2013年04月23日
練拳Diary#50 「学び方 その3」
by 教練 円山 玄花
学ぶこととは、どの様なことであれ自分の知らないこと、新しいことを、自分の中に取り込み、消化し、身につけていくことです。
その始まりは、未知なるものへの憧れと希望に満ちていたはずなのに、時として人は、学ぶ過程で苦痛と挫折感とを味わわされます。その探求が本気であればあるほど、その負荷は大きく、深く自分の心に根を張っていきます。
それは、よく見つめてみれば、自分が好きなようには学べない、思うようには取れないということが原因となっており、そもそも学ぶことの中には「自分」を挟む余地などなく、
「自分」をやめることでしか、新しいことは学べないことを教えてくれています。
しかし、「自分」をやめることの、なんと難しく厄介なことでしょう。
太極拳でいえば、相手を倒すのにどうしても力(拙力)をやめられない、ということと同じです。”用意不用力”とは言っても、力を使わずには相手を動かすことさえ不可能だ、だからきっと、何か他に神秘的な力があるに違いない、それが ”氣” というものであろうか・・・と、想像だけがどんどん膨らみます。
円山洋玄師父は、悩む私たちに、常にヒントを与え続けてくださいます。
相手に触れずに倒しても、「これは氣ではありません」と断言されるし、基本功でも散手でも、最も多く指導される言葉は「考え方を変えなさい」というものです。相手を倒すタイミングであるとか、方向などではなく、「考え方」を理解するように言われるのです。
この言葉は、そもそも自分は力というものを、太極拳や武術というものを、一体どの様に考えていたのか、ということを改めて突きつけられます。
そして、自分が如何に薄っぺらな情報をもとにそれらのことを考え、体得しようとしていたのか、如何に平凡な常識に囚われて生活を送っていたかということを、思い知るのです。
それならば、どうしたら常識を常識と見破り、考え方を変えて新しいことに取り組めるのでしょうか。
私は、カギは観察と自己観照しかないと思います。そして「奇跡のリンゴ」の木村さんもまた、自分のフィールドの仕組みを理解するために、ひたすら観察を続けたひとりだったのです。
木村さんが岩木山で答えを見つけてからは、木村さん自身にも、そして木村さんの周囲にも、少しずつ変化が現れ始めました。
「 ”リンゴ農家だから、リンゴだけで食べていく” というプライドは消えて、”リンゴの実を成らせるためなら何でもする” 、という気持ちに変わった」と言って、数々のアルバイトを始めた木村さんは、きっとそれまでのうつむき加減で険しい表情から、やるべきことを見つけた、穏やかで芯の入った表情に変わったのでしょう。
木村さんを「カマドケシ(竈消し=破産者)」と呼んで陰口を叩いていた周囲の人々の目も、木村さんがただの変わり者ではなくて、少なくとも何か意図を持って行動しているのだという見方に、変わっていきました。
それはもちろん、荒れ果てたリンゴ畑のりんごの葉が以前よりも元気になっているように見えた、と言う単純な理由だけではなく、害虫や雑草が溢れる木村さんの畑に対して苦情を言ってくる人に、畑に雑草を生やす理由や、山の土と畑の土の温度の違いなどを、丁寧に、そして熱心に説明したためだとも言えるでしょう。
そして何よりも、木村さん自身の、自然を観察する眼が変わった、と言えるかもしれません。木村さんが岩木山で見つけた答えとは、リンゴの木そのものに対するアプローチだけではリンゴは育たない、という事でした。リンゴは、リンゴだけで生きているわけではない。その発見が、木村さんの物の見方を変えたのです。
たとえば、りんごの葉を食べる憎き害虫と、その害虫を食べてくれるありがたい益虫の
”顔” の違いから始まり、りんごの木に生み付けられる卵から、一体どの様な虫が孵るのか、虫は、どのように葉を食べて大きくなるのか、などです。
今までは、虫を目の敵にして手当たり次第取り除いていたものを、一日中眺めてみたり、虫を採取して家で飼うなど、畑に生じている生態系そのものを観察し始めました。
そうして分かったことは、木村さんがせっせと農薬散布をしていた頃に考えていた常識とは、全く正反対のことばかりだったのです。
ひとつ、私が感動した木村さんの発見を書いておきたいと思います。
木の幹に産み付けられる害虫の卵は、保護色をしていて、直径5ミリの塊に50個の卵が並んでいます。そして、その卵の塊から10センチほど離れたところに、別の卵が2個並んでいる。これがテントウムシの卵で、害虫がふ化するのを益虫が待っている、というわけです。
ところが、害虫の方はただ食べられるわけではなくて、50個の卵は一度に孵化せずに、まず半分が孵化して、りんごの葉を食べに向かいます。その虫たちが1センチくらいの大きさに育った頃、残りの半分が孵化します。テントウムシはちょうどそのタイミングで孵化をし、孵(かえ)ったばかりで自分も小さいから、あとから孵った半分の害虫を食べて育つというのです。
先に孵った半分は、その間に葉をどんどん食べて生き延び、あとから孵った半分は、テントウムシに喰われるために、先に孵った半分を生き延びさせるために、生まれてくると言うのです。
──────────────自然とは、本当に何というシステムなのでしょうか。
また、農薬を使っていると、簡単に虫を殺したり、病気の元となるカビや菌類を消毒する代わりに、りんごの木が病気や虫と戦う力を衰えさせてしまう、とも言います。
そして、りんごの木だけではなくて、農薬を使っている人間まで病気や虫のことがよく分からなくなり、その結果病気や虫に弱くなるというのです。
強くなるのは改良される農薬ばかり、ということになるでしょうか。
観察を続けることで、初めて畑と害虫を含む生き物と、病気や気候の関係が見えてきたという木村さんは、いつしか天気予報よりも正確に天気を読めるようになりました。
また、りんごの木が1年を通じて土壌から吸い上げる水量の変化、畑に生やした雑草がどの時期にどのくらいの養分を土壌から奪っているのかということから、土の中の細菌や微生物の働きまで、およそリンゴ栽培に関することで木村さんが知らないことはないと思えるほど、専門家も顔負けの知識を得ていたのです。
その結果、それまで夏に入る前にはほとんど落ちていたリンゴの葉っぱが、三分の一残るようになり、翌年の春先には新しい枝が10センチほど伸びていました。そして、たった一本の木に、7つだけ花を咲かせたのです。全ての畑で農薬をやめた年から、8年目の春のことでした。
次の年。
無農薬栽培との長い戦いの中で、木村さんと共に生き延びた400本のりんごの木は、いっせいに白いリンゴの花を咲かせました。畑一面の白い花。木村さんは、今でもその時の光景を忘れないと言います。
「この花を咲かせたのは、私ではない。リンゴの木なんだとな。主人公は人間じゃなくてリンゴの木なんだってことが、骨身に染みてわかった。それがわからなかったんだよ。自分がリンゴを作っていると思い込んでいたの。自分がリンゴの木を管理しているんだとな。私にできることは、リンゴの木の手伝いでしかないんだよ。失敗に失敗を積み重ねて、ようやくそのことがわかった。それがわかるまで、本当に長い時間がかかったな」
この言葉が、どこかで太極拳を学ぶ私たちにも言えることだと思うのは、私だけでしょうか。
木村さんの奮闘は、これで終わったわけではありません。
害虫や病気が消えたわけでもないし、無農薬栽培のリンゴの流通ルートも確保しなければなりません。ひとりの百姓として、またリンゴ農家として、無農薬栽培で生活をするためにやるべきことはまだ山積みだったのです。
けれども、それらのことをここで書くのは、タイトルから少々外れてしまうのでやめておきます。
農薬の代わりになる食品を探して失敗し、山と畑の土の違いに目覚めた木村さんは、畑のリンゴの木を自然と調和させるために、自分の目と手と頭を使って、観察を続けました。
どうしたら畑のリンゴの木に、山のドングリの木と同じ強靭さを与えることが出来るのだろうかという問い掛けは、最終的に木村さんの考え方を根本から変えることになりました。
自然には害虫も益虫もなく、そこには途方もない、幾重にも折り重ねられたバランスが、摂理が存在しているだけでした。虫や病気も、そのバランスの一端として現れていたに過ぎなかったのです。それを、人間の都合だけを持ち込んで、農薬で駆除することだけをするから、さらにバランスを取ろうとする働きが生じるわけです。
また、農薬でなくて、化学肥料でも有機肥料であっても、肥料はリンゴの木に余分な栄養を与えて、害虫を集めるひとつの原因にもなっていました。
病気や虫だけを何とかしようとするのではなくて、それらが発生している全体を観る。
肥料は与えず、木の根を痛める農業機械は一切畑に入れず、畑に雑草を生やして土を自然の状態に近づける・・・それらのことを自然に教えてもらいながら続けることで、畑からハマキムシが姿を消し、病気が発生してもそれは広がらなくなりました。リンゴは一本の木として、とても丈夫になったのです。
リンゴの木の根は、普通数メートルの長さになりますが、木村さんのリンゴの木は、なんと20メートル以上も根を伸ばしていたのです。
木村さんの手で、自然の摂理によって育てられるようになったリンゴの木。
ただ農薬をやめただけでは、このようにはなりませんでした。
たとえ代わりのモノを見つけても、バランスが循環することは有り得なかったのです。
「農薬が人体にも自然にも悪いから、やめた方が良い」という考え方は、太極拳で表現すれば、「拙力は自分より弱い者にしか効かないし、年齢的限界があるから、やめよう」となるでしょうか。
結果は、農業でいえば木村さんが体験してきた通り、病気と害虫の大発生と、畑の壊滅を余儀なくされるし、太極拳では、力をやめただけでは力の大きな者に倒されることは、明白です。
それではどうしたらよいかと言えば、ひとつには、木村さんが自らの畑で自然から生態系を学んだように、私たちも「学習体系」から学ばなければなりません。
そのためには、自分の中の「力」「武術」「戦い」などの常識を捨てて、道場で展開される全てのことに目を凝らし、耳を澄ませ、毎回全身の細胞をフルに稼動して、システムそのものを受け取ることが必要です。
もうひとつは、自分という畑を使って、その畑を研究し尽くすこと。
その為には、最初に述べた「観察・自己観照」がカギとなります。観察という行為には、自分が思うことや考えることは入りません。反対に、観察を続けることで発見が起こり、その度に自分の中の常識が、玉葱の皮を剥くように、一枚ずつ落ちていくことでしょう。
「自分が思うこと」をやめたその状態で、純粋に稽古の中に身を置くことで、ようやく、「取ること」「身につくこと」が見えてくるのです。
畑の研究なしに、リンゴの実は採れなかったように、太極拳という対象を身につけることだけを追い求めていても、空振りに終わります。
最後は、「プロ意識」を持つこと。
木村さんは、プロフェッショナルとは、技術も心も一緒に伴った人、そして命を懸けたことがある人だと言います。私はそれにプラスして、プロとは覚悟を決めた人間であると思います。自分が出来るとか出来ないということを問題とせず、それに取り組み続けるという覚悟。言い訳をせず、常に向上心を持って自己を律していく覚悟。
プロ意識を持てないようであれば、どの様なきれい事を並べようとも、結局は単なる自己満足の世界でしかないと思います。
反対に見れば、プロにはプロフェッショナルの世界があり、アマにはアマチュアの世界があります。太極拳をプロとして取り組むのか、アマとしてそこそこやるのかは、自分の選択次第なのです。そして、太極拳のすべてを修得するためには、「プロ意識」を持つしか方法はありません。
(つづく)
学ぶこととは、どの様なことであれ自分の知らないこと、新しいことを、自分の中に取り込み、消化し、身につけていくことです。
その始まりは、未知なるものへの憧れと希望に満ちていたはずなのに、時として人は、学ぶ過程で苦痛と挫折感とを味わわされます。その探求が本気であればあるほど、その負荷は大きく、深く自分の心に根を張っていきます。
それは、よく見つめてみれば、自分が好きなようには学べない、思うようには取れないということが原因となっており、そもそも学ぶことの中には「自分」を挟む余地などなく、
「自分」をやめることでしか、新しいことは学べないことを教えてくれています。
しかし、「自分」をやめることの、なんと難しく厄介なことでしょう。
太極拳でいえば、相手を倒すのにどうしても力(拙力)をやめられない、ということと同じです。”用意不用力”とは言っても、力を使わずには相手を動かすことさえ不可能だ、だからきっと、何か他に神秘的な力があるに違いない、それが ”氣” というものであろうか・・・と、想像だけがどんどん膨らみます。
円山洋玄師父は、悩む私たちに、常にヒントを与え続けてくださいます。
相手に触れずに倒しても、「これは氣ではありません」と断言されるし、基本功でも散手でも、最も多く指導される言葉は「考え方を変えなさい」というものです。相手を倒すタイミングであるとか、方向などではなく、「考え方」を理解するように言われるのです。
この言葉は、そもそも自分は力というものを、太極拳や武術というものを、一体どの様に考えていたのか、ということを改めて突きつけられます。
そして、自分が如何に薄っぺらな情報をもとにそれらのことを考え、体得しようとしていたのか、如何に平凡な常識に囚われて生活を送っていたかということを、思い知るのです。
それならば、どうしたら常識を常識と見破り、考え方を変えて新しいことに取り組めるのでしょうか。
私は、カギは観察と自己観照しかないと思います。そして「奇跡のリンゴ」の木村さんもまた、自分のフィールドの仕組みを理解するために、ひたすら観察を続けたひとりだったのです。
木村さんが岩木山で答えを見つけてからは、木村さん自身にも、そして木村さんの周囲にも、少しずつ変化が現れ始めました。
「 ”リンゴ農家だから、リンゴだけで食べていく” というプライドは消えて、”リンゴの実を成らせるためなら何でもする” 、という気持ちに変わった」と言って、数々のアルバイトを始めた木村さんは、きっとそれまでのうつむき加減で険しい表情から、やるべきことを見つけた、穏やかで芯の入った表情に変わったのでしょう。
木村さんを「カマドケシ(竈消し=破産者)」と呼んで陰口を叩いていた周囲の人々の目も、木村さんがただの変わり者ではなくて、少なくとも何か意図を持って行動しているのだという見方に、変わっていきました。
それはもちろん、荒れ果てたリンゴ畑のりんごの葉が以前よりも元気になっているように見えた、と言う単純な理由だけではなく、害虫や雑草が溢れる木村さんの畑に対して苦情を言ってくる人に、畑に雑草を生やす理由や、山の土と畑の土の温度の違いなどを、丁寧に、そして熱心に説明したためだとも言えるでしょう。
そして何よりも、木村さん自身の、自然を観察する眼が変わった、と言えるかもしれません。木村さんが岩木山で見つけた答えとは、リンゴの木そのものに対するアプローチだけではリンゴは育たない、という事でした。リンゴは、リンゴだけで生きているわけではない。その発見が、木村さんの物の見方を変えたのです。
たとえば、りんごの葉を食べる憎き害虫と、その害虫を食べてくれるありがたい益虫の
”顔” の違いから始まり、りんごの木に生み付けられる卵から、一体どの様な虫が孵るのか、虫は、どのように葉を食べて大きくなるのか、などです。
今までは、虫を目の敵にして手当たり次第取り除いていたものを、一日中眺めてみたり、虫を採取して家で飼うなど、畑に生じている生態系そのものを観察し始めました。
そうして分かったことは、木村さんがせっせと農薬散布をしていた頃に考えていた常識とは、全く正反対のことばかりだったのです。
ひとつ、私が感動した木村さんの発見を書いておきたいと思います。
木の幹に産み付けられる害虫の卵は、保護色をしていて、直径5ミリの塊に50個の卵が並んでいます。そして、その卵の塊から10センチほど離れたところに、別の卵が2個並んでいる。これがテントウムシの卵で、害虫がふ化するのを益虫が待っている、というわけです。
ところが、害虫の方はただ食べられるわけではなくて、50個の卵は一度に孵化せずに、まず半分が孵化して、りんごの葉を食べに向かいます。その虫たちが1センチくらいの大きさに育った頃、残りの半分が孵化します。テントウムシはちょうどそのタイミングで孵化をし、孵(かえ)ったばかりで自分も小さいから、あとから孵った半分の害虫を食べて育つというのです。
先に孵った半分は、その間に葉をどんどん食べて生き延び、あとから孵った半分は、テントウムシに喰われるために、先に孵った半分を生き延びさせるために、生まれてくると言うのです。
──────────────自然とは、本当に何というシステムなのでしょうか。
また、農薬を使っていると、簡単に虫を殺したり、病気の元となるカビや菌類を消毒する代わりに、りんごの木が病気や虫と戦う力を衰えさせてしまう、とも言います。
そして、りんごの木だけではなくて、農薬を使っている人間まで病気や虫のことがよく分からなくなり、その結果病気や虫に弱くなるというのです。
強くなるのは改良される農薬ばかり、ということになるでしょうか。
観察を続けることで、初めて畑と害虫を含む生き物と、病気や気候の関係が見えてきたという木村さんは、いつしか天気予報よりも正確に天気を読めるようになりました。
また、りんごの木が1年を通じて土壌から吸い上げる水量の変化、畑に生やした雑草がどの時期にどのくらいの養分を土壌から奪っているのかということから、土の中の細菌や微生物の働きまで、およそリンゴ栽培に関することで木村さんが知らないことはないと思えるほど、専門家も顔負けの知識を得ていたのです。
その結果、それまで夏に入る前にはほとんど落ちていたリンゴの葉っぱが、三分の一残るようになり、翌年の春先には新しい枝が10センチほど伸びていました。そして、たった一本の木に、7つだけ花を咲かせたのです。全ての畑で農薬をやめた年から、8年目の春のことでした。
次の年。
無農薬栽培との長い戦いの中で、木村さんと共に生き延びた400本のりんごの木は、いっせいに白いリンゴの花を咲かせました。畑一面の白い花。木村さんは、今でもその時の光景を忘れないと言います。
「この花を咲かせたのは、私ではない。リンゴの木なんだとな。主人公は人間じゃなくてリンゴの木なんだってことが、骨身に染みてわかった。それがわからなかったんだよ。自分がリンゴを作っていると思い込んでいたの。自分がリンゴの木を管理しているんだとな。私にできることは、リンゴの木の手伝いでしかないんだよ。失敗に失敗を積み重ねて、ようやくそのことがわかった。それがわかるまで、本当に長い時間がかかったな」
この言葉が、どこかで太極拳を学ぶ私たちにも言えることだと思うのは、私だけでしょうか。
木村さんの奮闘は、これで終わったわけではありません。
害虫や病気が消えたわけでもないし、無農薬栽培のリンゴの流通ルートも確保しなければなりません。ひとりの百姓として、またリンゴ農家として、無農薬栽培で生活をするためにやるべきことはまだ山積みだったのです。
けれども、それらのことをここで書くのは、タイトルから少々外れてしまうのでやめておきます。
農薬の代わりになる食品を探して失敗し、山と畑の土の違いに目覚めた木村さんは、畑のリンゴの木を自然と調和させるために、自分の目と手と頭を使って、観察を続けました。
どうしたら畑のリンゴの木に、山のドングリの木と同じ強靭さを与えることが出来るのだろうかという問い掛けは、最終的に木村さんの考え方を根本から変えることになりました。
自然には害虫も益虫もなく、そこには途方もない、幾重にも折り重ねられたバランスが、摂理が存在しているだけでした。虫や病気も、そのバランスの一端として現れていたに過ぎなかったのです。それを、人間の都合だけを持ち込んで、農薬で駆除することだけをするから、さらにバランスを取ろうとする働きが生じるわけです。
また、農薬でなくて、化学肥料でも有機肥料であっても、肥料はリンゴの木に余分な栄養を与えて、害虫を集めるひとつの原因にもなっていました。
病気や虫だけを何とかしようとするのではなくて、それらが発生している全体を観る。
肥料は与えず、木の根を痛める農業機械は一切畑に入れず、畑に雑草を生やして土を自然の状態に近づける・・・それらのことを自然に教えてもらいながら続けることで、畑からハマキムシが姿を消し、病気が発生してもそれは広がらなくなりました。リンゴは一本の木として、とても丈夫になったのです。
リンゴの木の根は、普通数メートルの長さになりますが、木村さんのリンゴの木は、なんと20メートル以上も根を伸ばしていたのです。
木村さんの手で、自然の摂理によって育てられるようになったリンゴの木。
ただ農薬をやめただけでは、このようにはなりませんでした。
たとえ代わりのモノを見つけても、バランスが循環することは有り得なかったのです。
「農薬が人体にも自然にも悪いから、やめた方が良い」という考え方は、太極拳で表現すれば、「拙力は自分より弱い者にしか効かないし、年齢的限界があるから、やめよう」となるでしょうか。
結果は、農業でいえば木村さんが体験してきた通り、病気と害虫の大発生と、畑の壊滅を余儀なくされるし、太極拳では、力をやめただけでは力の大きな者に倒されることは、明白です。
それではどうしたらよいかと言えば、ひとつには、木村さんが自らの畑で自然から生態系を学んだように、私たちも「学習体系」から学ばなければなりません。
そのためには、自分の中の「力」「武術」「戦い」などの常識を捨てて、道場で展開される全てのことに目を凝らし、耳を澄ませ、毎回全身の細胞をフルに稼動して、システムそのものを受け取ることが必要です。
もうひとつは、自分という畑を使って、その畑を研究し尽くすこと。
その為には、最初に述べた「観察・自己観照」がカギとなります。観察という行為には、自分が思うことや考えることは入りません。反対に、観察を続けることで発見が起こり、その度に自分の中の常識が、玉葱の皮を剥くように、一枚ずつ落ちていくことでしょう。
「自分が思うこと」をやめたその状態で、純粋に稽古の中に身を置くことで、ようやく、「取ること」「身につくこと」が見えてくるのです。
畑の研究なしに、リンゴの実は採れなかったように、太極拳という対象を身につけることだけを追い求めていても、空振りに終わります。
最後は、「プロ意識」を持つこと。
木村さんは、プロフェッショナルとは、技術も心も一緒に伴った人、そして命を懸けたことがある人だと言います。私はそれにプラスして、プロとは覚悟を決めた人間であると思います。自分が出来るとか出来ないということを問題とせず、それに取り組み続けるという覚悟。言い訳をせず、常に向上心を持って自己を律していく覚悟。
プロ意識を持てないようであれば、どの様なきれい事を並べようとも、結局は単なる自己満足の世界でしかないと思います。
反対に見れば、プロにはプロフェッショナルの世界があり、アマにはアマチュアの世界があります。太極拳をプロとして取り組むのか、アマとしてそこそこやるのかは、自分の選択次第なのです。そして、太極拳のすべてを修得するためには、「プロ意識」を持つしか方法はありません。
(つづく)
コメント一覧
1. Posted by とび猿 2013年04月26日 23:58
自分で作り上げたビジョンを基に考えてしまうと、出来ることややりたいことへの自分なりの工夫や憧れ、想像などに終始してしまい、総合的な結果や発展性もない状態に陥ってしまうように思います。
それを改善しようとしても、自分でも気付かぬうちに、自分で作り上げたビジョンの上で堂々巡りをしてしまいます。
自分の状態如何で、できることではなく、理解していく事の楽しみも生まれ、やるべきことも見えてきて、出来なければならないことと出来ていない自分の現状も、発展性のあるものとして捉えられ、挫折感など感じる暇もないように思えてきます。
自分に流されることなく、壁にぶつかり、教え諭してくれるものや事柄や人がいて、自分を見詰め直すことができるということは、とても大変なことではありましょうが、素晴らしいことだと思います。
それを改善しようとしても、自分でも気付かぬうちに、自分で作り上げたビジョンの上で堂々巡りをしてしまいます。
自分の状態如何で、できることではなく、理解していく事の楽しみも生まれ、やるべきことも見えてきて、出来なければならないことと出来ていない自分の現状も、発展性のあるものとして捉えられ、挫折感など感じる暇もないように思えてきます。
自分に流されることなく、壁にぶつかり、教え諭してくれるものや事柄や人がいて、自分を見詰め直すことができるということは、とても大変なことではありましょうが、素晴らしいことだと思います。
2. Posted by 太郎冠者 2013年04月27日 11:45
物事にあたるときに意識的になれるかどうか。
そもそも、自分が感じ、考えていると思っていることは、本当に自分の声なのか、と観察しなければならないように感じます。
木村さんとリンゴの話でいえば、リンゴというのは農薬を使わなければ実がならない、とされていました。
木村さんにとっても、みんながそうしていたからそうするという常識に従ったほうが、周りとの軋轢は生まれなかったはずです。
しかし実際には、そうではないこともありうるのだと、木村さんが証明したように、自分の中にある「こうであるに違いない」「きっとこうだ」という意見も、本当にそうなのか、と疑ってかからなければならないかもしれません。
それを言っているのは本当に自分なのか、だれかが言ったことを無意識的に信じているだけなのではないか、と。
「太極拳はそんなに難しいことではない」と師父はおっしゃいますが、もしそうだとしたら、それを難しくとらえているのは自分たち自身で、そういう見方しかできない自分の意識の問題のはずです。
いかに自分を挟まずに物事を見れるか、システムが理解できるか。
それにこそかかっているのだと思います。
そもそも、自分が感じ、考えていると思っていることは、本当に自分の声なのか、と観察しなければならないように感じます。
木村さんとリンゴの話でいえば、リンゴというのは農薬を使わなければ実がならない、とされていました。
木村さんにとっても、みんながそうしていたからそうするという常識に従ったほうが、周りとの軋轢は生まれなかったはずです。
しかし実際には、そうではないこともありうるのだと、木村さんが証明したように、自分の中にある「こうであるに違いない」「きっとこうだ」という意見も、本当にそうなのか、と疑ってかからなければならないかもしれません。
それを言っているのは本当に自分なのか、だれかが言ったことを無意識的に信じているだけなのではないか、と。
「太極拳はそんなに難しいことではない」と師父はおっしゃいますが、もしそうだとしたら、それを難しくとらえているのは自分たち自身で、そういう見方しかできない自分の意識の問題のはずです。
いかに自分を挟まずに物事を見れるか、システムが理解できるか。
それにこそかかっているのだと思います。
3. Posted by まっつ 2013年04月27日 12:05
自然の営みは美しくも摩訶不思議で、
星空から、複雑な生態系の流転、心の現れ等、
一見にはどんな因果関係が働いているのか、
さっぱり分かりませんが、
背後には確かな法則性が息づいている事は、
理解までには至らなくとも存在を確信する事は出来ます。
師父の在り方も、
山のようだったり、水紋のように見えたり、
嵐や雷だったり、陽溜りのように感じられたりと、
自然の中に現れる様々な相にも見えます。
人が自然に近ければ、
自然の振る舞いを自ずと実感できて、
自然に対する深い理解が起こりうるのだと思いますが、
師父の太極拳を取れない自分を見れば、
日々の生活は自然からは遥か遠いとつくづくと思います。
そんな中であっても、
最も身近な自然である自らの身体が、
五体満足であるのですから、
自分の中に自然を感じる事は常に出来るのであって、
生活で自分の中を感じ続けられる方向を保つ事に、
努力したいと思います。
星空から、複雑な生態系の流転、心の現れ等、
一見にはどんな因果関係が働いているのか、
さっぱり分かりませんが、
背後には確かな法則性が息づいている事は、
理解までには至らなくとも存在を確信する事は出来ます。
師父の在り方も、
山のようだったり、水紋のように見えたり、
嵐や雷だったり、陽溜りのように感じられたりと、
自然の中に現れる様々な相にも見えます。
人が自然に近ければ、
自然の振る舞いを自ずと実感できて、
自然に対する深い理解が起こりうるのだと思いますが、
師父の太極拳を取れない自分を見れば、
日々の生活は自然からは遥か遠いとつくづくと思います。
そんな中であっても、
最も身近な自然である自らの身体が、
五体満足であるのですから、
自分の中に自然を感じる事は常に出来るのであって、
生活で自分の中を感じ続けられる方向を保つ事に、
努力したいと思います。
4. Posted by マルコビッチ 2013年04月27日 12:15
私は、この理路整然とした記事に感動します。
(以前のコメントと重なってしまいますが・・・)
自分の感動したことをここまで順序立てて細かく表すことが出来るのは、玄花さんが常日頃、寸分の隙も許さず細かくご自分を見つめ、冷静に分析し、アンテナを大きく広げているからなのだと思います。
同じ一冊の本を読んで感動しても、大ざっぱにしか表現出来ない自分とは雲泥の差があります。
私もこの本を読み、木村さんの長い戦いの末に発見したこと、またそこに行き着くまでの苦悩と妥協しない姿勢には、自分が太極拳を学ぶなかでピタッとリンクするものがありました。
しかし、それだけで終わってしまう。
稽古のなかで、日常生活のなかで、どれだけ本物を追求し、疑問を持ち、自分に返すことが出来るかによって、感じること感動することの深さが違ってくるのだと思い知らされます。
人生死ぬまで勉強ですね!
ありがとうございました。
(以前のコメントと重なってしまいますが・・・)
自分の感動したことをここまで順序立てて細かく表すことが出来るのは、玄花さんが常日頃、寸分の隙も許さず細かくご自分を見つめ、冷静に分析し、アンテナを大きく広げているからなのだと思います。
同じ一冊の本を読んで感動しても、大ざっぱにしか表現出来ない自分とは雲泥の差があります。
私もこの本を読み、木村さんの長い戦いの末に発見したこと、またそこに行き着くまでの苦悩と妥協しない姿勢には、自分が太極拳を学ぶなかでピタッとリンクするものがありました。
しかし、それだけで終わってしまう。
稽古のなかで、日常生活のなかで、どれだけ本物を追求し、疑問を持ち、自分に返すことが出来るかによって、感じること感動することの深さが違ってくるのだと思い知らされます。
人生死ぬまで勉強ですね!
ありがとうございました。
5. Posted by 円山玄花 2013年04月30日 12:54
☆とび猿さん
>自分で作り上げたビジョン
これこそ、まさに目を曇らせ、頭を鈍らせる曲者ですね。
問題は、それを「自分で」作り上げたことに気がつけるかどうか。
それらは少しずつ溜まる汚れのように、すぐに目には見えないけれど、
確実に増幅していくものです。
観察する気持ちと少々の忍耐があれば、それらは容易に見つけることが出来ると思うのですが、
そこに自分の都合が持ち込まれると、人は無限の言い訳を並べることが出来てしまいます。
結局のところ、本当に自分が求めるものは何であるのか、問いかける必要があるのだと思います。
>自分で作り上げたビジョン
これこそ、まさに目を曇らせ、頭を鈍らせる曲者ですね。
問題は、それを「自分で」作り上げたことに気がつけるかどうか。
それらは少しずつ溜まる汚れのように、すぐに目には見えないけれど、
確実に増幅していくものです。
観察する気持ちと少々の忍耐があれば、それらは容易に見つけることが出来ると思うのですが、
そこに自分の都合が持ち込まれると、人は無限の言い訳を並べることが出来てしまいます。
結局のところ、本当に自分が求めるものは何であるのか、問いかける必要があるのだと思います。
6. Posted by 円山玄花 2013年04月30日 12:58
☆太郎冠者さん
いかに自分を挟まずにものごとを見られるか、という問題は、言うほど簡単ではありません。
けれども、考えるほど難しくもない、と言ったら、混乱してしまうでしょうか。
何かが悲しくて泣き続けていると、あるとき涙が止まります。
何かに悩んで考え続けていると、あるとき考えが止まります。
悲しかったこと、悩んでいたことは、どこへ行ったのでしょうか。
そうして残った「自分」は、それまでの自分があたかも消えて無くなったかのように感じられるほど静かで、そしてハッキリとしています。
私は、そのような「自分」の無い状態であれば、自分を挟みようもなく、そこに展示されていることを観られるのだと思います。
いかに自分を挟まずにものごとを見られるか、という問題は、言うほど簡単ではありません。
けれども、考えるほど難しくもない、と言ったら、混乱してしまうでしょうか。
何かが悲しくて泣き続けていると、あるとき涙が止まります。
何かに悩んで考え続けていると、あるとき考えが止まります。
悲しかったこと、悩んでいたことは、どこへ行ったのでしょうか。
そうして残った「自分」は、それまでの自分があたかも消えて無くなったかのように感じられるほど静かで、そしてハッキリとしています。
私は、そのような「自分」の無い状態であれば、自分を挟みようもなく、そこに展示されていることを観られるのだと思います。
7. Posted by 円山玄花 2013年04月30日 13:37
☆まっつさん
人は、往々にして目の前の現象にのみ囚われやすく、
それが自然だ、在り方だと勘違いしやすいものです。
だから、観察することが必要です。
見えるものが無くなるまで、観察すること。
それ以外に、自分の中を、内側を感じ続けることは出来ないと思います。
何かが見えている間は、全て外側の現象に過ぎないからです。
人は、往々にして目の前の現象にのみ囚われやすく、
それが自然だ、在り方だと勘違いしやすいものです。
だから、観察することが必要です。
見えるものが無くなるまで、観察すること。
それ以外に、自分の中を、内側を感じ続けることは出来ないと思います。
何かが見えている間は、全て外側の現象に過ぎないからです。
8. Posted by 円山玄花 2013年05月01日 14:47
☆マルコビッチさん
>常日頃、寸分の隙も許さず細かくご自分を見つめ・・
いえいえ、そんなことを言われると恥ずかしくなってしまいます。
私も大いに悩める凡人のひとりです。
近頃は、ブログの記事にしても、本でも映画でも、ほとんどが自分の意志ではなくて、
大きな意志によってそれを選択させられているような気がします。
もしかしたら、御先祖様が、「お前、それではアカンから、もっと勉強せぇ〜」と言って与えてくださっているのかもしれません。私はそれを大事に受け取りたいと思います。
それから、アンテナは大事ですね。
人が造り出す物質的なアンテナは大きさに限りがあるけれど、
自分が張り出せる意識のアンテナ(?)は、限りが無いように思います。
自分が望んだ分だけ大きく深く張り出すことが出来ます。
それだけで勉強出来ることが何倍にも増えるわけですから、これを利用しない手はありません!
>常日頃、寸分の隙も許さず細かくご自分を見つめ・・
いえいえ、そんなことを言われると恥ずかしくなってしまいます。
私も大いに悩める凡人のひとりです。
近頃は、ブログの記事にしても、本でも映画でも、ほとんどが自分の意志ではなくて、
大きな意志によってそれを選択させられているような気がします。
もしかしたら、御先祖様が、「お前、それではアカンから、もっと勉強せぇ〜」と言って与えてくださっているのかもしれません。私はそれを大事に受け取りたいと思います。
それから、アンテナは大事ですね。
人が造り出す物質的なアンテナは大きさに限りがあるけれど、
自分が張り出せる意識のアンテナ(?)は、限りが無いように思います。
自分が望んだ分だけ大きく深く張り出すことが出来ます。
それだけで勉強出来ることが何倍にも増えるわけですから、これを利用しない手はありません!
9. Posted by bamboo 2013年05月02日 04:38
深いですね…実に深い。学ぶということを、より深く明確に意識させて頂きました。
いやぁ…さすがは「スゲーカン」ですね。
玄花さんの仰る「循環」や「陰陽」「虚実」についても少しだけ理解が深まった気がいたします。
棒ほど大樹ほど願って、意識のアンテナをどんどん張って、自分という畑に誇れるような花や実りを迎えるためにも、畑を、自然をよく観る。学ぶなかでの恐怖・不安などが何で、結局それをどうしたいのか、どうすればよいのかを意識した暮らしが、いよいよ面白くなって参りました。
いやぁ…さすがは「スゲーカン」ですね。
玄花さんの仰る「循環」や「陰陽」「虚実」についても少しだけ理解が深まった気がいたします。
棒ほど大樹ほど願って、意識のアンテナをどんどん張って、自分という畑に誇れるような花や実りを迎えるためにも、畑を、自然をよく観る。学ぶなかでの恐怖・不安などが何で、結局それをどうしたいのか、どうすればよいのかを意識した暮らしが、いよいよ面白くなって参りました。
10. Posted by 円山玄花 2013年05月03日 01:34
☆bambooさん
武術の道場で、防具なしで打ち合うことや、武器の使い方、相手の叩きのめし方ではなくて、
自分自身の在り方や学び方を教えて頂けることは、とても幸せだと思います。
そのことによって、初めて武術が「武道」と成り得るからです。
失敗を恐れることは、虫や病気を嫌って農薬を散布するようなもの。
失敗を恐れず、虫や病気をもそれら以上に理解して、自分の畑を豊かにしていきたいものですね。
武術の道場で、防具なしで打ち合うことや、武器の使い方、相手の叩きのめし方ではなくて、
自分自身の在り方や学び方を教えて頂けることは、とても幸せだと思います。
そのことによって、初めて武術が「武道」と成り得るからです。
失敗を恐れることは、虫や病気を嫌って農薬を散布するようなもの。
失敗を恐れず、虫や病気をもそれら以上に理解して、自分の畑を豊かにしていきたいものですね。
11. Posted by ユーカリ 2013年05月07日 16:34
「農薬が人体にも自然にも悪いから、やめた方が良い」という考え方は、まさしく日頃自分が傾き易い思考であり、短絡的に物事に向かい合う姿勢そのものでした。
どうりで、いつも稽古で、ただ拙力をやめ、強くはないけれど、それでは何の影響も、関わりも無い状態に、「う〜ん(i_i)」と唸っているはずです。
「自分という畑を使って、その畑を研究し尽くすこと」
そのことを避けるかのように、自分という畑ではなく、他所の畑に出向き、研究など私には到底無理…と様子を見に行く程度の事しかせず、この年まで生きてきてしまいました。
また、「観察しているつもり」は、「自分のやりやすい方法や、やりたい事をいかにスムーズにこなせるか」の工夫でしかなく、自分の中の常識を強固にする作業になってしまうと気付かされ、慌ててしまいました。
示して頂いたことを、その通りに…
自分を挟まず、ひたすら観察し続ける…
常の一分一秒が、とてつもなく大切であると思います。
どうりで、いつも稽古で、ただ拙力をやめ、強くはないけれど、それでは何の影響も、関わりも無い状態に、「う〜ん(i_i)」と唸っているはずです。
「自分という畑を使って、その畑を研究し尽くすこと」
そのことを避けるかのように、自分という畑ではなく、他所の畑に出向き、研究など私には到底無理…と様子を見に行く程度の事しかせず、この年まで生きてきてしまいました。
また、「観察しているつもり」は、「自分のやりやすい方法や、やりたい事をいかにスムーズにこなせるか」の工夫でしかなく、自分の中の常識を強固にする作業になってしまうと気付かされ、慌ててしまいました。
示して頂いたことを、その通りに…
自分を挟まず、ひたすら観察し続ける…
常の一分一秒が、とてつもなく大切であると思います。
12. Posted by 円山玄花 2013年05月10日 02:32
☆ユーカリさん
私にとって、自分という畑を使うことは、確かにおっくうで面倒くさく、まるで手の着けようがないと思えることでもあります。けれども、そこにクワやスキを入れなければ耕されることもなく、豊かな実りが訪れることもありません。そして、おそらく全ての物事に対して言えるように、関わってみれば、きちんと向かい合ってみれば、自分で想像していたほど難しかったり、おっくうだったりすることはないのです。
確かに楽ではないけれど、楽しいものです。
私は、やらないうちからそれらのことを想像したり、さもそれをやっているかのような感覚に浸ってみたりすることこそ、「自分を挟む」ことだと思います。
何であっても、学ぶ機会を与えられたことに両手を広げて喜び、感謝する。
実際にやってみて大変だったら、そのとき悩む。
「観察」ひとつを取って見ても、同じことが言えると思います。
私にとって、自分という畑を使うことは、確かにおっくうで面倒くさく、まるで手の着けようがないと思えることでもあります。けれども、そこにクワやスキを入れなければ耕されることもなく、豊かな実りが訪れることもありません。そして、おそらく全ての物事に対して言えるように、関わってみれば、きちんと向かい合ってみれば、自分で想像していたほど難しかったり、おっくうだったりすることはないのです。
確かに楽ではないけれど、楽しいものです。
私は、やらないうちからそれらのことを想像したり、さもそれをやっているかのような感覚に浸ってみたりすることこそ、「自分を挟む」ことだと思います。
何であっても、学ぶ機会を与えられたことに両手を広げて喜び、感謝する。
実際にやってみて大変だったら、そのとき悩む。
「観察」ひとつを取って見ても、同じことが言えると思います。
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