*站椿
2011年01月13日
歩々是道場 「站椿 その11(最終回)」
by のら (一般・武藝クラス所属)
站椿とは何だろうか ──────────
このシリーズの最初に問うた「站椿とは何か」ということを、この最終回でも改めて自分に問うてみようと思う。
幾つかの拳術には未だ站椿の練功法が残されているが、ちょっと見渡したところでは、この時代にそれが練功として体系的に行われているものと言えば、やはり「意拳」が名高い。
そのせいかどうか、どこかでも述べたように、站椿を発明したのが意拳の創始者・王薌齋(オウコウサイ)であると信じる人も居るほどで、太極拳の站椿は「ただ馬歩でじっと立つ」程度のものだと思っている人も多い。
かく云う私も、初めて站椿を学んだ頃は、そんなものだと思っていた。毎日ひたすらじっと足が震えるまで立ち尽くしていれば自然と解ってくるのかも知れない、などと非科学的なことを本気で考えたこともある。
ある拳法の門派に在籍していた人たちは、毎回の練習に必ず站椿がたっぷりと充てられていたという。站椿を理解する為には兎にも角にも、ただひたすら毎日立つことであると教えられ、昨日は15分、今日は20分という具合に日々グラフに記入し、一年でどれほどの時間を站椿に充てたかが一目瞭然に分かるようにし、累計で年に何時間以上を超えるようでなければ決して站椿は解らない、と指導されていたという。
しかし肝心カナメと思える、站椿が何ゆえ武術の練功として存在するのかという説明や、それを何の為に、どのように行うのかについては全くと言って良いほど指導されることがなく、ただ黙々と先生の姿を見ながら、自分がイメージするまま自然に任せて立っているしかなかったという彼らは、それで練られたものが推手や散手にどう活かされるのかを遂に見出せず、そこを離れて更に幾つかの道場を経ながら、最後に太極武藝館と出会うことになった。
彼らは武藝館へ来て初めて、「站椿が何のために在るのか」を知ったという。
ウチでは站椿をした時間をグラフに付けなさい、とは言われないが、その代わりに站椿がどのようなメカニズムで出来ているかを、様々な稽古のシーンに於いて、文字どおり手取り足取りして教えられる。それが「開合勁」や「纏絲勁訓練」等の基本功とどのような関わりがあり、何のために武術の訓練に站椿が存在するのかが、数多くの対練、推手、散手などに於いても、そのつど具体的に教授され、証明までされていくのだ。
それは拳学研究会や玄門會などの上級クラスに限った話ではない。たとえ一般クラスでも、相手が小学生の門人であっても、惜しげもなくそれを指導して、太極拳の本質を門人と分かち合う姿勢が一貫して見られるのが武藝館の稽古の特徴である。
その内容は、我々一般門人の立場から見ても非常に緻密で驚嘆に値するものであり、つい先日の稽古などでは、套路を練っている際に、余りにも詳細に指導された師父に対し、ついに『そんなことを私たちに言ってしまっても良いのですか?』という言葉が門人の口から飛び出したほどであった。門人の口からそんな言葉が飛び出すと言うことは、単にそれを知って驚いたということではなく、実際にそれを聞けば「解ける」ことであったからに他ならない。
師父はその時『おお、これが凄いことだと分かってくれるのだね!』と嬉しそうに言われ、『何であれ、私がお教えした事はどんどん取って頂いて結構です。もっと詳しく教えたいけど、まずこれが解らなければその先は絶対に理解できない。その先へ行くには、今示されたことをきちんと解ることが第一です』と言われた。
これを書いている今日の稽古でも、そんな貴重なお話が幾つも出てきた。
例えば、左の軸には乗れて、右の軸には乗りにくい場合・・つまり「懶扎衣」はやり易いけれど「単鞭」はやりにくい、右の軸には乗り難い、と言うような場合には、先ず纏絲勁訓練の「左単手順圏」の基本功に立ち返り、自分の立つ位置、乗る位置、胯の位置、足の位置、特に右半身のそれらを念入りに確認し、その後「馬歩站椿」でそれがどうなったかを確認しながら「静中の動」としてじっくり練らなければ、決して太極拳の構造には至らない、と言われた。
無論、片足に乗れるかとか、片足で立てるか、などということではない。あくまでも太極拳の構造として、武術的な身体軸に乗れるか、乗れないか、という話である。
それは、ごく普通の歩法訓練の際の、五十歳を過ぎた女性門人への指導の言葉であった。
私はただ傍らでそれを聞いていただけだったが、その時、二十数名の門人がひしめき合う道場の中で、師父がそっとその女性だけに話をし始めると、ほとんどの人が回りに集まって来て、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだて、誰もが我が事として熱心に聴き入っていた。
その際、師父はその女性にそれを説明しながら、自ら馬歩や弓歩を示して指導をされた。
三尺に足を開いて馬歩になり、左の単手順圏をじっくりと示されながら、『ここではこう、ここでは、もっとこうなりますよね・・・』と言われ、馬歩になった所でピタリと静止し、『さあ、これでもう何時でも勁力が出せる状態です。今私はとても充足しているけれども、とても寛いでいて、息を溜めたり、何処かの筋肉を故意に収縮させていたり、グッと意識を高めたり、気を集めたりなど、全くしていません。勁力というのは、メカニズムによって出される、極めて科学的でシステマチックなチカラなのです』と、微笑んで言われた。
そして『勁力は、元の構造がとても小さなものなのです。その意味でも、これを ”小架式”と呼ぶのは正解ですね。それは丁度、大きな雪崩を引き起こす原因が、たったひとつの小さな石ころであったりするのと、とても似ています・・』と、言われるのである。
「科学的な態度」というのは、実践することの中で気付いたことを基に、そこから仮説を立て、さらなる実践を繰り返しながら検証して行き、幾度となくその仮説を修正することを繰り返して行くことに他ならないが、太極武藝館で指導を受けていると、誰もが太極拳の中身が非常に科学的なものであることに気付かされ、科学する目が養われていく。
站椿は「神秘の力」を養うものではなく、ひたすら「構造」を識り、それを意識的に練り上げていくことにより、独自の非日常的なチカラを得るものなのである。
「構造」とは、一般的に言えば、ひとつのものを造り上げている各々の素材の組み合わせ方によって出来た正しい「カタチ」のことであり、その正しいカタチによってもたらされる仕組みや、組織的・系統的な「システム」のことでもある。
太極拳では、そのカタチの最たるものが馬歩と弓歩を柱とする「架式」であり、そのカタチに如何に至るのかを示したものこそが「無極椿」と呼ばれる、簡潔な要訣で表された最も基本とされる、最も高度で重要な站椿に他ならない。
つまり「無極椿」とは、ありとあらゆる太極拳のカタチが真性であるかどうか判断することの出来る、最高最上の「規矩」なのだと言える。これ無しには太極拳は始まらないし、それが何を意味しているのかが真に理解されなくては、何をどう工夫しようと太極拳にはならない。
丁度、大工が家を建てる際には、錘重(すいじゅう=糸をつけた円錐形の錘・下げ振り)や矩尺(かねじゃく)、水準器などが必要なように、太極拳の構造を理解するには「無極椿」という規矩・規準が絶対に必要なのである。
しかし、その「無極椿」を正しく教えて貰えるかどうかも、大きな問題である。
無極椿の要訣自体は、今日では誰にもよく知られるものだが、単にそれを自分なりに整えていても「無極椿」は出現してこない。優れた仏師の手に成れば、ただの木塊から得も言われぬ御仏の姿が現れ出でるように、何の取り得も無いように思える有りふれた日常の構造の中から、畏怖さえ覚える非日常の武術構造が突如として吾が身の上に現れ出て来るのである。
そして、およそ高度な武藝として太極拳を志す者であれば、それを希求しない人は居ないに違いない。
無極椿は、まず「正しく立つこと」から始められる。
正しく立つこと、というのは、「どこで立っているか」というコトが最大の問題になる。
立つんだからアシで立つに決まってるじゃないか、というのは武術的に見て余りにお粗末であり、やれ爪先で立つこと、いや母趾こそ重要だ、本当は母趾の付け根だ、いいやカカトで立つことこそが絶対ナノダ、と言ってみても、それが何ゆえ「武術」として成立し、実際にどう証明されるのかが問題になる。
何であれ、「そう立つこと」によって何がどのように武術として成立するのかが最も重要なことであり、その根拠はもとより、太極拳が何故そのように立たねばならないのか、それが基礎基本とされる所以が科学的に実証されなくては、ただの推論や勝手な思い込みのレベルとされても仕方がない。
「小架式」や「大架式」という区別もまた同じである。それが動作の大小に過ぎず、技術的にも根本的な相違はないという論には、個人的には少々首を傾げたくなる。
もしそれが動作の大小に過ぎないならば、何ゆえ「小架式」と、敢えてわざわざ名を付けてまでその区別を表明しなくてはならなかったのか。また、小架式と大架式の伝承を各々の家系として分けなくてはならなかったのか。
外部から見ると陳氏は大架式・老架式が主流に見えるが、実は小架式こそが古より陳氏太極拳の本流であったと聞く。小架は大架の家系とは全く違っていて、第九世の陳王廷よりもっと以前に小架と大架の各々の家系が分かれ、陳家溝の中の居住する地域まで異なっていたという。
小架式の代々の家系は生活にゆとりがあって、外に出て拳を教授したり、保鏢などの仕事で稼ぐ必要がなかった為にそれが世間一般に流出せず、外部から見てそれが本流の太極拳であるとは考えにくかった、ということらしい。
しかし、そんなことよりも最も大きな問題は「小架」というものが一体何を意味するのかという真の理由である。円山洋玄師父は、その理由を端的に「構造の違い」だと言われる。
本来の小架と大架の架式には、明らかな「構造の違い」があると言われるのだ。
では、その「構造の違い」とは何であるのか ──────────
それをここで書いてしまったら、私は「龍の道」の ”玄洋會” に暗殺されるかも知れないので決して明かしたくはないが(笑)・・・・しかしまあ、私の知っている程度のコトなら案外許されるのかも知れない、とも思える。
確かに、小架と大架、ふたつの架式の間には技術的には大きな違いは無いのかも知れない。
しかし、少なくとも太極武藝館に入門して十年以上の歳月を経た門人であれば、現代陳氏に見られる大架式と、私たちが学んでいる小架式とには、極めて明確な「構造の違い」を見て取ることが出来るはずだ。それは練習段階を進めるにつれて徐々に圏を小さくしていったところの小圏・小纏・小架といったものの解釈といった話ではなく、あくまでも小架式という独自の「構造」を持った架式のことに他ならない。
しかし、そんなことはもはや今日では小架系統の嫡孫でさえ口にせぬことかもしれないし、むしろ「構造の違いなんぞ有りはしない」と否定するかも知れない。
けれどもなお、その「構造の違い」は余りに歴然としている。武術としての太極拳の構造を研究し、構造を解き、構造を識り得た人であるならば、基本功や套路の動きさえ観れば容易に見抜くことが出来るものであり、推手や発勁の有りようを見れば、その違いを判別するのはそれほど難しいものではない。
「站椿」は、太極拳が武術としての絶対的なチカラを追求した果てに見出された、それを理解する為の非常に効率の良い独自の訓練法なのだと思える。そして、それを経験し、それを練り、それが分かるようにならなければ、「勁」というものは決してトータルには理解されることがないのだと思える。
站椿とは「立つこと」に他ならないが、立つこと自体は余りにも身近なことであって、誰もが日常的に行ってしまっていることでもある。けれども、その「立つこと」を意識的に、ある規矩に則って行うことによって、ある「理解」が生まれる。
最初の理解とは「認識の違い」への理解であると言える。自分がこうであると思って信じ込んでいたことが音を立てて崩れ落ち、その代わりに二度と崩れようのない、至って科学的な「武術構造」への認識についての理解が生まれるのである。
太極拳にとって「立つこと」とは、馬歩で立つことに他ならない。
その「馬歩の構造」は余りにも奧が深く、余りにも高みに向かって聳え立っているが、それは至ってシンプルな構造でもある、と円山洋玄師父は言われる。
馬歩はどの高さで立っても、どの足幅で立っても、そこからどう動こうとも、どう表現されようと全く関係なく、構造が馬歩である限りそれは馬歩なのである。そのことは、馬歩の構造自体が非常にシンプルであることを示している。
しかし、どれほど美しい馬歩に見えても、どれほど腰の位置が低く、足幅が常識を越えるほど広く見えても、馬歩の構造でないものは、やはり馬歩とは言えない。そして、その真の構造を識る者だけが、それが馬歩であるか否かの真贋を判別できるのであって、外見上の要求が一通り整って見えるかどうかなど、「正しい馬歩」を判断する何の材料にもならない。
その「正しい馬歩」であれば、站椿を「練功」として練ることが出来る。
站椿を練功として続けていさえすれば、いつの日か「正しい馬歩」が現れるわけではない。先ずは「正しい立ち方」を詳細に教授されることによってのみ「正しい馬歩」が理解でき、正しい馬歩が理解できれば、その馬歩を使って「正しい站椿」の練功に入っていくことが出来るということなのである。その「正しい站椿」が理解できれば、どのような練功を練っていても、それはすなわち「站椿の練功」となる。
そして、站椿を練功として練ることが出来るようになれば、それが定歩の纏絲勁訓練であれ、歩法であれ、套路であれ、柔功であれ、すべての練功が「勁」を練るためのものであったことを学習者はようやく実感することになる。いわゆる「以意行気」「以気運身」「一挙一動が等しく意を用いて力を用いず、意が先に動き、その後に身体が動く、意が至れば気が動き、気が至れば勁が動く」ということが、身を以て明らかに実感できるようになるのである。
ここで重要なことは、站椿が「気」を出すためのものでも、「気」を練る為のものでもないということである。「気が至れば勁が動く」のだから、気はあくまでも「勁を動かすためのもの」という意味なのである。
站椿は「意」で整えられ、整えられた身体がまた意で動くことによって「気」が至り、それによって「勁」が動くのである。それはつまり、「気そのもの」が何かをするというのではなく、意を気が媒介することによって勁が動く、ということに他ならない。
陳鑫先生の「中気」と「内勁」の解説を見ると、『中心である丹田から気を発しなければ、気はその元とするところを失い、たいへん出鱈目なものとなる。気は筋肉や皮膚の末端に至るまで充溢していなければ功夫が低く、気が不足しているということであり、外見は強そうに見えても内側は空っぽであるために必ず失敗をする。これは内勁を練っていない故であって正しくない。正しく勁を練れば神技を表すことが出来る』・・と、ある。
内勁を練るには「用意不用力」の原則を守り、正確な「カタチ(構造)」が取れるように架式を整えるしか他に方法がない。カタチを正しくしたことによって可能となった練功に励めばこそ、『古い力が去り、真の力(勁力)が生じる』のである。
その「カタチ」を私たちに理解させてくれるものは、やはり「站椿」しかないのだと思う。
(了)
站椿とは何だろうか ──────────
このシリーズの最初に問うた「站椿とは何か」ということを、この最終回でも改めて自分に問うてみようと思う。
幾つかの拳術には未だ站椿の練功法が残されているが、ちょっと見渡したところでは、この時代にそれが練功として体系的に行われているものと言えば、やはり「意拳」が名高い。
そのせいかどうか、どこかでも述べたように、站椿を発明したのが意拳の創始者・王薌齋(オウコウサイ)であると信じる人も居るほどで、太極拳の站椿は「ただ馬歩でじっと立つ」程度のものだと思っている人も多い。
かく云う私も、初めて站椿を学んだ頃は、そんなものだと思っていた。毎日ひたすらじっと足が震えるまで立ち尽くしていれば自然と解ってくるのかも知れない、などと非科学的なことを本気で考えたこともある。
ある拳法の門派に在籍していた人たちは、毎回の練習に必ず站椿がたっぷりと充てられていたという。站椿を理解する為には兎にも角にも、ただひたすら毎日立つことであると教えられ、昨日は15分、今日は20分という具合に日々グラフに記入し、一年でどれほどの時間を站椿に充てたかが一目瞭然に分かるようにし、累計で年に何時間以上を超えるようでなければ決して站椿は解らない、と指導されていたという。
しかし肝心カナメと思える、站椿が何ゆえ武術の練功として存在するのかという説明や、それを何の為に、どのように行うのかについては全くと言って良いほど指導されることがなく、ただ黙々と先生の姿を見ながら、自分がイメージするまま自然に任せて立っているしかなかったという彼らは、それで練られたものが推手や散手にどう活かされるのかを遂に見出せず、そこを離れて更に幾つかの道場を経ながら、最後に太極武藝館と出会うことになった。
彼らは武藝館へ来て初めて、「站椿が何のために在るのか」を知ったという。
ウチでは站椿をした時間をグラフに付けなさい、とは言われないが、その代わりに站椿がどのようなメカニズムで出来ているかを、様々な稽古のシーンに於いて、文字どおり手取り足取りして教えられる。それが「開合勁」や「纏絲勁訓練」等の基本功とどのような関わりがあり、何のために武術の訓練に站椿が存在するのかが、数多くの対練、推手、散手などに於いても、そのつど具体的に教授され、証明までされていくのだ。
それは拳学研究会や玄門會などの上級クラスに限った話ではない。たとえ一般クラスでも、相手が小学生の門人であっても、惜しげもなくそれを指導して、太極拳の本質を門人と分かち合う姿勢が一貫して見られるのが武藝館の稽古の特徴である。
その内容は、我々一般門人の立場から見ても非常に緻密で驚嘆に値するものであり、つい先日の稽古などでは、套路を練っている際に、余りにも詳細に指導された師父に対し、ついに『そんなことを私たちに言ってしまっても良いのですか?』という言葉が門人の口から飛び出したほどであった。門人の口からそんな言葉が飛び出すと言うことは、単にそれを知って驚いたということではなく、実際にそれを聞けば「解ける」ことであったからに他ならない。
師父はその時『おお、これが凄いことだと分かってくれるのだね!』と嬉しそうに言われ、『何であれ、私がお教えした事はどんどん取って頂いて結構です。もっと詳しく教えたいけど、まずこれが解らなければその先は絶対に理解できない。その先へ行くには、今示されたことをきちんと解ることが第一です』と言われた。
これを書いている今日の稽古でも、そんな貴重なお話が幾つも出てきた。
例えば、左の軸には乗れて、右の軸には乗りにくい場合・・つまり「懶扎衣」はやり易いけれど「単鞭」はやりにくい、右の軸には乗り難い、と言うような場合には、先ず纏絲勁訓練の「左単手順圏」の基本功に立ち返り、自分の立つ位置、乗る位置、胯の位置、足の位置、特に右半身のそれらを念入りに確認し、その後「馬歩站椿」でそれがどうなったかを確認しながら「静中の動」としてじっくり練らなければ、決して太極拳の構造には至らない、と言われた。
無論、片足に乗れるかとか、片足で立てるか、などということではない。あくまでも太極拳の構造として、武術的な身体軸に乗れるか、乗れないか、という話である。
それは、ごく普通の歩法訓練の際の、五十歳を過ぎた女性門人への指導の言葉であった。
私はただ傍らでそれを聞いていただけだったが、その時、二十数名の門人がひしめき合う道場の中で、師父がそっとその女性だけに話をし始めると、ほとんどの人が回りに集まって来て、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだて、誰もが我が事として熱心に聴き入っていた。
その際、師父はその女性にそれを説明しながら、自ら馬歩や弓歩を示して指導をされた。
三尺に足を開いて馬歩になり、左の単手順圏をじっくりと示されながら、『ここではこう、ここでは、もっとこうなりますよね・・・』と言われ、馬歩になった所でピタリと静止し、『さあ、これでもう何時でも勁力が出せる状態です。今私はとても充足しているけれども、とても寛いでいて、息を溜めたり、何処かの筋肉を故意に収縮させていたり、グッと意識を高めたり、気を集めたりなど、全くしていません。勁力というのは、メカニズムによって出される、極めて科学的でシステマチックなチカラなのです』と、微笑んで言われた。
そして『勁力は、元の構造がとても小さなものなのです。その意味でも、これを ”小架式”と呼ぶのは正解ですね。それは丁度、大きな雪崩を引き起こす原因が、たったひとつの小さな石ころであったりするのと、とても似ています・・』と、言われるのである。
「科学的な態度」というのは、実践することの中で気付いたことを基に、そこから仮説を立て、さらなる実践を繰り返しながら検証して行き、幾度となくその仮説を修正することを繰り返して行くことに他ならないが、太極武藝館で指導を受けていると、誰もが太極拳の中身が非常に科学的なものであることに気付かされ、科学する目が養われていく。
站椿は「神秘の力」を養うものではなく、ひたすら「構造」を識り、それを意識的に練り上げていくことにより、独自の非日常的なチカラを得るものなのである。
「構造」とは、一般的に言えば、ひとつのものを造り上げている各々の素材の組み合わせ方によって出来た正しい「カタチ」のことであり、その正しいカタチによってもたらされる仕組みや、組織的・系統的な「システム」のことでもある。
太極拳では、そのカタチの最たるものが馬歩と弓歩を柱とする「架式」であり、そのカタチに如何に至るのかを示したものこそが「無極椿」と呼ばれる、簡潔な要訣で表された最も基本とされる、最も高度で重要な站椿に他ならない。
つまり「無極椿」とは、ありとあらゆる太極拳のカタチが真性であるかどうか判断することの出来る、最高最上の「規矩」なのだと言える。これ無しには太極拳は始まらないし、それが何を意味しているのかが真に理解されなくては、何をどう工夫しようと太極拳にはならない。
丁度、大工が家を建てる際には、錘重(すいじゅう=糸をつけた円錐形の錘・下げ振り)や矩尺(かねじゃく)、水準器などが必要なように、太極拳の構造を理解するには「無極椿」という規矩・規準が絶対に必要なのである。
しかし、その「無極椿」を正しく教えて貰えるかどうかも、大きな問題である。
無極椿の要訣自体は、今日では誰にもよく知られるものだが、単にそれを自分なりに整えていても「無極椿」は出現してこない。優れた仏師の手に成れば、ただの木塊から得も言われぬ御仏の姿が現れ出でるように、何の取り得も無いように思える有りふれた日常の構造の中から、畏怖さえ覚える非日常の武術構造が突如として吾が身の上に現れ出て来るのである。
そして、およそ高度な武藝として太極拳を志す者であれば、それを希求しない人は居ないに違いない。
無極椿は、まず「正しく立つこと」から始められる。
正しく立つこと、というのは、「どこで立っているか」というコトが最大の問題になる。
立つんだからアシで立つに決まってるじゃないか、というのは武術的に見て余りにお粗末であり、やれ爪先で立つこと、いや母趾こそ重要だ、本当は母趾の付け根だ、いいやカカトで立つことこそが絶対ナノダ、と言ってみても、それが何ゆえ「武術」として成立し、実際にどう証明されるのかが問題になる。
何であれ、「そう立つこと」によって何がどのように武術として成立するのかが最も重要なことであり、その根拠はもとより、太極拳が何故そのように立たねばならないのか、それが基礎基本とされる所以が科学的に実証されなくては、ただの推論や勝手な思い込みのレベルとされても仕方がない。
「小架式」や「大架式」という区別もまた同じである。それが動作の大小に過ぎず、技術的にも根本的な相違はないという論には、個人的には少々首を傾げたくなる。
もしそれが動作の大小に過ぎないならば、何ゆえ「小架式」と、敢えてわざわざ名を付けてまでその区別を表明しなくてはならなかったのか。また、小架式と大架式の伝承を各々の家系として分けなくてはならなかったのか。
外部から見ると陳氏は大架式・老架式が主流に見えるが、実は小架式こそが古より陳氏太極拳の本流であったと聞く。小架は大架の家系とは全く違っていて、第九世の陳王廷よりもっと以前に小架と大架の各々の家系が分かれ、陳家溝の中の居住する地域まで異なっていたという。
小架式の代々の家系は生活にゆとりがあって、外に出て拳を教授したり、保鏢などの仕事で稼ぐ必要がなかった為にそれが世間一般に流出せず、外部から見てそれが本流の太極拳であるとは考えにくかった、ということらしい。
しかし、そんなことよりも最も大きな問題は「小架」というものが一体何を意味するのかという真の理由である。円山洋玄師父は、その理由を端的に「構造の違い」だと言われる。
本来の小架と大架の架式には、明らかな「構造の違い」があると言われるのだ。
では、その「構造の違い」とは何であるのか ──────────
それをここで書いてしまったら、私は「龍の道」の ”玄洋會” に暗殺されるかも知れないので決して明かしたくはないが(笑)・・・・しかしまあ、私の知っている程度のコトなら案外許されるのかも知れない、とも思える。
確かに、小架と大架、ふたつの架式の間には技術的には大きな違いは無いのかも知れない。
しかし、少なくとも太極武藝館に入門して十年以上の歳月を経た門人であれば、現代陳氏に見られる大架式と、私たちが学んでいる小架式とには、極めて明確な「構造の違い」を見て取ることが出来るはずだ。それは練習段階を進めるにつれて徐々に圏を小さくしていったところの小圏・小纏・小架といったものの解釈といった話ではなく、あくまでも小架式という独自の「構造」を持った架式のことに他ならない。
しかし、そんなことはもはや今日では小架系統の嫡孫でさえ口にせぬことかもしれないし、むしろ「構造の違いなんぞ有りはしない」と否定するかも知れない。
けれどもなお、その「構造の違い」は余りに歴然としている。武術としての太極拳の構造を研究し、構造を解き、構造を識り得た人であるならば、基本功や套路の動きさえ観れば容易に見抜くことが出来るものであり、推手や発勁の有りようを見れば、その違いを判別するのはそれほど難しいものではない。
「站椿」は、太極拳が武術としての絶対的なチカラを追求した果てに見出された、それを理解する為の非常に効率の良い独自の訓練法なのだと思える。そして、それを経験し、それを練り、それが分かるようにならなければ、「勁」というものは決してトータルには理解されることがないのだと思える。
站椿とは「立つこと」に他ならないが、立つこと自体は余りにも身近なことであって、誰もが日常的に行ってしまっていることでもある。けれども、その「立つこと」を意識的に、ある規矩に則って行うことによって、ある「理解」が生まれる。
最初の理解とは「認識の違い」への理解であると言える。自分がこうであると思って信じ込んでいたことが音を立てて崩れ落ち、その代わりに二度と崩れようのない、至って科学的な「武術構造」への認識についての理解が生まれるのである。
太極拳にとって「立つこと」とは、馬歩で立つことに他ならない。
その「馬歩の構造」は余りにも奧が深く、余りにも高みに向かって聳え立っているが、それは至ってシンプルな構造でもある、と円山洋玄師父は言われる。
馬歩はどの高さで立っても、どの足幅で立っても、そこからどう動こうとも、どう表現されようと全く関係なく、構造が馬歩である限りそれは馬歩なのである。そのことは、馬歩の構造自体が非常にシンプルであることを示している。
しかし、どれほど美しい馬歩に見えても、どれほど腰の位置が低く、足幅が常識を越えるほど広く見えても、馬歩の構造でないものは、やはり馬歩とは言えない。そして、その真の構造を識る者だけが、それが馬歩であるか否かの真贋を判別できるのであって、外見上の要求が一通り整って見えるかどうかなど、「正しい馬歩」を判断する何の材料にもならない。
その「正しい馬歩」であれば、站椿を「練功」として練ることが出来る。
站椿を練功として続けていさえすれば、いつの日か「正しい馬歩」が現れるわけではない。先ずは「正しい立ち方」を詳細に教授されることによってのみ「正しい馬歩」が理解でき、正しい馬歩が理解できれば、その馬歩を使って「正しい站椿」の練功に入っていくことが出来るということなのである。その「正しい站椿」が理解できれば、どのような練功を練っていても、それはすなわち「站椿の練功」となる。
そして、站椿を練功として練ることが出来るようになれば、それが定歩の纏絲勁訓練であれ、歩法であれ、套路であれ、柔功であれ、すべての練功が「勁」を練るためのものであったことを学習者はようやく実感することになる。いわゆる「以意行気」「以気運身」「一挙一動が等しく意を用いて力を用いず、意が先に動き、その後に身体が動く、意が至れば気が動き、気が至れば勁が動く」ということが、身を以て明らかに実感できるようになるのである。
ここで重要なことは、站椿が「気」を出すためのものでも、「気」を練る為のものでもないということである。「気が至れば勁が動く」のだから、気はあくまでも「勁を動かすためのもの」という意味なのである。
站椿は「意」で整えられ、整えられた身体がまた意で動くことによって「気」が至り、それによって「勁」が動くのである。それはつまり、「気そのもの」が何かをするというのではなく、意を気が媒介することによって勁が動く、ということに他ならない。
陳鑫先生の「中気」と「内勁」の解説を見ると、『中心である丹田から気を発しなければ、気はその元とするところを失い、たいへん出鱈目なものとなる。気は筋肉や皮膚の末端に至るまで充溢していなければ功夫が低く、気が不足しているということであり、外見は強そうに見えても内側は空っぽであるために必ず失敗をする。これは内勁を練っていない故であって正しくない。正しく勁を練れば神技を表すことが出来る』・・と、ある。
内勁を練るには「用意不用力」の原則を守り、正確な「カタチ(構造)」が取れるように架式を整えるしか他に方法がない。カタチを正しくしたことによって可能となった練功に励めばこそ、『古い力が去り、真の力(勁力)が生じる』のである。
その「カタチ」を私たちに理解させてくれるものは、やはり「站椿」しかないのだと思う。
(了)
2010年11月18日
歩々是道場 「站椿 その10」
by のら (一般・武藝クラス所属)
「用意不用力」とは、何を意味するのでしょうか。
そして、その「意」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
陳氏太極拳の特徴の第一は「大脳の働きに基づく意と気の運動」とされていますが、それが他の特徴である虚実や纏絲、弾性運動などを差し置いて、最も初めに説かれていることを見ても、太極拳では「意を以て気を用い、気を以て身体を動かす」ということが如何に重要な問題であるかが分かります。
また、それがそのまま中国拳術の名称となった意拳(Yi-quan)では、《 ”意”とは精神支配の大意と想像であり、精神の高度な集中の下で意識誘導を用いて内在する精神の力を得ようとするものである 》と説明されています。
人間の「意識」の働きは、信じられぬほどの大きな力をもたらします。
ごく普通の主婦の手にリンゴを持たせ、それを握り潰して下さいと言うと、誰もがそんなことは不可能だと笑いますが、その人に催眠術をかけて「手のひらでリンゴを握り潰せる」という暗示をかけると、リンゴはものの見事に手の中でグシャグシャに潰れてしまいます。
或いはまた、全く一輪車に乗ったこともない中年の男性に、同じように催眠状態で「乗れること」をイメージさせると、短時間の練習で乗れるようになったりもします。
もし、このようなチカラが武術に使われたら、さぞかし凄いことになるのでしょう。初心者がいきなり発勁で人を吹っ飛ばすかも知れませんし、誰でもバランスボールの上でピョンピョンとジャンプ出来るようになるかも知れません。
ヒトの「意識」というのは、どのような構造になっているのか。
いや、そもそも「意識」とは、一体何であるのか・・・
そして、中国武術で言う「意」とは何か・・・
そんな疑問にぶつかるのは、決して私だけではないと思います。
宗教、神智学、神秘思想などの領域を別にすれば、意識はすべて「脳」の働きである、とされています。脳の働きから見れば、ひと言で云えば意識とは「自己認識の知覚」であると定義することが出来ます。つまり、この世界、この肉体、この自己を知覚できることこそが「意識」であるということに他ならないのです。
生物にとって「意識」の始まりとは、おそらく光の刺激に対する感応性であったことでしょう。それが種の進化や個体の成長と共に、その感応性のレベルが「自己認識」へと深まってきたというわけです。
西洋医学でいう「自律神経」は、「意識」と関係なく働くところから「意識の制約を受けずに ”自律” している神経」と呼ばれているものですが、近年になって実はそれは意識から全く自律などしておらず、精神活動の影響を大いに受けているのではないか、いや、実は自律神経それ自体が「意識的」にコントロール出来るものではないか、とさえ考えられるようになりました。それは今日の「心身医学」の始まりとなった観点でもあります。
しかし、実際にはこのような「意識と身体」の相関関係の例は既に古くから無数にあり、それらは西洋医学界でも長い間「暗黙知」として共有されてきていました。
少し例を挙げれば、心理的なストレスがホルモンの分泌に異常を起こし、それをコントロールする自律神経に悪影響を与えているのではないか、とか、不整脈の患者が、息を詰めると不整脈が起こりやすいことを殆どの人が体験的に知っており、深呼吸をすることで脈拍が遅くなることを誰に教わらなくても知っている、とか、てんかん患者は、深呼吸を無理に繰り返すと発作が起きやすいと言うことを体験的に知っていて、そういう呼吸を意識的に避けていたり、心臓神経症で検査では何も出ない人が、不整脈や狭心症の症状が出ることもある・・等々。
西洋医学がそれらを検証して医学の体系の中にようやく受容するようになったのは、わずかにこの数十年程度のことですが、それは『人の身体に意識の働かないところは無い』ということが西洋医学的にも実証されつつあることを示すものです。
「意識」を脳のはたらきとして観ると、「小脳」が比較的大きな役割を果たしていることが考えられます。Raptor(ラプター=猛禽類)という名が与えられた最新鋭戦闘機 F-22 よりも自由に空を飛び回り、百メートル以上も離れた水面下の魚を瞬時に急降下して獲ることの出来る鳥類たちは小脳が大脳よりも大きく発達していますが、人間の小脳は脳の最下部、脳幹の後ろ側にあって、その名のとおり、大脳と比べればとても小さな脳です。
小脳の主な機能は知覚と運動機能の統合であり、筋緊張、随意筋運動、平衡などの調節を司っています。人間が鳥のそれに比例するような大きな小脳を持つようになれば、武術も随分高度なものになるかも知れない・・・などと思いたくなりますが、見た目は小さくとも、実は皺を伸ばして広げれば大脳の2倍もの面積があり、神経細胞の数は大脳の140億個に対して、その7倍以上にも相当する一千億個もあるのです。
したがって、小脳の「中身」は大脳を遥かに凌駕していると言えるかも知れません。
小脳は、これまでは人が倒れずに真っ直ぐ立てるバランス感覚や手先の器用さを司っているだけの役割だと言われていましたが、近年の研究では「小脳は記憶する」という事実が分かってきています。いわゆる「身体で覚えること」というのは、実はこの小脳の働きであったというわけです。
小脳のすぐ側にある「脳幹」は脳の中枢であり、すべての中枢を支配しているものですが、「心と意識」の源と言われ、言わば「意」の中枢であるともいえます。
これは二億年前の爬虫類時代に形成した脳ですが、テレパシーが情報処理の媒体とされ、まだ言葉をしゃべれない胎児や赤ん坊が、母親に何を話しかけられても内容を理解できるような情報処理能力を持っています。
脳幹から大脳新皮質の右脳に通じる回路が開かれれば、肉体的・精神的にヒトを変容させる力を持つ独自のホルモンが間脳視床下部より分泌され、潜在能力が開花することはよく知られている通りですが、太極拳や他の武術での発声法(雷声・気合い)などは間脳を目覚めさせるバイブレーションとして、宗教的な祈りや読経と同じようにホルモンの分泌に大きく関わっているものであり、站椿でのイメージ訓練も同様に、そのようなホルモンの分泌を大いに促すものに他なりません。
站椿は、初心者が最も「用意不用力」を実感しやすい訓練方法です。
站椿では先ず「意」が構造への認識として用いられ、その後に構造の変化への認識、また、その際のチカラの発生への認識などと、多様に用いられることになります。
「意」によって、そこで得られた構造やチカラは、他の基本訓練や套路に活かされ、推手や散手で練られ、試され、修正されて、さらに精密なものになっていきます。
時折、「站椿」が太極拳の練功として如何に大きな意味を持つかを、一般クラスの稽古で強く感じさせられることがあります。
師父がいつもより站椿に多くの時間を取られ、それまで余り教えなかったことなどを少しばかり詳しく指導されると、居合わせた門人たちは、その日に限って「立ち方」や「動き方」がそれまでとは別人のように繊細になったり、対練でいきなり強烈に人が飛び始めたりするようになったりする不思議な現象が起こります。
また、師父によるセミナーでは、門人を床に寝かせ、身体の各部に触れながら動かすべき部位を意識させ、動きのイメージを想起させるだけで、その場で構造が調整され、立ち方や歩き方が劇的に正しくなるという、まるで魔法にでもかけられたように思えることも起こります。
実際にそのような体験を機に太極拳に対する考え方が大きく変わった人も居ますが、正しい構造で整備された「站椿」の理論や練功は、かくも驚くべきチカラを各人にもたらすのだと、あらためて驚かされてしまいます。
しかし、その時に師父が指導されたことは何ら特別なことではなく、言わば普段から耳にしている内容を基本として、それらを新たに創造的に組み立てて行ったような内容でした。
つまり取り立てて新しいものは無く、やろうと思えば自分たちでもその訓練や調整が出来たのだと思います。ただ、その創造性が自分たちには無かった、ということでしょうか。指導力もまた、脳幹や右脳に正しく働きかけられるところの能力であるに違いないと思えます。
站椿もまた、基本功で構成された、基本の構造によるものに他なりません。
基本を如何に教わるか、基本を如何に学ぶか、基本を如何に知るか・・・
かくも素晴らしい武術的な成果を生む站椿も、基本の理解なくしては正にネコに小判、ただ站椿らしきことを真似て球を抱え、原理構造がその度に変化してしまうような馬歩で立っても何ひとつ学習にならないどころか、それによる弊害さえ起こり得るのだと思います。
まずは初心に立ち返って、常に「基本」を学び直す姿勢こそが、站椿のような精密な練功を活かす最大の鍵になるのだと、強く思い知らされるこの頃です。
(つづく)
「用意不用力」とは、何を意味するのでしょうか。
そして、その「意」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
陳氏太極拳の特徴の第一は「大脳の働きに基づく意と気の運動」とされていますが、それが他の特徴である虚実や纏絲、弾性運動などを差し置いて、最も初めに説かれていることを見ても、太極拳では「意を以て気を用い、気を以て身体を動かす」ということが如何に重要な問題であるかが分かります。
また、それがそのまま中国拳術の名称となった意拳(Yi-quan)では、《 ”意”とは精神支配の大意と想像であり、精神の高度な集中の下で意識誘導を用いて内在する精神の力を得ようとするものである 》と説明されています。
人間の「意識」の働きは、信じられぬほどの大きな力をもたらします。
ごく普通の主婦の手にリンゴを持たせ、それを握り潰して下さいと言うと、誰もがそんなことは不可能だと笑いますが、その人に催眠術をかけて「手のひらでリンゴを握り潰せる」という暗示をかけると、リンゴはものの見事に手の中でグシャグシャに潰れてしまいます。
或いはまた、全く一輪車に乗ったこともない中年の男性に、同じように催眠状態で「乗れること」をイメージさせると、短時間の練習で乗れるようになったりもします。
もし、このようなチカラが武術に使われたら、さぞかし凄いことになるのでしょう。初心者がいきなり発勁で人を吹っ飛ばすかも知れませんし、誰でもバランスボールの上でピョンピョンとジャンプ出来るようになるかも知れません。
ヒトの「意識」というのは、どのような構造になっているのか。
いや、そもそも「意識」とは、一体何であるのか・・・
そして、中国武術で言う「意」とは何か・・・
そんな疑問にぶつかるのは、決して私だけではないと思います。
宗教、神智学、神秘思想などの領域を別にすれば、意識はすべて「脳」の働きである、とされています。脳の働きから見れば、ひと言で云えば意識とは「自己認識の知覚」であると定義することが出来ます。つまり、この世界、この肉体、この自己を知覚できることこそが「意識」であるということに他ならないのです。
生物にとって「意識」の始まりとは、おそらく光の刺激に対する感応性であったことでしょう。それが種の進化や個体の成長と共に、その感応性のレベルが「自己認識」へと深まってきたというわけです。
西洋医学でいう「自律神経」は、「意識」と関係なく働くところから「意識の制約を受けずに ”自律” している神経」と呼ばれているものですが、近年になって実はそれは意識から全く自律などしておらず、精神活動の影響を大いに受けているのではないか、いや、実は自律神経それ自体が「意識的」にコントロール出来るものではないか、とさえ考えられるようになりました。それは今日の「心身医学」の始まりとなった観点でもあります。
しかし、実際にはこのような「意識と身体」の相関関係の例は既に古くから無数にあり、それらは西洋医学界でも長い間「暗黙知」として共有されてきていました。
少し例を挙げれば、心理的なストレスがホルモンの分泌に異常を起こし、それをコントロールする自律神経に悪影響を与えているのではないか、とか、不整脈の患者が、息を詰めると不整脈が起こりやすいことを殆どの人が体験的に知っており、深呼吸をすることで脈拍が遅くなることを誰に教わらなくても知っている、とか、てんかん患者は、深呼吸を無理に繰り返すと発作が起きやすいと言うことを体験的に知っていて、そういう呼吸を意識的に避けていたり、心臓神経症で検査では何も出ない人が、不整脈や狭心症の症状が出ることもある・・等々。
西洋医学がそれらを検証して医学の体系の中にようやく受容するようになったのは、わずかにこの数十年程度のことですが、それは『人の身体に意識の働かないところは無い』ということが西洋医学的にも実証されつつあることを示すものです。
「意識」を脳のはたらきとして観ると、「小脳」が比較的大きな役割を果たしていることが考えられます。Raptor(ラプター=猛禽類)という名が与えられた最新鋭戦闘機 F-22 よりも自由に空を飛び回り、百メートル以上も離れた水面下の魚を瞬時に急降下して獲ることの出来る鳥類たちは小脳が大脳よりも大きく発達していますが、人間の小脳は脳の最下部、脳幹の後ろ側にあって、その名のとおり、大脳と比べればとても小さな脳です。
小脳の主な機能は知覚と運動機能の統合であり、筋緊張、随意筋運動、平衡などの調節を司っています。人間が鳥のそれに比例するような大きな小脳を持つようになれば、武術も随分高度なものになるかも知れない・・・などと思いたくなりますが、見た目は小さくとも、実は皺を伸ばして広げれば大脳の2倍もの面積があり、神経細胞の数は大脳の140億個に対して、その7倍以上にも相当する一千億個もあるのです。
したがって、小脳の「中身」は大脳を遥かに凌駕していると言えるかも知れません。
小脳は、これまでは人が倒れずに真っ直ぐ立てるバランス感覚や手先の器用さを司っているだけの役割だと言われていましたが、近年の研究では「小脳は記憶する」という事実が分かってきています。いわゆる「身体で覚えること」というのは、実はこの小脳の働きであったというわけです。
小脳のすぐ側にある「脳幹」は脳の中枢であり、すべての中枢を支配しているものですが、「心と意識」の源と言われ、言わば「意」の中枢であるともいえます。
これは二億年前の爬虫類時代に形成した脳ですが、テレパシーが情報処理の媒体とされ、まだ言葉をしゃべれない胎児や赤ん坊が、母親に何を話しかけられても内容を理解できるような情報処理能力を持っています。
脳幹から大脳新皮質の右脳に通じる回路が開かれれば、肉体的・精神的にヒトを変容させる力を持つ独自のホルモンが間脳視床下部より分泌され、潜在能力が開花することはよく知られている通りですが、太極拳や他の武術での発声法(雷声・気合い)などは間脳を目覚めさせるバイブレーションとして、宗教的な祈りや読経と同じようにホルモンの分泌に大きく関わっているものであり、站椿でのイメージ訓練も同様に、そのようなホルモンの分泌を大いに促すものに他なりません。
站椿は、初心者が最も「用意不用力」を実感しやすい訓練方法です。
站椿では先ず「意」が構造への認識として用いられ、その後に構造の変化への認識、また、その際のチカラの発生への認識などと、多様に用いられることになります。
「意」によって、そこで得られた構造やチカラは、他の基本訓練や套路に活かされ、推手や散手で練られ、試され、修正されて、さらに精密なものになっていきます。
時折、「站椿」が太極拳の練功として如何に大きな意味を持つかを、一般クラスの稽古で強く感じさせられることがあります。
師父がいつもより站椿に多くの時間を取られ、それまで余り教えなかったことなどを少しばかり詳しく指導されると、居合わせた門人たちは、その日に限って「立ち方」や「動き方」がそれまでとは別人のように繊細になったり、対練でいきなり強烈に人が飛び始めたりするようになったりする不思議な現象が起こります。
また、師父によるセミナーでは、門人を床に寝かせ、身体の各部に触れながら動かすべき部位を意識させ、動きのイメージを想起させるだけで、その場で構造が調整され、立ち方や歩き方が劇的に正しくなるという、まるで魔法にでもかけられたように思えることも起こります。
実際にそのような体験を機に太極拳に対する考え方が大きく変わった人も居ますが、正しい構造で整備された「站椿」の理論や練功は、かくも驚くべきチカラを各人にもたらすのだと、あらためて驚かされてしまいます。
しかし、その時に師父が指導されたことは何ら特別なことではなく、言わば普段から耳にしている内容を基本として、それらを新たに創造的に組み立てて行ったような内容でした。
つまり取り立てて新しいものは無く、やろうと思えば自分たちでもその訓練や調整が出来たのだと思います。ただ、その創造性が自分たちには無かった、ということでしょうか。指導力もまた、脳幹や右脳に正しく働きかけられるところの能力であるに違いないと思えます。
站椿もまた、基本功で構成された、基本の構造によるものに他なりません。
基本を如何に教わるか、基本を如何に学ぶか、基本を如何に知るか・・・
かくも素晴らしい武術的な成果を生む站椿も、基本の理解なくしては正にネコに小判、ただ站椿らしきことを真似て球を抱え、原理構造がその度に変化してしまうような馬歩で立っても何ひとつ学習にならないどころか、それによる弊害さえ起こり得るのだと思います。
まずは初心に立ち返って、常に「基本」を学び直す姿勢こそが、站椿のような精密な練功を活かす最大の鍵になるのだと、強く思い知らされるこの頃です。
(つづく)
2010年09月11日
歩々是道場 「站椿 その9」
by のら (一般・武藝クラス所属)
「站椿」を練らない太極拳が多くなった・・・
そんな話を、よく耳にすることがあります。
いやいや、果ては、
『へぇ・・太極拳にも站椿があるんですか?』
とか、
『站椿は、意拳を創始したオー・コーサイさんが考えたんですよね。
近ごろは太極拳も站椿をするようになったんですか?』
などと、ノタマウ人まで居る始末───────
アチョーッ、ドラゴン怒りの鉄拳!!・・と行きたいところですが、
私のジツリキは、せいぜいタツノオトシゴ程度なので、
『ええ、そりゃもー、站椿は太極拳にもありますとも!、ハハ・・』
などとお茶を濁したりしております。(笑)
最近東京から見学に来られた米国人なども、かの国で陳氏の有名老師に就いて長年学んでいながら、站椿 (zhan-zhuang) なんぞジャンジュアン(全然)知らンと言い・・ (^^;)
それを聞いた私たちは大いに驚いたものでした。
やはり、站椿を重視する所と、そうでないトコロに分かれるのでしょうか。
実際に、陳炎林が楊家太極拳の全体系を著した『太極拳刀剣桿散手合編』には先人たちが行った古の訓練内容が説明されており、初学には先ず「馬歩站椿」を練り、これを基本功夫として長い期間を充てた後にようやく「十三勢套路」に入ることを許された、ということが記されています。
また「十三勢」自体も、一勢一式ごとの訓練にそれぞれ数ヶ月の時間が充てられ、入門後、数年を経てもなお、套路が最後まで完成されないことはごく普通のことであったと書かれています。
そのような教授方法を取る門派が、この時代に果たしてどれほど存在するのかは分かりませんが、武術としての太極拳にあっては、その方法は全く正しいと思えます。
現に太極武藝館で行われている教授法は正にその方法が守られており、一般門人の私でさえ初めの5年間ほどは「文勢」と称される第五勢までのところを、ひたすら繰り返して練ることしか許されていませんでした。
ごく普通の太極拳教室に通っている人がこれを聞いたら、ちょっと驚かれるかも知れません。当館の一般門人には、入門から数年を経ても未だ套路を最後まで教わっていない人が多く存在するのです。
かつて毎日欠かさず老師の元に通い、或いは老師宅に住み込み、日々老師のもとで拳を練らない日は無かった時代にさえ、数年経っても套路が完成されなかったような教授法が存在したという事実は、動作を憶えさえすればどんどんその先を教えてくれることが多い今の時代から見れば、まさに隔世の感があります。
太極武藝館に於いて、拝師正門人が十年余りの歳月を経ても十三勢・第二段階の半ば辺りを練っていることは初めは奇異にさえ思えましたが、昔日の教授の実態やその在り方を師父から説明されてからは、実はそれこそが本来の教授法であったのだと認識を新たにしたものです。 そして「站椿」もまた、そのような教授法の下で指導され、その中身が理解されるように導かれていくべきものなのだと思います。
・・・さてさて、站椿のお話です。
実は「静」の站椿では、まだまだやることが沢山あります。
この「静」の段階でコツコツと積んだ功夫こそが、将来の全体の功夫を決定付けると言っても過言ではないのです。
しかし、それを詳しく語ることは私には許されておりませんので、ここからのお話は「動」の站椿へ進むことにします。
「動」の站椿は「太極椿」と呼ばれています。
この太極椿は、初めのうちは、やはり正馬歩で行われるべきでしょう。
それは、これまでに実感できた太極拳の構造を壊してしまわない為であり、その同じ構造の中で「動」を体験するためでもあります。
ここでは「三開合」と呼ばれる、三種類の基本となる開合を「動」の環境の中で整備していきます。これによって漠然としていた「弸勁(ポンジン)」の感覚をより鮮明にしていき、方向性の変化の中でより具体的に実感していくのです。
もちろん、その馬歩に「站椿・その6」でお話しした「”実際に” 椅子に腰掛けている」正しい状態が馬歩の構造として生じていなくては、開合の欠片も理解できません。
それは「まるで腰掛けているような」ものではなく、本当に腰掛けている状態なのです。
弸勁は、開合勁によって「動」として機能するようになります。
「静」の站椿で培った「静中の動」が、「動」の站椿では明確な開合の作用となって現れてくるのです。
開合勁は、腰勁を中心とする他の様々な勁と共に、その機能が生じます。
「静」の站椿を始めたときに、未だ暗中模索の状態であった「弸勁」は、この開合勁の理解によって格段にそのレベルが飛躍することになります。
また、このレベルになれば、対練によってそれを確認することが出来ます。
・・・早い話が、少しばかり相手を飛ばせるようになるのです。
弸勁の構造を得ることが出来れば、軽く触れただけで(実際には触れる前から)相手の身体が崩れ、浮き上がるようになります。
つまり、相手はまるで自分だけ重力が少ないところに居るような「足が地に着かない」状態になり、こちらに力の作用を向けると自分の方が飛んで行ってしまい、反対にこちらからは容易に相手を崩し、飛ばせる状態になるのです。
このような対練は、自分が習得した弸勁がどの程度のチカラを持つのかを実際に体験出来るので、間違っている勁の中身を修正することにたいへん役立ちます。
拙力では、相手をグイーッと押したり、ドッカーンと強く弾くだけに過ぎません。
拙力だと「勁」が効かないので、相手はその作用を受けてもすぐに回復してしまいます。
飛ばしても倒しても何事も無かったかのようにすぐ戻ってきますし、相手が筋骨隆々の人だと、打撃を打ってもまるで効かないパンチになってしまうのです。
何発打っても相手が平気でいるようなパンチは「勁」の無い打撃だと言えます。
本当に「勁」が効いた打撃は、不思議なことに、軽く触れるように打っただけで相手が苦しそうに踞ってしまいます。
そのような打撃を、実際に身体で体験した人に感想を聞くと、本当に軽く触れられた感覚しか無いのに、余りに非日常的な作用のためか、身体が拒否反応をし、本能的に戦闘意欲が萎えて、二度と向かって行きたくなくなってしまうそうです。
相手を飛ばすにしても、打つにしても、相手の身体に「勁(チカラ)」がいつまでも効いているようでなくてはなりません。相手が簡単に身体を元の状態に戻せるような力は、勁とは言い難いものです。 太極武藝館の稽古では、勁を受けた人が天井に頭が着くほど壁を駆け上って行ったり、濡れ雑巾のように壁に貼り付けられたり、師父の「アン(四正手・An)」を受けた人などは中々立ってこられない様子もよく見かけます。
太極椿の第二段階目では「円圏開合」を行います。
これは「纏絲勁訓練」などとも呼ばれている、お馴染みのものです。
円圏開合は先の三種類の弸勁が複合的に組み合わさったものですが、ここでは開合勁や腰勁を用いることによって弸勁をより深く理解していくことができます。
大切なことは、いわゆる「いかにも纏絲に見えるようなフォルム」を求めないことです。
纏絲勁は「站椿」の理解如何に係っており、単にそれらしく腕をグルグル回したり、身体に蔦が巻いたようにグリグリと捻る練習をすることなどでは、決して修得できないものです。
間違ったイメージを持ってしまうと、習得に不要な手間が掛かってしまうので、充分に正しい理解をすることが必要です。まず身体の正しい構造が得られ、その上で正しく「動」が生じさえすれば、纏絲勁の習得はそれほど難しいものではない、とされています。
纏絲勁は、決して天才のみが修得できる高度な秘伝ではなく、初学の段階からきちんと順を追って指導されるべき、太極拳の「基本」なのです。
お馴染みの「四正手」もまた、太極椿の訓練に適したものです。
四正手の站椿では、初めは正馬歩のまま左右に四正手の技法を行い、各々の勁が作用する姿勢でしばらく静止し、各々に「意」を用いて勁を練っていきます。
ただし、その静止した時の「身体の在り方」が問題です。これらは開合勁の理解がなければ何ら意味のない、ただのポーズとなってしまうことでしょう。
正しい構造のもとで開合勁が働くときには、身体の向きを変える際に変化の結果として脚が返るようになりますが、そうなればもう、身体にはすでに様々な勁が自然に働き始めるようになっています。
これは馬歩の架式構造が持つ優れた特徴でもあり、ここで否応なしに動き始める身体の構造は、かの陳清萍さんの編み出した「四つの架式」の練法そのものでもあり、習熟していけば高いレベルでの虚実の転換なども自然に起こるようになりますが、ここでは未だそれらを気に掛けることなく、ひたすら「意」を以て勁を練ることに専念します。
様々な円圏開合によって「意」の実際の使い方と「勁」の概要が理解できたら、次には弸勁の主要な変化を学ぶために「技撃椿」を練ります。
技撃椿の基本訓練は、主に半馬歩の片足をさらに外に向けた歩幅の狭い半馬歩(側馬歩)の形をとり、四正手の勁を用いて訓練が始められます。
今度は正馬歩と違って、左右に向きを変えることはありません。
歩幅は、馬歩の基準を三尺とすれば、半馬歩は一尺から一尺半というところでしょうか。
これは、より技撃性が意識された実戦性の強い立ち方ですが、技撃、実戦と言っても、間違って拙力でリキんでしまってはお話になりません。あくまでも「勁」を練るために「站椿」の訓練が為されなくてはならないのです。
ここでも、先ずは「立ち方=架式」の精度が問われることは言うまでもありません。
半馬歩では、片足が前方に向き、軸足がやや外に向いている形になりますが、この立ち方は足を横に並行に開いた普通の馬歩よりも遥かに難しい構造です。
歩幅も他の内家拳の架式より少々狭く、多くの人はこのカタチになると途端に馬歩の要求を失い、構造が崩れ、架式として成立しなくなります。
ここでは架式の訓練がどれほど重要であるかを誰もが思い知ります。
しかし、すでに馬歩で「起き上がり腹筋」や「腰相撲」「グラウンディング」「壁抜け」などの補助訓練をある程度こなせていた人は、馬歩の構造を実際に体験し正しく使えていたので、半馬歩の調整が容易になります。
半馬歩の站椿で四正四隅手を練るものは、馬歩での站椿とは「意」の用い方が少々異なります。馬歩では「勁」そのものを意識している状態でしたが、ここでは一歩進んで「勁力」や、勁がもたらす「作用」までもが意識されるようになり、四正四隅の各勁に合わせて身体の細部への意識の用い方が詳細に要求されます。
站椿は、套路を正確にこなすためにも、套路訓練をトータルなものにするためにも、大変重要な練功です。套路自体は、言わば一着一着がすべて「站椿」であるとも言えるわけですが、これらの站椿を「基本功」として練ると練らぬとでは、套路の精度そのものが著しく違ってくることになるでしょう。
站椿に限らず「基本功」の重要性は師父が常々声を大にして説かれるところですが、私たちの言う「基本」とは、基本の運動ではなく、太極拳の「基本原理」のことです。
つまり、基本功とは「基本原理を修得するための練功」であると言えます。
そして、基本原理を修得するためには、日常的な身体を武術的な身体の構造に造り替える必要があります。基本功には、その「造り替える方法」が山ほど提示されているのです。これを活用しない手はありません。
基本功が全く存在しなくても、たとえば套路のみで基本原理を修得することは、いわゆる「天才」ならば不可能ではないと思われますが、私のようなごくフツーの人間には充実した基本功があった方が、そりゃもう、良いに決まっています。(笑)
私などは、基本功の存在なくしては太極拳の ”た” の字も理解できないと思われますが、優れた基本功というのは決して私のような愚鈍児への救済措置ではなく、実はそれ自体が凡夫から多くの天才を生み出すことのできる偉大なチカラを持っているものだと思えます。
つまり、美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに・・という具合に、凡人は限りなく天才に近づくことが出来、天才はその天賦の才能にさらに磨きを掛けて、より大きな成長が期待できるものであるものである、と・・・
天才とは、ある意味では反対側からの発想が出来る人だと思います。
凡人がワン・ウエイの思考回路だとすると、天才というのはその裏側や別の角度からもルートを取れる。数式や論理ではなく、図や絵のイメージで立体的にモノとコトを観ることができたりする・・・
虚だけではなく実も。 実だけではなく虚も。
陰だけではなく陽も。 陽だけではなく陰も。
だから「双重の病」なんぞも、「正しい構造」から容易に読み解いてしまい、「病」の本質と、そうでないコトをスパッと発見し、見事に立証してしまう・・・
そこに屁理屈や余分な理論など欠片も入らない。至ってシンプルに、そのものズバリを解読し、誰もがその結果にナルホドと納得させられてしまうのです。
彼らは物事をより広く深く見ることができたり、第三者として自己を観照できたり、一般日常的な考え方を超えたところで世のモノゴトを冷静に見つめ、右脳をフルに活用して新しい発想ができたりするのでしょう。
しかし、天才という名を恣(ほしいまま)にする人たちは、どんな事でもピンとイメージしてスイスイとこなすのかと思いきや、彼らのエピソードを見ると、実はほとんどの天才たちは意外と思えるほどコツコツと地道な努力をしていたり、普通の人生には有り得ないようなハプニングが続いたり、ひとつのことに向かって失敗に失敗を重ねて、ようやく結論にたどり着いたりしていることが共通しています。
こう見ると、ある意味では天才とは凡人から眺めたところの「見え方」であって、実は私たちと同じ世界で同じように必死に努力精進している、謙虚な孤高の努力家のようにも思えてくるのです。
そして、どのような分野に於いても、彼らはまずその「基本」を自力で見出し、自分なりの「基本功」を創って、それを活用しているはずです。
まあ、それが出来ること自体が凡人とは違うところなのでしょうが、実際にはそのような基本を見出すことや、基本を追い求める具体的な方法無しには、如何なる天才といえども、新たな発見や上達は望めないはずだと思えます。
そして、たとえ独自に創造したものであっても、基本は基本、
それは結局のところ、「基本功」に変わりはありません。
きっとその人たちも、後進を指導する際には、その「基本」を使うことでしょう。
だから、やっぱり「基本功」は大切なのだと、私は思っています。
(つづく)
「站椿」を練らない太極拳が多くなった・・・
そんな話を、よく耳にすることがあります。
いやいや、果ては、
『へぇ・・太極拳にも站椿があるんですか?』
とか、
『站椿は、意拳を創始したオー・コーサイさんが考えたんですよね。
近ごろは太極拳も站椿をするようになったんですか?』
などと、ノタマウ人まで居る始末───────
アチョーッ、ドラゴン怒りの鉄拳!!・・と行きたいところですが、
私のジツリキは、せいぜいタツノオトシゴ程度なので、
『ええ、そりゃもー、站椿は太極拳にもありますとも!、ハハ・・』
などとお茶を濁したりしております。(笑)
最近東京から見学に来られた米国人なども、かの国で陳氏の有名老師に就いて長年学んでいながら、站椿 (zhan-zhuang) なんぞジャンジュアン(全然)知らンと言い・・ (^^;)
それを聞いた私たちは大いに驚いたものでした。
やはり、站椿を重視する所と、そうでないトコロに分かれるのでしょうか。
実際に、陳炎林が楊家太極拳の全体系を著した『太極拳刀剣桿散手合編』には先人たちが行った古の訓練内容が説明されており、初学には先ず「馬歩站椿」を練り、これを基本功夫として長い期間を充てた後にようやく「十三勢套路」に入ることを許された、ということが記されています。
また「十三勢」自体も、一勢一式ごとの訓練にそれぞれ数ヶ月の時間が充てられ、入門後、数年を経てもなお、套路が最後まで完成されないことはごく普通のことであったと書かれています。
そのような教授方法を取る門派が、この時代に果たしてどれほど存在するのかは分かりませんが、武術としての太極拳にあっては、その方法は全く正しいと思えます。
現に太極武藝館で行われている教授法は正にその方法が守られており、一般門人の私でさえ初めの5年間ほどは「文勢」と称される第五勢までのところを、ひたすら繰り返して練ることしか許されていませんでした。
ごく普通の太極拳教室に通っている人がこれを聞いたら、ちょっと驚かれるかも知れません。当館の一般門人には、入門から数年を経ても未だ套路を最後まで教わっていない人が多く存在するのです。
かつて毎日欠かさず老師の元に通い、或いは老師宅に住み込み、日々老師のもとで拳を練らない日は無かった時代にさえ、数年経っても套路が完成されなかったような教授法が存在したという事実は、動作を憶えさえすればどんどんその先を教えてくれることが多い今の時代から見れば、まさに隔世の感があります。
太極武藝館に於いて、拝師正門人が十年余りの歳月を経ても十三勢・第二段階の半ば辺りを練っていることは初めは奇異にさえ思えましたが、昔日の教授の実態やその在り方を師父から説明されてからは、実はそれこそが本来の教授法であったのだと認識を新たにしたものです。 そして「站椿」もまた、そのような教授法の下で指導され、その中身が理解されるように導かれていくべきものなのだと思います。
・・・さてさて、站椿のお話です。
実は「静」の站椿では、まだまだやることが沢山あります。
この「静」の段階でコツコツと積んだ功夫こそが、将来の全体の功夫を決定付けると言っても過言ではないのです。
しかし、それを詳しく語ることは私には許されておりませんので、ここからのお話は「動」の站椿へ進むことにします。
「動」の站椿は「太極椿」と呼ばれています。
この太極椿は、初めのうちは、やはり正馬歩で行われるべきでしょう。
それは、これまでに実感できた太極拳の構造を壊してしまわない為であり、その同じ構造の中で「動」を体験するためでもあります。
ここでは「三開合」と呼ばれる、三種類の基本となる開合を「動」の環境の中で整備していきます。これによって漠然としていた「弸勁(ポンジン)」の感覚をより鮮明にしていき、方向性の変化の中でより具体的に実感していくのです。
もちろん、その馬歩に「站椿・その6」でお話しした「”実際に” 椅子に腰掛けている」正しい状態が馬歩の構造として生じていなくては、開合の欠片も理解できません。
それは「まるで腰掛けているような」ものではなく、本当に腰掛けている状態なのです。
弸勁は、開合勁によって「動」として機能するようになります。
「静」の站椿で培った「静中の動」が、「動」の站椿では明確な開合の作用となって現れてくるのです。
開合勁は、腰勁を中心とする他の様々な勁と共に、その機能が生じます。
「静」の站椿を始めたときに、未だ暗中模索の状態であった「弸勁」は、この開合勁の理解によって格段にそのレベルが飛躍することになります。
また、このレベルになれば、対練によってそれを確認することが出来ます。
・・・早い話が、少しばかり相手を飛ばせるようになるのです。
弸勁の構造を得ることが出来れば、軽く触れただけで(実際には触れる前から)相手の身体が崩れ、浮き上がるようになります。
つまり、相手はまるで自分だけ重力が少ないところに居るような「足が地に着かない」状態になり、こちらに力の作用を向けると自分の方が飛んで行ってしまい、反対にこちらからは容易に相手を崩し、飛ばせる状態になるのです。
このような対練は、自分が習得した弸勁がどの程度のチカラを持つのかを実際に体験出来るので、間違っている勁の中身を修正することにたいへん役立ちます。
拙力では、相手をグイーッと押したり、ドッカーンと強く弾くだけに過ぎません。
拙力だと「勁」が効かないので、相手はその作用を受けてもすぐに回復してしまいます。
飛ばしても倒しても何事も無かったかのようにすぐ戻ってきますし、相手が筋骨隆々の人だと、打撃を打ってもまるで効かないパンチになってしまうのです。
何発打っても相手が平気でいるようなパンチは「勁」の無い打撃だと言えます。
本当に「勁」が効いた打撃は、不思議なことに、軽く触れるように打っただけで相手が苦しそうに踞ってしまいます。
そのような打撃を、実際に身体で体験した人に感想を聞くと、本当に軽く触れられた感覚しか無いのに、余りに非日常的な作用のためか、身体が拒否反応をし、本能的に戦闘意欲が萎えて、二度と向かって行きたくなくなってしまうそうです。
相手を飛ばすにしても、打つにしても、相手の身体に「勁(チカラ)」がいつまでも効いているようでなくてはなりません。相手が簡単に身体を元の状態に戻せるような力は、勁とは言い難いものです。 太極武藝館の稽古では、勁を受けた人が天井に頭が着くほど壁を駆け上って行ったり、濡れ雑巾のように壁に貼り付けられたり、師父の「アン(四正手・An)」を受けた人などは中々立ってこられない様子もよく見かけます。
太極椿の第二段階目では「円圏開合」を行います。
これは「纏絲勁訓練」などとも呼ばれている、お馴染みのものです。
円圏開合は先の三種類の弸勁が複合的に組み合わさったものですが、ここでは開合勁や腰勁を用いることによって弸勁をより深く理解していくことができます。
大切なことは、いわゆる「いかにも纏絲に見えるようなフォルム」を求めないことです。
纏絲勁は「站椿」の理解如何に係っており、単にそれらしく腕をグルグル回したり、身体に蔦が巻いたようにグリグリと捻る練習をすることなどでは、決して修得できないものです。
間違ったイメージを持ってしまうと、習得に不要な手間が掛かってしまうので、充分に正しい理解をすることが必要です。まず身体の正しい構造が得られ、その上で正しく「動」が生じさえすれば、纏絲勁の習得はそれほど難しいものではない、とされています。
纏絲勁は、決して天才のみが修得できる高度な秘伝ではなく、初学の段階からきちんと順を追って指導されるべき、太極拳の「基本」なのです。
お馴染みの「四正手」もまた、太極椿の訓練に適したものです。
四正手の站椿では、初めは正馬歩のまま左右に四正手の技法を行い、各々の勁が作用する姿勢でしばらく静止し、各々に「意」を用いて勁を練っていきます。
ただし、その静止した時の「身体の在り方」が問題です。これらは開合勁の理解がなければ何ら意味のない、ただのポーズとなってしまうことでしょう。
正しい構造のもとで開合勁が働くときには、身体の向きを変える際に変化の結果として脚が返るようになりますが、そうなればもう、身体にはすでに様々な勁が自然に働き始めるようになっています。
これは馬歩の架式構造が持つ優れた特徴でもあり、ここで否応なしに動き始める身体の構造は、かの陳清萍さんの編み出した「四つの架式」の練法そのものでもあり、習熟していけば高いレベルでの虚実の転換なども自然に起こるようになりますが、ここでは未だそれらを気に掛けることなく、ひたすら「意」を以て勁を練ることに専念します。
様々な円圏開合によって「意」の実際の使い方と「勁」の概要が理解できたら、次には弸勁の主要な変化を学ぶために「技撃椿」を練ります。
技撃椿の基本訓練は、主に半馬歩の片足をさらに外に向けた歩幅の狭い半馬歩(側馬歩)の形をとり、四正手の勁を用いて訓練が始められます。
今度は正馬歩と違って、左右に向きを変えることはありません。
歩幅は、馬歩の基準を三尺とすれば、半馬歩は一尺から一尺半というところでしょうか。
これは、より技撃性が意識された実戦性の強い立ち方ですが、技撃、実戦と言っても、間違って拙力でリキんでしまってはお話になりません。あくまでも「勁」を練るために「站椿」の訓練が為されなくてはならないのです。
ここでも、先ずは「立ち方=架式」の精度が問われることは言うまでもありません。
半馬歩では、片足が前方に向き、軸足がやや外に向いている形になりますが、この立ち方は足を横に並行に開いた普通の馬歩よりも遥かに難しい構造です。
歩幅も他の内家拳の架式より少々狭く、多くの人はこのカタチになると途端に馬歩の要求を失い、構造が崩れ、架式として成立しなくなります。
ここでは架式の訓練がどれほど重要であるかを誰もが思い知ります。
しかし、すでに馬歩で「起き上がり腹筋」や「腰相撲」「グラウンディング」「壁抜け」などの補助訓練をある程度こなせていた人は、馬歩の構造を実際に体験し正しく使えていたので、半馬歩の調整が容易になります。
半馬歩の站椿で四正四隅手を練るものは、馬歩での站椿とは「意」の用い方が少々異なります。馬歩では「勁」そのものを意識している状態でしたが、ここでは一歩進んで「勁力」や、勁がもたらす「作用」までもが意識されるようになり、四正四隅の各勁に合わせて身体の細部への意識の用い方が詳細に要求されます。
站椿は、套路を正確にこなすためにも、套路訓練をトータルなものにするためにも、大変重要な練功です。套路自体は、言わば一着一着がすべて「站椿」であるとも言えるわけですが、これらの站椿を「基本功」として練ると練らぬとでは、套路の精度そのものが著しく違ってくることになるでしょう。
站椿に限らず「基本功」の重要性は師父が常々声を大にして説かれるところですが、私たちの言う「基本」とは、基本の運動ではなく、太極拳の「基本原理」のことです。
つまり、基本功とは「基本原理を修得するための練功」であると言えます。
そして、基本原理を修得するためには、日常的な身体を武術的な身体の構造に造り替える必要があります。基本功には、その「造り替える方法」が山ほど提示されているのです。これを活用しない手はありません。
基本功が全く存在しなくても、たとえば套路のみで基本原理を修得することは、いわゆる「天才」ならば不可能ではないと思われますが、私のようなごくフツーの人間には充実した基本功があった方が、そりゃもう、良いに決まっています。(笑)
私などは、基本功の存在なくしては太極拳の ”た” の字も理解できないと思われますが、優れた基本功というのは決して私のような愚鈍児への救済措置ではなく、実はそれ自体が凡夫から多くの天才を生み出すことのできる偉大なチカラを持っているものだと思えます。
つまり、美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに・・という具合に、凡人は限りなく天才に近づくことが出来、天才はその天賦の才能にさらに磨きを掛けて、より大きな成長が期待できるものであるものである、と・・・
天才とは、ある意味では反対側からの発想が出来る人だと思います。
凡人がワン・ウエイの思考回路だとすると、天才というのはその裏側や別の角度からもルートを取れる。数式や論理ではなく、図や絵のイメージで立体的にモノとコトを観ることができたりする・・・
虚だけではなく実も。 実だけではなく虚も。
陰だけではなく陽も。 陽だけではなく陰も。
だから「双重の病」なんぞも、「正しい構造」から容易に読み解いてしまい、「病」の本質と、そうでないコトをスパッと発見し、見事に立証してしまう・・・
そこに屁理屈や余分な理論など欠片も入らない。至ってシンプルに、そのものズバリを解読し、誰もがその結果にナルホドと納得させられてしまうのです。
彼らは物事をより広く深く見ることができたり、第三者として自己を観照できたり、一般日常的な考え方を超えたところで世のモノゴトを冷静に見つめ、右脳をフルに活用して新しい発想ができたりするのでしょう。
しかし、天才という名を恣(ほしいまま)にする人たちは、どんな事でもピンとイメージしてスイスイとこなすのかと思いきや、彼らのエピソードを見ると、実はほとんどの天才たちは意外と思えるほどコツコツと地道な努力をしていたり、普通の人生には有り得ないようなハプニングが続いたり、ひとつのことに向かって失敗に失敗を重ねて、ようやく結論にたどり着いたりしていることが共通しています。
こう見ると、ある意味では天才とは凡人から眺めたところの「見え方」であって、実は私たちと同じ世界で同じように必死に努力精進している、謙虚な孤高の努力家のようにも思えてくるのです。
そして、どのような分野に於いても、彼らはまずその「基本」を自力で見出し、自分なりの「基本功」を創って、それを活用しているはずです。
まあ、それが出来ること自体が凡人とは違うところなのでしょうが、実際にはそのような基本を見出すことや、基本を追い求める具体的な方法無しには、如何なる天才といえども、新たな発見や上達は望めないはずだと思えます。
そして、たとえ独自に創造したものであっても、基本は基本、
それは結局のところ、「基本功」に変わりはありません。
きっとその人たちも、後進を指導する際には、その「基本」を使うことでしょう。
だから、やっぱり「基本功」は大切なのだと、私は思っています。
(つづく)
2010年07月29日
歩々是道場 「站椿 その8」
by のら (一般・武藝クラス所属)
站椿は「勁」という太極拳独自のチカラを造りあげます。
勁とは「弸勁(ポンジン)」という名前で表されるところの、陰陽の整った全方位的に均等に用いることのできる武術的なチカラであり、站椿の練功はその「勁」が発生する構造を修得することと、武術として用いられる様々なカタチの「弸勁」を培うことを目的としています。
站椿を理解するためには「放鬆(ファンソン)」が必要となりますが、実は放鬆の状態とは「弸勁」そのものを指しています。
放鬆は往々にして、日常一般的な「リラクセーション」や「脱力」と混同されがちですが、武術的には放鬆が生じていなければ弸勁もまた有り得ず、弸勁には放鬆も必ず存在していなければならないもので、これらは同義語であるとさえ言えます。
太極拳の練習に於いて、何ゆえにかくも放鬆、放鬆と、幾度となく繰り返して指導されるのかと言えば、この放鬆こそが太極勁、即ち「弸勁」の核心であるということに他なりません。
この二つは一見すると異なるものを表しているようにも思えますが、弸勁とは放鬆の現象であり、放鬆とは弸勁の実質を表した言葉であると言えるのです。
多くの太極拳学習者は「放鬆」を「弸勁」とは別のものと考え、この事実を見過ごしているようですが、站椿によって正しい構造が得られ、弸勁の何たるかが理解できれば、実はそれが放鬆そのものであったことを正しく実感できるはずです。
この問題は古くから斯界に度々論争を引き起こしてきたようで、中国の関係資料を紐解けば「鬆と緊」「柔と剛」「鬆柔と弸勁」「放鬆と勁力」等々の関係について、様々な人たちが様々な論を以て争ってきたことが分かります。
しかし、それらの論争の内容を見ても、少なくとも「放鬆」とは日本人にお馴染みの脱力でもなければリラクセーションでもなく、ましてや身体を柔らかくすることや、単に筋肉を弛緩させることでもないことは明らかです。
そもそも「脱力」という言葉自体が中国語に存在せず、従ってそのような考え方が太極拳に存在するはずもなく、物理的に見ても高度な武術原理には成り難いことについては、すでに太極武藝館のホームページにある『太極拳を科学する』で指摘されていますが、この「放鬆」も日本人にとってはなかなか理解し難く、多くの誤解の中にその実態が隠され、誤解がさらに新たな誤解を生んで、学習者を悩ませ続けてきたものなのかもしれません。
それは、王宗岳訣文にある《 双重之病 》や、《 立如平準、活似車輪 》などということについても、また然りであると思われます。
教えられるとおりに、余分な力を抜こうとして脱力し、リラックスしようとしても、
一体どこを脱力し、何をリラックスすれば良いのやら・・・
何のために、どこをどうやって緩め、何を抜けば良いのか・・・
ともかく肩の力を抜き、肘を落とし、背中の力みも抜き・・・と、やってはみるものの、
いざ動き始めれば元の木阿弥、イケナイと言われる無駄な力みはサッパリ抜けず、
仕方なく、心地良いリラクセーションが我が身を包み込む想像ばかりが膨らんでいく・・・
・・いや、しかし、これでは「健身気功」と何が違うんだか・・・
リラックスすることが放鬆なら、然らば、眠っている時はずっと放鬆なのか・・・
むむ・・・それでは太極拳は酔拳ならぬ「睡拳」とでも言うべきか・・??
・・・他門の太極拳を学んできた入門者から、長年そんな疑問に大いに悩んだという話を聞いたこともあります。
かく言う私も師父に指導を受けるまでは、「放鬆」とは緊張やリキミの無い整ったリラックス状態であり、反対に「弸勁」とはバランスの取れた整った緊張である、などと勝手に思い込んでいました。今想えば汗顔の至りですが、正しい指導を頂いていたにも関わらず、自分勝手にイメージしやすい方向に解釈し、思い込みを膨らませていたのです。
一般的な太極拳では、「放鬆」さえ出来ればどんどん学習が進む、といったような感覚さえあると言います。しかし、そこで説かれる「放鬆」は単なるリラクセーションや筋肉の弛緩を指していることが多く、それが太極拳と何処でどう繋がっていくのかという ”肝心なトコロ” について、指導者から納得のいく指導を受けることは非常に希なことらしく、そのために未だに多くの人々を悩ませ続けているようです。
太極武藝館では、かつて「放鬆」をテーマにしたセミナーが開かれました。
そこでは様々な実験を交えて放鬆が詳しく解説指導され、参加者たちは放鬆の本質を実際に体験し、よく理解することができたと思います。
このセミナーでは、まず「緊張」とは何か、武術的な構造にとって「緊張」はどのように作用するのかという「緊張の構造」から学習が始められ、心身両面に亘ってその詳細が解明されていきました。
また、身体が「正しい構造」に整えられることによってそれが解決されていく事にも詳しい説明がなされて行きました。それはこれまで様々な太極拳関連の書物や資料でも全くと言って良いほど言及されたことのない、たいへん貴重な内容であると言えます。
太極武藝館の門人には、精神科を含む現役の医師が数名居りますが、人間の心身両面から「放鬆」を深く掘り下げて解明したこのセミナーの内容は、現代医学の立場からも彼らを納得させ、大いに共感させていました。
「放鬆」は、単なるリラクセーションや弛緩ではありません。
リラクセーション自体は、放鬆が生じるためのひとつの要因に過ぎないのです。
例えば「自律訓練法」や「催眠療法」でも心身にリラクセーションを生じさせることはできますが、それが武術的な意味においての「放鬆」にならないのは誰にも明白なことでしょう。
もし放鬆の実体がそのようなリラクセーションであるのなら、身体はほとんど眠る直前の心地よい ”癒し” のような状態となり、そのままではとても高度な武術の技法を駆使しながら目の前の敵に立ち向かえるとは思えません。
単なる脱力や弛緩も、もちろん「放鬆」には成り得ないものでしょう。
按摩やマッサージ、鍼灸治療や筋弛緩剤を用いても筋肉を弛緩させることはできますが、それらの刺激の効果が無くなった時点から、筋肉は徐々に元の状態に戻ってしまいます。それは筋肉本来の性質でもあります。
人間は自ら生み出した緊張を自ら更に強化してしまうような動物であり、もし正しい構造を造る上で不要となる緊張があるのなら、それを弛緩ではなく「変性」させなくてはならず、そうしない限りは、毎瞬毎回、放鬆と称して弛緩を繰り返さなくてはなりません。
放鬆とは、ただ《こう在ればこうなる》という、至って単純明快な「武術のための構造」であって、どこかを弛めたり抜いたりしながらそれを求めるような方法とは全くアプローチが異なるものです。
そもそも、ありとあらゆる「緊張」は、本人の「主観的な感覚」や「内的な体験」から生じているものであって、筋肉の弛緩を求めようとする時には、たとえそこに緊張が存在していたとしても、本人の感覚通りの「筋緊張」が存在するとは限らないのです。
そして、そうであるなら、いったい何を「弛緩」させようというのでしょうか。
構造を整えようとして必要な筋肉だけを使い、不要な筋肉を使わないように「弛緩」させるなどということには、そのような意味からも大変無理があります。
それ自体は不可能ではないかもしれませんが、恐らく武術の構造としては雑駁(ざっぱく)に過ぎるものであり、部分に偏る懸念もあって、肝心の「正しい構造」が生じなくなってしまうのではないでしょうか。
そもそも、ヒトはこの筋肉はこれに使おう、あの筋肉はこの用途に使おう、というようには身体を使っていません。特に太極拳のような高度な武術では、身体を「全体=ひとつ」でトータルに用いることが要求されているのです。この筋肉を此処で使ってしまうことがイケナイと言われても、何かの為に身体が運動を始めた時には、すでに全身の筋肉が総動員して働いているわけであって、実際には何処かの筋肉だけを弛めたり、それを全く使わずに運動することなどは、ほとんど不可能であると思えます。
筋肉というものは、多かれ少なかれ、各々が筋緊張を行うがゆえにその働きをしてくれているわけで、筋緊張を弛緩させて構造の働きとなるような身体のシステムはどこにも見当たりません。身体を弛めて使えるのは、「落下」や「居着き」ぐらいのものでしょうか。
もしそのような部分的なことが可能となるように筋肉をひとつひとつ ”教育” しなくてはならないとしたら・・・まぁ、太極拳というのは何という難儀な、修得するまでに恐ろしく時間のかかる、気が長い武術であることでしょうか。
何よりも、放鬆や弸勁は「構造の整備」によって ”生じる” ものであり、そのつど部分的な整備をしなければならないような回りくどい方法を必要としません。
また、「弛める」ことから「柔らかさ」が発想されるのでしょうか、柔らかいコトが当たり前のように言われることの多い太極拳ですが、この「柔らかさ」というものにも大いに誤解があるように思えます。
動と静、開と合などと同じように、太極拳で求められる「柔」は「剛」の対語であって、日本語の「柔らかさ」のニュアンスとは大きく異なるものです。
「静」が「静けさ」であると誤解されやすいように、「柔」が「柔らかい状態」という日本語的な認識になってしまうと、フニャフニャした弛みや脱力、柔軟性といった誤った観念が幅を効かせるようになってしまうかもしれません。やはり、指先でツツかれたらそこから腐るような(?)柔らかさでは、太極拳の構造にはならないのだと思えます。
では、太極拳は「柔らかく」はないのでしょうか?・・・・
確かに太極拳では身体は柔らかく使われていますが、それは決して身体を柔らかくしているのではなく、正しい構造が整えられたことによって「柔という性質」が身体に生じていると捉えるべきでしょう。身体を柔らかく動かそうとしても、構造が間違っていればその状態はすでにそれ自体が「拙力」であり、そのような柔らかさは正しい構造から自然に生じる「柔」の性質とは全く異なるものです。
太極拳の正しい構造である「弸勁」は、《 ただこう在れば良い 》というものです。
それは高度な技藝を得るという名目でアレコレと余分な材料で構築された複雑怪奇な構造では決してありません。
そして、弸勁がそうであるが故に、放鬆もまた、アレをこうしてドコがこうなってナニをどうするというものではなく、単に《 ただこう在れば良い 》というだけのものです。
その「ただひとつのこと」を見つけるために、「站椿」が練られるのです。
放鬆を得るためには、確かに心身の余分な緊張を解きほぐす必要があります。
一般的には、その過程で必要となる「リラクセーション」のみが取り上げられ、それ自体が「放鬆」の定義とされるようになったのではないか、とも考えられます。
近ごろの中国では「鬆」の文字を簡略化して「松」と書くようになったので、なおさら実際のイメージが希薄になってしまいました。
ン?・・松を放る?!・・・松の木ばかりがマツじゃない〜♪(・・かなり古いですが)
英語と違って、象形である漢字は見るだけでヒトの潜在意識に働きかけてくるので、これから太極拳を学ぶ人たちは「放松」の ”松” という文字を見て、単に『目出度さが放散されている!』などと感じるようになるかも知れません(笑)。
利便の追求で変更され、そのために正しく意味を為さなくなった文字は、今後徐々に伝統文化を歪め、侵していくことになる可能性もあります。
かつて古い時代に於いての「放鬆」は、太極勁=弸勁を生み出すための ”要素” としてではなく、放鬆の状態そのものが、すなわち「弸勁」であると捉えられていたはずです。
一着一勢を練る間に、何度も何度も繰り返して「放鬆」が意識されなくてはならないのは、それが「弸勁の構造」をそのつど捉え直す意味に他ならないからではないでしょうか。
放鬆と弸勁が別のものとして区別されるようになってきたのは、近年に入って太極拳の大流行が見られるようになってからのことかもしれません。
放鬆が生じる構造とは、すなわち弸勁であり、
弸勁が生じる構造とは、すなわち放鬆である・・という事実があります。
放鬆、あるいは弸勁は、もともと同じひとつの在り方であり、同じひとつの方法であって、
ただそのように「在る」だけで、太極拳の構造が生じるという性質のものです。
そのふたつに於ける「在り方」や、それに至る「方法」は全く同じものです。
つまり、それらは元々「ひとつの構造」である、ということになります。
そして、その「ひとつの構造」こそが站椿で求められるべき構造であり、
基本功や套路、散推や技撃に至るまで、変わることなく求め続けられる構造である、
ということになります。
(つづく)
站椿は「勁」という太極拳独自のチカラを造りあげます。
勁とは「弸勁(ポンジン)」という名前で表されるところの、陰陽の整った全方位的に均等に用いることのできる武術的なチカラであり、站椿の練功はその「勁」が発生する構造を修得することと、武術として用いられる様々なカタチの「弸勁」を培うことを目的としています。
站椿を理解するためには「放鬆(ファンソン)」が必要となりますが、実は放鬆の状態とは「弸勁」そのものを指しています。
放鬆は往々にして、日常一般的な「リラクセーション」や「脱力」と混同されがちですが、武術的には放鬆が生じていなければ弸勁もまた有り得ず、弸勁には放鬆も必ず存在していなければならないもので、これらは同義語であるとさえ言えます。
太極拳の練習に於いて、何ゆえにかくも放鬆、放鬆と、幾度となく繰り返して指導されるのかと言えば、この放鬆こそが太極勁、即ち「弸勁」の核心であるということに他なりません。
この二つは一見すると異なるものを表しているようにも思えますが、弸勁とは放鬆の現象であり、放鬆とは弸勁の実質を表した言葉であると言えるのです。
多くの太極拳学習者は「放鬆」を「弸勁」とは別のものと考え、この事実を見過ごしているようですが、站椿によって正しい構造が得られ、弸勁の何たるかが理解できれば、実はそれが放鬆そのものであったことを正しく実感できるはずです。
この問題は古くから斯界に度々論争を引き起こしてきたようで、中国の関係資料を紐解けば「鬆と緊」「柔と剛」「鬆柔と弸勁」「放鬆と勁力」等々の関係について、様々な人たちが様々な論を以て争ってきたことが分かります。
しかし、それらの論争の内容を見ても、少なくとも「放鬆」とは日本人にお馴染みの脱力でもなければリラクセーションでもなく、ましてや身体を柔らかくすることや、単に筋肉を弛緩させることでもないことは明らかです。
そもそも「脱力」という言葉自体が中国語に存在せず、従ってそのような考え方が太極拳に存在するはずもなく、物理的に見ても高度な武術原理には成り難いことについては、すでに太極武藝館のホームページにある『太極拳を科学する』で指摘されていますが、この「放鬆」も日本人にとってはなかなか理解し難く、多くの誤解の中にその実態が隠され、誤解がさらに新たな誤解を生んで、学習者を悩ませ続けてきたものなのかもしれません。
それは、王宗岳訣文にある《 双重之病 》や、《 立如平準、活似車輪 》などということについても、また然りであると思われます。
教えられるとおりに、余分な力を抜こうとして脱力し、リラックスしようとしても、
一体どこを脱力し、何をリラックスすれば良いのやら・・・
何のために、どこをどうやって緩め、何を抜けば良いのか・・・
ともかく肩の力を抜き、肘を落とし、背中の力みも抜き・・・と、やってはみるものの、
いざ動き始めれば元の木阿弥、イケナイと言われる無駄な力みはサッパリ抜けず、
仕方なく、心地良いリラクセーションが我が身を包み込む想像ばかりが膨らんでいく・・・
・・いや、しかし、これでは「健身気功」と何が違うんだか・・・
リラックスすることが放鬆なら、然らば、眠っている時はずっと放鬆なのか・・・
むむ・・・それでは太極拳は酔拳ならぬ「睡拳」とでも言うべきか・・??
・・・他門の太極拳を学んできた入門者から、長年そんな疑問に大いに悩んだという話を聞いたこともあります。
かく言う私も師父に指導を受けるまでは、「放鬆」とは緊張やリキミの無い整ったリラックス状態であり、反対に「弸勁」とはバランスの取れた整った緊張である、などと勝手に思い込んでいました。今想えば汗顔の至りですが、正しい指導を頂いていたにも関わらず、自分勝手にイメージしやすい方向に解釈し、思い込みを膨らませていたのです。
一般的な太極拳では、「放鬆」さえ出来ればどんどん学習が進む、といったような感覚さえあると言います。しかし、そこで説かれる「放鬆」は単なるリラクセーションや筋肉の弛緩を指していることが多く、それが太極拳と何処でどう繋がっていくのかという ”肝心なトコロ” について、指導者から納得のいく指導を受けることは非常に希なことらしく、そのために未だに多くの人々を悩ませ続けているようです。
太極武藝館では、かつて「放鬆」をテーマにしたセミナーが開かれました。
そこでは様々な実験を交えて放鬆が詳しく解説指導され、参加者たちは放鬆の本質を実際に体験し、よく理解することができたと思います。
このセミナーでは、まず「緊張」とは何か、武術的な構造にとって「緊張」はどのように作用するのかという「緊張の構造」から学習が始められ、心身両面に亘ってその詳細が解明されていきました。
また、身体が「正しい構造」に整えられることによってそれが解決されていく事にも詳しい説明がなされて行きました。それはこれまで様々な太極拳関連の書物や資料でも全くと言って良いほど言及されたことのない、たいへん貴重な内容であると言えます。
太極武藝館の門人には、精神科を含む現役の医師が数名居りますが、人間の心身両面から「放鬆」を深く掘り下げて解明したこのセミナーの内容は、現代医学の立場からも彼らを納得させ、大いに共感させていました。
「放鬆」は、単なるリラクセーションや弛緩ではありません。
リラクセーション自体は、放鬆が生じるためのひとつの要因に過ぎないのです。
例えば「自律訓練法」や「催眠療法」でも心身にリラクセーションを生じさせることはできますが、それが武術的な意味においての「放鬆」にならないのは誰にも明白なことでしょう。
もし放鬆の実体がそのようなリラクセーションであるのなら、身体はほとんど眠る直前の心地よい ”癒し” のような状態となり、そのままではとても高度な武術の技法を駆使しながら目の前の敵に立ち向かえるとは思えません。
単なる脱力や弛緩も、もちろん「放鬆」には成り得ないものでしょう。
按摩やマッサージ、鍼灸治療や筋弛緩剤を用いても筋肉を弛緩させることはできますが、それらの刺激の効果が無くなった時点から、筋肉は徐々に元の状態に戻ってしまいます。それは筋肉本来の性質でもあります。
人間は自ら生み出した緊張を自ら更に強化してしまうような動物であり、もし正しい構造を造る上で不要となる緊張があるのなら、それを弛緩ではなく「変性」させなくてはならず、そうしない限りは、毎瞬毎回、放鬆と称して弛緩を繰り返さなくてはなりません。
放鬆とは、ただ《こう在ればこうなる》という、至って単純明快な「武術のための構造」であって、どこかを弛めたり抜いたりしながらそれを求めるような方法とは全くアプローチが異なるものです。
そもそも、ありとあらゆる「緊張」は、本人の「主観的な感覚」や「内的な体験」から生じているものであって、筋肉の弛緩を求めようとする時には、たとえそこに緊張が存在していたとしても、本人の感覚通りの「筋緊張」が存在するとは限らないのです。
そして、そうであるなら、いったい何を「弛緩」させようというのでしょうか。
構造を整えようとして必要な筋肉だけを使い、不要な筋肉を使わないように「弛緩」させるなどということには、そのような意味からも大変無理があります。
それ自体は不可能ではないかもしれませんが、恐らく武術の構造としては雑駁(ざっぱく)に過ぎるものであり、部分に偏る懸念もあって、肝心の「正しい構造」が生じなくなってしまうのではないでしょうか。
そもそも、ヒトはこの筋肉はこれに使おう、あの筋肉はこの用途に使おう、というようには身体を使っていません。特に太極拳のような高度な武術では、身体を「全体=ひとつ」でトータルに用いることが要求されているのです。この筋肉を此処で使ってしまうことがイケナイと言われても、何かの為に身体が運動を始めた時には、すでに全身の筋肉が総動員して働いているわけであって、実際には何処かの筋肉だけを弛めたり、それを全く使わずに運動することなどは、ほとんど不可能であると思えます。
筋肉というものは、多かれ少なかれ、各々が筋緊張を行うがゆえにその働きをしてくれているわけで、筋緊張を弛緩させて構造の働きとなるような身体のシステムはどこにも見当たりません。身体を弛めて使えるのは、「落下」や「居着き」ぐらいのものでしょうか。
もしそのような部分的なことが可能となるように筋肉をひとつひとつ ”教育” しなくてはならないとしたら・・・まぁ、太極拳というのは何という難儀な、修得するまでに恐ろしく時間のかかる、気が長い武術であることでしょうか。
何よりも、放鬆や弸勁は「構造の整備」によって ”生じる” ものであり、そのつど部分的な整備をしなければならないような回りくどい方法を必要としません。
また、「弛める」ことから「柔らかさ」が発想されるのでしょうか、柔らかいコトが当たり前のように言われることの多い太極拳ですが、この「柔らかさ」というものにも大いに誤解があるように思えます。
動と静、開と合などと同じように、太極拳で求められる「柔」は「剛」の対語であって、日本語の「柔らかさ」のニュアンスとは大きく異なるものです。
「静」が「静けさ」であると誤解されやすいように、「柔」が「柔らかい状態」という日本語的な認識になってしまうと、フニャフニャした弛みや脱力、柔軟性といった誤った観念が幅を効かせるようになってしまうかもしれません。やはり、指先でツツかれたらそこから腐るような(?)柔らかさでは、太極拳の構造にはならないのだと思えます。
では、太極拳は「柔らかく」はないのでしょうか?・・・・
確かに太極拳では身体は柔らかく使われていますが、それは決して身体を柔らかくしているのではなく、正しい構造が整えられたことによって「柔という性質」が身体に生じていると捉えるべきでしょう。身体を柔らかく動かそうとしても、構造が間違っていればその状態はすでにそれ自体が「拙力」であり、そのような柔らかさは正しい構造から自然に生じる「柔」の性質とは全く異なるものです。
太極拳の正しい構造である「弸勁」は、《 ただこう在れば良い 》というものです。
それは高度な技藝を得るという名目でアレコレと余分な材料で構築された複雑怪奇な構造では決してありません。
そして、弸勁がそうであるが故に、放鬆もまた、アレをこうしてドコがこうなってナニをどうするというものではなく、単に《 ただこう在れば良い 》というだけのものです。
その「ただひとつのこと」を見つけるために、「站椿」が練られるのです。
放鬆を得るためには、確かに心身の余分な緊張を解きほぐす必要があります。
一般的には、その過程で必要となる「リラクセーション」のみが取り上げられ、それ自体が「放鬆」の定義とされるようになったのではないか、とも考えられます。
近ごろの中国では「鬆」の文字を簡略化して「松」と書くようになったので、なおさら実際のイメージが希薄になってしまいました。
ン?・・松を放る?!・・・松の木ばかりがマツじゃない〜♪(・・かなり古いですが)
英語と違って、象形である漢字は見るだけでヒトの潜在意識に働きかけてくるので、これから太極拳を学ぶ人たちは「放松」の ”松” という文字を見て、単に『目出度さが放散されている!』などと感じるようになるかも知れません(笑)。
利便の追求で変更され、そのために正しく意味を為さなくなった文字は、今後徐々に伝統文化を歪め、侵していくことになる可能性もあります。
かつて古い時代に於いての「放鬆」は、太極勁=弸勁を生み出すための ”要素” としてではなく、放鬆の状態そのものが、すなわち「弸勁」であると捉えられていたはずです。
一着一勢を練る間に、何度も何度も繰り返して「放鬆」が意識されなくてはならないのは、それが「弸勁の構造」をそのつど捉え直す意味に他ならないからではないでしょうか。
放鬆と弸勁が別のものとして区別されるようになってきたのは、近年に入って太極拳の大流行が見られるようになってからのことかもしれません。
放鬆が生じる構造とは、すなわち弸勁であり、
弸勁が生じる構造とは、すなわち放鬆である・・という事実があります。
放鬆、あるいは弸勁は、もともと同じひとつの在り方であり、同じひとつの方法であって、
ただそのように「在る」だけで、太極拳の構造が生じるという性質のものです。
そのふたつに於ける「在り方」や、それに至る「方法」は全く同じものです。
つまり、それらは元々「ひとつの構造」である、ということになります。
そして、その「ひとつの構造」こそが站椿で求められるべき構造であり、
基本功や套路、散推や技撃に至るまで、変わることなく求め続けられる構造である、
ということになります。
(つづく)
2010年06月10日
歩々是道場 「站椿 その7」
by のら (一般・武藝クラス所属)
站椿は、低く辛い姿勢を取って足腰を鍛えるものでもなければ、ボールを膨らませるイメージで擬似的に「弸勁(ポンジン)」をつくることでもない、ということは既に書きました。
站椿の訓練体系は、
《「意」を用いて「勁」という独自のチカラを発生させる構造を造ること 》
・・ただひたすら、それに尽きます。
ここで言う「意ヲ用イテ」とは、正しい構造理論を理解した上で、それを力感によってではなく、正しい意識とイメージで構造を正しく機能させる、という意味です。
「勁」は太極拳の全ての瞬間瞬間の動きに使われ続けている ”原動力” であって、ひとつずつの技法にそのつど発生させて用いられる力ではありません。太極拳として身体が動くためには、どのような小さくささやかな動きであっても、「勁のはたらき」以外の力は微塵も用いられていないのです。
陳氏太極拳図説を著された陳鑫先師が仰るところの《 開合虚実是為拳経 》とは、大変意味深い言葉です。太極拳の全ての動きとチカラが「開合虚実」によるものであることが分からなければ、足を蹴り、身体を落下させることで自分を動かす、などといった、開合や虚実とはおよそ無縁の「日常」の運動システムからしか太極拳を捉えることが出来ません。
『勁はバネチカラで、拙力はバカチカラ・・・』とは、かの笠尾恭二先生の言葉ですが、師父はこれを、中々言い得て妙であると仰いました。太極拳で用いられるチカラのひとつは、正にそのバネチカラを中心とする《 身肢放長的弾性運動 》に他なりません。
しかしながら、いったい何を以て「弾性運動」とするのかが問題です。
その「バネチカラ」は、まるでトランポリンのようなチカラを持っていますが、不思議なことに、それは人がトランポリンを使って跳ねることの中には存在していません。
つまり、弾性運動を実感したり習得するためにトランポリンで跳ねたり、空中に舞い上がる際、或いは落下する際にどう動くかを練習しても全く無意味であって、そのほかに、走り込もうが、縄跳びをしようが、スクワットをしようが、膝をウンと曲げて超低架式で套路を練ろうが全く何の役にも立たない・・そのあたりが太極拳のたいへん面白いところです。
勁力とは、このバネチカラを中心とする複合的な「構造力」であると言えますが、これは正しい学習体系の訓練を許されてもなお、修得することがたいへん困難なものです。
「日常」という構造の中で太極拳を練ってしまっていると、そのようなチカラ自体が全く発想できなかったり、あるいは「バネ」自体を勘違いして、わざわざ日常的な拙力の亜流を造り、それをバネであるかのように思い込まざるを得なくなる場合もあります。
そうなるともう、何をやっても「バカチカラ」にしか・・なりません。(笑)
しかし正しい構造を学習させて頂いてもなお、日常という土壌でたっぷり鍛えてきた我がアタマの固定観念と身に染みついた習慣はそう簡単には否定できるものではありません。正しい構造を学んでいると、「勁力」というものが決して世に広く伝えられることが無かった理由が改めて実感されます。
さて、抱球勢で練功を続けていくと、やがて「弸勁」が発生するようになります。
・・・もちろん「正しい構造」で抱球勢の站椿を続けていれば、の話です。
本来は、正しい構造であれば、站椿で立ったその瞬間から弸勁が”発生”するのであって、何も起こらないのは、ひたすらその「構造」が間違っていたということになります。
この抱球勢での弸勁の実感は「勁」を習得するためのささやかな第一歩となります。
抱球勢は、もともと胸の前に抱えた一個の大きな球に限られることではなく、そのようなイメージは抱球勢站椿の全体から見れば単なる初めのきっかけに過ぎません。
太極拳では、身体中に存在する多くの球が複合的にはたらくのであって、もし前述のごとき「膨らませた弸勁のボール」のようなイメージだけで抱球勢に臨んでいると、身体のあちこちに存在する「球」が意識されにくくなり、弸勁自体がとても貧しいものになってしまうおそれがあります。
また、加えて「馬歩」の構造への要求が正しく追及されないようであれば、もうその站椿は決して太極拳の練功には成り得いものになってしまいます。
抱球勢は、胸の前で球を抱えるもの以外にも、上腹部の前で抱えるものと、下腹部の前で抱えるものの三種類を行うのが一般的であるようです。
抱球勢では主としてそれら三種の弸勁を整えていくわけなのですが、そうすることによって胸の前で抱えるだけでは分かりにくかった「構造の変化」によるチカラの発生がより明確になり、理解されやすくなってきます。
しかし、一旦理解されればその三つの種類をいちいち行う必要はなく、意念により、胸の前で抱えるものだけでも、同じ結果を導くことも出来ます。
また、これが理解されれば他の基本功・・例えば纏絲勁の練功などにもスンナリと入っていくことができます。
抱球勢の目的はあくまでも太極拳の基本的な構造を整えることにあり、その根元的なチカラである弸勁を体感し、徐々にそれを大きくしていくことにあります。
しかし弸勁は、抱球勢で練られるだけでは、武術としては使い物になりません。
ここで得られた弸勁は「太極勁」へのささやかな第一歩に過ぎず、その遠い道程の初めの一瞥(いちべつ)に過ぎないのです。
弸勁は、様々な方法によって、様々な種類の勁力として、もっと広く、もっと深く、さらに繊細に認識される必要がありますが、それは抱球勢の次の段階として行われる「動の站椿」に存在しています。
「動」の站椿では、実際に武術としての戦闘に用いられる「勁」が練られます。
それを練るためにも、つまり太極拳が強力な武術として存在し続けるためにも、まずは馬歩による抱球勢を限りなく正しく取れなくてはなりません。
馬歩の抱球勢は、それ自体が「静中の動」であることはすでに書きましたが、次の「動」の站椿では、その「動」自体が動き始めます。
このように、馬歩の精度は、すなわち武術としての「技撃」の精度になっていくのです。
実際には、正しい馬歩が理解されなくては、基本功はおろか套路なども何ひとつ始まりません。それ以前では予備式も起勢も、本来はまったく微動だに出来ない状態なのです。
それを余りにも気軽にやってしまえたり、敢えて省いてしまったりすることのできる状況は現代という時代の太極拳の質を端的に現しているように思えてなりません。
「馬歩」の要求が、果たして正しく身に付いているかどうかは、このブログやホームページの中でも度々触れられている、《 グラウンディング 》と呼ばれる練習法があります。
これは「腰相撲」の直立バージョンとでも言えるものですが、ホームページでは、『正しく立つこと自体が、すでに居着かない状態を意味する』・・と説明されています。
かつてホームページにこの練功の写真を出したところ、某掲示板で「トーテムポール」と名付けられ「こんなもの絶対にできるワケがない、インチキだ!」と騒がれたことが思い出されますが、論より証拠、太極武藝館を訪れてみれば誰もがそれを体験できます。
グラウンディングは他の記事と重複することになりますが、站椿を理解しやすいのでこの稿でも少し触れることにしましょう。
まず肩幅の並歩で立ち、前に出した両掌をパートナーにゆっくり押してもらいます。
この時、膝はほとんど曲げず、軽く曲がっている程度で、パートナーに寄り掛かることで耐えることのないよう真っ直ぐに立ち、決して前傾しないようにし、お尻を後ろに突き出さないようにします。
つまり、押されている最中に、相手が手を離したら前に崩れるようでは誤りです。
このような状況では、普通は前に身体を傾けて相手の押す力に耐えようとしますが、前傾せずに正しく立つことによってのみ、「馬歩の構造」が理解できます。
自分を横から見た姿が鏡などで確認できると分かりやすいでしょう。
普通の人は、軽く押されても後ろに崩されてしまいますが、正しい馬歩の構造が理解できれば、不思議なことに、パートナーがかなりの力を入れても押せません。
しかし、押されている側には頑張っている気配が何もありません。
ただ真っ直ぐに、或いは後ろに立っているとさえ思えるような姿勢なのですが、押されたまま殆ど手を動かさずに相手を大きく飛ばしたり、その場で片足で立ったり、足踏みをすることさえ出来てしまいます。
ただ抱球勢で立っているだけでは、そこで練られるべきことをなかなか理解し難いものですが、このような練功で「馬歩の構造」が理解されれば、站椿に於ける馬歩の抱球勢は、さらに有意義なものになることでしょう。
先に述べたように、「抱球勢」は空気でボールを膨らませるイメージで弸勁を養成していくのではなく、「球」を抱えるその行為自体がすでに弸勁となるような「意」の要求によって、身体の構造が整えられていきます。
・・・では、何故、まずそこに「弸勁」が求められるのか。
それは弸勁、つまり《 陰陽虚実が存在する球状のチカラ 》こそが、太極拳の武術的な動きとチカラを発生する根本的な環境となるからです。
「球を抱える」スタイルにするのは、それがシステムを学ぶために効率的な形であるからに他なりません。
そして、抱えられた「球」は、そのシステムゆえに、その後、馬歩の構造に実に様々な変化をもたらしていきます。
いや、正確には、変化がもたらされるように ”仕向けていく” のですが・・・
その変化こそが、太極拳の「勁力」を生み出すことになります。
(つづく)
站椿は、低く辛い姿勢を取って足腰を鍛えるものでもなければ、ボールを膨らませるイメージで擬似的に「弸勁(ポンジン)」をつくることでもない、ということは既に書きました。
站椿の訓練体系は、
《「意」を用いて「勁」という独自のチカラを発生させる構造を造ること 》
・・ただひたすら、それに尽きます。
ここで言う「意ヲ用イテ」とは、正しい構造理論を理解した上で、それを力感によってではなく、正しい意識とイメージで構造を正しく機能させる、という意味です。
「勁」は太極拳の全ての瞬間瞬間の動きに使われ続けている ”原動力” であって、ひとつずつの技法にそのつど発生させて用いられる力ではありません。太極拳として身体が動くためには、どのような小さくささやかな動きであっても、「勁のはたらき」以外の力は微塵も用いられていないのです。
陳氏太極拳図説を著された陳鑫先師が仰るところの《 開合虚実是為拳経 》とは、大変意味深い言葉です。太極拳の全ての動きとチカラが「開合虚実」によるものであることが分からなければ、足を蹴り、身体を落下させることで自分を動かす、などといった、開合や虚実とはおよそ無縁の「日常」の運動システムからしか太極拳を捉えることが出来ません。
『勁はバネチカラで、拙力はバカチカラ・・・』とは、かの笠尾恭二先生の言葉ですが、師父はこれを、中々言い得て妙であると仰いました。太極拳で用いられるチカラのひとつは、正にそのバネチカラを中心とする《 身肢放長的弾性運動 》に他なりません。
しかしながら、いったい何を以て「弾性運動」とするのかが問題です。
その「バネチカラ」は、まるでトランポリンのようなチカラを持っていますが、不思議なことに、それは人がトランポリンを使って跳ねることの中には存在していません。
つまり、弾性運動を実感したり習得するためにトランポリンで跳ねたり、空中に舞い上がる際、或いは落下する際にどう動くかを練習しても全く無意味であって、そのほかに、走り込もうが、縄跳びをしようが、スクワットをしようが、膝をウンと曲げて超低架式で套路を練ろうが全く何の役にも立たない・・そのあたりが太極拳のたいへん面白いところです。
勁力とは、このバネチカラを中心とする複合的な「構造力」であると言えますが、これは正しい学習体系の訓練を許されてもなお、修得することがたいへん困難なものです。
「日常」という構造の中で太極拳を練ってしまっていると、そのようなチカラ自体が全く発想できなかったり、あるいは「バネ」自体を勘違いして、わざわざ日常的な拙力の亜流を造り、それをバネであるかのように思い込まざるを得なくなる場合もあります。
そうなるともう、何をやっても「バカチカラ」にしか・・なりません。(笑)
しかし正しい構造を学習させて頂いてもなお、日常という土壌でたっぷり鍛えてきた我がアタマの固定観念と身に染みついた習慣はそう簡単には否定できるものではありません。正しい構造を学んでいると、「勁力」というものが決して世に広く伝えられることが無かった理由が改めて実感されます。
さて、抱球勢で練功を続けていくと、やがて「弸勁」が発生するようになります。
・・・もちろん「正しい構造」で抱球勢の站椿を続けていれば、の話です。
本来は、正しい構造であれば、站椿で立ったその瞬間から弸勁が”発生”するのであって、何も起こらないのは、ひたすらその「構造」が間違っていたということになります。
この抱球勢での弸勁の実感は「勁」を習得するためのささやかな第一歩となります。
抱球勢は、もともと胸の前に抱えた一個の大きな球に限られることではなく、そのようなイメージは抱球勢站椿の全体から見れば単なる初めのきっかけに過ぎません。
太極拳では、身体中に存在する多くの球が複合的にはたらくのであって、もし前述のごとき「膨らませた弸勁のボール」のようなイメージだけで抱球勢に臨んでいると、身体のあちこちに存在する「球」が意識されにくくなり、弸勁自体がとても貧しいものになってしまうおそれがあります。
また、加えて「馬歩」の構造への要求が正しく追及されないようであれば、もうその站椿は決して太極拳の練功には成り得いものになってしまいます。
抱球勢は、胸の前で球を抱えるもの以外にも、上腹部の前で抱えるものと、下腹部の前で抱えるものの三種類を行うのが一般的であるようです。
抱球勢では主としてそれら三種の弸勁を整えていくわけなのですが、そうすることによって胸の前で抱えるだけでは分かりにくかった「構造の変化」によるチカラの発生がより明確になり、理解されやすくなってきます。
しかし、一旦理解されればその三つの種類をいちいち行う必要はなく、意念により、胸の前で抱えるものだけでも、同じ結果を導くことも出来ます。
また、これが理解されれば他の基本功・・例えば纏絲勁の練功などにもスンナリと入っていくことができます。
抱球勢の目的はあくまでも太極拳の基本的な構造を整えることにあり、その根元的なチカラである弸勁を体感し、徐々にそれを大きくしていくことにあります。
しかし弸勁は、抱球勢で練られるだけでは、武術としては使い物になりません。
ここで得られた弸勁は「太極勁」へのささやかな第一歩に過ぎず、その遠い道程の初めの一瞥(いちべつ)に過ぎないのです。
弸勁は、様々な方法によって、様々な種類の勁力として、もっと広く、もっと深く、さらに繊細に認識される必要がありますが、それは抱球勢の次の段階として行われる「動の站椿」に存在しています。
「動」の站椿では、実際に武術としての戦闘に用いられる「勁」が練られます。
それを練るためにも、つまり太極拳が強力な武術として存在し続けるためにも、まずは馬歩による抱球勢を限りなく正しく取れなくてはなりません。
馬歩の抱球勢は、それ自体が「静中の動」であることはすでに書きましたが、次の「動」の站椿では、その「動」自体が動き始めます。
このように、馬歩の精度は、すなわち武術としての「技撃」の精度になっていくのです。
実際には、正しい馬歩が理解されなくては、基本功はおろか套路なども何ひとつ始まりません。それ以前では予備式も起勢も、本来はまったく微動だに出来ない状態なのです。
それを余りにも気軽にやってしまえたり、敢えて省いてしまったりすることのできる状況は現代という時代の太極拳の質を端的に現しているように思えてなりません。
「馬歩」の要求が、果たして正しく身に付いているかどうかは、このブログやホームページの中でも度々触れられている、《 グラウンディング 》と呼ばれる練習法があります。
これは「腰相撲」の直立バージョンとでも言えるものですが、ホームページでは、『正しく立つこと自体が、すでに居着かない状態を意味する』・・と説明されています。
かつてホームページにこの練功の写真を出したところ、某掲示板で「トーテムポール」と名付けられ「こんなもの絶対にできるワケがない、インチキだ!」と騒がれたことが思い出されますが、論より証拠、太極武藝館を訪れてみれば誰もがそれを体験できます。
グラウンディングは他の記事と重複することになりますが、站椿を理解しやすいのでこの稿でも少し触れることにしましょう。
まず肩幅の並歩で立ち、前に出した両掌をパートナーにゆっくり押してもらいます。
この時、膝はほとんど曲げず、軽く曲がっている程度で、パートナーに寄り掛かることで耐えることのないよう真っ直ぐに立ち、決して前傾しないようにし、お尻を後ろに突き出さないようにします。
つまり、押されている最中に、相手が手を離したら前に崩れるようでは誤りです。
このような状況では、普通は前に身体を傾けて相手の押す力に耐えようとしますが、前傾せずに正しく立つことによってのみ、「馬歩の構造」が理解できます。
自分を横から見た姿が鏡などで確認できると分かりやすいでしょう。
普通の人は、軽く押されても後ろに崩されてしまいますが、正しい馬歩の構造が理解できれば、不思議なことに、パートナーがかなりの力を入れても押せません。
しかし、押されている側には頑張っている気配が何もありません。
ただ真っ直ぐに、或いは後ろに立っているとさえ思えるような姿勢なのですが、押されたまま殆ど手を動かさずに相手を大きく飛ばしたり、その場で片足で立ったり、足踏みをすることさえ出来てしまいます。
ただ抱球勢で立っているだけでは、そこで練られるべきことをなかなか理解し難いものですが、このような練功で「馬歩の構造」が理解されれば、站椿に於ける馬歩の抱球勢は、さらに有意義なものになることでしょう。
先に述べたように、「抱球勢」は空気でボールを膨らませるイメージで弸勁を養成していくのではなく、「球」を抱えるその行為自体がすでに弸勁となるような「意」の要求によって、身体の構造が整えられていきます。
・・・では、何故、まずそこに「弸勁」が求められるのか。
それは弸勁、つまり《 陰陽虚実が存在する球状のチカラ 》こそが、太極拳の武術的な動きとチカラを発生する根本的な環境となるからです。
「球を抱える」スタイルにするのは、それがシステムを学ぶために効率的な形であるからに他なりません。
そして、抱えられた「球」は、そのシステムゆえに、その後、馬歩の構造に実に様々な変化をもたらしていきます。
いや、正確には、変化がもたらされるように ”仕向けていく” のですが・・・
その変化こそが、太極拳の「勁力」を生み出すことになります。
(つづく)