2024年10月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その87

   『見えるもの 見えないもの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 毎回のように道場で行われる柔功や圧腿などの稽古は、一見すると簡単な動きで、知らなければ本格的な運動の前の準備体操のように思われるかもしれません。
 ところが、その簡単にさえ思える動きが、自分で家で行うものと、道場で宗師と一緒に行うものでは、その体に現れる影響が異なって感じられるものです。
 もちろん自分で行ったものでも成果はあったのですが、宗師と一緒にやらせていただく事で自分に通る軸にはなかなかならないのです。
 端的に言えば、自分ひとりで行っているものは、正しい形で動けていない…真似できていないのです。真似をすることの大切さは、何度も何度も言葉や形を変えて我々の前に示されています。しかし、その全てをきちんと真似することは、なかなか難しいものです。

 しっかり目を見開いて見ているはずなのに、何も隠されていないはずの内容の全貌が自分の目には見えていないという、もどかしさ。
 私も真似できないということには、散々悩まされてきました。
 自分には一体何が見えていないのだろう? 何を見落としているのだろうか…。

 人間というのは、なかなか目の前で見ている事を否定するのは難しい生き物なのかもしれません。そもそも私が見えていると思っているものは、本当に正しく見えていたのでしょうか。
 また、人間は目で見る以外にも、外界のことを五感などのあらゆる感覚を通して感じているものです。それらの感覚と、見えていると思っているものと、指導されている内容は、果たして自分の中で明確に結びついていたのでしょうか。

 宗師と一緒に動いている時、「真似できていない、合っていない」と指摘されると、しばしば多くの人は目を凝らし、眉間に皺をよせながらとにかく集中しようとするのではないかと思います。かくいう自分がそうだったのですが、それではどれだけ目を凝らしても、宗師の示して下っていることが見えてきませんでした。
 それならばと、意識を変え、考え方を変えると称し、まるで空念仏を唱えるかの如く、
(虛領頂勁、気沈丹田…)と要訣を浮かべても、一向に体は整ってはくれないし動きは変わらないものでした。

 多少誇張した表現ではあるものの、なんとなく身に覚えがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。両極端ではあるものの、どちらも自分が見えていないという問題点から目をそらし、正反対の方向に走り去りながら解答を探そうとしているかのようです。
 正確に言えばどちらも間違いではないものの、その間で理解されるべき問題、解決されるべき問題が見えていないのではないか、という点が挙げられるのではないかと思います。
 見えている世界から一足飛びに見えない世界に飛び込もうとしても、よほどの感性かセンスがない限り難しいのではないかと思います。その中間は何なのか。間にあるグラデーションを理解できないことには、その先の世界には飛び込めないのだろう、という気がします。

 では、その中間にある世界を見せてくれるものと何なのでしょうか。
 それは先に挙げた、視覚だけに頼らず五感を通して体で感じられている世界、その部分に焦点を当てなければならないと思ったのです。感覚や感性、太極武藝館においては、センサーを磨かないといけないと言われている部分にあたるかと思います。

 人間の脳は、すごく乱暴な言い方をすれば、体を動かすための器官として存在しています。体を動かす機能が発達した結果、副産物として、喋ったり考えたりすることが出来るようになったとのことです。つまり、考え方を変えるには脳の使い方を変えればいい。では、脳の使い方を変えるには? 体の使い方を変えればいいという事になります。
 考え方の受容性を広げる必要が感じられた時、ダイレクトにそれは体の感覚の受容性を広げる必要性とつながるのではないかと思います。受容器官の使い方を変えることも、体の使い方を変えることに繋がるはずです。

 私がまず取り組んだのは、とにかく自分の体を感じる事でした。稽古で凝り固まり、ほぐす必要があったことも要因ですが、自分の体のどこが力み、緊張しているのか。動かすとそれがどのように変わるのか、どう緊張が抜けていくのか。それらを頭の先から手足の先、皮膚の表面から内臓感覚に至るまで、つぶさに観察をすることにしました。
 そうしてみると、どれだけ自分が無用な緊張を持っているのかがリアルに感じられてきました。また、稽古を通して体に余分な力みが残っていることもわかりました。
 毎回あれだけ派手に崩されていれば当然なのですが…それを意識的にほぐす事で、次の日以降に持ち越される疲れがかなり軽減されるようになりました。
 同時に対練で宗師に相手をしていただいた時は特に注意深く、自分の体がどのような影響を受けているかを注視します。ただ崩されて喜んで終わるのではなく、どのように取られ、崩され、どのような力や運動エネルギーが自分に生じているのかをひたすらに味わう事にしました。

 稽古と日常生活を通してそれらを継続していると、次第に今まで気づけなかった感覚が自分に生じているのが感じられてきます。すると不思議なことに、全く意図していなかったのですが、人の気配に以前より敏感になりました。うまく説明はできないのですが、離れている人の事が色々と「分かる」のです。自分に生じた感覚の変化が、そのまま他人を感じることに繋がっているようでした。

 ここで、最初の「真似をする」問題に戻ってきます。そのようにして感覚を磨く事に結果的に取り組んでいたことで、宗師の後ろで動いている時にも、その感覚は生きてくるようになりました。今まで見えていなかったことが、見えるようになってきました。
 今までも見えていたけど分からなかった動きの意味が感覚的に理解され、指導されている要訣や言葉が指している意味と繋がってくるように感じられるようになってきました。
 それによって、隠されていたわけではないはずなのに、見えていなかった動きも同時に見えてくるようになりました。自分が意味を間違えて捉えていた事は、ひとつやふたつではありませんでした。ただ、これをやらなければならない、と明確に感じられたものがあるので、引き続きじっくりと取り組んでいきたいと思いました。

 急に全てが変わって問題が解決したというわけではないのですが、継続して取り組み続けていけることがわかるというのは、かなりの収穫だったかと思います。
 目に見えない世界、などというとかなり不思議なものに聞こえてしまいますが、自分の体で感じられる世界も、視覚を通さない目に見えないものでもあります。
 しかし確かにそこに存在していて、世界を構成する大きな要素を占めています。ただ、今のような生活を送る現代の人々からは見過ごされやすい世界であるのもまた事実であり、それを味わう、体感できるようになるためにも、我々は取り組み方を工夫しなければならないとも感じています。
 そこから先の「意識の世界」がどのようなものなのか、今の私には到底分かり得ないものではありますが、今はこの、少し広がって感じられた世界を存分に味わいながら、自分を磨き続けていきたいと思います。
                              (了)





☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!



disciples at 23:45コメント(22)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 松久宗玄   2024年10月02日 22:11
見える、見えない、に関しては、自らの状態が大きく影響しますね。
自分側を見えている範囲が、自分が見える範囲と等しいとさえ感じます。

取れる、取れない、に関しても、
自分の器を空けた分だけ、自分に取り込み、身に付けられる、とも感じています。

分かる、分からない、に関しても、
自分を挟まず、あるがままが映る、凪いだ水面のような状態であれば、
自らの状態に映る=分かる、が生じてくるように感じています。

理解の為の在り方は、最初から示されているのですが、
自分への向き合いを実践し、追求し続ける事は、真に難しく、
だからこそ尊く、歩き続ける価値があると感じています。
2. Posted by ユキ   2024年10月03日 21:55
それまで見えなかったことが、体感へのアプローチを積極的に行ったことで見えてきたのですね。
ある意味でそれは正しいアプローチだと思います。今まで動いていなかった、眠っていた細胞が活性化することで、見えなかったことが見えるようになる。だからこそよく言われる「真似をする」ことが唯一無二の最短学習方法なのだと言われるのでしょう。
自分では動いているとは見えなかった動きが、真似をすることで直に動き始めるのですから。
それはきっと、動画でもある程度は可能なはずで、感性の鋭い人ならまるきり同じに真似してしまうことができるでしょう。
そうなると、時間を掛けることなく、その場でそのものになれるわけです。

師と生活を共にするのも、同様の意味があると私は思います。そうなると、今度は動きだけでなく考え方や意識も、働いてくるのだと思います。
 
3. Posted by 阿部玄明   2024年10月04日 22:33
少し話がずれてしまうかもしれませんが、以前アイマスクを付けて対錬したことについて思い出し、そのことについて考えました。
互いに組み合って崩し合う対錬でしたが目隠しされているので相手がどうなっているのか視覚では確認できません。相手を一生懸命感じようと能力をフル活動させて取り組んだ結果、視覚を封じたほうが相手を良く分かり、相手に直ぐに合わせて対処できたように記憶しています。
そこから導かれた考察は人間は目で見た表面上の事象情報を全ての情報であると錯覚しやすいということ。目を閉じたほうがより深いところにまで意識を向けることができると思います(そして目を閉じたほうが繊細になる)。
では目を閉じて稽古や生活をするのが正しいかというとそうではない。目を見開きながらも見えないところにまで意識を向け、表面と深層の両方に関わることが重要だと思いました。
合わせるという作業は高度なマルチタスクなのです。
4. Posted by 川山継玄   2024年10月05日 00:04
ご自身に目を向けたことで、沢山の気づきを得て、前進していらっしゃる太郎冠者さんの姿に刺激を受けます。ありがとうございます。

「見えた!!!」と思っても、その直後で「見えたかな?」という宗師からの問いに、宗師のおっしゃる見えたと、私の思う見えたが一致しているかどうか、という自信の無さがどっと押し寄せてきます。そして、曖昧な動きで、自分の見えたものを、ごまかすようなところがありました。

正解を求めて間違いをしたくなかったために、表面ばかりを気にして、宗師が示して下さる全体性を完全に見落としていたと感じました。
要訣を守ることで得られる、意識とエネルギーと身体の一致が、見ている私達に調和のとれた美しい強さとして、伝わってくるのではないかと思います。

一日の終わりに、自分の身体と対話しながらほぐし、調える事で心身ともに放鬆し、休息をとりリセットすることで、どこかが一致していないと、なんとなく変だなと感じ、一致を図ろうとすることが、少しずつですができてきたのかなと感じる今日この頃です。
それ故に、表面をつくろったり、ごまかしたりすると生じる違和感を、おかしいと感じられるようになりました。また、間違える事が怖くなくなったようにも思います。

誠実に、自身と向かい合い続けたいと思います。
5. Posted by 西川敦玄   2024年10月05日 12:19
真似をすること。見える事、見えないこと。
今回の記事を読んで、コメントを書こうとして感じたことですが、
(私の感覚でいう違いなので、混乱するかも知れませんが) 真似をすることと、真似をしようとすること、同じようなことの様に思いますが、本質的に違うことだと思います。
どういうことかと、簡単に現状で例えてみます。

真似るということは、現時点の私の稽古でいえば、要訣を提示された上で、宗師や師父の動きを真似るということにつきようかと思います。
ただ、要訣を提示されたことについての私の理解と、実際に目にしている動きが異なること。もしくは、要訣、基本功で理解したと思ったことで、目にしている動きを真似ることが出来ないことが起きてきます。
他の方は大丈夫かと思いますが、そういうときに私は、要訣などで示されることを一段上げるか下げるかして一般化させるような改変をおこない矛盾がないように解釈して、(自己完結内では)齟齬なく上手くできるようにしています。

読まれたかたは分かるように、こんなことは真似をしていることではないと思われるでしょうが、私は多かれ少なかれこういった事をしています。

ですので、示された要訣は、そのままに、自分で改良改変解釈することなく、それでいて真似ることができるようにしていく。そのような事を太郎冠者さんの記事をよみ、コメントに落としていく中で改めて認識することが出来ました。
ありがとうございました。
6. Posted by 川島玄峰   2024年10月05日 18:29
感覚で理解する事は最も大事な事であると改めて思いました。
感覚を否定される方もいるかもしれませんが感覚で理解する事を怠ると太郎冠者さんが云われる「人の気配」も鈍くなって来るように思います。
感覚を得るから頭の理解も促されるように思います。またその感覚の先には色々な世界を見る事も可能なのかもしれません。
お手本は常に示されていますので自分の感覚を磨き受容性を高める事が必要不可欠になりますね。
私も宗師の動きを思い出して稽古してますがどうしても自分の考えや捉え違いが生じやすくなります。でも一回一回の宗師の動きを真似た感覚を大事にする事で体が馴染み理解へと導かれて行くと思います。

ありがとうございました。
7. Posted by ハイネケン   2024年10月05日 19:04

宗師と自分の間にあるグラデーションは人によって異なります。
シンプルな柔功の「あり様」すら十人十色。人を見る事も自分を知る事も重要です。「どちらが重要か?」という事ではなく、その時自分に必要な方を選択する。
繊細さも大胆さも本来は同時に真似したいのですが未発達である感性は不安定な稼働をします。どうやって自分の未発達な感性を揺り起こすか?意識する事の繰り返し、毎日の取り組みが目下の課題です。
先日のユキさんのコメントを鑑みてみると、習慣化は無意識を生じ、日々取り組んでいると取り組み自体は習慣化しますが、その中にある意識の密度は鋭敏になり繊細になるのではないかと感じます。
毎日掃除をしても再び汚れるのは循環でしかないのですが、実は汚れを綺麗にするという意識が循環のスタートです。
稽古の始まりに「まず意識を整えて」と同様、掃除された白紙の様な意識と身体から真似たり架式を求めていくのだろうと感じます。
武術である以上、実利的な身体運用を身に付けたいフィジカルなモノのはずなのに、太極拳では意識や思考といったメンタルにも課題が広がります。人間が「動き続ける」為に何が必要か?そして自分はどんな状態か?「どれだけ自分が無用な緊張を持っているのか」。これが一つでも分かればいいので今日も意識していこうと思います。
太郎冠者様、ありがとうございました。
8. Posted by マルコビッチ   2024年10月05日 19:31
ご自分の体を感じ続けることでセンサーが細かく繊細になってきたのですね。
宗師と対練させていただく時には、そのセンサーが宗師の動きを感じることができますし、相手と合わせることにも大きな働きをするのだと思います。
目で見ることで真似しようとすると、意識が前へ前へといってしまい自分を感じにくくなるように思います。
もちろん、見ることで理解できること、見えることもたくさんあります。
ひとつの方法として、前で示してくださっている宗師と軸を合わせてみることにより、頭の位置のズレや体の向きの違いなどに気づくことが出来ます。
最近やっと自分の前傾姿勢に気づく時が増えてきているので、私ももっと自分の体の状態に敏感に感じられるようセンサーを細かくしていきたいです。
9. Posted by 平田玄琢   2024年10月06日 07:41
見えないものが見えてくることについて
世の中には、他の人は全く見えていないのに、その人にはハッキリ見えるものがあります。
その人なりの基準、生活環境、性格、興味、職業などでも、見ているもの、見えるものが違うと思います。
太極拳では、自分や相手との身体や意識を整える精度でも、感じるものが違います。
私は、直感では分かることもありますが、理論で考えると全く違うことも多いため、身につくまで真似をして意識や感覚で動くことが大切だと思っています。
10. Posted by 清水龍玄   2024年10月06日 19:08
目に見えない(脳が処理できていない?)ものは沢山あると思います。
それは、五感全てに言えることですが、五感以外にもあると思います。
そして、それが武術には不可欠であり、それを磨くためにも、合わせる、真似をするという事が、武術の学習に於いて、大変重要なのだと思います。

新しい発見や自身の変化など、なかなか気付きにくいことだったりしますが、その変化を大切にして稽古をしていきたいですね。
11. Posted by マガサス   2024年10月06日 23:02
 自分も「瞬きをしたら見落としてしまう!!」と思い、目をいっぱいに見開いて宗師を見ていました(汗)
「もっとよく見て合わせて!」というご指摘を毎回稽古で頂いているおかげで、自分の「見方」で「見え方」が違っているのだと気付き、驚きました。なんて自分本位なんだろうと。
その時の体調や精神状態でも見え方が変わってしまうのですから・・・。身体も然り。
宗師と生活を共にさせて頂いているおかげで、自分の考えに固執する事が少なくなってきたのは事実です。(まだまだ自分が強いのですが)
それは、自分の考えにしがみついている余裕が無いためだと思います。
宗師の日常は、居着かない、後回しにしない、言い訳しない、ビジョンをはっきり持っていて、習慣はあってもパターン化しない、など。
そして意識の持ち方、体の在り方などを常に模索していらっしゃいます。
私はまだまだ自分へのアプローチが足りないと反省しています。
沢山頂いているアドバイスを大切にして、感覚的なものと、実際的なものをもっと繊細に擦り合わせて、身につけていけるよう生活をしたいと思います。
今回も自分を省みる機会を頂き、ありがとうございました。
12. Posted by 太郎冠者   2024年10月07日 22:44
☆松久宗玄さん
私は今まで見えることで理解できることを探していた所があったみたいなのですが、今回、感じる事に集中したことで、また違ったことが分かったような気がしました。

今までとは違った感覚や感性で、言葉にすると妙なのですが、よく見えないけどなんだか分かる、といったようなところでしょうか。
「受け取れない」という時も、実は体では素直に受け取っているのに、それを思考・頭が邪魔してしまっているのかも、と思いました。

感じられる事をもっと素直に受け取る、そのようなセンサーをもっと磨いていきたいと思います。
13. Posted by 太郎冠者   2024年10月07日 22:50
☆ユキさん
現代人の(私の?)悪い癖なのかもしれませんが、どうも頭で理解しないことには理解したと思えない、認識できないということがあるように思いました。

多くの人は自転車に乗れるかと思いますが、では理論的に理解した上で乗れてるかというと、そうでもないですよね。ただ感覚的に乗れることが分かるから乗れる。
太極拳を学習する上でも、そのような感覚が必要なのかもと改めて思いました。
>動画でもある程度は可能
確かに、以前よりも映像で見えるものも不思議と多くなっている気がします。
突き詰めれば仰る通り、分かる人には全てわかってしまうのかもしれませんね。
>師と生活を共にする
確かに、時間をともに過ごすことで通じてくる部分は非常に大きいのでしょうね。
昔から執り行われている修行法は、本当に意味があるものばかりなのだと感じます。
14. Posted by 太郎冠者   2024年10月07日 22:56
☆阿部玄明さん
>アイマスクを付けて対錬
ありましたね…。普通に考えたら出来るわけない!と思ってしまう稽古でしたが、だんだん皆動けてくるようになるのが不思議であり、非常に面白い稽古でした。

誰かが近くに立っている時、目よりも先に体がそれを知覚しているのが感じられます。目の前に誰かが立っていても、視覚以外の受容感覚が働いているはずなのに、なかなか意識には上ってきません。
そのように捉えるのに、単に我々が慣れてしまっているだけで、それはこの世界を本当の意味では受け止め切れていないという証拠なのかもしれませんね。
この世界で生きているはずなのに、受け入れられているのは自分の頭の中に映る世界だけだとしたら、あまりにも悲しすぎますね。
もっと広いこの世界を、ありのままで味わいたいものです。
これをマルチタスク…というかはわからないのですが(笑)
15. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 00:41
☆川山継玄さん
これが正解だ、と思えるものを見つけたいという思いは私にもあり、非常によくわかります。
ですが裏を返すと、それは正解を得られることで安心感を得たいという、一種の不安感の裏返しなのかなと感じるようになりました。

世の中にあるあらゆる学問をとっても、それが正しいからという理由で続けてこられたことはなく、常に新しい疑問にぶつかり、定説は覆され続けて、今に至っているはずです。
だとしたら、太極拳を正しく追及していく過程で、自分の中でどれだけ間違っていたとしても、それは正しい太極拳を身に付けていくための過程のひとつにすぎないはずで、それを恐れていてはむしろ上達などあり得ないのだろうと思うようになりました。

指導して頂いている事をやる中で、自分の不理解が生じてしまうのはむしろ自然な事であり、そこと正しく向かい合うことで、本当に進むべき在り方が見えてくるのだという気がします。
何より、そうやって変わっていける事が、ひとつの正解で終わってしまう事より、楽しい事のような気がします。
失敗や間違いを恐れず、進んでいきたいと思います。
16. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 00:52
☆西川敦玄さん
私が稽古中に注意されることで、考えていて体が動いていない、という事があります。
かと思えば、頭を使っていない、考えが足りないと指導していただく事もあります。

どういう事??とも見えますが、単純に言って、考えるべきでない時に考えてしまっていて、考えるべき時に考えていない、ただそれだけの話なのだろうと思います。
相手のいる対練で考えながら動いても、絶対に相手に合いませんし、真似をするときもまた然りです。
また、理合や理論を無視して好き勝手に動いていても、正しい動きにはならず、じっくり検証しなければならないはずです。
ようは頭の使いどころを間違えないように、という指導なのだと思います。
言ってみればシンプルなのですが、私のような頭でっかちの考えなし(?)はその使い方を間違えてしまうのですね。
何事もバランスよく取り組んでいかないといけないようです。
17. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 00:59
☆川島玄峰さん
こちらが頭で考えて作った動きは、不思議と相手の顕在意識が反応するようで、簡単に防がれてしまいます。

感じることで合わせて動けた時は、顕在意識を通り越して潜在意識や無意識に働きかけれているようで、簡単に相手が崩れたり、飛んでいったりしてしまいます。

自分の感覚と向かい合うと、こうに違いないと思っている意識が「見ること」をブロックしているように感じられることがあります。
自分の意識も放鬆され、その抵抗がなくなっていくことで、見えるものはもっと増えてくるのかもしれませんね。
本当に克服すべき相手は、自分の中に居るかのようです。
18. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 01:11
☆ハイネケンさん
我々が想像している以上に、人間というのは繊細で敏感な生き物で、特に精神や意識の在り方は簡単に肉体にまで影響を及ぼし、思ってもみなかった結果を出すことがあるようです。

精神と肉体が相互に影響を与え合っているのが感じられてくると、問題が起きている箇所にも少し敏感になれるようで、取り組みを改善する時に、そこに意識的に働きかける事が出来るようになってきます。
そうすると不思議な事に、自分以外の周りにも影響が出始め、開運法ではないですが、状況が好転していくといった事にも繋がってくる…というのは私の実体験です。

特に、太極武藝館で指導して頂く内容、放鬆の大切さは、語りつくせないものがある気がします。
自身の心も肉体も、緊張で凝り固まっている部分が解けていくことでどれだけ多くの変化があるか…。本当に面白いですね!
19. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 01:20
☆マルコビッチさん
真似をするとき、目で見て顕在意識(思考)で合わせようとすると合わない理由のひとつとして、顕在意識のスピードの遅さが挙げられるかと思います。
科学的に実験が行われて分かっている事なのですが、我々の顕在意識(思考)が認識している外の世界は、実は0.5秒遅れが生じているのだそうです。
0.5秒遅れた世界を認識しているのに、あたかも今体験していて、物事に反応して即座に対応できているかのように、脳が書き換えてしまっているのだそうです。
何かが起きたとき、人間は本当は考える前に動いていて、後でつじつまを合わせているのだそうです。
だから目で見て合わせようとしても、どうしても遅れてずれてしまいます。だからこそ、それ以外の感覚まで駆使して真似をしていかないと、本当にリアルタイムで真似することにはならないのでしょうね。

ブルースリーの、
「考えるな、感じろ!」という言葉が、非常に考えさせられます。
20. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 01:25
☆平田玄琢さん
人間の脳は、自分が見たいと思うものを見るように出来ているので、人によって見えることが違うというのは、むしろ自然な事なのかもしれません。

ところが、危機に際しては、この世界で起きていることをしっかりと認識しないと生き残れないはずで、その時に頼りになるのは、培われた感性とそこから導き出される直観のはずです。
極論ですが、生き残れさえすれば理論は後からいくらでも書き換えたり磨き上げる事が出来るので、まずは生き残るための直観、その力こそが重要なのでは、と自分は思います。
私にとっては、それこそが磨いていかなければならない力だと感じるので、もっと精進していきたいと思っています。
21. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 01:29
☆清水龍玄さん
この世界には脳がなくてもしっかり動いて、状況を判断しながら生きている生物がごまんといますね。
彼らの生態を知ると、彼らにもしっかりとした知性があるように感じられます。

ということは、脳と知性とはもしかしたら別物…?ということなのかもしれません。
生きることの本質に根差した知性とは、もしかしたら脳とは全く違った所から来るのかもしれません。
頭で考えててもわからない時は、とにかく動いてみて、それで見えてくるものもあるかと思います。
武術の稽古、真似をするという事もまた、そういった本能に根差した部分を鍛える必要があるということなのかもしれませんね。
22. Posted by 太郎冠者   2024年10月13日 01:37
☆マガサスさん
目をこらしてみるのも善し悪しあって、裏返せばそれは目が放鬆できていないということになるかと思います。
目の緊張は、同時に首や肩や背中の緊張に繋がり、つまり体をこわばらせる原因となっているかもしれません(笑)

宗師のお話を伺うたびに、あれをしているこれをしているという話がどんどん出てくるので、
「あれ、宗師って何人いるのだろう…?」
と思うことがしばしばあります。

人間は、同じ時間を生きているわけではなく、それぞれ別の時間(時空?)を生きているのだなぁと改めて感じさせられます。と同時に、もっと自分も濃密な時間で人生を過ごせるはずだ、とも思います。
何かを大切にする事と何かに固執することは似て非なるもので、太極拳を通じて教わったことを大切にしてしまっておくのではなく、もっと人生が輝くように、有効に使っていけるようになりたいですね。
そこにこそ、太極拳という武術が、ただの戦闘技法を越えたものとして存在する価値があり、本当に大切な宝物である理由なのだと感じます。

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ