2024年07月18日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)


寓話
毎週食べている蕎麦屋さん
年に2日しか食べられない幻の蕎麦屋さん
どちらも同じ心持ちで食せるのだろうか?

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第八話
<プロローグ>
身体に染み、身体から出てくるまでには手間が掛かる。
手間を「時を重ねること」とすると長い時間が必要だ。
しかし手間を「意識を重ねること」であると捉えるならば絵本「光の旅かげの旅」の如く、世界が反転した様な異なる景色が広がる。

<多忙な日々に>
日常が多忙で稽古が出来なかった。昨年そんな疲労困憊し体調不良であった時、宗師より「自分に興味をもって。」と言葉を掛けられた。
私は自分の処理能力(生活能力?)を上げれば良いだろう。忙しく高回転で処理し続ければ効率化も進み、いつか自由な時間が手に入るだろうと考えた。高回転な生活で私は焼き切れそうなエンジンの様だった。
「したい事」を沢山連ねると幸せになれる、と思っていた。結果自分にとって危険な状態となっていた。

<日常生活での疑問>
そんな時、宗師は常に様々な事に挑戦して多忙なのだが悠々として生き生きとした生活を過ごしている様に見えた。多忙でも何かを犠牲にしている様には見えなかった。私は自分が犠牲にしているものがあったので疑問が湧いた。
「なぜ宗師は多忙なのに生き生きとした生活、快適や快にも見える選択が出来るのでしょうか?」と宗師に質問をしてみた。
返事は「自分に興味を持ち、丁寧な養生、メンテナンスする事」だった。「眠り方」「日々の選択」など日常生活についてが主だった。
教えの通り「日常生活の行動を意識的にする」うちに行動は「流れ」ではなく「積み重ね」に変化した。すると自分の世界が反転した様に生活が生き生きとし始めた。言葉では伝わりづらいだろうか?
心身が楽になり次第に問題が自然と解決していったものもあった。

<意識的である事>
宗師は「角度1度のズレが月と冥王星になってしまいますよ」と話す。
当門では感性や個性を否定された事はなく、ただ自分の至らぬ処、甘さを指摘される。
それらは精神修養でもあるが太極拳の鍛錬に直結する。
指摘された差異を自分で認識し直ちに修正する事は「真似る稽古」と繋がっている。理由や意味はいつか身体が分かるだろう。しかし自我は思考し安定を求め、身体で理解すらしていないにも関わらず、とても早急稚拙に理由や意味を「考える選択」をしてしまう。
そんな時、自分の状態に気づくと同時にある事実に気がつく。
それは意識的でも無意識的であっても、「自らの選択が自らが望む道の邪魔をしてしまう事がある」のだ。
当ブログでは既出の小説「火を熾す」の様な状況になる。
最近、自分の状態に気付こうとする事で私は以前より意識的に生活している実感がある。

そして質問の「快の選択をしている」事への返事を宗師より戴いた。
宗師は「自分にとっては不快である事も選択している。」と。
「自分にとって不快な方」を選択する?すると結果として「快な選択」をしている様に見える?
私は頭をぶん殴られた様に再び世界が回転した。「光の旅かげの旅」だ。
もちろん以前とはまた違う景色だ。
次はここを歩いてみよう。
私には不快なのだから。

知者不言、言者不知。
塞其穴、閉其門、和其光、
同其塵、挫其鋭、解其紛。
是謂玄同。
老子

第八話 「多忙な日々から、不快を歩く」終

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                        (尾形光琳 紅白梅図屏風)





disciples at 16:16コメント(24)門人随想  

コメント一覧

1. Posted by 西川敦玄   2024年07月20日 15:17
ハイネケンさん
ブログ記事ありがとうございました。悩みと模索の日々の様子が伝わってきました。他の道場の様子は分かりませんが、太極武藝館での稽古の日々は、道を歩むように、そうして、太極の道を歩んでいることに気付き、歩き続けることが出来るようなものだと思います。

老子の 知るものは言わず、言うものは知らずと・・・。本当にそのようなものであると思います。

稽古をして、仲間と問いかけ合い、自得することがあり、そうして稽古していく。そんな普通とおもえることを、生き生きとすごして行く。
記事を読み、ハイネケンさんの思いと、どれだけが重なるかどうか分かりませんが、一緒に稽古していきたいと思いました。

中々、お会いできませんが その折にはどうぞよろしくお願いします。
2. Posted by 松久宗玄   2024年07月20日 16:36
日常生活の中でも工夫を積み上げる事が出来ると気付いたのは、私もごく最近になります。
それまでは勢いに任せて、一本調子で頑張っていくスタイルでしたが、行き詰まり、見直しを余儀なくされました。

私の場合は、稽古の見直しから入り、生活の見直しへと反映され、ポジティブな循環に繋がったように思われます。
無極椿に向き合う中で、余分を落としていくプロセスを掘り下げていくと、足りない要素が必要として見えてくるようになり、
日常生活の中でも、余分や不足の偏りが見えてきて、生活改善にも繋がっていきました。

実感としては、「静」から始める事の重要性になります。
自分が静かになれば、余分も不足も自ずから見えて、修正していく方向を自分で見つけられるようにもなってきました。
日々を同じ繰り返しとしてではなく、工夫の積み重ねができる循環となるよう、心掛けたていきたいものです。

激しい猛暑の続く季節ではありますが、この状況も工夫して乗り越えたいものですね・・・
3. Posted by 阿部玄明   2024年07月21日 01:15
ハイネケンさん

自分を知り、自分に関わることは とっても難しいです。
今回、記事としてこのテーマを書いていただいてありがとうございます。
自分も大概、生産性向上だけで問題解決できると思ってきた人間です。

仰るように宗師の有り様は大変参考になります。
宗師は不快を選択する際にも不快だけではない、別の何かを見出して楽しんでいるようです。挑戦することで何かを得る、成長する、など変化の切っ掛けになってます。
それこそゲーム感覚でご自分の限界に挑戦しておられますね。

忙しい状況を嫌なことだと捉えて目を背けるか、挑戦として新しく何かを得るのだと考え
積極的に関わるかどうかで成果や疲労感が全然違うと思います。
宗師と我々の違いはその辺の考え方の違いにあるかもしれません。
もっと自分の防戦的な日常を、善戦(挑戦)に転換せねばいけませんね・・・。
それをできるための心の余裕、度量、視野を磨いていきます。
4. Posted by ハイネケン   2024年07月21日 11:42
西川敦玄様

最近は感性に品(ひん)と質の差はあっても「上下はない」と思う様になりました。以前は「仲間と問いかけ合い」を「指導頂く」受け身の様な聞き方だったと思います。最近はお互いに感性が違うからこそ自分が気が付けなかった新たな感性の世界を見せてくれている気がします。重なり合いもあればすれ違いもあるのですがそれを糧にできる様になりたと思います。
こちらこそこれからも宜しくお願い致します。
5. Posted by ハイネケン   2024年07月21日 11:48
松久宗玄様

見直しの順序が宗玄様と私とでは逆スタートですが、実は思考のクセが同質なのかもしれません。私の場合は宗師に答えを求める事で頼る事の大切さを学び新たな模索の方法となりました。宗玄様はご自身で無極から解きほぐし生活を含めた循環を変化させた事はご本人の強さでありやはり大切です。
あるロールプレイングな方法ですが努力を怠り40歳になり身を落とした。その時神様が現れ「20歳に戻してやる」と言われ人生をやり直しているとイメージして20歳から今できる限りの努力をしている。あるプロ野球選手の研鑽方法です。
私は工夫は好きなのですが、積み重ねは私にとって苦手な事であり、さらに積み重ねができる『循環』となると途方なく遠くに感じます。
単一的な工夫の積み重ねではなく、多彩な工夫の積み重ねができる様になりたいです。
例えば無極の理解から重さ数キロのライフルを軽そうに構えられる様な多彩さが欲しいです。
災害ともいえる猛暑が続いております。御身体に気をつけてお過ごし下さい。
6. Posted by ハイネケン   2024年07月21日 11:58
阿部玄明様

進歩するために必要な事は本当に「心の余裕」かもしれません。そしてそれは稽古だけでは獲得できない。日常をも含む自分への関心へと連なっています。
自分を知る事は「見えない自分の背中や足の裏」を意識しているような感じでしょうか。そして更に不快への積極的な関わりは人間にとって本当に恐怖です。マンネリは怠惰に通じ変化は刺激であり嫌悪に繋がります。年齢を重ねると積雪のように自分で作った常識が自分の成長の邪魔をしてきます。欲求と思考とを逆転流転させながらゲームの様にどんどん真似ていきたいです。
7. Posted by マルコビッチ   2024年07月21日 16:17
「時を重ねること」「意識を重ねること」その手間の中身はきっと色も深さもちがってくるのでしょう。
「不快な方を選択する」はある意味挑戦であり、自分を確かめる術でもあるのだと思います。
仕方なく嫌なことをやらざるを得ないことはあっても、自ら選択することはなかなかありません。
それを選択するということ自体、とても自分に意識的でないと出来ないと思います。
思い返せば、不快なことの状況の時の方が自分を省みていたようです。

「自分に興味を持ち、丁寧な養生、メンテナンスする事」このことは簡単に思えてとても難しく、そして本当にとても大切な事だと、私も最近やっと気づきました。
豊かな感性をお持ちのハイネケンさんに刺激をいただきながら、私も頑張っていきます。
今後もよろしくお願いいたします。
8. Posted by 川島玄峰   2024年07月21日 19:12
自分の状態に気づけたという事は、己自身の問題点を深く認識できるようになるという事ですね。
最も大切な気づきです。

私も自分自身に問題がある事を自覚するまでに時間がかかりました。今は幸い素直に受け入れ修正する気持ちが持てますが、状態としては四苦八苦で日々研鑽です。
ハイネケンさんは普段の稽古でも試行錯誤する意識と勢いが見受けられますね。
これからも一緒に精進して参りましよう。

ありがとうございました。
9. Posted by ハイネケン   2024年07月21日 20:55
マルコビッチ様

マルコビッチ様も自分の状況の変化から内面が変化する経験をされましたか。
不快である方向を選択する時、受け身では選択肢も手順も小さくなる気がします。
折角の不快の選択の機会ですから価値観の転換を楽しみたいものです。
ただ自分に興味がないと全てが始まらない気がします。
進歩を求める仲間と共に歩けることを嬉しく思います。
こちらこそ宜しくお願い致します。
10. Posted by ハイネケン   2024年07月21日 20:59
川島玄峰様

不遜極まりないのですが、かなり自分を知っていると思って生きてきたと思います。
その時は理解出来ない事は自分の理解が足りないのだと考えていました。
自分の小ささが邪魔をして苦しかったです。
自分の状態を知ろうする事で四苦八苦の仕方が変化しました。
今も無駄な四苦八苦をしている事もありますが最も大切な気付きを生かし稽古して行きたいです。
御指導の程宜しくお願い致します。
11. Posted by 平田玄琢   2024年07月22日 08:10
本部道場に近い私たちは、幻の蕎麦屋(道場)に週何回も行けています。私には、ぞんざいに行ってないかと投げかけられたように感じました。よく気持ちが伝わって来ます。

意識に関しては、自分は重ねるとは思わずに、日々時の中で持ち続けるものと思ってました。

忙しいとは、心を亡くすと書きますので、なるべく「多用」ということばを使っています。
私の幸せの概念は、「分をわきまえ、処を得て分を尽くす」です。

ハッと気付きましたが、精神とか神経という「神」が関係しているものは、「さわらぬ」ことから、行を修めるのではなく、養い修める事だと。

昨年から、新たな事として「茶道」を習い始めました。私にとって「茶道」は、見ないようにしていた不快なものでした。
気付くと、神前作法が人前作法に変わりゆく状態がはっきりと分かりました。やはり、「神前」よりも「人前」の方が気を使います。

孤高の人山本五十六は、父が56歳の子と聞いていますが、もしかしたら、老子五十六章から名付けたのでは、と思える内容ですね。
12. Posted by ハイネケン   2024年07月22日 20:49
平田玄琢様

蕎麦屋の寓話は日々稽古する時の自戒の思いがあります。
「よい言葉」をありがとうございます。
多忙から多用。頑張るから分を尽くす。修行から修養。
言い換えて見ると、すっーと何かが通る気がします。
本句が「老子 五十六章」である事も知らずに載せていました。
書き下し文はよく「知る者」とされますが「知者と言者」の方がしっくりします。
実は「塞其穴、」以降のよい解釈が見つかりません。
知者の持つあらゆるモノ(能力)が見えなくなっても知者の本質は変わらないし「是謂玄同。」と言っていると思います。
話が逸れましたね、、、。

山本五十六元帥の
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
どこまでも人に信頼を寄せる根気の深さがあります。
この句には農家が稲穂稲わらを使い切る様な奥深さと無駄のなさがあり老子の「玄同」に通じる「本質的なもの」を感じます。
名言は最後まで読むほどに面白いです。

茶道は全く存じ上げておりません。
是非茶道修養の醍醐味を御話していただけませんか?
13. Posted by ユキ   2024年07月22日 21:14
今回も、読み手の心を揺さぶる、味のある記事ですね。

『「したい事」を沢山連ねると幸せになれる、と思っていた』・・同感です(笑)、ただ、私の場合はそれらをしながらの微調整が多いのかもしれません。
さながら大好きなサーキットで周回を重ねるかの如く、このカーブはもっとこう走れる、ブレーキポイントはもう少し早めに、サスの調整したほうがいいな…など、したい事をたくさん連ねながら調整と修正を繰り返す。だから今のところ危険な状態にはならないのだと思っています。

>心身が楽になり次第に問題が自然と解決していったものもあった。

これ、一つの真理ですよね。
「ならば、自分が問題としていたことは何であったのか」こんな問答を自分で繰り返したこともありました。
とても大事な発見だと思います。

さて、快・不快。
私が思うに、最も分かりやすい例は「躾」ではないでしょうか。
何も知らない子供にとって、親が教える作法やルールは不快以外のなにものでもありません。自分の思うように、好きにできないことは全て不快です。しかし。「自分」とは関係ないところで、本能的にそれが理にかなっていることが感じられる、「自分」から離れたところ、「自分」のないところを観たかのような一筋の光が感じられる。そして実際に理にかなっていたことが自分で証明できたときの快感。怒られ、怒鳴られ、張り倒され、悔しい思いで一杯のはずが、それをやってみようと思えるのは、そんな理由があったからかも知れないです。
不快に身を置くことで、快が見えてくる。
書いていて、全く異なる分野の先輩たちが皆私のことを「過激な変態」と呼ぶ理由がわかった気がしました。
三つ子の魂百まで。。
 
14. Posted by 川山継玄   2024年07月23日 03:19
立体的な表現と、時の流れや温度までも感じられる文章に、想像力が掻き立てられます。
言葉に、力強さやしなやかさ、誠実さ、勤勉さなど、いろいろな表情があるな、と感心しながら拝読いたしました。
ありがとうございます。

ハイネケンさんの文章から、宗師と私達との大きな違いに思いを巡らせてみました。
大きな違いの一つに、
*自分の可能性に蓋をせず、制限を設けないこと*豊かでたくましいイメージ力
が挙げられるかな、と思いました。
宗師は過去の記憶に縛られず、未来に意識を乗せて苦手・不可能と思った事にすら、達成した時のイメージを持ち、果敢に取り組み見事に成し切ってしまいます。
兎角、過去の失敗や成功に捕らわれて、「出来る気がしない」とやる前から諦めてしまったり、「やっぱり無理」と逃げ出したりしてしまいます。
未来の達成した自分の姿をありありと想像できたのなら、
「自分に興味を持ち、丁寧な養生、メンテナンスをする」必要性がわかるのではないかと思います。
宗師の意識に合わせて、一度の違いに気付ける感性を養っていきます。

ハイネケンさんはじめ、北の地で頑張っていらっしゃる皆さんと稽古できる日を楽しみにしております。
15. Posted by 太郎冠者   2024年07月23日 17:41
非常に面白い記事だと思いました。

>自分にとって不快な方
私も、自分にとって楽しい事、やりたい事ばかりを追求してきたように感じますが、その裏側に潜んでいる物事というのは、見えないふりをしていても次第に顔をのぞかせてくるのだなぁ、と、特に最近は感じます。

表のいい面ばかり味わおうとしていてもそうはいかず、裏の(嫌にも見える)面が顔を出してきますが、実はそれも含めて表裏一体のひとつの姿で、私に物事の深みを味わわせてくれているように思えるものです。

道場で宗師が言った一言に「えぇ…」と後ろ向きの返事をしたら、強制的にそれをせざるを得なくなるという出来事が続き、それがまた面白くもあります。
私も、もっと自分に興味を持って、宗師のアドバイスにどのような意味があるのか、噛みしめて行動してみたいと思いました。
16. Posted by 清水龍玄   2024年07月23日 23:59
自分にとって不快な事の選択とは、自身を犠牲にすることと思っていました。
そしてその様に取り組む中で、恥ずかしながら怪我をして、周りに大変迷惑をかけました、
その時の私は、自分に対して無頓着となり、全く丁寧には接していませんでした。
その怪我が切っ掛けか、何かしら、得ることもあったと思います。
例えば、上手くいかないのは自分が弱く押っ取っているからだと思っていました。
そのため無理をした結果が、これでした。
自分自身の取り組み方が間違っていたのだと反省させられました。

また、御一緒に稽古できる日を楽しみにしています。
17. Posted by ハイネケン   2024年07月24日 22:43
ユキ様

読み手の方たちと稽古の方向性を語り合うのは面白いです。サーキットを走りながらの微調整、自分の状態が分かってこそ微調整ができると思いますので、羨ましいです。
カーブに加速を重ねると気持ちよくぶっ飛んで行きそうですので御注意下さい。(それも自覚できるのだと思いますが、、、。)

>「自分が問題としていたことは何だったか?」
はい。真理に近づいた結果、自然と問題が解決したのだと思います。今自分が悩んでいたり考えている場所があるとして、そこに穴を掘るように考えたり、上空から俯瞰してみたり。
色々な見方をして行くと「問題そのものの前提」が見えてきて「問題自体の前提が変化した事」に気が付いた瞬間、問題自体が消えました。私独りでは何から手をつけたら良いか分かりませんでしたので御指導のお陰でした。快・不快はもう少し良い表現がないかと模索しましたが出来ませんでした。ユキ様の仰る通り、まさに「躾」です。自分を躾ける。ただ不快を選ぶのではなく不快の中に見える直感的に正しいであろう事を選択すると書きたかったのです。自分の言いたい事が腑に落ちました。ありがとうございます。
まだ私は躾という「不快を選択する入口」ですが一つずつなら注意を払えます。ユキ様がこれまでその様な選択をして来たのであれば「過激な変態」(私が言うと失礼ですね、、、。)に映ると思います。「敢えてソコに行くの?」って言われますね。

そして「一筋の光」こそ躾の中に見える美意識であり性善であり「玄同」ではないでしょうか。知恵や意識で遊び身体を十全にほぐし、澄んだ武藝を身に着けたいものです。すっきりしました。御指摘ありがとうございました。
18. Posted by ハイネケン   2024年07月24日 22:49
川山継玄様

文章を書く事は殆どないのですが、ふと思い付いた小さな種が大きく実る事があります。
宗師との大きな差異が一番大事ですが正直同じような成功が出来るか?となると足がすくみます。
ただ失敗は「この方法ではダメだった」という検証だと考えています。失敗出来たら次に違う方法はないかな?と自問したり、この解決方法はどうでしょう?と宗師に問うてみたりしています。失敗は「通り道」です。「出来る気がしない」のは「したい事」が明瞭なのですから継玄様が羨ましいです。私はいつも「何をしているのだろう?」と分からないまま稽古が過ぎ行くので「出来る、出来ない」という時間がありません。そう考えると私は関連性や目的を考える必要がありますね。
「やっぱり無理」と分かるまで突き詰めたのなら、その時は自分の価値観の底に迫っており、価値観が変化するチャンスです。
最近自分に興味を持つ、それ以前の自分の状態に興味を持つ事で「持続可能な生活を組み立てる事」が大切になりました。自分の状態が明瞭になり「他人の話を聞く」「話を遮らない」事が出来るようになってきました。すると人間関係が少し変化しました。折角ですからそのまま私も「未来に意識を乗せて」みようと思います。
ちなみに今この文を書いていて一番重要な発見は「今日は暑くて疲労しています。丁寧なメンテンナンスの為に、ちゃんと眠る事」になりました。
良い一日になりますように。
19. Posted by ハイネケン   2024年07月24日 22:52
太郎冠者様

ありがとうございます。太郎冠者様が面白いと言って下さると嬉しいです。皆様との言葉の交換でさらに良い文章?トピックになっています。
いつも私は「右ですかね? そして上で良いですか?」と質問すると宗師のお答えは「手前です」みたいになります。よく皆さんも口にする「前に歩いてない」と似ていると思います。
表も裏もあって一つであれば、もしかたら厚みもあって、さらに色、匂い、重さ、時間での変化、もあるかもしれません。おっしゃる通り嫌にも見える面は意識し続けることで深みにもなり変化していくことでしょう。自分の裏面は嫌かもしれませんが、たっぷり味わって下さい。意識し続けるだけで変化します。そしてアドバイスだと思っているものは答えそのものかもしれず、答えだと思っていたものはアドバイスかもしれません。
先を行く宗師は分かっていても、今は私たちには分からない。私は歩んでみた後にしか分からない気がします。

>「後ろ向きの返事」と分かっているのは大事です。「空返事」も「ウソ返事」も後から自分に返ってきます。まずは「自分が後ろ向きだ」から始めまて、共に不快を歩きましょう。

『先ず隗より始めよ』
20. Posted by ハイネケン   2024年07月24日 23:10
清水龍玄様

快という感覚は生物の生存に関わる大事な感覚として今も研究されています。私は正直独り稽古でダラダラとした意識で稽古する事があります。やった気がするのですが後から後悔しています。
時間の無駄であったかのように身体が整わないのです。では気持ちを切り替えて10分だけでも自分に集中してみると、、、なんとも言えないのですが充足感がありました。時間ではなく濃厚な感覚を積み重ねた様な感覚でした。
日本のおじさんの孤独を感じる度合いが国際的な指標でトップクラスだったそうですが、大人になると自分を見守る人がいなくなった気がして孤独に感じます。私はせめて自分だけでも自分をいたわり、大事にメンテンナンスをしてあげて「今日一日ありがとう」と声をかけ、自分の手のひらを当ててマッサージをして柔功をして解しています。
効きます。
皮膚感覚でのコミュニケーション(スキンシップ)はオキシトシン(俗称 幸せホルモン)が出やすく、また神経の働きを活性化させます。また「今日一日ごくろうさん」などと独り言であるセルフトークは「アファメーション」として自己暗示となり自分の脳にダイレクトにメッセージを伝えます。
私は前向きな言葉より労をねぎらう言葉が好きです。そのあとに「ぼーっと」します。
雑念や自分の思考が流れ出るかもしれませんが止める必要もなく「あー思考が流れているなぁ」とただ意識して思考を追いかけずに流れに任せます。そのうち頭がポカンとしてくる。私はここまでやって初めて「頭の中が休んだ」と実感します。ワーカホリックな時には「ぼーっと」すると脳の回転数が下がりとても休めます。最近は「脳のデフォルトモードネットワーク」と呼ばれていますが「頭の使い方」の一つだと思います。
21. Posted by ハイネケン   2024年07月24日 23:11
(上段からつづき)

自分に興味がないと休めません。休むって意外に深いのだと思います。疲れたおじさんとしては私の方が先輩ですので是非ご一緒にメンテンナンスに邁進しましょう。
稽古の際は宜しくお願い致します。
お怪我しているとの事ですがお会いできる事を楽しみにしております。
22. Posted by ハイネケン   2024年07月25日 21:51
皆様へ

今回、文章化に苦労した事がいくつもありました。頂いたコメントから自分の考えがまとまったり、広がったり。
お陰様で本当に多彩なブログになりました。驚いたのは皆様のイメージがとても広いこと。
私は記憶する事が苦手で、稽古の状態を上手く思い出せないのですが皆様の返信には明確なイメージを感じます。
宗師と自分とのギャップに途方に暮れる私に、まず「自分の今の状態を知る事」を御指導頂いたと思います。この解釈がどの様な結果になるかはこれからですし、解釈と理解の失敗になるかもしれません。失敗は検証の一つでありそれには皆様との稽古が必要です。
御指導のほど宜しくお願い致します。

ハイネケン 拝
23. Posted by マガサス   2024年07月26日 00:28
 日々丁寧に、そして繊細に生活されていらっしゃいますね。
ハイネケンさんの学ぶ姿勢を、いつも勉強させて頂いています。
「意識を重ねる」とは、とても良い表現だと心に響きました。
私はお恥ずかしながら、ようやく自分自身と向き合うことが出来るようになってきたと感じています。
長い長い年月混沌としていて、出口のない迷路に入ってしまったかのような不安な日々を過ごしていました。が、そんなある日、精神も肉体も極限状態に達した時に、強烈な「不快」を経験し、それがあまりにも強烈すぎて、自分の自尊心も、変な意地も木っ端微塵に打ち壊されました。
そしてその瞬間に、長い間理解できずに苦しんでいた自分自身を受け入れる事ができました。見え方が突然反転した様に、目の前が明るくなったのを今でも鮮明に覚えています。
快も不快も隣り合わせ、表と裏も、陰と陽も・・・同じようにそこに在る。
宗師の在り方、物事やご自身への向かい方を拝見し、宗師に軸を合わせて生活していると、ええ〜っ⁈と、自分の常識や日常をひっくり返されることばかり起こります。
やはり見え方が反転します。
自分の安心する安定を一先ず横に置き、この不安定さにチューニングし続ける中で見えるものを大切にしたいと思います。
いつも心に響く記事をありがとうございます。皆さんの記事やコメントを拝見し、勉強させて頂けることに感謝しています。
24. Posted by ハイネケン   2024年07月27日 22:10
マガサス様

お待ちしておりました。
コメント頂きありがとうございます。
混沌として出口が見えない迷路にいる時、独りで考え独りで悩み、孤独であることを自らが選択している事にも気がつかないです。誰かに相談しても良いのに「こう言われたらどうしよう」「大人として恥ずかしい」「自分で解決すべき」などと自分の変な意地やプライドが邪魔をし選択肢すら失います。
相談する・しないではなく、その前に自分の状態が分かっていない事が問題を大きくしていくと思います。今にして思えばですが。
体験は個人的ですので私とマガサス様の経験は同じではないのですが、同じ匂いがします。これを何度も繰り返すのかと思うと辛いのですが不快の選択の結果であり成長の醍醐味かもしれません。過去の自分を「変な意地」と言ってしまう現在のマガサス様は宗師を観察し自分と比べたりしながら「えぇ〜っ⁈」っとなっている。良い「稽古」ですね。
私の繊細さは私が小心者であり臆病者である裏面です。以前は否定したかった事ですが今は信じるに足る稽古がありますから、そのままにしています。
>「同じようにそこに在る」
道標になる一言です。ありがとうございました。

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