*#51〜#60
2014年02月24日
練拳Diary #56 「学び方 その9」
by 教練 円山 玄花
人間は、何のために生まれてくるのだろうか──────────────
そのようなことを考え始めたのは、確か中学校に入学した頃だったと思います。
自分という存在に意義を見出せず、自分がこの世に生まれてきた意味を考えては悩み、答えが出てきては消えていくという毎日の繰り返しでした。
そうして得られた最初の気付きは、「生まれてきたことに意味などない」ということ。
生まれてきたことに何か意味があるのではなくて、ただ生きるために、活き活きと生きるためにこそ、自分は生まれてきたのだと思い至ったのです。
その後も探求は続き、「生きる」ということは、たとえば人間にとって、一体どういうことであるのかを考えました。
生きるとは、自分にとって見るもの触れるものの何もかもが新しく、人とも物事とも、全て自分とは異なる質を持つものと関わらなくては生きてはゆけず、またそれはお互い様であり、誰もが同じ条件を与えられているということ。
そう考えると、自分がこの世に生まれた不思議を、一層深く感じざるを得ませんでした。
そのような中で自分なりに見出した回答は、人がこの世で「生きる」ということは、「学ぶ」ことに他ならないということです。
はじめは漠然としていたその解答も、多くの人と接し、様々な物の見方・考え方を知る過程を経て、やがて確信するようになりました。
「生きる」ということは、「学ぶ」ということ。
生まれてから今日まで、自分の関わったことの全てが、新しいことなのです。
それはたとえば、ひとつの環境で気心の知れたお馴染みのメンバーと、毎日同じ仕事をしていたとしても、1日として同じ太陽が昇ることは無く、関わる人もまた、昨日と同じ状態の人はいないのです。
植物を観察してみれば、それは分かりやすいかも知れません。
一粒の種を播くと、それほどの時間を掛けずに芽を出します。
芽は見る間に葉を開き、さらに伸びていきます。
昨日三枚だった葉は、今日は五枚に数を増やし、一本の茎から何本もの枝を伸ばし、それらの枝がしっかりとした緑色になる頃には、ふっくらとした蕾をつけ、固く締まった種からは想像も出来なかったような鮮やかな花を咲かせます。
面白いのは、ある程度大きくなると、まるで成長の進み具合が遅くなったように感じられることです。
梅や桜など、自分が初めて見たときからそこに一本の木としてあったものなどは、まるで毎年その木が同じように同じ花を咲かせるかのような錯覚をしてしまいます。
実際には一年間で枝はずいぶん伸びているし、木の皮の色も違います。つける蕾の数も、咲く花の色も、全てが新しくなっています。
実際には、自分も含めて、自分と関わる生きとし生けるもの全てが毎瞬新しく変化しているわけですから、そのような環境で必要とされる順応性や協調性、そして得られる学びの深さは、私たちが考えている以上のものであることが想像できます。
人生は、毎日が冒険だと言っても過言ではなく、冒険には常に危険が伴います。
そして、危険と隣り合わせであるからこそ、磨かれる感覚や引き出される能力があると言えるでしょう。
その過程こそが、「学び」に他なりません。
けれども人は、一方でどうしようもなく安全・安心・安定を求める性質を持っています。
仕事、収入、家庭、進路、環境・・。
難しいことはしたくない、自分にできることならやってみたい。
きっぱりとそう言ってのける人には心底驚かされますが、反対に、自分にできることをやっていて何が楽しいのか、何か新しいことが身に付くのだろうか、と思うのです。
もちろん、好んで危険な方を選べというわけではありませんが、安全な状況の中で得られることと、危険な状況の中で得られることの二つを考えてみれば、どちらが自分を成長させてくれるのかは、明白です。
新しいことに対しては、誰も最初から免疫など持ってはおらず、立ち向かっては失敗し、失敗しては立ち上がることを繰り返しながら、少しずつ自分のものにしていきます。
そこでは一体何が起こっているのかと言えば、「受け容れること」に他なりません。
向き合った物事や生じた問題に対して、それをどれ程細かく分析しようとも、細分化して様々なデータを取ろうとも、決してそれを理解したことにはなりません。
畑で取れた一個のトマトを理解するには、食べるしか方法はないのです。
まさに、自分に「受け容れる」というわけです。
考えてみれば、太極拳を学んでいても、自分がぶつかって超えられない壁だと感じられることは、皆自分が理解できないことであり、それはそのときに自分と相容れない状態であることが多いと言えます。
つまり、受け容れられないということです。
そこには必ず、「自分はこう思う」とか、「これだったら分かる」などといった、自分側の都合が入っているはずです。けれども、対象が何であっても、自分の好きなところだけ受け容れるということはできないのです。
ひとつ、私が大好きな、古い古い昔話を紹介したいと思います。
それはまだ、神様がよく地上に住んでいた頃のお話です・・
◇◆◇◆◇◆
ある日、ひとりの年老いた農夫がやってきて、こう言いました。
「いいですか、あなたは神かもしれないし、世界を創ったかもしれない。
でも、私は一つのことだけはあなたに言わなければなりません。
あなたは農夫ではないのです。あなたは農業のいろはさえ知らないのです。
少しは学んだらどうですか」と。
神さまは言いました。
「どうしたらいいのかね?」
農夫は言いました。
「私に一年という時間をください、そしてものごとをただ私の言う通りにしてください。
それでどうなるか見てほしいのです。貧困はすっかりなくなっているでしょう!」
神さまは喜んでそうしました。そしてその農夫には、一年が与えられました。
当然、彼は最も良いものを求めました。
彼は最も良いこと・・・
雷鳴はない、強い風はない、穀物に危険はないといったことしか考えませんでした。
あらゆることが快適で、心地よかったので、彼はとても幸せでした。
小麦は本当に高く育っていました。
太陽が欲しいときには太陽が照りました。雨が欲しいときには雨が降りました。
しかも、彼の好みに応じてです。
この年は全てに間違いがありませんでした。数学的に正しかったのです。
小麦は非常に背高く育っていました。農夫はよく神さまの所に行って、こう言いました。
「見てください!、今度の穀物は、たとえ人々がこれから先十年は働かなくても十分なほどになるでしょう!」
けれども、穀物が刈り入れられると、中には小麦がありませんでした。
農夫は驚きました。彼は神さまに尋ねました。
「どうしたのでしょう?、何が上手く行かなかったのでしょうか?」
神さまは言いました。
「チャレンジがなかったからだ。争いがなかった、軋轢がなかったからだ。
お前が悪いものを全て避けたために、小麦は能力がないままだった。
少しの争いは必ず必要なものだ。
風は必要だ。雷鳴、稲妻は必要だ。彼らは小麦の中の魂を揺り起こす」
◇◆◇◆◇◆
小さい頃に昔話として読み聞かせてもらった、大きくなっても色褪せることのない、大好きな物語のひとつです。
便利さが溢れる現代社会に於いて、何かこういう大事な感覚が失われつつあるような気がします。
ものごとを学ぶために必要なことは、そこで自分のやるべきことを取捨選択したり探したりするのではなく、全てが必要なこととして、受け容れることです。
りんご農家の木村さんが、りんごの敵である病気や害虫を駆除しようとしても、問題は解決しませんでした。畑の土と、りんごの木と、それを取り巻く全ての環境のバランスに気がつくことが必要だったのです。そのバランスには、人間が敵だと思っていた病気も虫も、全てが含まれていました。
道場で稽古をするにあたって、用意されている様々な決まりは、全て学ぶ人が受け容れる準備を整えるためにある、と言われます。道場の入退室、定められた稽古着、礼式の取り方など、自分勝手に考えたり工夫する余地は微塵もありません。指導者の言葉に対する返事の仕方などは、小学校に上がる前の小さな門人にも、大人と同様に厳しく指導が為されます。
「返事」は、最も自分が現れることのひとつであると、私は思います。
その時々の自分の感情や考え、思い入れが、「はい」というたった一言に全て出てしまうものですが、そこで一切の自分を挟まずに返事ができるには、やはり受け容れる覚悟が必要です。
そして、そのような環境に自分の身を置いて修練を積むからこそ、武術的な功夫の上達だけではなく、人間性や精神性も同時に磨かれていくのだと思います。
師父は常々「太極拳はそれほど難しいものではないよ」と仰いますが、それは私たちに太極拳を受け容れる用意があれば、ということなのだと思います。
このブログに「学び方」というタイトルで書き始めてから早くも一年以上が経ちました。
学び方、則ち学ぶという事を理解しない限りは、どれ程高度な内容を教わっても、右から入って左に出て行くのみで、何も残らない、実りにはならないと、自分自身にも、そして指導する立場に立ってみても、同様の感想を覚えたことがきっかけでした。
そして、りんご農家の木村秋則さんとの出会い。分野が異なっていても、ひとつの物事に向かうために必要な学びや気付きは同じであるはずですし、むしろ、違う角度から光を当てることができ、その分視野も広がるのではないだろうか、という思いで、書き進めてきました。
「学ぶ」ということに関して、書きたいことはまだ沢山ありますが、ひとまずここで区切りにしたいと思います。
読んで頂いた皆さんにとって、「学ぶ」ということを考えるきっかけにして頂けたら幸いです。
(了)
人間は、何のために生まれてくるのだろうか──────────────
そのようなことを考え始めたのは、確か中学校に入学した頃だったと思います。
自分という存在に意義を見出せず、自分がこの世に生まれてきた意味を考えては悩み、答えが出てきては消えていくという毎日の繰り返しでした。
そうして得られた最初の気付きは、「生まれてきたことに意味などない」ということ。
生まれてきたことに何か意味があるのではなくて、ただ生きるために、活き活きと生きるためにこそ、自分は生まれてきたのだと思い至ったのです。
その後も探求は続き、「生きる」ということは、たとえば人間にとって、一体どういうことであるのかを考えました。
生きるとは、自分にとって見るもの触れるものの何もかもが新しく、人とも物事とも、全て自分とは異なる質を持つものと関わらなくては生きてはゆけず、またそれはお互い様であり、誰もが同じ条件を与えられているということ。
そう考えると、自分がこの世に生まれた不思議を、一層深く感じざるを得ませんでした。
そのような中で自分なりに見出した回答は、人がこの世で「生きる」ということは、「学ぶ」ことに他ならないということです。
はじめは漠然としていたその解答も、多くの人と接し、様々な物の見方・考え方を知る過程を経て、やがて確信するようになりました。
「生きる」ということは、「学ぶ」ということ。
生まれてから今日まで、自分の関わったことの全てが、新しいことなのです。
それはたとえば、ひとつの環境で気心の知れたお馴染みのメンバーと、毎日同じ仕事をしていたとしても、1日として同じ太陽が昇ることは無く、関わる人もまた、昨日と同じ状態の人はいないのです。
植物を観察してみれば、それは分かりやすいかも知れません。
一粒の種を播くと、それほどの時間を掛けずに芽を出します。
芽は見る間に葉を開き、さらに伸びていきます。
昨日三枚だった葉は、今日は五枚に数を増やし、一本の茎から何本もの枝を伸ばし、それらの枝がしっかりとした緑色になる頃には、ふっくらとした蕾をつけ、固く締まった種からは想像も出来なかったような鮮やかな花を咲かせます。
面白いのは、ある程度大きくなると、まるで成長の進み具合が遅くなったように感じられることです。
梅や桜など、自分が初めて見たときからそこに一本の木としてあったものなどは、まるで毎年その木が同じように同じ花を咲かせるかのような錯覚をしてしまいます。
実際には一年間で枝はずいぶん伸びているし、木の皮の色も違います。つける蕾の数も、咲く花の色も、全てが新しくなっています。
実際には、自分も含めて、自分と関わる生きとし生けるもの全てが毎瞬新しく変化しているわけですから、そのような環境で必要とされる順応性や協調性、そして得られる学びの深さは、私たちが考えている以上のものであることが想像できます。
人生は、毎日が冒険だと言っても過言ではなく、冒険には常に危険が伴います。
そして、危険と隣り合わせであるからこそ、磨かれる感覚や引き出される能力があると言えるでしょう。
その過程こそが、「学び」に他なりません。
けれども人は、一方でどうしようもなく安全・安心・安定を求める性質を持っています。
仕事、収入、家庭、進路、環境・・。
難しいことはしたくない、自分にできることならやってみたい。
きっぱりとそう言ってのける人には心底驚かされますが、反対に、自分にできることをやっていて何が楽しいのか、何か新しいことが身に付くのだろうか、と思うのです。
もちろん、好んで危険な方を選べというわけではありませんが、安全な状況の中で得られることと、危険な状況の中で得られることの二つを考えてみれば、どちらが自分を成長させてくれるのかは、明白です。
新しいことに対しては、誰も最初から免疫など持ってはおらず、立ち向かっては失敗し、失敗しては立ち上がることを繰り返しながら、少しずつ自分のものにしていきます。
そこでは一体何が起こっているのかと言えば、「受け容れること」に他なりません。
向き合った物事や生じた問題に対して、それをどれ程細かく分析しようとも、細分化して様々なデータを取ろうとも、決してそれを理解したことにはなりません。
畑で取れた一個のトマトを理解するには、食べるしか方法はないのです。
まさに、自分に「受け容れる」というわけです。
考えてみれば、太極拳を学んでいても、自分がぶつかって超えられない壁だと感じられることは、皆自分が理解できないことであり、それはそのときに自分と相容れない状態であることが多いと言えます。
つまり、受け容れられないということです。
そこには必ず、「自分はこう思う」とか、「これだったら分かる」などといった、自分側の都合が入っているはずです。けれども、対象が何であっても、自分の好きなところだけ受け容れるということはできないのです。
ひとつ、私が大好きな、古い古い昔話を紹介したいと思います。
それはまだ、神様がよく地上に住んでいた頃のお話です・・
◇◆◇◆◇◆
ある日、ひとりの年老いた農夫がやってきて、こう言いました。
「いいですか、あなたは神かもしれないし、世界を創ったかもしれない。
でも、私は一つのことだけはあなたに言わなければなりません。
あなたは農夫ではないのです。あなたは農業のいろはさえ知らないのです。
少しは学んだらどうですか」と。
神さまは言いました。
「どうしたらいいのかね?」
農夫は言いました。
「私に一年という時間をください、そしてものごとをただ私の言う通りにしてください。
それでどうなるか見てほしいのです。貧困はすっかりなくなっているでしょう!」
神さまは喜んでそうしました。そしてその農夫には、一年が与えられました。
当然、彼は最も良いものを求めました。
彼は最も良いこと・・・
雷鳴はない、強い風はない、穀物に危険はないといったことしか考えませんでした。
あらゆることが快適で、心地よかったので、彼はとても幸せでした。
小麦は本当に高く育っていました。
太陽が欲しいときには太陽が照りました。雨が欲しいときには雨が降りました。
しかも、彼の好みに応じてです。
この年は全てに間違いがありませんでした。数学的に正しかったのです。
小麦は非常に背高く育っていました。農夫はよく神さまの所に行って、こう言いました。
「見てください!、今度の穀物は、たとえ人々がこれから先十年は働かなくても十分なほどになるでしょう!」
けれども、穀物が刈り入れられると、中には小麦がありませんでした。
農夫は驚きました。彼は神さまに尋ねました。
「どうしたのでしょう?、何が上手く行かなかったのでしょうか?」
神さまは言いました。
「チャレンジがなかったからだ。争いがなかった、軋轢がなかったからだ。
お前が悪いものを全て避けたために、小麦は能力がないままだった。
少しの争いは必ず必要なものだ。
風は必要だ。雷鳴、稲妻は必要だ。彼らは小麦の中の魂を揺り起こす」
◇◆◇◆◇◆
小さい頃に昔話として読み聞かせてもらった、大きくなっても色褪せることのない、大好きな物語のひとつです。
便利さが溢れる現代社会に於いて、何かこういう大事な感覚が失われつつあるような気がします。
ものごとを学ぶために必要なことは、そこで自分のやるべきことを取捨選択したり探したりするのではなく、全てが必要なこととして、受け容れることです。
りんご農家の木村さんが、りんごの敵である病気や害虫を駆除しようとしても、問題は解決しませんでした。畑の土と、りんごの木と、それを取り巻く全ての環境のバランスに気がつくことが必要だったのです。そのバランスには、人間が敵だと思っていた病気も虫も、全てが含まれていました。
道場で稽古をするにあたって、用意されている様々な決まりは、全て学ぶ人が受け容れる準備を整えるためにある、と言われます。道場の入退室、定められた稽古着、礼式の取り方など、自分勝手に考えたり工夫する余地は微塵もありません。指導者の言葉に対する返事の仕方などは、小学校に上がる前の小さな門人にも、大人と同様に厳しく指導が為されます。
「返事」は、最も自分が現れることのひとつであると、私は思います。
その時々の自分の感情や考え、思い入れが、「はい」というたった一言に全て出てしまうものですが、そこで一切の自分を挟まずに返事ができるには、やはり受け容れる覚悟が必要です。
そして、そのような環境に自分の身を置いて修練を積むからこそ、武術的な功夫の上達だけではなく、人間性や精神性も同時に磨かれていくのだと思います。
師父は常々「太極拳はそれほど難しいものではないよ」と仰いますが、それは私たちに太極拳を受け容れる用意があれば、ということなのだと思います。
このブログに「学び方」というタイトルで書き始めてから早くも一年以上が経ちました。
学び方、則ち学ぶという事を理解しない限りは、どれ程高度な内容を教わっても、右から入って左に出て行くのみで、何も残らない、実りにはならないと、自分自身にも、そして指導する立場に立ってみても、同様の感想を覚えたことがきっかけでした。
そして、りんご農家の木村秋則さんとの出会い。分野が異なっていても、ひとつの物事に向かうために必要な学びや気付きは同じであるはずですし、むしろ、違う角度から光を当てることができ、その分視野も広がるのではないだろうか、という思いで、書き進めてきました。
「学ぶ」ということに関して、書きたいことはまだ沢山ありますが、ひとまずここで区切りにしたいと思います。
読んで頂いた皆さんにとって、「学ぶ」ということを考えるきっかけにして頂けたら幸いです。
(了)
2013年11月25日
練拳Diary#55「学び方 その8」
by 教練 円山 玄花
日々を修行者として、また学習者として生きることは、なかなかたいへんなことです。
それは、何かを学ぶということは、新しい考え方や力が自分の身に付いて心身が豊かになっていくことでありながら、同時に自分の考え方や力を捨てていくという、完全な自己否定の上に初めて成立するものだからです。
この矛盾こそ、私が人生における学習の過程で度々ぶつかり、悩まされてきた壁でもあります。苦労して自分の殻を破り、意気揚々と歩き始めても、それが間違っていると否定される。それまでの苦労が全て水泡に帰したかのような無力感を、何度味わったことでしょう。
しかしながら、それを矛盾として感じられることは「学ぶ」ことの真意が理解されていない表れであり、それが理解されない限りは学ぶことが苦痛になってしまうか、学習に対してごく表層をなぞり、程よく学習者気分を味わっているかのどちらかになります。
先ほど、何かを学ぶことは新しい考え方や力が自分の身に付くことであり、同時にそれらを捨てていくことだと述べましたが、正確には、「身に付いた考え方や力」ではなく、それが身に付く過程で同時に発生した「自分の勝手な思い込み」や「都合の良い解釈」を、丸ごと否定し、落とすことだと言えます。
それ故に、真の修行や学習には完成がなく、自分が学んでいる限りは付け加えられてしまう「自分の考え」を否定し、落とし続けなければならないのだと思います。
その為には、何が必要なのでしょうか。
私は、「意識」と「考える力」だと思います。
「意識」については前稿でも述べたように、日々の生活に於いても、道場での稽古でも、自分の都合を持ち込まずに、自己を統御しようとする中で養われていくものです。
意識が養われてくると、たとえば太極拳に対する認識が深まります。それは太極拳という武術に対する認識であったり、武術そのものへの認識であったり、あるいはまた学習体系や練功のひとつ、要訣のひとつかもしれませんが、それらに対する認識が確実に変わっていくはずです。
認識が変われば、また意識も変わります。そうして変わった意識によって、更に認識が深まります。一面から見れば、このひとつのサイクルによって、人は何かを学習していくことが可能になるのだと思います。
ところが、意識の代わりに「想像」を用いていた場合には、その行為自体がすでに自分の都合によってもたらされていることなのですが、想像であるが故に修正も起こらず、むしろ徐々に「妄想」の世界へと形を変えていくことでしょう。
「妄想」とは、根拠もなくあれこれと想像すること。また、根拠のない有り得ない内容であるにも関わらず確信を持ち、事実や論理によって訂正することができない主観的な信念のことであると、辞典には記されています。
このことを知ったとき、私は非常に面白いと思いました。“被害妄想” とか “誇大妄想” などと聞くと、如何にも自分とは関係ない病んだ世界のお話だと聞こえるかもしれませんが、「妄想」のみを取り出して見てみれば何のことはない、『事実や論理によって訂正することができない主観的な信念』だという、極めて日常的なことだったわけです。
稽古で、目の前で原理を見せられ、言葉で説明され、さらにはホワイトボードで分かり易く板書されていても自分を修正できない場合には、一度自分が用いている意識そのものを疑ってみる必要があるかもしれません。
そして、このような状態は誰にでも起こり得ることであり、それとは気がつかずに自分の頭の中に妄想の種が芽を出しているかもしれないのです。
ここで必要になってくるのが、「考える力」です。
自分の間違いを指摘され、正しいことを提示されているのに、なぜそのときに修正できないのだろうか。自分の向かい方、在り方は誠実であるのだろうか。自分の太極拳に対する考え方、闘いに対する考え方は正しいのだろうか、等々。
何かを学ぶことに限らず、日常生活に於いても考えなければならないことは山ほどあるはずですが、その中で一体どれほどの「考える力」が身に付いているのでしょうか。
それは、たとえば数学を教わって数学の問題集を解けるようになった力とは、ちょっと違います。ここで言っている力とは、数学を教わって数学の考え方を理解し、それを高めていく努力をすることで養われる力なのです。そして、その力は数学だけを解くための限定された力ではないために、何事に対しても発揮することができる力だと言えます。
何となく、道場で毎回指導されている「全ての動きや練功、戦い方に通じるたったひとつの法則」と、共通するものが感じられるのは、私だけでしょうか。
「考える力」と言えば、ひとつの国が他国を侵略しようと考えたときにも、当然その侵略のシナリオの中にキーワードとして出てきます。
冷戦以降、国家間の争いは「火のない戦争」とも呼ばれ、武器による武力戦から、諜報活動による情報戦、テレビや新聞、学校教育による国民の思想や考えを誘導することを目的とした心理戦などにウェイトが移行されてきています。
それは、目に見えない形で私たちの懐に忍び込み、内側から徐々に侵攻されるために、武力行使よりも遥かに危険な攻撃方法であると言われているものです。
一例を挙げれば、政府の掌握、マスメディアの掌握、教育の掌握、国家意識や抵抗意識の破壊などです。特にマスメディアと教育を掌握する主たる目的は、私たち国民の「考える力」を低下させることにあります。
物事の善悪を判断したり、理論的にまとめたり、自己を振り返って反省したりと、どのような事であっても考える力が必要ですし、それらのことを “考えているつもり” になっても、結論は出ません。
また、私は医療の仕事にも携わっていますが、治療に訪れる多くの人が自分の抱える症状について、ただ「仕方が無い」と思っていることに、本当に驚かされます。
自分は冷え症だから、冬に足が冷たいのは仕方が無い。頭痛持ちだから、頭が痛くなるのは仕方が無い。低血圧だから朝起きられないのは仕方が無い・・云々。
そのようなことを聞いた場合には、私は様々な確認をすることにしています。
冷え症だから・・と言う人には、たとえば身につける下着や履物はどのようなものを使用しているのか。冷えを感じたときにどのような対応をしているのか。身体が温まる食べ物を食べているか。お風呂で温まっているか。寝るときに暖かくなる工夫はしているのか、などです。
しかし、恐ろしいことに「何も考えていなかった」という答えがほとんどです。
毎年のように、「風邪をひきました」と言いながら薄着で首を丸々出している人や、裸足にゴム草履で来院する人を見掛けますが、やはり「考えていない」のでしょう。
もちろん、ここに挙げた一例は大病と名の付くものではありません。しかし、自分の中に “〇〇だから仕方が無い” という考え方を当たり前のように持っていると、それはやがてとんでもないことになっていくと思えるのです。
それは何も病気に限られたことではなく、自分の家庭、環境、仕事、勉強など、何にでも当てはまることです。
この世に生を受け、自分にしか歩めない自分の人生で、自分に生じた不具合を「仕方が無い」の一言でそのままにしておけるのは、なぜなのでしょうか。しかも、万策どころか一策も二策も試みたわけではないのに、です。
確かに世の中には「仕方が無い」こともたくさんあります。けれども、それらの事柄に対して、どうにかしようと試みたのでしょうか。それらを改善するために、どれ程の工夫をしてみたのでしょうか。そもそも、自分はどれほど改善したいと思ったのでしょうか。
もしも、現代社会が何かしらの意図によって「考える力」が低下させられているのだとしたら、私たちは意識的に「考える力」を養っていかなければならないと思います。
自分に生じたささやかな疑問を放っておかず、またどのような事柄にも積極的に疑問を持って、自分で考えてみること。
太極拳で言えば、師父と自分の形の違いを発見したら、ただ漫然と修正しようと試みるのではなくて、何ゆえ違っていたのかを考えてみることが必要です。
そして、ここで間違えてはいけないのは、同じ「考え」という言葉を使っていても、物事そのものに対する考えを指しているのであって、自分勝手な考えとは異なる点です。
冒頭で述べたように、学ぶこととは新しい考え方や力が身に付くことであり、同時に生じた自分の勝手な思い込みや都合の良い解釈を落とし続けることです。
以前に、言われたことに対して自分で考えることなく鵜呑みにしている状態は、単なる素直さではなくて「思考停止の状態」であると述べました。さらに付け加えるならば、それは「自分で考えなくとも良い」という、ひとつの考え方であるとも言えます。
このようにして「学び方」について様々な角度から検証してくると、あるひとつのことが見えてきます。それは、物事を、自分を挟まずに、ただものごととして受け取るということの大切さです。
『物事を、ただ物事として観る』とは、師父が太極武藝館を創立されて以来、常に弟子たちに説かれ続けてきた教えのひとつです。
人は、様々な物事や他人との関わりの中で、その内容よりも言い方や態度に代表される、表面的に自分に与えられた影響に関心を持つという性質を持っていると思います。
もちろん人が人と関わるときには、相手への配慮や気遣いが欠かせないものであり、それなしに人間関係は成立しないのですが、自分が何かを学ぶ上では、表面的な影響ではなくてその内容に目を向けなければ、何も始まらないのです。
物事を、ただ物事として観る────────────
それは、まさに学ぶ者の心得の第一番目に位置することであると思えます。
(つづく)
日々を修行者として、また学習者として生きることは、なかなかたいへんなことです。
それは、何かを学ぶということは、新しい考え方や力が自分の身に付いて心身が豊かになっていくことでありながら、同時に自分の考え方や力を捨てていくという、完全な自己否定の上に初めて成立するものだからです。
この矛盾こそ、私が人生における学習の過程で度々ぶつかり、悩まされてきた壁でもあります。苦労して自分の殻を破り、意気揚々と歩き始めても、それが間違っていると否定される。それまでの苦労が全て水泡に帰したかのような無力感を、何度味わったことでしょう。
しかしながら、それを矛盾として感じられることは「学ぶ」ことの真意が理解されていない表れであり、それが理解されない限りは学ぶことが苦痛になってしまうか、学習に対してごく表層をなぞり、程よく学習者気分を味わっているかのどちらかになります。
先ほど、何かを学ぶことは新しい考え方や力が自分の身に付くことであり、同時にそれらを捨てていくことだと述べましたが、正確には、「身に付いた考え方や力」ではなく、それが身に付く過程で同時に発生した「自分の勝手な思い込み」や「都合の良い解釈」を、丸ごと否定し、落とすことだと言えます。
それ故に、真の修行や学習には完成がなく、自分が学んでいる限りは付け加えられてしまう「自分の考え」を否定し、落とし続けなければならないのだと思います。
その為には、何が必要なのでしょうか。
私は、「意識」と「考える力」だと思います。
「意識」については前稿でも述べたように、日々の生活に於いても、道場での稽古でも、自分の都合を持ち込まずに、自己を統御しようとする中で養われていくものです。
意識が養われてくると、たとえば太極拳に対する認識が深まります。それは太極拳という武術に対する認識であったり、武術そのものへの認識であったり、あるいはまた学習体系や練功のひとつ、要訣のひとつかもしれませんが、それらに対する認識が確実に変わっていくはずです。
認識が変われば、また意識も変わります。そうして変わった意識によって、更に認識が深まります。一面から見れば、このひとつのサイクルによって、人は何かを学習していくことが可能になるのだと思います。
ところが、意識の代わりに「想像」を用いていた場合には、その行為自体がすでに自分の都合によってもたらされていることなのですが、想像であるが故に修正も起こらず、むしろ徐々に「妄想」の世界へと形を変えていくことでしょう。
「妄想」とは、根拠もなくあれこれと想像すること。また、根拠のない有り得ない内容であるにも関わらず確信を持ち、事実や論理によって訂正することができない主観的な信念のことであると、辞典には記されています。
このことを知ったとき、私は非常に面白いと思いました。“被害妄想” とか “誇大妄想” などと聞くと、如何にも自分とは関係ない病んだ世界のお話だと聞こえるかもしれませんが、「妄想」のみを取り出して見てみれば何のことはない、『事実や論理によって訂正することができない主観的な信念』だという、極めて日常的なことだったわけです。
稽古で、目の前で原理を見せられ、言葉で説明され、さらにはホワイトボードで分かり易く板書されていても自分を修正できない場合には、一度自分が用いている意識そのものを疑ってみる必要があるかもしれません。
そして、このような状態は誰にでも起こり得ることであり、それとは気がつかずに自分の頭の中に妄想の種が芽を出しているかもしれないのです。
ここで必要になってくるのが、「考える力」です。
自分の間違いを指摘され、正しいことを提示されているのに、なぜそのときに修正できないのだろうか。自分の向かい方、在り方は誠実であるのだろうか。自分の太極拳に対する考え方、闘いに対する考え方は正しいのだろうか、等々。
何かを学ぶことに限らず、日常生活に於いても考えなければならないことは山ほどあるはずですが、その中で一体どれほどの「考える力」が身に付いているのでしょうか。
それは、たとえば数学を教わって数学の問題集を解けるようになった力とは、ちょっと違います。ここで言っている力とは、数学を教わって数学の考え方を理解し、それを高めていく努力をすることで養われる力なのです。そして、その力は数学だけを解くための限定された力ではないために、何事に対しても発揮することができる力だと言えます。
何となく、道場で毎回指導されている「全ての動きや練功、戦い方に通じるたったひとつの法則」と、共通するものが感じられるのは、私だけでしょうか。
「考える力」と言えば、ひとつの国が他国を侵略しようと考えたときにも、当然その侵略のシナリオの中にキーワードとして出てきます。
冷戦以降、国家間の争いは「火のない戦争」とも呼ばれ、武器による武力戦から、諜報活動による情報戦、テレビや新聞、学校教育による国民の思想や考えを誘導することを目的とした心理戦などにウェイトが移行されてきています。
それは、目に見えない形で私たちの懐に忍び込み、内側から徐々に侵攻されるために、武力行使よりも遥かに危険な攻撃方法であると言われているものです。
一例を挙げれば、政府の掌握、マスメディアの掌握、教育の掌握、国家意識や抵抗意識の破壊などです。特にマスメディアと教育を掌握する主たる目的は、私たち国民の「考える力」を低下させることにあります。
物事の善悪を判断したり、理論的にまとめたり、自己を振り返って反省したりと、どのような事であっても考える力が必要ですし、それらのことを “考えているつもり” になっても、結論は出ません。
また、私は医療の仕事にも携わっていますが、治療に訪れる多くの人が自分の抱える症状について、ただ「仕方が無い」と思っていることに、本当に驚かされます。
自分は冷え症だから、冬に足が冷たいのは仕方が無い。頭痛持ちだから、頭が痛くなるのは仕方が無い。低血圧だから朝起きられないのは仕方が無い・・云々。
そのようなことを聞いた場合には、私は様々な確認をすることにしています。
冷え症だから・・と言う人には、たとえば身につける下着や履物はどのようなものを使用しているのか。冷えを感じたときにどのような対応をしているのか。身体が温まる食べ物を食べているか。お風呂で温まっているか。寝るときに暖かくなる工夫はしているのか、などです。
しかし、恐ろしいことに「何も考えていなかった」という答えがほとんどです。
毎年のように、「風邪をひきました」と言いながら薄着で首を丸々出している人や、裸足にゴム草履で来院する人を見掛けますが、やはり「考えていない」のでしょう。
もちろん、ここに挙げた一例は大病と名の付くものではありません。しかし、自分の中に “〇〇だから仕方が無い” という考え方を当たり前のように持っていると、それはやがてとんでもないことになっていくと思えるのです。
それは何も病気に限られたことではなく、自分の家庭、環境、仕事、勉強など、何にでも当てはまることです。
この世に生を受け、自分にしか歩めない自分の人生で、自分に生じた不具合を「仕方が無い」の一言でそのままにしておけるのは、なぜなのでしょうか。しかも、万策どころか一策も二策も試みたわけではないのに、です。
確かに世の中には「仕方が無い」こともたくさんあります。けれども、それらの事柄に対して、どうにかしようと試みたのでしょうか。それらを改善するために、どれ程の工夫をしてみたのでしょうか。そもそも、自分はどれほど改善したいと思ったのでしょうか。
もしも、現代社会が何かしらの意図によって「考える力」が低下させられているのだとしたら、私たちは意識的に「考える力」を養っていかなければならないと思います。
自分に生じたささやかな疑問を放っておかず、またどのような事柄にも積極的に疑問を持って、自分で考えてみること。
太極拳で言えば、師父と自分の形の違いを発見したら、ただ漫然と修正しようと試みるのではなくて、何ゆえ違っていたのかを考えてみることが必要です。
そして、ここで間違えてはいけないのは、同じ「考え」という言葉を使っていても、物事そのものに対する考えを指しているのであって、自分勝手な考えとは異なる点です。
冒頭で述べたように、学ぶこととは新しい考え方や力が身に付くことであり、同時に生じた自分の勝手な思い込みや都合の良い解釈を落とし続けることです。
以前に、言われたことに対して自分で考えることなく鵜呑みにしている状態は、単なる素直さではなくて「思考停止の状態」であると述べました。さらに付け加えるならば、それは「自分で考えなくとも良い」という、ひとつの考え方であるとも言えます。
このようにして「学び方」について様々な角度から検証してくると、あるひとつのことが見えてきます。それは、物事を、自分を挟まずに、ただものごととして受け取るということの大切さです。
『物事を、ただ物事として観る』とは、師父が太極武藝館を創立されて以来、常に弟子たちに説かれ続けてきた教えのひとつです。
人は、様々な物事や他人との関わりの中で、その内容よりも言い方や態度に代表される、表面的に自分に与えられた影響に関心を持つという性質を持っていると思います。
もちろん人が人と関わるときには、相手への配慮や気遣いが欠かせないものであり、それなしに人間関係は成立しないのですが、自分が何かを学ぶ上では、表面的な影響ではなくてその内容に目を向けなければ、何も始まらないのです。
物事を、ただ物事として観る────────────
それは、まさに学ぶ者の心得の第一番目に位置することであると思えます。
(つづく)
2013年09月25日
練拳Diary#54「学び方 その7」
by 教練 円山 玄花
太極拳を学習する上で、理解しなければならないことのひとつに「意識」があります。
それは、改めて理解しなければならないと言うよりは、学習の過程で否応なく身につき、高められてゆくものでもあります。
たとえば、站椿に代表される立ち方ひとつを取り出してみても、意識的でなければ細かい要訣を整えていくことはできず、自分なりに長時間立ってみたところで、自己満足にはなっても練功にはなりません。
言い換えれば、“自分なり”の工夫や努力では、「意識」が養われずに、「自我」がどんどん養われるわけです。
日々の稽古を振り返ってみれば、深遠なる纏絲勁の原理を勉強する前に、やるべきことは山積みであり、真似が出来ない、手の位置が違う、腰の向きが違う、足が出る構造がまったく違う・・などなど、どういうワケか、毎回同じようなことを指摘されている光景を、よく目にします。
その様子を注意深く観察していると、手の位置は変わってもそれによって全身が変わるわけではない。体幹部の状態が変わるわけではないから、しばらくするとまた元の位置に戻ってしまう、ということを繰り返しているのです。
これでは、根本的な解決にはならず、ましてや手の位置を修正したために構造そのものへの理解が深まる、といったことはまず起こらないわけです。
この場合、指摘されて手の位置を修正したために生じる身体全体の変化に気がつき、それが普段から指導されている「在り方」に対して、どのような働きかけに変わったのかを認識しなければなりません。それなしに、部分的な修正だけを行っているために、同じ指摘が繰り返されてしまいます。
まさに、師父が日頃から仰る、「問題は太極拳にあるのではなく、自分自身にある」という言葉の通りだと思います。
しかしながら、自分の状態は分かっても、さて、それをどうしたら解決できるのか皆目見当が付かない、という声を耳にします。
だから、修正したために生じる自分自身の変化に耳を澄ませて・・・と言っても、なかなか分かってもらえないのが現状です。どうしたらよいのでしょうか。
ここで見えてくるのは、自分自身に対する興味の薄さと鈍感さです。
他人の視線や言われる言葉には敏感でも、自分自身のこととなるとさっぱり分からないようなのです。
太極拳の考え方で言うと、人は元々ひとつであり、物事によって自分を変えることは出来ないので、何かに対しては敏感で、他の何かに対しては鈍感だということは、厳密にはないわけです。つまり、本当は自分で、”これは敏感に、これは鈍感に”と、好きなように選択しているのです。そしてそんなことさえも、人は意識的に認識することができなくなっているのです。
人間が元来持っている「意識」の基盤を、高めてきたのか、それとも眠らせてきたのか。
その差を生み出す要因は、家庭や環境や年代など、様々なものがあると思いますが、その中でも、何かひとつのことに打ち込んだことがあるか、我を忘れて病的に熱中したことがあるかどうか、というところがポイントになっていると、私は思います。
たとえば、りんご農家の木村さんは、少年時代には機械の構造を知ることに夢中でした。
小学校低学年の頃から、ロボットを買って貰えば、帰りのバスの中でバラバラにしてしまうし、玩具の車も飛行機も、また時計からラジオまで、大人の目を盗んでは分解していったといいます。
玩具で遊ぶことよりも、玩具そのものの仕組みを解き明かすことに面白さを感じていた木村さんは、やがて説き明かしたメカニズムを自分で組み立てることに興味を持ち始めます。
中学生のときには、電波がなぜ音になるのか不思議で、無線器を作ったといいます。
家の中でやっていると怒られるからと、外で、電柱から直接電線を引っ張ってきて実験していた時には、回路をドライバーでショートさせてしまい、電信柱のヒューズが飛んでしまったこともありました。おかげで、周りの家が40軒くらい停電になったといいますから、大目玉を食らっても仕方ありません。
他にも、原始的なコンピュータを作ろうとして学校から真空管を拝借したり、三日三晩不眠不休でアンプを作ったり、高校生の時には、バイクのエンジンを改造したり・・。
とにかく、ひとつのことに夢中になると、他のことは一切見えなくなってしまう。
小さい頃は、そのような経験の一つや二つ、誰にでもあると思いますが、木村さんは大人になっても、その情熱が消えることはなかったのです。むしろ、年月を重ねるごとに、我武者羅ではなく、きちんと熱中していけるようになったに違いありません。
そんな木村さんは、就職して上京した際、職場でコンピュータを観察します。
コンピュータは当時の、パンチカードをリーダマシンに入れて操作するというものでしたが、その仕組みを見ていた彼は、「これは、過去のデータを利用する機械に過ぎないのではないか」と思います。どれほど高性能のコンピュータでも、データを入れないと使えず、データというのは過去のものでしかない。過去のデータをどれほど集めて計算しても、新しいものは生まれてこない。未来は開けない、と。
「けれども・・」と木村さんは続けます。
やがて、この機械によって人間が使われるようになるのだろう、と思ったそうです。そして、今の世の中はその通りになっていて、コンピュータと同じで、人から与えられたものしか利用できない人がすごく増えてしまった、と言います。自分の頭で考えようとせず、答えはみんなインターネットの中にあると思い込んでしまうのだ、と。
確かにそうである、と思えます。
指摘されれば修正しようとすることの裏側には、指摘されなければそのままでも良い、という意識が働いており、自分自身の必要性で修正していくということには、なっていないのです。
そうなってくると、指摘されることが日々増えてきて、或いは毎日毎日同じことを繰り返し指摘されるので、だんだんイヤになってきます。
・・そもそも自分がそれを修得したいからとその道を選んだのに、嫌になってくるとは何事かと、客観的に見ればそうも言えるのですが、渾沌の渦中にいるときにはそんなことをチラとも思えないのが現実です。
自分自身への興味と認識。それは何か一つのことに打ち込めることと、きっかり一致するように思います。言い換えれば、馬鹿になれること。
言われたことをきちんと守るイイ子にはなれても、とことんのめり込む正真正銘の馬鹿には、中々なれないものです。
ひとつ、「馬鹿になる」お話をしてみましょう。
あるところで、私が野外に於ける軍事訓練を受けていたときのこと。
よりによって、最も暑い一週間と時期が重なってしまったその夏の訓練は、体力に自信のある若者でも動けなくなってしまうような、非常にハードな内容でした。
訓練の終盤、しまいには病院に搬送される者まで出て、仲間達の士気もついにダウン。どうにか引っ張ってきた気力にも、とうとう限界が見えてきたそのとき、教官は言いました。
「馬鹿になってやってくれ。どうやろうとか、間違えたらどうしようとか、一切考えなくていいから。ひたすら馬鹿になって、もう、とにかくアホみたいにやってくれ」と。
身体も気力もクタクタだった私たちは、その一言によって、まるで予備電源に接続されたかのように生き返り、その場に居た全員が、訓練第1日目のようなガッツのある、俊敏な動きに変わったのです。
教官の言葉を、決して頭で理解したわけではありません。むしろそんな余裕はなく、疲労で真っ白になっていた頭に、ストンと入って来たと言えるでしょう。
炎天下、ひどく足場の悪い地形の中を、あらん限りの大声を振り絞り、指導されたばかりの、不慣れな数々の動作をこなしながら駆け抜ける。
身体の隅々まで研ぎ澄まされた感覚が冴え渡り、毎回変えられるシチュエーションに対しても、頭で考えなくても的確な判断ができ、同時に自然と動きが伴っている状態です。
身体と精神と行動とが、ひとつの意識で弛みなく統御されている感覚だと表現すればいいでしょうか。
もちろん、後からじっくり振り返ってみれば、の話ですが。
今までの自分は、馬鹿になることと意識的で在ることとは、まるで相反することのように思えていました。しかし、ここでの経験は、私に“意識的に在る”ことと、“馬鹿になる”ことが重なる、その一筋のラインを見出させてくれたのでした。
自分の人生も日々の生活も、間違いのないように、失敗しないように生きることは不可能です。同じように、正しく稽古することは、間違えないようにすることではありません。
この、呆れるくらい当たり前のことが、一体どの程度認識されているのでしょうか。
「意識」は自己を統御しようとする中で養われていきます。
自己統御は、何もカンフーズボンに履き替えて帯を締めなくとも、今、この場でできることなのです。つまり、日々の生活の中で、自分の一挙一動が、意識的に統御されているかどうかに懸かっています。
私たちにとって馴染み深い、「今やろうとしていたんだけれど」とか、「後でやっておきます」などという自分の都合を一切持ち込まずに、今、この瞬間に、この場でそれをやろうとできるかどうか。
そのとき、自分に“危機感”があるのとないのとでは、実行力がまるで違ってくるというわけです。
そんなことをしなくても生きられる・・・そう思う人はたくさんいると思います。
けれども、自己統御ひとつできない状態で、本当に生きていると言えるのでしょうか。
それは、意味もなく目的も分からないまま、ただ歩みを進める牛に跨がっているようなものです。しかも、その牛は自分の言うことを聞いてはくれません!
自己を統御できる者だけが、敵を制することができる。
武術修得のカギは、まさに日常生活における、在り方次第だと言えるでしょう。
(つづく)
太極拳を学習する上で、理解しなければならないことのひとつに「意識」があります。
それは、改めて理解しなければならないと言うよりは、学習の過程で否応なく身につき、高められてゆくものでもあります。
たとえば、站椿に代表される立ち方ひとつを取り出してみても、意識的でなければ細かい要訣を整えていくことはできず、自分なりに長時間立ってみたところで、自己満足にはなっても練功にはなりません。
言い換えれば、“自分なり”の工夫や努力では、「意識」が養われずに、「自我」がどんどん養われるわけです。
日々の稽古を振り返ってみれば、深遠なる纏絲勁の原理を勉強する前に、やるべきことは山積みであり、真似が出来ない、手の位置が違う、腰の向きが違う、足が出る構造がまったく違う・・などなど、どういうワケか、毎回同じようなことを指摘されている光景を、よく目にします。
その様子を注意深く観察していると、手の位置は変わってもそれによって全身が変わるわけではない。体幹部の状態が変わるわけではないから、しばらくするとまた元の位置に戻ってしまう、ということを繰り返しているのです。
これでは、根本的な解決にはならず、ましてや手の位置を修正したために構造そのものへの理解が深まる、といったことはまず起こらないわけです。
この場合、指摘されて手の位置を修正したために生じる身体全体の変化に気がつき、それが普段から指導されている「在り方」に対して、どのような働きかけに変わったのかを認識しなければなりません。それなしに、部分的な修正だけを行っているために、同じ指摘が繰り返されてしまいます。
まさに、師父が日頃から仰る、「問題は太極拳にあるのではなく、自分自身にある」という言葉の通りだと思います。
しかしながら、自分の状態は分かっても、さて、それをどうしたら解決できるのか皆目見当が付かない、という声を耳にします。
だから、修正したために生じる自分自身の変化に耳を澄ませて・・・と言っても、なかなか分かってもらえないのが現状です。どうしたらよいのでしょうか。
ここで見えてくるのは、自分自身に対する興味の薄さと鈍感さです。
他人の視線や言われる言葉には敏感でも、自分自身のこととなるとさっぱり分からないようなのです。
太極拳の考え方で言うと、人は元々ひとつであり、物事によって自分を変えることは出来ないので、何かに対しては敏感で、他の何かに対しては鈍感だということは、厳密にはないわけです。つまり、本当は自分で、”これは敏感に、これは鈍感に”と、好きなように選択しているのです。そしてそんなことさえも、人は意識的に認識することができなくなっているのです。
人間が元来持っている「意識」の基盤を、高めてきたのか、それとも眠らせてきたのか。
その差を生み出す要因は、家庭や環境や年代など、様々なものがあると思いますが、その中でも、何かひとつのことに打ち込んだことがあるか、我を忘れて病的に熱中したことがあるかどうか、というところがポイントになっていると、私は思います。
たとえば、りんご農家の木村さんは、少年時代には機械の構造を知ることに夢中でした。
小学校低学年の頃から、ロボットを買って貰えば、帰りのバスの中でバラバラにしてしまうし、玩具の車も飛行機も、また時計からラジオまで、大人の目を盗んでは分解していったといいます。
玩具で遊ぶことよりも、玩具そのものの仕組みを解き明かすことに面白さを感じていた木村さんは、やがて説き明かしたメカニズムを自分で組み立てることに興味を持ち始めます。
中学生のときには、電波がなぜ音になるのか不思議で、無線器を作ったといいます。
家の中でやっていると怒られるからと、外で、電柱から直接電線を引っ張ってきて実験していた時には、回路をドライバーでショートさせてしまい、電信柱のヒューズが飛んでしまったこともありました。おかげで、周りの家が40軒くらい停電になったといいますから、大目玉を食らっても仕方ありません。
他にも、原始的なコンピュータを作ろうとして学校から真空管を拝借したり、三日三晩不眠不休でアンプを作ったり、高校生の時には、バイクのエンジンを改造したり・・。
とにかく、ひとつのことに夢中になると、他のことは一切見えなくなってしまう。
小さい頃は、そのような経験の一つや二つ、誰にでもあると思いますが、木村さんは大人になっても、その情熱が消えることはなかったのです。むしろ、年月を重ねるごとに、我武者羅ではなく、きちんと熱中していけるようになったに違いありません。
そんな木村さんは、就職して上京した際、職場でコンピュータを観察します。
コンピュータは当時の、パンチカードをリーダマシンに入れて操作するというものでしたが、その仕組みを見ていた彼は、「これは、過去のデータを利用する機械に過ぎないのではないか」と思います。どれほど高性能のコンピュータでも、データを入れないと使えず、データというのは過去のものでしかない。過去のデータをどれほど集めて計算しても、新しいものは生まれてこない。未来は開けない、と。
「けれども・・」と木村さんは続けます。
やがて、この機械によって人間が使われるようになるのだろう、と思ったそうです。そして、今の世の中はその通りになっていて、コンピュータと同じで、人から与えられたものしか利用できない人がすごく増えてしまった、と言います。自分の頭で考えようとせず、答えはみんなインターネットの中にあると思い込んでしまうのだ、と。
確かにそうである、と思えます。
指摘されれば修正しようとすることの裏側には、指摘されなければそのままでも良い、という意識が働いており、自分自身の必要性で修正していくということには、なっていないのです。
そうなってくると、指摘されることが日々増えてきて、或いは毎日毎日同じことを繰り返し指摘されるので、だんだんイヤになってきます。
・・そもそも自分がそれを修得したいからとその道を選んだのに、嫌になってくるとは何事かと、客観的に見ればそうも言えるのですが、渾沌の渦中にいるときにはそんなことをチラとも思えないのが現実です。
自分自身への興味と認識。それは何か一つのことに打ち込めることと、きっかり一致するように思います。言い換えれば、馬鹿になれること。
言われたことをきちんと守るイイ子にはなれても、とことんのめり込む正真正銘の馬鹿には、中々なれないものです。
ひとつ、「馬鹿になる」お話をしてみましょう。
あるところで、私が野外に於ける軍事訓練を受けていたときのこと。
よりによって、最も暑い一週間と時期が重なってしまったその夏の訓練は、体力に自信のある若者でも動けなくなってしまうような、非常にハードな内容でした。
訓練の終盤、しまいには病院に搬送される者まで出て、仲間達の士気もついにダウン。どうにか引っ張ってきた気力にも、とうとう限界が見えてきたそのとき、教官は言いました。
「馬鹿になってやってくれ。どうやろうとか、間違えたらどうしようとか、一切考えなくていいから。ひたすら馬鹿になって、もう、とにかくアホみたいにやってくれ」と。
身体も気力もクタクタだった私たちは、その一言によって、まるで予備電源に接続されたかのように生き返り、その場に居た全員が、訓練第1日目のようなガッツのある、俊敏な動きに変わったのです。
教官の言葉を、決して頭で理解したわけではありません。むしろそんな余裕はなく、疲労で真っ白になっていた頭に、ストンと入って来たと言えるでしょう。
炎天下、ひどく足場の悪い地形の中を、あらん限りの大声を振り絞り、指導されたばかりの、不慣れな数々の動作をこなしながら駆け抜ける。
身体の隅々まで研ぎ澄まされた感覚が冴え渡り、毎回変えられるシチュエーションに対しても、頭で考えなくても的確な判断ができ、同時に自然と動きが伴っている状態です。
身体と精神と行動とが、ひとつの意識で弛みなく統御されている感覚だと表現すればいいでしょうか。
もちろん、後からじっくり振り返ってみれば、の話ですが。
今までの自分は、馬鹿になることと意識的で在ることとは、まるで相反することのように思えていました。しかし、ここでの経験は、私に“意識的に在る”ことと、“馬鹿になる”ことが重なる、その一筋のラインを見出させてくれたのでした。
自分の人生も日々の生活も、間違いのないように、失敗しないように生きることは不可能です。同じように、正しく稽古することは、間違えないようにすることではありません。
この、呆れるくらい当たり前のことが、一体どの程度認識されているのでしょうか。
「意識」は自己を統御しようとする中で養われていきます。
自己統御は、何もカンフーズボンに履き替えて帯を締めなくとも、今、この場でできることなのです。つまり、日々の生活の中で、自分の一挙一動が、意識的に統御されているかどうかに懸かっています。
私たちにとって馴染み深い、「今やろうとしていたんだけれど」とか、「後でやっておきます」などという自分の都合を一切持ち込まずに、今、この瞬間に、この場でそれをやろうとできるかどうか。
そのとき、自分に“危機感”があるのとないのとでは、実行力がまるで違ってくるというわけです。
そんなことをしなくても生きられる・・・そう思う人はたくさんいると思います。
けれども、自己統御ひとつできない状態で、本当に生きていると言えるのでしょうか。
それは、意味もなく目的も分からないまま、ただ歩みを進める牛に跨がっているようなものです。しかも、その牛は自分の言うことを聞いてはくれません!
自己を統御できる者だけが、敵を制することができる。
武術修得のカギは、まさに日常生活における、在り方次第だと言えるでしょう。
(つづく)
2013年08月08日
練拳Diary#53「学び方 その6」
by 教練 円山 玄花
練拳ダイアリーの「学び方」シリーズも、第6回目となりました。
木村さんのりんごの無農薬栽培成功までの学び方に感銘を受けて、少しでも皆さんと共有出来ればと思い、ブログにて感じたことを述べてきましたが、正直なところ、私たちが道場という特殊な空間で伝統武藝を学ぶことと、りんご農家の木村さんがりんご作りの基礎から見直して得られてきた過程とでは、同じ「学ぶ」ということであっても、少々質が異なるのではないかという懸念がありました。
けれども、ここまで書き進めてきて、改めて「学ぶ」ということは、分野の違いや種類、環境や事の大小に関係なく、共通して、人が今の自分を超えていくためのメソッドなのだと思えます。
さて、これまでは、「何かを学ぶためには、どのような意識を持ち、どのように考え、どのように学習していかなければならないのか」を述べてきました。
しかし、私自身が稽古を進める中で、それらのことをどれほど頭に叩き込もうとも、肝心なことが抜けていては、何も意味をなさないことに気がついたのです。
その肝心なこととは、その意識や考えが働くための土台、すなわち、「学ぶ者の姿勢」のことです。
道場で20年近く稽古をしていると、学習者には幾つかのタイプがあることが見えてきます。もちろん、道場に通う人達は皆それぞれ異なる目的を持っていて、健康が目的の人、心身の開発が目的の人、武術修得が目的の人など、細かく挙げればキリがないのですが、今回は個々の目的には取り敢えず関係なく、そして他所で聞いてきた様々な学習者のタイプも含めて、話を進めたいと思います。
学習者のタイプとして1つ目に挙げられるのは、道場に来ることで満足するタイプです。
自分が何か習いごとをしていて、非日常の世界に向かっているというその事実だけで、充分ハッピーな気持ちになれるのですが、道場に来ることが目的ですから、極端な話、道場で何も見なくても、何も聞かなくてもよく、道場に足を運んでさえいればよいという考え方です。ですから、当然学習にはならず、自己満足だけで終わる状態です。
2つ目は、道場に来て、教えを受けて満足するタイプです。
この場合、学習意欲はあるので教わることが心地よく、いいこと学べたなぁと満足して帰ります。そして、家に帰ったら教わったことをノートにまとめたりはするのですが、それだけで勉強が出来た気持ちになります。
この場合、知識は増えていきますが、教わっていることが身につくことはありません。
3つ目は、道場で教えられたことを、素直にやってみようとするタイプです。
教えられたことが何であるのかを理解しようとはするけれども、なかなか難しいので、まずは言われたことを、言われた通りにやろうとするわけです。
このタイプは、自分の理解度はなんとなく把握していても、言うことを聞いているだけなので、今何を学んでいて、次に何を学んでいけばよいのかが、明確には分からないタイプだと言えます。
4つ目は、教わったことを理解して、実行した結果を検証することができ、学んだことを基に自分で学習していくタイプです。
自分がどこまで理解しているのか、今後何を学んでいけばよいのかが分かり、それ故に、考察力と行動力が伴います。
簡単にまとめると、以下のようになります。
1.完全自己満足タイプ
2.勘違いタイプ
3.素直なタイプ
4.学者・研究者タイプ
────────さて、よく勘違いされやすいのが3つ目の、素直なタイプ。
稽古では、自分の考えを挟まないこと、そして言われたことを守り、従うことが学ぶことの基本であるとされ、それができなければ上達は見込めないとまで指導されます。
だから、指導されたことに忠実に、素直に行動に移そうとするのですが、なかなか理解が伴わず、学習が進まないことが往々にして見られます。なぜでしょうか?
ちょっと考えてみてください。
言うことを聞いているだけで強くなったような武術が、果たして存在するのでしょうか。
それは、ただ真似をしているだけで何かが分かることなど無いのと同様に、有り得ないことです。
たとえ指導者が、言われたことに従うこと、そして見たままを真似することが学習の鍵であると言っても、自分でそれを実践してみて何の成果も生じないのであれば、その時点で疑問に思うべきです。
本当にこれでいいのだろうか?・・と。
そもそも、何の成果も出ないようなことを、指導者が指導するだろうか?・・と。
つまり、自分のやり方、自分の真似の仕方は、実際には言われた通りに正しく行われていないために、きちんとした成果も出なければ理解も起こらないのです。
どうも、その辺りのことを自分で考えもせずに、「言われた通りにやっていても理解できない」とか、「それをやっていても、自分が武術をマスターすることは不可能ではないか」などと言って、自己を省みずに人のせいにするパターンが、慢性的に生じていると思えてなりません。
教えられたことを自分なりに解釈して、自分なりに研究して、自分なりに答えを導き出そうとする学習の仕方は論外として、言われたことを言われた通りに素直に聞いているだけの状態も、正しい学習者の姿勢とは言えません。
その状態は、むしろ《思考停止の状態》だと言えます。
実は、思考停止の状態だと、一見素直でも、間違いを指摘されたり何かを否定された場合に、それを認めて処理する回路が開発されていないために、どのように考えたらよいか分からず、延々同じ間違いを繰り返すしかないという状態になるのです。
そして、思考停止状態の人ほど、自分では考えているつもりだと主張するのも、特徴の1つだと言えるでしょう。
そのような場合には、自分が一体何をどれほど考えているのかを、一度と言わず紙に書き出してみることをオススメします。
かつての自分がそうであったように、考えているつもりであればあるほど、そして頭を悩ませているときほど、書き出してみれば大したことを考えていなかったり、酷いときには何も書き出せなかったりするものです。
サルは、自分が困ったときにバナナの皮に悩みを書き出したりはしません。
と、いうことは、自分の内側を紙とペンとを使って表に出せるのは、人間に与えられた特権だとも言えますから、これをすっかり利用してみたらよいと思います。
本当の意味で素直であれば、「それは違う」と言われれば直ぐに止めることができるし、指摘されたことに対して、その場で改善していくことが出来ます。
言うまでもありませんが、それはその場で何かが出来るようになる、ということを指しているのではなく、その場で自分を改めていくことができる、という意味です。
言い換えれば、できない・分からない自分をやめて、できる・分かる自分にチューニングできること。真新しい自分に変容できること、だと言えます。
それでは、どうしたら思考停止状態に陥らず、自分の力で正しく学んで行くことが出来るようになるのでしょうか。
ここでは、ささやかなヒントを、書くことにしたいと思います。
まず、自分が学んでいることの、何を理解していて、何を理解していないのかを明らかにすることです。今現在自分が悩んでいて、モヤモヤしていることに絞ってもいいでしょう。
その悩みとモヤモヤを、ひとつでいいから解決させるのです。その為にどれほど時間がかかっても良いと思います。ただし、気が向いたときに関わり、気が向かないときには放っておくのではなく、解決できるまでそのたったひとつのことに関わり続けることが条件です。
どれほどシンプルでも、難解な問題でもよいと思います。
たとえ馬鹿みたいに単純なことであっても、ひとつのことを自力で解決した経験は、自分に単なる喜び以上のものを与えてくれることでしょう。
そのくらい、人は考えていないのに考えているつもりになっているものです。
また、日常生活の疑問でも何でもよいので、ひとつの物事に対して、とことん掘り下げる習慣を持つことです。
その物事に対して、自分が気になるところはもう何もないというところまで調べて、他人にもそのことについてスジの通った説明ができるくらいまで、掘り下げるのです。
自分よりも掘り下げている人がいたなら、話を聞いて、また疑問が出てきたら自分の力で調べてみる、また人に尋ねてみる、ということを、もうすっかり分かったと言えるところまで繰り返すのです。
一度でもそれをやってみれば、自分が一体どれほどのことを「学ぶ」ことだと考えていたかが分かると思います。
さて、今回は「学習者の姿勢」ということについて、話を進めてきました。
太極拳を理解するために、まず無極椿で立ち、その姿勢を整えることから学習が始められるように、学ぶ者の姿勢が整っていなければ、どれほど高度な内容を教授されようとも、それを受け取ることも、研究することもできません。
今回は、学習者の姿勢がどう在れば正しく学ぶことができるのかは、敢えて文字にしないでおこうと思います。
その代わりに、この記事を読んでくださっている皆さんに自分で考えて頂くことで、今後の学習に役立てて頂ければと思います。
(つづく)
練拳ダイアリーの「学び方」シリーズも、第6回目となりました。
木村さんのりんごの無農薬栽培成功までの学び方に感銘を受けて、少しでも皆さんと共有出来ればと思い、ブログにて感じたことを述べてきましたが、正直なところ、私たちが道場という特殊な空間で伝統武藝を学ぶことと、りんご農家の木村さんがりんご作りの基礎から見直して得られてきた過程とでは、同じ「学ぶ」ということであっても、少々質が異なるのではないかという懸念がありました。
けれども、ここまで書き進めてきて、改めて「学ぶ」ということは、分野の違いや種類、環境や事の大小に関係なく、共通して、人が今の自分を超えていくためのメソッドなのだと思えます。
さて、これまでは、「何かを学ぶためには、どのような意識を持ち、どのように考え、どのように学習していかなければならないのか」を述べてきました。
しかし、私自身が稽古を進める中で、それらのことをどれほど頭に叩き込もうとも、肝心なことが抜けていては、何も意味をなさないことに気がついたのです。
その肝心なこととは、その意識や考えが働くための土台、すなわち、「学ぶ者の姿勢」のことです。
道場で20年近く稽古をしていると、学習者には幾つかのタイプがあることが見えてきます。もちろん、道場に通う人達は皆それぞれ異なる目的を持っていて、健康が目的の人、心身の開発が目的の人、武術修得が目的の人など、細かく挙げればキリがないのですが、今回は個々の目的には取り敢えず関係なく、そして他所で聞いてきた様々な学習者のタイプも含めて、話を進めたいと思います。
学習者のタイプとして1つ目に挙げられるのは、道場に来ることで満足するタイプです。
自分が何か習いごとをしていて、非日常の世界に向かっているというその事実だけで、充分ハッピーな気持ちになれるのですが、道場に来ることが目的ですから、極端な話、道場で何も見なくても、何も聞かなくてもよく、道場に足を運んでさえいればよいという考え方です。ですから、当然学習にはならず、自己満足だけで終わる状態です。
2つ目は、道場に来て、教えを受けて満足するタイプです。
この場合、学習意欲はあるので教わることが心地よく、いいこと学べたなぁと満足して帰ります。そして、家に帰ったら教わったことをノートにまとめたりはするのですが、それだけで勉強が出来た気持ちになります。
この場合、知識は増えていきますが、教わっていることが身につくことはありません。
3つ目は、道場で教えられたことを、素直にやってみようとするタイプです。
教えられたことが何であるのかを理解しようとはするけれども、なかなか難しいので、まずは言われたことを、言われた通りにやろうとするわけです。
このタイプは、自分の理解度はなんとなく把握していても、言うことを聞いているだけなので、今何を学んでいて、次に何を学んでいけばよいのかが、明確には分からないタイプだと言えます。
4つ目は、教わったことを理解して、実行した結果を検証することができ、学んだことを基に自分で学習していくタイプです。
自分がどこまで理解しているのか、今後何を学んでいけばよいのかが分かり、それ故に、考察力と行動力が伴います。
簡単にまとめると、以下のようになります。
1.完全自己満足タイプ
2.勘違いタイプ
3.素直なタイプ
4.学者・研究者タイプ
────────さて、よく勘違いされやすいのが3つ目の、素直なタイプ。
稽古では、自分の考えを挟まないこと、そして言われたことを守り、従うことが学ぶことの基本であるとされ、それができなければ上達は見込めないとまで指導されます。
だから、指導されたことに忠実に、素直に行動に移そうとするのですが、なかなか理解が伴わず、学習が進まないことが往々にして見られます。なぜでしょうか?
ちょっと考えてみてください。
言うことを聞いているだけで強くなったような武術が、果たして存在するのでしょうか。
それは、ただ真似をしているだけで何かが分かることなど無いのと同様に、有り得ないことです。
たとえ指導者が、言われたことに従うこと、そして見たままを真似することが学習の鍵であると言っても、自分でそれを実践してみて何の成果も生じないのであれば、その時点で疑問に思うべきです。
本当にこれでいいのだろうか?・・と。
そもそも、何の成果も出ないようなことを、指導者が指導するだろうか?・・と。
つまり、自分のやり方、自分の真似の仕方は、実際には言われた通りに正しく行われていないために、きちんとした成果も出なければ理解も起こらないのです。
どうも、その辺りのことを自分で考えもせずに、「言われた通りにやっていても理解できない」とか、「それをやっていても、自分が武術をマスターすることは不可能ではないか」などと言って、自己を省みずに人のせいにするパターンが、慢性的に生じていると思えてなりません。
教えられたことを自分なりに解釈して、自分なりに研究して、自分なりに答えを導き出そうとする学習の仕方は論外として、言われたことを言われた通りに素直に聞いているだけの状態も、正しい学習者の姿勢とは言えません。
その状態は、むしろ《思考停止の状態》だと言えます。
実は、思考停止の状態だと、一見素直でも、間違いを指摘されたり何かを否定された場合に、それを認めて処理する回路が開発されていないために、どのように考えたらよいか分からず、延々同じ間違いを繰り返すしかないという状態になるのです。
そして、思考停止状態の人ほど、自分では考えているつもりだと主張するのも、特徴の1つだと言えるでしょう。
そのような場合には、自分が一体何をどれほど考えているのかを、一度と言わず紙に書き出してみることをオススメします。
かつての自分がそうであったように、考えているつもりであればあるほど、そして頭を悩ませているときほど、書き出してみれば大したことを考えていなかったり、酷いときには何も書き出せなかったりするものです。
サルは、自分が困ったときにバナナの皮に悩みを書き出したりはしません。
と、いうことは、自分の内側を紙とペンとを使って表に出せるのは、人間に与えられた特権だとも言えますから、これをすっかり利用してみたらよいと思います。
本当の意味で素直であれば、「それは違う」と言われれば直ぐに止めることができるし、指摘されたことに対して、その場で改善していくことが出来ます。
言うまでもありませんが、それはその場で何かが出来るようになる、ということを指しているのではなく、その場で自分を改めていくことができる、という意味です。
言い換えれば、できない・分からない自分をやめて、できる・分かる自分にチューニングできること。真新しい自分に変容できること、だと言えます。
それでは、どうしたら思考停止状態に陥らず、自分の力で正しく学んで行くことが出来るようになるのでしょうか。
ここでは、ささやかなヒントを、書くことにしたいと思います。
まず、自分が学んでいることの、何を理解していて、何を理解していないのかを明らかにすることです。今現在自分が悩んでいて、モヤモヤしていることに絞ってもいいでしょう。
その悩みとモヤモヤを、ひとつでいいから解決させるのです。その為にどれほど時間がかかっても良いと思います。ただし、気が向いたときに関わり、気が向かないときには放っておくのではなく、解決できるまでそのたったひとつのことに関わり続けることが条件です。
どれほどシンプルでも、難解な問題でもよいと思います。
たとえ馬鹿みたいに単純なことであっても、ひとつのことを自力で解決した経験は、自分に単なる喜び以上のものを与えてくれることでしょう。
そのくらい、人は考えていないのに考えているつもりになっているものです。
また、日常生活の疑問でも何でもよいので、ひとつの物事に対して、とことん掘り下げる習慣を持つことです。
その物事に対して、自分が気になるところはもう何もないというところまで調べて、他人にもそのことについてスジの通った説明ができるくらいまで、掘り下げるのです。
自分よりも掘り下げている人がいたなら、話を聞いて、また疑問が出てきたら自分の力で調べてみる、また人に尋ねてみる、ということを、もうすっかり分かったと言えるところまで繰り返すのです。
一度でもそれをやってみれば、自分が一体どれほどのことを「学ぶ」ことだと考えていたかが分かると思います。
さて、今回は「学習者の姿勢」ということについて、話を進めてきました。
太極拳を理解するために、まず無極椿で立ち、その姿勢を整えることから学習が始められるように、学ぶ者の姿勢が整っていなければ、どれほど高度な内容を教授されようとも、それを受け取ることも、研究することもできません。
今回は、学習者の姿勢がどう在れば正しく学ぶことができるのかは、敢えて文字にしないでおこうと思います。
その代わりに、この記事を読んでくださっている皆さんに自分で考えて頂くことで、今後の学習に役立てて頂ければと思います。
(つづく)
2013年07月10日
練拳Diary#52「学び方 その5」
by 教練 円山 玄花
農家でもなく、百姓でもない、武術家の端くれである私が「奇跡のリンゴ」を読んでからおよそ6ヶ月。一気に読み進めることになったその感動は、いつまでも色褪せることなく、そしていつまでも自分の心に、自分の在り方に対する疑問を投げかけ、勉強すること、学ぶことを与え続けました。
ひとつのことを追求するためには、気持ちだけが大きくてもとてもやっていけるものではなく、志と目的とをしっかりと持ち、それを追求するだけの覚悟を以てそれに取り組むことで、初めて可能になるということ。
また、問題を解決するためには、頭で考えているだけではなく、実際にフィールドで実験をし、その結果を検証し、それを次なる実験に繋げていかなければならないということ。
そして、自分が見たいものや解決したいことだけに目を向けずに、常にその物事の全体を知ろうとする姿勢が重要だということ。
それらのことを、自分と照らし合わせ、必要のないものは捨てて、足りないものは勉強して補い、修正していくということを、日々の中で繰り返していました。
そんなある日、一つの小さな小包が届いたのです。
遠方に住む、もう15年以上も会っていない友人からの、突然の小さな荷物の中身は、4つの青いりんごでした。
一枚のカードが添えられていなければ、私はそのりんごが木村さんの奇跡のリンゴだとは思わなかったことでしょう。そのくらい普通に、やや小振りのりんごは箱に静かに収まっていたのです。ただ、箱を開けたその瞬間から、これまでに嗅いだことのない、豊かなりんごの香りが、部屋一杯に溢れました。
どの様な経緯で友人が木村さんのことを知り、奇跡のリンゴを手に入れたのかは分かりませんが、ともかくもそれはやって来ました。
私が、「これは、木村さんのことについて書かなければならない」と強く心に思うきっかけにもなった、出来事です。
あまりにもタイムリーで、一瞬何が起こったのか、理解できませんでした。
青く、大きさの割にはズッシリとした重みを持ったりんごの実。
後に、そのりんごは木村さんが育てているりんごの中の、「むつ」という種類であることが判明するのですが、そのときの私はそれを知る由もなく、かつて「木の実」と呼ばれたりんごを、恐る恐る両手に包むように乗せていたのです。
まるで、生命に触れているような感覚でした。
100%不可能と言われた、減農薬や有機栽培ですらない、正真正銘の無農薬栽培のりんご。
畑の土から見直して、畑の中に自然の山の環境を再現し、しかし手入れをきちんと行き届かせて、人の手によって育てられた、このりんご。
木村さんに言わせれば、ただりんごの木の手伝いをしただけ、ということになるのでしょうが、それが、この世に2つとないリンゴの実であることは、確かだと思いました。
半分に切ってお皿に置き、そのまま手に取ってかぶりつきました。
一口食べて、香りの割には味がそれほどハッキリしないことに少し驚き、二口、三口と食べ進めるうちに、ようやくそのりんごの味が分かってきたのです。
それは、一般に販売されているりんごの様には甘くなく、瑞々しくもありませんでした。
けれども、りんごの木の香りと、土の味がするのです。
そのりんごは、確かに豊かな大地に根を張り、土と空と太陽の恩恵をたっぷり受けて、実をつけたということが感じられるのです。言ってみれば、木村さんの畑がある、岩木山の味だと表現できるかもしれません。
りんごの甘さと言うよりは、土の甘さ。味よりも香りの方が、よほど甘さを感じられたことの裏側には、市販されているりんごの味に疑問を挟むこともなく馴れきってしまった、自分の舌と頭があるような気がしました。
そういえば、市販のりんごはどこを食べても大体同じ味がしますが、木村さんのりんごは一口ごとに違う味わいがあるのです。
まるで、太陽がたくさん当たったところ、虫がかじったところ、雨が当たりやすかったところ・・と、一個のりんごでも部分的に自然の環境が違っていたことを教えてくれているかのようです。
木村さんの手を借りて、枝の剪定や年に一度の草刈りをして貰って秋の訪れを知り、栄養ギリギリの土の中で、成長するために必死に根を伸ばし、子孫を残すために実をつける。
りんごは、もっと甘くなろうとも、美味しくなろうともしていないことでしょう。
そんなことよりは、もっと強く、もっと豊かな種を残そうとしているに違いなく、その結果として、甘みや旨味が、内側から滲み出てくるのだと思います。
だから、木村さんのりんごには、何よりも生命の強さが感じられます。
それまで農薬に守られ、肥料で満腹になっていたりんごは、安泰の生活から一変して、ご飯を貰えず、病気と虫に脅かされる闘いの日々になったわけです。
飼い慣らされた動物が、野性に帰ることと同じ苦労を、突然味わわされることになったりんごが、そこで負けずに、木村さんと一緒に生まれ変わることができた、その強さ。
りんごを食べてみて初めて、木村さんが言った、「自分は、りんごの木の手伝いをしているだけなんだ」という言葉が、理解できた気がしました。
木村さんの生き方が、りんごの木に農薬や肥料に頼らずに生きる強さを与え、りんごの成長が、木村さんに百姓の在り方を教える。
りんごと木村さんは、二つでひとつとなり、その成果が一個のりんごの実として現れる。
なんと豊かな、味わい深いりんごであろうかと感じていたら、気がついたら種だけ残して芯までみな食べ尽くしていました。
一個のりんごの実に感じられたものと、同じ「強さ」が、私たち学ぶ者にも必要です。
その強さとは、今の自分に必要なことを適確に感じ取り、手に入れられること。
また、困難にぶつかっても、問題を見極められる冷静さと忍耐を持つこと。
そして、理解したひとつのことから、十の新しいことに対応できること。
・・こうして強さの一端を少し並べてみるだけでも、人の強さとは、正に「生きる強さ」であることが浮かび上がってきます。それは、私たちが武術の目的としている「生き残れること」にも繋がります。
「ある日突然、無人島に裸で放り出されたら、君たちはどうするだろうか?・・」とは、師父がよく研究會の稽古中に発せられる言葉ですが、自分に置き換えて、ちょっと想像を巡らせてみただけで、自分の生きる力がどの程度のものであるかが、分かるというものです。
1ヶ月後の試合に向けて、体調を整え、技を磨き、相手を研究する、というわけにはいかないのです。水は?、食料は?、今夜の寝床は?、敵は?、などなど、瞬時に考えて行動しなければならないことが山ほど、一気に押し寄せるのです。
最近私が稽古で感じていることは、教えられたことに対して、それを解こうとしたり、どう理解したらよいのかを考えても、答えは出ない、ということです。
自分で、自力で太極拳を解いていこうとしたり、理解しようとしているのならば、教えられたことはものすごく大きなヒントになるし、助けにもなります。
けれども、いつの間にか問題が入れ替わり、教わったことのひとつを取り出して、分析して解明しようとしても、それはそのような質のものではないために、出来ないのです。
教わったことに対しては、自分を挟まずに、言われた通りにやってみることだけが求められており、その過程と結果とがヒントにも助けにもなるのです。
私は、この仕組みを明確に認識することで、その後の学習がずいぶん変わりました。
太極拳とは、武術とは何であるのかに興味を持ち、それを自分で解いていくことは、そのまま自分の生きる力になります。生命である以上、生きる力は強くなければなりません。
だからこそ、プロは基本に強さがあることを見抜き、それ故に基本を守り、どこまで行っても基本を追求し続けるのだと思います。
(つづく)
農家でもなく、百姓でもない、武術家の端くれである私が「奇跡のリンゴ」を読んでからおよそ6ヶ月。一気に読み進めることになったその感動は、いつまでも色褪せることなく、そしていつまでも自分の心に、自分の在り方に対する疑問を投げかけ、勉強すること、学ぶことを与え続けました。
ひとつのことを追求するためには、気持ちだけが大きくてもとてもやっていけるものではなく、志と目的とをしっかりと持ち、それを追求するだけの覚悟を以てそれに取り組むことで、初めて可能になるということ。
また、問題を解決するためには、頭で考えているだけではなく、実際にフィールドで実験をし、その結果を検証し、それを次なる実験に繋げていかなければならないということ。
そして、自分が見たいものや解決したいことだけに目を向けずに、常にその物事の全体を知ろうとする姿勢が重要だということ。
それらのことを、自分と照らし合わせ、必要のないものは捨てて、足りないものは勉強して補い、修正していくということを、日々の中で繰り返していました。
そんなある日、一つの小さな小包が届いたのです。
遠方に住む、もう15年以上も会っていない友人からの、突然の小さな荷物の中身は、4つの青いりんごでした。
一枚のカードが添えられていなければ、私はそのりんごが木村さんの奇跡のリンゴだとは思わなかったことでしょう。そのくらい普通に、やや小振りのりんごは箱に静かに収まっていたのです。ただ、箱を開けたその瞬間から、これまでに嗅いだことのない、豊かなりんごの香りが、部屋一杯に溢れました。
どの様な経緯で友人が木村さんのことを知り、奇跡のリンゴを手に入れたのかは分かりませんが、ともかくもそれはやって来ました。
私が、「これは、木村さんのことについて書かなければならない」と強く心に思うきっかけにもなった、出来事です。
あまりにもタイムリーで、一瞬何が起こったのか、理解できませんでした。
青く、大きさの割にはズッシリとした重みを持ったりんごの実。
後に、そのりんごは木村さんが育てているりんごの中の、「むつ」という種類であることが判明するのですが、そのときの私はそれを知る由もなく、かつて「木の実」と呼ばれたりんごを、恐る恐る両手に包むように乗せていたのです。
まるで、生命に触れているような感覚でした。
100%不可能と言われた、減農薬や有機栽培ですらない、正真正銘の無農薬栽培のりんご。
畑の土から見直して、畑の中に自然の山の環境を再現し、しかし手入れをきちんと行き届かせて、人の手によって育てられた、このりんご。
木村さんに言わせれば、ただりんごの木の手伝いをしただけ、ということになるのでしょうが、それが、この世に2つとないリンゴの実であることは、確かだと思いました。
半分に切ってお皿に置き、そのまま手に取ってかぶりつきました。
一口食べて、香りの割には味がそれほどハッキリしないことに少し驚き、二口、三口と食べ進めるうちに、ようやくそのりんごの味が分かってきたのです。
それは、一般に販売されているりんごの様には甘くなく、瑞々しくもありませんでした。
けれども、りんごの木の香りと、土の味がするのです。
そのりんごは、確かに豊かな大地に根を張り、土と空と太陽の恩恵をたっぷり受けて、実をつけたということが感じられるのです。言ってみれば、木村さんの畑がある、岩木山の味だと表現できるかもしれません。
りんごの甘さと言うよりは、土の甘さ。味よりも香りの方が、よほど甘さを感じられたことの裏側には、市販されているりんごの味に疑問を挟むこともなく馴れきってしまった、自分の舌と頭があるような気がしました。
そういえば、市販のりんごはどこを食べても大体同じ味がしますが、木村さんのりんごは一口ごとに違う味わいがあるのです。
まるで、太陽がたくさん当たったところ、虫がかじったところ、雨が当たりやすかったところ・・と、一個のりんごでも部分的に自然の環境が違っていたことを教えてくれているかのようです。
木村さんの手を借りて、枝の剪定や年に一度の草刈りをして貰って秋の訪れを知り、栄養ギリギリの土の中で、成長するために必死に根を伸ばし、子孫を残すために実をつける。
りんごは、もっと甘くなろうとも、美味しくなろうともしていないことでしょう。
そんなことよりは、もっと強く、もっと豊かな種を残そうとしているに違いなく、その結果として、甘みや旨味が、内側から滲み出てくるのだと思います。
だから、木村さんのりんごには、何よりも生命の強さが感じられます。
それまで農薬に守られ、肥料で満腹になっていたりんごは、安泰の生活から一変して、ご飯を貰えず、病気と虫に脅かされる闘いの日々になったわけです。
飼い慣らされた動物が、野性に帰ることと同じ苦労を、突然味わわされることになったりんごが、そこで負けずに、木村さんと一緒に生まれ変わることができた、その強さ。
りんごを食べてみて初めて、木村さんが言った、「自分は、りんごの木の手伝いをしているだけなんだ」という言葉が、理解できた気がしました。
木村さんの生き方が、りんごの木に農薬や肥料に頼らずに生きる強さを与え、りんごの成長が、木村さんに百姓の在り方を教える。
りんごと木村さんは、二つでひとつとなり、その成果が一個のりんごの実として現れる。
なんと豊かな、味わい深いりんごであろうかと感じていたら、気がついたら種だけ残して芯までみな食べ尽くしていました。
一個のりんごの実に感じられたものと、同じ「強さ」が、私たち学ぶ者にも必要です。
その強さとは、今の自分に必要なことを適確に感じ取り、手に入れられること。
また、困難にぶつかっても、問題を見極められる冷静さと忍耐を持つこと。
そして、理解したひとつのことから、十の新しいことに対応できること。
・・こうして強さの一端を少し並べてみるだけでも、人の強さとは、正に「生きる強さ」であることが浮かび上がってきます。それは、私たちが武術の目的としている「生き残れること」にも繋がります。
「ある日突然、無人島に裸で放り出されたら、君たちはどうするだろうか?・・」とは、師父がよく研究會の稽古中に発せられる言葉ですが、自分に置き換えて、ちょっと想像を巡らせてみただけで、自分の生きる力がどの程度のものであるかが、分かるというものです。
1ヶ月後の試合に向けて、体調を整え、技を磨き、相手を研究する、というわけにはいかないのです。水は?、食料は?、今夜の寝床は?、敵は?、などなど、瞬時に考えて行動しなければならないことが山ほど、一気に押し寄せるのです。
最近私が稽古で感じていることは、教えられたことに対して、それを解こうとしたり、どう理解したらよいのかを考えても、答えは出ない、ということです。
自分で、自力で太極拳を解いていこうとしたり、理解しようとしているのならば、教えられたことはものすごく大きなヒントになるし、助けにもなります。
けれども、いつの間にか問題が入れ替わり、教わったことのひとつを取り出して、分析して解明しようとしても、それはそのような質のものではないために、出来ないのです。
教わったことに対しては、自分を挟まずに、言われた通りにやってみることだけが求められており、その過程と結果とがヒントにも助けにもなるのです。
私は、この仕組みを明確に認識することで、その後の学習がずいぶん変わりました。
太極拳とは、武術とは何であるのかに興味を持ち、それを自分で解いていくことは、そのまま自分の生きる力になります。生命である以上、生きる力は強くなければなりません。
だからこそ、プロは基本に強さがあることを見抜き、それ故に基本を守り、どこまで行っても基本を追求し続けるのだと思います。
(つづく)