2016年06月26日
練拳Diary #70「武術的な強さとは その14」
by 玄門太極后嗣・範士 円 山 玄 花
私たちのブログは、ともすれば精神論が多いと感じられる方もいるかもしれません。
なぜ、もっと武術の核心である戦いの技術について書いてくれないのか。
なぜスープカレーやシーカヤックの話でお茶を濁すのだろうか、と。
もちろんお茶を濁すつもりなど毛頭なく、むしろ日頃から道場で指導されていることは、「太極拳の修得は、道場以外での普段の生活に掛かっている」ということであり、それを厳しく言われている私たちにとっては、普段どのような意識を以て生活に臨み、自分を鍛えていくべきかということは、非常に重要なことなのです。
なぜなら、高度な武術は精神的に成熟していかなければ修得できず、自分の精神性は道場に居る限られた時間ではなく、普段の生活でこそ養われるからに他なりません。
それはきっと、他のどのような芸術の分野であっても同じはずで、何であれ高度なものを理解し修得するには、ちっぽけな自分を捨てて“それそのもの”になる必要があります。
自分の実力に太極拳の魅力を付加したい。
鍛えた逞しい身体とフットワークがあるから、後は強烈な発勁ができれば言うこと無し。
そのような夢を胸に太極武藝館の門を叩いた人も居ましたが、それこそそんな夢のような話は、逆立ちしたって叶わないのです。
今までやってきたこと、自分の考え方、そして日常的な発想さえも否定して、ようやく垣間見ることの出来る世界。
稽古で突きつけられるのは太極拳の難しさではなく、凝り固まったどうしようもない自分のアタマです。
「やり方」を追えばそんなものは無いと言われ、「在り方」を求めてもなってないと言われる。そんな稽古にかじりつき、己の無力さに打ちのめされては、またかじりつく。
ただひたすらに、本物の武術を希求する自分の信念だけを信じて立ち上がり続けた人だけが、武術とは何か、太極拳とは何かを理解することができるのです。
そのための一助になれば、という思いで記事を書いているわけですから、当然、護身術的な攻防テクニックや戦闘技術など、軽々しく書けるはずもないのです。
もちろん、正直に言えば、太極拳の戦闘技術を知られたくないという思いもあります。
それは、昔から一門派が集まって練習をするときには、他門派に盗み見されないように様々な工夫をしていたことと同じです。
知られれば、それを元に対抗策を研究されます。どれほど隠して動こうとも、その人が長年練ってきた拳は身体に現れてしまうもので、戦いの原理法則が見破られる可能性が出てきます。一門、一家、一国を守る立場にある武術家にとって、それほど恐ろしいことはないのです。
ただ、ひとつ言えることは、私たちの戦闘方法は運動ではないということです。
運動とは、相手よりも速く、強く、大きな力を巧みに出すための動きです。
そのために筋トレを行い、走り込みをして、サンドバッグを打つ。それはそれで何の問題もありませんが、そこに緻密で繊細な術理は存在しません。
格闘技と武術の一番の違いは、術理の有無だと言えます。
そして太極拳の戦闘術理は科学的に理論が組み立てられているもので、たとえばその術理の一端を教授され、僅かに2時間ほどの実践を重ねれば、子どもから老人に至るまで誰でも運動と術理の違いを理解することができます。
例えば、相手の攻撃に対するこちらのアプローチは、攻撃が当たらない位置に移動することでもなく、攻撃を手で払いながら反撃することでもありません。
まず、相手の攻撃はどのようなもので、それによってこちらがどのような影響を受けるのか、じっくり勉強していきます。それは同時に、自分から相手への攻撃が実際にどのように伝わり、どうしたら有効になるのかを知ることにもなります。
つまり、そこには言葉で説明できないことや、科学的根拠のないあやふやなことは一切存在しないのです。誰でも見て、聞いて、理解することができます。ただし、指導された通りのことをそのまま受け取って実践できる素直な気持ちがないとできません。
師父はいつも、『太極拳は決して難しいものではない。できないのは、君たちのアタマが邪魔をしているからだ』と仰います。
自分の考え方を挟まないこと。ただそれだけのことの、なんと難しいことでしょうか。
子どもから老人まで、逞しい筋肉や大きな体がなくても戦えるその素晴らしい戦闘術理が取れるか否かは、やはり自分の精神性と意識の高さに懸かっているのです。
さあ、それでは以上のことを踏まえた上で、「散手」について述べていきましょう。
なぜいきなり散手なのかと言えば、散手こそが武術を学ぶ人なら誰もが手に入れたいと思っている「戦い方」を知るための鍵に他ならないからです。
先ず一点、断っておかなければならないのは、本当の太極拳の戦い方というものは、これ迄に一切公開されたことがないということです。それは、私たち太極武藝館の門人でもそう易々と見られるものではなく、稽古で行われている散手は、あくまでも太極拳の戦い方を理解するための稽古方法のひとつでしかないのです。
その散手には、普通どのようなイメージが持たれているのでしょうか。
小館ホームページ内の「動画集」にある「太極拳の勁法」には、散手の一部が紹介されていますが、かつて師父の散手を実際に見た門外の方には、“「気」も使っているのですか?”と聞かれたことがあります。つまり、そう思えるほど力と力のぶつかり合いがなく、相手の攻撃は無効にされ、足を掛けていないのに身体は宙を舞い、師父の手足はさほど速く動いているように思えないのに、相手は無抵抗のまま打たれる、蹴られるということが繰り返されるのです。
その様子は、研究会の稽古中でも、「確かにこれを撮影して公開しても、インチキに見えるかも知れませんね」という会話が聞かれるほどです。もちろん、師父に掛かっていく本人たちは何とか一発でも当てられないものかと、毎回必死の思いであることは言うまでもありません。
このような師父が見せて下さる散手に比べて、私たちが持っている散手のイメージは、より格闘技の試合に近く、技の応酬をしている中で相手に隙を作り、決定打を打つというようなものではないでしょうか。
或いはもっと極端に、相手の懐に音もなく入り込み、触れた瞬間に発勁で吹っ飛ばすようなものでしょうか。・・なんだか、マンガのような話になってきましたね。
本当の戦い方が公開されたことがない故か、一番見覚えのあるスタイルをイメージしてしまう私たちは、常に師父に指摘されます。
『そんなテレビゲームのような発想では、絶対に生き残れない─────────』と。
戦闘のプロ集団である軍隊でのトレーニングと一般的なトレーニングとの違いは、まさにこのひと言に表されているような気がします。
相手よりも高得点を取れることを目指すのか、今日生きて帰れることを胸に刻むのか。
そこには、相手を発勁でどれ程吹っ飛ばせるかとか、真っ直ぐ棒立ちの相手に正面から押していって耐えられるか否かなど、そんなことは何の問題にもならないのです。
問題は、なぜそのような訓練方法が存在するのか。
その訓練方法によって、何が養われるのか。
不思議なことに、私たちがブログやホームページで紹介してきた幾つかの訓練方法に、甲乙をつけるコメントが外部から聞こえても、その訓練方法の意味するところに言及されたことは一度もありません。
それはもしかしたら、ひとつずつの訓練を各々相手との勝負のように考えているからかも知れない、と思います。
私たちが行う対人訓練では、勝負として行われるものはひとつも存在せず、勝ち負けがあるとすれば、たとえその場で倒されても身体が要求通りに正しく守られていれば負けではなく、反対にその稽古の意図を外れて一時的なその場限りの勝ちを求めた状態こそ「負け」となります。
それは散手のようにお互いに何をしても良いというルールであっても同様で、その場限りの勝ちは一時の満足感を与えても、本当に生き残れるための戦闘法が身に付くことはないため、厳しく戒められます。
ここのところがきちんと理解されないと、「捨己従人」や「後発先至」などの先人たちが残した珠玉の言葉は、永遠に理解できないことでしょう。
(つづく)
私たちのブログは、ともすれば精神論が多いと感じられる方もいるかもしれません。
なぜ、もっと武術の核心である戦いの技術について書いてくれないのか。
なぜスープカレーやシーカヤックの話でお茶を濁すのだろうか、と。
もちろんお茶を濁すつもりなど毛頭なく、むしろ日頃から道場で指導されていることは、「太極拳の修得は、道場以外での普段の生活に掛かっている」ということであり、それを厳しく言われている私たちにとっては、普段どのような意識を以て生活に臨み、自分を鍛えていくべきかということは、非常に重要なことなのです。
なぜなら、高度な武術は精神的に成熟していかなければ修得できず、自分の精神性は道場に居る限られた時間ではなく、普段の生活でこそ養われるからに他なりません。
それはきっと、他のどのような芸術の分野であっても同じはずで、何であれ高度なものを理解し修得するには、ちっぽけな自分を捨てて“それそのもの”になる必要があります。
自分の実力に太極拳の魅力を付加したい。
鍛えた逞しい身体とフットワークがあるから、後は強烈な発勁ができれば言うこと無し。
そのような夢を胸に太極武藝館の門を叩いた人も居ましたが、それこそそんな夢のような話は、逆立ちしたって叶わないのです。
今までやってきたこと、自分の考え方、そして日常的な発想さえも否定して、ようやく垣間見ることの出来る世界。
稽古で突きつけられるのは太極拳の難しさではなく、凝り固まったどうしようもない自分のアタマです。
「やり方」を追えばそんなものは無いと言われ、「在り方」を求めてもなってないと言われる。そんな稽古にかじりつき、己の無力さに打ちのめされては、またかじりつく。
ただひたすらに、本物の武術を希求する自分の信念だけを信じて立ち上がり続けた人だけが、武術とは何か、太極拳とは何かを理解することができるのです。
そのための一助になれば、という思いで記事を書いているわけですから、当然、護身術的な攻防テクニックや戦闘技術など、軽々しく書けるはずもないのです。
もちろん、正直に言えば、太極拳の戦闘技術を知られたくないという思いもあります。
それは、昔から一門派が集まって練習をするときには、他門派に盗み見されないように様々な工夫をしていたことと同じです。
知られれば、それを元に対抗策を研究されます。どれほど隠して動こうとも、その人が長年練ってきた拳は身体に現れてしまうもので、戦いの原理法則が見破られる可能性が出てきます。一門、一家、一国を守る立場にある武術家にとって、それほど恐ろしいことはないのです。
ただ、ひとつ言えることは、私たちの戦闘方法は運動ではないということです。
運動とは、相手よりも速く、強く、大きな力を巧みに出すための動きです。
そのために筋トレを行い、走り込みをして、サンドバッグを打つ。それはそれで何の問題もありませんが、そこに緻密で繊細な術理は存在しません。
格闘技と武術の一番の違いは、術理の有無だと言えます。
そして太極拳の戦闘術理は科学的に理論が組み立てられているもので、たとえばその術理の一端を教授され、僅かに2時間ほどの実践を重ねれば、子どもから老人に至るまで誰でも運動と術理の違いを理解することができます。
例えば、相手の攻撃に対するこちらのアプローチは、攻撃が当たらない位置に移動することでもなく、攻撃を手で払いながら反撃することでもありません。
まず、相手の攻撃はどのようなもので、それによってこちらがどのような影響を受けるのか、じっくり勉強していきます。それは同時に、自分から相手への攻撃が実際にどのように伝わり、どうしたら有効になるのかを知ることにもなります。
つまり、そこには言葉で説明できないことや、科学的根拠のないあやふやなことは一切存在しないのです。誰でも見て、聞いて、理解することができます。ただし、指導された通りのことをそのまま受け取って実践できる素直な気持ちがないとできません。
師父はいつも、『太極拳は決して難しいものではない。できないのは、君たちのアタマが邪魔をしているからだ』と仰います。
自分の考え方を挟まないこと。ただそれだけのことの、なんと難しいことでしょうか。
子どもから老人まで、逞しい筋肉や大きな体がなくても戦えるその素晴らしい戦闘術理が取れるか否かは、やはり自分の精神性と意識の高さに懸かっているのです。
さあ、それでは以上のことを踏まえた上で、「散手」について述べていきましょう。
なぜいきなり散手なのかと言えば、散手こそが武術を学ぶ人なら誰もが手に入れたいと思っている「戦い方」を知るための鍵に他ならないからです。
先ず一点、断っておかなければならないのは、本当の太極拳の戦い方というものは、これ迄に一切公開されたことがないということです。それは、私たち太極武藝館の門人でもそう易々と見られるものではなく、稽古で行われている散手は、あくまでも太極拳の戦い方を理解するための稽古方法のひとつでしかないのです。
その散手には、普通どのようなイメージが持たれているのでしょうか。
小館ホームページ内の「動画集」にある「太極拳の勁法」には、散手の一部が紹介されていますが、かつて師父の散手を実際に見た門外の方には、“「気」も使っているのですか?”と聞かれたことがあります。つまり、そう思えるほど力と力のぶつかり合いがなく、相手の攻撃は無効にされ、足を掛けていないのに身体は宙を舞い、師父の手足はさほど速く動いているように思えないのに、相手は無抵抗のまま打たれる、蹴られるということが繰り返されるのです。
その様子は、研究会の稽古中でも、「確かにこれを撮影して公開しても、インチキに見えるかも知れませんね」という会話が聞かれるほどです。もちろん、師父に掛かっていく本人たちは何とか一発でも当てられないものかと、毎回必死の思いであることは言うまでもありません。
このような師父が見せて下さる散手に比べて、私たちが持っている散手のイメージは、より格闘技の試合に近く、技の応酬をしている中で相手に隙を作り、決定打を打つというようなものではないでしょうか。
或いはもっと極端に、相手の懐に音もなく入り込み、触れた瞬間に発勁で吹っ飛ばすようなものでしょうか。・・なんだか、マンガのような話になってきましたね。
本当の戦い方が公開されたことがない故か、一番見覚えのあるスタイルをイメージしてしまう私たちは、常に師父に指摘されます。
『そんなテレビゲームのような発想では、絶対に生き残れない─────────』と。
戦闘のプロ集団である軍隊でのトレーニングと一般的なトレーニングとの違いは、まさにこのひと言に表されているような気がします。
相手よりも高得点を取れることを目指すのか、今日生きて帰れることを胸に刻むのか。
そこには、相手を発勁でどれ程吹っ飛ばせるかとか、真っ直ぐ棒立ちの相手に正面から押していって耐えられるか否かなど、そんなことは何の問題にもならないのです。
問題は、なぜそのような訓練方法が存在するのか。
その訓練方法によって、何が養われるのか。
不思議なことに、私たちがブログやホームページで紹介してきた幾つかの訓練方法に、甲乙をつけるコメントが外部から聞こえても、その訓練方法の意味するところに言及されたことは一度もありません。
それはもしかしたら、ひとつずつの訓練を各々相手との勝負のように考えているからかも知れない、と思います。
私たちが行う対人訓練では、勝負として行われるものはひとつも存在せず、勝ち負けがあるとすれば、たとえその場で倒されても身体が要求通りに正しく守られていれば負けではなく、反対にその稽古の意図を外れて一時的なその場限りの勝ちを求めた状態こそ「負け」となります。
それは散手のようにお互いに何をしても良いというルールであっても同様で、その場限りの勝ちは一時の満足感を与えても、本当に生き残れるための戦闘法が身に付くことはないため、厳しく戒められます。
ここのところがきちんと理解されないと、「捨己従人」や「後発先至」などの先人たちが残した珠玉の言葉は、永遠に理解できないことでしょう。
(つづく)
コメント一覧
1. Posted by まっつ 2016年06月30日 22:08
中国拳法における「発勁」に代表されるように、
武術の世界で卓越した術理を表現する術語は、
これまでにも色々と耳にはしてはきましたが、
本当にそれらがリアルに生じうるとは本当に驚きでした。
太極武藝館での稽古に触れ、
始めて武術の世界が本当に存在する事を納得させられました。
そして、その世界を理解し、習得する事の困難は、
そんな驚きも蒸発する悩みの中に自分を置く事でした。
時間の中で磨かれてきた本物には付け焼刃は通用しないと、
自分を落とす過程を通れるかが鍵だと思います。
諦めずに続ける事が大事なのだと思います。
武術の世界で卓越した術理を表現する術語は、
これまでにも色々と耳にはしてはきましたが、
本当にそれらがリアルに生じうるとは本当に驚きでした。
太極武藝館での稽古に触れ、
始めて武術の世界が本当に存在する事を納得させられました。
そして、その世界を理解し、習得する事の困難は、
そんな驚きも蒸発する悩みの中に自分を置く事でした。
時間の中で磨かれてきた本物には付け焼刃は通用しないと、
自分を落とす過程を通れるかが鍵だと思います。
諦めずに続ける事が大事なのだと思います。
2. Posted by 太郎冠者 2016年06月30日 22:27
武藝館の稽古では、たとえ休憩中であっても稽古は継続されており、
週末における研究会の休憩では、
>スープカレーやシーカヤックの話でお茶を
おいしくいただくことも、また太極拳の稽古なのです(笑)
>鍛えた逞しい身体とフットワークがあるから、後は強烈な発勁ができれば言うこと無し。
ちょうど本日、航空自衛隊に新型輸送機C−2が納入されたようですが(私、輸送機好きです)、積載容量のある輸送機にどれだけ強大なエンジンやミサイルを積み込んでも所詮は輸送機、決して戦闘機にはなりえないものです。
戦闘機には戦闘機の構造があるように、太極拳には太極拳の構造があります。
同じ飛行機と言われるものでも、輸送機と戦闘機はそもそも発想が別物です。
…例えが悪い気がしますが、こういった考えを理解しないと、やはり上で書かれているように、自分にさらにプラスすればもっと強くなれる〜という脇道にそれていってしまうのだと思います。
週末における研究会の休憩では、
>スープカレーやシーカヤックの話でお茶を
おいしくいただくことも、また太極拳の稽古なのです(笑)
>鍛えた逞しい身体とフットワークがあるから、後は強烈な発勁ができれば言うこと無し。
ちょうど本日、航空自衛隊に新型輸送機C−2が納入されたようですが(私、輸送機好きです)、積載容量のある輸送機にどれだけ強大なエンジンやミサイルを積み込んでも所詮は輸送機、決して戦闘機にはなりえないものです。
戦闘機には戦闘機の構造があるように、太極拳には太極拳の構造があります。
同じ飛行機と言われるものでも、輸送機と戦闘機はそもそも発想が別物です。
…例えが悪い気がしますが、こういった考えを理解しないと、やはり上で書かれているように、自分にさらにプラスすればもっと強くなれる〜という脇道にそれていってしまうのだと思います。
3. Posted by マルコビッチ 2016年07月01日 00:56
太極武藝館で稽古をしている私たちにとって、教えて頂いている事を修得する為に「自分の精神性」が深く関わってくるという事は、当たり前のように感じています。
そしてそれがいかに大変な事であるか、稽古を重ねていくほど感じます。
歩き方ひとつとっても、今までの自分の癖を知り、それをやめ、新しく修正していくことは簡単な事ではありません。
歩く事は、道場以外の日常生活でも歩くわけですから、常に意識的でなければならず、『こうやって歩いた方が楽じゃん・・』『今は急いでいるから・・』『疲れてるから・・』などなどあらゆる逃げ道を作ろうとしている自分に気がついていかなければならず、歩き方の修正の前に心の修正が必要かとさえ思います。
ですから、スープカレーやシーカヤックのお話はまさしく武術の核心なのではと思えてしまいます。
また、玄花さんのそんなお話を楽しみにしています。
そしてそれがいかに大変な事であるか、稽古を重ねていくほど感じます。
歩き方ひとつとっても、今までの自分の癖を知り、それをやめ、新しく修正していくことは簡単な事ではありません。
歩く事は、道場以外の日常生活でも歩くわけですから、常に意識的でなければならず、『こうやって歩いた方が楽じゃん・・』『今は急いでいるから・・』『疲れてるから・・』などなどあらゆる逃げ道を作ろうとしている自分に気がついていかなければならず、歩き方の修正の前に心の修正が必要かとさえ思います。
ですから、スープカレーやシーカヤックのお話はまさしく武術の核心なのではと思えてしまいます。
また、玄花さんのそんなお話を楽しみにしています。
4. Posted by ユーカリ 2016年07月01日 02:56
今回のブログも、大変ありがたく拝読致しました。
>「太極拳の修得は、道場以外での普段の生活に掛かっている」
本当に本当に、その通りだと思います。
言われたことを自分を挟まずに実践することが、如何に難しいかを、こちらの道場で学ぶ機会を得なければ、知る事も・知ろうとする事もなかった私です。
ですから、自分の日常の生き方が、戦場での生死に繋がっていようとは、思いもかけない事でした。
とんでもなく乱れていた生活を少しずつ見直してゆく中で、それまで他者に対しての不平不満や要求がいかに多いかに驚きました。人のせいにせず、言い訳に逃げる事無く自らを省みる、そして自らを修正してゆく…そんな作業の積み重ねにより、生活が、自分が息を吹き返したように思います。
生き抜くためには、どんな状況下でもご指導いただいた宝物を大切に磨き続ける覚悟が必要だと感じています。丁寧に一歩を踏み出し、それを続けてゆきたいと思います。
>「太極拳の修得は、道場以外での普段の生活に掛かっている」
本当に本当に、その通りだと思います。
言われたことを自分を挟まずに実践することが、如何に難しいかを、こちらの道場で学ぶ機会を得なければ、知る事も・知ろうとする事もなかった私です。
ですから、自分の日常の生き方が、戦場での生死に繋がっていようとは、思いもかけない事でした。
とんでもなく乱れていた生活を少しずつ見直してゆく中で、それまで他者に対しての不平不満や要求がいかに多いかに驚きました。人のせいにせず、言い訳に逃げる事無く自らを省みる、そして自らを修正してゆく…そんな作業の積み重ねにより、生活が、自分が息を吹き返したように思います。
生き抜くためには、どんな状況下でもご指導いただいた宝物を大切に磨き続ける覚悟が必要だと感じています。丁寧に一歩を踏み出し、それを続けてゆきたいと思います。
5. Posted by たそがれの単身赴任者 2016年07月01日 08:15
私事で恐縮ですが、私が昭和48年学生時代に笠尾恭二先生のたしか「精説太極拳」という名前の厚い本を購入し、今では広く知られていることですが、陳一族は夜中に人目につかないように練習していたこと、一族でないものには決して教えないことなどの秘密主義にたいへんおどろきあこがれたものでした。
それをひそかに覗き見ただけで、一族の人間以上の能力を示したと伝えられていた楊露禅の才能にはさらにおどろいたものでした。
その太極拳の神秘性にあこがれて年がすぎ、人生の終盤に差し掛かった時、ご縁で武藝館の末席においていただき、その真の姿をみることができました。時間も同じ深夜稽古であることから、古の陳一族の一員になれたのではないかと勝手な幸せに浸っております。
現実には楊露禅ならぬ身は、その習得に四苦八苦し、亀の歩みであります。ただ玄花先生、諸先輩のおっしゃるように、稽古で知りえたことをいかに日常生活に反映できるかが習得のただ1つの道であると実感しております。
起きて、顔をあらって、服を着て、重いかばんをもちあげ、ひとにぶつからないように歩いて、階段を登る、信号に反射して止まる、また歩きだす、これすなわちすべてが太極拳の術理に合致したものででなければならないと最近思い当りました。人生の思想、生き方、ものの見方が太極拳でなければならない。だから先生のつくられるスープカレーもカヤックもその技術は太極拳の術理一部なのであります。浅学の身で失礼いたしました。
それをひそかに覗き見ただけで、一族の人間以上の能力を示したと伝えられていた楊露禅の才能にはさらにおどろいたものでした。
その太極拳の神秘性にあこがれて年がすぎ、人生の終盤に差し掛かった時、ご縁で武藝館の末席においていただき、その真の姿をみることができました。時間も同じ深夜稽古であることから、古の陳一族の一員になれたのではないかと勝手な幸せに浸っております。
現実には楊露禅ならぬ身は、その習得に四苦八苦し、亀の歩みであります。ただ玄花先生、諸先輩のおっしゃるように、稽古で知りえたことをいかに日常生活に反映できるかが習得のただ1つの道であると実感しております。
起きて、顔をあらって、服を着て、重いかばんをもちあげ、ひとにぶつからないように歩いて、階段を登る、信号に反射して止まる、また歩きだす、これすなわちすべてが太極拳の術理に合致したものででなければならないと最近思い当りました。人生の思想、生き方、ものの見方が太極拳でなければならない。だから先生のつくられるスープカレーもカヤックもその技術は太極拳の術理一部なのであります。浅学の身で失礼いたしました。
6. Posted by とび猿 2016年07月01日 23:44
先日のCQC特別講習でも、太極拳の修行者ならば誰でも知っているような要求が、軍人と共通点が多くあることを知り、改めて伝統的な太極拳の実戦性を確認することが出来ました。
実際に太極拳の戦い方を学ぶことができるかどうかは各自の問題だと思いますが、我々太極武藝館で学ぶ者は、理解のしていき方と身体要求や条件を、初心者から上級者まで、誰もが学んでいると思います。
あとは、理解をしていく事ができるよう自分を整え、耕し、豊かにしていく事が必要なのだと、以前にも増して思います。
それにしても、太極拳を学べば学ぶほど、何ともすごいことを学んでいるんだなという思いが強くなります。
実際に太極拳の戦い方を学ぶことができるかどうかは各自の問題だと思いますが、我々太極武藝館で学ぶ者は、理解のしていき方と身体要求や条件を、初心者から上級者まで、誰もが学んでいると思います。
あとは、理解をしていく事ができるよう自分を整え、耕し、豊かにしていく事が必要なのだと、以前にも増して思います。
それにしても、太極拳を学べば学ぶほど、何ともすごいことを学んでいるんだなという思いが強くなります。
7. Posted by ランフォリンクスの尾 2016年07月04日 00:08
今回も面白いお話をありがとうございます。
記事の趣旨といくらかずれてしまってコメントとしてふさわしくないかもしれませんが、私の話をさせてください。
最初から80点を取るつもりでしか自分はこれまで何事に対しても取り組んで来なかったのだと思い知らされる状況を、仕事を通じて何度か私は経験しました。
思い返してみれば受験勉強のときでも「お前らは医学部を受けるわけじゃないんだから満点を取りにいかなくていい」と指導されていました。
「難しいのは太極拳そのものではなくて、自分の考え方を変えることだ」という旨のことを師父は常々おっしゃいますが、以上のような経験と通じるところがあると思うのですよね。
考え方を変えて本物を取りにいかなくても、小手先の工夫でなんとかなってしまう世界しか知らないのです。
そしてそれは、現代人の大半に当てはまることだと思います。けれども戦乱の時代の人たちは逆に、小手先の工夫に気を回す余裕なんてなかったのではないでしょうか。
人類全員がそこまで柔らかい頭を持っていた時代というのは、それこそ狩猟採集生活のころまで遡るのかもしれませんが。
次回の記事も楽しみにしております。
記事の趣旨といくらかずれてしまってコメントとしてふさわしくないかもしれませんが、私の話をさせてください。
最初から80点を取るつもりでしか自分はこれまで何事に対しても取り組んで来なかったのだと思い知らされる状況を、仕事を通じて何度か私は経験しました。
思い返してみれば受験勉強のときでも「お前らは医学部を受けるわけじゃないんだから満点を取りにいかなくていい」と指導されていました。
「難しいのは太極拳そのものではなくて、自分の考え方を変えることだ」という旨のことを師父は常々おっしゃいますが、以上のような経験と通じるところがあると思うのですよね。
考え方を変えて本物を取りにいかなくても、小手先の工夫でなんとかなってしまう世界しか知らないのです。
そしてそれは、現代人の大半に当てはまることだと思います。けれども戦乱の時代の人たちは逆に、小手先の工夫に気を回す余裕なんてなかったのではないでしょうか。
人類全員がそこまで柔らかい頭を持っていた時代というのは、それこそ狩猟採集生活のころまで遡るのかもしれませんが。
次回の記事も楽しみにしております。
8. Posted by タイ爺 2016年07月05日 17:14
太極拳を学ぶことを套路を学び用法を知ることにより上達すると思っている方は沢山いらっしゃるのでは無いでしょうか。
実際、私も数年前まではそのような考え方でした、発勁という技術が単独に存在しそれを得られれば無敵。(ロマンありますねえ)
雑誌やネットで紹介される推手試合も結局は力勝負であったり、隙をみて上手いことをやって勝つ方法であったり。
別に太極拳である必要がないものばかり。
「太極拳はゆっくりな練習で強くなれるのか?」
「力を用いないで強くなれるのか」
こういった感想を持つこと自体がすでに凝り固まった頭であるんですよと昔の自分に教えてあげたい。でも理解できないだろうなあ、昔の自分。
実際、私も数年前まではそのような考え方でした、発勁という技術が単独に存在しそれを得られれば無敵。(ロマンありますねえ)
雑誌やネットで紹介される推手試合も結局は力勝負であったり、隙をみて上手いことをやって勝つ方法であったり。
別に太極拳である必要がないものばかり。
「太極拳はゆっくりな練習で強くなれるのか?」
「力を用いないで強くなれるのか」
こういった感想を持つこと自体がすでに凝り固まった頭であるんですよと昔の自分に教えてあげたい。でも理解できないだろうなあ、昔の自分。
9. Posted by bamboo 2016年07月09日 23:47
なぜスープカレーやシーカヤックの話でお茶を濁すのだろうか>
ちっぽけな自分を捨てて“それそのもの”になる普段の生活でこそ養われる高度なもの…。
“功夫”や“大人”の途轍もない意味深さや、之を真摯に学ぶために開いてくださった道場。
“黙念師容”の意義…。
その訓練方法によって、何が養われるのか>
少し前まで、普段の生活のなかで無意識の硬さや文字通りの煩悩に向き合うという選択はもちろん、したいという意思すら大して続かなかったように思います。
…が。今なら、美味しいスープカレー作りを楽しめそうな気がいたします(笑)
ちなみに今夜は鯵のなめろうでした!! (師父ならこういうことを仰るだろうなぁ…)と微笑みながら作りました! …ちょっと違うかもしれませんが(笑)
ちっぽけな自分を捨てて“それそのもの”になる普段の生活でこそ養われる高度なもの…。
“功夫”や“大人”の途轍もない意味深さや、之を真摯に学ぶために開いてくださった道場。
“黙念師容”の意義…。
その訓練方法によって、何が養われるのか>
少し前まで、普段の生活のなかで無意識の硬さや文字通りの煩悩に向き合うという選択はもちろん、したいという意思すら大して続かなかったように思います。
…が。今なら、美味しいスープカレー作りを楽しめそうな気がいたします(笑)
ちなみに今夜は鯵のなめろうでした!! (師父ならこういうことを仰るだろうなぁ…)と微笑みながら作りました! …ちょっと違うかもしれませんが(笑)
10. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 01:27
☆まっつさん
稽古での「悩み」には、大きく分けて二通りあると言えます。
ひとつは示された要訣の通りに整えられない自分自身との葛藤によるもの。
もうひとつは、示されたこと以外に秘伝を探さなければならないという思い込みに因るものです。
前者はともかく、後者の悩みは永遠に解決することはありません。
なぜなら、太極拳はどのように修得していくのかを、全て示されているからです。
自分で何かを見つける必要はなく、示されていることを理解できるかどうかであり、
それ故に悩みは外側ではなく自分の内側にのみあります。
私も悩むたびに、自分の悩みがどちら側なのか自問したものですが、
自分自身に対しても、知的に関わらなければならないのだと思いました。
稽古での「悩み」には、大きく分けて二通りあると言えます。
ひとつは示された要訣の通りに整えられない自分自身との葛藤によるもの。
もうひとつは、示されたこと以外に秘伝を探さなければならないという思い込みに因るものです。
前者はともかく、後者の悩みは永遠に解決することはありません。
なぜなら、太極拳はどのように修得していくのかを、全て示されているからです。
自分で何かを見つける必要はなく、示されていることを理解できるかどうかであり、
それ故に悩みは外側ではなく自分の内側にのみあります。
私も悩むたびに、自分の悩みがどちら側なのか自問したものですが、
自分自身に対しても、知的に関わらなければならないのだと思いました。
11. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 01:33
☆太郎冠者さん
>たとえ休憩中であっても稽古は継続されており
休憩中に自分の稽古が中断されるようでは、道場から帰宅したらホントに”ただの人”になってしまいますからね。
稽古を離れて自分を見直すための、新たな稽古の時間とも言えるかも知れません。
>たとえ休憩中であっても稽古は継続されており
休憩中に自分の稽古が中断されるようでは、道場から帰宅したらホントに”ただの人”になってしまいますからね。
稽古を離れて自分を見直すための、新たな稽古の時間とも言えるかも知れません。
12. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 01:40
☆マルコビッチさん
稽古が高度になるほど、普段の意識訓練の重要性が思い知らされますね。
自分自身への関わりは、どれ程深くしていっても底に行き着くことがなく、終いには自分がどこに向かって掘り下げているのか分からなくなってしまうこともありますが、自分が地上に立って居る限りは重力を感じられるように、自身に関わっていることの実感は「意識的であること」なのだと思います。
本当に、太極拳の修行=自分の探求ですね。
稽古が高度になるほど、普段の意識訓練の重要性が思い知らされますね。
自分自身への関わりは、どれ程深くしていっても底に行き着くことがなく、終いには自分がどこに向かって掘り下げているのか分からなくなってしまうこともありますが、自分が地上に立って居る限りは重力を感じられるように、自身に関わっていることの実感は「意識的であること」なのだと思います。
本当に、太極拳の修行=自分の探求ですね。
13. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 01:47
☆ユーカリさん
自分が回れば、他も回ります。
自分が淀めば、周りも淀みます。
考えてみれば、広大な宇宙空間の中で、例えば木星だけが勝手に「ちょっと疲れたから止まっとこうかな」などと思うことはないわけで、もしもそんなことをしたら、宇宙が存在していた法則があっという間に失われてしまうことでしょう。
大事なことは、私たちに存在する法則を感じられることでしょうか。
その調子で、頑張ってください。
自分が回れば、他も回ります。
自分が淀めば、周りも淀みます。
考えてみれば、広大な宇宙空間の中で、例えば木星だけが勝手に「ちょっと疲れたから止まっとこうかな」などと思うことはないわけで、もしもそんなことをしたら、宇宙が存在していた法則があっという間に失われてしまうことでしょう。
大事なことは、私たちに存在する法則を感じられることでしょうか。
その調子で、頑張ってください。
14. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 01:57
☆たそがれの単身赴任者さん
>深夜稽古
本当は、ブラインドも閉めた方が気分が出ますよね(笑)
確かに“覗き見ただけで”理解してしまった楊露禅はすごいと思います。
きっと、私たちが套路の稽古中に言われるように、思考することなく、感じて、そのままを受け取ることができたのだと思います。
これもまた、自分を挟まない勉強方法ですね。
>深夜稽古
本当は、ブラインドも閉めた方が気分が出ますよね(笑)
確かに“覗き見ただけで”理解してしまった楊露禅はすごいと思います。
きっと、私たちが套路の稽古中に言われるように、思考することなく、感じて、そのままを受け取ることができたのだと思います。
これもまた、自分を挟まない勉強方法ですね。
15. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 14:58
☆とび猿さん
路上で襲われたときの護身術や、ナイフの使い方、捌き方など、やり方を教えてくれるところは沢山ありますが、そもそも戦いとはどういうことなのか、武術とは何か、武術性とは何であるのかという根本的なことから解き明かしてくれるところは、希かもしれません。
そして最も大きな違いは、理解そのものが起こる仕組みを教えてもらえるかどうかだと思います。
真っ直ぐに受け取りたいものですね。
路上で襲われたときの護身術や、ナイフの使い方、捌き方など、やり方を教えてくれるところは沢山ありますが、そもそも戦いとはどういうことなのか、武術とは何か、武術性とは何であるのかという根本的なことから解き明かしてくれるところは、希かもしれません。
そして最も大きな違いは、理解そのものが起こる仕組みを教えてもらえるかどうかだと思います。
真っ直ぐに受け取りたいものですね。
16. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 16:21
☆ランフォリンクスの尾さん
>考え方を変えて本物を取りにいかなくても、
>小手先の工夫で何とかなってしまう世界しか知らない
このように考えられる人さえ、少なくなったように感じます。
この言葉は、自戒として紙に書いて部屋に張っておきたいですね。
そもそも命懸けのことに平均点も合格点もないわけで、
だからこそ軍人は日々訓練に明け暮れるわけです。
幸か不幸か、私たちは今日敵を倒さなければ明日の我が身が保証されないような状況にはないのですが、1日が10時間くらいにしか感じられない日々の中では、やはり毎日が命懸けだと思えてしまいます。
本当に必要に迫られれば、きっと誰でも柔らかい頭にならざるを得ない・・はずです(笑)
>考え方を変えて本物を取りにいかなくても、
>小手先の工夫で何とかなってしまう世界しか知らない
このように考えられる人さえ、少なくなったように感じます。
この言葉は、自戒として紙に書いて部屋に張っておきたいですね。
そもそも命懸けのことに平均点も合格点もないわけで、
だからこそ軍人は日々訓練に明け暮れるわけです。
幸か不幸か、私たちは今日敵を倒さなければ明日の我が身が保証されないような状況にはないのですが、1日が10時間くらいにしか感じられない日々の中では、やはり毎日が命懸けだと思えてしまいます。
本当に必要に迫られれば、きっと誰でも柔らかい頭にならざるを得ない・・はずです(笑)
17. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 17:11
☆タイ爺さん
他の武術を学んだことがない私でさえ、”技で相手を倒す”のだと思っていたのですから、
他の武術や格闘技をやってきた人が秘技・絶招を求めるのは仕方のないことだと思います。
太極拳の正しい学習体系に身を置いた人であれば、ゆっくり練習する意味も、力を用いないことの重要性もすぐに分かるはずです。
そもそも私たちは間違ったイメージを元に中国武術を見て、考えていると思います。
だからこそ、本当の戦い方は隠されているのかも知れません。
近頃稽古で感じることは、やはり「知的に」学ぶ必要があるということです。
無情にも、功夫は単なる汗と涙には比例しないということですね。
他の武術を学んだことがない私でさえ、”技で相手を倒す”のだと思っていたのですから、
他の武術や格闘技をやってきた人が秘技・絶招を求めるのは仕方のないことだと思います。
太極拳の正しい学習体系に身を置いた人であれば、ゆっくり練習する意味も、力を用いないことの重要性もすぐに分かるはずです。
そもそも私たちは間違ったイメージを元に中国武術を見て、考えていると思います。
だからこそ、本当の戦い方は隠されているのかも知れません。
近頃稽古で感じることは、やはり「知的に」学ぶ必要があるということです。
無情にも、功夫は単なる汗と涙には比例しないということですね。
18. Posted by 円山玄花 2016年07月14日 19:06
☆bambooさん
”楽しめる”というのは、とても重要だと思います。
楽しめないときには頭も固くなり、頭がカタいときにはカラダも固くなります。
楽しみは喜びとなり、喜びは学びの原動力になり、
次なるステップの”真理の探究”が始まるのだと思います。
”楽しめる”というのは、とても重要だと思います。
楽しめないときには頭も固くなり、頭がカタいときにはカラダも固くなります。
楽しみは喜びとなり、喜びは学びの原動力になり、
次なるステップの”真理の探究”が始まるのだと思います。
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