2025年07月11日

練拳Diary #87「トマト」

                 日本玄門太極宗師   円 山 玄 花


白い平らなお皿の上に、この季節ならではのミニトマトがふたつ、のっている。
よく熟れた、割としっかりした皮がパンと張った大振りのミニトマトだ。
ミニトマトのヘタは取ってある。
テーブルにはフォークとナイフ。

この際、他に目玉焼きがのっているとか、グリーンリーフのサラダが添えられていることなどはどうでも良く、ミニトマトに集中してみよう。

軽く水滴のついたミニトマトは、お皿の上でよく滑る。
フォークで抑え、ナイフを入れるその時。

ミニトマトのお尻の方を下にすれば、ツルツルと捉えにくく、不安定だ。
ミニトマトのヘタの方を下にすれば、突然それは安定する。

────────これが太極拳だ。


・・勘違いしないでいただきたいのは、
「ミニトマトを安定させてナイフを入れること」が正解なのでもなく、
「不安定なトマトに苦労せずナイフを入れらること」が正解なわけでもないということ。

よく考えて欲しい。
正解を探していては、太極拳は見つからない。
正解を探す者は、正解を探し、見つけて、終わる。

どうでも良いことに気を取られず、目を凝らし、耳を澄ませてほしい。
なぞなぞは、正解を見たらなぞなぞではなくなる。
太極拳を解くことは、正解を探すことではない。
だからこそ、固く四角いアタマでは分からないと言われる。

言われたことだけやっていれば良い、ダメと言われたことはやらなければ良い、の良い子ちゃんの優等生気取りでは、そこにあるものが見えないし音も聞こえない。視野が狭いにも程があり、そもそも見ている次元が違うとさえ思える。何を隠そう、私自身の経験である。

潜在意識が素晴らしく、顕在意識はダメなのか。
意識的であることが良くて、無意識がダメなのか。
・・毎日毎日、そんなことをグルグルと考え続けていた小学生の頃から、早くも三十数年。
見えてきた一つのことは、太極拳はそこに在る、ということ。
満月でも新月でも、昼でも夜でも、曇りでも雨でも、そこに月は在るように。

                                  (了)





xuanhua at 21:30コメント(12)練拳 Diary | *#81〜#90 

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2025年07月14日 10:38
すぐに「太極拳とはこの様にトルものなのか!」と思いましたが、こう思ったことがまさに「正解を探している」のだと笑ってしまいました。本当笑えません。トマトを切りたいのであれば「この様」に。トマトを転がしたいのであれば「あの様」に。方法は時に変化するのに一刻の方法を「答え」だと思ってしまいます。方便の妙か?とも思いましたが違います。稽古の度、宗師に毎回異なるであろう私の心身状態を改善して頂くのですが、楽しさと共に不思議さも味わいます。宗師はなぜ私達の状態が分かるのだろう?読中、軽く水滴のついたトマト、フォーク、ナイフに向き合い自由に処す様子がイメージで浮かびました。この事自体、稽古の時と同じ事が起こっている気がします。分からない事を否定せず向き合いたいと思います。瑞々しい投稿を頂きありがとうございました。
2. Posted by 松久宗玄   2025年07月14日 20:11
其処に在るものを、在るがままに捉える、
そもそも在るものとは何なのでしょうか?

海に住む魚は、本当の意味で月を見た事があるのでしょうか、
そもそも魚眼で月の輪郭をを捉える事が出来るのでしょうか、
確かに・・・思考の連鎖は割とどうでも良い方向に流れがちです・・・

月を在るがままに認識できるのは、
魚が進化して陸に上がり、空を見上げて始めて、
其と理解できるもののようにも思います。

その陸から見た月も、
人類が宇宙に至り、月を様々な角度から俯瞰できる視点からすれば、
実相を捉えきれていない、となるのかもしれません。

見ることの次元を上げられたと感じても、
其れは終わりのない梯子を登っている途中なのかもしれません。

トマトから月を捉える試みも、終わりは無いものと考えた方が、
変化を楽しめる生活となり、太極拳の気付きも増えそうだと感じました。
3. Posted by マルコビッチ   2025年07月14日 22:32
この記事を読む前から、タイトルを目にしただけで何故か構えている私がいました。
そして、皮がパンと張った・・で”張り”という言葉に反応し、もう少し読み進めて、安定と不安定・・うーん、あれ??
まさしく正しいことを探ろうとしているのです。
正解を求め、見つけたと思ったらもうその先はなく、意味のない安心があるだけなのにですね。
稽古をしている中で、これだと思っても、それはほんの片鱗でまだその先が大きくベールで隠されている、そういうことを何回も感じ経験しているのに、正解を欲しがる自分がいます。
その反面、底なし沼のように先が見えない太極拳の中で模索していることが快感に感じることもあります。
『太極拳はそこに在る』・・頭の中を白紙にしたいです。

この記事は決して長い文章ではなく、内容もとてもシンプルなのに、ここに詰まっていることはとてつもなく大きくて広いと感じます。
4. Posted by 川島玄峰   2025年07月15日 23:09
宗師はトマト一つの扱いも太極拳の本質であると捉えている。

「考え方を変える」という事が全ての始まりなのではと気付かされました。
でも考え方は考えて変えれるものではないと思います。太極拳の在り方を知り、自らの在り方を知り照らし合わせ、観照し修正し気づきを得り変容する。そのような稽古を繰り返せば、もしかしたら変わる事ができるのかもしれません。

その可能性にかけて色々やる事がたくさんありますが、稽古の仕方や継続の重要性をあらためて認識させて頂きました。

ありがとうございました。
5. Posted by ひこな   2025年07月16日 01:44
文章を拝読させていただく中で、トマトも月もその情景が浮かんで不思議な気持ちになりました。

トマトが何をしてどうなるにせよ、月と自分の間に何があろうと、それはそこに在るのであって、何を目的とするのか、みえるものに重きを置くのか、自分の意図次第と感じられました。

正解の中の正しさは、その字の如く四角く線引きされたものであって、安定と安心を与えてくれますが、本当の縁取りと中身は省略されてしまうものでもあるのだなと思えました。

そこに在る、いつも在る。

気づけないのは自分の思いこみによる色眼鏡のせい。

在り方を整えたいと思います。
6. Posted by 阿部玄明   2025年07月16日 02:26
夏らしい赤いトマトが想起される導入から始まり、起承転結が無理なく収まって、まるで架式だけで動く套路のように洗練された記事です。一読して自分に足りないものが直ぐ伝わりました。

今、この瞬間でトマトはどうしたがっているか?トマトを転がすにはどうすれば良いだろうか?という無垢な好奇心が無いと探求が始まらないです。自分は料理を前にしてそのような考えを持ったことがなく、普通に食べて片付けることだけです。普通の人は常識という正解に拘り、そこから外れる事を恐れます。そして視野がどんどん狭くなる。

トマトに限らずもっといろんなものに触れて動かして見て、子供の様に会話をしないと法則の理解が得られません。人間に触れて崩すにはどうすれば良いか?という武術の命題と同じでしょう。常識では見えないが身の周りに太極拳が沢山ある。それが解っていないと思い至りました。
ありがとうございました。
7. Posted by 平田玄琢   2025年07月16日 11:38
私は18歳の頃から白衣白袴白足袋を着装し、雪駄を履き雨天は下駄というのが常装でした。
それまで和装などしたことはなく、神社での仕事や日常生活の中で袖や袴を頻繁に引っ掛けて破ってしまいました。もちろん自分で縫うのですが、縫い代がなくなるほど何回も縫いました。まさに貧乏神主といったいでたちです。
頻繁に破いたのは、衣装がどこまであるかを見極めず、洋服のような立居振る舞いをしたせいです。和装の動きの大きさを意識していなかったからです。
太極拳を習ってしばらくするとほとんど何かに引っ掛けて破ることもなくなりました。
そして、神社作法の中の形だけで失伝したものの意味がわかってきました。
私が携わる伝統文化は、神社神道と雅楽ですが、あれもこれも太極拳で理解できるものへと変化しました。

装束の着方、笏の持ち方、神前での歩き方、正座、三方の持ち方、楽器の持ち方、演奏の仕方、私にとって太極拳は、伝統文化の所作の中にあったり、日常生活の何気ない作法や動きの中、そして、自身の骨格や皮膚の外側への意識。他の人との接し方にもあるように思えます。
8. Posted by 西川敦玄   2025年07月16日 20:53
ミニトマトにナイフ。やってみました。記事を思い浮かべながらホウホウと思ってしまいました。
そして、やらかしたことに気付きました。
一つ、ホウホウとなにか納得しそうになってしまったこと。
一つ、白い皿の目玉焼きやグリーンサラダはすべて置いておいてまな板の上でトマトと格闘したこと。
一つ、正解を見つけないことを、見つけたように思ったこと。

トマトの爽やかな酸味があとに残りました。
感性に敏感に、生半可な納得や理論理屈を超えて行きたいと思いました。
9. Posted by 太郎冠者   2025年07月16日 22:23
お皿に乗ったコロコロまるいミニトマト…
シュークリームにたっぷりかかったパウダーシュガー…
ひとくちかじるとポロポロこぼれる焼き菓子…

私の中の「食べるの苦手な三巨頭」とでもいえるモノたちです…。
しかしふと思い返してみると、このあいだ食べたお弁当に入っていたミニトマトはお箸で難なくつまめていました。最後にコロコロ逃げ出したのはいつのことだったのでしょうか。
また、もうひとつ思い当たりました。

ナイフとフォークでミニトマトを食べたことがあっただろうか、と。
試してみようと思ったら、今日はミニトマトがありません。今度試してみようと思います。

そしてもうひとつ思ったのが、「これがミニトマトの正しい食べ方だ!」といわない宗師に指導して頂けるのが本当にありがたいことだ、ということでした。
10. Posted by 清水龍玄   2025年07月16日 23:30
正解を探す・・・そもそも正解とは何なのだろうか。
そう考えると、正解とは、少なくとも自分が正解と思えるものとは、自分の考えられる範囲内での、自分の望むもの、こうであると思えるもののような気がします。
そう考えると、そこに発展性があるのか疑問に思えてきます。
それでも、正解と思えることには、根拠もなくホッとする気持ちが湧くこともありますが、それは、受け取るという事とは方向が違う、とも思えてきます
11. Posted by 川山継玄   2025年07月16日 23:35
随分と長い事、正解を求め、間違いを恐れ、正しいと言われたことだけをしたい…と思っていました。そんな事をしていたら、自分が何をしたいのかが、解らなくなってしまいました。
ブログのコメントも、どの記事にも結局同じことしか書けなくなっていて、同じことしか書けないのに、何時間もかけて言葉を絞り出していたことを思い出します(汗)

そんなある日、師父が魯山人の「人間書道」という書を見せてくださいました。
あまりの伸びやかさに・穏やかさに・激しさに・温かさに・自由さに、何故だかわかりませんが、涙が止まりませんでした。
時代を超えても尚エネルギーがほとばしるその書に、ガチガチに凍りついていた私の心が共鳴して、解けて流れ出した滝のような涙でした。
今でも、もちろんいい子ちゃん症候群から抜け出したわけではなく、稽古でも仕事でもプライベートでも、正解を求めて目が泳いでいる有様ですが、そんな自分にも安心していられます。
太極拳のお陰で、素の自分に安心できるようになったのだと思います。
太極拳に、師父に、宗師に、心からの感謝が溢れます。
ありがとうございます。
12. Posted by マガサス   2025年07月17日 01:05
とても深いお話をありがとうございます。
じっくりと味わっています。

足したり引いたり、自分を挟んだりせずに、その物事を物事として受け取れるように。
無駄だと思えることも、失敗だと思うことも、実はその経験は自分にとって非常に大きな理解をもたらしてくれるのだと、ようやく思える様になりました。
頭でっかちにならず、自分で自分の枠を狭めることなく、物事を決めつけずに、真心で、学び続けたいと思います。

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