*#1〜#10

2009年03月04日

練拳 Diary #10「ボール乗り番外編 ”なんちゃって太極拳発見器”」

 ある日の稽古で、套路を練っていた時のこと・・・

 その日もまた、身体の使い方が細部に渡って比較、検証され、腰勁のはたらきはどうか、胯の要求はどうか、その動きは基本功の原理と異なるから、太極拳にならない・・・等々、門人同士で疑問や問題点を出しては、ひとつひとつを掘り下げていく稽古が行われていました。

 しかし、どれほど原理を見直しても、基本功と照らし合わせてみても、どうしても師父のような套路の動きにならないところがある・・というのです。
 もちろん、師父の動き ”そのもの” になど、そう簡単になれるわけがないのですが、基本原理として見て、あまりにもそれが違和感をもって感じられるので、皆がそう言い始めたのです。

 それは、師父の足がフッと浮くように揚がるところで、未だ足が上がる状態になっていなかったり、大きく足を横に踏み出して靠(カオ)の姿勢で入るような時のタイミングが、どうしても遅くなってしまう、というものでした。

 しかし、足を上げようとしてもその構造にならなければ決して上がるものではありませんし、動きが遅いからといって、その動作を速くすれば良いわけでもありません。
 そもそも、「身体の使われ方」が違うために生じている、各個人の身体に染みついてしまった「間違った構造」が問題なのであって、表面的に足を上げ、素早く動いたとしても、それでは太極拳になるはずもありません。
 また、当然ながら、その状態では「勁力」も生じるわけがないので、試しにそのスタイルで誰かに「靠」を受けてもらえば一目瞭然、相手には何の作用も生じないことが確認できます。

 ・・やはり身体の使い方、いや、使い方に対する認識自体が間違っているのではないか?

 各自がそんなことを考え始めた頃、師父が套路の練習を途中で止められ、
突然、「ボールを持ってきなさい」と、仰いました。

 一体何が始まるのだろうと思っていると、ボールに腰掛けてバウンドするように言われます。
 「腰掛けバウンディング」は「ボール乗り」の第一段階で、バウンドしてボールから離れていく時には足が床から離れ、お尻がボールに着いていく時には足も着地するという、お馴染みの
シンプルな練習法です。

 さて、皆がボールに腰掛け、ボーン、ボーン、ポーンと軽快にバウンドを始めると・・・

 「うーん、やっぱり違っているね・・それこそが、套路で動けない原因ですよ。
  身体の動かない原因というか、身体が動く必要のない構造でやってしまっているね・・」

 と、師父が言われました。

 よく見れば、その運動には身体の状態が太極拳としては有り得ないような違和感が感じられ、身体は高くバウンドしているのに、足が床からあまり上がっておらず、むしろ身体が上に行く時に足が下がりたがっている、という誤りが目に付きました。
 また、バウンドする度に空中で馬歩の姿勢が崩れ、腰掛けていた膝の角度がグンと伸び、股関節は蹴り上げる方向にはたらき、上体は後方へ仰けに反るような格好になってしまいます。
 これは、站椿で云えば、足で蹴って立ち上がってしまい、腰が落ちていない、という初歩的な誤りの状態です。床の上では、見かけで正しい馬歩のスタイルが取れているように思えた人も、ちょっとボールに腰掛けてバウンドしただけで、その構造の誤りが如実に現れてしまう、ということになります。

 「もっと、身体と一緒に、膝が高く上がるようにして・・・」

 しかし、そう言われると、今度はなおさら足を蹴ってから膝を上げようとしてしまい、膝を上げようとすればするほどお尻だけが高く弾み、膝はますます上がらず、むしろだんだん膝が下がるような動きになってしまうのです。・・これには皆さんも四苦八苦でした。

 套路などで、一見よく動けていても、ちょっとボールでバウンドするだけで、その人の体の使い方と、此処で要求されている身体の在り方を比較することができ、オマケにまだ整えられていない身体の中身が簡単に発見できることから、この練習法はその場でさっそく、
「なんちゃって太極拳発見器」 ・・と命名されました(笑)


 師父がボールに腰掛けて、示範をされ始めました。
 実にゆったりとした動きで、馬歩の形のまま上下に高く弾んでいき、小さな動きでも、大きな動きでも、身体の状態は全く変わらず、完全に足が離れ、浮き上がって降りてくるまでの間に、「馬歩」の姿勢がそのまま変わりません。
 そして、時には、空中に浮いている間に、床と身体の間でボールが何度かドリブルされてしまうほど、ゆっくりと、高く、大きくバウンドしておられるのです。

 門人たちの動きと比べてみれば、一見、同じように弾んでいると見えるものが、よく見れば、そのリズムも、弾むタイミングも、速さも、すべてが違っているのが分かります。
 特にボールから離れて戻るまでの滞空時間は、比べものにならないほど長いものです。

 門人たちは、師父と同じサイズのボールで弾んでも、倍くらいの速さで小刻みにしかバウンドできなかったり、初めのうちは同じテンポで出来ても、どうしても徐々に速くなってしまうような現象が起こります。これでは套路で速さが違ってくるのは無理もない事かもしれません。

 ゆったりと弾んでいるように見えても、その動きを捉え難い、テンポを合わせ難い・・・
それは、ふと、対練で相対したときの師父の動きを連想させました。
 周りで見ているだけなら何でもない、スローテンポにさえ思える動きが、目前に相対している者にとってはこの上なく速く、非常に危険なものに感じられる動きなのです。

 今回のような、ボールでバウンドするという単純な運動であっても、武術的な身体を得ていれば、その動きは武術的な速さとなり、反対に身体が一般日常的であればあるほど、やはり、生じる速さは日常的なものにしかならないのだと、改めて思えました。
 
 そういえばスポーツの分野でも、その走り方ひとつを取って見れば、金メダリストと最下位の人とでは、金メダリストの方がよりゆったりとした動きに見えますし、クルマのレースでも峠のドライブでも、何故か速い人の方がゆったりとスムーズな動きに見えるから不思議です。
 武術に限らず、どのような分野でも「絶対的な速さ」の見え方には共通点があるような気がしました。

 「なんちゃって太極拳発見器」は、シンプルながらも実に様々なことを私たちに教えてくれています。中にはこの腰掛けバウンディングが「膝立ち」や「狛犬」よりも難しいと言う人も居ますが、それでもこの練習を地道に続けているうちに、少しずつ身体が武術的に整えられてくるのが分かります。

 そして皆さんの動きは、「正しいイメージ」を持つことで、さらに大きく変わってきました。
 ボールに対して上手に弾もうとするのではなく、自分がボールそのものになったようなイメージで行うことや、足の「蹴り」を使ってタイミングを合わせるのではなく、身体が「ひとつ」の状態になって動かざるを得ないように、自分の中心を整えていく方法が細かく指導され、さらに実際にそのイメージを目の前で見せられることによって、皆さんの動きが大きく変容し始めたのです。この練習をする前と後とでは、全員、套路での身体の動きが大きく違っていました。

 ボールの上に立つことは、誰もが怖れを抱きながらも憧れてしまう「非日常」の状態です。
 しかし立つだけであれば、武術的に間違った在り方を用いても、何とか無理矢理立ってしまうことも出来なくはありません。しかし稽古ではその反対に「出来なくても良いから、解る稽古をしなさい」と、毎回のように繰り返して注意されます。

 私たち門人は「出来ること」を求めて原理から外れてしまうことを怖れ、「解ること」を求めて行こうとします。けれども、その「解ること」の、何と繊細で、何と難しく、何と強靭な意志が必要とされることでしょうか。
 全ての運動神経を動員して、自分なりに、勝手に立つ練習をする方がどれほど楽なことだろうか、と思えなくもありませんが、高度な武術を修得するには、その優れた学習体系に身を委ねなければ完成するはずもありません。

 「ボール乗り」を太極拳の練習に役立てるためには、正しい基礎の在り方の上に、自分の身体構造を確かめながら、バウンディング、腰掛け、正座、膝立ち、狛犬・・・と、ひとつひとつのパートを確実に身に付けていくことが大切なのだと、つくづく思えました。

                                 (了)



*門人にお願いして、正しいものと間違いとをやって貰いました*


    

    ↑ これは誤りの例。
     バウンドをすると腿が伸びてしまい、足もあまり床から離れていません。



    

    ↑ 誤りを横から見たところ。身体が後方に反っているのがわかります。
     また、頭の高さの変化ほどには、脚が上がっていません。



    
        
    ↑ バウンドすると、後ろにのけ反ったり、お尻だけが後ろに引かれたり・・・



       

       ↑ 比較的良くできている例です。
        身体の中心とボールの中心が合い、膝も引かれています。



    

    ↑ 良い例の連続写真。なかなか綺麗にバウンドできています。
     膝がもっと上に引かれれば、かなり上級レベル。



       

       ↑ まずまずの模範例です。
        腿と膝の角度がこのくらいでバウンドできるようにします。
        つま先がもっと引かれ、脚(ジャオ)が水平になればパーフェクト。

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2009年02月21日

練拳 Diary #9 「ボール乗り・その3」

 ボールの訓練が、心身両面にその核心に迫ってきた頃になると、すでにボールに立てる門人にとっては、次の段階である「手を使わずにボールに立つ」という新たな課題に直面します。

 しかしながら、試しに、手を使わずにボールに立つつもりで、目の前にあるボールに片足を掛け、そのままもう一方の足を乗せるつもりになるだけで、それが如何に困難であるかを全身に感じることになります。
 きっと、「これは、不安定なんてものじゃない・・・」と、誰もが思えることでしょう。
 
 すでに手を使わずにボールに立てる門人は、自分の経験から、
「ボールが ”動かない物” だとイメージするんですよ・・」などと、にこやかにアドヴァイスしてくれますが、手を使ってしか立てない人にとっては、どう見てもボールは ”自由に動く物” としか映りません。
 ましてや、運動神経がところどころ冬眠している私にしてみれば、手を使わずにボールに飛び乗る、などということは、地上4,000メートルの上空からパラシュートを背負って飛び出すより遥かに難しいものに思えました。

 さて、どのようにしてそれに取りかかろうかと、ボールの上でゆらゆらと「膝立ち」をしながら思案していたとき、師父がドッヂボールほどの大きさの、軟らかくて軽いボールを持って、私の前に立たれました。
 そして、「これでキャッチボールをしようか・・」と、仰るのです。
 
 いつものコトながら、いったい何処からそのような発想が出てくるのか・・・
 凡人の我々にはトンと見当も付きませんが、様々な方向から、角度や速さを変化させて投げられるそのボールを、足元がぐらつきながらも、キャッチしてはまた投げ返すことを繰り返すうちに、身体の感覚が少しずつ変わってくるのが感じられ、徐々に面白くなってきました。

 身体が最も不安定になるのは「ボールを受け取った時と、投げ返すその瞬間」で、一体何が不安定を生み出しているのかと言えば、それは明らかに「足の蹴り」が使われたときであることが判りました。
 こんなに軽いボールを受ける時でさえその衝撃が足に来てしまい、投げ返すのにも足の反動を用いてしまっているのなら、「腰相撲」で腰を押されているときや「散手」で相手を打っていくときなどにも、「アシのケリ」を当たり前のようにガンガン多用しているに違いないではありませんか。

 つまり、「踏まない、蹴らない、落っこちない」が全く出来ていない・・・
これが軽いボールだから良いようなものの、それが1kgや3kgもあるメディシン・ボールだったら、一体どうなることやら・・・
 これは、先日お伝えした「足幅」に引き続いての、大発見でした。


 そして、「はい、次は、立ってキャッチボール・・」と、言われ、頭の片隅にちょっぴり不安を残しつつ挑戦してみれば、これはもう、先ほどまでの「膝立ち」とは比べものにならないほど「アシのケリ」が顕著に表れました。そのために、一回受け取ってはバランスを崩し、一回投げ返してはボールから落ちる、ということになってしまいます。

 また、師父がボールを持って前に立っただけでバランスを失い、キャッチボールをする以前にボールから落ちてしまうようなことも見られましたが、それについて師父は、それは身体のバランスの問題ではなく、心のバランスの問題だと指摘されました。
 自分ひとりなら要求通りに綺麗に立てるのに、相手と向かい合っただけで心が乱されてしまうのなら、いくら武術的に優れた身体を養っていても、実戦ではその実力の半分も出せなくなってしまう・・と。

 その話を聞いて、ふと思い当たることがありました。
 それは、キャッチボールをしていたときに、それが、まるで「自分ひとりの問題」として捉えてはいなかっただろうか、ということです。
 ボールの上に立ち、投げてくるボールを受けては投げ返すという一見遊びのような稽古でも、そこに「相手」が含まれていなければ、やはり自分しか存在しておらず、投げる方が「陽」で、受ける方が「陰」とすれば、自分はそのうちの一方だけを、一生懸命工夫していたことになり、それでは、たかがキャッチボールといえども、上手くいくはずがなかったのです。
 そのような基本的な事に気がついてからは、ようやく相手とのキャッチボールが「武術的」に成立するようになり、ボールの上に居ながらも、お互いに相手との間合いや軸の関わりが見えてくるようになりました。

 そのことを強烈に感じられたのは、多人数で行うキャッチボールでした。
 初めは5人で輪になり、「膝立ち」を使って行われましたが、先ほどの1対1と違って、今度は、全員がユラユラと揺れ動くボールの上にいるので、それだけで、いつ自分にボールが来るのかが察知しにくくなります。
 このような状況では、誰にボールが渡っていても、全体を感じられていなければ、いざ自分にボールが飛んできたときに、十全な身体の状態で受け取ることが出来ません。

 それは、対練での「多人数掛け」とよく似ています。
 「多人数掛け」とは、「肩取り」や「散手」などに於いて、一人に対して複数で行われる稽古法ですが、自分が複数を相手にする場合は勿論のこと、反対に複数の中で一人を崩しに行く場合にも、常にその場の「全体」が感じられていないと、自分ひとりの勝手な行動となり、そうなると、多人数である故に優勢であるはずの効果もそれほど発揮されなくなるのです。

 そして、その「常に全体を感じられる」ということこそ、武術で言うところの「間合い」の初歩的な感覚であり、同時に太極拳の「合 (ごう)」という概念に繋がるのではないかと思いました。

 私が多人数のキャッチボールで感じられた「合」とは、その場にいた全員とのトータルな関わりであり、それはまるで空気中ではなく、まるで水や油の中に居るような感覚で、人と自分とはすでに別の物ではなく、全体でひとつの状態となり、ひとりが動けば、それが瞬時に全員に伝わっているような、正に「合っている」状態でした。
 不思議なことに、その感覚が得られた後には、目でボールを追う必要がなくなり、肌身で全体の動きが感じられるようになったのです。

 そのとき、「合」について、かの陳金先生が説かれた言葉が脳裏に浮かんできました。

 『非但合之以勢、宜先合之以神。
   (・・合は動作だけで行うのではなく、まず神を以て合となるようにする)』
 

 キャッチボールをすることによって生じた「合」の感覚は、更に自分とボールとの関係でも、同じことが言えるのではないかと思いました。
 ボールに乗ることは、ボールを制御することではなく、ボールを感じることである、とは理解できても、ボールと「一体になる」ということには、考えが及んでいませんでした。
 
 ボールとひとつになる・・即ち、ボールと「合う」こと。
 
 もちろん、私の「合」についての理解は未だ浅く、拳理の「合」の意味は深く、それ以外にも広く存在するので、更なる研鑽を積んでいかなければ、その要訣の真に意味するところは到底捉えられないものだと思いますが、この意味に於ける「合」が正しく理解されれば、ボールでも、レンガ歩きでも、推手、散手であっても、こちらの意のままに、お互いにひとつとなって動くことが出来、しかもこちらが主導を取れるという、武術的に優位な関係性になるのではないかと思われます。

 そのことに思い至ったとき、この日に行われたキャッチボールの訓練は、手を使わずにボールに立つための心身の構造、或いは、対象は何であれ、新しい未知のことに対面した際ににどのようにして謎を解いていけば良いのかという、その「理解のシステム」を学ばせて頂けたのだと、ようやく納得できたことでした。

 「ボールの乗り方」ではなく、ボールを用いて「理解のシステム」そのものを学ぶこと・・・
 これでまた、今後の課題に向かいながら、実のある稽古が出来そうな気がしました。

                                 (了)



* 写真は、ボール上での「キャッチボール」の練習風景です *


      



      



      



      



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2009年02月13日

練拳 Diary #8 「ボール乗り・その2」

 ある日の、ボールを使った稽古中でのことです。
師父が、ボールの上に立つときの「足幅」について指導されました。

 ボールのように不安定な物に乗ろうとするときには、誰でも初めは足幅を広く取りたがる傾向にあります。身体を安定させるためだと思いますが、人によっては、足でボールを挟むように固定したり、自分が乗りやすいように大きく「ハの字」に開いていたりします。

 それを見た師父が、足幅をいつもよりもっと狭くしてみるように仰いました。
 そして更に、「そうすることで、自分が何に頼りたがっていたのかが分かる」と、付け加えられました。

 この「足幅」については、私にとってもひとつの課題となっていて、ボールに立つときには、自分の感覚としては比較的狭い幅で立っているようなつもりでも、実際は広くなっていることが多かったのです。
 また、狭くしてみようとしていても、なかなか「何に頼りたがっているのか」という意識にまでは至らなかったので、さっそく「狛犬」を使って確認してみることにしました。

 「狛犬」では、慣れない人は先ず身体を緩めて、ボールに寄り掛かるように乗ろうとしてしまいますが、それでは身体がトータルに使えない、と注意されます。
 また、そのような場合には、やはり脚が乱れて「ハの字」に開きやすく、膝は力なく弛んで曲がり、お尻がボールに着くほどに低くなってしまうのが特徴です。このような「休憩中の狛犬」の恰好では、ボールにしがみつくのが精々で、とても武術的とは言えません。
 正しい身体の状態では、足腰が正しく使われて、見た目にも弛みや寄り掛かりが見られず、
そうなると一般門人といえども、ちょっと迂闊には近寄りがたいものさえ感じられます。

 その「狛犬」で、いつもより足幅を狭くしてみると、急に不安定になります。
足幅の狭さに直ぐに身体が反応して、左右に足でバランスを取ろうとし始めたのです。
 以前に比べれば、かなり軽く乗れているつもりでいたのに、知らない間に足を使って左右への安定を求め、その結果足が居着いていたとは・・・
 これぞ「日常」という考え方に他ならないと思いました。

 床の上で狛犬や蹲踞の形を取ったとしても、ボールから落ちるような心配はなく、その状態で足幅を狭くしてもそれほど大きな変化はないので、ボールの上でなければこのようなことに気が付けなかったかもしれません。

 ・・その発見があってからは、「狛犬が必死に玉と戯れるの図」よろしく、ボールの上で七転八倒しながらの悪戦苦闘が始まりました。
 しかし、丁度都合よく、基本功で足が居着かない感覚が生じ始めていたところだったので、そのことにも助けられ、以前よりは狭い足幅で「汗をかきつつ玉の上に落ち着いた狛犬」のような状態が、何とか取れるようになりました。

 そのときの感覚は、それまでに味わったことの無いもので、足元はまるで雲に乗っているように軽く感じられ、かと言って、決して浮ついているような感じではなく、腹や腰の辺りにはかつて無い充実感があります。
 また、その状態から立ち上がろうとした際には、そこにはすでに「立ち上がる」ために必要な足の感覚などなく、上でも下でも、前でも後ろでも、右でも左でも、まるで無重力空間に居るかのように、行きたいところに好きなだけ、思うままに動けそうな気さえするのです。

 完全に立ち上がってみても、その状態はまったく変わらず、不安定だった足元は、遠くで勝手にゆらゆらと動いているのを感じるだけです。
 ・・なるほど、ボールの練習段階は数あれど、理解したい身体の状態は「ひとつ」であると、常日頃の稽古で言われている理由が、少し解かったような気がしました。
 そして、今までとは一味変わった「ボール乗り」の感覚に、これなら師父が言われた、ボールからボールへと「渡り歩く」ことも出来るのではないか・・・などと、調子の良い夢を見られたのも束の間、不意に大きく揺らいだ足元にハッと我に返り、慌ててボールから跳び下りたことでした。


 さて、ボールの訓練のなかでも、この「ボールに立つ」ということは、一般門人にとっては、ある一線を越えた「特殊な状態」として捉えられているようです。
 ある人は「狛犬」や「狛犬の前足上げ」まで軽々と出来ているのに、さていよいよ立ち上がるという段になると、身体の状態は急変して固く緊張したものとなり、それに対してボールは先ほどまでよりもずいぶん軟らかく、急に頼りない質の物に変化したように感じられ、その不安定な接地感覚に、足はますます固くなってくる・・というのです。
そうなると、もうアタマはすっかり恐怖心で一杯になり、何やら目眩までしてくる、と。

 「どのような訓練でも、まず、アタマが疲れてくるのが正しいのですよ。
   真っ先にカラダが疲れるようでは、まだまだ正しい練功とは言い難いですね・・」

 そんな師父の言葉を聞いているときは、「ふむ、なるほど・・」と納得できても、ボールから下りたときには、腿もスネも、足の裏までもがパンパンに張っていて、おまけに背筋まで固めていたのか、身体も思うように動かない、などという声もよく聞かれます。

 ・・・かくいう私も、そのひとりでした。
 ボール乗りの訓練を始めた頃、先輩たちが、ひとり、ふたりとボールに立ち始めているのに、自分は出来たとしても、精々が「不格好な狛犬」まで・・・
 勇気を振り絞って腰を持ち上げようとしても、握ってもいない掌にはジットリと脂汗が滲み、足元はすっかり固まってしまい、安物のマッサージ器の如く、ダダダダッと細かく震えだし、
やむなくお尻をボールにつけては、前方に転がって降りることの繰り返しでした。
 たとえ偶然に巧い具合に立つことができても、その時それを維持するのが精一杯で、次にもう一度立とうとすると、決して同じようには立てないのです。
 それは、「何ゆえに立てた」のかが分からないまま、立ってしまったからだと思います。
 つまり、太極拳の理論に照らしたときに、ボールに「立てる」ということが、どのような拳理と符合するのかが見えていなかったのです。

 そんな、自他共に認める ”スーパー運動神経音痴” な私が、曲がり形にもボールに立てるようになったのは、ただひたすらに「馬歩」のお陰であると思えます。

 馬歩には深遠な原理があります。見た目には脚を並行にして腰を下ろし、馬歩の要求を守っているつもりでその姿勢を維持していても、そこに「馬歩」の玄妙なる「はたらき」は生じていませんし、そのような身体の状態では、自分にとって都合の良い安易な足の形で乗ることと、何も変わらないものになってしまうのです。

 「馬歩」は、太極拳の原理は無論、発想の持ちようから考え方、更には戦い方までもを示してくれている、とてもありがたい架式です。ただしそれは、馬歩で立てば誰にでも理解できるなどといった単純なものではなく、太極拳という巨大なパズル・・「タイジィ・コード」の謎を解く大きなヒントとして存在しているのです。

 そして、それは何も太極拳の馬歩だけが特別なのではなく、中国武術をはじめ、唐手や古武術など、およそ「武術」と名の付くものであれば何処にでも存在するはずの、最も普遍的で基本的な立ち方のひとつではないかとも思え、あとは、示されたヒントを元に、それをどこまで深く掘り下げていけるのかが、私たち修行者に問われているような気がするのです。

 ボール乗りという「非日常」に取り組むことで、自分の中の「日常性」が見えてくるということは、日頃から指導されているとおり、「陰の中に陽が存在し、陽の中に陰が存在している」という太極原理そのもののように感じられます。

 「非日常」だけを追求して、そこに生じている自分の馴染み深い「日常性」が見えなければ、ただ単にボールに立つということは出来ても、太極拳という高度な武術が有する身体構造の真髄には、その片鱗にさえ触れることも叶わないのだと、つくづく思い知らされます。

                                 (了)



* 以下は一般クラスでの「ボール乗り」の練習風景です *


     


     


     



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2009年02月06日

練拳 Diary #7 「ボール乗り・その1」

 武術的な身体を整え、養っていく訓練のひとつに、「ボール乗り」があります。
 これは、ボール・エクササイズやリハビリなどに使われている、直径55〜75センチほどの張りの強い硬めのゴムボールを用いて行われるもので、基礎訓練の補助として稽古します。

 「ボール乗り」と聞くと、いったい太極拳と何の関係があるのだろうか、そもそも伝統太極拳の練功法にそんなモノはない、と思われるかもしれません。
 確かに、昔の陳家溝に大きなゴムのボールがあったとは思えませんし、実際に太極拳の訓練に「ボール乗り」を取り入れたのは、おそらく円山洋玄師父が初めてだと思います。

 「ボール乗り」と言っても、私たちはサーカスのような曲乗りをすることを目的としているわけではありません。この練習の最も重要な目的のひとつは、ボールを用いることによって「非日常」を体験するということ、そして太極拳を習得していく上で必要な、放鬆を始めとする様々な要訣を理解することにあるのです。

 単にボールに立つだけなら、ちょっとバランス感覚の優れた人なら、それほど難しいことではないかもしれません。しかし、それが稽古として行われるからには、我武者羅にボールを制覇するのではなく、正しく太極拳の要求に沿ったものでなければ意味がありません。そうであるからこそ、ボールを用いることによって、太極拳の要求が自分の身体で体験され、理解されていくことになるのです。

 ただし、それはあくまでも「疑似体験」に過ぎない・・と師父に言われました。
 確かに、ボールに立てたからといって放鬆が習得できるわけではなく、虚領頂勁が身につくわけでもありません。それは、ボールの上に立つという非日常的な状況に身を置いたときに、徐々に整えられてくる身体の状態が、放鬆や虚領頂勁などの内容や感覚に類似している、という程度のものに過ぎないのでしょう。
 しかし、同時にそれは、放鬆や虚領頂勁などの要訣がどれほど研究され修練されようとも、
「日常性」という環境の中では決して理解され得る筈もない、ということでもあります。
 武術原理が取りも直さず「非日常性」であるというところから観れば、「ボール乗り」は実に容易に、そのような世界へ私たちを誘う契機となるものに違いありません。


 ・・さて、実際にボールを使った訓練では、いきなりヒョイと飛び乗るようなことはせず、
いくつかの段階に分けて稽古が行われます。

 師父が考案された主な練習段階には、

 (1)ボールに座って足を着けたままバウンディングする
 (2)ボールに座って足を離す(「腰掛け」と呼びます)
 (3)足を離したままバウンディングする
 (4)正座して乗る
 (5)膝立ちで直立して乗る
 (6)膝立ちでバウンディングする
 (7)狛犬(両足裏と両手を着けて乗った形の呼称)で立つ
 (8)狛犬で前足を挙げる(両手を離す)
 (9)ボールに真っ直ぐに立つ
 (10)立ったままスクワットをする
 (11)立ったままバウンディングをする
 (12)手を使わずにボールに立つ
 (13)走ってきてボールに飛び乗る

 ・・などがあります。

 今回の一般クラスの稽古では、ボールに座って足を離す「腰掛け」と、その状態でのバウンディング。そして「正座」と「膝立ち」が行われました。

 初めての人にとっては、ボールに座って足を離すことだけでも、想像よりも難しいものです。
足を離した瞬間に全身に伝わってくる不安定な感覚と、動きを止めようとしても決して止められない非日常的な構造に、初めは誰もが新鮮な驚きを覚えることになります。

 初心者さんは、腰掛けたところからほんの少し床から足を離しては、ボールが動くたびに、すぐに足を床に着けたがる傾向があります。
 また、予め姿勢を整えてパッと足を床から離し、そのままじっと直立不動・・いや、座位不動のままで、ひたすらじっとしていれば何とかなる・・という考え方も見られます。
 ボールは意に反して好き勝手な方に転がっていこうとするので、ボールの上では何もしなければそのまま起上がり小法師の如く倒れるしかないのですが、ダルマさんと違うところは、そのまま戻って来ないことでしょうか。

 初めてボールに乗ろうとする様子を観ていると、不安定な環境に於いては、ヒトが如何に「固定すること」や「安定感」を求めるかということ、また、その中で安定を得るためには「力んで静止する」ことでバランスを保ちたがる、つまり安定する位置にしがみつくような傾向や考え方があることが明らかになってきました。

 実は、これはたいへん重要なことで、ボール乗りの訓練のみならず、まず「立つこと」に対する根本的な考え方が間違っている、ということになります。
 なぜなら、「立つこと」とは「静止すること」ではなく、それとは反対に、非常に繊細な微調整の運動が絶えず行われている「不安定」な状態であるからです。
 訓練を段階的に積んでいけば誰もが次第に体験することですが、ボールに立つためには自由に身体が動けなければ、全く立つことができません。
 ボールのような、極めて不安定なものに限らず、ちょっと高めの台に乗ったときや、レンガの上に立ったときなども同様で、見た目には静止していても、実は身体は、立つために微細な運動を休むことなく精一杯行っているのです。

 そして、そのような体験をした後に、静かに、注意深く、まるでボールの上に乗っているかのように床の上に立ってみると・・・何と、先ほどのボールの上での出来事とまったく同じことが身体に起こっているのがありありと分かります。
 私がこのことを体験したのは、まだ巷にバランスボールという道具が無かった中学生の頃ですが、ものすごく感動したことを覚えています。
 それまで自分は、当然のことのように、二本の足でしっかり立てているような気がしていたのですが、実際には、立つことのために身体中が繊細に動き続けていたのです。そして、そのことが体験される前と後とでは、自分の立つこと、即ち站椿の訓練が、飛躍的に変わったことを記憶しています。
 ボールに腰掛けて足を離すという、単純極まりない訓練は、まず初めにそのことを教えてくれる、たいへん有意義な訓練だと思えます。


 ・・さて、ボールに腰掛けて、足を離す身体の感覚が取れてきたら、次は「正座」をします。
 これがまた、予想以上に味わい深いものでした。

 ボールの上で正座をすると、まず顕著に表れてくるのが「足の蹴り」です。
 スネをボールに乗せ、お尻を足に近づけて正座しようとすると、意に反して立ち上がる方向にチカラが働き、座ろうとしてはピクッと立ち上がる、また座ろうとしては、ピクピクッと足がボールに反発してしまい、ボールは手前に転がろうとします。
 歩法や套路でどれほど正しく身体が使われていたかが、これによって明らかになります。

 基本功で正しく身体が使われていた人は、ボールの上でも至って足が軽く、ヒョイと正座をすることができます。そのような人は、足がピクピク反発したり、立ち上がる方向に入力したりすることが一切なく、身体中がユラユラと柔らかく動き続けている様子が明らかに見られます。
 さらによく見ると、最もよく動いているのはボール自体と、ボールに近い身体の部分、つまり腰の辺りで、頭部などはまるで糸で吊されているように、ほとんど動いていません。


 正座で、楽に感覚が取れるようになったら、次は「膝立ち」にトライします。
実は、この「膝立ち」は、ボールの訓練では最も重要な段階です。

 これが最も重要であるという理由は、この「膝立ち」を行わずに「狛犬」の訓練に入ってしまうと、肝心な「自分の中心とボールの中心が合う感覚」や「足の力みを用いずに身体が動ける状態」などを感じることが疎かになり、「狛犬」になると脚の力でボールを押さえつけたり、身体をガチガチに固めたまま立つことになってしまうからです。

 「膝立ち」での典型的な誤りは、まず、身体が真っ直ぐに立っていないことです。
 ほとんどの人は、ちょうど股関節の辺りで体が少し折れ曲がり、大腿四頭筋や腹筋、背筋などを優位に用いてバランスを取りたがる傾向があります。
 それに対して、正しく立てている人は頭頂部から膝の中心まで身体が真っ直ぐに伸び、さらにその先にボールの中心があり、膝から下は放鬆され、先ほどの「正座」と同様に頭はほとんど動かず、膝とボールが僅かに動いているだけです。

 「狛犬」が比較的楽に出来る人でも、その前段階である「膝立ち」が思うように出来ないという状況がしばしば見られますが、それは単に「狛犬」が四点支持で「膝立ち」が二点支持だというような問題ではなく、いずれも「馬歩」が理解されているかどうかの問題です。

 狛犬までの段階で「馬歩」が理解できていれば、ボールに立つときにも足の踏ん張りや支えを一切必要とせず、たとえ足下が揺れ動いていても、身体にはなんの影響もなく立ち上がることができます。

 今回の稽古でも、既に容易にボールに立つことの出来る上級者たちは、何も指示が無くとも、いきなりボールには立とうとせず、まず「膝立ち」と「狛犬」をじっくりと行ってから、完全に立つ状態までを段階的に訓練していました。

 ボールの訓練を終えた後は、皆さん一様に、身体が一回り大きくなったように見えます。
 最も著しい変化を遂げたと思えるところは、やはり「足」でしょうか。

 正しい練習の後は、誰の目にも、足もとが信じられないほど軽やかで、身体の中心がとても
充実しているように見えるのが不思議ですね。

                                 (了)



* 以下は一般クラスでの「ボール乗り」の練習風景です *


     

     

     

     


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2009年01月30日

練拳 Diary #6「学ぶということ」

 「まだまだ、私の動きが観られていないねぇ・・・」

 套路の稽古中に、師父の声が道場の隅々にまで静かに響きました。

 師父の後ろに付いて動いているのは、武藝館でも上級グループに位置する人たちです。
 武術経験は初めてという、主婦や会社勤めの、ごく普通の人たちですが、武藝館での稽古年数はかなり積まれていて、対人訓練ともなれば、元格闘技の黒帯が相手でも軽々と吹っ飛ばしてしまうような、見かけからは想像できないような人たちばかりです。

 その人たちが、「動きが見れていない」・・と、師父より指摘を受けました。

 毎回の稽古で注意されるのは、「出来ても出来なくても良いから、きちんと真似をしてみようとする」ということ。これがなかなか、朝早くから夕方までクタクタになるまで仕事して、アタマも身体もすっかり日常モードに変わっていると、理解するのが難しいようです。

 特に、套路の動きなどは、すでに何年も同じ動作を繰り返し稽古してきているため、動きから形まで、全て「アタマ」が憶えてしまっているのです。
 勿論それは表面的な一通りの形に過ぎず、套路の意味するところや、奥深いところは謎また謎のはずなのですが、ひとたび自分なりの思い込みに気づかずに「記憶」してしまうと、今度は、今この瞬間に、師父のすぐ後ろについて動いていたとしても、アタマはいつの間にか自分の覚えた形の記憶を呼び戻し、目の前で見えている動きとは無関係に、ただ記憶を呼び起こし、それをなぞって動くことになってしまうのです。

 ・・なんと、摩訶不思議な「ヒトの仕組み」でしょうか。
 もちろん本人は気がついていないことが多く、大抵の場合には、師父がそのことを指摘され、
「ここだ!」・・というときに動きを途中でストップされ、そこで初めて師父と自分との形を比較し、それが大きく違っていたことを各自が認識することになります。
 身体の向き、重心の位置、手足の位置などが思い思いの自分勝手な場所になっているのです。
これでは、同じように動こうとしても動けるはずがありません。

 そこから、その日の稽古は、自分たちの思い込みで記憶されていた「動き」の根本的な修正のために多くの時間が費やされます。初級グループの練習が隣で五勢、六勢と、套路の先に進んでも、上級グループは、三勢の途中の、たった一動作だけを、ときには何時間も掛けて見直していきます。

 何が原因で勝手な思い込みが生じたのか・・太極拳の考え方や原理と、一体何が合っていないのか、人間の精神の奥深いところまで掘り下げ、入念に観ていきます。

 私たちは、套路を用いて太極拳の考え方や身体の構造を学んでいきますが、たったの一動作、一着(一技法)でも、一度として同じ動きを見せられたことはなく、見る側の目と心の持ちようによっては、毎回、毎瞬、それまでには分からなかった、素晴らしい発見があるものです。
 ところが、「自分は知っている」「動きを憶えている」「次はこの動きだ」などという意識があると、それだけで、目の前の動きが見えなくなってしまうようです。
 見ているつもりでも、自分の見方や意識の持ち方ひとつで、見えなくなってしまうわけです。

 套路などの稽古中に、こちらが「そこが違いますね」と指摘しても、首を傾げる人がいます。
 そのような時には、言葉だけでは何度同じことを説明しても分かってはもらえず、本人は腑に落ちない、といった顔をしています。 ・・やはり、見えていないのです。

 そして、何回か同じところを指摘してから、その瞬間に動きを止めて、
「ほら、ココがこうだから、コレが違っているんですよね・・」と、形を比べてもらうと、
ようやく、「・・ああ、ホントですね!」・・と、納得するわけです。

 動いている時には分からなかったことが、静止することで理解しやすくなる、ということについては、站椿が「静」の状態から始められなくてはならないという重要なポイントを思い起こさせ、その真意を垣間見れたような気がしました。
 しかし、分かってもらえてホッとしたのも束の間、「そこまで詳しく言うの・・?」と師父に横目で睨まれ、ちょっぴり冷や汗をかきつつも、さらに細かく見ていくのです。

 そのような稽古の後には、いつものように、全員で道場の掃除を終えたあとで、
「本当にあんな姿勢になっていたんですね。自分ではなかなか観られないものですね・・」
・・などと、声を掛けられることもあります。

 この「観る」ということが、とても重要なポイントです。
 常日頃から注意されているように、「思い込み」や「先入観」を全く挟まずに、ありのままを見るためには、常にそれを初めて学ぶ気持ちで見られるという事と、たった今、目の前に見えていることが、太極拳を学習していく上で、非常に大切なことだと実感できること、そして、そのような、ほんのささやかな「鍵」ひとつで、実はたくさんの「謎」を、「Tai-ji Code」を解いていくことができるのだと、心から実感できることが大切です。

 思い込みは、武術的に誰かと対峙したときだけでなく、日常生活に於いても常に戒められるべきことだと思います。
 例えば、「いつも通っている道だから事故が起こるはずがない」とか、「この天ぷら鍋の火はまだそのままにしておいても大丈夫だ」「大放送局が伝えるニュースなのだから真実に決まっている」「大新聞の世論調査だから正しい」などといった、自分にとって都合の良い解釈や考え方が少しでもあれば、その為に、今、現実に起こっていることをトータルに正しく感じられず、結果として事故を起こしたり、火事を出したり、社会に飛び交う情報をそのまま信じ込む、といった大きな原因に成り得るように思います。

 太極拳に限らず、何かを学び、自身の成長の糧とするための、学ぶ側の正しい姿勢・・・
それがあって初めて、何かを学んだり、快適な日常生活を送るということが可能になるのだと、つくづく感じられた次第です。

                                 (了)



   


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