたところを、ヒロタカが二階から侵入してきて、隙をついて逆転し、私たちの縛め(いましめ)を解いてくれたんだよ」
「それはお手柄でした。しかし、その銃の構え方と言い、とても一般人とは思えないお手並みですね・・・では、取り敢えずフィリップを拘留しておきましょう。詳しい取り調べはそれからということに。後でミスターカトーにも事情を聴かせてもらいます」
ジェイムスが俯せ(うつぶせ)になったフィリップを、椅子の下から引きずり出すようにして起こした。
だが──────────────
「やれやれ、これでやっと役者が揃ったな。冷たい雨の夜を、長いこと待った甲斐があったぜ・・・」
起ち上がって、迷彩服に着いた床のホコリを払いながらそう言うが、ジェイムスはそのフィリップに手錠を掛けず、二人で並んで立ったまま宏隆の方を見ている。
「何をしている?・・オフィサー、早く手錠を掛けるんだ!!」
宏隆はまだ、銃をフィリップに向けて構えたたままだ。
「まだ分からないのか、ヒロタカ────────────」
ゆっくりと胸のポケットからサングラスを取り出して掛けながら、フィリップが言った。
真夜中の薄暗い室内でサングラスをかけるという行為はちょっと不思議に思えるが、今はそれどころではない。
「なんだと────────?」
「You walked straight into my trap.(お前はまんまとオレの罠に掛かったんだ)」
「トラップ・・・ま、まさか!?」
「そう、その ”まさか” だよ。実を言うと、コイツは俺の仲間なんだ」
フィリップはそう言って、ポンと、親しげにジェイムスの肩を叩いた。
「くっ、何と言うことだ!・・だが、この銃が目に入らないのか?、お前は丸腰、ジェイムスが銃を取り出しても、ぼくが撃つ方が早いぞ」
「ははは、正義のバットマンが、真夜中のガンマンになったな」
「不利な状況が分からないのか?、バリーもお前にショットガンを向けているんだぞ」
「ほう、そうかな・・・?」
「あ、ああっ──────────────!!」
信じられない光景が、そこにあった。
バリーがショットガンを向けている相手は、フィリップではなく、宏隆だ。
妻のジェニファーまで、バリーの後ろで、冷めた顔で宏隆を眺めている。
「そ、そんな・・・・」
「そう、ここに居る人間はみんなお前の敵だ。不利なのはお前の方だ、ヒロタカ!!」
「くっ、よくもそんな卑劣なことを──────────」
「おい、オレに銃をよこせ」
だが、フィリップがそう言ってジェイムスの方を振り向いた、その瞬間・・
「バンッ!、バーンッッ!!」
宏隆の拳銃が火を吹き、同時に大きくその場を飛び退(すさ)りながら、キッチンのドアを蹴って、中へと転がり込んだ。
「あははは・・・威嚇射撃をしながらキッチンにエスケイプかい?、そんなことをしなくても、オレを撃ちたきゃ撃ってもいいぜ。ほらよ、ヒロタカ、撃ってみなよ・・・」
自分を的にして撃てとばかりに、両手を挙げてフィリップが近づいてくる。
その片手には、ジェイムスが渡した拳銃を持っている。
「ダーン、ダーン、ダーン──────────────!!」
仕方なく、足を狙って数発を撃つが、
「ほう、その銃はちっとも中らないな!!」
フィリップは、すぐそこに立ったまま、避けようともしない。
「くっ、くそっ・・・謀ったな、これは空砲だったのか!!」
「そのとおり、やっと気づいたか。まあ無理もない、それはこの日のために造られた特製の空砲弾なのだ。弾頭は紙と薄いプラスチックで出来ているが、薄暗い場所で、急いでいる時なんかには誰もそれに気付かない。
空砲は実弾とは火薬の燃焼速度が違うので、そのままでは射撃時の反動が無いので、銃口にアダプターを付けて出口を小さくし、ガス圧を高めて実弾のような反動が出るように工夫しているんだ。お前に撃ってもらうために、苦労して造って貰ったんだぜ!
ここまでやられると、コレが空砲だとは、どんな人間でもまず気付かない。お前が特別にトロいわけじゃないから安心しろよ、あははは・・!!」
フィリップがサングラスを掛けたのは、空砲弾から眼を守るためであった。実際に、特殊な軍用サングラスは至近距離からショットガンを撃っても壊れない。紙製の弾頭が当たったくらいではビクともしないのである。
「僕にその銃を使わせるために、寝室へ忍び込むためのハシゴまで近くに用意して、見つけやすい所に銃を置いて、やがてスキをみて僕が出現すると、読んでいたんだな」
「そうだ。お前のような腕っ節が強くて頭の良い Strong Young Boss(ケンカの若大将)には、用意周到にワナを準備しないとな」
「お前の本当の目的は、この僕だったのか────────────!!」
「そのとおり、それに気がつけば、このオレが誰で、何の目的でお前をワナに掛けたのか、もう分かってもらえるよな?」
「NKS・・・North Korian Special Forces(北朝鮮特殊部隊)だな。僕がアラスカ大学に入るという情報を得て、先回りしてスキを狙っていたということか」
「そういうことだ。いつぞやは同志がずいぶん可愛がってもらったそうだな。彼らはお前を拉致しようとしてお前のせいで失敗した。だから今度は慎重にやることにしたのさ。そうしないと、最期は誰かさんみたいに、東シナ海の、海の藻屑にされてしまうからな・・・」
「だが、なぜバリーまでお前に協力するのだ?、ジェイムスは将軍サマが出す大金に目が眩んだとしても、バリーはどう見ても真っ当な警官にしか見えないが」
「ヒロタカ、許してくれ────────────」
バリーが項垂れ(うなだれ)て言った。銃を持つ手がワナワナと震えている。
「何故だ?、どうして悪人の味方をするんだ?、あなたには、州警察官としてのプライドが無いのか?!」
「む、娘が・・ひとり娘の Angela(アンジェラ)が、北朝鮮に連れて行かれたんだ・・」
「何だって────────!!」
「半年前に、突然、娘のアンジェラが居なくなった。お前と同じUAF(アラスカ大学フェアバンクス校)の寮に居たんだ。大学も私たちも大騒ぎして探し回ったが、書き置きもなく、寮の机もベッドも、友人たちから聞く話も、日々の生活がごく普通に続いているまま、何も変わったことがないまま、突然居なくなったので、何かを思い詰めての失踪ではないと分かった。
ひと月ほどして、アンジェラから手紙が来た。自分は北朝鮮に囚われている。お父さんが彼らの言う事を聞けば帰してくれると言っている。もし従わなければ、自分は将軍サマのそばで一生仕えるか、強制労働所で飲まず食わずで死ぬまで働かされることになる・・・
そう書いてあった。確かに娘の字で、髪の毛が同封されていた。DNA鑑定をしたが、確かに娘のもので、手紙にも娘の指紋がたくさん付いていた。封筒の宛名は古いタイプライターで印字されていて、消印はアンカレッジだった・・・」
北朝鮮による拉致被害者は、世界14カ国で20万人を超える。2014年2月に国連の調査委員会がそう発表している。
2002年に小泉首相が訪朝した際に、金正日が初めて公式に一部の拉致を認めて謝罪したことから、拉致が公に行われていたことが改めて世界に認識された。
日本の「救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)」の国際セミナー(2011年)に於いて、脱北に成功した元北朝鮮統一戦線幹部のチャン・チョルヒョンが報告したところによれば、北朝鮮の工作員に育てる目的で、世界各国から子供たちを拉致せよとの、金正日総書記の特別指令が出されていたという。
また、各国での拉致事件には、同じ独裁政治国である中国当局や、各国に散らばるチャイニーズマフィアが関与していることが多く確認されている。
「くそっ・・相変わらず汚い奴らめ・・・・」
「それからすぐに、コリアンアメリカンの背の低い男が尋ねてきた。旅行者かと思ったが、ポケットからアンジェラの写真を取り出して、こう言った。今度ここへ赴任してくる若い警察官と一緒に、近々アラスカ大学にやってくるヒロタカ・カトーという日本人を拉致する手伝いをするのだ。そうすれば、娘は無事に帰してやる、と・・」
「そして、僕がアラスカ大学に入る前に、まさに都合良くも、このコールドフットへやって来るという知らせを受けた────────────」
「そのとおりだ・・・」
さすがに良心の呵責があるのだろう、バリーは項垂れ(うなだれ)たまま、ショットガンを持つ手にも力がない。
「なるほど、これですべて納得がいく。バリーはフィリップを怪しんでいるように僕に見せかけ、この家が火事になったことにして、ジェイムスがフィリップを調べに来た。僕の目の前で、呆気ないほど間が抜けた聴取をして僕に危機感を与え、フィリップの行動を調べるように仕向けたんだな──────────」
「ははは・・そうだ、お前はオレがわざと付けた壁の足跡を見て喜び、フロントに行って電話線が切れていることや、マネージャー・ルームの無線器が壊され、職員が倒れていることでオレが犯人だと確信し、バリーの身を案じて、ノコノコと此処までやって来たのだ。
しかし、こうも上手く引っ掛かってくれると、なんだか拍子抜けするぜ!」
「くっ・・・!!」
「さあ、空包の銃を置いて、手を挙げてこっちへ来てもらおうか。ただし、この拳銃には実弾が入っている。下手な真似をすると、遠慮なく撃つぞ──────────────」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第141回の掲載は、10月1日(水)の予定です
2014年09月01日
連載小説「龍の道」 第139回
第139回 A L A S K A (8)
「誰が、こんなことを──────────────!!」
カウンター奥の部屋がホテル管理者の控え室だということはひと目で分かるが、デスクに置かれた無線器は無残にも叩き壊され、見覚えのある顔の従業員が、死んだように床に俯せ(うつぶせ)に倒れている。
「おいっ!・・・おいっ、大丈夫か?!」
駆け寄って声を掛けるが、なにも応答がない。
頸(くび)に指を当てて、脈があるかどうかを確かめ、さらに口元に耳を近づけて呼吸の有無を確認する。
「息はある────────おそらく、後ろから強く殴られたな」
もし頭部を殴られていれば、下手に揺さぶって起こすわけにはいかない。倒れた体を静かに仰向けに返し、デスクチェアーにあったクッションを首の下に入れてアゴを挙げ、気道を確保してやる。こうしておけば気絶していても息が詰まることは無い。
幸い、脈も力強い。この程度のダメージなら、このまま静かに寝かせておけば、やがて気がつくはずだ。
見回すと、壁際のソファの前にも制服姿の従業員が一人、くの字型に体をねじ曲げた恰好で倒れている。
「もうひとりか──────────」
この従業員もまた、打撃を受けて昏倒している。
腹を抱えるような姿勢のまま倒れているのは、パンチか蹴りか、腹への痛烈な打撃を喰らったからかもしれない。同じように脈と呼吸を確認し、気道を確保しておく。
起ち上がって部屋を見渡してみると、叩き壊された無線器以外には、何も室内が乱れていないことが分かる。これは、実行者が彼らを昏倒させるのに、さほど時間がかからなかったことを意味している。
もしこれがフィリップの仕業だとしたら、相当に洗練された格闘の技巧を持っていることは疑いようもない。頑健な体格をしたこの二名の従業員を難なく、恐らくはほとんど瞬時に倒した後で、ハンマーやバールのような物で無線器を破壊したのだと思える。
だが、果たしてこれはフィリップの仕業かどうか────────
部屋の外から窓によじ登った跡があっただけでは、彼の仕業とは断定できない。
「まず部屋に居るかどうか、電話で確認してみるか・・・公衆電話の線は切られても、館内電話までは切る必要がないだろう」
デスクの上には、館内各部と客室に繋がる業務用電話の親機がある。
思ったとおり、館内電話は壊されていない。
「A棟の、12号室だったな」
二十回ほど鳴らしてみるが、フィリップは出ない。
「やはり、部屋には居ないか・・・そうだ、ここのカフェは24時間営業のはずだ。誰か無線機を壊す音を聞いたり、不審者の姿を見かけた人が居るかもしれない」
そう思ってフロントの横のカフェに行ってみるが、流石にこの時間になると深閑として、アラスカン・スタウトの空き瓶を何本もテーブルに並べ、ソファでうたた寝をしている巨体のトラック運転手がひとり居るだけである。
おそらく、倒されていた一人は、深夜のカフェの担当を兼ねてもいたのだろう。他に従業員はどこにも見当たらない。
さて、どうしたものか──────────
外への電話は使えない。無線も壊され、目撃情報も無い。
フィリップがどうであれ、こうなったら、コールドフットで唯一の警察官駐在所である、バリーのもとへ自分が報せに行くしかない、と思える。
「だが・・・・」
ふと、一抹の不安が頭の中をよぎる。こうして関わっていけば、否応なしに自分も大きな犯罪に巻き込まれていくような予感がするのだ。
「しかし、まぁ、仕方がないな・・・よし、クルマを探すか」
控え室に戻って、入口近くの壁の、ホテル専用のクルマの鍵が掛けてあるキーボックスから「Pickup / Dog」と書かれたタグの付いたカギを選び、もぎ取るように掴んで、駐車場へと走った。
「これか?──────────まるで軽トラだな」
探すまでもなく、すぐに見つかった。
フォード・ブロンコの、驚くほどちっぽけなピックアップ(荷台付き)トラックである。
ホテルの業務用や従業員のクルマは客の邪魔にならないよう、たいがいは建物の横か、裏か、隅の方に駐めてあるものだ。
黄色いナンバープレートには「ALASKA FJRE23/The Great Race on Earth」の文字と犬ぞりの絵が描かれている。タグにあった文字は、これを意味していた。
「へぇ、犬ぞりのナンバープレートか、さすがはアラスカだね!!」
アラスカには犬ぞりのレースがある。
レースの由来は1925年の冬、州全体に吹き荒れるブリザードのために鉄道や飛行機では行くことのできないアラスカ北部の町ノーム(Nome)の人々を伝染病のジフテリアから守るため、犬ぞりで血清を運び人々を救ったことに由来する、と宏隆は聞いたことがあった。
過酷なルートを完走し、無事に血清を送り届けて、多くの人々の命を救ったリーダー犬の「バルト」の銅像がニューヨークのセントラルパークに建てられているほどで、日本の忠犬ハチ公の如く、アメリカではそのエピソードを知らぬ人は居ないという。
その偉業を記念して、毎年マイナス40度の中、凍てつく1,900キロの道を10日から20日間かけて走る犬ぞりレース、アイディタロッド(Iditarod "The Great Race on Earth")が行われている。
宏隆は、そんなことにも興味を持っていた。レースやラリーと聞けば、ワクワクする。
たとえレースでなくとも、北限の地や砂漠のなかを、犬ぞりや4WDを駆って自分で旅をしたいと思う。世界中を自分が操るヨットで巡りたいとも、何度も思うのである。
だが、今はそんなことを想っている場合ではない。
「・・ま、これは犬ゾリじゃなくて、軽トラの小馬ちゃんだけどな」
確かに、ブロンコ(Bronco)は「野生の小馬」という意味である。
こんな状況の中、どこにそんな余裕があるのか、暢気にそうつぶやきながら、呆れるほど大きなコラム・シフトのレバーを1速に入れ、グイとクラッチを繋いだ。
「おぉっと!・・・コイツは小馬ちゃんなんかじゃないぞ、すごいチカラだ!!」
確かに、排気量5,000cc、200馬力の軽トラックなど、どこにも存在しない。
雨足がだんだん強くなってきている。
八月とは思えない、冷たい雨だ。
バリーの家までは約4マイル(約6.5km)、15分も走れば到着する距離である。
やがて靄(もや)の向こうに、人家の灯りらしきものがポツリと見え始めた。
宏隆はヘッドライトを消し、エンジンを切って車を降りると、迷彩柄の雨具のフードをかぶって、まだ1キロほどは先にある、その小さな灯りを目指して歩き始めた。
流石に、いきなり玄関に車で乗り付けてドアを叩くような愚を、宏隆はしない。その用心深さは、玄洋會での訓練のたまものである。
排気音の大きい、こんなトラックで近づけば、誰だってそれに気付くに決まっている。
幸いこの雨が排気音も、ヘッドライトの光も、よく消してくれるはずだ。
そこにどんな状況が待ち受けているか分からない時には、どれだけ慎重になっても過ぎるということはない。
何がそれほど宏隆を慎重にさせているのかは、本人にもよく分からない。
ただひたすら、直感でそう行動しているのである。
だが、どれほど慎重を期してもなお、どうにもならない手練の悪人が、世の中にはイヤというほど存在するのだということを、若い宏隆はまだ識らなかった────────────
こんな真夜中だというのに、バリーの家には灯りが点いている。
少しばかりそれが不思議に思えたが、不審火が出たのであれば、眠れないのも無理もないかも知れないと思う。
けれども、なぜか火災の後に特有の、焼け焦げた臭いがまったくしない。
「小火(ぼや)だったから、臭いがしないのか・・・雨で臭いが消されたのか・・・」
気付かれないよう、静かに家の周りをまわってみる。犬を飼っていないのは、このような時にはありがたい。冷たい雨も、足音を消すには幸いする。雨のおかげで、宏隆は足音をそれほど気にせずに歩くことが出来る。
灯りが点いているのは、ブルーベリーパイを食べたリビングと、隣のキッチンだけだ。
居間の窓の下まで近づいて、そっと中の様子を伺おうとしたが、
「あっ──────!!」
思わず、声が出そうになった。
バリーと、妻のジェニファーが、椅子にロープで括られている。
そしてその前で、ショットガンを手にした迷彩服の男が、室内をうろついている。
横顔が、少し見えた。
「フィリップ────────────?!」
迷彩服を着たフィリップなど想像もできないが、明らかにフィリップの顔だ。
体つきや、歩き方までが違って見えている。
「やはり、あいつが何か企んでいたのか」
フィリップが怪しい、というバリーの直感は当たっていた。
だが、何のためにこんなことをしているのか。
雨音で家の中の話し声までは聞こえてこないが、バリー夫妻を縛り上げて銃で脅し、何かを強要しているようにも見える。
目的が何かがはっきりしなければ対策を考えようがないし、何より、相手はショットガンを手にしている。銃を持っていない宏隆は下手には動けない。
「こんな時に、ジェイムスが居ればいいのに────────何処へ行ったんだ?」
暢気なジェイムスは、バリーに報告もせず、あのまま家に帰ったのか?
ジェイムスがどこに居るか分からないし、ホテルの無線器が壊されたので州警察に連絡することもできない。
だが、このまま手を拱(こまね)いているわけにも行かない。何とかしてバリー夫妻を救い出す手立てはないものか、と思う。
「よしっ・・・・」
何を思い付いたのか、少し考えてから、家の裏側に戻り、軒下にあった梯子を壁に立てかけて、身軽に二階の窓に向かって上って行く。
そっと、木製の窓を開ける。
思ったとおり窓には鍵は掛かっていないが、軋んで音が出ないよう、注意する。
部屋に入ると、大きめのダブルベッドと、小さなライティングデスクがある。
きっと、ここは夫婦の寝室なのだろう。
宏隆は、迷わずデスクの右側の引き出しを開けた。
「あった────────────」
警察のような仕事に関わる人間なら、必ず身近なところに銃を置いてあるはずだ。
アラスカの僻地で任務に携わるような人は、複数の武器を所有せざるを得ないだろうし、こんな時間には、たとえ普段腰に付けてある銃でも、机の引き出しか何処か、すぐに取り出せる所に置いてあるに違いない。
宏隆はそう考えて、二階の寝室に忍び込むことにしたのである。
寝室に置いておくにはもってこいの小型の拳銃は、ドイツのH&K(ヘッケラー&コッホ)の P9S というモデルで、丁度この頃に日本の警視庁特殊部隊である特科中隊(SAP=現在のSAT)にも採用されていた銃である。この銃は作動方式がユニークで、射撃時の反動が少なく、連射しても高い命中精度が維持できる優れたシステムを持つ。
そっとマガジン(弾倉)を外して、弾丸の有無を確認する。
宏隆が愛用のベレッタとは違い、装弾は9発しかできないが、フル装填してあるところは流石に州警察官である。
予備の弾丸は見当たらないが、これで一応、銃が確保できた。
スライドを引き、チャンバーに初弾を送って撃てる状態にすると、宏隆は静かに寝室から出て、階下(した)の様子を窺った。
フィリップの声が聞こえてくる────────────
「さて、朝になる前に出かけるとするか・・・お前たち夫婦をボスの所に連れて行くから、たっぷりと可愛がって貰うんだな、あははは」
宏隆と話していた時とは雰囲気がまったく違って、ずいぶんドスが利いているが、やはり明らかにフィリップの声だ。
「ジェニファーは、お前たちとは何の関係もない。ここに置いていってくれ」
バリーの声がする。
「そうは行かない。残していったら通報されて面倒なことになるからな」
「オレは人種差別をしない。お前たちコリアン・アメリカン(在米朝鮮人)を差別したわけじゃない。犯罪者を法で裁いた・・・警官として当たり前のことをやっただけだ」
「お前にとってはそうでも、ボスにとっては大切な息子を殺した仇(かたき)でしかない。ま、あきらめるんだな。復讐の味は蜜の味、と言うしな──────────」
ギラリと、目を輝かせて、恐ろしいことを言う。
話の内容では、どうやらフィリップはコリアンアメリカンの犯罪組織の人間らしい。何かの犯罪事件において、そのボスの息子をバリーがやむなく殺害したのだろう。フィリップはそのボスの命令を受けて、バリーを強制的に連れ去ろうとしているのだと思える。
「When you curse someone, you dig your own grave. (人を呪わば穴二つ)という言葉もあるのよ。犯罪者が警官に復讐するのはお門違い、先ずは、いま自分が犯している罪をよく理解しなさい」
ジェニファーが落ち着いた声で、気丈にフィリップに言って聞かす。
「ふん、利いた風な口をたたくんじゃない!、この国のOinker(警察官の侮蔑語)にどれだけ犯罪者が居るか知っているのか。奴らが権力を利用した犯罪は後を絶たないんだ。おなじ欲望だらけの人間が、ただ立場の違いで正義ぶっていられるのと、生まれながらの犯罪者として開き直っているだけの違いだ。オレたちとお前たちは何も変わらない。ただ社会の裏か表か、どちらで生きているか、と言うだけのコトさ」
「ば、馬鹿な────────────そんな警官ばかりじゃないぞ」
「バカじゃないさ。本当はお前たちの心の中にも、悪人のマインドや罪の意識がどこかにあるはずだ。お前たちは人生を矛盾と感じながらも、生業(なりわい)として正義を演じているだけの、可哀想な奴らだ」
時おり難解な単語が出てくるが、会話の大意は何となく分かる。フィリップの正体がだんだんはっきりしてきた。
「さて、夜が明ける前に、出発するか・・・」
落ち着いた声でボソリとそう言うと、フィリップは抱えていたショットガンをソファに置き、椅子に括りつけたバリーの足のロープをほどき始めた。
おそらく、ロープを足から外し、歩けるように結び直すのだろう。
(よし、銃を手から放した。今だ・・・!!)
これを逃しては、二度とチャンスは無い。
宏隆には、そう思えた。
「動くな────────────!!」
素早く階段の上に躍り出ると、フィリップに向けてピタリと銃を構えた。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第140回の掲載は、9月15日(月)の予定です
2014年08月01日
連載小説「龍の道」 第138回
第138回 A L A S K A (7)
この、とんでもない眩しさは、普通のフラッシュライト(懐中電灯)ではない。
一般用とは明るさのケタが違うのだ。プロが用いるものに違いないが、それを直接顔に向けられているので、目を開けていられない。
それに、光を向けている相手には、明らかに敵意や警戒心のようなものが感じられる。
「誰だっ・・その光を降ろせ!」
だが、応答がない。こうなったら、その光源を叩き落として相手を確認するしかないと、即座に決心をしたが、眩しさのために距離感が取れず、戦闘の間合いが取れない。
その途端────────────
「ミスター・カトー?」
光を下に降ろして、相手が静かにそう言った。
「イ、イエス・・?」
光を遮っていた手を下ろして、まじまじと相手を見た。
「私はコールドフットの State Trooper(州警察官)です」
なるほど、黒い革のジャンパーなので見にくいが、目が慣れれば確かに警官の制服を着用していて、バッヂも付け、腰にはごつい蓋の銃のホルスターが見える。
人口の少ないコールドフットにはバリーしか駐在していないのかと思っていたが、やはり一人では緊急事態に備えられず、休みも取れないはずだ。背が高く筋骨の逞しい、この若い警官がバリーの相棒なのだろう。
ちなみに、警察官と言っても日本とは制度がかなり違っていて、連邦制のアメリカでは州や郡、市町村の各政府ごとに自治の権限が高く設けられており、いわゆる Police(ポリス)と呼ばれるもの以外にも警察活動を行う法執行機関が数多くあり、保安官から市警察まで、法執行機関の数は官民合わせて2万ほども存在する。
ポリスの起源は、もとは保安官を補佐した市民自警団にあった。市長が召喚した自警団が保安官を補佐して地域の治安維持に当たったのがその始まりである。全米各地に存在した自警団は19世紀に入って徐々に Police Department(警察署)として組織されて行き、今日に至った。
ポリスの語源は古代ギリシャにおける「城砦・防御に適した丘・都市国家」を意味する語であり、それがラテン語の Politia(民事行政)、フランス語の Police となり、英語でも都市の治安を守る人の意味で使われるようになった。
ついでながら、日本語の「警察」は明治時代に日本の警察制度が作られた際の新造語で、警邏(けいら)と査察から出来ている。警察という語は、その後中国を始め、朝鮮、韓国、台湾、ベトナムなどの漢字文化圏へと広がって行った。
「ポリス・オフィサーでしたか、いきなりライトを顔に向けるから暴漢かと思いました」
「失礼・・私たちの習慣で、事件が起こった時には、突然ドアを開けて現れた見知らぬ人間に対しては、必ずこのような行動を取るのです。念のため、あなたのIDを見せてもらえますか?」
「いいですよ、どうぞ中へ入って下さい」
宏隆が部屋に入り、すぐにパスポートを出して見せる。
「いま、事件と言いましたね。もしかして、バリーさんの身に何か・・?」
「ミスター・カトーですね、パスポートをお返しします。失礼しました、私はジェイムス・マグワイアと言います。同僚のバリーに頼まれてここに来ました。つい先ほど、バリーの家で火事があったのです」
「火事ですって!・・・彼や奥さんは無事ですか?」
「大丈夫、二人とも無事です。火事は Small Fire(ボヤ)で済みました。ただ、火の気の無いところからの不審火だったので、バリーはフィリップという男の行方を確認するよう私に命じ、そのことを貴方にも告げるように言われました」
「フィリップの行方を?」
「その男も貴方と一緒に彼の家に立ち寄ったということですが、貴方の友人ですか?」
「いいえ、コールドフット行きの飛行機に同乗していただけで、お互いに名前しか知らないような関係です」
「たった今、彼の部屋をノックしましたが不在でした。カフェにも駐車場にも見当たりません。雨で気温も低いので、外に居たいわけはないし・・・」
「フロントに頼んで、カギを開けてもらってはどうですか?」
「いや、捜査令状がないので、そこまでは出来ません」
「フィリップが、その不審火の犯人だというのですか?」
「それは分かりませんが、バリーの直感で、一応調べてみろと言うので・・・」
「なるほど・・・」
何となく暢びりした警官である。大自然の中で暮らしていると、こんな具合に大らかになるのかも知れない。話をしていると、また誰かが歩いてくる足音がした。
「やあ、ヒロタカ────────ドアを開けっ放しにして一体どうしたんだ? さっきからやたらと騒がしいけれど、何かあったのかい?、雨雲の隙間から珍しいオーロラでも見えたのかな・・」
「フィリップ・・・今までどこに居たんだ?」
「どこって、こんな夜中にどこへも行かないさ、ずっと部屋に居たけど?」
「でも、この警察官が君の部屋を訪ねても、返事がなかったと・・・」
「ああ、今シャワーを浴びていたんだけど、ちょうどその時じゃないかな。アラスカは水が豊富だから、節水を気にせず、たっぷり浴びられるから嬉しいね、ははは・・・」
確かに、シャワーを浴びたばかりのように、フィリップの髪はまだ濡れている。
節水の話も本当で、アメリカではトイレを洗浄する水の量にまで厳しい規制が設けられるほど、水不足が深刻である。
このアラスカ州では人口に対する水の量が有り余っているので節水条例は見当たらない。節水を呼びかけるのは、水道を引いていない個人経営の宿くらいである。
「フィリップ・ジェイソンさんですか?」
「そうですが、何か・・・?」
「ちょっと伺いたいのですが、シャワーの前後に、ホテルから外出しませんでしたか?」
警察官のジェイムスが質(ただ)した。
「外出?・・・いいえ、今夜は冷たい雨が降っているので、外へ行こうという気なんかにはなれませんでした。ずっとテレビを観ていましたが」
「そうでしたか、それでは結構です。ご協力ありがとうございました」
そう言うと、州警察官のジェイムスは、そのままフロントの方へ帰って行った。
簡単な質問だけで済ませるのは余りにも呆気ないが、もっと色々と尋ねて調べてくれと、宏隆が言うわけにもいかない。
(何て暢気なんだ、これではバリーの用が足りないじゃないか。やはりクマしか居ないようなところでは、滅多に犯罪も無いのかな・・・)
ちょっと呆れたが、宏隆にはどうにもならない。
「ヒロタカ、こんな夜中にポリスが訪問なんて・・何かあったのかい?」
「バリーの家が火事になったらしい」
「火事だって?・・バリー夫婦は大丈夫かい?」
「ああ、小火(ボヤ)で済んだようだけど、火の気の無いところから出火したというから、 Suspicious Fire(不審火)かもしれないって・・・」
「ははぁ、それでただ一軒のホテルの宿泊者を確認しているのか。でもボヤで良かったね、消防署も無いこんな辺鄙な所で大火事になったら、それこそ大変なコトだよ」
「そうだね・・・・」
「でも、不審火だとしたら、どうしてバリーの家に放火されたんだろう?」
「さあ、僕には分からないが、警察官という仕事柄、恨みを買うようなケースもあるんじゃないのかな」
「そうか、彼を恨んでいる人間が、その予告をしたのかもしれないな」
「え、 ”その予告” って・・・?」
変なことをフィリップが口走ったので、透かさず宏隆が聞き返した。
「あ、いや・・・恨みを買われているとしたら、誰かが彼を狙っているかも知れないから、そう思っただけだよ」
「おいおい、It's bad luck to say that.(縁起でもない)・・・」
「いや、これは失言だった。彼の身に何も起こらないことを祈るよ」
「今夜は遅いから、もう寝むことにしよう」
「そうだね。それじゃ部屋に帰るよ、お寝み────────」
「・・あ、そうだ、Toothpaste(歯磨き粉)を持っていたら貸してくれないか」
帰るフィリップの背中へ、声を掛けた。
「いいとも、ちょうど新しいのを買ったから、残っているのをあげるよ」
「ありがとう、まだ歯を磨いていないんだ。いま一緒に行くよ。キミの部屋はどこ?」
「反対側のA棟の、12号室────────」
「そういえば、僕の部屋がどこか、よく分かったね?」
前を向いたまま歩きながら、ボソリと宏隆が言った。
「いや・・・外が騒がしかったから、確かめようとして廊下を歩いていたら、開(あ)いていたドアの中に、偶然ヒロタカが居たんだ」
「そうか・・・・」
「さあ着いた、ちょっとここで待っていてくれ」
フィリップが部屋に入っていく。普通は人を待たせている時にいちいち閉めたりしないので、ドアは開いたままだ。
この「Slate Creek Inn(スレート・クリーク・イン)」には、部屋がひとつのタイプしかないと聞いている。たしかに、ここは宏隆の部屋と大きさや家具の配置も同じで、ツインのベッドとちっぽけなテーブルと椅子、そして奧にはバスルームが見える。
「お待たせ・・あまり残っていないけど、あと五回分くらいは使えるはずだ」
「うっかり買い忘れたので、助かるよ」
「よかった。それじゃ、お寝み────────」
「ありがとう、おやすみ・・」
フィリップがドアを閉めると、宏隆は急いで部屋に戻り、雨具の上下を着て非常用の出口からそっと外へ出た。
実は、宏隆はある目的のために、わざとフィリップの部屋へ行くようにした。
それは、そこに雨に濡れた衣類や、泥に汚れた靴があるかどうかを確かめるためである。
さっきフィリップが現れた時に、真っ先にその登場のタイミングが不審に思えた。警察官が自分の部屋にやって来たとき、まるでそれに合わせるように、少しだけ時間をずらして彼が現れたのである。
それはフィリップが警察官に自分の部屋を見せたくない為なのかもしれない。フィリップの表情を見て、宏隆にはそう思えた。濡れた髪も、シャワーではなく外の雨に打たれたせいかもしれないではないか。
だが、警官のジェイムスは彼の部屋まで行って確認しようとしなかった。だから宏隆が自らそれを確かめようと思ったのである。
歯磨き粉を忘れたというのは、無論フィリップの部屋を見るための方便である。
同じ間取りのホテルの部屋は、当然ながら物を置くところも自ずと決まってくる。自分がバッグを置きたくなるところは、他人もそこに置く確率が高くなるに違いないし、同じように、濡れた衣類があれば、それを掛けるところは限られているし、泥の付いた靴を置こうとする場所も、そう多くはないだろう。宏隆は、そう考えたのである。
けれども、フィリップの部屋には、濡れた衣類も、汚れた靴も見当たらなかった。
そして、いま宏隆が取っている行動の意味は────────────
(ここからは、出た形跡がないな・・・)
雨の中を、フィリップの部屋にほど近い非常口の外に立って、そっとドアを開けながらライトで足もとを照らし、泥靴で歩いた形跡が無いかを念入りに確かめているのだ。
だが、何も無く、ライトを消して再び外を歩き始める。
空はまだ暗い。アラスカでも、8月となればだんだん日の入りが早くなり、日の出は遅くなってくる。雨も降っているので夜明けの5時頃までは真っ暗だ。
宏隆が手にしているライトも、一般用のフラッシュライトではない。神戸の湾岸訓練場でトレーニングをしている時に支給された、小型ながら強力な光を発し、しかもレンズの色が赤、青、緑の三色に交換できる便利なものだ。
(それなら、ここはどうだ・・?)
光が誰かの目に留まらないよう、慎重に外壁を照らしていく。
宏隆はライトのレンズを緑色に取り換えてあった。
レンズを変更したのは、緑色は足もとを照らす程度の短い距離ではとても見やすく、明るく感じられるからである。緑色の光は夜目を保護しながらの手元の作業に向いているのだ。また、普通の白色ライトよりも目立ちにくいという利点もある。
赤い光は手元の細かいものがもっと見やすくなる。飛行機のコックピットは赤色灯であるし、登山家が夜に地図を見る時にも、目を痛めず地図の細部まで見える赤色が好まれる。
青い光は、文字よりも細かい傷などが見やすい。器械の製造などで検品をする際に青色灯を用いてチェックするのはそのためである。
(あった──────────────!!)
カーテン越しに小さな灯りの点っている客室の窓の下に、明らかに泥靴でそこをよじ登った跡が付いている。窓のすぐ下の地面にも、雑草を踏みにじった跡が見られる。
それは、フィリップの部屋の窓であった。
(どうやら、彼奴(あいつ)が雨の中を外出したことは間違いないようだな・・)
この事実を、早くバリーに知らせなくてはならない。
だがこの時代には携帯電話など、まだSF小説の中の話でしかない。しかも、ここには部屋にさえ電話が無い。宏隆は公衆電話があるロッジの入口まで走った。
この公衆電話はコインが使えないのでクレジットカードを入れるが、カードが読み込まれず、受話器から何の音も聞こえない。
「急いでいるのに・・・何故だ、なぜ繋がらない?」
ガチャガチャとフックを動かしてみるが、反応がない。
「ああっ────────!!」
ふと気になって覗いた電話機の後ろ側を見て、宏隆は愕然とした。
「電話線が、切られている・・・」
故障ではない。鋭利な刃物でコードを切断したことが有りありと分かる。
「そうだ、無線だ、無線があった。今こそ無線で連絡をしなくては────────」
宏隆はバリーから渡された名刺を思い出した。
急いでフロントに行き、カウンターのベルを鳴らすが、これも応答が無い。
「ハロー、誰か居ますか?、Emergency!(緊急事態です)、出てきて下さい!」
奥へ大声で呼んでみるが、シーンとしている。
「寝てしまったのかな?・・・ハロー、ハロー、誰か居ますか?!」
カウンターの中に入って奧のドアをノックしてみるが、何も応答が無い。
「仕方がない・・緊急事態だ、入りますよ!」
やむを得ず、そう断ってドアを開けたが─────────────────
「ううっ!・・・こっ、これは・・・・?!」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第139回の掲載は、8月15日(金)の予定です
2014年07月15日
連載小説「龍の道」 第137回
第137回 A L A S K A (6)
「さて、遅くならないうちに、そろそろホテルに向かわないか────────?」
戻ってきたフィリップがそう言って、もう席に座ろうとしない。
「そうだな、すっかりお邪魔をしてしまいました。ミセス・ボルトン、ブルーベリーパイをありがとう、とても美味しかったです。ご馳走さまでした」
宏隆が日本式にきちんとお辞儀をして、”ご馳走さまでした” と日本語で付け足した。
「まあ、日本語でお礼を言ってくれたのね?、遠くからのお客さまは大歓迎、滞在中に気が向いたらいつでも寄って下さいね」
「ありがとうございます」
「それじゃ、オレがホテルまで送って行こう────────」
入口の傍らに、よく使い込んだ赤い大きな4WD(四輪駆動車)が駐まっている。
紫外線が強いせいか、ほとんど赤黒く見えるほど色が褪せているが、外観は2ドアのピックアップトラックの荷台に、白い FRP(強化プラスチック)のカバーを付けたようなスタイルで、ボディに「Blazer」の文字があるので、GM(ゼネラルモーターズ)を代表する SUV(Sport Utility Vehicle=スポーツ・アクティビティ用の多目的車)、シボレー・ブレイザーだと分かる。
「・・そら、荷物をこっちへ寄越せ!」
バリーが手を差し出してきて、ブレイザーの荷台に二人のバッグを積み込む。
「ほう、二つとも、カバンの大きさの割にはずいぶん重いな・・」
そう言いながら、大きな手でバッグをバンバンと叩いた。
「コールドフットでただ一軒の宿屋は Slate Creek Inn(スレート・クリーク・イン)だ。ここから4マイル(約6.5km)ほど北へ走った所だ。15分もあれば着く」
「お休みの日なのに申し訳ありません。ありがとうございます」
「なぁに、これも州警察官の仕事のようなものさ。ここにはタクシーも無いからな。旅行者のお役に立てて何よりだよ」
ブレイザーは野太い排気音を響かせて走り出した。2ドアだが6人乗りで、広々とした後部座席の横幅は、身長176センチの宏隆がそのままゴロリと横になってもまだ余りがある。日本車には、今のところこんな大きなクルマは無い。
「良いクルマですね。フロントグリルに特徴があるので、V8・5,700cc、1st Generation(第1世代)、K5(フルサイズ)のシボレー・ブレイザーですね?」
運転席を覗き込みながら、宏隆がバリーに言った。
後にGMは'90年代に、その名も「ユーコン・デナリ」という、アラスカの大河とマッキンリー山の名を冠した車をGMCブランドで発売しているが、そのベースとなったのが、このブレイザーである。
「ほう、お前はクルマに詳しいんだな。そのとおり、コイツは'69年製で、もう6万マイル(9万7千キロ)ほど走っている。アラスカは何処へ行くにも、クルマか飛行機しか無いからな。自然条件が厳しい所だが、コイツはよく頑張ってくれているよ」
「アメリカの車は4WDでもスプリングが柔らかいと聞きましたが、おそらくこれはスプリングやダンパー(ショックアブゾーバー)を変更して、更に悪路に強くしてあるんですね?」
「初めて乗ったクルマで、よくそんな事が分かるな・・・だがご明察だ。コイツはダンパーがヘタったのを機に足回りを強化したんだ。
他にも色々とアラスカで生きのびるための工夫がしてある。たとえば、悪党や動物を載せるために、カーゴスペースには金網を巡らせてあるし、雪と氷に強いドイツ製のワイパーやラリー用のフォグランプ、追跡用のスポットライト、それに少しぐらいの水深なら川を渡れるように、マフラーエンドを屋根の高さまで上げてある。これで水深3フィート(1m)位まではイケる。もっとも車内は水浸しだけどな、わははは・・・」
言われて後ろのカーゴスペースを見れば、なるほど金網が張り巡らしてあって、動物や拘束した被疑者を押送できるようになっている。辺境の駐在警察官ともなれば、自分の車をパトカー並みに改造する必要もあるのだろう。
「流石はポリス・オフィサーですね。きっと緊急用のブランケットや食料、救急用具、それに武器なども積んでいるんでしょうね・・・」
フィリップが訊ねた。
「仕事柄、それは当たり前のことさ。地元の人間でも、冬はよくクルマがスタックして、運悪く通行止めの区間内でそれが起こると生命の危機に晒されるからな。川へ釣りに行ってもいつ熊が出るか分からない。ドライブもピクニックも命懸け、クルマに武器を積んでおくのも此処じゃ当たり前のことだよ」
「冬にまた、ここを訪れてみたいですが────────」
「ヒロタカ、やめておけ。きっとひどい目に遭うぞ、あははは・・!!」
そんな話をしているうちに、あっという間にホテルに到着した。
「さあ着いたぞ。宿泊は向こうの建物だが、こっちのカフェにホテルのフロントがある。困ったことがあったら何でもオレに言ってくれ。力になれると思うよ」
リアゲートを開けて、荷物を降ろしながらそう言ってくれた。
「バリー、いろいろありがとう。帰るときに、また顔を見に行きます」
「本当は、またウチのブルーベリーパイを食べたいんだろう!」
「Precisely !!(ご明察!)」
「あはははは・・・・」
バリーが笑って走り始めたが、20メートルほど行ったところで急に停まって、
「Hey, Hiro-taka ────────!!」
窓から手招きをするので、忘れ物でもあったかと、小走りに行ってみると、
「気をつけろよ。アイツはどこか怪しい、何か企んでいるかも知れない。少しでも気になることがあったら、カフェからオレに電話をするんだ。こんな僻地だからカフェには無線の設備もある。このカードを見せれば無線でも連絡してもらえる。分かったな・・・」
小声でそう言って、フィリップに見えないように自分の名刺を渡す。裏には「Please contact me by radio. -BB-(無線で連絡してくれ。B.B.)」と書かれている。
「分かりました。でも、ぼくのコトは怪しくないんですか?」
「確証はないが・・まあ、長年のカンだ。多分、お前は悪いヤツじゃない」
そう言ってウインクをすると、勢いよくブレイザーのアクセルを吹かして去って行った。
コールドフットで唯一のホテル「Slate Creek Inn(スレート・クリーク・イン)」は、敷地に大型トラックやトレーラーが何台も停まっていて、イメージとしてはホテルというよりもドライブインにロッジが付随したような形式の宿泊施設に思える。
バリーがクルマを駐めたところには丸太造りの小さなカフェがあり、その横には自動車の整備工場とガソリンスタンドが並んでいて、粗末だが星条旗を掲げた郵便局まであるし、道路を挟んだ向かい側にはバラック建ての宿泊用ロッジが見える。
カフェは見るからに小さいが、けっこう賑わっている。この先、北極海に面したプルドーベイの町まで 246マイル(約400km)の間はサービス施設が全く無い原野が続くので、給油や休憩を取るトラックのドライバーたちが必ず立ち寄るのだろう。
ここはアメリカ最北端のドライブインに違いない。
「My name is Kato. You have my reservation. (加藤と言います。私の予約が入っているはずですが)」
ゴールドラッシュの頃に在ったような、木造のバーのような雰囲気に造られたカフェの扉を開けて入り、フロントと思われるカウンターでそう告げた。
「アメリカ最北のホテルへようこそ。お名前のスペルを教えて頂けますか?」
「K. A. T. O. です」
「ミスター・ケイトー・・Yes, we have your reservation.(ご予約を承っています)、三泊のご予定ですね。そちらはお連れ様ですか?」
「ケイトーではなく、カトーと読みます。エアポートから、State Trooper(州警察官)のミスター・ボルトンのお世話になり、家から送ってきて貰いました。それから、私は独り旅なので彼とはまったく関係ありません」
見知らぬ土地で、地元でよく知られた警察官に車で送って貰ったということが、どれほど相手に安心感や信頼を与えるかは計り知れない。そして外国の旅では常に自分自身と周りに起こる物事をハッキリさせるということが必要になってくる。
この場合では、自分の名前の正しい読み方や、一緒に来た男が連れではないと表明することで、自分の立場を曖昧にせず、ハッキリと物を言う姿勢が相手に伝わり、その結果、相手に安心感が生まれるのである。
外国人に向かって、言葉が喋れないと言うだけでどっちつかずの曖昧な笑みを浮かべ、相手の顔も見ずに、英語でどう言えば良いかを黙って考えているような日本人をよく見かけるが、こちらは謙譲の美徳のつもりでも、海外ではそのような態度は不気味に思われるだけで何も通用しない。
「失礼しました、Mr.Kato はポリスオフィサーの B.B. (Barry Bolton)とお知り合いでしたか。それではご案内しましょう。カフェはロッジのフロントを兼ねています。道路と気象状況のインフォメーション、飛行機の予約、電話の取り次ぎもできます。
カフェは24時間営業で、いつでも温かい食べ物を提供できますが、ドライブインを兼ねているので酒類の持ち出しは出来ません。部屋は全室がツインのタイプでバスルームが付いています。部屋に電話は無いので、ロッジの入口にある Pay Phone(公衆電話)を使ってください。電話にコインは使えません。クレジットカードかコーリングカードをご利用下さい。ルームサービスは無いので、夕食はこのカフェでどうぞ。予約は必要ありません。
以上です、何かご質問は────────?」
「取り敢えず三泊と予約しましたが、都合で延長しても大丈夫ですか?」
「結構ですよ。変更があれば早めにお申し出下さい。ちょっと天気が崩れてきましたが、きっと三日もあれば綺麗なオーロラを観ることができますよ!」
「ありがとう────────────」
「ワォ、日本人なのに・・キミはスゴイなぁ!」
そのまま部屋に向かおうとする宏隆を、フィリップが呼び止めた。
「え・・なんのこと?」
「今チェックインで、You have my reservation.(予約がある筈だけど)と言ったよね。普通は I'd like to check in. とか、I have a reservation.(予約をした者ですが)というのが一般的なのに、若いアジア人にそんな威厳のある言い方ができるのはスゴイって思ったんだよ。恐らくそれはキミが上流家庭で育ったからかな。若いのに堂々としているし、きっと執事や使用人の居る邸宅で優雅に育った人間に違いない・・・」
確かに、宏隆のその表現は、日本人にしてみれば、ちょっと威圧的で上から言っているような感じがする。こんな言い方をする人は欧米にも滅多に居ないので、有色人種から堂々とこう告げられると、一流ホテルのフロントマンでも少々ドギマギするかも知れない。
「あはは、そんな風に見えるかい? さっきの言い方は単なる父親の口真似だけどね」
「それじゃ、きっとヒロタカのお父さんは上流階級の人間なんだね」
「上流階級と言うよりは、サムライの方が近いかも知れないな・・」
「Oh、サムライ────────────?」
「それより、君も早くチェックインを済ませた方が良い。何しろ、250マイル(400km)四方は見渡すかぎりの原生林だ。もし此処に泊まれないとなると、今夜は森の中で野宿をするしかない」
「ヒロタカ・・ものは相談だけど、ここのホテルは全室ツインだから、いっそ同じ部屋に泊まって料金をシェアし合うっていうのはどうだい?、経費が半分節約になるし」
「折角だけど、ウチのファミリーは兄弟でも別々の部屋で寝るのがポリシーなんだ。何しろ上流家庭だからね、君も独りでゆっくりするといい・・・それじゃ、良い旅行を!」
あっさりそう言うと、バッグを担いでさっさと部屋に向かって行く。
宏隆の冗談が分かったかどうか、フィリップは呆気にとられたような顔をして、ロビーの真ん中で突っ立っている。
今は上手く躱(かわ)したが、フィリップが宏隆のことをつぶさに観察し、それがことごとく的を得ているばかりか、こんな具合に執拗に付きまとってくることが気になる。
アイツはどこか怪しい、とバリーが言った事と併せて、もう少し気を引き締めなくてはいけないと、宏隆は思った。
夕方になると、けっこう肌寒く感じられる。
気温を見ると摂氏4度で、だんだん此処が北極圏だという実感が出てくる。
コールドフットでは夜の10時を過ぎても日が沈まないが、雨で厚い雲が掛かった空のおかげで、少しは夜らしい雰囲気がある。
日課である様々なトレーニングと、王老師に教わった特別な訓練法、そして小架の套路を練習してからシャワーを浴び、夕食を摂りにカフェに行く。
カフェはロッジを出て道の向こうにある。途中には外灯が一つも無いが、8時を過ぎてもまだ十分明るいので、フラッシュライトを持つ必要もない。
カフェには Coldfoot Camp Trucker's Cafe(トラック運転手のカフェ)という名前が付いていて、メニューの黒板には凍り付いた靴下(Coldfoot)のイラストがユーモラスに描かれている。
メニューは数種類しかない。文字だけを見て何の気なしに「トラッカーズ・スペシャル」というのを注文したが、出てきたその量に驚かされて、しばし呆然とした。
まず、添えられた目玉焼きが小さく見えるような大量のホワイトソースのビーフシチューが載った大皿と、その横に山のように盛られたフレンチフライドポテト、別の中皿には具がたっぷりのチリコンカンがあり、加えて別の中皿には、子供用のドッヂボールのような大きさのバンズに、ビーフステーキかと思えるほどの大型のパティを夾んだものがデーンと出てくる。大皿などは中華料理なら四人前を載せてくるような大きさなのである。
流石の宏隆もこれには参ってしまい、ウエイトレスにハンバーガーは部屋に持ち帰ると告げると、そこらの新聞紙を持ってきてガサガサッとラフに包み、ニコリと愛想笑いをした。
その夜、コールドフットは冷たい雨になった。
珈琲を持って部屋に戻り、夕食を少しでも消化させようとベッドにゴロリと横になる。
ホッとして昼間の疲れが出たのか、宏隆はいつの間にか心地よさそうに微睡(まどろ)んでいった。
どのくらい時間が経ったのか・・・ふと、外の騒がしさに目を覚ました。
外の廊下を、ドタバタと慌ただしく走り回っている音がする。
時計を見ると、夜中の1時を少し回った所を指している。さすがに窓の外は暗い。
「何かあったのかな?─────────────────」
起き上がって、ドアを開けて外の様子を見ようとすると、いきなり誰かが強烈なライトを宏隆の顔に向けて照らした。
「うっ・・誰だっ、何をする──────────────!!」
手で光を遮りながら、そう叫んで、身構えた。
(つづく)
【 Coldfoot Airport(コールドフット・エアポート)】
写真では短く見えるが、滑走路の長さは4,000m以上ある。
右側は石油のパイプライン。
【 Coldfoot Camp・Slate Creek Inn 】
コールドフットで唯一のホテル、スレート・クリーク・イン。
【 トラッカーズ・カフェの隣にある郵便局 】
*次回、連載小説「龍の道」 第138回の掲載は、8月1日(金)の予定です
2014年07月01日
連載小説「龍の道」 第136回
第136回 A L A S K A (5)
紛れもなく、ここは北極圏なのだと思える。
8月の真昼だというのに、手許の小さな温度計は6.5度を指している。流石にまだ雪こそ降ってはいないが、コールドフットでは最低気温がそろそろマイナスになり始める頃だと、フェアバンクスのホテルマンが言っていたのを思い出した。
滑走路を歩いていると、この飛行場が見た目よりも大きく広いことが分かる。
向こうに見える建物までわずか2キロほどの距離だと思えるのに、いくら歩いても其処がなかなか近づいてこない。川面を渡ってくる冷たい北風が向かい風で吹き付けてくる事も、歩くことを妨げているような気がする。
「すぐそこに見えているのに、何だかずいぶん遠いね・・・」
フィリップ・ジェイソンという、その男が笑顔で話しかけてくる。
「ん、ああ、・・・・」
宏隆は、あまり気が乗らない返事をした。
「ところで、キミの名前はヒロタカ・・えーっと、ファミリーネームは?」
「KATO ──────── ケー、エイ、ティー、オウ、だよ」
「ああ、ケイトーか、なるほど。よく聞く日本人の名前だね」
「ケイトーじゃぁない、それはアメリカ読みだよ。正しくはカトウと読むんだ。キミの名前のJaisohn(ジェイソン)だって、スペイン語読みならハイソォーンになるけど、誰もそうは呼ばないだろう?」
「Oh、失礼!、テレビの ”グリーン・ホーネット” で、カラテを使うケイトーが出てくるので、つい・・そうか、カトーと読むのか、ヒロタカ・カトーだね」
「そうだ。僕のことはヒロタカと呼んでくれて構わない」
余談ながら、龍の道の読者なら、きっと「グリーン・ホーネット」をご存知だろう。
ブルースリーの出世作となった米国のテレビ番組で、バットマンの相棒ロビンのように、主役のグリーン・ホーネットの助手として共に悪と戦う武術の達人を演じたが、その名前が日本人名のKATO(加藤)で、番組の中では ”ケイトー” とアメリカ読みで発音されている。
ブルースリーはこのケイトー役で有名になった。この番組は香港では ”The Kato Show” という名で知られ、そこでの人気が後にリーが映画で成功するきっかけとなった為に、アメリカでは今でも彼が日本人だと信じている人も多いのである)
「OK、サンキュー、ヒロタカ。ところで、キミはなかなかシャープ(Sharp=頭の切れる、油断の無い、鋭い)な人だね」
「シャープ?・・・ボクが?」
「だって、真夏の旅行だというのに長袖のシャツを着ているし、ポケットがたくさん付いた厚手のカーゴパンツを履いている。さっきは飛行機から出ると同時に、冷たい北風を避けるために素早くカバンからパーカを取り出して着たし、今もポケットから小さな温度計を出して外気温を確認していたよね────────」
そう言う本人は見るからに無防備で、半袖シャツ一枚に薄手のパンツ、足は素足にスニーカーという恰好で、いかにも寒そうに腕組みをしながら歩いている。
宏隆のバッグには台湾海軍から貰った迷彩ジャケットも入っているが、まだ身元も人格も定かではない相手に、わざわざ上着を貸してやる気にはなれない。
「それに、その靴ときたら・・・」
フィリップが、さらに続けて言った。
「一見トレッキングシューズに見えたけど、実は軍用みたいなゴツいブーツときている。
その帽子も、雨を弾くオイルクロス製だよね。きっとバッグの中には、何処でどんな目に遭っても生きて行けるような Survival Tools(サバイバル・ツール)がたっぷりと詰められているんだろうなと容易に想像がつく。だからキミはシャープで、とても用心深い性格なんだと思えたんだ」
「ははは・・・I am just sensitive to the cold.(僕はただ寒がりなだけだよ)、それにバッグの中身なんか、古いシャツとガラクタを放り込んでいるだけだし」
そう言って、宏隆はバッグをポンと叩いた。
ちょっと意外だが、アラスカを行く旅行者たちは、みな軽装でTシャツとショートパンツにバックパックというスタイルが多い。もっとも、アメリカ人は世界中どこへ行ってもその恰好が多い。宏隆のような出で立ちはアメリカでは却(かえ)って目立つのかもしれない。
ともあれ、初対面だというのに、何故かこの男は自分を必要以上に細かく観察し、分析するような目で観ている。それが妙に宏隆のアンテナに引っ掛かった。
何故わざわざ、そんなことを宏隆に言うのか────────────
これではまるで、自分は敵で、お前を細部に亘って観察しているぞと、わざわざ相手に宣言しているようなものではないか。
(でも、敵だったら、そんな事をストレートに言うはずがない。それに・・・)
それに、見知らぬ他人に対しては先ず疑ってかかる、という事は訓練で身に付けた習慣だが、そうは言っても、一般市民に対して普通に付き合えないのは大きな問題だ、と宏隆には思えてしまう。
「カトーと言うからには、キミは日本人かい────────?」
「ああ、そうだよ」
努めて平静に、普通に答えたが、
「ふぅん。ちょっと見たところ、あまり日本人には見えないけれど・・・」
こんな場合、May I ask you where you are from ?(出身はどこですか)などと訊くのが初対面での礼儀だが、まだ若いからか、アメリカ生活が長いせいか、不躾(ぶしつけ)にそんな言葉を返してくる。日本人かと訊いてくるクセに、日本人には見えないと言う、そんな失礼な言い方も、宏隆にはちょっと違和感が感じられてしまうのだが、
「そうかい? わが家は代々、リアル・ジャパニーズ(歴とした日本人)だよ」
サラリと躱して、なるべく相手にならず───────────まあこんな人間も居るのだろう、自分は少し神経質になり過ぎているのかもしれないと、そう思うことにして、フィリップに気付かれぬよう、そっと深呼吸をした。
「やれやれ、やっと着いたか────────」
折からの寒風を突いて、30分近くは歩いただろうか。広い滑走路の外れにある、太い丸太でつくられた小屋の、小さな扉の前に二人で立った。
ノックをしても、何も応答が無い。
「誰もいないのかな────────────」
フィリップが鼻水を啜りながら、背中を丸めて不安そうに言ったが、しばらく待っていると、中から人が出てきた。
「旅行者かね・・・どうかしたかな?」
ヒゲ面の大男がドアを開けて、ジロリと二人を見た。
山男のような野太い声に、着込んだ赤いフランネルシャツがよく似合っている。
身長は180センチを軽く超えて、体格は良いが、太ってはいない。意図して鍛えられた、頑丈な体だということが分かる。
「こんにちは。私たちはたったいま飛行機で到着した旅行者です。迎えも案内も無いので、ホテルの場所を教えて欲しいのですが」
宏隆が礼儀正しくそう尋ねると、その男は少し警戒を解いたような顔をして、
「コールドフットにはホテルは一軒しか無い。ドライブインも一軒、ガソリンスタンドも、郵便局も、レストランも一軒ずつしかない。ホテルには歩いても行けるが、ちょっと距離があるからオレが送ってやろう。中の電話を使ってホテルに連絡しておくといい」
親切に、そう言ってくれた。
旅先で他人の親切に触れると、人情が身に染みる。
「あら、お客さまですか────────?」
薄暗い室内から、女房らしき人がエプロン姿で出てきた。
西部劇にでも出てきそうな、ちょっとひと昔前の雰囲気がある女性である。
「旅行者だ。これからホテルに案内してやる」
「まあ、ちょっとお入りなさいな。ちょうど美味しいパイが焼けたところよ」
「ははは、君たちは運が良いぞ。ウチのカミさんのパイは、自称アラスカで一番だからな」
「あら、アラスカじゃなくて、アメリカで一番よ!」
「さあ入って・・オレはバリー、Barry Bolton だ。ここじゃ皆に B.B. と呼ばれている」
「ヒロタカ・カトウです、ご親切にありがとう」
「僕はフィリップ・ジェイソン────────よろしく」
握手を交わす、その握力がものすごい。
「ミスター・ボルトン。失礼ですが、お仕事はこの空港の関係ですか?」
宏隆がそう尋ねた。
「バリーと呼んでくれ。家内はジェニファーだ。オレは State Trooper(州警察の駐在員)なんだ。今日はオフで制服は着ていないがね。だが、コイツを持てばいつでも出動できる。散歩中にグリズリー(ハイイログマ)が出たらいつでも呼び出してくれ、あははは・・・」
磊落にそう笑って、壁に掛けてある黒光りのするショットガンをポンと叩いた。
「さあどうぞ、温かいハニー・ミルクティーも入っているわよ!」
勧められるままに分厚い木で出来た円いテーブルに着くと、大きなパイが中央にデンと乗っている。奥方がそれを切り分けると、中から濃い紫色のフィリングが覗いた。
「ブルーベリーパイよ。お好きかしら?」
「好きです、とても良い香りですね。それに、すごく巨きい!!」
「The Bigger, The Better.(大きいことは良いことだ)って言うだろ、あははは・・」
「日本でも、ちょっと前にそんなCMがあって、流行語になりました」
「ほう・・ヒロタカ、キミは日本人か?」
「そうです」
「英語が上手い。やはり日本人は頭がいいんだな。この国のジェット戦闘機も、日本人のアタマがなきゃ全く飛んでくれないと、軍の友人が言っていたが」
「僕はたぶん頭が悪い方です。英語は子供の頃から、周りに外国人の友だちが居ましたし、貿易商の父に英会話を特訓されましたから、お陰で少し喋れるんです」
「さあ、どうぞ。たくさん召し上がってね────────」
「うわぁ、これは美味しい・・アメリカで一番というのも充分頷けますね!!」
「お世辞を言ったら、責任を取って全部食べてもらうわよ!」
「本当に美味しいです。こってりとしたミルクティとの相性も抜群。使っているミルクや蜂蜜がすごく美味しいですね」
「あなたは、かなりの Gourmand(食いしん坊・食い道楽)みたいね・・・」
「でも、アメリカの北の外れの北極圏で、こんな立派なブルーベリーがどうして手に入るんですか?」
「こんなもの、森に入ればそこら中に生えているんだよ。アラスカじゃクマもウサギも、みんなコイツを食べる。だから我々人間サマも、負けずにこうして頂くのさ、あははは!」
バリーがそう言って笑う。
「ちょうど今の季節が一番収穫できるのよ。ほんの少し森に入れば採りきれないほど実が生っていて、長い冬に備えて、ジャムにしたり冷凍しておいたりして、たくさん保存しておくの。さあ、たくさんお食べなさい」
皿からはみ出しそうな、分厚く大きなブルーベリーパイの横に、更にこれでもかと思えるほど大きなバニラアイスクリームを二つも乗せて、盛んに宏隆たちに勧める。このアイスクリームも濃厚なミルクの匂いがしている。
「ところで、アラスカには何をしに来たんだ?、夏休みの旅行かい────────」
パイをフォークで口に運びながら尋ねてくる。この大柄な州警察官の前では、大きなフォークも巨大なパイも、とても小さく見えてしまう。
「来月から UAF(University of Alaska, Fairbanks=アラスカ大学フェアバンクス校)に入るので、その前にぶらりとアラスカを散策しているんです」
「ほう、アラスカ大学か・・・そっちはフィリップと言ったな。キミはこんな所まで、遙々何しに来たんだい?」
「あ、何しにって・・ただ北極圏に来てみたかっただけです」
「ふうん。北極圏ってのは、ただ寒いだけだが、そんなにステキなところかね・・・」
「はい、オーロラも観てみたかったですし・・・」
「私たち住人はオーロラなんかちっとも珍しくないけれど、観光でやって来る人たちは随分感動するみたいね」
サイドボードの上にあるオーロラの写真を見ながら、女房が言った。
珍しくないと言っておきながら、わざわざこんな大きなオーロラの写真を飾っているところが、宏隆には微笑ましく思える。
「────────ところで、キミは銃に興味があるのか?」
モグモグとパイを頬張りながら、バリーが少し鋭い目でフィリップを見た。
「え・・ど、どうしてですか?」
フィリップがちょっと慌てて、パイの欠片を皿に落とした。
「さっきから、壁のショットガンを気にして、チラチラ見ているだろう?」
「あ、ええ・・よく使い込まれた、美しい、見事な銃だなぁと思って、つい見惚れていたんです。すみません・・・」
「別に謝ることはないさ。あれは国境警備隊だったオレの親父が使っていたものだ。キミは銃が好きか?」
「いえ、銃に興味はありませんが、芸術品のように美しいので、つい・・・」
「そうか・・・ちょっと持ってみるかい?」
バリーが椅子から起ち上がった。
「え、良いんですか?」
「ああ、家の中で引き金さえ引かなきゃな・・・ほら、持ってみな!」
「うわぁ、すごいなぁ、ズシリと重くて──────────」
「ブラウニングのA5だ。重さは軍隊のライフルとそう変わらない。今は弾丸が入っていないがな・・・」
Browning は、日本ではブローニングと呼ばれている。
A5(Automatic 5)とは装弾数が五発の、半自動散弾銃のことである。
「どうやって構えるんですか?」
「これか?・・これは、こうして────────────」
さすがは州の警察官である。奥の壁に掛けてあるムースの角を標的に見立てて、ピタリと銃床を肩に着けて構えた姿は見事で、4kgの重さが全く感じられない。いかにもベテランの州警察オフィサーである。
「へえ、すごいなぁ・・・」
それよりも、どう構えるのかとフィリップに訊かれても、そのまま銃を構えさせず、自ら手に取って示したことも、宏隆には流石はベテランのプロだと思える。
若い旅行者とは言え、自分たちが犯罪者でないという確証は何も無い。たとえ弾丸が入っていなくても、初対面の人間に室内で無暗に銃を構えさせるような事を、その道のプロが許すわけがないのだ。
(しかし──────────────)
宏隆は、少しばかり不思議に思えた。
なぜ彼はわざわざ、フィリップに銃を持ってみるかと尋ねたのだろうか。それに、持ってみるかと言いながら、家の中で引き金さえ引かなきゃな、とか、今は弾丸が入っていないなどと、わざわざ念を押すようなことを付け加えている。
フィリップは、すぐにブラウニングをバリーの手に戻し、席に着くと黙々とブルーベリーパイを食べた。
「・・ああ美味しかった、ご馳走さま。ちょっとバスルームを借りてもいいですか」
「どうぞ。そこの突き当たりを右に曲がった奧のところよ、ご案内するわ」
「ありがとう────────」
丸太小屋と言っても小さな小屋ではない。このまま B&B(Bed and Breakfast=朝食付きの宿泊施設)にしても良いような広さで、リビングには石造りの暖炉もあるし、天井も高く、立派な二階も造られている。バリーが仕留めたものだろうか、暖炉の前には灰色熊の毛皮が敷かれている。
「なあ、ヒロタカ・・つかぬ事を聞くが、彼奴(あいつ)はお前の友だちかい?」
フィリップが手洗いに立った途端に、バリーが宏隆に訊ねた。
「いいえ。フェアバンクスから飛行機でたった二人の客となって、降りてから初めて声を掛けてきて、取り敢えず一緒にここまで歩いて来ただけで、全くの初対面です」
「ふうん、やっぱりな────────────」
「友だちじゃないように見えますか?」
「いや、友だちと言うよりは、まるで Enemy(敵)のように見えるから訊いたんだ」
「Enemy?・・・何か、気になることでも?」
「オレは仕事柄、その人間がどういう職業か、大体分かるんだよ」
「彼の職業が、どうかしましたか?、僕と似たような年齢なので、アメリカのどこかの州に住む学生かと思っていましたが」
「いや、学生じゃない。あれはもう社会人の顔だ。それも・・・」
「それも・・何ですか?」
「ちょっとアブナイ臭いのする社会人、ってヤツだ」
「危険な臭い────────────?!」
「ああ、ある意味じゃお前もそうだけどな、ヒロタカくんよ・・・」
「え・・な、何を言うんですか、ボクはただの・・・・」
「誤魔化すなよ、オレはウソは嫌いだし、目は節穴じゃない。若いのに、お前も多分に危険な臭いがするヤツだ。どういうタイプの職業なのかは未だ分からないが。ただ、お前には彼奴(あいつ)みたいな邪悪な Aura(オーラ)を感じないし、話し方も堂々としているから恐らくそんなに悪い人間ではないと思える。だからこんな話をしたんだよ」
見渡す限り何も無い、文字どおり地の果ての北極圏に住んでいると、危機や危険を嗅ぎ分けるような感覚が自然と鋭敏に研ぎ澄まされてくるのかもしれない、と宏隆は思った。
だが、相手は州警察官である。そこまで言われると、一応自分のことを説明しておかなくては、いつ何どき逮捕されても不思議はない。宏隆のバッグの中には、熊に立ち向かえるような特殊部隊用の大型ナイフやツールナイフ、防刃用のグローブ、ラペリング用具、暗号表の書かれたノート、台湾軍のジャケットやファイアー・スターターなどが入っている。もし調べられれば、普通の留学生でないことは一目瞭然である。
「参ったなぁ。仰るとおり、僕は決して悪い事をしている人間ではありませんが・・・」
「・・待て、奴が帰って来た────────────」
バリーが手のひらを小さく返して、宏隆の言葉を制した。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第137回の掲載は、7月15日(火)の予定です