2025年07月24日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その97
『正解だけを求めず』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
人生を肯定的に捉えれば、今こうして過ごすことを選んできたこれまでの選択は、全て正解だったように感じられます。ではこれ以外の選択を選んできたらそれは不正解だったかというとそうではなく、そうして別の人生を選んですごしてきた自分もまた、その人生が正解だったと感じているに違いありません。
実生活の中では、学校のテストのように「これは正解、これは不正解」と簡単に決められる物事はそう多くはありません。ある時点では不正解のように見えても、時間が経ったり視点を変えたりすれば、そうではなかった事実が見えてくるということはしばしば起こり得るものです。
太極拳の稽古をしていると、これまた上手くいかないと感じられることがしばしば起こるかと思います。そういう時、宗師に示して頂いた手本は「正解」で、自分が正しく真似できなかった事は「不正解」だったのでしょうか。
ある意味ではそれは正しいのかもしれません。正しく真似できれば、正しい結果が現れるのはまさに道理です。しかし、そこには物事を追求していく上で陥りやすい罠が潜んでいるようにも感じられます。
解けない問題があったら正解を求めるのは道理に適っているようで、実は問題解決には全く繋がらない…言葉にすると複雑に聞こえますが、分解して実態を検証してみればそれはすぐに明らかになります。
例えば…宗師に示して頂いた通りに対練で崩そうとしても相手が崩れない。
短絡的に考えれば、正解=崩し方が分かれば相手を崩せるかも、と思います。ところが実際には、目の前で相手に技をかけるところを見せていただき、自分にも同様にかけていただいて体験までさせてもらっています。それをいざ真似しようとしても、それでも同じようには相手は崩れてくれません。
こうなってしまう時というのは、正解が分からないのではなく、問題の解き方が分かっていない…故に問題が解けないともいえます。
問題を解ける能力・解き方を理解するのではなく問題の正解・解答を求めてしまう事の弊害は、例えば誰かが解いた正解を知ってしまうと、あたかもそれを自分が導いた解答と思ってしまってしまうことにあります。いざそれを他の問題に適用しようとしても、自分で解いた経験がないのでその問題が解けません。問題と正解が偶然かみ合っていた場合、ある時には正しい結果が導けるのですが、もし前提となる条件・問題が少しでも違った場合、とたんに答えは導き出せなくなってしまうものです。
宗師がよく、「崩し方を教えるとそればっかりやってしまう」とお話をしてくださいますが、それこそがどこかで正解を求めているという点の現れではないかと思います。
人から教わった正解を味わうことで起こる一番の問題は、自分の置かれている状況や立ち位置が分からなくなってしまうことではないでしょうか。
問題に対して正解/不正解ではない関わり方をしていれば、仮に出来ないことが生じたとしてもそれに対して自分がどこにいるのかが自覚できます。今いる自分の状態では、目の前の壁を超えることが出来ないかもしれません。ですが、ここにはそれまでに教わってきた稽古内容の数々が使える道具として用意されています。壁に手が届かないとしても、その習ってきたことで小さな段差をいくらでも作ることが出来、それを足掛かりに少しずつ上へと昇っていけるはずです。
いえ、そもそも自分が問題だと感じていることは、自分の今いる位置から見て正しい次のステップに位置しているのでしょうか。自分はその段階でもないのに聞きかじった情報で凄いことをやろうとしても、とても手が届くものには感じられないはずです。自分には手が届かないと思うからこそ、別の誰かが解いた正解を探し求めてしまう…。これは太極拳に限らないですが、これだけ情報がいくらでも手に入る世の中だと、自分に直面した問題でもない問題を無駄に解こうと四苦八苦してしまうということは起こり得ることだと思います。
まず自分の置かれた状況を正しく認識し、次に自分が進むべきステップを見落としていないか。それを気に掛けるだけで、とても解けるわけがないと感じる大きな問題でも、次に進むべき段階が順々に見えてくるものです。
我々が指導して頂いている太極拳の場合は特に、段階的に進むべき道筋をとても丁寧に示して頂いているように感じられます。それに則って少しずつ稽古を進めていくと、自分が次にするべきことは自明のものとして目の前に提示されているように感じられるものです。
仮に自分の問題が見えたとして、それをするかしないか、それこそが本当に自分に問われている問題だと思います。目の前の問題を片づけるのが嫌だから、どこかで聞いたもっと大きな別の問題を自分の問題のようにすり替えて、それに悪戦苦闘しているように振る舞ってしまう。
どこか遠くで起きた落石よりも、自分の靴の中に入った小さな小石のほうが自分にとっては非常に辛い問題に感じられるものです。小石を取り除くのが億劫だからといって遠くの岩を心配していても問題は何も解決してくれません。そうです、他でもない自分自身が…書いていても「わかってはいるんだけどねぇ…」と言い訳ばかりいくらでも出てくるものです。
どこかの遠い大きな岩と向かい合うのが勇気ではなく、自分の靴に入り込んだ小石をまず取り除くのが本当の勇気なのかもしれません。
宗師のように、ご自身の問題に取り組まれてきた方から見れば、そういう状況では「問題はそこじゃないよ」と一目瞭然なのかもしれません。ですが我々(私)は靴の中の痛みに悶えるだけでそれを確かめる勇気もなく…。文章にしてみると、哀れというか滑稽ですらありますね。
まず、靴の中を確かめてみる、話はそこからなのかもしれません。
話を戻しますが、太極拳の稽古で上手くいかないと感じるところも、こういった思ってもみなかったところが問題としてあって、その解き方がよくわかっていないから生じているのかもしれません。まったく手が付けられない大きな問題だと感じられても、段階を事細かに分解していって検証してみれば、少しずつ解決の糸口は見えてくるものです。そうすればそれまで到達できそうには思えなかった結果にも、あるときたどり着いているものなのかもしれません。
生き残る、相手を倒すということと学校のテストで測られるような競争社会は、実は似て非なるものです。テストでは得点によって否応なしに順位が付けられ、そこで優劣が決められてしまいます。ところが実際の生存競争の場では、勝敗はもっと混沌としたものとなります。みんな勝利することもあれば、誰も勝利しないこともあります。誰も勝利しないことで上手くいくこともまた起こり得るものです。
そのような問題と現実的に向き合ってい行くためには、ただ正解だけ追い求めても限界があるのだと思います。清濁併せ持ち、場合によってはそれら両者と戯れることで初めて自分のなすべきことが見えてくるのかもしれません。
陰陽虚実を理解し自在に使いこなす太極拳の道理を体現するには、自身もひとつの物事に拘泥するようでは何にも成らず、しかしその上で自身の修行となる道をひたすらに行く、たゆまぬ研鑽が必要なのがひしひしと感じられます。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
人生を肯定的に捉えれば、今こうして過ごすことを選んできたこれまでの選択は、全て正解だったように感じられます。ではこれ以外の選択を選んできたらそれは不正解だったかというとそうではなく、そうして別の人生を選んですごしてきた自分もまた、その人生が正解だったと感じているに違いありません。
実生活の中では、学校のテストのように「これは正解、これは不正解」と簡単に決められる物事はそう多くはありません。ある時点では不正解のように見えても、時間が経ったり視点を変えたりすれば、そうではなかった事実が見えてくるということはしばしば起こり得るものです。
太極拳の稽古をしていると、これまた上手くいかないと感じられることがしばしば起こるかと思います。そういう時、宗師に示して頂いた手本は「正解」で、自分が正しく真似できなかった事は「不正解」だったのでしょうか。
ある意味ではそれは正しいのかもしれません。正しく真似できれば、正しい結果が現れるのはまさに道理です。しかし、そこには物事を追求していく上で陥りやすい罠が潜んでいるようにも感じられます。
解けない問題があったら正解を求めるのは道理に適っているようで、実は問題解決には全く繋がらない…言葉にすると複雑に聞こえますが、分解して実態を検証してみればそれはすぐに明らかになります。
例えば…宗師に示して頂いた通りに対練で崩そうとしても相手が崩れない。
短絡的に考えれば、正解=崩し方が分かれば相手を崩せるかも、と思います。ところが実際には、目の前で相手に技をかけるところを見せていただき、自分にも同様にかけていただいて体験までさせてもらっています。それをいざ真似しようとしても、それでも同じようには相手は崩れてくれません。
こうなってしまう時というのは、正解が分からないのではなく、問題の解き方が分かっていない…故に問題が解けないともいえます。
問題を解ける能力・解き方を理解するのではなく問題の正解・解答を求めてしまう事の弊害は、例えば誰かが解いた正解を知ってしまうと、あたかもそれを自分が導いた解答と思ってしまってしまうことにあります。いざそれを他の問題に適用しようとしても、自分で解いた経験がないのでその問題が解けません。問題と正解が偶然かみ合っていた場合、ある時には正しい結果が導けるのですが、もし前提となる条件・問題が少しでも違った場合、とたんに答えは導き出せなくなってしまうものです。
宗師がよく、「崩し方を教えるとそればっかりやってしまう」とお話をしてくださいますが、それこそがどこかで正解を求めているという点の現れではないかと思います。
人から教わった正解を味わうことで起こる一番の問題は、自分の置かれている状況や立ち位置が分からなくなってしまうことではないでしょうか。
問題に対して正解/不正解ではない関わり方をしていれば、仮に出来ないことが生じたとしてもそれに対して自分がどこにいるのかが自覚できます。今いる自分の状態では、目の前の壁を超えることが出来ないかもしれません。ですが、ここにはそれまでに教わってきた稽古内容の数々が使える道具として用意されています。壁に手が届かないとしても、その習ってきたことで小さな段差をいくらでも作ることが出来、それを足掛かりに少しずつ上へと昇っていけるはずです。
いえ、そもそも自分が問題だと感じていることは、自分の今いる位置から見て正しい次のステップに位置しているのでしょうか。自分はその段階でもないのに聞きかじった情報で凄いことをやろうとしても、とても手が届くものには感じられないはずです。自分には手が届かないと思うからこそ、別の誰かが解いた正解を探し求めてしまう…。これは太極拳に限らないですが、これだけ情報がいくらでも手に入る世の中だと、自分に直面した問題でもない問題を無駄に解こうと四苦八苦してしまうということは起こり得ることだと思います。
まず自分の置かれた状況を正しく認識し、次に自分が進むべきステップを見落としていないか。それを気に掛けるだけで、とても解けるわけがないと感じる大きな問題でも、次に進むべき段階が順々に見えてくるものです。
我々が指導して頂いている太極拳の場合は特に、段階的に進むべき道筋をとても丁寧に示して頂いているように感じられます。それに則って少しずつ稽古を進めていくと、自分が次にするべきことは自明のものとして目の前に提示されているように感じられるものです。
仮に自分の問題が見えたとして、それをするかしないか、それこそが本当に自分に問われている問題だと思います。目の前の問題を片づけるのが嫌だから、どこかで聞いたもっと大きな別の問題を自分の問題のようにすり替えて、それに悪戦苦闘しているように振る舞ってしまう。
どこか遠くで起きた落石よりも、自分の靴の中に入った小さな小石のほうが自分にとっては非常に辛い問題に感じられるものです。小石を取り除くのが億劫だからといって遠くの岩を心配していても問題は何も解決してくれません。そうです、他でもない自分自身が…書いていても「わかってはいるんだけどねぇ…」と言い訳ばかりいくらでも出てくるものです。
どこかの遠い大きな岩と向かい合うのが勇気ではなく、自分の靴に入り込んだ小石をまず取り除くのが本当の勇気なのかもしれません。
宗師のように、ご自身の問題に取り組まれてきた方から見れば、そういう状況では「問題はそこじゃないよ」と一目瞭然なのかもしれません。ですが我々(私)は靴の中の痛みに悶えるだけでそれを確かめる勇気もなく…。文章にしてみると、哀れというか滑稽ですらありますね。
まず、靴の中を確かめてみる、話はそこからなのかもしれません。
話を戻しますが、太極拳の稽古で上手くいかないと感じるところも、こういった思ってもみなかったところが問題としてあって、その解き方がよくわかっていないから生じているのかもしれません。まったく手が付けられない大きな問題だと感じられても、段階を事細かに分解していって検証してみれば、少しずつ解決の糸口は見えてくるものです。そうすればそれまで到達できそうには思えなかった結果にも、あるときたどり着いているものなのかもしれません。
生き残る、相手を倒すということと学校のテストで測られるような競争社会は、実は似て非なるものです。テストでは得点によって否応なしに順位が付けられ、そこで優劣が決められてしまいます。ところが実際の生存競争の場では、勝敗はもっと混沌としたものとなります。みんな勝利することもあれば、誰も勝利しないこともあります。誰も勝利しないことで上手くいくこともまた起こり得るものです。
そのような問題と現実的に向き合ってい行くためには、ただ正解だけ追い求めても限界があるのだと思います。清濁併せ持ち、場合によってはそれら両者と戯れることで初めて自分のなすべきことが見えてくるのかもしれません。
陰陽虚実を理解し自在に使いこなす太極拳の道理を体現するには、自身もひとつの物事に拘泥するようでは何にも成らず、しかしその上で自身の修行となる道をひたすらに行く、たゆまぬ研鑽が必要なのがひしひしと感じられます。
(了)
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コメント一覧
1. Posted by マルコビッチ 2025年07月27日 17:23
自分の人生を振り返ると、あの時こうしていれば・・と後悔することも多くありますが、その時はそう選択するしか考えられず突っ走ってきました。
今、それが正解か不正解か当てはめようとしてもそれはどちらでもなく、その二つの言葉の外にある気がします。
ただ、こうして師父や宗師と出会い、門人の皆さんと出会い、人間とは何か、人間の成長とはどういうことかを考え、自分自身と向き合うという時間を持っていることを考えると、今までの様々な出来事や選択はここにいるためのものだったのかと考える事も出来ます。
太極拳の稽古の中でも、正解不正解の言葉で考えることは難しく、私たちは、宗師のようにできるようになりたい、太極拳の真理を掴みたいと思っているだけのはずが、それを『正しいこと』に置き換えてしまうのかもしれません。
ついつい正解を求めがちな私たちに、太郎冠者さんはあえてこの問題を取り上げてくださったのだと思います。
自分の靴の中の小石による痛みを感じ、取り除きながらひとつずつ歩いていくしかありませんね。
今、それが正解か不正解か当てはめようとしてもそれはどちらでもなく、その二つの言葉の外にある気がします。
ただ、こうして師父や宗師と出会い、門人の皆さんと出会い、人間とは何か、人間の成長とはどういうことかを考え、自分自身と向き合うという時間を持っていることを考えると、今までの様々な出来事や選択はここにいるためのものだったのかと考える事も出来ます。
太極拳の稽古の中でも、正解不正解の言葉で考えることは難しく、私たちは、宗師のようにできるようになりたい、太極拳の真理を掴みたいと思っているだけのはずが、それを『正しいこと』に置き換えてしまうのかもしれません。
ついつい正解を求めがちな私たちに、太郎冠者さんはあえてこの問題を取り上げてくださったのだと思います。
自分の靴の中の小石による痛みを感じ、取り除きながらひとつずつ歩いていくしかありませんね。
2. Posted by 川島玄峰 2025年07月27日 21:24
最初の入門したきには「ああ、こうやって学ぶものなんだ」と、とても興奮したことを思い出されます。
初めて動きを見て、説明を聞き、いざ自分で真似て動いてみると自分の動きが今までに感じた事がないくらい思い通りに動けなく情けなく感じたのを思い出されます。
(今もあまり変わりませんが…)
「そんなわけない!出来るはず!」と思えば思うほど焦りと情けなさが湧き出てきます。でも不思議と最後はそんな抵抗する自分にも諦めてしまい、素直になるしかないところまで追い込まれていきます。そうすると突然道が開けたかのような感覚を覚える時がありましす。
結局は自分の在り方に尽きてしまいますが、分かっていてもなかなか大変な事ですよね。しかし最初に見た感動がある限りそこには間違いなく太極拳が存在しています。
こらからもその感動を求めて、皆様と一緒に太極拳を探し続けていきたいと思います。
ありがとうございました。
初めて動きを見て、説明を聞き、いざ自分で真似て動いてみると自分の動きが今までに感じた事がないくらい思い通りに動けなく情けなく感じたのを思い出されます。
(今もあまり変わりませんが…)
「そんなわけない!出来るはず!」と思えば思うほど焦りと情けなさが湧き出てきます。でも不思議と最後はそんな抵抗する自分にも諦めてしまい、素直になるしかないところまで追い込まれていきます。そうすると突然道が開けたかのような感覚を覚える時がありましす。
結局は自分の在り方に尽きてしまいますが、分かっていてもなかなか大変な事ですよね。しかし最初に見た感動がある限りそこには間違いなく太極拳が存在しています。
こらからもその感動を求めて、皆様と一緒に太極拳を探し続けていきたいと思います。
ありがとうございました。
3. Posted by 松久宗玄 2025年07月27日 22:40
難しいと感じる事、出来ないと感じられる事を、出来るようにするには、
結局は、問題の原因を見極めて、地味で地道な努力を積み重ねていくしかない、
と思います。
それを行うには、先ず自分がその問題を、深く問題だと認識して、
自分にとって解決しないといけない必要性に自覚的である事、
その上で、必要な努力を積み上げる事、だと思います。
その地味な努力のプロセスに向き合えるかどうか、
ある意味では、そこが問題の始まりであるとも思います。
多くの場合において、その努力に向き合う事を、
潜在的に避けたいという人間心理が、出来るようになる方向性を妨げていると感じます。
実は自分が向き合いたくない、努力したくない、という事、
そこから自分自身の整理が必要なのだと感じます。
結局は、問題の原因を見極めて、地味で地道な努力を積み重ねていくしかない、
と思います。
それを行うには、先ず自分がその問題を、深く問題だと認識して、
自分にとって解決しないといけない必要性に自覚的である事、
その上で、必要な努力を積み上げる事、だと思います。
その地味な努力のプロセスに向き合えるかどうか、
ある意味では、そこが問題の始まりであるとも思います。
多くの場合において、その努力に向き合う事を、
潜在的に避けたいという人間心理が、出来るようになる方向性を妨げていると感じます。
実は自分が向き合いたくない、努力したくない、という事、
そこから自分自身の整理が必要なのだと感じます。
4. Posted by ハイネケン 2025年07月27日 23:37
問題に対し「答え」を探すと今の自分の知識をベースに思考します。受験数学のQ&Aの様です。次に問題に対し問題文を丸呑みし理解しようとせず分からないまま向き合ってみています。なぜその問題となったのかが少し見え始める気がします。
>「崩し方を教えるとそればっかりやってしまう」。
あの様に崩したくて始めた太極拳ですので同じ気持ちです。しかし我々の学ぶ太極拳がもし料理と似ているならば、素材だけに拘っていてもそれは違うのでしょうね。料理や食事をする環境、調理器具や器、調理する人や食す人の体調、その日の天候や湿度、、、分類要素はたくさんありますが感覚を主にするとただ一つ「違和感」が鍵になる。すぐに全てを同時に見れると良いのでしょうが今の私は一つひとつを感じながら吟味しています。対練でも崩れされるのと動かされるのがよくわかりません。一体何の原理なのか?
多分今まで学んだ事の中にひっそりと存在し、見つけれられるのを待っている気がします。
靴の中の小石は初めからあったのに気がつかないのは自分のせいですね。太郎冠者様、ありがとうございました。
>「崩し方を教えるとそればっかりやってしまう」。
あの様に崩したくて始めた太極拳ですので同じ気持ちです。しかし我々の学ぶ太極拳がもし料理と似ているならば、素材だけに拘っていてもそれは違うのでしょうね。料理や食事をする環境、調理器具や器、調理する人や食す人の体調、その日の天候や湿度、、、分類要素はたくさんありますが感覚を主にするとただ一つ「違和感」が鍵になる。すぐに全てを同時に見れると良いのでしょうが今の私は一つひとつを感じながら吟味しています。対練でも崩れされるのと動かされるのがよくわかりません。一体何の原理なのか?
多分今まで学んだ事の中にひっそりと存在し、見つけれられるのを待っている気がします。
靴の中の小石は初めからあったのに気がつかないのは自分のせいですね。太郎冠者様、ありがとうございました。
5. Posted by 平田玄琢 2025年07月28日 07:37
自分の人生を振り返って見た時、幾つもの転機があり選択肢があったことがわかります。若い頃からずっと今まで、興味を持ったものや面白そうなものに惹かれて、この道と思い行ったが行き止まりがあったり迷ってしまったりして他の道へと進み、結局大きな回り道となってしまったものが多くあります。
しかし、誰かに教えてもらった近道より回り道の方が、より面白く分かることも多かったと思います。そしてその道の先駆者は、もっと大きな回り道をして苦しいけれども、もっと楽しかったのだろうと想像できます。
時間が許されれば、試行錯誤の回り道は良い結果を産むと思います。
私の雅楽の師匠は世界中で演奏してきましたが、齢70を過ぎたあたりで、私の演奏方法は間違っていたといって、今まで教えた弟子たちに演奏方法を変えるよう指示しました。自分もその方がしっくりくるなと思いました。
また、ある宗教の地域の幹部をしている知人が、アメリカの宗教学者の著書を読み、全く違う宗教に変更したため、教えを受けた周りの人は困惑してしまったことがありました。その方の祭詞は私が奏上しましたが、親族も違和感がなくなっていました。たぶん生前の教えがあったのでしょう。
早い時点での正解で終わるのは非常にもったいなく、追い求める道の回り道に年齢は関係ないのかもしれません。
しかし、誰かに教えてもらった近道より回り道の方が、より面白く分かることも多かったと思います。そしてその道の先駆者は、もっと大きな回り道をして苦しいけれども、もっと楽しかったのだろうと想像できます。
時間が許されれば、試行錯誤の回り道は良い結果を産むと思います。
私の雅楽の師匠は世界中で演奏してきましたが、齢70を過ぎたあたりで、私の演奏方法は間違っていたといって、今まで教えた弟子たちに演奏方法を変えるよう指示しました。自分もその方がしっくりくるなと思いました。
また、ある宗教の地域の幹部をしている知人が、アメリカの宗教学者の著書を読み、全く違う宗教に変更したため、教えを受けた周りの人は困惑してしまったことがありました。その方の祭詞は私が奏上しましたが、親族も違和感がなくなっていました。たぶん生前の教えがあったのでしょう。
早い時点での正解で終わるのは非常にもったいなく、追い求める道の回り道に年齢は関係ないのかもしれません。
6. Posted by 西川敦玄 2025年07月28日 18:20
太郎冠者さんブログ記事ありがとうございます。正解不正解を求めてしまう。これは、ここに提起されているように問題解決の助けにならないように思います。そして、この論調の延長に学校教育やテストではかられることが、悪い。そのような反省の弁が見て取れます。ある一面そのようなこともあるでしょう。しかし、一方では学校教育試験勉強ということも問題に対する、真剣な取り組みの場であるということもあるのではないでしょうか。私的には、教育現場よりも社会で失敗しないために正解不正解のマニュアル的な考え方が求められるようにも思います。一度、学生時代の問題課題への取り組みを思い返しても良いように思います。色々な課題に取り組む中で、この問題が解けないときに、別の問題、教科でやったあの発想を使ってみる、などのひらめき。色々な体験学びを得ていたことに、目をむけることが出来るのではないでしょうか。あの頃は必死に理解しようと取り組んでいたと思います。私たちは大人になり、上手に生きようとして、収入のための資格をえるための学習、その場をやり過ごすための正解不正解の追求のほうが身についてしまっているのでは。そんなことを思いました。
7. Posted by 阿部玄明 2025年07月28日 23:43
子供は遊びの達人であり、大人が考え付かないような発想をする。
その子供でさえも学校や塾に通い出すと型にはまった思考に落ち着いていく。
社会から要求された模範解答を示さないと学校からの成績評価が低くなったり、親から叱られたりするためです。罰則です。
紙の上の選択肢から正解を選んでさえ居れば良いという、精神的安定を求める姿勢はこうして身に付いてしまう。
分かりやすいですが、一方で安易に自分を制限してしまうのです。
五十音の一文字だけを覚えて満足してしまうようなものであり、窮地の際には応用ができず役立ちません。
しかし、太極拳はそういうものではない。
様々な歩法と基本功、套路が示しているように法則の編み物のようです。
別の言い方をすれば、方程式を理解し使いこなすことです。
状況が変わっても、毎回方程式に条件値を入力しなおし新しく答えを得ることができる。一旦、それができればより複雑な方程式も大きな苦労をせずに扱うことができる。これは単純に正解を記憶する事とは大きな違いです。
より高度な武術の理解に向けて、法則の理解を選択し強化させていこうと思います
その子供でさえも学校や塾に通い出すと型にはまった思考に落ち着いていく。
社会から要求された模範解答を示さないと学校からの成績評価が低くなったり、親から叱られたりするためです。罰則です。
紙の上の選択肢から正解を選んでさえ居れば良いという、精神的安定を求める姿勢はこうして身に付いてしまう。
分かりやすいですが、一方で安易に自分を制限してしまうのです。
五十音の一文字だけを覚えて満足してしまうようなものであり、窮地の際には応用ができず役立ちません。
しかし、太極拳はそういうものではない。
様々な歩法と基本功、套路が示しているように法則の編み物のようです。
別の言い方をすれば、方程式を理解し使いこなすことです。
状況が変わっても、毎回方程式に条件値を入力しなおし新しく答えを得ることができる。一旦、それができればより複雑な方程式も大きな苦労をせずに扱うことができる。これは単純に正解を記憶する事とは大きな違いです。
より高度な武術の理解に向けて、法則の理解を選択し強化させていこうと思います
8. Posted by ユキ 2025年07月29日 17:55
『稽古は、“問題“ではないがゆえに正解も不正解もない』
『暗号として存在するそれは、暗号によって解かれた正解を得るための暗号ではなく、暗号を解けるアタマを養っている』
『宗師が示される動きもまた、月を指す指の一つに過ぎない』
・・今回の記事で、これらのことが再確認できました。
「問題」は、常に自分から生じます。
ところが、人はしばしば直面した問題からの現実逃避のために自ら新たに問題を創ることがあります。「(創り出した)この問題に取り組んでいる間は、自分は逃げずに一生懸命解決しようとしているんだ」と。
極端な例えかもしれませんが、試験勉強をしなければならない切羽詰まったときに、なぜか普段しない片付けを始めてしまうことと似ているかもしれません。
「問題」も「答え」も捨て続けて、捨て続けて、
ようやく「理」がみえる。
最初から示されている「理」を感じること。これが「正解・不正解」の沼に陥らない方法の一つかと思います。
『暗号として存在するそれは、暗号によって解かれた正解を得るための暗号ではなく、暗号を解けるアタマを養っている』
『宗師が示される動きもまた、月を指す指の一つに過ぎない』
・・今回の記事で、これらのことが再確認できました。
「問題」は、常に自分から生じます。
ところが、人はしばしば直面した問題からの現実逃避のために自ら新たに問題を創ることがあります。「(創り出した)この問題に取り組んでいる間は、自分は逃げずに一生懸命解決しようとしているんだ」と。
極端な例えかもしれませんが、試験勉強をしなければならない切羽詰まったときに、なぜか普段しない片付けを始めてしまうことと似ているかもしれません。
「問題」も「答え」も捨て続けて、捨て続けて、
ようやく「理」がみえる。
最初から示されている「理」を感じること。これが「正解・不正解」の沼に陥らない方法の一つかと思います。
9. Posted by 清水龍玄 2025年07月29日 23:23
あれが正解、これが正解と正解を求め、固執している状態は、自分の頭の中で考えているだけで、まるで頭が居着いているかのように感じられます。
パッと見でこれが正解かと思えたものは、表面的で安易であることが多いと思います。
実際には、決まりきった正解などではなく、自分を見返しながら行動する中で、新しい発見や軌道修正、変化や進展が生じる方が、発展性があるように思われます。
パッと見でこれが正解かと思えたものは、表面的で安易であることが多いと思います。
実際には、決まりきった正解などではなく、自分を見返しながら行動する中で、新しい発見や軌道修正、変化や進展が生じる方が、発展性があるように思われます。
10. Posted by 川山継玄 2025年07月29日 23:25
私には、「何が何でも」という我武者羅さが足りない!といつも思います。
目的がゴールになってしまい、その先に見えるものが視野に入っていないからだと思っていましたが、その先に見えるものを、予測したり、こうなったらいいと、自分が経験したことの中に収めていたからだと気付きました。
要するに、安全圏にいて、正解と思われる道を歩いていたのだと。
まず枠を外して、あきらめずに実際にやってみる。一つ一つを肌で感じ、空気やエネルギーに触れる事で、自分を観察して変化を楽しむ。様々な人や環境に触れる事で、考え方の幅を広げ、豊かな感性を育む。
そしてそれを途切れさせることなく続けていく。
太極拳によって得られるものは、幅広く、奥行きがあり、全てを内包してしまうような懐の深さがあり、豊かさに満ち溢れています。
その中では、正解も不正解も無く、常に太極マークのように、陰陽虚実が循環しているのだと思います。
視界がぐーんと広がるような生き方をしていきたいです。
太郎冠者さん、素晴らしい記事をありがとうございます。
目的がゴールになってしまい、その先に見えるものが視野に入っていないからだと思っていましたが、その先に見えるものを、予測したり、こうなったらいいと、自分が経験したことの中に収めていたからだと気付きました。
要するに、安全圏にいて、正解と思われる道を歩いていたのだと。
まず枠を外して、あきらめずに実際にやってみる。一つ一つを肌で感じ、空気やエネルギーに触れる事で、自分を観察して変化を楽しむ。様々な人や環境に触れる事で、考え方の幅を広げ、豊かな感性を育む。
そしてそれを途切れさせることなく続けていく。
太極拳によって得られるものは、幅広く、奥行きがあり、全てを内包してしまうような懐の深さがあり、豊かさに満ち溢れています。
その中では、正解も不正解も無く、常に太極マークのように、陰陽虚実が循環しているのだと思います。
視界がぐーんと広がるような生き方をしていきたいです。
太郎冠者さん、素晴らしい記事をありがとうございます。
11. Posted by マガサス 2025年07月30日 01:17
稽古も、人生も、人との関わりも、物との関わりも、瞬間瞬間の積み重ねから成り立っているのだとしみじみ感じます。
正解、不正解はありませんが、どれだけ誠実に真摯に向き合っているか、自分の軸をきちんと正しているか、は自分自身で責任を持って省みる必要があると思います。
経験はした方が良い。
上手くいこうが失敗しようが、確実に自分の幅を広げてくれる。
考え方や取り組み方を豊かにしてくれる。
想像だけでは何も始まらない。
人生に失敗はつきものだし、それこそが自分を大きくしてくれる大切な経験です。
情熱に任せて何も考えずに走り出し、沢山の後悔や失敗や惨めさを味わったけれど、その経験は自分のとってかけがえのない財産になったと思っています。
問われ続けている在り方を探しながら、しっかりと「自分の靴の中の小石」を取り除く作業に取り組みたいと思います。
太郎冠者さん、今回も記事をありがとうございました。
正解、不正解はありませんが、どれだけ誠実に真摯に向き合っているか、自分の軸をきちんと正しているか、は自分自身で責任を持って省みる必要があると思います。
経験はした方が良い。
上手くいこうが失敗しようが、確実に自分の幅を広げてくれる。
考え方や取り組み方を豊かにしてくれる。
想像だけでは何も始まらない。
人生に失敗はつきものだし、それこそが自分を大きくしてくれる大切な経験です。
情熱に任せて何も考えずに走り出し、沢山の後悔や失敗や惨めさを味わったけれど、その経験は自分のとってかけがえのない財産になったと思っています。
問われ続けている在り方を探しながら、しっかりと「自分の靴の中の小石」を取り除く作業に取り組みたいと思います。
太郎冠者さん、今回も記事をありがとうございました。
12. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 20:55
☆マルコビッチさん
極端な言い方をすれば、太極拳の真理を追究しても得するわけでもなければ、幸せが訪れるというわけでもないのかもしれません。
それでもこの武術に魅せられ、誰に頼まれるわけでもないのに連日連夜膨大な時間をかけて稽古に取り組み、そこで得られた充実感に生きる歓びが詰まっている…そんな不思議な感覚がします。
問題を見て見ぬふりをしていても人生の時間は過ぎていくものですが、太極拳を稽古していく上で避けては通れないのだと思います。
だからこそ、やりがいを感じるのかもしれません。
極端な言い方をすれば、太極拳の真理を追究しても得するわけでもなければ、幸せが訪れるというわけでもないのかもしれません。
それでもこの武術に魅せられ、誰に頼まれるわけでもないのに連日連夜膨大な時間をかけて稽古に取り組み、そこで得られた充実感に生きる歓びが詰まっている…そんな不思議な感覚がします。
問題を見て見ぬふりをしていても人生の時間は過ぎていくものですが、太極拳を稽古していく上で避けては通れないのだと思います。
だからこそ、やりがいを感じるのかもしれません。
13. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 21:00
☆川島玄峰さん
太極武藝館に入門した門人なら誰しも、そこで示していただいた太極拳の凄さに感動を覚え、それが稽古を続ける原動力になっているのではないかと思います。
かくいう私も、はじめて見学させて頂いた時の感動は今も忘れておりません。武術の武の字もかじったことのなかった若造であったものの、本当に凄いものに巡り合えた!と強く実感したものです。
師父や宗師に示して頂いた太極拳には遠く及びませんが、それでもコツコツと続けることで自分に変化が生じてくることは、確かな喜びとして感じられます。
また、志が同じ門人の皆様と一緒に勉強出来ることは、これもまた私にとって大きな喜びです。
太極武藝館に入門した門人なら誰しも、そこで示していただいた太極拳の凄さに感動を覚え、それが稽古を続ける原動力になっているのではないかと思います。
かくいう私も、はじめて見学させて頂いた時の感動は今も忘れておりません。武術の武の字もかじったことのなかった若造であったものの、本当に凄いものに巡り合えた!と強く実感したものです。
師父や宗師に示して頂いた太極拳には遠く及びませんが、それでもコツコツと続けることで自分に変化が生じてくることは、確かな喜びとして感じられます。
また、志が同じ門人の皆様と一緒に勉強出来ることは、これもまた私にとって大きな喜びです。
14. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 21:05
☆松久宗玄さん
宝くじを買って大金が当たる、急にとてつもない大きな力を得る…そのように劇的な変化を望む人は多いかと思いますが、実際のところ自分が変わらないことには大きな恩寵があっても宝の持ち腐れであり、最後には自分にとって害になってしまうような気がします。
自分の在り方を見つめ、問題に少しずつ向かい合い努力をしていくことが、道を進んでいく上で本当に必要なことであり、また確実な方法のような気がします。
>実は自分が向き合いたくない
それと向き合えることが真の意味で勇気と言えるもので、それは実際には些細な事なのかもしれません。
それを避けていては、進んでいけないですね。
私も、問題を避けずにしっかり向かい合って精進していきたいと思います。
宝くじを買って大金が当たる、急にとてつもない大きな力を得る…そのように劇的な変化を望む人は多いかと思いますが、実際のところ自分が変わらないことには大きな恩寵があっても宝の持ち腐れであり、最後には自分にとって害になってしまうような気がします。
自分の在り方を見つめ、問題に少しずつ向かい合い努力をしていくことが、道を進んでいく上で本当に必要なことであり、また確実な方法のような気がします。
>実は自分が向き合いたくない
それと向き合えることが真の意味で勇気と言えるもので、それは実際には些細な事なのかもしれません。
それを避けていては、進んでいけないですね。
私も、問題を避けずにしっかり向かい合って精進していきたいと思います。
15. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 21:19
☆ハイネケンさん
私はこれまで、謎を解こう、問題を解こうと思って稽古に取り組んできていたのですが、ここ最近になってその感覚がだいぶ変化しているのを感じています。
謎がないというと嘘になるのですが、目の前にとにかく「やるか、やらないか」という選択肢が展開されているような状況に感じられます。
やれば分かるし、やらなければ分からない、非常に単純な話です。そして、やることを選べばするべきことがどんどん目の前に現れ、それに尻込みするとやらない方を選びたくなる…そして当然それでは分からないまま終わってしまいます。
やることを選べば途端に道が開け、壁や段差だと思っていたものがフラットな道のりの途中になり、ただし途方もない長い道が待っているように感じられます。
途方に暮れる感じはするのですが、進むのは面白そうなのでこのまま行こう、そう思います。
私はこれまで、謎を解こう、問題を解こうと思って稽古に取り組んできていたのですが、ここ最近になってその感覚がだいぶ変化しているのを感じています。
謎がないというと嘘になるのですが、目の前にとにかく「やるか、やらないか」という選択肢が展開されているような状況に感じられます。
やれば分かるし、やらなければ分からない、非常に単純な話です。そして、やることを選べばするべきことがどんどん目の前に現れ、それに尻込みするとやらない方を選びたくなる…そして当然それでは分からないまま終わってしまいます。
やることを選べば途端に道が開け、壁や段差だと思っていたものがフラットな道のりの途中になり、ただし途方もない長い道が待っているように感じられます。
途方に暮れる感じはするのですが、進むのは面白そうなのでこのまま行こう、そう思います。
16. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 21:25
☆平田玄琢さん
学生時代のブラスバンドでしかないのですが、私も楽器を演奏している時には「上達しよう、凄い演奏をしよう」などと考えたことは一度もなく、ただ奏でた音と調和し、それが世界にどのように響いているかをずっと合わせて聞き続けていたい、そのような気持ちで演奏をしていました。
それには始まりもなければ終わりもなく、ただ奏でられている瞬間だけがそこにあるという感覚でした。
そうはなりませんでしたが、もし別の人生があるのなら今も楽器を演奏し続けている自分がいるのかもしれません。
何より、もしそれを今やりたければやるという選択も出来ますし、そのようにして自分を豊かにしていく事は、いまの人生を生きる上で全く無駄なことにはならないと思います。
回り道というのかはわかりませんが、そうして色々なことを味わうことで自分という人間がどんどん深くなっていくものなのかもしれませんね。
学生時代のブラスバンドでしかないのですが、私も楽器を演奏している時には「上達しよう、凄い演奏をしよう」などと考えたことは一度もなく、ただ奏でた音と調和し、それが世界にどのように響いているかをずっと合わせて聞き続けていたい、そのような気持ちで演奏をしていました。
それには始まりもなければ終わりもなく、ただ奏でられている瞬間だけがそこにあるという感覚でした。
そうはなりませんでしたが、もし別の人生があるのなら今も楽器を演奏し続けている自分がいるのかもしれません。
何より、もしそれを今やりたければやるという選択も出来ますし、そのようにして自分を豊かにしていく事は、いまの人生を生きる上で全く無駄なことにはならないと思います。
回り道というのかはわかりませんが、そうして色々なことを味わうことで自分という人間がどんどん深くなっていくものなのかもしれませんね。
17. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 21:46
☆西川敦玄さん
仰る通り、学校の教育現場も画一的な試験による競争だけではないというのは理解しているつもりです。そこで学んだことが後の人生で無駄になっているかというとそんなことはなく、むしろそれらの基礎の積み重ねがあった上でこの社会は成立していて、ここまで発展してきたのだと思います。
玄琢さんの返信にも書かせていただきましたが、私は学生時代に部活動でブラスバンドをやっていて、学習の一環で、トランペット奏者のウィントン・マルサリスのコンサートに行き、そこでとてつもない衝撃を受けました。それはまるでトランペットでお喋りをするように、演奏で私たちに語り掛けてくるかのようでした。
ブラスバンド部では、合奏コンクールで上位入賞を目標としてずっと練習をしていたのですが、音楽はもっと自由でとてつもない力を持っていると教えてくれるような演奏として私には感じられ、自分がしたい演奏のイメージががらりと変わってしまったものです。
何が良い、何が悪いと判断を下すつもり…というよりそういう興味が自分には特にありませんが、ウィントン・マルサリスのその演奏と、最後に観客席を歩いてきてくれてタッチをしてくれたあの手の柔らかさは、いまだに私の記憶に残っているのは確かです。
仰る通り、学校の教育現場も画一的な試験による競争だけではないというのは理解しているつもりです。そこで学んだことが後の人生で無駄になっているかというとそんなことはなく、むしろそれらの基礎の積み重ねがあった上でこの社会は成立していて、ここまで発展してきたのだと思います。
玄琢さんの返信にも書かせていただきましたが、私は学生時代に部活動でブラスバンドをやっていて、学習の一環で、トランペット奏者のウィントン・マルサリスのコンサートに行き、そこでとてつもない衝撃を受けました。それはまるでトランペットでお喋りをするように、演奏で私たちに語り掛けてくるかのようでした。
ブラスバンド部では、合奏コンクールで上位入賞を目標としてずっと練習をしていたのですが、音楽はもっと自由でとてつもない力を持っていると教えてくれるような演奏として私には感じられ、自分がしたい演奏のイメージががらりと変わってしまったものです。
何が良い、何が悪いと判断を下すつもり…というよりそういう興味が自分には特にありませんが、ウィントン・マルサリスのその演奏と、最後に観客席を歩いてきてくれてタッチをしてくれたあの手の柔らかさは、いまだに私の記憶に残っているのは確かです。
18. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 21:57
☆阿部玄明さん
我々が学生時代に試験の成績に一喜一憂していたその年代に、戦時下の空を戦闘機で飛んでいた…と生前の祖父によく話を聞いたものでした。
いい成績を出せばほめてもらえる、そんな環境も平和があってのものだと、祖父は言いたかったのだろうと今の私には感じられます。
祖父は私に何かをしろ、立派になれとは一言も言いませんでしたが、私が太極拳を始めたと伝えると、ただ自分が決めたことだけはやり抜くように、と言っていました。
命がけの環境や殺伐とした気持ちで太極拳の稽古をする必要はないかとも思うのですが、そのような時代の背景があり、また戦争がなくならないこの世界情勢があり、危険な事件も身近に起こりうるという気持ちで武術に臨むことは、どうしても避けては通れないことなのだと感じます。
その上で、放鬆された状態で心にもゆとりがある中で生きていく、太極拳の稽古にはやるべきことが本当にたくさんあるのだと思います。
我々が学生時代に試験の成績に一喜一憂していたその年代に、戦時下の空を戦闘機で飛んでいた…と生前の祖父によく話を聞いたものでした。
いい成績を出せばほめてもらえる、そんな環境も平和があってのものだと、祖父は言いたかったのだろうと今の私には感じられます。
祖父は私に何かをしろ、立派になれとは一言も言いませんでしたが、私が太極拳を始めたと伝えると、ただ自分が決めたことだけはやり抜くように、と言っていました。
命がけの環境や殺伐とした気持ちで太極拳の稽古をする必要はないかとも思うのですが、そのような時代の背景があり、また戦争がなくならないこの世界情勢があり、危険な事件も身近に起こりうるという気持ちで武術に臨むことは、どうしても避けては通れないことなのだと感じます。
その上で、放鬆された状態で心にもゆとりがある中で生きていく、太極拳の稽古にはやるべきことが本当にたくさんあるのだと思います。
19. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 22:14
☆ユキさん
正解・不正解を求めてしまう理由として、人間は無力な幼少期に自分を保護してくれた大人(一般的には親)の教えや影響から脱しきれていないという面があるのかもと感じます。
親の教えを全て疑えという事ではなく、自分以外の判断の尺度に知らずに影響されているという事は本当の意味で自立した人間になっているとは言えず、そこから脱却しなければ見えてこないものがある、という意味に感じられます。
親、その親、先祖代々の人々…それらの方たちがあって今の自分があるのですが、その上で自分は彼らとは違う、ひとりの人間でもあります。
そこを自覚し生きていかない事には、私が取り組むべき人生、太極拳は見えてこないのかも…というのが私にとっての近々の課題です。
捨て去るというと違う気がするのですが、そこを乗り越えなければ、見えないのかもしれません。
…それが試験の前の部屋の掃除でないことを祈るばかりです。
正解・不正解を求めてしまう理由として、人間は無力な幼少期に自分を保護してくれた大人(一般的には親)の教えや影響から脱しきれていないという面があるのかもと感じます。
親の教えを全て疑えという事ではなく、自分以外の判断の尺度に知らずに影響されているという事は本当の意味で自立した人間になっているとは言えず、そこから脱却しなければ見えてこないものがある、という意味に感じられます。
親、その親、先祖代々の人々…それらの方たちがあって今の自分があるのですが、その上で自分は彼らとは違う、ひとりの人間でもあります。
そこを自覚し生きていかない事には、私が取り組むべき人生、太極拳は見えてこないのかも…というのが私にとっての近々の課題です。
捨て去るというと違う気がするのですが、そこを乗り越えなければ、見えないのかもしれません。
…それが試験の前の部屋の掃除でないことを祈るばかりです。
20. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 22:16
☆清水龍玄さん
言ってみれば正解かどうかなんて、後から振り返ってみなければ分からないものなのかもしれません。
稽古の時に正解を求めてしまうというのは、実はその瞬間に入り込めていない時で、周りからの見え方であったり、いまそこではない過去や未来に目を向けてしまっていて焦点がぼやけている状態なのかもしれません。
いま、ここにある瞬間にしっかりと取り組んでいくには、正解を探していては手遅れなのかもしれませんね。
言ってみれば正解かどうかなんて、後から振り返ってみなければ分からないものなのかもしれません。
稽古の時に正解を求めてしまうというのは、実はその瞬間に入り込めていない時で、周りからの見え方であったり、いまそこではない過去や未来に目を向けてしまっていて焦点がぼやけている状態なのかもしれません。
いま、ここにある瞬間にしっかりと取り組んでいくには、正解を探していては手遅れなのかもしれませんね。
21. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 22:21
☆川山継玄さん
些細な選択は生活の中でも数限りなくありますが、その積み重ねが思っていたよりも遠くに自分を連れて行ってくれることもあれば、毎日が同じことの繰り返しに感じられるという事もあります。
無秩序に突っ走るのも必要な時もあれば、交通ルールに従って丁寧に走るほうが目的に早くたどり着けるということも、現実には起こり得るものですよね。
どちらがいいのかは、本当にその時次第で、一概にこうだと言えるものはないのかもしれません。
正解を求めるという事は、必ず「こうだ」と言えるもの、つまり心理的な安心を求めている時なのかもしれませんね。
なにものにも囚われない中でそれを楽しめるような心で生きていきたいですね。
些細な選択は生活の中でも数限りなくありますが、その積み重ねが思っていたよりも遠くに自分を連れて行ってくれることもあれば、毎日が同じことの繰り返しに感じられるという事もあります。
無秩序に突っ走るのも必要な時もあれば、交通ルールに従って丁寧に走るほうが目的に早くたどり着けるということも、現実には起こり得るものですよね。
どちらがいいのかは、本当にその時次第で、一概にこうだと言えるものはないのかもしれません。
正解を求めるという事は、必ず「こうだ」と言えるもの、つまり心理的な安心を求めている時なのかもしれませんね。
なにものにも囚われない中でそれを楽しめるような心で生きていきたいですね。
22. Posted by 太郎冠者 2025年07月31日 22:36
☆マガサスさん
人間は、なんとなく流されて眠ったように生きていく事も、何かに気づかされて目を見開いて、真実を見るために生きていくこともどちらでも出来るような自由さがあるような気がします。
どちらが良いという事ではなく、自分がどのように生きていたいのか。それさえも選べるのだと思います。
生活の中で疑問を感じ、こうしていこうと思うと、途端に人生の中で変化の兆しが生じ、それは自分をどんどんまきこんでいくような…太極拳の稽古をしていると、そのような事が即座に起こるようになった気がします。
その流れの中で自分の目標にしている事を明確にし、そちらを選ぶような選択を心掛ける事で起きてくる事は非常に刺激的ですし、まさに自分が取り組むべきことが目の前に現れてくるように感じます。
私も色々なことを楽しみながら、どのような景色が見えるのか、しっかりと歩んでいきたいと思っています。
人間は、なんとなく流されて眠ったように生きていく事も、何かに気づかされて目を見開いて、真実を見るために生きていくこともどちらでも出来るような自由さがあるような気がします。
どちらが良いという事ではなく、自分がどのように生きていたいのか。それさえも選べるのだと思います。
生活の中で疑問を感じ、こうしていこうと思うと、途端に人生の中で変化の兆しが生じ、それは自分をどんどんまきこんでいくような…太極拳の稽古をしていると、そのような事が即座に起こるようになった気がします。
その流れの中で自分の目標にしている事を明確にし、そちらを選ぶような選択を心掛ける事で起きてくる事は非常に刺激的ですし、まさに自分が取り組むべきことが目の前に現れてくるように感じます。
私も色々なことを楽しみながら、どのような景色が見えるのか、しっかりと歩んでいきたいと思っています。
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