*第1回 〜 第10回
2009年03月28日
連載小説「龍の道」 第10回
第10回 南京町(5)
初めての経験であった・・・
こんなことは、これまでに、一度だって無かったのである。
宏隆がそれなりに手を灼いた相手でも、それは打たれ強かったり、パワーにおいて圧倒的に相手の方が有利な場合が多かったのだ。
しかしそれでも、結局は、ほとんどの場合が宏隆の勝利に終わっていた。
それは、彼よりも体躯の大きな、筋力が数倍も強い相手を、相手のペースに乗らず、相手の得意とする戦法で戦わせなかった故なのである。
チカラで押し潰そうとする相手にはチカラで返さず、相手の力を流しながら崩して倒した。
腹や胸を打っても効かない相手には、人間が鍛えようのない首筋や頭部、脇腹、スネや股間を狙って制した。素早く動き回る相手には、常にその反対側に回る動きでそれを無効にしたし、組み付いてくる相手には、組み付くことが嫌になるように工夫をした。
しかし、この相手は、これまで戦ったどんなタイプとも違っている。
初めて経験する、捉えどころのない動き・・・・
いや、相手は立ったまま殆ど動いているようには見えないから、“動き”で避けたり躱したりしているわけではない。それは、そもそも身体の使い方が、自分とは根本的に異なっているのかも知れなかった。
その圧倒的なチカラの差は、どうにもならない・・・いまの宏隆は、否が応でもつくづくそう感じざるを得なかったが、彼はそれで諦め、得心できるような人間ではなかった。
「キエェーーイッ!」
まるで、自分でそうしたことさえ、気づいていないかのように・・・
もう、気合いにもならないような、悲鳴に近い鋭い声を発して、
我を忘れて、全身全霊を込めた最後の一撃を、ほとんど無意識の内に出していた。
と・・・その、瞬きをするよりも短いような時間のなかで・・・
拳を打ち出した彼の腕が、ゆっくりと、スローモーションのように、その人の腕の上でそっと転がされ、軽く胸に両手が触れられるのを感じた途端・・・
「フッ・・」と・・・
まるで、そこだけ重力が無くなったかのように、自分の身体が宙にフワリと浮かされているのを感じた。
その時、宏隆には、黒い中国服の姿が、眼下にゆっくりと遠ざかって行くのが見えたが、次の瞬間には、どこかに頭や背中をひどく打ちつけられ、そのまま貼り付くように壁伝いに「ズン・・・・」と床に落ちて、壁際に転がった。
しかし、その衝撃の痛みよりも、はるかに新鮮な驚きが、宏隆をとらえていた。
「・・・いま、いったい、何をされたんだ?」
「と、飛ばされた・・・? こんなところまで・・・」
「何のチカラも感じなかったのに・・・・ どうして・・・?」
そのとき・・・王先生は宏隆の突きを腕で受けながら反らし、両の掌で、ほんの軽く、生卵が割れないほどの力で、彼の胸をそっと押したのであった。
そして、ただそれだけで・・・
宏隆の身体は数メートルも宙を舞い、向こうの壁の上方・・天窓のある辺りまで仰角をつけて飛ばされ、天井と壁に強(したた)かに身体を打ち付けて、そのまま壁づたいにずり落ちてきたのである。
背中に感じた強い衝撃は、その時のものであった。
しかし、飛ばされた宏隆には何が起こったのか、皆目わからなかった。
「おお、お見事!・・・久しぶりに拝見しました」
K先生が、思わず日本語でそう言ってから、すぐに中国語で言い直し、椅子から立ち上がって、パチパチと拍手をした。
すでにその人は、壁際の片隅でぐんにゃりと転がったまま呆然としていた宏隆に手を差し伸べて起こし、優しく席の方へと誘っている。
「・・・い、今のは、何ですか?
自分がいったい何をされたのか、全然わかりません!」
よたよたと、まだ歩く足元が頼りない宏隆が、目をパチクリとさせながら、王先生に向かってやや興奮してそう訊ねると、それが日本語であっても、何を言っているのかが充分解っているかのように、
「 T a i - j i Q u a n ・・・ 」
K先生の通訳を介さずに、静かにその人が答えた。
「タイ・・ジィ・・チュエン・・・・?」
・・・口の中で、復唱してみた。
「 T a i - j i Q u a n ・・タイキョクケン・・太、極、拳、と書くんだよ」
中国語の発音を示した後で、円卓に指で文字を書きながら、K先生が言う。
「中国と国交の無い日本では、まだ誰も知る人が居ないだろうが・・・
太極拳は、彼の国では六百年もの歴史を持つ、とても強力な拳法なのだ。
現に、あれだけ手加減して頂いたのに、君は軽々と宙を飛ばされてしまっただろう?
この方は、太極拳の源流である陳氏太極拳を、その直系の師匠から学ばれたのだ。
しかしそれは、今の日本で若者が武道を習うのと、決して同じことではない・・・」
「王先生は、この文化大革命でご両親や奥さん、二人の子供まで容赦なく惨殺されて、
その復讐のために、中国をもっとより良い社会に戻すために、ある秘密結社に入って・・・
・・まあ、王先生は、陳氏太極拳を学ぶ以前にも、いろいろと武術を学んでおられるし、
人生でずっと闘う必要に迫られてきた方なので、今の平和ボケの日本で、そこらの空手家や、 “ケンカの若大将” が何をやっても敵(かな)うわけがないがね・・・」
・・・K先生が思わぬ事を口にしたので、宏隆はちょっと驚かされた。
自分がこれまで送って来たごく普通の生活や、平和な社会を基盤とした考え方の範疇を超えるところで、想像も出来ぬような、怒りや悲しみ、苦しみの心情を背負って生きている人の、人生の重さや深さを垣間見たような気がしたのである。
自分などとは、生きていることの重さが違う・・・・
”ケンカの若大将” とは、宏隆が「東亜塾」の塾生たちに呼ばれている渾名であるが、K先生が言うように、ちょっとカラテ道場の黒帯を遇(あしら)えたり、ケンカが強い程度で天狗になっている・・そんな自分が太刀打ちできるような相手ではなかった。
「・・・如何だったかな、太極拳の味わいは?」
鋭く、深く澄んだ目をしているその人は、こう言って、静かに尋ねてきた。
「その拳法は・・・その、タイ・・ジィ・・チュエン・・というのは、何か特別な武術なのでしょうか? 僕は、こんな目に逢わされたのは、生まれて初めてです」
宏隆がまだ興奮気味に、少し声高に、そう言う。
「K先生のところでも、柔術の巧い人には大きく投げられてしまいますが・・・
それでも投げる円の中心があって、その外周を回るように投げられるだけです。
でも、今のは・・何も強く押されたわけでもないのに、こんなに宙を飛ばされて・・・
不思議で・・・いまだに信じられません。
それに、出したパンチがひとつも当たらない・・・それどころか、勝手にあらぬ方向へ逸(そ)れて行って・・身体もひどく崩されて、打つ度に走り回らされてしまいます・・」
その人は・・・王先生は、静かに微笑みながら、
「内勁(nei-jing)とか、纏絲(chan-si)などと呼ばれている・・・
それが、この武術の・・太極拳のチカラだ」
・・・そう語った。
「ネイ、ジン・・・」
初めて聞くその言葉を、つぶやいて、復唱してみる。
王先生は、続けて、こう説明した・・・
「太極(タイジィ)とは、宇宙・・・全体性、という意味だ。
太極拳は、宇宙の法則とひとつになることによって、大きな力を得ようとする。
普通の力は、どれほど鍛えても、普通の力を超えるものにはならない。
太極拳は、通常の、一般的な力の使い方を否定することによって、
もっと大きな、武術の高みに存在する真のチカラを得ようとするものなのだ。
古い力が去れば、新しい、真のチカラがやってくる・・・」
「・・・それは、どうすれば得られるのですか?」
「正しく学んでそれを得た人に就いて、同じように正しく学ぶしかない」
「それは・・それは、誰にでも学べることなのでしょうか・・?
・・た、たとえば・・・・」
たとえば・・ この僕にでも・・・
思わず、そう言いそうになった宏隆は、それを軽々しく口にすることを怖れて、グッとその言葉を飲み込んだ。
しかし、宏隆はもう、どうにも我慢が出来なくなっていた・・・
こんな武術が、この世界にあるのだとは、まったく思いもよらなかったのである。
自分の攻撃は、何ひとつ有効ではなかった・・・
いや、正確に言えば、有効でなかったのではなく、まったく何の意味も持たなかった。
これまでに彼が知る闘争術とは、相手が打てばそれを受けて反撃し、あるいは先手を取って相手よりも強力な力や技法で先に攻撃を仕掛け、防御それ自体を打ち破って脅威を与え続ける、というような種類のものであった。
しかし、この人の、王先生の武術は、そのようなものではなかった。
自分の攻撃は、王先生が躱すまでもなく、自分が打っていった時点ですでにそれ自体が、その攻撃するという行為ゆえに、ひたすら逸れて行ってしまっていたのである。
それが何故なのか・・・
何故そのようなことが可能なのか・・・
また、最後に自分が宙に舞わされた打撃は、自分の知る「打撃」というものにはまったくあてはまらなかった。
何よりも、痛くも痒くもないのだ。
それは、まさに生卵が割れない程度の力で、そっと触れられたに等しいものであったが、そうであるにも拘わらず、宏隆は、部屋の隅の天井の際まで飛ばされてしまった。
その、優しく触れるに等しい動作だけで、宏隆の七十数キロの身体が、4メートルも先の、高さは2メートル半ほどもあろうという天井に、仰角を付けて飛ばされ、強かに頭や背中を叩き付けられたのである。
こんな武術が、この世界に存在することを、宏隆は初めて知った。
「世界は広い・・・そして、自分は何も知らない・・・」
そう謙虚に納得せざるを得ないものが、心の中に強く渦巻いて離れなかった。
途方もなく素晴らしいものに出会った時の人間の常として、誰もがそれを所有したい、共有したい、と激しく渇望するように・・・宏隆もまた、謙虚にそれを学び、自分のものとして修得したい、という強い衝動に駆られていた。
そして、ついに・・・
もう、どうしようもなく、我慢しきれずに、こう言った。
「お、王先生・・・! 僕に・・・それを教えて下さい・・・!!」
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2009年03月18日
連載小説「龍の道」 第9回
第9回 南京町(4)
初対面の、それもたった今、お互いに二言三言、言葉を交わしただけに過ぎないのに、この人はもう、自分に向かって「打ってこい」と言うのである。
そう言われても・・・と、救いを求めるようにK先生の方を見ると、
「せっかく、そう言って下さっているのだから・・・
この際、良い勉強だと思って、何でも試させていただきなさい」
にこやかな顔をして、K先生が言う。
宏隆は仕方なく、ともかく立ち上がって、その人の前に行った。
「遠慮は要らない・・・君の得意なやり方で、好きなように私を攻撃してごらん」
そう言われても、まだ、なんとも気乗りがしない。
だいたい、稽古でもケンカでもないのに、打って来いと言われても、ハイそうですかと人を打てるものではない・・・
そう思いながら、宏隆が渋っていると、
「来(ライ)・・・!!」
突然、雷鳴のような声が宏隆を貫き、思わず、身体がビクッと震えた。
「さあ、来い!」と言っていることは、通訳して貰わなくとも、宏隆にも分かった。
しかし相手は、その王先生は、ただ普通に立っているままである。
「よし、そんなに言うなら、やってやる・・・
でも、そんな恰好で突っ立っていて、このパンチが当たっても知らないぞ!」
持ち前の負けん気がムクムクと持ち上がって来て、宏隆はようやく、日頃のケンカ大将のギラギラした目つきになってきた。
まるで空手のように、両手を軽く拳に握って、体の前に構える。
しかし、宏隆の構えは単なる空手に似せた構えではない。それは小さい頃から今日まで、数限りない百戦錬磨のケンカ三昧の経験の中から得られた、相手に対して最も動きやすく、攻防に有効なように工夫に工夫を凝らした、彼独自の「構え」であった。
そして、こんな時の彼は、ジリジリと間合いを測ってからおもむろに戦うなどといった、小説に出てくる名人同士のような戦い方とは、まるで正反対であった。
構えた途端に・・・相手にも、そして自分にも、考えるゆとりをまったく与えず・・・
「ィヤァーーーッ!」
躊躇なく、唐突に飛び込んで、得意のパンチを真っ直ぐに、構えもせずただ突っ立っているだけの、その人の顔面に叩き込んだのである。
・・これは、確かにかなり速い突きであろう。宏隆の実力を知らない並の相手であれば、この一撃だけで容易に倒されてしまうかも知れない。
何より、その突きを出すための身体の移動が速いのである。一歩踏み出して拳を打つまでに要する時間は、空手の組手などで見かける突きと比べてもかなり早い。少なくとも、このような鋭い突きは、ただのケンカ大将のレベルで出来ることではなかった。
先ほど彼自身が語っていた、空手の道場に入門してすぐ、黒帯の先輩たちを手玉に取ったという話も、決して大袈裟な話ではないことが分かる。
彼の一撃は、よく研究され、訓練された速さを持つ、レベルの高い突きであった。
しかし・・・・
宏隆の拳は、彼の意に反して、虚しく中空を打っていた。
いや、そればかりではない。
彼が打ったと思える方向とは、まるで違うところに、自分の拳が伸びていたのである。
「・・えっ? ・・・ど、どうなってるんだ?」
いつ移動したのか・・・
その人はすでに、自分が打ったところからは、少し離れたところに、さっきと同じようにスラリと立っている。
しかし宏隆には、相手に攻撃を躱(かわ)された、という感覚がまったく無い。
実際のところ、相手の身体がいつ動いたのかさえ、分からなかったのである。
・・もしかすると、自分がちょっとヘマをしたのかもしれない、と思える。
いや、そうであっても不思議はないかもしれない。何しろ今日という日は、この南京町に足を踏み入れてから、常識では有り得ないことばかり起こり続けている。
有名な中華料理店の奥の部屋から、怪しげな地下に降り、秘密の通路を長々と通り抜けてこの部屋に案内され、美人の汲む熱いお茶を飲み、まったく言葉の通じない中国人の武術家に紹介され、挙げ句の果てにはその人から「好きに打ってこい」と言われているのである。
それで平静を保てるのは、よほどの図太い神経か、鈍感な奴かのどちらかだろうと思う。
躱された気がしないのは不思議だったが、それよりも、決して日頃のケンカのような本気ではなかったとは言え、自分のパンチが掠りもせず、何よりも、これっぽっちも相手を脅かしていないことに、宏隆は少し腹が立っていた。
すると、そう思った矢先に、
「・・それだけかね? 君の武術・・いや、ケンカ術というのは・・・」
追い打ちを掛けるように、そう言葉を浴びせられ、ちょっとカチンと来て、
「よし・・それなら、今度はお望みどおり、本気で当たるように打ってやるぞ」
意を決して、まだ先ほどと何も変わらず、同じように立ったままのその人に向かって、今度は隙を窺いつつ、ジリジリと間合いを詰め、慎重に、しかし思い切りスピードを乗せて渾身の気合いと共に拳を出した。
「ウリャアァァァァ!・・・」
「当たった・・!!」
・・・と、そう思えた。見事な、会心の突きだったのである。
しかも相手は、自分の拳を躱すべきタイミングの時に、まだ避(よ)け始めてはいない。
狙った標的である相手の顔が、まだそこに、そのままあったのである。
今度こそ確かに、その拳を、完璧なまでにヒットさせたはずであった。
・・・しかし、またしても同じことが起こっていた。
宏隆の拳は、今度は当たらぬどころか、期待を裏切って、まったくあらぬ方向に・・・
自分が打ったつもりのない方向へと、大きく、空しく逸れていたのである。
当たった、と思ったその人の顔は、
残像だけを残して、そのまま、一歩も動かずにそこに立っていた。
まるで霧のスクリーンに投影された虚像に向かって打って行ったように、相手が避けもしないのに、ただ自分が大きく崩され、相手の居ない空間に拳を突いていたのである。
しかも、宏隆は自分の拳が当たらなかったことを認識してからようやく、自分が崩されたということに気付かされたのであった。
「・・・な、何だ、これは? ・・なぜ当たらない? こんな馬鹿な・・・!」
宏隆には、まるで狐にでも化かされているような感覚があった。
これは、言ってみれば相手が自分の攻撃を躱したのではなく、わざわざ自分の方から相手を避けて突いて行っているようなものなのである。宏隆が真っ直ぐその人に向かって突いて行ったと思っているパンチの軌跡は、明らかに、初めから相手の居ない空間を目指して突いてしまっているものであった。
「・・・こんな事があるはずがない」
もう、宏隆には、何の遠慮も、躊躇い(ためらい)もなかった。
二撃、三撃と、可能な限りの速さで、どんどん拳を打ち続けて行く・・・
しかし、どの角度からでも、たとえ僅か5〜60センチほどの至近距離からでも、どれほど速く打っても、彼の打ち出す拳は、まったく相手に掠(かす)りもしない。
それどころか、打った拳が顔に触れるほど近いはずの間合いが、何故か自分が思った距離よりも遠いのである。近いと思って打てば遠く、また近づけたと思って打っても、結局は相手が遠くに居るのである。
それに、素早く連打をしようとしても、初めの一打ですでに大きく崩されてしまうので、連打をさせてもらえないのだ。かといってゆっくりと連打をしても、それでは当たるわけもない。
たとえジャブのように軽く様子見で打っても、打ち始めたときには、もう身体が崩されている。本来はその後のストレートにつなぐための牽制なのである。その後に打たれるはずの強力なパンチは、すでに崩されている身体から打つことを強いられるので、ますます当たるわけがなかった。
「駄目だ・・・当たらない・・・・」
ここぞ、という処で拳を素早く出せば出すほど、それに比例して自分が崩されていく。
しかも、その崩され方は、だんだん大きく、だんだんひどくなっていくのだ。
一体、どう避けられ、どう躱されているのか・・・
かと言って、相手が素早く走り回って避けているわけではない。
相手は・・・王先生は、足の位置をほんの少し、わずかに2〜30センチほどゆっくりと移動するだけで、ほとんど動いていない。相変わらず手をダラリと下げたまま立っていて、宏隆が打って来るところを避けようともしていないのである。
にもかかわらず・・拳を打つ度に、宏隆は大きく崩され、飛び跳ねさせられてしまう。
そして、崩された身体は、すぐには元に戻らない。一度拳を打てば、身体を立て直すまでの間、部屋の中を何歩か走らせられるのである。
おそらく、素人が傍(はた)から見ていれば、まるで宏隆だけがあらぬ所に向かって腕を大きく振り回し、踊り狂っているように見え兼ねないような有り様なのであった。
「・・それだけかね? 君の、ケンカの強さというのは・・・」
まったく避けるような動きもせず・・・
また、手を出して宏隆の攻撃を捌くような仕草もまったく無く・・
こちらから見れば、ただ立ってユラユラしているだけにしか見えないその人の、少し笑みを湛えた声が、早くも息が荒く上がってきた宏隆には、大きな侮蔑に聞こえた。
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2009年03月08日
連載小説「龍の道」 第8回
第8回 南京町(3)
開かれた扉の向こうには、さっきこの部屋に自分たちを案内した、あの、如何にも屈強そうな大男の中国人の顔があった。
男は、一歩部屋に入ると、そのまま入り口を塞ぐように立ち止まり、何かを確認するかのように、少しのあいだ部屋の中を隅々まで見回していたが、すぐに歩を横に移して、塞いでいた路を開けた。
大男の後ろには、黒い長袍(チャンパオ)という裾の長い中国服に身を包んだ、五十絡みの男性が立っていた。
K先生がその人を目にした途端にスッと席を立ったので、宏隆は慌てて飲みかけの茶碗を卓上に置いて起ち上がった。
K先生はその人と親しげに握手をし、中国語で二言三言、何やら簡単な話をしていたが、すぐに宏隆の方を向いて、中国語と日本語でそれぞれに紹介した。
「王 (wang) 」という名前であるというその人は、身長は宏隆よりもやや低いが、スラリと細身の、穏やかそうな感じがする人であった。
宏隆が姿勢をあらため、深くお辞儀をして日本語できちんと挨拶をすると、その人は笑顔で彼にも椅子を勧め、自分も席に着いて、親しげに流暢な中国語でK先生と話をし始めた。
K先生がこれほど中国語に堪能であるとは全く知らなかったので、宏隆はちょっと驚いたが、K先生の父が特務機関員として中国大陸で活躍していたという事を思い出し、おそらく「東亜塾」は、未だに大陸と大きな関わりを持っているのだろうと想像した。
王先生という、その武術家は、見かけはごく普通の人と何も変わらないように思える。
長袍の服は神戸ではそれほど珍しくはない。南京町の料理店で食事をすると、近くの席にそのような服に身を包んだ中国人たちが円卓を囲んでいるのも、よく見られる光景である。
この人は長袍がとても似合っているが、きっと三揃えのスーツを着せても、中国服に負けないくらいよく似合うだろうと思える。そんなモダンな感じのする紳士である。
K先生と話をしている様子からは、この人が穏やかで温かな人であることがありありと分かるし、その話しぶりも、中国語で何を話しているのかは解らないのだが、多く教養を積んできた知的な人であるということが感じられる。また、表情や仕草にも品格があって、よく南京町で見かける中国人の顔とは、ちょっと雰囲気が違っている。
そして、よく見れば、その彫りの深い顔に光っている眼差しは奥底が深く、眼光の片隅には鋭い輝きが時折り見え隠れする。それはK先生が言うように、決してこの人が平凡な歳月を無為に生きて来た人ではない、優れた武術家であることを想わせた。
ただ、宏隆が先刻(さっき)から気になってならないことがある。
わが目を疑いたくなるような、何とも奇妙な感覚が、そこにあった・・・
何故だろうか、椅子に座っているその人の姿が、何だかまるで宙に浮いているような気がしてならないのである。果たして、普通に、きちんと腰掛けているのかどうか・・・?
話をしている二人を邪魔せぬように、そして、それに気付かれないように気を遣いながら、その人の着座している辺りを、ちらちらと、何度となく眺めてみるのだが・・・
そんな馬鹿なことが、と思いながらも、見れば見るほど宙に浮いているように見える。
宙に浮いているような、水に何かを浮かべて、その上に座っているような・・・
しかし・・そう感じられはしても、やはり、どう見てもきちんと腰掛けているのである。
普通に考えれば、椅子に座っている人が宙に浮いている訳はないのだが、何故かそう見えてしまうことの何かが、宏隆には不思議でならなかった。
K先生はしばらくの間、その人と談笑していたが、やがて、宏隆に向かって、
「君はとてもケンカが強いそうだね・・・と、王先生は仰っているが・・・」
K先生が通訳をして、いきなりこう言ったので、宏隆はその突然の言葉に、ちょっと面喰らってしまった。初対面の者に対する最初の言葉にしては、いかにも唐突である。しかし、その中国人の先生の言葉遣いや態度はとても丁寧で礼儀正しかったので、ごく自然に、
「はい・・まあ、そうですが・・・」
などと、つい、そんな風に答えてしまったのだが・・・
そう言ってから、すぐに後悔した。
「君は武術が好きかね・・?」
しかし、後悔する暇もなく、続けて問いかけてくる。
「はい、とても好きです」
今度は迷わず、ハッキリと答えた。
「では、なぜ、それほど武術が好きなのだろう? ・・ケンカに勝つためかね?」
少し微笑んで、その人が訊ねてくる。
「はい・・あ、いえ、それも少しありますが、本当はもっともっと強くなりたいからです」
「そんなに強くなって、いったいどうするつもりなのだろう?」
「・・・わかりません。ですが、自分の弱さがよく分かるからです」
「自分が弱いから、だから強くなりたい、ということかな?」
「・・はい、ケンカには少しばかり自信がありますが、自分の心はとても弱いものです。
いつも何かに怖れを抱いたり、いろいろなことに挫けそうになったりもします。
武術をやっているときにも、そんな自分がたくさん出てきますが、稽古をしている時には冷静にそれに向かっていられます。そこでなら負けないようにしていられるし、もっと違う何かが得られていくような気がするのです・・・」
K先生が通訳をし易いように、宏隆はできるだけ簡単な言葉を選んで話した。
その人は・・・王先生は、何も表情を変えず、椅子に座った姿勢にも全く乱れがないまま、続けて宏隆に問いかけてくる。
「弱い自分に負けたくないから、ケンカ三昧をするのかね?」
「そうかもしれません・・・でも、戦うのは好きです。
戦っているときの自分は、他のどんな時よりも、充実しているように感じられます」
「戦った後は、気分が良いかね・・?」
「いえ・・・なぜか、いつも空しくなります。
勝ったこと自体は気分が良いですが、なぜ自分がそのような、戦うことを選んだのか、何故そうせざるを得なかったのか、相手を傷つけない、もっと違う方法がなかったのか・・いつも振り返っては、後悔することばかりが多いです」
「ふむ・・・・
ところで、君は本当の武術を見たことがあるかな?」
「K先生のところで、いつも素晴らしい居合いの技を拝見していますが・・?」
すると、初めて、その人は少し笑って、
「ハハハ・・K先生の居合いは素晴らしいものだが、今の時代の日本で刀をぶら下げて歩くわけにはいかないし、刀で斬り合いをするわけにもいかないだろう・・・
サムライではない・・・私が訊ねているのは、武器を持たなくとも戦える武術のことだよ」
・・と言った。
「K先生に柔術を教えて頂いていますし、少しですが、空手を学んだこともあります」
「カラテは好きかね・・・?」
「空手も嫌いではありませんが、沖縄の伝統のものと違って、流行りのキックボクシングのような感じで・・・練習は筋肉の強化や試合用の組手ばかりで・・・入門早々、初心者の僕でも黒帯を何人も倒せてしまったので、先輩方にも煙たがられて、自分も嫌になって辞めてしまいました」
「ほう・・近ごろのカラテは、そんなものかね・・・」
「・・・ですから、結局は自己流の戦い方です。でも、まだ負けたことはありません」
自信ありげに・・・最後につい、胸を張ってそう言ってしまったことを、またしても、宏隆は後悔したが、
その人は、静かに微笑みながら、
「君はなかなか元気がある。 父君のお噂も以前から聞いているが・・どうやら君は、お兄さんの隆範くんよりも、ずっとお父さんに似ているようだね」
「父のうわさを・・・?」
宏隆は、父や兄の事をどうしてこの中国人が知っているのか、とても不思議に思ったが、
そんな想いも、次のひと言でどこかへ消し飛んでしまった。
「・・ちょっと、私を打ってみないか? 打つなり、蹴るなり、好きなように・・・
それとも、君には、私を打つ勇気がないかな・・・?」
微笑んで、そう言いながら・・・
その人は、すでに音もなく席を離れて、部屋の広いところに立っていた。
2009年02月28日
連載小説「龍の道」 第7回
第7回 南京町(2)
コーン、コーンと、足音だけが響く薄暗い地下の通路は、思ったよりも入り組んでいて、曲がったり、狭くなったり、違う方向に伸びていたりもしている。
時おり、どこからともなく中華料理の匂いが漂ってくるのは、明らかにここが南京町の真ん中であることを改めて宏隆に思い出させたが、地上の食事客や観光客たちは、彼らがぶらぶらと歩く足下に、このような通路が秘められていることなど、もちろん誰ひとりとして想像できるはずもなかった。
通路の幾つ目かの角を曲がったところに、落ち着いた朱色に塗られたドアがあり、表面には何かの文字か記号のようなものがひとつ、そこがどのような部屋であるかを示すかのように、浮彫に描かれている。
案内をしてきた金剛力士のような男は、その扉の前で足を止め、鍵を開けて入室を促し、二人に席を勧めると、黙礼をしてそのまま何処かに立ち去っていった。
部屋の中は意外に広く、天井もそこそこの高さがあって、地下に秘められた部屋であるような息苦しさを何も感じさせない。
天井際の、僅か20センチほどしかない小さな天窓からは、戸外の光が柔らかく漏れていて、ここが確かにどこかの建物の地下であることが想像できる。
しかし、部屋の中にも、外の通路にも、上の階に上がる階段がないので、実際にはその建物からはこの部屋に入れないのかも知れない。おそらく、この中国人街の幾つかの建物に秘密の入り口が設けられてあり、そこからこのような通路に通じているのではないか・・そしてこの地下には多くの秘密の部屋があるに違いない、と宏隆には思えた。
この天窓にしても、こんなに小さな灯り取りでは、まるで建物の装飾のように思えて、外から見て気付く人は滅多に居ないかも知れない。天窓には植え込みのような影も映っているから、尚のことだと思える。
部屋の床には、西域のホータンのものらしい、絹で織られた見事な毛氈が敷かれており、その上には、螺鈿が美しく鏤められた中国製の円卓と椅子が置かれ、傍らには深々とした皮張りのソファまで置かれている。
美しい彫刻が施された華奢な飾り台の上の、大振りの見事な青磁の花器には、艶やかな生花がたくさん飾られており、壁には誰の筆によるものか、よく読めば老子の「道徳経」からの引用かと思われる、達筆な書の扁額が掛けられていた。
しかし、わざわざ秘密の通路を造ってまで、いったい誰が、何の為に、このような部屋を設けているのだろうかと訝しくも思えるが、ともかく、そこは意外なほど静かで、ゆったりと落ち着ける部屋になっていた。
やがて間もなく・・・碧玉のような色のシルクのチャイナドレスを身に纏った美しい女性が、黒檀の瀟洒なワゴンを押して中国茶を運んで来た。
その女性は丁寧に一礼し、自分たちが座っている螺鈿の卓に並ぶようにワゴンを置いて傍らに腰掛け、中国式に薫り高いお茶を淹れて、笑顔で勧めてくれる。
日本には茶道や煎茶道があり、厳格な作法や礼法が定められているが、中国には茶道は無く、その淹れ方にルールや規範はない。しかし近頃、特に70年代に入ってからの台湾では、それがひとつの作法、つまり「茶藝」として見直され始めていると聞く。
その茶藝に於いては、茶器の載ったお盆に敷かれた白く四角い布は「素方」と呼ばれ、お茶を淹れるときの心構えである「正」を表しているという。心と姿勢を正しくして、その茶葉に適正な方法で淹れる一杯のお茶は、人の心を癒し、寛がせて、新たな活力となるに違いない。
目の前でその「茶藝」の美しさに見とれ、お茶が薫る高い香気に、それまでの緊張が徐々にほぐれていくような気がするが、宏隆にとっては、その洗練された端整な美しさを眺めているだけでも、何やら心が寛ぎ、和らいでいく心地がした。
やがて、その女性は慣れた日本語で「少しお待ちくださいませ」と言って、席を立った。
その淀みのない発音から、この人が小さい頃から日本に居住していることが想像される。
K先生は、にこやかに「謝謝」と中国語で返してから、美味そうにお茶を飲み、まだ些か緊張の面持ちのまま硬くなっている宏隆を見て、ちょっと悪戯っぽく笑い、彼に「喫茶去」と言ってお茶を飲むように勧めた。喫茶去とは、趙州禅師の問答にある、「お茶を一服おあがり」という意味の禅語である。
宏隆は、見慣れない作法で供された中国茶をうやうやしく飲んだが・・しかし、小さな茶碗に注がれたその薫り高いお茶は、猫舌の宏隆には少々熱すぎて、慌てて茶碗を置いた。
K先生は、居合や柔術の師範ではあるが、武道の教授を生業としているのではなく、今も東京に本拠を置く、「東亜塾」という有名な政治結社の長であった。
それは、かつて「東亜塾が動く時には昭和維新が決起される」とまで囁かれた、右翼、左翼の別を問わず、また、日本のみならず、近隣アジア諸国の政治にも極めて大きな影響力を持つ団体であり、政治関係者に限らず、一般市民にもその名は知られていた。
東亜塾は、政治だけではなく、国学や和歌などの研修施設を東京に建て、国学の研究を行い、歌道の専門誌を発行するなど、戦後の日本で忘却されつつある、それら文化面の活動も盛んであり、政治家や作家も多くその会に名を連ねていた。
宏隆は父の光興(みつおき)を介して、何度かその歌道会や万葉集の研究会に招かれたことがあった。
K先生の父親は、かつて右翼の大物として内外にその名を轟かせた人であり、特務機関員を育てた陸軍中野学校にも深く関与し、多くの政治的事件にも陰で関わりを持ったとされる謎の多い人物であったが、日本が敗戦した際には、皇居を望む陸軍練兵場跡地の丘で、一門の有志十数人と共に見事に割腹して果て、憂国の志士の心意気を示した剛毅な人でもあった。
子息であるK先生自身もまた、その父の志を継いで、今の世の中を・・・ようやく「戦後」も過ぎ、学生運動も下火となって、表向きは平和そのものに見える、「昭和元禄」などと呼ばれる現在の日本を厳しく見守りながら、同じ憂国の志を持つ塾生たちと共に、一旦緩急有ればの時に備え、日夜心身を研ぎ澄ませている・・・
東亜塾で研鑽されている武道は、そのための入魂の居合道であり、柔術であった。
K先生は、数年前から、東京から神戸に居を移して来られた。
その理由は宏隆には分からないが、こんな南京町の秘密の場所と縁があるのだから、この神戸もまた、K先生にとって重要な拠点なのだろうと思える。
父の勧めで参加した「日本文化研究会」で初めてお目に掛かったとき以来、K先生は、近づいてみればみるほど、意外なほど自分の立場に拘らない人であり、主義主張を他人に向けたり、押しつけたりするようなことも何ひとつとして無かった。
宏隆から見れば、K先生は政治結社の長というよりは、ただ自分の信じる道を淡々と歩んでいる人といった印象の方が強い。国粋主義でもなければ、単なる民族主義でもない、むしろ反対にそのような会の席では、若者たちに真の国際人になるべく、外国の文化をよく研究し、彼らの長所を学ぶことを勧めた。
そして同時に、日本の文化や歴史が示すところの、日本人の考え方や長所短所を正しく学び、国際人である以前に、まず日本人である自己を認識する必要がある、と諭すのであった。
そんなK先生は、宏隆にとって、折に触れては偏りなく、彼の知らない世の中の広さや人の営みの何たるかを教えてくれる、本当の意味で「良き師」と呼べる、人間としても尊敬できる人であった。
・・・しかし、南京町の地下の、このような秘密の場所にごく当たり前のように案内されることは、やはりK先生が決して普通の人ではない、一般の人たちには知り得ない「陰の社会」に深く係わっている人であることを、あらためて宏隆に実感させた。
その地下の部屋で、十分ほども待った頃・・・
やがて、音も立てずに、スーッと、入り口の扉が開いた。
2009年02月18日
連載小説「龍の道」 第6回
第6回 南京町(1)
去年・・・
つまり、昭和46年(1971年)の初夏・・・
いつも通り、居合いの稽古にたっぷりと汗を流した後で、東亜塾のK先生が、突然、
「君は本当に武術が好きなようだね。それに、なかなかスジも良い・・・
しかし、世の中には、もっと様々な武術があることを知っているかな?」
・・・そう訊かれるので、
「はい、柔術や杖術なども、色々とやってみたいと思っていますが・・」
と、答えると、
「いや、大陸のことだよ。大陸にも武術があるのを知っているかね?」
「・・大陸とは、中国のことですか?」
「そうだ。中国には、とても強力な武術がたくさんあるのだよ」
「沖縄に渡来した唐手の、その元になったようなものでしょうか?」
「それもそのひとつだ。しかし、それはほんの一部分に過ぎない。
中国に存在する武術の数は・・・そう、日本の百倍くらいは、軽くあるだろうからね」
「・・そんなに! それは、日本の武道のように強いのでしょうか?」
「おお、強いとも!
私など、手も触れないまま、飛ばされてしまうほどだからね」
「手を?・・・触れずに、ですか?」
「そうだよ。聞いただけでは、ちょっと信じ難いだろうが・・・
それは人間の意識と、身体の構造の問題だ。
つまり、純然たる科学なのであって、仙人が用いるような神秘的な技法ではない」
「科学的に説明がつく、ということですね」
「そう、私たちが学ぶ剣も同じだ。相手が刀を抜かないうちに、此方は斬ることができる。
相手が抜かないうちに素早く斬るのではなく、相手が刀を抜けないのだ。
無刀と云って、相手が斬りかかってきても素手で対応出来る技法もある。
それらは、避け方や捌き方といった単体の技法ではなく、それ自体が、武術としての、
究極の在り方なのだ・・」
「無刀・・・」
「長年正しく修練していると、そのようなことが解ってくる・・・
相手に触れずに吹っ飛ばす技にも、そのような確かな学習体系があるに違いない。
・・ハハハ、目が輝いてきたな・・・どうかね、興味があるだろう?」
「はい、すごい話です。高度な武術には国境も何も無い、というか・・・
・・・その方は、その達人は、中国に居られるのですか?」
「いや、つい最近、この神戸に来られたばかりだ。
もし君に興味があるのなら、その中国武術の達人に紹介してもいいが・・・・」
「・・え、自分にですか? ちょっと畏れ多い気がしますが・・」
「いや、才能のある武術好きの日本の若者が居れば、ぜひ会ってみたいというのだ。
まだ当分の間、中国は駄目だから、と仰ってな・・・」
「はぁ・・・?」
「ちょうど、南京町に行く用事もある・・・
もしよかったら、次の日曜日に、私と一緒に来ないかね?
しかし、君の人生を変えてしまうようなことが起こるかもしれない。
そこから先のことは私にも保証し兼ねるから、それで、君が良ければの話だが・・・」
人生を、変えてしまう・・・
そうK先生が仰ったことは、宏隆にはどうにも意味を測りかねたが、それでも、自分の中の何かが、その誘いに身を委ねるべきであることを主張しているようにも思えた。
それは、何か素晴らしいことが待ち受けている予感、などというようなものでは決してなかったが、まるでアンテナが新しい周波数を受信するように、持ち前の感受性や好奇心が騒いでならず、時が経つにつれ、だんだんその日が待ち遠しく思えてならなかった。
その日曜日・・・
K先生に連れられて、いよいよ今日は凄い中国武術の達人に紹介されるのだ、と、高ぶる気持ちを抑えつつ南京町に行くと、K先生は、『祥龍菜館』という、神戸では名高い高級広東料理の店にヒョイと入っていった。
よほどのお得意様なのであろうか、店員たちはみな、爪先まで足を揃え、頭を低くして慇懃にK先生を迎える。
この店には、何度か家族で来たことがあった。
『祥龍菜館』は、洒落たテラス席まである、三階建ての立派な店で、外国の要人が神戸に来るとお忍びで立ち寄るような店でもある。
入口の左右にある紅い柱には一対の龍が彫られてあり、店内は緋毛氈が敷き詰められ、一階は大小の個室席、二階は飲茶のための広間、三階は特別な高級料理が賞味できるような豪華な部屋が幾つか造られている。
室内装飾や調度も中々の凝りようだが、日本人向けに・・いや、外国人の多いこのハイカラな街に合わせてか、ギラギラした中国趣味を避けて垢抜けた装飾にしてあり、訪れる人はまるで上海辺りの高級ホテルに来ているような錯覚さえ覚える。
・・・なるほど、ここで会食か、と宏隆は思ったが、意外にも、店員は三階にある上客用の席には案内せず、そのまま一階の通路をどんどん奥へ進んで、突き当たりの「RESERVED」という札の掛けられた、窓も無い、忘れられたような陰気な小部屋に入っていく。
そして、一体何のつもりか・・・その店員は奥の壁を三回、ドン、ドン、ドンと、まるで何かのマジナイのように強く叩いたかと思うと、席を勧めようともせずに、そのままぶ厚い扉をバタンと大きな音を立てて閉め、さっさと行ってしまった。
出迎えの慇懃な挨拶とは打って変わって、客を客とも思わない店員の失礼な態度に、宏隆はちょっと気分を悪くしたが、日頃から礼節を重んじるK先生が、不機嫌そうな顔ひとつせず・・
何故か、少し緊張の面持ちで、たった今閉められた扉に歩み寄って、自分で内側からガチャリと鍵をかけ、円卓の席には座ろうともせず、まるで何かを待つように立っている・・・
・・・とても、これから美味い広東料理を味わうような雰囲気ではなかった。
それに、何の為に、中華料理屋の奥の間で、客が内側から鍵を掛ける必要があるのだろうか。
とても奇妙な感じがして訝しかったが、K先生が黙って立っている以上、弟子である宏隆は、師に倣って、ただそうして居るしかなかった。
ここは滅多に客を通さない部屋らしく、何となく埃っぽく、それに窓のないせいか、少々カビ臭いような気さえする。
よくこんな所で食事をする気になれるものだなぁ・・と、半ば呆れながらも、暇つぶしに、
壁際の大きな飾り棚に載せられている明朝の古壺や茶碗だの、大きな赤絵の皿だの、翡翠で造られた精巧な彫刻が施された茶器などを眺めていた。
宏隆は、その若さに似合わず、茶道具や古美術に興味があった。
母の実家が茶道美術館を営んでいるような影響もあったし、自宅にも待庵(たいあん)を写した二畳台目の茶室があり、小さい頃から楽や織部の茶碗や大徳寺物の書画といったものにも親しむ機会があった所為でもある。
そして彼の鑑識眼も、本物ばかりを見慣れてきた故か、年齢に似合わず、直感的にその真贋や優劣を見抜ける資質がすでに備わっていた。
その大きな飾り棚自体も、繊細な彫刻に螺鈿が施された見事なものであったが・・・
よく観れば、そこに置かれている陶器や茶器は、このカビ臭い部屋には不釣り合いな、蒐集者の人柄が偲ばれるような、上品で格調高いものばかりであり、中でも、鳳凰と花が描かれた明朝の呉須赤絵の大皿は、目を奪われるほど美しく、味わい深いものであった。
それから、10分ほども経っただろうか・・・
驚いたことに、その大きな飾り棚が、それごと・・・音もなく、ゆっくりと・・・
壁際で、スーッ・・とスライドして動き始めたので、思わず宏隆は後ずさりをした。
もう、赤絵の皿に感心しているどころではない。
その異状さに我が目を疑い、すぐにK先生の方を見たが、K先生は、まるでそんなことは初めから承知していたように、ただ黙ってその飾り棚の動きを見守っている・・・
しかし・・・さらに驚くべきことが起こった。
その飾り棚の動きが止まった後の、どう見ても壁にしか見えないところが、まるで壁自体に
穴が空いたかのように、ポッカリと、小さな扉の形をして開かれたのである。
流石の宏隆も、これには「あっ・・」と、思わず声を上げた。
その小さなドアの向こうからは、まるで東大寺の金剛力士像のような、明らかに鍛え抜いた体と分かる、厳しい目つきをした中国人の男が、窮屈そうにヌウと出てきた。
そして、何も語らず・・・ジロリと、宏隆の顔を一瞥してから、K先生に向かって慇懃に頭を下げると、その大きな男はまた、自分からその扉の向こうへと入っていく。
K先生は宏隆を見て、後を追いて来るよう、目で促している・・・
ドアの向こうには、薄暗い地下へ下りていく、狭くて急な、鉄製の階段があった。
階段の表面には厚手の毛氈のようなものが貼られていて、足音がまったく響かない。
宏隆は、ふと、子供のころに行った伊賀の忍者屋敷を想い出していた。
その忍者屋敷には、廊下の角を曲がったところに従者用の小部屋があり、床の間の畳を剥ぐと地下への階段が隠されていて、裏の空井戸の底に抜ける秘密の道があった・・・
しかし、この時代に、そのようなものが現実に、この南京街の真ん中に在ること自体が不思議であったが、K先生は慣れた様子で、宏隆が後ろから来るのを確認しながら、足取りも軽く、
トントンと先に下りていく。
その、十数段ほどの階段を下りきろうとした頃、いま潜ってきた秘密の入り口が、パタン、と閉められる音がした。宏隆は、思わず足を止めて振り返り、その真っ暗になった入り口を見上げて、もう二度とそこには戻れないような、ちょっと不安な気持ちになった。
階段を下りきると、そこは地下室ではなく、何とか大人がすれ違えるほどの狭い通路が、細長く左右に伸びていた。
通路の天井はそれほど低くはないが、頭上には様々な太さのパイプやら、電気のケーブルのようなものが何本も這わされており、通風ダクトのような四角い管もある。
まるで客船のように、壁に小さな灯りが点る通路の向こうには、さらに何処かに通じているような分かれ道や、大きさや色が違う鉄製のドアも幾つか見える。
所々には、その通路自体を区切る扉が備えられてあり、防火扉のように、それを閉めさえすれば、火も、人間も、そこから先には行けないような工夫が為されている。
・・これは、忍者屋敷と言うよりは、地下の秘密の要塞のようにも思えた。
しかし・・・いったい、何のために、南京町の地下にこのような通路があり、
また、何のために、わざわざあのような秘密の入り口を設けているのか・・・
小さい頃から怖い物知らずのガキ大将ではあっても、所詮は普通の高校生に過ぎない宏隆は、目の前に展開されている、この非現実的な世界を、まったく理解できなかった。
しかし同時に、久しぶりに、何か心ときめくものも感じられて・・
何よりも、持ち前の好奇心がうずうずと騒ぎはじめ、得体の知れぬものへの怖れや不安に慄いているよりも、こうなったらトコトン見てやろう、何でも経験してやろう、という気持ちになっていた。