2025年01月25日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その91

   『見えていないことに自覚的になる』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 年が変わったばかりかと思いきや、早くも一か月が経とうとしています。太極武藝館での稽古も、去年にも増してより高度な、濃密な内容で取り組まれていることが肌で感じられます。

 さて、今年の稽古はじめから宗師に指導していただいている事で、物事の見えていない部分に自覚的になること、という内容が挙げられます。人間というのは、何かの物事を目の前にしたときに、しっかりと見えているようで見えていない生き物です。そして、その見えていない部分を無意識のうちに自分で補ってしまい、その事に気づけていない…というお話を繰り返しして頂いています。
 車の運転中に交通事故が起こる時、当事者は「相手の車が見えなかった」という証言をするのだそうです。目の前を走っているはずの車が、目には映っているはずなのに、人間の認識のメカニズム上、その人の脳内には存在しない事になってしまうのだそうです。

 同様の事が、道場での稽古に取り組んでいる際にも見られます。
 宗師に示して頂いた形が真似できていないという時、本来だったら示されているはずの動きを、知らずに自分が間違って理解している形で補ってしまっているという姿が、自分自身の事としても数多くみられるものです。
 物事を見ていく過程で、見えていない部分を自分で補ってしまっていることが自覚出来るか。そこが稽古で真似が出来るかどうか…つまり太極拳を学習していけるかを分ける事になる、と宗師のお話は続きます。

 基本功や套路など、稽古をしていれば何度も同じ形を繰り返すことになります。同じ事を繰り返す際、それはすでに知っているものだと片づけて、認識の負荷を減らすという性質が人間には生まれながらに備わっているという研究があります。
 例えば道を歩いている時、元来野生生物として生きてきた人間ですが、常に100パーセントの警戒を続けていてはすぐに疲れ切ってしまいます。そのため、危険が起こりうるパターンというものを生得的な認識として持ち合わせていて、そのアラートが発せられない時は警戒を緩めるという機能があるようなのです。
 現代のように、自然界で生きる危険とかけ離れてしまった環境に置かれた時、その機能はある意味、緩み切ってしまっているのかもしれません。
 ただ同時に、気を付けなければならないと意識を切り替える機能も人間には同様に備わっているので、より意識的に自覚するようにしていけば、些細な違いも自分の認識の網で拾い上げることが可能なはずです。

 太極武藝館の稽古でも常々言われている通り、センサーを磨き、その網目を細かくしていく事は非常に大事な事であり、そのための第一歩としてまず、自分の認識がどのように働いているか…今回の場合は、見えていると思っている事が、無意識のうちにどのようにゆがめられてしまっているかを、より意識的に自覚していく必要があるのだと感じます。

 今年に入って、道場では四正手の稽古を行うことが増えました。一見すると単純な動作を繰り返しているように見えますが、宗師の動きと比べてみると違いが数多くあり、またそれらが真似出来ていないこともまた多々あります。
 自分一人で動きの稽古をした後、四正手から掤(ポン)の形を取り出して対練を行います。それを行うことでよりはっきりと、自分が違う事をしてしまっているという事が分からされるものです。
 対練の形としては非常に単純で、相手に構えて立ってもらったところに、こちらが掤を行い相手を崩すというものですが、その単純な形でさえ、簡単には真似できないのです。
 自分でやってみても、宗師のような動きの大きさにはならないのです。それどころか、目の前に相手が立っているだけで、自分ひとりでやっている時の大きさですら動けないのです。
 相手を崩すために、基本とは違う動きになってしまっている…そのように指導して頂くものの、無意識のうちに変えてしまったその動きをなかなかやめられません。常識的に見ればそれが相手を大きく動かす事だと、どこかで信じてしまっているようなのです。

 何度も繰り返すうちに、ようやくそう言って頂いていた意味が理解できました。動きを基本通りに忠実に行うよう注意し続ける事で、思ってもみない影響が相手に現れたのです。
 最初から言われていて、示されてもいたはずなのに、どうしてこうも真似できないものなのか…。反省し、次につなげるべきことはいくらでもあります。それと同時に、その変化を簡単に逃す手はありません。

 対練で違ってしまっていた動きがどのようなモノだったかを、改めて自分の基本の動きと照らし合わせて検証しました。そうする事で、より根本的な部分で、体を大きく使って動くという事に関して、認識を改めるべき所があったことに気づくことができました。
 そこには、四正手の動きに限らず他の基本功や歩法、もっと言えばただ普通に歩いている時にも表れていた体の動きの大きさについての発見がありました。
 宗師の体の動きと比べると、明らかに自分の動きのほうが小さいのです。ただ闇雲に体を動かしてみてもその大きさにはならなかったのですが、今回気づいた事のおかげで改善出来そうな光明が見えたように感じられました。

 「見えていない」と言われる事をいきなり見ようとしても、なかなか難しいものです。宗師に指導して頂いている通り、見えていない事にまずは自覚的になり、自分が何かを飛ばしてしまって、別のもので穴埋めしている…らしい…と思うところからスタートするのが早いのだと感じました。
 示されている事がシンプルな事だとしても、それを別の形で見てしまっている限り、正しい形は絶対に見えてこないものです。そして、そう見えてしまっている事にもなかなか気づけないのが、人間の厄介なところです。
 そうではないのかもしれない…と、少しずつでも自分の認識に違和感を持ち、変えていけるかが肝要なのだと感じます。
 そのためには、とことん自分の執着を手放し、新しい観方を受け入れていく必要があるのが痛感させられます。真似できていない、見えていないと言われると、人間は自分の人間性が攻撃されていると勘違いし、無意識のうちに防衛本能を働かせてしまうものです。「そんな事はない」と否定するのは人間の心理としてある意味自然な事で、だからこそ精神的にも放鬆し、受け入れられる精神状態になる必要があるのだと思います。

 正しい事は正しいし、違う事は違う。本当にただそれだけの事です。
 太極拳に限らず、物事のそのシンプルさに目が向いた時、心身ともに自然の理に則ることが出来、それによる発見も自ずと導かれるのかもしれません。
 太極拳の稽古は、同時に人間としての在り方を磨いてくれる、本当に価値のあるものだと思います。


                               (了)





☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!


disciples at 18:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2025年01月27日 00:34
対練によって自分の認識や普段の動作が明確になります。日常会話でも対話を繰り返すと「本当の思いが引き出される」のと似ていますね。何をまねるか?人それぞれ優先順位が存在し自分では気が付けないでいます。「自分のオデコに書いてある文字」のように自分では読めない。代わりに宗師や稽古相手が読んで私たちに伝えてくれています。太極武藝館の対練では「自分がどうあるか?」「相手がどうしたいか?」がまるで常識と真逆に存在する様に感じます。基本功、套路、四正手は全て同質に見え、異なる目的を持って存在し瞬間的にすら力まない様です。柔功→基本功→套路→対練(四正手)→柔功・・・と連環し通してゆくと分かり易いのかもしれませんね。ひとりの時は柔功→基本功しかしておらず、イメージや対練での失敗をフィードバックしてみます。太郎冠者様ありがとうございました。
2. Posted by 松久宗玄   2025年01月27日 21:51
見る=認識するという事には、本当に悩まされてきました。
見ようと集中して前のめりになったり、
いやいや、考えずに見ようと、自分を空にしようとしてみたり、
自分を整える事で、自分に反映される写像の精度を高めようとしたりと、
色々とアプローチを試みてきました。

いずれのアプローチでも、学びもあれば、行き詰まりもありと、
振り返れば一進一退の試行錯誤を続けてきたように思います。

今は、自分自身に対する見方が変わっていく事が大事だと感じています。
自分が変わらないと、結局は見方を変えられないものなのだと感じています。
出来ない事を直視して、ちゃんと思い知る、
そこに見えていない「自分自身」という空白がある事を受け入れる・・・

先日、「放鬆しないと気付きが生じない」と宗師が仰っていましたが、
本当にその通りだと思いました。
3. Posted by マルコビッチ   2025年01月27日 22:44
>そうではないのかもしれない…と、少しずつでも自分の認識に違和感を持ち、変えていけるかが肝要・・
 本当にそうですね。
まずは疑ってみることで、確信が生まれることもありますよね。
 5年前には見えなかったことが今は見える・・どうやって見えるようになったのだろう?
見せていただいてること、言っていただいてること、その時は分からなくても、自分の中で肥料になり種になる。
そして自分との違い、違和感をスルーさせずに取り出してみる。
どうして違うのだろう・・あれこれ考えて試してみて、結局基本から外れているという当たり前なことに気づいたりする。
今から思えば、見えていない時はやはり思い込みや自分なりの認識で動いていたと思います。
 先日、宗師が少し高度な動きを見せてくださいました。
そこにいた門人全員が、拝見しながらニコニコ笑っていて、「どうして全員みんな笑ってるのー!」と宗師も笑いながら仰っていたのですが、私は笑いながらとても清々しい気持ちになりました。
宗師の動きの現象があまりに浮世離れしていて、美しくて、私がその日関わっていた人間関係や、社会の出来事がスコーンと抜け落ちたような感覚になったのです。
世界が違う!本当に幸せだと思います。
もっと見えないことが見えるように、自分の考えていることや思い込みに注視していかなければと思います。
 なんだか思うままのコメントになってしまいすみません。
4. Posted by 川島玄峰   2025年01月28日 22:02
昨年は特に稽古で見えていなかった事に気付かされた一年でした。
そもそも動きが理解できなかった事もあり自分勝手な捉えで無意識に補足していたのだと思いました。
今回の記事により私自身が無意識の補足が自覚できなかったのは日常の固定された考え方に問題があるのではと気付かされたように思います。
もっと感性を養い視野を広げる行動が必要と感じますが無自覚に固定された考え方を修正するにはやはり稽古の中で自覚していくのが一番の近道のように思います。
今後の受容性を高めるためにも己自身を見つめ自覚できる在り方に変容できるよう稽古で教わり続けたいと思います。

ありがとうございました。
5. Posted by 平田玄琢   2025年01月29日 14:42
私は「しっかり見ても見えていない部分」というのは、自分がまだ理解できていない基本の動きであり、それができるようになれば、その動きが見えてくるのではないかと思っていました。
掛川道場の稽古時に、門人の先輩に「師父のあの動きをよく見て真似をして」とよく言われましたが、何かが動いている事はわかるのですがサッパリ分かりません・・・という有様でした。

自分の事として分析すると、やはり、見えていない動きの自覚が無いと、自分の理解の範囲の動きで代用してしまい、似て非なる動きとなります。
また、その違う動きに伴って明確な意識の用い方も、別のものに変わってしまっているのだと思います。
6. Posted by 西川敦玄   2025年01月29日 20:18
今回の記事を読んでいて、意識的かどうかわかりませんが、同じ論説のなかに二つの似た概念が混じっているのに気がつきました。
記事の中で問題となっていることの表現が、一つは見えているのに、意識の上に登っていないこと(見ていないこと)。もう一つは見えていることを、無意識にゆがめているということです。

実際の稽古の反省を思い返すにつき、我々は、この問題をとかく二つ目の問題ととらえてしまっているのではと思いました。

今回記事を読んでいくと、最初の宗師の言葉のくだりでは、一つ目の問題が提起されているのに、後半の自分の稽古を省みる段になると二つ目の問題にすり替えられているようにも見えます。

われわれは、深刻に悩むのではなく、純粋に一つ目の問題に対峙してみることに気付かないといけないのではないでしょうか。
太郎冠者さんの記事をみて、そんなことを思いました。
また、稽古で見えていないことに向き合っていきたいと思います。
太郎冠者さんありがとうございました。
7. Posted by 阿部玄明   2025年01月29日 22:41
最近は稽古がどんどん高度になってきて難易度が上がってきてます。
宗師より示されていることをどのように捉えるかは
基本の理解と定着度合いに影響されています。

本来は歩法、套路、対錬すべては純粋に架式だけで行われなければならないはず。
高度になってくるほど架式のアラが出てきます。
架式のアラは物事の見え方にも影響します。
大きく動く、隅々まで連動して動く、一動作で動く、などの要訣の中から高度な武術を理解しないといけないのに別の何かの付け足しで理解しようとしてしまう。

自分の見る意識も同じで意識が弱っていて見えていないことを認識できていない。
見たような気になって空白部分を別の何かで補填してしまっている。
太極拳は意識が最も大事であり、見る意識の弱体化は大問題であります。
弱ったものは鍛え直すしかなく自分の喫緊の課題です。
8. Posted by ユキ   2025年01月29日 23:41
>とことん自分の執着を手放し、新しい観方を受け入れていく必要がある

学びとは、この一言に集約されますね。
同じ車で同じサーキットを走っても、素人とプロではブレーキングもラインも、タイヤの使い方も、何もかもが全く違います。要するに、色々なことが違うのではなく「考え方」が違うのです。そしてその考え方の違いは、突き詰めていくと「自分の執着」に行き当たります。
自分の執着をいかに手放すかは、まさに命綱を持ち替えるくらいの勇気が必要で、今にも落ちそうな自分がしがみついている命綱から新しいロープにジャンプできるかどうかが、プロとアマの違いなのかもしれません。
常に考え続けられること。常に新しい自分でいられること。そちらに対して執着を持てば、不要なものは自然と落ちるのでしょう。
精進あるのみですね。
 
9. Posted by マガサス   2025年01月30日 15:44
稽古を続けていくと、稽古でも日常でも「自分の見たいように物事を見ている」ことがほとんどだったと気付かされます。
自分の「考え方」「感情」「思い」などが優先してしまい、シンプルに「その物事は何であるのか」を見てとり、受け取ることが困難になってしまいます。
稽古では、毎回新しい気持ちで、日常を持ち込まず、宗師の示してくださる姿をまるで初めて見るかのような気持ちで拝見することを心がけていますが、慣れというものは恐ろしいもので、いつしか自分の目を濁らせてしまいます。
難しいのは、自分が「見ているつもり」になってしまっていること。
動きの中でどれだけ丸々宗師に合わせることができるかということ。
気持ちは初めて見るかのような新鮮な状態であるけれども、こつこつと自分と照らし合わせ、自分の体に馴染ませ、自分なりにならないように理解を深めていくこと。
言われたことを言われた通りにやること。
と、色々と考えていますが、それは自分が気付かせてもらえた事として大切にし、思考にならず、見えていないことを見ようとして、自分がどういう状態なのかをよく観察して、どーんと太極拳に身を委ねたいと思います。
いつも自分を省みることができる記事をありがとうございます。
10. Posted by 清水龍玄   2025年01月30日 23:17
自覚するすることは、自分が変わる為のスタートのように思います。
しかし、無意識では自覚は起こらないと思います。
忙しく、こなさなければならない仕事が多いほど、自分の穴が見えてきて、見ているつもりで見ていない事が危険だと感じます。
何をしていても、自身に関わることが稽古に繋がっていると感じています。
11. Posted by 川山継玄   2025年01月30日 23:32
「ABCDと示されたことを、A・・Dと見ていたり、A・C・と見ていませんか?」
と宗師に言われ、ハッとしました。そのように見ている自分に気付いていなかったと。
自身をどれだけ俯瞰できているか問うてみると、自分の都合で、ああでもないこうでもないというざわめきを感じずにはいられません。
自分の都合が何であるのか向き合って、それをやめていく。
示されたものとの違いに気付き、自分なりをやめていく。
自分の都合を削いでいった先に見える景色を、太極の原理に身を委ねて得られる充実感を只々味わいたい‼と強く思う今年に入っての日々です。

太郎冠者さん、互いに切磋琢磨していきましょう。
素晴らしい記事をありがとうございました。
12. Posted by 太郎冠者   2025年02月03日 23:06
☆ハイネケンさん
>自分のオデコに書いてある文字
動物に実際にこれを試して、鏡を見て自分に何かが書かれていると認識出来る動物は知能が高いと言われているそうです。

人間は知的であるなどと言われておりますが、見渡してみると(自分を含め)果たして本当なのだろうか…と疑いを持ってしまうことがしばしばあります。
せめて太極拳を稽古している我々は、書かれている文字に気づき「おかしいぞ?」と思えるような知性を持ちたいものです。
鏡を渡され、ましてや指摘までして頂いているのに何が違うか分からないでは済まされないのだと思います。

…ともあれ真面目一辺倒にならず、肩の力は抜いて放鬆しながらやっていくのが一番だと思いますので、リラックスしてやっていきましょう!
13. Posted by 太郎冠者   2025年02月03日 23:13
☆松久宗玄さん
今回の記事でも「センサーを磨く」と書きましたが、先日稽古をしていてふと感じたのは、そもそもセンサーで拾おうとしてるチャンネルが違ったら受信できないかも、というものでした。

音響センサーを使っているのに電波を拾おうとしたり、その逆をしながらどれだけ努力をしているつもりになったとしても、それは全く無意味なものになってしまうはずですよね。

仰る通り、見方を変えたり、放鬆しないと気づけないというのは、自分がそうだと思ってしまっているチャンネルに気づいて、太極拳の周波数に合わせられるかが問われているのだろうと、改めて思いました。
それが学習していくための一番の近道というのは、本当に面白いと思います。
14. Posted by 太郎冠者   2025年02月07日 00:38
☆マルコビッチさん
>スコーンと抜け落ちたような感覚
普段来ている稽古を一回お休みしただけで、「おじさんになった」と言われた太郎冠者です。
その日稽古をしていると、終わるころには若返ったと言われほっとしました。

冗談はともかく、人間というのは知らずに簡単に日常にまみれてしまい、太極拳で見えるはずのものが見えなくなってしまうものだと思いました。知らずにそうなってしまっているというのが本当に怖いところですね。

宗師の動きは、そういった日常の感性を吹き飛ばしてしまうような質があり、それを見ると思わず笑みがこぼれてしまうのだと思います。
それだけ価値観を変えてもらえる経験はとても貴重ですし、自分もそのように変化していきたいですね!
15. Posted by 太郎冠者   2025年02月07日 00:42
☆川島玄峰さん
宗師には常々、日常での在り方によって稽古が変わるという指導をして頂いています。
私自身、仕事が忙しくなるとそれに簡単に飲まれてしまい、自分では大丈夫だと思っていてもどこかでだんだんと太極拳とは違う価値観に浸食されてしまっているかのような気分です。

俗っぽい感性では太極拳で何が示されているのか見えなくなってしまいますし、かといって地に足のつかない空想に近いものでも、同じように太極拳は見えてこないように感じます。

地に足を付け、かつ上から吊られているように真っ直ぐ立てるかという太極拳の要訣が、そのまま生き方にも反映されることで、稽古も人生も同じように変化させていけるのだと思います。
私も、また頑張って取り組んでいきたいと思います。
16. Posted by 太郎冠者   2025年02月08日 16:26
☆平田玄琢さん
>何かが動いている事はわかるのですがサッパリ分かりません
第六感…といっても霊的なものではなくて、目では見えていないし他の感覚に上がってきていないけれども人間が知覚出来ているものというのは、思っているよりもたくさんある気がします。

以前、稽古中に行われた実験で、タオル等で自分から相手が見えない状態にした上で触れずに相手を崩すというものが行われた事がありましたが、普段と変わらず普通に崩れていました。

宗師の動きに合わせる時も、ただ目で見えたものだけでなく他の感覚も全て使って全身で合わせる事が必要だと言われますし、自分の中で凝り固まってしまったものを変えていくにもそれが必要なのだと感じます。
それらは全て、玄琢さんの仰る通り基本の動きの中にあるのだと思います。
基本に忠実にただただ動く…本当に奥が深いです。
17. Posted by 太郎冠者   2025年02月08日 16:36
☆西川敦玄さん
>同じ論説のなかに二つの似た概念
確かにおっしゃる通りです。しかし、厳密に書くとただ話が煩雑になってしまうだけなので…。
我々の目的は示された動きを見て、それを自分の動きとして正しく再現するという事なので、見る→動くという過程で正しく再現できないものは全て「見えていない」という事で片付けて問題ないだろうという事で書きました。

おそらく個々人で問題となる点は細かく言えば違うのかもしれませんが、目的をひとつのものとして焦点が絞れれば解決策はシンプルであり、かつ宗師のアドバイスが非常に効果的なものとなると思いました。
>深刻に悩むのではなく
これは本当に同意です。悩んで解決するのだったらいくらでも悩みますが、太極拳の場合は案ずるより産むが易し、正しいことをやれば即座に解決できます!
…というように、精神的にも放鬆して取り組むのが一番かと思っております。
18. Posted by 太郎冠者   2025年02月09日 01:56
☆阿部玄明さん
>最近は稽古がどんどん高度になってきて難易度が上がってきてます

同じことや出来ることを繰り返していても上達はしないという点で、我々が多少は上達してきている結果が稽古にも反映されてきている、と前向きにとらえることが可能なのかと思います。
もちろんそれに見合った変化に我々がついていかないことにはこの先がないというのは事実ですが、わからないことや出来ないことにぶつかることでまた新しいことが開けてくるのも感じられます。

いずれにせよ、問題の根本は基本や架式の整備の状態に集約されると思いますし、また特に対練などでは、自分が「力」というものに対してどのような認識を抱いているか、それによる影響も非常に大きいのではと思います。
何をするにも目を見開かされ、見つめ直す必要があるのは、すごいことですし、自分には非常に面白く感じられます。
19. Posted by 太郎冠者   2025年02月09日 02:08
☆ユキさん
>執着
人間は不思議な生き物で、対練で全く力を使わずに相手が吹っ飛んだとしても、逆にそれはそれで納得できない…という妙な矛盾を孕んでいる時があります。

仕組みを理解しきっておらず再現性がないからといえばそうなのですが、どこかで「そんなことで力が出ているはずがない、相手が飛ぶわけがない」と思い込みたい自身の執着が手放せないのではないかな、と思うこともしばしばあります。
それが逆に、宗師が仰っている「シンプルな事」の理解を邪魔してしまっているというように感じます。
それを手放してしまえる人から見れば、こんな簡単なことなのに、と見えるのでしょう。
太極拳が難しいと感じるとするならば、太極拳そのものを難しく感じるのではなくて、執着を手放すことの難しさを太極拳に重ねてしまっているのかもしれませんね。
>そちらに対して執着を持てば、不要なものは自然と落ちるので
本当におっしゃる通りだと思います。
私も、精進していきたいと思います。
20. Posted by 太郎冠者   2025年02月10日 01:13
☆マガサスさん
>自分の見たいように物事を見ている
太極武藝館のカレンダーの今月分にのせられている写真と言葉が非常に印象的で考えさせられます。

そこに掲載されいている写真は花の写真(個人的にはとても美しく感じます)…それ以上でもそれ以下でもなく、しかし我々はそれを見ることで、そこにストーリーを感じ取り、存在しないはずの感情にさえ思いをはせることが出来ます。
これ自体は非常に素晴らしいことですが、裏返すと、そのように簡単に自分の思いが入り込むとも言えるかと思います。

『物事は、実はどちらでもない』
自分の考えや思いを挟まず、物事を見つめること。
太極拳を見ていく上で、本当に大事なメッセージだと感じます。
21. Posted by 太郎冠者   2025年02月10日 01:16
☆清水龍玄さん
日常生活の中でも、見えているつもりで意識がない瞬間というのは意外とたくさんあり、そういう時に人間は事故を起こしたり怪我をしたりしてしまうような気がします。

二十四時間意識を張り詰めているのは難しいかもしれませんが、常に周囲や自分の事に気を配り、適切な向かい方が出来ればそういった事は防げるのかもしれません。
そういう意味で、忙しい仕事の時にこそ太極拳の稽古が生きてくるのかもしれませんね。
ともあれ、しっかり休息を取ることも必要で、体をほぐさないといけないとも言われているので…
何事もバランスを大事にしないといけないのだと思います。
22. Posted by 太郎冠者   2025年02月10日 01:45
☆川山継玄さん
自分を挟んで稽古をすることと創意工夫することの違いは言葉にしようとすると表現しづらいところですが、やっていると肌感覚でわかってくるような…そんな感じがしています。

見たままをやるつもりになって考えなしに同じ事をし続けるのでもなく、ただ闇雲に自分の思い付きを試すのでもなく、根本部分として基本に根差した創意工夫であるか、それが求められている気がしています。
宗師は掤(ポン)の練習をしている際にも、冗談めかして「この形で戦うわけではない」と仰っていますが、では太極拳の基本を守ること、それで戦えるとはどういうことかという事にまで、我々は目を向けて頭を使っていかなければいけないのではないかと思います。
戦い方を開発していくのではなく、そこに秘められた真意を紐解く事。そのために頭を使わなければならず、創意工夫しながら忠実に基本を守らなければならない、陰と陽の両方の性質が必要になるのではないかと思います。
そうやって紐解いていけるだけの土壌が太極拳にはあるのが感じられますし、だからこそ、全身全霊で取り組んでいきたいと思わせてくれるのでしょうね。

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ