*第71回 〜 第80回
2012年01月15日
連載小説「龍の道」 第80回
第80回 龍 淵(3)
「お服加減はいかがですか─────────────────」
兄の隆範が濃茶をひとくち飲むと、母がそう訊ねた。
「たいへん結構でございます」
隆範は茶碗を手にしたまま軽く会釈をしてそう答え、さらに二口を飲み、最後にズッと音を立てて飲み口の茶を吸いきると、懐紙で飲み口を清め、茶碗の正面を元に戻してから隣の弟へと、茶碗を載せた袱紗ごと手渡した。
茶事にあっては ”濃茶” が最も重要な位置を占めており、この一碗の濃茶を頂くために延々と四時間にもわたる茶事があるのだと言える。
濃茶ではひとつの茶碗で他の連客との飲み回しが行われる。かつて明日の命も知れぬ戦国の世にあっては、濃茶を喫する席は武士たちが心をひとつにする場であり、一碗の茶により一層の連帯を強くしたと言う。
隆範は弟がひとくち飲むのを待ってから、
「ただいまのお茶名は?─────────────────」
亭主である母に、そう訊ねた。
「善知の昔です」
「お詰め(茶師の名)は?─────────────────」
「宇治の霞山園です」
「先ほどは結構なお菓子を頂き、ありがとうございました」
本来の茶会ではここで客が菓子の銘や製(製造元)を訊ねるのだが、今日は祖母の追福に母子水入らずで行っている略茶会であり、それらは菓子を頂いた時すでに母から聞かされていたので、隆範は菓子への礼を述べるに留めている。
これらの問答は茶事における定(き)まりである。
このように、本来の意味における茶事では、何を問い、何を答えるか、いつ、どのように礼をするか、懐石をどのように頂くのか、茶をどのように喫するのか、などといった作法が芝居の台本のように細かく決められていて、勝手気儘に行えるものは何ひとつ存在しない。
それは、ちょうど禅寺の修行僧が早朝から就寝まで日々の作務を時間ごとに細やかに決められ、掃除や座禅、読経、托鉢などは無論のこと、風呂や便所に入って出て来るまでの作法までもが厳しく定められているのと全く同じ意味なのである。
やがて茶碗が弟から還ってくる。
濃茶を頂いた後には、その茶碗が拝見のために再び正客のところに還ってくる。
隆範はじっくりと茶碗を拝見している。
茶碗を拝見するときには身を屈め、肘を膝に付けて、茶碗が置かれた畳からほんの少しだけ持ち上げて拝見する。大切な茶碗を粗相して壊さぬ為の、客の礼儀である。
拝見が済むと弟との間にそれを置き、送り礼をして弟に送って、今度は宏隆が拝見することになる。
弟の拝見が済むと、隆範は茶碗を亭主のところに戻し、自分の席に躙って(にじって)戻った。
「たいへん趣のあるお茶碗ですが、ご由緒は?──────────────」
「宗雲堂という、京の鷹峯(たかがみね)に独自の茶室を造って住んで居た茶人の作で、
”斑唐津(まだらからつ)写し” です。裏千家十一代・玄々斎宗匠の箱書きがあります」
斑唐津写し、と母が言ったその茶碗はとっぷりとした沓(くつ)形で、如何にも唐津らしい寂びた味わいがある。斑唐津とは、長石に藁灰を混ぜて焼成することで粘土に含まれる鉄分が青や黒などの色に斑になったのでそう呼ばれる。
茶道では古くから茶を美味しく点てられる順位として、一楽、二萩、三唐津などと言われ珍重されるが、この茶碗もそれに違わず、どろりとした濃茶の緑が茶碗に映えて、如何にも侘茶を追求する茶人の手遊び(てすさび)と思えるような、茶を能く知る者が創造した深い味わいがある。
「ほう、鷹峯の侘び茶人のお作ですか。私は沓形(くつがた)の茶碗は織部ばかりのように思い込んでいました。ちなみに、お銘は何というのですか?」
「八十年一夢 ──────────────」
「ああ・・・・」
兄弟は思わず顔を見合わせて、なるほどと、大きく頷き合った。
八十年の歳月を経た人生も単にひとつの夢に過ぎない、という禅の達観を、祖母も天寿を全うする日を前に、有り有りと悟っていたのかも知れなかった。
「本当に・・・お祖母さまを追慕する、今日の一会(いちえ)に相応しい茶碗ですね」
しみじみと、隆範が言う。
銘が分かるとその茶碗が一層侘びて見える。宏隆たち兄弟はその茶碗の閑寂な趣に、優しかった祖母の八十数年の生涯を思った。この茶碗で幾度となく茶を点てたであろう祖母の、点前をする姿さえ想像できるような気がするのである。
「これを隆範に形見分けするようにと、お祖母さまが生前から仰っておられました」
「・・え、これを私に、ですか?」
「そうです、隆範の生涯の勉強に、と──────────────」
「有り難いことです。しかし、碌に茶道を嗜みもしない私には真に勿体ないことですが」
隆範が、少し申し訳なさそうに母に言った。
確かに兄はそれほど茶道を好んでいるようには見えない。勿論、加藤の家の子として茶道に多くを学び、それを嗜みとして身に着けはしているのだが、茶を専ら己の道として精進しているようにまでは思えない。茶への思い入れや造詣などは、むしろ弟の宏隆の方がよほど深いと思えるのである。
「宏隆には、先ほどの団龍紋の万歴赤絵鉢を形見に贈るとのことです」
「あの見事な赤絵の鉢を、ぼくに・・・?」
「お祖母さまは、宏隆が中国の武藝を学んでいることを薄々ご存知でしたから、きっと龍の如く、立派に成長して欲しいという願いが込められているのでしょう」
「ありがとうございます。大切にいたします」
「宏隆は陶器を観る目があるので、きっとあの赤絵鉢は今日のお菓子には合わないとお思いだったでしょうね」
宏隆が菓子の鉢をそう感じるであろうことを、母はすでに承知であった。
「いえ、お母さんにしてはちょっと珍しい組み合わせだと思いましたが、きっとお祖母さまに所縁(ゆかり)のあるものだろうと──────────────」
「ほほ・・お祖母さまは、きっと宏隆のことだから、部屋の飾り棚の上にでもヒョイと置いたまま忘れてしまうだろうけれど、それでも構わないから、と笑って居られましたよ」
「あ、いや・・まあ、そのお話を聞かなければ、そうしていたかもしれませんが」
「お前はもっと物を大事にしないといかん。小さい頃から空手だの拳法だのと、板や瓦や、人間まで破壊することばかりやっているから、まあ仕方ないかもしれんが・・・・」
兄が宏隆をからかって言った。
「ほほほ・・・・」
「はははは・・・・・」
わずか二畳の小さな部屋に、母子の明るい笑い声が響いた。
それを機に、母は戻された茶碗に一杓の湯を注いで茶碗を漱ぎ、湯を建水(けんすい)に流すと、茶碗を膝前に置き直し、
「隆範が形見に頂戴した、この ”八十年一夢” の茶碗はとても優れた味わいがありますが、折角ですから少し説明をいたしましょう」
そう言って語り始めた。
「作者の宗雲堂は、箱書きにある玄々斎に師事して佗茶の真髄を究めようとした人です。
玄々斎は三河松平家の奧殿藩(おくとのはん=現在の愛知県岡崎市と長野県佐久市に存在した藩)一万八千石の藩主の子供で、十歳のときに裏千家十代・認得斎の養子に迎えられ、十七歳で裏千家の当主となりました。
裏千家は当時、加賀前田家の茶具奉行250石、伊予久松家茶道奉行250石の扶持を受けながら、利休の佗茶の精神を守り続けていたのですが、玄々斎が養子に来てから、さらに尾張徳川家の茶道指南役として迎えられ、新たに400石の扶持を受けるようになります」
「玄々斎宗匠は裏千家中興の祖として知られていますね。たしか幕末から明治維新にかけての、1800年代の人でしたね」
確かめるように、兄がそう言った。
「そうです。玄々斎は積極的に公家や武家へも出仕して茶の湯を盛んにし、大名の子らしく客へのもてなしには当時貴重品であったギヤマン(ガラス製品)を多用するなど、茶事に煌びやかさが加えられました。明治維新後には立礼式(りゅうれいしき=椅子に腰掛けて行う点前の形式)を考案するなどして、進取の精神を発揮されています」
「有名な立礼式は、その方が工夫されたのですね──────────明治維新後は西洋文化を取り入れることが盛んになり、茶道を始め、様々な日本文化が衰退の危機に晒されたと言いますが、それを食い止めるためにも、そのような礼式を新たに考案したのですね」
「そのとおりです。ところで、茶の点前の種類は一体どれほどあるか、其方たちは知っておいでですか?」
「いえ、私は考えたこともありません」
「ぼくもそうです。自分が知るお点前は、せいぜい十数種類くらいでしょうか」
兄弟が順に答えて言った。
「茶の点前は、全部で凡そ八百五十種類ほどもあるのです──────────────」
「そんなに・・・それはちょっと驚きです。多くても五十か、せいぜい百種類有るか無いかくらいだろうと想像していたのですが」
「では、茶の点前がそれほど多く存在するのは、何ゆえだとお思いですか?」
「それはきっと、利休さん以来、様々な茶人が工夫を重ねてきて、学習体系として形になってきたからだと思います」
隆範がそう答えた。
「宏隆は、どう思いますか?」
「そう簡単には、その道を修得できないように工夫されているのだと思います。学習者が形式だけではなく、もっと自分と向かい合い、内面を極めて行けるように多くの機会が用意されているのではないでしょうか」
「点前の種類がそれほど多いのは、それがすなわち、人を写す鏡であるからです。
すべての藝術がそうであるように、茶道でも点前を行えばその人間の人格も器量も、何もかもが露わになり、そこに如実に表現されてしまうのです。それは招かれた客にしてもおなじこと。正客でも連客の立場であっても同じことです。
茶は娯楽ではなく人間成長の道ですから、己の人間性が露わにならなくては修行になりません。それゆえに、点前の種類が多ければ多いほど良い。向かい合うべきものが多ければ、その都度、常に新しくそれに向かわなくてはなりませんし、熟(な)れるまでには相当な時間がかかるので、誤魔化しが効かないのです」
「それは太極拳の学習と似ていますね。同じ型を練習していても、老師と自分とは全く違っていて、それは型として上手いとか下手だとかという以前に、それを行っている人間としての度合いが、そこで学ぼうとしていることの中身自体が、まるで違っているのです。
それに、同じ単純な形を幾度となく練習しても毎回違っています。形は同じでも、自分の向かい合い方がその度に違っているのだと、最近ようやく分かるようになりました」
「宏隆も、太極拳ではとても良い勉強をさせて頂いているようですね」
「はい。しかし随分ひどい目にも遭いますが─────────────────」
宏隆が笑って頭を掻いた。
「それもまた、貴方にとって必要なことなのでしょう。しっかりお遣りなさい」
「はい、ありがとうございます」
「だけど、あまり心配をかけるなよ。まったく、お前の人生はまるで小説みたいな・・・・いや、それこそ小説よりも奇なり、というヤツだからな」
「まったく・・・自分でも困っています」
「いや、まるでそれを楽しんでいるようにも見えるけどな」
「すみません──────────────」
「ほほほほ・・・・・」
「ははははは・・・・・・」
茶室から外へ出ると、もう辺りはひんやりと暮れかけている。
西の空には幾条(いくすじ)もの光が茜色の雲間から射して、今日という一日の名残を惜しんでいるような、穏やかな閑かさにあふれている。
釣瓶落としといへど光芒しづかなり─────────────────
秋桜子の句がそのまま口をついて出てくるような、美しい夕暮れであった。
茶庭を抜けて、母屋に向かう道を兄と一緒に歩く。
茶事のために造った庭とは違って樹立ちも大きく、辺りは夕暮れが一層深くなってくる。
「黄昏とはよく言ったものだな─────────────────
誰(た)そ彼、つまり、彼(あれ)は誰だろう、という、人が見分けにくい夕暮れの情景をそのまま表現したのだから・・・・美しいなぁ、日本語は」
兄が、玉砂利が敷き詰められた小径を、ザク、ザクと、音を立てて歩きながらそう言う。
「しかし、本当に命だけは大事にしてくれよ。たったひとりの弟を危険な目に遭わせたくないし、ましてや北朝鮮なんぞに連れて行かれでもしたら、どうすれば良いのか・・・・」
「ごめん、心配ばかりかけて。これからはもっと訓練を積んで、強くなるから」
「いや、そうじゃなくて・・・」
そう兄が言いかけたとき─────────────────
「危ないっ!!」
突然、宏隆は素早く兄を後ろに投げ倒し、自分もそのまま屈んで身を低くした。
「うわっ、な、何をするんだ!─────────────────」
「シィ──────────ッ、このまま、じっとして・・・・・」
和服に雪駄履きという出で立ちのまま、いきなり砂利道に倒された兄はひどく驚いたが、宏隆は兄が立ち上がらないよう肩を押さえたまま、辺りの様子を見ている。
隆範もすぐに、その唯ならぬ状況を察して、息を殺して弟の指示を待った。
薄暗くて見にくいが、よく目を凝らせば、たったいま兄弟が立っていたすぐ傍の樹には、細長い鋭利な投げナイフが突き刺さっている。
「誰だっ、そこに居るのは──────────!!」
怒鳴ると同時に、ビュッと、足もとの砂利をひとつ、木立の闇に向かって投げつけた。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第81回の掲載は、2月1日(水)の予定です
2011年12月15日
連載小説「龍の道」 第79回
第79回 龍 淵(2)
何という閑かさだろうか─────────────────
わずか二畳の、驚くほど小さな茶室の片隅に切られた炉に、シュウシュウと茶釜の音だけが響いている。
秋日和の暖かな昼下がりに、ぼんやり薄暗い室内で黙然と釜鳴りを聴いていると、何とも寛いだ気持ちになってきて、ついつい瞼(まぶた)が重くなってくる。無論、本物の茶室には電灯も無ければコンセントも無い。
こんなふうに寛げるのは本当に久しぶりのことで、緊張に次ぐ緊張の連続だった台湾から突然帰国して来た吾が身にとっては、その寛ぎは虚脱状態にも近いと思える。母国日本が生んだ偉大な文化にとっぷりと浸っているこの午後にあっては、それは尚更のことであった。
襲ってきた眠気を覚ますつもりで、背筋を起こし、首を振って室内を見渡す。
亡き祖母が好んだこの茶室は、国宝・待庵(たいあん)の写しとして造られたものだ。
祖母は若い頃に憧れの待庵で催された茶会に招かれたことがあり、実際に客としての貴重な体験をし、それに感動していよいよ待庵に惚れ込み、何時かは邸内に待庵の写しを造りたいと口癖のように云っていたという。
祖母の家、つまり母の実家は神戸市内に小さな茶道美術館を持つほどの家で、邸の中には茶の家元も驚くような立派な小間と広間の茶室や侘びた茶庭があり、祖母に可愛がられた宏隆は小さい頃からよく遊びに行っては小遣いを貰い、茶室では子供であることを厭わず美術館に展示するような本物の楽茶碗や萩、織部の名品に触れさせてもらい、それで散々お茶を頂いた記憶がある。
京都・大山崎の妙喜庵にある「待庵」は、千利休が建造したと確信される、現存する唯一の茶室である。
天正十年(1582)の六月、本能寺の変の報せを聞いた秀吉は、水攻めで名高い備中高松城の戦いに決着をつけると、わずか十日間という驚くべき機敏さで大軍勢を畿内に引き返し、天王山の麓、山崎で信長を討った明智光秀の軍勢と激しく戦った。光秀はこの戦いの折に、落ち武者狩りの百姓の竹槍による最期を遂げている。
その山崎の合戦の折に、妙喜庵にほど近い島本にある利休屋敷から、侘び茶の極みである二畳隅炉の茶室が、秀吉の陣中にある妙喜庵に移築されたものが、この待庵だと伝えられている。
母から聞いたそんな話を思い出しながら、改めて室内を眺めてみる──────────
頭を使い始めると、先ほどまでの眠気も少しは増しになってくる。
この茶室には幼い頃から何度か来てはいるのだが、何故か今日はこれまでとは全く違ったものとして感じられる。台湾で過ごした非日常的な日々が、宏隆にそのような感覚を与えているのかも知れなかった。
二畳の小間にしてはやや大ぶりの躙り口は、陣中にある秀吉のために少しでも潜り易くする工夫をしたのだろうか。その躙り口の上にある明かり取りの小窓からは、障子を通じて光がほんのりと優しく射し込んでいて、この部屋全体を薄明で包み込み、訪う者を和んだ心にさせてくれる。
かつては、たとえ高貴な武士であっても茶室の手前で手挟む太刀を置き、身分の上下なく無一物の境地で皆同じ躙り口を潜ったというが、一億総中流意識などと言われ、高度経済成長に現(うつつ)を抜かす昨今の日本人がもう疾くに忘れてしまったであろうそんな心を、この空間では沁み沁みと思い出させる。
秀吉が同じ利休に命じて造らせたという黄金の茶室とは陰陽の対比も正反対に、そこら中に藁苆(わらすさ)が見え隠れする粗壁(あらかべ)は、永年のあいだ囲炉裏の煤にまみれてきた貧しい百姓家の壁のように鈍く黒ずんでいて余分な光の反射を防ぎ、幽玄な雰囲気を醸し出している。
兄が座っている上座の横には四尺幅の床の間があって、本来四角いはずの床(とこ)の四隅は壁や天井との境目が円く塗り回され、柱や梁の材がすっかり隠された室床(むろどこ)と呼ばれる手法で造られている。室床の”室”とは、山腹などに掘って造った岩屋や穴蔵のことであり、また古代の寝室などに用いられた周囲を壁で塗り込めた部屋のことである。
この塗り回された壁の円さのせいで、客のすぐ前の床の間の空間は、黒ずんだ粗壁の色と相俟って遠近感が失われた独特の雰囲気を醸し出しているのである。室床の前に座っていると、まるでプラネタリウムを見上げているような、あるいは暗い洞窟の中に迷い込んだような、そんな不思議な感覚がある。
こんな床(とこ)の造りは、日本広しと雖(いえど)もそう滅多に有るものではない。
それもこれも、すべてが千利休の創意なのだとしたら、やはり佗茶の完成者、名利すでに休せし茶聖と呼ばれる天才であると、ひたすら感心する他はない。
利休の孫である千宗旦(せんのそうたん)は、大徳寺の名僧・春屋宗園の許で得度修行をし、秀吉に千家の再興を許されて後は還俗して祖父利休の佗茶の普及に努めた。
その清貧に徹した佗びの茶風は「乞食宗旦」と呼ばれるほどであったが、秀吉が曾て死を命じた利休から召し上げた茶道具を宗旦に名指しで返したことから、実質的な利休の後継者と目されるようになったとも言われている。
その宗旦は、利休が創作した室床に、さらに床畳から框(かまち)の所までを土塗りした土床(つちどこ)を作り、祖父を超える更なる侘びの精神を追求した。
宗旦と言えば、あまりにも有名な逸話がある。
千宗旦は敢えて仕官もせず、茶と禅の一致を求めて清貧の中で佗茶を追求し、晩年には利休の造った僅か二畳の茶室から、さらに一畳の四分の一を切り取って板敷きにし、床の間も廃して壁にそのまま花や軸を掛ける”壁床”にし、もうこれ以上小さな空間は作れないと思える「一畳台目」の茶室を完成させた。慶安元年(1648)、宗旦が七十歳の時の事である。
その真新しい草庵の席名を大徳寺の清巌和尚に命名して頂こうと招待したところ、約束した時刻になっても和尚がやって来ない。待つうちに生憎(あいにく)宗旦にも急用が入ってしまい、仕方なく『もし清巌和尚が来られたら明日もう一度ご足労頂くよう、宜しく申し上げてほしい』と弟子に言い遺して外出をした。
やがて遅れてやって来た清巌和尚は宗旦からの伝言を聞くと、弟子に筆を所望し、真新しい茶室の腰張り(茶室の壁の下部に衣服の擦れを防止する為に貼られた和紙)にサラサラと『懈怠比丘不期明日(けたいのびく・みょうにちをきせず)』としたためると、また飄然と帰って行った。
「懈怠の比丘明日を期せず」とは、遅刻して来るような怠惰な坊主である私は、明日のことなど前もって定(き)められる筈がない、という意味である。
急用を終えて帰って来た宗旦は、腰張りの文字を見ると、一寸先がどうなるかも分からぬ人の世に、明日の約束を求めた自分の軽薄さを深く反省し、早速その足で大徳寺を訪ねて清巌に陳謝し、『今日今日と云いてその日を暮らしぬる、明日の命はとにもかくにも』と歌を詠んで、明日の命も分からない人生であるのに、大切な今日を疎かにして暮らしているのはたいへん愚かなことでしたと、その心を清巌和尚に伝えたという。
以来その一畳台目の茶室は、その折の教訓に因み、宗旦自らが命名して「今日庵」と呼ばれるようになった。現在も京都上京区の裏千家に重要文化財として残る「今日庵」である。
「どうぞ、先ずはお菓子を──────────────」
いつの間にか母が水屋(勝手)から菓子器を運んできてそれを兄の前に置き、茶道口でそう言うと、襖を閉めて水屋へと下がって行った。
深さのある四角い赤絵の菓子鉢には伸び伸びと団龍紋(団円に描かれた龍紋)が描かれており、器の中には紅葉色の美しい生菓子と、小ぶりの干柿に大徳寺納豆の詰め物をしたものが二つずつ入っている。
兄は宏隆に「お先に」と軽く指を付いて会釈をすると、懐から懐紙を取り出して畳の縁より内側の膝の前に置き、添えてある取り箸でそこに菓子をひとつずつ取ると、懐紙で箸先を清め、取り箸を菓子器に戻して、弟の方に菓子鉢を回した。
宏隆も同じように鉢から懐紙に菓子を取り、躙(にじ)って勝手口の前に置き、後退りをして席に戻ってくる。
本来の茶事は主客のために催されるのであり、それ以降の次客、三客と連なる客は相伴客とされる。一番最後の相伴客は「お詰め」と云って、茶室側で茶事の進行がスムースに行われるための大切な役割を担うのだが、これは大概ベテランの人があたる。
今日の場合は正式な茶事ではないが、この兄弟は小学生の頃から母に茶道を仕込まれており、宏隆がお詰めの役割として、手慣れた所作で菓子鉢を勝手口に返したのである。
「ほう、これは美味そうだな・・・さ、いただこうか」
兄の隆範から先に菓子の乗った懐紙を取り上げ、懐から楊枝を出していただく。
深山の紅葉を想わせる菓子は中々旨いが、ふと、団龍が描かれた赤絵の菓子鉢があまりこの菓子とは調和しないように思える。母にしては珍しいな、と宏隆は思った。
しかし、黒く鈍く光る室床に掛けてある、大徳寺物の「夢」の一文字の掛け軸を見ても、今日のこの席が亡き祖母を偲んでの、母子水入らずの茶のひとときであるという事は、この兄弟には容易に理解できることであった。
そして、それならば、この菓子器もおそらくは祖母が愛用の品か、何か祖母に関わる謂われのある品かもしれないとも思えるのである。
「如何でしたか──────────────」
茶道口から出てきた母が、菓子の味を訊ねる。
「たいへん美味しくいただきました。先ほど京菓子と言われましたが────────」
「松琴堂の ”秋の深山(みやま)” です。もうひとつは、わが家の庭の柿を干して大徳寺納豆を詰めたもので、私が製(つく)りました。何れもお祖母様がお好みだったものです」
「ああ、やはり今日の茶席は、亡くなったお祖母様を偲んでのものなのですね」
上座の隆範が言った。
「そうです。お二人には既に分かっていたとは思いますが、お祖母様はあなた方二人の孫の行く末をとても楽しみにしておられ、まるでご自分のことのように、やってくる未来について、隆範はああであろうか、宏隆はこうであろうかと、それは楽しみにしておられました」
「とうとう最期にお話が出来ず、本当に残念なことでした」
「やはり、ぼくが心配をかけた所為で、突然あんなことになったのかもしれません」
宏隆が少し俯き加減に、ぽつりんと言った。
「虫の知らせはあったかもしれませんが、それは宏隆の責任ではありません。それに、お祖母様がお元気だったら、きっと台湾での武勇談を目を輝かせて聞かれたことでしょう」
「・・え、本当ですか」
「娘の私がそう思うのですから、きっとそうですよ」
「ありがとうございます。何だか少し楽になりました」
「宏隆は落ち込むのも早いけれど、立ち直るのも早いですわね」
「まったく、そのとおりですね──────────────」
兄が宏隆の顔をつくづく見ながら、そう言った。
「あはははは・・・・・」
「ほほほ・・・・・・」
親子水入らずで朗らかに笑ったのは、本当に久しぶりのことであった。
「────────────では、お濃茶を差し上げましょうか」
そう言うと母は水屋に下がり、やがて手に茶碗を持って現れた。
どろりと苦い濃茶はどうも苦手だという人が居るが、宏隆は薄茶よりもそれを好んだ。
濃茶とは、抹茶を濃いめに茶碗に入れ、ただ湯を入れて茶筅で練るだけのものであるが、良い香りのする上品質の抹茶を用いなければ決して美味しくは入れられない。
そして、こんな小さな茶室では主客共に、どんな所作をしてもその心が全て露わに見えてしまうものだが、母の点前(てまえ)をじっと眺めていると、その洗練された美しさに身も心も清められる気がしてくる。
しかし、よく見ればそればかりではなかった。
それは単に所作として完成された礼法の美しさだけではなく、ある意味では猛牛をさえ手懐けてしまえるほどの力強さや激しさ、そしてそれを隅々まで見守ることのできる内省観心の意(こころ)と、底知れぬ慈みや優しささまでが内側に感じられ、茶を練るという行為の閑寂枯淡とした外観の趣と相俟って、まるで優れたオーケストラによる上質の音楽を聴いているような心地になってくる。
「これは、武術と同じだ──────────────」
湯を汲み、茶を練っている母の姿は、まるで心閑かに真剣勝負の場に臨む武人のようにも思える。或いはまた、白無垢に身を包み、自らの死に臨む人のような─────────
「もし、茶を練る母の手に、真剣を持たせたら・・・・」
そう想うと、宏隆はにわかに緊張を覚えた。
自分には到底勝ち目はない、と素直に思える。
「ああ、僕はまだまだ駄目だ──────────────
茶道の家元でもない母でさえ、これほどの容(すがた)を見せるのだ。そして母がこうなる迄にはどれほどの努力や精進が人知れず為されたことだろうか。王老師に就いて中国武術の真髄を学び、次代へ受け継ごうという立場の自分が、この程度の努力では到底それを修めていけるわけがない──────────────」
宏隆はあらためて己の甘さを思い、その未熟さを嘆いた。
(つづく)
【参考資料:待庵の腰掛け待合と露地、茶室内部、躙り口、および見取り図】
*次回、1月1日は著者のお正月休暇のため、お休みをいただきます。
連載小説「龍の道」 第80回の掲載は、1月15日(日)の予定です
2011年12月01日
連載小説「龍の道」 第78回
第78回 龍 淵(1)
高く澄んだ青空に、鱗雲が出ている。
「もう、すっかり秋だなあ・・・・」
檜皮(ひわだ)で葺かれた深い庇の先の、疎(まば)らな木洩れ陽の隙間から見える小さな空を眺めながら、宏隆はポツリとそう呟いた。
ここは神戸北野の加藤邸──────────その一隅にある茶庭の露地である。
今日は宏隆たち兄弟に母が折り入って話したいことがあるというので、和服姿も凛々しく兄の隆範と二人して腰掛け待合いに座り、母の迎え付けを待っているのだ。
「いったい、何の話なのだろう?」
「え・・?」
「母の話というのは何なのだろうか、と訊いたんだよ」
「ああゴメン、すっかり秋になったなあと思って、空を見ていたんだ」
「空って・・・樹が覆い繁って、此処からはそんなに空も見えないじゃないか。相変わらず暢気だなぁ、お前は。まったく、羨ましいくらいだ。台湾から帰ってきてからは、以前にも増してボーッとするようになったみたいだが」
「うん、そうかもしれない」
「まあ、短い間にあれだけ色々と大変なことが起こったのだから、無理もないが・・・」
兄弟が語らう言葉も、普段よりもひときわ控えめに交わされている。
自宅の敷地内とは言っても、茶室のある一帯は侘びた寒村のように閑静で、風が枝葉を揺らす音や、時おり聞こえる小禽(ことり)の鳴き声こそすれ、すぐ外には人口百二十万の大都市が広がっていることさえ忘れてしまえるほどの別世界が創り上げられていた。
あれから、もう二ヶ月以上にもなる─────────────────
王老師の指導を受けている最中に祖母が倒れたという報せを聞き、急ぎ父と共に日本に帰ってきたのだが、高齢の祖母は意識不明のまま、間もなく他界した。
四十九日の法要も済ませて、さらに何週間か経った今日、秋晴れに恵まれたその週末に、兄弟二人して小間の茶室に来るようにと、母から言われたのである。
母の静栄(しずえ)は、縁あって中学生の頃から祖母に就いて利休古流の茶道を学んできた。この家に嫁いできたのも、江戸初期の大名・池田輝政の後裔という立派な家柄は無論、その品性の高さや真摯に学ぶ姿勢を祖母が甚く(いたく)気に入って、父に娶れ、娶れと強く勧めたからに他ならなかった。
丁度戦後の経済復興が漸く隆々と波に乗ってきたこの時代に、貿易の事業に繁忙を極める父に成り代わって加藤家の茶風を守ってきたのはその母であり、この侘びた趣きの茶庭も、待庵を写した小さな茶室も、四畳半の方丈の茶室も、みな祖母の薫陶を得た母の念い(おもい)によって丁寧に維持されてきたものであった。
ひとつ屋根の下で暮らす家族だというのに、どうして改まった茶事のように母が息子を茶に招くのか──────────広々としたリビングで、秋日和のテラスで、お気に入りの紅茶でも淹れて母子(おやこ)で語らえば良いではないかと、一般の家庭ではまず有り得ないようなこの状況を普通は不思議に思うかもしれない。
しかし、この加藤家にあっては、曾祖父の代に始まった ”茶の湯” は単なる趣味には留まらず、始祖・利休居士が生涯を懸けて追い求めた「茶味禅味・味々一味」「茶の湯は仏法を以て修行得道する事が其の第一也」と語った通りの禅の道であり、茶道にあっては茶室は真理を修めるための道場、茶庭は三昧の禅堂に向かう準備を整えるためのアプローチに他ならなかった。
そして、たとえ親と子の語らいの場としての気軽な茶であろうと、主客が交わる正式な茶事の場であろうと、その意味は何ら変わらない。この家の息子たちにしてみれば、茶室に誘(いざな)われること自体が、彼らがその人生で如何に真摯に「道」を求めているかどうかを問われていることでもあり、実際に待合に座って外露地を眺めるだけでも、改めて心が引き締められる思いなのである。
ふと、その露地の奥から水音が聞こえてくる───────────────
兄弟は幾度か茶事の経験もあるので、それは蹲踞(つくばい)の水を新ためている音だということが分かる。それは、間もなく母の迎え付けがあるということでもあった。
やがて、露地の先にある中門の向こうに母の姿が見えたのを機に、二人は待合の席を立って、兄を先頭に、その門に向かって静々と歩んでゆく。
竹葺きの小屋根を載せた侘びた中門までの曲がりくねった道のりは、あたかも鬱蒼とした雑木林の中を往くかのように設えられてあり、よく打ち水をされた飛び石を伝いながら、
”露地透かし” という、敢えて不揃いに刈り込まれた樹々の、微かな木洩れ日の中を閑かに歩んでゆく。
母は煤竹で造られた格子の扉を開くと中門の手前で蹲い、敷居に手指を着いて迎え付けの礼をとる。兄弟もまた門のすぐ手前に蹲って、低頭して黙礼をする。
母親に茶に呼ばれたからと言って、すぐに茶室に入って行けるわけではない。茶室を道場として用いるからには、先ずはこのように、共に道を歩む主客(しゅかく=主人と客)として中門の敷居を挟んで互いに蹲い、礼を交わすことから始められるのである。
礼を終えると、母は門扉に少し手掛かりを残して閉じ、茶室へと戻ってゆく。
宏隆たちもまた、今いちど待合の腰掛けに戻って座り、一呼吸を入れてから円座を腰掛けの隅に片付け、再びいまの露地を歩いて中門を潜り、いよいよ茶室のある内露地へと入ってゆく。
茶庭の露地の美しさは、其処いらの植木屋が庭をいじったような美しさではない。
言わば人間の手が入れられていない閑雅な山里の風情を、その自然な雅味が醸し出されるように、無作為の作為というべき巧みな手入れが繊細に行き渡って為されている。
露地というのは茶室に付属する庭のことを指すが、それは屋根の無い、雨露が直に当たるところという意味ばかりではなく、鏡に映したように己の姿を露(あらわ)にする処という意味合いが含まれている。
茶道をよく知らぬ人は、窮屈な礼儀作法を強いられて狭い茶室で苦い抹茶を飲む、というイメージがあるかも知れないが、これは人の真理を求めることに目覚めた者が、世俗を離れて、侘びた山里の風情に誘われながら求道の門に辿り着き、やがてその門を潜ることを許されて、門の内側の世界を垣間見ながら身を清め、心を新たにして遂に修行の禅堂に入る、という求道のプロセスが表現されたものでもある。
いったん中門を潜ると、そこには内露地と呼ばれる、禅の三昧を修する本拠である茶室に臨む、幽玄の世界を想わせる庭が眼前に広がっている。
招かれた客は、手水に蹲って神社に参拝するように手を清め、口を漱ぎ、茶室の小さな入口の前で再び蹲って室内を拝見し、かつて自己が育まれた胎内へ還って行くように、その薄明の小空間へと身を縮め潜らせてゆくのである。
「折角の休日のところを、よく来てくれましたね──────────」
壁に掛けられた軸の前に並んで座った兄弟に、水屋から出てきた母が丁寧に指を付いて挨拶をした。
もう知命の年齢に手が届くばかりだというのに、かつて北野の小町と呼ばれた母は、その美しさに厚みが増しこそすれ、すでに身体的には疾(と)うに盛年期を超えた人であることを微塵も感じさせない。
「お茶に招いて頂いてありがとうございます。この小間に入るのは久しぶりです」
掛け軸に近いところに座った兄の隆範が、母の言葉に応えて言った。
茶事では、何人招かれようと、主客(しゅきゃく)のみが招いた主人と話をすることができる。それ以外の同席者は特に話しかけられない限り、黙って主客に従うのが礼儀である。
だが、もとより今日の母の招きには、それほどの堅苦しさは無い。
「今日は茶事というわけではないのですが、お祖母様が亡くなってからずっと貴方たちと話す暇(いとま)も無かったので、お祖母様がこよなく愛されたこの小間の茶室で、久々に母子でお話がしたかったのです」
「私たちも、あれからずっとそのように感じていました。兄弟でもっとお手伝いが出来れば良かったのですが、何分若輩で気が利かず、申し訳なく思っています」
「そんなことは良いのですよ。貴方たちはご自分のお仕事である学業に専念して、お父様や御祖父様のような、世のため人のために尽くせる立派な人間になって頂きたいものです」
「はい、そのように努力いたします。なあ、宏隆──────────────」
「ああ・・はい、本当にそうですね・・・・」
「・・ば、馬鹿、ボーッとしないで、もっとしっかりしないか」
小声でそう言いながら、自分の左側に座った宏隆の膝を突っつくが、外の腰掛けで待ち草臥れたのか、本人は欠伸でも出そうな顔をしてまったく締まりがない。
尤も、どれほど小声であろうと、この二畳の空間では、向かい合った主客の顔とわずか数尺の隔たりしか無いので、何を言っても丸聞こえではある。
「もう台湾の疲れは取れましたか・・?」
母がそんな宏隆を見ながら、綻ばせた顔を少し傾けるようにして訊ねてくる。
「あ、はい、台湾の疲れというか、何というか──────────────」
「ほら、お母さんにきちんと答えないか」
横から兄が、再び宏隆の膝を突っつく。
「そう・・本当はすぐにでも台湾に戻って勉強したいのですが、お祖母様の葬儀やら、学校やらで、なかなかそうも行かず──────────」
「台湾では、ずいぶん色々な勉強をしたようだと、お父様から伺っていますが」
「はい、とても良い勉強をさせて貰えました」
「何か、危険な目にも遭ったようですね」
「はい、往路(いき)の航路で遭遇したような不可避の事件もありましたが、拉致の件については、自分にはまだまだ隙があったので、そのような事になったのだと思います」
「亡くなったお祖母様は、ずいぶん宏隆のことを心配されていました。台湾で起こった事件は決してお耳に入れないようにと呉々もお父様から念を押されていたのですが、毎日のように宏隆は無事か、宏隆は大丈夫か、と訊ねられて、こちらが平静にお話をするのが大変でした。何か虫の知らせのようなものがあって、お前のことをそのように案じられていたのかも知れません
「申し訳ありません。小さい頃からずっと、ご心配ばかりをかけます」
宏隆は正座をしている膝を少し改めるように座り直し、如何にも申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。
「ほほ・・・貴方は、たとえ縛っておいても自分でその縛(いまし)めを解いて、好奇心の航海に旅立つような性格でしょうから、ある意味ではわたくしも、信頼こそすれ、それほど心配はしていないと言えるかも知れませんね」
「縛めと言えば・・・・そう、いつだったか、宏隆が ”オデッセイア” の本を持ってきて、
兄さん、僕はこんな人間になりたいんだ、そこを通過する船乗りたちに、この世のものとも思えぬ美しい歌声を聴かせて狂わせ、岩礁に難破させて餌食にしてしまうという怪物サイレンの棲む魔の海峡に、敢えてその美しい歌声を聴こうと、部下の船員たちに蜜蝋で耳栓をさせ、自分を帆柱に縛り付けさせて、危険を冒してわざわざそこに入って行くような、そんなすごい航海の出来るような、そんな熱い人生を歩めるような人間になろうと思うんだ・・・と言っていました。あの時の宏隆のキラキラした眼差しは忘れられません。もっとも、同じ兄弟でも僕にはそんな危険な情熱は全くありませんが・・」
「そうそう、確か宏隆が中学の頃だったかしら。貴方はそれ以来、ずっとオデッセウスの物語ばかり読んでいたようでしたね」
「はい、今でも自分は、そのような情熱を大切にするべきだと思っています」
「だが、家族に心配をかけるのは良くないぞ。お前の事を皆がどれほど案じていたことか。お母さんだって、今は平然としておられるが──────────」
「隆範、もう過ぎたことなのですから、良いのですよ。貴方には貴方らしい生き方があるように、宏隆には宏隆の生き方があるのです。本当の家族というのは、それを無視せず、邪魔をせず、そこでその人がより多くを学べるよう、良きアドバイスが出来るように心掛けなくてはなりません」
「はい──────────────」
「この度の台湾の件でも、私たち家族が学ばされたことが多くありました・・・
もちろん私は宏隆が心配でなりませんでしたが、家族とは、各々の人生に起こる物事を皆で共有して互いに学んで行くものだと、改めて考えさせられました。心配ばかりして、自分の心の不安を解消したいあまりに、本人の人生の可能性を奪ってしまうことこそ、家族として、親として、とても恥ずかしいことだと思います」
「お父さんも、同じことを仰っておられました」
しみじみと、兄の隆範が母に言った。
「夫婦は似たもの同士、それは当然のことかも知れませんね」
「お母さん、ありがとうございます。でも、出来るだけ心配をかけないようにします」
宏隆が珍しく殊勝な顔をして、そう言う。
「ほほほ、そんなことを言うと、何だか貴方らしくないような・・・・
でも、何でも好きにお遣りなさい。自分の信じた道を、自分の責任で生きるのです。
それ以外に、この世に生まれてきた目的は無いはず──────────────
さあ、折角茶室に招いたのですから、先ずは一服差し上げましょうか。今日は京都から美味しいお菓子を取り寄せておきましたのよ」
「うわぁ、それは楽しみです!!」
甘いものに目がない宏隆は、子供のように目を輝かせて喜んだ。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第79回の掲載は、12月15日(木)の予定です
2011年11月15日
連載小説「龍の道」 第77回
第77回 構 造(12)
「 Immovable Body というのは、とても意味深い表現ですね────────────
順身が、固定されて動かせない身体だとは・・・何と言えば良いのでしょうか、その言葉自体が自分には大きなショックでした。でも、陳師兄と手合わせをして頂いたお陰で、ほんの少しですが、その動かせない、拘束された不動の身体というものが太極拳に必要なのだということが実感できたように思います」
宏隆は、何かが体中に染み通ったような気がしていた。
物事を理解していくとは、このような事であったのかと、改めて思えるのである。
「それは良かった──────────だが、真の武術功夫の追求は、ここから始まる。
架式の理解は歩法への理解を生み、歩法の理解は勁(チカラ)への理解を生みだす。
そして、身体を正しく用いられるだけの ”意識” が、先ず何よりも必要になる。
実感さえ得られれば構造を理解して行けるというものではない。最も必要なことは常に正しい意識の在り方であり、固定され、拘束されるべき不動なるものは、決して身体だけのことではないのだ」
ひとつひとつの言葉を噛み締めるように、宏隆は王老師の話を聴いた。
「はい、ありがとうございます。心して訓練に励みたいと思います。しかし、こんなに凄いことが陳氏太極拳の中で何百年も脈々と伝承されてきているというのは、本当に素晴らしいことですね」
「そうではない──────────────」
「えっ、そうではない、と仰いますと・・?」
「河南省陳家溝の陳一族には、これらに関わる練功はおろか、もはや太極拳の正しい構造さえ、ほとんど残っていないかもしれないのだ」
「まさか、そんなことが・・・現在も進行中の、文化大革命がそうさせてしまった、と言うことでしょうか」
「いや、それは革命の遥か以前から始まっている。 ”紅い皇帝” と呼ばれる毛沢東が1949年に共産主義・新中国の国家主席に君臨して以来、栄え(はえ)ある伝統武術はソ連の猿真似をしてスポーツへと転換が図られてきたのだ。
毛沢東にとってスポーツとは、競技や娯楽のための運動に過ぎない。国家体育運動委員会が伝統武術を否定して急速にスポーツ化を図るその第一の理由は、人民の間に反政府的な軍事力や革命力を温存させないことにある。新しい為政者が民衆を手懐(てなず)けるにはそれまでの伝統が陳腐だと認識させ、野生の闘争本能を奪い、新しい未来を夢見させることが大切なのだ。
彼らは、”押陳出新(古臭いものを退けて新しいものを進める)” とか、”古為今用(昔のものを現代に役立てる)” などと称して、伝統武術を健康体操やスポーツとして、西洋風の魅力ある運動に変容させることに躍起になってきた。新中国では武術家などは全く無用の長物で、政府の言いなりになる国際社会向けのスポーツマンこそが求められているのだ」
「しかし、陳氏の直系の子孫たちは、太極拳の真伝奥義を密かに、共産党の圧政の目を掠めながら、大切に受け継いでいるのではないのですか?」
「そうであって欲しいと願うが──────────しかし残念ながら、現存する陳氏太極拳は、この二十年間ですでにその殆どが形骸化しつつあると聞いている。今や陳家溝を代表する若手たちの中には、本来の正しい纏絲勁の構造で動いている者は非常に少ないという、ある筋からの報告もある」
「もしそうだとすると、伝承する責任のある人たちがそれでは、太極拳はいったいどうなっていくのでしょうか?」
「滅びていくしかない─────────────────」
「そ、そんな・・・」
「いや、ある何かの動きが起こると、行き着く処まで行かなければ、それが途中で留まることは無い。それが法則だ。太極拳の真伝は、もしそうであれば滅びるしかないだろう。
何しろ陳家溝には、陳氏拳術の謎を解く最大の鍵である秘伝書、”三三拳譜” の写本さえ残されていないというのだ。いくら何でも、それでは本家の面目が立たないし、若い世代の気概にも大きく関わってくる」
「では太極拳は、このような高度な武術文化は、やがて失われてしまうのですか?」
「失われる前に──────────────先ずは、上辺の形だけを真似たニセモノが大手を振って横行するようになるだろう。
やがて間もなく、日本と中国は国交を回復することになるが、それを切っ掛けに、太極拳を筆頭とする多くの中国武術が日本に流れ込んで行くことになる。
中国武術は日本のみならず世界でも大きなブームとなり、華やかにメディアで取り上げられ、様々な団体が創られ、新しい本が何十冊も出版され、世界中で中国武術の映画が数多く上映されることになるに違いない。その結果、中国は世界に受け容れられ易くなる。毛沢東は周到にその準備を重ねてきているのだ」
「日本と中国が、国交を回復する・・?!」
「そう、まだこれは、政府関係者しか知らないことだがね」
これまで政治に殆ど関心がなく、日頃からテレビのニュースや新聞もロクに見ない宏隆にとっては、これはまさに寝耳に水の大事件であった。
「こ、国交を回復というのは────────────つまり日本が、中国共産党の率いる、文化大革命の最中にある、中華人民共和国と国交を回復するというのですか?」
「そのとおり。そして日本はこの国、中華民国・台湾と国交を断絶する」
「え・・ええっ!!」
「今年7月に就任したばかりの日本の田中角栄首相は、この2月に訪中を実現したニクソン大統領を出し抜いて、米国より先に中国と国交を締結する ”日中共同声明” を近々発表するつもりだ。大陸と台湾の両政府は、他国による ”中国” の二重の承認を認めていない。従って、日中国交回復は、即ちこの台湾との国交断絶を意味するのだ」
「複雑な政治のことは、まだ僕にはよく分かりませんが、日本と中国はどのような関係になっていくのでしょうか?、この台湾も含めて────────────」
「それは未だ分からないが、それを機に大陸の ”一つの中国” という主張が強くなることは必至だろう。またアメリカも、中国に媚びて台湾と断交することになるだろう」
「 ”一つの中国” とは、決して台湾を独立させない、という中国共産党の主張ですね」
「うむ。だが台湾人の大方は、表向きは現状維持でも、台湾独立が本音なのだ。
1945年、蒋介石は台湾に逃げ延びて中華民国を造った。彼ら国民党は台湾で生き延びる大義として ”大陸反攻” を掲げ、台湾全土に戒厳令を布いて台湾を独裁統率し、軍事力を背景に絶対的な権力を得てきた。長い戒厳令は今だに続いているが、やがて台湾も民主化の道を辿るのは必至だろう。国民の直接投票によってこの国の政治を決める日が、近々やって来ることになる」
「日中が国交を回復した後は、台湾と日本の関係も変わってくるのでしょうか?」
「台湾は世界一の親日国家であり、歴史観も日本と極めて近しい。それは今後も変わらないことだろう。やがて来る台湾民主化に伴い、日本と台湾は自由と民主主義の価値観を共有する国同士になるが、中国共産党はそれに反して、ありとあらゆる手を使って軍事力と経済力を上げ、台湾を統合し、そして日本を統合しようとしてくる筈だ。この五月に米国から日本に返還されたばかりの沖縄への侵攻も、石油埋蔵の発見で近ごろ俄(にわか)に領有権を主張し始めた沖縄トラフにある尖閣諸島も、彼らの国家百年の大計としてターゲットに入っているのだ」
「大変な時代がやって来るのですね。台湾にとっても、日本にとっても・・・・」
「そうだ。だから君たち若い者たちには、心して頑張ってもらわなくてはならない。
これは日本や台湾のみならず、東アジア、インド、東南アジアまで含めた大きな問題なのだ。中華思想を掲げた中国の傲慢さは、領土を広げて世界を支配しようとして止まることを知らない。ミャンマーやインドにはすでに手を出し始めているし、アフリカの豊富な資源も虎視眈々と狙っている」
「張大人にも申し上げましたが、僕はもっと歴史や政治について勉強し、太極拳を修練していくことによって、もっと自分自身を磨いて成長させていく必要があります。この激動の時代に生まれた人間にしては、余りにも表面的な平和に慣れ、能天気に過ぎました」
「それは結構なことだ。若者がそのような心掛けを持ってくれることは頼もしいし、それでこそ吾が弟子、吾が門の後継ぎに相応しい態度だと言える」
「王老師から学ぶ、この陳氏太極拳が絶えることの無いように頑張ります」
「いや、私は陳氏だの、楊氏だのと言うことには、それほど興味は無い」
「えっ・・・・?」
「どこそこの一族に伝わる武術がどのように優れている、といったようなことよりも、私は太極拳という武藝そのものの真髄を、生涯を懸けて追求してゆきたいと思うのだ。
所詮、陳氏は血族以外には決して本当の意味での真伝を認めようとはしないし、よほどの事がなければ、一族以外の者にその奥義を明かしたりはしない。それは当前のことだし、そうでなくてはやがて陳一族以外の者が陳氏太極拳を治めるようなことにも成り兼ねない。日本の伝統文化である茶道や歌舞伎の家元は、すべて一族の血縁で固められていると聞いている。それはそうでなくてはならないと思うし、素晴らしいことだと思う。
華南の田舎で、近隣の少林拳に似た、極くありきたりの拳法だった陳氏拳術が、何時しか回族の武術である心意六合拳の原理を得て高度な武術に発展していったように、陳一族ではない私は、陳氏太極拳を研究し尽くし、そこからもっと高度な、私自身の太極拳を模索して行きたいと思っている」
「大変ご立派なお考えであると思います──────────────
ですが、ご覧のような能天気で愚鈍な自分は、王老師の後を継げるかどうかさえ分かりません。自分自身の太極拳を創造するなど、夢のような話です」
「先ずは自分を信じて、自分に与えられた運命を受け容れて、それに対してひたすら誠実に学び、一生懸命に努力していくことが大切だ。それに、たとえどのような時代になっても、どのような事があっても、真の武術は必ず遺されていくと、私は信じている」
「自分も、それを信じて、真の武術を守って──────────────
それを守って、未来に遺していけるような人間になれるよう、きっと努力していきます」
「おお、そうか、そうか、なかなか頼もしいな、君は。はははは・・・・」
「王老師、もう少し陳師兄と散手をして頂いてもよろしいでしょうか?、今のうちに、もっときちんと順身の構造を確認しておきたいのです」
「うむ、そうして貰いなさい。私はこれから張大人や君の父君と会う約束があるから、もうそろそろ行かなくてはならない」
向こうの壁に掛かっている時計を見上げながら、王老師が言った。
「あ・・父とお会いになるのですか」
「そうだよ。張大人と一緒に、久々にじっくりお話できるのがとても楽しみだ」
父と王老師の関係については、まだ宏隆には詳しくは明かされていない。
だが、以前から秘密結社・玄洋會に関わってきた父が、張大人や王老師とどのような関係にあるのか、暢気な宏隆にも、それほど想像には難くなかった。
「父君の加藤光興(みつおき)氏は、私たちの組織に多大な貢献をしてくれています。
今回の拉致事件についても、息子が大変お世話になったと言われて、私たちに新型のヘリコプターを1機寄贈して頂きました。丁度古くなっていたので、とても助かります・・・」
陳中尉が、宏隆に説明をした。
「今では玄洋會の結社にとって、父君はなくてはならない存在だ。せっかく台湾にご足労を頂いたのだから、今夜は張大人と共に大切にお持て成しをして来ることにしよう」
「ありがとうございます」
「ビィ──────────────ッ」
ちょうど宏隆がそう言ったときに、戦闘訓練室の入口でベルが鳴った。
「あ、姉です・・・」
訓練室の入口は自動的にロックが掛かるようになっている。その扉の内側の壁に、陳中尉の姉、明珠さんの認識番号のランプが点き、ロックが解除された。
しかし、明珠さんは王老師が室内で指導中であると知っているので、入口を開けて入っては来ない。
「どうかしたのかな──────────師父、ちょっと失礼いたします」
「うむ、行ってやりなさい」
陳中尉は入口のところで二言三言、明珠さんと言葉を交わしていたが、やがてすぐに此方に駆け戻って来て、軍人らしく姿勢を正し、
「姉の明珠によりますと、たった今、張大人から連絡があり、加藤光興氏の御母堂がつい先ほどご自宅にて倒れ、神戸市内の病院に運ばれ、意識不明の重篤であるとのこと。今夜予定されていた懇談会は中止して、加藤父子には至急神戸に戻って頂くように、との張大人からのご指示である、とのことです」
そう報告した。
「祖母が──────────」
宏隆にとっては、思いもよらない報せであった。
「おお、それはいけない。父君に連絡をとって、すぐに神戸に戻りなさい。訓練はまたいつでも、君が望むときに出来るのだから」
「今年83歳になる祖母は、夏が苦手なので、僕もちょっと心配していたのですが・・・」
小さい頃から宏隆のことをよく可愛がってくれた、優しい祖母の顔がふと脳裏に浮かぶ。
「ヒロタカ、師父もそう仰って下さるのだから、先ずは早く父君に連絡を取って・・・・
必要であれば、自分が日本行きの便を手配しますから」
陳中尉も、そう言ってくれる。
「はい・・・王老師、そう言うわけですが、失礼してもよろしいでしょうか」
「おお、早く連絡をしてきなさい」
「では─────────────────」
宏隆は王老師に向かうと、ゆっくりと跪いて拝師弟子の礼を取り、また陳中尉に向かっても丁寧に包拳礼を取った。
「ありがとうございました。ご教授をして頂いている最中に誠に失礼ですが、お言葉に甘えて父に連絡を取ってきます」
深々と頭を下げてそう言うと、やや急ぎ足に訓練室を出た。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第78回の掲載は、12月1日(木)の予定です
2011年11月01日
連載小説「龍の道」 第76回
第76回 構 造(11)
「お、これは──────────────」
さっき向かってきたときとは、まるで軸の在り方が違っている。
陳中尉はちょっと気を引き締めて、急いでその軸に合わせた。
「ススッ──────────────」
ゆっくりとではあっても、宏隆は確実に、これまでになく繊細なところに入ってくる。
「おっと・・・・」
まだ稚拙ではあるが、初動を認識するのが難しい、紛れもなく歩法の構造から出された見えにくい拳打に、陳中尉はその動きを少しばかりぎこちなく制限された。
「ははは、危ない、危ない────────────しかし、大したものだ。架式をきちんと取って動くことの大切さに気が付いて、師父に従いて一緒に歩いた感覚をそのまま使って、私の軸に入ってこようとしている」
心の中でそう呟(つぶや)きながら、この後輩を頼もしく思う。
「今のは中々良かったですが、もっとです。もっと ”半身” を明確に取ろうとして!」
「はい!」
「スッ、スサッ──────────────」
再び攻撃を連続して仕掛けていくが、今度は簡単に陳中尉に崩されてしまう。
「だめだめ、それではさっきと比べて、架式がなっていません」
「あ、はい──────────」
ふう・・・と、宏隆は溜息をついた。
分かりかけている事について、早くそれを取りたいと思う余りに、焦ってしまっている。
しかし、焦ってはダメだ。もっと自分自身を整えなくてはならない。
やらなくてはならないのは、如何に相手に巧く拳を打っていけるかということではなく、如何に自己を正しく整えることが出来るかということなのだ。
その、正しく整えようとする意識と、それによってもたらされる整った身体(からだ)こそが、順身、順体といわれる、武術として高度に整備された身体に他ならない。
「よし──────────────」
そう自分に言い聞かせると、宏隆は大きく息を吸って、ズシリと腹を据えた。
「ススッ、スッ、スッ、スッ・・・・・・・・」
より丁寧に、架式を繊細に見守りながら、歩く。
王老師の後ろに従いて歩いたときに最も驚かされたのは、前後左右があっという間に入れ替わる、不思議な身体(からだ)の使い方であった。
もちろん、まだ王老師のような、洗練された歩き方は出来ない。
しかし宏隆には、たとえ見様見真似ではあっても、可成りのレベルで王老師の歩法を初めから真似ることの出来る能力があった。
その能力は、祖父の代からの『己を挟まず、物事をただ物事として見よ』という家訓どおりに、幼い頃から何事に付けても丁寧に物事の本質に関わろうとするよう育てられて来たゆえのことであろうし、勝手な解釈や余計な考えを挟まずに、先ずは物事をそのままに、ただそこにある通りの有りの儘に学ぶ、という習慣が身に付いているからに違いなかった。
加えて、家庭での躾や育て方が厳しかったのも幸いしていると思える。
加藤家にあっては、子供のみならず、使用人の執事からコック、メイドに至るまで、そこで働く者までが皆、代々この家に受け継がれてきたスピリットを徹底的に叩き込まれ、加藤家に相応しい使用人として教育されたのである。
父は無論のこと、神戸で ”北野の小町” と呼ばれた清楚で美しい母もまた、その美しさの根幹には己への厳しさと生きる逞しさが感じられる。知的で物事に動ぜぬ胆力のある、一本筋の通った大和撫子・・・正に日本女性の鑑とでも言うべき女性であるが、その母が茶道を教授する姿には、宏隆が子供心に、こんなに厳しくてよく弟子が辞めずに通ってくるものだと思えるほどの厳格さがあった。
しかし、子供も、使用人も、そして茶道に通ってくる母の弟子たちも、加藤家にあっては誰もがその厳しい精神性を不快や窮屈に思うことなく、己を律することで初めて見えてくる大きな世界をそこに来て初めて知らされ、かえってその律されることに心地良ささえ感じ、厳しくはあっても誰もが家族同様に暖かく扱われながらそこで学び、そこで団居(まどい)しているのであった。
幸いにもそんな家に育ち、物事を観る目を養い、物事の本質を学ぶことが普通の事として教育されてきた宏隆には、王老師の示すすべてを師の ”在り方” として捉え、現在只今、この瞬間、この他に有り得ぬ ”今” という場で、たった一度限りの機会として学ぼうとする向かい方は至極当然のことでもあった。
宏隆にとっては、師と共に在ることは演劇やライブ演奏と同じことであり、二度と無いその瞬間を、師の活きた示範として全身に感じ、それを何の想いも挟まず享受することに無上の喜びを覚えるのである。それは、見聞きしたものを家に持って帰って考え直し、気儘にあれこれと自分の想いを挟む余地をのこす ”宿題” のようなものとは全く種類が異なっていて、常に新鮮で未知の可能性に満ちていた。
「スッ、スッ、スターン──────────────!!」
素早い突きが、陳中尉の顔面を捉えて放たれる。そして、だんだん宏隆の歩き方が、波のように畝(うね)りを伴ってきているようにも見える。
「ハッ、ハァッ、イィ──────────────ッ、イァアッッ!!」
どこからそんな声が出てくるのか、日本の武道からはちょっと想像の付かないような気合いの声が、繰り出される拳打と共に発せられる。
そして、宏隆が次の歩を進めようとしたその瞬間・・・・陳中尉が、
「そう!、そこでもっと左右を・・」
そう言いかけたのと、ほとんど同時に、
「フッ──────────!!」
軽やかに、まるで一枚の薄絹がひらりと舞うように、その一歩を踏み出すと同時に、拳を突いた。
「うっ・・・ むむっ・・・・・」
陳中尉は宏隆を崩すことも、その拳打を躱すこともできず、わずかに鎖骨のあたりに拳が触れた途端、大きく後ろにのけぞりながら飛び退(すさ)った。
「それだ───────────────」
傍らで、王老師がポツリとつぶやく。
「ふぅ・・・すごいなぁ。こんな短い間に、よくそんな動きが出来ますね!」
ちょっと呆れたように、陳中尉が言う。
「出来るだなんて、そんな・・・これが何なのか、ぼく自身よく分かっていません」
「いや、分からないかも知れないが、君がやろうとしていることは決して間違いではない」
王老師が、静かにそう言った。
「もっと半身を正しく取って、左右を明確にするのだ──────────────
さあ、忘れないうちに、もう一度、陳に向かって行きなさい」
王老師はもう、宏隆が試みようとしていることが何であるかを見抜いている。
まだ半身が甘いというのも、たった今、宏隆が感じていたことであった。
そして、そう言われたとき、
「左右を明確に・・・ 半身を・・ 正しく・・・・
そうだ、反対──────────── 反対だったんだ!!」
ふと、何かを思い付いたように声に出して言うと、
「陳師兄、もう一度!、もう一度お願いします!」
ペコリと頭を下げて、嬉々として陳中尉の前に立った。
「おや、何か重大なことでも見つかりましたか?
良いですとも、存分にやりましょう────────さあ、打ってきて!」
「ササッ、サッ、サッ・・・・・」
宏隆は、素早く陳中尉に向かって入って行く。
「うっ──────────────」
その瞬間、陳中尉は急いで後退りをした。
「こ、これは──────────────!?」
陳中尉の顔色が変わった。
決して鋭く早い攻撃というわけではない。しかし、その拳を躱そうとしても、陳中尉の体軸に吸い付いてくるように、おいそれと外れてはくれないのだ。
「ススッ、スサッ、スサッ─────────────」
とりあえずは、素早く後退することで、どうにかその攻撃を外せてはいるが、陳中尉の架式は、宏隆の歩数が二歩三歩と増すごとに、徐々に乱れを見せてきた。
「む・・・・」
腕を組んでそれを見守っていた王老師が、思わず小さく呻った。
「スッ、スッ、スサッ─────────────」
もう宏隆の攻撃には、さっきのような淀みが感じられない。
拳を打つ、その一本ずつが、打つための身体の力みを何ら必要としておらず、ただ架式の有りように任せて動かされており、無駄なく、淀みなく、またその所為で陳中尉には捉えにくいものとなっているのだった。
「うっ、くくっ・・・・・」
陳中尉は、宏隆の拳打を懸命に外し続けてはいるが、徐々に追い詰められてきている。
そして、次の攻撃を躱すために歩を移そうとした、まさにその位置に、
「ハアッッ──────────────!!」
同時に、スッと踏み込みながら、宏隆が真っ直ぐに拳を放つと、
「うわっ────────────!!」
ドシンと、ついに陳中尉は尻もちをついて、床に転がった。
「・・・こ、これだっ、これに違いない!」
足もとに転げた陳中尉には見向きもせず、打ち出した拳を握り締めたまま、呆然と立ち尽くして、そう呟いた。
「ははは・・・陳は大変な後輩を持ったものだな」
王老師が微笑みながら二人のところに歩み寄ってくる。
「はい、まったく、大変なことです」
陳中尉もまた、微笑みながら起き上がって、
「ヒロタカ、とうとう取りましたね!」
「はい、取ったのかどうかハッキリとは分かりませんが、自分がずっと気になっていたことが、こうして散手をして頂いたお陰で、より明確になってきたと思います。それもこれも、陳師兄がずっと導いてくれて、受けに回って頂いたおかげです。海軍基地で行われたような普通の散手だったら、とてもこんなことは出来ませんでした」
「いや、しかし大したものですよ。教わってもいない心意六合拳の動きを、自分で自然に使い始めるなんて、常人にはまず有り得ないことでしょうね」
「心意六合拳・・・ですか?」
「そうです。今のヒロタカの動きは、心意六合拳そのものでした」
「えっ、これが心意六合拳?──────────────」
「まだ君にはそれが認識できないだろうが、陳氏太極拳は心意拳の構造と一致するのだ。
三三拳譜が陳氏の極秘伝書とされるのも、その理由からだ。君はこれまで全く余所見をせず、ひたすら太極拳の基本功をきちんと訓練してきたから、ここでその原型とも言える心意拳の架式構造が自然と導き出されてきたのだろう」
王老師が言った。
「師父の仰るとおりですよ。多分それは、基隆(キールン)の海軍基地で宗少尉と対戦したときには理解が始まっていたのでしょう。宗少尉を倒したときのヒロタカの動きは、そっくりそのまま心意拳の動きだと言い換えることも出来るのです」
「自分では、居合の形を借りて、王老師に教わった太極拳の構造でそれをやってみただけなのですが、それが心意拳と同じだとは・・・・不思議な感じがします」
「陳氏はその昔、心意六合拳を取り入れたと言われていますが、これまでに誰もそれを証明した人は居ないのです。精々が心意拳の剛猛な発勁動作を真似たのだとか、やれ頭突きだ、体当たりだ、いや呼吸法を取り入れたのだとか、その程度のことしか発想されてこなかったのです。しかし王師父は、陳氏太極拳が心意拳を取り入れた理由を、遂に解明されました。
それは、おそらく斯界では初めてのことで、学術的には無論、隠された歴史を紐解いて行くにも、非常に価値のあることに違いありません」
「ええっ────────────!!」
「師父は、それは科学的に、構造的に証明できるものだと仰っています。つまり、私たちは陳氏がそれを一族の武術に取り入れた時の、正にその時点から学ぶことができるのですよ」
「うわぁ、すごい。それは本当に凄いことですね!!」
「ところで、君はいまの動きが ”順身” であったことを理解できたかね?」
王老師が宏隆に訊ねた。
「順身かどうかは分かりませんが、半身を正しく取ろうと気をつけていました。半身が正しく取れることが、自分が分かりたかったことを理解する鍵だと思ったのです。
そしてそれは、王老師の後ろから従いて歩かせて頂くことで、だんだん見えてきたように思います。ただ────────────」
「ただ・・・どうしたかね?」
「はい、王老師が言われた、順身が不自由で動きにくく、酷く拘束された状態というのが、未だによく分かりません。拘束されることが真の自由な身体を得ることだというのは、自分にとって中々武術とは結びつかないのです」
「ふむ・・・順身は、おそらく日本語で言う ”順体” と、ほぼ同じ意味だと言って良いと思うが、それを英語では何と表現したらよいか、分かるかね?」
「順身、順体を英語で、ですか?・・・うまく適した言葉が見つかりませんが、True Body などと訳すのは陳腐でしょうし、 follow というのも違いますね。abide は甘受するという意味がありますが、うーん・・・」
「順身は ”Immovable Body” と呼ぶべきだと、私は思っている。よく覚えておきなさい」
「Immovable [imúːvəbl]・・・イムーバボゥ・・・イムーバブル・・・・
えーっと、Immovable Property、つまり ”不動産” という使われ方なら知っていますが」
「そのような意味もあるが、ここでは、動かせないこと、固定されていて、それ以外に変化できない、変更できない身体、という意味でこの言葉を用いている。
それに、不動産とはまさに、決して動かせない土地のことを指している。地面を切り取って何処かへ持っていっても、その土地を持っていったことにはならない。それは土を運んだだけのことだ。動かせないとは、そういう意味だ」
「固定された、動かせない身体──────────────」
「そうだ、何か思い当たらないかね?」
「固定されて、動かせない・・・・ 変更できない・・・ 変化できない身体・・・・
あ、ああ・・・・ぼくが今やっていた動きは、王老師を真似たあの歩き方は、よく考えてみれば、左右各々に、まったく変更の出来ない固定された状態でした!!」
「そう、そのとおりだ」
「だから ”順身” と・・身体(からだ)に順(したが)うと、書くのですね。
もともと固定されているのだから、それに順うしかない、という・・・・」
「そうだ。その固定された、拘束された身体が存在するが故に、そこからの法則もまた生まれてくる。最初から自由気ままに動くことを前提とした身体からは、人間の精密な構造から得られる法則など、何も有り得ないに違いない」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第77回の掲載は、11月15日(火)の予定です