資料映像集
2013年02月24日
資料映像#53「本部御殿手 その1」
「本部御殿手」第十二代宗家 上原清吉先生 1
上原 清吉 先生(うえはら せいきち・1904〜2004)
本部御殿手・第十二代宗家
明治37(1904)年、沖縄の島尻郡小禄村(現 那覇市)に生まれる。
小学校の時に家業が破産し、家業を手伝って行商をしていたが、大正5年(1916年)、
「本部御殿」の直系第11代当主である本部朝勇(もとぶ ちょうゆう)に師事し、
「御主加那志前(琉球国王)の武藝」と呼ばれる古武術を学ぶ。
本部御殿(もとぶうどぅん)とは、琉球王国 第二尚氏王統・第十代 尚質王の第六王子、
本部王子朝平(1629〜1668年)を元祖とする琉球王族のことであり、
御殿(うどぅん)は王族の邸宅や、そこに暮らす王族を意味している。
大正13(1916)年、首里城の演武大会に本部朝勇と共に参加。
大正14(1917)年、那覇の大規模な唐手大演武大会に参加。
同年、師の命を受けて和歌山県に赴き、本部朝勇の次男、本部朝茂に武藝を伝授する。
大正15(1926)年、兄を頼ってフィリピン南部の都市・ダパオに移住。
昭和3(1928)年、フィリピンの「昭和天皇御大典記念演武大会」に、沖縄代表の一人
として参加。同年、ダパオに道場を開設。戦争が始まる昭和16年まで指導を続けた。
同年、フィリピンにて軍隊に徴用。
昭和22(1947)年、復員して沖縄に戻る。
昭和26(1951)年、宜野湾市で指導を再開する。
昭和45(1970)年、本部朝勇から受け継いだ技を一般に公開する決意を固め、
流派の名を「本部御殿手」と命名し、本部御殿手古武術協会を設立する。
平成15(2003)年、本部朝勇の弟・朝基の子息、朝正(ちょうせい)に宗家を譲り、
本部御殿の伝統武術が再び本部家の系統に戻ることになった。
平成16(2004)年、老衰のため逝去。享年百歳。
上原 清吉 先生(うえはら せいきち・1904〜2004)
本部御殿手・第十二代宗家
明治37(1904)年、沖縄の島尻郡小禄村(現 那覇市)に生まれる。
小学校の時に家業が破産し、家業を手伝って行商をしていたが、大正5年(1916年)、
「本部御殿」の直系第11代当主である本部朝勇(もとぶ ちょうゆう)に師事し、
「御主加那志前(琉球国王)の武藝」と呼ばれる古武術を学ぶ。
本部御殿(もとぶうどぅん)とは、琉球王国 第二尚氏王統・第十代 尚質王の第六王子、
本部王子朝平(1629〜1668年)を元祖とする琉球王族のことであり、
御殿(うどぅん)は王族の邸宅や、そこに暮らす王族を意味している。
大正13(1916)年、首里城の演武大会に本部朝勇と共に参加。
大正14(1917)年、那覇の大規模な唐手大演武大会に参加。
同年、師の命を受けて和歌山県に赴き、本部朝勇の次男、本部朝茂に武藝を伝授する。
大正15(1926)年、兄を頼ってフィリピン南部の都市・ダパオに移住。
昭和3(1928)年、フィリピンの「昭和天皇御大典記念演武大会」に、沖縄代表の一人
として参加。同年、ダパオに道場を開設。戦争が始まる昭和16年まで指導を続けた。
同年、フィリピンにて軍隊に徴用。
昭和22(1947)年、復員して沖縄に戻る。
昭和26(1951)年、宜野湾市で指導を再開する。
昭和45(1970)年、本部朝勇から受け継いだ技を一般に公開する決意を固め、
流派の名を「本部御殿手」と命名し、本部御殿手古武術協会を設立する。
平成15(2003)年、本部朝勇の弟・朝基の子息、朝正(ちょうせい)に宗家を譲り、
本部御殿の伝統武術が再び本部家の系統に戻ることになった。
平成16(2004)年、老衰のため逝去。享年百歳。