2026年02月24日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その104
『笑いが吹き抜けるように』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
何も考えていない時のほうが、体はよく動けるように思います。
それがいちばんはっきり現れるのは、宗師に吹き飛ばされる瞬間です。あのとき、頭の中の細かな考えや、身体に溜まった余計な力が、一緒に吹き飛んでいくような気がします。
技術がどうとか、理屈がどうとか、そんなことを考える間もなく、ただ出来事だけが起きています。気がつけば、私は笑いながら声まで上げています。自分でも少し驚くほどです。
何が起きたのか分からない。けれど身体は軽い。
崩されたはずなのに、どこか爽快で、ただただ楽しいのです。
宗師に崩されるときには、不思議な軽さがあります。
そこには「うまくやろう」という気持ちも、「前より出来ているか」という確認もありません。ただ、その場で起きたことを受け取るしかない時間があります。
少しくらい(何が起きているのか勉強しよう)という気持ちも挟まるのですが、崩された瞬間にはもう、その気持ちも一緒にどこかに吹っ飛んでいってしまいます。
一方で、門人同士で向き合うと、空気は少し違います。皆まじめで、真剣で、精一杯に稽古に取り組んでいます。
昨日の自分よりも良くありたい、前より理解を深めたい。
その気持ちはとても大切なものですし、私自身も同じ思いで稽古をしています。
だからこそ、ときどき考えるのです。
あの楽しさは、どこへ行ってしまうのだろう、と。
門人同士の対練では、それぞれが「成長しよう」という意識を抱いているのが感じられます。以前よりも立てているか、力まずにいられるか、理解したことが身体に出ているか…。それは稽古として当然の姿勢です。
けれど、その意識が強くなりすぎると、目の前の出来事よりも「昨日の自分」との比較のほうを見てしまうことはないでしょうか。
「前より出来ているはずだ」
「今日はもう少しうまくやりたい」
そんな思いが、知らず知らずのうちに身体を少し固くしてしまうことはないだろうか、と感じられるのです。
道場では「上達とは手放すことだ」とよく言われます。
頭では分かっているつもりでも、私はどこかで何かを積み上げようとしているのかもしれません。技術を足そうとし、理解を深めようとし、前進しようとします。それ自体は決して悪いことではありません。
けれど、宗師に吹き飛ばされる瞬間には、その積み上げたはずのものが一瞬で意味を失います。どう考えても敵わない。比較も通用しない。
だからこそ、ただ起きたことを受け取るしかなくなります。そのとき、自分が勝手に作り上げていた成長の物語はどこかへ消えてしまいます。ただ目の前の出来事に向き合うしかない時間が、そこにあります。
そして、あの笑いが生まれるのかもしれません。
宗師はいつも、さまざまなことに取り組んでいます。日々の稽古を誰よりも繰り返して、それでいて必ずどこかに変化があり、固定観念に囚われまいとしているようにも見えます。
その姿は、何かを足しているというよりは、余計なものを外し続けているようにも感じます。
それを見ていると、上達とは本当に何かを積み重ねることなのだろうか、と改めて思います。むしろ、余計な力や考え方、思い込みや自分の中の余計な物語を少しずつ手放していくことなのではないか、と思うのです。
とはいえ、私はまだ両手にいろいろ握ったままです。
昨日より良くありたい気持ちもありますし、理解を深めたいとも思っています。同時に、自分のやり方に固執していても無駄だということも、体では分かっているつもりです。
0か100かではなく、人はきっと揺れながら進んでいくものなのでしょう。
どれだけ大事に持っているつもりの自分の中の何かも、そのうち吹き飛ばされて、いくつか落としてしまうのかもしれません。
開いて軽くなったその手なら、本当に大事なものにも、いつか触れられるのかもしれません。
そして、誰かを思わず笑わせてしまうような太極拳に、ほんの少し近づけたらと思います。
きっと次の稽古でも、私はまた考えてしまうでしょう。
そしてまた吹き飛ばされて、声を上げて笑っているのだと思います。
その繰り返しも、悪くない気がしています。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
何も考えていない時のほうが、体はよく動けるように思います。
それがいちばんはっきり現れるのは、宗師に吹き飛ばされる瞬間です。あのとき、頭の中の細かな考えや、身体に溜まった余計な力が、一緒に吹き飛んでいくような気がします。
技術がどうとか、理屈がどうとか、そんなことを考える間もなく、ただ出来事だけが起きています。気がつけば、私は笑いながら声まで上げています。自分でも少し驚くほどです。
何が起きたのか分からない。けれど身体は軽い。
崩されたはずなのに、どこか爽快で、ただただ楽しいのです。
宗師に崩されるときには、不思議な軽さがあります。
そこには「うまくやろう」という気持ちも、「前より出来ているか」という確認もありません。ただ、その場で起きたことを受け取るしかない時間があります。
少しくらい(何が起きているのか勉強しよう)という気持ちも挟まるのですが、崩された瞬間にはもう、その気持ちも一緒にどこかに吹っ飛んでいってしまいます。
一方で、門人同士で向き合うと、空気は少し違います。皆まじめで、真剣で、精一杯に稽古に取り組んでいます。
昨日の自分よりも良くありたい、前より理解を深めたい。
その気持ちはとても大切なものですし、私自身も同じ思いで稽古をしています。
だからこそ、ときどき考えるのです。
あの楽しさは、どこへ行ってしまうのだろう、と。
門人同士の対練では、それぞれが「成長しよう」という意識を抱いているのが感じられます。以前よりも立てているか、力まずにいられるか、理解したことが身体に出ているか…。それは稽古として当然の姿勢です。
けれど、その意識が強くなりすぎると、目の前の出来事よりも「昨日の自分」との比較のほうを見てしまうことはないでしょうか。
「前より出来ているはずだ」
「今日はもう少しうまくやりたい」
そんな思いが、知らず知らずのうちに身体を少し固くしてしまうことはないだろうか、と感じられるのです。
道場では「上達とは手放すことだ」とよく言われます。
頭では分かっているつもりでも、私はどこかで何かを積み上げようとしているのかもしれません。技術を足そうとし、理解を深めようとし、前進しようとします。それ自体は決して悪いことではありません。
けれど、宗師に吹き飛ばされる瞬間には、その積み上げたはずのものが一瞬で意味を失います。どう考えても敵わない。比較も通用しない。
だからこそ、ただ起きたことを受け取るしかなくなります。そのとき、自分が勝手に作り上げていた成長の物語はどこかへ消えてしまいます。ただ目の前の出来事に向き合うしかない時間が、そこにあります。
そして、あの笑いが生まれるのかもしれません。
宗師はいつも、さまざまなことに取り組んでいます。日々の稽古を誰よりも繰り返して、それでいて必ずどこかに変化があり、固定観念に囚われまいとしているようにも見えます。
その姿は、何かを足しているというよりは、余計なものを外し続けているようにも感じます。
それを見ていると、上達とは本当に何かを積み重ねることなのだろうか、と改めて思います。むしろ、余計な力や考え方、思い込みや自分の中の余計な物語を少しずつ手放していくことなのではないか、と思うのです。
とはいえ、私はまだ両手にいろいろ握ったままです。
昨日より良くありたい気持ちもありますし、理解を深めたいとも思っています。同時に、自分のやり方に固執していても無駄だということも、体では分かっているつもりです。
0か100かではなく、人はきっと揺れながら進んでいくものなのでしょう。
どれだけ大事に持っているつもりの自分の中の何かも、そのうち吹き飛ばされて、いくつか落としてしまうのかもしれません。
開いて軽くなったその手なら、本当に大事なものにも、いつか触れられるのかもしれません。
そして、誰かを思わず笑わせてしまうような太極拳に、ほんの少し近づけたらと思います。
きっと次の稽古でも、私はまた考えてしまうでしょう。
そしてまた吹き飛ばされて、声を上げて笑っているのだと思います。
その繰り返しも、悪くない気がしています。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
コメント一覧
1. Posted by ハイネケン 2026年02月27日 00:58
宗師は楽しみ上手なのだと感じますがコツは何でしょう?
会得したいと思うと気負ってしまいます。理解しなければと取り組むと自分の出来なさに疲れます。どちらも放鬆していない。昨日の自分よりも理解したいのは当然ですが、術理の理解の先に上達があるのではなく、上達の後に術理の理解がある気がします。その道を進むには自分を知ることが必要になる。
「上達とは手放すことだ」。
面白い言葉ですね。
それまで大事にしていたものではなく、別の視点に変化した時、突然その価値に気が付いた感じでしょうか?まるで美しいガラス細工の様に、光にかざしキラキラと乱反射を楽しみたいですね。
身体で分かる為には動くしかなく、自分を知るには観察が必要です。
思考をハンドルの様に取り回し、ブレーキよりもアクセルを踏んで行きたいですね。
固定観念とは元々存在するのではなく、同じ観念を使い続けるうちに自分で固定観念を作り育てている。
太郎冠者様、ありがとうございました。
会得したいと思うと気負ってしまいます。理解しなければと取り組むと自分の出来なさに疲れます。どちらも放鬆していない。昨日の自分よりも理解したいのは当然ですが、術理の理解の先に上達があるのではなく、上達の後に術理の理解がある気がします。その道を進むには自分を知ることが必要になる。
「上達とは手放すことだ」。
面白い言葉ですね。
それまで大事にしていたものではなく、別の視点に変化した時、突然その価値に気が付いた感じでしょうか?まるで美しいガラス細工の様に、光にかざしキラキラと乱反射を楽しみたいですね。
身体で分かる為には動くしかなく、自分を知るには観察が必要です。
思考をハンドルの様に取り回し、ブレーキよりもアクセルを踏んで行きたいですね。
固定観念とは元々存在するのではなく、同じ観念を使い続けるうちに自分で固定観念を作り育てている。
太郎冠者様、ありがとうございました。
2. Posted by マルコビッチ 2026年02月28日 12:04
宗師に飛ばされる時、本当に皆さん楽しそうですよね!
驚きと笑いが一緒に起こる感じで、他所の人が見たら不思議な光景でしょうね。
対練で宗師と向き合い手を合わせた瞬間、その軽やかさと、纏まっているのに大きく広がる存在感に思わず「なんだ?」と未知の世界に入り込んだように、しかも何故か笑いが起きてしまう。しかも毎回!
そして自分のやっていたことが稚拙に感じられて、だから笑ってしまうのかもしれません。
深刻ではなく真剣、その真剣さも含めてどこか楽しんでいるように見受けられます。
”楽しむ”ということの本質が違うように感じられます。
宗師にも辛いことや苦しいことはあるのだと思いますが、その苦しさにどっぷり入り込むのではなく、いつも自分を省みて本質から目を逸らさない姿勢を感じます。楽ではないと思います。
そんな積み重ねが、人生を楽しむ・・楽しむことが起きている?・・ことが、人が笑いながら飛んでいく状況を生んでいるのかもしれません。(ふぅ〜、戻せた〜(^^;))
太郎冠者さん、今回もありがとうございました。
私も頑張ります!
驚きと笑いが一緒に起こる感じで、他所の人が見たら不思議な光景でしょうね。
対練で宗師と向き合い手を合わせた瞬間、その軽やかさと、纏まっているのに大きく広がる存在感に思わず「なんだ?」と未知の世界に入り込んだように、しかも何故か笑いが起きてしまう。しかも毎回!
そして自分のやっていたことが稚拙に感じられて、だから笑ってしまうのかもしれません。
深刻ではなく真剣、その真剣さも含めてどこか楽しんでいるように見受けられます。
”楽しむ”ということの本質が違うように感じられます。
宗師にも辛いことや苦しいことはあるのだと思いますが、その苦しさにどっぷり入り込むのではなく、いつも自分を省みて本質から目を逸らさない姿勢を感じます。楽ではないと思います。
そんな積み重ねが、人生を楽しむ・・楽しむことが起きている?・・ことが、人が笑いながら飛んでいく状況を生んでいるのかもしれません。(ふぅ〜、戻せた〜(^^;))
太郎冠者さん、今回もありがとうございました。
私も頑張ります!
3. Posted by ひこな 2026年02月28日 15:26
太郎冠者様
宗師に手解きいただいて崩され飛ぶとき、確かに笑いが零れますし、身の軽さと楽しさを感じていますね。
顧みてみれば、自身の身体が崩れると言っても、無理な引っ掛かりはなく、道理に従って動かされることで、自身の普段の不自然な制御から外れてはいても、素直な力が運用されているのだなと思いました。
また、自分が対練で臨むとき、なるべくそうならないように、と思いつつも、構えを正そうとする行為、力みを取ろうとする行為が挟まってしまいます。それは、相手からすると拍子や緊張を感じ取る契機になってしまうと思えます。
結局は、宗師はその状態が常で、その自然さが相対するときも技法が展開されるときも途切れなく続くことで、何も違和感なく拍子も取れずこちらは崩れ、情報が得られない、理解を超えた体験として笑いに繋がるのだなと感じました。
素晴らしい洞察と顧みるきっかけを下さって有難うございます。精進を重ねたいと思います。
宗師に手解きいただいて崩され飛ぶとき、確かに笑いが零れますし、身の軽さと楽しさを感じていますね。
顧みてみれば、自身の身体が崩れると言っても、無理な引っ掛かりはなく、道理に従って動かされることで、自身の普段の不自然な制御から外れてはいても、素直な力が運用されているのだなと思いました。
また、自分が対練で臨むとき、なるべくそうならないように、と思いつつも、構えを正そうとする行為、力みを取ろうとする行為が挟まってしまいます。それは、相手からすると拍子や緊張を感じ取る契機になってしまうと思えます。
結局は、宗師はその状態が常で、その自然さが相対するときも技法が展開されるときも途切れなく続くことで、何も違和感なく拍子も取れずこちらは崩れ、情報が得られない、理解を超えた体験として笑いに繋がるのだなと感じました。
素晴らしい洞察と顧みるきっかけを下さって有難うございます。精進を重ねたいと思います。
4. Posted by 阿部玄明 2026年02月28日 16:38
自分が苦心して積み上げて作ったものは努力の結晶です。積み上げという概念自体が、下(若しくは床)が基準なので何かの拍子に崩れ去るかもしれない。その不安がある中で更に何かを積み上げようとすれば細心の注意を払うしストレスも感じる。自分の対練はまるで拙い積み木崩しをしているようです。足の依存が強いのです。
自分を整える事
何かを積み上げること
この2つは似ているようで、何かが違う。
整った状態は吊られていることから始まり一体感と安心感がある。積み上げた状態は下から一生懸命作り上げたものであり、不均衡と緊張感が有る。
手放すことは勇気が要る。高所から飛び降りることにも近い感覚だと思います。そして吊り下がる状態も飛び降りることに近いとも思います。思う存分に吊り下がって寛ぐことを味わってみる。
その結果、功夫は勝手に上がってくるかもしれません。試してみようと思います。
頑張って積み上げた功夫
気がついたら積み上がっていた功夫
この違いも大きいのでしょうね。
自分を整える事
何かを積み上げること
この2つは似ているようで、何かが違う。
整った状態は吊られていることから始まり一体感と安心感がある。積み上げた状態は下から一生懸命作り上げたものであり、不均衡と緊張感が有る。
手放すことは勇気が要る。高所から飛び降りることにも近い感覚だと思います。そして吊り下がる状態も飛び降りることに近いとも思います。思う存分に吊り下がって寛ぐことを味わってみる。
その結果、功夫は勝手に上がってくるかもしれません。試してみようと思います。
頑張って積み上げた功夫
気がついたら積み上がっていた功夫
この違いも大きいのでしょうね。
5. Posted by 松久宗玄 2026年02月28日 17:00
軽妙ながらも、鋭く稽古の在り方を問い直す、良い問題提起ですね。
稽古にはそれぞれの自分の世界観や日常が投影されていて、
このように客観視して表現されると、自分達の取り組みの課題が見えてきますね。
笑いは、心身がポジティブに動かされた反応だと思います。
自分が動ける人が、他者を動かす事ができるのだとも思います。
動ける、変化できる、流動できる、
自分がその状態である事が、人を動かし、制する前提であれば、
心身が朗らかに動いて、笑いを呼び起こせる状態の追求はかなーり足りないですねw
宗師は「自分」が動かされる中に飛び込んで、
その中で「動ける自分」を鍛えていこうとされているようにも見えます。
稽古の取り組み方の目線として、見直しのとても良い機会となりました。
ありがとうございました。
稽古にはそれぞれの自分の世界観や日常が投影されていて、
このように客観視して表現されると、自分達の取り組みの課題が見えてきますね。
笑いは、心身がポジティブに動かされた反応だと思います。
自分が動ける人が、他者を動かす事ができるのだとも思います。
動ける、変化できる、流動できる、
自分がその状態である事が、人を動かし、制する前提であれば、
心身が朗らかに動いて、笑いを呼び起こせる状態の追求はかなーり足りないですねw
宗師は「自分」が動かされる中に飛び込んで、
その中で「動ける自分」を鍛えていこうとされているようにも見えます。
稽古の取り組み方の目線として、見直しのとても良い機会となりました。
ありがとうございました。
6. Posted by 川島玄峰 2026年03月01日 12:32
新しく学ぶ時や修正を受けた時、「どうなってるんだろう」と考え始めると、なぜか負のスパイアルに陥ってしまいます。
そのような時の自分は表情や体の動き、考え方までもがガチガチに凝り固まって見えているのだろうと思います。
気づくと自分の世界に入ってしまい、自分中心に捉え、過去の経験から今を見てしまっているのかもしれません。
〉道場では「上達とは手放すことだ」
自分を手放しその時の状態を味わい、俯瞰していこうと思いました。
今回の記事は、自分の稽古の在り方を見直すきっかけとなりました。
ありがとうございました。
そのような時の自分は表情や体の動き、考え方までもがガチガチに凝り固まって見えているのだろうと思います。
気づくと自分の世界に入ってしまい、自分中心に捉え、過去の経験から今を見てしまっているのかもしれません。
〉道場では「上達とは手放すことだ」
自分を手放しその時の状態を味わい、俯瞰していこうと思いました。
今回の記事は、自分の稽古の在り方を見直すきっかけとなりました。
ありがとうございました。
7. Posted by 西川敦玄 2026年03月01日 12:58
宗師との対連で、飛ばされる時。太郎冠者さんが、笑いが出るというのはわかる気がします。
太郎冠者さんのいうとおり、思考が入る隙がないですね。一方で門人たちで行うときは、難しい顔をして我々は取り組んでますね。
今回の記事を見て似ているなと思ったことです。感想ですので同意されるかは置いておいて、
レストランや料亭などで食事をいただく時も、笑いはともかく、思考が入る隙はないような気がします。
そう良い意味では、修行中の身で師匠の味を味わえる貴重な機会を我々は体験させてもらっているのかもしれません。我々はそれをなんとしても取っていかないといけないということだと思います。
先日、刀匠の講演会に参加してきました。その方がいうには、教え上手の師匠から弟子は育たないとのことでした。弟子は見て盗む力をつけないといけないということだと思いました。
また、修行においては炭を切ることを3年行うのだそうです。その方はただ3年炭を切ることをするのではなく、3年間師匠が行っていることを盗むのだと理解したと言われていました。
思考は入らない方が良いことも多いですが、頭は使いようだと思います。
改めて、稽古について考えさせてくれてありがとうございました。
太郎冠者さんのいうとおり、思考が入る隙がないですね。一方で門人たちで行うときは、難しい顔をして我々は取り組んでますね。
今回の記事を見て似ているなと思ったことです。感想ですので同意されるかは置いておいて、
レストランや料亭などで食事をいただく時も、笑いはともかく、思考が入る隙はないような気がします。
そう良い意味では、修行中の身で師匠の味を味わえる貴重な機会を我々は体験させてもらっているのかもしれません。我々はそれをなんとしても取っていかないといけないということだと思います。
先日、刀匠の講演会に参加してきました。その方がいうには、教え上手の師匠から弟子は育たないとのことでした。弟子は見て盗む力をつけないといけないということだと思いました。
また、修行においては炭を切ることを3年行うのだそうです。その方はただ3年炭を切ることをするのではなく、3年間師匠が行っていることを盗むのだと理解したと言われていました。
思考は入らない方が良いことも多いですが、頭は使いようだと思います。
改めて、稽古について考えさせてくれてありがとうございました。
8. Posted by 平田玄琢 2026年03月01日 21:18
宗師との対練は、何かわからないものによって足場がなくなって崩されたり、自ら飛んでいくように飛ばされたりと、不思議なことがおこります。そのため、驚いて変顔をして笑うしかないような状態になってしまいます。
宗師の明確なアプローチでそれはおこるのですが、他の門人ですと明確さが足りないように感じます。
雅楽の分野では、笙.篳篥.龍笛の三管合奏を基本の最小単位としますが、三管の内の一管だけで人前で演奏するのはかなり上手な人と言われます。私は40年以上も笛を吹いているのに誰からも上手と言われません。 ところが、笛を始めて2、3年でも一管で上手に聴かせる方があります。皆に上手と言われています。
どれほどのものかと合奏をすると何故か違和感しか残らないのです。やはり雅楽の最小単位は三管と言われるわけです。
今でしたら稽古での対練の大切さがわかります。
宗師の明確なアプローチでそれはおこるのですが、他の門人ですと明確さが足りないように感じます。
雅楽の分野では、笙.篳篥.龍笛の三管合奏を基本の最小単位としますが、三管の内の一管だけで人前で演奏するのはかなり上手な人と言われます。私は40年以上も笛を吹いているのに誰からも上手と言われません。 ところが、笛を始めて2、3年でも一管で上手に聴かせる方があります。皆に上手と言われています。
どれほどのものかと合奏をすると何故か違和感しか残らないのです。やはり雅楽の最小単位は三管と言われるわけです。
今でしたら稽古での対練の大切さがわかります。
9. Posted by マガサス 2026年03月01日 23:54
今回の記事を読ませて頂き、最近自分が感じている緊張や不安の様な、得体の知れない感覚に光をあててもらえた様な気がします。
両手一杯溢れるくらいに握りしめて離したくないと必死になっていて、この緊張や不安は、自分が自分にかけている呪縛なんだと思いました。
宗師と手合わせをしていただいた時に感じる圧倒的なもの、そして「自分」が存在できない様な感覚や、唸りながら笑ってしまう様な頭と体の開放感。
自分は一体何をみて、何を感じて、合わせようとしているのかな・・・
「手放す」ことの本当の意味を理解できる様に、先ずは柔軟な心と体で向かい続けたいと思います。
今回も自分を省みる機会を与えて頂き、ありがとうございました。
両手一杯溢れるくらいに握りしめて離したくないと必死になっていて、この緊張や不安は、自分が自分にかけている呪縛なんだと思いました。
宗師と手合わせをしていただいた時に感じる圧倒的なもの、そして「自分」が存在できない様な感覚や、唸りながら笑ってしまう様な頭と体の開放感。
自分は一体何をみて、何を感じて、合わせようとしているのかな・・・
「手放す」ことの本当の意味を理解できる様に、先ずは柔軟な心と体で向かい続けたいと思います。
今回も自分を省みる機会を与えて頂き、ありがとうございました。
10. Posted by ユキ 2026年03月02日 06:52
コメントが遅くなり失礼しました。
私は、門人の皆さんと対練していても根本的には楽しいです。…とは言え、以前は全く楽しくない、苦痛とさえ思える時期もありました(笑)
それは、「自分の思い通りに倒せない」、「自分の思い通りに倒してもらえない(こちらの思いが伝わらない)」からだと気づいたのは大分悩んだあとでした。
宗師との対練は、その「自分の」範疇を軽く超えて向かい合われるので、自分を持ち込めません。比較にならない、する必要のない次元です。でも、それを提示されているのですから、それを稽古すれば良いのだと思ったのです。
大分変わりました。
そうすると、一人で行う套路なども随分と変わりました。
11. Posted by 清水龍玄 2026年03月03日 06:05
コメントが遅くなり申し訳ございません。
後程コメントさせていただきます。
後程コメントさせていただきます。
12. Posted by 川山継玄 2026年03月04日 02:12
大変遅くなり、申し訳ありません。
太郎冠者さん
今回も興味深い記事をありがとうございます。
>崩されたはずなのに、どこか爽快で、ただただ楽しい
ぴったりの表現だと思いました!
「崩してやろうとも、うまくやろうと思っていない」と宗師はおっしゃいます。
私は、崩したい、うまくやりたい…(汗)
この違いは何なのでしょう。
自分自身と相手の状態や、原理原則でなく、相手に何かするという行為に向いてしまっているのだと気付きます。
只、このところ、少しだけ原理原則・自身の状態・相手の状態の見え方がが変わってきました。
原理原則に委ねてみると、自分勝手さが入り込みづらい気がするのです。
原理そのもので動かれる宗師と対練させて頂く時、余計な事を考えることなく、身体が整っていくことは必然なのだと思えます。
太郎冠者さん
今回も興味深い記事をありがとうございます。
>崩されたはずなのに、どこか爽快で、ただただ楽しい
ぴったりの表現だと思いました!
「崩してやろうとも、うまくやろうと思っていない」と宗師はおっしゃいます。
私は、崩したい、うまくやりたい…(汗)
この違いは何なのでしょう。
自分自身と相手の状態や、原理原則でなく、相手に何かするという行為に向いてしまっているのだと気付きます。
只、このところ、少しだけ原理原則・自身の状態・相手の状態の見え方がが変わってきました。
原理原則に委ねてみると、自分勝手さが入り込みづらい気がするのです。
原理そのもので動かれる宗師と対練させて頂く時、余計な事を考えることなく、身体が整っていくことは必然なのだと思えます。
13. Posted by 太郎冠者 2026年03月09日 22:18
皆様、コメント返信遅くなり、申し訳ありませんでした。
☆ハイネケンさん
>宗師は楽しみ上手
以前稽古中に、宗師がクッキーの作り方の極意(?)についてお話してくださったことがあります。
お話を聞いていると、宗師は何をしていても太極拳と繋がっているのだということが感じられました。
しかしそれは、太極拳の勉強のためにクッキーを作ろう、という事ではないのだと思いました。
純粋に、クッキーに向かい合う事が、イコールご自身の太極拳への向かい方と共通しているのではないか、と思ったのです。
勉強のため…というと兎角分析がちになってしまいますが、そうではなくただ楽しむ。それこそが物事の上達の秘訣なんだろうとその時勝手に思ったものです。
何にも囚われずに没頭するのは大事ですね。
☆ハイネケンさん
>宗師は楽しみ上手
以前稽古中に、宗師がクッキーの作り方の極意(?)についてお話してくださったことがあります。
お話を聞いていると、宗師は何をしていても太極拳と繋がっているのだということが感じられました。
しかしそれは、太極拳の勉強のためにクッキーを作ろう、という事ではないのだと思いました。
純粋に、クッキーに向かい合う事が、イコールご自身の太極拳への向かい方と共通しているのではないか、と思ったのです。
勉強のため…というと兎角分析がちになってしまいますが、そうではなくただ楽しむ。それこそが物事の上達の秘訣なんだろうとその時勝手に思ったものです。
何にも囚われずに没頭するのは大事ですね。
14. Posted by 太郎冠者 2026年03月09日 22:30
☆マルコビッチさん
先日の稽古中、歩法を指導して頂いている際に、宗師がすごく真剣な顔をされていて、ややもすると不機嫌なようにも見えました。
あれ、僕たちの歩法が相当ひどかったかのな…
なんて一瞬思ったのですが、次の瞬間、
「やっぱり歩法は凄い」と楽しそうに仰ったのです。(一瞬ズッコケそうになりました)
歩法について楽しそうに語られる宗師を見て、やっぱり誰よりも本気で稽古に取り組まれているのだと思い、その熱量に負けているようではいけない!と改めて思ったものです。
太極拳は取り組めば取り組んだ分だけ答えてくれる気がします。もし自分に停滞を感じたとしたら、もっと太極拳に向かい合い熱量を注ぐべきという事なのかもしれません。
何かのために…ではなく、取り組むことがただただ楽しい。そのような武術を勉強出来るのは本当にありがたいことですね。
先日の稽古中、歩法を指導して頂いている際に、宗師がすごく真剣な顔をされていて、ややもすると不機嫌なようにも見えました。
あれ、僕たちの歩法が相当ひどかったかのな…
なんて一瞬思ったのですが、次の瞬間、
「やっぱり歩法は凄い」と楽しそうに仰ったのです。(一瞬ズッコケそうになりました)
歩法について楽しそうに語られる宗師を見て、やっぱり誰よりも本気で稽古に取り組まれているのだと思い、その熱量に負けているようではいけない!と改めて思ったものです。
太極拳は取り組めば取り組んだ分だけ答えてくれる気がします。もし自分に停滞を感じたとしたら、もっと太極拳に向かい合い熱量を注ぐべきという事なのかもしれません。
何かのために…ではなく、取り組むことがただただ楽しい。そのような武術を勉強出来るのは本当にありがたいことですね。
15. Posted by 太郎冠者 2026年03月12日 22:03
☆ひこなさん
仰る通り、宗師に崩される時は自分の体が動く方向に無理がないように影響させられているように感じます。
…崩れ方によっては吹っ飛んでしまうので、とんでもない力が生じているのは確かだと思うのですが。
それと宗師の動きに起こりが感じられずに何が起きているのか一瞬察知できない、という意見もその通りだと思います。
察知して身構えることが出来ないからこそ、崩されることに対して抵抗できないのかと思います。
かといって、こちらの隙をついて動いているわけでもなく、ゆっくりでも何故か対処できません。
言葉にしてみると不思議現象ですが、こればかりは体験してみないことには理解不能かもしれませんね(笑)
仰る通り、宗師に崩される時は自分の体が動く方向に無理がないように影響させられているように感じます。
…崩れ方によっては吹っ飛んでしまうので、とんでもない力が生じているのは確かだと思うのですが。
それと宗師の動きに起こりが感じられずに何が起きているのか一瞬察知できない、という意見もその通りだと思います。
察知して身構えることが出来ないからこそ、崩されることに対して抵抗できないのかと思います。
かといって、こちらの隙をついて動いているわけでもなく、ゆっくりでも何故か対処できません。
言葉にしてみると不思議現象ですが、こればかりは体験してみないことには理解不能かもしれませんね(笑)
16. Posted by 太郎冠者 2026年03月12日 22:15
☆阿部玄明さん
>努力の結晶
毎日ひたむきに稽古に取り組むことは素晴らしいことですし、それなしに強くなろうとしても不可能なことは自明なことだと思います。
ところが自然界を見渡してみると、人間が思う方向とは違った労力で物事を整えたり、物質で言えば結晶化を行ったりしている場面が見られます。
一定のルールにのっとって物事が作用して整っていく、自己組織化という現象です。
自己組織化は一から物事を組み立てるのではなく、個々の要素がルールに従って勝手に特定の形になる現象ですが、我々が稽古をして構造を整えるという時、それに近い現象が起きているのでは、と感じることがあります。
教わっている通りの事を淡々と続けることで見えることがある、それが真理なのかなと思います。
>努力の結晶
毎日ひたむきに稽古に取り組むことは素晴らしいことですし、それなしに強くなろうとしても不可能なことは自明なことだと思います。
ところが自然界を見渡してみると、人間が思う方向とは違った労力で物事を整えたり、物質で言えば結晶化を行ったりしている場面が見られます。
一定のルールにのっとって物事が作用して整っていく、自己組織化という現象です。
自己組織化は一から物事を組み立てるのではなく、個々の要素がルールに従って勝手に特定の形になる現象ですが、我々が稽古をして構造を整えるという時、それに近い現象が起きているのでは、と感じることがあります。
教わっている通りの事を淡々と続けることで見えることがある、それが真理なのかなと思います。
17. Posted by 太郎冠者 2026年03月12日 22:32
☆松久宗玄さん
相手を笑わせる…お笑いの勉強をしよう!
となる必要はないとは思うのですけれど(笑)
とかく我々はユーモアのセンスがないと言われることもありますし、笑いが起きる=心身ともにリラックスした状態で、これは放鬆にも繋がっているのではと感じる部分もあります。
軍隊の特殊部隊の隊員は技量もさることながら、極限の緊張状態でも平静さを失わない精神力こそが必要だとも聞きます。
緊張感は失わずに、かといって張り詰めてもいない…そのようなプロフェッショナルな姿勢で稽古に取り組んでいきたいですね。
相手を笑わせる…お笑いの勉強をしよう!
となる必要はないとは思うのですけれど(笑)
とかく我々はユーモアのセンスがないと言われることもありますし、笑いが起きる=心身ともにリラックスした状態で、これは放鬆にも繋がっているのではと感じる部分もあります。
軍隊の特殊部隊の隊員は技量もさることながら、極限の緊張状態でも平静さを失わない精神力こそが必要だとも聞きます。
緊張感は失わずに、かといって張り詰めてもいない…そのようなプロフェッショナルな姿勢で稽古に取り組んでいきたいですね。
18. Posted by 太郎冠者 2026年03月12日 22:36
☆川島玄峰さん
稽古に限らずですが、正しくありたい、きちんと見られたい、評価されたい…そのような気持ちがどこかにあって、それでうまくいかないと感じると、とたんに動きが固くなり、うまくいかなくなり始めてしまうのかなと思います。
太極拳の稽古は、幸運なことにそういった外部からの評価とは全く無関係に、ただひたすらに自分と向き合うことを許された時間だと思います。
こんなことは普段の生活では本当に稀有な時間です。
自分で自分を評価することもせず、とことん自分と向かい合う…そうすることで見えてくるものがあり、逆にそうしないと太極拳の稽古としては進歩しないのだろうと思います。
だからこそ、背負っているもの・握りしめているものを手放すことでしか上達できないのかな、と思っています。
稽古に限らずですが、正しくありたい、きちんと見られたい、評価されたい…そのような気持ちがどこかにあって、それでうまくいかないと感じると、とたんに動きが固くなり、うまくいかなくなり始めてしまうのかなと思います。
太極拳の稽古は、幸運なことにそういった外部からの評価とは全く無関係に、ただひたすらに自分と向き合うことを許された時間だと思います。
こんなことは普段の生活では本当に稀有な時間です。
自分で自分を評価することもせず、とことん自分と向かい合う…そうすることで見えてくるものがあり、逆にそうしないと太極拳の稽古としては進歩しないのだろうと思います。
だからこそ、背負っているもの・握りしめているものを手放すことでしか上達できないのかな、と思っています。
19. Posted by 太郎冠者 2026年03月12日 22:42
☆西川敦玄さん
思い返してみれば、師父からよく「盗むのは自由だ」と言って頂いておりました。
いまにして思えば、そのようにして取り組むことで、習っている事が初めて自分の力になるのかもしれません。
教わっている時には分からなかったことも、あれはどういう事なのだろう、何を示されているのだろうと試行錯誤しながら考えて取り組むことで、ようやく意味が見えてくることがあると感じます。
振り返ればそれは「基本に立ち返る」ことだったりするのですが、大事だと言われて守る基本と、自分で気づいて立ち返った基本では、その意味の重さが異なる気もしています。
貴重な勉強の機会が与えられている事、本当に有難いことだと思います。
思い返してみれば、師父からよく「盗むのは自由だ」と言って頂いておりました。
いまにして思えば、そのようにして取り組むことで、習っている事が初めて自分の力になるのかもしれません。
教わっている時には分からなかったことも、あれはどういう事なのだろう、何を示されているのだろうと試行錯誤しながら考えて取り組むことで、ようやく意味が見えてくることがあると感じます。
振り返ればそれは「基本に立ち返る」ことだったりするのですが、大事だと言われて守る基本と、自分で気づいて立ち返った基本では、その意味の重さが異なる気もしています。
貴重な勉強の機会が与えられている事、本当に有難いことだと思います。
20. Posted by 太郎冠者 2026年03月15日 01:38
☆平田玄琢さん
>雅楽の最小単位は三管
面白いお話ですね。
西洋の管楽器でも、ソロで聴かせるのとアンサンブルで聴かせるのでは吹き方が違います。
どちらが良い、というわけではないのですが、雅楽の基本がそのようになっているというのは、和の精神を重んじているかのようで興味深いです。
武術や格闘技でもどれだけ強いパンチを打ててもそれが相手に当たらなければ意味はありませんし、ひとりよがりでは見えない世界なのかもしれませんね。
相手との共同作業が上手くいってはじめて、対練で派手に吹っ飛んでいくのかもしれません。
…吹っ飛ばすことが目的、というわけではありませんけどね。
>雅楽の最小単位は三管
面白いお話ですね。
西洋の管楽器でも、ソロで聴かせるのとアンサンブルで聴かせるのでは吹き方が違います。
どちらが良い、というわけではないのですが、雅楽の基本がそのようになっているというのは、和の精神を重んじているかのようで興味深いです。
武術や格闘技でもどれだけ強いパンチを打ててもそれが相手に当たらなければ意味はありませんし、ひとりよがりでは見えない世界なのかもしれませんね。
相手との共同作業が上手くいってはじめて、対練で派手に吹っ飛んでいくのかもしれません。
…吹っ飛ばすことが目的、というわけではありませんけどね。
21. Posted by 太郎冠者 2026年03月15日 01:42
☆マガサスさん
人事を尽くして天命を待つといいますが、やるべきことをやったらあとは天の采配で、なるようにしかならないのだと思います。
運任せと聞こえなくもないですが、手放して待つというのは必要なことで大事な事なのかなと思います。
どれだけ手を尽くしても全てが自分のコントロール下になるわけではありません。その中で、自分を知り、物事を知り、それらと調和していく事を学ぶことで良い筋道を見つけていく事、それが太極拳で学ぶべき思想のような気がします。
とはいえ、思い通りにならずやきもきする自分もいまだに居るのですが…。何事も良い意味でなるようにしかならないものですよね。
人事を尽くして天命を待つといいますが、やるべきことをやったらあとは天の采配で、なるようにしかならないのだと思います。
運任せと聞こえなくもないですが、手放して待つというのは必要なことで大事な事なのかなと思います。
どれだけ手を尽くしても全てが自分のコントロール下になるわけではありません。その中で、自分を知り、物事を知り、それらと調和していく事を学ぶことで良い筋道を見つけていく事、それが太極拳で学ぶべき思想のような気がします。
とはいえ、思い通りにならずやきもきする自分もいまだに居るのですが…。何事も良い意味でなるようにしかならないものですよね。
22. Posted by 太郎冠者 2026年03月15日 01:46
☆ユキさん
太極拳の稽古をしていて面白いと感じるのは、稽古で気づいたことがいつの間にか普段の生活での考え方に反映されていることでしょうか。
また、その逆も起こるもので、全て表裏一体であるからこそ、普段の意識の持ち方が大事なのだと説かれているのかなと感じます。
強くなりたい、思い通りにしたい…!武術的には間違っていない発想だと思うのですが、一歩間違えれば世の中で傲慢に振る舞いたいという意志の表れでもあるのかもしれません。
本当に強い人って、そうじゃないよね…と、稽古で力みそうになるたびにはっと思い出します。
宗師と対練して頂くと、そういうことが全部吹っ飛んでしまうので、本当に爽快に感じられますし(笑)、そのように自分もありたい、と強く思いますね。
太極拳の稽古をしていて面白いと感じるのは、稽古で気づいたことがいつの間にか普段の生活での考え方に反映されていることでしょうか。
また、その逆も起こるもので、全て表裏一体であるからこそ、普段の意識の持ち方が大事なのだと説かれているのかなと感じます。
強くなりたい、思い通りにしたい…!武術的には間違っていない発想だと思うのですが、一歩間違えれば世の中で傲慢に振る舞いたいという意志の表れでもあるのかもしれません。
本当に強い人って、そうじゃないよね…と、稽古で力みそうになるたびにはっと思い出します。
宗師と対練して頂くと、そういうことが全部吹っ飛んでしまうので、本当に爽快に感じられますし(笑)、そのように自分もありたい、と強く思いますね。
23. Posted by 太郎冠者 2026年03月15日 01:52
☆川山継玄さん
>原理原則に委ねてみると、自分勝手さが入り込みづらい
相手をどうにかしたい、相手より強くありたいと思って力んでしまうとき、裏返すとそれは自分の弱さの表れなのかもしれませんね。
この宇宙の原理、法則に沿って動けていれば、そもそもこの法則に逆らえるものなどこの宇宙には存在しないわけで、強がったりする必要がないはずです。
そうではないということは、原理や原則から自分が離れているとどこかで気づいているという事の現れなので、もっと自分と向かい合う必要があるということなのかもしれません。
とはいうものの、腹立つことをされたら少しやり返したくもなりますし、やっぱり人にはなめられてくはありません!(笑)
なんて考えが浮かぶ時は、どこかで他人をなめている自分がいるのでしょうね。太極拳は、つくづく自分を鏡として見せてくれるのだと思います。
勉強すべきことは、たくさんありますね。
>原理原則に委ねてみると、自分勝手さが入り込みづらい
相手をどうにかしたい、相手より強くありたいと思って力んでしまうとき、裏返すとそれは自分の弱さの表れなのかもしれませんね。
この宇宙の原理、法則に沿って動けていれば、そもそもこの法則に逆らえるものなどこの宇宙には存在しないわけで、強がったりする必要がないはずです。
そうではないということは、原理や原則から自分が離れているとどこかで気づいているという事の現れなので、もっと自分と向かい合う必要があるということなのかもしれません。
とはいうものの、腹立つことをされたら少しやり返したくもなりますし、やっぱり人にはなめられてくはありません!(笑)
なんて考えが浮かぶ時は、どこかで他人をなめている自分がいるのでしょうね。太極拳は、つくづく自分を鏡として見せてくれるのだと思います。
勉強すべきことは、たくさんありますね。
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