門人随想
2024年11月20日
「徒然日記」
by ハイネケン (札幌支部)
第十三話
色々な基本功や柔功には名前があり伝承を感じる。実は名前のない(知らないだけ?の)柔功が沢山ある。
伝統拳術を学ぶ醍醐味だ。
いつ、だれが作ったのだろう?
柔功は身体のギアに付いた汚れや錆を落とし、ピカピカに磨いたギアに新しいオイルを挿す。パーツの一つ一つがスムースになり身体での理解も進む。
本来メンテナンスはガレージでコツコツとするものだろう。今まで走りながら慌ててメンテナンスをしていたのだ。
(※註 実際は柔功には全て名前があるそうです。)
第十三話「名前の知らない柔功たち」終
第十四話
喜怒哀楽、感動は私の原動力の一つだ。
先日とある稽古で得た喜びが時間と共に薄れていき同時に稽古の価値が薄れていく気がした。興味が減退し他の稽古にも影響した。ヤル気が失せていく、、、嫌だ。
宗師の許可をいただき先輩にこの問題について質問させて頂いた、、、こう返事があった。
「感動が自分の中から薄れても、感動を与えてくれたものの本質は変わらない。それで良いのではないのだろうか。感動が薄れて行くことも自然の事だ。」
人間だから気力にも波がある。意図的に波をなくそうとするのではなく、あるがまま自分の本質と向き合う。諦めでもなく抵抗でもない。
なんと豊かな感性だろう。
そして今の私に必要な感性だ。
第十四話「感動と本質」終
第十三話
色々な基本功や柔功には名前があり伝承を感じる。実は名前のない(知らないだけ?の)柔功が沢山ある。
伝統拳術を学ぶ醍醐味だ。
いつ、だれが作ったのだろう?
柔功は身体のギアに付いた汚れや錆を落とし、ピカピカに磨いたギアに新しいオイルを挿す。パーツの一つ一つがスムースになり身体での理解も進む。
本来メンテナンスはガレージでコツコツとするものだろう。今まで走りながら慌ててメンテナンスをしていたのだ。
(※註 実際は柔功には全て名前があるそうです。)
第十三話「名前の知らない柔功たち」終
第十四話
喜怒哀楽、感動は私の原動力の一つだ。
先日とある稽古で得た喜びが時間と共に薄れていき同時に稽古の価値が薄れていく気がした。興味が減退し他の稽古にも影響した。ヤル気が失せていく、、、嫌だ。
宗師の許可をいただき先輩にこの問題について質問させて頂いた、、、こう返事があった。
「感動が自分の中から薄れても、感動を与えてくれたものの本質は変わらない。それで良いのではないのだろうか。感動が薄れて行くことも自然の事だ。」
人間だから気力にも波がある。意図的に波をなくそうとするのではなく、あるがまま自分の本質と向き合う。諦めでもなく抵抗でもない。
なんと豊かな感性だろう。
そして今の私に必要な感性だ。
第十四話「感動と本質」終
2024年09月11日
「徒然日記」
by ハイネケン (札幌支部)
第十一話
我々の稽古は真似る。向き、高さ、速さ、質感、雰囲気。宗師の身体や空間を真似て構造、架式の習得を目指す。
今回宗師を真似て、先輩でもある指導者から各所の指摘して頂くと言う同時に2人から指導を受けられるとても貴重な機会があった。指摘され次々と修正し真似ていくと、突然視野が広がり全身が合ったような気がした。
いつもより身体が全体的に動く。初めての感覚だ。
「ただずっとこのまま合わせていたい。」と思った。
三分後、独りで同じ動作を行うと悲しいくらい出来ない。何を真似していたのだろう?
真似る先にあるものを一瞬垣間見れたのだろうか。
次に宗師の後ろで稽古ができるのはいつだろう。
第十一話「真似る」終
第十二話
同じ柔功でも宗師との稽古と自分独りとでは異なる。
宗師と共に行うと自分の「 より深い処 」にアクセスして来る。自分独りでは動作を繰り返している様だ。
自分の意識のあり方が変化するのだ。
第十二話「解(ほぐ)すだけでも」終
第十一話
我々の稽古は真似る。向き、高さ、速さ、質感、雰囲気。宗師の身体や空間を真似て構造、架式の習得を目指す。
今回宗師を真似て、先輩でもある指導者から各所の指摘して頂くと言う同時に2人から指導を受けられるとても貴重な機会があった。指摘され次々と修正し真似ていくと、突然視野が広がり全身が合ったような気がした。
いつもより身体が全体的に動く。初めての感覚だ。
「ただずっとこのまま合わせていたい。」と思った。
三分後、独りで同じ動作を行うと悲しいくらい出来ない。何を真似していたのだろう?
真似る先にあるものを一瞬垣間見れたのだろうか。
次に宗師の後ろで稽古ができるのはいつだろう。
第十一話「真似る」終
第十二話
同じ柔功でも宗師との稽古と自分独りとでは異なる。
宗師と共に行うと自分の「 より深い処 」にアクセスして来る。自分独りでは動作を繰り返している様だ。
自分の意識のあり方が変化するのだ。
第十二話「解(ほぐ)すだけでも」終
2024年08月22日
「徒然日記」
by ハイネケン (札幌支部)
第九話
ほうれん草の束を茹でる。
数束に纏められたテープを外し1束1束、バラけさせて水洗い。根元の硬い処から鍋に入れ次第に柔らかい葉までを浸していく。丁寧にできると葉先から根元まで心地よい茹で上がりになる。束のまま適当に茹でるとどうなるのだろう?
稽古では自分の体の「解れ(ほぐれ)具合」を味わえる。見渡すと一番解れているのは…。
日々刻々と変化する身体の状態はそのまま稽古の精度に影響する。
第九話「ほうれん草」終
第十話
ーーーーーーーーーー
「ニコラシカ」というカクテルはスライスしたレモン、グラニュー糖、ブランデー。
それらを「口の中で混ぜて」完成する。
ーーーーーーーーーー
稽古1日目。
沢山体をほぐして頂く。
寛ぎ良い状態となる。背が高くなった様な気がした。
2日目、身体の規矩(きく)を確かめる稽古の様だ。
1日目の良い状態は継続できず2日目序盤からは次第に脚が重たくなってしまった。
自分の状態が悪くなり脚への入力を繰り返してしまう。日々の稽古の癖が出る。捻れた身体ではその場で規矩を学び取る事は出来なかった。学びには順序があり準備がいる。
「ニコラシカ」の様に1日目の状態で2日目の学び取れたら良いのに、と思った。
第十話「ニコラシカ」終
第九話
ほうれん草の束を茹でる。
数束に纏められたテープを外し1束1束、バラけさせて水洗い。根元の硬い処から鍋に入れ次第に柔らかい葉までを浸していく。丁寧にできると葉先から根元まで心地よい茹で上がりになる。束のまま適当に茹でるとどうなるのだろう?
稽古では自分の体の「解れ(ほぐれ)具合」を味わえる。見渡すと一番解れているのは…。
日々刻々と変化する身体の状態はそのまま稽古の精度に影響する。
第九話「ほうれん草」終
第十話
ーーーーーーーーーー
「ニコラシカ」というカクテルはスライスしたレモン、グラニュー糖、ブランデー。
それらを「口の中で混ぜて」完成する。
ーーーーーーーーーー
稽古1日目。
沢山体をほぐして頂く。
寛ぎ良い状態となる。背が高くなった様な気がした。
2日目、身体の規矩(きく)を確かめる稽古の様だ。
1日目の良い状態は継続できず2日目序盤からは次第に脚が重たくなってしまった。
自分の状態が悪くなり脚への入力を繰り返してしまう。日々の稽古の癖が出る。捻れた身体ではその場で規矩を学び取る事は出来なかった。学びには順序があり準備がいる。
「ニコラシカ」の様に1日目の状態で2日目の学び取れたら良いのに、と思った。
第十話「ニコラシカ」終
2024年07月18日
「徒然日記」
by ハイネケン (札幌支部)
寓話
毎週食べている蕎麦屋さん
年に2日しか食べられない幻の蕎麦屋さん
どちらも同じ心持ちで食せるのだろうか?
----------------------------------------------------
第八話
<プロローグ>
身体に染み、身体から出てくるまでには手間が掛かる。
手間を「時を重ねること」とすると長い時間が必要だ。
しかし手間を「意識を重ねること」であると捉えるならば絵本「光の旅かげの旅」の如く、世界が反転した様な異なる景色が広がる。
<多忙な日々に>
日常が多忙で稽古が出来なかった。昨年そんな疲労困憊し体調不良であった時、宗師より「自分に興味をもって。」と言葉を掛けられた。
私は自分の処理能力(生活能力?)を上げれば良いだろう。忙しく高回転で処理し続ければ効率化も進み、いつか自由な時間が手に入るだろうと考えた。高回転な生活で私は焼き切れそうなエンジンの様だった。
「したい事」を沢山連ねると幸せになれる、と思っていた。結果自分にとって危険な状態となっていた。
<日常生活での疑問>
そんな時、宗師は常に様々な事に挑戦して多忙なのだが悠々として生き生きとした生活を過ごしている様に見えた。多忙でも何かを犠牲にしている様には見えなかった。私は自分が犠牲にしているものがあったので疑問が湧いた。
「なぜ宗師は多忙なのに生き生きとした生活、快適や快にも見える選択が出来るのでしょうか?」と宗師に質問をしてみた。
返事は「自分に興味を持ち、丁寧な養生、メンテナンスする事」だった。「眠り方」「日々の選択」など日常生活についてが主だった。
教えの通り「日常生活の行動を意識的にする」うちに行動は「流れ」ではなく「積み重ね」に変化した。すると自分の世界が反転した様に生活が生き生きとし始めた。言葉では伝わりづらいだろうか?
心身が楽になり次第に問題が自然と解決していったものもあった。
<意識的である事>
宗師は「角度1度のズレが月と冥王星になってしまいますよ」と話す。
当門では感性や個性を否定された事はなく、ただ自分の至らぬ処、甘さを指摘される。
それらは精神修養でもあるが太極拳の鍛錬に直結する。
指摘された差異を自分で認識し直ちに修正する事は「真似る稽古」と繋がっている。理由や意味はいつか身体が分かるだろう。しかし自我は思考し安定を求め、身体で理解すらしていないにも関わらず、とても早急稚拙に理由や意味を「考える選択」をしてしまう。
そんな時、自分の状態に気づくと同時にある事実に気がつく。
それは意識的でも無意識的であっても、「自らの選択が自らが望む道の邪魔をしてしまう事がある」のだ。
当ブログでは既出の小説「火を熾す」の様な状況になる。
最近、自分の状態に気付こうとする事で私は以前より意識的に生活している実感がある。
そして質問の「快の選択をしている」事への返事を宗師より戴いた。
宗師は「自分にとっては不快である事も選択している。」と。
「自分にとって不快な方」を選択する?すると結果として「快な選択」をしている様に見える?
私は頭をぶん殴られた様に再び世界が回転した。「光の旅かげの旅」だ。
もちろん以前とはまた違う景色だ。
次はここを歩いてみよう。
私には不快なのだから。
知者不言、言者不知。
塞其穴、閉其門、和其光、
同其塵、挫其鋭、解其紛。
是謂玄同。
老子
第八話 「多忙な日々から、不快を歩く」終
(尾形光琳 紅白梅図屏風)
寓話
毎週食べている蕎麦屋さん
年に2日しか食べられない幻の蕎麦屋さん
どちらも同じ心持ちで食せるのだろうか?
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第八話
<プロローグ>
身体に染み、身体から出てくるまでには手間が掛かる。
手間を「時を重ねること」とすると長い時間が必要だ。
しかし手間を「意識を重ねること」であると捉えるならば絵本「光の旅かげの旅」の如く、世界が反転した様な異なる景色が広がる。
<多忙な日々に>
日常が多忙で稽古が出来なかった。昨年そんな疲労困憊し体調不良であった時、宗師より「自分に興味をもって。」と言葉を掛けられた。
私は自分の処理能力(生活能力?)を上げれば良いだろう。忙しく高回転で処理し続ければ効率化も進み、いつか自由な時間が手に入るだろうと考えた。高回転な生活で私は焼き切れそうなエンジンの様だった。
「したい事」を沢山連ねると幸せになれる、と思っていた。結果自分にとって危険な状態となっていた。
<日常生活での疑問>
そんな時、宗師は常に様々な事に挑戦して多忙なのだが悠々として生き生きとした生活を過ごしている様に見えた。多忙でも何かを犠牲にしている様には見えなかった。私は自分が犠牲にしているものがあったので疑問が湧いた。
「なぜ宗師は多忙なのに生き生きとした生活、快適や快にも見える選択が出来るのでしょうか?」と宗師に質問をしてみた。
返事は「自分に興味を持ち、丁寧な養生、メンテナンスする事」だった。「眠り方」「日々の選択」など日常生活についてが主だった。
教えの通り「日常生活の行動を意識的にする」うちに行動は「流れ」ではなく「積み重ね」に変化した。すると自分の世界が反転した様に生活が生き生きとし始めた。言葉では伝わりづらいだろうか?
心身が楽になり次第に問題が自然と解決していったものもあった。
<意識的である事>
宗師は「角度1度のズレが月と冥王星になってしまいますよ」と話す。
当門では感性や個性を否定された事はなく、ただ自分の至らぬ処、甘さを指摘される。
それらは精神修養でもあるが太極拳の鍛錬に直結する。
指摘された差異を自分で認識し直ちに修正する事は「真似る稽古」と繋がっている。理由や意味はいつか身体が分かるだろう。しかし自我は思考し安定を求め、身体で理解すらしていないにも関わらず、とても早急稚拙に理由や意味を「考える選択」をしてしまう。
そんな時、自分の状態に気づくと同時にある事実に気がつく。
それは意識的でも無意識的であっても、「自らの選択が自らが望む道の邪魔をしてしまう事がある」のだ。
当ブログでは既出の小説「火を熾す」の様な状況になる。
最近、自分の状態に気付こうとする事で私は以前より意識的に生活している実感がある。
そして質問の「快の選択をしている」事への返事を宗師より戴いた。
宗師は「自分にとっては不快である事も選択している。」と。
「自分にとって不快な方」を選択する?すると結果として「快な選択」をしている様に見える?
私は頭をぶん殴られた様に再び世界が回転した。「光の旅かげの旅」だ。
もちろん以前とはまた違う景色だ。
次はここを歩いてみよう。
私には不快なのだから。
知者不言、言者不知。
塞其穴、閉其門、和其光、
同其塵、挫其鋭、解其紛。
是謂玄同。
老子
第八話 「多忙な日々から、不快を歩く」終
(尾形光琳 紅白梅図屏風)
2023年12月13日
「徒然日記」
by ハイネケン (札幌支部)
本門の稽古は感動があり門人は色々な体験をしています。
感動は個人的なものです。
----------------------------
第一話
宗師が「人間はずっと同じことをしていられない」と言う話をされた。
人はずっと笑っていたりずっと泣いていたりは出来ず、太極図の様に変化するらしい。
確かに「毎日同じ夕陽はない」。
宗師の話を聴き、あとで私は何も見ず太極図を描いてみた。
描けると思っていたので描けなかった事に驚き、後で宗師に謝りました。
皆さん、描けますか?
存外に面白いのです。
第一話「太極図」終
(写真:刺子の太極図)
----------------------------
第二話
稽古は礼から始まり、道場は水を打った様な独特の静けさが広がり、
宗師や指導者の声が隅々まで響く。
無極站など意識を用いる事から始まる。道場では宗師の声に心地良く導かれ、心身も整う。
いつの間にか自分の意識から離れていった体が再び自分の元に帰ってくる様な感覚だ。
しかし自宅に帰り一人で同じ稽古をしても精度が下がり同じ様にはならない。
自分の身体なのにしっくりしない。
そんな精度の差を疑問に思い宗師に質問をした。
私「なぜ道場と自学では同じ精度で稽古ができないのでしょう?」
師曰く「何が違うと感じたのですか?」
私「カクカク、しかじか…だから出来ないのだと思います」
私は言ってからハッとした。
宗師はただ笑っておられた。
第二話「導き」終
(写真:葉書2枚程度の風景画)
----------------------------
第三話
宗師から空間と意識について教示があった。
学ぶ事、真似る事に通じるらしかったがその時はあまり理解できず実感も薄かった。
その日の稽古の帰り、車の運転が滑らかになった。
運転操作や動作は何かと多くなったが、忙しくもなく慌ただしくもない。
意識がゆったりとし、時間が伸び縮みする様な感覚。
(時間は実際には伸び縮みしませんが)
太極武藝館では自分が何を学んでいるのか、分からなくなる事がある。
そして人間は不思議で面白いものだと実感できる。
第三話「空間」終
(写真:オンネトーは刻々と)
----------------------------
第四話
宗師がアウトプットの話をされた。
師曰く「どのくらいノートを書いてますか?」
私「要点を箇条書きにノートし、たまに2ページくらいです」
師曰く「絵はありますか」
私「殆どありません」
宗師曰く「色は使ってますか」
私「ありません。黒の一色です」
師曰く
「色を使い、絵や図も描いてみて下さい。
思うがままに絵も文字もカラフルに描いてみてください」
私は帰途につきノートを描いた。
そして翌日
私「宗師、ノートが1日で急に9ページになりました」
師曰く「出さないと腐りますよ」
第四話「ノート」終
(写真:小学生が絵にした陰陽の話)
----------------------------
第五話
色々な指導、指摘を受ける事がある。
内容は多岐に渡り、特に厳しい口調であったりすると驚いたり反発心が芽生えたり、、、と言う時期がありました。
辛かった。
解決策が分からず、自分の才能、人格すら疑い、何も見えない位の暗闇、真っ暗闇だ。
頭の整理がつかず、稽古どころではない時期。
そんな時、師父に質問をしました。
「私は進もうとしてますが、後退している気がします。進めずどうして良いかもわかりません。」
師父は私を一度眺めてから静かな声で「ヨットは向かい風に向かって進みたい時、どうやって進むのか、知っていますか」
続けて師父はテーブルを指でなぞりながら丁寧にヨットの説明をしてくれました。
すべき事が見えた私は「ありがとうございました」とお礼が言えました。
第五話「風とヨット」終
(写真:風とヨット)
----------------------------
第六話
随分前から書いている太極拳のノートが数冊。読み返す事は少ない。
自宅の稽古は煮詰まり易く退屈になり易い。
何気なくノートを見返した。
---
(稽古中に)私「宗師、難しいです」
宗師「100回やってから言って下さい」
---
読んだ後は煮詰まり感がなくなり、私は稽古を続けた。
強い意気込みはではなく、ただ澄んだ気持ちで稽古が出来ました。
第六話 「予言?」終
(写真:描けば気づく)
----------------------------
第七話
私は本部から離れた地で稽古をしています。
記憶力に自信がなく覚えるのが苦手である為か、機会を見つけては質問をします。
ここ一年、宗師に沢山の質問をさせて頂き、話題は稽古だけでなく日常にも及びました。
一年前「アタマを使う事とは考えるだけではないですよ」という話から始まり、
「稽古をする時間がないのに上達した」話までとても興味深いものでした。
御返事を頂く度、思考も論点も私には考えつかない事ばかりで全くの別世界が広がりました。
そのような問答にも術理としての太極拳の原理原則が含まれていると気づかされたのは、
昨日の稽古の事でした。
遠く離れていても近くで稽古をしている様な無意識に流されない上質な稽古が出来る様になりたいものです。
第七話「対話、対局、一対」 終
(写真:平等かつ理不尽な時間)
----------------------------
「終わりに」
恥ずかしい話も含め経糸も緯糸も書きました。
話中の4つは僅か3日間の出来事です。
佳い勁力の様に深く広く響いています。
(編集者註:記事中の写真及び写真名称は、作者による選定です)
本門の稽古は感動があり門人は色々な体験をしています。
感動は個人的なものです。
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第一話
宗師が「人間はずっと同じことをしていられない」と言う話をされた。
人はずっと笑っていたりずっと泣いていたりは出来ず、太極図の様に変化するらしい。
確かに「毎日同じ夕陽はない」。
宗師の話を聴き、あとで私は何も見ず太極図を描いてみた。
描けると思っていたので描けなかった事に驚き、後で宗師に謝りました。
皆さん、描けますか?
存外に面白いのです。
第一話「太極図」終
(写真:刺子の太極図)
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第二話
稽古は礼から始まり、道場は水を打った様な独特の静けさが広がり、
宗師や指導者の声が隅々まで響く。
無極站など意識を用いる事から始まる。道場では宗師の声に心地良く導かれ、心身も整う。
いつの間にか自分の意識から離れていった体が再び自分の元に帰ってくる様な感覚だ。
しかし自宅に帰り一人で同じ稽古をしても精度が下がり同じ様にはならない。
自分の身体なのにしっくりしない。
そんな精度の差を疑問に思い宗師に質問をした。
私「なぜ道場と自学では同じ精度で稽古ができないのでしょう?」
師曰く「何が違うと感じたのですか?」
私「カクカク、しかじか…だから出来ないのだと思います」
私は言ってからハッとした。
宗師はただ笑っておられた。
第二話「導き」終
(写真:葉書2枚程度の風景画)
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第三話
宗師から空間と意識について教示があった。
学ぶ事、真似る事に通じるらしかったがその時はあまり理解できず実感も薄かった。
その日の稽古の帰り、車の運転が滑らかになった。
運転操作や動作は何かと多くなったが、忙しくもなく慌ただしくもない。
意識がゆったりとし、時間が伸び縮みする様な感覚。
(時間は実際には伸び縮みしませんが)
太極武藝館では自分が何を学んでいるのか、分からなくなる事がある。
そして人間は不思議で面白いものだと実感できる。
第三話「空間」終
(写真:オンネトーは刻々と)
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第四話
宗師がアウトプットの話をされた。
師曰く「どのくらいノートを書いてますか?」
私「要点を箇条書きにノートし、たまに2ページくらいです」
師曰く「絵はありますか」
私「殆どありません」
宗師曰く「色は使ってますか」
私「ありません。黒の一色です」
師曰く
「色を使い、絵や図も描いてみて下さい。
思うがままに絵も文字もカラフルに描いてみてください」
私は帰途につきノートを描いた。
そして翌日
私「宗師、ノートが1日で急に9ページになりました」
師曰く「出さないと腐りますよ」
第四話「ノート」終
(写真:小学生が絵にした陰陽の話)
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第五話
色々な指導、指摘を受ける事がある。
内容は多岐に渡り、特に厳しい口調であったりすると驚いたり反発心が芽生えたり、、、と言う時期がありました。
辛かった。
解決策が分からず、自分の才能、人格すら疑い、何も見えない位の暗闇、真っ暗闇だ。
頭の整理がつかず、稽古どころではない時期。
そんな時、師父に質問をしました。
「私は進もうとしてますが、後退している気がします。進めずどうして良いかもわかりません。」
師父は私を一度眺めてから静かな声で「ヨットは向かい風に向かって進みたい時、どうやって進むのか、知っていますか」
続けて師父はテーブルを指でなぞりながら丁寧にヨットの説明をしてくれました。
すべき事が見えた私は「ありがとうございました」とお礼が言えました。
第五話「風とヨット」終
(写真:風とヨット)
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第六話
随分前から書いている太極拳のノートが数冊。読み返す事は少ない。
自宅の稽古は煮詰まり易く退屈になり易い。
何気なくノートを見返した。
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(稽古中に)私「宗師、難しいです」
宗師「100回やってから言って下さい」
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読んだ後は煮詰まり感がなくなり、私は稽古を続けた。
強い意気込みはではなく、ただ澄んだ気持ちで稽古が出来ました。
第六話 「予言?」終
(写真:描けば気づく)
----------------------------
第七話
私は本部から離れた地で稽古をしています。
記憶力に自信がなく覚えるのが苦手である為か、機会を見つけては質問をします。
ここ一年、宗師に沢山の質問をさせて頂き、話題は稽古だけでなく日常にも及びました。
一年前「アタマを使う事とは考えるだけではないですよ」という話から始まり、
「稽古をする時間がないのに上達した」話までとても興味深いものでした。
御返事を頂く度、思考も論点も私には考えつかない事ばかりで全くの別世界が広がりました。
そのような問答にも術理としての太極拳の原理原則が含まれていると気づかされたのは、
昨日の稽古の事でした。
遠く離れていても近くで稽古をしている様な無意識に流されない上質な稽古が出来る様になりたいものです。
第七話「対話、対局、一対」 終
(写真:平等かつ理不尽な時間)
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「終わりに」
恥ずかしい話も含め経糸も緯糸も書きました。
話中の4つは僅か3日間の出来事です。
佳い勁力の様に深く広く響いています。
(編集者註:記事中の写真及び写真名称は、作者による選定です)