2014年05月23日
練拳Diary #57 「武術的な強さとは」
by 玄門太極后嗣・範士 円 山 玄 花
私たちは、強くなるために日々稽古に励んでいますが、一言で「強い」と言っても、求める強さの内容は人によって様々なことが挙げられると思います。
たとえば、腕っぷしの強さ、身体の強さ、頭の強さ、心の強さなどです。
とりわけ腕に覚えのある人や、武術や格闘技を学んでいる人は、「何が最強の武術であるのか」「どれが必殺技であるのか」を議論したがる傾向にあります。
確かに、武術それ自体が「他者に負けない、屈しない、制圧されない」ために生まれて、磨かれてきた事実から見れば、ごく当たり前のことではあると思います。
一般的に「強い」というと、より大きな力が出せたり、より速く動けることを指していると思います。だからこそ、どの武術のパンチが最も威力があるかを計測したり、誰が一番高く蹴ることができるかを競ったりするのでしょう。
しかし、太極拳の学習過程では「ゆっくり」であるとか、「もっと小さな力で相手に関わる」ことが徹底的に指導されるのです。
ゆっくり動いていて、しかも小さな力となれば、強いこととは全く正反対であるように思えますが、特に対人訓練の稽古では「いつまでも強い力を頼りにしているから、本当の太極拳のチカラが理解できない」と言われ、常に発想や考え方の転換が求められます。
そしてそれだけではなく、実際に自分が崩される、攻撃される、飛ばされるなどの影響を受けるとき、その関わりは非常に小さな力です。つまり50kgの荷物を動かすときには50kg以上の力が必要だという、力に対する一般的な考え方が一切通用しません。
仮に、強さを求めて修行した期間と自分の力の推移をグラフにしてみれば、練習期間に比例して力がついてくるのが普通です。ところが、太極拳では反対に、年数を経るほどに用いられる力は減少し、グラフは反比例を描きます。それが結果的に誰と戦ってもやられてしまうようであれば、稽古の理解を取り違えたと言えますが、もちろんそうではありません。
稽古で一般的に「強い」と言われていることと正反対の理論が展開されて、そして実際に自分が体験する度に、「何が最強の武術か」を考える前に、「本来の武術的な強さとはどのようなことなのか」「星の数ほどある武術の中で、太極拳という武術にはどのような特徴があると言えるのか」ということを問い直す必要があると思えてきました。
今回からは、その2点を中心に「武術的な強さ」について考察していきたいと思います。
人が考える「武術的な強さ」は、稽古では対人訓練にその考え方が最もよく表れます。
たとえば、相手と接触している状態から、とにかく相手を倒すという対練では、
(1)相手との接点に感じられる小さな抵抗を大きく増やし、
相手よりも大きな力を加えることが出来れば相手を動かせる、という考え方。
(2)相手との接点から繰り出される力をノラリクラリと躱しつつ、機を見て相手の
耐えられないところに動けば、比較的小さな力で相手を倒せる、という考え方。
主に、この二つの考え方が顕著に現れます。
太極武藝館に入門してくる格闘技経験のある人たちは、ほぼこの二つの考え方を持っていて、その中で自分なりに工夫をして技を磨いてきたと言います。
けれども(1)の考え方では相手よりも大きな力が必要になり、その為に筋力を増やして身体を鍛える必要があります。
どのような武術でも身体を鍛えることは必要ですが、スポーツ界や格闘技界でも「引退」という二文字が見られるように、筋力を増やしてそれを維持するには限界があります。
限界があるようなもの、そして限られた年齢でしかその力を維持できないものは、それ自体が非武術的であると私は思います。
戦乱の世に於いて、筋骨逞しい若者だけで一家を守り抜けたとは到底思えません。
女性、子ども、老人であっても、少なくとも戦いの心構えや考え方を共有して常日頃から備えている必要があり、その考え方の基本が「筋力」にあるとしたら、戦力としてはやはり無理があります。
確かに、重く大きな荷物を持って山間部を長距離移動するときなど、それなりに体力も筋力も必要になりますが、どちらかというと、重い物を持ち上げたり支えられる力よりも、重い物を持っていても動けるという力が必要とされます。つまり、瞬間的に筋肉をワッと膨らませて入力するのではなくて、身体に負荷が掛かっていても不便なく、尚かつ長時間動くことが出来る状態です。
重い物を持ち上げたり動かしたりするためではなく、どのような状況でも自分を動かすことが出来る為に筋トレを行い、身体を鍛えているのが軍隊でのトレーニングです。
私はかつて師父から、「本当の武術性というものは、軍隊に入らなければ理解することはできない」と言われました。
戦闘のエキスパートである彼らは、戦いとは何であるかをよく知っていて、特に筋力やパンチ力、フェイントなどを部分的に強化しても何の役にも立たないと言います。
彼らが考える戦いとは、強く素早いパンチを相手に入れることではなく、どうすれば生きて無事に帰れるか、ということです。敵との「殴り合い」が成立するようでは、生き残れる可能性は50%に激減します。確実に生きて帰るためには磨き抜かれた「戦闘力」こそが必要なのであり、「筋力」などは戦闘力の中のほんの一要素に過ぎません。
私が太極武藝館で20年間学び、様々な訓練を経た上で考える「戦闘力」とは、まず第一に「身体が動く」ということです。
筋力や瞬発力はさて措き、まず自分の身体が十全に、過不足なく動くことと、同時に自分の身体はどのように動くものであるのかを知ることです。
自分の身体を動かせるだけの、最低限の体力は必要になりますが、柔軟性はそれほど必要ではなく、身体が動く際に妨げとなるような固さでなければ良いと思います。
太極拳で言えば、套路が不自由なく動ける身体の状態でしょうか。
サラリと述べてしまいましたが、太極拳の套路を「不自由なく動くこと」の難しさと言ったらありません。運動の理屈は極めてシンプルであるにもかかわらず、簡単には動けないのです。足を一歩前に出す、身体の向きを変える、という単純なことを取り出してみても、何ひとつとして日常的には動くことができません。
だからこそ太極拳には「套路」という練習方法が存在し、それを丁寧に練っていくことで武術的な、非日常的な身体が確実に手に入るのだと思います。
もしも初学の内から速く動く動作で練習を重ねたならば、と考えると、それは日常的な運動の延長にしかならないことが容易に想像できます。
最初に挙げた、対人訓練で相手よりも強い力でそれを制しようとする方法では、実際には身体の動きは止まってしまっています。大きな力をある対象や方向に向かって出すためには自分の身体を固定する必要があるからです。当然、そこに向かって力を出すこと以外には、身体を動かすことは出来ません。
これも、戦闘の考え方の基本を「筋力」には出来ない理由です。
たとえば、私たちが行う訓練の一つに「腰相撲」というものがあります。
弓歩や馬歩などの架式を取ってパートナーに腰を押してもらい、それを弾き返すという、動画でもお馴染みの訓練方法ですが、中級者以上になると押されている状態のままで自分の身体を動かすことが出来ます。
上級者になると、馬歩で前から押されている状態でもその場で足踏みをすることができ、そのまま相手を弾き返すことが可能になります。
これは、押された力に対して、耐えるために身体を力みで使っていないということを確認する、最も簡単な方法であると言えます。
それでは、(2)として挙げた「相手の力を躱しつつ、機を見て攻撃する」というものはどうでしょうか。
接触している状態で相手からの攻撃が来たとなると、まず躱したくなるのが普通ですが、それは武術的に見ると大変危険な状態であると言えます。
なぜなら、相手からの一撃は凌げたにしても、相手はまだ生きているのです。
相手が攻撃してきていて、自分が躱しているだけならば、こちらは劣勢です。そしてその状態が繰り返される中で反撃のチャンスを窺うわけですが、それでは確実に相手を仕留め、自分が生き残るということは難しくなります。
相手が攻撃してきたときには、自分はすでにそれを制することが出来ている。
あるいは、相手が既にこちらを攻撃することができない状態であること。
そうなって初めて「武術」と呼べるのではないでしょうか。
(つづく)
私たちは、強くなるために日々稽古に励んでいますが、一言で「強い」と言っても、求める強さの内容は人によって様々なことが挙げられると思います。
たとえば、腕っぷしの強さ、身体の強さ、頭の強さ、心の強さなどです。
とりわけ腕に覚えのある人や、武術や格闘技を学んでいる人は、「何が最強の武術であるのか」「どれが必殺技であるのか」を議論したがる傾向にあります。
確かに、武術それ自体が「他者に負けない、屈しない、制圧されない」ために生まれて、磨かれてきた事実から見れば、ごく当たり前のことではあると思います。
一般的に「強い」というと、より大きな力が出せたり、より速く動けることを指していると思います。だからこそ、どの武術のパンチが最も威力があるかを計測したり、誰が一番高く蹴ることができるかを競ったりするのでしょう。
しかし、太極拳の学習過程では「ゆっくり」であるとか、「もっと小さな力で相手に関わる」ことが徹底的に指導されるのです。
ゆっくり動いていて、しかも小さな力となれば、強いこととは全く正反対であるように思えますが、特に対人訓練の稽古では「いつまでも強い力を頼りにしているから、本当の太極拳のチカラが理解できない」と言われ、常に発想や考え方の転換が求められます。
そしてそれだけではなく、実際に自分が崩される、攻撃される、飛ばされるなどの影響を受けるとき、その関わりは非常に小さな力です。つまり50kgの荷物を動かすときには50kg以上の力が必要だという、力に対する一般的な考え方が一切通用しません。
仮に、強さを求めて修行した期間と自分の力の推移をグラフにしてみれば、練習期間に比例して力がついてくるのが普通です。ところが、太極拳では反対に、年数を経るほどに用いられる力は減少し、グラフは反比例を描きます。それが結果的に誰と戦ってもやられてしまうようであれば、稽古の理解を取り違えたと言えますが、もちろんそうではありません。
稽古で一般的に「強い」と言われていることと正反対の理論が展開されて、そして実際に自分が体験する度に、「何が最強の武術か」を考える前に、「本来の武術的な強さとはどのようなことなのか」「星の数ほどある武術の中で、太極拳という武術にはどのような特徴があると言えるのか」ということを問い直す必要があると思えてきました。
今回からは、その2点を中心に「武術的な強さ」について考察していきたいと思います。
人が考える「武術的な強さ」は、稽古では対人訓練にその考え方が最もよく表れます。
たとえば、相手と接触している状態から、とにかく相手を倒すという対練では、
(1)相手との接点に感じられる小さな抵抗を大きく増やし、
相手よりも大きな力を加えることが出来れば相手を動かせる、という考え方。
(2)相手との接点から繰り出される力をノラリクラリと躱しつつ、機を見て相手の
耐えられないところに動けば、比較的小さな力で相手を倒せる、という考え方。
主に、この二つの考え方が顕著に現れます。
太極武藝館に入門してくる格闘技経験のある人たちは、ほぼこの二つの考え方を持っていて、その中で自分なりに工夫をして技を磨いてきたと言います。
けれども(1)の考え方では相手よりも大きな力が必要になり、その為に筋力を増やして身体を鍛える必要があります。
どのような武術でも身体を鍛えることは必要ですが、スポーツ界や格闘技界でも「引退」という二文字が見られるように、筋力を増やしてそれを維持するには限界があります。
限界があるようなもの、そして限られた年齢でしかその力を維持できないものは、それ自体が非武術的であると私は思います。
戦乱の世に於いて、筋骨逞しい若者だけで一家を守り抜けたとは到底思えません。
女性、子ども、老人であっても、少なくとも戦いの心構えや考え方を共有して常日頃から備えている必要があり、その考え方の基本が「筋力」にあるとしたら、戦力としてはやはり無理があります。
確かに、重く大きな荷物を持って山間部を長距離移動するときなど、それなりに体力も筋力も必要になりますが、どちらかというと、重い物を持ち上げたり支えられる力よりも、重い物を持っていても動けるという力が必要とされます。つまり、瞬間的に筋肉をワッと膨らませて入力するのではなくて、身体に負荷が掛かっていても不便なく、尚かつ長時間動くことが出来る状態です。
重い物を持ち上げたり動かしたりするためではなく、どのような状況でも自分を動かすことが出来る為に筋トレを行い、身体を鍛えているのが軍隊でのトレーニングです。
私はかつて師父から、「本当の武術性というものは、軍隊に入らなければ理解することはできない」と言われました。
戦闘のエキスパートである彼らは、戦いとは何であるかをよく知っていて、特に筋力やパンチ力、フェイントなどを部分的に強化しても何の役にも立たないと言います。
彼らが考える戦いとは、強く素早いパンチを相手に入れることではなく、どうすれば生きて無事に帰れるか、ということです。敵との「殴り合い」が成立するようでは、生き残れる可能性は50%に激減します。確実に生きて帰るためには磨き抜かれた「戦闘力」こそが必要なのであり、「筋力」などは戦闘力の中のほんの一要素に過ぎません。
私が太極武藝館で20年間学び、様々な訓練を経た上で考える「戦闘力」とは、まず第一に「身体が動く」ということです。
筋力や瞬発力はさて措き、まず自分の身体が十全に、過不足なく動くことと、同時に自分の身体はどのように動くものであるのかを知ることです。
自分の身体を動かせるだけの、最低限の体力は必要になりますが、柔軟性はそれほど必要ではなく、身体が動く際に妨げとなるような固さでなければ良いと思います。
太極拳で言えば、套路が不自由なく動ける身体の状態でしょうか。
サラリと述べてしまいましたが、太極拳の套路を「不自由なく動くこと」の難しさと言ったらありません。運動の理屈は極めてシンプルであるにもかかわらず、簡単には動けないのです。足を一歩前に出す、身体の向きを変える、という単純なことを取り出してみても、何ひとつとして日常的には動くことができません。
だからこそ太極拳には「套路」という練習方法が存在し、それを丁寧に練っていくことで武術的な、非日常的な身体が確実に手に入るのだと思います。
もしも初学の内から速く動く動作で練習を重ねたならば、と考えると、それは日常的な運動の延長にしかならないことが容易に想像できます。
最初に挙げた、対人訓練で相手よりも強い力でそれを制しようとする方法では、実際には身体の動きは止まってしまっています。大きな力をある対象や方向に向かって出すためには自分の身体を固定する必要があるからです。当然、そこに向かって力を出すこと以外には、身体を動かすことは出来ません。
これも、戦闘の考え方の基本を「筋力」には出来ない理由です。
たとえば、私たちが行う訓練の一つに「腰相撲」というものがあります。
弓歩や馬歩などの架式を取ってパートナーに腰を押してもらい、それを弾き返すという、動画でもお馴染みの訓練方法ですが、中級者以上になると押されている状態のままで自分の身体を動かすことが出来ます。
上級者になると、馬歩で前から押されている状態でもその場で足踏みをすることができ、そのまま相手を弾き返すことが可能になります。
これは、押された力に対して、耐えるために身体を力みで使っていないということを確認する、最も簡単な方法であると言えます。
それでは、(2)として挙げた「相手の力を躱しつつ、機を見て攻撃する」というものはどうでしょうか。
接触している状態で相手からの攻撃が来たとなると、まず躱したくなるのが普通ですが、それは武術的に見ると大変危険な状態であると言えます。
なぜなら、相手からの一撃は凌げたにしても、相手はまだ生きているのです。
相手が攻撃してきていて、自分が躱しているだけならば、こちらは劣勢です。そしてその状態が繰り返される中で反撃のチャンスを窺うわけですが、それでは確実に相手を仕留め、自分が生き残るということは難しくなります。
相手が攻撃してきたときには、自分はすでにそれを制することが出来ている。
あるいは、相手が既にこちらを攻撃することができない状態であること。
そうなって初めて「武術」と呼べるのではないでしょうか。
(つづく)
コメント一覧
1. Posted by まっつ 2014年05月26日 21:49
こと強さに関して、特に制約を設けなければ、
現時点での世界最強の存在はアメリカ合衆国なのだと思います。
強さを議論する場合、考えられる前提条件は多数あります。
格闘試合あり、ストリートファイトあり、
命を掛けた果し合いや、武装を前提とした戦争まで様々です。
太極武藝館の教えでは、
武術の求める強さとは「生き残る力」であると喝破されます。
ダーウィンは、
「強い者、頭の良い者が生き残るのではない。変化するものが生き残るのだ」
と洞察しました。
太極拳は最強ではないかもしれませんが、
変化の教えが貫かれた武術であると感じています。
現時点での世界最強の存在はアメリカ合衆国なのだと思います。
強さを議論する場合、考えられる前提条件は多数あります。
格闘試合あり、ストリートファイトあり、
命を掛けた果し合いや、武装を前提とした戦争まで様々です。
太極武藝館の教えでは、
武術の求める強さとは「生き残る力」であると喝破されます。
ダーウィンは、
「強い者、頭の良い者が生き残るのではない。変化するものが生き残るのだ」
と洞察しました。
太極拳は最強ではないかもしれませんが、
変化の教えが貫かれた武術であると感じています。
2. Posted by 太郎冠者 2014年05月27日 01:33
武術の強さを破壊力や筋力で考えることは、たとえば銃火器でいえば、
銃弾の威力で比較するといったところでしょうか。
一面的に限定されたものの見方で、それのみによって武術の
有用性を判断するのは、えらく無意味に思います。
太極拳の構造について学んでいると、たとえば他の流派の武術についても、
それがどのような状況を想定し、理合を作り上げているのかが、
比較検討して見えてくるように感じます。
同様に、訓練体系に関しても、何を想定していて何を練りたいのかが明確になれば、
たとえば腰相撲で派手に相手が飛んでいくというような、
見ためのすごさに惑わされることなく、
それによって何が得られるのか、よりはっきりとしてきますね。
銃弾の威力で比較するといったところでしょうか。
一面的に限定されたものの見方で、それのみによって武術の
有用性を判断するのは、えらく無意味に思います。
太極拳の構造について学んでいると、たとえば他の流派の武術についても、
それがどのような状況を想定し、理合を作り上げているのかが、
比較検討して見えてくるように感じます。
同様に、訓練体系に関しても、何を想定していて何を練りたいのかが明確になれば、
たとえば腰相撲で派手に相手が飛んでいくというような、
見ためのすごさに惑わされることなく、
それによって何が得られるのか、よりはっきりとしてきますね。
3. Posted by マルコビッチ 2014年05月27日 01:37
師父と対練させて頂くと、組んだ瞬間に、あまりの軽さ、弱さに「うわっ!」と驚きます。
特にその前に、いわゆる「力」が強い人と組んだ後だと余計に驚きます。
腕力で何とかしようとする人は、必ずと言っていいほど身体が動いていず(太極武藝館では腕力で何とかしようとする人はいませんが・・・)、反対に、身体が動いている人ほど力感は感じられません。
後者の方が吹っ飛ばされるのは、実に不思議なことです。
そして、ここでは考え方や生き方など精神性をも問われ、常に自分を律していかなければならないので、自ずと心の強さも養われていくのだと思います。
瞬時に正しい判断が出来る冷静さと、動ける身体がほしいです。
特にその前に、いわゆる「力」が強い人と組んだ後だと余計に驚きます。
腕力で何とかしようとする人は、必ずと言っていいほど身体が動いていず(太極武藝館では腕力で何とかしようとする人はいませんが・・・)、反対に、身体が動いている人ほど力感は感じられません。
後者の方が吹っ飛ばされるのは、実に不思議なことです。
そして、ここでは考え方や生き方など精神性をも問われ、常に自分を律していかなければならないので、自ずと心の強さも養われていくのだと思います。
瞬時に正しい判断が出来る冷静さと、動ける身体がほしいです。
4. Posted by タイ爺 2014年05月27日 10:04
何をもって強いと定義するかは難しいところです。
かの宮本武蔵も関が原の合戦であっさり怪我をしたという話もあります。
以前に元米軍の方からベトナム戦争の話を聞いたことがありますが、米軍は筋骨隆々で最新兵器を屈指し食事も計算されて最適なカロリーと栄養を摂取。方や一日おにぎり数個で銃も旧式なべトナム兵。兵力、火力共に圧倒的と思っていたそうです。
それが戦闘が始まるやベトコンは竹に括り付けた爆弾をロケット花火みたいに飛ばし応戦。それが米軍のロケットランチャーより正確に命中させてくる。ジャングルの中では筋肉太りになった自重が邪魔をし動きが鈍る。「悪夢だった」と言っておりました。
力と力じゃ強いほうが勝ち。でもベトナム兵はそれをさせず機動力と技術で戦った。
確かに強大な攻撃力はアドバンテージを持つことになるけれどそれは戦いのほんの一部にしかならないということですね。
かの宮本武蔵も関が原の合戦であっさり怪我をしたという話もあります。
以前に元米軍の方からベトナム戦争の話を聞いたことがありますが、米軍は筋骨隆々で最新兵器を屈指し食事も計算されて最適なカロリーと栄養を摂取。方や一日おにぎり数個で銃も旧式なべトナム兵。兵力、火力共に圧倒的と思っていたそうです。
それが戦闘が始まるやベトコンは竹に括り付けた爆弾をロケット花火みたいに飛ばし応戦。それが米軍のロケットランチャーより正確に命中させてくる。ジャングルの中では筋肉太りになった自重が邪魔をし動きが鈍る。「悪夢だった」と言っておりました。
力と力じゃ強いほうが勝ち。でもベトナム兵はそれをさせず機動力と技術で戦った。
確かに強大な攻撃力はアドバンテージを持つことになるけれどそれは戦いのほんの一部にしかならないということですね。
5. Posted by MIB(▼_▼¬ 2014年05月28日 02:10
トルコを旅行していた時、雪道を一緒に歩いているおじさんが急に拳銃を抜いたことがあったのですが(僕を撃とうとしたのでは全然なかったのですが)、筋力や少々のスピード、格闘技の経験なんぞクソの役にも立たんということが瞬時に理解されました。と同時に、逃げる方法も助けてくれる人も無いけどどうすりゃいいのかワカランということも分かりました。
まず大事なことは、そもそもどういう状況になったらマシになったと言えるのか分かることである、と今にして思います。「強さ」「優位」とは何か考えるところから武術が始まるのだなあ、と。
まず大事なことは、そもそもどういう状況になったらマシになったと言えるのか分かることである、と今にして思います。「強さ」「優位」とは何か考えるところから武術が始まるのだなあ、と。
6. Posted by tetsu 2014年05月28日 15:35
お久しぶりのコメントです(^_^;)。
「武術的な強さ」とは自分にとってもテーマです。
そして、このブログの内容を読んで、将にこの間稽古をつけていただいた時に指摘されたこと、自分自身で思うようにいかなかったことが「このまま書かれている!」と感じた次第です。
特に自分は稽古に参加できる回数も少なく、その上、他武道を長くやってきた結果が対練に如実に現れます。それだけ、自分の意識や身体に染みついたものにどこかしがみついているのかもしれません。
しかし、師父や玄花後嗣にちょっと直されたり、指で2か所くらい押されただけで、相手が崩れてていくという指導を受けると、太極拳の奥深さ、本物の武術の身体の使い方の妙というものをその場で実感できます。
武藝館でははっきりと「何を持って武術であるか?」「実戦とは何か?」ということを毎回実感できる稽古ができます。
今回のブログの内容はこの間の稽古のワンシーン、ワンシーンが映像で出てくるようですね。大変勉強になります。
また是非稽古に参加させていただき、「本物の武術」を心と身体で学習させていただきたいと思います。
「武術的な強さ」とは自分にとってもテーマです。
そして、このブログの内容を読んで、将にこの間稽古をつけていただいた時に指摘されたこと、自分自身で思うようにいかなかったことが「このまま書かれている!」と感じた次第です。
特に自分は稽古に参加できる回数も少なく、その上、他武道を長くやってきた結果が対練に如実に現れます。それだけ、自分の意識や身体に染みついたものにどこかしがみついているのかもしれません。
しかし、師父や玄花後嗣にちょっと直されたり、指で2か所くらい押されただけで、相手が崩れてていくという指導を受けると、太極拳の奥深さ、本物の武術の身体の使い方の妙というものをその場で実感できます。
武藝館でははっきりと「何を持って武術であるか?」「実戦とは何か?」ということを毎回実感できる稽古ができます。
今回のブログの内容はこの間の稽古のワンシーン、ワンシーンが映像で出てくるようですね。大変勉強になります。
また是非稽古に参加させていただき、「本物の武術」を心と身体で学習させていただきたいと思います。
7. Posted by 円山玄花 2014年05月29日 19:13
☆まっつさん
>変化するものが生き残る・・
自然界を観てもスーパーの陳列棚を観ても、確かに変化するものが生き残ると思えますし、
伝統芸能の世界でも「伝統は革新である」と断言している方もいらっしゃいますね。
一粒の種が大樹に育つ様子はまさに変化の連続なのですが、さて自分を顧みれば、
変化することがずいぶん難しく感じられるようになっています。
アタマがカタくなったとも言うのでしょうか。
これまでに得られた知識や実力、考え方などを手放して、変化の土壌に身を委ねられること。
そして本当の変容が自分の内側から起こることを見守ってみることが大切だと思います。
>変化するものが生き残る・・
自然界を観てもスーパーの陳列棚を観ても、確かに変化するものが生き残ると思えますし、
伝統芸能の世界でも「伝統は革新である」と断言している方もいらっしゃいますね。
一粒の種が大樹に育つ様子はまさに変化の連続なのですが、さて自分を顧みれば、
変化することがずいぶん難しく感じられるようになっています。
アタマがカタくなったとも言うのでしょうか。
これまでに得られた知識や実力、考え方などを手放して、変化の土壌に身を委ねられること。
そして本当の変容が自分の内側から起こることを見守ってみることが大切だと思います。
8. Posted by 円山玄花 2014年05月29日 19:58
☆太郎冠者さん
>訓練体系に関しても、何を練りたいのかが明確になれば・・
そこですよね。
太極拳を稽古している世界中の人々の中で、一体どれ程の人が「何を練っているのか」を
明確に理解しているのか、とても疑問に思います。
かく言う私も、それが分かってきたのは基本功の意味が少し見えてきた頃からなのですが、
人がちょっと吹っ飛んだくらいで喜んでいたり、ましてや自分に理解できないからといって、
インチキ扱いしているうちは、やっぱり本当のことは分からないのです。
一般的に「強い・速い」と言われていることが、太極拳では逆さまになってしまう理由も、
稽古で練っていることの内容や目的の違いにあるような気がします。
今回からは、そのあたりに焦点を当てて、武術的な強さについて考察していきたいと思います。
>訓練体系に関しても、何を練りたいのかが明確になれば・・
そこですよね。
太極拳を稽古している世界中の人々の中で、一体どれ程の人が「何を練っているのか」を
明確に理解しているのか、とても疑問に思います。
かく言う私も、それが分かってきたのは基本功の意味が少し見えてきた頃からなのですが、
人がちょっと吹っ飛んだくらいで喜んでいたり、ましてや自分に理解できないからといって、
インチキ扱いしているうちは、やっぱり本当のことは分からないのです。
一般的に「強い・速い」と言われていることが、太極拳では逆さまになってしまう理由も、
稽古で練っていることの内容や目的の違いにあるような気がします。
今回からは、そのあたりに焦点を当てて、武術的な強さについて考察していきたいと思います。
9. Posted by 円山玄花 2014年05月29日 20:18
☆マルコビッチさん
>組んだ瞬間に、あまりの軽さ、弱さに「うわっ!」っと驚きます。
そうそう、そうなんですよね。
まるでこちらが倒せそうな気までしてしまう(^^;;)・・本当に気のせいなのですけどね。
>腕力で何とかしようとする人は、必ずと言っていいほど身体が動いていず、
はい、確かにそうですね。
腕力が発揮される条件は、足の固定と入力にあると思います。
>反対に、身体が動いている人ほど力感は感じられません。
そう、まさにそうなんですよ。
こちらの力感まで消されてしまうような感じですね。
>後者の方が吹っ飛ばされるのは、実に不思議なことです。
・・えっ!?(OωO;)
>組んだ瞬間に、あまりの軽さ、弱さに「うわっ!」っと驚きます。
そうそう、そうなんですよね。
まるでこちらが倒せそうな気までしてしまう(^^;;)・・本当に気のせいなのですけどね。
>腕力で何とかしようとする人は、必ずと言っていいほど身体が動いていず、
はい、確かにそうですね。
腕力が発揮される条件は、足の固定と入力にあると思います。
>反対に、身体が動いている人ほど力感は感じられません。
そう、まさにそうなんですよ。
こちらの力感まで消されてしまうような感じですね。
>後者の方が吹っ飛ばされるのは、実に不思議なことです。
・・えっ!?(OωO;)
10. Posted by 円山玄花 2014年05月29日 21:04
☆タイ爺さん
ベトナム戦争のお話を、ありがとうございました。
戦争自体がどうという話ではなく、このように力の大小がそのまま勝敗に繋がるのではないという
お話が、とても好きですね。自分と同じ人間が考えて工夫する、その過程に情熱を覚えるのだと思います。
仮に、「強い人=戦える人」とした場合、その人はいつ何が起こっても瞬時に対応できる状態だと言えます。とっさの時にナイフや銃がなくても、その場にあるもので最大の工夫が出来るわけですね。
それは日常生活でも、たとえば傘の用意がないときに雨が降ってきたとか、乗って帰るはずの電車が突然動かなくなったなどの緊急事態でも同様の工夫が可能になります。
私などはそのような状況をリアルに見てきていますので、その発想の豊かさと自分の発想との違いに、いつも唖然とします。「これでは自分はまだまだ生き残れない」と何度も思い知らされます。
だからこそ、日常生活と武術の訓練を分けていたり、家と道場を分けて生活している“武術家希望”の人たちを見ると、不思議でならないのです。それで本当に武術性を身につけたいのかしら、と思うのです。
そのようなこともあって、今回の記事を書き始めました。
今後とも、よろしくお願いします。
ベトナム戦争のお話を、ありがとうございました。
戦争自体がどうという話ではなく、このように力の大小がそのまま勝敗に繋がるのではないという
お話が、とても好きですね。自分と同じ人間が考えて工夫する、その過程に情熱を覚えるのだと思います。
仮に、「強い人=戦える人」とした場合、その人はいつ何が起こっても瞬時に対応できる状態だと言えます。とっさの時にナイフや銃がなくても、その場にあるもので最大の工夫が出来るわけですね。
それは日常生活でも、たとえば傘の用意がないときに雨が降ってきたとか、乗って帰るはずの電車が突然動かなくなったなどの緊急事態でも同様の工夫が可能になります。
私などはそのような状況をリアルに見てきていますので、その発想の豊かさと自分の発想との違いに、いつも唖然とします。「これでは自分はまだまだ生き残れない」と何度も思い知らされます。
だからこそ、日常生活と武術の訓練を分けていたり、家と道場を分けて生活している“武術家希望”の人たちを見ると、不思議でならないのです。それで本当に武術性を身につけたいのかしら、と思うのです。
そのようなこともあって、今回の記事を書き始めました。
今後とも、よろしくお願いします。
11. Posted by 円山玄花 2014年05月29日 21:15
☆MIB(▼_▼¬さん
たとえ自分が手にしたわけではなくとも、至近距離で本物の武器を感じる機会というのは、とても貴重ですね。しかも外国で他人の拳銃となると・・自分に向けられなくて良かったですね(^^;)
そのおじさんが銃を抜いた理由が気になります。
>「強さ」「優位」とは何か考えるところから武術が始まるのだなあ、と。
人間は、思いの外既存の情報に基づいて考えている、と思います。
それも、漠然と思い描いていることが多く、自分の実感をもとに認識している人は、
少ないのではないでしょうか。
私もこれから「武術的な強さ」について考えていくつもりです。
たとえ自分が手にしたわけではなくとも、至近距離で本物の武器を感じる機会というのは、とても貴重ですね。しかも外国で他人の拳銃となると・・自分に向けられなくて良かったですね(^^;)
そのおじさんが銃を抜いた理由が気になります。
>「強さ」「優位」とは何か考えるところから武術が始まるのだなあ、と。
人間は、思いの外既存の情報に基づいて考えている、と思います。
それも、漠然と思い描いていることが多く、自分の実感をもとに認識している人は、
少ないのではないでしょうか。
私もこれから「武術的な強さ」について考えていくつもりです。
12. Posted by とび猿 2014年05月29日 21:16
武藝館で稽古をしていて感じたことは、質の違いという事でした。
入門してしばらく経った頃、初めて散手をした時のことですが、門人同士の散手だと、
動きの質やタイミングが同じで、出した腕や拳同士がよくぶつかりました。
しかし、師父との散手は、まるで異質で、ぶつかるようなことは、その要素すら全くなく、
とても奇妙な感覚でした。
あの初めて感じた不思議な感覚は、今でもはっきりと覚えています。
入門してしばらく経った頃、初めて散手をした時のことですが、門人同士の散手だと、
動きの質やタイミングが同じで、出した腕や拳同士がよくぶつかりました。
しかし、師父との散手は、まるで異質で、ぶつかるようなことは、その要素すら全くなく、
とても奇妙な感覚でした。
あの初めて感じた不思議な感覚は、今でもはっきりと覚えています。
13. Posted by 円山玄花 2014年05月29日 21:58
☆ tetsu さん
お久しぶりです!
コメントをありがとうございます。
ほんの少しの修正を受けただけで、それまでピクリとも動かなかった相手が大きく崩れることは、
門人の誰もが経験していることだと思います。
つまり、それが出来るようになるために、時間は必要ないということですね。
必要なことは、正しい理解とそれを観て取る力だと言えるでしょうか。
その修得までの過程において、稽古の対象ではなくて自分の在り方が問われ、自分の在り方の中に
真の武術性を見出せるのだと思います。
「本物の武術」は、戦闘法すらほんの一部分でしかないといわれるところを、書いて行けたらと思います。
今後とも、よろしくお願いします。
お久しぶりです!
コメントをありがとうございます。
ほんの少しの修正を受けただけで、それまでピクリとも動かなかった相手が大きく崩れることは、
門人の誰もが経験していることだと思います。
つまり、それが出来るようになるために、時間は必要ないということですね。
必要なことは、正しい理解とそれを観て取る力だと言えるでしょうか。
その修得までの過程において、稽古の対象ではなくて自分の在り方が問われ、自分の在り方の中に
真の武術性を見出せるのだと思います。
「本物の武術」は、戦闘法すらほんの一部分でしかないといわれるところを、書いて行けたらと思います。
今後とも、よろしくお願いします。
14. Posted by 円山玄花 2014年05月29日 22:14
☆とび猿さん
>門人同士の散手だと、動きの質やタイミングが同じで、出した腕や拳同士がよくぶつかりました
確かに、そのような光景はよく見られますね。
でも、本当に「動きの質やタイミングが同じ」でそうなっているのでしょうか?
違う角度からも観察してみると、新しい発見があるかも知れません。
何であれ、この世の全ての探求は、小さな疑問と大きな興味から始まっていると言えます。
自分が知らない感覚、自分に理解できない現象、それを絶対に手に入れたいという欲求。
感動を実際に形にする知恵が、太極拳にはあると思います。
そしてその鍵は、紛れもなく自分自身にあるのだと思います。
>門人同士の散手だと、動きの質やタイミングが同じで、出した腕や拳同士がよくぶつかりました
確かに、そのような光景はよく見られますね。
でも、本当に「動きの質やタイミングが同じ」でそうなっているのでしょうか?
違う角度からも観察してみると、新しい発見があるかも知れません。
何であれ、この世の全ての探求は、小さな疑問と大きな興味から始まっていると言えます。
自分が知らない感覚、自分に理解できない現象、それを絶対に手に入れたいという欲求。
感動を実際に形にする知恵が、太極拳にはあると思います。
そしてその鍵は、紛れもなく自分自身にあるのだと思います。
15. Posted by bamboo 2014年06月01日 23:07
匪賊やその他の敵対するもの・あるいは自分や人の弱さから、大切な何かを守り抜いてきた貧しい集落や小さな国・武人が執ってきた生き様は、その命運を懸けた貴重な経験だということを改めて振り返ります…。
孫子・五輪書・ドラッカー(武術ではありませんが)など、たしかに「武術的」「戦略的」な物事の観方・考え方を意識させざるを得ない書かれ方で、その学びが大きくも細やかな…丁寧な者ほど、時間の許される状況ではある程度生き残りやすいのかな…自分の経営や周りを見ているとそう実感します。しかしそれはあくまで「時間の許される状況」だけであって、武術では通用しない。いや本当は人生でも経営でも同じことで、だからこそ「いまを生きる、生き残る」そういう在り方が学ぶ者の前提条件になるはずなんですね…。
相手より早く深く相手を知り、自分を知り、目的を達する術を知り、いつでもそれを実行できる(あるいはすでにそうしている)…自分がそれを武藝館で学ぼうとしていることには誇りを感じるとともに、門を汚さぬ、むしろ誉れとなれる存在になりたいと、だんだん強く想い始めております…(遅っ)
このシリーズ、楽しみにしております。…必ず身につけます。
孫子・五輪書・ドラッカー(武術ではありませんが)など、たしかに「武術的」「戦略的」な物事の観方・考え方を意識させざるを得ない書かれ方で、その学びが大きくも細やかな…丁寧な者ほど、時間の許される状況ではある程度生き残りやすいのかな…自分の経営や周りを見ているとそう実感します。しかしそれはあくまで「時間の許される状況」だけであって、武術では通用しない。いや本当は人生でも経営でも同じことで、だからこそ「いまを生きる、生き残る」そういう在り方が学ぶ者の前提条件になるはずなんですね…。
相手より早く深く相手を知り、自分を知り、目的を達する術を知り、いつでもそれを実行できる(あるいはすでにそうしている)…自分がそれを武藝館で学ぼうとしていることには誇りを感じるとともに、門を汚さぬ、むしろ誉れとなれる存在になりたいと、だんだん強く想い始めております…(遅っ)
このシリーズ、楽しみにしております。…必ず身につけます。
16. Posted by ユーカリ 2014年06月03日 00:00
私はまだまだ、道場とそれ以外を分けて生活している事への認識が足りませんでした。
家庭生活において、特に子育てに関して、どうにもぎくしゃくして動きが不自由だと感じる日々。
<人が考える「武術的な強さ」(1)(2)>を日常生活において、相手や場面に応じて、使い分けて、その場を切り抜けようとしていた為の結果だったのだと合点がいきました。
こうであろうと予測してかかる事は、相手を解ろうとしている行為ではなく、相手を感じようとしていない状態だと、また、自分の動きを自分で制限することは、どう動けるかを探れなくなることだと、気づきました。
家庭生活において、特に子育てに関して、どうにもぎくしゃくして動きが不自由だと感じる日々。
<人が考える「武術的な強さ」(1)(2)>を日常生活において、相手や場面に応じて、使い分けて、その場を切り抜けようとしていた為の結果だったのだと合点がいきました。
こうであろうと予測してかかる事は、相手を解ろうとしている行為ではなく、相手を感じようとしていない状態だと、また、自分の動きを自分で制限することは、どう動けるかを探れなくなることだと、気づきました。
17. Posted by ハイネケン 2014年06月06日 23:16
ご無沙汰しております。
暴力を含め、命の危険を感じずに過ごして来ました。
実は、日常生活の中に山ほどの危険が内在している事を気付かなかっただけな気がします。
本部での初めての対人稽古のとき、『強い』などと思う前に『あっ、死ぬんだ』と思いました。
マンガで言う『殺気』とは、取り手が放つものでなく、受け手のアンテナが働いた結果なのだと思いました。
他者を上回る力を振りかざすのではなく、生き残るために必要な事を身につけたいですね。
暴力を含め、命の危険を感じずに過ごして来ました。
実は、日常生活の中に山ほどの危険が内在している事を気付かなかっただけな気がします。
本部での初めての対人稽古のとき、『強い』などと思う前に『あっ、死ぬんだ』と思いました。
マンガで言う『殺気』とは、取り手が放つものでなく、受け手のアンテナが働いた結果なのだと思いました。
他者を上回る力を振りかざすのではなく、生き残るために必要な事を身につけたいですね。
18. Posted by 円山玄花 2014年06月10日 17:20
☆bambooさん
そうですね。私も、武術でも人生でも同じことなのだと思います。
全てはひとつの法則の下に動いているのだと思えます。
その法則を見抜き、自分がその法則と共に生きる道が、太極拳には示されていると感じられます。
そうですね。私も、武術でも人生でも同じことなのだと思います。
全てはひとつの法則の下に動いているのだと思えます。
その法則を見抜き、自分がその法則と共に生きる道が、太極拳には示されていると感じられます。
19. Posted by 円山玄花 2014年06月10日 17:24
☆ユーカリさん
私も今までは「予測すること」が、ある程度大事だという認識を持っていました。
けれどもそれは、「備えること」とは大きく異なることに気がついたのです。
予測してしまうと、一方向への備えしか出来ず、それが外れた場合には損害を受けます。
それに対して「備える」ということは、何が起こってもそのことに対応できる状態のことで、
目まぐるしく変化するひとつひとつのことに対処する必要が無くなります。
「備えあれば・・・」ですね。
予測することと比べてどちらが武術的かを考えてみると、
日常生活のヒントにも、なるかもしれません。
私も今までは「予測すること」が、ある程度大事だという認識を持っていました。
けれどもそれは、「備えること」とは大きく異なることに気がついたのです。
予測してしまうと、一方向への備えしか出来ず、それが外れた場合には損害を受けます。
それに対して「備える」ということは、何が起こってもそのことに対応できる状態のことで、
目まぐるしく変化するひとつひとつのことに対処する必要が無くなります。
「備えあれば・・・」ですね。
予測することと比べてどちらが武術的かを考えてみると、
日常生活のヒントにも、なるかもしれません。
20. Posted by 円山玄花 2014年06月12日 17:11
☆ハイネケンさん
お久しぶりです。
コメントをありがとうございます。
>マンガで言う『殺気』とは、取り手が放つものでなく、受け手のアンテナが働いた結果なのだと
>思いました
良い言葉ですね。
確かに日常生活でも、「あんな運転していたら危ない」とか、「この季節にそんな恰好では身体を壊す」など、鈍りきったアンテナで日々を好きなように過ごしている人が目に付きます。
自分では、散らかった部屋を見る度に「これでは生き残れない」と反省することしきりです。
生き残るために必要なことは、今目の前にあると言えますね。
お久しぶりです。
コメントをありがとうございます。
>マンガで言う『殺気』とは、取り手が放つものでなく、受け手のアンテナが働いた結果なのだと
>思いました
良い言葉ですね。
確かに日常生活でも、「あんな運転していたら危ない」とか、「この季節にそんな恰好では身体を壊す」など、鈍りきったアンテナで日々を好きなように過ごしている人が目に付きます。
自分では、散らかった部屋を見る度に「これでは生き残れない」と反省することしきりです。
生き残るために必要なことは、今目の前にあると言えますね。
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