2016年02月08日

練拳Diary #66「武術的な強さとは その10」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私が、武術を学ぶ理由とは何か──────────

 武術を学び始めてからというもの、幾度となくこの問い掛けを自問してきましたし、ブログの練拳ダイアリーでも、すでに何回か書いてきています。

 それは、その理由が分からないからではなく、自分の武術に対する認識の甘さや、危機感の足りなさ、そして人としての至らなさを痛感するたびに出てくるのです。

 もしかしたら、武術を学び続ける限り消えることのない、問いなのかもと思えます。
 或いは、武の道を究めた偉大な先人たちの声なのかも知れません。

 お前は、そんなことで武術を学んでいる気になっているのか?、と。


 武術家にとって最も致命的なことのひとつには、危機感の不足が挙げられます。
 危機感とは、なにも敵と相対したときに感じる危機だけではなく、起こり得るかも知れない危機に対して、それを察知するセンサーがあるかどうかが問われるのです。


 生き残れること。
 そして生きて帰れることとは、当然危機からの生還または事前に危機を察知し、回避できることを指しているわけです。
 それ故に、武術家にとって危機感の不足は致命的だと述べたのですが、改めて危機について考えてみたとき、自分を含めて、あまりにも危機に対して鈍感であるという事実に気がつきました。

 迫り来る危機に対しては対策の立てようもありますが、まだ目に見えていない危機に対してはどうしたら良いか分からないことが多く、ほとんどの人が無頓着であるように見えたのです。それも、災害やテロといったものではなく、日常の危機に対してです。

 つまり、そもそも何が「危機」であるのかが、分かっていないのです。

 危機に対する対処方法を知っているか否かではなく、何が危機なのか分からない。
 目の前に危機が迫っていても、それを危機とは認識できない。
 これこそ立派な平和ボケの証しだと言えるでしょう。
 
 さて、この記事を読まれている皆さんは、「日常の危機」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?


 地震、台風、熱中症、通勤・通学時の交通、食品添加物や食料生産地、部屋のホコリ・カビ、ゴキブリ、野生動物・・など、このようなものを筆頭に、もっと多くの危機が挙げられるかもしれませんが、実は、もっと身近なところに危機はあるのです。

 たとえば、道場に通う門人であれば、きっと誰もが一度は聞いたことがあると思われる、師父のこの言葉。

 「皆さん、今日は傘を持っていますか?」

 雨が降っていればもちろんのこと、特に稽古の途中から雨が降りだしたときには、稽古の途中で早退する人にも、最後までいた人達にも、必ずこのように声を掛けられます。

 以前には、傘を忘れて来る人もいましたが、今では滅多に忘れてくる人はいなくなり、事前に天気予報を見てきたとか、雲行きが怪しいから折りたたみ傘を入れてきた、という声が聞こえてきます。

 これは、ひとりひとりに天候の変化に対する意識が芽生えたからであり、“雨に濡れないようにする”ということは、紛れもなく危機回避の一端であると言えます。

 雨に濡れると、体温が奪われて身体が冷えてきます。
 冷えた身体を元に戻そうとして、エネルギーを消耗します。

 よく、多少雨に降られても直ぐに乾くから大丈夫だという声を聞きますが、もしもその時に何らかの事情でもう一度外に出なければならなくなったなら、どうするのか。身体が冷えて消耗しているまま、動かなければならなくなったら、どうするのか。
 それを考えた上で、少しくらい濡れても大丈夫だと言っているのかといえば、恐らくはそこまで考えていなかったはずなのです。

 天気予報を見てみる、傘を入れておく、着替えを一枚持っておく。
 そのほんの一手間によって、自分のベストコンディションが保てるのです。

 たかが雨。

 されど雨。

 極限状態を経験した人は、生命というものが何によって守られ、また何によって奪われるのかをよく知っています。

 私たちが考えている、

 “まあ、きっと大丈夫”

 “この前も大丈夫だったから”

 “大丈夫だと聞いた”

 ・・などの言い訳は、実は何の根拠もなく、単なる希望的観測で言っているに過ぎないと師父に言われたことがあります。

 確かに、改めてよく考えてみるとそうなのです。
 雨の話にたとえてみれば、自分が傘や着替えを持つことが面倒なために、「走って行けばそんなに濡れない」とか、「濡れても大丈夫」ということを言っているのであって、実際に自分がどれだけ濡れてしまうのか、どのくらいからだが冷えるのか、乾くまでに何分掛かるのかを解った上で「大丈夫だ」と言っているわけではないのです。
 それが、よく考えなければ分からないほど、鈍感になっているのです。

 問題は、雨に濡れたか濡れなかったか、多少濡れても風邪などひかなかった、ということではなく、雨が降っている、或いは降りそうだというときの自分の「考え方」で、勉強にも仕事にも、その他日常の全ての事柄に向かっているということなのです。
 

 師父はこうも言われました。

 「敵がナイフを持って向かってきたその時にも、“この前も大丈夫だったから、きっと今回も大丈夫”と言うのだろうか?」と。

 そう考えれば、まるで大丈夫なはずが無いと誰もが思えるはずですが、朝の曇り空を見上げたときには、そうは考えられないのです。

 危機を認識しようとすることは、そっくりそのまま自分自身を認識しようとすることに繋がります。そして、認識するためのセンサーが、どんどん磨かれていきます。
 そのセンサーが、敵と対したときに役に立つであろうことは、想像に難くありません。

 日常の危機を認識すること。
 たとえば、

 〇日までにこれをしなければならないが、なかなか時間が取れない。

 今日は少し寝不足だ。

 車の調子が良くない。

 懐中電灯の電池が切れた。

 ・・これらも立派な危機です。
 問題は、何度も言ってきたように、それらの危機に対して自分がどのように考え、行動したのか。その考え方で、どのような状況からでも生きて帰ることが出来るのか、ということなのです。


 突然話が変わりますが、今年に入ってから自分でスープカレーを作ってみました。

 そうです。
 あの、北海道名物(?)であり、師父がたった一度食べただけで作ってしまったという、(編集者注:練拳ダイアリー#63参照)スープカレーです。

 今回は、野菜の素揚げと鶏肉を入れたスープカレーで、師父のリクエストにより、野菜の素揚げにはサツマイモを加えて、最後に目玉焼きを乗せた物を作ることにしました。

 スーパーに出掛けて足りないものを補充し、鶏のスープを取るために鶏肉と野菜を鍋に放り込んで火に掛け、その間にカレーに入れる鶏肉や野菜の下準備をします。
 スパイスで下味をつけた鶏肉を焼き、ベースとなるカレーの味を、玉ネギ、ニンニク、スパイスで作ります。

 鍋に一杯のスープカレーが満たされたら、野菜の素揚げをして器に盛りつけ、目玉焼きを乗せて完成です。

 自分がイメージしたものを作り出すことの、なんと難しいことでしょうか。
 特に、カレーの味を調えることに苦戦しました。
 思わず顔が青くなったときもありましたが、終始一貫してとても楽しかったです。

 以前から挑戦してみたかったとは言え、人様の夕飯に自分が初めて挑戦するものを作るのは相当なプレッシャーでしたが、実際に作って食べ終えてみれば、空になった器とは対照的に、自分の手の中に大きな実感が残りました。
 そして、すでに次のスープカレーに向けたフィードバックが、自分の中で始まっていたのです。


 一見武術とは関係のない、料理ということ。
 けれども、その一品を作ることで料理が私に教えてくれたことは、考え方を知る、常に自分と材料とを観る、そして材料をはじめ、火や包丁、その他の調理道具などと対話をするということで、それはまさに稽古であり、道場で学んでいることと何ひとつとして変わりませんでした。

 いつか師父に、「幾何学の勉強は、幾何学の中にはない」と言われたことの意味が、少し分かったような気がします。

 変わってきたのは、その後の自分で、例えば片付けの手際が良くなったり、集中力が増えました。
 そして何よりも、人の話に対してその真意を汲み取るということが、少しだけ出来るようになりました。
 それがスープカレーを作ったことと直接関係あるかどうかは分かりませんが、これまでだと他人の言い方や感情に対して表面的に反応していたものが少なくなり、その人が何を伝えたくてその言葉を放っているのかに、意識が向くようになったのです。

 考えてみれば、未知の分野に足を踏み入れるときには、自分にできるという保証は無い状態で「一」から考えなければならず、しかもやり直しが利かないので瞬間瞬間に修正し続ける必要があります。
 そんな、切羽詰まった状況で、自分の能力が開発されないはずがないのです。

 そのようにして、ふと自分を振り返った瞬間、
 『まずは謙虚に──────────』という言葉が、脳裏に浮かびました。

 この言葉は、毎年師父とスタッフの手で製作されている太極武藝館オリジナルカレンダーの、今年の1月のページに、美しい自然の写真とともに書かれた最初の言葉です。

 『まずは謙虚に、原初の一個の生命に還ることだ──────────』

 深く、頭の芯にまで染み込むその言葉は、まさに人が何かを学ぼうとするときに必要な、整えられるべき条件であるように思います。

 また、その気持ちと心があれば、危機に対する心構えも変わってくると思いますし、危機に際しての自分の考え方も、整ってくるのだと思います。



                               (つづく)

xuanhua at 12:30コメント(16)練拳 Diary | *#61〜#70 

コメント一覧

1. Posted by たそがれの単身赴任者   2016年02月09日 17:51
私事ですが、うちのような粉末法人においても、企業経営としてどうしても脆弱な部分があり、緊急性が非常に低い、優先順位的低いと後回しにするうち、意識外に飛んでしまうことがあります。これは武術的に相手に簡単に制せられてしまうスキであります。きのうまではオーケーであっても明日はその論理が通用しないことがあります。とても比べものにはなりませんが製品開発にしのぎを削るメーカーさんにとってはより深刻と思います。師父、玄花先生のさりげない一言で、突然心の警報装置が突如オンになって稽古翌日にその部分の措置、手当てにあわてて乗り出すことがあります。武術を志そうとするものにとって危機意識を常にはりめぐらして脆弱な部分がないように心がけること、カサの用意から自分の健康管理、自分を整えていくこと、これは戦いに臨み、ごく当たり前のことなのですね。
スープカレー、レシピをお聞きするだけでおいしそうですね。今度自宅でも腕をふるってみたいです。
また僭越な書込みご容赦ください。
 
2. Posted by マルコビッチ   2016年02月12日 01:00
初めての料理を作る時は、緊張感を持っていて、材料を吟味して、注意深く丁寧に作り、初めてなのに美味しく出来たということがあると思い出しました。
段々慣れてくると、適当な部分が出てきたりして、初めての時より美味しくないという事が多々あります。
それが危機感のなさであり、自分の隙であり、三流であるのだと思います。
進歩とは、そう言ったひとつひとつの事柄に、常に丁寧に向かい合って生まれてくるものだと、改めて思いました。
物事に誠実で丁寧に取り組んでいる時の1分と、適当にしている時の1分では、同じ事をしているように見えて、時の深さが違うと感じます。
その1分が、5分になり、10分になり、やがて1時間、1日、1年と刻まれていく事を考えると恐ろしいです。
時空の質が違ってきてしまうのではないかとさえ思えてしまいます。
そして、そう言った積み重ねが、危機意識を持った隙のない人間へと繋がっていくという事が解ります。
 
3. Posted by 太郎冠者   2016年02月13日 01:25
>日常の危機
先日、稽古後にお茶をいただいているとき、師父から興味深いお話がありました。
話のきっかけは忘れてしまったのですが、内容は(個人的には)ショッキングなもので、いかに我々日本人が、
世界の常識とはかけ離れた歴史認識を持っているか、を痛感させられました。

自分たちがそうだと思い込まされているのとは、まったく違った思惑によって世界は動いているのだ、と。
そうして出来たシステムの上で、我々は生きていることに気付かない、そうするようにされていると。

自分たちが生きている国や、制度や仕組みそのものが、本当は危ういもので出来ているのだということを少し知っただけで、
モノの見方ががらっと変わってしまうようでした。

記事の内容とはあまり関係ないコメントになってしまいましたが・・・(汗)、自分が生きている土台を知らないことには、
生き残るということも難しいのかな、という気がしました。

>スープカレー
んー、ぜひ味わってみたいです。
え、自分で作ればいいって?うーむ、何事も挑戦ですね。
 
4. Posted by とび猿   2016年02月13日 12:26
太極武藝館に入門してから、それまで手を出さなかった新しいことをやってみる機会が増えました。
面白いのは、それらを通じて何かしら自分に変化が生じ、また、新たな意識が芽生え、それまでと同じものを見ても、学んでも、やってみても、今までと多少なりとも変化を感じられるようになりました。
逆に、何かを経験しても、自分に変化を感じられない場合もあります。
この時は、自分の凝り固まった考えに執着してしまっている時であり、また、そのような状態になってしまえるのは、それこそ危機感の無さからくるものと思います。

まず自身を整えようとすることの大切さを、事ある毎に感じます。
 
5. Posted by ユーカリ   2016年02月13日 19:35
>“まあ、きっと大丈夫”“この前も大丈夫だったから”“大丈夫だと聞いた”

これらの言い訳の何と多い事だろう。と、日頃の自身の行動パターンを振り返ります。
「少し何か変?!」と疑問を持った時に、確認をするというほんの少しの行動を、怠る事が多く、自分だけでなく、周りの方にまでに及ぶ、ご迷惑・危険までを察しきれないでいます。
また、この言い訳をしている間は、どこかで、「何とかなるだろう。大丈夫。」という、とてもいい加減で傲慢な気持ちが大きく巣食っています。

家の中でも常に危険は潜んでいることをまず心得、ガチガチになるのではなく、注意深く生活してゆきたいと思いました。
 
6. Posted by まっつ   2016年02月14日 04:01
武藝館の稽古に触れると、
自分の日常が如何に甘く、部分的であるかを実感させられます。
と同時に基準となる、省みるべき軸がある事のありがたさを実感します。
自分だけでは修正しきれない甘さと向き合わねばと感じています。
遠い・・・と感じますが、続けていく事が大事なのだと思います。
その最低限の危機意識だけはあるみたいです・・・
 
7. Posted by ichi   2016年02月14日 09:55
以前、車が走行中に異音がする様になったのですが、走行には支障が無く忙しい時期だった事もあり、しばらく放置していました。
それでも気になって見てみると、ホイールを留めるボルトが緩んでおり、一歩間違えれば大惨事だった事に気づき肝を冷やすという事がありました。
危機に際しても雨であれば、降り出しそうな空模様だったり、天気予報で雨だと言っていたり、何かしら予兆があったり信号が発せられてたりする事が多いのではないかと思います。
でもそれを無視してしまえば手遅れになってからやっと危険に気づく、という事にもなりかねないので、自分自身や周囲の状況に常に気を配るという事が大事なのだとおもいました。
 
8. Posted by 円山玄花   2016年02月17日 02:06
☆さすらいのたそがれの単身赴任者さん

危機意識を持つことは私にとっても容易ではなく、失敗と反省の日々です。
お恥ずかしながら、記事に「降らずとも傘の用意・・」と書いておきながら、
雨具を忘れることもあります。
けれども、そこからどのような工夫ができるかと言う点に於いて、
少し発想が広がったように感じています。つまり、道具がなかった場合に自分に何が出来るのか、
ということですね。

もしも、危機に際して頼りになる道具がなかったら・・ということを考えるようになると、
自ずと危機意識が芽生えてくる気がします。
どのような状況であれ、生きることへの執着と渇望が人の発想を豊かにさせ、
実力をつけさせるのだと思います。
 
9. Posted by 円山玄花   2016年02月17日 02:08
☆マルコビッチさん

初回だからこそ、上手く行く。
これはよく聞くことですね。

だからこそ、日常の何気ない所作を毎回丁寧に行えるかどうかが、鍵になるのだと思います。
例えば、毎日履く靴の手入れ、靴紐のチェック。
車の部品やオイルの点検なども見過ごされやすいですね。

軍隊では、武器や装備、衣服の手入れは全て自分で行います。
それを続けることにより、日常の些細な変化も気になるようになってきます。
トラック一台、装甲車一台を始動させるときにでも、ものすごく丁寧にチェックしますが、
何か問題が起きたときに、「うっかり見落としていた」ではすみませんからね。

「隙が無い状態」とは、常にセンサーが働いている状態とも言えるかも知れません。
 
10. Posted by 円山玄花   2016年02月17日 02:10
☆太郎冠者さん

「挑戦」とは、何かの対象に挑むことではなく、自分自身への挑戦であると気がついたこの頃ですが、そう思えてもなお障壁となって現れる自身の怠惰さと勝手さに、呆れるやら悲しいやら。

人間は、一生勉強ですね。
内側に芽生えた自己成長を希求する火を絶やさずに、精進したいと思います。
 
11. Posted by 円山玄花   2016年02月17日 02:13
☆とび猿さん

自分を整えることはとても大切で、色々なことを教えてくれますね。
そして同時に、整えているヒマも無いくらいの冒険に自分の身を投じることも、
同じくらい大切なことだと、私は思っています。

ぐっしゃぐしゃのどうしようもない渾沌の中から必然的に生じるリズム・・「律」ですね。
形振り構わず必死に走らなければならない、考えてなどいられない状況で、
そこに存在する「律」に気がつけること。
それは、ただ正しいと言われることを黙々とこなしているだけでは、気がつけませんでした。

きっと今年も、新しいことをたくさんやらされる・・もとい、やることになると思いますよ。
 
12. Posted by 円山玄花   2016年02月17日 02:17
☆ユーカリさん

>疑問を持った時に、確認をするというほんの少しの行動を怠ることが多く

そうなんですよね。
たったひとつを確認することの、何と面倒で億劫なことでしょうか。
逆に考えると、そのひとつを確認するだけで大きな安心と安全が確保できるわけですね。

一度でも自分の確認不足で恐怖を味わうと、人は次からはきちんと確認するようになりますが、
何も恐怖を味わわなくとも、日常のひとつひとつを丁寧に対応していくことで、それらのことが習慣になります。
そして、些細な確認を疎かにせずにやっていくことは、実際にやってみれば、思っていたほど面倒でも億劫でもなかったことに気がつきました。
だとしたら、最初に確認するか否かの選択を迫られた時に感じた「面倒・億劫」は、
一体何だったのでしょうか。

私たちの、物の見方・考え方の問題が、そこにあるような気がします。
 
13. Posted by 円山玄花   2016年02月17日 03:20
☆まっつさん

>自分の日常が如何に甘く

自分の甘さと向き合うこと。これに尽きますね。
人間はやっぱり自分に甘くしたいものですが、反対に自分に対して最も厳しくできるのも自分自身だと思います。
大事なことは、言い訳をしないことでしょうか。
そして、物事を分けることなく、何ごとに対しても意識的に臨むことだと思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2016年02月17日 03:24
☆ichi さん

確かに、何かが起こった後から、よく考えてみれば事前に予兆があったなと思うことがありますし、人から聞いたりもします。
なぜ人がそれを見過ごしたり知らんぷりできるかと言えば、ひとえに自身の都合を優先するためだと言えると思います。
恐ろしいことですね。

常に正しい判断ができるように、日々訓練を積むしかありませんね。
 
15. Posted by タイ爺   2016年02月19日 09:56
コメントが遅くなり申し訳ありません。

ものを学ぶということはそれを再現できるように見て、聞いて、行うということの繰り返しだと思います。
まさしく
>自分にできるという保証は無い状態で「一」から考えなけ>ればならず、しかもやり直しが利かないので瞬間瞬間に>修正し続ける

この作業なくして学ぶことはできても学び取ることは大変に難しい。
陳氏太極拳図説にある「学拳須知」の教えにあることがまさしく真実を言い表していると感じました。
 
16. Posted by 円山玄花   2016年02月23日 01:39
☆タイ爺さん

>学拳須知

ここには、太極拳を学ぶために必要な「在り方」が書かれていますね。
私も何回読み直したか分かりません。
やはりあれほどの拳理を説かれる人の言葉は、重みが違います。

その中には、“この書を見て練習するだけでも、陸軍の訓練に少しは役に立つのである・・”などとも書かれていて、ものすごく納得した記憶があります。
普段の稽古でも、もしこれを自衛隊が身につけたなら・・と考えることが多々ありますが、
なかなかそのようにはできないのが歯痒いですね。
 

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