今日も稽古で日が暮れる
2025年04月27日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その94
『イメージの力』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
対練の時に注意される事として、一動作で動けているか、それによって崩せているかという点があります。
対練の種類にもよりますが、例えば、立っている相手を崩すという練習をしている際に相手がなかなか崩れないと、力を掛ける方向をあちらこちらに動かしたりして、一動作ではない動きで行おうとしてしまうことがしばしばあります。
そういう時はどれだけ頑張ってみても相手は崩れてはくれないもので、たとえ崩れたとしても、宗師がそのように示していない=真似できていないという点において、稽古として成功とはいいがたいものです。
宗師が示してくださったように、一動作で行うこと。その時に体がどのように動いていたかを、余すことなく真似できるか。
動作がいくつにも分かれてしまっていると崩せないのは、示された通りに真似出来ていないから。
まとめてしまえばそれが全てではないかと思います。
とはいえ、まだ検証して修正する努力ができる余地はあるかと思いますので、もう少し深掘りをしてみたいと思います。
真似できないことにいくつか理由があるかとは思いますが、動作が一動作で動けるかバラバラになってしまうかという点に、私は特に興味を持ちました。
対練のとき動作がバラバラになってしまうという事は、基本や歩法を行っている際にも、同様な動きをしているところが含まれているのではないかと思うのです。なぜそうなってしまうのでしょうか。
人間が体を動かす時、脳からの指令が神経を通じて筋肉に伝達し、それが力を生み出して全身の骨格を動かすことで行われています。基本の稽古の際にも、注意点として肩が動いていない、膝が動いていないという点を指摘されます。ではその問題を解決しようとして動いていない部分を動かせばいいかというと、そうはいきません。
たとえ動かなかった肩などが動いたとしても、それはただ肩が運動として動くようになっただけで、太極拳で求められる基本の動きとしては一致していないという事は起こり得ます。
人間はよくも悪くも器用なもので、肩を動かすという部分的な命令を出すことができ、練習さえすればそのように動くことが出来るようになります。
自分の体を命令通りに意識的に動かす練習にはいいかもしれませんが、それで太極拳の基本ができるかというと、残念ながらそうはいかないようです。
なぜなのかといえば、太極武藝館の太極拳では、体のどこか一部分だけが動くという事はなく、ひとつが動けば全身が動くような状態が求められています。そのように体を動かす事は、部分的に命令を送るという、言葉によって分断化した左脳的な発想ではなく、むしろ体全体がどのように動くかイメージを持って動かすような、右脳的なアプローチが必要になってくるのではないかと思います。
よく「ムカデの足を一本ずつ動かす事は出来ない」とたとえ話をしていただきます。何度も耳にしているはずですが、我々が体を動かすとき、あっちを動かしこっちを動かすといったようにバラバラなものをひとつずつ組み上げていくようなアプローチを取ってしまいがちですが、そうして出来たものは、太極拳に求められる全体的な動きとは似ても似つかないものになってしまいます。
部分的なアプローチではなくて、要訣によって整えられた体が一つのイメージに従って動くような状態、一部を動かせば全身が動くような状態であるためには、脳から神経を通して送られる命令そのものが違ったものである必要があるのではないかと思います。
示されたものを真似する時、余計な考えを挟まない。特に、体のここがこう動いて…といったような言語的な分断されたアプローチで真似しようとしても、だいたいの場合上手くいかないものです。生じている体の運動法則が異なったものであれば、それによって相手に生じる影響もまた異なったものになるのは当たり前のことだと思います。結果、相手は崩れません。そしてやった自分は、真似しているはずなのにどうして崩れないんだろう…と頭を悩ませるわけです。
先日の稽古でも、まさにその問題が私に生じていました。真似しているはずの動きがぜんぜん真似できていません。一動作で示されたはずの動きが、何動作にも分かれてしまいます。
幸運にも、宗師に再び対練を示して頂けて、それを見ることができました。
その時私は、動作を見ることに集中しながらも、どこがどうなって動いているのかと具体的に追うことを一切止めました。どうなっているのかを言語的=左脳的に分析するのではなく、右脳のイメージ的な認識で捉えることに注力をしました。
まず、見たい部分にだけ視線を注ぐのではなく、視野を広げて全体が把握できるようにします。
その上で、全身の感覚を総動員して感じ取ろうとします。例えば、一見関係なさそうな皮膚の感覚、そういったものまで意識に上るようにイメージしながら、宗師がどのように動き、どのように相手とかかわっているのか、その全体像をこちらの全身で受け取るようにします。
もちろん最初は空想に近いようなものかもしれませんが、不思議なことにそうやって受け取ろうと続けていると、自分の中にそれまでとは違った感覚が生じてきているのが感じられてきます。
その上で自分で行う対練に戻ると、自分に変化が生じてきました。何度か対練で相手をさせて頂いている内に、次第に自分がやろうとしているイメージと、示していただいた宗師のイメージが重なって感じられて、その差異が明確になってきたのです。
知らず知らずずいぶんと違うことをやろうとしていたことに驚きつつも、少しずつそのイメージを重ねていくように、動きの修正を行っていきました。
すると、それまで崩れなかった相手に、だんだんと崩れが生じてくるようになったのです。
全部が全部上手くいくわけではなかったものの、明確に違いが生じてきて、かつどのように改善していけるかというビジョンもまた、自分の中に生じてきたのがわかりました。
確固たるひとりの自分がいる、と人間は感じているものですが、脳の機能を科学的に分析した研究を見ると、本当はそうではないようなのです。
自分の頭蓋の中に納まっているひとつの脳の中でさえ、脳神経がそれぞれの領域で独自の働きをしています。右脳ではあることを感じ、左脳では別のことを考え、本能は空腹を訴えながら小脳で慣れた動きを繰り返す…そういったバラバラのはたらきの中で、最終的に自分というひとつの存在がいるかのように人間は錯覚を生み出している…。
自分が何かをしたつもりになっても、その自分は己の中にいる別の「ジブン」で、その行動に対して後から何か理由をつけているといった経験は、少なからず誰の身にも起きている経験があるのではないかと思います。
人間とは、体の動きだけでなく、それを司る頭の中でさえそれだけバラバラなのかもしれません。
太極拳に求められる整った状態、ひとつの状態を目指すのに自分の考え方を整える必要が生じるのは、いたって道理ではないかと感じます。
固定観念を捨て、目の前に見えているはずの本当の現実をしっかりと受け止められるか。そのために自分がどのような在り方をしているかを見つめなおし、修正していく必要が生じてきます。
逆に言えばそれさえできれば、太極拳の習得が困難と感じる多くの課題は、自然と解決していくのかもしれません。
求められるのは他者に対する腕っぷしの強さではなく、自分自身と向かい合える強さです。
それをもって初めて、太極拳がただの武術の練習ではなく、人間をより良く磨いていくための修行になるのだと思います。
そのような観点に立ったとき、自分の稽古への取り組みはどうだろうかと見つめることは、本当の修行を行っていくための第一歩となるのかもしれません。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
対練の時に注意される事として、一動作で動けているか、それによって崩せているかという点があります。
対練の種類にもよりますが、例えば、立っている相手を崩すという練習をしている際に相手がなかなか崩れないと、力を掛ける方向をあちらこちらに動かしたりして、一動作ではない動きで行おうとしてしまうことがしばしばあります。
そういう時はどれだけ頑張ってみても相手は崩れてはくれないもので、たとえ崩れたとしても、宗師がそのように示していない=真似できていないという点において、稽古として成功とはいいがたいものです。
宗師が示してくださったように、一動作で行うこと。その時に体がどのように動いていたかを、余すことなく真似できるか。
動作がいくつにも分かれてしまっていると崩せないのは、示された通りに真似出来ていないから。
まとめてしまえばそれが全てではないかと思います。
とはいえ、まだ検証して修正する努力ができる余地はあるかと思いますので、もう少し深掘りをしてみたいと思います。
真似できないことにいくつか理由があるかとは思いますが、動作が一動作で動けるかバラバラになってしまうかという点に、私は特に興味を持ちました。
対練のとき動作がバラバラになってしまうという事は、基本や歩法を行っている際にも、同様な動きをしているところが含まれているのではないかと思うのです。なぜそうなってしまうのでしょうか。
人間が体を動かす時、脳からの指令が神経を通じて筋肉に伝達し、それが力を生み出して全身の骨格を動かすことで行われています。基本の稽古の際にも、注意点として肩が動いていない、膝が動いていないという点を指摘されます。ではその問題を解決しようとして動いていない部分を動かせばいいかというと、そうはいきません。
たとえ動かなかった肩などが動いたとしても、それはただ肩が運動として動くようになっただけで、太極拳で求められる基本の動きとしては一致していないという事は起こり得ます。
人間はよくも悪くも器用なもので、肩を動かすという部分的な命令を出すことができ、練習さえすればそのように動くことが出来るようになります。
自分の体を命令通りに意識的に動かす練習にはいいかもしれませんが、それで太極拳の基本ができるかというと、残念ながらそうはいかないようです。
なぜなのかといえば、太極武藝館の太極拳では、体のどこか一部分だけが動くという事はなく、ひとつが動けば全身が動くような状態が求められています。そのように体を動かす事は、部分的に命令を送るという、言葉によって分断化した左脳的な発想ではなく、むしろ体全体がどのように動くかイメージを持って動かすような、右脳的なアプローチが必要になってくるのではないかと思います。
よく「ムカデの足を一本ずつ動かす事は出来ない」とたとえ話をしていただきます。何度も耳にしているはずですが、我々が体を動かすとき、あっちを動かしこっちを動かすといったようにバラバラなものをひとつずつ組み上げていくようなアプローチを取ってしまいがちですが、そうして出来たものは、太極拳に求められる全体的な動きとは似ても似つかないものになってしまいます。
部分的なアプローチではなくて、要訣によって整えられた体が一つのイメージに従って動くような状態、一部を動かせば全身が動くような状態であるためには、脳から神経を通して送られる命令そのものが違ったものである必要があるのではないかと思います。
示されたものを真似する時、余計な考えを挟まない。特に、体のここがこう動いて…といったような言語的な分断されたアプローチで真似しようとしても、だいたいの場合上手くいかないものです。生じている体の運動法則が異なったものであれば、それによって相手に生じる影響もまた異なったものになるのは当たり前のことだと思います。結果、相手は崩れません。そしてやった自分は、真似しているはずなのにどうして崩れないんだろう…と頭を悩ませるわけです。
先日の稽古でも、まさにその問題が私に生じていました。真似しているはずの動きがぜんぜん真似できていません。一動作で示されたはずの動きが、何動作にも分かれてしまいます。
幸運にも、宗師に再び対練を示して頂けて、それを見ることができました。
その時私は、動作を見ることに集中しながらも、どこがどうなって動いているのかと具体的に追うことを一切止めました。どうなっているのかを言語的=左脳的に分析するのではなく、右脳のイメージ的な認識で捉えることに注力をしました。
まず、見たい部分にだけ視線を注ぐのではなく、視野を広げて全体が把握できるようにします。
その上で、全身の感覚を総動員して感じ取ろうとします。例えば、一見関係なさそうな皮膚の感覚、そういったものまで意識に上るようにイメージしながら、宗師がどのように動き、どのように相手とかかわっているのか、その全体像をこちらの全身で受け取るようにします。
もちろん最初は空想に近いようなものかもしれませんが、不思議なことにそうやって受け取ろうと続けていると、自分の中にそれまでとは違った感覚が生じてきているのが感じられてきます。
その上で自分で行う対練に戻ると、自分に変化が生じてきました。何度か対練で相手をさせて頂いている内に、次第に自分がやろうとしているイメージと、示していただいた宗師のイメージが重なって感じられて、その差異が明確になってきたのです。
知らず知らずずいぶんと違うことをやろうとしていたことに驚きつつも、少しずつそのイメージを重ねていくように、動きの修正を行っていきました。
すると、それまで崩れなかった相手に、だんだんと崩れが生じてくるようになったのです。
全部が全部上手くいくわけではなかったものの、明確に違いが生じてきて、かつどのように改善していけるかというビジョンもまた、自分の中に生じてきたのがわかりました。
確固たるひとりの自分がいる、と人間は感じているものですが、脳の機能を科学的に分析した研究を見ると、本当はそうではないようなのです。
自分の頭蓋の中に納まっているひとつの脳の中でさえ、脳神経がそれぞれの領域で独自の働きをしています。右脳ではあることを感じ、左脳では別のことを考え、本能は空腹を訴えながら小脳で慣れた動きを繰り返す…そういったバラバラのはたらきの中で、最終的に自分というひとつの存在がいるかのように人間は錯覚を生み出している…。
自分が何かをしたつもりになっても、その自分は己の中にいる別の「ジブン」で、その行動に対して後から何か理由をつけているといった経験は、少なからず誰の身にも起きている経験があるのではないかと思います。
人間とは、体の動きだけでなく、それを司る頭の中でさえそれだけバラバラなのかもしれません。
太極拳に求められる整った状態、ひとつの状態を目指すのに自分の考え方を整える必要が生じるのは、いたって道理ではないかと感じます。
固定観念を捨て、目の前に見えているはずの本当の現実をしっかりと受け止められるか。そのために自分がどのような在り方をしているかを見つめなおし、修正していく必要が生じてきます。
逆に言えばそれさえできれば、太極拳の習得が困難と感じる多くの課題は、自然と解決していくのかもしれません。
求められるのは他者に対する腕っぷしの強さではなく、自分自身と向かい合える強さです。
それをもって初めて、太極拳がただの武術の練習ではなく、人間をより良く磨いていくための修行になるのだと思います。
そのような観点に立ったとき、自分の稽古への取り組みはどうだろうかと見つめることは、本当の修行を行っていくための第一歩となるのかもしれません。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
2025年03月25日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その93
『法則への意識』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
太極武藝館の稽古において、正しく立つ事は何よりも真っ先に指導して頂く事であり、立ち方の理解度やその整い方が、その先の稽古の進捗にそのまま反映されるといっても過言ではないと思います。
誰しも日常生活の中で、立って歩くという事は当たり前の事として行われているかと思います。武術の技法の追求というとその先の事を重点的に行うというのが一般的なイメージかもしれません。ところが、動きの前に立ち方が理解されない事には、その先には進めないようなのです。これは、土台となる基礎が不安定な状態では建物は建てられない、と例えられて指導されます。
ではその立ち方はというと、建造物のように土台にしっかり根付いたものかというと、そうでもありません。例えは例えであり、宗師の立ち方を拝見するとむしろその逆で、立っているはずなのに足は軽やかであり、止まっているのに今にも動き出しそうなほどです。また、そこから歩き始めれば誰よりも体がしなやかに動いているのですが、その動きを止めようと研究会の門人が何人も前に立ちはだかろうとも、決して止められないのです。
ただしそれは、とてつもない力で押しのけられるというわけではありません。ずっと動き続けているものを押しとどめられないような、非常に軽やかで力強い影響が我々に起きているのです。
そのような状態に至るためにも、基本としての立ち方を見直さざるを得ません。太極拳の要訣は多岐にわたり、全身の整え方を示すものですが、その中で特に自身の問題点として、十趾抓地(じゅっしそうち)がどうなっているか、脚(ジャオ…足首から下)がどのような使われ方をしているかが気にかかっていました。脚はまさに人間の全身を支える土台の部分であり、その整い方が全身に影響を及ぼしているのは考えるべくもありません。
十指抓地という要訣ひとつとっても太極武藝館では様々な注意点があるのですが、体の中でも一番末端にあたる足指が正しく使えているかは、裸足での生活を忘れてしまった自分のような現代人には、非常に大きな注目すべきポイントではないかと思います。
普段の生活の中でも、足指の感覚を取り戻すためにも本当は鼻緒のある草履や下駄などで生活したいところではありますが、環境にもよりますがなかなか難しいものがあります。例え靴をはいていても、指先の感覚に意識を通し、それがどのように使われて自分がどう立っているのかを感じ続けることは出来ます。仮に鼻緒のある履物を履くようにしたとしても、ただそれを漫然と続けるのでは意味がないはずです。それよりは、たとえどのような状況だとしても自分で意識的に見つめて取り組むほうが、絶対的に効果があるはずです。
そのように意識的に取り組むようにし、それに慣れてくると、次第に色々と気づくことが増えてきました。例えば、手の指先を少し動かすといった本当に些細な動作をひとつとっても、人間の体は足の指先まで含めてダイレクトに反応しているといったことに気づくようになったのです。人間の体は、わずかな動きにもバランスを崩さないように対処をしており、その些細な変化は足の指先にまでしっかりと伝わり、立つことや歩くこと、動くことに的確に対応してくれているのです。
そのことが自分の感覚として感じられると、太極拳の要訣がなぜ部分的な言葉としてしか残されていないのかという事にも、思いをはせるようになりました。
指先がわずかに動くだけでもこのような影響が全身に出るのですから、それを細かく言葉で説明しようとしても、おそらく不可能なはずです。
それよりは、要訣は短い言葉で、あたかも詩歌のように捉えることでその行間を感じ取ることのほうがよっぽど実り多く得るものがあるのだろうと思ったのです。
多くを説明されない事で、学習者が多くの実りを得ることが出来るという学習体系は実に理にかなったものであると思いますし、その学んでいく過程そのものが何よりも学習者の勉強として役に立つのではないかと思います。
特に分からないことが多くあると、出来れば指導者に教えてほしいし、簡単に分かるアンチョコや解答を求めてしまうことは無理のないことだと思います。ですが、するべきことはすでに学習体系や稽古方法として示されており、それにしっかりと取り組む中で、自分に生じている出来事や変化をつぶさに感じ取ることが出来れば、いずれ答えは自然と導き出せるのではないかと感じられます。
出来る出来ないはさておいて、求め続けていると答えは与えられるものではないかと思います。
私の場合、太極拳の稽古で分からないことがあると、道場での稽古中のみならず普段の生活の中でも四六時中頭の片隅にそれがあり、どこかで解決のヒントになることはないかと探し続けています。
そうすると不思議なもので、全く思ってもみなかったところからその答えを授けてもらえるという経験がしばしばあります。太極拳は太極という名前が示す通り、この宇宙の普遍的な運行法則や運動法則、普段の我々の目には見えにくい力学が働いていると感じさせられることが多々あります。しかし、それらは一見不思議には見えますが、決してそれらの法則を無視して起きているわけではなく、ただ私たちの理解がそれに追いついていないだけで、法則や原理に則ったものだと思います。科学的であるというのはその点で、条件を整えればしっかりと同じ答えや結果が現れるのです。上手くいかないとすれば、それは前提となる条件の抜け落ちている部分で我々が気づけていない所があるという事ではないかと思います。
思ってもみなかったところからヒントがもらえるのは非常に面白い瞬間で、「それって太極拳でいうとこういうことだよね」と、すぐにでも試してみたくなるものです。普遍的な法則に則っているからこそ、あらゆる瞬間に気づきは潜んでいると思いますし、太極拳=武術の技法だけ追い求めても片手落ちになってしまい全体が理解できないのは、そこが理由ではないかと思います。
引き寄せの法則ではないですが、追い求めていれば天はそれを与えてくれるものではないかと感じています。ただ、それは時には自分が思ってもみなかった形で現れるので、ややもすると上手くいかない、こんなはずではないのにという時にこそ、学びの機会は与えられているのかもしれません。
ただそういった時にも、物事が上手く運んでいってくれている時にはそういった手ごたえが感じられるもので、自分が望んでいない(と思える)時にこそ、自分を広げるための大きな機会があるのではないかと思います。乗るはずだった電車に乗れなかった時、初めてその駅の周りにある素晴らしいものに気づけるなど、自分が知らないだけの素敵なものはいくらでもあります。
そのためには、常に顔を上げて前を向き、外側も内側にも感覚のセンサーを開いているべきだと思います。
自分の価値観が根底から揺さぶられるような学びはそうそう得られるものではないですし、そういった変化に対して開いていることが出来れば、新しい世界が開けたように感じられ、とても面白くてわくわくします。
そういったものに出会える太極拳は、自分が生きていく上でもとても大切なものだと感じます。この喜びは、可能ならば多くの人と分かち合いたいと思えるものです。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
太極武藝館の稽古において、正しく立つ事は何よりも真っ先に指導して頂く事であり、立ち方の理解度やその整い方が、その先の稽古の進捗にそのまま反映されるといっても過言ではないと思います。
誰しも日常生活の中で、立って歩くという事は当たり前の事として行われているかと思います。武術の技法の追求というとその先の事を重点的に行うというのが一般的なイメージかもしれません。ところが、動きの前に立ち方が理解されない事には、その先には進めないようなのです。これは、土台となる基礎が不安定な状態では建物は建てられない、と例えられて指導されます。
ではその立ち方はというと、建造物のように土台にしっかり根付いたものかというと、そうでもありません。例えは例えであり、宗師の立ち方を拝見するとむしろその逆で、立っているはずなのに足は軽やかであり、止まっているのに今にも動き出しそうなほどです。また、そこから歩き始めれば誰よりも体がしなやかに動いているのですが、その動きを止めようと研究会の門人が何人も前に立ちはだかろうとも、決して止められないのです。
ただしそれは、とてつもない力で押しのけられるというわけではありません。ずっと動き続けているものを押しとどめられないような、非常に軽やかで力強い影響が我々に起きているのです。
そのような状態に至るためにも、基本としての立ち方を見直さざるを得ません。太極拳の要訣は多岐にわたり、全身の整え方を示すものですが、その中で特に自身の問題点として、十趾抓地(じゅっしそうち)がどうなっているか、脚(ジャオ…足首から下)がどのような使われ方をしているかが気にかかっていました。脚はまさに人間の全身を支える土台の部分であり、その整い方が全身に影響を及ぼしているのは考えるべくもありません。
十指抓地という要訣ひとつとっても太極武藝館では様々な注意点があるのですが、体の中でも一番末端にあたる足指が正しく使えているかは、裸足での生活を忘れてしまった自分のような現代人には、非常に大きな注目すべきポイントではないかと思います。
普段の生活の中でも、足指の感覚を取り戻すためにも本当は鼻緒のある草履や下駄などで生活したいところではありますが、環境にもよりますがなかなか難しいものがあります。例え靴をはいていても、指先の感覚に意識を通し、それがどのように使われて自分がどう立っているのかを感じ続けることは出来ます。仮に鼻緒のある履物を履くようにしたとしても、ただそれを漫然と続けるのでは意味がないはずです。それよりは、たとえどのような状況だとしても自分で意識的に見つめて取り組むほうが、絶対的に効果があるはずです。
そのように意識的に取り組むようにし、それに慣れてくると、次第に色々と気づくことが増えてきました。例えば、手の指先を少し動かすといった本当に些細な動作をひとつとっても、人間の体は足の指先まで含めてダイレクトに反応しているといったことに気づくようになったのです。人間の体は、わずかな動きにもバランスを崩さないように対処をしており、その些細な変化は足の指先にまでしっかりと伝わり、立つことや歩くこと、動くことに的確に対応してくれているのです。
そのことが自分の感覚として感じられると、太極拳の要訣がなぜ部分的な言葉としてしか残されていないのかという事にも、思いをはせるようになりました。
指先がわずかに動くだけでもこのような影響が全身に出るのですから、それを細かく言葉で説明しようとしても、おそらく不可能なはずです。
それよりは、要訣は短い言葉で、あたかも詩歌のように捉えることでその行間を感じ取ることのほうがよっぽど実り多く得るものがあるのだろうと思ったのです。
多くを説明されない事で、学習者が多くの実りを得ることが出来るという学習体系は実に理にかなったものであると思いますし、その学んでいく過程そのものが何よりも学習者の勉強として役に立つのではないかと思います。
特に分からないことが多くあると、出来れば指導者に教えてほしいし、簡単に分かるアンチョコや解答を求めてしまうことは無理のないことだと思います。ですが、するべきことはすでに学習体系や稽古方法として示されており、それにしっかりと取り組む中で、自分に生じている出来事や変化をつぶさに感じ取ることが出来れば、いずれ答えは自然と導き出せるのではないかと感じられます。
出来る出来ないはさておいて、求め続けていると答えは与えられるものではないかと思います。
私の場合、太極拳の稽古で分からないことがあると、道場での稽古中のみならず普段の生活の中でも四六時中頭の片隅にそれがあり、どこかで解決のヒントになることはないかと探し続けています。
そうすると不思議なもので、全く思ってもみなかったところからその答えを授けてもらえるという経験がしばしばあります。太極拳は太極という名前が示す通り、この宇宙の普遍的な運行法則や運動法則、普段の我々の目には見えにくい力学が働いていると感じさせられることが多々あります。しかし、それらは一見不思議には見えますが、決してそれらの法則を無視して起きているわけではなく、ただ私たちの理解がそれに追いついていないだけで、法則や原理に則ったものだと思います。科学的であるというのはその点で、条件を整えればしっかりと同じ答えや結果が現れるのです。上手くいかないとすれば、それは前提となる条件の抜け落ちている部分で我々が気づけていない所があるという事ではないかと思います。
思ってもみなかったところからヒントがもらえるのは非常に面白い瞬間で、「それって太極拳でいうとこういうことだよね」と、すぐにでも試してみたくなるものです。普遍的な法則に則っているからこそ、あらゆる瞬間に気づきは潜んでいると思いますし、太極拳=武術の技法だけ追い求めても片手落ちになってしまい全体が理解できないのは、そこが理由ではないかと思います。
引き寄せの法則ではないですが、追い求めていれば天はそれを与えてくれるものではないかと感じています。ただ、それは時には自分が思ってもみなかった形で現れるので、ややもすると上手くいかない、こんなはずではないのにという時にこそ、学びの機会は与えられているのかもしれません。
ただそういった時にも、物事が上手く運んでいってくれている時にはそういった手ごたえが感じられるもので、自分が望んでいない(と思える)時にこそ、自分を広げるための大きな機会があるのではないかと思います。乗るはずだった電車に乗れなかった時、初めてその駅の周りにある素晴らしいものに気づけるなど、自分が知らないだけの素敵なものはいくらでもあります。
そのためには、常に顔を上げて前を向き、外側も内側にも感覚のセンサーを開いているべきだと思います。
自分の価値観が根底から揺さぶられるような学びはそうそう得られるものではないですし、そういった変化に対して開いていることが出来れば、新しい世界が開けたように感じられ、とても面白くてわくわくします。
そういったものに出会える太極拳は、自分が生きていく上でもとても大切なものだと感じます。この喜びは、可能ならば多くの人と分かち合いたいと思えるものです。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
2025年02月26日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その92
『戦いと調和』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
同じ仕事をしていても、周りから見て明らかに上手く回せている人と、当人が必死にあがいてどうにかこうにか終わらせている人という二種類の取り組み方を見かけることがあります。
上手に回せている人は、するべきことはもちろん自分が行っているのですが、自分一人では出来ない事を他の人にお願いしたりしています。いうなれば段取り上手で、自分が作業をするにしても、するべきことを細分化して段取りを作るのが上手いようなのです。
かたや自分一人でどうにかしている人はというと、そもそも全体像を把握して流れを見極めるのが不得意のようで、人に仕事を上手く振り分けることが出来ていません。そのやり方で自分もやるものですから、体力や時間的余裕があるうちはいいのですがそれが枯渇してくると、とたんにペースが落ちてしまっています。
面白い事に、人との付き合い方にもその人の仕事のやり方がそのまま表れています。段取り上手な人は人と付き合うのにも気配り上手で、細かいところにも気が付きますし、特に他人がどのように感じているのかという所まで慮って自分の行動を決めています。
もう一人の人は、そもそも他の人の考えていることなど頭から気にしていないようで、自分の都合や考え方、感情を基にして人付き合いをしています。そうすると相手からの反感を買っている時があるのですが、そんなことはどこ吹く風といわんばかりに、自分のやり方を推し進めようとしています。そして時に、その衝突は大きなものとなってしまうようです。
太極武藝館で太極拳の稽古をすることは、ただ武術の修行という枠に収まらず、自分の生き方や人生、仕事との関わり方といった多岐にわたるところにまで影響を及ぼしていると私には感じられます。
武術とは畢竟すると他人との命のやり取り、ある意味では究極の関わり合いともいえるものです。自分と他人や、その他物事との関係がどうなっているのかを極限まで突き詰めるのが武術だとして、そこで得られた知見はそっくりそのまま自身の人間関係へとスライドして生かしていくことが出来るし、自分の他人との関わり合いの考え方がそのまま武術の稽古にも反映されているのが感じられます。
私事ですが、昨年、仕事における立場がそれまでのものと大きく変わりました。それまでは人の指示で動いていたことが多かったのですが、今度は自分が判断を下し指示を出して動いてもらうという状況になったのです。これまでは分からないことがあったら指示をしてくれる人に確認を取っていたのが変化し、自分で判断を下す裁量が増えた分、自分で考えて行動をするという責任が大きくなりました。
問題が生じた時に、それまでの自分の判断の仕方ではとても仕事が終わらないし間に合わないという状況になった事で、自分にとって非常に大きな変化がありました。
全体の状況がどのようになっていて何が問題となっているのか、それを解決するためにはどのような手段を取るべきか、それをすることでどういった事が予想されるのか…そういったように問題解決を図るという能力が嫌でも鍛えられていきました。
状況を俯瞰して、全体のタイムスケジュールを把握して、今どこに注力して物事を進めるべきか見定め、そうでない所は別の時に進める。そのようにして仕事に取り組む事にようやく少し慣れてきた時、それがそのまま自分の太極拳の稽古への取り組み方に反映されていた事にも気づきました。
それまでの自分は、問題を解決するつもりにはなっているものの、状況の全体がうまく把握できておらず、そこで起きている個別の現象の中の特に自分が気になる部分にだけフォーカスしてしまっているという感じでした。
問題の焦点がぼやけているから、それに対する解決策もまたぼんやりとしたものでしかありません。突き詰めると、太極拳がどのようなものなのかという理解もまた、ピントが合っていないぼやけたものでしかないかのようでした。
今にして思えば、そんなやり方をいくらやったところで問題は解決していきませんし、それではどれだけ時間があったって進展はしていきません。それでも大丈夫だとどこかで余裕を持ってしまっていたのだと思います。皮肉な事にそれでは通用しないのだと自分に教えてくれたのは、他でもない仕事という場面だったのです。
全体がどうなっていてどの部分に問題があるのか。それを解決するためにどう働きかければいいのか。それらが上手くいっている時というのは、自分ひとりが我武者羅にあがいている時ではなくて、一見関係のなさそうな他の人や物事が調和して動いてくれている時だというのが分かってきました。
一人では出来ないことでも自分が上手く働きかける事で、動いてくれるものがあります。それによって自分の目の前で停滞していた問題が動き始めてくれるのです。あたかもそれは、体が部分部分では動かず、全体がひとつの調和したものとして働いてくれるときに全身が動いてくれるというものに似ているように思います。
人との関係性もまた、それによって全く違ったものとして見えてきました。自分では出来ない分を誰かにお願いするにしても、ただこちらから押し付けるのではなく、相手がどのような状態にあって、自分のしてほしい事がそこにどう組み込められるのか、そうなった時相手はどのように感じるだろうか。そこまで意識することで、非常に円滑に進んで行くようになったのです。
共同で作業をしていると、だんだん相手にもこちらが望んでいることが理解してもらえるようになり、困った時には自然に手助けをしてもらえるようにもなってきました。
太極拳の対練の場面では、その知見が未だに生かしきれていないなぁと感じることがしばしばあります。その原因として考えられるのが、ひとつには、我々には「拙力」に対する信仰のようなものがいまだに根強く残っているからではないかと思います。これまで生きてきた中で、力を発するということはすなわち拙力に類する力を使うということだったはずです。しかしそうではないものが太極拳の力であり、それは基本としてすでに示して頂いている事の中に含まれているはずのものです。
宗師の動きを拝見していると、確かに基本と対練で違うことはしていないように見えます。相手と合わせて調和し、基本通りに動くことで、一見すると摩訶不思議な作用が生じて相手に効果が現れます。一見するとと書いたのは、ここでも拙力への信仰が物事を見る目をゆがめてしまう側面があるためです。
我々が一般的に理解している(と思っている)力学では到底不可能に見えますが、その考え方を止めて別の見方が出来るようになってくると、基本と対練が全く矛盾したものではなく、全て理にかなった一貫した体系として見えてくるから不思議です。
その観点で套路を見ると、自分程度のレベルの目で見ても恐ろしいまでの完成度に畏怖すら覚え、先人たちの残してくださった偉業に心の底から敬意を払いたくなるものです。
とはいえ、見えたものを自分で完璧に再現できるかというとそうはならないのが悲しいところで、体の奥底にまでこびりついた力への信仰を変えることが出来るか…そこにフォーカスし続けているのが今の自分の状況といったところでしょうか。
対話をするという事は、自分と対話するのみならず、人とも対話し、また、会話できるとは思えないような物事とも対話をしていく事なのかもしれません。
余談ですが、職場で円滑に仕事を進めるために一番役に立っているのは何かというと、それは普段のお喋りではないかと感じています。ちょっとした合間に仕事以外の話をすることで、その人となりがどういうものかが見えてきます。また、コミュニケーションを図り相手の事を理解出来てくると、いざ仕事に取り掛かる時にも、それぞれがスムーズに進めていくことが出来るようになるのです。
何事も、調和して円滑に動いているものが一番ダイナミックで強いし、何か変動が起きた場合も、すぐに元通りに戻ってくれるのが自然の摂理だと思います。
人との争いもまた、一見すると矛盾するかのようですが、相手の人となりを理解し、それと調和する事が出来てはじめて相手を制することに繋がり、こちらの身を守ることが出来るのかもしれません。
矛盾するように見えるのもこちらの誤った思い込みというもので、自然本来の法則は、全く違った形で働いているのだと感じられます。
太極拳とは、まさしく宇宙の法則という在り方に則った武術だと思います。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
同じ仕事をしていても、周りから見て明らかに上手く回せている人と、当人が必死にあがいてどうにかこうにか終わらせている人という二種類の取り組み方を見かけることがあります。
上手に回せている人は、するべきことはもちろん自分が行っているのですが、自分一人では出来ない事を他の人にお願いしたりしています。いうなれば段取り上手で、自分が作業をするにしても、するべきことを細分化して段取りを作るのが上手いようなのです。
かたや自分一人でどうにかしている人はというと、そもそも全体像を把握して流れを見極めるのが不得意のようで、人に仕事を上手く振り分けることが出来ていません。そのやり方で自分もやるものですから、体力や時間的余裕があるうちはいいのですがそれが枯渇してくると、とたんにペースが落ちてしまっています。
面白い事に、人との付き合い方にもその人の仕事のやり方がそのまま表れています。段取り上手な人は人と付き合うのにも気配り上手で、細かいところにも気が付きますし、特に他人がどのように感じているのかという所まで慮って自分の行動を決めています。
もう一人の人は、そもそも他の人の考えていることなど頭から気にしていないようで、自分の都合や考え方、感情を基にして人付き合いをしています。そうすると相手からの反感を買っている時があるのですが、そんなことはどこ吹く風といわんばかりに、自分のやり方を推し進めようとしています。そして時に、その衝突は大きなものとなってしまうようです。
太極武藝館で太極拳の稽古をすることは、ただ武術の修行という枠に収まらず、自分の生き方や人生、仕事との関わり方といった多岐にわたるところにまで影響を及ぼしていると私には感じられます。
武術とは畢竟すると他人との命のやり取り、ある意味では究極の関わり合いともいえるものです。自分と他人や、その他物事との関係がどうなっているのかを極限まで突き詰めるのが武術だとして、そこで得られた知見はそっくりそのまま自身の人間関係へとスライドして生かしていくことが出来るし、自分の他人との関わり合いの考え方がそのまま武術の稽古にも反映されているのが感じられます。
私事ですが、昨年、仕事における立場がそれまでのものと大きく変わりました。それまでは人の指示で動いていたことが多かったのですが、今度は自分が判断を下し指示を出して動いてもらうという状況になったのです。これまでは分からないことがあったら指示をしてくれる人に確認を取っていたのが変化し、自分で判断を下す裁量が増えた分、自分で考えて行動をするという責任が大きくなりました。
問題が生じた時に、それまでの自分の判断の仕方ではとても仕事が終わらないし間に合わないという状況になった事で、自分にとって非常に大きな変化がありました。
全体の状況がどのようになっていて何が問題となっているのか、それを解決するためにはどのような手段を取るべきか、それをすることでどういった事が予想されるのか…そういったように問題解決を図るという能力が嫌でも鍛えられていきました。
状況を俯瞰して、全体のタイムスケジュールを把握して、今どこに注力して物事を進めるべきか見定め、そうでない所は別の時に進める。そのようにして仕事に取り組む事にようやく少し慣れてきた時、それがそのまま自分の太極拳の稽古への取り組み方に反映されていた事にも気づきました。
それまでの自分は、問題を解決するつもりにはなっているものの、状況の全体がうまく把握できておらず、そこで起きている個別の現象の中の特に自分が気になる部分にだけフォーカスしてしまっているという感じでした。
問題の焦点がぼやけているから、それに対する解決策もまたぼんやりとしたものでしかありません。突き詰めると、太極拳がどのようなものなのかという理解もまた、ピントが合っていないぼやけたものでしかないかのようでした。
今にして思えば、そんなやり方をいくらやったところで問題は解決していきませんし、それではどれだけ時間があったって進展はしていきません。それでも大丈夫だとどこかで余裕を持ってしまっていたのだと思います。皮肉な事にそれでは通用しないのだと自分に教えてくれたのは、他でもない仕事という場面だったのです。
全体がどうなっていてどの部分に問題があるのか。それを解決するためにどう働きかければいいのか。それらが上手くいっている時というのは、自分ひとりが我武者羅にあがいている時ではなくて、一見関係のなさそうな他の人や物事が調和して動いてくれている時だというのが分かってきました。
一人では出来ないことでも自分が上手く働きかける事で、動いてくれるものがあります。それによって自分の目の前で停滞していた問題が動き始めてくれるのです。あたかもそれは、体が部分部分では動かず、全体がひとつの調和したものとして働いてくれるときに全身が動いてくれるというものに似ているように思います。
人との関係性もまた、それによって全く違ったものとして見えてきました。自分では出来ない分を誰かにお願いするにしても、ただこちらから押し付けるのではなく、相手がどのような状態にあって、自分のしてほしい事がそこにどう組み込められるのか、そうなった時相手はどのように感じるだろうか。そこまで意識することで、非常に円滑に進んで行くようになったのです。
共同で作業をしていると、だんだん相手にもこちらが望んでいることが理解してもらえるようになり、困った時には自然に手助けをしてもらえるようにもなってきました。
太極拳の対練の場面では、その知見が未だに生かしきれていないなぁと感じることがしばしばあります。その原因として考えられるのが、ひとつには、我々には「拙力」に対する信仰のようなものがいまだに根強く残っているからではないかと思います。これまで生きてきた中で、力を発するということはすなわち拙力に類する力を使うということだったはずです。しかしそうではないものが太極拳の力であり、それは基本としてすでに示して頂いている事の中に含まれているはずのものです。
宗師の動きを拝見していると、確かに基本と対練で違うことはしていないように見えます。相手と合わせて調和し、基本通りに動くことで、一見すると摩訶不思議な作用が生じて相手に効果が現れます。一見するとと書いたのは、ここでも拙力への信仰が物事を見る目をゆがめてしまう側面があるためです。
我々が一般的に理解している(と思っている)力学では到底不可能に見えますが、その考え方を止めて別の見方が出来るようになってくると、基本と対練が全く矛盾したものではなく、全て理にかなった一貫した体系として見えてくるから不思議です。
その観点で套路を見ると、自分程度のレベルの目で見ても恐ろしいまでの完成度に畏怖すら覚え、先人たちの残してくださった偉業に心の底から敬意を払いたくなるものです。
とはいえ、見えたものを自分で完璧に再現できるかというとそうはならないのが悲しいところで、体の奥底にまでこびりついた力への信仰を変えることが出来るか…そこにフォーカスし続けているのが今の自分の状況といったところでしょうか。
対話をするという事は、自分と対話するのみならず、人とも対話し、また、会話できるとは思えないような物事とも対話をしていく事なのかもしれません。
余談ですが、職場で円滑に仕事を進めるために一番役に立っているのは何かというと、それは普段のお喋りではないかと感じています。ちょっとした合間に仕事以外の話をすることで、その人となりがどういうものかが見えてきます。また、コミュニケーションを図り相手の事を理解出来てくると、いざ仕事に取り掛かる時にも、それぞれがスムーズに進めていくことが出来るようになるのです。
何事も、調和して円滑に動いているものが一番ダイナミックで強いし、何か変動が起きた場合も、すぐに元通りに戻ってくれるのが自然の摂理だと思います。
人との争いもまた、一見すると矛盾するかのようですが、相手の人となりを理解し、それと調和する事が出来てはじめて相手を制することに繋がり、こちらの身を守ることが出来るのかもしれません。
矛盾するように見えるのもこちらの誤った思い込みというもので、自然本来の法則は、全く違った形で働いているのだと感じられます。
太極拳とは、まさしく宇宙の法則という在り方に則った武術だと思います。
(了)
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2025年01月25日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その91
『見えていないことに自覚的になる』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
年が変わったばかりかと思いきや、早くも一か月が経とうとしています。太極武藝館での稽古も、去年にも増してより高度な、濃密な内容で取り組まれていることが肌で感じられます。
さて、今年の稽古はじめから宗師に指導していただいている事で、物事の見えていない部分に自覚的になること、という内容が挙げられます。人間というのは、何かの物事を目の前にしたときに、しっかりと見えているようで見えていない生き物です。そして、その見えていない部分を無意識のうちに自分で補ってしまい、その事に気づけていない…というお話を繰り返しして頂いています。
車の運転中に交通事故が起こる時、当事者は「相手の車が見えなかった」という証言をするのだそうです。目の前を走っているはずの車が、目には映っているはずなのに、人間の認識のメカニズム上、その人の脳内には存在しない事になってしまうのだそうです。
同様の事が、道場での稽古に取り組んでいる際にも見られます。
宗師に示して頂いた形が真似できていないという時、本来だったら示されているはずの動きを、知らずに自分が間違って理解している形で補ってしまっているという姿が、自分自身の事としても数多くみられるものです。
物事を見ていく過程で、見えていない部分を自分で補ってしまっていることが自覚出来るか。そこが稽古で真似が出来るかどうか…つまり太極拳を学習していけるかを分ける事になる、と宗師のお話は続きます。
基本功や套路など、稽古をしていれば何度も同じ形を繰り返すことになります。同じ事を繰り返す際、それはすでに知っているものだと片づけて、認識の負荷を減らすという性質が人間には生まれながらに備わっているという研究があります。
例えば道を歩いている時、元来野生生物として生きてきた人間ですが、常に100パーセントの警戒を続けていてはすぐに疲れ切ってしまいます。そのため、危険が起こりうるパターンというものを生得的な認識として持ち合わせていて、そのアラートが発せられない時は警戒を緩めるという機能があるようなのです。
現代のように、自然界で生きる危険とかけ離れてしまった環境に置かれた時、その機能はある意味、緩み切ってしまっているのかもしれません。
ただ同時に、気を付けなければならないと意識を切り替える機能も人間には同様に備わっているので、より意識的に自覚するようにしていけば、些細な違いも自分の認識の網で拾い上げることが可能なはずです。
太極武藝館の稽古でも常々言われている通り、センサーを磨き、その網目を細かくしていく事は非常に大事な事であり、そのための第一歩としてまず、自分の認識がどのように働いているか…今回の場合は、見えていると思っている事が、無意識のうちにどのようにゆがめられてしまっているかを、より意識的に自覚していく必要があるのだと感じます。
今年に入って、道場では四正手の稽古を行うことが増えました。一見すると単純な動作を繰り返しているように見えますが、宗師の動きと比べてみると違いが数多くあり、またそれらが真似出来ていないこともまた多々あります。
自分一人で動きの稽古をした後、四正手から掤(ポン)の形を取り出して対練を行います。それを行うことでよりはっきりと、自分が違う事をしてしまっているという事が分からされるものです。
対練の形としては非常に単純で、相手に構えて立ってもらったところに、こちらが掤を行い相手を崩すというものですが、その単純な形でさえ、簡単には真似できないのです。
自分でやってみても、宗師のような動きの大きさにはならないのです。それどころか、目の前に相手が立っているだけで、自分ひとりでやっている時の大きさですら動けないのです。
相手を崩すために、基本とは違う動きになってしまっている…そのように指導して頂くものの、無意識のうちに変えてしまったその動きをなかなかやめられません。常識的に見ればそれが相手を大きく動かす事だと、どこかで信じてしまっているようなのです。
何度も繰り返すうちに、ようやくそう言って頂いていた意味が理解できました。動きを基本通りに忠実に行うよう注意し続ける事で、思ってもみない影響が相手に現れたのです。
最初から言われていて、示されてもいたはずなのに、どうしてこうも真似できないものなのか…。反省し、次につなげるべきことはいくらでもあります。それと同時に、その変化を簡単に逃す手はありません。
対練で違ってしまっていた動きがどのようなモノだったかを、改めて自分の基本の動きと照らし合わせて検証しました。そうする事で、より根本的な部分で、体を大きく使って動くという事に関して、認識を改めるべき所があったことに気づくことができました。
そこには、四正手の動きに限らず他の基本功や歩法、もっと言えばただ普通に歩いている時にも表れていた体の動きの大きさについての発見がありました。
宗師の体の動きと比べると、明らかに自分の動きのほうが小さいのです。ただ闇雲に体を動かしてみてもその大きさにはならなかったのですが、今回気づいた事のおかげで改善出来そうな光明が見えたように感じられました。
「見えていない」と言われる事をいきなり見ようとしても、なかなか難しいものです。宗師に指導して頂いている通り、見えていない事にまずは自覚的になり、自分が何かを飛ばしてしまって、別のもので穴埋めしている…らしい…と思うところからスタートするのが早いのだと感じました。
示されている事がシンプルな事だとしても、それを別の形で見てしまっている限り、正しい形は絶対に見えてこないものです。そして、そう見えてしまっている事にもなかなか気づけないのが、人間の厄介なところです。
そうではないのかもしれない…と、少しずつでも自分の認識に違和感を持ち、変えていけるかが肝要なのだと感じます。
そのためには、とことん自分の執着を手放し、新しい観方を受け入れていく必要があるのが痛感させられます。真似できていない、見えていないと言われると、人間は自分の人間性が攻撃されていると勘違いし、無意識のうちに防衛本能を働かせてしまうものです。「そんな事はない」と否定するのは人間の心理としてある意味自然な事で、だからこそ精神的にも放鬆し、受け入れられる精神状態になる必要があるのだと思います。
正しい事は正しいし、違う事は違う。本当にただそれだけの事です。
太極拳に限らず、物事のそのシンプルさに目が向いた時、心身ともに自然の理に則ることが出来、それによる発見も自ずと導かれるのかもしれません。
太極拳の稽古は、同時に人間としての在り方を磨いてくれる、本当に価値のあるものだと思います。
(了)
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by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
年が変わったばかりかと思いきや、早くも一か月が経とうとしています。太極武藝館での稽古も、去年にも増してより高度な、濃密な内容で取り組まれていることが肌で感じられます。
さて、今年の稽古はじめから宗師に指導していただいている事で、物事の見えていない部分に自覚的になること、という内容が挙げられます。人間というのは、何かの物事を目の前にしたときに、しっかりと見えているようで見えていない生き物です。そして、その見えていない部分を無意識のうちに自分で補ってしまい、その事に気づけていない…というお話を繰り返しして頂いています。
車の運転中に交通事故が起こる時、当事者は「相手の車が見えなかった」という証言をするのだそうです。目の前を走っているはずの車が、目には映っているはずなのに、人間の認識のメカニズム上、その人の脳内には存在しない事になってしまうのだそうです。
同様の事が、道場での稽古に取り組んでいる際にも見られます。
宗師に示して頂いた形が真似できていないという時、本来だったら示されているはずの動きを、知らずに自分が間違って理解している形で補ってしまっているという姿が、自分自身の事としても数多くみられるものです。
物事を見ていく過程で、見えていない部分を自分で補ってしまっていることが自覚出来るか。そこが稽古で真似が出来るかどうか…つまり太極拳を学習していけるかを分ける事になる、と宗師のお話は続きます。
基本功や套路など、稽古をしていれば何度も同じ形を繰り返すことになります。同じ事を繰り返す際、それはすでに知っているものだと片づけて、認識の負荷を減らすという性質が人間には生まれながらに備わっているという研究があります。
例えば道を歩いている時、元来野生生物として生きてきた人間ですが、常に100パーセントの警戒を続けていてはすぐに疲れ切ってしまいます。そのため、危険が起こりうるパターンというものを生得的な認識として持ち合わせていて、そのアラートが発せられない時は警戒を緩めるという機能があるようなのです。
現代のように、自然界で生きる危険とかけ離れてしまった環境に置かれた時、その機能はある意味、緩み切ってしまっているのかもしれません。
ただ同時に、気を付けなければならないと意識を切り替える機能も人間には同様に備わっているので、より意識的に自覚するようにしていけば、些細な違いも自分の認識の網で拾い上げることが可能なはずです。
太極武藝館の稽古でも常々言われている通り、センサーを磨き、その網目を細かくしていく事は非常に大事な事であり、そのための第一歩としてまず、自分の認識がどのように働いているか…今回の場合は、見えていると思っている事が、無意識のうちにどのようにゆがめられてしまっているかを、より意識的に自覚していく必要があるのだと感じます。
今年に入って、道場では四正手の稽古を行うことが増えました。一見すると単純な動作を繰り返しているように見えますが、宗師の動きと比べてみると違いが数多くあり、またそれらが真似出来ていないこともまた多々あります。
自分一人で動きの稽古をした後、四正手から掤(ポン)の形を取り出して対練を行います。それを行うことでよりはっきりと、自分が違う事をしてしまっているという事が分からされるものです。
対練の形としては非常に単純で、相手に構えて立ってもらったところに、こちらが掤を行い相手を崩すというものですが、その単純な形でさえ、簡単には真似できないのです。
自分でやってみても、宗師のような動きの大きさにはならないのです。それどころか、目の前に相手が立っているだけで、自分ひとりでやっている時の大きさですら動けないのです。
相手を崩すために、基本とは違う動きになってしまっている…そのように指導して頂くものの、無意識のうちに変えてしまったその動きをなかなかやめられません。常識的に見ればそれが相手を大きく動かす事だと、どこかで信じてしまっているようなのです。
何度も繰り返すうちに、ようやくそう言って頂いていた意味が理解できました。動きを基本通りに忠実に行うよう注意し続ける事で、思ってもみない影響が相手に現れたのです。
最初から言われていて、示されてもいたはずなのに、どうしてこうも真似できないものなのか…。反省し、次につなげるべきことはいくらでもあります。それと同時に、その変化を簡単に逃す手はありません。
対練で違ってしまっていた動きがどのようなモノだったかを、改めて自分の基本の動きと照らし合わせて検証しました。そうする事で、より根本的な部分で、体を大きく使って動くという事に関して、認識を改めるべき所があったことに気づくことができました。
そこには、四正手の動きに限らず他の基本功や歩法、もっと言えばただ普通に歩いている時にも表れていた体の動きの大きさについての発見がありました。
宗師の体の動きと比べると、明らかに自分の動きのほうが小さいのです。ただ闇雲に体を動かしてみてもその大きさにはならなかったのですが、今回気づいた事のおかげで改善出来そうな光明が見えたように感じられました。
「見えていない」と言われる事をいきなり見ようとしても、なかなか難しいものです。宗師に指導して頂いている通り、見えていない事にまずは自覚的になり、自分が何かを飛ばしてしまって、別のもので穴埋めしている…らしい…と思うところからスタートするのが早いのだと感じました。
示されている事がシンプルな事だとしても、それを別の形で見てしまっている限り、正しい形は絶対に見えてこないものです。そして、そう見えてしまっている事にもなかなか気づけないのが、人間の厄介なところです。
そうではないのかもしれない…と、少しずつでも自分の認識に違和感を持ち、変えていけるかが肝要なのだと感じます。
そのためには、とことん自分の執着を手放し、新しい観方を受け入れていく必要があるのが痛感させられます。真似できていない、見えていないと言われると、人間は自分の人間性が攻撃されていると勘違いし、無意識のうちに防衛本能を働かせてしまうものです。「そんな事はない」と否定するのは人間の心理としてある意味自然な事で、だからこそ精神的にも放鬆し、受け入れられる精神状態になる必要があるのだと思います。
正しい事は正しいし、違う事は違う。本当にただそれだけの事です。
太極拳に限らず、物事のそのシンプルさに目が向いた時、心身ともに自然の理に則ることが出来、それによる発見も自ずと導かれるのかもしれません。
太極拳の稽古は、同時に人間としての在り方を磨いてくれる、本当に価値のあるものだと思います。
(了)
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2024年12月28日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その90
『かくして円環は一巡する』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
早いもので、もう一年が終わりに近づいています。この時期になると、自分は今年一年何をしていただろうかと振り返ることもあるかと思います。さて自分はというと、もっぱら太極拳の稽古と仕事の繰り返しの日々で、気が付いたらあっという間だった気もします。
あっという間に感じられはするものの、中身は非常に濃い一年であったかと思います。
今年掲載させて頂いたブログの記事を振り返ってみると、この時はこんなことを考えていたのだという事が思い起こされ、たった一年の間だというのになつかしささえ感じられるものです。
太極武藝館での稽古に関していえば、特に今年は太極武藝館創立30周年という記念すべき年であり、盛大な記念式典も執り行われました。
その祝賀会の際、宗師に「套路十三勢」を演舞として見せていただいたことは、参加した門人であったらみんな強く記憶に残っていることかと思います。太極武藝館で行われる套路の稽古は一着一着を丹念に行うこともあり、私自身、稽古したことがあるのが、いちばん進んだ事があって第八勢をわずかに、というところです。聞くところによると、套路を全て見たことある門人は実は誰もいない…という話もまことしやかに囁かれているようでした。
そのような中で、記念すべき節目に宗師によってサプライズで示していただいた套路は、見たいといって見られる類のものではなく、その衝撃たるや、語るに尽くせないものであったに違いありません。演舞の終わった後の、みんなが言葉を発することができなくなってしまった状況は、なかなか忘れられそうにありません。
前々回の記事にも書かせていただいた通り、型の重要性についてちょうど注目して研究をしていた私自身にとっても、套路を見せて頂けたことは、本当にとてつもない恩恵ともいえるものでした。
それが一番知りたかった!見たかった!と言っても過言ではないものだったのです。
というのも、その研究そのものが自分独自の間違った解釈で、何か無理矢理辻褄を合わせて進めているだけではないかという不安が、必ずつきまとっていたからです。研究するためのヒントは示されていても、それが正しいという保証はどこにもありません。
そのような時に見せていただけた套路は、私が気づいた事がそうそう的外れなものではなかったと思わせてくれるのに十分…どころの話ではなく、ここから先、どのように稽古を進めていけばいいかというところまで示唆して下さるようなものに感じられました。
十三勢を通して見せていただけたことで、ひとつの円環が完結したような、太極拳の全体像という輪郭が、朧気ながらも見えたように感じられたのです。これまでは、その円環の端が閉じていないような感覚が常にあり、そのために自分が進めていくべき研究の先が漠然としていて、にわかに分かりづらいような、ふわふわとした感覚が伴っていました。
ここで繋がるはずの端と端が、もしかしたら全く違った方向に伸び始めているのかもしれない。そのような錯覚を抱く事は、自分の稽古を進める上でも迷いの感覚として自分の中に残り続け、もしかしたら…こうかも…という、自分の解釈を挟み込める余地を作ってしまっているかのようでした。
特に対練などで良い結果が伴わない時、自分の教わっていない何かが原因で分からないのかもしれないとなどと短絡的に考えてしまい、その存在するかどうかも疑わしいものを探し求めてしまうような事は、しばしば起こり得るのではないかと思います。
示されている事を正しく真似が出来ていない…本当の真相はそこにあるのですが、先が見えていないという感覚があると、自分からは見えない光の当たっていないその部分が気になるあまり、目の前に見ているはずのものさえ取りこぼしてしまうものです。
そういった迷いになるような、存在しないかもしれないもの…。それを探す必要などない…。今回の出来事で、そのような認識にはっきりと変わったことが自分には感じられたのです。
套路を通して、太極拳は何を目指そうとしているのか…逆に言うと、どういうものが間違っているのかが如実に語られたような気がしたのでした。もちろんそれは、現在の自分に理解できる範囲のものでしかないのですが、自分の中にあった迷いのうち、どれが違ってて手放すべきなのかが明確になったのは確かです。
それはある意味、ひとつの構造物の完成形として、太極拳の姿が自分の目に映ったともいえるものでした。それが感じ取れたのだとしたら、あとはそれをひたすらに鍛錬していけばいいということになります。
そこからの稽古の日々は、「すべて示されている」という言葉の意味、重みが感じられるものでした。本当に何も隠されていない中で指導して頂いている…その中で見える見えないははっきりと自分の問題であり、その問題を解決していくことで、これまでと同じ時間を稽古に費やしていても、得られるものの質が全く違ってきている事が感じられます。
分からない事が生じたとしても、示して頂いている事と、型の中に残されているものを正しく学習していく事で、多くの問題が解決していける事がはっきりと分かってきました。これまで以上に、道場で行われている稽古が「ひとつの学習体系」として有機的に繋がっているのが理解されてきます。
それに伴って、稽古中に見えるものも次第に変化が生じてきているのが分かります。朧気ながらも太極拳の全体像が認識できたような感覚が生じると、稽古のひとつひとつが、その全体の中でどのような位置づけであって、何を目的としているのかという点にまで認識が至るようになりました。それによって、問題の本質となる部分はどこか、足りない部分=訓練することで変えていける部分はどこかという所に嗅覚が働くようになり、問題に対する改善速度が早くなったのではないかと思います。
これは非常に大きな変化で、というのも道場以外で稽古をする際に、何を気にしてどう稽古していったらいいかが、より体系的に組み立てられるようになったからです。問題の本質が見抜けないまま家で稽古に時間だけ費やしても、焦点がぶれるばかりで決定的なものにならず、また同じ問題を持ちこしてしまう可能性が高くなってしまいます。
問題がどこかが明確になれば、それに対する解決策も同時に見えてきます。あとはそれを稽古してくればいいだけです。
そのために必要な材料はというと、それは全て道場の稽古で示して頂いているといっても過言んではありません。太極武藝館では本当に多種多様な稽古方法を示して頂いていますが、ただ体を作るといったものだけでなく、どのように身体を使うか、何に気を付けたらいいか、そのような情報の断片が、様々な稽古の中に散りばめられているのが感じられます。
それらの断片をつなぎ合わせてみると…本当に凄いことをやっていた…!と、腰を抜かすようなことがここ数か月のうちに一体何回あったことでしょうか。
30周年というひとつの区切りの年は、自分にとっては新しいスタートになったと感じられる年でした。稽古での発見などはもちろんの事、それに対する取り組む姿勢はどうか、自分の人生の中でどのような所に太極拳があるのか。それらの事がこれまで以上にはっきりとした形で自分の中に見えてきて、ここから先どのような事をしていきたいのかも、同時に見えてきたと思います。
今年がもうすぐ終わろうとしていますが、それによってひとつの円環が閉じ、また新しいサイクルが始まろうとしています。宗師の套路によって太極拳の全体像が見えた、と自分には感じられましたが、決して、それで終わりではありません。
ひとつの円環の輪が閉じたことで、また新しいサイクルが始まるのです。そうして新たにはじまる円環を行く旅路は、また新しい世界を自分に見せてくれるものだと思いますし、すでにそれは始まっているようにも感じられます。
円環の終わりは終焉ではなく、あたらしい鼓動の始まりです。そのようにして宇宙は循環し続けているのですから、太極の名を冠する武術が、その法則に従わないはずがないのです。
であるとすれば、太極拳を稽古しようとする私もまた、その法則に従う事になるのは自然の摂理といえます。何かひとつのものが見えたら素直に歓び、それをまた始まりとして新たに歩み始める…そのようにして進み続ける事が出来るのが、太極拳という武藝の深みであり、人間を成長させてくれる大いなる営みなのではないかと感じます。
そのような道を歩めることを大いなる歓びとし、また明日からも、一歩一歩、歩みを進めていきたいと思います。
本年も一年間、私の拙い記事を読んでいただき、ありがとうございました。
来年も、力の限り続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
早いもので、もう一年が終わりに近づいています。この時期になると、自分は今年一年何をしていただろうかと振り返ることもあるかと思います。さて自分はというと、もっぱら太極拳の稽古と仕事の繰り返しの日々で、気が付いたらあっという間だった気もします。
あっという間に感じられはするものの、中身は非常に濃い一年であったかと思います。
今年掲載させて頂いたブログの記事を振り返ってみると、この時はこんなことを考えていたのだという事が思い起こされ、たった一年の間だというのになつかしささえ感じられるものです。
太極武藝館での稽古に関していえば、特に今年は太極武藝館創立30周年という記念すべき年であり、盛大な記念式典も執り行われました。
その祝賀会の際、宗師に「套路十三勢」を演舞として見せていただいたことは、参加した門人であったらみんな強く記憶に残っていることかと思います。太極武藝館で行われる套路の稽古は一着一着を丹念に行うこともあり、私自身、稽古したことがあるのが、いちばん進んだ事があって第八勢をわずかに、というところです。聞くところによると、套路を全て見たことある門人は実は誰もいない…という話もまことしやかに囁かれているようでした。
そのような中で、記念すべき節目に宗師によってサプライズで示していただいた套路は、見たいといって見られる類のものではなく、その衝撃たるや、語るに尽くせないものであったに違いありません。演舞の終わった後の、みんなが言葉を発することができなくなってしまった状況は、なかなか忘れられそうにありません。
前々回の記事にも書かせていただいた通り、型の重要性についてちょうど注目して研究をしていた私自身にとっても、套路を見せて頂けたことは、本当にとてつもない恩恵ともいえるものでした。
それが一番知りたかった!見たかった!と言っても過言ではないものだったのです。
というのも、その研究そのものが自分独自の間違った解釈で、何か無理矢理辻褄を合わせて進めているだけではないかという不安が、必ずつきまとっていたからです。研究するためのヒントは示されていても、それが正しいという保証はどこにもありません。
そのような時に見せていただけた套路は、私が気づいた事がそうそう的外れなものではなかったと思わせてくれるのに十分…どころの話ではなく、ここから先、どのように稽古を進めていけばいいかというところまで示唆して下さるようなものに感じられました。
十三勢を通して見せていただけたことで、ひとつの円環が完結したような、太極拳の全体像という輪郭が、朧気ながらも見えたように感じられたのです。これまでは、その円環の端が閉じていないような感覚が常にあり、そのために自分が進めていくべき研究の先が漠然としていて、にわかに分かりづらいような、ふわふわとした感覚が伴っていました。
ここで繋がるはずの端と端が、もしかしたら全く違った方向に伸び始めているのかもしれない。そのような錯覚を抱く事は、自分の稽古を進める上でも迷いの感覚として自分の中に残り続け、もしかしたら…こうかも…という、自分の解釈を挟み込める余地を作ってしまっているかのようでした。
特に対練などで良い結果が伴わない時、自分の教わっていない何かが原因で分からないのかもしれないとなどと短絡的に考えてしまい、その存在するかどうかも疑わしいものを探し求めてしまうような事は、しばしば起こり得るのではないかと思います。
示されている事を正しく真似が出来ていない…本当の真相はそこにあるのですが、先が見えていないという感覚があると、自分からは見えない光の当たっていないその部分が気になるあまり、目の前に見ているはずのものさえ取りこぼしてしまうものです。
そういった迷いになるような、存在しないかもしれないもの…。それを探す必要などない…。今回の出来事で、そのような認識にはっきりと変わったことが自分には感じられたのです。
套路を通して、太極拳は何を目指そうとしているのか…逆に言うと、どういうものが間違っているのかが如実に語られたような気がしたのでした。もちろんそれは、現在の自分に理解できる範囲のものでしかないのですが、自分の中にあった迷いのうち、どれが違ってて手放すべきなのかが明確になったのは確かです。
それはある意味、ひとつの構造物の完成形として、太極拳の姿が自分の目に映ったともいえるものでした。それが感じ取れたのだとしたら、あとはそれをひたすらに鍛錬していけばいいということになります。
そこからの稽古の日々は、「すべて示されている」という言葉の意味、重みが感じられるものでした。本当に何も隠されていない中で指導して頂いている…その中で見える見えないははっきりと自分の問題であり、その問題を解決していくことで、これまでと同じ時間を稽古に費やしていても、得られるものの質が全く違ってきている事が感じられます。
分からない事が生じたとしても、示して頂いている事と、型の中に残されているものを正しく学習していく事で、多くの問題が解決していける事がはっきりと分かってきました。これまで以上に、道場で行われている稽古が「ひとつの学習体系」として有機的に繋がっているのが理解されてきます。
それに伴って、稽古中に見えるものも次第に変化が生じてきているのが分かります。朧気ながらも太極拳の全体像が認識できたような感覚が生じると、稽古のひとつひとつが、その全体の中でどのような位置づけであって、何を目的としているのかという点にまで認識が至るようになりました。それによって、問題の本質となる部分はどこか、足りない部分=訓練することで変えていける部分はどこかという所に嗅覚が働くようになり、問題に対する改善速度が早くなったのではないかと思います。
これは非常に大きな変化で、というのも道場以外で稽古をする際に、何を気にしてどう稽古していったらいいかが、より体系的に組み立てられるようになったからです。問題の本質が見抜けないまま家で稽古に時間だけ費やしても、焦点がぶれるばかりで決定的なものにならず、また同じ問題を持ちこしてしまう可能性が高くなってしまいます。
問題がどこかが明確になれば、それに対する解決策も同時に見えてきます。あとはそれを稽古してくればいいだけです。
そのために必要な材料はというと、それは全て道場の稽古で示して頂いているといっても過言んではありません。太極武藝館では本当に多種多様な稽古方法を示して頂いていますが、ただ体を作るといったものだけでなく、どのように身体を使うか、何に気を付けたらいいか、そのような情報の断片が、様々な稽古の中に散りばめられているのが感じられます。
それらの断片をつなぎ合わせてみると…本当に凄いことをやっていた…!と、腰を抜かすようなことがここ数か月のうちに一体何回あったことでしょうか。
30周年というひとつの区切りの年は、自分にとっては新しいスタートになったと感じられる年でした。稽古での発見などはもちろんの事、それに対する取り組む姿勢はどうか、自分の人生の中でどのような所に太極拳があるのか。それらの事がこれまで以上にはっきりとした形で自分の中に見えてきて、ここから先どのような事をしていきたいのかも、同時に見えてきたと思います。
今年がもうすぐ終わろうとしていますが、それによってひとつの円環が閉じ、また新しいサイクルが始まろうとしています。宗師の套路によって太極拳の全体像が見えた、と自分には感じられましたが、決して、それで終わりではありません。
ひとつの円環の輪が閉じたことで、また新しいサイクルが始まるのです。そうして新たにはじまる円環を行く旅路は、また新しい世界を自分に見せてくれるものだと思いますし、すでにそれは始まっているようにも感じられます。
円環の終わりは終焉ではなく、あたらしい鼓動の始まりです。そのようにして宇宙は循環し続けているのですから、太極の名を冠する武術が、その法則に従わないはずがないのです。
であるとすれば、太極拳を稽古しようとする私もまた、その法則に従う事になるのは自然の摂理といえます。何かひとつのものが見えたら素直に歓び、それをまた始まりとして新たに歩み始める…そのようにして進み続ける事が出来るのが、太極拳という武藝の深みであり、人間を成長させてくれる大いなる営みなのではないかと感じます。
そのような道を歩めることを大いなる歓びとし、また明日からも、一歩一歩、歩みを進めていきたいと思います。
本年も一年間、私の拙い記事を読んでいただき、ありがとうございました。
来年も、力の限り続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
(了)
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