2025年11月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その101

   『火種を残す』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 蛍光灯のともった部屋でパソコンディスプレイを前に座っていると、わずか百年ほど前までは生活の中に電気などなく、火を使う事が当たり前だったということなどにわかには信じられないとさえ感じられます。
 この日本においても場所によっては昭和30年代まで、囲炉裏のある生活が普通のこととして営まれていたとのことで、家庭の電化などに伴い、急速に姿を消していったようです。
 雨の後のキャンプで焚火を付けるのに四苦八苦した思い出がありますが、その時使ったマッチですが、実は19世紀になって発明されたものだそうで、人類史のスケールで見ると意外と歴史が浅いものなのだそうです。マッチやライターもない中で火を着ける事は、昔の人々にとっても簡単な事ではなかったようで、彼らは生活の中で一度起こした火をなるべく絶やさないように過ごしていたそうです。
 今では囲炉裏のある家というのは、古民家などで意図的に残していない限りそうそうあるものではないと思います。昔は生活の必需品として、また家族のだんらんの場としても家の中心としてなくてはならない場所でした。夜眠る時、囲炉裏の中の火は完全に消される事はなく、燠(おき)に灰を掛ける事で保たれ、翌朝になればそこに薪を入れて使っていたのだそうです。

 火を絶やさずに大切にしていく…それは、火が人々の生活の営みに欠かせないという理由からだけではありません。
 伝統の火を絶やさないという言い回しがあるように、世界各地の文化を見ても、火は神聖なものの象徴とされる事も多く、火を絶やさない事は意義深い事として今も継続されています。
 これらの話を聞いた時、キャンプなどで現代的な生活を離れて火を使っているつもりになっても、私は火の扱いをいかにインスタントで簡単なものとして考えていたのか、身につまされたものでした。
 キャンプにおいて延焼などの現実的な危険性を考えて、一度起こした焚火を消して寝るというのは全く間違った事ではありませんし、当然そうするべきだと思います。
 ただ、一度起こした火をどれだけ大切にするかという精神性の部分で、結局自分は大事なところに目を向けられていなかったのだと感じたのでした。

 一人で稽古をする時間が最近特に多く、そうなってくると自分自身に目を向ける時間も必然的に長くなるように感じられます。これまで行ってきた稽古が、ただなんとなく漫然と練習として続けられてしまっていたのではないか、そう反省することが多くなりました。
 表面の形だけ真似て先人の英知を理解しようとしても本当に大事な部分は見えてこないのではないか…。
 もちろんやらないより稽古を行ったほうが良いのは言うまでもありません。
 しかし、型として套路を練習するといった稽古は、神経に電気信号を通して動作を習熟させるといったような、それだけの意味なのでしょうか。
 江戸時代、マッチが生まれる前の日本では火打石を使って火を着けていたそうです。それよりもどんどんさかのぼっていけば、キリモミ式など摩擦を使ったりし、火を着ける作業は大変な事でした。実体験としてそれを知っていれば、一度火が消えてしまえば再点火するのにどれだけの労力が必要なのかがわかりますし、また火が無いことで命の危険も伴ってくるでしょうから、火に対する向かい方は現代人とは比べるべくもないはずです。
 太極拳を含めた武術が大陸で成立、発展した歴史を少しでも勉強してみると、言い方は悪いですが、安穏と武術を学習していこうと言えるような状況ではなかったはずです。
 もっと逼迫した環境であり、自衛の手段を持たなければ自分の命のみならず一族の存亡が関わる、そのような状況で武術に向かい合う事は半ば必然であり、もっと違った観点で物事を見ていたに違いありません。
 では、常に気を張って周囲を気にしながらびくびくしていたのか、それも違う気がします。
 特にこの日本においては武士道として語られる精神性ですが、本当に困難な事に立ち向かえる人間の姿というのは、小さく卑屈なものではなく、もっと堂々と立ち晴れ晴れとした姿だったのではないかと思います。
 人間の心は困難に立ち向かう力を持っている時、本当に豊かな創造力を生み出しているのではないかと感じます。
 火という存在が、過酷な自然環境から身を守ってくれて生活を豊かにしてくれるだけのものという認識だったら、そこに神の存在を見たり、神聖なものとして語り継いでいくといった精神性が生じうるのだろうかと疑問に思います。
 武術もまた、一族や自分の身を守る実用的な技術という側面を越えて、各地の文化において、神に捧げる神事としての側面も同時に持ち合わせてきました。そこに見出されるのは、暴力に身を固めて自分を守る事に固執するのではなく、もっと大きなものに身をゆだねて自他を制する神の御業ともいうべき技術の伝統といえるものではないでしょうか。

 そこに込められているものを、先人から残された形によって自分の心身を通して表現する事で、本当の意味で自分のものとして習得していけるような稽古であるか…。
 現代の生活や雑念に凝り固まった心と体では、その境地には到底届きようがありません。
 ですが、自分なりのやり方を捨て、示されているものに自分を明け渡す事によって見えてくる事が必ずあるはずです。それによって突き動かされていく先に、自分が目標にしている、到達したいと思えるものが確実に存在しているはずです。
 一人で稽古をしていると、自分の他に頼れるものがないのだということがひしひしと感じられました。だからこそ、教わっている学習体系や稽古内容の大切さが身に染みるように感じられてくるものです。
 冷え切った体で、火にあたることでその熱が染み渡ってくるのに似ているかもしれません。
 しかし、油断をすれば火は簡単に消えてしまうこともあるし、また逆に周りのものを焼き尽くしてしまう力にもなり得ます。だからこそ丁寧に慎重に、火と向かい合う必要があります。
 学習体系もまた、分かったかと思えば急に見失ってしまうようにも感じられ、また間違った理解を推し進めていけば、誤った方向に自分を連れていってもしまうものだと思います。

 だからこそ落ち着いて、じっと見つめて耳を傾ければ、きっと自分に語り掛けてくることが聴こえてくるのではないでしょうか。
 大きくても小さくても火種は火種であることに変わりはありません。太極武藝館で稽古をしている我々は、大なり小なり太極拳という火種に触れさせていただいているはずです。
 それを大切にし、自らの中で大きな炎にしていく事、それが我々に求められることだと思いますし、そこに見出される神聖さは、きっとそれまでの自分をがらりと変えてしまう力となるでしょう。

 確かに灯されている火を理解し、次の世代へと繋げていく…そのようにして人類の文化は脈々と続いてきたに違いありません。

                              (了)





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disciples at 17:00コメント(20)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2025年11月27日 22:48
火も身体も過去から変わってはいないのですが取り巻く環境は別のものになっています。私が先達と同じなのは300年前からは進化も退化もしていない身体構造と、太極拳に向き合っているという事実くらい。
さて宗師の技を味わうと「9:1で負けた」という感覚ではなく、常に圧倒的な差「10:0」です。押し出されたり押し負けたりという力感を感じることがなく、ただ「なるようになってしまった」。その技の中には常に清涼感や納得感を体感しています。
学習体系も「何かが見つかりやすい・考えやすい」ように、すっきりと工夫されているようにも見えます。個々の稽古の目的は何かな?と思って観察すると、色々と思考が散逸しますが、自分を観察することを目的にすると「たった一つの目的」になります。どちらも必要ですね。
コト・モノに神性・仏性を感じるのは、人間にしかない感性です。生きるため、生活のためのモノは必要度が高く、大切にするのは当たり前。必要だから神聖さを感じるのは想像に難くないのです。すると「茶の湯」の世界は、なぜ神聖さが溢れているように感じるのだろう?とふと思いました。お茶自体は生活に必要か?――いや、お茶自体は食事や生活に必要な火床よりも必要度は低いです(私の生活では)。
そう考えると、どうやら必要度ではない尺度でコト・モノに神聖さを感じているのでしょうね。今回は火を巡る不思議なお話でもあり日常や非日常をも飲み込んでいるような壮大なテーマですね。
太郎冠者様、良い機会を頂きありがとうございました。
2. Posted by 西川敦玄   2025年11月28日 14:36
伝統の火を絶やさず。
太郎冠者さんの書かれているとおり、絶やさないことは時間の経過の中でのこと。そして、伝統の火ということになれば、人類の歴史という長い時間の経過において、一人一人がそれぞれの伝統の火の担い手となることなのだと思います。

我々は伝統の火の担い手となると強く思ったとき、自分の外の火を、自分に取り込むことを一生懸命に行おうとします。自分が火にとって燃えやすいように条件を整える。乾燥させて、適切な空気を送って、燃える材料を絶やさない。武藝でいえば、取り込むのに邪魔になる自我をはさまず、道場に通い、飽くことなく真摯に稽古に取り組むということになるのだと思います。
私も、そのように太極拳に向かいたいと心より思います。

一方で、火を命に例える見方もあります。私とは、人生とは火そのものであるという見方です。この場合の命が炎そのものである以上、前段の条件とは関係ないと思います。しかし、条件(環境)を整えるまで燃え上がらなくて良いと思いがちになる自分を赦してしまう思考がないと私には言い切れない。それは、命に対する冒涜かもしれません。命そのものが炎なのですから。
前者の炎に注力しすぎると、後者の炎を忘れてしまうように思います。

今回、火ということに着目してブログ提示いただきありがとうございました。なにか自分の弱い部分を少し浮き上がらせてもらった気がします。これからもよろしくお願いします。
3. Posted by ユキ   2025年11月28日 22:21
>自分なりのやり方を捨て、示されているものに自分を明け渡す事・・・

伝統を受け継ぐことも、そして前人未到の地をゆく時にも、まさにこれにつきるのだと思います。
そして私の感覚では、このことは「火に向かい合う」でもなければ、「火種に触れる」でもなく、、、「焼き尽くされる」です。
跡形もなく、灰すら残さず。
 
4. Posted by マルコビッチ   2025年11月29日 12:22
 焚き火をする時、やっとの思いで火口についた小さな火に、燃えやすい杉の葉や細く割った薪を焚べて、少しづつ入れる薪を大きくして、安定したら大きな薪を入れます。
簡単なようで難しく、何回かやっているうちに、そこには知識、繊細さ、経験、大事にする気持ちが必要なのだとわかってきました。
そして時に、じゃんじゃん薪を入れて火をどんどん大きくしたりしますが、「良い火だなぁ」と思える火は静かにパチパチ燃えている火なのですね。
そんな火を見て心が落ち着くことを考えると、やはり火は神からの恩恵なのかなと思います。
 さて自分の中にある火、『情熱』を焚き火を育てるように大事にしているだろうかと考えさせられました。
身の回りの環境や体力、様々なネガティヴな情報を水に変えて、小さく消えそうにしてしまったり、絶好調!と言って突っ走り大きな大きな火にしてしまったり、これではエネルギーを無駄に使っているようなものですね。
しょうもない情報、自分の中のつまらない思考、そんなものを燃やしてしまい静かに燃える情熱に変えて、その静かなる火は大きさも形も変わることでしょう。 どう導いていくか、自分を常に見つめコントロールしていく必要を感じました。

太郎冠者さん、毎回さまざまな視点から記事を投稿してくださりありがとうございます。
5. Posted by 松久宗玄   2025年11月29日 15:14
現代の日常生活と、それまでの人類史における火のある生活を比べると、
そこに流れる「時間」感覚の違いの差に思いを馳せてしまいます。

現代でも、キャンプで焚火を囲んで、まったり過ごす経験は稀に可能ですので、
ただ、揺らめく火をボーっと眺めながら、他に何もしないという「時間」は、
とても癒しに感じます。

比較すると現代の生活は便利が極まり過ぎて、
効率的に「時間」を使う事を、益々、強いられるようになってきたと感じています。
便利になって、楽になった筈なのに、「時間」が足りないと感じる不思議が発生しています。

「火」に向き合う「時間」の有無で、文明としての方向性が全く違うものになった・・・
とは言い過ぎでしょうか?
少なくとも、太極拳の習得には、「火」に向き合う文明スタイルへの理解は必要だと感じました。
かつて師父が火起こしの課題を提示された意味が少し分かるようにも思いました。

ありがとうございました。
6. Posted by 川島玄峰   2025年11月29日 17:12
火種に出会えること、その火種は本物か、自分が納得できるものか、その火種は自分自信の一部として受け入れられる覚悟もあるのか。
受け入れた火種を大きな炎にできる方法を理解できるか。

ようやく出会えた貴重な太極拳の火種を大事に絶やさず、自分の火種として育てていきたいと思いました。

共に頂いた火種を大きな炎にしていきましょう!
ありがとうございました。
7. Posted by 阿部玄明   2025年11月30日 03:39
野外でたき火を囲んでいるときの時間は普段とは違う精神状態になります。生き物のように揺らいでいる炎は見ていて飽きず、静かに寛いでいられます。そして火が消えそうになったら焚き木を追加出来るよう火の勢いに気を配っている。気温が低い野外で火が消えることはとても危険なので、意識は自然とたき火に向いている。緊張でも弛緩でもない、中立な状態でいられれば漫然と生活することも、漫然と稽古することも無くなるのでしょう。野外という厳しい環境が人間に好ましい影響を与えるのだと思います。

安全な日常にいると精神が弛緩状態に傾いてしまう。危険が無い代わりに、いつも些細なことに気を取られて漫然と過ごしてしまう。仕事や家庭の悩みから発せられた雑音が頭の中で充満しているからだと思います。
雑音に気付いてリセットするには静かな環境に身を置いて自分を見つめる事が必要です。自主稽古はこの点で利点があるように感じます。

8. Posted by 清水龍玄   2025年11月30日 09:28
雨の後の湿った薪で、火が点かなかったことがあります。
普段のツマミをひねれば簡単に火が点く状況と違い、火の大切さや難しさの一端に触れた気がしました。
火は、何か人の心に影響を与えるような気がします。
太極武藝館での稽古も同じと思います。
環境、状況が違えど、その根底にあるものを分かり、大切にしていきたいと思います。
9. Posted by 平田玄琢   2025年11月30日 15:11
燠火が火種となっている話が懐かしく思い出しました。
外で農業、家で和裁を生業としていた祖母と母は、丈夫そうな手で着物を仕立てていました。火鉢を横に置き、消し炭の燠火に灰をかけコテの温度を調節して、正絹生地を傷めないように折り目を入れていました。
また、私が小さい頃、毎日のように土間の上にあった大きな火鉢の縁に乗って遊んでいました。もちろん親からは危ないからと怒られていました。ある時バランスを崩し火鉢を被る形で下に落ち、燠火で顔に火傷を負って酷い顔になったことがありました。親は、もうこの子は普通の生活はできないと思ったそうですが、何を処方したのか幸い火傷の跡は大方直りました。
風呂を焚べる、竈門でご飯を炊く、その消し炭を燠火としました。私の幼少の頃は生活の中の火は必要不可欠なものでした。

世の伝統文化は現在、風前の灯火となりつつあると感じます。若い世代も古い世代も関心が薄く、それに携わっている人達も略式を好みます。略式は楽式と言った坊さんがいましたが、略して楽をした結果、意味がわからなくなってきています。このままでは意味がわからず必要がなくなって失伝してしまいます。

私達が学んでいる套路も、研究会では先に進みつつあります。分かりにくい所を略してしまったのでは全く違ったものになってしまいます。こころして学びたいと思います。
10. Posted by 川山継玄   2025年11月30日 23:58
火口・熱・空気の流れによって熾った火が、生きるために使える状態であり続けるには、実際にやってみないとわからないものだなと、初めて自分で火を熾してそれで煮炊きをしたときに、つくづく感じりました。
なぜなら、恥ずかしながら、もっと簡単に火が熾り、思った通りに料理やお湯が沸かせるかと思っていたからです。
そして、この経験のお陰で、物事に失敗は無く、問題に直面した時にはどうしたらよいのかを、考え・工夫し、実際に動いてみる事の連続なのかなと、視界が広がり、今も尚、その時の感動が静かに続いています。
まだまだ、想像力に欠け、発想が貧困ではありますが、実際にやってみて基本と照らし合わせて自分が変化していけるよう、精進したいと思います。
太郎冠者さん、今回も素晴らしい記事をありがとうございました。
11. Posted by 太郎冠者   2025年12月06日 15:25
☆ハイネケンさん
>宗師の技
宗師の技を受けさせて頂くと、崩れるとか耐えられない以上に、受けた人間がみんな笑ってしまうというのが印象的だと感じます。

自分もそうなのですが、なぜか抗うことの出来ない作用に自らしたがってしまうかのような不思議な感覚がします。
抗えない=敗北感ではなく、むしろピッタリと一致する一体感を感じます。
一体感、全体感は神聖なものに触れた時にも連想される感覚でもあり、それを感じさせる武術というのは、そういった一面を持っているのかもと感じさせられます。

太極拳も禅も、日常の中にこそ修行があると聞きます。
つまり我々は、生きる中で人間としての修行をしていくことが出来るという事なのでしょうね。
12. Posted by 太郎冠者   2025年12月06日 15:33
☆西川敦玄さん
火の他に人間を今の形に作り上げたものとして忘れてはならないものに、鍋があるのだそうです。
火を使い鍋を用いる事で、食料から得られる栄養を大きく変え、また食事の時間を他者と共有することで共感や文化の伝承を生み出したという、鍋。

形や素材は変われど、食料を調理するという役割は現代においても変わりません。
食べる事は生きる事であり、食の営みを通して人間の生き方も脈々と伝承されてきたのかもしれません。
鍋に食料を入れてコトコト煮込むと変化が起き、人が食べる料理に変化するように、我々も太極拳の火にコトコトと当てられ続ける事で、元の自分から別の自分に変貌を遂げられるのかもしれませんね。
13. Posted by 太郎冠者   2025年12月06日 15:37
☆ユキさん
>「焼き尽くされる」
焼き尽くされてしまったら、自分がどうなってしまうか分からない…
それに備えて入れる保険はありますか?
…と、冗談のような考え方が当然の事としてあるような現代の人間の思考では太極拳の修得など出来ない!というのは想像に難しくありませんね。

古来から、火の中であろうと水の中であろうと、飛び込める人間でなければ真理を得ることが出来ないというのは、この世の理なのだと感じます。
道場という場があり学習体系もある…あとは飛び込むだけ、ですね。
14. Posted by 太郎冠者   2025年12月06日 15:43
☆マルコビッチさん
>『情熱』
燠を作り、火種を翌日に持ち越す時に大事なのが、「灰」を掛けることなのだそうです。
燃え尽きてしまった灰を掛けたら火が消えてしまいそうですが、実は逆だそうで、灰の中にある成分(名前は忘れました)が燃焼をゆっくり持続させてくれる効果があり、燠は燃え尽きることなく一晩超すことが出来るとのことです。

生きていれば波があり、燃えているように見える時もあれば、消えてしまったかのように感じる時もあります。
一見すると消えてしまっているように見える時が、実は火を残す上で大切なのだとしたら…少し考え方が違って感じられる気がしました。
自然とは面白いものです。
15. Posted by 太郎冠者   2025年12月06日 15:48
☆松久宗玄さん
>「時間」感覚の違い
12月になると一日一日がとても早く感じられるのは、実は日照時間に関連があると聞いたことがあります。
人間は日照時間で一日の長さを把握しているそうで、冬の日照が短い期間は、人間にとっても一日は短く感じるのだそうです。
365日同じ24時間を生きているようでも、感覚では全く別の世界で生きているのでしょうね。

火と共に生きる事は、人間の生得的な感覚と一致した時間軸で過ごす事が出来るのかもしれません。
考えてみれば、他者に武術の技を掛ける時にも、人間の感覚は抜きにしては語れません。
自然と一致することは人の感性とも一致することであり、技の優劣を左右する事にも繋がっているのかもしれません。
現代の生活の中で、知らずに見落としてしまっていることは沢山あるのかもしれませんね。
16. Posted by 太郎冠者   2025年12月08日 00:14
☆川島玄峰さん
求め続ければ与えられる…。本当に求めるものに出会えること自体が非常に稀な事であり、それを研鑽する機会を与えられることもそれに増して稀なものだと感じます。

その幸運を無駄にしないよう、より一層精進していかなければならないと強く思います。

この時代に武術なんて…と思われる事もまたあるのかもしれませんが、逆にこのような時代だからこそ、必要な事であり価値のある事ではないかと、今日の稽古を通してまた改めて感じたものでした。
17. Posted by 太郎冠者   2025年12月08日 00:19
☆阿部玄明さん
密教の修行において護摩を焚くように、火を見る事は人の精神の在り方に影響を与えるものとして考えられてきたのだと思いますし、実際にそうだと感じます。

火の中に見える揺らぎは自然の揺らぎのリズムであり、そこに流れる音楽のようなものは、同時に人間の心身を通してこの宇宙が表されているようなものに近いものではないかと思います。
その中には、雑多な心の声や日常の煩雑な出来事など含まれていないはずで、それらから脱却することが人間としての修行なのではないかと思います。
私も、武術の稽古においてもそのような精神状態で臨んでいきたいと思います。
18. Posted by 太郎冠者   2025年12月08日 00:22
☆清水龍玄さん
キャンプなどでわざと不便な状況を楽しむ…そのように取り組めること自体が贅沢な事であり、豊かではあるもののその過程で人間が見失ってしまったものも沢山あるのかな、と思います。

ともあれ、そのような時代に生きている事を否定することは出来ないので、我々はただそれに飲まれるのではなく、その中で人間とはどういうものかを見つめ、それを通して太極拳の研究に繋げていくしかないのかなと思います。
一見すると武術とは何も関連がなさそうですが、そうすることで人間の深さが味わえるのかもと思います。
19. Posted by 太郎冠者   2025年12月08日 00:27
☆平田玄琢さん
>意味がわからなくなってきています
いま、スマホの画面をポチっとタッチすればあらゆることが完結するような世の中になってしまっています。

暖かい食べ物だって誰かが運んできてくれる。これは確かに便利なのかもしれませんが、その過程のあらゆるものがすっ飛ばされてしまって、結果だけがそこにあるせいで、何が生きることなのかを見失ってしまう時代ではないかと思います。
質素で素朴な生活が最高とは言いませんが、自分で火を熾す、それで生活するという事は、現代よりも生きることに直結しているのではないかと感じます。
省略されない中に含まれている大切な事を、我々はもっと大切にしないといけないと思いました。
20. Posted by 太郎冠者   2025年12月08日 00:32
>川山継玄さん
焚火を維持する、火がどのように起きるかを体験を持って学習することは、太極拳の稽古で教わった理論がどのように武術として機能しているのかを学習することと似ているのではないかと感じました。

実際に起きている事を見て、考えて感じて、それから試行錯誤をすることは、あらゆる学習において基本となる大切な事だと思います。
仰る通り、その途中には成功も失敗もなく、ただ勉強出来るかどうかしかないのだと思います。
もちろん、キャンプで火がおこせなければ不便な思いはするのでしょうが、幸いにも命を落とすという状況ではない中で練習をすることが出来たはずです。
太極拳の稽古でも、本気で取り組みながらも、肩の力を抜いて放鬆する状態で臨むのがベストなのだろうと思いました。
なかなかそれが難しいんですけども。

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