門人随想

2025年05月16日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)


第16話
「パズル」問題編

パズル1



突然ですが、パズルを楽しんでみませんか?

3組の同じ図形を線で結ぶ。
線は交わらない事、外枠に「はみ出さない」事。
まずは紙面に線を描かずにイメージだけでチャレンジして、出来なければ図を描いてチャレンジして下さい。
どの様にパズルに取り組んでいるのか?
楽しんでください。
迷ったり、イライラしたり、枠線の外から線を描こうとしたり、人に相談したり。とんちの様な工夫をしようとしたり。何でも良いのです。
(解答は皆様のコメント後に、「回答編」として掲載します)



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2025年04月15日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)


第十五話
「継ぎゆくもの」
太極武藝館創立30周年の記念式典の会場。先輩方が居られ厳かな神事と祝宴が催された。ある先輩に膨大な太極武藝館グッズをお持ち頂き、歴代の稽古着、マグカップ、CD楽曲集(!)、会報誌などがあり、遊び心と学びの歴史。そして「私はグッズ集めが止まらないんです」とおっしゃる先輩は惜しげもなく資料の数々を公開して下さった。中には圧腿の遍歴が分かる資料もあり試行錯誤を続ける武藝館の歴史を感じた。別の先輩はグッズを見ながら「色々ありますね。私は機会がなくてほとんどグッズを持っていないんです」、そしてポソリと「私は心を学んだのですよ」と仰りながら懐かしいグッズを手に取って笑顔で話された。御夫婦で稽古されている先輩は「何十年稽古をしても興味が尽きないんですよ。不思議です。」と語らうその表情は清々しかった。最近活気のある先輩は「太極拳を意識すると生活が変化するんです。思い通りになるのではないのですけど道が自然に開けて行くんです。」。
正式弟子でもある神主様は通称「大笙(だいしょう)」を初披露された。楽器自体珍らしく笙に比べ中低音が心地よく会場に響き渡った。縁あって最近始めたと言う大笙。独特のリズムや抑揚は「天の音色」の如く、まさにチャレンジの賜物だ。
個々各々、興味の尽きない有り様。太極武藝館の面白さは「どこから興味が始まっていても同じ」だと感じる。グッズの一つ一つに隅々まで作り手の行き届いた息吹がある。一度興味を持って接するとその情熱は燃え続けそれぞれの人生を稽古と共に歩んでいく。不思議に見えている技藝と技藝を学ぶ為に必要な「自分に必要な事」を求める心に火が灯る。 火を灯し続けて来た歴代の宗師達はこの晴れやかな記念式典をどうご覧になったのだろう。


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2024年11月20日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)



第十三話
色々な基本功や柔功には名前があり伝承を感じる。実は名前のない(知らないだけ?の)柔功が沢山ある。
伝統拳術を学ぶ醍醐味だ。
いつ、だれが作ったのだろう?
柔功は身体のギアに付いた汚れや錆を落とし、ピカピカに磨いたギアに新しいオイルを挿す。パーツの一つ一つがスムースになり身体での理解も進む。
本来メンテナンスはガレージでコツコツとするものだろう。今まで走りながら慌ててメンテナンスをしていたのだ。
(※註 実際は柔功には全て名前があるそうです。)

第十三話「名前の知らない柔功たち」終




第十四話
喜怒哀楽、感動は私の原動力の一つだ。
先日とある稽古で得た喜びが時間と共に薄れていき同時に稽古の価値が薄れていく気がした。興味が減退し他の稽古にも影響した。ヤル気が失せていく、、、嫌だ。
宗師の許可をいただき先輩にこの問題について質問させて頂いた、、、こう返事があった。
「感動が自分の中から薄れても、感動を与えてくれたものの本質は変わらない。それで良いのではないのだろうか。感動が薄れて行くことも自然の事だ。」
人間だから気力にも波がある。意図的に波をなくそうとするのではなく、あるがまま自分の本質と向き合う。諦めでもなく抵抗でもない。
なんと豊かな感性だろう。
そして今の私に必要な感性だ。

第十四話「感動と本質」終




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2024年09月11日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)


第十一話
我々の稽古は真似る。向き、高さ、速さ、質感、雰囲気。宗師の身体や空間を真似て構造、架式の習得を目指す。
今回宗師を真似て、先輩でもある指導者から各所の指摘して頂くと言う同時に2人から指導を受けられるとても貴重な機会があった。指摘され次々と修正し真似ていくと、突然視野が広がり全身が合ったような気がした。
いつもより身体が全体的に動く。初めての感覚だ。
「ただずっとこのまま合わせていたい。」と思った。
三分後、独りで同じ動作を行うと悲しいくらい出来ない。何を真似していたのだろう?
真似る先にあるものを一瞬垣間見れたのだろうか。
次に宗師の後ろで稽古ができるのはいつだろう。

第十一話「真似る」終



第十二話
同じ柔功でも宗師との稽古と自分独りとでは異なる。
宗師と共に行うと自分の「 より深い処 」にアクセスして来る。自分独りでは動作を繰り返している様だ。
自分の意識のあり方が変化するのだ。

第十二話「解(ほぐ)すだけでも」終

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2024年08月22日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)



第九話
ほうれん草の束を茹でる。
数束に纏められたテープを外し1束1束、バラけさせて水洗い。根元の硬い処から鍋に入れ次第に柔らかい葉までを浸していく。丁寧にできると葉先から根元まで心地よい茹で上がりになる。束のまま適当に茹でるとどうなるのだろう?

稽古では自分の体の「解れ(ほぐれ)具合」を味わえる。見渡すと一番解れているのは…。
日々刻々と変化する身体の状態はそのまま稽古の精度に影響する。
第九話「ほうれん草」終

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第十話

ーーーーーーーーーー
「ニコラシカ」というカクテルはスライスしたレモン、グラニュー糖、ブランデー。
それらを「口の中で混ぜて」完成する。
ーーーーーーーーーー

稽古1日目。
沢山体をほぐして頂く。
寛ぎ良い状態となる。背が高くなった様な気がした。
2日目、身体の規矩(きく)を確かめる稽古の様だ。
1日目の良い状態は継続できず2日目序盤からは次第に脚が重たくなってしまった。
自分の状態が悪くなり脚への入力を繰り返してしまう。日々の稽古の癖が出る。捻れた身体ではその場で規矩を学び取る事は出来なかった。学びには順序があり準備がいる。
「ニコラシカ」の様に1日目の状態で2日目の学び取れたら良いのに、と思った。

第十話「ニコラシカ」終

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