*#11〜#20

2009年08月24日

練拳 Diary #20 「腰相撲(こしずもう) その2」

 「太極拳」といえば、やはり「馬歩」である、とつくづく思います。
 なぜならば、太極拳で最初に理解されるべき「站椿」が、弓歩や独立式(片足立ち)などではなく、単純に足を肩幅に開いただけの「馬歩」から始められるからであり、他の站椿で取られる形や、そこから変化していく半馬歩、側馬歩、弓歩なども、全ては「馬歩」を基本とした同じ構造であるのだと、日頃の稽古で感じられるからです。

 また、人間がごく普通に立ったときの自然な状態を考えると、「馬歩」と同じように足が身体の左右に付いている形そのものですから、その時の身体の状態と機能を正しく認識することによって、初めてヒトが今以上に高度な身体機能を追求し、手に入れることができるのではないかと思えます。

 なぜ「腰相撲」が馬歩ではなく弓歩から始められるかと言うと、ひとつには相手に対して足を横に開いた馬歩よりも、縦に開いた弓歩で行う方が ”押されること" に対して不必要な恐怖を持たずに居られるということ、もうひとつは、物理的に弓歩より遥かに押されやすい馬歩で、押されまいとして耐えることによって架式が崩れたり、基本の要求が失われてしまうことを避けたいからです。
 馬歩で足を左右に開いて立った状態では、当然ながら前後からの力にはかなり弱いので、《武術=強靭=確固不抜=押されてはならない》という考えが頭の中に出来上がっていると「立ち方」や「架式」に対する意識は、いとも簡単に失われてしまいます。
 その点、弓歩対弓歩で、相手と対等の形で向かい合うことから始められれば、心や身体にゆとりが生まれ、押されることによる自分自身の変化と、数々の太極拳の要求の意味をその中でじっくりと紐解いて見つめて行き易いように思えます。


 さて、その馬歩での腰相撲は、普通は、一横脚(いちおうきゃく=足先から膝までの長さ)の幅に開くか、それに拳(こぶし)ひとつ分か二つ分を加えた足幅で行われます。
 丁寧に足を開いて身体を整え、慎重に腰を下ろして、馬歩の姿勢を確認します。
 この時点で注意されることは、足のつま先が外へ開かず、正しく正面を向いていることと、膝がつま先の位置より前へ出ないこと、そして身体が極端に前傾しないことなどです。

 馬歩の架式で前方から押されるような場合には、ほぼ例外なく誰もが足先を外旋して立ち、力の来る方向に対して寄り掛かって、自重を前方に落下させて、相手に大きく預けるような傾向が見られます。
 しかし、前回の「腰相撲」でも述べた通り、「勁力」は正しい架式によって生じるチカラですから、そこに相手がいなければ倒れてしまうような、寄り掛かって自分独りでは立てないような状態では、正しくチカラが生じるはずもありません。
 身体を整えていこうとするときには、そこに自分の都合を一切挟まずに、ひたすら架式への要求に意識的に向かい合い、それを正しく持続できることが求められます。


 正しく「馬歩」で立つことができたら、相手にゆっくりと腰を押してもらいます。
 押す側の架式は、前回と同様に弓歩の形を取っていますが、相手の腰が低くなった分だけ押す位置が低くなるので、押す人は前足の外側に胯(クワ)が流れないようにし、真っ直ぐ水平に力を伝えようとすることが大切です。
 押されている方は、自分で馬歩が崩れていないことを確認しますが、見た目の架式が整っていても、そこに正しいチカラが生じていなければ、ただの馬歩の格好をしたマネキン人形と変わらぬ状態になってしまい、だんだんつま先が浮き始め、膝やお尻が出てきて、最後には押されてしまいます。つまりそれは、まだ十分に立てていなかったということです。

 馬歩の腰相撲で、相手に軽く押されてしまったり、押し切られなくとも正しく返せない時には、誤った姿勢と架式が、師父や教練の手によって直接修正されていきます。
 それが修正されると、誰もが自分の取った姿勢と修正後との違いに驚きますが、その際は口々に「こんな位置ではとても立っていられない気がする」とか、「この方が簡単に押されてしまいそうだ」・・といった感想を洩らします。
 私自身も、かつて最初に姿勢を直して頂いた時には、何かとても頼りなく、これで押されたら数秒も立っていられないと思えましたが、鏡でその姿勢を確認してみると、意外にも、それほど不安定な姿勢に見えなかったことが不思議でなりませんでした。

 そして修正された後に相手の力が加わってくると、まず、押してきた力の負荷が自分の足に来ないことに驚かされます。
 相手は腕が震えるほど押して来ているのですが、強く押しているはずのその力が此方にはそれほど感じられず、それどころか、相手の力のお陰で、自分の体軸がより一層確立されてくるようにさえ思えるのです。
 このことによって、相手の押してくる力と、自分が立って受けている力は、明らかに種類の異なるものであるように思えますし、すでに「立つチカラ」が働いている自分の身体には拙力で影響を与えることは非常に困難であることが分かります。

 これが「弓歩」による腰相撲であれば、後ろ足を支えにして耐えたり、筋力で押し返すことも可能かもしれませんが、この「馬歩」の腰相撲では、どれほど体格が優れていても、すでに押されることに不利な体勢から始めているわけですから、押してくる力と同質の力で立っていれば、簡単に押されてしまうのは目に見えています。


 「馬歩」の架式が確立されてくると、押されている最中でも、その場で足を上げて四股を踏んだり、足踏みをしながら相手を飛ばし返すことも可能となります。足を動かすことができれば即ち歩法が生じているので、そのまま相手を押しながら前に歩いていくことも可能になります。
 しかし、それらの現象はすべて「馬歩」が正しく整えられた為の結果であって、それができること自体は、決してこの訓練の目的ではないと注意されます。
 これは、腰相撲に限らず、私たちが行うどのような対練の稽古であっても同じことであり、結果が目的となってしまうと、押され負けない事や、人を派手に飛ばせることばかりを求めてしまい、それらの工夫になってしまった稚拙な動きには、すでに太極拳の基本原理は存在しないからです。
 そのことを各自が正しく認識できるように、私たちの稽古に於いては、「結果ではなく、学習の過程がすべてである」と、繰り返して何度も指導されます。

 それは、腰相撲で言えば、たとえ相手に押されてしまっても良いから、「馬歩とは何か」「構造とは何か」を理解する為にこの対練を用い、それを経験することであると言えます。
 そしてその為には、必要であれば相手に押す力の強さや速さを注文してもよく、自分が最も馬歩を理解できるような状況を整えることが最も大切であり、そのようにしてようやく、稽古が成り立つわけです。
 もちろん、自分の分かりやすい力と速さだけで稽古するのではなく、時には、相手に思いきり押してもらったり、押す人数を増やしたりもします。そうすることによって自分の馬歩がどれほどのものであるかを正しく知ることが出来ますし、ただ単純に待ち受けるだけの、相手との関係性を無視した稽古になっていないかどうかを確認することも出来るわけです。

 「腰相撲」は、まさに「力」に対するイメージを、日常から非日常へと一新することができる、優れた練功であると思います。そのために何種類もの「腰相撲」が用意され、各々のスタイルで「太極拳の構造」を理解できるように、学習体系として確立されているに違いありません。

 そして、それを正しく理解するためには、架式と基本に忠実に、過程を大切にした稽古が積み重ねられることが必要であり、そこを正しく通過せずに、結果として生じる現象だけを追い求めていては、何も見えては来ないのだと思いました。

                                (了)



  【 参考写真 】

        
  
   *体重80キロ以上の男性が、小柄な女性門人を目一杯押しているところから
    返されていく様子です。押されている方は、相手への寄り掛かりが全く見られません。



        

        

   *稽古では、男性がフルパワーで向かってもなかなか年上の女性門人を押せず、
    ついには反対に飛ばし返されてしまう光景がよく見られます。



        

   *馬歩の腰相撲、多人数(4人)掛け。
    全員、声を呻らせ、顔に青筋が立つほど頑張って、真っ直ぐ前に力が伝わるように
    押しているのですが、正しく馬歩の原理を得ることが出来れば、その場で足踏みを
    したり、足腰を伸ばしてそのまま棒立ちになれる余裕さえあります。

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2009年08月04日

練拳 Diary #19 「腰相撲(こしずもう) その1」

 私たちが稽古する重要な練功のひとつに、「腰相撲」というものがあります。
 「腰相撲」とは、馬歩や弓歩などの様々な架式で立っているところを、ひとりから複数の人に腰を押してもらうというものです。

 この練功が、何ゆえに重要であるとされているのかといえば、他の練功と同様に武術的な身体が作られるのはもちろんですが、その最も大きな理由は、腰相撲が太極拳のチカラである「太極勁」を理解し、訓練していくためのものであるからに他なりません。

 太極武藝館で学ぶ門人は、誰でも「勁」という太極拳独特のチカラについて分かりやすく説明され、実際にその「勁」を身体で受けて、一般日常的な「拙力」との違いを明確に分けて理解することができ、さらに各自のレベルに応じて、勁が生じる、勁を用いる、勁を発する、などといったプロセスを実感することが、その学習体系によって可能となっています。

 そして腰相撲は、「太極勁」の中でも特に「腰勁」についてたいへん理解し易い練功法となっており、その習得のために、立ってそれを行うもの、座って行うもの、ぶら下がって足を着けずに行うもの等々、実に様々な方法を用いて、段階的に詳しい指導が行われています。


 最もオーソドックスな腰相撲は、足を前後に開いて弓歩の架式を取り、前方からゆっくりと腰を押してもらうもので、ここでは、自分の取った架式が正しいものであったかどうかをきちんと確認することが出来ます。

 よく注意されるポイントは、最初に取った架式を崩さないことです。
 まだ架式そのものが理解できていないレベルでは、押された力に対し、それに”対抗する”という事から始めてしまうことが往々にしてあり、その結果、前足の膝を大きく前に出して重心を落としたり、後ろの膝を曲げて大腿の前面・側面の筋群などを支えとして用い、相手の力をすべてそこで受けようとする事などが見受けられます。
 一般的に見て、力に対抗できるのはそれに勝る大きな力ですが、そのような考え方では「勁力」を習得するための訓練にならないことは明らかです。
 高度な武術の訓練が「站椿」から始められるという事実を見ても、それが決して力の出し方の工夫や追求ではなく、「心身がどのように在るか」ということへの追求によってこそ、非日常的なチカラである「勁力」が、ようやく理解できるのだと思えます。

 実際に、正しい架式で立つことが整っていれば、足の突っ張りなどで頑張って耐える必要もなく、相手がある一定の力以上では押せなくなってしまうことに気が付きます。
 お互いに「弓歩」という同じ条件で立ち、相手の方が大きな歩幅と低い姿勢で押して来るのに対し、こちらは踏ん張るわけでもなければ、相手にも寄り掛かるわけでもなく、稽古で指導される「立ち方」の要求をひたすら守っているだけで、相手が「押せない」状態になってしまいます。
 そして、正にそれこそが「腰相撲」を使って理解されるべき第一のポイントであり、一般日常の「力」に対する考え方をくつがえす最初のきっかけになります。

 これは理解のための練功ですから、当然のことながら、押す側にも押す力がきちんと相手に伝わるように、正しい姿勢で行われることが要求されます。
 入門したばかりの初心者に、「蛮力でも、拙力でも、後ろ足の蹴りでも、何でもいいから相手を押して、動かしてみなさい」と言うと、大抵の場合、歩幅を大きく取り、足腰を固めて、おもむろに両手を相手の腰にピタッと密着させ、そこから一気に自分の全体重を掛けようとして、前足の膝を抜きながらドォーッと押してきます。ボディビルや腕立て伏せ、スクワットなどの筋トレをたっぷりと訓練して来た人には、そのような傾向が見られます。
 しかし、正しい立ち方や歩き方の基本を教わってきた人であれば、その姿勢を見ただけで、たとえどれほど強い力であろうと、それを前方に伝えるには大変効率が悪い格好であることが明らかに見て取れます。正しく立っている相手には、拙力の馬力だけではどうにも太刀打ち出来ないことが押す以前から分かるのです。

 そして、力を正しく前に伝えることの出来る姿勢できちんと押してくる相手に対しても、自分の姿勢を崩したり、無理に耐える必要が全く無いのであれば、そこには、正しい架式によって生じたチカラ=勁力が働いていると言えます。
 それはひたすら、始めに立ったところから弓歩の架式を取るに至るまでの過程が、正しい意識と要求に沿って導かれたものであったということになります。
 それが可能になると、相手に精一杯力強く押されている最中でも、前足を軽くヒョイと上げて片足で立てたり、そのままで後ろの踵をトントンと上げることもできます。
 前でも後ろでも、足を上げる際には少しも身体が振れることなく、相手の方に寄り掛かることもないまま、身体を自在に動かすことが出来るのです。
 実際、師父などは多人数で押していても、片足で立ったまま先頭の人の体を前足であちこち蹴って見せてくれます。

 反対に、押される力に抵抗して耐えなくてはならない状態では、まず押された力を後ろ足の踏ん張りで耐えようとしてしまい、身体は力んで固く不自由なものとなり、前足を上げようとしただけであっと言う間に架式が崩れ、軽い力でも簡単に押されてしまいます。
 そんな時には、門人の誰もが、架式の精度や、站椿で養われるものの重要性を改めて感じさせられます。


 ・・さて、強い力で押されても、その場で変わらず立っていることが出来、なおかつ姿勢を崩さずに身体を動かせることが確認できたら、そこから相手を返していきます。

 私たちの稽古する「腰相撲」が、他所で見られるものと比較してユニークに思えるのは、相手に十分押させたところから、反対にそれを返していくことでしょうか。
 返し方は、弾き飛ばすものもあれば、歩いて前に出て行くもの、その場で崩し倒すもの、架式を変えたものなど、方法は様々ですが、いずれにしても、強く押されても何も変わらずに立っていられることと、そこから返せることは、同じ「勁力」の働きであるという考え方から始まっています。
 よって、たとえ押されずに立っていることが出来ても、その「押されないこと」が何によって成立しているのかが大切なことであり、それを確認する意味でも、そこから更に相手に正しく返せることが稽古として要求されているわけです。
 
 また、返すと言っても腰のアオリで入力したり、前の下方向への落下を利用するような、そこに存在した体軸が崩れてしまうようなことを行うのではなく、あくまでも初めの姿勢を崩さず、基本功の動きによって相手がその場に立っていられなくなり、結果として返すことが出来る、ということが大切です。
 姿勢を崩して受け止め、更に崩れて前方に押し返そうとしても、正しい稽古を積んだ相手は、そう簡単には崩れてくれません。その場合は反対に、自分の方が後ろに吹っ飛ばされてしまいます。

 返される側の感覚は、力強く押していった接点が強く押し返されるものではなく、むしろ押している感覚は何も変わらず、まるでパラシュートを着けて立っている人が突風に吹かれたように、突然、後ろから頭部や腰の辺りを、急激に後方の上に引っ張り上げられたような感じで吹っ飛ばされます。
 それは、人数が二人、三人と増えた場合にも同様のことが起こり、先頭で直接押している人から最後尾の人まで、ほとんど同時に、浮かされるようにして飛ばされて行きます。

 師父や上級者の腰相撲を見ると、これ以上強い力は出せないと思えるほど強力に押してきた相手に対して、それに対抗して強く押し返そうとするような動きは全く見られません。
 試みに、腰相撲の最中に、押されている人の真横から、押している相手の姿だけを隠すようにしてその動きを見てみると、まさに普段の基本功や套路そのものの動きがそこに在り、基本功と対練が種類の異なるものではなく、いずれも「太極勁」を理解して練り上げていくために編み出された重要なものであることがつくづく実感されます。
 
 今では、ほとんどの門人が腰相撲で相手を軽々と返すことが出来ますが、師父は、大きく飛ばし返せるかどうかが問題ではない、と言われます。
 また、どんなに小さくても勁力は勁力であり、反対にそれがどれほど影響力が大きくとも、拙力は拙力に過ぎないと言われます。
 大切なことは、その場での相手への影響力の大小ではなく、自分自身に「勁力」というものが理解できる稽古になったかどうかであって、そのために自分がどのように立ち、どのように受け、どのように返したかが問われているわけです。

 なお、この練功法は、太極武藝館のホームページの中の「太極拳を科学する」にも詳しく解説されておりますので、そちらも是非ご参照下さい。

                                  (了)
    




        

   *1対1の腰相撲です。押される側の重心の移動や、前方への落下が全く見られません。
    相手が空中でひどくバランスを崩していることが分かります。
    初めの一歩で飛ばされる距離は3メートルほどで、
    その後、相手は足が地面に着き難いまま後ろ向きに走り、反対側の壁に激突します。




        

   *上から順に、押されたところ、前足を上げたところ、返した後の写真となります。
    写真では判りにくいのですが、前足を上げた時にも、相手は顔が赤くなるほど、
    精一杯強く押し続けています。
    また、ここでは足を上げた事による相手への寄り掛かりが見られません。




          

   *男性が3人掛かりで、1人の女性門人を押している写真です。
    男性の体重合計は210キロ、押されている女性の体重は50キロに満たないものです。
    押す側は、姿勢に注意しながら真っ直ぐに、そして最大限の力で押していきます。




          

   *同じ女性門人による、腰相撲の四人掛けです。
    人数が増えても、押される側の姿勢が何も変わっていないことが分かります。

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2009年07月03日

練拳 Diary #18 「馬歩の実験 その2」

 「馬歩に対する認識を高めることと、その重要性を理解すること」

 そのような目的で行われた「馬歩の実験・その2」。
 その実験には、今回もイスが用いられました。

 まず、ひとりがイスに深く腰掛けます。
 背中は背もたれにつけずに、背筋を真っ直ぐに保ちます。
 正面からパートナーに両肩に手を掛けて軽く押さえてもらい、そのように動きを阻止されている状態から、普通に立ち上がってみる、ということを行います。

 実際にやってみると、いつものことながら、内容はとてもシンプルです。
 武藝館では、対練などに於いても、基本的に動作の少ないものから順に行われますから、技術の詳細や精度を求めるところからではなく、まずは自分の身体の構造を正しく観られることと、心身の在り方を整えようとする意識から始められるように稽古が構成されていることが分かります。

 注意するポイントは、無暗矢鱈と、ただ立ち上がることを目的としないことです。
 相手より大きな力を用いれば動かすことができる・・というのは、当然の事ながら一般日常的な考え方です。そのためには、相手よりも大きな身体と強力な筋肉が必要になりますが、太極拳には、その一般日常的な法則が当てはまりません。

 それは、日々の稽古で誰もが経験していることでしょう。
 例えば、一般クラスに在籍する小柄な女性門人が正しい馬歩の姿勢を取れば、ボディビルで鍛え上げた肉体と、百キロを超える体重を以てしても、その女性を押したり動かしたりすることが出来なかった、という事実からも分かります。
 或いはまた、通常は、修行年数の少ない門人は長年練功を積んできた人を容易に崩すことができないものですが、その場で師父が手を加えられ、架式と動作を正しい位置に修正するだけで、あっと言う間に崩すことが可能になったりします。正しい構造に勝るものは無い、という事が常に武術的に証明されていくのです。

 そのように正しく構造が整えられれば、持っている力の大小や修行年数に関係なく、相手に対して非常に有効な影響力を持つことが出来るのが「馬歩」です。
 馬歩とは、単に「ひとつの立ち方のカタチ」ではなく、馬歩の存在自体が、私たち太極拳修行者に何を示そうとしているのかを深く感じ取り、追求し、理解して行かなくてはなりません。陳氏太極拳に於ける「馬歩」は、それほどの価値があると思えるものです。


 さて、今回の実験は、馬歩の構造さえ身に付いていればワケもなく立ち上がれるものですが、実際には、誰もが自分の居る位置より上から押さえられているという状況が不利だと考えがちです。
 たとえ押さえられている力がわずかなものであっても、ひとたび「自分が不利だ」という意識が芽生えてしまうと、何としても立ち上がろうとすることが先になり、馬歩の原理などはどこへやら、身体の傾きと足の強さで立ち上がろうとする結果となります。

 こちらが何が何でも立ち上がってやろうとすると、相手もまた、それならば押さえる力を強くしてやろう、という事になりがちです。そのようなことがあると、お互いに「押さえられるか」「立ち上がれるか」という力比べの練習になってしまい、いつまで経っても何かを理解するための実のある実験にはなりません。
 「実験」と「試験」とでは趣旨が異なります。この場合は自分の馬歩が出来ていることを「証明」することが目的ではなく、この実験を通して「馬歩とは何か」というところを各自に発見してもらい、さらに理解を深めてもらいたいわけです。
 そのためにも、まずは「馬歩による比武」ではなく「馬歩の実験」だという意識を強く持つことが必要であると思います。

 また、先ほど、この実験に於いて「状況が不利」だと考えがちである、と述べましたが、実際に自分が立つ位置よりも後ろに腰掛けていて、尚かつ前の上方向から押さえられているわけですから、見た目にはもちろん不利だと言えるでしょう。
 普通に考えれば、軽く押さえられていても簡単には立ち上がることは出来ない状況です。
 
 しかし、この状況を武術的に見た場合には、押さえている人は、押さえようとするために身体が止まっており、反対に、押さえられている人はそこから自由に動くことが出来ます。
 動いている方と止まっている方とで、どちらが有利かと考えれば、当然動いている方が構造的にも有利なわけです。
 ゼロから徐々に時速100キロに加速するような運動では、たとえ時速300キロで走るクルマであっても、タイヤの前に小さな輪止めがしてあるだけで、全く前に進めませんが、反対に、たとえ時速20キロしか出ない車でも、その速度で動き続けていれば、それを同じ輪止めを以て止めることは非常に難しくなります。
 そして、それと同じことが「馬歩」にも起こっているのです。

 巧みに、軽い力で立ち上がれる人の動きを見ると、立っているところから座るまで身体がずっと動き続けていて、その動きにはほとんど支点が見られません。
 そして、座りに来た動作の巻き戻しのように、ちょうどゴムチューブを伸ばしてきたものがまた戻っていくかのように、スゥーッと立ち上がっていきます。
 肩を押さえている方は、手に強く当たる感覚が全く無いままに、身体ごと後ろに崩され、押さえていられなくなります。

 それに比べて、なかなか立ち上がれない人の特徴は、座りに行くときには背筋を反って胸とお尻を突き出すような格好になっていることがほとんどで、座ってしまうと身体が止まって居着いてしまい、立ち上がるときになって初めて身体を使おうとする動きが見られます。
 そのような場合には、部分的な入力や加速をする傾向があり、脚のつま先が浮きやすいのが特徴で、何れも身体が十分動き始める手前で相手に押さえられてしまいます。

 もしこれが「実験」ではなく「稽古」であるならば、当然肩を押さえる側には更にもっと正しい構造が求められ、小さな力で押さえても相手が立ち上がれない事とは何かというところを稽古していかなければなりません。これこそ馬歩の取り合い、比べ合いであり、そうなって初めて、実質的な「稽古」が成り立ちます。

 毎回の稽古で思うことですが、太極拳では、自分の置かれた状況の不利・有利ということが、日常とは全く逆転して、反対のこととして起こります。
 例えば、先ほどの「上と下」という関係でも、普通は当然、両手で「上」から押さえている方が有利であると考えられますが、その両手の下側から指一本触れるだけで上方向に大きく崩してしまったり、反対に、手は相手の腕の「上側」に、触れるか触れないかの状態で置かれているのに、そこから相手を「上」に向かって崩したりすることが起こるのです。
 普段の稽古では見慣れてしまっている光景でも、よく考えてみると、日常的にはそこには不思議なことがたくさん起こっているように思います。

 そのようなことを目の当たりにする度に、まだまだ自分の考え方が日常に支配されていることを否応なしに感じさせられ、反省させられることしきりです。
 もっと新しい発想と考え方が身に付くように、すでに教示されている太極拳の要求と基本功をきちんと見直さなければならないと強く思うものです。

 今回の実験で学んだことは、本当の意味での不利・有利は、自分に降りかかってきた状況によって決定されるのではなく、どれほど自分の身体を自在に、武術的な構造を充分に使えるかどうかで決まるということです。
 そして、人間には誰にでも持って生まれたヒトとしての構造があり、それを太極拳として最大限に活かすために理解されるべき最初の基本こそ、「馬歩」なのであると思えます。


                                 (了)



  【 参考写真 】


           
   ゆったりと寛いで椅子に座ったところを前から押さえますが、結果はご覧のとおり。
   立とうとした時には既に相手が高く飛ばされています。
   後ろ向きに数メートルも飛翔するシーンは、見ていて誰もがハラハラします。




           
   まずまずの成功例であると言えます。
   椅子に深く座ってもこれが出来るようになれば、色々なことがハッキリしてきます。




           
   二児の母である30代後半の女性も、かなり良い立ち方をしているので、
   相手が軽く吹っ飛ばされてしまいます。




           
   これは悪い例を演じてもらったものです。
   立とうとしてもつま先が浮いてしまい、股関節を支点に上体を倒しているため、
   相手も後ろの下に向かって押される力を感じます。

  


           
   こちらは力ずくで、何とか立ち上がろうと試みてもらったものです。
   軽い力で押さえていても真上にしか立ち上がることが出来ず、跳ね返されてしまいます。




           
   相手の手の上に、掌を軽く触れている状態から、そのまま更に上に崩したものです。
   2枚目の写真は手が離れた瞬間ですが、膝の屈伸などの予備動作が一切ないまま、
   踵が浮き始めていることが判ります。3枚目の写真は、その直後、急激に身体が
   浮かされ、ボールが弾むように足が引き上げられています。

   

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2009年06月07日

練拳 Diary #17 「馬歩の実験」

 数多くの柔功や基本功を学び、小架の套路を慎重に練っていくと、全ての練功は、ひたすら ”馬歩(ma-bu)” を理解するために用意されているのではないかと思えてきます。
 なぜならば、それらの型や形を取ろうとしたとき、もしも身体が正しい馬歩になっていなければ、足を一歩出すことはおろか、姿勢を真似ることさえ儘ならないからです。

 「馬歩が分からなければ太極拳は何も理解できない」

 「太極拳は馬歩に始まり馬歩に終わる」

 稽古で毎回のように詳しく説明され、ホワイト・ボードに図を書いて解説されたり、ときには骨格模型を使って詳しく指導が行われるほど、私たちにとって「馬歩」は大切なものであり、侮らず、疎かにせずに、深く追求していく必要性を感じるものです。


 ある日、歩法の稽古の途中で、「馬歩」が正しく取れている事を確認するための、簡単な ”実験” が行われました。

 まず、イスをひとつ用意して、足を肩幅より少し大きめに開いて馬歩の形で腰掛けます。そこから両手を前に出し、その手を正面から引っ張ってもらうというものです。

 用意されたのは、比較的ゆったりと深く腰掛けられるタイプの、アマン・リゾートにでも似合いそうな肘掛け付きの白いイス。そこに門人のAさんが深く腰掛け、背もたれに身体を着けた状態となりました。

 両手をゆっくり引き始めると、しばらく腕に重さがきていたのですが、途中で限界点がきたような、まるで壁に突き当たったような感覚が伝わってきました。
 さらに力を込めると、急に引っ張っていたチカラが軽くなり、Aさんの身体がフワリと浮いて立ち上がってきたのです。
 限界点に感じられたものは、引かれていることに抵抗していた足や背中の筋肉の限界だったようです。

 これは、カタチは馬歩でも、身体の構造としては馬歩で立てておらず、イスに寄り掛かっている状態を引き起こされたと言えます。

 次は、門人のBさんがトライ。
 Aさんと同じように、イスに深く腰掛けます。両手をゆっくり引いていくと、逆に向こうに引き返されているような重さが掛かってきました。
 こちらも、さらに力を込めて引こうとすると、Bさんのお尻が浮いてきましたが、背中の上部はイスに着いているままで、身体は上がってきませんでした。

 これは、上半身の角度と重さを利用して、引っ張られないようにした結果であり、そこからさらに大きな力が加えられた場合には、容易に引き起こされてしまうことが分かります。
 馬歩の実験と言うよりは、イスから引き起こされないための工夫と言えるでしょう。

 「・・皆さんは、引かれると思うと、用心してずいぶん深く腰掛けますね」

 そう言ってイスに座った師父の姿勢は、お尻が乗る程度に浅く腰掛けられ、背中も真っ直ぐに立っていて、背もたれからはずいぶん離れている状態で、一見して、いとも簡単に立たされてしまうような姿勢に見えたのです。

 ところが、いざ師父の手を引こうとすると、まずその感触の違いに驚かされました。腕に緊張がなく、とても柔らかいのですが、引けども引けども、ビクともしないのです。

 例えてみれば、それはまるで細くて握りにくいビニールヒモを使って、地面に埋まっている100キロくらいの荷物を、2,3歩離れたところから引き上げようとしているかのような感覚です。
 それに比べると、AさんやBさんの場合には、多少重いとは言っても、せいぜい自分の足下にある大根を、ヨイショと引き抜く感じです。
 師父の腕は、決して持ちにくいわけではないのですが、自分の力を100%出し切れない感覚が、まるで細くて握りにくいヒモを持たされているように感じられるのです。

 ・・そして、さらに力を入れようとした瞬間、フッと向こうに引き返され、いつもの対練のように、吹き飛ばされた弾みで一気に道場の端まで猛ダッシュすることになりました。

 試しに、先ほどの二人に師父と同じ格好で腰掛けてもらって両腕を引いてみたところ、いとも簡単に、軽々と引き起こせてしまいました。なるほど、浅く腰掛けた格好では体重や寄り掛かりが使えないため、先ほどよりは楽に引けたということでしょう。
 それでは・・と、今度は師父に深々と腰掛けて頂き、背もたれに身体を預けた状態で引いてみたのですが、結果は同じで少しも引くことができず、背中をイスから浮かすことも出来ないまま、またしても非常に軽い力で引き返されてしまいました。

 ひとたび馬歩が理解されれば、外見はどのような姿勢をしていても構造は変わらないのだと、改めて実感されました。

 「これは、引く方も同じ馬歩の原理なんですよ・・・」

 ・・と師父が付け加えられ、Bさんにもう一度イスに深く腰掛けるように指示しました。
 出来るだけ体重を後ろに掛けられるように、身体に大きな角度をつけて座ります。
 その姿勢で手を前に出すと、見た目はぶら下がるような格好になってしまいましたが、師父はその両の手に軽く触れ、ヒョイと、まるで箸で蕎麦をすくい上げるような動きをすると、Bさんは身体に斜めの傾斜が着いた格好のまま、真上に飛び上がり、見事に立たされてしまったのです。


 さて、実験はこれだけに留まらず、続けてその恰好で「足踏み」が行われました。
 これは先ほどと同様に浅くイスに腰掛け、足踏みをしながら相手に両手を引いてもらう、というものです。

 イスに腰掛けたまま、足踏みをする・・・
 普通に考えれば、ガッチリ踏ん張りを効かせて固定していた方が動かされにくいはずですし、足踏みをすることで常に片足しか地面に着いていないことになりますから、どう考えても不利です。

 案の定、門人CさんとDさんで試してみると、ごく小さなチカラで軽々と引かれてしまいました。ところが、師父がイスに座って足踏みをされると、むしろ先ほどよりもさらに強力になったように感じられたのです・・!

 もう、こうなると100キロの荷物なんてものではありません。
 エンジンを掛けて前進しようとしている車の後ろにロープを着け、なんとか引っ張ろうとしているような感覚です。これでは、たとえ数人掛かりで引っ張ったとしても、到底動かせないことでしょう。

 足踏みをした方が、より力強く感じる・・
 それについて師父は「当たり前のことだ」と言われました。ただ「立っている」だけではなく「歩いている」のだから、当然構造は強くなる・・と。

 「足踏み=歩くこと」であれば、静止していたときより強力であることも頷けます。
 しかし、それも「馬歩」が正しく理解されていなければ、イスに腰掛けた時点で馬歩は失われ、立つことも動くことも出来ないような、居着いた身体となってしまうのです。
 居着いた状態で足を上げ下げすれば、その運動はただ左右の足を交互に上げ下ろしするようなものとなり、さらに居着きは強くなり、簡単に崩されてしまうというわけです。
 それはまるで、重たくてとてもひとりでは動かせないドラム缶が、自分から左右にゴットンゴットン傾いてくれているようなもので、ドラム缶の角を利用すれば小さな力で転がしていけるという事と似ているようにも思われました。

 今回の実験では、馬歩が正しく理解されていれば、例えイスに腰掛けた姿勢でも、身体は馬歩站椿の状態が守られており、相当な力を持ってしてもその構造を崩すことは容易ではなく、そこから足踏みを始めれば、即歩いている身体の構造になる、ということが体験できました。

 そして、ヒトとして最も効率よく身体を使える構造であると思われる「馬歩」が、自分に起こり得る如何なる状況に於いても崩れることがないように、基本功から套路まで実に様々な状況を設定されているのだと、改めて実感されたことでした。

                                 (了)




  

   *深く腰掛けて足を突っ張られると、なかなか引けませんが・・・


  

   *浅く腰掛けていると、ご覧の通り、割と簡単に引けてしまいます。


  

   *男性が女性を引くと、このとおり・・・


  

   *女性が、男性を引いても、やはり、こうなります。


  

   *しかし、少し馬歩が正しく出来てくると、引いた方が崩れて・・・


  

   *男性が女性を引こうとしても、簡単に崩されてしまいます。


  

   *馬歩が出来ていないと、軽く引かれても、このとおり・・・


  

   *また、このとおり・・・


  

   *またまた、このとおりに・・・


  

   *馬歩が出来ていると、頑張って引こうとすればするほど、ひどく崩されて・・・


  

   *足踏みをしているところを強く引いても、やっぱり崩されてしまいます。

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2009年05月21日

練拳 Diary #16 「骨盤歩き」

 私たちの稽古では、「一般日常的な身体」を「武術的な身体」に作り替える作業をする、という意識が必要とされます。
 そのために多くの基本功が用意され、それを正しく習得しようとすることで、学ぶ人の考え方から意識の持ちようまでが見直され、それを細かく修正する機会を持つことが出来ます。
 先日ご紹介した「座圧腿からの立ち上がり」などは、正に身体を作り替えるための、太極拳を理解するための基本功の代表と言えるかもしれません。

 その「座圧腿」の稽古では、降り始めるところから座った姿勢までは何とか取れてきたものの、一部の門人はまだ充分に身体を使えず、正しい構造が理解できず動けない状態が見られました。

 例えば、師父や教練について一緒に動いたとき、先ずはその形を修正しようとすることが稽古の要点になっており、形や姿勢が合うようになれば、その形から生じた動きも自然と同じものになり易いのですが、この練功では中々それができず、各々に苦戦していました。

 何が問題なのかと細かく見てみると、どうやら座りに行くとき、その形を真似るために、「足を如何にうまく使うか」という工夫をしてしまっているようです。
 これでは、歩法でどれほど正しく動けていても、実際には一歩を歩くために ”落下” と ”蹴り上げ” を繰り返し、それを「足」で上手にコントロールしていることになり、套路の慢練などでは、脛や腿の力みを使ってしまい、身体の運びだけを表面的に合わせることになってしまいます。
 仮に歩法や套路でどれほど動けているように見えても、そのような身体の状態ではいとも簡単に一撃を喰らい、一刀のもとに斬られてしまう「動けない身体」であると言えます。

 ・・・問題は、《 足 》です。
 日常的な「足」の工夫に慣れきってしまった悪い癖が残っているために、基本功の形が正しく取れず、順体で動くことがままならないのです。

 「それならば、足を使い難くしてしまおう・・」という、師父の言葉で始められたもうひとつの練功は、その名も「骨盤歩き」というものでした。


 「骨盤歩き」は、まず床にお尻をつけて座り、両足を肩幅に開いて前方に伸ばします。
 上半身は立てて、足は床に着いているまま、骨盤で歩いていきます。
 ただし、テンポをつけてオイッチニ・サンシと歩くのではなく、始めはゆっくりと、一歩を出来るだけ長いストロークで動けるようにしなくてはなりません。
 この練習法は他所でも時折見受けられるものですが、何でも良いから動ければ良い、進めれば良い、ということになると簡単に構造が崩れてしまうので注意が必要です。

 数メートルほど進んだら、今度はそのままバックします。
 前進と同じようにゆっくりと歩き、一歩を長く動けるようにしていきます。

 「骨盤歩き」の主な注意点を挙げますと、

  (1)骨盤が正しく立ち、仙骨が巻き込まれず腰が立っていること。
  (2)姿勢が過度に前傾・後傾しないこと。
  (3)軸が左右にブレることなく、真っ直ぐに歩けること。

 ・・などです。

 この練功の目的は、床に座ることによって半強制的に足の踏みつけや蹴り上げの出来ない状況にし、体幹部への意識を高めて構造の明確な捉えをうながすことにあります。

 自分の姿勢を、道場のガラスを鏡代わりに映して、歩き始めること数分・・・

 普段の歩法の稽古では、道場の端から端までを、長い時間をかけて何往復も歩きますが、この練功になると、わずか4〜5メートルを1往復もすると、もう止めてしまう人が出てきます。
 足の付け根の辺りが突っ張ってきて、どうにも動けない、と言うのです。
 そして、両手を後ろに着いて腿の前側を伸ばしたり、痛くなったところを揉みほぐしてから、再度歩き始めるということを繰り返しています。

 この現象こそ、まだ十分に身体の構造を捉えられていなかった事の現れだと言えます。 つまり、半強制的に足を使えなくしたにも拘わらず、【足を上げては降ろす】という、部分的に身体を使ってしまう習慣が抜けていないのです。

 そのような人の姿勢を見ると、やはり骨盤は巻き込まれて背中は丸まり、お尻を左右交互にヨイショと持ち上げては前に送り出すという、座圧腿からの立ち上がりでも見られたような「腰勁」の働かない構造になっていることが判りました。
 当然、軸は左右にブレてしまいますし、足を持ち上げては降ろすという上下の運動になっているため、なかなか前へ進むことが出来ません。
 それは、例えばテンポを速くしてみても同じことで、上下の動きは大きくなっても、前後の幅はあまり変わらないのです。

 ところが、その格好で何往復歩き続けても、まったく平気な顔をしている人も居ます。
 彼らの姿勢を見れば、一様に腰が立ち、脊椎が細かく自在に動いており、軸の左右のブレもほとんど見られません。そして、歩数を重ねる毎に、一歩一歩のストロークが徐々に長くなってきます。また、どこか身体にキツイところがないかと訊くと、足ではなく、腰と腹の辺りがまるで妊産婦のようにパンパンに張ってくる、と言うのです。
 そう言えば、稽古中にふと師父のお腹を見ると、まるで妊産婦のようにパンパンです。
 先頃、ちょうど出産間近の門人が大きなお腹を抱えて稽古に来ていて、師父と並んでお腹の大きさを比べてみたのですが、むしろ師父の方が大きいので、居合わせた人は皆驚きました。もちろん師父は腹部肥満などではありません。


 ・・さて、これが「肩取り」や「散手」の稽古だったら、一体どうなるのでしょうか。
 骨盤歩きで正しく歩けない人の場合は、身体は上下にしか動けていないのに、そこに「足」が加わることによって、何となく自分が前後左右に動けているような気がしてしまうことでしょう。
 もしも相手が正しく歩けた人のように、上下左右のロス無しに十分身体を使って動ける人だったら、それほど速くも大きくも動いているようには見えないのに、いつの間にか間合いを詰められて相手のペースに陥り、ついには一本取られてしまうことでしょう。

 それは、一般的な対練ではなくとも、座って足を広めに開いた姿勢でお互いに向かい合い、両手で同時に強く押し合ってみれば分かります。
 間合いや、相手を取る技術無しにも、単純にどちらの構造が強いのか、どちらが十全に身体を使おうとしているかで、一瞬にして勝負が決まってしまうのです。

 もちろん、立っている時と、前に足を投げ出して座っている時の姿勢では、股関節周辺の構造も違ってきますが、「骨盤歩き」の場合には、姿勢を変えてみることで自分の構造の捉えがどのようになっているのかを改めて確認することが出来ますし、普段の自分の動きから
《 足 》を取り除いたときに一体何が残るのかということもじっくり味わうことが出来る、大変良い稽古だと思えました。

                                (了)



 *門人に正しいものと間違いとを演じて貰いました*


      

       ほぼ正しく「骨盤歩き」ができている状態。
       腰腹部が立ち、身体の動きで膝が軽く上がっている。



      

       比較的良い姿勢と言える。
       腰腹部を使おうとしているが、まだ腰が立たず、骨盤がやや巻き込まれている。
       前に向かう緊張がなければ、さらに身体が動ける状態。

 
      
      

       腰は立っているが、上体の前傾と左足の蹴り出しが見られる。
       右足を軸に左足が出されており、膝は上がらず、踵が押し出されている。
       胸腹部の緊張がなければ、骨盤が働く状態。



      

       「骨盤歩き」全体の稽古風景。
       各々に腰腹部の立ち具合や膝の上がっている度合いが異なっている。

xuanhua at 17:59コメント(12) この記事をクリップ!
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