今日も稽古で日が暮れる

2026年02月24日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その104

   『笑いが吹き抜けるように』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 何も考えていない時のほうが、体はよく動けるように思います。

 それがいちばんはっきり現れるのは、宗師に吹き飛ばされる瞬間です。あのとき、頭の中の細かな考えや、身体に溜まった余計な力が、一緒に吹き飛んでいくような気がします。
 技術がどうとか、理屈がどうとか、そんなことを考える間もなく、ただ出来事だけが起きています。気がつけば、私は笑いながら声まで上げています。自分でも少し驚くほどです。

 何が起きたのか分からない。けれど身体は軽い。
 崩されたはずなのに、どこか爽快で、ただただ楽しいのです。

 宗師に崩されるときには、不思議な軽さがあります。
 そこには「うまくやろう」という気持ちも、「前より出来ているか」という確認もありません。ただ、その場で起きたことを受け取るしかない時間があります。
 少しくらい(何が起きているのか勉強しよう)という気持ちも挟まるのですが、崩された瞬間にはもう、その気持ちも一緒にどこかに吹っ飛んでいってしまいます。

 一方で、門人同士で向き合うと、空気は少し違います。皆まじめで、真剣で、精一杯に稽古に取り組んでいます。
 昨日の自分よりも良くありたい、前より理解を深めたい。
 その気持ちはとても大切なものですし、私自身も同じ思いで稽古をしています。

 だからこそ、ときどき考えるのです。
 あの楽しさは、どこへ行ってしまうのだろう、と。

 門人同士の対練では、それぞれが「成長しよう」という意識を抱いているのが感じられます。以前よりも立てているか、力まずにいられるか、理解したことが身体に出ているか…。それは稽古として当然の姿勢です。

 けれど、その意識が強くなりすぎると、目の前の出来事よりも「昨日の自分」との比較のほうを見てしまうことはないでしょうか。
「前より出来ているはずだ」
「今日はもう少しうまくやりたい」
 そんな思いが、知らず知らずのうちに身体を少し固くしてしまうことはないだろうか、と感じられるのです。

 道場では「上達とは手放すことだ」とよく言われます。
 頭では分かっているつもりでも、私はどこかで何かを積み上げようとしているのかもしれません。技術を足そうとし、理解を深めようとし、前進しようとします。それ自体は決して悪いことではありません。

 けれど、宗師に吹き飛ばされる瞬間には、その積み上げたはずのものが一瞬で意味を失います。どう考えても敵わない。比較も通用しない。
 だからこそ、ただ起きたことを受け取るしかなくなります。そのとき、自分が勝手に作り上げていた成長の物語はどこかへ消えてしまいます。ただ目の前の出来事に向き合うしかない時間が、そこにあります。

 そして、あの笑いが生まれるのかもしれません。

 宗師はいつも、さまざまなことに取り組んでいます。日々の稽古を誰よりも繰り返して、それでいて必ずどこかに変化があり、固定観念に囚われまいとしているようにも見えます。
 その姿は、何かを足しているというよりは、余計なものを外し続けているようにも感じます。

 それを見ていると、上達とは本当に何かを積み重ねることなのだろうか、と改めて思います。むしろ、余計な力や考え方、思い込みや自分の中の余計な物語を少しずつ手放していくことなのではないか、と思うのです。

 とはいえ、私はまだ両手にいろいろ握ったままです。
 昨日より良くありたい気持ちもありますし、理解を深めたいとも思っています。同時に、自分のやり方に固執していても無駄だということも、体では分かっているつもりです。
 0か100かではなく、人はきっと揺れながら進んでいくものなのでしょう。

 どれだけ大事に持っているつもりの自分の中の何かも、そのうち吹き飛ばされて、いくつか落としてしまうのかもしれません。
 開いて軽くなったその手なら、本当に大事なものにも、いつか触れられるのかもしれません。
 そして、誰かを思わず笑わせてしまうような太極拳に、ほんの少し近づけたらと思います。

 きっと次の稽古でも、私はまた考えてしまうでしょう。
 そしてまた吹き飛ばされて、声を上げて笑っているのだと思います。
 その繰り返しも、悪くない気がしています。

                              (了)






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2026年01月26日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その103

   『三本の柱』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 新年が明けて早くも一か月近い時間が流れようとしています。
 2026年になり、太極武藝館での稽古は昨年よりもまたギアを上げ、どんどんと進んでいっているように感じられます。今年は套路においても第六勢から先に進んでいくという話なので、のんびりとやっていては簡単に取り残されてしまう…それほど気合の入った稽古が行われています。

 とはいえ、気持ちばかり急いても仕方がありません。日本で古来から使用されていた旧暦でみればまだ年明け前なので、今年一年の目標をしっかりと定めて着実に取り組んでいくには、まだ遅くはないのかもしれません。
 昨年も太極拳を通じて、様々な事を勉強させていただきました。そこから得られ、また反省したものを基にして、今年はどのように稽古に取り組んでいくべきか、個人的に少し考えてまとめてみたいと思いました。
 ここでは便宜上、古来から東洋の思想にある「天地人」という考えに当てはめて、それを三本の柱としてみたいと思います。

 稽古に取り組むにあたり、まず自分がどのような状態であるのかを理解する事が非常に大切だと感じます。示されたものを真似する、受け取る。盲目的に取り組もうとしても、自分の状態がどうなっているのか理解出来ていないのでは、受け取れるものも片手落ちの限られたものになってしまうものです。
 太極拳という武術において、まず対面しなければならないのは、他者の前に自分自身。
 天地人でいう「人」です。最初が天じゃなくて人なのかという気もしますが、いきなり「天」と言われたところでなんのことだかわからない、それが人間というものです。よくも悪くも人間であるという事と最大限に向かい合う必要があるのではないかと思います。

 次に、「地」でしょうか。
 太極武藝館で伝承され、我々に教授していただいている内容は、先達により洗練され、体系化されたものだという事がひしひしと感じられる得難いものだと思います。その伝統、歴史の長さは味わうほどに深さが感じられ、より興味を抱かせてくれるものです。
 太極拳の歴史を学ぶ上で、この世界の事を一緒に学ぶ事は表裏の事として必要なのではないかと思います。先人たちがどのような環境におかれ、なんのために武術を必要としていたのか。
 そのためにどのような技術として成立させ、それが我々の時代にまで繋がっているのか。
 幸運な事に、今では色々な情報を得るのが容易な時代になっています。それによって学習できる知見は確かに増えていますし、必要としている情報も飛び込んできてくれるようになりました。ところが、それによって逆に表には現れてこないような情報、その場所にしかない生の情報がある事も理解できるようになり、それらの重要性が相対的に増してきているように思えるものです。
 我々が取り組んでいる稽古がそもそも表に出てこない情報そのものであり、そこから得られる知見というのは、より深い世界へと我々を誘ってくれるものです。そしてそのような脈々と受け継がれている情報、伝承というものが世界には数限りなく残されているのだろうという嗅覚が働くようになり、それによってもまた、この世界の観方は変わっていってしまうものだと思います。
 そうしたものに触れる時、我々が常識だと思っていたものは簡単にひっくり返され、この世界の在り方はいとも容易く変化してしまうのではないか、などと思っております。
 だからこそ我々は、こうして自分が教わる事の出来た事を大事にし、自らのものとなるよう稽古に精進していかなければならないのだと、強く感じるものです。

 さて、そのように受け継がれてきたものを大事にしていくのは、何も歴史が長いからといったそのような理由からではありません。それは先人たちが命を掛けて残してきた、この世界の在り方と向かい合って生み出されてきた宝物だからです。
 自分がどのような存在なのかを知り、残されてきたものを味わい、それによってこの世の中がどのように成り立っているのかを知る…。これが天地人の「天」に当たる部分ではないかと思います。
 天の規則、自然の法則に則り結果を出すこと。武術においても、自分がどれだけ鍛えて強くなったつもりでいても、この世界の物理法則を越えた現象を起こすことは出来ません。天の法則のもとで、人の理を理解した上であらわれる技は一見すると物理法則を越えているようにも見えますが、それは本当は我々の常識が理解の邪魔をしているだけなのでしょう。
 天の法則を知り、自らもそれに沿って生きることが出来るようになってはじめて、先人たちの残してきた太極拳の事が分かり、太極拳の生き方が出来るようになるのだと思います。

 そのために必要な原動力が、ほかならぬ自分の意志の力、自分が「こうしたい」と思う事ではないかと思うのです。まず意志があり、そこからどんどん物事が動いていきます。
 そして、この自分がいま存在しそう考えることが出来るのも、この地球という惑星があり、自分の先祖が居て歴史を作ってきてくれたからです。自分という存在がただぽんと生まれたわけではないのだという事がわかれば、自然とあらゆる出来事に感謝の気持ちを抱きたくなります。
 天地人はそれぞれが大事な柱でありながら、決して分けて考える事の出来ない物事なのだという事を、昔の人々は語ってくれているのではないでしょうか。

 太極拳を学問として捉えるなら、武術でありながら特定のジャンルにとらわれない包括的な学問ではないかと思います。物理として学ぶ人もいれば、人間の生理学や構造学としても観ることが出来ますし、また音楽のように芸術として受け取る人もいることでしょう。
 太極拳の懐の広い所は、学習者それぞれの個性に合わせて学習できる余地がいくらでもあるところではないかと思います。また裏返すと、学習に行き詰ったと感じた時に全く違った見方をするチャンスをも与えてくれるものではないかと思います。

 私はどちらかというと物理や人体の構造として研究するという所が多かったと思うのですが、ある時それとはまったく違ったものとして見えるようになった時、とたんに世界が豊かになったように感じられたものでした。それが特に去年に色々な発見があったように感じます。
 いまにして思えばその片鱗は一昨年からあったのだと思います。私が太極拳をひとつの歴史物語のように見えると感じるようになったら、そこにあった当時の人々の考えや息遣いまで聴こえてきたように感じられ、それに則した情報が昨年はどんどん飛び込んできたのです。
 先人たちもただ技法や思想を残したのではなく、それを作り上げたそれぞれ一人の人間だった事。また、それぞれの時代や世界で生き、そうする必然性があったのだという事。
 ひとりの人間として精一杯生きてきたからこそ、天地人を貫くものとしてひとつの太極拳を作り上げてきたのだと、そう感じられたものでした。
 だから私も太極拳の学習を志すものとして、ひとりの人間としてこの世界でしっかり生きていく必要があるのだと感じています。
 日々の生活が太極拳に繋がってくるからこそ、この時代においても非常に価値のある学習体系ですし、また将来にもつなげていくべき宝物なのだと思います。

 さて今年一年、どのような年になるのでしょうか。
 何がどうなろうとも、まずは精一杯生き抜いて、稽古に励んでいく…その意志をしっかりと持ってはじめていきたいと思います。

                              (了)







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2025年12月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その102

   『統一された意識のもとで』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 気が付くと一年が終わろうとしています。あっという間だったようでもあり、濃厚に彩られた日々だったようにも感じられるものです。
 個人的にも様々な出来事があり、感じる事が多かった一年であったと思います。この世を去っていく命があれば、新たに生まれる命もある…奇しくも、去年の暮にも感じていた円環がまた一回りしていったかのような一年でもありました。
 振り返ってみると仕事も私生活もドタバタとしていて、年の後半は特に自身が入門して以来最多と言えるほど稽古の欠席が多くなってしまう事となりました。道場から離れている時間が長くなる事で、逆に自分に向かい合い、太極拳と稽古に向かい合う事に直面させられる事になったように感じています。
 それと並行していたわけではないのですが、自身の体質改善・身体改造にも取り組む事となり、未だに続行中ではあるもののそれなりの結果は出せているのではないかと感じています。

 個人的な事なのでブログで詳細は書いていなかったのですが、端的に言えば減量をしていました。本格的に始めたのは8月の頭からで、ちょうど札幌に稽古で伺った時期の事でした。
 札幌で稽古の後の、おいしそうな食事を前に食べるものを制限をするのは本当に大変でした…。ダイエットは明日から〜、という誘惑に駆られそうになりながらも、一度決めた事なのだ!という意志の力でなんとか今日まで取り組み続ける事が出来ました。

 現時点でおおよそ5か月ほど継続してきた事になります。
 途中意図的にペースを落として調整をしたりしながらですが、今のところ12〜13キロほど体重を落とすことが出来ました。数字だけ見ると達成感はあるものの、それだけ余分な脂肪がついていたという事なので、武術修行者としては致命的だった事を反省をしている次第です。
 以前一度体重を落とした事があったのですが、その時は毎日ランニングをし食事も極端に制限し、結果的に痩せはしたもののその時期はずっと飢えを感じていて、「もう二度とやりたくない」と思える程度には大変でした。(おまけにやり方が良くなかったため、リバウンドしてしまいました。)
 今回は、前回とは違ったアプローチで取り組む事で、心身に負担を掛けることなく、むしろ以前よりもよっぽど健康的になっているのではないかと思います。また、負荷を掛けないという事が本当に大事で、今は減量以外の目的でもこれを継続していこうとさえ思えています。

 減量に関してですが具体的に何をしていたかというと、ブログ内でも断片的に書いたような気がしますが、主には食事内容の見直しです。
 甘いもの、揚げ物などの油ものは一切食べない。炭水化物、タンパク質の摂取量に気を付ける。また個人的な体質の理由もあり、小麦・乳製品は極力控える。
 最初はカロリー計算をしていたのですが、なんとなく把握できるようになってからはやめてしまいました。また、食べた物はメモでも画像でもいいので残すようにしています。自分は手間を省くために、パシャっと一枚画像を取るようにしています。これは自分が何を食べているのか把握するため+食べ過ぎ防止の意味で記録を残すようにしています。もちろん撮影出来ない時もありますが、それでもフォルダ内の画像は結構な枚数になっています。
 運動に関してですが、減量のための運動というものは特別していません。減量なめてるのか!と怒られそうですが、太極拳の稽古や補強運動で十分結果が出ているので、それで大丈夫という事なのだと思います。
 逆に言うと、それまでだって稽古で体は動かしてきていたのに痩せていなかったのですから、一番大事なのは食事だったという結論が得られます。

 以前宗師が仰っていたこの言葉が、本当にその通りなのだと身を持って感じています。
「食事が体を作っている」
 これ以上に語るべきものはない、とさえ言えます。

 戦後、日本の食卓には欧米の食事文化がたくさん入ってくることになりました。それによって日本の伝統的な食事から少しずつ姿を変えていきました。それ自体は問題ではないのですが、問題は、日本人が古来から受け継がれてきた体質そのものは数十年では変化していないという客観的な事実です。
 嗜好品として甘味や揚げ物を楽しむ程度なら全く問題はないのですが、朝食が菓子パンになったり、慢性的にそれらを食べ続ける事は、人にもよりますが日本人の体質には合わない場合が出てきます。結果、私のように脂肪を蓄えてしまったり、逆に痩せすぎてしまったり、知らないうちに体には様々な症状が出てきている場合があるようです。
 特に私の場合は、日本古来からの食事が体に合っていたようで、脂肪が減っているだけでなく今は非常に調子が良くなっています。カロリーで考えても以前より減っているはずですが、それでも減量しているとは思えないほどしっかりとごはんを食べることが出来ています。
 ごはんはお茶碗一杯で足りなければおかわりをしていますし、怒られそうですが間食でおにぎりや卵かけごはんを食べてしまうことだってあります。それでも、太るどころか痩せていっています。
 以前のあの苦しかったダイエットはなんだったのだろう、と思います。
 考えてみれば、そのダイエット方法もまた欧米の人々が取り組んでいたやり方でした。もしかしたら自分の体には合っていなかったのかもしれません。
 体に苦がなければ継続する事ができます。…念のため、あくまでこれは私の体に合ったやり方だという事で、人それぞれ適した方法はあるのだと思いますので、興味がある方はそれぞれに合ったやり方を模索して頂けると良いかと思います。

 さらにもう一つ、実は面白い実験も行ってました。人間の意志・意識の力は体にどのような影響を及ぼすのか、というものです。以前どこかの科学者がやった実験で、「掃除をダイエットだと伝えたグループと伝えなかったグループで体重の減少に違いは出るのか」というものがあったそうですが、それを自分なりにアレンジして取り組んでみたのです。
 一か月ほど試してみて一応の結果は出たのですが、想定通りではあるものの、にわかには信じられない結果になりました。
 実は11月は減量の中休み期間ではないですが、体を適応させるためにあえて体重を減らさないようにしていました。といっても日々の生活が劇的に変わるわけでもないので、食事を極端に増やしたり減らしたりしていたわけではありません。
 ただ、「今月は体重変えなくていいよ。今の体重をキープしてなじませてね」と自分の体に語り掛けていただけです。
 結果どうだったでしょうか。増えることはもちろんなかったのですが、それまで減少していたペースがぴたりと鈍ったのです。
 一か月の調整期間を経て、今月に入って再開しました。
 方法はもちろん、自分の体に「また体重を減らしていこう」と語り掛けるだけです。
 そうするとどうなったでしょうか。また少しずつ体重が減っていくようになったのです。
ゆるやかではあるものの、今月に入って1キロほど体重が減っています。先月と運動量もあまり変わらず、食事を減らしたなども実はあんまりしていません。「減量する」と思っただけです。
 ちなみに、前述の科学者が行ったお掃除ダイエットも、そういわれたグループには減量の効果があったのだそうです。

 人間の意識が持っている力というのは、思っているよりも我々に影響を与えているのだと思います。自分が不健康だと思えば不健康にもなれるし、健康であろう、若くあろうと思えばそうなっていくのではないかとさえ感じます。
 これだけだとただの健康ブログになってしまいますが、太極拳においても整うという事は最重要視されています。稽古の中で意識的に整える事で体の軸が瞬時に変わるという事は、門人ならどなたも体験したことがあるのではないかと思います。
 今年は初級特別強化訓練を指導して頂いたこともあり、意識的に体に関わる事がどれだけ大事で、またどれだけ効果的かという事をつぶさに体験させて頂いたように感じています。
 まず最初に意識があり、そこから結果が伴ってくる…。太極拳に限らないですが、目標を定め意識を定めることで、ただ無目的的に突っ走る事よりもよほどしっかりと結果を出すことが出来るのだと感じます。

 また、他の人との関わりや、周囲の物事との関係においても、人間の意識や意志というのは強い影響力を持っているようにも感じられます。こうだと望めば、それに沿った出来事や情報も集まってくるものです。このように、現代人が知らずに忘れてしまった力というものがたくさんあるのだと思います。
 我々は特に、太極拳を通じて人間の中で眠っている力を目覚めさせていくことが出来るのかもしれません。それによってより社会を豊かにすることにも繋がり、また自分の人生も豊かなものとして生きていくことが出来るのだと思います。

 今年もあと少しとなってきましたが、今学んでいることをこのまま継続し、来年、またその先にもつなげていけるような日々を過ごしていきたいと思います。
 本年一年間、ブログの記事を読んでいただきありがとうございました。記事を執筆することで自分の中で気づかなかった部分が見えてきたことも多々ありました。
 来年もまた、継続していけたらと思っています。
 本当にありがとうございました。

                               (了)








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2025年11月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その101

   『火種を残す』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 蛍光灯のともった部屋でパソコンディスプレイを前に座っていると、わずか百年ほど前までは生活の中に電気などなく、火を使う事が当たり前だったということなどにわかには信じられないとさえ感じられます。
 この日本においても場所によっては昭和30年代まで、囲炉裏のある生活が普通のこととして営まれていたとのことで、家庭の電化などに伴い、急速に姿を消していったようです。
 雨の後のキャンプで焚火を付けるのに四苦八苦した思い出がありますが、その時使ったマッチですが、実は19世紀になって発明されたものだそうで、人類史のスケールで見ると意外と歴史が浅いものなのだそうです。マッチやライターもない中で火を着ける事は、昔の人々にとっても簡単な事ではなかったようで、彼らは生活の中で一度起こした火をなるべく絶やさないように過ごしていたそうです。
 今では囲炉裏のある家というのは、古民家などで意図的に残していない限りそうそうあるものではないと思います。昔は生活の必需品として、また家族のだんらんの場としても家の中心としてなくてはならない場所でした。夜眠る時、囲炉裏の中の火は完全に消される事はなく、燠(おき)に灰を掛ける事で保たれ、翌朝になればそこに薪を入れて使っていたのだそうです。

 火を絶やさずに大切にしていく…それは、火が人々の生活の営みに欠かせないという理由からだけではありません。
 伝統の火を絶やさないという言い回しがあるように、世界各地の文化を見ても、火は神聖なものの象徴とされる事も多く、火を絶やさない事は意義深い事として今も継続されています。
 これらの話を聞いた時、キャンプなどで現代的な生活を離れて火を使っているつもりになっても、私は火の扱いをいかにインスタントで簡単なものとして考えていたのか、身につまされたものでした。
 キャンプにおいて延焼などの現実的な危険性を考えて、一度起こした焚火を消して寝るというのは全く間違った事ではありませんし、当然そうするべきだと思います。
 ただ、一度起こした火をどれだけ大切にするかという精神性の部分で、結局自分は大事なところに目を向けられていなかったのだと感じたのでした。

 一人で稽古をする時間が最近特に多く、そうなってくると自分自身に目を向ける時間も必然的に長くなるように感じられます。これまで行ってきた稽古が、ただなんとなく漫然と練習として続けられてしまっていたのではないか、そう反省することが多くなりました。
 表面の形だけ真似て先人の英知を理解しようとしても本当に大事な部分は見えてこないのではないか…。
 もちろんやらないより稽古を行ったほうが良いのは言うまでもありません。
 しかし、型として套路を練習するといった稽古は、神経に電気信号を通して動作を習熟させるといったような、それだけの意味なのでしょうか。
 江戸時代、マッチが生まれる前の日本では火打石を使って火を着けていたそうです。それよりもどんどんさかのぼっていけば、キリモミ式など摩擦を使ったりし、火を着ける作業は大変な事でした。実体験としてそれを知っていれば、一度火が消えてしまえば再点火するのにどれだけの労力が必要なのかがわかりますし、また火が無いことで命の危険も伴ってくるでしょうから、火に対する向かい方は現代人とは比べるべくもないはずです。
 太極拳を含めた武術が大陸で成立、発展した歴史を少しでも勉強してみると、言い方は悪いですが、安穏と武術を学習していこうと言えるような状況ではなかったはずです。
 もっと逼迫した環境であり、自衛の手段を持たなければ自分の命のみならず一族の存亡が関わる、そのような状況で武術に向かい合う事は半ば必然であり、もっと違った観点で物事を見ていたに違いありません。
 では、常に気を張って周囲を気にしながらびくびくしていたのか、それも違う気がします。
 特にこの日本においては武士道として語られる精神性ですが、本当に困難な事に立ち向かえる人間の姿というのは、小さく卑屈なものではなく、もっと堂々と立ち晴れ晴れとした姿だったのではないかと思います。
 人間の心は困難に立ち向かう力を持っている時、本当に豊かな創造力を生み出しているのではないかと感じます。
 火という存在が、過酷な自然環境から身を守ってくれて生活を豊かにしてくれるだけのものという認識だったら、そこに神の存在を見たり、神聖なものとして語り継いでいくといった精神性が生じうるのだろうかと疑問に思います。
 武術もまた、一族や自分の身を守る実用的な技術という側面を越えて、各地の文化において、神に捧げる神事としての側面も同時に持ち合わせてきました。そこに見出されるのは、暴力に身を固めて自分を守る事に固執するのではなく、もっと大きなものに身をゆだねて自他を制する神の御業ともいうべき技術の伝統といえるものではないでしょうか。

 そこに込められているものを、先人から残された形によって自分の心身を通して表現する事で、本当の意味で自分のものとして習得していけるような稽古であるか…。
 現代の生活や雑念に凝り固まった心と体では、その境地には到底届きようがありません。
 ですが、自分なりのやり方を捨て、示されているものに自分を明け渡す事によって見えてくる事が必ずあるはずです。それによって突き動かされていく先に、自分が目標にしている、到達したいと思えるものが確実に存在しているはずです。
 一人で稽古をしていると、自分の他に頼れるものがないのだということがひしひしと感じられました。だからこそ、教わっている学習体系や稽古内容の大切さが身に染みるように感じられてくるものです。
 冷え切った体で、火にあたることでその熱が染み渡ってくるのに似ているかもしれません。
 しかし、油断をすれば火は簡単に消えてしまうこともあるし、また逆に周りのものを焼き尽くしてしまう力にもなり得ます。だからこそ丁寧に慎重に、火と向かい合う必要があります。
 学習体系もまた、分かったかと思えば急に見失ってしまうようにも感じられ、また間違った理解を推し進めていけば、誤った方向に自分を連れていってもしまうものだと思います。

 だからこそ落ち着いて、じっと見つめて耳を傾ければ、きっと自分に語り掛けてくることが聴こえてくるのではないでしょうか。
 大きくても小さくても火種は火種であることに変わりはありません。太極武藝館で稽古をしている我々は、大なり小なり太極拳という火種に触れさせていただいているはずです。
 それを大切にし、自らの中で大きな炎にしていく事、それが我々に求められることだと思いますし、そこに見出される神聖さは、きっとそれまでの自分をがらりと変えてしまう力となるでしょう。

 確かに灯されている火を理解し、次の世代へと繋げていく…そのようにして人類の文化は脈々と続いてきたに違いありません。

                              (了)





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2025年10月29日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その100

   『見えなくなった技法』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 太極武藝館では先月の末から今月の初頭にわたり複数回かけて、「初級・強化訓練講習会」が開催されました。心身を鍛える方法を知りたいという門人の要望に応えて宗師が企画してくださった講習会でしたが、そこで示していただいたトレーニング方法は多岐に渡るものでした。

 種類ごとに分けられた様々なトレーニング方法をただ羅列するのではなく、鍛えるとはどういう事を指すのかという心構えに始まり、多様なメニューをどのように組み立てて、どのように実践していけばいいのかといった細部に至るまで指導をして頂けました。
 数十種類も紹介していただいた種目を一回の講習会で覚えるというのは普通だったら骨が折れるものだと思いますが、体系的に分類分けされ分かりやすい名前も付けられていて、また覚えやすいようにかわいらしいイラストまで用意して頂けたこともあり、仮に「どうだったっけ?」と忘れてしまったとしても資料を見ればすぐに思い出せるようになっていると思います。

 用意していただいた種目の中から自分でメニューを組み、取り組んでみると、全身に意識を向け、かつ無理のない負荷を満遍なく掛けられる種目ばかりだということが実感させられます。
 また、無理のない適度な負荷でありながら、自分の体で意識が行き届いていなかった場所、使い切れてなかった場所がじわじわと活性化されていくのも感じられ、その後に取り組む太極拳の稽古の動きが、少しずつ変わっていっているのが実感させられるものです。
 宗師は「実際に鍛える前の前段階の運動」といった表現をされていましたが、仮に健康目的で体を動かす事を考えた場合、非常に効果的なメニューではないかと感じています。

 継続は力なりで、受講された他の門人も変化を実感されているのではないでしょうか。健康増進にも、武術としての身体の補強の意味でも、非常に意義のある講習会に参加させていただけたこと、ありがたいことだと思います。あとは、自分でコツコツやり続けることが肝心なのだと思います。


 さて話は少し逸れるのですが、先ほど挙げた通り配布された資料にはかわいくデフォルメされた人間のイラストが描かれていて、それがトレーニング動作を分かりやすく解説してくれているのですが、私はそのイラストがなんだか妙に気に入っています。丸っこいボディに棒の手足がぴょんぴょんと生えているだけの体で色々なポーズを示してくれているのですが、リアルな等身で描かれるよりも動作が絶妙に分かりやすいのではないかと感じています。

 そのイラストを見たとき、私の考えすぎかもしれませんが、日本の剣術の古来から伝わっている技法書などに描かれた絵を連想しました。それらの技法書に書かれた人物の絵は、宗師が用意してくださったイラストよりは実際の等身に近い人間として描かれていますが、現代の写実的な描写ではありません。
 ややもすると当時の絵画技術の「無さ」から、写実的な描き方が出来なかったとも考えられますが、果たして本当にそうなのでしょうか。我々現代人の目線から見ると、まるで力なく描かれたように見えるその人物像たちは真実の姿ではない、と、断言していいものなのでしょうか。

 ひとつ、動画のリンクを張りたいと思います。





 彼、デンマーク出身のラース・アンダーソン氏は、数年前に公開されたアーチェリーの動画で一躍有名になった人物です。
 彼は中世から伝わる技法書などを基に、現代では失われてしまった数多くの弓術の技法を再現してしまったとんでもない人物です。彼のチャンネルで最近公開された5分半ほどの動画なのですが、とても面白いので、ぜひご覧ください。


 …見て頂けたという前提で進めますが、動画内で紹介されていたヴァイキングたちのイラストは、一般的に知られる弓を射る形とはだいぶ異なっているかと思います。あんな腰だめで弓を構えた姿では、とても戦場で戦えるとは一見思えません。我々の常識の範疇ではないが故に、あんな形では弓は使わない、よってあのイラストは絵の技法が未発達だからああいう風にしか描けなかったのだ、と判断したくなりませんでしたか。
 おそらく長年、実際のヴァイキングに関する研究者たちの間でもそう思われていたのだと思います。しかし、今回、アンダーソン氏と研究グループの方たちは、イラストに描かれた形でヴァイキングが実際に弓を撃っていたとして、それが現実の戦場でも通用しうるものであると証明してみせたのです。それどころかイラストに描かれた通りの矢の持ち方でないと、そのようには出来ないのだということを示してくれています。

 個人的には、非常に興味深い事だと思っています。我々がこのようなイラストが間違っていて伝承通りにはいかない、と勝手に思い込む理由はいくつか考えられるのではないでしょうか。
 ひとつは、古代の人々より我々現代人のほうが多くのことを知っている、と思い込んでいる点。現代のほうが情報があり昔の人々より知識があるのだから…と、その観点で物事を考えるように習慣づけられていてそこに判断の基準が出来てしまっています。カメラが無かったのは事実ですが、当時の事を描いたイラストは本当は忠実に事実を表しているのに、我々の勝手な基準で間違っていると判断してしまっているのです。
 裏を返せば、古代の人々よりも我々現代人のほうが進歩しているはずだ、という傲慢でしょうか。   
 それによって彼らが写実的な絵画として残せていない…つまり間違った絵を描いているのだと思い込んでいるのかもしれません。
 それらの理由によって、イラストとして目では見えているのに、知識の無さで我々には見えていないのです。

 また、想像力は人間の持つ強みではあるものの、間違った方向に働かせてしまっているのかもしれません。あんなイラストの形で弓を使って戦えるはずがない、とやってもいないのに思い込んでしまったのもあるのではないでしょうか。あのイラストは、力強く弓を番えるイメージにはほど遠く、実戦で使えるわけがないと決めつける要因のひとつではないかと思います。
 実際の所どうなのか、私自身で自宅で転がってた(?)弓矢で試してみたところ、普通に矢が良い勢いで発射されました。戦闘の技法としては練習が必要ですが、引く弓の強さにもよるでしょうが威力は十分ではないかと感じました。本当にやってみないと分からないものです。


 一例としてヴァイキングの弓術を取り上げさせて頂きましたが、この例にもれず、古流武術の技法書に描かれている人物の絵なども、彼らの目に実際に見えていた姿が描かれているのかもしれません。
 私の手元に太極拳図説の書籍がありますが、そこにも今の写実的な描写ではない人物イラストが何枚も描かれています。このイラストがどの段階でどのような人物によって描かれたのか、不勉強ながら分からないのですが、一見して力なく、柔らかく見えるその立ち姿には真実がしっかりと描かれているのかもしれません。かの有名な宮本武蔵の自画像は、見る人が見ればとても恐ろしい立ち姿をしていると言われているのだそうです。
 目の前で見ているはずなのに見えていない、これは太極拳の稽古をする上で、毎回のように課題となって聴こえてくるキーワードではないかと思います。壁になっているのは自分の中にある常識や思い込み、こうだと思っている考え方なのだと思います。
 これらを解消していく事で、そこに示されている真実に気づくことが出来るようになっているのかもしれません。

 今回の記事の締めとして、とりとめのない感想をひとつ書いておきたいと思います。
 太極拳の稽古で重要な架式として、馬歩と弓歩が挙げられます。
 名前の由来として、馬歩は馬に乗った形という意味で分かりやすいものの、弓歩はいまいちピンと来ていないところがありました。
 今回紹介したアンダーソン氏の動画の中で出てきたヴァイキングのイラストは、歩幅こそ狭いものの、まさに弓歩の形ではないかと感じました。静止せずに動き回るアーチャー、非常に考察しがいがあるのではないかと、とても面白くなりました。
                                (了)







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