Gallery Tai-ji(ギャラリー・タイジィ)
2010年08月07日
Gallery Tai-ji「螺旋の構造 その3 サーマッラーのミナレット」
by ブログ編集室
神を迎えるための神殿は、必ず人間が住むところよりも遙か高く、より天界に近く造られなくてはならなかったのだろうか─────
「バベルの塔」:ポール・ギュスターヴ・ドレ
旧約聖書の創世記に記されている「バベルの塔」は、古代メソポタミアの中心都市である「バビロン(”神の門”の意)」に存在したジッグラトという「礼拝塔」が伝説化されたものであると言われている。
現在見ることのできるジッグラトの遺構はマヤ文明の神殿に似た四角錐型の階段式のものだが、想像図として画家たちが描いた「バベルの塔」は、必ずサーマッラーのミナレットのような螺旋の構造を持つ巨塔として描かれている。
しかし、何故これらの神殿が「螺旋構造」でなくてはならなかったのか。天界と地上を結んだ「螺旋」というカタチには、どのような秘密が隠されているのだろうか─────
螺旋と言えば、これほど明らかな螺旋を見せる建築物も、そう他に無いに違いない。
サーマッラーのモスクに付随する、螺旋構造の様式を持つ美しいミナレット(礼拝塔)は、基壇を含めた高さが53mもあって、日干し煉瓦で作られた塔の外側に付けられた階段を上って頂上まで行くことができる。
古代メソポタミア(Mesopotamia=ふたつの河の間にある土地)に於いては都市が神殿を中心に形成され、このような日干し煉瓦を用いて高く積み上げられた礼拝塔が多く存在していた。
このミナレットは、西暦852年に完成したイラクの最も重要な遺跡のひとつであり、サーマッラーの考古学都市として2007年にユネスコの世界文化遺産にも登録されたが、登録と同時に、近年のイラク情勢に鑑みて《戦争による破壊の危機に晒されている世界遺産》のリストにも加えられた。現在、このような螺旋式の塔は、世界にわずか三つしか存在していない。
サーマッラーは、9世紀のイランからチェニジアに至る広大な地域に、政治、経済、文化の重要な位置を占めた「アッバース朝」の首都となった都市で、イラクの首都バグダッドから北に130キロ、チグリス川の両岸にある。
アッバース朝とは、イスラム帝国の第二の世襲王朝で、イスラム教の開祖ムハンマドの伯父アッバースの子孫が750年にバグダードを首都として建設した王朝であり、1258年にモンゴルの軍勢が侵入して滅亡するまで、五百年もの間、イスラム教独自の文化が開花した。
アッパース朝ではアラブ人への特権は否定され、全ての回教徒に平等な権利が認められていた。イスラム教はペルシャ人など他民族にも広がり、広域交易と農業や科学の著しい発展によって王朝は繁栄し、首都バグダッドは産業革命以前における世界最大の都市となり、首都と各地の都市を結ぶバリード(駅逓制)の幹線道路は交易路としての機能を高め、それまでの世界史上に類を見ないネットワークを築いた大商業帝国となった。
アッバース朝は、その後サーマッラーに首都を移し、その後約50年間首都として繁栄し、豪華な宮殿や巨大なモスクが建造されたという。
【 参考資料 】
サーマッラーにある「マルウィヤ・ミナレット」
ユネスコ文化遺産(危機遺産)に登録された「サーマッラーの考古学都市」
アッバース朝の最大勢力図(西暦850年当時)
神を迎えるための神殿は、必ず人間が住むところよりも遙か高く、より天界に近く造られなくてはならなかったのだろうか─────
「バベルの塔」:ポール・ギュスターヴ・ドレ
旧約聖書の創世記に記されている「バベルの塔」は、古代メソポタミアの中心都市である「バビロン(”神の門”の意)」に存在したジッグラトという「礼拝塔」が伝説化されたものであると言われている。
現在見ることのできるジッグラトの遺構はマヤ文明の神殿に似た四角錐型の階段式のものだが、想像図として画家たちが描いた「バベルの塔」は、必ずサーマッラーのミナレットのような螺旋の構造を持つ巨塔として描かれている。
しかし、何故これらの神殿が「螺旋構造」でなくてはならなかったのか。天界と地上を結んだ「螺旋」というカタチには、どのような秘密が隠されているのだろうか─────
螺旋と言えば、これほど明らかな螺旋を見せる建築物も、そう他に無いに違いない。
サーマッラーのモスクに付随する、螺旋構造の様式を持つ美しいミナレット(礼拝塔)は、基壇を含めた高さが53mもあって、日干し煉瓦で作られた塔の外側に付けられた階段を上って頂上まで行くことができる。
古代メソポタミア(Mesopotamia=ふたつの河の間にある土地)に於いては都市が神殿を中心に形成され、このような日干し煉瓦を用いて高く積み上げられた礼拝塔が多く存在していた。
このミナレットは、西暦852年に完成したイラクの最も重要な遺跡のひとつであり、サーマッラーの考古学都市として2007年にユネスコの世界文化遺産にも登録されたが、登録と同時に、近年のイラク情勢に鑑みて《戦争による破壊の危機に晒されている世界遺産》のリストにも加えられた。現在、このような螺旋式の塔は、世界にわずか三つしか存在していない。
サーマッラーは、9世紀のイランからチェニジアに至る広大な地域に、政治、経済、文化の重要な位置を占めた「アッバース朝」の首都となった都市で、イラクの首都バグダッドから北に130キロ、チグリス川の両岸にある。
アッバース朝とは、イスラム帝国の第二の世襲王朝で、イスラム教の開祖ムハンマドの伯父アッバースの子孫が750年にバグダードを首都として建設した王朝であり、1258年にモンゴルの軍勢が侵入して滅亡するまで、五百年もの間、イスラム教独自の文化が開花した。
アッパース朝ではアラブ人への特権は否定され、全ての回教徒に平等な権利が認められていた。イスラム教はペルシャ人など他民族にも広がり、広域交易と農業や科学の著しい発展によって王朝は繁栄し、首都バグダッドは産業革命以前における世界最大の都市となり、首都と各地の都市を結ぶバリード(駅逓制)の幹線道路は交易路としての機能を高め、それまでの世界史上に類を見ないネットワークを築いた大商業帝国となった。
アッバース朝は、その後サーマッラーに首都を移し、その後約50年間首都として繁栄し、豪華な宮殿や巨大なモスクが建造されたという。
【 参考資料 】
サーマッラーにある「マルウィヤ・ミナレット」
ユネスコ文化遺産(危機遺産)に登録された「サーマッラーの考古学都市」
アッバース朝の最大勢力図(西暦850年当時)
2010年05月06日
Gallery Tai-ji「螺旋の構造 その2・さざえ堂 訪問記」
by Tetsu (外門研修会所属)
前回のギャラリー・タイジィで紹介された「さざえ堂」に行ってきました。
記事そのものにも大いに興味を持ったのですが、私の郷里である群馬県にもそのようなものがあると師父よりお話を伺い、俄(にわか)リポーターとして訪問してみたのです。
群馬県太田市にある曹源寺は、市のシンボルである金山という山の東方に位置します。
この金山には文明元年(1469)の築城になる金山城がありますが、天正十八年(1590)の廃城後は、赤松の植生が卓越する松茸の産地としても知られた山でもありました。
松茸は、寛永六年(1629)、館林藩主榊原忠次が最初に献上したと伝えられ、献上は江戸幕府が瓦解する慶應三年(1867)まで、一年も休むことなく続けられました。今は採取できなくなりましたが、松茸の出生数は多い年には三千本ほどあったそうです。
現在、金山城跡には新田義貞公が祭られている新田神社があり、ハイキングコースも整備され観光客も多く賑わっていますが、今回の目的地である「曹源寺」は訪れる人も少なく、とてもひっそりとしています。
ところが、驚くなかれ、実はこの太田市にある曹源寺は現存する「栄螺堂」の建物としては日本最大規模を誇るものなのです。
正式名称は「曹洞宗 祥寿山曹源寺(しょうじゅさんそうげんじ)」と言い、文治三年(1187)、新田義重公が京都からの養姫である祥寿姫の菩提を弔うために建立された六角堂が起源であります。過去2回の火災により本堂は1852年に消失、仏殿であった「さざえ堂」のみが現存し、現在はこれを本堂としています。
寛政五年(1792)四月に、関東の大工の祖といわれた町田兵部栄清により建てられたお堂は、間口・奥行きともに16.3m、高さ16.8m、外見からは2階建てに見えますが内部は3階建て。堂内は「回廊式」といって、同じところを2度通らずに元のところに戻れる構造をとっています。
門を潜るとすぐ右手側に仏足石の石碑がありました。仏足石とはお釈迦様が入滅した時に残した足裏に様々な歌や図を描き、お釈迦様があたかも其処におわす御姿として古代仏教の時代より礼拝の対象とされてきたものだそうです。
太極武藝館では脚(ジャオ)の使い方も細かく指導されており、門人としては仏足石を目にしただけでジャオの使い方を連想してしまいます。
仏足石の碑といい、これから入る「さざえ堂」の螺旋構造の建物と太極拳における纏絲勁との関係性といい、何かここを訪問することに対しては不思議なご縁を感じざるを得ません。
正面にみえる建物は、確かに見かけ上は2階建ての普通のお寺に見えます。
建物内に入りますと非常にひっそりとしていましたが、その天井にある梁の大きさや板張りの廊下の色艶や傷に歴史の重みを感じます。
さて、いよいよ建物内を歩いてみます。
内部は平面状に造られてはいますが、2階、3階と拝仏しながら右回りに上がって行き、同じところを通らずにまた1階に戻ってくると、何とも不思議な感覚になります。
「あれ?、ここは通ったような・・・でも歩いているところが違うぞ?」
「どうやって降りてきたのだ・・?」
・・と、少しばかり立ち止まって考えてみないと分らなくなりそうでした。
ここの建物の造りは平面的な回廊式ではありますが、二重螺旋構造の造りの中に身を投じてみますと我々の日常の空間感覚とは別の次元の中に居るようです。
この不思議な感覚は、師父に挑みかかっていった感覚と同じようなものかもしれません。
こちらが殴りかかっていく、掴みかかっていくのに、
「あれ?今ここにいたはずの師父がいない、自分の拳が空をきる・・・」
「掴みかかっていったのに、逆に自分が転ばされる、ガンジガラメにされている・・・」
と、いったような・・・。
本来ならばこの「さざえ堂」を一回りすることにより百箇所の礼所を巡った功徳を得られるというありがたい場なのですが、私はすっかりこの不思議な空間にしばし酔いしれてしまいました。
螺旋構造と太極拳の関係性・・・私にはまだまだ理解し難いものではありますが、この体験が自分の太極拳を学ぶ上での一助となれば誠に幸いであると思います。
この境内には紫陽花が数多く植えられ、「群馬のあじさい寺」などとも呼ばれています。紫陽花の咲き乱れる頃に、ぜひもう一度、ここを訪問してみたいものだと思いました。
最後に、このような場所をご紹介くださり、実際に訪問させていただく貴重な機会を与えて下さった師父に感謝して筆を置きます。
(了)
【 参考資料: "さざえ堂” 曹源寺 】
前回のギャラリー・タイジィで紹介された「さざえ堂」に行ってきました。
記事そのものにも大いに興味を持ったのですが、私の郷里である群馬県にもそのようなものがあると師父よりお話を伺い、俄(にわか)リポーターとして訪問してみたのです。
群馬県太田市にある曹源寺は、市のシンボルである金山という山の東方に位置します。
この金山には文明元年(1469)の築城になる金山城がありますが、天正十八年(1590)の廃城後は、赤松の植生が卓越する松茸の産地としても知られた山でもありました。
松茸は、寛永六年(1629)、館林藩主榊原忠次が最初に献上したと伝えられ、献上は江戸幕府が瓦解する慶應三年(1867)まで、一年も休むことなく続けられました。今は採取できなくなりましたが、松茸の出生数は多い年には三千本ほどあったそうです。
現在、金山城跡には新田義貞公が祭られている新田神社があり、ハイキングコースも整備され観光客も多く賑わっていますが、今回の目的地である「曹源寺」は訪れる人も少なく、とてもひっそりとしています。
ところが、驚くなかれ、実はこの太田市にある曹源寺は現存する「栄螺堂」の建物としては日本最大規模を誇るものなのです。
正式名称は「曹洞宗 祥寿山曹源寺(しょうじゅさんそうげんじ)」と言い、文治三年(1187)、新田義重公が京都からの養姫である祥寿姫の菩提を弔うために建立された六角堂が起源であります。過去2回の火災により本堂は1852年に消失、仏殿であった「さざえ堂」のみが現存し、現在はこれを本堂としています。
寛政五年(1792)四月に、関東の大工の祖といわれた町田兵部栄清により建てられたお堂は、間口・奥行きともに16.3m、高さ16.8m、外見からは2階建てに見えますが内部は3階建て。堂内は「回廊式」といって、同じところを2度通らずに元のところに戻れる構造をとっています。
門を潜るとすぐ右手側に仏足石の石碑がありました。仏足石とはお釈迦様が入滅した時に残した足裏に様々な歌や図を描き、お釈迦様があたかも其処におわす御姿として古代仏教の時代より礼拝の対象とされてきたものだそうです。
太極武藝館では脚(ジャオ)の使い方も細かく指導されており、門人としては仏足石を目にしただけでジャオの使い方を連想してしまいます。
仏足石の碑といい、これから入る「さざえ堂」の螺旋構造の建物と太極拳における纏絲勁との関係性といい、何かここを訪問することに対しては不思議なご縁を感じざるを得ません。
正面にみえる建物は、確かに見かけ上は2階建ての普通のお寺に見えます。
建物内に入りますと非常にひっそりとしていましたが、その天井にある梁の大きさや板張りの廊下の色艶や傷に歴史の重みを感じます。
さて、いよいよ建物内を歩いてみます。
内部は平面状に造られてはいますが、2階、3階と拝仏しながら右回りに上がって行き、同じところを通らずにまた1階に戻ってくると、何とも不思議な感覚になります。
「あれ?、ここは通ったような・・・でも歩いているところが違うぞ?」
「どうやって降りてきたのだ・・?」
・・と、少しばかり立ち止まって考えてみないと分らなくなりそうでした。
ここの建物の造りは平面的な回廊式ではありますが、二重螺旋構造の造りの中に身を投じてみますと我々の日常の空間感覚とは別の次元の中に居るようです。
この不思議な感覚は、師父に挑みかかっていった感覚と同じようなものかもしれません。
こちらが殴りかかっていく、掴みかかっていくのに、
「あれ?今ここにいたはずの師父がいない、自分の拳が空をきる・・・」
「掴みかかっていったのに、逆に自分が転ばされる、ガンジガラメにされている・・・」
と、いったような・・・。
本来ならばこの「さざえ堂」を一回りすることにより百箇所の礼所を巡った功徳を得られるというありがたい場なのですが、私はすっかりこの不思議な空間にしばし酔いしれてしまいました。
螺旋構造と太極拳の関係性・・・私にはまだまだ理解し難いものではありますが、この体験が自分の太極拳を学ぶ上での一助となれば誠に幸いであると思います。
この境内には紫陽花が数多く植えられ、「群馬のあじさい寺」などとも呼ばれています。紫陽花の咲き乱れる頃に、ぜひもう一度、ここを訪問してみたいものだと思いました。
最後に、このような場所をご紹介くださり、実際に訪問させていただく貴重な機会を与えて下さった師父に感謝して筆を置きます。
(了)
【 参考資料: "さざえ堂” 曹源寺 】
2010年02月12日
Gallery Tai-ji「螺旋の構造 その1 栄螺堂(さざえどう)」
by ブログ編集室
栄螺堂(さざえどう)と呼ばれる建築物がある。
もちろん「堂」というからには、寺院に建てられた仏堂という意味なのであるが、実はこれがただのお堂ではない。何とお堂の内部が、外観からは想像も出来ない「二重螺旋構造」になっているという、世にも希なる仏教建築なのである。
栄螺堂というのは、江戸時代中期に忽然と姿を現した、二重螺旋の特殊な内部構造を持つ三階建ての観音堂の通称である。
歴史で確認できる最初の栄螺堂は、江戸の本所(ほんじょ)にあった羅漢寺の境内に建てられた「三匝堂(さんそうどう・ささいどう)」である。羅漢寺の中興の祖、象先(1667~1749)によって構想が始まり、六十数年の歳月を経て安永九年(1780年)に完成した。
このお堂の様子は、葛飾北斎が富岳三十六景に「五百らかん寺さざゐ堂」として描いており、広重などの浮世絵師もこぞって絵の題材にしている。
北斎の絵などは、第三層のバルコニーから富士山を眺めている様子が描かれているので、その頃の栄螺堂はちょっとした観光名所のような所でもあったかも知れない。
現存する栄螺堂と、その建立された時期は、群馬県太田市の曹源寺(1793年)、福島県会津若松の旧正宗寺三匝堂(1796年)、青森県弘前市の長勝寺(1839年)、茨城県取手市の長禅寺(1801年)などで、六堂が残されている。他にも各地に多く存在していたようだが、天災で倒壊したり火事で焼失したりしたまま再建されていない。
このうち、白虎隊の墓所がある会津若松の飯森山の中腹にある栄螺堂は、「円通三匝堂」と呼ばれていて、参考図のように二重螺旋構造の参拝路を持つ特殊な仏堂として知られている。
参拝者は入口から堂内に入ると、上りに一回転半、下りは裏の通路から、やはり一回転半をして、初めの入口に戻ってくる。
つまり、入口から入って三階建ての堂内をグルグルと一回転半上って巡り、下りも一回転半して、最後にはまた同じ所に戻ってくるのだが、同じところを一度も通らずに元の入口に出て来るという、不思議な構造になっているわけである。
これは仏教の礼法である、右繞三匝(うにょうさんぞう=右回りに三回めぐる)ことで仏陀への礼拝が成立するという考え方に基づいて建造されていて、本来は三匝堂(さんそうどう)と呼ばれるのだが、螺旋の構造や外観がサザエに似ていることから、「栄螺堂」と通称されるようになった。
堂内には順路に沿って観音札所の各観音が祀られており、ひとつの栄螺堂を参拝するだけで西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番など、多い場合は合計百観音の巡礼に詣でたことになるという、様々な事情で巡礼に行けない人にとっては、実にありがたいお寺であった。
今日ではヒトのDNAも二重螺旋構造であることが知られている。
DNA(Deoxyribonucleic Acid=デオキシリボ核酸)とは、ご存知のように、地球上のほぼすべての生物に於いて存在する、遺伝情報を担う物質のことである。
二人の無名の科学者によってそれが発表されたのはまだつい最近、1956年の出来事で、仏教の「右繞三匝」の礼拝方法が確立された頃の古代インドでは、誰もそんなことを知り得なかったはずであるが、その不思議な一致がたいへん興味深い。
因みに「螺旋」とは、本来は、立体構造の三次元曲線を意味している。
螺旋の「螺(ら)」は、田螺(たにし)や栄螺(さざえ)、法螺貝(ほらがい)といったような、巻き貝の貝殻のカタチを指している。
一般的には、平面的な二次元曲線のことも「螺旋」と言い習わされている事が多いが、本来それは「渦巻き」や「螺 ”線”」と呼ぶべきものであって、数学や物理などの分野に於いては、三次元曲線の螺旋は「弦巻き線」、平面の二次元曲線のものは「渦巻」「渦巻き線」などと区別して呼ばれる。
英語で立体の螺旋は「Helix(へリックス)」で、平面の渦巻の「Spiral(スパイラル)」とは本来区別されなければならず、化学でいう螺旋や物理学での素粒子のスピン方向などは「Helicity」と呼ばれる。ヘリコプターという名称も、翼が回転しながら上昇する様子から取って、ギリシャ語の「helix(螺旋)」と「pteron(翼)」を合わせて造られたものである。
「Spiral(スパイラル)」は、主として「螺旋のひと巻き」を表しているが、慣用として「螺旋階段」や「バネの形状」、「螺旋綴じのノート」などの名称に用いられ、競馬場でもコーナーの出口に近づくに順って曲がりがきつくなるコースのを「スパイラルカーブ」などと呼んでいる。経済学では賃金や物価の「連鎖的変動」や「悪循環」を表し、「デフレスパイラル」のように用いられる。
なお、自然界では気体や液体は「螺旋」となるものは少なく、そのほとんどは重力や圧力によって「渦巻き」のカタチを形成することになる。
すべての太極拳の源流である、陳氏太極拳の「纏絲勁」もまた螺旋の構造であるが、この「ギャラリー・タイジィ」では内容が煩雑に過ぎるので、他で改めて取り上げたい。
(つづく)
【 参考資料 】
葛飾北斎 富岳三十六景「五百らかん寺さざゐ堂」
栄螺堂 透視図
会津若松の「旧・正宗寺 三匝堂」
DNA 模型
栄螺堂(さざえどう)と呼ばれる建築物がある。
もちろん「堂」というからには、寺院に建てられた仏堂という意味なのであるが、実はこれがただのお堂ではない。何とお堂の内部が、外観からは想像も出来ない「二重螺旋構造」になっているという、世にも希なる仏教建築なのである。
栄螺堂というのは、江戸時代中期に忽然と姿を現した、二重螺旋の特殊な内部構造を持つ三階建ての観音堂の通称である。
歴史で確認できる最初の栄螺堂は、江戸の本所(ほんじょ)にあった羅漢寺の境内に建てられた「三匝堂(さんそうどう・ささいどう)」である。羅漢寺の中興の祖、象先(1667~1749)によって構想が始まり、六十数年の歳月を経て安永九年(1780年)に完成した。
このお堂の様子は、葛飾北斎が富岳三十六景に「五百らかん寺さざゐ堂」として描いており、広重などの浮世絵師もこぞって絵の題材にしている。
北斎の絵などは、第三層のバルコニーから富士山を眺めている様子が描かれているので、その頃の栄螺堂はちょっとした観光名所のような所でもあったかも知れない。
現存する栄螺堂と、その建立された時期は、群馬県太田市の曹源寺(1793年)、福島県会津若松の旧正宗寺三匝堂(1796年)、青森県弘前市の長勝寺(1839年)、茨城県取手市の長禅寺(1801年)などで、六堂が残されている。他にも各地に多く存在していたようだが、天災で倒壊したり火事で焼失したりしたまま再建されていない。
このうち、白虎隊の墓所がある会津若松の飯森山の中腹にある栄螺堂は、「円通三匝堂」と呼ばれていて、参考図のように二重螺旋構造の参拝路を持つ特殊な仏堂として知られている。
参拝者は入口から堂内に入ると、上りに一回転半、下りは裏の通路から、やはり一回転半をして、初めの入口に戻ってくる。
つまり、入口から入って三階建ての堂内をグルグルと一回転半上って巡り、下りも一回転半して、最後にはまた同じ所に戻ってくるのだが、同じところを一度も通らずに元の入口に出て来るという、不思議な構造になっているわけである。
これは仏教の礼法である、右繞三匝(うにょうさんぞう=右回りに三回めぐる)ことで仏陀への礼拝が成立するという考え方に基づいて建造されていて、本来は三匝堂(さんそうどう)と呼ばれるのだが、螺旋の構造や外観がサザエに似ていることから、「栄螺堂」と通称されるようになった。
堂内には順路に沿って観音札所の各観音が祀られており、ひとつの栄螺堂を参拝するだけで西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番など、多い場合は合計百観音の巡礼に詣でたことになるという、様々な事情で巡礼に行けない人にとっては、実にありがたいお寺であった。
今日ではヒトのDNAも二重螺旋構造であることが知られている。
DNA(Deoxyribonucleic Acid=デオキシリボ核酸)とは、ご存知のように、地球上のほぼすべての生物に於いて存在する、遺伝情報を担う物質のことである。
二人の無名の科学者によってそれが発表されたのはまだつい最近、1956年の出来事で、仏教の「右繞三匝」の礼拝方法が確立された頃の古代インドでは、誰もそんなことを知り得なかったはずであるが、その不思議な一致がたいへん興味深い。
因みに「螺旋」とは、本来は、立体構造の三次元曲線を意味している。
螺旋の「螺(ら)」は、田螺(たにし)や栄螺(さざえ)、法螺貝(ほらがい)といったような、巻き貝の貝殻のカタチを指している。
一般的には、平面的な二次元曲線のことも「螺旋」と言い習わされている事が多いが、本来それは「渦巻き」や「螺 ”線”」と呼ぶべきものであって、数学や物理などの分野に於いては、三次元曲線の螺旋は「弦巻き線」、平面の二次元曲線のものは「渦巻」「渦巻き線」などと区別して呼ばれる。
英語で立体の螺旋は「Helix(へリックス)」で、平面の渦巻の「Spiral(スパイラル)」とは本来区別されなければならず、化学でいう螺旋や物理学での素粒子のスピン方向などは「Helicity」と呼ばれる。ヘリコプターという名称も、翼が回転しながら上昇する様子から取って、ギリシャ語の「helix(螺旋)」と「pteron(翼)」を合わせて造られたものである。
「Spiral(スパイラル)」は、主として「螺旋のひと巻き」を表しているが、慣用として「螺旋階段」や「バネの形状」、「螺旋綴じのノート」などの名称に用いられ、競馬場でもコーナーの出口に近づくに順って曲がりがきつくなるコースのを「スパイラルカーブ」などと呼んでいる。経済学では賃金や物価の「連鎖的変動」や「悪循環」を表し、「デフレスパイラル」のように用いられる。
なお、自然界では気体や液体は「螺旋」となるものは少なく、そのほとんどは重力や圧力によって「渦巻き」のカタチを形成することになる。
すべての太極拳の源流である、陳氏太極拳の「纏絲勁」もまた螺旋の構造であるが、この「ギャラリー・タイジィ」では内容が煩雑に過ぎるので、他で改めて取り上げたい。
(つづく)
【 参考資料 】
葛飾北斎 富岳三十六景「五百らかん寺さざゐ堂」
栄螺堂 透視図
会津若松の「旧・正宗寺 三匝堂」
DNA 模型
2009年03月11日
Gallery Tai-ji「 Lutterr・闘士」
by ブログ編集室
【 Lutterr(闘士)】 フランス・ルーヴル美術館蔵 / 高さ27.3cm
・仏語名:Lutterr(闘士)
・英語名:Pankration Fighter(パンクラティオンの闘士)
フランス東部にあるブルゴーニュ地域圏(Bourgogne Région )、ソーヌ・エ・ロワール県(Saône-et-Loire)にあるオータン(Autun)で1869年に発見された空洞式鋳造のブロンズ像です。紀元1世紀に、ガロ・ロマンの工房で作られたものと推測されています。
当時のオータンの地名は、Augustodunum(アウグストドゥヌム=アウグストゥスの砦の意)で、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの勅許によって建設された都市であり、現在の Autun(オータン)という地名はこれが転訛したものです。
ルーヴル美術館では、この「闘士」像について以下のような解説をしています。
この小さなブロンズ像は、古代ローマに於いて、レスリングとボクシングを合わせたような、パンクラティオンと呼ばれる素手の荒々しい闘技が、当時盛んに行われたことを示している。
この像の闘士は、右足に重心を置きながら激しい蹴りを相手に与えると同時に、バランスを取るため上半身を後ろに反らし、腕を広げている。
このアクロバティックな姿勢は、闘士の活力あふれる表情、筋肉の収縮、勝利への意欲、また既に追撃の準備ができている彼の握り締めた拳など、微妙な細部の表現を堪能するために、作品の周囲を巡って眺めて観たいと鑑賞者に思わせることだろう。
このブロンズを製作した鋳金師は、長い期間に渡って厳しい鍛錬が為された跡が見られるこの男性の堂々たる筋肉を、独自の創造性で表現した。
頭は身体の他の部分に比べて、比較的小さく見える。その突き出た大きな耳が付いた顔には、多くの戦いの傷跡がある。髪型は、髪を引きつめ頭の上に一束にまとめた、東方又はエジプト出身のプロの闘士のものである。この髪束はキルスと呼ばれるが、この小像を吊り下げて使うためであったのか、輪の形に変形されている。
< 解説:ルーブル美術館 >
この像を目にした誰もがそう感じるように、これは端的に力強く、そして美しい作品です。
髷(まげ)を結った頭は、それがアジア人であることを物語っており、撫で肩で、金剛力士のような見事な筋肉を持つこの闘士が、どのような武術を修行した人であったのか、たいへん興味をそそられます。
この像を「キルギスの闘士」というタイトルで紹介している文献も存在しています。
キルギスは中央アジア五ヶ国のひとつで、旧ソビエト連邦の共和国です。ルーヴル美術館の解説にも「東方又はエジプト出身の」とあるので、この闘士はキルギスの出身者である可能性もあります。
また、キルギス共和国は中国の新疆ウイグル自治区とも国境を接しているので、この闘士は、陳氏拳術のルーツとなるような高度な武術を修得した、名の知られた使い手だったのかもしれません。
『 *Geschichte der Olympischen Spiele(オリンピック競技の歴史)』(*註)
という本には、この像の写真が紹介されており、同じページの下欄には、
『特殊な攻撃方法として、いわゆる「踵(かかと)蹴り」がある。
この技法の発明者は、キルギスのパンクラティオン競技者である。
身体が小さいので Halter という仇名が付いていた。各地にこの人物の像がある』
という添え書きが為されています。
陳氏太極拳には「蹬脚 (deng-jiao)」と呼ばれる、この像と酷似した蹴りの技法が存在しています。「蹬脚」は臍より下の低い位置を蹴る技法ですが、これは、その陳氏拳術の強烈な蹴りの動作とほとんど同じポーズに見えます。
蹴り上げた足は、特に足首から下が力強く表現されており、大きく開いた足指の先まで、明確な意識とチカラが働いていることが分かります。
また、この像を反対側から観れば、わずかに踵が浮かされ、グイと大地を指で掴んだ軸足は、見るからに外筋に頼らない立ち方であり、勇敢な古代ローマの闘士たちも大いに途惑ったであろう、高度な身体の使い方を追求した武術であることが想像されます。
上述の著書に”特殊な攻撃法”として紹介されたこの「踵蹴り」は、実は陳氏太極拳では特に単式の練法として詳細に訓練されるたいへん意味深い技法であり、この技法の中には学習者が高度な原理を理解するための構造が多く秘められています。
このようなブロンズ像を多く造ってまで、その姿を残そうとしたこの「闘士」の姿は、数ある古代ローマのパンクラティオンの闘いの中でも、幾歳月を経ても、後々の世まで深く人々の印象に残り、何世代にも亘って語り継がれた、非常に強力な技法を持つ、優れた武術であったに違いありません。
註 * Geschichte der Olympischen Spiele / Dr. Ferenc Mezö / 1390
(オリンピック競技の歴史・フェレンス・メゾー著・1930年)
日本では「古代オリンピックの歴史・フェレンス・メゾー著・大島鎌吉 訳」として、
1973年にベースボールマガジン社より出版されています。
「Lutterr」の像が発見された、オータンの風景
【 Lutterr(闘士)】 フランス・ルーヴル美術館蔵 / 高さ27.3cm
・仏語名:Lutterr(闘士)
・英語名:Pankration Fighter(パンクラティオンの闘士)
フランス東部にあるブルゴーニュ地域圏(Bourgogne Région )、ソーヌ・エ・ロワール県(Saône-et-Loire)にあるオータン(Autun)で1869年に発見された空洞式鋳造のブロンズ像です。紀元1世紀に、ガロ・ロマンの工房で作られたものと推測されています。
当時のオータンの地名は、Augustodunum(アウグストドゥヌム=アウグストゥスの砦の意)で、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの勅許によって建設された都市であり、現在の Autun(オータン)という地名はこれが転訛したものです。
ルーヴル美術館では、この「闘士」像について以下のような解説をしています。
この小さなブロンズ像は、古代ローマに於いて、レスリングとボクシングを合わせたような、パンクラティオンと呼ばれる素手の荒々しい闘技が、当時盛んに行われたことを示している。
この像の闘士は、右足に重心を置きながら激しい蹴りを相手に与えると同時に、バランスを取るため上半身を後ろに反らし、腕を広げている。
このアクロバティックな姿勢は、闘士の活力あふれる表情、筋肉の収縮、勝利への意欲、また既に追撃の準備ができている彼の握り締めた拳など、微妙な細部の表現を堪能するために、作品の周囲を巡って眺めて観たいと鑑賞者に思わせることだろう。
このブロンズを製作した鋳金師は、長い期間に渡って厳しい鍛錬が為された跡が見られるこの男性の堂々たる筋肉を、独自の創造性で表現した。
頭は身体の他の部分に比べて、比較的小さく見える。その突き出た大きな耳が付いた顔には、多くの戦いの傷跡がある。髪型は、髪を引きつめ頭の上に一束にまとめた、東方又はエジプト出身のプロの闘士のものである。この髪束はキルスと呼ばれるが、この小像を吊り下げて使うためであったのか、輪の形に変形されている。
< 解説:ルーブル美術館 >
この像を目にした誰もがそう感じるように、これは端的に力強く、そして美しい作品です。
髷(まげ)を結った頭は、それがアジア人であることを物語っており、撫で肩で、金剛力士のような見事な筋肉を持つこの闘士が、どのような武術を修行した人であったのか、たいへん興味をそそられます。
この像を「キルギスの闘士」というタイトルで紹介している文献も存在しています。
キルギスは中央アジア五ヶ国のひとつで、旧ソビエト連邦の共和国です。ルーヴル美術館の解説にも「東方又はエジプト出身の」とあるので、この闘士はキルギスの出身者である可能性もあります。
また、キルギス共和国は中国の新疆ウイグル自治区とも国境を接しているので、この闘士は、陳氏拳術のルーツとなるような高度な武術を修得した、名の知られた使い手だったのかもしれません。
『 *Geschichte der Olympischen Spiele(オリンピック競技の歴史)』(*註)
という本には、この像の写真が紹介されており、同じページの下欄には、
『特殊な攻撃方法として、いわゆる「踵(かかと)蹴り」がある。
この技法の発明者は、キルギスのパンクラティオン競技者である。
身体が小さいので Halter という仇名が付いていた。各地にこの人物の像がある』
という添え書きが為されています。
陳氏太極拳には「蹬脚 (deng-jiao)」と呼ばれる、この像と酷似した蹴りの技法が存在しています。「蹬脚」は臍より下の低い位置を蹴る技法ですが、これは、その陳氏拳術の強烈な蹴りの動作とほとんど同じポーズに見えます。
蹴り上げた足は、特に足首から下が力強く表現されており、大きく開いた足指の先まで、明確な意識とチカラが働いていることが分かります。
また、この像を反対側から観れば、わずかに踵が浮かされ、グイと大地を指で掴んだ軸足は、見るからに外筋に頼らない立ち方であり、勇敢な古代ローマの闘士たちも大いに途惑ったであろう、高度な身体の使い方を追求した武術であることが想像されます。
上述の著書に”特殊な攻撃法”として紹介されたこの「踵蹴り」は、実は陳氏太極拳では特に単式の練法として詳細に訓練されるたいへん意味深い技法であり、この技法の中には学習者が高度な原理を理解するための構造が多く秘められています。
このようなブロンズ像を多く造ってまで、その姿を残そうとしたこの「闘士」の姿は、数ある古代ローマのパンクラティオンの闘いの中でも、幾歳月を経ても、後々の世まで深く人々の印象に残り、何世代にも亘って語り継がれた、非常に強力な技法を持つ、優れた武術であったに違いありません。
註 * Geschichte der Olympischen Spiele / Dr. Ferenc Mezö / 1390
(オリンピック競技の歴史・フェレンス・メゾー著・1930年)
日本では「古代オリンピックの歴史・フェレンス・メゾー著・大島鎌吉 訳」として、
1973年にベースボールマガジン社より出版されています。
「Lutterr」の像が発見された、オータンの風景