2024年05月24日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その83
『守るべきもの』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
2週間ほど、久しぶりに稽古に連続して参加することができ、心地のいい疲れが体に残っています。稽古に取り組むことは、他の誰のためでもない、自分自身と向かい合うことのできる稀有な時間です。
自分が信念を持って取り組んでいれば、不思議と流れは変わってくるものだと感じます。
日曜の稽古にはずっと参加できず、平日も仕事で急に行けなくなるということが続いてしまっていましたが、それでも行動し続けていれば、物事は変わるのを実際に味わうことができました。
これまでコンスタンスに稽古に通えたこと、それは本当に幸せなことだったと思いますが、それだけでは気づけなかったこともあったのだと思いました。道場に通えない時間を経たことで、私の稽古への向かい方にも、変化があったのを感じます。
漫然と稽古していたつもりはなかったものの、どこかでいつでも道場に来れる、分からない部分はいずれ解決していけるだろうという安心感と緩みが、いつの間にか自分の中に芽生えてしまっていたようでした。
いつでも稽古に行けるわけではなく、宗師に実際に教わることが出来る時間は本当に限られている…だからというわけではありませんが、それを一分一秒と無駄にしてはいけない、出来ないこと、わからないことをそのままで良しとしていてはいけないのだ、と。そのような危機感を抱いたのは確かでした。
そう思って稽古に臨むようになると、稽古に来れる環境が急に変化しだしたのです。思ってもみない所から提案をもらい、仕事の出勤日時に変化が起き、これまで来るのが困難だった曜日にも、道場に顔を出すことが出来るようになりました。
自分でも何が何だかわからない、と狐につままれた感覚ではあったものの、天から与えられた機会を無駄にすることなく、ここ何回かの稽古には取り組めたのではないかと思っております。
改めて落ち着いて文章に起こしてみて初めて、上に挙げたように、自分の稽古の取り組み方の意識に少し変化が起きていたことに気づかされました。そのようなきっかけがあったからこそ、物事はパッと変わっていってくれたのかもしれません。
卵が先か、鶏が先かはわかりません。まるで精神論のように聞こえるかもしれませんが、こちらが誠意と熱意を持って臨めば、自ずと機会は訪れてくるし、自身の変化も、そこに連動しているのものなのかもしれません。
どうしても稽古に来れない…そんな時間も私にとっては有意義な勉強の時間であったのは確かです。なぁなぁで済ませていた問題点を今ここで確実に解決していかなければ次に繋がらないという現実に今更ながら直面できたのですから。
解決を志して明確なプロセスを踏めば問題は着実に解消されるのだということを味わったのは、連日の仕事に追われて、家での稽古時間も以前のようにはとれない日々の中ででした。
その問題点とは、実に単純な、ブレないように歩くという事についてでした。
太極武藝館の稽古では、毎回のように歩く稽古が行われています。先日の健康クラスでも、歩法の稽古が延々行われることもあってか、宗師が、
「名前を歩法クラスに変えようか…」と仰られるくらい、歩き方が重要な事項として学習体系に組み込まれています。
さて、もう先月の話ですが、その日も道場で稽古で歩いていました。すると宗師が私に、
左右にブレていると注意してくださいました。道場は窓ガラスが鏡のようになって見えるのですが、確かに私の頭は、一歩踏み出すごとに、上下左右にひょこひょことブレていました。
ブレていると注意していただいたのはその時が初めてではありません。私自身、そのことは認識していたもののいまだに修正できていませんでした。ですがその日は、まるで自分が初めて注意されたかのように、ブレているという事実が私の中に響いてきたのです。
道場の外でも、生活の中で歩かずにはいられません。私は、そのブレている自分の歩き方と直面し続けることとなります。歩き方、立ち方がわかっていないから…そのような言い訳をしている時間はもはやありません。どうにかしてこれを解決しないといけないのです。
とはいえ、闇雲にやってどうにかなるのなら、とうに解決しているはずです。私は改めて、自分自身の取り組み方のどこに問題があったのか、一から吟味することとなりました。
結論から言えば、上から吊られているように立つ事…要訣で言えば虚領頂勁に当たるところでしょうか、そこが守られていなかったことに気づけました。
詳細は省きますが、それらの注意点が明確に線として引かれたように自身の体にも適応され、それが歩き方にもつながるようにすること。それが守られた時、確かに私の歩き方は変わっていました。ブレないようにするのではなく、注意点がしっかりと守られたためだと思います。
実際に、その次の稽古に行った際、宗師からブレがなくなったと言って頂きました。ただ続けていても解決しなかったことが、稽古の仕方を変えることで、すぐに変化が起きたのです。
振り返っても、やったことなどごく当たり前のことにすぎません。出来ないものを出来ないままで放っておかないようにする、なんでそうなっているのかを精査し、稽古で指導されている内容と照らし合わせて、どのようにすれば問題が解決していけるかを模索する。そして実際に実行してみること。単純なプロセスながら、実に効果的なものだと思います。
稽古として当たり前のことが出来ていない…その現実に、もっと目を向けるべきだったのだと思いました。
見えている、わかっているつもりのことが実は出来ておらず、本当は問題ではないような、もっと難しい別の何かに原因があると思ってしまう。稽古の進展がないと感じられる時、もしかしたらそのような状態になっているのかもしれません。示して頂いていることがシンプルなことであればあるほど、解決すべき問題も、実はシンプルなことなのかもしれません。
立ち方は、体の向きは、相手への向かい方は…。そのような些細な事で結果が決まってしまうのだとしたら、実際に指導者の元に赴き指導していただく以外に、上達していく術はないのかもしれません。それが理解できた上で、自分で稽古を深めていくこと。その両輪が不可欠なのかもしれません。
また、宗師の「普段の生活が全てである」という言葉が、改めて自分の中に大きな意味を持って響いていることが感じられます。自分の在り方、物事への関わり方、人との接し方。それらの、語りつくせないような深みを持った内容が、自分の人生を定義し、稽古との向かい方をも決めているのだと思います。
手の位置、姿勢、足の出し方…そのわずかな違いが、相手への影響も大きく変えてしまうということを味わえれば、意識的になって自分を見つめ直すことでしか太極拳を正しく学習する方法はないということも、自ずと理解されてくるのかもしれません。
道場に通うことが稽古ではない、とはいうものの、道場で学べることは確実にあり、それを自身の稽古の糧にすることが出来ます。そうできる環境を作る、そのための変化は、自分が望んでさえいれば必ず訪れるのではないでしょうか。
最初のきっかけは様々なかもしれませんが、一度そこで起き始めた変化は、それを継続しようとする意志が自分にある限り、一貫して起こし続けることが出来るような手ごたえを感じます。
せっかく与えて頂いた機会を無駄にすることなく、また、自分の人生をより豊かなものにしていくためにも、勉強できるチャンスを生かしていきたいと思います。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
2週間ほど、久しぶりに稽古に連続して参加することができ、心地のいい疲れが体に残っています。稽古に取り組むことは、他の誰のためでもない、自分自身と向かい合うことのできる稀有な時間です。
自分が信念を持って取り組んでいれば、不思議と流れは変わってくるものだと感じます。
日曜の稽古にはずっと参加できず、平日も仕事で急に行けなくなるということが続いてしまっていましたが、それでも行動し続けていれば、物事は変わるのを実際に味わうことができました。
これまでコンスタンスに稽古に通えたこと、それは本当に幸せなことだったと思いますが、それだけでは気づけなかったこともあったのだと思いました。道場に通えない時間を経たことで、私の稽古への向かい方にも、変化があったのを感じます。
漫然と稽古していたつもりはなかったものの、どこかでいつでも道場に来れる、分からない部分はいずれ解決していけるだろうという安心感と緩みが、いつの間にか自分の中に芽生えてしまっていたようでした。
いつでも稽古に行けるわけではなく、宗師に実際に教わることが出来る時間は本当に限られている…だからというわけではありませんが、それを一分一秒と無駄にしてはいけない、出来ないこと、わからないことをそのままで良しとしていてはいけないのだ、と。そのような危機感を抱いたのは確かでした。
そう思って稽古に臨むようになると、稽古に来れる環境が急に変化しだしたのです。思ってもみない所から提案をもらい、仕事の出勤日時に変化が起き、これまで来るのが困難だった曜日にも、道場に顔を出すことが出来るようになりました。
自分でも何が何だかわからない、と狐につままれた感覚ではあったものの、天から与えられた機会を無駄にすることなく、ここ何回かの稽古には取り組めたのではないかと思っております。
改めて落ち着いて文章に起こしてみて初めて、上に挙げたように、自分の稽古の取り組み方の意識に少し変化が起きていたことに気づかされました。そのようなきっかけがあったからこそ、物事はパッと変わっていってくれたのかもしれません。
卵が先か、鶏が先かはわかりません。まるで精神論のように聞こえるかもしれませんが、こちらが誠意と熱意を持って臨めば、自ずと機会は訪れてくるし、自身の変化も、そこに連動しているのものなのかもしれません。
どうしても稽古に来れない…そんな時間も私にとっては有意義な勉強の時間であったのは確かです。なぁなぁで済ませていた問題点を今ここで確実に解決していかなければ次に繋がらないという現実に今更ながら直面できたのですから。
解決を志して明確なプロセスを踏めば問題は着実に解消されるのだということを味わったのは、連日の仕事に追われて、家での稽古時間も以前のようにはとれない日々の中ででした。
その問題点とは、実に単純な、ブレないように歩くという事についてでした。
太極武藝館の稽古では、毎回のように歩く稽古が行われています。先日の健康クラスでも、歩法の稽古が延々行われることもあってか、宗師が、
「名前を歩法クラスに変えようか…」と仰られるくらい、歩き方が重要な事項として学習体系に組み込まれています。
さて、もう先月の話ですが、その日も道場で稽古で歩いていました。すると宗師が私に、
左右にブレていると注意してくださいました。道場は窓ガラスが鏡のようになって見えるのですが、確かに私の頭は、一歩踏み出すごとに、上下左右にひょこひょことブレていました。
ブレていると注意していただいたのはその時が初めてではありません。私自身、そのことは認識していたもののいまだに修正できていませんでした。ですがその日は、まるで自分が初めて注意されたかのように、ブレているという事実が私の中に響いてきたのです。
道場の外でも、生活の中で歩かずにはいられません。私は、そのブレている自分の歩き方と直面し続けることとなります。歩き方、立ち方がわかっていないから…そのような言い訳をしている時間はもはやありません。どうにかしてこれを解決しないといけないのです。
とはいえ、闇雲にやってどうにかなるのなら、とうに解決しているはずです。私は改めて、自分自身の取り組み方のどこに問題があったのか、一から吟味することとなりました。
結論から言えば、上から吊られているように立つ事…要訣で言えば虚領頂勁に当たるところでしょうか、そこが守られていなかったことに気づけました。
詳細は省きますが、それらの注意点が明確に線として引かれたように自身の体にも適応され、それが歩き方にもつながるようにすること。それが守られた時、確かに私の歩き方は変わっていました。ブレないようにするのではなく、注意点がしっかりと守られたためだと思います。
実際に、その次の稽古に行った際、宗師からブレがなくなったと言って頂きました。ただ続けていても解決しなかったことが、稽古の仕方を変えることで、すぐに変化が起きたのです。
振り返っても、やったことなどごく当たり前のことにすぎません。出来ないものを出来ないままで放っておかないようにする、なんでそうなっているのかを精査し、稽古で指導されている内容と照らし合わせて、どのようにすれば問題が解決していけるかを模索する。そして実際に実行してみること。単純なプロセスながら、実に効果的なものだと思います。
稽古として当たり前のことが出来ていない…その現実に、もっと目を向けるべきだったのだと思いました。
見えている、わかっているつもりのことが実は出来ておらず、本当は問題ではないような、もっと難しい別の何かに原因があると思ってしまう。稽古の進展がないと感じられる時、もしかしたらそのような状態になっているのかもしれません。示して頂いていることがシンプルなことであればあるほど、解決すべき問題も、実はシンプルなことなのかもしれません。
立ち方は、体の向きは、相手への向かい方は…。そのような些細な事で結果が決まってしまうのだとしたら、実際に指導者の元に赴き指導していただく以外に、上達していく術はないのかもしれません。それが理解できた上で、自分で稽古を深めていくこと。その両輪が不可欠なのかもしれません。
また、宗師の「普段の生活が全てである」という言葉が、改めて自分の中に大きな意味を持って響いていることが感じられます。自分の在り方、物事への関わり方、人との接し方。それらの、語りつくせないような深みを持った内容が、自分の人生を定義し、稽古との向かい方をも決めているのだと思います。
手の位置、姿勢、足の出し方…そのわずかな違いが、相手への影響も大きく変えてしまうということを味わえれば、意識的になって自分を見つめ直すことでしか太極拳を正しく学習する方法はないということも、自ずと理解されてくるのかもしれません。
道場に通うことが稽古ではない、とはいうものの、道場で学べることは確実にあり、それを自身の稽古の糧にすることが出来ます。そうできる環境を作る、そのための変化は、自分が望んでさえいれば必ず訪れるのではないでしょうか。
最初のきっかけは様々なかもしれませんが、一度そこで起き始めた変化は、それを継続しようとする意志が自分にある限り、一貫して起こし続けることが出来るような手ごたえを感じます。
せっかく与えて頂いた機会を無駄にすることなく、また、自分の人生をより豊かなものにしていくためにも、勉強できるチャンスを生かしていきたいと思います。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
コメント一覧
1. Posted by マルコビッチ 2024年05月26日 08:57
太郎冠者さんにとって、稽古に出られないということが変化を生むきっかけになり良かったですね。
人は毎日の行動がパターン化されてしまうと、考え方が変わる機会が少なくなり、その必要も無くなってきてしまうものだと思います。
自分の中での突然のアクシデントは危機感と緊張をもたらします。
その時にどう考え行動するかが大事だと改めて考えさせられました。
そして、考え方の変化が周りの状況にも影響することは当然なのかもしれません。
きっと対練でも変化を感じるかもしれませんね。
私も体調不良で3週間以上稽古に出席できず、先日久しぶりに出席させていただき、緊張感の中で自分の呼吸の変化に気づきました。
よく宗師から「息して!」などと声をかけて頂いていたのですが、以前から呼吸が浅いことも感じていたのですが・・重要なこととして意識していなかったことに気づきました。
もっと自分の状態を大事に見ていないといけませんね。
記事の掲載、ありがとうございました。
人は毎日の行動がパターン化されてしまうと、考え方が変わる機会が少なくなり、その必要も無くなってきてしまうものだと思います。
自分の中での突然のアクシデントは危機感と緊張をもたらします。
その時にどう考え行動するかが大事だと改めて考えさせられました。
そして、考え方の変化が周りの状況にも影響することは当然なのかもしれません。
きっと対練でも変化を感じるかもしれませんね。
私も体調不良で3週間以上稽古に出席できず、先日久しぶりに出席させていただき、緊張感の中で自分の呼吸の変化に気づきました。
よく宗師から「息して!」などと声をかけて頂いていたのですが、以前から呼吸が浅いことも感じていたのですが・・重要なこととして意識していなかったことに気づきました。
もっと自分の状態を大事に見ていないといけませんね。
記事の掲載、ありがとうございました。
2. Posted by ハイネケン 2024年05月26日 10:47
私は健康クラスの稽古を受けると本質へのアプローチの仕方が変わっていく気がしました。
同じ太極拳の稽古でありながら繊細かつ静かに自分へのアプローチが繰り返され、静かな波に揺られている様な心地よい感覚でした。
前々回の稽古で一般クラスでその様にしていただき、身体が目覚める様な感覚に驚きました。
一見難しく見える事象でもシンプルなプロセスを丁寧に積み重ねると自然と基本の大切さに目覚めていく気がします。
白川文字学の白川静氏は漢字の字形をひたすら模写すると見えてくるものがある、そして定説に一石を投じました。
何か似ている気がします。
定説を気にせず、ただ自分の身体と感覚で稽古に寄り添い続ける。
意識的で丁寧な繰り返しは眠っていたセンサーを自然に拓いていくのではないでしょうか?
そんな経験の後はそれまでとは違う日々になる気がします。さらに良い稽古になる様お互い励みましょう。
前にも書きましたが多忙な時に疲れを取る方法は宗師に相談してみると良いですよ。
「疲れ」へのアプローチも実に面白いのです。
同じ太極拳の稽古でありながら繊細かつ静かに自分へのアプローチが繰り返され、静かな波に揺られている様な心地よい感覚でした。
前々回の稽古で一般クラスでその様にしていただき、身体が目覚める様な感覚に驚きました。
一見難しく見える事象でもシンプルなプロセスを丁寧に積み重ねると自然と基本の大切さに目覚めていく気がします。
白川文字学の白川静氏は漢字の字形をひたすら模写すると見えてくるものがある、そして定説に一石を投じました。
何か似ている気がします。
定説を気にせず、ただ自分の身体と感覚で稽古に寄り添い続ける。
意識的で丁寧な繰り返しは眠っていたセンサーを自然に拓いていくのではないでしょうか?
そんな経験の後はそれまでとは違う日々になる気がします。さらに良い稽古になる様お互い励みましょう。
前にも書きましたが多忙な時に疲れを取る方法は宗師に相談してみると良いですよ。
「疲れ」へのアプローチも実に面白いのです。
3. Posted by 松久宗玄 2024年05月26日 23:26
普段の生活と、稽古への関わり方には、切っても切れない関係性があると感じでいます。
生活に追われると、稽古にも追われるようになり、稽古を深める事が難しくなり、
生活の軸が乱れると、稽古の軸も乱れるようになり、稽古で整備したい物事が見えなくなってしまいます。
稽古は鏡のように自分を映すものだと、恐ろしくもあり、それ故に追求する意味があるとも感じます。
見える人には、稽古からその人の生活傾向も透けて見えてしまうものと思います。
生活を見直す、そこで日々工夫を積み重ねる事は、稽古の追求と同じく楽しみとして追求したいものです。
生活に追われると、稽古にも追われるようになり、稽古を深める事が難しくなり、
生活の軸が乱れると、稽古の軸も乱れるようになり、稽古で整備したい物事が見えなくなってしまいます。
稽古は鏡のように自分を映すものだと、恐ろしくもあり、それ故に追求する意味があるとも感じます。
見える人には、稽古からその人の生活傾向も透けて見えてしまうものと思います。
生活を見直す、そこで日々工夫を積み重ねる事は、稽古の追求と同じく楽しみとして追求したいものです。
4. Posted by 川島玄峰 2024年05月27日 20:28
生活環境に大きな変化が起きると今までの行動や思考では上手く事が運ばなく戸惑いが生じる場合がありますね。
太郎冠者さんはそのような大きな変化がきっかけとなり試行錯誤をしながら環境に適応し稽古の向き合い方にも変化が生じて来たのでしょう。
益々これからの稽古に深みが出てくるのではないでしょうか。
「普段の生活が全てである」
なぜ稽古に臨むのか。
各々で稽古の意味に気づく事かもしれませんね。どんな場所や時間でも稽古に夢中になれるのかもしれません。
これからも稽古を深め目的に向けてお互い頑張っていきましょう。
ありがとうございました。
太郎冠者さんはそのような大きな変化がきっかけとなり試行錯誤をしながら環境に適応し稽古の向き合い方にも変化が生じて来たのでしょう。
益々これからの稽古に深みが出てくるのではないでしょうか。
「普段の生活が全てである」
なぜ稽古に臨むのか。
各々で稽古の意味に気づく事かもしれませんね。どんな場所や時間でも稽古に夢中になれるのかもしれません。
これからも稽古を深め目的に向けてお互い頑張っていきましょう。
ありがとうございました。
5. Posted by 西川敦玄 2024年05月27日 23:44
太郎冠者さん。前回は久しぶりに稽古一緒にでき、楽しかったです。私も稽古に参加できる日程は限られるため、記事に書いてあることとに思い当たるようなこともありました。
あえて言うならば、太郎冠者さんが経験し、思ったような様々な事柄はきっかけに過ぎないとも思います。理解上達する方法を考えずに、稽古に臨むならば、得られるものもそれなりになると思います。それに気づけたのなら稽古に出られなかった日々も宝とすることができるかもしれません。
私も一部同様に思ったこともあります。恥ずかしいことながら修道の場としての稽古が本来の役割を果たせていなかったとすれば、それは自分の取り組み方に問題があったのだと思います。
改めて反省精進していきます。
今後また稽古に一緒できる機会が増えそうですね。
よろしくお願いしますね。
あえて言うならば、太郎冠者さんが経験し、思ったような様々な事柄はきっかけに過ぎないとも思います。理解上達する方法を考えずに、稽古に臨むならば、得られるものもそれなりになると思います。それに気づけたのなら稽古に出られなかった日々も宝とすることができるかもしれません。
私も一部同様に思ったこともあります。恥ずかしいことながら修道の場としての稽古が本来の役割を果たせていなかったとすれば、それは自分の取り組み方に問題があったのだと思います。
改めて反省精進していきます。
今後また稽古に一緒できる機会が増えそうですね。
よろしくお願いしますね。
6. Posted by ユキ 2024年05月29日 02:45
「望めば叶う」という言葉がありますが、まさしく先ず望みありきで、結果が後からついてくるのでしょう。今回の太郎冠者さんのように。
とても素晴らしいことですね。
しかし、その美しい言葉は、反対側から見ることでさらに深くを知ることができます。
人は、望んだ通りの結果を生きている、ということです。
自分の現状…環境、状況、実力、全てが自分の望んだ結果だと言われたら、人はなんと答えるでしょうか。
「これは望んだけど、コレは違う」・・?
「こんなはずではなかった」・・?
まあ、「全て自分の望んだ結果です」と答える人は少ないでしょう。その自分以外の要素のせいにしている分が甘さであり、成長を妨げる根源だと教えられました。そうしているうちは、本当の問題点に気がつけないとも。
稽古が益々面白くなりそうですね。
とても素晴らしいことですね。
しかし、その美しい言葉は、反対側から見ることでさらに深くを知ることができます。
人は、望んだ通りの結果を生きている、ということです。
自分の現状…環境、状況、実力、全てが自分の望んだ結果だと言われたら、人はなんと答えるでしょうか。
「これは望んだけど、コレは違う」・・?
「こんなはずではなかった」・・?
まあ、「全て自分の望んだ結果です」と答える人は少ないでしょう。その自分以外の要素のせいにしている分が甘さであり、成長を妨げる根源だと教えられました。そうしているうちは、本当の問題点に気がつけないとも。
稽古が益々面白くなりそうですね。
7. Posted by 川山継玄 2024年05月29日 09:55
武藝館での稽古を通して、宗師をはじめ、多くの門人の方々と関りを持ち、改めて、お一人お一人が、様々な環境の中で、日常を抱えながらも、稽古に日々励んでいらっしゃることを感じずにはいられません。
太郎冠者さんの、取り組みの変化や記事にも、刺激を受けています。
それ故に、自身も活力が湧き、自分自身を観る事が出来るようになってきました。
が、目の前の課題は明確になるものの、それを解決し、変化していく度合いが、とても小さいと感じています。
日常で車はかかせないもので毎日運転をしますが、私はあまり運転が得意ではありません。そんな私が、運転診断を受ける機会を得ました。
やってみると、急ブレーキや急ハンドルを指摘されることが多くありました。
言われてみると、「遅れる、急げ!」とアクセルを踏み、黄色信号にいら立ちながらブレーキを踏むことの何と多い事か。運転にはその人となりが表れると言いますが、周りの状況お構いなしで、目の前の事に一喜一憂する刹那的な運転は、正しく私そのものだと思いました。
稽古での課題も、目の前の事に固執するが故に、示して下さる全体に目がいかず、好きなところだけに集中したり、解決した先のイメージや、何故それが課題としてあぶりだされたかを味わうこともなく、課題解決に突進するようだと振り返ります。これでは、成長も変化も起こりようもありません。
宗師はいつも、大きくゆったり、それでいて繊細かつ鋭い、全体性を示して下さいます。
それを受け取れるよう、頭も体も心も放鬆して、感じ取れるすべてのセンサーを働かせて、稽古に励みたいと思います。
太郎冠者さん、多くの気づきをありがとうございました。
太郎冠者さんの、取り組みの変化や記事にも、刺激を受けています。
それ故に、自身も活力が湧き、自分自身を観る事が出来るようになってきました。
が、目の前の課題は明確になるものの、それを解決し、変化していく度合いが、とても小さいと感じています。
日常で車はかかせないもので毎日運転をしますが、私はあまり運転が得意ではありません。そんな私が、運転診断を受ける機会を得ました。
やってみると、急ブレーキや急ハンドルを指摘されることが多くありました。
言われてみると、「遅れる、急げ!」とアクセルを踏み、黄色信号にいら立ちながらブレーキを踏むことの何と多い事か。運転にはその人となりが表れると言いますが、周りの状況お構いなしで、目の前の事に一喜一憂する刹那的な運転は、正しく私そのものだと思いました。
稽古での課題も、目の前の事に固執するが故に、示して下さる全体に目がいかず、好きなところだけに集中したり、解決した先のイメージや、何故それが課題としてあぶりだされたかを味わうこともなく、課題解決に突進するようだと振り返ります。これでは、成長も変化も起こりようもありません。
宗師はいつも、大きくゆったり、それでいて繊細かつ鋭い、全体性を示して下さいます。
それを受け取れるよう、頭も体も心も放鬆して、感じ取れるすべてのセンサーを働かせて、稽古に励みたいと思います。
太郎冠者さん、多くの気づきをありがとうございました。
8. Posted by 平田玄琢 2024年05月29日 16:26
「勉強できるチャンスを生かす」これはとても大事な事だと思います。
私は今、椅子に腰掛けているのですが、その間も要訣を整えようとしているか。立ち仕事の時もそれを意識しようとしているか。から始まり、自分の出来ないところや、わからないところを把握して、次の稽古で解決できるようにしようとするか。指摘された事柄は何なのか自分で分かろうとするか。
私の場合、そういった事をチャンスと捉えることができるかどうかにかかっていると思っています。
私は今、椅子に腰掛けているのですが、その間も要訣を整えようとしているか。立ち仕事の時もそれを意識しようとしているか。から始まり、自分の出来ないところや、わからないところを把握して、次の稽古で解決できるようにしようとするか。指摘された事柄は何なのか自分で分かろうとするか。
私の場合、そういった事をチャンスと捉えることができるかどうかにかかっていると思っています。
9. Posted by 清水龍玄 2024年05月29日 22:49
私も、稽古に殆ど出席できない時もありました。
環境は、本人次第で変える事のできることもあります。
勿論、自分ではコントロールできない事もあります。
しかし、環境は刻々と変化していきます。
これは環境だけでなく、自分自身にも言えることですね。
その様な変化の中で学べることも多いと思います。
私も今、満足に稽古できているわけではなく、四苦八苦していますが、その日々の中で変化を感じています。
そして、その中で学べるものが多く、自身も多少は変わっていけているのではないかと感じています。
それは、上手くいくこともあれば、駄目なこともあるのですが、そのことに対し、何となく面白い、楽しいと思えるようになってきました。
胃が痛くなるような事は多々ありますが・・・(笑)
何事も勉強ですね。
環境は、本人次第で変える事のできることもあります。
勿論、自分ではコントロールできない事もあります。
しかし、環境は刻々と変化していきます。
これは環境だけでなく、自分自身にも言えることですね。
その様な変化の中で学べることも多いと思います。
私も今、満足に稽古できているわけではなく、四苦八苦していますが、その日々の中で変化を感じています。
そして、その中で学べるものが多く、自身も多少は変わっていけているのではないかと感じています。
それは、上手くいくこともあれば、駄目なこともあるのですが、そのことに対し、何となく面白い、楽しいと思えるようになってきました。
胃が痛くなるような事は多々ありますが・・・(笑)
何事も勉強ですね。
10. Posted by マガサス 2024年05月30日 00:53
自分が「こう有りたい!」「こうしたい!」と強い信念を持って取り組んでいれば、道は必らず開けてくるのですね。
太郎冠者さんに起きた変化は、一緒に稽古をしている自分にもエネルギーが伝わってきて良い刺激を受けました。ありがとうございます。
稽古でいつも指摘して頂いている「正しい自己認識」がいかに大事か、最近身につまされていて、実は自分のことを全然分かってないぞ、と危機感を抱いています。
もっと注意深く、もっと興味を持って自分と対話をして、「本当の自分」との距離を縮めないと、本物が身に付かない・・・!
それは日常の考え方、過ごし方に鍵があると再認識し、取り組んでいます。
太郎冠者さんに起きた変化は、一緒に稽古をしている自分にもエネルギーが伝わってきて良い刺激を受けました。ありがとうございます。
稽古でいつも指摘して頂いている「正しい自己認識」がいかに大事か、最近身につまされていて、実は自分のことを全然分かってないぞ、と危機感を抱いています。
もっと注意深く、もっと興味を持って自分と対話をして、「本当の自分」との距離を縮めないと、本物が身に付かない・・・!
それは日常の考え方、過ごし方に鍵があると再認識し、取り組んでいます。
11. Posted by 阿部玄明 2024年06月01日 15:36
太郎冠者 様
コメントの掲載が遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした。
今回の記事で書いていただいた”些細なことを大事にする”というところは自分にとっても
同じく大事にしたいところです。宗師より示されている挙動、話し方、そして在り方などは普通に生活している分には些細に思えるかもしれません。しかし、それらは稽古を進めるにあたってすごく大事だということを強調したいです。
「万有引力の法則」はだれでも知っている知識です。
万物は互いに影響し合うというあれです。
対錬を例にとると、ただ向かい合って立っている相手と自分の間にも相互作用があります。そこから位置や向かう方向が変わると、立っているときとは別の相互作用が新たに加わると思えるのです。ヒントはいつも宗師が示して頂いており我々はそれを取りこぼしてはいけないのです。
見逃すことはまさに損失であり、”もう二度と見せて頂けない”かもしれない。
注意深く集中して”違いを発見し”稽古に取り組む事が1分1秒を大事にすることだと思っています。
コメントの掲載が遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした。
今回の記事で書いていただいた”些細なことを大事にする”というところは自分にとっても
同じく大事にしたいところです。宗師より示されている挙動、話し方、そして在り方などは普通に生活している分には些細に思えるかもしれません。しかし、それらは稽古を進めるにあたってすごく大事だということを強調したいです。
「万有引力の法則」はだれでも知っている知識です。
万物は互いに影響し合うというあれです。
対錬を例にとると、ただ向かい合って立っている相手と自分の間にも相互作用があります。そこから位置や向かう方向が変わると、立っているときとは別の相互作用が新たに加わると思えるのです。ヒントはいつも宗師が示して頂いており我々はそれを取りこぼしてはいけないのです。
見逃すことはまさに損失であり、”もう二度と見せて頂けない”かもしれない。
注意深く集中して”違いを発見し”稽古に取り組む事が1分1秒を大事にすることだと思っています。
12. Posted by 太郎冠者 2024年06月01日 15:46
☆マルコビッチさん
仰る通り、生活をパターンで送るようになると、よくも悪くもあまり頭を使わなくても済むようになってしまいますね。
それで楽な面もあれば、変化の少ないマンネリさも伴うことで刺激が少なくもなってしまいます。
過度な緊張は良くないでしょうが、適度な緊張は生きる上でも大切なことなのかもしれません。
>「息して!」
一流のアスリートや特殊部隊の隊員は、呼吸や心拍が乱れてもすぐにそれが落ち着くとのことで、その力が一般人よりはるかに優れているのだそうです。
緊張の中でも自身のバランスが取れることが、プロに求められる条件なのかもしれませんね。
私もがんばっていきたいと思います!
仰る通り、生活をパターンで送るようになると、よくも悪くもあまり頭を使わなくても済むようになってしまいますね。
それで楽な面もあれば、変化の少ないマンネリさも伴うことで刺激が少なくもなってしまいます。
過度な緊張は良くないでしょうが、適度な緊張は生きる上でも大切なことなのかもしれません。
>「息して!」
一流のアスリートや特殊部隊の隊員は、呼吸や心拍が乱れてもすぐにそれが落ち着くとのことで、その力が一般人よりはるかに優れているのだそうです。
緊張の中でも自身のバランスが取れることが、プロに求められる条件なのかもしれませんね。
私もがんばっていきたいと思います!
13. Posted by 太郎冠者 2024年06月01日 15:54
☆ハイネケンさん
>健康クラスの稽古
短時間なこともあり、太極拳のエッセンスを凝縮したような内容になるのでしょうか。
玄琢さんも、大切なことは健康クラスで勉強した、ということを仰っていたことがあります。
私自身、健康クラスでの学習は、要点をズバリと付いたものであると感じているので、行ける機会には必ず行かねば、と常々思っています。
>白川静氏
白川さんの独特?な漢字に対する観方は、定説を唱える学者からすると違う意見に感じる部分はあるのかもしれませんが、私のような素人からすると、なんだか腑に落ちるような考え方である、と思わされるものがあります。
それは徹底して、漢字そのものに寄り添った見方を白川さんがし続けた結果なのかもしれませんね。
太極武藝館の太極拳もまさに、身体の構造に沿って体系的にまとめてくださっており、私が感じられるような体系の隅っこに触れただけでも、その精緻さに驚かされるものです。
自分の感覚もそのように、どんどん磨いていきたいですね。
>健康クラスの稽古
短時間なこともあり、太極拳のエッセンスを凝縮したような内容になるのでしょうか。
玄琢さんも、大切なことは健康クラスで勉強した、ということを仰っていたことがあります。
私自身、健康クラスでの学習は、要点をズバリと付いたものであると感じているので、行ける機会には必ず行かねば、と常々思っています。
>白川静氏
白川さんの独特?な漢字に対する観方は、定説を唱える学者からすると違う意見に感じる部分はあるのかもしれませんが、私のような素人からすると、なんだか腑に落ちるような考え方である、と思わされるものがあります。
それは徹底して、漢字そのものに寄り添った見方を白川さんがし続けた結果なのかもしれませんね。
太極武藝館の太極拳もまさに、身体の構造に沿って体系的にまとめてくださっており、私が感じられるような体系の隅っこに触れただけでも、その精緻さに驚かされるものです。
自分の感覚もそのように、どんどん磨いていきたいですね。
14. Posted by 太郎冠者 2024年06月03日 22:31
☆松久宗玄さん
部屋の中を片づけるとき、空いている収納スペースに物を押し込むと、一見すると綺麗に片付いた気がします。
ところが、それは場所を動かして見えなくなっただけで、本当は片付いているとは言い難いかと思います。
自分の在り方を変えようと見つめる時、それと同じような取り組み方をしていなかったか、と疑問に思いました。自分を観ているようでいて、ただ荷物をそっと動かすように、嫌な姿を覆い隠してしまっているだけだと、本当の取り組みとは言えないのだと思いました。
まずは奥底にしまい込んでいるものを取り出して、本当に取捨選択して整頓する。
そういう取り組み方が、生活と稽古に共通して必要なのかもしれないと感じました。
相変わらず散らかっている自分の部屋を、どうにかしないといけないですね…。
部屋の中を片づけるとき、空いている収納スペースに物を押し込むと、一見すると綺麗に片付いた気がします。
ところが、それは場所を動かして見えなくなっただけで、本当は片付いているとは言い難いかと思います。
自分の在り方を変えようと見つめる時、それと同じような取り組み方をしていなかったか、と疑問に思いました。自分を観ているようでいて、ただ荷物をそっと動かすように、嫌な姿を覆い隠してしまっているだけだと、本当の取り組みとは言えないのだと思いました。
まずは奥底にしまい込んでいるものを取り出して、本当に取捨選択して整頓する。
そういう取り組み方が、生活と稽古に共通して必要なのかもしれないと感じました。
相変わらず散らかっている自分の部屋を、どうにかしないといけないですね…。
15. Posted by 太郎冠者 2024年06月03日 22:37
☆川島玄峰さん
何かのタイミングが合うと、それまで変わらなかった物事が急にドンドン動き出す、今まさにそのような状態を味わっています。
それが良い悪いなどと判断せず、起きる物事にしっかりと対応しながら、また次にも備えていく。
太極武藝館で教わったことですが、それが生活にも影響を与えているし、翻って稽古にも表れているように感じます。
太極拳のことがいつも頭の片隅にあり、それが気になっている…いつでもどこでも稽古が出来るのは、太極拳の素敵なところですね。
>これからも稽古を深め目的に向けてお互い頑張っていきましょう。
ありがとうございます。じっくり取り組んでいきたいと思います!
何かのタイミングが合うと、それまで変わらなかった物事が急にドンドン動き出す、今まさにそのような状態を味わっています。
それが良い悪いなどと判断せず、起きる物事にしっかりと対応しながら、また次にも備えていく。
太極武藝館で教わったことですが、それが生活にも影響を与えているし、翻って稽古にも表れているように感じます。
太極拳のことがいつも頭の片隅にあり、それが気になっている…いつでもどこでも稽古が出来るのは、太極拳の素敵なところですね。
>これからも稽古を深め目的に向けてお互い頑張っていきましょう。
ありがとうございます。じっくり取り組んでいきたいと思います!
16. Posted by 太郎冠者 2024年06月06日 00:34
☆西川敦玄さん
同じ稽古に取り組んだとしても、こちらの考え方や物の見方次第で全く違った結果になってしまう…。
恐ろしくもあり、面白くもあるように感じます。
どうせ同じ時間稽古するのなら、ただ辛く苦しいのではなく、自分の生きる楽しみとしながら成果も得られる、そのような取り組みであるほうが断然いいはずです。
そうであればこそ、稽古にやりがいが感じられ、さらに熱心に取り組もうという気持ちになるのが、人間の道理なのではないかと思います。
>今後また稽古に一緒できる機会が増えそう
私も本当にうれしく思います。
次回もどうぞよろしくお願いします!
同じ稽古に取り組んだとしても、こちらの考え方や物の見方次第で全く違った結果になってしまう…。
恐ろしくもあり、面白くもあるように感じます。
どうせ同じ時間稽古するのなら、ただ辛く苦しいのではなく、自分の生きる楽しみとしながら成果も得られる、そのような取り組みであるほうが断然いいはずです。
そうであればこそ、稽古にやりがいが感じられ、さらに熱心に取り組もうという気持ちになるのが、人間の道理なのではないかと思います。
>今後また稽古に一緒できる機会が増えそう
私も本当にうれしく思います。
次回もどうぞよろしくお願いします!
17. Posted by 太郎冠者 2024年06月06日 00:40
☆ユキさん
>「望めば叶う」
太極拳の稽古に限らず、他の事でもどんどん変化が生じているので、うれしいながらも少し戸惑いも感じている日々です。
それまでの出来事が積み重なって今があるのだとは思うのですが、それらが急に重なってくるのもまた、非常に面白く感じられます。
思い返してみると、仰る通り、今自分がある状況や起きている変化は、おおむね自分が望んだ通りになっているのだろうなと思います。
それは、プラスに感じられる部分は素直に認めやすいですが、マイナスの面をそのように受け取るのはどこかで心理的葛藤も生じるのは確かです。
しかし、焦点を自身の「成長」という観点に合わせると、不思議とそれらも理にかなったことに感じられてきます。
この流れに逆らわず、どんどんあゆみを進めていきたいと思いました。
>「望めば叶う」
太極拳の稽古に限らず、他の事でもどんどん変化が生じているので、うれしいながらも少し戸惑いも感じている日々です。
それまでの出来事が積み重なって今があるのだとは思うのですが、それらが急に重なってくるのもまた、非常に面白く感じられます。
思い返してみると、仰る通り、今自分がある状況や起きている変化は、おおむね自分が望んだ通りになっているのだろうなと思います。
それは、プラスに感じられる部分は素直に認めやすいですが、マイナスの面をそのように受け取るのはどこかで心理的葛藤も生じるのは確かです。
しかし、焦点を自身の「成長」という観点に合わせると、不思議とそれらも理にかなったことに感じられてきます。
この流れに逆らわず、どんどんあゆみを進めていきたいと思いました。
18. Posted by 太郎冠者 2024年06月06日 22:03
☆川山継玄さん
>運転にはその人となりが表れる
私も、凄いスピードの出る車やバイクに乗るとそのままお星さまになってしまいそうなので、戒めて自分からは手を出さないようにしています。
車はもちろんですが、バイクに乗っていると特に自分以外に身を守ってくれるものがない中での運転となるので、どれだけ安全に走れるかという点には、嫌でも気をつかうことになります。
ある意味、車に乗っているだけでは見えない世界なのかもしれません。
機会があれば原付にでも乗って頂ければ、周りの車の運転がどれだけ「怖い」か、味わえるかと思います(笑)
宗師も、車の運転は多くのことを教えてくれると仰っているように、生活の中でも、太極拳の学習に繋がってくる事柄はたくさんあるのでしょうね。
それらひとつひとつを、自分を磨く修行に繋げていきたいものですね。
>運転にはその人となりが表れる
私も、凄いスピードの出る車やバイクに乗るとそのままお星さまになってしまいそうなので、戒めて自分からは手を出さないようにしています。
車はもちろんですが、バイクに乗っていると特に自分以外に身を守ってくれるものがない中での運転となるので、どれだけ安全に走れるかという点には、嫌でも気をつかうことになります。
ある意味、車に乗っているだけでは見えない世界なのかもしれません。
機会があれば原付にでも乗って頂ければ、周りの車の運転がどれだけ「怖い」か、味わえるかと思います(笑)
宗師も、車の運転は多くのことを教えてくれると仰っているように、生活の中でも、太極拳の学習に繋がってくる事柄はたくさんあるのでしょうね。
それらひとつひとつを、自分を磨く修行に繋げていきたいものですね。
19. Posted by 太郎冠者 2024年06月06日 22:09
☆平田玄琢さん
>「勉強できるチャンスを生かす」
先週、少し体を痛めてしまい、いまだにそれが治りきらずにいます。
それ自体は情けないお話ではあるのですが、文字通り怪我の功名といいますか、今まで気づけなかったことを、体を持って味わい実感することが出来ました。
上から吊られているように、真っ直ぐに立つ。
そのように指導して頂いていますが、体が痛くて寝ころんだところから起き上がるのに苦労するような状態においても、一度まっすぐ立つことが出来れば、それまでの痛みが全くなくなるのです。
そのことをひとつとっても、人間の体は斯くも正しく立つために作られているのだと、痛感させられました。
立つことを疎かにしていたつもりはないのですが、自由に力が使える状態ではわからないこともままあるのだと思いました。
どんな状況でもチャンスに変えて生かしていく…私もそのように取り組んでいけたら、と思います。
>「勉強できるチャンスを生かす」
先週、少し体を痛めてしまい、いまだにそれが治りきらずにいます。
それ自体は情けないお話ではあるのですが、文字通り怪我の功名といいますか、今まで気づけなかったことを、体を持って味わい実感することが出来ました。
上から吊られているように、真っ直ぐに立つ。
そのように指導して頂いていますが、体が痛くて寝ころんだところから起き上がるのに苦労するような状態においても、一度まっすぐ立つことが出来れば、それまでの痛みが全くなくなるのです。
そのことをひとつとっても、人間の体は斯くも正しく立つために作られているのだと、痛感させられました。
立つことを疎かにしていたつもりはないのですが、自由に力が使える状態ではわからないこともままあるのだと思いました。
どんな状況でもチャンスに変えて生かしていく…私もそのように取り組んでいけたら、と思います。
20. Posted by 太郎冠者 2024年06月08日 14:17
☆清水龍玄さん
今までは、稽古に出られることが当然という前提でその上でどう勉強していこうと思っていた所を、そこに変化が生じたことで見えなかった部分が見えてきたものがあったと思います。
「太極拳の稽古をしていくこと」そのものに焦点が当たった結果、自分の生き方という観点から見つめ直さざるを得ませんでした。
その上で改めて稽古に向かい合うことで、自分の人生にそれまでよりもがっちり食い込んだ気がしたものでした。
…ともあれ、時間が取れ、十分に体が動ける状態でないと稽古はできないので、自分ももっとしっかり整えていかないとなぁ、と痛感している日々です。
今までは、稽古に出られることが当然という前提でその上でどう勉強していこうと思っていた所を、そこに変化が生じたことで見えなかった部分が見えてきたものがあったと思います。
「太極拳の稽古をしていくこと」そのものに焦点が当たった結果、自分の生き方という観点から見つめ直さざるを得ませんでした。
その上で改めて稽古に向かい合うことで、自分の人生にそれまでよりもがっちり食い込んだ気がしたものでした。
…ともあれ、時間が取れ、十分に体が動ける状態でないと稽古はできないので、自分ももっとしっかり整えていかないとなぁ、と痛感している日々です。
21. Posted by 太郎冠者 2024年06月08日 14:24
☆マガサスさん
>強い信念を持って
人間誰しも、「こうしたくない、これは嫌だ!」という思いは容易に持てるものですが、では自分はどうしたいのか?と問われると、それを明確に発信できる人はそんなにいないのではないかと思います。
自分を見つめ直すことで、自分が何をしたいか、どうしたいのかがはっきりすると、今回自分自身で体験したように、物事はどんどん変化していくのかもしれません。
しかし、それにともなって新たな課題も同時に現れてくるもので…なかなか楽しませてもらえますね(そう思わないとやってられません)
勉強、修行の機会が与えられることは、ありがたいことなのだと思います。
>強い信念を持って
人間誰しも、「こうしたくない、これは嫌だ!」という思いは容易に持てるものですが、では自分はどうしたいのか?と問われると、それを明確に発信できる人はそんなにいないのではないかと思います。
自分を見つめ直すことで、自分が何をしたいか、どうしたいのかがはっきりすると、今回自分自身で体験したように、物事はどんどん変化していくのかもしれません。
しかし、それにともなって新たな課題も同時に現れてくるもので…なかなか楽しませてもらえますね(そう思わないとやってられません)
勉強、修行の機会が与えられることは、ありがたいことなのだと思います。
22. Posted by 太郎冠者 2024年06月08日 14:29
☆阿部玄明さん
一期一会という言葉があるように、稽古においても同じことの繰り返しはなく、示して頂ける機会はその瞬間に全てを受け取ることが出来ないと、その先は見えてこないのかもしれませんね。
実際の命のやり取りの場、実戦でのことを考えると、同じことは二度と起こるかずがありません。
その中で自らの命を守るために、その瞬間に判断して正しく動けるか。
普段の稽古の中でも、その瞬間に受け取れるか問われている事は、即そのまま実戦でのことも想定されているのだろうと感じます。
つまり、今の自分のような状態では、いくら命があっても足りないという事です。
武術としての根本を見直さないことには、どれだけの時間稽古に取り組んでも実にならないですよね。私も、もっと感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。
一期一会という言葉があるように、稽古においても同じことの繰り返しはなく、示して頂ける機会はその瞬間に全てを受け取ることが出来ないと、その先は見えてこないのかもしれませんね。
実際の命のやり取りの場、実戦でのことを考えると、同じことは二度と起こるかずがありません。
その中で自らの命を守るために、その瞬間に判断して正しく動けるか。
普段の稽古の中でも、その瞬間に受け取れるか問われている事は、即そのまま実戦でのことも想定されているのだろうと感じます。
つまり、今の自分のような状態では、いくら命があっても足りないという事です。
武術としての根本を見直さないことには、どれだけの時間稽古に取り組んでも実にならないですよね。私も、もっと感覚を研ぎ澄ませていきたいと思います。
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