2024年11月03日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その88

   『型はすごい』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 前回の記事で、感覚を磨くことで変わってきたことがあったと書きました。体だけでなく精神的にも、それまで凝り固まっていた部分が少しずつ溶けていくような、放鬆されてくるような所がありました。その状態で稽古をしていると、新しく見えてくるものはもちろんあったのですが、同時にこれはどうなっているんだろう、と、新たな疑問もいくつか湧いてきました。
 それまで「こうだろう」と思っていた事が、どうやら違うことばかりで、一から万事新しい物事として目に映ってくるのです。そうすると、それまでやっていたことをそのまま続けることは不可能で、同じように稽古をしているようでも、全く新しい取り組みとして臨まなければならないと感じるようになりました。
 稽古中に宗師や教練の真似をさせて頂く機会があれば、とにかく真似をさせて頂きます。その上で自分でも稽古するのですが、時間配分で言えば、道場以外でひとりで稽古をする時間のほうがどうしたって長いものです。
 ひとりで稽古をしている最中に疑問にぶつかったら、どのように解決していけばいいのか…。
 実は既に、我々が迷う事がないような稽古方法を、指導して頂いていたのだということに気づきました。それは、「型」として稽古を行うことでした。
 稽古すべき型があること、それが非常に大きな事で物凄く重要な事なのだということに、私のような愚鈍な人間はようやく気づかされ、はっとさせられたのです。

 放鬆される事で多少なりとも自分の固執から離れる事が出来るようになってくると、次にはそれをどのように太極拳で必要とされる状態に合わせるか、という問題が出てきました。
 太極武藝館では多種多様な稽古方法を、様々な形で示していただいています。相手がいる対練の種類の豊富さはもちろんのこと、ひとりで取り組む基本功や歩法、套路などの稽古も、仔細な点にまで注意をしていただきながら指導をして頂いています。

 基本功ももちろんそうなのですが、型として一番イメージがわきやすいのは、套路でしょうか。太極武藝館で指導される套路は、細部に至るまで徹底的に決まった形が存在しています。
 体の立ち方や姿勢、腰の落とし方や手足の位置や向き、指先の伸ばし方や視線の向き、さらには頭の中の状態まで、事細かに取り組むべき事があります。
 私は套路が好きで自分でも稽古をしていたのですが、最近特に、套路で示されているものがそれまでと全く違って感じられてきました。これまで何百、何千回とやってきた同じ形のはずなのに、そこで示されているものが本当に全く違って見えてくるのです!
 才能のある人間だったら、站椿や基本功だけで見てくるものなのかもしれませんが、自分のような非才・凡才人間には、それだけでなんとかなるというビジョンが全く見えません。そのような人間でも太極拳が出来るよう、先人は様々な型を残して下さっていたのだと思います。

 つい先日のことですが、家で基本功を行っていた時のことです。道場で注意していただいた胯(クワ)の動きの違いに、相変わらず悩まされていました。示して頂いたことを真似しようとするものの、自分で行っているとどうしても胯が左右にぶれたり、傾く状態が出てしまうのです。
 注意点を守りながら行ってみるものの、どうしても余分な足での蹴りが発生してしまう状態が改善できませんでした。そこで基本功をあきらめ(笑)、套路を行う事にしました。セオリーでは基本を理解するまで套路なんて…となるかもしれませんが、ひとつの事に固執していても分からないものはわからないのです。
 套路の形そのものは何回もやっていて頭の中に入っています。気分転換もかねて、胯のブレなど全く気にせず、とにかく動いてみました。すると、ある事に気づいたのです。
 套路の中で何度も出てくる足の出る位置、そこへの足の出し方が、自分が思っていた方向への動きが全くない出方をしていたのです。詳細は書けないのですが、そもそも足の出ていく方向が全く違っているため、足の付け根に当たる胯のブレなど全く気にする必要がない、という所でしょうか(言葉では説明しづらいものです)。

 おや? と思いながらも套路を続けていきます。金剛搗碓、懶扎衣、単鞭と続けていくうちに、次第に疑問は確信へと近づいていきます。そして、二回目の金剛搗碓に入ったところで、動きが違っていたことの確信に至り、膝を打つこととなったのです。
 私の疑問に答えるかのように、套路の中に「こうじゃなくて、こうでしょ」という答えは用意してあったかのようでした。
 お、おおお?? と驚きに満ちながら、もう一度套路の頭に戻り、最初の一歩で足を横に開いた時に、あまりの衝撃に崩れ落ちそうになりました。そもそも、套路に入る一番最初に答えは置いてあったではありませんか(伝わらなかったら、ごめんなさい…)。

 これだけで、私の中の基本のイメージが全て吹っ飛んでがらりと変わってしまいました。それまで見えていたと思っていたものが、また違った世界として目に映るようになってしまったのです。
 ここ最近で私がずっと取り組んでいた事に、「順体の理解」というものがありました。
 宗師に「それくらい理解してしまいなさい!」と発破を掛けられて以来、ずっと研究し続けていたのですが、なかなか理解のための取っ掛かりも掴めず悪戦苦闘していたのです。
 自分だと、基本功や順体その場歩きなどを行ってもどうしても違っている所がありました。その違いにこそヒントがあるはず!とは思うものの、未だ霧は晴れず、という状況でした。光明は思ってもみないところから差し込むものです。

 太極歩の重要性、そこで示されているものの大きさに最近ようやく思い至っていたのですが、自分にはそれだけでは理解できていなかったものが、套路の最初の動作の中に見えたのだと思います。自分にとっての太極歩の理解もまた、それだけで変わってしまうほどの発見に感じられました。
 以前師父が、套路は最初の動作だけでいい…とお話をしてくださっていたのを記憶しているのですが、そこに含まれるエッセンスは、太極拳全体に染み渡るに十分なものという事だったのかもしれません。
 少なくとも自分にとっては、そのひとつの単純な動作が、順体の体と軸の考え方を理解するためのスタート、取っ掛かりになったように感じられています。
 その認識で始める套路は、また格別に違ったものとして私の体に反映されてきました。

 型は、先人たちが武術を正しく伝えるために、我々後世の人間へと残して下さった正真正銘の宝物のように感じられます。戦いの場は千差万別であり、こうしていればいい、というものは極論すればあり得ないのかもしれません。ところが、型として残されている動きを、理論や理合を基に丹念に紐解いていくと、その武術が何をしようとし、何を示しているのかが読み取れるように出来ているのだと思います。
 もしかしたらそれを作り出したのは、一人の人間の天才性だったかもしれませんが、ただ一世代で終わることなく、後々の我々でも研究、発展させていけるように作られたそれらの型は、まさに汲めども尽きない泉のように、武術とは、太極拳とは何なのかを教えて続けてくれているかのようです。

 疑問がわき、その答えがそこにあり…物事の見え方が一瞬で変わってしまうような事が体験できる。それだけでも、現代で武術を学ぶべき価値はあるのではないかと思います。
 その大きな宝物を、我々の代で終わりにしてしまわぬよう、一層気を引き締めて稽古に励みたいと思います。
                            (了)







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☆ご期待ください!


disciples at 22:30コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2024年11月04日 21:26
型はやり込む事で身体が練られていく練功法であり、
合わせるべき基準、自分の課題を測定する基準であり、
更に、型に秘められた暗号を読み解いていくという謎解きの側面もありと、
実に様々な使い方ができる優れた道具であると思います。

それは伝承が守られる中で、意味が伝わるものでもあるとも思います。
仮に秘伝を聞いたとしても、自らやり込んだ上で発見しないと身に付ける事は出来ないだろうとも思います。
稽古の段階訓練の過程を基礎から理解していく事が、結局は習得の近道になると感じています。
この伝承を残せるよう努めたいですね。
2. Posted by ハイネケン   2024年11月05日 22:38
足の蹴りに「自ら気付ける事」は本当に難しく先日の稽古でも指摘され改善して頂き「変わってきていますよ」と言われても、自分では変化に気づけませんでした。なぜ気づけないのか?今の私には「そこにセンサーがない」からと考えているのですが、そこに集中するのは貴重かつ短い稽古時間で吸収できる事が減ると思い今後の課題としました。先日の本部稽古では次々と変化し最重要事項が繰り返される中、意識の使い方が身体にダイレクトに変化を及ぼし、私の身体の在り方をどんどん調整してもらっている様な感覚で、乗り心地よい車でのドライブの様でした。約2時間で基本功から套路までの中、私の身体の変化に合わせその時その時の課題(主題)がありましたが最後は套路でその日の全てが渾然一体と押し寄せてくる様な感覚でした。
>「足の出ていく方向が全く違っている・・・」。その様な繊細さはまだ私にはありませんが、先日宗師の普段の歩き方を後ろから何が違うのかを見ていると全く全然違いました。「草原を優雅に歩くチーター」の様に「余裕があるのに、すぐにでも動きそうな自由さと緊張感」。個々それぞれ自分の中にイメージがあり良くも悪くもそのイメージに引っ張られますが『あの套路』で受けた衝撃を大切に活かしていきたいです。
最近の太郎冠者様の投稿に滑らかさと活気を頂いており何か今までとは一味違う勢いを感じます。太郎冠者様ありがとうございました。
3. Posted by 西川敦玄   2024年11月06日 15:18
套路を行うことでの様々な発見があったとのこと、楽しく稽古している様が伝わってきました。

太郎冠者さんの書かれているとおり、套路には(そして基本功にも)、四肢に至るまで、きまった動きがあります。型と表現されるからには、それにハマるということなんだろうと思います。しかしながら、以前の記事にも出てきた習慣化(なんだか型にはまった生き方のような気がします)が好きな人たちも含めて、私たちは型にはまることを嫌います。なぜだろうと記事を読んで思いました。

一義的には(特に芸事のといっておきます)型にはまることと、習慣化することは、きっと正反対のことだろうと思うからです。稽古している人ならわかると思いますが、きっと套路他の決まり、ここでいう型とは、習慣化できるようなものではないからです。日常の習慣で私たちが置いておきたい、動きたい体の位置とは異なるからです。日常非日常・・・我々のキーワードがここでも出てきました。型にハマることと、習慣化と言葉の定義では似ていても、まったく異なるようです。

改めて、私たちが稽古していきたいことにフォーカスして、非日常的に套路を練っていきたいと思いました。太郎冠者さんありがとうございました。
4. Posted by 川島玄峰   2024年11月06日 20:40
太郎冠者さんの稽古の捉え方の変化が良く分かります。
套路の中で今までの練功の意味を理解できるまでには相当な努力があっただろうと思いました。感覚が変わるのもそれまでの色々なアプローチで基本に臨んだ結果でもあると思います。

私も遠く離れた地で稽古できるのは、示された基本を何度も教えられ研究できる方向が見えるからだと思います。
太極拳の在り方を示すのは套路ですね。それを理解する基本は奥深く追求する事が止まない不思議な魅力があります。

この度の記事を読んでこれからの稽古の励みとなりました。

ありがとうございました。
5. Posted by マルコビッチ   2024年11月06日 21:16
 とても大切な発見をされたようで嬉しいですね。
ひとつの気づきは次への気づきに繋がりますし、色々試してみたくなったり、稽古にもより熱が入り、良い循環が生まれそうですね。
 私も套路は好きです。
まず立ち、足を開く・・その状態が気持ちよく感じられるようになったのは最近のことです。
そこから動きが始まるのですが、宗師の動きを拝見すると型からはみ出すことがなく、それなのに柔らかく自由に感じます。不思議です。
外れないので動くべきものが動くと言えるのでしょうか。
 この度、30周年の式典で館歌を皆で歌いましたが、今までも何回も歌っていたのに、今回歌詞の一節にハッとしました。マルコビッチ今頃?と思われるかもしれませんが・・・
それは、〜無極に起ちて循環り来る〜です。
無極で ではなく 無極に なんですよね!
今まで自分が無極を創る、みたいに思っていたのですが、とんでもなく厚かましく何様だという感じです。自分が何かをしようとするんですね。
この歌詞の意味の中に入っていこうとすると、とてつもなく深くて届きそうにありません。
師父はいろいろなところに大きなプレゼントを置いてくださっているのだと思いました。
 太郎冠者さん、今回も記事をありがとうございました。
6. Posted by ユキ   2024年11月07日 00:04
太郎冠者さんの活気が力強さとなって伝わってきますね。
型の重要性とそこに内包される学習システムが見えると、稽古が面白くなってきます。型に従うことで、自分の理解の正誤も課題も教えてもらえるので、あとは思考を挟まずに聴く耳を持って放鬆で臨むことです。

そんな素晴らしい型が、何百年も前から存在していることに毎回感動を覚えます。
余談ですが、ここ袋井市には所々東海道の松並木が残っています。そこを通るたびに、「ここを宮本武蔵も歩いたのだな…」と感慨深く思うものですが、套路も練る度に何代もにわたって受け継がれてきた系譜を思い浮かべずにはいられません。
太極武藝館は今年三十周年を迎えましたが、そこに在るのは古の、何百年もの年月を重ねて練られてきた宝物です。
大事にしたいものです。
 
7. Posted by 阿部玄明   2024年11月07日 01:30
太郎冠者さん
何やら稽古について大きなヒントを得られたようで
文章にもその喜びが溢れておられます。

太極拳の型とは・・・・。
自分が思うには最初に正しく立つこと、立つことを変えずに最初の一動作を純粋に架式だけで行うこと。言い換えると“自分の好き勝手に動かないこと” に包括されていると思います。
最初にどのように体が使われたかで、そのあとの動作も決まってしまう。
最初が間違っていると、どれほど長時間続けても間違ったものになってしまう。
学習の成否はこの辺で決まってくるものと思われます。

・立っている状態から順体歩きを始める時
・套路で最初に肩幅に足を開くとき
・太極歩で一歩出る時 
・日常生活での一動作

一瞬一瞬が稽古であり、型でありたいものです。
8. Posted by 平田玄琢   2024年11月07日 14:05
下賎な例えですが、映画「ベストキッド1、2」の型から自然に身体が動いたような状態ですね。基本をやり込む事が如何に大切か、あらためて思わずにはいられない文章です。
私が40数年続けている雅楽の業界でも、稽古方法に型があります。昔から続く大きな雅楽団体はその型を重視して、稽古を型から始めます。しかし、型を嫌がり直ぐに楽器を奏でる方もいます。
昔から、習うより慣れろと言って、例え型を習得しなくても慣れてしまえば単体の楽器の音色はなかなかのものになります。しかし、他の楽器との合奏(他の人との対練)は、全くと言っていいほどダメなものになる人が多いと感じます。
武藝館も30周年という節目を迎え、自分も、基本に立ち返るきっかけにしたいと思っています。
9. Posted by 川山継玄   2024年11月08日 00:32
師父によく、
「芸術に触れているか?」
「いい音楽を、いいスピーカーで聴いているか?生で聴いているか?」
「本を読んでいるか?」
「美味しいものを食べているか?」
「映画を観ているか?]
ときかれたことを思い出します。

人は、心が震えるような感動を体験すると、発想も視野も感覚も、全てががらっと変わってしまう。
枠が取っ払われる。
自分が握りしめていた、些細なこだわりを手放し、無限の可能性を手に入れる事ができる。
のだということを、必死で伝えようとしてくださったのだと感じています。

太郎冠者さんの、心震える感動が、体の芯から渦巻くような体感が、稽古やご自身に対する姿勢の変化によって得られ、型の大切さに至ったこと、すごいことだと思います。

30周年祝賀会で宗師が見せてくださった套路。
本物に触れ、それを目にした門人全てが、得も言われぬ感動に心身を震わせ、どうしても手放せず握りしめていた手を緩めて、視界と意識が広く高くなったのではないかと、感じました。

この原稿は、宗師の套路を拝見する前に書かれたものと伺いました。
今も更なる変化が続いている事かと思います。

毎回の稽古の度に、観て、体感して、感動をし続ける事が出来るこの環境に、本当に感謝が溢れます。
その環境におごることなく、型の大切さをもっともっと味わい、純度を増すことが出来るよう、精進して参ります。

太郎冠者さん、ありがとうございました。
共に頑張りましょう。
10. Posted by 清水龍玄   2024年11月08日 22:47
型はすごい・・・本当にそう思います。
私が学び始めたころは、今、稽古している套路は、まず目にすることすら出来ませんでした。
それほど型というものは、貴重なもので、先人の苦労と工夫の賜物であり、それはまた、そこに続くべき我々の努力によって、さらに進化し続けるものであると思っています。
套路を通じて新たな発見があったとのこと、すばらしいですね。
我々は幸い、套路を理解していく為の基本を教わることができます。
それ故、カタチではなく、生きている型として、套路の稽古を通じて様々な発見が生じてくるのだと思います。
私にとって、それは宝物です。
勿論、山あり谷あり、大変ですが、これからも新たな発見が生じるよう、稽古していきたいですね。
11. Posted by マガサス   2024年11月10日 20:31
 自分自身を「型(架式)にはめ込む」ような感覚を持ってしまっていたのですが、先日の稽古で宗師の動きを拝見し、あっ全く違う!!と思いました。
「型をきめる」のでは無く、「その型になる」。
要訣によって導かれる型・・・。
太郎冠者さんのように、これだ!と発見に至らず、漠然とした状態で砂を掴むような思いでやっていますが(汗)、もっともっと要訣を紐解き、味わい、体に染み込ませ、もっともっと宗師に合わせていきたいと思います!
12. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 22:16
☆松久宗玄さん
太極拳が型として学ぶ事が出来るような体系として残してもらている事、これは本当にすごいことだと思います。

稽古する中で発見があった時、極論するとそれはすでに型として体系の中に全て発見できるように組み込まれている…と最近は特に感じるようになりました。
そう思うようになると、本当に謙虚になりますし、稽古出来る事そのものに感謝の念を抱かざるをえません。
きちんと取り組めば、それだけしっかりと答えが返ってくるこの体系を、自分で学習するだけでなく、もっと多くの、この先の人々のためにも残していきたいと強く思うようになりました。
13. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 22:28
☆ハイネケンさん
最近、一回の稽古でこれまでの数回分くらいの発見があるように感じられるのですが、「自分」で発見したという感覚が非常に希薄で、もともとそこにあるものにようやく気づけた、という気持ちが非常に大きいです。
感覚を磨くという事に関しても、もともと体に備わっている受容器官をただうまく使えていなかっただけ…同じような意味で、太極拳の発見で言っても、そこ(型)の中にあった意味や動作の深みに気づけていなかっただけ、というように感じるのです。
>『あの套路』
あれは本当にすごかったです…。套路もそうなのですが、不思議なことに、最近なぜか、自分で稽古を進めていく中で「これが見たい、これが知りたい…!」という部分をピンポイントで宗師がたまたま(?)示して下さるという機会が増えました。
どうやら、求めれば与えられるというのは、本当のことのようです。
こちらが取り組む本気度合で、太極拳は応えてくれるかのようで、非常に面白いですね。
14. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 22:36
☆西川敦玄さん
最近特に稽古が楽しくて、「あれはどうなんだろう、これはどうなんだろう」と試行錯誤するのが、ある意味習慣になっているかもしれません。

同じ動作を繰り返すにしても、そこにあるわずかな違い、同じにしたくても同じに出来ないものであるとか、違う形なのに同じメカニズムが働いている…そういった発見が積み重なっていくと、漫然と続けるという意味での習慣化とは程遠くなったかなとも思います。
>日常非日常
型の稽古というのは畢竟すると、我々の日常からかけ離れた世界を垣間見せてくれる乗り物なのかもしれません。
極端な話、それに乗りさえすれば、景色を楽しんでいる間に全く知らない場所へと連れて行ってくれるかのような。
自分の足で歩くことが努力することで、本当の稽古だ!と言われたら、何も言えませんが…(笑)
15. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 22:45
☆川島玄峰さん
>相当な努力が
玄峰さんにそのように言って頂くと、なんだか本当に恥ずかしいのですが、私自身あんまり努力した感じがしていないのが実際のところです。

ただ、太極拳、武術の稽古がとても面白くなってきたのは事実です。特に、物の見方が少し変わるだけで同じものが全く違ったものに見えるという体験を味わえたからでしょうか。その経験と型としての太極拳の稽古がバシッとはまって、どんどん新しい見方を見せてもらえている、という感じです。
>示された基本
本当におっしゃる通りで、基本を基に紐解いていけるような体系として太極拳は作られているのだと、痛感させられる毎日です。
個人的には、なんのために太極拳が作られたのか…武術としての太極拳という部分にフォーカスが当たった時、急に視界がクリアーになり、様々な要素が繋がり始めたような気がします。
やればやるほど見えてくるものがあるので、ゆっくり椅子に座ってなんかいられない!そんな気分んで過ごしています。
16. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 22:59
☆マルコビッチさん
太極武藝館の館歌の歌詞は、詩として読み込むだけでもたくさんのことを教えてくれているかのような、深い内容ですね。

>無極に起ちて循環り来る〜
確かに、思わずはっとさせられる言葉だと思います。
武藝館で一番最初に教わる立ち方、無極で立つ事ですが、自然の法則にのっとって、まさに太極の在り方と一体となった自分で在る必要がある…と、諭されているかのようです。

それを体現されているのが、おそらく宗師の立ち方や動き方だと思うのですが、どのように太極拳を学んでいくべきかという生き方そのものに、我々は大いに勉強させて頂けているように感じます。
そんな宗師に負けないように!というと少し変ですが、我々も同じ太極拳を学んでいる門人として恥ずかしくないように、日々の稽古に取り組んでいきたいですね。
17. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 23:13
☆ユキさん
>型の重要性とそこに内包される学習システム〜
最近稽古中に感じていることに、この言葉がまさにピッタリはまるように感じました!
といいますか、この段落の文章に同意しかありません。

稽古の型通りにやってみると、問題も解答もそこに用意されているように感じるから本当に不思議でしたが、本来はそもそも、そうやって理解していけるように作られているはずなんですよね。
同時に、何かが見えると次の課題も出てくるようにも作られているみたいで、本当に鳥肌が立ちます。
>東海道の松並木
車が通る大通りから一本狭い道に入ってみると、今まで見えなかった歴史の積み重ねが急に視野に飛び込んできます。昔とだいたい同じ場所を、同じように東西に貫く東海道ですが、古の人々が一歩一歩自らの足で歩んできた足跡がそこに見えるかのようで、胸にこみあげてくるものがありますね。
世の中変わるものもありますが、変わらないもの、残していきたいものもあります。太極拳も大切な宝物として大事にしていきたいですね。
18. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 23:35
☆阿部玄明さん
>最初が間違っていると
私も散々迷いに迷い続けて、要訣や注意点は守っているけれどしっくりこないという状態がだいぶ長かったです。

もちろん全てが解決したわけではないのですが、それでも見通しが良くなったのは、そもそも太極拳の立ち方や架式は何を目的としているのか?という視点に立てた時でした。
難しい事は本当に全部抜きにして、武術としての太極拳が、基本として習っている架式通りに立つことでどのような強さが得られるのか。そこに焦点が合ったことで、急に物事の全体にピントが合い始めたような感覚になったのです。
仰る通りそれは自分の好きに立つことではなく、自分の持っている体の構造と、この世界の理(主に物理法則)に則った立ち方でした。
それは、ユキさんが書いて下さった通り、自分をやめて放鬆することでどんどん深まっていく質のものだと思います。

ずっと稽古をし続けていたつもりでしたが、今まで本当に稽古出来てたのだろうかという気分です。今になってようやくちょっとだけマシな稽古が出来る状態になってきたのかもしれません。
ここから先、何が待っているのか本当に楽しみで仕方がないです。
19. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 23:40
☆平田玄琢さん
我流でも勉強熱心でセンスのある人なら、どの分野でもそこそこの所まではいけるのだと思います。

ですが、そこから先がある世界の場合、独学では絶対に限界があるはずで、そこを越えていくには、先人たちの英知の積み重ねである伝承や伝統、そこに残された型に身をゆだねるしか手段はないのではないかと思います。

ほどほどで良い、というのだったら話は別かもしれませんが、奥深い世界を観たいのなら、飛び込むしかないのだろうと、最近は特に感じています。
太極武藝館で指導して頂いている太極拳は間違いなく先の世界を見せてくれるもののはずで、知ったのならやらない手はないですね。
20. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 23:47
☆川山継玄さん
>心が震えるような感動を体験
今の私だと、太極拳の稽古そのものが、心震えるような体験になっているのが非常に面白い事だと思います。

『幸せの青い鳥』ではないですが、自分が探し求めていたものは本当は一番身近な所にあったのです(家から車で10分)…。

強く念じていたわけではないはずですが、心の底から願っているとこの世界は応えてくれるのかもしれません。
見たかった套路、気になった要素を取り出して強調された動きや稽古…ここ最近の稽古であった事を思い返すだけで、気になっていたことに関する回答がどれだけ用意してもらえたか、枚挙にいとまがありません。

それもこれも全て、前より少しは型に身を任せて、法則に則って物事を過ごそうと思えるようになった部分の現れなのかもしれません。
いらないものを手放していけば、どんどん純化されて、自分の本当に見たいものが見えてくるのかもしれませんね。
それに応えられるよう、これからも精一杯の精進を続けていきたいと思います。
21. Posted by 太郎冠者   2024年11月11日 23:53
☆清水龍玄さん
>まず目にすることすら出来ませんでした
先輩方の話を聞くと、本当に今は恵まれた環境で稽古させて頂いていて、指導をして頂いているのだなぁと痛感させられます。

その手厚い御指導を、「良いものが見れた」というだけで自分の稽古に生かせないような無駄なものにはせず、自分の成長に生かしていく必要が、今の我々にはあるのではないかと感じます。

それはある意味、大きな義務というか責任がこちらにも生じていると言えるのではないかと思うので、それにこたえるためにも、より一層本気で太極拳に向かい合っていかなければならないと思います。
すごいことだ、という他人事ではなく自分の事として、その機会を生かしてどんどん成長に繋げていきたいですね。
22. Posted by 太郎冠者   2024年11月12日 00:02
☆マガサスさん
>「型(架式)にはめ込む」
その感覚、非常に分かります。そしてその考え方だと、自分にないものをどこかから持ってこなければならないという発想になり、そうすると永遠に太極拳は分からないのかもしれません(わかりませんでした)。

師父や宗師に示して頂いている「型」は、正しいのかはわかりませんが、自分の中に人間の構造としてすでに持っている型のように感じられます。
それを太極拳の型を通して表すと、武術として戦える構造や架式が現れ、さらにそれを洗練させていくことが出来る。今現在の自分には、そのように感じられている所があります。

砕けた表現をすれば、人間の体が本来持っているポテンシャルをどんどん引き出せる体系といえるでしょうか。套路をはじめ、太極拳に用意されている型は、様々な形でそれを示してくれているのではないかと思います。

>これだ!と発見に…
いや、確かに発見はあるのですが、その発見の筋道すらも先人に型として残して頂いている感覚がありまして…「自分の発見」ではないんですよね。
だからこそ本当に「すごい!」の一言です。
そして、すごく面白いんです。

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