2024年06月27日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その84

   『心身一如』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)




 前回の記事を書いてから一か月の間で、また色々な事がありました。
 仕事の状況が改善され稽古に出られる!かと思いきや、今度はなんと腰を痛めてしまい、稽古に行けないどころか一週間ほど日常生活を普通に送るのさえ困難になる、という初めての出来事を味わったのです。

 症状のピークは過ぎてだいぶ回復してきたのですが、朝起き上がるのが困難という状況が自分の身に起きるとは、本当に思ってもみなかったものでした。ただ、幸か不幸か、それまで太極拳の稽古を通して培われた体の使われ方は、たとえ痛めていても力を発揮してくれるもので、一度立ち上がりさえすればなんとか動けるのです。良いか悪いかは別として、ですが。
 腰がダメになっているので屈むことはほとんどできなかったのですが、立って普通に作業する分には、おそらく普通にこなせていたのだと思います。職場の人に後日、腰を痛めていたと話したら、普通に動いていたから全然気づかなかったと言われました。私自身は「痛い痛い…」とつぶやきながら動いていたのですが。

 ともあれ、症状が改善に向かう最中でも、なんとか自分に稽古を課していかなければなりません。文字通り怪我の功名といいますか、普段の動きの中で、どれだけ自分が無駄に力を使いながら、バラバラな動きで動作していたのかが嫌でも分からされてきたものでした。
 道場での対練で、自分は受け身がとるのが難しい状況でも、人を崩すことは出来るのが本当に不思議にも感じられるものでした。痛めていて動くのに不都合のある部分は当然あったのですが、そのために力めない、相手の力にそもそも対抗できないという状況の中で、いかに相手に合わせて身体が使えるかというものは、非常に勉強になったと思いました。

 先月の記事では、ブレないようにする、吊られたような状態で歩くという事を書かせていただきましたが、そうして整った状態の中でさらに、自分の動作が全て一致しているかどうか、それが相手に関わる上で非常に大事なのだということが分かった気がします。
 腰が痛いというだけで、そもそも自分の手足でさえ勝手に動かすのが難しいのだということがわかりました。上下にきちんと整えた上で、そこから全身が一致して動いているか。手足が動く時には、当然、体の他の部分も動いているだろうか。それらをひとつひとつ見ていくことが求められました。

 腰の痛みが一番ひどい時は、長時間椅子に座ることも難しく、なんとか立っていられるか、布団に横になっているかしかできませんでした。一度寝ころんでしまうと、自分の力で寝返りを打つのさえ難しかったです。その状況でも、病気ではないので頭は冴えていて働き続けます。
 せっかく仕事の予定がついて稽古が出来るのに、体の不調でそれさえままならないなんて、自分はいったい何をしているのだろう…と焦燥感と罪悪感が襲ってきました。
 しかし、そこで考えなおします。人生に無駄なものなど一つもないのだとすれば、今のこの状況でさえも勉強に使えるのに違いない、と。

 動きがままならない中で、道場で気づいたこと、気になったことを思い出しながら反芻し続けました。
 立ち方、歩き方、体の使い方。基本功や歩法の際の足の出る位置、手の出方、角度。
 相手に対する向かい方、手足の向き、相手の状態と動きのタイミングなど。

 記憶している限りのことを思い浮かべながら観察をし続け、自分の稽古での動きがどうだったかを照らし合わせていきました。
 すると、架式という観点から、自分の外形的な問題点、角度の甘さなどがいくつもあったことがわかってきました。

 そうして改めて宗師の動きを拝見させて頂くと、これまでに気づけなかった全身の一致が目に入るように感じられました。今までは、宗師の体幹部の動きの大きさが非常に気になっていて、それと比較して自分がどれだけ動けていないか、そこに意識が向かいがちでした。
 目を付けるポイントのひとつとしては、もちろん必要なことだと思います。ところが、動きだけに意識が奪われると、自分の体がどれだけ一致しているかが抜けてしまっていたのではないかと感じました。
 宗師は、全身が大きく動いていて、かつバラバラではなく、一致した動きになっているかのようでした。翻って自分の体を観察してみれば、余計な筋肉の入力で、自分の体や手足を、バタバタと動かそうとしているところが散見されました。
 その状況の何が問題かというと、上にも書いた通り、対練になって相手にそのバラバラの動きで働きかけようとすると、簡単に察知されてしまうという事が挙げられるかと思います。
 特に太極武藝館で一緒に稽古をしている同門人たちは、当然ですが訓練されている人たちです。こちらにわずかな動作のブレでもあるものなら、途端に察知され、「今、手が先に動いていた」と指摘されます。

 心身一如という言葉がありますが、崩したいという気持ちの先走り、もしくは体の入力が先行するという事があるだけで、相手には簡単に察知されてしまいます。察知されるということは、対処されてしまうということに繋がります。格闘技でいうテレフォンパンチのように、これからこうすると教えた上で取り組む武術など、元来存在するわけがありません。
 太極武藝館の門人は特に、触れたところから指一本でも先に動かそうものなら、即座に動きを気取られてしまいます。一般的な感覚では動いたつもりにさえならない動作でさえ、武術の稽古を行う上では動きとして認識されてしまうものです。そういったことが自然と養成されている太極武藝館の稽古は、考えてみると本当に恐ろしいものだと思います。

 そのため、こちらが動く時には、体の動作もさることながら、心の働きさえも含めて一致しているかどうかが、自然と問われてくることになります。
 太極武藝館の稽古で普段の生活が重要視され、自身の内面にまで深く関わることが多くなるのは、こういったことが理由としてあるのだと思います。ただ動きを真似するだけでもダメだし、かといって座禅を組んでいるだけでもダメです。
 日常生活と稽古を不可分のものとし、心と体も切り離すことなく捉え、自分がどのように生きているかに目を向けること。そうしないと、武術が必要とされるような戦いの場での心身の動きは、養われていかないのだと痛感させられます。

 何かの変化が起こる時というのは、不思議とそれが連続して起きてくるものなのかもしれません。私の身に起きたこと、私の周囲の人々に起きたことなど、人生にそうそういくつもないイベントが一度にまとめて起きたような気がしています。
 変化がある時、それまでの自分の状態やあり方に固執していると、変化の力そのものに打ちのめされ、どこかから自分にしっぺ返しが来る事になるのかもしれません。
 今回、私にとって良いこともあれば、考え方によっては悪かったとも取れることが起きましたが、それらは全て自分に変化を促してくれるという点においては、重要なことばかりだったのではないかと思っています。
 良い悪いではなく、その変化を受け入れて進めていくと、テンポよく物事がスムーズに進行していったものでした。変化が起き、そこから勉強し、また新しい変化が起きていく。
 人生とは、その流転の連続なのかもしれないと感じたものでした。
 その中で学べるものが、「太極拳」というキーワードで自分の中で結びついてくるのが、不思議でもあり、面白いものでした。

 もっともっと続けていければ、どんどん新しい体験を味わわせてくれるかもしれません。

                                (了)






☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!


disciples at 22:20コメント(23)今日も稽古で日が暮れる  

コメント一覧

1. Posted by 阿部玄明   2024年06月29日 14:31
悪いことがあってもそこから新しい気づきが得られるなら、自分が変化する貴重な機会と言えますね。

例えば怪我をしたときに、治してやろう、克服してやろうと元通りに戻ることだけを目指しては例え治っても原因が解決されないので同じ事が起きてしまいます。起こった事象の発生原因に目を向けて振り返ることが大事ですが結構これが大変な作業なのです。大体自分にも原因があることが多いので向き合いたくないです。これは怪我だけでなく他のすべてのことにも当てはまりそうです。仕事上のトラブルや人間関係、体調の変調、財布を失くした等々。日常に起こる事象に偶然は無く、原因があります。
過去を振り返り「あの時のアレは自分に対する警告だったんだ」と認識し、以後気を付けるように行動を変えるようにしています。

小難から気づきを得て、大きな災いを避けることも武術に通ずるところがあると思います。関わり方を見直して行くことも稽古であり、変わっていけることは有り難いことです。

2. Posted by ハイネケン   2024年06月30日 09:29
足が痛いと「足がある」。
気持ちがツラいと「心がある」。
色々とお疲れ様です。
「楽な時より辛い時」の方がありがたみが分かる、、、。人間とは自分勝手なものです。
太郎冠者様の投稿を読み宗師の在り様が「間違い探し」よりも「状態を味わっている」割合の方が多いのではないかと思い出しました。私はそこを真似る必要があります。
お陰様で私自身の捉え方を認識しそれを変化させてみる事が出来ます。
私の場合、一致する感覚はどうやら「雲の架かる月」の如く見え隠れしている気がしますが言語化できていません。何か分かりそうで明確ではない「一致」についての文章を書いてみたいです。
どなかた書いてくれないかな?と期待もしていますが。
でも休む時には「きちんと休む」。
何度も言います。「きちんと休む」。
太郎冠者様、お忙しい中ありがとうございました。
3. Posted by マルコビッチ   2024年06月30日 12:23
またまた大変でしたね。
でもそこからへこたれずに向き合い、発見に繋がったことは本当に怪我の功名ですね。
私も体調が悪くてしばらく稽古に出席できませんでした。
そんな時は決まって気持ちも悪い方へ悪い方へ働き、うつ状態のようになってしまいます。
何度も経験しているので、不調が治れば気持ちも晴れると言い聞かせていました。
いつも病院にはいかないのですが、今回は長かったこともあり病院でドクターの話を聞き、宗師の治療のご指導も頂き、漢方薬のお世話にもなり、自分でも色々調べて原因を探ることができました。
そして何が足りなくて何が必要かがわかってきました。
何で今までこのことをやらなかったのだろうと思うと、いくらトロイ私でも遅すぎるだろうと思ってしまいます。
しかしこのことは太極拳への取り組みを考えても、遅ーい私の成長?変化と類似しているなと、これを書いていて思いました。
まだまだ気づかぬ自分自身、そのままにしてしまっている自分によって、太極拳はもちろん、身体や生活、全てに影響をもたらしているのだろうと思いました。

太郎冠者さん、腰痛はぶり返すそうなのでどうぞお気をつけて!!
4. Posted by 川島玄峰   2024年06月30日 14:43
怪我の功名
私の場合は怪我のおかげで初めてそれまでの在り方が如何に愚かなものであったかと気付かされました。
怪我は本当に絶望感、焦燥感など色々な感情が自分に襲いかかります。でもそこから諦めずにどのように這い上がれるかまさに身心一如を感じる時かもしれませんね。
太郎冠者さんは見事に乗り越えて気づけたのだろうと思います。
稽古も同様に色々な変化の対応、捉えにより考え方、在り方に気付かされ培われて行くのかもしれません。
私も頑張って太郎冠者さんに合わせて行きたいと思います。

ありがとうございました。
5. Posted by 松久宗玄   2024年06月30日 22:13
触れたら切れる、触りたくない、という武術性を追求していくと、心身の一致は重要なテーマになってきますね。
精神の作用は身体に影響を与えますし、身体の状態も精神に影響を及ぼし、相互に響き合っています。
一致していないという問題は、自分の中に相反する要素があり、自分の中で矛盾や対立がある事に原因の根があると感じています。
それらは日常生活を送る上での方便として、使い分けている色々な仮面だったり、
都合が悪くて見ないようにしている自分自身の本性だったりと、複雑怪奇な内面とも結びついています。
問題を解く鍵は日常性から離れて、型の世界で一致を追求するしかないと思います。
理として決まっている型、先人の研鑽の成果として確立された型、その非日常性に合わせられるかが問われますね。
6. Posted by 平田玄琢   2024年06月30日 23:47
私も以前は、腰膝を痛める常習犯でした。尤も腰は最初から痛めていて、殆どリハビリ状態でした。
膝は少しでも方向を違えて使ってしまうと、痛くて全く曲げることが出来なくなり、膝を曲げずに歩くことに慣れてしまったこともあります。もしかしたら、その様な危機的状態の時には、体がバラバラではなく、一致していたのかもしれません。
今、私には壁ができ始めました。
宗師が示されたことを、私を挟まずにそのまま行う。
わからなくなったら、その前の基本に帰る。
ここのところを真摯に見直す時がきています。
7. Posted by 西川敦玄   2024年07月01日 17:55
太郎冠者さん投稿ありがとうございます。腰を痛めたことは残念なことでしたね。はやく、治ることを祈っています。また、一緒にガシガシ稽古に励むことができますように。

さて、今回は怪我、故障をされたことからの記事でした。何故か当道場の稽古においては、稽古中の怪我は少ないように思います。記憶している限り、思い当たらないような・・・。
怪我はやはり、道場からはなれた普段の日常で起こるように思います。
非日常より、日常のほうが危険に満ちあふれているのでしょうか? そんなことはないですね。なんだか答えは出ているようにも思います。

心身一如
考えてみれば、とくに簡単に常識的に考えてみると、人間は本来にして心身一如だと思います。心身が異なれば、ある意味病的な気もします。心身が一如であり、日常で身体に問題が起こることが多いとすれば、日常での心身そのものに問題があるのかもしれません。お互い反省です。
ですから日々稽古稽古ですね。一緒に歩んで行きましょう。
8. Posted by 川山継玄   2024年07月02日 10:04
太郎冠者さん、貴重な体験と細やかな考察を記事にして下さり、ありがとうございます。

宗師の動きや、発せられる言葉の一つ一つが美しく、力強く、しなやかだと感じられるのは、「全体の一致」により、生まれるものなのだなあ、と改めて思いました。

心身一如を調べてみると、
仏教で、肉体と精神は一体のもので、分ける事が出来ず、一つのものの両面であるということ。「一如」は心理はただ一つであるという意。
とありました。
正に、太極マークそのもの。
奥深さに、鳥肌が立ちます。
師父が指さして下さった先を、改めて、自我というフィルターをぬぐって目指す必要があると、気持ちを新たにしました。

太郎冠者さん どうぞご無理をせず、一日も早く思う存分に稽古できますように。
9. Posted by 川山継玄   2024年07月02日 10:07
申し訳ありません。
「心理」ではなく「真理」の誤りです。
お詫びして訂正いたします。
10. Posted by マガサス   2024年07月02日 15:47

人生は目に見えない何かに、いつも試されている気がします。
自分が予想もしないことが突然起こる、
「さあ、あなたならどうする?」
とても調子に乗って、良い気分で自分勝手な行動に気が付けない、
「さあ、どうする?」
面倒だな、ずるしたいな、
「さあ、どうする?」・・・
日々変化し続ける中、そんな問いかけの連続の中で、真摯に道を歩き続けていると、色んな事が見えてくるのだと、記事を拝見していて感じました。
自分は下手な稽古をすると、古傷が腫れ上がり足首が動かせなくなります。
首が回らなくなったり、背中がバリバリになって頭痛がします(汗)
「ああ〜、また間違った使い方をした」と反省しながら、自分に取り組んでいるところです。
なかなか「自分」が一番難しいです。
11. Posted by ユキ   2024年07月02日 18:14
昔、友人に「越えられない壁は与えられない。だから大丈夫だ」という言葉を教えてもらいました。友人は、外国で事故にあった時に、病院でそのように声をかけてもらったというのです。
この言葉はまた、「越えられないことは与えられない」とも読み取ることができるわけですが、与えられたことを「困難」と捉えるか「課題」と捉えるかで、自分の意気込みも変わってくると思うのです。
「勝つ、勝つと思えば勝つ」ではありませんが、先ずは自分の意志がどこに在るのか、それだけです。あとは結果がついてくるのみ。
太郎冠者さんも、無事に勉強できてよかったですね。アフターケアも大事です、頑張ってください。
 
12. Posted by 清水龍玄   2024年07月02日 23:25
私も恥ずかしながら怪我をして、不自由な生活をしています。
その中で、生活も変えて工夫しなければならず、気がつくこともあったし、できる範囲で稽古もしているので、自身に変化もあるとは思います。
自分の向かい方や考え方で、現状から発見が生まれるか、ただ無駄にしてしまうかは変わってくると思います。

今回の私の怪我は、不注意によるものでした。
これまで私が経験した怪我や不調等も、切っ掛けがあったのに見逃していたり、見ない様にしていたり、自分に対して無頓着になっていたと思います。
心と身のあり方として、反省すべきだと思っています。

一度壊した身体は元には戻りません。
お互い気をつけて、稽古していきましょう。
13. Posted by 太郎冠者   2024年07月06日 12:37
☆阿部玄明さん
>日常に起こる事象に偶然は無く、原因があります
ここのところ、普段は起きないような出来事…大きいことから小さいことまで…が頻発しており、腰もそうですが、物が壊れたり機器が不調になったりしました。

その中には、突発的な事もあれば「嫌な予感がするなぁ」と思いながらも続けたことで起きたこともあり、事前に気づいて回避できたと思うこともありました。
どれも笑い話程度で済むものだからよかったものの…。
>小難から気づきを得…
なるほど。確かにおっしゃる通り、武術の本質に通じる話のようですね。
これは、反省をして勉強しろという天のメッセージなのかもしれませんね。肝に銘じておきます。
ありがとうございました。
14. Posted by 太郎冠者   2024年07月06日 12:48
☆ハイネケンさん
>「状態を味わっている」
本当にそうですね。
身の回りに起きていることに対して、状況に対処することは必要ですが、感情を挟んで「どうしてこんなことになったんだろう…」としてしまうと、途端に沼にはまり込んでしまいます。

今回、物の故障などでいくつか買い替える事があったのですが、出費だけ考えたら結構な額になってしまいました。
ただ、状況そのものが変化を望んでいるかのように、とんとん拍子で話が進んで行く様子は、当事者ながら面白く感じられたものでした。
結果的には、非常に満足がいく状況になりました。
もしかしたら、これに私が抵抗していたら、もっとひどいことになっていたかもしれません。
流れに逆らわずに、ひとつになって動く…。
ハイネケンさんの仰る「一致」と関わっているかはわかりませんが、道場の稽古での話と、私に起きた出来事は、奇しくも一致していたかな、と感じられました。
15. Posted by 太郎冠者   2024年07月06日 12:56
☆マルコビッチさん
前回、久しぶり(?)に道場でお会いできてよかったです。あまりそんな気がしませんでしたが。
休まれていたとはいえ変わらない立ち方、動き方は流石のもので、意識は稽古に向かい続けていたのだろうな、と感じさせられるものでした。

私の場合、動くのは困難だったものの命に係わるような状況では全くなかったため、本当に、何か「勉強するように」という天からの思し召しだったのかなぁ、と思うところがあります。

人生、今より遅いという事は絶対にないので、今気づいたのなら今変えていく。そのようにしていくのが一番なのでしょうね。
私も体調管理に気を付けていくので、またよろしくお願いします!
16. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 22:28
☆川島玄峰さん
私が腰を痛めたことなんて、半ば笑い話で済んでしまうような話で、お恥ずかしい限りです。
ですが、たったその程度でも人間はしばらくの間まともに動けないというのは、同時にぞっとする話でもあると感じました。

自分の体をいかに繊細に、大切に扱っていけるか。その意識が足りているのか、今でも自問自答しています。
その上できちんと行動に移し、正しく鍛えて使えるようにしていく必要があるのだと、痛感しました。

武術修行者たるもの体が資本ですので、本当に、大事にしていかないといけませんね。
17. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 22:35
☆松久宗玄さん
>心身の一致
心というのは特に二律背反になりやすく、本音と建て前が同居するという事もしばしば起こり得るかと思います。

たとえ自分以外の人間が気づいていなかったとしても、誰よりも自分の体は一番身近な存在として、そのことに気づいているのだろうと思います。
そうなった時、体もそれに従ってバラバラに…なんて考えていくと恐ろしい気がします。
瞑想でもなく、ただ体を鍛えるだけでない武道としての太極拳は、心身を見つめ直し自分を高めていく事が必要なのだと思います。
>型の世界で一致を追求する
常々指導して頂いている、自分を持ち込まずに取り組む必要がある世界、ということなのでしょうね。
私も、もっともっと追求していきたいと思います!
18. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 22:39
☆平田玄琢さん
仕事柄、職場では腰を痛める人が多いのですが、実際に自分が経験するまでは「何を大げさな…」と思っていた面がありましたが、今ならその辛さが理解できるようになりました(笑)

部分的に指摘できるものではないのかもしれませんが、自分が痛めた部分と、架式を取る上でズレていると思われる部分に共通点があるので、痛めてしまった遠因として、身体の構造に正しく沿った使い方が出来ていない、というのはあったのだと思います。
裏を返せば、それを身を持って経験して修正する機会が得られたということでもあるので、次に繋げて改善していきたいと思います。
いつでもリセットして最初から勉強しなおせる…
基本のキから太極拳を指導して頂けていることは、本当にありがたいことですね。
19. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 22:46
☆西川敦玄さん
>また、一緒にガシガシ稽古に励むことができますように
ありがとうございます。ご心配をおかけして申し訳ありません。バリバリガシガシ稽古出来ないのは本当に辛いことです。それがわかっただけでも、儲けものだったのかもしれません。

>当道場の稽古においては、稽古中の怪我は少ない
そういえばそうですね。確かに、稽古中に怪我をしたという人は聞いたことがありません。
昔なハードな稽古で…という噂だけは耳にしたことがありますが…。
稽古中よりも、日常生活の中でのほうが、怪我や事故の話は聞いていますね。
この日常の中でのほうが、心ここにあらず、ふわふわと浮足立ってしまっているのかもしれません。私自身、思い当たる点がいくつもあります。

気を引き締めて生活と稽古に臨んでいきたいと思います。
次の稽古でも、よろしくお願いします。
20. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 22:53
☆川山継玄さん
道場の稽古では、色々とお手数をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。
人間は、心も体も些細なバランスの上で成り立っているのだと感じます。
バランスが取れ、心身が一致して在り、動けるからこそ、人間は本当の力を発揮できるのだろうと思います。

それを体現している宗師のように、私もそのような在り方でありたいと心から願います。そのためにも、もっと努力をしていきたいと思いました。
>一日も早く思う存分に稽古できますように。
ありがとうございます。自分の体に丁寧に関わっていきたいと思います。
21. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 23:03
☆マガサスさん
>人生は目に見えない何かに、いつも試されている
本当にそうですね…。
一度変化の兆しが見えだしてそれに従っていると、それまで起きてなかったことが延々とこれでもか!と連続して起き続けますね。

今のところ、自分の手に負えない事になる前に必ず手助けしてもらえてるので、自分が勉強できる範囲でそうなるように仕組まれているみたいにさえ感じられます。
勉強の必要があれば与えられ、それによって変化は促されているのかもしれません。
もっと頑張れるという事かもしれないので、どんどんやってみたいと思います。

>下手な稽古をすると…
人の事は全く言えないのですが、稽古は無事に動ける体があってこそなので、無理のないようにお互い頑張っていきましょう!
22. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 23:10
☆ユキさん
>「越えられない壁は与えられない。だから大丈夫だ」
ありがとうございます。いい言葉ですね!
仕事での話ですが、かなり大量の仕事が舞い込んであたふたしながらも必死にこなしていると、それまで思ってもみなかったところからいくつも手助けしてもらえることがあり、結果的になんとか解決していく、ということがたくさん起きています。

大変ではあるものの、自分が動き続けている限り天は見放していない、と感じたものです。
…つまりそれだけ甘かった、本気になっていない所を詰めていけというメッセージなのかもしれません。
ちょっと武者震いがしましたが、稽古もどんどんやっていきたいと思います。ありがとうございました。
23. Posted by 太郎冠者   2024年07月08日 23:17
☆清水龍玄さん
お怪我をされたとのことですが、大丈夫でしょうか。
ご無理なさらずに、一刻も早く回復されるよう、お祈りしております。
稽古以外でも、何か困ったことがあったらなんでもお手伝いしますから、言ってくださいね!

私は大きな怪我はあんまりしたことがないのですが、今にして思えば、その直前に何かがおかしいな?という予感のようなものが働いた気がします。
その時に気づけていれば、あるいは回避できたことだったのかもしれません。
また、大事に至らずに済んだことの中で、その嫌な予感めいたものが働いたという事もあります。
人間には、そのような事を察する機能が本来は備わっているのかもしれません。
ただ、我々が、それを使えるようなセンサーが鈍ってしまっているのだとして、武術を志すのだとしたら、それは磨いていかなければならないのだろうと感じます。

まずは体を大事にしてください。良くなったら、またご一緒に稽古をお願いしますね。

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ