2024年08月31日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その86
『非習慣化を鍵とする』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
私はいま、ブログの記事を執筆しようと、いつものように椅子に腰を下ろし、パソコンを立ち上げました。テキストエディタを起動し、さて何から書き始めようか…そう思案をはじめたところで、ピタッと手が止まってしまいました。
…一向に手が動きません。はてさて、困ってしまいました。
私が何に困ってしまっているかというと、この自分自身の行動が、「いつもこうしている」というルーチンに従った、習慣化されたものだったからです。
ブログの提出期限が近付くと、考えてあった内容をまとめるためにパソコンに向かいます。書き留めてあったメモを見たり、腕組みをして虚空を眺め考えをまとめ、おもむろに立ち上がって動いてみたり…そのようにして記事を書く事が、私にとって月に一度の習慣になっています。
その習慣をやめて、いつものようには書かない…けれど記事は書く。
あれ、それってどうすればいいんでしょう…そうして途方に暮れていたというわけです。
頭の中にあったのは、稽古中にお話して頂いた、宗師の「非習慣化する」という言葉でした。
宗師がいつも新しい事に挑戦をして居られるのは、新しい事に挑戦することで自分を見つめ直す事に使っている、という事を話してくださったのです。
その言葉が私の中に残り響き続けており、今も何かを問いかけ続けているかのように感じられます。
感じたことのひとつには、自分は新しい事に挑戦するという時に、自分がどのようにそれに取り組むかを見ようという考えはあまり頭になかった、という事でした。
どちらかというと、その物事をいかに上手く軌道に乗せてこなしていけるか、そのことに目が向いていたかと思います。最初は手探りの状態から始めて、それを繰り返す中で機微を掴み、次第に上手くこなしていけるようになる…。
そうしていく過程が、新しく何かを始める事だと思っていた部分がありました。そのため、何かをする時に、一定のレベルまでやる時間がどれくらいかかるかを無意識のうちに計算してしまい、それをどこかで億劫だと感じていたようでした。
そうではなく、やったことのない所に自分を放り込むことで、取り繕うことも出来ないまっさらな自分がさらけ出されるのだ、と…。宗師はそのようにおっしゃって下さったのではないかと思うのです。
新しい事というのは何も大層な事をする必要はなく、それまでしていなかった場所の掃除をする時間を取る、いつもより少しだけ早起きして、体を動かすようにするなど、本当に些細な事でも構わないのだと思います。
人間というのは、知らずに生活もルーチンとしてくみ上げ、習慣で行動してしまうものではないかと思います。その方が余計な労力を必要とせず、大切な部分にだけ注力できるようになるという面もあるようです。それはある意味では真実かもしれませんし、良い習慣を身に付ければ自分にとってプラスになるのかもしれません。
ですが宗師は、たとえ毎日のトレーニングなどを取っても、それを習慣としてやることを我々には決して求めていません。同じ動作を繰り返す時も、自分のフォームや動き方など、全て意識的に行っているかが問われています。惰性でやるくらいならやらない方がいいとまで言われます。
同じ動作を繰り返す事で、次第に考えることなく体が動くようになり、咄嗟の時にもその動作が苦も無く出来るようになる…ある意味ではこれは理にかなったことなのかもしれませんが、太極武藝館の稽古を通して我々が勉強しているのは、どうもそれとは少し異なっているのではないかと感じることがしばしばあります。
確かに、稽古の中では手の位置、足の出し方、姿勢など、本当に細かい所まで注意するべき場所があります。ところがある程度その形に慣れてくると、その慣れそのものが問題になっていると思う部分があるのです。
足を出すことひとつとっても、咄嗟に動くと自分が一番出しやすい方法で足を出すものですが、往々にしてそれは架式としてみれば「正しくない状態」であったりします。
ところが、指導者の元で真似をしながら足を出した時、自分でやろうとしていた時よりも正しい(ものにより近い)出し方が出来たりします。必死で真似をしようとしている時、習慣化された自分の動きとは離れた状態に導かれているのだと思います。
その過程を考えてみると、太極武藝館で行われているのは、むしろ自分の体の「脱習慣化」とでも言えるような、自分の癖を徹底的に抜く作業に他ならないといえるのかもしれません。
意識的に身体を動かす、物事に取り組んでいる瞬間、そこには習慣で行える余地は全く介在していないのだと思います。間接的にその状況を作り出すために、新しい事に挑戦する、自分が普段しないことをするというのは、理にかなったことのように感じます。
そこで見える自分の取り組み方と、太極拳という、非習慣化を鍵とするような武術の稽古を行う事とは、切っても切れない関連があるのかもしれません。
宗師のお話を聞いてから、生活の中でも自分が慢性的に関わっていることはないだろうかと、より注意深く気を付けるようになりました。
そうすると、自分がこうだと思っていた物事は実はそうではなくもっと違う理由が陰に隠れていたり、普段付き合いのある人が思ってもみなかった人となりをしていたことに改めて気づいた、という事がたくさん出てきました。
稽古をする上でも、自分の陥っていた問題に改めて目が向くようになり、発見することがいくつもありました。
発見…といっても本当に笑えない話ですが、すでに稽古の中で指導されていた内容がより深く響いてきて、自分の中で繋がってきた、というだけの話です。
自分がどこかで疎かにしてしまっていた注意点が、実は体の全体を整える上で(自分にとって)本当に大切な事だった…と気づいた時には逆に笑ってしまったものです。わからないなりに努力していたつもりになっていた…より注意深く関われていれば、とっくに気づけていた事ばっかりだったなぁ、とも思います。
体も頭も、使わなければ次第に固くなり、衰えていってしまうものです。考え方もまた、知らずに固執するようになり、自分が見たい世界だけを見たいように見てしまうものなのかもしれません。
ただ、それで終わらせてしまうにはもったいないほどに、この世界は素晴らしいもの、楽しいことで満ち溢れています。そこに目を向けられるように、そしてその事を受け止められるように、自分の中でしっかりと整えて準備しておけるか…太極拳で上達することも、生活を豊かにし、人生をより良く生きることも、共通点があることなのかもしれません。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
私はいま、ブログの記事を執筆しようと、いつものように椅子に腰を下ろし、パソコンを立ち上げました。テキストエディタを起動し、さて何から書き始めようか…そう思案をはじめたところで、ピタッと手が止まってしまいました。
…一向に手が動きません。はてさて、困ってしまいました。
私が何に困ってしまっているかというと、この自分自身の行動が、「いつもこうしている」というルーチンに従った、習慣化されたものだったからです。
ブログの提出期限が近付くと、考えてあった内容をまとめるためにパソコンに向かいます。書き留めてあったメモを見たり、腕組みをして虚空を眺め考えをまとめ、おもむろに立ち上がって動いてみたり…そのようにして記事を書く事が、私にとって月に一度の習慣になっています。
その習慣をやめて、いつものようには書かない…けれど記事は書く。
あれ、それってどうすればいいんでしょう…そうして途方に暮れていたというわけです。
頭の中にあったのは、稽古中にお話して頂いた、宗師の「非習慣化する」という言葉でした。
宗師がいつも新しい事に挑戦をして居られるのは、新しい事に挑戦することで自分を見つめ直す事に使っている、という事を話してくださったのです。
その言葉が私の中に残り響き続けており、今も何かを問いかけ続けているかのように感じられます。
感じたことのひとつには、自分は新しい事に挑戦するという時に、自分がどのようにそれに取り組むかを見ようという考えはあまり頭になかった、という事でした。
どちらかというと、その物事をいかに上手く軌道に乗せてこなしていけるか、そのことに目が向いていたかと思います。最初は手探りの状態から始めて、それを繰り返す中で機微を掴み、次第に上手くこなしていけるようになる…。
そうしていく過程が、新しく何かを始める事だと思っていた部分がありました。そのため、何かをする時に、一定のレベルまでやる時間がどれくらいかかるかを無意識のうちに計算してしまい、それをどこかで億劫だと感じていたようでした。
そうではなく、やったことのない所に自分を放り込むことで、取り繕うことも出来ないまっさらな自分がさらけ出されるのだ、と…。宗師はそのようにおっしゃって下さったのではないかと思うのです。
新しい事というのは何も大層な事をする必要はなく、それまでしていなかった場所の掃除をする時間を取る、いつもより少しだけ早起きして、体を動かすようにするなど、本当に些細な事でも構わないのだと思います。
人間というのは、知らずに生活もルーチンとしてくみ上げ、習慣で行動してしまうものではないかと思います。その方が余計な労力を必要とせず、大切な部分にだけ注力できるようになるという面もあるようです。それはある意味では真実かもしれませんし、良い習慣を身に付ければ自分にとってプラスになるのかもしれません。
ですが宗師は、たとえ毎日のトレーニングなどを取っても、それを習慣としてやることを我々には決して求めていません。同じ動作を繰り返す時も、自分のフォームや動き方など、全て意識的に行っているかが問われています。惰性でやるくらいならやらない方がいいとまで言われます。
同じ動作を繰り返す事で、次第に考えることなく体が動くようになり、咄嗟の時にもその動作が苦も無く出来るようになる…ある意味ではこれは理にかなったことなのかもしれませんが、太極武藝館の稽古を通して我々が勉強しているのは、どうもそれとは少し異なっているのではないかと感じることがしばしばあります。
確かに、稽古の中では手の位置、足の出し方、姿勢など、本当に細かい所まで注意するべき場所があります。ところがある程度その形に慣れてくると、その慣れそのものが問題になっていると思う部分があるのです。
足を出すことひとつとっても、咄嗟に動くと自分が一番出しやすい方法で足を出すものですが、往々にしてそれは架式としてみれば「正しくない状態」であったりします。
ところが、指導者の元で真似をしながら足を出した時、自分でやろうとしていた時よりも正しい(ものにより近い)出し方が出来たりします。必死で真似をしようとしている時、習慣化された自分の動きとは離れた状態に導かれているのだと思います。
その過程を考えてみると、太極武藝館で行われているのは、むしろ自分の体の「脱習慣化」とでも言えるような、自分の癖を徹底的に抜く作業に他ならないといえるのかもしれません。
意識的に身体を動かす、物事に取り組んでいる瞬間、そこには習慣で行える余地は全く介在していないのだと思います。間接的にその状況を作り出すために、新しい事に挑戦する、自分が普段しないことをするというのは、理にかなったことのように感じます。
そこで見える自分の取り組み方と、太極拳という、非習慣化を鍵とするような武術の稽古を行う事とは、切っても切れない関連があるのかもしれません。
宗師のお話を聞いてから、生活の中でも自分が慢性的に関わっていることはないだろうかと、より注意深く気を付けるようになりました。
そうすると、自分がこうだと思っていた物事は実はそうではなくもっと違う理由が陰に隠れていたり、普段付き合いのある人が思ってもみなかった人となりをしていたことに改めて気づいた、という事がたくさん出てきました。
稽古をする上でも、自分の陥っていた問題に改めて目が向くようになり、発見することがいくつもありました。
発見…といっても本当に笑えない話ですが、すでに稽古の中で指導されていた内容がより深く響いてきて、自分の中で繋がってきた、というだけの話です。
自分がどこかで疎かにしてしまっていた注意点が、実は体の全体を整える上で(自分にとって)本当に大切な事だった…と気づいた時には逆に笑ってしまったものです。わからないなりに努力していたつもりになっていた…より注意深く関われていれば、とっくに気づけていた事ばっかりだったなぁ、とも思います。
体も頭も、使わなければ次第に固くなり、衰えていってしまうものです。考え方もまた、知らずに固執するようになり、自分が見たい世界だけを見たいように見てしまうものなのかもしれません。
ただ、それで終わらせてしまうにはもったいないほどに、この世界は素晴らしいもの、楽しいことで満ち溢れています。そこに目を向けられるように、そしてその事を受け止められるように、自分の中でしっかりと整えて準備しておけるか…太極拳で上達することも、生活を豊かにし、人生をより良く生きることも、共通点があることなのかもしれません。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
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コメント一覧
1. Posted by 松久宗玄 2024年09月01日 23:26
太極拳の稽古において、習慣化や惰性の要素が残っているほど、上達を進めていく事は難しくなりますね。
稽古とは型に合わせていくものではありますが、その中には常に挑戦や模索があり、解かれるべきコードがあります。
日々、日常含めて挑戦を自らに課していないと、稽古での挑戦も進められないと感じています。
自らの挑戦は積み重ねられているだろうか、非習慣化の問い直しは何処までも続くのだと思います。
稽古とは型に合わせていくものではありますが、その中には常に挑戦や模索があり、解かれるべきコードがあります。
日々、日常含めて挑戦を自らに課していないと、稽古での挑戦も進められないと感じています。
自らの挑戦は積み重ねられているだろうか、非習慣化の問い直しは何処までも続くのだと思います。
2. Posted by 川島玄峰 2024年09月02日 20:46
仕事や家庭、稽古、趣味などそれらを繋げる行動を考えるといつの間にか習慣化されていてその中には悪い習慣もたくさん見えてきました。
今回の記事では習慣化するデメリットとして自分の思い込みに気付けなかったり、突然の出来事も億劫に感じられたり色々な変化に対処する行動が取れなくなるのではと考えさせらました。
対処出来ないとは武術としては失敗になりますね。
生活習慣病もまさにそれで悪い習慣を放置し対処していないと取り返しのつかない結果にもなって行きます。
私としては日常の反省も含めて非習慣化にするには悪い習慣を変える事が鍵となれるのかもしれないです。
悪い習慣を受け止めて認識し対処して行こうと思いました。
ありがとうございました。
今回の記事では習慣化するデメリットとして自分の思い込みに気付けなかったり、突然の出来事も億劫に感じられたり色々な変化に対処する行動が取れなくなるのではと考えさせらました。
対処出来ないとは武術としては失敗になりますね。
生活習慣病もまさにそれで悪い習慣を放置し対処していないと取り返しのつかない結果にもなって行きます。
私としては日常の反省も含めて非習慣化にするには悪い習慣を変える事が鍵となれるのかもしれないです。
悪い習慣を受け止めて認識し対処して行こうと思いました。
ありがとうございました。
3. Posted by マルコビッチ 2024年09月03日 00:01
途方に暮れたあと、どのようにこの記事を書き上げたのかも気になりますが、習慣化とは無意識に繰り返すことだと思いますので、習慣化していると気づいた点でもうそこから抜け出しているのかもしれませんね。
意識的に行動することは、たとえそれが同じパターンであっても意識的であれば即座にそのパターンを変えられるのだと思います。
しかし、常に意識的に行動することは難しいことで、でもそうありたい為に非日常の空間に身を置いてみたりするのでしょう。
宗師はお忙しい中、色々なことに果敢に挑戦されていらっしゃいますが、そこには必ず明確な目的があり、ご自分がご自分として生きていくためのものであるように見受けられます。
その軸は決して外れない為に、何かにチャレンジされた後は、稽古での歩き方や動きが以前とは違っていることが多いと思います。
宗師のようにとまでいかなくても、何か成長できる直感があったなら思い切って飛び込んでいきたいものです。
意識的に行動することは、たとえそれが同じパターンであっても意識的であれば即座にそのパターンを変えられるのだと思います。
しかし、常に意識的に行動することは難しいことで、でもそうありたい為に非日常の空間に身を置いてみたりするのでしょう。
宗師はお忙しい中、色々なことに果敢に挑戦されていらっしゃいますが、そこには必ず明確な目的があり、ご自分がご自分として生きていくためのものであるように見受けられます。
その軸は決して外れない為に、何かにチャレンジされた後は、稽古での歩き方や動きが以前とは違っていることが多いと思います。
宗師のようにとまでいかなくても、何か成長できる直感があったなら思い切って飛び込んでいきたいものです。
4. Posted by ハイネケン 2024年09月03日 06:47
>意識的に身体を動かす、物事に取り組んでいる瞬間、そこには習慣で行える
余地は全く介在していないのだ…」
「稽古とは何か?」を言語化したい私にとって答えの一つでした。
教えて頂いた時も独り稽古の時も、何かを意識したり意識的に自分を見て行くと感覚が活性化し、突然開けた草原に立った様な感覚になります。
進むべき方向が正しくなければ得られないであろう感覚。変化を自分が認知できるかどうかはその時によって異なりますが、良い稽古であるために必要な事が見えてきました。
太郎冠者様の取り組み、姿勢から学ばして頂きました。
ありがとうございました。
余地は全く介在していないのだ…」
「稽古とは何か?」を言語化したい私にとって答えの一つでした。
教えて頂いた時も独り稽古の時も、何かを意識したり意識的に自分を見て行くと感覚が活性化し、突然開けた草原に立った様な感覚になります。
進むべき方向が正しくなければ得られないであろう感覚。変化を自分が認知できるかどうかはその時によって異なりますが、良い稽古であるために必要な事が見えてきました。
太郎冠者様の取り組み、姿勢から学ばして頂きました。
ありがとうございました。
5. Posted by 阿部玄明 2024年09月04日 01:23
習慣を良い面、悪い面で考えると
良い面=慣れる、半自動的に処理できる、継続は力なり
悪い面=マンネリ化、惰性
のように思います。
稽古をする。体のメンテナンスをする。いずれも習慣のようにやっていますが
マンネリと惰性になってしまうと、効果が減少してしまいます。
さらには時間がないからと言って簡略化、短縮、早送り などしてしまうと
自分はやった気になっていても効果が全くないということになります。
習慣の悪い面とは自分の身勝手な考えが入ってきてしまうことだと言い換えられるかもしれません。
体と心の状態は日々変化していて同じではない。自分の周りの環境も変わります。
それを見過ごさずに状態に応じて関わり方を変えていくことがマンネリの防止になると思います。それには変化に気づくこと、短い時間でも集中して向かい合うこと、関わり方を変えたことの効果を評価すること。これらを大事にすれば(意識的に扱えば)習慣的におこなってることも非習慣として実行できると思い、試しています。
太郎冠者さんが毎月ブログの記事を習慣のように掲載頂いていることは
「継続は力なり」であって大変素晴らしいです。
いつも学ばせて貰い、ありがとうございます。
良い面=慣れる、半自動的に処理できる、継続は力なり
悪い面=マンネリ化、惰性
のように思います。
稽古をする。体のメンテナンスをする。いずれも習慣のようにやっていますが
マンネリと惰性になってしまうと、効果が減少してしまいます。
さらには時間がないからと言って簡略化、短縮、早送り などしてしまうと
自分はやった気になっていても効果が全くないということになります。
習慣の悪い面とは自分の身勝手な考えが入ってきてしまうことだと言い換えられるかもしれません。
体と心の状態は日々変化していて同じではない。自分の周りの環境も変わります。
それを見過ごさずに状態に応じて関わり方を変えていくことがマンネリの防止になると思います。それには変化に気づくこと、短い時間でも集中して向かい合うこと、関わり方を変えたことの効果を評価すること。これらを大事にすれば(意識的に扱えば)習慣的におこなってることも非習慣として実行できると思い、試しています。
太郎冠者さんが毎月ブログの記事を習慣のように掲載頂いていることは
「継続は力なり」であって大変素晴らしいです。
いつも学ばせて貰い、ありがとうございます。
6. Posted by 西川敦玄 2024年09月04日 10:40
習慣と非習慣
太郎冠者さんの言われる通り、また私たちの認識のとおり、私たちは習慣化したい。どうして習慣化したいのか。様々な理由が言われていると思いますが、今回は「安心」したいと思うからではないかという面で考えました。習慣化することと安心することに違いがあるかどうかはさておき(すみません)、習慣とはいつものようにすることですし、破綻が起きていないことだと思います。安心ということに近いかもしれません。しかしながら私たちは、習慣化した日常を生きていても安心が得られないのでしょうか?
このままで良いのだろうか?いつか、この日常はくずれるのではないだろうか。そう思うのではないでしょうか。とすると、本当の安心は習慣化からくるのではないのかも知れません。習慣化し、居着けば、同時に恐れも存在するのだと思います。
私的感想ですが、身体を動かすことでは、日々の積み重ねで、意識にのぼらせる事無く動けるようになります。そして逆説的ですが、そこでようやく客感的に意識的に自己の運動を観ることができるようになるということもあると思います。そうして、ふたたび認識を新たにし稽古に繋げていく。
ですので
稽古に打ち込み身体に覚えさせることと習慣化は異なることと考察します。間違えないようにしないといけないと思いました。
そして、我々に問われていることは、中身の方であるとつくづく思わされました。
太郎冠者さん、考える機会をもらいありがとうございました。
太郎冠者さんの言われる通り、また私たちの認識のとおり、私たちは習慣化したい。どうして習慣化したいのか。様々な理由が言われていると思いますが、今回は「安心」したいと思うからではないかという面で考えました。習慣化することと安心することに違いがあるかどうかはさておき(すみません)、習慣とはいつものようにすることですし、破綻が起きていないことだと思います。安心ということに近いかもしれません。しかしながら私たちは、習慣化した日常を生きていても安心が得られないのでしょうか?
このままで良いのだろうか?いつか、この日常はくずれるのではないだろうか。そう思うのではないでしょうか。とすると、本当の安心は習慣化からくるのではないのかも知れません。習慣化し、居着けば、同時に恐れも存在するのだと思います。
私的感想ですが、身体を動かすことでは、日々の積み重ねで、意識にのぼらせる事無く動けるようになります。そして逆説的ですが、そこでようやく客感的に意識的に自己の運動を観ることができるようになるということもあると思います。そうして、ふたたび認識を新たにし稽古に繋げていく。
ですので
稽古に打ち込み身体に覚えさせることと習慣化は異なることと考察します。間違えないようにしないといけないと思いました。
そして、我々に問われていることは、中身の方であるとつくづく思わされました。
太郎冠者さん、考える機会をもらいありがとうございました。
7. Posted by 平田玄琢 2024年09月04日 13:23
自身の生活の中で、習慣にしたいものと、したくないものがあります。
椅子に座っている時に、肘が机にもたれかかる。立ったり歩いている時も、体の何処かが固まっていたり、何処かの関節にもたれかかって、それにより支点ができて動きが阻害される。
先日の稽古で宗師が仰しゃいましたが、そういった状態でアイススケートやスケボーに乗っていれば、必ず転んで痛い目を見ると。人間はさまざまな所に色んな筋肉が付いているので、そういった状態でも転ばないと。
私にとって、良い習慣を身に付けるには、いつもの悪い習慣を直す意識の継続が必要と感じます。そのための新たな事や、非習慣は必要な事だと思いました。
椅子に座っている時に、肘が机にもたれかかる。立ったり歩いている時も、体の何処かが固まっていたり、何処かの関節にもたれかかって、それにより支点ができて動きが阻害される。
先日の稽古で宗師が仰しゃいましたが、そういった状態でアイススケートやスケボーに乗っていれば、必ず転んで痛い目を見ると。人間はさまざまな所に色んな筋肉が付いているので、そういった状態でも転ばないと。
私にとって、良い習慣を身に付けるには、いつもの悪い習慣を直す意識の継続が必要と感じます。そのための新たな事や、非習慣は必要な事だと思いました。
8. Posted by 川山継玄 2024年09月05日 04:14
「一瞬たりとも、同じ状態はないものだな。」と近頃つくづく思います。
呼吸一つとっても、この世に生を受けてから、一時たりとも欠くことのできない事だけれど、一度だって一緒の呼吸はなかったはずです。
けれど、あまりに当たり前すぎて、「呼吸」として一つにくくり、一瞬一瞬の呼吸の変化や違いに気付こうともしていませんでしたが、生きていくために体の状態に合わせて、深さや速さを変えながら、呼吸してきたのだと思います。
・要訣を守る。
・手順を守る。
事の重要性は、規矩としてのそれらが、物の在り方に逆らっていない事に気付き、それを守った時に生じていることを受け容れ、寄り添い、成長するための変化をし続ける事ではないかと感じています。
それが、非習慣化の一つではないかと考えました。
先日、雷による停電に見舞われました。停電になった瞬間に、「アッ、来たか!」と舌打ちするような焦りを感じた、危機管理の甘い自分にもあきれましたが、電気が付いた瞬間の、安堵して、たった今まで何とかしなければとひやひやしながらもフル回転していた頭と体が、一瞬にして消えたことには、もっと愕然としました。
普段と違う状況や環境の中で、頭も体もフル回転させる必要があるな!と生活を習慣化させている自分に気付かされる、良い機会だったと思います。
太郎冠者さんの記事のお陰で、今一度、生活・稽古を振り返る機会を頂きました。
ありがとうございます。
呼吸一つとっても、この世に生を受けてから、一時たりとも欠くことのできない事だけれど、一度だって一緒の呼吸はなかったはずです。
けれど、あまりに当たり前すぎて、「呼吸」として一つにくくり、一瞬一瞬の呼吸の変化や違いに気付こうともしていませんでしたが、生きていくために体の状態に合わせて、深さや速さを変えながら、呼吸してきたのだと思います。
・要訣を守る。
・手順を守る。
事の重要性は、規矩としてのそれらが、物の在り方に逆らっていない事に気付き、それを守った時に生じていることを受け容れ、寄り添い、成長するための変化をし続ける事ではないかと感じています。
それが、非習慣化の一つではないかと考えました。
先日、雷による停電に見舞われました。停電になった瞬間に、「アッ、来たか!」と舌打ちするような焦りを感じた、危機管理の甘い自分にもあきれましたが、電気が付いた瞬間の、安堵して、たった今まで何とかしなければとひやひやしながらもフル回転していた頭と体が、一瞬にして消えたことには、もっと愕然としました。
普段と違う状況や環境の中で、頭も体もフル回転させる必要があるな!と生活を習慣化させている自分に気付かされる、良い機会だったと思います。
太郎冠者さんの記事のお陰で、今一度、生活・稽古を振り返る機会を頂きました。
ありがとうございます。
9. Posted by マガサス 2024年09月05日 21:15
毎日同じことをしていても、その時によって体調も違えば、感覚や考えている事など、いろいろと違います。
全く同じ自分は2度と存在しません。
物事を習慣化したい自分は、そのことによって安心安全に過ごせると思ったからですが、実は生きていることはとてもスリリングで、絶えず変化し続けていて、何の保証もないものでした。
瞬間瞬間のライブの中で、自分はどう生きているのか?
そんな問いかけも非習慣化につながるような気がしました。
今回も自分を省みるきっかけを頂き、ありがとうございました。
全く同じ自分は2度と存在しません。
物事を習慣化したい自分は、そのことによって安心安全に過ごせると思ったからですが、実は生きていることはとてもスリリングで、絶えず変化し続けていて、何の保証もないものでした。
瞬間瞬間のライブの中で、自分はどう生きているのか?
そんな問いかけも非習慣化につながるような気がしました。
今回も自分を省みるきっかけを頂き、ありがとうございました。
10. Posted by 清水龍玄 2024年09月05日 23:14
>体も頭も、使わなければ次第に固くなり、衰えていってしまうものです。考え方もまた、知らずに固執するようになり、自分が見たい世界だけを見たいように見てしまうものなのかもしれません。
そうですね。
そして、その様になっていく自分を自覚することも難しいと思います。
きちんと鍛えられていないことからくる衰えを、年のせいかななんて思ってみたり・・・
恐ろしいのは、その様な生活で身に付けたものは、新しいこと等、変化に対して非常に弱く、生き残れないものになってしまうと思います。
私はその傾向がとても強いので、自分に刺激を与えられるように気を付けています。
そうですね。
そして、その様になっていく自分を自覚することも難しいと思います。
きちんと鍛えられていないことからくる衰えを、年のせいかななんて思ってみたり・・・
恐ろしいのは、その様な生活で身に付けたものは、新しいこと等、変化に対して非常に弱く、生き残れないものになってしまうと思います。
私はその傾向がとても強いので、自分に刺激を与えられるように気を付けています。
11. Posted by ユキ 2024年09月06日 00:03
習慣化は無意識を生じ、非習慣化は意識的であることが生じます。
それでは、意識的であることを日々取り組んでいたら、それは習慣化することにはならないのだろうか・・?、と、今回の記事を読んでいたらそんなことを考えていた小学生時代を思い出しました(^_^;)
これ、けっこう面白い問いかけだと思いますのでぜひ、お暇な時にでも解いてみてください。
日に新たに、日々新たに、ですね。
それでは、意識的であることを日々取り組んでいたら、それは習慣化することにはならないのだろうか・・?、と、今回の記事を読んでいたらそんなことを考えていた小学生時代を思い出しました(^_^;)
これ、けっこう面白い問いかけだと思いますのでぜひ、お暇な時にでも解いてみてください。
日に新たに、日々新たに、ですね。
12. Posted by 太郎冠者 2024年09月08日 01:54
☆松久宗玄さん
同じ対練、同じ門人と相手をしてもらっていても、その時々、状況によって毎回同じということはないはずですよね。
ところが、なぜか同じ技法・同じやり方で相手を崩そうとする、ということがしばしば起こります(今日の稽古でもそうでした…)。
それでうまくいってないとしても、なぜか人間はそれを続けたがるのです。
まぁ、それは自分の事なのですが…。我が事ながら不思議なものでした。
そういうものから脱却するためにも、自分の思考の習慣に目を向け、変えていけるような状態にバシっと合わせていきたいものです。
同じ対練、同じ門人と相手をしてもらっていても、その時々、状況によって毎回同じということはないはずですよね。
ところが、なぜか同じ技法・同じやり方で相手を崩そうとする、ということがしばしば起こります(今日の稽古でもそうでした…)。
それでうまくいってないとしても、なぜか人間はそれを続けたがるのです。
まぁ、それは自分の事なのですが…。我が事ながら不思議なものでした。
そういうものから脱却するためにも、自分の思考の習慣に目を向け、変えていけるような状態にバシっと合わせていきたいものです。
13. Posted by 太郎冠者 2024年09月08日 02:00
☆川島玄峰さん
自分の場合はまず、知らずに習慣化していることに自分で気づけるか、という所からはじめないといけませんでした。
知らずに、というのが一番怖いもので、いつの間にかそうするようにしていたことを、なんとなく続けていた事が習慣化していた、ということがしばしばあるものでした。
意識的に物事に取り組む事とは程遠い状態であり、それは本当に戒められなければならないと感じたものです。
依存性のあるものを「やめたいのにやめられない」のともまた違って、無意識の中に入り込んだ習慣は、本当に注意深く見ないと気づけないものかもしれません。
「わからない」という点において、非常に厄介なのではと思ったものです。
自分の場合はまず、知らずに習慣化していることに自分で気づけるか、という所からはじめないといけませんでした。
知らずに、というのが一番怖いもので、いつの間にかそうするようにしていたことを、なんとなく続けていた事が習慣化していた、ということがしばしばあるものでした。
意識的に物事に取り組む事とは程遠い状態であり、それは本当に戒められなければならないと感じたものです。
依存性のあるものを「やめたいのにやめられない」のともまた違って、無意識の中に入り込んだ習慣は、本当に注意深く見ないと気づけないものかもしれません。
「わからない」という点において、非常に厄介なのではと思ったものです。
14. Posted by 太郎冠者 2024年09月08日 02:13
☆マルコビッチさん
>途方に暮れたあと、どのようにこの記事を書き上げたのか
どうしたんでしょうね…。普段あまり聞かないジャンルの音楽を流しながら部屋で踊り続けていたら、気が付いたら記事が書けていた。真相はそんなところかもしれません。
>習慣化していると気づいた点でもうそこから抜け出している
本当にそうですね。まず気づけるか、そこが課題だと個人的には感じました。
また、意識的に行動することと考えながら行動することはこれまた別のことで、もっと感覚的で、その瞬間に何が起きているかを観察できるか、そうしないといけないのかもとも思いました。
新しい事に挑戦する気持ちがないと、平穏ではあるものの刺激が少なく、フラットな人生になってしまいますね。それはそれで日々の生活を送ることはできるかもしれませんが、人間として腐っていってしまいそうです。
無理に変わった事をしないとしても、昨日とはちょっと違った今日を、二度とない特別な今を。味わいながら生きていきたいものです。
>途方に暮れたあと、どのようにこの記事を書き上げたのか
どうしたんでしょうね…。普段あまり聞かないジャンルの音楽を流しながら部屋で踊り続けていたら、気が付いたら記事が書けていた。真相はそんなところかもしれません。
>習慣化していると気づいた点でもうそこから抜け出している
本当にそうですね。まず気づけるか、そこが課題だと個人的には感じました。
また、意識的に行動することと考えながら行動することはこれまた別のことで、もっと感覚的で、その瞬間に何が起きているかを観察できるか、そうしないといけないのかもとも思いました。
新しい事に挑戦する気持ちがないと、平穏ではあるものの刺激が少なく、フラットな人生になってしまいますね。それはそれで日々の生活を送ることはできるかもしれませんが、人間として腐っていってしまいそうです。
無理に変わった事をしないとしても、昨日とはちょっと違った今日を、二度とない特別な今を。味わいながら生きていきたいものです。
15. Posted by 太郎冠者 2024年09月08日 02:24
☆ハイネケンさん
最近改めて気づいたことなんですが、自分は武術が好きなんだなぁ、と。
上手い下手は別にして、好きなもの、面白くてしょうがないものに取り組んでいると、これはどういう事なんだろう、何が起きているんだろう?とずっと向かい続ける事になります。
そうなっている時は、漫然と稽古している時と違って、少なからず意識的に関われているのではないかと感じます。
稽古を通して、体を動かしながら、そこに起きていることを味わっているのが本当に楽しい。
そこで得られたものを基に、もっともっと工夫してみよう、やってみようという気持ちがどんどん湧いてきています。
もっとも、自分が上達出来ているかは不明なのですが、発見と新たな疑問は出続けているので、これがまた楽しみに拍車をかけていてくれているのは確かだと思います。
最近改めて気づいたことなんですが、自分は武術が好きなんだなぁ、と。
上手い下手は別にして、好きなもの、面白くてしょうがないものに取り組んでいると、これはどういう事なんだろう、何が起きているんだろう?とずっと向かい続ける事になります。
そうなっている時は、漫然と稽古している時と違って、少なからず意識的に関われているのではないかと感じます。
稽古を通して、体を動かしながら、そこに起きていることを味わっているのが本当に楽しい。
そこで得られたものを基に、もっともっと工夫してみよう、やってみようという気持ちがどんどん湧いてきています。
もっとも、自分が上達出来ているかは不明なのですが、発見と新たな疑問は出続けているので、これがまた楽しみに拍車をかけていてくれているのは確かだと思います。
16. Posted by 太郎冠者 2024年09月09日 22:07
☆阿部玄明さん
ちょっとお話はズレるかもしれませんが、同じ仕事を一日こなしていても、「今日は疲れたな、大変だったな…」と思うか、「今日もよく働いたな!十分やり切ったな!」と思うかで、疲れの感じ方が全く違うような気がします。
同じ出来事に会ったとしても、心や意識の持ちようでこれだけ変わるのだとしたら、習慣で惰性でやってしまうことでどれだけ損をしている事があるのだろうか、と思ってしまいます。
習慣化・非習慣化を分ける鍵はやはり、意識的に取り組めるかどうかなのかもしれません。
そういう意味では、毎月書かせて頂いているこの連載も、もっともっと勉強するために書くことが出来るのだと思うと、また楽しみになってきます。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
今後とも、ぜひお付き合いください。
ちょっとお話はズレるかもしれませんが、同じ仕事を一日こなしていても、「今日は疲れたな、大変だったな…」と思うか、「今日もよく働いたな!十分やり切ったな!」と思うかで、疲れの感じ方が全く違うような気がします。
同じ出来事に会ったとしても、心や意識の持ちようでこれだけ変わるのだとしたら、習慣で惰性でやってしまうことでどれだけ損をしている事があるのだろうか、と思ってしまいます。
習慣化・非習慣化を分ける鍵はやはり、意識的に取り組めるかどうかなのかもしれません。
そういう意味では、毎月書かせて頂いているこの連載も、もっともっと勉強するために書くことが出来るのだと思うと、また楽しみになってきます。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
今後とも、ぜひお付き合いください。
17. Posted by 太郎冠者 2024年09月09日 22:23
☆西川敦玄さん
今日仕事で、普段はやらない仕事をした際に、とあるジャンルのプロと交流させて頂きました。
(なんの仕事だったかは、ちょっと伏せさせていただきます)
打合せで話をしていると、こちらの話や意図をくみ取り、てきぱきと物事の進め方をまとめていく様を見て、目の付け所が違うなぁ、と感心させられたものでした。
彼らにとってはいつもの慣れた仕事だったのかもしれませんが、こちらにとっては初めての経験で、失敗するかも…という不安もくみ取り、上手く誘導していってくれました。
その様子は、惰性で慣れた仕事をこなしているというより、意識を向けるべき場所を的確に把握していて、そこに注視しながら仕事をこなしているように見え、非常に興味深かったものです。
慣れた仕事をこなしながらも、初めて会う人間と
話をしながら新しいものを作り出していくその様子は、太極拳の意識的な稽古にも通じる部分があるかも…などと頭の片隅で考えていたものです。
…なんだか、少し余談のようになってしまいました。
今日仕事で、普段はやらない仕事をした際に、とあるジャンルのプロと交流させて頂きました。
(なんの仕事だったかは、ちょっと伏せさせていただきます)
打合せで話をしていると、こちらの話や意図をくみ取り、てきぱきと物事の進め方をまとめていく様を見て、目の付け所が違うなぁ、と感心させられたものでした。
彼らにとってはいつもの慣れた仕事だったのかもしれませんが、こちらにとっては初めての経験で、失敗するかも…という不安もくみ取り、上手く誘導していってくれました。
その様子は、惰性で慣れた仕事をこなしているというより、意識を向けるべき場所を的確に把握していて、そこに注視しながら仕事をこなしているように見え、非常に興味深かったものです。
慣れた仕事をこなしながらも、初めて会う人間と
話をしながら新しいものを作り出していくその様子は、太極拳の意識的な稽古にも通じる部分があるかも…などと頭の片隅で考えていたものです。
…なんだか、少し余談のようになってしまいました。
18. Posted by 太郎冠者 2024年09月09日 22:34
☆平田玄琢さん
普段の姿勢が悪いのでは?
とは、私も宗師にたびたび指摘をして頂いたものです。
それが何度か続くと、椅子に座る時に「姿勢!」と気を付けるようになりました。
最近では、色々な状況で、どう動けてどう体が使われ、どのような作用が生じているかを観察するのが面白くなってきて、それが太極拳の稽古そのものに影響が出ているのが感じられ、より熱中するようになってきました。
注意されている事を守るだけでは堅苦しくも感じられるものですが、自身の楽しみとして取り組めることで、それがどれだけ豊かな稽古になるのかが味わえた気がしています。
>先日の稽古で宗師が〜
本当におっしゃる通りですね。よくも悪くも、幼い頃になんとなく立って歩けるようになってしまったその悪癖を消すのが大変です。
ただしかめっ面で取り組むのではなく、それを充実した生きがいとしてこなしていける事が、稽古を磨いていくことにつながるのかも、と感じます。
普段の姿勢が悪いのでは?
とは、私も宗師にたびたび指摘をして頂いたものです。
それが何度か続くと、椅子に座る時に「姿勢!」と気を付けるようになりました。
最近では、色々な状況で、どう動けてどう体が使われ、どのような作用が生じているかを観察するのが面白くなってきて、それが太極拳の稽古そのものに影響が出ているのが感じられ、より熱中するようになってきました。
注意されている事を守るだけでは堅苦しくも感じられるものですが、自身の楽しみとして取り組めることで、それがどれだけ豊かな稽古になるのかが味わえた気がしています。
>先日の稽古で宗師が〜
本当におっしゃる通りですね。よくも悪くも、幼い頃になんとなく立って歩けるようになってしまったその悪癖を消すのが大変です。
ただしかめっ面で取り組むのではなく、それを充実した生きがいとしてこなしていける事が、稽古を磨いていくことにつながるのかも、と感じます。
19. Posted by 太郎冠者 2024年09月09日 22:42
☆川山継玄さん
>「呼吸」として一つにくくり…
考える・思考・言葉は不思議なもので、別々のはずのものを一つにまとめて人に認識させる機能があるかと思います。
私も、稽古中によく「考えている」と注意していただくことがあります。考える、言葉でまとめることで取りこぼされてしまっている目の前の現実の欠片が認識できず、その現実に即さない自分の頭の中での出来事を再現しようとしても、実際に効果が出ないのは、こうして書いてみると明らかだと思います。
そうすることで未知のリアルな現実と対面しないようにしている、安心を求めた一種の防衛反応なのかもしれません。
危機に動ける、現実ときちんと対面できる、これらの示す事は同じ事のように感じます。
私も、いざという時に動ける心身が身に付くよう、稽古に励んでいきたいと思いました。
>「呼吸」として一つにくくり…
考える・思考・言葉は不思議なもので、別々のはずのものを一つにまとめて人に認識させる機能があるかと思います。
私も、稽古中によく「考えている」と注意していただくことがあります。考える、言葉でまとめることで取りこぼされてしまっている目の前の現実の欠片が認識できず、その現実に即さない自分の頭の中での出来事を再現しようとしても、実際に効果が出ないのは、こうして書いてみると明らかだと思います。
そうすることで未知のリアルな現実と対面しないようにしている、安心を求めた一種の防衛反応なのかもしれません。
危機に動ける、現実ときちんと対面できる、これらの示す事は同じ事のように感じます。
私も、いざという時に動ける心身が身に付くよう、稽古に励んでいきたいと思いました。
20. Posted by 太郎冠者 2024年09月09日 22:49
☆マガサスさん
対練の最中、宗師に示して頂いた際、
「私は同じ事はしていない」と何回も言って頂くのですが、どうにも自分が取り組んでいることを観察してみると、それでうまくいっていないのに関わらず、同じような事を何度も何度も繰り返しているように思えてなりません。
型通りにやる事と同じことを繰り返すことは似て非なるもので、そもそもきちんと型通りに動けば相手は崩れるはずなのです。
架式に則り、型通りに動いているはずの宗師が一番自由に、その時々で違うことをしているとはこれ如何に…?
ただ、最近は、そこで示されている事がちょっとだけ味わえてきたような感覚もあるのです。
もちろん、上手くいかない事もしばしばなのですが。
生き方、考え方、頭を変えることが太極拳の学習には、本当に…本当に必要なんだと痛感させられますね。
対練の最中、宗師に示して頂いた際、
「私は同じ事はしていない」と何回も言って頂くのですが、どうにも自分が取り組んでいることを観察してみると、それでうまくいっていないのに関わらず、同じような事を何度も何度も繰り返しているように思えてなりません。
型通りにやる事と同じことを繰り返すことは似て非なるもので、そもそもきちんと型通りに動けば相手は崩れるはずなのです。
架式に則り、型通りに動いているはずの宗師が一番自由に、その時々で違うことをしているとはこれ如何に…?
ただ、最近は、そこで示されている事がちょっとだけ味わえてきたような感覚もあるのです。
もちろん、上手くいかない事もしばしばなのですが。
生き方、考え方、頭を変えることが太極拳の学習には、本当に…本当に必要なんだと痛感させられますね。
21. Posted by 太郎冠者 2024年09月09日 22:55
☆清水龍玄さん
>年のせいかななんて…
最近、自分の年齢を考えないとパッと出てこない事があり、あぁ、これが噂に聞いていたものか…と思ったものでした。
ただ、それで諦めて衰えていくのはあまりにも人生もったいないですよね!
幸いにも、人間は鍛えていけば実年齢とは関係なく若さを保つことができ、若い頃よりもっともっと成長もしていけるとのことなので、とことん取り組んでいきたいと思います。
もし太極拳をやってなかったらと思うと、本当に心の底からぞっとしますね。
このままオジサンになっていくかと思ったら、悲しすぎます。絶対にそうはならないようにしていきましょう!
>年のせいかななんて…
最近、自分の年齢を考えないとパッと出てこない事があり、あぁ、これが噂に聞いていたものか…と思ったものでした。
ただ、それで諦めて衰えていくのはあまりにも人生もったいないですよね!
幸いにも、人間は鍛えていけば実年齢とは関係なく若さを保つことができ、若い頃よりもっともっと成長もしていけるとのことなので、とことん取り組んでいきたいと思います。
もし太極拳をやってなかったらと思うと、本当に心の底からぞっとしますね。
このままオジサンになっていくかと思ったら、悲しすぎます。絶対にそうはならないようにしていきましょう!
22. Posted by 太郎冠者 2024年09月09日 23:00
☆ユキさん
>これ、けっこう面白い問いかけ
面白いどころか、太極拳の稽古の考え方を変えるのに必要な、的を射た問いかけではないでしょうか!
この問いかけを意識しはじめた所から、やったことのない体験がいくつかあったりしたので、少なくとも私にとっては意味のある質問だったのだと感じています。
それに伴って、なんというか、考え方や物の見方に違った手ごたえみたいなものが感じられてきているので、早急に答えを出そうと思わず、味わえるものはしっかり味わっていきたいと思います。
ありがとうございます。
>これ、けっこう面白い問いかけ
面白いどころか、太極拳の稽古の考え方を変えるのに必要な、的を射た問いかけではないでしょうか!
この問いかけを意識しはじめた所から、やったことのない体験がいくつかあったりしたので、少なくとも私にとっては意味のある質問だったのだと感じています。
それに伴って、なんというか、考え方や物の見方に違った手ごたえみたいなものが感じられてきているので、早急に答えを出そうと思わず、味わえるものはしっかり味わっていきたいと思います。
ありがとうございます。
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