2025年06月27日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その96
『道具は教えてくれる』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
先日、宗師が自宅での稽古用にと木製の刀(トウ)と棍を我々に提供してくださるという機会があり、私が道場で使用していた刀が経年で破損していた事もあり、そちらと交換させていただく運びとなりました。
それまで使用していた刀は破棄しようか、という話になったのですが、これまで長年一緒に稽古をしてきた道具を処分してしまうには忍びなく、かつ家で使用する分には全く問題がなかったので、自宅での稽古用に引き取ってきました。
現在、パソコンでデスクワークする際に手が届くように手元に置いています。手持無沙汰になるとなんとなしに手に取って、立ち上がって動きを確認したりしています。
古来より日本の思想では、長年使い続けたものには付喪神が宿ると言いますが、私が使用してきた刀には、間違いなく私の気が通(かよ)っているように感じられます。家に持って帰ってきた途端、それまでより一層生き生きとした色艶が感じられ、こうしてよかったと思ったものです。
余談ですが、我が家には木製の木刀や棒、金属製のナイフ、樹脂製の木刀などいくつかの練習用の武器があります。先ほど「気が通っている」と書きましたが、それは木製や金属製のものが特にそう感じられ、樹脂製のものはそれでいうと少し違った手ごたえが感じられるものです。
自然界に存在する素材か人の手によって加工された素材かの違いでしょうか、はたまたの比重の違いでしょうか。いずれにせよ練習に使うのならば、やはり木か金属がいいと感じられます。
さて、太極武藝館の稽古ではしばしば、棍(コン)が使用されます。修行者それぞれの体躯に合うように胸元くらいの長さに加工された、いうなればただの棒です。何もないよりはマシとはいえ、武器として使うにはちょっと心もとないとも感じられます。こんなものでぶっ叩いても人間は倒れそうもありません。
太極武藝館での稽古でも、その棍を使って相手を叩きのめすような練習は行われません。
あくまで全ては架式を理解するため、その規矩とするために棍を使っています。宗師が「自由に曲がらない棍だからこそ、教えてくれることがある」と仰っているように、たった一本の自分の背丈に満たない棒を持つことで、我々の体は一定の制限が課され、それによって見えてくるものが多々あるものです。
得物を持たずに稽古をしていると錯覚してしまいがちですが、戦乱の世で戦闘法を学ぶ…武術の稽古を行う場合、まず前提として間違いなく武器を使ったはずです。いきなり素手で戦場に出ていく人がいたら、よほどの達人か狂人の類であったに違いありません。
武器があればまず武器を使う前提で訓練をし、そこから素手になった場合でも戦えるように備えていたと考えるのが道理ではないでしょうか。
人間の進化の過程として考えても、素手では野生動物にとても勝てそうにありませんが、様々な道具を作り出し、使い方を工夫することで、人類は数多くの動物を食料とすることに成功してきました。
先日の稽古中、宗師が突然、フリスビーを取り出してきて道場の中でキャッチボール?を始めました。宗師が何を意図されていたのかは私には測りかねますが、最初はぎこちなかった我々の投擲が、わずかな時間を経るだけで次第に慣れていくのが誰の目にも明らかだったのではないかと思います。
道具を持ち、特にそれを投擲する能力は他のどの野生動物も持たない人間の強みです。それは肩甲骨や体の構造のみならず、どのように力を入れれば道具がどこに到達するのかを測る脳の演算能力まで含めた強みです。動き回る動物相手に投擲物をぶつけられる生き物は、実はこの地球上に他にいません。
そのような事を頭の片隅に浮かべつつ、次第にフリスビーの挙動がどのようなものか理解されるにつれ、非常に面白くなってきたものでした。
道具を手に取り、その挙動を解しそれにそって体を適応させていく人間の能力は、驚くべきものがあると思います。私も家で稽古している時に分からない事が出てくると、棍であったりそれ以外のものであったり、何か手に物を持って動くことがしばしばあります。何も持たずに動いたほうが自由であたかも勉強が出来る気がするのですが、実はどうもそうではなさそうなのです。
手に得物を持ち、自由を制限した時のほうが太極拳は見えてくるものがある…そのように強く感じます。何か自分とは別のものを手に持って動く、たったそれだけの事で体は多くのことを教えてくれるのだと思います。
武器を持つだけで、人間の戦闘力は素手の何倍にもなります。か弱い女性でもナイフ一本持っただけで、取り押さえるのは非常に困難になります。では何か武器を持てばすぐ強くなれるのかというと、そうはいかないのがまた面白いところだと思います。
キャンプで木を削ったり薪割りをするのは、どれだけいいナイフや斧を持っていたとしてもそう簡単に出来ることではありません。きちんとした道具を持ち、正しい使い方に通じることではじめて、その道具は人間の力を何倍にも高めてくれるものです。
その礎となる自分の能力が無かった場合、特に武器は逆に自らの身を危険に陥れもするものではないかと思います。
正しい道具を手にし、正しい使い方を教わってはじめて、自分の体がそれに沿った動きを見出していくことが可能になるのだと思います。太極拳の学習という面で考えても、正しい道具の使い方は自らの勉強を大いに進めてくれるものではないでしょうか。
今回、宗師が我々の自宅での稽古用に棍や刀を提供してくださったのは、本当にありがたいことではないかと思います。昨今の防犯等の事情もあり、稽古用の道具とはいえ武器に準ずるものを毎回の稽古で持ち帰るのはなかなか困難な面があるかと思います。自宅で練習をしていて、気になった時に棍などで学習できるのは、自分で稽古を進める上で本当に大切なことではないかと思います。
また、練習用とはいえ一般の家庭にはあまり見られない武器があるのは、武術を志す上で意識が変わるきっかけになるのではないかと思います。悪人が来たら正当防衛でぶっ叩く!のではありません。自分を本気で害することを考える相手がいたら、間違いなく凶器を振るって来るはずです。それらに対して、自分の意識がどのように備えられているのか。そう思うだけでも稽古に対する取り組み方に変化が生じるのではないでしょうか。
戦ったらどっちが強い…などと考えていられるうちは、まだ命を落とす可能性がない平和な思考なのかもしれません。本当に命の危機に晒されたとき、どっちが強いかなど考えている余裕はないはずです。いかに自分が生き残るか。また大事な人を守れるか。
そのためにこそ武術は存在しているべきだと思いますし、また太極武藝館で指導して頂いている太極拳が素晴らしいものだと感じるのは、そういった面でも大いに有効であるからだという点もあるのではないでしょうか。
相手を倒す倒される、そのように殺伐とした世界は誰も好き好んで望んではいないと思いますが、現実に狂気は自分の知らない間に身近に迫っているのかもしれません。それに備えようと躍起になり身構えるのもまた、その狂気の内に自分が引きずり込まれている事なのかもしれません。かといって全く無防備で気にしないのではなく…太極拳の教えてくれる思想は、そのどちらでもない正しいあり方を我々に示してくれているかと思います。
自らの身を正しく律する事が出来てはじめて、相手を倒せる大いなる力が備わるのかもしれません。そうでない人間性には過ぎた力であり、むしろ望むべきではない…。そう思わせるほどに太極拳の存在は大きなものだと感じます。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
先日、宗師が自宅での稽古用にと木製の刀(トウ)と棍を我々に提供してくださるという機会があり、私が道場で使用していた刀が経年で破損していた事もあり、そちらと交換させていただく運びとなりました。
それまで使用していた刀は破棄しようか、という話になったのですが、これまで長年一緒に稽古をしてきた道具を処分してしまうには忍びなく、かつ家で使用する分には全く問題がなかったので、自宅での稽古用に引き取ってきました。
現在、パソコンでデスクワークする際に手が届くように手元に置いています。手持無沙汰になるとなんとなしに手に取って、立ち上がって動きを確認したりしています。
古来より日本の思想では、長年使い続けたものには付喪神が宿ると言いますが、私が使用してきた刀には、間違いなく私の気が通(かよ)っているように感じられます。家に持って帰ってきた途端、それまでより一層生き生きとした色艶が感じられ、こうしてよかったと思ったものです。
余談ですが、我が家には木製の木刀や棒、金属製のナイフ、樹脂製の木刀などいくつかの練習用の武器があります。先ほど「気が通っている」と書きましたが、それは木製や金属製のものが特にそう感じられ、樹脂製のものはそれでいうと少し違った手ごたえが感じられるものです。
自然界に存在する素材か人の手によって加工された素材かの違いでしょうか、はたまたの比重の違いでしょうか。いずれにせよ練習に使うのならば、やはり木か金属がいいと感じられます。
さて、太極武藝館の稽古ではしばしば、棍(コン)が使用されます。修行者それぞれの体躯に合うように胸元くらいの長さに加工された、いうなればただの棒です。何もないよりはマシとはいえ、武器として使うにはちょっと心もとないとも感じられます。こんなものでぶっ叩いても人間は倒れそうもありません。
太極武藝館での稽古でも、その棍を使って相手を叩きのめすような練習は行われません。
あくまで全ては架式を理解するため、その規矩とするために棍を使っています。宗師が「自由に曲がらない棍だからこそ、教えてくれることがある」と仰っているように、たった一本の自分の背丈に満たない棒を持つことで、我々の体は一定の制限が課され、それによって見えてくるものが多々あるものです。
得物を持たずに稽古をしていると錯覚してしまいがちですが、戦乱の世で戦闘法を学ぶ…武術の稽古を行う場合、まず前提として間違いなく武器を使ったはずです。いきなり素手で戦場に出ていく人がいたら、よほどの達人か狂人の類であったに違いありません。
武器があればまず武器を使う前提で訓練をし、そこから素手になった場合でも戦えるように備えていたと考えるのが道理ではないでしょうか。
人間の進化の過程として考えても、素手では野生動物にとても勝てそうにありませんが、様々な道具を作り出し、使い方を工夫することで、人類は数多くの動物を食料とすることに成功してきました。
先日の稽古中、宗師が突然、フリスビーを取り出してきて道場の中でキャッチボール?を始めました。宗師が何を意図されていたのかは私には測りかねますが、最初はぎこちなかった我々の投擲が、わずかな時間を経るだけで次第に慣れていくのが誰の目にも明らかだったのではないかと思います。
道具を持ち、特にそれを投擲する能力は他のどの野生動物も持たない人間の強みです。それは肩甲骨や体の構造のみならず、どのように力を入れれば道具がどこに到達するのかを測る脳の演算能力まで含めた強みです。動き回る動物相手に投擲物をぶつけられる生き物は、実はこの地球上に他にいません。
そのような事を頭の片隅に浮かべつつ、次第にフリスビーの挙動がどのようなものか理解されるにつれ、非常に面白くなってきたものでした。
道具を手に取り、その挙動を解しそれにそって体を適応させていく人間の能力は、驚くべきものがあると思います。私も家で稽古している時に分からない事が出てくると、棍であったりそれ以外のものであったり、何か手に物を持って動くことがしばしばあります。何も持たずに動いたほうが自由であたかも勉強が出来る気がするのですが、実はどうもそうではなさそうなのです。
手に得物を持ち、自由を制限した時のほうが太極拳は見えてくるものがある…そのように強く感じます。何か自分とは別のものを手に持って動く、たったそれだけの事で体は多くのことを教えてくれるのだと思います。
武器を持つだけで、人間の戦闘力は素手の何倍にもなります。か弱い女性でもナイフ一本持っただけで、取り押さえるのは非常に困難になります。では何か武器を持てばすぐ強くなれるのかというと、そうはいかないのがまた面白いところだと思います。
キャンプで木を削ったり薪割りをするのは、どれだけいいナイフや斧を持っていたとしてもそう簡単に出来ることではありません。きちんとした道具を持ち、正しい使い方に通じることではじめて、その道具は人間の力を何倍にも高めてくれるものです。
その礎となる自分の能力が無かった場合、特に武器は逆に自らの身を危険に陥れもするものではないかと思います。
正しい道具を手にし、正しい使い方を教わってはじめて、自分の体がそれに沿った動きを見出していくことが可能になるのだと思います。太極拳の学習という面で考えても、正しい道具の使い方は自らの勉強を大いに進めてくれるものではないでしょうか。
今回、宗師が我々の自宅での稽古用に棍や刀を提供してくださったのは、本当にありがたいことではないかと思います。昨今の防犯等の事情もあり、稽古用の道具とはいえ武器に準ずるものを毎回の稽古で持ち帰るのはなかなか困難な面があるかと思います。自宅で練習をしていて、気になった時に棍などで学習できるのは、自分で稽古を進める上で本当に大切なことではないかと思います。
また、練習用とはいえ一般の家庭にはあまり見られない武器があるのは、武術を志す上で意識が変わるきっかけになるのではないかと思います。悪人が来たら正当防衛でぶっ叩く!のではありません。自分を本気で害することを考える相手がいたら、間違いなく凶器を振るって来るはずです。それらに対して、自分の意識がどのように備えられているのか。そう思うだけでも稽古に対する取り組み方に変化が生じるのではないでしょうか。
戦ったらどっちが強い…などと考えていられるうちは、まだ命を落とす可能性がない平和な思考なのかもしれません。本当に命の危機に晒されたとき、どっちが強いかなど考えている余裕はないはずです。いかに自分が生き残るか。また大事な人を守れるか。
そのためにこそ武術は存在しているべきだと思いますし、また太極武藝館で指導して頂いている太極拳が素晴らしいものだと感じるのは、そういった面でも大いに有効であるからだという点もあるのではないでしょうか。
相手を倒す倒される、そのように殺伐とした世界は誰も好き好んで望んではいないと思いますが、現実に狂気は自分の知らない間に身近に迫っているのかもしれません。それに備えようと躍起になり身構えるのもまた、その狂気の内に自分が引きずり込まれている事なのかもしれません。かといって全く無防備で気にしないのではなく…太極拳の教えてくれる思想は、そのどちらでもない正しいあり方を我々に示してくれているかと思います。
自らの身を正しく律する事が出来てはじめて、相手を倒せる大いなる力が備わるのかもしれません。そうでない人間性には過ぎた力であり、むしろ望むべきではない…。そう思わせるほどに太極拳の存在は大きなものだと感じます。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
コメント一覧
1. Posted by 松久宗玄 2025年06月29日 00:20
フリスビーでの体験の件も含めて、改めて道具との関係を考えてみると、
広くトータルに鍛えていく事の必要性と、自分自身の稽古で不足している要素が見えてくるかと思いました。
普段行っている太極拳の基本の稽古は素晴らしいのですが、それだけで良い訳ではなく、
自分自身の足りない要素を補うには、俯瞰して自分自身の弱点を認識し、
弱点を補うアプローチを積極的に模索するべきだと、改めて感じた次第です。
武術の目的は、どんな状況でも五体満足で生きて帰る事だとすると、
自分自身の弱い部分が、トータルのパフォーマンスの上限になってしまうリスクがあります。
功夫は工夫の積み重ねだと言われますが、
自分の弱点を認識する事、その改善を模索する事、そのサイクルを切れ目なく継続していく事、
その為に、様々な道具の活用含めた広いアプローチに、改めて眼を向ける必要があると感じました。
広くトータルに鍛えていく事の必要性と、自分自身の稽古で不足している要素が見えてくるかと思いました。
普段行っている太極拳の基本の稽古は素晴らしいのですが、それだけで良い訳ではなく、
自分自身の足りない要素を補うには、俯瞰して自分自身の弱点を認識し、
弱点を補うアプローチを積極的に模索するべきだと、改めて感じた次第です。
武術の目的は、どんな状況でも五体満足で生きて帰る事だとすると、
自分自身の弱い部分が、トータルのパフォーマンスの上限になってしまうリスクがあります。
功夫は工夫の積み重ねだと言われますが、
自分の弱点を認識する事、その改善を模索する事、そのサイクルを切れ目なく継続していく事、
その為に、様々な道具の活用含めた広いアプローチに、改めて眼を向ける必要があると感じました。
2. Posted by マルコビッチ 2025年06月29日 16:58
棍を持っているだけで身体がいつもとは違う動きになったりしますね。
私は、気をつけていないと棍を振ると前傾しやすくなります。
棍の重さに身体が持っていかれるのでしょう。
ただ、反対に気をつけて身体を立てて棍の重さを感じて動くと、それまでとは違った身体の動きが出てきて、棍の動きと身体の動きが一致するようになります。
棍に限らず、何か武器を持った時、どうしてもそれを動かしたくなります。
棍を腕で振り回したら、身体は動かず、腕がパンパンになるだけですね。
キャンプなどで薪を割る時も同じで、ナイフや鉈などの道具でどうやって薪を割るか、薪の状態、自分の位置、その関係性を考慮しないで腕でバシバシ叩いたら跳ね返されてしまいます。
私にとって道具や武器を使うことは嫌いではないのですが、どちらかというと苦手で難しいです。
しかしその中でいろいろなことを教えてくれると感じてはいます。
宗師が様々な道具を使われるところをたまに拝見することがありますが、この間も研磨機を使うところを拝見しました。
そんなにしょっちゅう研磨機を使っているわけではないと思うのですが、いわゆる上手なのです。
削った後も綺麗で、私とは全然違うのです。
やはり、太極拳の稽古で培われた身体や考え方は、道具を持ってしてもなんら変わることはなく、むしろ一致しているのだなとつくづく思いました。
私は、気をつけていないと棍を振ると前傾しやすくなります。
棍の重さに身体が持っていかれるのでしょう。
ただ、反対に気をつけて身体を立てて棍の重さを感じて動くと、それまでとは違った身体の動きが出てきて、棍の動きと身体の動きが一致するようになります。
棍に限らず、何か武器を持った時、どうしてもそれを動かしたくなります。
棍を腕で振り回したら、身体は動かず、腕がパンパンになるだけですね。
キャンプなどで薪を割る時も同じで、ナイフや鉈などの道具でどうやって薪を割るか、薪の状態、自分の位置、その関係性を考慮しないで腕でバシバシ叩いたら跳ね返されてしまいます。
私にとって道具や武器を使うことは嫌いではないのですが、どちらかというと苦手で難しいです。
しかしその中でいろいろなことを教えてくれると感じてはいます。
宗師が様々な道具を使われるところをたまに拝見することがありますが、この間も研磨機を使うところを拝見しました。
そんなにしょっちゅう研磨機を使っているわけではないと思うのですが、いわゆる上手なのです。
削った後も綺麗で、私とは全然違うのです。
やはり、太極拳の稽古で培われた身体や考え方は、道具を持ってしてもなんら変わることはなく、むしろ一致しているのだなとつくづく思いました。
3. Posted by ハイネケン 2025年06月29日 21:49
状況把握が出来ているか?自分は状況に合わせているのか?
普段考えたり行動したりしている価値が、環境や状況、時代といった外的環境で変化します。本人は何も変えてなくても周りの評価が変化します。
状況の変化により変わる様な評価は評価自体の曖昧さや至らなさだとも言えます。時勢に流されない価値とは状況の変化にも耐えうるものであり、それらは礼、躾、身嗜み、気づきや気遣いとして生活の中にあり文化になっています。「自分はどうか?」と言えばこれらは身近でありながら完全さには程遠い状態なので今は生活のあり方に取り組んでいます。今いる社会傾向(トレンド)も視野に入れつつ時勢に耐えうる価値のあるものを目指して生活したいと思います。
生活と稽古として読んでみました。太郎冠者様、ありがとうございました。
普段考えたり行動したりしている価値が、環境や状況、時代といった外的環境で変化します。本人は何も変えてなくても周りの評価が変化します。
状況の変化により変わる様な評価は評価自体の曖昧さや至らなさだとも言えます。時勢に流されない価値とは状況の変化にも耐えうるものであり、それらは礼、躾、身嗜み、気づきや気遣いとして生活の中にあり文化になっています。「自分はどうか?」と言えばこれらは身近でありながら完全さには程遠い状態なので今は生活のあり方に取り組んでいます。今いる社会傾向(トレンド)も視野に入れつつ時勢に耐えうる価値のあるものを目指して生活したいと思います。
生活と稽古として読んでみました。太郎冠者様、ありがとうございました。
4. Posted by ひこな 2025年06月29日 23:57
太郎冠者様
先日、私も昆を与えていただき、その有用さに舌を巻いているところです。正に規矩を作るための画期的な道具です。
もちろん、単に道具があればよいだけでなく、その扱いに然るべき守るべき要訣があることが肝要と感じました。
動くための軌跡、位置、律、それらが定まりながら、かつ一定の拘束を与えてくれること、また無手と変わらぬ身遣いを要求することで、原則から外れた様々な悪習を見つけ出してもらえます。
獲物が変わっても、身体の遣い方が変わらぬよう、されど獲物の特性は活かされるよう、と、自分の在り方と、他の在り方、どちらも意識の内に収められるよう訓練を設けてくださっているのだと感じられました。
そこからさらに日常と非日常の意識まで思いを馳せられるのは凄いと思います。さらに意識を広げていきたいと感じます。
先日、私も昆を与えていただき、その有用さに舌を巻いているところです。正に規矩を作るための画期的な道具です。
もちろん、単に道具があればよいだけでなく、その扱いに然るべき守るべき要訣があることが肝要と感じました。
動くための軌跡、位置、律、それらが定まりながら、かつ一定の拘束を与えてくれること、また無手と変わらぬ身遣いを要求することで、原則から外れた様々な悪習を見つけ出してもらえます。
獲物が変わっても、身体の遣い方が変わらぬよう、されど獲物の特性は活かされるよう、と、自分の在り方と、他の在り方、どちらも意識の内に収められるよう訓練を設けてくださっているのだと感じられました。
そこからさらに日常と非日常の意識まで思いを馳せられるのは凄いと思います。さらに意識を広げていきたいと感じます。
5. Posted by 川島玄峰 2025年06月30日 21:54
棍、刀を稽古で使用してから私も武器の重要性をひしひしと感じます。
太郎冠者さんの云われるように、昔の戦いや争いは最初から自分の体を痛めるのを覚悟して、自らの素手で向かって行くとは思えません。自分の有利になる手段を備えて、少しでも生き残る可能性を残すために武器などで早く仕留める事を当時の人々は考えていたに違いないと思います。
できれば争いを避け安心した生活が送れる事が良いに決まっています。しかし仕方なくやらなければならない状況のある戦国の時代では、常に備えについて研究されていたのかもしれません。
武術の基本とは全ての在り方が凝縮されたものであると思います。この纏められ構築された基本の背景を考えると歴史のロマンを感じずにはいられません。
また、武器に始まり争いから最終的に纏められた套路の一式一式が完成されるまでに、どれだけの犠牲があったのかと思うと稽古の意味はより深いものになってきます。
これからも戦国の時代に命をかけて完成された太極拳を少しでも感じ取れればと思います。
ありがとうございました。
太郎冠者さんの云われるように、昔の戦いや争いは最初から自分の体を痛めるのを覚悟して、自らの素手で向かって行くとは思えません。自分の有利になる手段を備えて、少しでも生き残る可能性を残すために武器などで早く仕留める事を当時の人々は考えていたに違いないと思います。
できれば争いを避け安心した生活が送れる事が良いに決まっています。しかし仕方なくやらなければならない状況のある戦国の時代では、常に備えについて研究されていたのかもしれません。
武術の基本とは全ての在り方が凝縮されたものであると思います。この纏められ構築された基本の背景を考えると歴史のロマンを感じずにはいられません。
また、武器に始まり争いから最終的に纏められた套路の一式一式が完成されるまでに、どれだけの犠牲があったのかと思うと稽古の意味はより深いものになってきます。
これからも戦国の時代に命をかけて完成された太極拳を少しでも感じ取れればと思います。
ありがとうございました。
6. Posted by 川山継玄 2025年07月01日 15:27
私は、道具を使った稽古が好きです。
なぜかというと、自分の癖や姿勢の乱れがわかりやすいからです。
例えば、形やタイミングが、宗師と違うことが一目瞭然で、観て・感じて修正しやすいと感じます。
ある意味、思考を介さないので、変化を厭わず修正しやすいのではないでしょうか。
それを、遊びの要素満載で、みんながほとんど手にしたことの無いフリスビーで実践できたことは、とても大きな気づきになりました。
道場と全員の位置関係を把握し(空間全体の把握)、瞬時に誰の元へ飛んで行ったのか認識し、自分であったと判断したらフリスビーの落下点で手に吸い付くようにキャッチする。
この醍醐味は、何といってもどこへどのように飛んでいくかが予想不可能な点だと思います。
普段の稽古で、予想不可能なはずの、毎回違う状態の相手に対して、めちゃくちゃ自己都合の予測を立て、まるで相手が毎回同じ在り方かのように対練を重ねていた自分の、認識が180度ひっくり返り、生活にも当てはまると、認識を新たにしました。
太郎冠者さん記事のお陰で、今回の稽古で感じた事を言葉にできて、良かったです。
ありがとうございました。
なぜかというと、自分の癖や姿勢の乱れがわかりやすいからです。
例えば、形やタイミングが、宗師と違うことが一目瞭然で、観て・感じて修正しやすいと感じます。
ある意味、思考を介さないので、変化を厭わず修正しやすいのではないでしょうか。
それを、遊びの要素満載で、みんながほとんど手にしたことの無いフリスビーで実践できたことは、とても大きな気づきになりました。
道場と全員の位置関係を把握し(空間全体の把握)、瞬時に誰の元へ飛んで行ったのか認識し、自分であったと判断したらフリスビーの落下点で手に吸い付くようにキャッチする。
この醍醐味は、何といってもどこへどのように飛んでいくかが予想不可能な点だと思います。
普段の稽古で、予想不可能なはずの、毎回違う状態の相手に対して、めちゃくちゃ自己都合の予測を立て、まるで相手が毎回同じ在り方かのように対練を重ねていた自分の、認識が180度ひっくり返り、生活にも当てはまると、認識を新たにしました。
太郎冠者さん記事のお陰で、今回の稽古で感じた事を言葉にできて、良かったです。
ありがとうございました。
7. Posted by 西川敦玄 2025年07月01日 18:38
太郎冠者さんブログ記事ありがとうございます。道具の使用についての考察をありがとうございました。武器を扱うことはとても難しいことだと思います。多分、身体と同じ様に使えるとよさそうなものが、身体の外にあるからだと思います。そして、それの異物でもあり同時に身体の延長であることが、われわれの身体にたいする意識を表出させてくれるのだと思います。
以前、刀を使っていたときだったか、師父が「重いものを軽く、軽いものを重く」と言われていたような記憶があります。武器や道具に真摯に向き合えば、教えてくれることが多くあるのだと思いました。
稽古や日常にたいする取り組みが変わるような気がしました。
太郎冠者さん改めてありがとうございました。
以前、刀を使っていたときだったか、師父が「重いものを軽く、軽いものを重く」と言われていたような記憶があります。武器や道具に真摯に向き合えば、教えてくれることが多くあるのだと思いました。
稽古や日常にたいする取り組みが変わるような気がしました。
太郎冠者さん改めてありがとうございました。
8. Posted by 阿部玄明 2025年07月01日 21:11
道具というものは中々自分の思い通りに扱えないものです。
先日、自分もフリスビーを体験させて頂きましたが慣れるまでにかなり時間がかかりました。理屈を理解せず力みや勢いで投げようとしていたからです。
同様に初めてブッシュクラフトをおこなった時の事が思い出されます。木目がどうなっているかを見ること無く無我夢中で木材にナイフを差し込み、力任せにハンマーを叩きつけてました。自分の身体と道具が一致しておらず、疲れるばっかりで少しも作業が進まないのです。初めて買ったモーラナイフが刃こぼれしてしまい、惨めな気分になったものです。
棍となるとナイフより更に長尺であり、取り回しの際に持ち替えたりと大きく使う為に余計に難しいです。その分、自分と棍との関係性が分かりますし、用意不用力と架式の理解にとても良い教材だと思います。武器としての槍は更に長く重く、これを扱っていた昔の武人達の身体機能は凄まじかったと想像します。当然、腕っぷしの強さだけで扱っていてはすぐ疲れてしまうので身体全体を使って武器を扱う術を学んだのでしょう。
武器を扱うことで軸とセンスを鍛えていける。ここが現代における武器の妙味だと思っております。
先日、自分もフリスビーを体験させて頂きましたが慣れるまでにかなり時間がかかりました。理屈を理解せず力みや勢いで投げようとしていたからです。
同様に初めてブッシュクラフトをおこなった時の事が思い出されます。木目がどうなっているかを見ること無く無我夢中で木材にナイフを差し込み、力任せにハンマーを叩きつけてました。自分の身体と道具が一致しておらず、疲れるばっかりで少しも作業が進まないのです。初めて買ったモーラナイフが刃こぼれしてしまい、惨めな気分になったものです。
棍となるとナイフより更に長尺であり、取り回しの際に持ち替えたりと大きく使う為に余計に難しいです。その分、自分と棍との関係性が分かりますし、用意不用力と架式の理解にとても良い教材だと思います。武器としての槍は更に長く重く、これを扱っていた昔の武人達の身体機能は凄まじかったと想像します。当然、腕っぷしの強さだけで扱っていてはすぐ疲れてしまうので身体全体を使って武器を扱う術を学んだのでしょう。
武器を扱うことで軸とセンスを鍛えていける。ここが現代における武器の妙味だと思っております。
9. Posted by 平田玄琢 2025年07月02日 11:24
山に植林した苗が大きくなり、素性の良い木を残すために不要木を根本から伐採することを「除伐」と言います。節を目立たなくするため、早いうちに枝打ちもします。
昔はチェンソーでなく、鉈と大鋸を持って山に入りました。
すると、途端に木々が人間を拒否していると感じる「山酔い」が起こりました。まるで三半規管に異常をきたしたような、お酒を飲みすぎたような感覚です。
除伐木にとっては処分されるわけですから拒否くらいするでしょう。しかし、それは山全体からくるように感じました。
人間の都合で、木を伐ったり植えたりするのですから当たり前の事なのかもしれません。
鉈や鋸は自分にとって山の道具でも、山の木はきっと武器や凶器と思っているのだろうな。と思った事を思い出しました。
職人の道具は、棍のように身体が正しく使えるように導いてくれるものではありません。しかも、使い方を誤ると自分も含め周りの人達を危険にさらすことになります。ましてや、気に入らないことがあって、道具にあたったら自分にそれが返ってきて大変なことになります。
量子力学とかロボット工学の研究者たちは、研究時に常識では考えられないことが起こることから、全ての物質には精神が宿ると断言している方も多くいます。たぶん、世の宗教者より信心があることでしょう。
道場でも、世の常識とは違うものも感じられ、特に武具は神聖なものとして扱いたいと思いました。
昔はチェンソーでなく、鉈と大鋸を持って山に入りました。
すると、途端に木々が人間を拒否していると感じる「山酔い」が起こりました。まるで三半規管に異常をきたしたような、お酒を飲みすぎたような感覚です。
除伐木にとっては処分されるわけですから拒否くらいするでしょう。しかし、それは山全体からくるように感じました。
人間の都合で、木を伐ったり植えたりするのですから当たり前の事なのかもしれません。
鉈や鋸は自分にとって山の道具でも、山の木はきっと武器や凶器と思っているのだろうな。と思った事を思い出しました。
職人の道具は、棍のように身体が正しく使えるように導いてくれるものではありません。しかも、使い方を誤ると自分も含め周りの人達を危険にさらすことになります。ましてや、気に入らないことがあって、道具にあたったら自分にそれが返ってきて大変なことになります。
量子力学とかロボット工学の研究者たちは、研究時に常識では考えられないことが起こることから、全ての物質には精神が宿ると断言している方も多くいます。たぶん、世の宗教者より信心があることでしょう。
道場でも、世の常識とは違うものも感じられ、特に武具は神聖なものとして扱いたいと思いました。
10. Posted by 清水龍玄 2025年07月02日 23:12
道具は武器になるだけではなく、手に取ることで自身の体に影響を与え、その道具を使おうとする、手入れをすることを通じて、その人の意識や精神にも影響を与えるものだと思います。
人類の発展は道具と共にあったならば、道具が人に与え影響と、それを正しく使おうとする人の進歩と道具の洗練される度合い、それぞれ相乗効果として磨かれ、鍛えられるところがあると思います。
人類の発展は道具と共にあったならば、道具が人に与え影響と、それを正しく使おうとする人の進歩と道具の洗練される度合い、それぞれ相乗効果として磨かれ、鍛えられるところがあると思います。
11. Posted by ユキ 2025年07月02日 23:59
物にも道具にも神が宿る。本当にそうだと思います。
使っていない道具は、使っているものと比べて同じ年数を経過していても見た目に全く違います。
最近では、人の住んでいる家と、住んでいない家との違いに、驚かされました。
武術の稽古で武器を扱うのは、ひとえに意識範囲の拡張だと思います。
それは大刀や棍に限らず、弓などの飛び道具でも同じです。
日常で言えば、車でしょうか。
操作しながら、人が動けないスピードで動き、他者との関係を安全に構築する。
道具を用いた稽古は自分から離れてみる訓練に最適ですね。
使っていない道具は、使っているものと比べて同じ年数を経過していても見た目に全く違います。
最近では、人の住んでいる家と、住んでいない家との違いに、驚かされました。
武術の稽古で武器を扱うのは、ひとえに意識範囲の拡張だと思います。
それは大刀や棍に限らず、弓などの飛び道具でも同じです。
日常で言えば、車でしょうか。
操作しながら、人が動けないスピードで動き、他者との関係を安全に構築する。
道具を用いた稽古は自分から離れてみる訓練に最適ですね。
12. Posted by マガサス 2025年07月03日 00:37
上手く動けない棍、扱い難い道具、上手に奏でられない楽器、考え方や行動が理解できない人・・・
今までその様なことをネガティブに捉えていましたが、実はとてもポジティブな事なのではないか!と思うようになりました。
「上手くいかない」「できない」「分からない」は、自分の思うようにいかない、自分の考えが通用しないなど、自分本位であるために感じることで、ちょっと自分のメガネを外してみれば、計り知れないことを学べる可能性を秘めています。
きちんと関わる
丁寧に関わる
責任を持って関わる
心の在り方・体の在り方によって色々なことを教えてもらうことができ、きちん関わり扱うことができるようになるのだと思いました。
自分本位では何も学べないですね。
今までその様なことをネガティブに捉えていましたが、実はとてもポジティブな事なのではないか!と思うようになりました。
「上手くいかない」「できない」「分からない」は、自分の思うようにいかない、自分の考えが通用しないなど、自分本位であるために感じることで、ちょっと自分のメガネを外してみれば、計り知れないことを学べる可能性を秘めています。
きちんと関わる
丁寧に関わる
責任を持って関わる
心の在り方・体の在り方によって色々なことを教えてもらうことができ、きちん関わり扱うことができるようになるのだと思いました。
自分本位では何も学べないですね。
13. Posted by 太郎冠者 2025年07月05日 16:08
☆松久宗玄さん
フリスビーを投げたのはおそらく子供の時以来でしたが、どうしようなどと思案する暇もなくとにかくやっていたらだんだん上手くいくようになってきました。
トライ&エラーを繰り返す中で客観的に自分の状態まで俯瞰して、それを現実の状況と当てはめて改善していくという、ごく当たり前の問題解決方法も、実際にやるのとやらないのでは経験値に大きな差が出来るように思いました。
>五体満足で生きて帰る事
体力はもちろんの事、精神力、判断力、運…そういった総合的な能力がなければ生き残れないのかもしれませんね。
フリスビーを投げたのはおそらく子供の時以来でしたが、どうしようなどと思案する暇もなくとにかくやっていたらだんだん上手くいくようになってきました。
トライ&エラーを繰り返す中で客観的に自分の状態まで俯瞰して、それを現実の状況と当てはめて改善していくという、ごく当たり前の問題解決方法も、実際にやるのとやらないのでは経験値に大きな差が出来るように思いました。
>五体満足で生きて帰る事
体力はもちろんの事、精神力、判断力、運…そういった総合的な能力がなければ生き残れないのかもしれませんね。
14. Posted by 太郎冠者 2025年07月05日 16:15
☆マルコビッチさん
道具を使う時、人間の脳はそれを自分の体の延長として処理をしているそうです。
道具を上手くあつかえる人というのは、自分の在り方に囚われず、道具を持てば道具までも自身として含められる柔軟性を持っているのかもしれません。
また、物を持てば体のバランスも変わり、それらの変化に対する繊細さも求められるのかもしれませんね。
私も工作でナイフで硬い木を削っていると、だんだん余計な力みが抜けてきて作業が楽になったという経験が何度もあります。必要なのは刃の鋭さとどこに刃を入れるかという点なのに、なぜか無駄に力んでしまっているものです。
稽古をする上でも本来不必要な力みがどこにでもあるのでしょう。放鬆が大事だと言われる所以だと思いました。
道具を使う時、人間の脳はそれを自分の体の延長として処理をしているそうです。
道具を上手くあつかえる人というのは、自分の在り方に囚われず、道具を持てば道具までも自身として含められる柔軟性を持っているのかもしれません。
また、物を持てば体のバランスも変わり、それらの変化に対する繊細さも求められるのかもしれませんね。
私も工作でナイフで硬い木を削っていると、だんだん余計な力みが抜けてきて作業が楽になったという経験が何度もあります。必要なのは刃の鋭さとどこに刃を入れるかという点なのに、なぜか無駄に力んでしまっているものです。
稽古をする上でも本来不必要な力みがどこにでもあるのでしょう。放鬆が大事だと言われる所以だと思いました。
15. Posted by 太郎冠者 2025年07月05日 16:20
☆ハイネケンさん
世の中にはトレンドを追いかけることに心血を注ぐ人が一定数いますが、まぁそれはそれで楽しい部分はあるものの、それによって自身の存在を定義してしまうとなんだか大変なことになりそうです。
…いや、そういう人はそんなこと欠片も気にしていないのかもしれませんね。
どれだけ人間が進歩したと思っていても、生活の本質は一万年前とそんなに変わってないという研究もありますし、大事にするべき本質もまた同様に時流に流されない部分にこそ備わっているのかもしれません。
かといって世の情勢に不干渉で過ごせるかというとそうでもなく、最後には何事もバランスが大事なのだと思うものです。
中庸、バランス。自分がどこにあるのかを知るには、自分を認識するしかないのかもしれません。
世の中にはトレンドを追いかけることに心血を注ぐ人が一定数いますが、まぁそれはそれで楽しい部分はあるものの、それによって自身の存在を定義してしまうとなんだか大変なことになりそうです。
…いや、そういう人はそんなこと欠片も気にしていないのかもしれませんね。
どれだけ人間が進歩したと思っていても、生活の本質は一万年前とそんなに変わってないという研究もありますし、大事にするべき本質もまた同様に時流に流されない部分にこそ備わっているのかもしれません。
かといって世の情勢に不干渉で過ごせるかというとそうでもなく、最後には何事もバランスが大事なのだと思うものです。
中庸、バランス。自分がどこにあるのかを知るには、自分を認識するしかないのかもしれません。
16. Posted by 太郎冠者 2025年07月05日 16:25
☆ひこなさん
職人の仕事風景を見ていると、体と道具が一体になって動いているような不思議な心地よさが感じられます。
日本では伝統的に職人が弟子を育てる場合、とにかく見て盗み取れという指導がなされていたそうです。
私も師父からよく、盗むのは自由だと言っていただいておりました。
師父や宗師が、一挙手一投足何をしているのか、何を見て、何を感じているのか。何を考えているのか。それらを見て学ぶ事は、とても大きな学びになっていると感じます。
あとは、そこで得られたことを自分の体で反映させなければなりません。
そのためにはコツコツと稽古を続けるしかないと思います。
日々是稽古ですね。
職人の仕事風景を見ていると、体と道具が一体になって動いているような不思議な心地よさが感じられます。
日本では伝統的に職人が弟子を育てる場合、とにかく見て盗み取れという指導がなされていたそうです。
私も師父からよく、盗むのは自由だと言っていただいておりました。
師父や宗師が、一挙手一投足何をしているのか、何を見て、何を感じているのか。何を考えているのか。それらを見て学ぶ事は、とても大きな学びになっていると感じます。
あとは、そこで得られたことを自分の体で反映させなければなりません。
そのためにはコツコツと稽古を続けるしかないと思います。
日々是稽古ですね。
17. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 22:45
☆川島玄峰さん
現代で武術というと、なんとなく素手は素手、武器は武器と全く別の事として捉えてしまいやすいのではと思います。
だからこそそれらを総合的にまとめて体の使い方を追求しているものにこそ、武術の本道が残っているのでは?と感じている次第です。
極論分かってしまえば武器も素手も関係なくなるのかもしれませんが、少なくとも学習者として稽古を行う段階では、武器(道具)を持って動くことは稽古の助けにはなれど、妨げにはならないのではと思います。
武器に限らず道具は、人を傷つけもするし、また助けてもくれるものだと思います。
私も道具を道具として正しく使えるよう、学習を進めていきたいと思います。
現代で武術というと、なんとなく素手は素手、武器は武器と全く別の事として捉えてしまいやすいのではと思います。
だからこそそれらを総合的にまとめて体の使い方を追求しているものにこそ、武術の本道が残っているのでは?と感じている次第です。
極論分かってしまえば武器も素手も関係なくなるのかもしれませんが、少なくとも学習者として稽古を行う段階では、武器(道具)を持って動くことは稽古の助けにはなれど、妨げにはならないのではと思います。
武器に限らず道具は、人を傷つけもするし、また助けてもくれるものだと思います。
私も道具を道具として正しく使えるよう、学習を進めていきたいと思います。
18. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 22:49
☆川山継玄さん
私もフリスビーを投げたのは子供の時以来でしたが、しっかり投げたはずなのにまるで予想しない軌道を描いて飛んで行ってしまうのはとても面白く感じました。
仰る通り、生活の中で勝手に「こうしたらこうなるだろう」と予想を立てて過ごしてしまっていることは沢山あるように思います。
何が起こるか分からない実戦の場においてもそのようにふるまうことは命取りであり、遊びともいえるようなフリスビーでそれを体験できたのは、まさしく稽古であったと感じました。
(実際、体めがけて何度か飛んできていましたしね…)
自分の力や意図通りに制御できないことと触れ合いながらも、ではそれをどうするかを感じ取って合わせていくことは、他ならない対練と一緒であり、ひいてはそれは稽古そのものであると思いました。
宗師の発想には、本当におどろかされるばかりです。
私もフリスビーを投げたのは子供の時以来でしたが、しっかり投げたはずなのにまるで予想しない軌道を描いて飛んで行ってしまうのはとても面白く感じました。
仰る通り、生活の中で勝手に「こうしたらこうなるだろう」と予想を立てて過ごしてしまっていることは沢山あるように思います。
何が起こるか分からない実戦の場においてもそのようにふるまうことは命取りであり、遊びともいえるようなフリスビーでそれを体験できたのは、まさしく稽古であったと感じました。
(実際、体めがけて何度か飛んできていましたしね…)
自分の力や意図通りに制御できないことと触れ合いながらも、ではそれをどうするかを感じ取って合わせていくことは、他ならない対練と一緒であり、ひいてはそれは稽古そのものであると思いました。
宗師の発想には、本当におどろかされるばかりです。
19. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 22:59
☆西川敦玄さん
刀剣といった戦うための刃物と一言で言っても、様々な国々で長い年月でたくさんの種類が作られ、それらは全てそうするべき理由があって作られた形をしています。
例えば日本刀を扱うための日本の剣術でも、各流派において細かく木刀の作り方が異なっており、それぞれの形状に、その流派で習うべき体の使い方、理が秘められているのだそうです。
我々でいうと特に棍でしょうか。棍には、本当に奥深い理が秘められているのだろうと思わされるものがあります。
道場で教わる稽古法を通して見いだされる体の在り方は、まさに太極拳を身に着けるための規矩になってくれているように感じられ、まるでコンパスのように、どこを目指すべきかを教えてくれるかのようです。
他者も道具も鏡として、自分の勉強に使わせていただけるのは本当にありがたいことだと思います。
刀剣といった戦うための刃物と一言で言っても、様々な国々で長い年月でたくさんの種類が作られ、それらは全てそうするべき理由があって作られた形をしています。
例えば日本刀を扱うための日本の剣術でも、各流派において細かく木刀の作り方が異なっており、それぞれの形状に、その流派で習うべき体の使い方、理が秘められているのだそうです。
我々でいうと特に棍でしょうか。棍には、本当に奥深い理が秘められているのだろうと思わされるものがあります。
道場で教わる稽古法を通して見いだされる体の在り方は、まさに太極拳を身に着けるための規矩になってくれているように感じられ、まるでコンパスのように、どこを目指すべきかを教えてくれるかのようです。
他者も道具も鏡として、自分の勉強に使わせていただけるのは本当にありがたいことだと思います。
20. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 23:05
☆阿部玄明さん
昔の武人のエピソードを見ると、長尺・大重量の武器を軽々と振り回していたというエピソードが数多くあります。
一見すると眉唾とも思えるような話も見られますが、体の使い方に秀でた過去の偉人は、おそらく本当にとんでもないことをしていたのだろうと思わされます。
そのようなとんでもないことが可能になる、総合的な体の使い方を学んでいく上で道具を使うのは非常に有効なことだと思いますし、キャンプの薪割りなどでも、油断すると怪我をしかねない行動でも安全にこなせるようにするのは、武術的発想に通じる部分が多いにあるように思います。
大槍を振り回せるようになりたい…とはあんまり思わないのが本音ですが(笑)、それに負けない体の使い方を身に着けるのは武術修行者としては必要なことだと思うので、取り組んでいきたいですね。
昔の武人のエピソードを見ると、長尺・大重量の武器を軽々と振り回していたというエピソードが数多くあります。
一見すると眉唾とも思えるような話も見られますが、体の使い方に秀でた過去の偉人は、おそらく本当にとんでもないことをしていたのだろうと思わされます。
そのようなとんでもないことが可能になる、総合的な体の使い方を学んでいく上で道具を使うのは非常に有効なことだと思いますし、キャンプの薪割りなどでも、油断すると怪我をしかねない行動でも安全にこなせるようにするのは、武術的発想に通じる部分が多いにあるように思います。
大槍を振り回せるようになりたい…とはあんまり思わないのが本音ですが(笑)、それに負けない体の使い方を身に着けるのは武術修行者としては必要なことだと思うので、取り組んでいきたいですね。
21. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 23:12
☆平田玄琢さん
>木々が人間を拒否していると感じる「山酔い」
山に生息する木々や草花は、人間には感じ取れないひとつの生態系を作り出していて、それに危険を及ぼす人間に対して敵対行動を取るのかもしれませんね。
人知の及ばない事はいくらでもあるのだと思います。
だからこそ、感謝と畏怖の念を持って物事にあたらないと思ってもみないしっぺ返しを食らうのかもしれないですね。
>量子力学とかロボット工学の研究者
本当におっしゃる通り、彼らのほうがよほどそこらの似非宗教家より本当の意味で信心深く、この世界に敬意を払っているように感じられます。
この世の理を解き明かそうと研究をし、そうして見えてくる世界の奥深さに敬意を払わずにはいられない…彼らの言葉からはそういうものを感じます。
>道場でも、世の常識とは違うものも感じられ
移転した際の道場開きの際には、神棚に本当に神様が降臨したように自分には感じられました。
目に見えないけど存在するものは、確かにあるのだと思います。
>木々が人間を拒否していると感じる「山酔い」
山に生息する木々や草花は、人間には感じ取れないひとつの生態系を作り出していて、それに危険を及ぼす人間に対して敵対行動を取るのかもしれませんね。
人知の及ばない事はいくらでもあるのだと思います。
だからこそ、感謝と畏怖の念を持って物事にあたらないと思ってもみないしっぺ返しを食らうのかもしれないですね。
>量子力学とかロボット工学の研究者
本当におっしゃる通り、彼らのほうがよほどそこらの似非宗教家より本当の意味で信心深く、この世界に敬意を払っているように感じられます。
この世の理を解き明かそうと研究をし、そうして見えてくる世界の奥深さに敬意を払わずにはいられない…彼らの言葉からはそういうものを感じます。
>道場でも、世の常識とは違うものも感じられ
移転した際の道場開きの際には、神棚に本当に神様が降臨したように自分には感じられました。
目に見えないけど存在するものは、確かにあるのだと思います。
22. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 23:16
☆清水龍玄さん
ふだん自分が使う道具は、ちゃんと手入れをしてあげると愛着も湧くし、また違ってみえるものです。
メンテフリーな道具で使いつぶして終わりというのも楽でいいのですが、そればかりになるとなんだか寂しい気もします。
ひとつの道具を一生かけて使い続ける…武術の稽古に使う道具は消耗品ではあるものの、使い方によっては一生もの、下手したら自分より長生きするものもたくさんあるので、勉強させてもらえることに感謝しながら大事にしていきたいですね。
ふだん自分が使う道具は、ちゃんと手入れをしてあげると愛着も湧くし、また違ってみえるものです。
メンテフリーな道具で使いつぶして終わりというのも楽でいいのですが、そればかりになるとなんだか寂しい気もします。
ひとつの道具を一生かけて使い続ける…武術の稽古に使う道具は消耗品ではあるものの、使い方によっては一生もの、下手したら自分より長生きするものもたくさんあるので、勉強させてもらえることに感謝しながら大事にしていきたいですね。
23. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 23:25
☆ユキさん
>人の住んでいる家と、住んでいない家
私も経験がありますが、家は誰も住まなくなると途端に様変わりしてしまいますね。
理由のひとつには人の出入りがないので(特に日本では)湿気がこもってしまって痛むのだと聞きますが、それだけではないような気もします。
>ひとえに意識範囲の拡張
確かに、射撃で的を射るにも車を走らせるにも、自分の体を離れたところを意識出来るかが問われるのは道理ですね。その精度如何によって腕前が分かってしまうとしたら、磨くべきは何かが問われている気がします。
余談ですがこんなエピソードを聞いたことがあるのですが、一流のスナイパーあるあるで「スピリチュアル好き(信心深い)」方が多いのだそうです。
何キロも離れた標的に弾を当てるという事は、プロの世界でももはや神の領域の話であり、自然と信心深くなってしまうみたいです。
戦闘や武術にとって人間の意識や見えない世界とは、切っても切れない関係があるのかもしれません。
>人の住んでいる家と、住んでいない家
私も経験がありますが、家は誰も住まなくなると途端に様変わりしてしまいますね。
理由のひとつには人の出入りがないので(特に日本では)湿気がこもってしまって痛むのだと聞きますが、それだけではないような気もします。
>ひとえに意識範囲の拡張
確かに、射撃で的を射るにも車を走らせるにも、自分の体を離れたところを意識出来るかが問われるのは道理ですね。その精度如何によって腕前が分かってしまうとしたら、磨くべきは何かが問われている気がします。
余談ですがこんなエピソードを聞いたことがあるのですが、一流のスナイパーあるあるで「スピリチュアル好き(信心深い)」方が多いのだそうです。
何キロも離れた標的に弾を当てるという事は、プロの世界でももはや神の領域の話であり、自然と信心深くなってしまうみたいです。
戦闘や武術にとって人間の意識や見えない世界とは、切っても切れない関係があるのかもしれません。
24. Posted by 太郎冠者 2025年07月07日 23:31
☆マガサスさん
普通に生活していたり仕事をしていても、まぁとんでもない事をしてくる人というのはぼちぼちいるもので、そういう方々と向き合うとき自分の在り方が試されるなぁと痛感させられますね。
自分の向かい方で物事は変わるといっても他人を自由に思い通りに操作できるわけではないので、こちらの捉え方を変え対応を変えることで、相手の反応を見定めて柔軟に対応していくことが大切だと思わされ、これは武術の世界でも同じことが言えるなと感じるものです。
拙力を用いない…用意不用力。生活をする上でも本当に大事な教えだと思います。
とはいえ、それはどうなの?と思う事には筋は通していかなければならない時もありますが(笑)
生きることが稽古ですね…。
普通に生活していたり仕事をしていても、まぁとんでもない事をしてくる人というのはぼちぼちいるもので、そういう方々と向き合うとき自分の在り方が試されるなぁと痛感させられますね。
自分の向かい方で物事は変わるといっても他人を自由に思い通りに操作できるわけではないので、こちらの捉え方を変え対応を変えることで、相手の反応を見定めて柔軟に対応していくことが大切だと思わされ、これは武術の世界でも同じことが言えるなと感じるものです。
拙力を用いない…用意不用力。生活をする上でも本当に大事な教えだと思います。
とはいえ、それはどうなの?と思う事には筋は通していかなければならない時もありますが(笑)
生きることが稽古ですね…。
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