2025年08月27日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その98

   『積み重なる変化』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 子供の成長は大人の尺度からするととても早く感じられるもので、我が家に遊びに来た1歳になった姪は、いつの間にか立って歩くようになり、「ママ」といった簡単な言葉を話すようになっていました。
 定期的に遊びに来てくれていたため、その変化の様子は少しずつ見せてもらっていたはずなのに、立って自由に歩いている姿を改めて目の当たりにすると、感慨深いものがあります。
 子供の変化は目に見えて分かりやすいものですが、大人もまた子供と変わらない時間が流れているはずで、過去のままと同じということはあり得ないかと思います。
 年齢を重ねる=衰えるということはなく、心身に適切なケアを施してしっかりと鍛えていけば、時間が経つほど自分を強靭に鍛えていくことは可能なのだと思います。逆に、体を動かさない、運動をしない子供が昔より増えているとのことで、そういう子たちは心身に年寄りのような不調を抱えるようになるとのことですから、日頃の生活の在り方が自分の状態を大きく左右するということは、疑いようがない事実ではないかと思います。

 日頃の生活の不摂生は簡単に体に現れてくるもので、食べ過ぎればお腹の周りに脂肪はつきますし、少しトレーニングを怠ればすぐに筋力は衰えていってしまうものです。
 私も今現在、体を作り替えようと意識的に変えている最中なのですが、食事はもちろんのこと、体の使い方など、気を付けて変えていくだけでも短期間のうちに体に変化が生じているのがわかります。そのような食事を取りどう運動するかはもちろんのこと、宗師や先輩方に頂いたアドバイスで印象的だったのが、「どのようなイメージを持つか」ということでした。
 同じ行動を取っていても、自分がどうイメージを持っているかで結果が変わってくるというのは非常に面白いものです。
 過去に運動に関してそのような実験が行われたことがあると読んだことがあります。同じ仕事(ホテルの部屋掃除の仕事)を行う人たちを対象に、一方には「掃除は運動になる」と伝え、もう一方には「掃除は運動にならない」と伝え、比較実験を行ったのだそうです。
 すると、掃除は運動だと伝えられた人は実際に身体能力の向上が見られ、また体重の減少もあったそうです。比較して運動にはならないと伝えられた人は、ごく普通にその時間分体を動かしたのと同程度の効果しかなかったのだそうです。掃除は運動だと聞いた人々は、もしかしたら比較対象の人たちよりも無意識のうちに体を大きく動かしたりなどの違いがあったのかもしれない、と実験の総括にはありましたが、いずれにせよ自分がどのようなイメージを抱くかによって結果に大きな影響を与えるという一例にはなるかと思います。

 イメージを持つことで自分の意識が向かう方向性がきちんと生じて、それに沿って変化が積み重なることで結果的に大きな違いが出てくる。これは体を作る目的以外にも他のあらゆる事に言えるのではないかと思います。
 太極拳の稽古においても、「黙念師容」という言葉を教わりました。文字通り師の姿を念頭に浮かべ稽古に臨む事は、非常に大事なことだと思います。
 同じ基本や套路を行う際にも、自分のことだけに集中するのではなく、師の姿をイメージすることでそれに沿った心身の使い方を学習することができ、結果に大きな違いが出てくるのではないでしょうか。それに限らず、基本功や歩法などの稽古の様々な所にどのような意識を持って取り組むかという注意点を指導して頂いています。
 そのイメージを正しく持つか持たないかでも、また稽古に大きな差が出てきてしまうというのが、取り組んでいてとても興味深くて面白くもあり、また気を付けなければならない所ではないかと思います。知らないうちに宗師から教えて頂いた注意点と違った注釈を自分で加えてしまうということは起こりうることで、一見似たようなことをしているつもりでも、実は全く違ってしまっていたということがあるかもしれないのです。
 最初は気づかなかったわずかな違いが、積み重なるうちにとんでもない間違いになっているという可能性もあるため、注意深く稽古に取り組む必要があるかと思いますし、しっかりと指導していただけることの大切さは、筆舌に尽くしがたいものです。

 対練においても、イメージの違い、どこに意識を向けるかといったわずかな違いで、結果に大きく差が出てくることがあります。
 入門して間もない時のことですが、今でもはっきり覚えていることがあります。立っている相手の肩に手を触れて崩す対練をしていて、私が苦戦していた時でした。
 私の正面(相手の背後側)に師父が立たれて、指を一本すっと立てたのです。私の視線はその立てられた指に自然と引き寄せられました。そこから、師父がその指を一筆書きに左右に動かしながらすーっと下げていったのです。
 私はその指を視線で追っていったのですが、すると目の前に立っていた相手がなんの抵抗もなくその場に崩れていたのです。あっけにとられる私に師父はもう一度やるように促しました。
 先ほどの指の動きをイメージしながら、同じように視線で追うように動くと、またも相手が崩れるのです。驚いた私が師父を見ると、笑顔でこちらを見ているだけで、それに関してなんの説明もありませんでした。
 私にとっては宝物のような体験のひとつとして、強く心に残っているものです。

 対練に限らず套路や基本功を行う上で、体の状態や指先の伸び方、視線の向きやはたまた頭の中まで、示して頂いている宗師に合わせる必要があると指導して頂くのには、こういった理由があるのではないでしょうか。視線ひとつで相手が崩れるかどうかが左右してしまうのです。自分だけで合わせているつもりになっていることがどれだけ本来の太極拳と離れてしまうか、想像に難しくないかと思います。
 太極拳は難しくない、とも宗師は仰っていますが、太極拳そのものの難しさよりもそれにぴったりと合わせられる自分でいるかが問われているのを強く感じます。示していただいたものをしっかりと自分の中にイメージとして持ち、百パーセントそれに沿って動くことが出来れば仰る通りに難しくないのかもしれません。
 その上で正しい動き、またそれに向かっていくような方向性を持って、毎日毎日着実に変化を蓄積させていき、功夫を養っていく必要もまたあるのだと思います。

 正しく取り組んでいけば、確実にその変化が生じてくるのが感じられます。
 あとはそれをどれだけ自分で継続していけるか。ごくごく当たり前にも思われるこの取り組みを続けられれば、間違いなく強くなっていける…。そのような体系が、太極武藝館の稽古にはあるのだと思います。
                                (了)





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disciples at 15:00コメント(24)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2025年08月28日 18:06
言葉を覚えたての頃、我が子で思い出すのは「えーん」と泣いて授乳を求めていました。泣き声ではなくハッキリ「えーん」と発音して妻を呼んでいました。その発音に「めー」が追加され「えーんーめー」となり「えんめ」が母の呼び名になりました。授乳と母が同じ「えーん」でした。また「あーや」という言葉が「自分を抱っこして」と「大好きなウサギのお人形」という2つの意味でした。
推測ですが我が子の中で「えーん」は食べ物への要求を満たし、「あーや」は抱っこ関連の、感情を満たす言葉だった様です。
私たち大人は語意を理解し他人にも通じる様にします。子どもの語彙はそうではなく自己表現の塊であり「自分だけの言葉」。そう考えると詩や心象的な絵画と非常によく似ています。
イメージは情報量では言葉を超えていますがイメージが鮮明でもその解釈は自分を挟むことにもなります。自分を挟む解釈は不要か?といえばそうではなく解釈違いを諭す為に要訣・指導が必要なのだとも考えています。
稽古をする上で目的は一つかもしれませんが「これだけで大丈夫」という稽古はなく、様々な稽古内容の「メリット・デメリット」を理解し活かす事、つまり相反するもの同士をも活かすの様な稽古が「相剋相生」であり太極なのではないか?補完し合い、邪魔し合いながらも高めあうのが醍醐味なのでしょうかね?左右から刃を研ぎギリギリのナイフエッヂを狙う様な感じです。
こうして読むと自分の文章にわかりづらさを感じます。もう少し分かり易く書けないものだろうかと思いますが、これが私の今の限界です。まだまだ変化を積み重ねてみます。
太郎冠者様、考えるヒントを沢山頂きありがとうございました。
2. Posted by ユキ   2025年08月28日 22:04
以心伝心、不立文字が伝承の極みに挙げられている以上、イメージが重要なキーワードであることは当然のことですね。
言ってみれば、師と同じイメージが持てているか、追求できているか、そのことの検証と修正に、皆がもっと躍起になっても良いのではないか・・とは、師父と宗師がまだ后嗣を務められていた頃に度々話をされていたことです。

イメージが合わないということは、焦点が合っていないようなものですから、いつまで経ってもぼんやりフワフワ、ピントの合っていない双眼鏡を覗いて、「頑張って見てみようとはしているのですが・・」なんてぼやくのが関の山ですね。
それで10年、20年と過ぎた時に、自分を正当化したり、言い訳したりすることだけはしたくないなと思います。

太郎冠者さんが頂いた宝物、素晴らしいですね。
太郎冠者さんなら、引き出しに大事にしまっておくということはしないと思いますので、それが自分のものになるまで使い倒せることを祈っています。
 
3. Posted by 松久宗玄   2025年08月30日 12:34
「正しく取り組む」という事は、実は相当に難しい事だと、
歳を経るにつれて実感として腹に落ちるようになってきました。

若い頃には、到達が難しいような目標を掲げて、
気合や根性で、厳しい状況を乗り切っていく、
精神論のような取り組みを良しとしていたように思います。

現在は、自分の年齢からくる問題点も実感として身につまされる事もあり、
若い時分よりも、問題意識や目的が具体的になってきました。

解くべき問題が細かく、単体としては小さくなった事で、
解決のアプローチもきめ細かく具体的になっています。
自分の問題と、解決に向けた取り組み、その結果を踏まえたアプローチの微修正と、
小さいフィードバックループが実感として分かるようになってきました。

若い頃よりも現在の方が改善の実感があり、
一歩一歩を確信をもって進められていると感じます。
「進む」取り組みこそが「正しい」と、そのように感じています。
4. Posted by 阿部玄明   2025年08月30日 17:49
今回、太郎冠者さんにブログに書いて頂いたポイントは稽古が上達するかどうかの分岐点になるところですね。「自分なり」に頭で考えることをやめる事が理解の近道になりそうです。何故かというと正しい稽古の在り方は

示された通り套路や基本功を正しく行う→身体の実感が生じる→実感から理解が生じる。

という順番で「身体を通じて」分かっていくものだからだと思うのです。これを逆にして自分なりの思考を挟むとずっと間違った稽古を続けてしまうことに繋がり泥沼にはまるのです。

示された通り最初に正しくイメージすること。見たものをソックリ真似する意識があれば身体が正しいことを教えてくれる。そこからしか始まらないですが、意識は直ぐに変える事が出来るものです。我々は時間に余裕がある訳でもないので、そのうち出来るようになると悠長に構えていられません。直ぐに切り替えて、厳しくそこに合わせないとスタートラインにも立てず何も成せずで人生終えてしまうでしょう。修正は早ければ早いほど良く、スピードで取り組んでゆきます。
5. Posted by 西川敦玄   2025年08月30日 21:51
黙然師容 とても難しいと思っています。
宗師のあり方を、ありありと想起すること。それ自体も、貧困な意識では困難ですが、貧困で拙くても臆することなく、まずやってみること。その上で更に困難なことは、やってみて出来なかった時の修正です。こればかりは、やっていく中で否応なしに自分の考え方と向き合うこととなります。ここで、目を背けなければ、黙然師容ということが、だんたんと立ち上がってくるのだと信じてやっています。
そして、あまり、賢く要領よくやることに力を使い過ぎるのも考え物だと思います。泥臭く、それでいてアンテナをたてて稽古に取り組む。そんなことを感じながらブログ拝見しました。
皆さんと一緒に稽古して行きたいと思います。
6. Posted by 川島玄峰   2025年08月30日 22:51
意識を持ってイメージすることはとても大切な事ですよね。
以前の私では頭で思い込むだけだったと思います。実際はもっと繊細に正確な意識と行動を取らなければイメージにするに至らないように感じます。イメージする事は稽古で散々訓練されてきたように思います。

太郎冠者さんのこの度の記事により、イメージの意識をより持たなければと考えさせられました。
稽古の在り方がまた変化できそうです。

ありがとうございます。
7. Posted by 平田玄琢   2025年08月31日 09:03
私は、稽古中のイメージの貧弱さが身にしみて感じます。稽古が終わって冷静になってイメージすると、あれもあったこれもあったとイメージできるのですが、いざ対練となるとなかなかそうはいきません。
体型を維持することや姿勢の維持もそうです。腹八分目を過ぎてしまったり、自宅で椅子に座った状態でも手の平の棍をイメージしているかと反省の毎日です。
もっと自身を充実させないと自分の時間だけが早く過ぎている感じがします。
幕末の日本を憂いた吉田松蔭先生でさえ「日に三回省みる」でしたので、私はもっとイメージして省みる必要があると思いました。
太郎冠者さん「身体の作り変えの変化」またぜひ教えて下さい。
8. Posted by マルコビッチ   2025年08月31日 12:31
成長・・年をとると身長も止まるどころか縮んでくる、筋力も弱ってきます。
鍛えて、ある程度は衰えを鈍化していくことはありますが、これも自然であり、変化なのだろうと思います。
しかしその反面、成長と呼んで良い変化も感じています。
慌てることなく静かに周りや自分が観れる時が増えたり、小さな事でくよくよすることも少なくなり、生きてることが深刻でなくなったといった気持ちの変化を感じています。
それはやはり長年生きてきた経験の積み重ねなのだと思います。(まだまだ踠いている部分もありますが・・)
それと、筋力で言えば、体の中の筋力?は衰えていないと感じています。不思議です。

自分がどんな風になりたいかというイメージを持つことについては、以前、宗師による座学講習で教えていただいていましたので、その大切さは理解していましたが、その時は自分にイメージが持てなくてきちんと取り組めませんでした。
今、思い描いていることがありますので、ノートに書いてみようと思います。
太郎冠者さんの『身体改造』陰ながら楽しみにしています。

また、師の動きや立ち方を拝見してイメージを持つことに関しては、非常に意識と関連していると思います。
瞬時にパッと思い描けること、ある門人は、宗師の動きを「天女みたい!」と言いました。
天女を見たことはないと思いますが、瞬時にそう感じる感性は素晴らしいと思いますし、その方の頭の中にはイメージとして残り、自分もそのように動こうとするはずです。
私も、つい最近、また変化した宗師の立ち方を拝見し、あまりに際どいところにいらして、立っているとは言えない浮いていると見えたのです。
その後もそのイメージは残り、自分もそのイメージの宗師と重ねて立ってみましたが、それまでの自分の立ち位置とは違っていると感じました。
それが正しいのかどうかはわかりませんが、大切なことだと思います。
9. Posted by ひこな   2025年08月31日 15:49
太郎冠者様

太極拳の用意不用力、意念にも登場する、「意」に繋がる深い話ですね。

イメージの持ち方や意識の掛け方は、自分でコントロールできるものであるようで、油断するとすぐに無意識化されてしまうものであると思えます。

初心や目指すところを忘れて(忘れ過ぎて)、目の前のこれだけをする、ということが目的になってしまったり、稽古において目の前で示された在り様ではなく、自分の気になるところや内観に向かい過ぎてしまったりと、全体ではなく部分に目と意識が向かいがちだと思えます。

イメージだけ先行して身体を動かさない、というのは論外ですが、全体のための部分、目的のための過程、手段、という両輪、両点を常に視野に入れて在りたいな、と思いました。

自分も不摂生がすぐに身体に反映される反面、節制は中々効果が出にくい歳になってしまってはいますが、武藝館の稽古で教えていただける数々の基本、練功は、確実に身体の遣い方や在り方を変えていけることを感じて楽しんでいます。

物理的な身体性も気に掛けて調整はしつつも、意の持ち方や神経の通わせ方は、正に自身のその気が強く作用するので、陰と陽の両面を整えていきたいなと思いました。

意に関する様々な角度の考察、とても刺激になりました。ありがとうございます。
10. Posted by 清水龍玄   2025年09月01日 23:12
イメージはその人の方向性を決めるものだと思います。
イメージが曖昧ならば、なかなか焦点が定まらないし、自分勝手なら、尚更わからないものになっていく。
私は自分自身、余りにもイメージが貧困だと感じています。
しかし、イメージというものも、自分の努力次第で深めていけるものと思い、また、イメージが貧困ということは、今まで、それを深める為の努力が全く足りていないということなのだ思い、稽古しています。
11. Posted by 川山継玄   2025年09月01日 23:13
正しいイメージを持つ事は、常日頃から大切だと思うものの、自分のフィルターを通して、安易に違うものとして自己投影しているため、課題に取り組むうえで非常に障害になっています。
何故それが生じるのか、疑問だったのですが、私の中で、「具体的にどう在りたいか」がとても曖昧だからではないかと思いました。
道場があり、稽古で宗師に指導していただける環境に甘えて、示された事を、瞬時にわかろとする意識の焦点がぼやけるのです。
私は、もう一度自分自身に、どう在りたいのかを問う必要性を感じました。
その意志がはっきりしていればいるほど、鮮やかに具体的に描けていればいるほど、純粋にイメージが入ってくるのではないかと思ったのです。
私には、宗師が、何の偽りも無く、誰のせいにもしない、一点の陰りもない、だからこそご自身が関わったことすべてを味わい尽くし、尚探究し成長し続けていらっしゃるように見えるのです。
物事だけではなく、関わった人に対しても全く同じです。
私にはたまらなくそれが魅力で、その根底には太極拳がある。だからこそ、私も太極拳を宗師から正しく受け取り、探求し、人間性に磨きをかけ、心身ともに成長し続けたい!と心の底から思います。

太郎冠者さん、宗師の志を感じ取れる生き方を、共にしていきましょう。
12. Posted by 太郎冠者   2025年09月01日 23:48
☆ハイネケンさん
歩き始めたばかりの子供を見ると、職業病(?)で思わず「どう歩いているんだろう」と気になってしまうものです。
ただ、そのやり方や方法論ばかり気にしても仕方がないのだろうとも同時に思います。彼ら彼女らは、誰かに教わったわけではなく自分の中にあるモノから立ち方を学び、歩けるようになったはずです。
その習得過程にこそ本当に価値があるのではと思うのです。

太極拳を学習する際も、たとえ誰かから真伝を伝えられたとしても、それは本物の太極拳…自分の内に生じた太極拳にはならないのだろうと思います。
だから宗師はいつも、真似をするときは頭の中まで真似をするのだと言ってくださっているのだと思います。
そうすることで自分の内から湧き出るもの…そのようにして学習をされてきたのではないかと感じます。
13. Posted by 太郎冠者   2025年09月01日 23:57
☆ユキさん
>以心伝心、不立文字が伝承の極み
言葉にしなくても伝わるもの、それを感じ取れる能力…人間にはそのような力が、間違いなく備わっていると思います。

結局それを使うも使わないも自分の選択次第で、分かろうとすることを選択していけば、自ずと理解されてくるものなのかもしれません。
>師と同じイメージが持てているか、追求できているか
自分の取り組み方がどうか、やっているつもりだけになっていないか…この言葉を肝に銘じておきたいと思います。
何かに取り組んでいるつもり…そうしようとしている、そう思っているでは何にもならず、しっかりと結果を出せるようにこそ努力をしていくべきなのだろうと感じます。

>頂いた宝物
今回取り上げた一例に限らず、他にも宝物は沢山頂いたのだと感じます。頂いてよし、とそのままで終わらせずに、必ずもっと大きなものにしていきたいと強く感じています。
14. Posted by マガサス   2025年09月04日 00:48
「正しいイメージを持てるか」
とても難しいと感じるところです。

道場での時間は数時間だけ。
宗師は稽古のたびに変化し、上達され、成長され、進み続けていらっしゃいます。
一体どうしたらあんなにも上達できるのか?
何をやっても、他の誰よりも上達が早いのはなぜだろう??
と考えた時に、宗師の学び方、考え方、取り組み方、在り方に大きなヒントがあり、それをもっともっと一緒に学ばせて頂く必要があるのだと感じます。
自分は自己認識、自己修正する力が弱いので、力をつけていきたいと思い取り組んでいます。
失敗や間違いを恐れない勇気とおおらかさを持って、間違いだと分かったら全力で修正できるようにして、宗師と同じイメージを持てるように努力したいと思います。
15. Posted by 太郎冠者   2025年09月06日 17:28
☆松久宗玄さん
>精神論のような取り組み
何かをやり遂げるにはもちろん精神的な力は必要だとは思います。
ですが仰る通り、それだけでなんでも解決できるなら、世の中これだけ技法や体系としてまとめられるものは多くはなかったのではないかと思います。

無理矢理こなそうとしても絶対に無理が生じるので、そうではないやり方の追求が求められる。
それを続けていく中で、精神的にも養われていくものが生じるのではないかと感じています。
そのほうが、何かを続けている実感も生じやすいのだと思いますし、問題を解決するという面においても実際的な効果があるのではないかと思います。
私もじっくり取り組んでいきたいと思います。
16. Posted by 太郎冠者   2025年09月06日 17:31
☆阿部玄明さん
>身体を通じて
体を作り替える事をいま継続していますが、結果は伴っているもののそれは思った通りに進んでいるのではなく、変化が順当に生じている時もあれば、しばらく何も変化がなく、ある時突然変わっていたという事がしばしばあります。

頭は予定を立てて行動を変えることができますが、それに合わせて身体が答えを出すかというとそうではないようです。
なのでこちらも、体の状態に合わせて少しずつ足並みを揃えながら取り組んでいく、そうすると出てくることがあるようです。

太極拳の稽古にそのまま当てはまるかはわかりませんが、示して頂いていること、自分に生じていること、それらをしっかりと見つめた上で方向性を合わせ続ける事でしか、得られないものなのかもしれません。
17. Posted by 太郎冠者   2025年09月06日 17:43
☆西川敦玄さん
師父、宗師に様々なことを指導して頂いている中で、合わせることと真似することの大切さは何度も何度も説いていただいていますが、不思議なことに、
「私のようになれ」という事は、言われたことがないと記憶しています。

宗師であれば、宗師ご自身が最大限に磨かれるような生き方をしておられるのだと思います。
もし我々がそれを真似するのだとしたら、宗師のやっている事を通して見ている事…そうする事によって何が磨かれているのか、その本質部分にこそ目を向けなければならないと感じます。
言葉のニュアンスで説明が難しいですが、そうしない事には本当に自分を磨くことには繋がらないのかも、と思いました。
18. Posted by 太郎冠者   2025年09月08日 23:48
☆川島玄峰さん
先日の稽古で対練中、宗師に示して頂いた事で印象的だったのが、
相手の力に逆らわずに合わせて変化している姿でした。

意識やイメージで動くというと、ややもすると相手を意のままに動かそうとする事に繋がってしまうところがあったのですが、実際にはそうではないようなのです。
それでいて、相手は宗師の意のままに崩れてしまっているようでした。
もっと様々な角度から研究しなければ、と思った次第です。
19. Posted by 太郎冠者   2025年09月08日 23:55
☆平田玄琢さん
>「身体の作り変えの変化」
確かに結果は出てきているのですが、裏を返せばそれまでの不摂生が積み重なっていたことの現れではあるので、お恥ずかしい限りです。

正しい取り組み方をすれば正しい結果が返ってくる。
いかに自分勝手にやることを戒められるか、示されたやり方にしっかり合わせられるか…。
ごく当たり前の事のようですが、結局のところ身体作りも太極拳も、注意するべきことは同じポイントなのではと感じています。
そう考えると、すごいのは自分ではなく、そうなるような方法を考え提示してくださった方々なのだと思い、本当にありがたく思います。
このまま努力を継続していきたいと思います。
20. Posted by 太郎冠者   2025年09月09日 00:03
☆マルコビッチさん
>成長
20代の頃と同じ事は出来ないかもしれませんが、その時の自分には出来なかったことが今の自分には出来るということは、たくさんあると思います。
そして最近の研究では、身体年齢は自分の自己イメージに強く影響されるという結果が出ているので、もう歳だなぁ、というイメージを持つ必要は全くないどころか、むしろ自分から衰えさせてしまっているとさえ言えるのかもしれません。
私も自分を「おじさん化」させないよう、気を付けています。おじさんだとしても、素敵なおじさまになりたいものです。

>変化した宗師
先日示して頂いた順体歩きの姿が、もう浮いてる?ような動きをしていたので私も目をこすりながら見てしまいました。
どうやったらこんなになるの??いや、教わってるはずだからとにかくやってみよう…??
人間の可能性は本当に無限大なんだろうと、改めて感じたものでした。
>「天女みたい!
まさに…。そろそろ宗師が宙に浮かび上がっても、驚かないかもしれませんね。
21. Posted by 太郎冠者   2025年09月09日 00:14
☆ひこなさん
>イメージの持ち方や意識の掛け方
個人的には、人間の頭の中身も身体意識も、一枚岩ではないと感じています。

合議制の議会ではないですが、自分の中で多種多様な意見を好き勝手に出し合って、半ば強引に決議に達したものを代表して「自分の意識」と称しているような感じ、でしょうか…。
そうすると意やイメージを変えるという時にも、様々なアプローチ法が考えられるかと思います。

太極武藝館の稽古では、形を真似する、手足の細やかな位置まで気にするという指導をして頂いてますが、そういう体の外側のアプローチからでも、自らが持っているイメージを書き換える力があるのだと思います。
陰陽両面、車輪の両端ではないですが、内と外両方からアプローチするのは非常に効果的な方法ではないかと思います。

身体改造している!と宣言しまくって逃げ道を無くしている意志薄弱な私のように…。
これで結果出せなかったら、本当にかっこ悪いですからね!
22. Posted by 太郎冠者   2025年09月09日 00:21
☆清水龍玄さん
さきほど書かせていただきましたが、先日の対練で宗師が相手の力や向かってくる方向に完全に合わせている姿が印象的でした。

これを日常生活に当てはめると、起きている出来事に完全に調和しているという感じでしょうか。
そうすると一見、自分の意見がないようにも見えますが、その中心にある宗師の軸は、間違いなく確固としていて揺らぎがないものとして感じられました。
揺らぎがないけれど、どのような相手にも合わせて柔軟に変化している。

それでは、自分が持つべきイメージってどういうものなのだろう、とそこから考えるきっかけを与えてくださったように感じました。
23. Posted by 太郎冠者   2025年09月09日 00:31
☆川山継玄さん
>正しいイメージを持つ事
この表現もなかなか紙一重なのではないかと思うのですが、我々は「正しい〇〇」という固定観念に逆に縛られているのでは、とふと感じました。

太極拳の真伝は確かにあると思いますが、それは「正しい太極拳」なのだろうかと、宗師の動きが稽古でお会いするたびに変化している姿を見て最近強く思います。
正しい生活、正しい食事。そういったものは必ずこうすべきという事ではなく、その時々の状況に応じて違って然るべきだと思います。
ある時は必要な栄養が、別の時には余計なものになる。そういった振れ幅がある事を受け入れることを、正しい〇〇という思考が邪魔をしてしまうのではと思いました。
しかしそれでも、正しい架式はあるのです。(?)
宗師が我々に「考えるな!」という時と、「考えが足りない!」と両方言ってくださる意味、その間にあるものは何か、そこを自分で埋めていかないと太極拳は見えてこないのだろうと思いました。
24. Posted by 太郎冠者   2025年09月09日 00:54
☆マガサスさん
>「正しいイメージを持てるか」
あれ、と思って記事を読み返してみたのですが…実は私は本文中、一度も「正しいイメージ」とは書いていないのです。「イメージを正しく持つ」とは書いていますが。

テキトーに言葉を選んでいるようで、実は意図してそのように書いています。理由の大半は上の継玄さんへの返信で書かせていただいたものになります。
さらに補足すると、先日宗師が公開して下さった練拳Diaryに書かれている事がその理由に当たるかと思います。

「正しいイメージ」がとても難しいと感じるのはなぜなのでしょうか。我々は、「正しいレシピ」をどこかで求めてしまっているのではないでしょうか。
料理とは、太極拳とは。
宗師はそのことを我々に伝えようとしてくださったのではないかと思うのです。

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