*#41〜#50

2012年03月11日

練拳Diary#45 「推手について」その7

                        by 教練  円山 玄花



 「推手の稽古をすると、かえって勁力が分からなくなる」

 「推手の稽古をするくらいなら、基本功を練っていた方が良い」

 ・・・これは、太極拳の学習を10年以上も続けてきた人から、実際に聞いたお話です。

 私たちにとって推手とは、勁力という非・日常的なチカラを学ぶための大きな助けとなるものですし、推手の稽古を行えば、基本功の訓練と少しも離れたものではないことが分かります。ですから、上のお話を耳にしたときはとても不思議に思えました。
 しかし、自分がまだ“勁力”というものを実感できずに、「相手を倒せるのはお互いの位置関係を利用したテコの原理のようなもの」などと考えていた頃には、確かに推手の稽古はよく分からない練功のひとつでした。
 その理由を考えてみると、当時の自分には推手の訓練目的が明確に把握できていなかったことが挙げられます。お互いにただ腕をグルグルと回していても、化勁はおろか勁力も発勁も理解できないままで、ただ推手の型を何種類か覚えてスムーズに動くことができるようになるだけのことです。
 推手を正しく稽古するためには、まず推手の目的が明確になることと、そしてその目的を達成するための道筋が正しく示される必要があると思います。

 推手の訓練目的とは、これまでにも述べてきたように、戦闘に於ける相手との関係性を理解するためのものであり、同時に勁力、即ち纏絲勁を分かるための訓練方法です。
 “戦闘に於ける相手との関係性”などというと、いわゆる推手競技を思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。推手競技や推手競技のための練習風景を見ると、単手・双手を問わずそのほとんどがテンポ良くサッサと動き、その中でお互いに攻防を繰り返すというものです。
 その形を見る限り、推手によって得られるはずの架式からは離れているものが多く、推手の動きも基本の動きとはちょっと異なるように見られます。例えばその状態で練習を続けていると、推手での攻防技術は身につくかもしれませんが、先ほどの “戦闘に於ける相手との関係性” を学習することは難しくなります。

 私は、太極拳という武術が実際にどのように戦うのか、その全貌を知っているわけでも、修得したわけでもありませんが、少なくとも、太極拳を始めた当初に想像していたような、足音もなくササッと動いたかと思えばヒラリと身軽に攻撃を躱したり、或いは相手がどれほど素早い連打を打ってこようとも、それをバシバシと一発ずつ見切って受け、最後に気を溜めてそれを相手に向けてドカンと発する・・・というような、誰にでも考えられるような、ありきたりの戦い方ではないということは、分かってきました。
 太極拳の戦い方は、相手と手を触れてからグルグルと回し、その中で好機を見出して攻撃するのでもなければ、相手の攻撃を受け流しながら単鞭(dan-bian=ダンビエン)で一発決めるようなものでもありません。それならば套路は何のために練習するのか、ということについては、また機会を改めて述べてみたいと思います。

 太極拳の戦い方の特徴を考えたときには、まず第一に相手が思うように歩を進めることができない、ということが挙げられます。・・素早くステップを踏んで相手を追い詰め、隙を見て牽制から一発ストレート!・・などという状況が、そもそも作れないのです。このことは私が述べるよりも、格闘技や空手出身の門人にその経験談を聞いた方が、より現実的かもしれません。
 これまでに他の武術や格闘技をやっていた人が何人も入門してきましたが、例外なく、その人の実力が高ければ高いほど、師父には入って行くことができなかったという事実があります。
 反対に、格闘技は好きだけれど、本格的に修行をしたことはないという人は、自分の置かれている状況やすでに崩されている自分の状態が感知できずに力ずくで飛び込み、その結果崩され、転がされるといったひどい目に遭ってしまいます。これは、太極拳が強いとか、他の武道はどうだという話ではなく、結局のところその人が養ってきた武術的な身体の軸と精度に因るのだと思います。
 ただ、太極拳は他の武術・武道に比べると、戦闘理論一つを取り出してみても、より全体的で全方位的なものであるように感じられます。一方向で強い武術はたくさんあると思います。けれども全方位的に考えられ、構成されている武術は、それほど多くは無いように思えます。それは、太極拳が「太極=大宇宙」という名前を冠している理由でもある、陰(yin)と陽(yang)の法則にその原理を見出しているからではないかと思うのです。

 先ほど太極拳の特徴として挙げた、相手が思うように入ってくることができない点については、私たちの稽古で行われる「肩取り」や「スティックでの斬り合い」などでもすぐに確認することができます。相手の肩を取りに行きたい、相手を斬りに行きたいと思っても、例えば真っ直ぐに歩いていくことができません。それはちょうど、大きな石の球の上に立たされてしまったかのように、自分の身体を制御することで手一杯の状態にさせられてしまうのです。
 相手まであと一、二歩というところで身体はピタリと静止し、もう一歩踏み込むために片足を挙げても、思うところに足が着けません。そこで無理矢理置こうとすればバランスを失い、石の球から落ちるように転がってしまいます。
 このような一見不思議で他門派から見たらヤラセかとも思われる現象は、推手では簡単に説明することが出来ます。つまりそれが「化勁」です。

 よく化勁について説明されたり、テレビで紹介されている映像を見てみますと、相手の攻撃を受け流して、攻撃の進行方向へいなして崩すものが見られます。それらの理論は詳しくは分かりませんが、それが化勁の全てだとしたら、相手と離れている状態では化勁は働かないのではないか、という疑問が残ります。
 私たちが稽古で崩されるとき、その感覚は手を触れていても触れていなくても、推手でも散手でも、何ひとつ変わりません。それ故に、それが化勁という勁のひとつの用いられ方であることが分かるわけです。

 化勁のシステムを学ぶために、推手は最も適したスタイルをとっていると私は思います。
 特に双推手というお互いの両手首と両肘を押さえて、腕を組み合わせた状態で行う推手などでは、一般に言われている「いなす、受け流す」といった運動はできません。太極拳にそのような架式が用意されている以上、化勁はいなしたり受け流すなどして相手の攻撃を躱すものではないということが分かります。
 単に相手の力を空振りさせただけでは、自分が無事であると同時に、相手もまた無事であると言えます。相手からの力が拳打であれば、相手が無事であれば第二第三の攻撃が予測されます。実際には相手から来た力を変えて無効とし、その結果相手が不利な状況になっていることが必要であり、そうなっていて初めて一動作での防御と攻撃が可能になります。
 「防御と攻撃」と言っても二種類を同時に行うわけではなく、その二つは一つのモノの表と裏、陰と陽だったわけです。ちょうど、レールの上を真っ直ぐに走っていたジェットコースターが、突然天地が逆さまになってダブルループを疾走する、と言えば分かり易いでしょうか。実際、手を触れた状態から崩されるときなど、門人たちはよく「いきなり天地が逆さまになったような気持ち」だと言います。それこそ、ボールに立っている状態でいきなり足元をすくわれたような感覚です。

 最後に、四正推手を例にとってみますと、相手のポンに対して此方はリィをしますが、本来は相手はポンを完成させようとしてきますし、そうなると此方は崩されてしまいます。
ところが、そこで「化」すると相手のポンは無効となり、此方のリィが決まるわけです。
推手ではいちいち大きく崩し合っているわけにはいきませんので、相手はポンが効かなかった事に執着せず、リィに対する「化」が始まっていなければならない、というわけです。
 そしてその推手での化勁の繰り返しが、例えば「肩取り」などの、相手と離れて行う対練でも行われているとしたら、相手は一歩を動く毎に「化」されているわけですから、思い通りに歩けないのも当然のことであると言えます。

 それでは、その「化」はどのようにして理解され、修得されるのかと言えば、やはり架式を正しく整え、ゆっくりと丁寧に、一動作ずつ繰り返していくより他に、道は無いのだと思います。

                                 (つづく)

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2012年01月03日

練拳Diary#44 「竹馬と太極拳」

                        by 教練  円山 玄花



 「竹馬」には、笹竹を馬に見立てて跨がって遊ぶものと、長い2本の竹に適当な高さの足掛けをつくり、竹の上部を握って歩くものの、二種類があります。

 竹馬の歴史を簡単に見てみますと、竹に跨がるものは、平安時代にはすでに子供の遊びとして用いられ、鎌倉時代には男の子の間でこの竹馬遊びが盛んになったようです。
 また、江戸時代には竹の先に木製や練り物製の馬の頭をつけ、下端には車をつけた玩具となり、「春駒(はるごま)」と呼ばれていました。
 一方、2本の竹に乗って遊ぶものは室町時代に出てきたようで、同時代に流行した田楽で用いられた高足(たかあし)とよばれる、十字形の棒の横木に両足を乗せて飛び跳ねるものから変化した、ともいわれています。
 室町時代といえば、およそ六百年前。ちょうど、陳一族が河南省温県の常陽村(現在の陳家溝)に移住してきた頃のことです。
 そういえば、2009年に山形県遊佐町蕨岡の例大祭で、百年ぶりに復活したという田楽の高足を見ると、現代の竹馬の形を思い起こさせます。田楽の高足には、一足のものと二足のものがあるということですから、ぜひ二足の物も見てみたいものです。 


            
                            
      *写真は山形県遊佐町蕨岡の例大祭(通称・上寺祭)で披露された「高足」。
       高さ5メートルもある大竹でつくった大御幣(だいおんべい)を据える境内を
       清めるために、周囲を跳ねて歩いた。
 


 世界の竹馬を見てみると、その歴史は古代アフリカやメキシコの文明にまで遡り、儀式や祭事で竹馬のような物を足に着けて行っている様子が、遺跡の寺院などに装飾として残っているようです。
 これは私たちが「竹馬」と聞いて想像するものとは異なり、高さ1メートル前後の棒に足場を取り付けて、それを足に直接装着します。この、足に履く竹馬は、現代まで受け継がれており、アフリカのある部族ではお祭りやお祓いなどでこれを用いるようですし、メキシコでも「死者の日(日本のお盆のようなもの)」には、ドクロ衣装などで仮装した人が、足に3メートルもの竹馬を履いてパレードを行うと聞きます。
 ヨーロッパでも、フランスの湿地や森では農作業や郵便配達など、その移動手段として使われていましたし、スペインでも音叉のような形をした物を履いて踊るお祭りがあります。
 また、アメリカに竹馬を伝えたのは黒人奴隷だともいわれていますが、アフリカの子供たちが使っている物は、2本の木に乗って手で握る物でした。もっとも、私たちが使う竹馬のように足場を後から着ける2ピースの構成ではなく、適当な太さの木を切って枝を払い、二股になっているところに足を掛けるという、最もシンプルな形の物です。

 アフリカからアメリカに伝わった物がどのような形であったのか分かりませんが、現在、西洋竹馬と呼ばれる物には二つの種類があります。
 ひとつは「ハンドヘルドスティルツ(Hand-held stilts)=手持ち竹馬」といって手で握って乗るもので、もうひとつは足に直接固定するものです。こちらは「ペグスティルツ(Peg stilst):足の下が1本のもの」や「ドライウォールスティルツ(drywall stilts):足の下が2本でスプリング付き」などがあります。
 サーカスやテーマパークなどで見かける”足長おじさん”たちは、皆このドライウォールスティルツを使用しており、彼らはその名も「スティルトウォーカー(stilt walker)」といいます。
 このスティルツは初めて履いた瞬間から立つことが可能で、しかも立ち止まっていることが出来るのです。簡単に立てるため、内装業などの高所作業にも使われているようです。



    


 因みにこのスティルツ、語源は「スティルト(STILT)」という名前の鳥で、日本名は「背高鷸(セイタカシギ)」という、その名の通り足の長い旅鳥です。

 ついでながら、最近開発されたスポーツ・アクション向けの「パワースキップ」というものは、その仕組みから立ち止まることは出来ないものの、板バネの効果によって通常では不可能な高さまでジャンプできたり、トランポリンを用いなければ出来なかったような、様々なアクロバットが地上で展開できるのだそうです。

         


 さて、ここまで様々な竹馬=スティルツを見てきましたが、ここで、ハンドヘルドスティルツ(手持ち竹馬)でも、日本の竹馬とはその形状が異なることを述べておきます。
 日本の竹馬はご存知の通り爪先が竹に当たるように足場が付いているのに対して、西洋の竹馬は足場が棒の横についており、棒を身体の体側線に持ってきます。


      


 中には上の写真右のように、棒を身体の前に持って歩く姿も見られますが、足場は横向きに着いています。

 足場が横についたスティルツに乗って棒を両脇に抱えるというこの形は、必然的に腰から上が前傾して上半身が固定されています。脚(ジャオ)の土踏まずの下に足場が来ていますが、その下には何もなく、棒の床との接点は足の小指側の更に外であることが分かります。そのため、前に歩くときには、常に身体が左右に振られながら歩くことになります。
 これだと、身体はたいへん窮屈であることが想像できますし、もしも私がこのスティルツに乗っていたとしたら、時間の経過と共にスティルツを足に固定して手を開放し、身体を真っ直ぐに立てて歩きたいと考えたことでしょう。

 一方、日本の竹馬は、棒の後ろ側に足場が来るようにして、腕を前に出して持ちます。
 そして、その事によって身体は真っ直ぐに立ち、足が動くときには上半身も動いている、という状態になります。
 さらに、脚(ジャオ)の下には足場を支える斜めの棒が付いているものと付いていないものとがありますが、どちらの場合にもその構造上、棒と床との接点は脚(ジャオ)の下にあることになります。そのため、前に歩いてもそれほど左右に振れることはないのです。


         
       *写真上は1960年代に沖縄の奧武島と久米島の間に橋がなかった頃、
        海の上を約1キロ、竹馬で通学する学生の様子。
 
  

 それでは、私たちが使う竹馬は日本だけの特有のスタイルかというと、そうではありませんでした。
 まだ詳しいことは分かりませんが、少なくとも中央インドで子供たちが乗って遊んでいた竹馬は、日本と同じ、足掛けが縦方向に着いているものでした。
 考えることはどこの国でも同じようで、インドの子供たちも竹馬に乗って相手を落とし合うような、“格闘竹馬”で遊ぶようです。

 さて、竹馬の醍醐味はその”高さ”にあると思いますが、足場を数メートル高くした場合には、竹馬とスティルツとでは、その違いがより大きく出てくるようです。
 竹馬では足場が高くなってもその状態はあまり変わらないのですが、スティルツの場合には、竹馬のように静止したところから片方の足を掛けながら前に出ることが難しく、大抵の場合はどこか高いところに腰掛けて足場に両足を置き、エイヤッとお尻で反動を着けて前に出始めます。つまり、初動は蹴りと落下から始まったと言えます。
 そういえば、高いスティルツに乗って歩く人の姿は、その歩き方のためか、巨大な100円ライターが左右の角を持ち上げながら、コトンコトンと左右に振幅しながら歩を進めているようにも見えます。
 竹馬は、やってみると分かりますが、決して落下しません。竹馬に乗っていて、身体が落下するような環境が整うと、竹馬には乗っていられなくなり、実際に”落馬(落下)”してしまうのです。例えばそれは、無極椿で整えられた身体の状態が、歩き始めたことで崩れてしまい、身体に落下が生じるということと同じだと言えます。

 こうして竹馬とスティルツとを見比べてくると、たいへん興味深いことが浮かび上がってきます。
 ひとつには、私たちが学ぶ「順体」と「拗体」の違いが、そのまま竹馬とスティルツに当て嵌まるということ。それはたとえ腕を前に出している状態であっても、足場が横についている場合には拗体になり易いのです。
 スティルツで山に登ろうと試みた西洋人がいたかどうかは知りませんが、日本人は、竹馬で富士山登頂に成功した人が、これまでに二人もいます。彼らは特別な装置を施したわけでもなく、普通の竹馬(プラスチック製)で、一人は海から七日間かけて登ったということですから、すごいと思います。
 スティルツでは、走ることや坂を下ること、そして特に山を登ること対しては、おそらく効率が悪く、難しいと思われます。なぜなら、上半身が固定されている状態で前に動こうとすると、どうしても捻りになってしまいますし、その結果、一動作ずつ居着くことになってしまうからです。そしてそのことが、私たちが稽古で厳しく注意され、指導を受けている「拗体」の状態と重なるのです。
 拗体では、身体を正しく機能させて勁を練ることも出来ず、相手の軸を獲って意のままに動くことも出来ません。そもそもが居着いた身体の状態であるために、歩法であっても初動は左右の足のどちらかに軽く落下させて反対側を挙げるという二動作が、どうしても必要になるのです。

 ベルギーのあるお祭りでは、スティルツに乗った人が相手を落とし合うという騎馬戦が行われるそうですが、たとえばこの騎馬戦を、スティルツ対竹馬で対戦した場合にはどうなるのでしょうか。  
 一方は、棒を背中側に回して両腕で掴んで固定し、自分の足よりも外側へ踏み込みながら歩く状態で、もう一方は棒を身体の前に持って腕を伸ばし、自分の足の下にある接点を外さないように歩くだけです。このようにものすごく単純に考えてみても、竹馬に乗っている人の方が圧倒的に有利に動けると思うのです。
 スティルツ側の人が腕を前に出す状態で対戦したとしても、確かに上半身はフリーになりますが、やはり自分の足よりも外側に踏み込んでいかなければ歩けないというところが、難点だと思います。それは、このブログに掲載された、”のらさん”の『甲高と扁平足 #5』に出てきた、「アウトエッジの実験」を思い出して頂くと分かりやすいと思います。あの実験は、私たちがアウトエッジ(足裏の外側)で立ち、動くとどうなるのか、というテーマで行われましたが、結果は体軸がブレて、中心が空っぽに感じられるというものでした。
 あの実験で使用した、足半(あしなか・草履の後ろ半分がないもの)の鼻緒を、第四趾と第五趾の指の股に挟んだ状態ほどアウトエッジとは言えないものの、外寄りに踏み込むことは避けられないと思います。実際に、スティルツに乗る人の動きには、踏み出した足の膝が外側に振れるという特徴が見られました。それだけでも普通に歩いたり走ったりすることは不利になってしまうはずですから、騎馬戦のような戦闘状態になったらどうなるのかは明らかです。
 その点、竹馬に正しく乗れる状態はスケート靴のエッジと同じ所に乗り、尚かつ爪先重心にならない身体の状態なのです。よく、未だ上手に竹馬に乗れない初心者には、爪先重心になって踵がクルクルと左右に振れてしまう様子が見られます。徐々に「乗れる」ことが身体で分かってきた子供は、踵が足場から浮くことなく、竹馬を前傾させても自分は前傾せずに真っ直ぐ立って歩き始めます。つまり、竹馬に乗ることは、私たちが普通に歩いている状態と、それほど大きな差がないと言えます。むしろ、竹馬を正しく用いることによって「ヒトの正しい構造」が見えてくるような、そんな気さえするのです。

 もうひとつは、道具を用いたときの身体と運動に対する考え方です。
 様々なスティルツを辿って見ると、それはより道具を固定して安定を生じさせ、反対に身体を解放して自由にするという方向性を感じます。ついにはスプリングや板バネなどを取り付けて自分独りでは出来ない動きをも手に入れようとしているのです。
 それに対して竹馬は、今も昔も変わらないスタイルで、変化といえば足場の高さを変えるくらいのものです。後は、それで走ってみたり、サッカーをしてみたりと、道具を変えるのではなくて、自分の状態を変えています。
 これらのことから、道具そのものを制御しようとすることと、道具を使うことで自分を制御することを学ぶという、二つの違いが見えてきます。もちろん、どのような道具であってもそれを使う自分が制御できなければ、何ひとつ取り扱うことは出来ないと思いますが、世界の5大陸で様々なスティルツが製造されてきたのに対して、日本では製造されていないという事実に、日本と諸外国との身体と運動に対する考え方の違いが現れているような気がしてならないのです。

 そしてそのこともまた、私たち現代人が太極拳を学ぼうとするときに、同じように課題として立ちはだかってくることでもあります。
 ここでいう道具(竹馬)は、太極拳では例えば基本功のような各練功に当て嵌まります。それらの練功を制御しようとすることは、練功の形を自分勝手に力尽くで整えようとし、その結果、外筋でガチガチに固められた身体では何ひとつ動けるわけもなく、もちろん勁力など解るわけがないのです。
 竹馬という貴重な伝統を持ちながらも、頭はすっかり西洋的発想に染まってしまったのでは、余りにも残念です。今一度、子供の頃に竹馬を使って自分の身体を統御していくことを覚えたように、太極拳でも基本功を正しく認識して、太極拳のシステムを理解していけるような、私たち日本人の奥底に眠る精神性を覚醒させたいものだと思いました。


 最後に、「竹馬検定表」をご紹介したいと思います。これは、2000年に発売された、小学校低学年から中学年向けの、「みんなであそぼう校内あそび・一輪車/竹馬」という本に掲載されていたものです。

 私が竹馬に乗っていた頃にはこのようなものはなく、小学校の中庭からグラウンドまで、竹馬でひたすら歩いたり走ったりしていただけでしたから、これを見て大変驚きました。
 とても興味深かったので、内容をここに掲載することにします。


 【竹馬検定表】

 10級:5秒間竹馬に乗ることができる。

  9級:10秒間竹馬に乗ることができる。

  8級:竹馬に乗って50メートル歩く。

  7級:幅30センチの所を30メートル歩く。

  6級:5分間竹馬に乗る。

  5級:片足跳び10回、両足跳び10回。

  4級:横歩きで10メートル歩く。

  3級:後ろ向きで10メートル歩く。

  2級:しゃがみ歩きで5メートル歩く。
 
  1級:高さ30センチのバーを10回越える。

  名人:縄跳び15回。片足跳び1分。

  達人:20メートルを10秒で走る。静止5秒。


 ・・・さて、如何でしょうか。
 その昔、低い竹馬で階段を上ることも難しかった私にとっては、かなりの内容に思えてしまいます。

 最も興味深いのは、“達人”の項目にある、「静止5秒」というところ。
 考えてみれば、竹馬の特徴は「両手両足の拘束」と「静止できないこと」ですから、検定の最難関に「静止」が挙げられていることも頷けます。
 けれども、これを見たときにふと思ったのです。私たちは、立てることを前提に站椿で立ち、歩けることを前提に歩法を稽古してはいなかっただろうか、と。なぜなら、そもそもヒトが2本足で立つということそれ自体が不安定な、竹馬で立つことに近い状態であると言えるからです。
 たとえ小学生向けとはいえ、たった5秒間静止することが最難関といわれているのに、私たちは無極椿で立てと言われれば、30分でも1時間でも立ててしまいます。しかしそれで実際に無極椿が練られ、太極拳を学ぶ上で必要な、重要なことが理解されるのでしょうか。
 もしもそこで持ち前の筋力を用いて立ち、前に傾いては背筋で止め、後ろに傾いては腿の四頭筋で留めているようでは、戦える身体を手に入れることなど到底出来ません。そのようなことで站椿が良しとされるのであれば、何も武術の訓練で足を肩幅に開いてじっと立っている必要などないはずです。


 竹馬という、約600年前から変わらない形で受け継がれてきた玩具は、単に子供の遊び道具に留まらず、様々なことを教えてくれます。
 私自身、ほんのささやかなことが切っ掛けとなって今回の記事を書くに至ったのですが、結果として世界中の“竹馬”を見ることになり、たいへん勉強になりました。当然、地球に存在する全ての竹馬を見たわけでもなければ乗ったわけでもありませんので、竹馬の研究は今始まったばかりだと言えます。
 しかしながら、現時点で言えることは、日本人は竹馬の形を変えることなく、両手両足が拘束され、静止することができないという、身体が非常に制限される乗り物を制御しようとすることで、自分自身を制御しようとしてきたということです。自分の都合で、自分の思い通りに動けるようにその道具を改良しようとは決してしなかったのです。その結果、拘束によって全身運動が可能になることを見出したのだと言えます。

 アウトエッジに傾く物では傾きを支える筋力が必要になりますが、竹馬ではどの方向であっても、傾きそのものがイコール乗れないことに繋がるのです。
 ということは、竹馬で立てることはヒトが立てることと一致し、竹馬で歩けることはヒトが歩けることと一致するのではないか、と思えるのです。ピタリとは一致しないとしても、私たちが立ち、歩くということを理解するための、大きなヒントになると思いました。


                                   (了)

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2011年10月27日

練拳Diary#43 「推手について」その6

                        by 教練  円山 玄花



 先日の稽古で、とても興味深い体験をしました。
 それは、太極拳が確かに武術として研究を重ねられてきたものであることを再認識させられたと同時に、実戦で必要になる軸や身体の早さ、そしてそれらを可能にする自分自身の在り方をも見せていただき、身を以て実感させられたという、たいへん貴重な体験でもありました。
 今回は、その体験をご紹介しながら、太極拳の推手について考察してみたいと思います。


 それは、「スティックによる斬り合い」を稽古しているときのことでした。
 これまでにもご紹介したことがありますが、私たちは対練の稽古で「スティック」を使うことがあります。スティックは長さ40センチくらいの円柱状の棒で、それを武器に見立てて斬り合ったり突き合ったりします。
 スティックを使った稽古では、たとえば「スティックが相手の身体に触れられたか」という表面的、一次元的なことは一切問題にされず、相手に入っていったときの身体の状態は正しかったか、それが居着いた身体になっていないか、腕だけで動いていなかったかという、「対人(相手)」ではなくて、「対自己」の稽古として武術的にどう在るかを互いに確認するための稽古となります。

 正しい身体の状態を整え、定められた歩数を歩き、等速度で斬り合うという稽古の様子はまるで古流剣術の稽古のようにも見えます。
 そこでは時速何キロという種類の速さが求められるのではなく、身体が一動作で使われ、順身(順体)で動く早さとは何か、ということの理解と実感が求められるのです。そうしなければ、相手がどれ程の素早さで掛かってこようとも脅かされることのない、武術として通用する高度な身体は、いつまで経っても手に入らないからです。

 もちろん、ただ真っ直ぐに歩いて行って斬り合うという稽古だけではありません。お互いに自由に動きながら袈裟懸けに斬る、払う、突くなどしていくものもありますし、時には両手にスティックを持ってお互いに向かい合うこともあります。

 実は、今回お話しするスペシャルな体験は、2本のスティックを持った状態で行われました。それも、二人の相手が各々2本のスティックを持って斬り掛かってくるという、通常の稽古では滅多にない状況で行われたのです。

 稽古は最初、一本のスティックを持ってお互いに自由に斬り合うという、一対一の形式から始められました。
 しかし、この「自由に」ということが実に厄介で、私たちの稽古にあっては《自由=動きやすい》とはなりません。むしろ「自由に、好きなように動き回って良い」と指示された方が型が崩れ易く、架式が失われ、なかなか基本の通りに動けないことが多いのです。
 今回のスティックでの斬り合いにしても、たとえば「お互いに向かい合い、真っ直ぐに三歩を歩いて四歩目に斬る」と決められている方が、よほどじっくりと自分の状態を見ていくことが出来ます。
 相手との間合いにしても、この対練を三回も繰り返せばお互いに取れてきてしまうのですから、「型」のもたらす恩恵とは計り知れないことが窺えます。

 ところが、「自由に」となると、そうはいきません。
 たとえば初心者同士の対練だと、間合いが近かったり遠かったり、そのためにハエも叩けないような恰好で斬りかかっていたり・・と、それまで「型」によって整えられていた身体の規矩が突然失われてしまいます。これはひとつには、ここで言う「自由に動くこと」自体が、そのまま型の稽古である、ということが初心者には実感し難いということが言えるでしょう。

 武術の稽古に於いては「型」から離れたものなど何ひとつあるわけがなく、型稽古の積み重ねによってのみ「武術的に動ける事とは何か」ということが見えてくるのです。
 このようなことは、何も私が取り立てて書く必要はないのかも知れませんが、師父がフルコン空手出身の門人相手に空手の基本である ”三戦立ち” の構えだけで散手を行い、パンチも蹴りも一発も掠りもせず相手を翻弄してしまう所などを目の当たりにすると、そうも言っていられないような気がしてくるのです。
 それはちょうど、太極拳で有名老師と言われるような人が、推手の映像で推手の型から著しく外れた形で、相手を思い切り吹っ飛ばしている姿が重なるからかも知れません。
 正直なところ、一体どこが『四両撥千斤』なのかと不思議に思える映像も少なくありませんが、もしそこで発せられている力が勁力でなければ、その状態では、自分より身体の大きな人、筋肉の逞しい人には通用しないことは明らかです。
 推手の目的は人を飛ばすことではありませんが、推手という型を用いることによって勁力を理解できるわけですから、その型を外れては太極拳のチカラは手に入りません。
 「人を制する」ということに於いては、洋の東西を問わず「型」の意味を理解し、ひたすらコツコツとそれを身に着けてきたかどうかで決まると思います。ただ単に勁力、勁力と唱えていてもどうにもならず、「武術的に動けること」を理解した人には容易に制せられてしまうのです。


 さて、今回のスティックの稽古では、「自由に」という条件のために野放図になってしまう身体の状態を強制的に拘束するために、師父の指示で門人Aさんの両手両足に各々1キロ程度の重りをつけさせました。
 すると、思ったとおり手足の動きが制限されて、ようやく身体の動きが出てきたのです。
 普通に斬り合う稽古では、先ほどまで斬られっぱなしだった相手に少しずつ入って行けるようになり、だんだん斬られ難くなってきました。
 また、それに加えてリュックサックに十数キロの重りを入れて背負わせてみると、さらに末端のバラバラな動きが制限されて、より基本に近い動きになってきたのです。
 日頃から「型に嵌まる」ということの重要性は稽古で再三説かれているのですが、目の前でひとりの門人の状態がその場で変容することに改めて驚かされ、感動しました。
 きっと、その場に居合わせた人は、皆同じ想いだったのではないか、と思います。

 さて、本題はここからです。
 それならば、ということで、もっと重たいモノを装備させることになりました。
 師父が指示したもっと重たいモノとは・・・・それは、何と「私」でした。

 人間ひとり分の装備となると、これは自衛隊の訓練で用いられる背嚢の重さが約20キロだということなので、相当な重量の装備だと言えます。
 Aさんは、私を背負って、二人の相手に向かい合いました。
 相手は各々2本ずつのスティックを持って、ゆっくりと自由に斬りかかってきます。

 Aさんの背中に乗っている私にとっては、ゆっくりとは言え、二人の相手が2本のスティックを振りかざして次々に斬りかかってくる状況は、正直言ってかなりの恐怖でした。
 一人をパッと躱しても、もう次の人が目の前でスティックを振りかぶっているのです。
Aさんの背中で、いったい何度悲鳴を上げたことでしょうか。
 また、背中の上の乗り心地と言えば、空っぽの2トントラックがデコボコの山道をちょっと飛ばしながら走っているような、実にワイルドな感じです。

 乗り心地はともかく、その対練の途中で「あること」に気がつきました。
それは、Aさんは斬ってきた相手に対して、必ず一度正面で向かい合う、ということです。
 まず正面でピタリと向かい合ってから、相手の斬ってきた太刀筋から身体を外して躱し、その後に反撃を行う、というものが、私から見えたAさんの戦闘スタイルでした。こんなふうに背中の上に負ぶさって居ると、その人の戦闘スタイルが手に取るように分かるのです。
 しかし、この動きだと必ず相手と向かい合った状態で身体が止まってしまうので、一対一なら何とかなっても、相手が二人だと、止まっている間にもう一人が入って来れてしまいます。さらに相手は2本のスティックを持っていますから、1本目を躱されても、もう1本のスティックで連続して攻撃することが可能になります。太刀筋を読み、そこから身体を躱すくらいでは、どうにもならないように思いました。

 もうひとつは、相手との間合いです。
 斬り掛かってくる相手に対してAさんがどう懸命に動いても、間合いが詰められる一方なのです。背中に乗っていて、たくさん身体が動いていると感じられる割には、グングン近づいてくる相手のペースは最後まで変わることがありませんでした。
 たくさん身体が動いていると感じられる割には、相手との関係性は変わらない。
 このことは、いったい何を意味しているのでしょうか。

 そこで、ふと考えたのです────────────
 今私が見たものはAさんの目線であって、Aさんに見えている相手との関係性がそのまま私にも見えていたということになります。
 また、同時にAさんが相手に入って行くときの身体の状態や、相手が斬りかかってきたときの身体の動きが、こちらにも細かく伝わってきていました。

 と、いうことは・・・ もしも師父の背中の上に乗せて頂いたとしたら・・・・

 そう考えた途端に、こちらの心を見透かされたかのように、師父が、
 「私の背中に乗ってみるかね・・?」と、言って下さったのです。
 こんなチャンスはそう有るわけがありません、勿論すぐにお願いして背の上に乗せて頂きました。

 師父の背中から見えたもの────────────
 それは、これまでの自分からは想像もつかない世界でした。

 まず、相手の見え方が違いました。
 Aさんのときには相手が交互に連続して攻撃してきたのですが、師父だと一人ずつが大きく崩されてしまうために、常に一対一で対せざるを得ないような形になってしまいます。
 二人が示し合わせて同時に斬りかかってきても、斬られる間合いになる前に二人を同時に崩してしまいます。それがとにかく早いのです。
 先ほどのAさんの動きや間合いを思い出すと、明らかに師父の方が動きは少なく感じられますが、動かれる範囲は大きいようで、師父の背の上から見える景色は、それはそれは、驚くほど目まぐるしく変わっていったのです。
 そして動きが少ないと感じられる割には、相手との関係性は早いうちに大きく変化し、相手が容易には近づけない状態が続きました。
 身体の動きが少ないと感じられる割には、相手との関係性が大きく変わる・・・これではAさんとは起こっている現象が正反対だと言えます。
 それは何故でしょうか。

 その答えは、間もなく見つかりました。
 師父の背中にいるとき、初めは目の前に広がる新しい世界にばかり目を奪われていましたが、ふと、あるリズムが身体に感じられることに気づいたのです。
 そのリズムは一定でありながらも様々に変化し、変化しながらもリズムを失いません。
 ときには激しく、ときには滑らかに感じられるそのリズムの正体は、「歩法」でした。
 そして、ああ、歩法だったのか・・と、気がついた途端、目の前で展開されている世界の見え方が、ガラリと変わりました。それもまるっきり、180度、変わったのです。

 少ない動きで大きく崩す。それを可能にしているのが、他でもない、基本中の基本である歩法だったのです。言い換えれば、正しい歩法であれば少ない動きで大きく崩せる、となるでしょうか。当然相手との関係性に於ける「早さ」もそこから生じていたことになります。
 その点でAさんの動きは、やはり歩法が乱れていたと言えると思います。それはもしかしたら、相手と正面で正面でピタッと向かい合ってから太刀筋を外して躱すという、Aさんの持つ戦闘に対する考え方によるのかも知れません。

 私たちが学ぶ歩法には、相手がこう来たときにはこの歩法、というものは無く、この突きに対してはこのように受ける、という受け方もありません。ただ数種類の基本功と、歩法があるのみです。
 しかし、今回師父の背中に乗せて頂いて、それらの基本がそのまま太極拳の戦闘法になっていることを、まさにこの身を以て実感させて頂いたのです。
 正しい歩法の、何と地味で、何と恐ろしいことでしょうか。

 師父の背中にいるときには、そのときの衝撃が余りにも大きかったために、起こっていたことがひとつも纏まらなかったのですが、師父の背中から見えた世界は、今も鮮やかに自分の脳裏に焼き付けられています。
 正しい歩法の型によって二人の相手が翻弄されたというその状態・・・帰宅してからじっくりと思い出してみれば、それは正に推手に於ける相手との関係性に他なりませんでした。
 二本のスティックを振りかざして来る相手が崩れたその瞬間に動きをストップすることが出来たならば、きっかり推手で相手が崩されたときと同じ状況になっていたことでしょう。つまり、いつでも「相手が崩れる、吹っ飛ぶのは当たり前」だという、「順身(順体)」の関係性になっているのです。これでは相手が容易に近づけるはずもありません。

 また、師父の身体は、決して回ることがありませんでした。
 順体で回らないのは当たり前の事だと自分では思っていたのですが、実際に師父の視線で「回らずに動けること」を体験してみると、やっぱり「当たり前」ではないのです。
 なぜ順体だと回らないのか・・・ 拗体だと回ってしまうのか・・・
 歩法の「型」どおりに動いていた師父の動きは少なく、尚且つ動いている範囲は大きく感じられた、ということの謎は、ここから解いていく必要があるのかも知れません。

 そういえば、Aさんの場合には背中に乗っていることそのものが結構大変で、乗っているうちに完全にしがみついた状態になってしまいました。そして、動いている間はまるで遊園地の ”コーヒーカップ” に乗っているようで、だんだん私の目が回ってきてしまったことが思い出されます。

                                 (つづく)

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2011年08月21日

練拳Diary#42 「推手について」その5

                        by 教練  円山 玄花



 推手の訓練目的は、推手の状態から相手を吹っ飛ばすことではなく、太極拳における相手との関係性を多角的に学び、勁力を理解することにある───────ということは、これまでに様々な例を挙げて述べてきました。

 推手に対する正しい認識を持つことが出来たら、次には実際の稽古と理解が必要です。
 自分がどの程度推手を理解したかということは、そのまま太極拳を理解した度合いと同じであるはずですし、それはたとえば套路だけをやっていれば分かるとか、身につくというものではありません。站椿を練り、基本功を練り、太極拳の学習システムを感じられるようになってきたら、ようやく推手の稽古も実のあるものとなり、そこで初めて、套路の訓練であっても推手で練り上げられるものから外れない、推手と同じ内容を稽古し、練っていくこと が可能になるのです。
 まだ学習システムが見えてこない初心のうちから、ただ推手の形だけを繰り返して練習することは少々乱暴であると思いますし、推手そのものの訓練目的を取り違えてしまいかねません。太極拳の学習システムから見れば、他のものと変わらないひとつの練習方法、ひとつの練功ではあっても、一歩間違えてしまうと、そこから推手が内包している真の武術性を理解していくことは、とても難しいことになってしまいます。


 さて、実際に推手をどの程度理解しているのかは、簡単に確認することができます。
 その方法には様々なものがありますが、今回はお馴染みの《平円単推手》を例にとってみましょう。

 《平円単推手》は、お互いに向かいあって右足を前に出し、お互いの右手を塔手に構えたところから始まります。一方が前方に相手の胸に向かって右手を出していき、相手はそれに対して弸勁で受けながら、手を右後方へ引きます。さらにそこから相手の胸に向かって右手を出していって、一巡となります。
 この動作を繰り返していくわけですが、パッと見ただけでは、ただ平円方向にグルグルと手を回しているだけに見えるかもしれません。しかし、実はその動作の中では四正手の勁が用いられ、架式ごとにカタチがしっかりと決まり、決して架式が流れることがない状態がお互いに循環して繰り返されていなければなりません。

 そして、その架式が正しく取れていれば、推手の途中で相手を崩す事が可能になります。それも、何処でも、どんな瞬間にも、好きなところで、思い通りの方向に崩すことができるのです。
 もちろん、塔手をしていた相手の手を突然掴んで引き下ろしたり、反対側の空いていた手を添えて突き飛ばす・・・などということは一切必要ありません。初心の頃には、むしろそのような動きを加えてしまうことで推手の架式から外れてしまい、拙力しか出せなくなってしまいます。ここでの確認方法は、平円の単推手を行っている中で、その形や動きから少しも外れることなく、相手を崩せるかどうかを見る、という方法なのです。

 動きは比較的ゆっくりと、お互いの架式を感知できる速さの方が分かり易いと思います。
 そこで、たとえば相手がこちらの胸に向かって手を出してきたとき、その途中でフッと相手を崩すことができます。
 それは「どうやって」というテクニックではなく、それが推手の形であるが故に可能となる「崩し」なのです。ですから「崩した」と言うよりは「相手が立っていられなくなった」と言った方が正確かもしれません。それほどまでに、日常的な視点から考えられる「崩す」という動作が全く必要ないのです。
 反対に、平円単推手の中で《押す・引く・突き飛ばす》など、小手先で相手に力を加える方法を取ると、相手もまた小手先で攻撃を去なす(いなす)ことができてしまいます。
 あるいは、明らかに力(拙力・腕力)の差がはっきりとしている場合には、相手は去なすことはできませんが、そのような場合には崩し方も平凡で、日常的なものであることが一目瞭然です。もちろん、生卵などは簡単に潰れてしまうことでしょう。

 以前に師父が、「なぜ推手からの発勁を紹介している老師たちは、平円単推手からの発勁をやって見せないのだろうか」と、仰ったことがあります。なるほど、そう言われてみれば四正推手からの発勁は数多く出されていても、平円単推手からの発勁はちょっと見たことがありません。もし機会があれば、私たちの平円単推手からの崩しや発勁を、動画でご紹介したいと思います。


 話を《平円単推手》による推手の確認方法に戻しましょう。
 先ほど、「どこでも好きなところで、思い通りの方向に崩せる」と述べましたが、そうなるまでには当然時間(功夫)が必要となります。しかし、架式を正しく守り、要訣から外れなければ、平円単推手の中で相手を崩すことはそれほど難しいことではないのです。

 推手として正しく相手が崩れた場合には、

 1,生卵が潰れない程度の力で、

 2,力みで相手を押したり引いたりすることなく、

 3,動きが突然加速することもなく、

 4,影響が小さくても相手が身体ごと崩される。

 ───────ということが起こります。これら四つの条件に当てはまらないものは、推手としては間違いであると言えるわけです。

 正しく守られるべき架式とは、即ち「順体(順身)」であることを意味しています。
 「順体」とは太極拳に必要な正しい身体の在り方であり、当然「勁力」も順体によってしか理解され得ないものです。言い換えれば「順体」と反対の「拗体(ねじれた身体)」からは、どう頑張っても拙力しか出すことができない、ということになります。

 たとえば、平円単推手の中で崩そうとする場合、相手が胸を突いてきた状態で、こちらがそれを右の後方へ引いてきた状態があります。普通、この状態は右足が前で右手が後ろですから、身体の状態としては拗(ねじ)れています。そのとき相手は右手で突いていった格好ですから、普通は身体に拗れはありません。此方が拗れていれば劣勢で、相手は優勢です。そのままの格好で相手をどこかへ崩そうとしても、拗れている自分の身体に負荷が掛かり、崩そうとすればするほど、自分が崩れていってしまいます。
 しかし、太極拳で推手が熟達してくると、普通は拗れてしまうような姿勢でも、順体によって劣勢とはならずに、その格好から相手をリィすることも、ポンすることも、床に崩すことも可能になるのです。ここが太極拳の面白いところだと思います。

 散手の稽古に於いても、特に対複数で行われる場合には、常に正対して向かい合っているわけではないために、師父があたかも劣勢であるかのように見られることがあります。
 しかし、その一見拗れているように見える、一見不利な姿勢に見える、一見そこからこちらには動けないように見える・・・・というようなことは、次の瞬間の師父の変化や発せられた一発の拳打によって全てひっくり返され、そう思ったときに動けなかったのは、実は自分の方だったことを嫌と言うほど思い知ることになります。
 このような「散手」については、また原稿を改めて、日々の稽古で思うことを述べてみたいと思います。

 散手では、自分勝手に動けてしまえる要素が多くても、推手ではそうはいきません。
 相手と手を触れることで間合いは決められ、活歩で動くときでさえ相手と一緒に決められた歩数を決められた方向に動かなければなりません。そのことを反対に見てみると、それだけ基本に忠実に、要訣から外れることなく練ることの出来る練功だということになります。
 だからこそ師父は、『推手で人を飛ばせるのは当たり前』だと仰るのです。

 太極拳を学ぶにあたって用意されている様々な要訣は、たとえば発勁のための、あるいは纏絲勁を理解するために必要な ”ルール” である、と言い換えることができます。
 一丁のナイフや拳銃を扱うにも、そこには自分が正しく安全に扱うための、周りの人に迷惑を掛けないためのルールが存在するわけで、そのルールは、初心者にとっては必至に覚えて自分の身に染み込ませなければならないものです。
 太極拳の推手もまた同じで、まだ太極拳の身体ができていない場合には、とても動きにくく、窮屈に感じられるものです。そこで初めて自分の身体が「拗体」であることに気がつけるわけです。
 その窮屈さとは、取りも直さず、太極拳の基本的要訣が守られていないために生じる身体の状態であって、要訣と自分の身体とをひとつひとつ丁寧に照らし合わせて行けば、誰でも「順体」を理解し、手に入れることができます。そのような稽古方法をシステマティックに残してくれた先人達には、本当に頭が下がる想いです。

 推手を正しく練功として行うためにも、まずは推手の稽古がとてもやり難い、動き難いという実感が得られるようなところから始められなければならないと思います。
 なぜならば、その動き難さを自分勝手に変えて動き易くしてしまうような、ルールを無視した動きをしていては、推手からの発勁などは、夢のまた夢の話になってしまうからです。



                                (つづく)

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2011年07月13日

練拳Diary#41 「推手について」その4

                       by 教練  円山 玄花



 私たちが推手の稽古を行うとき、それが「勁力」の訓練段階に於いては、主に「四正推手」の型が用いられます。

 「四正推手」とは、双塔手(そうとうしゅ・お互いの右手首を合わせ、左手は相手の右肘に置いた状態)から、ポン、リィ、ジィ、アンの四つの技法を、定められている通りの順序でお互いに繰り返していくというものです。つまりこの推手は、相手と片手だけを合わせて動く「単推手」と比べて、より拘束された不自由な形であると言えます。

 普通、訓練に於いてはより厳しい環境や要求が課せられるほど、自分の日常性を持ち込むことができずに、結果としてそこで求められていることを修得しやすいものだと思います。
 さて、推手の場合は、果たして拘束された分だけ架式が取りやすくなるのでしょうか・・?


 ───────それは、「推手で人を飛ばせるのは当たり前である」と聞いてから、一番最初の推手の稽古のことでした。「今日は推手で実際に相手を崩すことを学ぶ」と言われた師父の言葉に、ほんの少しの期待と、緊張を以て臨んだことを覚えています。

 それは一体何の期待であったか、と問いかけてみれば、これまでに四正推手を稽古したことはあっても、その中で相手を崩すということはありませんでしたから、架式を散々練ってきたという自負心と、相手を崩すという、経験したことのない感覚への怖れとが入り交じった中での、「もしかしたら・・」という期待であったと言えます。

 まず最初に師父が見本を示され、四正推手を何回か繰り返した後で、さらにゆっくりとした早さで、一動作ずつを分けるように見せて下さいました。
 そして、相手の「ポン」の動作が終わったと思えたその時、ほんの一瞬の間があったかと思うと、相手は「うわぁ〜!」という奇声を発しながら横向きに大きく崩され、そのままの姿で道場の端まで凄い速さで吹っ飛んで行きました。

 つまりこれが、相手の「ポン」に対する「リィ」の勁だったのです。
 その際、師父の身体や腕の位置は、推手の中で動いていた形の位置と全く変わらず、たとえば「リィ」をした方向にさらに大きく腕が伸ばされるとか、身体が相手の崩れた方に大きく傾いている、というような状態は一切見られません。まるで、ただ推手の分解動作の形を取って静止しているだけで相手が突然そこから消えた、というように見えるのです。

「・・ほら、正しく推手のカタチを取れば、それだけで簡単に相手を飛ばせるでしょう?」

 と、師父は笑顔で仰います。

 しかし何回見ても、その動作の静けさと、それとは全く対照的な相手の派手な吹っ飛び方とは、日常的な視点では容易には結びつかず、「架式によって勁力は生じる」と聞いてはいるものの、自分でその勁力を実際に体験するまでは、あるいは修得するまでは、なかなか納得はできないものです。

 そこで、実際に四正推手を使って、相手の「ポン」に対する「リィ」を確認してみることになりました。

 お互いに双塔手で構えて、相手の「アン」から始まり、やがて相手がこちらを「ポン」で大きく崩そうとします。
 その「ポン」に対して、いざ「リィ」で相手をシュバッと・・リィを・・・リィが・・・ うーん、リィが全然効きません。シーンとしたものです。相手は別に堪えている様子もありません。沈黙だけが続きます。

 気を取り直して、もう一度最初から動きます。
 構えたときの架式を先ほどよりも念入りに確認し、もう少しゆっくりなテンポで動き、そして相手の「ポン」に対してこちらが「リィ」をしますが、やはり何も起こりません。
 このままでは、相手は悠々と「ジィ」を返してくることも可能です。

 これまでに散々「推手の形を用いれば誰でも、馬鹿でも発勁することができる・・」と聞いていた私たちにとっては、「我々は馬鹿以下だった!!」と言うことをありありと目の前に突きつけられた瞬間でもありました。
 私たちが推手を学ぶ際、一番最初に「推手で発勁できるのは当たり前である」ということを指導されましたが、実際に推手で相手を崩そうとしてみて実感したことは、「推手で発勁できるのは当たり前・・ではなかった!?」・・・と、いうことでした。

 そして、その様子を見ておられた師父からは、
「うーん、君たちはまるで太極拳を分かっていないねぇ」という一言を頂いたのでした。


 これまでに散々四正推手を練ってきていながら、推手の形で相手に「勁」が効かなかったのは何故なのでしょうか。もう一度、架式に立ち返って「四正推手」を見直すことにしました。

 一番の問題点は、四正手の「リィ」の動きが基本の通りにできていなかった、ということです。ちょうど、相手の「ポン」に対して自分が「リィ」をしていくときに身体がわずかに歪み、リィの架式を十分とることができず、当然、リィの勁は働く筈がなかった、というわけです。
 やはり、相手がいて、尚かつ両腕を触れている状態では、思っていた以上に身体が拘束されてしまうようです。
 身体が歪んでしまえば、太極拳で最も重要だとされる「立身中正」は失われ、正しくない身体の状態、即ち「拗体=捻られた身体」となります。そこで可能となる動きは、足の踏ん張りと腕の押し込み、そして体重の寄り掛かりだけという、言わば拙力しか出せない身体の構造になってしまいます。

 ここで、もう一度推手を確認することにしました。
 先ほどと同じように双塔手で対し、相手の「ポン」に対して「リィ」。
 より注意深く観察をしてみれば、日ごろ四正推手を稽古しているだけでは見えなかった「蹴り」や「捻れ」などの悪癖が、リィというたった一動作の中に次々と顔を出してきます。
 さらに、そこが違う、その動きはおかしい、その時に左の胯(クワ)は下がらない、等々、師父に詳細に指導して頂き、修正していきます。すると、徐々にではありますが、相手との関係性が少し変わってきたように感じられました。そして、さらにそれを繰り返していくうちに、先ほどまでとは明らかに違う感触で「リィ」の動きが始まり、最後にフッと相手が崩れて飛んで行ったのです。
 最初の、自分と相手がくっついていて、リィをしようにも相手との摩擦抵抗が増えていくような感覚とは大違いで、まるで相手が自分から離れていったかのような感覚でした。
 なるほど、今の感覚であれば、確かに「生卵」は壊れない、と思えました。

 ────────────これが、私が推手の形を使って相手を崩した最初の体験です。

 しかし、私にとっては相手が崩れて飛んだことよりも、その手前の、相手との関係性の違いに大いに興味を引かれました。修正前とその後とでは、明らかに実感が違って感じられたからです。

 その違いを理屈で分かるまでには少々時間を必要としましたが、ひと言で言ってしまえば、それは「順体」であるかどうかの違いです。
 なぜ「推手のカタチを使えば馬鹿でも発勁できる」と言われていたかといえば、推手の形はそれを正しく取りさえすれば、誰が取っても「順体」の関係にしかならないからであり、
「順体」の関係であれば、相手が崩れる原理をその場でお互いに勉強することができるからに他なりません。


 「リィ」の訓練から得られた推手に対する認識は、

 1,推手の訓練は「順体」を理解するためのものであること。

 2,この訓練の目的は、相手を飛ばすことではなく、そこでの関係性がすでに相手を
   崩せる関係性になっていることを学ぶ、ということ。

 3,推手によって相手が崩れるのは、推手の構造上当然のことではあるが、
   そこには站椿に始まる架式の認識と正しい位置の確立が必要不可欠であること。

 4,推手の訓練で「順体」と「勁力」を理解するためには、生卵が壊れない程度の力で
   推手を練る必要があり、尚かつ、ボールとボールが押し合わさっているような
   「張り=弸勁」が必要であること。

 5,推手の技法を以て崩し倒すようなものが、そのまま太極拳の戦い方になるわけでは
   ない、ということ。

 ─────などが挙げられます。


 さらに、以上の五点を踏まえた上で、推手の訓練に於いて「不適当」であると思われる状態を参考までにいくつか挙げてみますと、

 1,推手の訓練目的が「相手を崩すこと、飛ばすこと」になっているもの。

 2,推手の形が、站椿や基本功及び歩法などの基本の形と異なるもの。

 3,推手の中で加速運動が見られたり、相手を崩すにあたって勢いが必要であるもの。

 4,明らかに強い力(卵が潰れるような力)で相手を崩しているもの。

 5,崩されている相手が身体全体ではなく、身体の一部分がグニャリと折れ曲がるように
   崩されているもの。

 ─────などが挙げられると思います。


 推手が「順体」を理解するための訓練方法である以上、相手を吹っ飛ばすために踏み込みや押し飛ばしなどの勢いを必要とするものは論外であり、ましてや基本の形から外れて相手の崩れる方向に腕が伸びていくような形では、拙力の効果的な使用方法は分かっても、勁力の理解にはほど遠いものと思われます。
 せっかく推手のように太極拳のチカラを理解し、戦闘における相手との関係性を学べるような貴重な学習システムが残されているのですから、もっとそれを利用し、推手を紐解いていくような稽古が行われれば、長らく神秘のヴェールに包まれていた「発勁」の仕組みも、太極拳ではごく当たり前のチカラとして、明らかになっていくような気がします。
 その為には、推手の訓練が何の目的でどのように行われるものなのかを、正しく認識する必要があると思います。

 私たちは、推手の正しい訓練方法は、今回その一部をご紹介したように、「リィ」であれば「リィ」だけを取り出して行うものだと教わります。次にはそのリィに対してジィを訓練していく、というわけです。それは、決してグルグルと腕を回している間に、隙を見て勢いよく発勁をする、というようなものではありません。
 ここにも、実戦を想定した訓練を稽古としては行わないという、太極拳の高度な武術の考え方を見て取ることが出来ます。

 実際に上述のような推手の訓練を行ってみれば、グルグルと腕を回している中で相手との関係性を学び、その中で相手が崩れることを理解していくのは非常に難しいということが、たった一回の稽古でわかるはずです。

 ゆっくりと、一動作ずつ推手の形を確認し、その動きが太極拳の要訣から外れていないもの、つまりこれまでに学んできた「基本」と何ら変わらないものでなければ、推手のシステムを理解していくことは決して出来ないのです。


                               (つづく)

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