2024年11月30日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その89

   『暗号を読み解く 〜続 型はすごい〜』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 古代エジプトで使われていたヒエログリフという象形文字は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンという古代エジプト学の研究者によって解読されました。
 ヒエログリフの解読は、かのナポレオンによってナイル川近郊のロゼッタという街で再発見された、ロゼッタストーンという石板に刻まれた文字の研究によって成されたのだそうです。ロゼッタストーンは、紀元前のエジプトの王プトレマイオス五世の勅令が刻まれた石柱で、そこにはヒエログリフ、デモティックという民衆文字、古代ギリシア語の三種類の言語が刻まれています。

 シャンポリオンは、言語学の知識を総動員し、ヒエログリフに刻まれた「ラムセス」という王の名を判別することに成功しました。それをきっかけにして、ヒエログリフを解読することに成功したシャンポリオンは、「エジプト学の父」と呼ばれているのだそうです。

 私はこのエピソードがとても好きで、何かの謎を解いていくために必要な普遍的な方法がここに示されているように思います。今回はこのエピソードを絡めて、太極拳の稽古で自分が行っていたことについて少し書いてみたいと思います。
 ロゼッタストーンには、ヒエログリフ以外にもふたつの言語が書かれていると先に挙げました。その中でも古代ギリシャ語は特に研究が進んでいる言語で、それらを比較検討することで、シャンポリオンはヒエログリフの解読を可能としたのだそうです。同じ部位、同じ単語が出てくるところを共通のものとして捉え、そこから文章をつなげていくことで翻訳を可能とする。ざっくりとした説明ですが、なんとなくイメージがつくのではないかと思います。

 さて、太極武藝館で指導されている太極拳は「暗号」であると宗師が仰っているのを、我々門人は一度と言わず耳にしたことがあるはずです。我々にとってはある種、未知の暗号=言語であるともいえる太極拳。であるとするならば、シャンポリオンがヒエログリフ解読の際に用いた方法論が、形は違えど暗号である太極拳でも適応できると考えるのは、そう荒唐無稽な話ではないと思えます。

 前回の記事で私は、「型はすごい。套路は様々なことを教えてくれる」と書きましたが、実はそういった発見に至った明確なきっかけと呼べるものがありました。
 それは何だったのでしょうか。実は私は、沖縄に伝わる「空手」の研究をきっかけに、太極拳に関してたくさんの発見へとつなげていったのです。それはあたかも、ロゼッタストーンに刻まれた古代ギリシア語のように、私を太極拳という暗号の解読へ導いていってくれるかのようでした。

 太極拳なのに空手の研究?と首をかしげる方もいるかもしれませんが、これは何も私個人の考えではじめたものではないのです。実は以前師父が、ある空手の立ち方について研究することが、太極拳で行われる馬歩の理解につながると我々に指導してくださったことがあったのです。
 正直そのころはよくわかっておらず、「太極拳ひとつでも大変なのに空手なんて研究したら余計に分からないよ!」と思ったり、「なんとなく似てる立ち方だからかなぁ…?」などという浅い考えで取り組んでみたりもしたのですが、結局良く分からないまま終わってしまい、それ以上の理解には繋がっていませんでした。

 そもそもの武術の成り立ちとして、太極拳と空手には、非常に似通った所があるように思います。太極拳は、ルーツをたどれば陳家溝という村で、一族を守るために住民皆、女性や子供でも戦えるようにするための武術であったという説があります。その証拠に、少女が盗賊を槍で一撃で仕留めたという逸話が現在にも伝わっています。
 いっぽう空手はといえば、基は沖縄で伝わっている「手(ティー)」と呼ばれた武術で、農民や漁民のように武器を持たない一般市民が、武装した盗賊や海賊を相手に戦えるよう、護身のために伝えられたものだそうです。この時代の海賊とは、刀で武装した九州地方の武士階級の人たちもいたそうで、いわば職業軍人である武士と市民が渡り合うための武術だと考えると、なんとも豪快で凄いものです。
 つまり両者とも共通して、弱く非力な人間でも、大きくて強い人間と戦うための武術であったと言えるのではないでしょうか。
 その具体的な技術体系を見ていくと、どちらも決められた形を守ることに主眼が置かれています。空手では型を徹底的に行い、太極武藝館に伝わっている太極拳では、その架式を身に付けることが目的とされます。
 空手で行う最初の型は「ナイファンチ」、太極拳では馬歩での立ち方が練習され、どちらも共通して、足を大きく横に開き、まるでどっしりと腰を落としたかのような形が取られます。
 目的を同じとした別の拳法が最初に行うことがこれほど似通っているという事は、そこに見いだせる形はその目的達成のために非常に理にかなっている、と言えるはずです。

 その形は、非力な人間が戦えるようになるほどの、非常に強い力を備えた構造である…その至極単純な理解が、私にとっては導きの光となったのです。
 一度その理解が生じると、様々に示される他の形が、全て同じものを目的とした原理の追求の別の形であることが連鎖的に理解できてくるようになります。空手に関しては、師父に示して頂いた形や動きといった断片的なものや、出回っていて見られる画像や動画の情報しかないのですが、そこに表されている段階的に力が得られる構造として作られた体系は、非常に興味深いものがあります。
 また、それを通して培われた見識を持って太極拳の稽古体系を改めて見直してみると、これが本当に凄いものだということが肌で感じられてきます。套路のみならず、基本的な練功でさえその動きの端々に、太極拳の架式とそこで構造を練るための方法論が散りばめられているのが感じられるのです。

 見方を変えるだけで、少しずつとはいえ急に読めるようになってくるのは、本当に不思議なものです。あたかも、ロゼッタ・ストーンに刻まれた「ラムセス」の名が理解されたシャンポリオンのように、いままで分からなかったその文章が、次第にこちらに語りかけてくるようになってきたみたいに感じられます。
 なんというか、いままで横書きだと思っていた文章が実は縦書きで記されていたもので、それがわかったら途端に読めるようになってきた、という感覚に近いでしょうか。

 太極拳は難しい…太極拳の功夫を深めるには時間がかかる。太極拳は架式が重要である。太極拳の套路は段階的に練習され、次第に難易度が上がっていく。まずは套路の最初からしっかりと出来るように身に付けていく。
 どれも正しい表現だと思うのですが、正しいもの同士を組み合わさって間違ったものが出来るということも、現実にはあり得るのです。そうして間違って出来てしまったものを基にして勉強しようとして、遠回りしながら太極拳を理解しようとしていたことに、私は空手の研究を通して気づくことが出来ました。

 そもそも必要な形、架式は一番最初に示して頂いていたのです。
 それがすでにそこにあるとした上で全ての練功や套路を見たり、実際に行ってみると、太極拳という武術が一体何をしようとしているのか、ひとつのつながったものとして見えてくるのだと思います。
 逆に言えば、太極拳とは架式、馬歩・弓歩ありきで作られた形や型であるため、そこから読み解き始めない限り解けないのではないかと思います。

 先に挙げた通り、太極拳の功夫を深め練度を高めていくには、相応の時間はかかるのは当然のことです。
 ですが極端な話、武術として戦うための構造はもっとシンプルであって、正しく理解する事さえできれば早く身に着けられるはずなのです。そうでなければ…習得そのものに何年何十年も掛かるようだったら、事の是非は抜きにして子供を戦わせることなど不可能になってしまうからです。身近に子供がいると身に染みて感じますが、彼らはあっという間に大きくなってしまうのですから。何十年も子供でいる人はいません。
 また、一番大事にしなければならない一族の子供を、簡単に負けてしまうような中途半端な状態で戦いに駆り出したとは到底思えません。つまり本来は子供であっても…つまり何十年とかからなくても、相応の戦闘能力を身に付けることが可能だったと考えるべきです。

 そうであるならば、事実自分がそうだったのですが、どれだけ稽古をしても理解が得られないというのならば、それは現代に生きる自分の理解の仕方が間違っていたと考えて然るべきです。
 私の場合、このように間違えた認識を抱いていました。

・基本や套路を練ることで、正しい架式や動き方が「理解できる」。

 一見間違っては見えないのですが、実はこれではどれだけやっても架式の上達どころか理解も覚束ないのです。
 なぜなら、すでに書いた通り、基本の馬歩や套路の最初で提示されている形が、すでに正しい構造で、正しい架式だからです。
 特に套路は、おそらくですが、最初に提示された架式の理解を「深めていくため」に、段階的に形や動作のバリエーションが増えて難しくなっていくように出来ているはずです。
 これは、架式をわかっていない人間が正しい架式を「理解していく」ための体系とは似て非なるものなのだと思います。微妙なニュアンスの違いが伝わるでしょうか…。
 車の運転で言えば、套路は初級のサーキットから徐々に難しくしながら練習をしていくようなもので、そもそも自転車と自動車の違いが分からない人が行くべき場所は、免許の講習所であってサーキットではないのです。

 …ここからが一番重要な話になります。

 ただ、どれだけド下手くそ(失礼)だろうがなんだろうが、足でアクセルを踏めば車が動くことが分かれば、そこから先はサーキットでプロのドライバーが隣でつきっきりで指導してくれるかのように、套路という学習体系は我々に様々な事を段階的に教えてくれるように出来ているのだと思います。
 文字通り、套路の形そのものが、我々に勉強すべきことを語りかけてくれるのです。

 では、太極拳の学習を行う我々にとって、車のアクセルとブレーキに該当するものとはなんなのでしょうか。それこそが架式であり、せんじ詰めれば馬歩や弓歩の、足を開いて立つあの形に行きつくはずです。乱暴だろうがなんだろうが、アクセルペダルに足を乗せて踏み込めば車が動くように、足で蹴ってようが居着いてようがとにかく馬歩で、あの形で立って始めるのです。
 やっていけば繊細なアクセルワークは嫌でも身に付いてきます。そのためには、下手でもなんでもその馬歩や弓歩で立って動くことで、そこに働く力学を理解していかなければいけないのだと思います。
「正しい架式」と「架式の練度」は、おそらく分けて考えなければならないのです。そこを一緒に考えてしまうのが、混乱の始まりなのかもしれないと私は感じています。

 私にとっては、その理解への第一歩が空手の立ち方の研究であり、太極拳の架式へつながるものでした。
 それこそが、太極拳を理解していくための第一歩、私にとっての「ラムセス」…王の名にあたるものでした。
 最近基本や套路を稽古していて感じるのは、宗師の仰る通り、太極拳とは本当に何も隠されていないのだということです。我々がしなければならないのは、姿の見えない隠された…存在しているかも怪しい石板を探すのではなくて、今まさに目の前にある石板、そこに刻まれた文書を読み解く努力なのだと思います。
 一度その認識に至ると、これまで黙りこくってただの冷たい石板としか思えなかったものが、実は雄弁に語りかけてくれていたのだということが、本当に体験できるかと思います。
 たとえ今は全てを読めなくとも、いずれ読み解かれる事を待っている物のように感じられてきます。
 これは本当に楽しいことで、この追求に生涯を掛けるだけの価値は十分にあると、そう思わせてくれるものではないでしょうか。

                           (了)








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disciples at 18:00コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by ハイネケン   2024年12月01日 16:19
馬歩の存在から、空手と共通するシステムとその全体像への理解まで及ぶ壮大な論文ですね。とても刺激的で興奮しています。
ロゼッタストーンは3種類の言語が「同じ文」なので解読ができ、ヒエログリフが表音文字だったので今もアルファベットへ変換できます。3種類も書いたのは旅行者の為か言語の失伝の為か。
「馬歩をどのように取るか?」を考えていても「なぜ馬歩があるのか?」の疑問には行き着きません。両手を挙げたり、分けたり。歩幅は広く、歩形も明確に区別している。およそ「日常では使用しない形」ばかりです。そんな形を真似れば、力みが出てきます。では何を真似れば、取り組めば良いのでしょう。わざわざ力み易いであろう形をとらせていて、、、面白いですね。人間は自分が意識しているものしか見えないものです。今まで「基本や套路を練ることで、正しい架式や動きが理解できる」と思っていました。稽古が変わります。太郎冠者様、ありがとうございました。
2. Posted by マルコビッチ   2024年12月01日 16:48
大変興味深い記事をありがとうございました。
空手の研究を太極拳に反映させて、多くの発見に繋がったということで、やはり見る方向を変えることにより見方考え方も変わるということがよくわかります。
古代ギリシャ語の役目となることはそれぞれ違うと思います。
太郎冠者さんのように『空手の研究』から比べていくようなことではなく、私にとっての古代ギリシャ語は前で示してくださっている宗師のお手本であり、要訣であり、自分が理解したことです。
分からないことを知らない考えで進めていくのではなく、そのようなヒントを合わせ、はめ込み、組み立て、自分の頭と身体をフル活動させて試し、未知なることを紐解いていくという形です。
太極拳は『正しい架式』であるがゆえに勁力が生じると言われています。そして正しい架式から歩けること動けることに繋がることを考えても、その『正しい架式』こそがヒエログリフであるのかもしれませんね。
しかし、宗師の動きを拝見しているとまだまだその先があるようで、その謎はこの先取り組んでいく套路からも解けそうな予感がして期待が膨らみます。
楽しみです。
3. Posted by 松久宗玄   2024年12月02日 21:48
確かに、過去に師父より空手の立ち方について示唆を示して頂いた事はありましたね。
当時は私も「?」しか、頭に浮かばなかった記憶が思い起こされます。

現在において、改めて形をなぞってみると、確かに「なるほど」と思うところがあり、
当時とは異なり、香ばしい匂いがするように感じられました。

空手に限らず、伝統武術の型の世界には、理論的な身体の記述が認められます。
現代において、どれだけの中身が伝承されているのだろうかにも、思いを馳せてしまいました。

我々の学ぶ処の太極拳學の意味を、未来に残していけるかどうか、
逆巻く時代の流れに負けず、抗っていきたいものだと思いました。
4. Posted by 川島玄峰   2024年12月03日 20:48
この度の記事を読んで今までしてきた稽古は古から伝わる拳理拳学の研究と実践であるとつくづく思います。
太郎冠者さんのように視野を広く研究する事が大事ですね。
研究しながら示された内容を検証し実践する。そして評価されまた次の課題に向かい合う。そのような循環する稽古が謎を解き明かすための考え方、見え方が養われて来るのだろうと思いました。

これからも尽きる事のない謎解きを研究して行きたいと思います。

ありがとうございました。
5. Posted by 阿部玄明   2024年12月04日 02:12
太郎冠者さん
今回のブログ記事も大変刺激的で何度も読ませて頂きました。
古代の碑文を紐解くことと同じように、太極拳を解読していく作業は面白くて仕方がない
ということを感じ取れます。
古代の碑文でも秘密の暗号文でも同じですが解読するための手がかりが必要です。組み合わせや配列、何か別の文字へ変換、法則性・・・・・などによって暗号化された情報を平文に戻すための対応表が必要です。この対応表を正しく理解していれば暗号は容易に解けるが、誤解していると解読が難しくなってしまう。
太極拳が示していることから法則を読みとって自分のモノにできないのは、自分自身が太極拳の対応表について理解が不十分だからだと痛感しています。まさに縦読みすべきところを横に読んでいるようです。
太極拳の要訣を正しく理解しているかを点検し、コードの読み取り方を常に修正していく作業を継続していく所存です。

6. Posted by 平田玄琢   2024年12月05日 01:54
日本にも読むことの出来ない書物(暗号)がありました。奈良時代が終わり、当時の人は誰もいなくなり、難しい書物(古事記、萬葉集等)が残されました。仮名がまだなかったため、
例えば
「馬聲蜂音石花蜘蛛荒鹿」
馬が「イヒヒン」といななく、馬聲はイ。蜂はブーンと羽音がするから蜂音はブ。石花は海底の石についている動物セ。読むと「いぶせくもあるか」意味は、「心持ちの晴れないことでありますわい」だそうです。

それ等の古書は、江戸時代の国学者が、数十年かけ努力の末読み解かれました。35年の歳月をかけて古事記を解読した本居宣長氏の先生は、遠州の賀茂真淵氏でした。
遠州の神主の多くは門人となり、遠州国学が盛んになりました。
本居氏の影響を受けた学者が、平田篤胤氏。私の五代前の先祖が師事したため、祖父の名は平田慧胤でした。

国学者は医者が多く、私の先祖も漢方と歯科医をしていたようでした。以前、山に点在している土葬の先祖等の墓を掘り出し纏めた時に、髪の毛を束ねた頭蓋骨とともに、陶器の入れ歯が掘り出されました。
こんな昔に入れ歯があり、奥さんの入れ歯を作ったのかと感慨深く思いました。

コメントが脱線しましたが、太極拳は、生涯の終わりに相応しい大変興味深い謎解きであると私も思います。
7. Posted by 川山継玄   2024年12月05日 02:12
>下手でもなんでもその馬歩や弓歩で立って動くことで、そこに働く力学を理解していかなければいけないのだと思います。

忘年会で、
「頭でわかった気になっているだけでは、それは理解したこととは言えない。実際にやってみて初めて実感を得られる。実感が伴った時に成長が出来る」
という内容のお話を、宗師がしてくださいました。

「言われた通りにやってみる」
耳にタコができるほど、言われ続けるこの言葉の意味を、私は取り違えていた事に、太郎冠者さんの今回の記事で、思い当たりました。
この期に及んでも尚、言われた通りにやってみて出来る事を求めていたと。
言われた通りを最大でやってみて初めて、言われたことと違うことをしている自分に気付き、それを手放す。
型にはまろうとして、はみ出している自分に気付き修正する。

最大限にやってみて、原理と照らし合わせ、そうでは無いと自我を削ぎ落した時に生じる実感を、成長に繋げたいと思います。

今回の記事の展開に、使っていない頭の回路を使った気がします。
ありがとうございました。
8. Posted by 西川敦玄   2024年12月05日 16:49
太郎冠者さんありがとうございます。読み応えのある記事でした。何度も読み直しました。改めて、例にあった空手の「ナイファンチ」とはどんなものか、調べてみました。空手の求道者に怒られるかもしれませんが、浅い気付きがありました。「ナイファンチ」とは立ち方であると同時に型なのですね。そういう眼でみれば、我々の基本功も立ち方であると同時に型といえるかもしれません。

車のアクセルとブレーキの例えは面白いですね。太郎冠者さんに記事にしてもらうまで、なぜ師父が車の運転に譬えられることが多かったのか、少し考える機会になりました。単に私が車好きだから、解りやすかろうと譬えられただけではないことに思い当たりました。

* 下手でもなんでもその馬歩や弓歩で立って動くことで、そこに働く力学を理解していかなければいけないのだと思います。*
太郎冠者さんのいわれること、その通りだと思います。賛同します。これからもしっかりと一緒に稽古していきたいと思います。よろしくお願いします。
9. Posted by ユキ   2024年12月05日 21:02
ロゼッタストーン、読める人(書いた人?)にとっては暗号ではないのですよね。 それが、二千年以上の時を経て解読のためのカギ、コードとなる。・・これを浪漫と言わずになんというのでしょうか。

太郎冠者さんが書かれた通り、架式はすでに示されています。それでは、なぜかくも架式は難しく感じられるのか、何が難しいのか、それを明確に認識することが第一かも知れません。

太極拳の謎は、解いて扉を開くたびに次の扉が現れる、そのように感じられます。取り組む人の数だけ、取り組むレベルに応じて暗号を解くコードが用意されているとしたら…そう考えると、スケールの大きさに笑いがこぼれます。
追求した分だけその姿を現すなら、全力でやるのみ、です。
頑張りましょう!
 
10. Posted by 清水龍玄   2024年12月05日 23:07
私は子供の頃、コナンドイルの踊る人形が好きでした。
一見、意味不明な人形の絵の羅列で、殆どの人には、まるで悪戯書きのように見えるものが、共通点を洗い出し、読み取ることによって、文章が現れる面白さと、シャーロックホームズがそれを解く様、そして解けてはいたが遅くなり起きてしまう悲劇。

何とか私も、太極拳を解いてみたいと思います。
11. Posted by マガサス   2024年12月06日 09:41
 何か一筋の光が見えたような気がしました。
どこかで、やればやる程謎が深まりよくわからない不安の様な感じがあったのですが、捉え方や認識の違い、確信が持てないことから生じていたかもしれません。
「待っていても馬歩はできませんよ。」と宗師に指摘して頂きましたが、その通り!
もっともっと使えるものを全て使って解いていきたいと思います。
いつも研究、体験を共有して頂きありがとうございます。
12. Posted by 太郎冠者   2024年12月09日 22:26
☆ハイネケンさん
弓歩・馬歩の研究はどこまで行っても先があるようで、非常に面白いですね!
>わざわざ力み易いであろう形
仰る通り、非常に動きづらいし簡単に力んでしまう形だと思います。
あえてその形を取らせることで学ぶ事が出来るものがある、と先人は残して下さったのかもしれません。

少なくとも自分にとっては、いかに動けるかではなく、その動けなさを十分に味わうことで新しい発見があった…ような気がします。
気づきが発見になり、また新しい気づきに繋がっていく。型をじっくり味わうことで見いだせるこのサイクルが、本当に面白いと思います。
13. Posted by 太郎冠者   2024年12月09日 22:36
☆マルコビッチさん
少なくとも自分にとっては、ひとつの見方で凝り固まってしまっていたものを、空手について研究することで解きほぐす事が出来たかと思います。

思い返せば、師父が若い頃に練習されていた事、研究されていた事を時折教えて頂いていたにも関わず、自分ではそこまで本気で取り組もうとしていなかった部分がありました。
それでも我々に教えてくださっていたのは、そうする事で見えるものがある、と師父には分かっていらっしゃったのだと思います。

そうする事で、太極拳に秘められた見えなかった部分が見えてきて、自分はさらにのめり込むようになりました。
全ては太極拳の稽古を進め、本当の事を理解するためです。
14. Posted by 太郎冠者   2024年12月09日 22:40
☆松久宗玄さん
>太極拳學の意味を、未来に残していけるか
まさに、我々が目的としているのはその部分だと思います。
そのためには近視眼的にならず大きな視野を持って研究して、そして実践していかなければならないと強く思います。

例え、言っていただいた当時に分からなかったとしても今がありますし、今日出来なくても必ず明日に繋げていける一歩にしていく…
そのような気持ちを持って着実に稽古していく事が本当に大事な事だと思います。
15. Posted by 太郎冠者   2024年12月09日 22:45
☆川島玄峰さん
今現在目の前で提示して頂いている形をより深く理解するために、歴史の流れに身を任せるように、その技術の遍歴を感じてみるというのは、伝統ある武藝を勉強する上でも役に立つ事なのかも、と思いました。

ある技術がそのような形になったのはただの偶然ではなくて、その時代背景に則した理由があるのだと感じ取れれば、そこにある本質に通じる部分が感じ取れるかも、という予感があります。
そういった事も含めて、太極拳は本当に多くのことを勉強する機会を与えてくれるものだと感じます。
16. Posted by 太郎冠者   2024年12月09日 22:51
☆阿部玄明さん
太極拳に限らず、体系的に残されている物が偶然の産物の羅列ではなく目的を持って法則性のある組み立て方がされたものであれば、その文法や文脈に基づいて紐解いて理解していくことが、原理的には可能なはずです。

そこで得られた解答は、ある意味では自分にとっても理解不能(?)なものなのですが、やってみるとどうも正しいらしい力学の働き方をする…。
なんだかそんなことばっかりのように思います。

自分では疑問に思いつつも宗師の動きを確認させて頂くと、やっぱり本当はそう動いている…。
凄い!と思うと同時に、「そうは見えない」と思っている自分の考え方との葛藤も同時に生じます。
本当に、自分をどれだけやめていけるかが勝負なのだと思います。
17. Posted by 太郎冠者   2024年12月12日 22:55
☆平田玄琢さん
>「馬聲蜂音石花蜘蛛荒鹿」
こんなもの全く読めないですね!
漢字に意味があると現代的な感覚で捉えてしまうと全く読めないのですが、しかし、ただ音に当てはめただけというルールが分かると、他の文章もなんとなく読めそうな感じがしてきますね。
古語の意味がわかるかは別として、ですが。

太極拳でも、基本功や套路の形を徹底的になぞることで見えてくることが本当にたくさんあるように感じます。
ところが我々は多くのことを教わってしまっているために、幸か不幸か、そこに何か違った意味を自分で見出そうとしてしまっているかも、とも思います。
漢字の意味を読みだすのではなく、そこにある音が示されているのを感じる。武術の型の稽古に通じる何かがそこにあるような気がしました。
18. Posted by 太郎冠者   2024年12月12日 23:02
☆川山継玄さん
示して頂いている事は何も隠されていないはずなのに、なかなかその通りにならないという事はしばしばあります。
そうなっている時、本当は自分で勝手に勘違いしている事をやろうとしていて、ぜんぜん真似しきれていないということに、やり続けることではじめて向かい合うことが出来る気がします。

個人的な所感ですが、出来ない事を解決しようと取り組んでしまうと、そこに間違った工夫をしてしまう余地が生まれて、余計に上手くいかなくなってしまうように思いました。
自分を挟まずやってみて、間違った結果が得られたとしたらそれに気づいて止めて、また取り組んでみる…そういうシンプルな取り組み方でしか、正しい結果は得られないのだろうという気がします。
文章にするとなんだか変なのですが、とにかくやり続ける事で見えてくることがある、そのように教えて頂いているのではないかと思います。
19. Posted by 太郎冠者   2024年12月12日 23:10
☆西川敦玄さん
恥ずかしながら私も素人同然の研究なので本流の方々からは怒られてしまいそうですが、それでも非常に得られるものは多いと感じられ、そこがとても興味深く面白いものだと思っています。

記事にはしていませんがナイファンチとその次の型に見える形が、太極拳の練功とも非常に共通していると思われる部分があるので、機会があればぜひお話をしたいです。

なんでこんなに参考になるのだろう、と考えたのですが、おそらく空手の基、もしくは影響を与えた武術が大陸から沖縄本土にわたってくる過程で、太極拳のルーツと関連した歴史的な理由があったのだろうと思っています。
そういう観点で見ると、似ている点や共通点にいくつも合点がいく部分があります。
いずれにせよ、我々はそれらをもとにより深く太極拳を理解するための勉強していく事が出来る、それこそが一番大切なことなのだと思いました。
20. Posted by 太郎冠者   2024年12月12日 23:20
☆ユキさん
>架式はすでに示されています。それでは、なぜかくも架式は難しく感じられるのか、何が難しいのか、それを明確に認識することが第一かも知れません。

本当におっしゃる通りで、これが一番大事なポイントなのだという気がします。
とかく我々は上手くいかないと何か上手な解決策はないかと探してしまいますが、実は基本の不理解によって生じていたという所に還ることが出来れば、それが一番解決の早道になるのだと思います。
問題と答えが同時にそこに示されていて、取り組む人のレベルに応じてそれが見えてくるのだと、そのようにして稽古に向かい合うと、非常に風通しが良くなったように感じられます。
暗号を読み解くように、ひとつの文章が分かると次第に次も分かっていき、もし間違えたところがあったとしても、すぐに前に戻ることが出来ます。
太極拳とは、段階的に着実に勉強出来る、本当に素晴らしい体系だと感じます。
21. Posted by 太郎冠者   2024年12月12日 23:28
☆清水龍玄さん
機会があればぜひ、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」を読んでみてください。
この作品は世界初の探偵小説と言われている作品で、とうぜんシャーロックホームズシリーズにも影響を与えています。

読み終わると、「あぁ、確かに」と思うと同時になんだか釈然としない気持ちに襲われ、読み返してみると確かにそうなんだよなぁ…となること請け合いです。

太極拳の架式が最初から提示されているというのは、ミステリ小説で最初から犯人が分かるように書かれているのと似ているのかもしれませんね。

ただ、それは我々が普通そう思うであろうものとは少し違っているために、なかなか発見されず、難しく思えるのかもしれません。
今現在の我々(ただし真相を知らない人)が「モルグ街の殺人」を読むと、作者であるポーに騙され、また、後年のミステリ作家の多くにもまた共謀して騙されていたという気持ちを味わうことが出来るかと思います。
…くどいようですが自分は少し釈然とはしませんでしたが(笑)
22. Posted by 太郎冠者   2024年12月12日 23:38
☆マガサスさん
>何か一筋の光が見えたような気がしました。
何かの参考や手助けになることができたのだとしたら、幸いです。

先日の稽古で崩す対練を行った際、相手を崩すという点では上手くいかなかったのですが、トータルの稽古としては非常に実りが多く満足したものになりました。
一見矛盾しているようですが、明らかに違う事があったという事は、基本を見直す機会がそこにあったという事です。
事実、家に帰ってから稽古をすることで、それまで気づけていなかった違いをいくつも発見することが出来、また次の稽古に繋がっていきました。

上手くいかないところでやり続けるのは、それをする自分にとっても、周りで指導して下さる方々にとってもある意味困難なものではあるかと思いますが、それによって間違いが正しく認識出来れば、二度とそうなることはないのです。

なんとなく出来たけど、またなんとなく出来なくなった…そのような遠回りをするくらいなら、いっそ全く出来ないほうがいい…その方が完全に正しい答えを発見することが出来る。私は今、そのように感じています。

そのためには、頭も体もフルに使ってとにかくやり続けること。本当にそれしかないのだろうと思います。

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