*第51回 〜 第60回
2011年02月09日
連載小説「龍の道」 第60回
第60回 入 門(1)
「さ、この服に着替えて ──────────」
両腕に抱えた瑠璃色の服を、宗少尉が大事そうに差し出した。
ここは円山大飯店の八階にある一室である。
あれからもう一週間という時間が過ぎているが、宏隆が拉致されたときの九階の部屋は、いまだに警察の取り調べのために使用できず、張大人が新たに「菁英豪華套房」つまり、プレステージ・グランド・スイートを用意してくれたのである。
日中に風が強かったせいか、角部屋の広い窓からは、紅い欄干のテラスの向こうに台北の夜景が殊のほか美しく輝いて見える。
「絹の中国服ですね、綺麗な色だなぁ・・・これを着るんですか?」
「そうよ、貴方の体格に合わせて造ったオーダーメイド。今日は一生に一度の大切な入門式なのだから、目一杯ドレスアップしなきゃね!」
「オーダーメイドって・・僕の体のサイズなんか、誰も測りに来ていませんよ?」
「私が、この目でサイズを測ったのよ」
「目で?・・・サイズを測った?・・・・」
「あはは・・・まあ、いいから着てごらんなさい。もし具合が悪かったら、すぐにテーラーを呼んで直すから。ハイ、それと、この靴も履いてちょうだいね。これは北京の ”内聯昇(ないれんしょう)” という老舗の靴屋さんが造ったもので、本体は皮だけど、靴底は千層底といって幾重にも重ねた布で造られているのよ」
「へえ、何だか女性のパンプスみたいですね」
「これも、ヒロタカの脚(ジャオ)にピッタリのはずよ!」
「参ったなぁ、何だか宗少尉には僕のことを全部知られているみたいで・・・」
「あら、何も困ることはないじゃないの!、それとも、迷惑・・?」
「あ、いえ、決してそんなことはありませんが・・・・」
「あははは・・・ほら、早く着替えてらっしゃい!、モタモタしていると、私がお着替えをお手伝いして差し上げるコトになるわよぉ~!」
「うわわっ ────────────!!」
「あはははは・・・・・」
生まれて初めて、宏隆は中国服を身に纏った。
スタンドカラーの襟、襟元から右脇へと向かう上衣の合わせ目と飾りボタン、手の先まですっぽりと隠れるほど長い袖丈と、膝下までダラリと伸びる裾が特徴で、その下に同じ生地のズボンを履く。
小さい頃からきちんと羽織袴を身に着けさせられた機会も多かったし、居合の稽古でも袴を履き、正月や祖母の招きの茶会に赴いたりするときには絹の和服に角帯を締めるが、中国服はこれが初めてである。
一般的に、中国ではこのような伝統的な服装を「旗袍(Qi-pao=チィパオ)」と呼んでいる。しかし、本来の漢民族の伝統衣服はこの旗袍ではなく、むしろ和服や韓国の服によく似た、合わせ襟の「漢服」または「華服」などと呼ばれるものである。
世界四大文明のひとつ、三千年、五千年の歴史と胸を張る中国ではあるが、彼らが伝統衣服として愛用する「旗袍(チィパオ)」は、実は漢民族自身がそれを着用し始めてから僅かに360年ほどしか経っていない。
この服装がそのように呼ばれるのは、清王朝(1644~1912)として中国を支配していた満州族を「旗人」と呼び、彼らが着る詰め襟の防寒用の衣服を「旗人が着る長い上衣」という意味で「旗袍」と呼ぶようになったからである。
今日では礼服としてもデザインされ、中国武術の象徴のようにも用いられている詰め襟の中国服は、元はその漢民族の王朝を滅ぼした夷狄(いてき)のひとつである、満州族の衣服であったわけである。
「旗袍」が中国服となった経緯は、明朝が滅んだ後、満州族が支配する状況に不満を募らせていた漢人社会の連帯感を弱めるための政策として、漢民族独自の合わせ襟の漢服を徹底して禁止したことに始まる。
当初は断固として拒否した漢族の者たちも多かったが、清朝の有無を言わせぬ強要政策によって、徐々に満州族の服装である「旗袍」のスタイルが受け容れられるようになり、やがて庶民が結婚用の衣装とするほどにまで一般社会に定着していった。今日、中華航空の女性客室乗務員が着る制服のデザインも、スタンドカラーの太極拳の表演服も、元をただせば皆この旗袍がベースとなっている。
因みに、中国人の特徴ある髪型として知られる「弁髪(べんぱつ=前頭部を剃り後頭部の髪を長く伸ばして編む髪型)」も、元は漢族ではなく、満州族のヘアスタイルであった。
1644年に満州族が清朝を樹立するとすぐに「薙髪令」が出され、漢民族に弁髪を強要した。儒教では毛髪を剃ることはタブーとされていたので漢族は弁髪に抵抗したが、清朝は『頭を残す者は髪を残さず、髪を残す者は頭を残さず』と言い放って、出家僧侶と禿頭以外で弁髪を拒否する者はどんどん極刑に処した。この「薙髪令」は1911年まで、260年以上も続いたが、それまでの間に弁髪は完全に漢人社会にも普及し、「旗袍」の服装と同じように中国の風習として定着していったのである。
「わぁ・・・よく似合うわね ────────────」
宏隆の凛々しい旗袍姿に、ちょっと驚いたように、宗少尉が言った。
「本当によくお似合いです。これじゃぁ、どっちが中国人だか分かりませんね」
宗少尉に付き添って来た、部下の伏(ふく)曹長も、盛んに頷きながら笑顔でそう言う。
「中国服を着るのは初めてです。身体が締め付けられず、ゆったりしているんですね」
「そう、日本の和服よりはゆったりしているかもね。よく太極拳の表演で着られる絹のチャイナ服なども、西洋人からはシルク・パジャーマーズと悪口を言われたりするし・・・」
「ははは、そう言えば、あの感触はパジャマと言えなくもないですね」
「・・あ、陳中尉!!」
伏曹長が入口の大きなドアを開けて入って来た陳中尉に気付き、姿勢を正して敬礼する。
「おお、ヒロタカ・・・いやぁ、これは驚いた、とってもよく似合っているね!!」
「ありがとうございます、でも ────────────」
「でも?────────────」
「いえ・・ただ、今日のこの姿をひと目、徐さんにも見て貰いたかったと思って・・・」
その言葉に、徐が壮烈な最期を遂げたあの日のことを誰もが思い出し、しばし沈黙したが、やがて宗少尉が、
「そうね・・・徐は敵のスパイだったけれど、自分の生まれた国や背負った運命をどうすることもできずに、多くのことを悩み、悔やんでいたようにも思うわ。彼が今ここに居てくれたら、きっとヒロタカの立派な姿を心から祝ってくれたでしょうね」
少し目を潤ませながら、宏隆に向かって言った。
「はい ────────────」
「さあ、もう湿っぽい話はやめにして。私はこれから始まる儀式についてヒロタカに説明しなくては・・・・」
「きっと難しいコトがたくさんあるわよぉ、本番でトチらないようによく覚えてね!」
「宗少尉、あんまりヒロタカを脅かすなよ。緊張すると本当に失敗するから」
「あの・・・お二人とも、まるで僕が間違えるのを前提としているみたいですね」
「そう、ヒロタカは、ちょっとオッチョコチョイなところがあるからね!」
「ホントにそうですよ、白月園の訓練場であれほどの射撃の腕を見せるかと思えば、夜市の射的で、手を伸ばせば届くようなところの的を撃っても当たらないんですから!」
伏曹長も陳中尉に盛んに同意し、笑ってそう言う。
「ほんとに、ちょっとトロイところがあるわよねぇ・・!」
「あはははは・・・・」
「わははははは・・・・・・・」
こんなに顔をほころばせて、皆で笑ったのは久しぶりだった。
「さあ、今夜の式典の概要を説明をしよう。
先ず王老師が伝承する陳氏太極門への入門式が行われる。そこでは王老師の陳氏太極門を正式に受け継ぐ者としての、拝師入門の儀式が執り行われる。
入門式を終えたら、次に玄洋會の一員としてヒロタカを認証する入会式が行われる。
これは入門式と違って、それほど大掛かりな儀式ではないが、参入にあたって張大人からお言葉を戴き、入会誓約書が読み上げられて、その場で署名血判をして貰うことになる。
その後、同じ式場に他の参会者が入場して、拝師入門の祝賀会と、ヒロタカを玄洋會の家族の一員として迎える歓迎会を、同時に併せて行う」
「・・うわぁ、僕のような人間のために、そんなことをして頂けるのですか」
「そうです。ヒロタカはもう、王老師の太極門にとって無くてはならない存在ですからね。
それに、拉致された時にあれだけの活躍が出来るのだから、すでに立派な玄洋會のメンバーだと言えます。ヒロタカもそれを自覚して、立派な王老師の後継ぎとしての正門人、立派な玄洋會のメンバーとして自分を磨き、成長していって欲しいと願っています」
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう、精いっぱい精進します」
入門式が行われる式場は、円山大飯店の十階にある「長青庁」と名付けられたVIPルームである。軽く6~70人は入れるであろう、150畳以上もありそうな大きな部屋には落ち着いたグリーンの絨毯が敷き詰められ、周りの窓枠がすべて ”瓢箪形” をしている。
中国の昔話には、かつて世界が大洪水に見舞われたとき、水に浮かんだ瓢箪から二人の男女が出てきて、彼らはやがて夫婦になり、そこから人類が誕生したという、中国版のアダムとイブの物語がある。瓢箪は漢語では葫蘆(hu-lu=フゥルゥ)と言い、福禄(fu-lu)と同じ発音で通じる縁起物であり、子孫繁栄や無病息災、悪霊退散、財運隆盛などの意味があり、日本と同じように慶賀のデザインとして広く用いられている。
また、瓢箪には呪術的な側面もある。
瓢箪は八卦の「兌(だ)」と「乾(けん)」に当たり、金運と財運を司り、五行の元素は「金」になる。八卦記号に見る兌の開いた線には「天の医者」という意味があり、病に効果があるとされ、その為に昔の中国の医者は薬を入れるのに好んで瓢箪を使っていた。
西遊記で金角・銀角が持っていた瓢箪は、呼びかけられて返事をしてしまった人間を吸い込んでしまうという魔力を持っていたし、八仙人の李鉄拐が宝物として携えている瓢箪の中には別天地があり、仙人同士の戦いで火炙りにされた際に、その瓢箪の中に逃げ込んで行った。
中国では瓢箪を葫蘆(hu-lu)と呼ぶと述べたが、壺のことも「hu」と呼び、瓢箪とほぼ同じ意味で用いられる。腰の括れた瓢箪は女性の身体に似ているし、子宮の形として出産や再生のシンボルとされてきた。
瓢箪は、標高六千メートル以上の高山が二百峰以上も連なる「崑崙山脈」にも喩えられる。崑崙山は天上界と地上界を結ぶ、神々が降臨したり仙人が昇天する所でもある。
そもそも瓢箪(hu-lu)は、崑崙(kun-lun)や渾淪(hun-lun=カオスの意)と発音や意味が近似している。中国の古い地図には黄河の水源が瓢箪で描かれていたりするが、それは崑崙山を表しているのだという。
そう言えば「五行」が生成される序列は、水ー火ー木ー金ー土であり、一番初めに「水」が来ている。崑崙山は中華文明を育み潤す水源となり、大黄河を生むものとして太古の昔から崇められていたのである。
円山大飯店のVIPルーム「長青庁」の瓢箪形の窓には、そのような慶賀と神秘、物事の根本、根元という意味が込められているのに違いないし、この部屋が宏隆の入門式に選ばれたのもまた、正しくその意味があったに違いなかった。
八階の部屋から、独りで十階の式場へと向かう。
エレベーターに乗り合わせた同じ階のスイートルームの西洋人客が、宏隆の姿をジロジロと眺めながら、不思議そうな顔をしている。
すでに王老師の拝師門人である陳中尉は先に式場に行って待っているが、宗少尉や伏曹長は太極拳の門外漢なので、その部屋には入れない。
部屋を出る時に、後で宴席で会いましょうと、笑顔で宏隆を見送ってくれた。
式場となる「長青庁」に近づいてゆくと、入口の大きな扉の前に体格の良い二人の男が直立不動で立っている。
宏隆がその扉の前に来て立つと、右側に立っていた男が宏隆に向かって慇懃に礼をしてから、その扉を五回、大きくゆっくりとノックをした。
「入りなさい ────────────」
ドアの向こうから低く静かな声がして、二人の男は観音開きの扉を開いた。
開かれた扉の向こうには、天井のシャンデリアに眩く映える緋毛氈が、部屋の突き当たりまで真っ直ぐに伸びて長々と敷かれている。
「・・さ、どうぞ中までお歩み下さい」
ドアを開いた男が、日本語でそう言って、宏隆を促した。
陳中尉に教えられたとおりに、両手を手首の辺りで胸の前に交差させ、僅かに腰を屈めるように、頭(かしら)を少し垂れて、ゆっくりと正面の祭壇に向かって歩いて行く。
正面に近づくにつれて、緋毛氈の両側に設えられた席に座っている人たちの顔が見え始める。意外なほど多くの人がこの場に参じてくれているのが分かる。
そして、さらに歩みを進めて、参会者たちの先頭近くまで来た時に、宏隆は和服の後ろ姿を目にして、思わずハッとして立ち止まった。
「お父さん ────────────!!」
父が入門式に呼ばれているのは以前から知っていたが、拉致の事件を経て、改めてこの席で父の姿を目にすると、やはり熱いものが胸に込み上げてくる。
「おお、立派な姿になったな。そして、この度は無事で何よりだった・・・」
父が立ち上がって振り返り、眼を細めて、この半月余りの間に著しく成長を遂げた吾が子を繁々と見つめながら、そう言う。
「・・・本当に、ご心配をおかけしました」
泣いてはならないと思いつつも、涙が溢れてくる。
「皆さんのお陰だ。お前を命懸けで救って頂いた御恩を忘れてはならないぞ」
「はい・・・」
「そして、掛け替えのない、大きな勉強をさせて頂いたことも・・・」
「はい、そのように、肝に銘じております」
父の光興(みつおき)は、息子が拉致されたことの連絡を受け、張大人が急ぎ迎えの飛行機を寄越すと申し出ても、私が駆けつけてもどうにもならない、息子は大丈夫です、必ず戻って来ますからご心配は無用です、万一の際にも、覚悟は出来ております、と断言し、愚息の為に皆さまに大変なご迷惑を掛けますと、却って張大人や玄洋會のメンバーを労うほどであった。
張大人や陳中尉ら、玄洋會の面々はそれを聞いていたく感激し、日本ではまだ武士道精神が廃れていない、日本人の魂はいまだ健在である、と認識を新たにした。
宏隆は、無事に拉致から解放された後に陳中尉から父のことばを聞いて、自分が本当に心から父に信頼されていたのだということを初めて実感し、とても幸せであった。
「さあ、皆さんをお待たせしてはいけない。
かつて私が参入した家族に、今日からお前も参入するのだ。前に進みなさい・・・」
「はい ────────────」
(つづく)
2010年12月15日
連載小説「龍の道」 第59回
第59回 綁 架(bang-jia)(10)
「しまった──────────!!」
・・・悔やんだが、もう遅い。
このタイミングでは、自分を狙う銃弾を避けることができない、と宗少尉は思った。
チリチリと眉間の辺りがうずき、ピタリとそこに照準を合わされているのが感じられる。
人間の能力は、どこまで高めていけるものなのか・・・・
よく訓練を積んだ者なら・・・・フィジカルなものだけでなく、高度にスピリチュアルな訓練まで修めた者であれば、自分が狙われていることを察知できるようになる。
それが遠くから狙うライフルの銃口であれ、密かに仕掛けられた爆弾であれ、わが身に迫り来る危機を敏感に察することが可能になってくるのである。
しかし今は、自分にピタリと銃口を向けている相手が徐であったことに少なからず動揺し、咄嗟に回避すべき機を逃してしまった。
徐が北朝鮮のスパイだったことが明らかになっても、たとえ短い期間でも同じ釜の飯を食べた仲間だという意識が心の中に少なからず残っている。それは宗少尉に限らず、すべての隊員の心に、どうしようもない蟠り(わだかまり)として未解決のまま残っていた。
そして、そんな蟠りが少しでもあれば身体は思うように動いてくれず、況(まし)てや、波間に佇(たたず)む小さなボートの上に居る自分に照準を合わせられていては、どうにも逃がれようがなかった。
「殺られる──────────」
撃たれる、と確信したのは、実際にはほんの刹那ほどの時間に過ぎないが、宗少尉にとってはそれが途轍もなく永い時間に感じられた。五官が閉ざされ、外界と隔絶された、音さえも聞こえない非日常の刻(とき)の中では、鍛えあげたはずの身体もまったく動いてはくれない。
そして、つぎの瞬間・・・・・・
「ダダァ────────ン!!」
その静寂(しじま)を破って、銃声が高く海に響いた。
しかしそれは、わずかにずれて重なったような銃声であり、実際に撃たれたのは観念した宗少尉ではなく、少尉を狙っていた徐の方であった。
徐は、弾かれたように翻筋斗(もんどり)を打ちながら、あらぬ中空に弾丸を撃ち放ち、ドォ、とその場に倒れた。
「宗少尉、無事でしたか・・・!?」
銃声を聞いて、宗少尉の乗ったボートが慌てて急旋回して走り始めた途端に、無線の声がヘッドセットから聞こえてきた。
「強────────?!」
「よかった・・・中らなかったようですね。奴が撃ったのとほとんど同時でしたが、私の方が少しばかり早かったようです」
三班のボートに乗っていた強が、甲板に立った徐が宗少尉に狙いをつけているのを見つけて急いでライフルを撃ち放ち、徐が撃つよりも早く、その太腿に命中したのだ。
「ふう、もう駄目かと思った・・流石は、陳中尉と争うほどのウデね!」
「いや、運が良かったんです。このタイミングで、波に揺れる小さなボートの上から撃って中るなんて、ほとんど奇跡みたいなもんですからね」
「じゃ、これからは奇跡を信じることにするわ!」
「安心するのはまだ早いですよ、デッキに他の奴らが・・・!!」
「ダン、ダン、ダン、ダンッッッ──────────」
そう言いつつ、もう強はライフルを撃っている。
「二班の若造っ!!、ボケッとしないで撃てぇーっ!、お前の銃は飾り物か!!」
「イ、イエッサー!・・・ズダダッ、ダダンッ、ダダダッッッッ・・・・・!!」
2艘のゴムボートはスピードを上げ、HONG YANG の周りを走り回りながら、甲板で銃を構えている敵に向けて連射する。
「宗少尉、大丈夫か──────────!!」
見上げると、いつの間にか、すぐ頭上に陳中尉のヘリが来ている。
「はい、無事です・・・危ないところを、強が救ってくれました」
「強、よくやったぞ。上から確認したが、お前に足を撃ち抜かれるなら徐も本望だろう」
「中尉、あいつの正体を見抜けなかったのは俺の責任です。奴のことは、俺が始末をつけてやりたいです。あいつと縁が切れるまでは、まだ俺の弟分ですから・・・」
「ふむ・・・だが、奴からは聞かせてもらいたいことが山ほどある。たとえそんな機会があっても私情を挟まず、必ず徐を生かして捕らえるんだ!」
「分かりました・・・・・」
「よし、二班は再度、ホンヤンのスクリュー破壊に向かえ、三班は二班を援護しながら甲板と操舵室へ催涙弾を撃ち込んで乗員を燻(いぶ)し出すのだ!!」
「了解・・・しかし、船内に捕らわれているヒロタカに影響がないでしょうか?」
宗少尉が心配そうな声で訊く。
「なあに、あのヒロタカのことだ、もう今ごろ動き始めているさ。それに、大きな流れの中で生きる者は、その務めを終えるまでは何があっても生かされているものだよ」
「私も、そう思います──────────」
「ならば、信じることだな・・・」
「イエッサー!!」
その宏隆は、少し前に、暗い船倉でようやく意識を取り戻していた。
「ううっ・・い、痛ててて────────────くそぉ、後ろから思い切り頭を殴ったな。
しかし、どうして目が覚めるたんびに、真っ暗闇の中なんだろうか?!」
タンコブを撫でながらぼやいてみるが、その真っ暗な空間はやたらと揺れている。
「ははぁ、ここは船倉だな。連中、よほど忙しかったのか、今回は手錠も掛けられていないぞ。こんな所で黙って大人しくしているとでも思ったのだろうか・・」
頭上を飛ぶヘリの音や、忙(せわ)しなく周りを回るボートのエンジン音、それに伴った銃声が混じり合って聞こえる。
「陳中尉たちがこの船を追いかけて来ているんだな・・・よし、先ずはどうにかして此処から脱出してやる!」
「ズダダダ、ダダダダッッッ──────────!!」
「うわわっっ・・・・!!」
起ち上がった瞬間、凄まじい音が船倉を駆け抜け、宏隆は慌てて頭を抱えて転がるように床に伏せた。壁から扉へ袈裟懸けに銃弾の穴が空いて、そこから外の光が漏れている。
「やれやれ、またか・・・!!、これじゃぁ、大武號が襲撃された時とちっとも変わらないじゃないか。しかも、今度は味方の銃弾の雨ときている!!」
しかし、よく見れば、これはどうも古いである漁船らしく、船倉の壁や扉が大きく破損して穴が空いている。
「けど、そのおかげで、何とかこのボロ船の扉を蹴破れそうだ──────────」
扉に空いた穴に顔を付けて外の様子を覗いてみるが、誰も居ない。誰もが追っ手から逃れるために忙しく働いていて、船倉に閉じ込めた宏隆などには構っていられないらしい。
「よし、行くぞ・・・」
宏隆は、あまり音を立てないように、そっと扉を蹴り始めた。
宗少尉が乗る二班のボートは、ホンヤンを停船させるためにスクリューを破壊しようとしていたが、敵もそうさせてはならじと、思うようには近寄らせてくれない。
強力なエンジンに乗せ替え、機関を改造してある HONG YANG は、宗少尉たちのボートと対等のスピードで、波を蹴立てて走っている。
「三班っ、廻れーっ!、もっと素早く廻れっ、上から狙い撃ちにされるぞ!!」
「そんなコト言ったって、こっちは船外機がひとつなんッスよ、これじゃまるで釣り船みたいなもんだ・・・・」
「ぶつくさ文句を云うなっ!、ひとつだって、無いよりマシだろうが!!」
「そ、そんなぁ・・・・・」
「ズダダッ、ダダッ、ダダダダダッッッッ・・・!!」
「哎呀(アイヤー)っ!・・・やばいっ、やばいぞっ────────!!」
「三班っ、ポート(左舷)だ、もっとポートへ回せっ・・・!!」
「ズドオォォ──────────ンッッッ!!」
「ロケット弾だ、気をつけろ!・・こっちも撃ち返せっ!!」
こんな時は当然、海面から少しでも高さのある方が有利になる。見下ろしながら攻撃をするのと、見上げながら撃つのとでは、まったく分(ぶ)が違ってくるのだ。
「くそぉ・・ありゃぁ、GP25(ロシア製のロケット砲)だな。中国製の粗悪コピー品よりもずっと性能が良い、ときてやがる・・・」
「GP25だと、どんな馬鹿が撃っても、よく中るんだそうだ・・・」
「けど、その馬鹿に当てられるようじゃ、もっと馬鹿・・・武漢班の名折れだぞ!!」
「そういうこと・・・」
「よっしゃ、こっちも反撃するぞ、そらっ──────────!!」
「ボムッッ──────────ッッッ!!」
「ズダダッ・・・ダダダダダッッッッ!!」
その頃────────────
基隆の海軍基地から、哨戒艇に乗り込んで卯澳に向かっていた玄洋會戦闘部隊の第一班、黄とその部下たちに、基地の通信部から情報が入った。
「黄准尉(じゅんい=少尉の下の階級)、CDO電展室(台湾国防部電訊発展室)から連絡です。たった今 HONG YANG 415 より、北朝鮮方面に発信された無線を傍受したとのこと。通信内容は朝鮮語の暗号で、”白頭山ノ風雪愈々厳シ、鴨緑江ノ水温ム春待チ遠シ”。
およその内容は、 ”脱出中ニ発見サル、至急援護ヲ求ム” という意味だと思われます」
「ふん、相変わらず子供だましの陳腐な暗号だな・・・・で、位置は?」
「25°06'03.95" N、122°01'50.17" E 、卯澳漁港沖、約12kmのポイントです」
「目的ポイントまでの距離と所用時間は?」
「約7海里(13km)、全速航行なら15分足らずで到着します」
「敵さんも、もたもたしていると海巡(海岸巡防署=日本の海上保安庁に相当する)や海軍まで出動してくると思って、カッ飛んで北朝鮮に向かうだろうな。しかし、所詮は同じ海路の上りと下りだ、吾々と出合うのは必然で、互いに速度を上げればそれが早まる・・・」
「はい、敵船は先ず東シナ海を上海沖に向けて進路を取らなくてはなりませんから、奴らが逃げに入って速度を上げれば、おそらく10分も経たないうちにこの艇と鉢合わせになるはずです」
「よし、ヘリの陳中尉に連絡しろ!、宗少尉たちと挟み打ちにするんだ!!」
「アイアイサー!!」
その宗少尉たちは、敵船の反撃に、依然として苦戦を強いられていた・・・・
「・・・宗少尉、聞こえるか?」
「はい、よく聞こえます」
「そっちは、なかなか苦戦しているようだな・・・」
「思うように近寄れません。何しろ、あのスピードで走り回りながら、ありったけの武器を使って対抗してくるので・・」
「こっちはヘリの燃料が心細くなってきた。敵はだんだん北に向かっているが、これ以上長引かせられると帰投が難しくなる」
「では、どうしますか──────────」
「敵が逃げに入る前に、2艘のボートとヘリから、三方同時に催涙弾と煙幕弾を見舞って混乱させ、その隙に、私が単独で敵船へ降下して侵入する・・・」
「えっ・・・それは、あまりにも危険です!!」
「いや、初めからそのつもりで居たのだ。敵船の機関を停止しても、人質のヒロタカを盾に取っての、新たな要求が始まるだろう。侵入して一気に叩く以外にヒロタカを救出する手立ては無い・・・」
「了解しました、全力を挙げて吾々が援護します!」
「よしっ、まず敵船を左右から挟んで、敵の勢力を二分するんだ!」
「イエッサー!!」
2艘のボートは互いにすれ違いながら反対方向へ散らばり、 HONG YANG の左舷と右舷に廻っていく。
「そうだ、いいぞ、敵が戸惑っているうちに、催涙弾と煙幕を撃てっ!!」
「ガッテンっ!、そらっ・・・・ボムッ、ボムッッッ──────────!!」
「よっしゃぁ、アタリぃ・・・見事に窓に命中したぞ!」
催涙弾が操舵室の窓を破って撃ち込まれ、たまらずに中から乗員たちが出てくるが、デッキにも濛々と煙幕弾の煙が立ち篭め、慌てふためいて右往左往している。
「今だっ!・・ヘリを HONG YANG の最後尾に付けろ!!」
「イエッサー!!」
「降下準備よし・・・・・行くぞっ!!」
あっという間に、陳中尉はヘリから身を乗り出して、身軽にロープを伝って降下して行くが、風に煽られて大きく揺れているその下には甲板が無い。
「操縦士、もっと左だ!・・・あと3メートル左に寄せろっ!!」
三班のボートから、伏曹長がヘリを誘導する。
「そうだ、いいぞっ───────陳中尉、今っ!!」
「よし、侵入成功。これより掃討を開始する・・・」
ガスマスクを着けた陳中尉が、甲板に低く腹這いになったまま様子を伺う。
敵が催涙弾の煙を逃れようと、風上の船尾に向かってくるが────────────
「タン、タン、タンッッ・・・・・・」
連射ではない。単発で撃って、瞬く間に二人を倒してしまう。
だが、敵の中にも、素早くガスマスクを着けた者が居て、目敏(めざと)く陳中尉を見つけて、黒煙の中から発砲してくる。
陳中尉は巧みにそれを回避しながら、反撃をする。
「ヘリの操縦士っ、降下したロープを回収せず、そのままこっちに回せっ!!」
──────────宗少尉が、ヘリに向かって怒鳴る。
「了解。しかし、そろそろ燃料の限界です。チャンスは1~2回と思ってください」
「OK、1回あれば充分よ!」
「そ、宗少尉・・・まさか、あのロープにぶら下がって敵船に侵入すると・・・?」
二班の若い操舵手が、不安そうに訊ねる。
「その ”まさか” よ・・・いくら陳中尉でも、独りじゃ手が足りないでしょうからね!」
「分かりました、自分は精いっぱい援護します──────────」
「謝謝(シェシェ)、Good Boy!(良い子ね!)」
笑顔でそう言うと、ガスマスクを装着し、肩にライフルを担いだ。
すぐに、ヘリが宗少尉のボートに近づいてくる。
二班の操舵手がロープの先端にピタリと速度と進行方向を合わせた瞬間、間髪を入れずに宗少尉がロープを掴んで宙に舞う。
「よしっ、いいぞっ────────────!!」
「・・・操縦士、なるべく煙のあるところに少尉を降ろせ!」
「了解。バウ(船首)の左舷側に向かいます」
「───────操縦士、もう此処らでいいわ、降りるわよ!!」
「でも、まだ高さが5メートル以上は有りますよ・・・」
「はん、こんなの、へっちゃらよ!────────────」
言った途端、ロープから手を放して軽やかに飛び降り、揺れる甲板に転がり、即座に銃を取って構える。
「おおっ、お見事っ!!」
「伏曹長、感心してないでフォローしなさいっ・・・!」
「イエッサー、今のところ、周囲に敵の影は見当たりません」
「よしっ・・・・陳中尉、ただいま乗船完了しました!」
「まったく、どうしようもないお転婆娘だなぁ・・・・」
「でも、来るな、という命令はもらっていません」
「ふぅ、どうも少尉には敵わんな・・・まあいい、私はここで甲板の戦闘員を片付ける。敵が私に注意を引きつけられている間に、そっちはヒロタカを探し出せ・・・・」
「了解っ────────────!」
「うぅ・・ゴ、ゴホ、ゴホ・・・て、敵だっ!、玄洋會の部隊が侵入してきたぞ!!」
船室へのハッチ(扉)の陰で待っていた宗少尉の前に、煙に燻(いぶ)し出された乗組員がたまらずに出てくる。
「あーら、その敵ならココに居るわよっ・・!」
「えっ?・・・うわわわあぁぁぁ────────────!!」
「ドボォ───────ンッッ・・・」
男は、声に振り向いた途端に強かに少尉に蹴り飛ばされ、勢いよく海に落ちてゆく。
「あの人、泳げるんでしょうね・・・」
見向きもせず、そのハッチから中に入っていくが、
「はっ───────!!」
「ズダダッ、ダダダッッッッ・・・!!」
途端に浴びせられた銃弾の雨を、ほんの少し前に避ける。
そして────────────
「ワン、トゥー・・・ダンッ、ダン、ダンッッッ────────────」
「ふぅ・・・・」
何処でこれほどの技術を身に付けたのか、敵が次に出てくる瞬間を狙ってタイミングを計り、わずかに早く、宗少尉が先に撃って相手を屠り、深く息を吐く・・・
敵が現れるのを、宗少尉はその少し前から予想している。
いや、予想ではなく、それはもう予知と言っても良い。訓練によって引き出されたそのような能力は、数々の実戦を経ることで、さらに研ぎ澄まされたものになっていた。
「さて、ヒロタカは何処に────────────?」
外のデッキでは、陳中尉と撃ち合う銃声が聞こえている。
時おり2艘のゴムボートからの援護射撃も聞こえて、デッキに居る敵はかなり混乱していることが分かる。
催涙ガスの煙は少しずつ晴れてきているが、視界はかなり悪く、まだマスクを外すわけにはいかない。
注意深く、腰を低くして一歩ずつ歩みを進めながら、部屋の外壁にピタリと背中を付け、次いで銃を向けながら一気に部屋の中に踏み込み、瞬時に全ての方位を確認する・・・・
漁船の船室は、そう多くはない。一部屋ずつ宏隆の閉じ込められている場所を確認して回るのは、そんなに骨の折れることではなかった。
しかし、もうあと少しですべての部屋を確認し終える、という時になって、
「動くな────────────」
「うっ・・・!」
不意に、低く静かな声が背中で聞こえ、宗少尉はピタリと立ち止まった。
まったく気配を感じさせない相手である。
「その声は、徐────────────」
「そのとおり。宗少尉が乗船して来られるとは、思いも寄りませんでしたが・・」
「徐っ、悪いことは言わない、あきらめて投降しなさい!!」
「そうはいきません、私の任務ですからね。まず、武器を捨ててもらいましょうか。そうしなければ、立場上、私は後ろから貴女を撃つしかない・・・・」
「分かった────────────」
ゴトリと、ライフルを床に放って、腰の拳銃を前方に投げ、両手を挙げる。
「こんな漁船一艘で、北朝鮮まで無事に戻れると思っているのか?、投降して縛に就けば、今ならまだ、人生のやり直しも利く・・・・・」
「いや、もう遅い。何としても本国へヒロタカさんを連れて戻らなくてはならない」
「考え直しなさい・・・北朝鮮の情報と交換に、お前の安全を保証してあげる!」
「それは無理というものです。生まれ育った国家を裏切ることは出来ない・・・もし宗少尉が私の立場だったら、きっとそう言うでしょう?」
「犯罪国家の先棒を担ぐのを止め、それを裏切って何が悪いというの?!」
「どんな国家であれ、私のような者をここまで大切に育ててくれたのです。それに、この仕事に就いているからこそ、大切な家族を養ってやれるのです。もしここで投降したら、私の家族は全員、見せしめとして処刑されてしまうでしょう・・・・」
「むぅ・・・・・」
「分かって頂けましたか・・・では、来た途(みち)を戻って、外へ出ましょうか」
銃口で背中をグイと押され、仕方なく出口に向かって歩く。
徐は、撃たれた足を庇うように、少し跛(びっこ)を引いて歩いている。
上手くそのリズムを捉えれば、何とか徐から銃を奪える可能性も無いではない・・・・しかし、宏隆の身の安全を確認しないうちは、迂闊には行動できなかった。
「ヒロタカは・・・ヒロタカは無事なんでしょうね!?」
「ははは・・あれは飛んでもない少年ですね。さんざん手を灼かせて、ようやく捕まえたと思ったら、閉じ込めた船倉はいつの間にか蛻(もぬけ)の殻で・・・・何処へ行ったのか、こっちが訊きたいくらいですが、船の外は全部東シナ海、どこにも逃げられやしません」
外に出ると、ようやく煙幕弾や催涙弾の煙も晴れてきている。
宗少尉も、徐も、黙ってガスマスクを外した。
やはり、誰も陳中尉の敵ではなかったのか、甲板にはもう、ただ一人しか残っていない。
その徐の腹心の部下が独り、陳中尉に対して最後まで向かい合っていた。
「陳中尉!、宗少尉を拘束したぞ・・・取引をしたい、顔を出して貰おう!!」
「おお、徐かっ!────────────何が望みだ?!」
「その前に、まずは武器を捨ててもらいましょうか!!」
「仕方がない・・・・」
陳中尉がライフルと拳銃を放り出すと、徐の部下がすぐにそれを取り上げに来た。
「・・さあ、これで、どうするというのだ?」
「このまま、北朝鮮の海域まで無事に逃がしてくれたら、宗少尉を開放しよう」
「そうはいかない、お前はすでに手配を受けているスパイ、敵国から密命を帯びて潜入した重要な犯人なのだ。この国の海域から無事に出て行けるわけがない!」
「もし聞き入れられなければ、この船を自爆させて、宗少尉とヒロタカさんの命を共に奪うことになるが、それでも良いか・・・?」
「ヒロタカは・・ヒロタカはどこに居る!?、無事であることを確認できないうちは、要求に応じるも何もなかろう!!」
「中尉、ヒロタカは自分で脱出したまま、どこに居るか不明です!!」
銃を背中に突きつけられたまま、宗少尉が叫んだ。
「なにっ・・・・?」
「自爆すれば、船内の何処かに居るヒロタカさんもお終いだ。それでも良いのか?!」
「むむ・・・・・・」
その時 ──────────────
「ダァ──────ン!」
遠く、海上のボートから、一発の銃声が響いた。
ただ一人残った徐の部下の肩口に銃弾が撃ち込まれ、男は弾かれて海に落ちて行った。
双眼鏡で窮地を確認した伏曹長が、その男を撃ったのである。
その瞬間、
「何いっ・・・・!?」
「ハァ────ッッッ!!」
徐がそれに気を奪われたのと同時に、その機を逃さず、宗少尉がクルリと向きを変えながら徐の足を掃腿の技で蹴り払い、徐は見事に甲板に転がされたが・・・・・
「バァンッ───────!!」
「うぐっ・・・・・!!」
倒されながら撃った銃弾が宗少尉の上腕に中り、どぉ、とその場に崩れ落ちた。
「あっ───────────!!」
「陳中尉、そこを動くな!・・・動けば、今度こそ宗少尉の命をもらうことになる」
咄嗟に動こうとしたが、徐の銃口が向けられる方が早い。
「くっ・・・・・・」
「中尉ほどではないにせよ、私も銃のウデは良い方だ。下手な動きはしない方がいい。この船から充分に離れて、航路を妨害せぬよう、部下に無線で伝えてもらいましょうか」
「くそっ・・・」
しかし、徐がそう言い終えると同時に、
「動くな────────────」
スーッと、徐の後方に、拳銃を構えた宏隆が姿を現した。
「・・徐さん、銃を捨ててください!」
「おや、どこに紛れ込んでいたのか、ようやく出てきましたね」
振り向いて、しげしげと宏隆の顔を見て言う。
「銃を捨てるんだ・・・・」
「ははは、ホテルの部屋以来の科白ですね。しかし、間違ってもヒロタカさんは私を撃てっこない」
「僕もあなたを撃ちたくない・・・お願いですから、その銃を捨ててください」
「ヒロタカ、気をつけろ!!」
「危ない!・・・徐はあなたを撃つ気よ!!」
陳中尉と宗少尉が同時に叫んだ。
「銃を捨てて下さい・・・・」
「いや、私は捨てることが出来ない・・この銃も、私が背負う運命も ────────────」
そう言い放つと、徐はカッと目を見開いて、いきなり宏隆に銃口を向けた。
「ダァ────────────ンッッ!!」
「ヒロタカ・・さん・・・・・・」
そうつぶやきながら、徐はゆっくりと甲板に倒れていった。
「徐さん・・!!」
駆け寄ると、徐は後ろから胸を撃ち抜かれていた。
「いったい誰が・・・・?」
見れば、陳中尉の後ろで、撃ったばかりのライフルを構えている強が居た。
強は、ボートから目立たぬように独り泳いで、密かに船尾から乗り込んできたのである。
「強・・・いつの間に・・・・!!」
驚いて振り返る陳中尉に、
「済みません・・命令を無視して、勝手にここに来てしまいました」
「ともかく、手当てを────────────」
横たわった徐の傍へ、共に駆け寄って来て具合を看る。
「徐っ、しっかりしろ!、間もなく哨戒艇が到着する、そうすれば手当てが出来る!」
「いや、もう遅い・・これじゃぁどうせ助かりません・・・それに、たった今・・・・この・・スイッチを押したので・・・この船は・・・あと2分足らずで自爆します」
震える手で、腰に着けたトランシーバーのようなアンテナが付いた装置を指さして、やっとの思いで徐が言う。
「じ、徐っ・・・!! お前がスパイだなんて・・・ 俺は・・・・」
「強さん・・・すみませんでした・・・ ヒロタカさんも・・・・
強くなってください・・・ 私みたいになっては、駄目ですよ・・・・」
「いかんっ・・強!、ヒロタカ!、もう時間がない、宗少尉を担いで海に飛び込めっ!!」
そう言いながら、陳中尉は操舵室に向かって走って行く。
「陳中尉、どこへ─────────?!」
「この船を全速で走らせておいて飛び降りる!、早く行けっ・・・!!」
宏隆たちが海に飛び込んだのとほとんど同時に、HONG YANG はフル回転で北に向かって走り始め、その後すぐに陳中尉が船尾から飛び込むのが見えた。
「ドドオオォォ──────────ンッッッ・・・・・・・!!」
やがて間もなく、大きな爆発音と共に火柱が空高く起ち上り、辺り一面にバラバラと船の破片が降ってきた。
波間を漂いながら、濛々と、黒煙を上げて沈んで行く船を眺めていると、涙がぼろぼろと溢れてならなかった。
ようやく敵の手から解放されたというのに、宏隆には何の喜びも安堵も感じられない。何故かは分からないが、ただ無性に悲しく、宏隆は唇を噛み締めながら、ひたすら泣いた。
真夏の海はどこまでも蒼く、暖かな陽光が波間に降り注いで煌めいているが、宏隆にとっては生まれて初めて、この海が無性に冷たく、哀しく感じられた。
(了)
2010年12月01日
連載小説「龍の道」 第58回
第58回 綁 架(bang-jia)(9)
「降下準備 ────────────」
「降下準備よし!」
「降下開始、行けっ ──────────!!」
山がすぐそこまで迫った卯澳漁港には、中型ヘリの着陸に適した広い場所はない。
港の外れの、わずかに開けたスペースの真上に、地上約20メートルの高さでヘリコプターがピタリとホバリングし、二本のロープを伝って次々に隊員たちが降下してくる。
「Go, Go, Go, Go, Go・・・・・・・・」
龍と刀の玄洋會のシンボルが入った迷彩服に身を固め、ライフルを手に、ヘルメットと防弾チョッキ、サングラスと無線のヘッドセットを装備した屈強な隊員たちが素早く防波堤を駆け抜け、係留された2艘の黒塗りのゴムボートに飛び乗っていく。
「急げっ ────────────!!」
ゴムボートとは言っても、これはもう立派な小型艇である。表の社会では海運業も営んでいる玄洋會は、その活動が海上に及ぶことも多い。五,六人は一度に乗れそうなゴムボートには強力な出力を持つ船外機が2基装備され、前方には飛沫(しぶき)除けの大きなスクリーンまで着けられている。後部にはズッシリと武器が入った迷彩柄のケースが置かれ、台座にベルトで固定されている。
その漆黒のボートが2艘、まるで戦闘状態に入ったコブラのように、舳先(へさき)を大きく擡(もた)げながら、凄まじい速さで外海に向かって走って行く。
「まもなく、漁船団の最後尾に接近します ──────────── 」
やがて、先頭のボートに乗った宗少尉が、ヘリの陳中尉に報告した。
「了解。こちらからもよく視認できる。上からは依然として目標が確認できない。
船団が巻き添えを食わぬよう、不測の事態に備えながら、一隻ずつ確認していけ・・・」
「Roger(了解)!!」
陸(おか)では朝凪と思えた海も、外海に出るとかなり畝り(うねり)が高い。
2艘のゴムボートは、大きな畝りの谷に降りては、また頂(いただき)へと登り、幾度となくそれを繰り返しながら船団の外側へと回り込み、近づいた所で二手に分かれて、隊列を組んで航行する漁船の群れの右舷側と左舷側から、一隻ずつ確認していく。
「見えたか ──────────?」
「いえ・・・それらしい人間は見当たりません」
「このウネリで、これだけの漁船の数じゃぁ中々見つかりませんよ。それに、まだ一匹の魚も獲っていないというのに、大漁旗みたいにでっかい旗をヒラヒラさせているから、乗組員の顔が見えにくくて仕方がないですね ──────────」
「やかましいっ!、暢気なことを言わず、黙って自分の任務を果たせっ!!」
「・・イ、イエッサー!!」
宏隆の身を案じて一睡もしていない宗少尉が、ピリピリした声で部下を怒鳴る。
どこの軍隊でも、不眠不休の訓練をする。宗少尉も海軍と玄洋會でそれぞれ三日間連続の不眠不休の訓練をこなしているが、そんな厳しい訓練よりも、今回実際に宏隆が拉致されたことについての煩悶の方が遥かに大きく、辛く苦しいものであった。
漁船の乗組員を一隻ごとに確認していく作業は、思ったよりも手間がかかる。
波に揺れる小さなボートの上から双眼鏡で見る視界はそれほど大きくないし、漁船は船縁(ふなべり)まで高さがあるので、海水面と同じ高さで走っているゴムボートからは見上げるような形になってしまう。それに、漁船の数は二十隻以上もあり、ひとつひとつ念入りに確認していくだけでも、かなり骨が折れることだ。
「三班はどうだ ────────────?」
「まだ確認できません。どの船を見ても、全部ただの漁船に見えてしまいます」
「くそっ、いちいち漁協に船名を確認するような暇は無いし・・・
しかし、何かあるはずだ・・・必ず何か、普通の漁船とは違うものが ──────── 」
「宗少尉、聞こえるか・・・」
ちょうどその時、ヘリの陳中尉から連絡が入った。
「・・はい、聞こえます」
「そこから前方へ九隻目の船が、ちょっとおかしな旗を揚げている・・・」
「どんな旗でしょうか?」
「NATO国際信号旗の ”T旗” 、タンゴ(Tang-gou)だ」
「タンゴ?・・それはおかしいですね、まだ操業海域にも入っていないのに」
「そうだ。間違えたのか、予め付けておいたのか、ともかく確認する必要がある。
登録船名は、HONG- YANG- 415(ホンヤン・フォー・ワン・ファイブ)・・・・
Hotel, Oscar, November, Golf, Yankee, Alfa, November, Golf、数字の Fower,
Wun, Fife(フォウアー、ウン、ファイフ)、船籍は高尾だ」
「了解──────── "HONG YANG 415" を、至急確認します」
言い終わらないうちに、もう宗少尉の乗ったボートはフル回転で走り始めている。
「宗少尉、T旗とは、どんな旗ですか?」
陳中尉との会話を聞いていた若い隊員が、宗少尉に訊ねる。
「ああ、キミは海軍系じゃないから知らないか・・・丁度、フランスの国旗を180度逆さまに引っ繰り返したやつ。縦三色で、左から、赤、白、青となっている・・・・」
「その意味は・・?」
「本船を避けよ。本船は二艘引きのトロールに従事中・・・」
「ええっ、まだ操業も始まっていないのに、今からトロール従事中の旗ですか?!」
「だから不審なのよ。カタギの漁船なら、そんな間違いをするワケがない ────────── 」
「確かに・・・よし、近づいて確認しましょう!」
2基の船外機が着けられたゴムボートは、驚くほどのスピードが出る。
一刻を争う事態に、ろくにスピードが出ない乗り物ほど哀しいものはない。卯澳に出動する際、速度の出るボートを用意しておけと指示されたことが、どれほど重要であるかがよく分かる。
「宗少尉・・・今、ヘリから当該船に無線連絡をしたが、何も応答が無い」
「了解。ますます怪しいですね・・・」
「現在、他の漁船にも、あれが卯澳の船かどうか確認中だ」
「了解 ─────── 第三班、聞こえたか!?」
「はい、聞こえています」
「そのまま、ポート(左舷側)から更に接近せよ。二班は反対側から行く」
「イエッサー!!」
宗少尉のボートは瞬く間に先頭集団に追い着き、スーッと速度を落とした。
目の前の白い漁船の船尾に、鮮やかな青色でローマ字の船名が書かれている。
「HONG YANG 415 ・・・・これだな?」
「HONG YANG?・・ほう、 ”弘揚(ホンヤン)” とは、台湾の船にしては、如何にも取って付けたような名前だな」
「 ”415” というのも、船名の後ろに付ける数字にしては珍しいですね。普通はその船が二世や三世であることを示して、ひと桁で2や3を使うことが多いのに・・・」
「いや、あれこそ北朝鮮の特殊部隊が乗っている証拠だ。 415 は金日成(キムイルソン)主席の誕生日、4月15日の意味だろう。社会主義国は常にそういうものをありがたがって、主席が何処かの工場を視察しただけで、”728(7月28日)工場” などという名前が付くし、平壌(ピョンヤン)の街を猛スピードで走る人民軍や労働党の指導者たちの黒いベンツは、どれもナンバープレートの頭三ケタが ”415” だというからな・・・」
「はは・・・何だか子供っぽいな。まるで笑い話みたいだ」
2艘のボートの間を、そんな会話が飛び交う────────────
「宗少尉・・・当該船のマストに ”タンゴ旗” を確認しました!」
「よし、拡声器を使って、乗組員は全員デッキに出て顔を見せるように言え!」
「高尾船籍の HONG YANG 415、HONG YANG 415 に告ぐ・・・此方は日本人誘拐犯を捜索中の海軍特殊部隊だ。容疑者の有無を確認するため、船長並びに船員は、全員デッキに出て顔を見せよ!!」
「繰り返す・・・HONG YANG 415 、HONG YANG 415 ・・・・」
「やはり、応じませんね ────────── 」
「陳中尉、顔を見せろという要求に応じないばかりか、何の応答もありません。
ますます怪しいですね」
「やむを得んな。停船させて、顔を見せてもらおうか・・・」
「了解っ!」
「HONG YANG 415、停船せよ。停船しなければ、強制的に停船措置を執る!!」
「HONG YANG 415、HONG YANG 415、停船せよ!!
すみやかに停船に応じなければ、走行機関を破壊して、強制停船を行う・・・・」
「一向に応じる気配がありません。これはもう、奴らの船に間違いないですね」
「宗少尉、他の漁船に確認が取れた・・・HONG YANG 415 は卯澳の船ではなく、徐と思われる人物が台南で修理して一時的に漁港に置いていた船だ。エンジンは巡視船並の強力なものに載せ替えてあり、試走を見た漁師たちの評判になっていたそうだ」
「ははぁ、逃亡用に改造したんですね。後部に見えるドラム缶は予備燃料でしょうか?」
「そのようだ、北朝鮮まで一気に突っ走るつもりだろう」
「さて、どうしますか ──────────── 」
「いま、漁船のリーダーにも事情を説明した。船団が巻き添えを食わないよう、全船が当該船から離れて待避すると言っている」
「了解。船団の安全が確認できるまで待機します!」
卯澳の漁船団は、予定のコースを外して、大きく右へ迂回し始めた。
だが、HONG YANG 415 も他の船と同じコースを取って、従(つ)いて行こうとする。
「陳中尉、HONG YANG は飽くまでも漁船団の中に紛れて航行するつもりです!!」
「仕方がない、近づいてスクリューを破壊しろ!!」
「了解。第三班、M72(携帯式のロケット・ランチャー)を準備 ──────────
先ずは HONG YANG の後尾に付けろ!」
「イエッサー!!」
波を蹴立てて、あっという間に三班のボートが HONG YANG 415 の後尾に付く。
「M72、発射用意!!」
「発射準備よぉし・・・!」
「おっ ────────── ?!」
突然、船尾に2名の船員が走って現われ、ゴムボートに向かって手を振っている。
「待てっ!、発射中止!、スターン(船尾)に人影を確認、そのまま待機せよ!!」
「了解、待機します ──────── しかし、あれは一体、何をしているんでしょう?」
二人とも此方に向かって、何かを説明しようとしているかのような仕草で手を振り、懸命に話しているのが見えるが、もとより、この海上では声が届くはずもない。
「少尉・・・乗員が此方に何か言いたそうなそぶりですが ──────────── 」
しかし、どうしたものかと、三班のボートがほとんど静止しかかったその時・・・
「MOOVE!、MOOVE!、三班、動けっ!、武器を隠しているぞ!!」
ヘリに居る陳中尉が、大声で叫んだ。
船尾の足元に置かれた武器を、双眼鏡で確認したのだ。
その、三班のボートが慌てて急発進したのと、ほぼ同時に────────────
「ズダダッ・・・ダダダダッッッッ・・・・・!!」
いきなり二人の男が足元のライフルを取りあげ、ボートに向かって乱射してきた。
「Go, Go, Go, Go!・・・ジグザグに走れーっ!!」
飛ぶように、銃弾の雨からフルスピードで逃れ、ようやく射程距離を脱する。
「全員、怪我はないかっ────────?!」
「三班!、三班っ!、聞こえるか?!、被害の報告をせよ!!」
「・・ふぅ、危なかった。陳中尉、人間は無事でしたが、船外機が一基やられたようです」
「くそっ、丸腰と油断させて、充分近寄らせてから撃とうとしたな。だが、もう奴らだということに間違いはない。遠慮なく船尾にロケット弾を撃ち込んでやれっ!」
「イエッサー!・・・見てろよホンヤン、すぐに立ち往生させてやる!!」
しかし HONG YANG 415 は、力強くエンジンの音を呻らせ、素早く方向転換しながら、少し離れた所に居る三班のボートにグイと舳先(へさき)を向けてきた。
「おっと・・・突っ込んでくる気か ────────── ?」
「三班っ、いいからそのまま逃げるフリをしろ、こっちは後ろに回ってスクリューを狙う!」
「宗少尉、了解しました!」
しかし、波を蹴立てて向かってくる敵の船は、思ったよりもずっと速い。
「わわっ・・こいつ、巡防艇みたいに速いぞ!!」
「宗少尉!、こっちの船外機が一基では、あっという間に追い着かれてしまいます!!」
「泣き言を言うなっ!、 目一杯スターボードしろっ!(Starboard=右に反転・面舵を取ること)、その隙にこっちから砲撃するっ!!」
「了解っ────────────!!」
「うおおっ、なんて速いんだ!、これじゃあ、今に踏み潰されちまうぞっ!!」
「もっと小さく回れっ!、いくら何でも、ボートの方が小回りが利くはずだっ!!」
──────── だが、敵は覆い被さるように、執拗に三班のボートを追いかけてくる。
「宗少尉、あれでは三班が危ない、牽制でM72を撃てっ!!」
「イエッサー!、ちょうど構えて撃つところです・・・!!」
「ズズゥゥウ────────────ンッッッ!!」
宗少尉が放ったロケット弾は、HONG YANG 415 の舳先(へさき)のすぐ前で炸裂し、低い爆発音と共に、ズシャァ─────ッッと、巨きな水飛沫(しぶき)が揚がった。
敵船は爆発の衝撃で大きく揺れ、速度が少し落ちたように見える。
「よーし、今のうちだ・・・・三班はポート(左舷)へ直角に付けて、敵船のハル(船体)ギリギリに牽制のロケット弾を撃ち込めっ!!」
「イエッサー!!」
「二班はスターン(船尾)に回り込むっ!!」
「了解っ・・・・!!」
「ズズゥ───────ンッッッ!!」
「うわあぁっ────────────!!」
すぐ目の前で敵のロケット弾が炸裂し、その威力でゴムボートが転覆しそうになる。
「陳中尉、 HONG YANG から、ロケット弾の砲撃です!!」
「よし、幸い風も無い・・まず煙幕弾をブリッジ(操船室)付近のデッキに叩き込め!!
スクリューを破壊するのはそれからだ!」
「イエッサー!!」
「三班っ!、敵船に近づいて煙幕弾をぶち込むから、援護しろっ!!」
「がってん、承知っ ──────────── !!」
日頃からよほど訓練を積み、チームワークを学んでいるのだろう。2艘のゴムボートは、まるで双頭の龍のように、右へ左へとくねって各々の位置を自由に入れ替えながら、徐々に敵船に近づいて行く。
こんな具合に動かれては、どっちのボートの、何処を狙ってロケット砲を打ち込めば良いのか全く見当がつかない。現に HONG YANG の甲板から盛んに放たれる砲弾は、ことごとく見当違いのところに落下しては、波間に巨大な水柱を立てている。
「行くぞっ ──────────── !!」
もう、HONG YANG の船体が、すぐ目の前に大きく見えている。
ロケット弾は、間近で撃てば自分の船に影響が来てしまうので、これだけ近づかれてしまっては、もう撃てない。
甲板では、数人の男がライフルを構えて、ゴムボートを狙い撃ちにしようとしている。
「撃ってくるぞ、気をつけろっ!、ゴムボートは穴が空いたら一巻の終わりだ!」
「なぁに、先手必勝・・・こっちから先に撃ってやりますよ!!」
「ダンッ、ダン、ダン、ダンッッ ────────────!!」
「うぁっ・・・・・」
不用意にも、デッキに立ってライフルを構えていた一人が、あっという間に倒れた。
「上手いぞ、伏(ふく)っ ──────── !!」
いつか海軍基地で巧みな寝技を見せた、あの伏曹長である。
「サンキュー・サー、銃の腕は少尉ほどではありませんが・・・・」
そう謙遜する伏曹長だが、かつて士林夜市で宏隆にナイフを向けた相手の手に、遠くから射的の弾を命中させて防いだことがある。
「こっちも行くぞっ、それっ ────────────!!」
宗少尉が、スピードを上げたゴムボートの上から煙幕弾を撃つ。
「ボムッッッ・・・・!! 」
敵船のデッキに煙幕弾が転がり、たちまち黒煙が濛々(もうもう)と立ち篭め始めたが、その煙の中を、ライフルを持った一人の男が這うような低い姿勢で駆け寄り、煙幕弾を馬鹿にするかのように海へ蹴り落とした。
「・・ふん、こんな子供騙しをしても、無駄だ ────────── 」
男はそう呟くと、身じろぎもせず甲板に立ち尽くし、煙幕弾を発射した宗少尉に向かって、ピタリとライフルを構えた。
・・・・その時、ヘッドセットから陳中尉の声が聞こえてきた。
「宗少尉!・・いま、煙幕弾を海に蹴落としたのは、徐だ ────────────!!」
(つづく)
2010年11月15日
連載小説「龍の道」 第57回
第57回 綁 架(bang-jia)(8)
「うぁっ──────────!!」
仁王立ちをしていた屋根の天辺から、宏隆は一気に下の路地へと転げ落ちた。
一瞬、何が起こったのか全く分からない。銃声を聞いたのと同時に、足元に強い衝撃を受け、身体が宙に舞った。徐が放った銃弾は、宏隆の靴のカカトの部分だけを正確に撃ち抜き、その衝撃に足元から身体を掬われて、あっという間に敵が待ち受けている路地へと転落させ られたのである。
「ううっ・・くっ、くそぉ・・・・・」
東亜塾で柔術を稽古していたおかげで受身こそ何とか取れたものの、飲まず食わずで監禁され衰弱していた体で、3メートル以上もある屋根の高さから突然地面に落とされた衝撃は思ったよりも強烈で、すぐには動けない。
「それっ、今のうちだ!・・・捕り押さえて、引っ括(くく)ってしまえっ!!」
宏隆が落ちてきたところへバラバラと追っ手が集まってきて、何の用心もなく取り押さえようとしたが、
「ズシッ──────────!!」
「ぐえっ・・・・・・」
漸くよろよろと起き上がってきた宏隆に向かって、最初に飛び掛かってきた男が突然後ろに弾かれ、そのまま腹を押さえてうずくまった。
宏隆の素早い一撃が、強烈に打ち込まれたのである。
「この坊やは強いぞ、見くびるな!・・見くびると、こんな目に遭う────────────」
「子供だと思うな、気をつけろ!、ホテルでも散々手こずったのだ!!」
「・・・おうっ!!」
互いにそう声を掛け合って、遠巻きに宏隆を囲むが、誰も手を出そうとしない。
降りてみると、路地は屋根の上よりもずっと薄暗い。敵の顔も、未だはっきりとは見えないほどなのである。空が曇っている所為もあるが、屋根の上と下とでは明るさがこんなに違うのかと不思議に思えた。
「────────そうか、掛かって来ないんなら、こっちから行くぞっ!!」
山門に立ちつくす金剛力士のような形相で、ありったけの力を振り絞って宏隆が怒鳴る。
しかし、何と言っても多勢に無勢である。屋根から転落させたのが二人、たった今たたきのめしたのが一人なので、相手は四人、徐を入れると敵はまだ五人も居るのだ。
(・・ん?、ひい、ふう・・・一人足りないぞ、何処へ行ったのか・・・・・)
計算が合わないのが気になるが、今はそれどころではない。
「たった一人の子供を相手に、何をぐずぐずしている、早く絡め取ってしまえっ!!」
スルスルと身軽に屋根から降りながら、徐が激しい口調で部下たちに命じる。
「はっ・・!!」
すぐに一人が、覆い被さるように組み付いてくる。
大柄だがよく引き締まった身体をしたその男は、かなり力もありそうで、動きも素早い。
その男が近づいて来た時に一撃を食らわせようとしたが、うまく間合いが取れず、避けられた挙げ句、後ろに回られ、体重をたっぷり掛けられて羽交い締めをされてしまった。
「さあ、もうお終いだ、おとなしくするんだ・・・・」
しかし宏隆も、そのまま言いなりにはならない。
「ぐぁっ!!・・・・・」
何をどうすれば、そんな風に立場が逆転するのか、羽交い締めにされた体勢からスルリと撓(しな)やかに拘束から脱けると同時に、その男の腕を反対に捻じ揚げる。
宏隆にすれば、こんな動きは東亜塾の柔術の稽古として散々やってきていることで、こんな時にもそれが自然に出てくるのだが、敵はそんな柔術の技に慣れていないのか、嘘のように決まってくれる。
「ははぁ、コイツら、日本の柔術を知らないな・・・?」
そして、宏隆の反撃は、その柔術の技に留まらない。
「バシィッッ・・・・!!」
逆手を取って相手の動きを封じた瞬間、それを力ずくで解きほどこうと、少し屈み気味に前傾してきた敵の鼻っ面へ、ほとんど同時に蹴りが入る。
「ぐあっ・・・!!」
たまらず、相手が声をあげて崩れ落ちるが、蹴り自体の力が弱かったのか、昏倒させるまでには至らない。今の体勢で追撃をすれば、他の者が束になって掛かって来るだろうから、断念せざるを得ない。
しかし、こんな技はもちろん柔術にあるわけが無い。ケンカ三昧の経験から、宏隆が研究に研究を重ねて培ってきた独自の戦闘法であった。
「つ、強い────────!!」
「こいつ、本当に日本人の高校生なのか・・・?!」
仲間が余りにも簡単に屠られてしまう姿を目の当たりにして、呆れたように言う。
彼らは一般人ではなく、特殊部隊や諜報員として訓練を積んできた者たちなのである。
「あと三人・・・いや、コイツはまだ少し闘えそうだから、三人半、か?!」
「馬鹿者め、相手は太極拳の達人が継承者として認めるほどの天才だ、子供だと思って甘く見るなと言っているのに!・・・ええい、もう時間が無い、皆で同時にかかれ!!」
徐がチラリと腕の時計を見ながら、少し焦った声で言う。
「・・・あっ、あの音は────────────?!」
誰かがそう言ったのと同時に、宏隆も敵も、一斉に路地の狭い空を見上げた。
バラバラと、低空で飛ぶエンジンの音が、徐々に大きく響いてくる。
「チィッ、ヘリだ・・・・・ここを嗅ぎつけて来たな!!」
「中型ヘリだ、10人は乗っているぞ・・・!!」
「まずいぞ、玄洋會は武装が軍隊並みだからな──────────」
不安そうに徐の顔を見て、隊員や諜報員たちが口々に言うが、
「心配ない、この薄暗い路地までは、上からは確認できない。
それに、我々の船を特定して、降りる場所を見つけるまでには、まだ時間が掛かる」
如何にも隊長らしい落ち着いた声で、その判断を皆に伝える。
「ああ・・陳中尉が来てくれたのか・・・・・」
長い闇の果てにようやく希望の光が見えたように、宏隆の顔が少し明るくなったが、
「どうやらそのようですね、しかしお返しするわけにはいきませんよ」
徐が念を押すように言い、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、
「バサァ───────ッッ!!」
「あ、ああっ・・・!?」
救助に来たヘリの姿に、ふと安心が過(よ)ぎったその瞬間を見計らったように、突然、宏隆の頭上に漁網が投げ掛けられた。何処ぞにあった網の切れ端だろうが、人を絡め捕るのには充分な大きさがあった。
「・・・上手いぞ、よくやった!!」
たとえ猛獣であっても、網を被せられてしまえば、ひとたまりもない。
かなり古い時代から21世紀の現在に至るまで、網は捕縛用の武器として各国の警察や特殊部隊などにも採用されており、一旦被せられれば歩くこともできず、逃れようとして藻掻けばもがくほど一層複雑に絡まってしまう。白兵戦で手を灼かせる相手には、非常に有効な武器である。
こうなっては、流石の宏隆もどうしようもない。
「く、くそぉ・・・・・」
「コイツめ、手こずらせやがって!!」
すかさず、誰かが腰から伸縮する警棒を取り出して、後ろから素早く首の辺りに一撃を食らわすと、宏隆は網の中で声もなく倒れた────────────
「・・・朝っぱらから、いったい何の騒ぎだな?」
出漁の為に港に出かけ始めた漁師が突然すぐそこの入口を開けたので、徐の部下たちは慌てて網の中の宏隆を囲むようにして隠した。
「さっきから、屋根の上で走り回る音がしとったけんども・・・・」
───────向かいの家からも、別の漁師が出てきて言う。
「何でもない・・・船に乗るのを嫌がっている若い者に、教育をしているんだよ」
徐が笑顔を作って、巧みに言い訳をする。
「・・ああ、あんたぁ、台南から船を買って、港に置いてある人じゃねぇかい?」
まだぼんやりと薄暗い路地で、顔をのぞき込むようにして、一人の漁師が言う。
「そうだ、今朝出ていく。いろいろ世話になったな・・・・」
「ありゃぁ、見かけはボロだが、機関はいいな。まるで巡視艇のエンジンみてえに良い音がしていたで。ペンキさえ綺麗に塗りゃあ、もう完璧だな!」
もう一人の漁師が盛んに賞めて言った。
「まあ、教育も良いけんど、あんまし手荒なことをしてやりなさんなよ。
近ごろの若いモンは、聞き分けもねぇが、根性もねぇでなぁ!、わはははは・・・・」
「ほんに、そのとおりだぁ・・・あはははは・・・・・」
そこで起こっていることをまったく気にせず、どんどん港に向かって歩いて行く。
「────────よしっ、間もなく追っ手が来るぞ、急げ!」
「はっ・・!!」
少しだけ、漁師を見送ってから、宏隆を網ごと担いで急いで反対側へと走る・・・
訓練を積んだ兵士たちは皆、足が速い。戦場では、歩けなくなったり、走れなかったりすることは即ち死を意味する。軍隊では走る訓練は必須であり、たとえ休日であっても、走ることは兵士の日課として欠かさず行われるのが普通である。
路地から抜け出ると、すぐ眼下に港が見えている。
朝の港には、もう路地の暗さはなかった。
だが、その時・・・・・
「待て────────────!!」
「むっ・・・・誰だっ!?」
彼らが来るのを待っていたように、三人の男が銃を構えて徐たちの行く手を塞いだ。
「その少年を、ここに置いていってもらおうか」
「ははあ、察するに萬国幇の配下だな・・・玄洋會に寝返ったか?」
徐がすぐに相手を見抜いて、そう言った。
このような組織に属する人間は独特の雰囲気があるものだが、その組織ごとにも独自のエネルギーがあって、一度でもそこの人間と接触した者は、どこで会ってもその個性が感じられて、どの組織の者であるかが判別できることが多い。ベテランの刑事や公安の調査員は歩いている人間を見ただけで、一目でどこに属する人間かを言い当ててしまう。
「寝返ってはいない、初めから張大人の所とは繋がりがある。お前たちの言うことを聞くふりをしながら、監視を続けていたのだ」
「ほう、それは迂闊だった・・・ならば、今からは敵だということになるな?」
「そのとおりだ。分かったなら、大人しく我々に従ってもらおうか」
「そうか、仕方がない──────────」
「うがっ・・・・!!」
いつ、どこから取り出したのか・・・・仕方がない、と少し俯(うつむ)きながら徐の右手が少し動いたと思うと、前に立ち塞がったリーダー格の男が、急に身体を反らせ、首を押さえながら倒れた。
小型の、太い針のような投げナイフが、見事に首に突き刺さっている。
「ああっ──────────!!」
他の二人がそれを見て怯んだのと同時に、徐の部下たちが飛び掛かって瞬時に銃を奪い、あっという間に一人をナイフで刺し、もう一人の首を捻って倒した。
こんな時には実力の違いがハッキリと出る。軍隊の特殊工作員と黒社会の構成員とでは、その任務も目的も大きく異なっており、戦闘訓練の中身などは比べものにもならない。
夜市での宗少尉たちの動きを思い出しても、個人の戦力は正に桁違いであると言える。
「さ、急ぐぞ────────────」
彼らにとって、この程度の敵の邪魔は、ものの数には入らないのであろう。
何ごとも無かったかのように、再び眼下に見える港に向かって坂道を急いで下り始めた。
二十隻以上は有るだろうか、閑静な卯澳の港には、今朝の出漁を準備する船が肩を寄せて並び、エンジンの音が周りの山々に低く谺(こだま)している。
卯澳(うおう)漁港は、伝統的な漁村の風情を今に残す良港として古くから知られ、背後に迫ったなだらかな山の斜面には漁夫たちの家が点在し、家の周りや道は丁寧に石を積み上げて整備されている。
民国46(1957)年からは漁港の本格的な再興が開始され、停泊地や埠頭、防波堤などが整備された。漁業組合員は216人、近海漁場への日帰り操業による、鰹、海老、鯛、鱈などが主たる漁獲であり、刺し網や延縄(はえなわ)、一本釣りなどの漁法も行われている。
「卯澳」の名は、漁港のすぐ後ろに聳える兎の耳に似た卯里山から、三条の渓流が海に向かって流れ出している様子が「卯」の字に似ていることに由来しているという。
───────その漁港の片隅に、少々サビの目立つ古ぼけた船が、如何にもこの港の船のように、目立たぬように泊められてある。北朝鮮特殊部隊の要請で、台湾に駐在する諜報員が黒社会「萬国幇」の組織を通じて台南から買い求めてきた逃走用の漁船である。
馬力の大きなものにエンジンを乗せ替えてあるので、フルに回せば巡視艇並みのスピードも出るという代物で、もちろん万一に備え、武器弾薬も密かに積み込まれていた。
漁港に飛び込むばかりの勢いで急いで坂道を下ってきた徐と部下たちは、すでに暖機運転が始まったエンジンの音が響く船に駆け込み、まだ網の中で昏倒したままの宏隆を、ゴロリと荷物のように甲板に転がした。
「急げっ!!・・・他の漁船が出て行くのと一緒に、それに紛れて出港するのだ」
「・・・もう、今すぐにでも出港した方が良いのではないですか?」
「馬鹿め!、そんな事をすればこれが我々の船だと示しているようなもので、ヘリから狙い撃ちにされるのがオチだ。他の漁船と一緒に出て行けば我々を見つけにくいし、たとえ確認できても他の船が居るので、おいそれとは攻撃できない」
「なるほど────────────」
「分かったら、どんどん準備するんだ。武器をすぐに使えるようにしておけ!!」
「この坊主は、どうしましょうか・・?」
「取り敢えず、そのまま物置に放り込んでカギを掛けておけ」
徐はそう言うと操舵室へ入って行った。部下たちは皆、武器を準備したり、漁船が操業中であることを示す旗をあちこちに立てる為に、あたふたと走り回っている。
船は見た目には古びていて、ちょっと他の漁船との見分けが付きにくい。
逃走に目立たぬよう、わざと綺麗にペンキを塗らせなかったのである。
「そろそろ漁船の出港が始まったようです・・・」
「よし、五,六隻出たら、間に割り込んで後ろに従(つ)いて行け。
この船団に紛れて、そのまま出ていくんだ──────────」
「隊長っ、ヘリが・・・奴らのヘリが、頭上を旋回しています!!」
デッキに居る部下が、窓を叩いて慌てて叫ぶ。
操舵室の小さな窓に顔を付けるようにして上を見上げると、出港しようとしている漁船の群れの真上を、陳中尉たちの乗ったヘリが低空で旋回している。
二十隻もの船団のエンジンの音でヘリの爆音が掻き消され、気がつかなかったのだ。
「畜生、今ごろウロウロ陸(おか)を探していると思ったのに、もう感付かれたか!!」
「慌てるな・・・・あの様子では未だこの船を見つけてはいない。
漁に出るつもりで漁船になりきって、そ知らぬ顔をして港から出して行くのだ!」
「はっ・・!!」
「あのタイプのヘリは、航続時間が3時間、航続距離は800km程度のものだ。
いつまでも、何処までも我々を追って来ることは出来ない」
「それじゃ、沖に出てしまえば、もうこっちのものですね──────────」
「そのとおり、海の上には給油所はないからな。台北から追って来たのなら、せいぜいあと1時間半くらいしか飛んでいられないはずだ。こっちは予備の燃料を積んだから、たっぷり二千キロは走れる」
「沖合で操業するフリをしながら時間を稼いで、ヘリの燃料が切れるのを待つと・・?」
「そのとおりだ、はははは・・・・」
バリバリと、1,700馬力(850shpX2)のけたたましい音を立てて、ヘリが何度も頭上を旋回しながら、徐が乗っている船を探している。
しかし、上から見下ろした場合には人物を確認することが難しく、まして全船が漁旗をはためかせて出漁しようという状況となっては、無碍に邪魔立てするわけにもいかない。
現に、気の荒い漁師たちはヘリが間近に迫ってくることに腹を立て、見上げながら拳を振って怒鳴り散らしている。
初めからこのような状況を想定した徐の計画は、実に適切であると言えた。
「くそぉ────────これじゃ、まるで見分けが付かないぞ!!」
開け放ったヘリのドアから、ランディング・ギア(着地用の脚)に足を掛け、身を乗り出しながら双眼鏡を見ていた玄洋會の若い隊員が吐き捨てるように言う。
漁船のすぐ間近に超低空で迫って降りては、一艘ずつ乗員の顔を確かめようとしているのだが、なかなか徐たちの姿を確認できない。
「萬国幇の三人は可哀想なことをしたが、頼みの彼らが殺(や)られてしまったので、徐の船が特定できなくなってしまった・・・・」
すぐ隣で、機体から大きく身を乗り出しながら、もう一人の隊員が言う。
「陳中尉、やはり確認できません!!、向こうの防波堤を超えてしまう前に、手前でホバリングして、船団の出港を阻止してしまいましょうか?」
「いや、流石にそこまではできない・・・・」
「しかし、今すぐ止めないと、沖に出られたら厄介なことになります!」
そうしている間にも、船団はもう、次々に港の外へと出始めている。
平穏な港の水面とはちがって、波のうねりが船体を押し上げては下げて、漁船が一艘ずつ外海(そとうみ)に出て行く様子がありありと見て取れた。
「・・よし、宗少尉の班は降下してゴムボートで追え!、私はヘリから追跡を続ける」
「了解!──────────これより二班と三班はロープ降下し、ゴムボートに分乗する!!」
「Roger(ラジャー)!!」
「Roger・・・・!!」
隊員たちが皆、宗少尉に向かって親指を立てた。
(つづく)
2010年11月01日
連載小説「龍の道」 第56回
第56回 綁 架(bang-jia)(7)
敵も必死である──────────
脱走した宏隆を捕らえて、首尾よく国に連れて帰らなければ、自分たちが厳罰を科せられてしまう。殊に彼の国に於いては、密命を帯びた特殊部隊の任務の失敗は、すなわち死を意味していた。
「・・あっ、逃げるぞ、ふた手に分かれて回り込め!!」
騒々と、遠くから人の声が聞こえてきたのと同時に、もう宏隆は走っていた。
ぽつりぽつりと、小さな外灯がぼんやり灯された漁師町の細い路地の道を、ひた走りに駆け抜けていく。
まだ足取りは覚束ないが、干した烏賊にかぶりついて腹拵えをしたおかげで、もうさっきのような目眩やふらつきは、かなり解消されていた。
喰べる事というのは、こんなにも重大なことなのだと、改めて思い知らされる。
もちろん、たとえ烏賊の一匹といえども、漁民が丹精して拵えたものだと思うと、それに無断で手を伸ばすことが憚られたが、まるでそこに用意されていたように食べ物があったのは自分にとって正に天恵であり、そう言えば「食べる」という言葉の語源は「たまはる」、つまり天からの賜りものという意味であったことなども思い出され、手前勝手な解釈ではあるが、今度だけは緊急避難に免じて勘弁して貰おうと思った。
怒鳴っている声や荒々しい足音からは、ホテルに居た頭数よりも遥かに多くの人数が宏隆を追っていることが窺える。それらは、台湾人でありながら北朝鮮の協力者として汚れた銭の禄を食んでいる売国奴たちや、何食わぬ顔をしながら眈々とこの国に住まいしている諜報員であるに違いなかった。
自分を拉致することに、これほど多くの人間が必死になっているのを目の当たりにして、宏隆は改めて驚かざるを得ない。
中国共産党政府は、21世紀の今日に於いても未だに古の中華思想を真っ向に掲げ、国際秩序を物ともせず、匪賊寇盗の如く、形振り構わず領土と経済を拡大発展させることに躍起となっているが、それと正しく同じ穴の狢である北朝鮮──────────
先軍政治、つまり全てに軍事を優先する政治思想を万能の宝剣とし、国民の言論と報道を完全に統制下におき、深刻な飢餓と貧困の辛苦にあえぐ人民を尻目に、麻薬と偽札を大量に製造して世界中にばら撒き、その莫大な収益で米陸軍の二倍の歩兵を有する世界第五位の軍隊と世界最大の特殊部隊を有する軍事独裁国家・北朝鮮にとって、台湾の活動に於ける目の上の瘤となる「玄洋會」の勢力を潰滅させるためには、宏隆の父親のような有力な資産家の協力者を一人でも減らし、反対に無理矢理にでもそれを味方に付けさせることが最も手っ取り早く、また確実な方法でもあった。
そしてその為には、先ずは息子の宏隆を拉致して父親が破産するほどの身代金を要求し、その財力を散々搾り取って、玄洋會の日本とのコネクションを根絶しにすることが肝要であった。
そんな北朝鮮の、国を挙げての謀略の一端が今、紛れもない現実として、”平和と安全は水の如し” などと言われて久しい日本の、若き高校生である吾が身に降り掛かっていることをようやく実感し始めて、宏隆は否応なく己の運命や人生というものについて、深く想いを巡らせずにはいられない。
しかし、そんな想いに囚われたのはほんの一瞬のことであって、実際には目の前に迫ってくる敵から逃れることに、ひたすら必死であった。
「居たか───────?!」
「いや、居ないぞ。ここに来るまで、何の気配もなかった────────」
「さっきの人影の位置からは、この路地以外に他に行くところは無いはずだが」
「いったい、何処へ行った────────」
ふた手に分かれて、海岸沿いの細い一本の路地を先に回り込んで、挟み込もうと図ったはずなのだが、その肝心の宏隆がどこにも居らず、路地の中ほどで仲間同士が鉢合わせをしてしまった。
「むぅ、おかしいな・・・・」
「坊主め、吾々よりも先に、この路地を抜けていったのか・・・・」
「それとも、どこか途中の漁民の家にでも潜り込みやがったか!」
「隊長、あのガキが匿われているかどうか、手分けして一軒ずつ叩き起こして、シラミ潰しに確認していきましょうか?」
「いや、待て・・・・かすかに、気配がある──────────」
「え、気配が・・・?」
部下に隊長と呼ばれたのは、あの徐である。
徐は、頭を少し傾けて耳を澄ましながら、まるで何かの匂いでも薫ってくる方向を探ろうとするように、此処に居る者たち以外で、誰かが息を凝らして潜んでいるわずかな気配を感じようとして、全神経を研ぎ澄ませていたが、
「家の中ではない────────此処だ・・・・すぐ近くに居るぞ!」
しばらくして突然、皆に向かってそう言った。
「・・は?・・・すぐ近くにとは、一体どこに居るのですか?」
「情けない奴らだ、散々厳しい訓練を積んできても、そんなことが分からんのか!」
「しかし、この路地には見えませんし、家の中でもない、となると・・・・・」
「────────あそこだ!、あの屋根の上に潜んで居る!!」
「えっ・・・・」
徐が指差した荒ら屋(あばらや)の屋根の上を隊員たちが一斉に仰いで見上げ、何本もの懐中電灯の光が、空襲を受けている都市のサーチライトのように交錯した。
「まずい・・・見つかったか・・・・・」
屋根の上で、まるで屋根瓦になりきったように、身じろぎもせず宏隆がつぶやく。
「しかし、何処にも見当たりませんが────────」
「馬鹿者っ、眼は物を見るためにだけ付いているのではないぞ!!」
そう言って、ヒュッと、徐がそこらにあった石ころを放り投げると、
「・・・うわっ!!」
間一髪、辛うじてそれを察知して躱したものの、思わず声が出て、避けた拍子にガラガラと屋根の上を転げたために、宏隆がそこに潜んでいたことが判ってしまった。
「・・・ああっ、あんな所に居やがったか!!」
しかし宏隆はもう、次の瞬間には素早く隣の屋根に飛び移っている。
捕らわれた者は、普通は出来るだけ早く、その場から遠くへ逃げたいのが心理である。
追う者もまた、脱出したばかりの者が近くに潜んでいるなどとは夢にも思わない。
しかし宏隆は、見知らぬ土地を闇雲に逃げ惑うことを選ばず、路地の中ほどで屋根の上に登ることを選び、そこに潜んで追っ手を遣り過ごそうとしたのである。
「ふぅ、危ない、危ない・・・しかし、よく僕の潜んでいる所が正確に分かるもんだな」
それを見破った徐は、敵ながら流石は特殊部隊の隊長、大したものだと、改めて思う。
「・・・くそっ、あのガキめっ、屋根から屋根へと、ニンジャじゃあるまいし、なめた真似をしやがって!」
「銃で足を撃てば、簡単に捕まえられるんだが・・・」
「いや、この距離と暗さでは、あのすばしっこさに拳銃は無理だ。何処に中るか分からん。あくまでも無傷で連れて帰るには、素手で捕らえるしかない」
「ええぃ・・・誰か二三人、屋根に登って追え、追わんか!!、上と下とで挟み打ちして、とっとと捕まえるんだ!!」
「おうっ────────!!」
そう大声で怒鳴り合いながら、どたばたと屋根の上の宏隆を追いかけていく。
しかし、リーダーの徐は宏隆の動向を見定めるかのように、黙ったまま、静かに隊員たちの後に従(つ)いて動いて行く。
「ひい、ふう、みい・・・やれやれ、たった一人の僕を捕まえるのに、九人も居るのか!」
追っ手の人数も判らぬままに、ひたすら逃げ惑うことに必死になるような、そんなヤワい神経を宏隆は持ち合わせていない。屋根から屋根へと忙しく飛び移りながらも、冷静に自分を追っている敵の頭数を数えていた。
ホテルに居た徐の部下の数は、たしか四人だった。
一人はホテルで宏隆に肩を撃たれているから、おそらく急いで走るような動きは無理と思われるので、徐を入れて四人・・・追っ手の人影は全部で九人なので、あとの五人は徐の直属の隊員ではない者たちなのだろうと思える。そして、その五人はつまり、徐から発される命令に慣れていない人間たちであるはずだ、と宏隆は思った──────────
この時点では、部下の一人が徐の手で始末されたとは知る由もないが、その見当としては勿論正しかった。
そして現に今、屋根に登れと命じた声は、リーダーである徐の声ではなかった。
命令系統に少しでも曖昧さや食い違いが生じれば、そのグループの力は著しく半減されてしまうものだ。銘々が勝手なことをしたがる集団は、結局は一人一人の個人でしかなく、集団としての力を発揮することができない、ただの烏合の衆に過ぎない。
それは宏隆がこれまでに多人数とのケンカで散々学んできたことでもあった。
「これは、銃さえ撃ってこなければ、逃げ切れる可能性は高いぞ────────」
決して希望的観測ではなく、実感として宏隆にはそう思えた。
だんだんと、夜が明け始めようとしている。
台湾の東端に位置するこの漁港は、この国で最も日の出が早い土地でもある。
海はまだ灰色のまま静かに眠っているが、ようやく白んできた払暁の空には真夏の大きな雲が黒々と広がっていて、その隙間から蒼い朝の光が円天をぼんやりと照らし始めていた。
「───────それっ、追いついたぞ!!」
「ははぁ、まだ足元がおぼつかないな・・・」
「丸一日、飲まず食わずの体で、我々から逃げ切れるものか!」
ようやく追い着きはじめた追っ手たちが、口々に宏隆に罵声を投げかける。
確かに、宏隆の逃げ足は徐々に遅々としてきて、まどろっこしい。
睡眠薬を打たれた後遺症か、干した烏賊の数匹ばかりでは熱量が足りなかったのか、もう懐中電灯が要らないほどはっきり眼下に見え始めた路地にも、じりじりと、徐々に敵が宏隆の行く手を狭めて来ているのが分かる。
しかし、追っ手のひとりが、宏隆が立っているところの次の屋根の斜面に足を踏み入れようとした途端──────────
「うわぁああっ・・・・!!」
ふと宏隆が振り向いたかと思うと、「ビュン・・」という鋭い風切り音と共に、何かに弾かれたように、その男が屋根の上で大きく宙に舞い、ガラガラと瓦を蹴散らしながら地上にズシンと落ちていったので、下にいた者たちは慌ててそれを避けて飛び退いた。
そして、そのすぐ後を追うように、カラ、カラ、カラ・・と、何かが金属音を立てながら屋根を滑ってきて、転げ落ちた男の傍にジャラリと落ちてくる。
「こっ、これは手錠じゃないか・・・・」
「あのガキっ、自分で手錠を外していやがったのか!!」
屋根から転げ落ちたのは、宏隆が投げた手錠が、見事に弁慶の泣き所である向こう脛に命中したゆえであった。
「しかし、大したものだな・・・まだ子供だというのに、自分で手錠を外して、納屋の屋根を破って脱出して、プロの大人たちに追われながらこれだけの働きが出来るとは!!」
「うむ、まるで訓練を積んだ吾々と同じような行動をする────────」
「彼が大人で、特別な訓練を受けていたら、ちょっと敵に回したくないな・・・」
「そのとおりだ、武器でも持たれたら、もっと厄介になる────────」
特殊部隊の隊員にさえ、宏隆の行動には目を見張るものがあり、彼らの中にはそれを讃える者さえ居た。しかし、彼らがその目的を達成しない限りは、彼ら自身に罰が与えられてしまうことも事実であり、決して感心ばかりはしていられなかった。
「・・・ええぃ、貴様ら、感心している場合かっ!、もう時間が無い、とっとと捕まえて、もう一度この手錠を掛けてやるんだ!!」
徐とは違う、リーダー格の男がいきり立って言う。
「石だ、下から石をぶつけて、落としてしまえ!」
「足元に棒を投げつけろ!」
路地にいる者たちも、大人げないと思えるような科白を吐きながら、なおバラバラと宏隆を追いかけて行く。
「おい、坊主・・・もう投げる物は無いだろう、逃げても無駄だ!」
「大人しく捕まれば、手荒なことはしない。だから、もう諦めろ!」
幾つも屋根を越えて追いかけながら、さっき宏隆に感心していた男たちがそう呼びかけるが・・・・しかし、宏隆は一向に投降する気配はない。
それどころか────────スッと、屋根のてっぺんの向こう側に消えたかと思えて、慌てて追いかけていこうとすると、
「ゴツン──────────!!」
「うぁああっ・・・・・!!」
またひとり、追っ手が屋根からガラガラと転げ落ち、背中を強かに打ちつけて、グゥと呻いたまま立ち上がれない。今度は屋根瓦を剥がして、それを敵の膝の辺りに向けて水平に、手裏剣のように投げて命中させたのである。瓦は手錠よりもはるかに重いので、かなりの利き目があった。
「や、野郎、調子に乗りやがって────────」
「あのガキ、ハナっから大人を、俺たちをナメてやがる!!」
「わははは・・・ざまを見ろ!、兎やイノシシを捕まえるようなワケにはいかないぞ!!」
屋根のてっぺんに仁王立ちに跨がって、彼らに向かって大声でそう言う。
「くっ、くっそぉ──────────!」
「野郎・・・もう許せねぇぞ!!」
そう悪態だけはついてみるものの、宏隆の巧妙な逃げ口と、大勢の大人たちに屈せぬ堂々とした態度に少々気を呑まれてしまったのか、追っ手たちは、しばしその場で呆然としていた。
「ははは・・・この恰好じゃ、まるで ”屋根の上のバイオリン弾き” だね。
もっとも、屋根の下に居るのはユダヤ人を大虐殺したローマ皇帝ネロの配下じゃなくて、北朝鮮の悪党どもだけどな・・・」
さすがに息は切れてきているが、まだそんなことを口にする図太さが宏隆にはあった。
「さて、此処からどうやって逃げてやろうか・・・・」
しかし、そう思ったのとほぼ同時に、
「ヒロタカさん──────────相変わらず、なかなかやりますね・・・」
少し離れた後ろの屋根から、誰かが静かに声を掛けた。
「あっ、徐さん・・・・・・」
いつの間に、そんな所に立っていたのか──────────
声の方に振り返った宏隆は、ちょっとギクリとした。
それに、自分が立っている軸を、すでにきれいに取られていて、動けないのである。
しかし、それこそが、密命を帯びて他国に潜入してくる特殊部隊の隊長たる、徐の実力であることに相違なかった。
「手錠のカギを解いて、天井を破って脱出したのも、今の逃げながらの戦いっぷりもお見事でした。しかし、もう充分暴れたでしょう、そろそろ大人しくして貰いましょうか・・・」
徐は、手に拳銃を構えて、ピタリと宏隆に向けている。
「徐さん・・・どうしても、僕をあなたの国に連れて行くつもりですか」
「もちろんです、それが私の使命ですからね。それを果たさなければ、私を含めて、此処に居る者たちは皆、厳罰を受けることになります。ヒロタカさんさえ大人しく従いて来てもらえれば、多くの人間とその家族が助かるのですよ」
「それは此方も全く同じことです。僕が無事に戻らなければ家族も友人も悲しむでしょうし、僕の人生が、寒い異国の麻薬工場や偽札工場で終わることになってしまう・・・」
「ふむ・・・では、どちらがどちらの言うことを聞くか、戦って決めるしかありませんね。
ご存知ですかな、この世界では常に、強い者が勝つのだ、と──────────」
「そのとおりです。しかし、無傷で連れて帰らなくてはならないのに、僕に銃を向けても、何の意味もないでしょう」
「いや、それは理想ですが、場合によってはそうも言っていられないこともある。
取り敢えず、命に別状がなければ良いと、あらためて思い直しました」
「なかなか捕まらないことに業を煮やして、仕方なく銃で撃つというのですか?」
「・・・そのとおりです」
「しかし、徐さんに、この僕が撃てるのでしょうか・・・・」
「撃てますとも──────────」
そう言った途端、徐は顔色ひとつ変えず、
「ダァ─────ン!!」
一瞬のためらいもなく、引き金を引いた。
夜明けの漁師町に、染み入るような銃声がどこまでも谺(こだま)した。
(つづく)