2012年07月26日
練拳Diary#47 「戦いについて その2」
by 教練 円山 玄花
前回「戦いについて」を掲載したところ、コメントやメイルなどで、思いの外たくさんのご意見やご感想を頂くこととなり、たいへん嬉しく思いました。やはり、当ブログに目を通されている方々は、少なからず武術を自己成長のための道具として用いられ、この現代に於いても常に「戦い」を身近に感じておられる方が大勢いらっしゃるのだと、改めて考えさせられました。
その中には、コメンターとしてお馴染みの ”まっつさん” のように、「戦」と「闘」のふたつの文字について述べられたものもありました。
漢字というのは、もとが象形であるだけに、とても面白いものです。前回の稿では字義的な意味を解説するには至りませんでしたが、先ずはその二つの文字について、思うところを述べておきたいと思います。
まず、漢字というのはすべて中国から入って来たわけで、本来の日本語ではなく、すべての漢字は「当て字・宛字」であるということを念頭に入れておくべきだと思います。
また、日本で発売されている漢字の辞典は多くありますが、著者や出版社によっても傾向や解釈などが大きく違っており、ひとつの辞書を頭から信じてしまうことには充分な注意が必要です。
その上で、「戦う」という言葉は、お馴染みの一般用語として使われている表記なので、「タタカウ」ということを表現するのに、どのような場合に、どのように使っても間違いではありません。「戦」か「闘」か、選択に迷ったらコレを使う、と覚えておいても良いと思います。
「戦」という文字ですが、この字は「単」と「戈」の二つのカタチで出来ています。
この字については、たとえば「漢字源」などには、「 ”単” はちりたたきの象形」であり、「その(単=ひとえの)平面でパタパタと叩くこと」とあり、それに「戈」が付加されるので「武器で相手をパタンパタン(patan, patan)と薙ぎ倒すこと」である、などと書かれています。(しかし、どうもパタンパタンでは日本語的におかしくて、まるでフランス語みたいですね。バッタバッタの方が良いのでは?、と思いますが)
中国のことだから本当に「塵叩き」のような武器が有ったのもしれません。中国では刀や槍以外の武器は、基本的に農機具から発生しているものが多いのです。それは中国の歴史を紐解けば、なるほど、と頷けるわけですが、それについてはまた別の機会にでもお話ししましょう。
ともあれ、ハエやフトンではないのですから、相手を「ハタク」ような暇があったら、打ち付けたり突いたりした方がよほど効率が良いはずなので、パタンパタンとはたくというのは、「戦い」の方法としては余りアテにならないかも知れません。
ところで、中国の辞書には、「単」という字は元は「二又になった武器の形を示す」と書かれています。
日本の刺又(さすまた)や西遊記の沙悟浄が持っている「月牙鏟(げつがさん=片側に三日月型の歯と、もう片方にシャベルを平たくしたような金属が付いたもの)」と似たような武器だということで、要するに「単」は「はたく」武器ではなく、「打ちのめす」とか「それで(挟むようにして)倒す」ような用途のある武器であることが窺えます。
また「単」も「戈」も両方とも武器を表す文字なので、タタカウという意味がさらに強調されていることになるわけです。
ついでに言えば、例えば「列」のヘンの部分である「がつへん・かばねへん=風雨に晒された白骨の意味」の横に「単」を置いた字は「尽きる、尽くす、尽きて無くなる、倒しまくる」というように、本当にバッタバッタと敵を「なぎ倒していく」ような意味になります。
「戦う」というのは、日本語としては「人と人が争うこと」で、どのような争いでもその字が使われて良いものです。したがって、相手に勝つために武器を取って(武力をもって)戦う、戦さをする、競技などで勝ち負けを争う、などと言うことに使われていて、大軍勢で戦う、見えない敵と戦う、名誉のために戦う、国防のために外敵と戦う、戦わずして勝つ、などという使い方をしますね。
けれども、そこに「一方的に」という意味はありません。「戦い」というのは、あくまでも「相手が居るから ”タタカウ” 」というだけの意味なのです。
一方、「闘」という文字は「ウチアウ」「タタカワセル」という意味で、相手の力に負けないように一生懸命に争うコトという意味で、障害や困難に立ち向かうことです。
大自然との闘い、病気との闘い、睡魔との闘い、侵略者との闘い、共産主義との闘い・・などということに使われていますね。ですから、あのアントニオ猪木も「闘魂」とは言っても「戦魂」とは表現しません。自分の魂の闘いなのでそう表現するわけです。
なお、前回の記事で「戦いとは二つの異なる物事の対立である」ということを述べましたが、ここでいうところの「戦い」というのは、もちろん字義、字面、皮相、といった話ではなく、もっと深いところ、太極学や太極拳学の観点から「対立」を語っていくために用いました。つまり、何にでも、何処にでも使える「戦い」という文字を選んだわけです。
本当に言葉というものは興味深く、そこに「漢字」という文字が加えられることで更に意味合いを持たせたり、奥深さを表現することが出来るものだと、感心することしきりです。
同時に、言葉を扱う者は、とりわけ繊細に注意深く学ばなければならないと思います。
日本の美しさは数々ありますが、日本語の美しさは ”フランス語、イタリア語、スペイン語と並んで、世界で最も美しい言語のひとつ” と言われているくらいですから、私たち日本人は心して大切にしていきたいものだと思います。
さて、人気の連載小説「龍の道」で、新しくスタートした ”インテリジェンス” の章。
そこには作者の豊かな発想のもとに、インテリジェンスの基本として「5W1H」が挙げられていましたが、何ごとに於いても自らの手で学び、また新たな見識を得るためには、その同じ基本が必要不可欠なこととして思えてきます。
「戦い」とは基本的に対立であり、争いであり、それは一方の意図や意見がとおり、もう一方はどのような形であれ、諦めなければならないという質をもっているものです。
時として、戦いは残酷にもどちらか片方の人生を奪い、社会を奪い、国家を奪います。
戦いでは自分が生き残れるという保証はどこにも無く、それがいつ何どき始まるとも限らないのです。
その、きわめて非日常的な、不公平とも言える戦いについて、私たちはその「基本」をどこに見出し、何をどのように学んでいけば良いのでしょうか。体力や素早さでしょうか、強力な武器でしょうか、はたまた明晰な頭脳でしょうか。
私は、戦いの基本は「考え方」にあると思います。
「考え方」とは、私たちが太極武藝館で学び始めたそのときから、師父が仰っていることであり、太極拳を学ぶ上で壁にぶつかり、また解決したりしたときには必ずと言って良いほど、問題は考え方にあったと、つくづく思い知らされてきた、その「考え方」です。
間違えやすいのは、それは「戦い方」ではなくて「戦い」そのものに対する考え方であるという点です。「戦い方」としてしまうと戦いの方法になってしまいますが、「戦い」そのものに対する考え方が違っていたとしたら、自ずと戦い方も変わるというものです。
稽古中に、何回「それは、考え方が違うんですよ」と指導されても、容易に「ああ、なるほど」とはいきません。それは、そもそも自分がどの様な考え方でそれを行っていたかが不明確であったためだと言えますが、しかし、その自覚なしに考えてしまっていたということが、ひとつのことを成し遂げるのに一体どれほどの困難を与えていることでしょうか。
ひとつのこととは、何も太極拳に限ったことではありません。それこそ、前稿で少し触れた、まったく分野の異なる仕事をしている人たちも、みな異口同音に同じことを言っているのです。
始めから自分がどの様な「考え方」でそれに取り組んでいたかが明確であれば、それが違うと分かれば、実に簡単に、一瞬にしてそれを捨てて「新しい考え方」を学ぶことができたのに・・と。
もちろん、人生で起こることの全ては、その人に与えられた勉強であり、それを上手く、楽にこなしてゆける道など在りはしないのですが、だからこそ、自分が学んだことを他の人と共有し、また他の人が学んだことを自分も共有することで、人間として大きく成長できるのだと思います。
今回はその点に踏み込むまでには至りませんでしたが、また次回以降に述べていきたいと思います。
(了)
前回「戦いについて」を掲載したところ、コメントやメイルなどで、思いの外たくさんのご意見やご感想を頂くこととなり、たいへん嬉しく思いました。やはり、当ブログに目を通されている方々は、少なからず武術を自己成長のための道具として用いられ、この現代に於いても常に「戦い」を身近に感じておられる方が大勢いらっしゃるのだと、改めて考えさせられました。
その中には、コメンターとしてお馴染みの ”まっつさん” のように、「戦」と「闘」のふたつの文字について述べられたものもありました。
漢字というのは、もとが象形であるだけに、とても面白いものです。前回の稿では字義的な意味を解説するには至りませんでしたが、先ずはその二つの文字について、思うところを述べておきたいと思います。
まず、漢字というのはすべて中国から入って来たわけで、本来の日本語ではなく、すべての漢字は「当て字・宛字」であるということを念頭に入れておくべきだと思います。
また、日本で発売されている漢字の辞典は多くありますが、著者や出版社によっても傾向や解釈などが大きく違っており、ひとつの辞書を頭から信じてしまうことには充分な注意が必要です。
その上で、「戦う」という言葉は、お馴染みの一般用語として使われている表記なので、「タタカウ」ということを表現するのに、どのような場合に、どのように使っても間違いではありません。「戦」か「闘」か、選択に迷ったらコレを使う、と覚えておいても良いと思います。
「戦」という文字ですが、この字は「単」と「戈」の二つのカタチで出来ています。
この字については、たとえば「漢字源」などには、「 ”単” はちりたたきの象形」であり、「その(単=ひとえの)平面でパタパタと叩くこと」とあり、それに「戈」が付加されるので「武器で相手をパタンパタン(patan, patan)と薙ぎ倒すこと」である、などと書かれています。(しかし、どうもパタンパタンでは日本語的におかしくて、まるでフランス語みたいですね。バッタバッタの方が良いのでは?、と思いますが)
中国のことだから本当に「塵叩き」のような武器が有ったのもしれません。中国では刀や槍以外の武器は、基本的に農機具から発生しているものが多いのです。それは中国の歴史を紐解けば、なるほど、と頷けるわけですが、それについてはまた別の機会にでもお話ししましょう。
ともあれ、ハエやフトンではないのですから、相手を「ハタク」ような暇があったら、打ち付けたり突いたりした方がよほど効率が良いはずなので、パタンパタンとはたくというのは、「戦い」の方法としては余りアテにならないかも知れません。
ところで、中国の辞書には、「単」という字は元は「二又になった武器の形を示す」と書かれています。
日本の刺又(さすまた)や西遊記の沙悟浄が持っている「月牙鏟(げつがさん=片側に三日月型の歯と、もう片方にシャベルを平たくしたような金属が付いたもの)」と似たような武器だということで、要するに「単」は「はたく」武器ではなく、「打ちのめす」とか「それで(挟むようにして)倒す」ような用途のある武器であることが窺えます。
また「単」も「戈」も両方とも武器を表す文字なので、タタカウという意味がさらに強調されていることになるわけです。
ついでに言えば、例えば「列」のヘンの部分である「がつへん・かばねへん=風雨に晒された白骨の意味」の横に「単」を置いた字は「尽きる、尽くす、尽きて無くなる、倒しまくる」というように、本当にバッタバッタと敵を「なぎ倒していく」ような意味になります。
「戦う」というのは、日本語としては「人と人が争うこと」で、どのような争いでもその字が使われて良いものです。したがって、相手に勝つために武器を取って(武力をもって)戦う、戦さをする、競技などで勝ち負けを争う、などと言うことに使われていて、大軍勢で戦う、見えない敵と戦う、名誉のために戦う、国防のために外敵と戦う、戦わずして勝つ、などという使い方をしますね。
けれども、そこに「一方的に」という意味はありません。「戦い」というのは、あくまでも「相手が居るから ”タタカウ” 」というだけの意味なのです。
一方、「闘」という文字は「ウチアウ」「タタカワセル」という意味で、相手の力に負けないように一生懸命に争うコトという意味で、障害や困難に立ち向かうことです。
大自然との闘い、病気との闘い、睡魔との闘い、侵略者との闘い、共産主義との闘い・・などということに使われていますね。ですから、あのアントニオ猪木も「闘魂」とは言っても「戦魂」とは表現しません。自分の魂の闘いなのでそう表現するわけです。
なお、前回の記事で「戦いとは二つの異なる物事の対立である」ということを述べましたが、ここでいうところの「戦い」というのは、もちろん字義、字面、皮相、といった話ではなく、もっと深いところ、太極学や太極拳学の観点から「対立」を語っていくために用いました。つまり、何にでも、何処にでも使える「戦い」という文字を選んだわけです。
本当に言葉というものは興味深く、そこに「漢字」という文字が加えられることで更に意味合いを持たせたり、奥深さを表現することが出来るものだと、感心することしきりです。
同時に、言葉を扱う者は、とりわけ繊細に注意深く学ばなければならないと思います。
日本の美しさは数々ありますが、日本語の美しさは ”フランス語、イタリア語、スペイン語と並んで、世界で最も美しい言語のひとつ” と言われているくらいですから、私たち日本人は心して大切にしていきたいものだと思います。
さて、人気の連載小説「龍の道」で、新しくスタートした ”インテリジェンス” の章。
そこには作者の豊かな発想のもとに、インテリジェンスの基本として「5W1H」が挙げられていましたが、何ごとに於いても自らの手で学び、また新たな見識を得るためには、その同じ基本が必要不可欠なこととして思えてきます。
「戦い」とは基本的に対立であり、争いであり、それは一方の意図や意見がとおり、もう一方はどのような形であれ、諦めなければならないという質をもっているものです。
時として、戦いは残酷にもどちらか片方の人生を奪い、社会を奪い、国家を奪います。
戦いでは自分が生き残れるという保証はどこにも無く、それがいつ何どき始まるとも限らないのです。
その、きわめて非日常的な、不公平とも言える戦いについて、私たちはその「基本」をどこに見出し、何をどのように学んでいけば良いのでしょうか。体力や素早さでしょうか、強力な武器でしょうか、はたまた明晰な頭脳でしょうか。
私は、戦いの基本は「考え方」にあると思います。
「考え方」とは、私たちが太極武藝館で学び始めたそのときから、師父が仰っていることであり、太極拳を学ぶ上で壁にぶつかり、また解決したりしたときには必ずと言って良いほど、問題は考え方にあったと、つくづく思い知らされてきた、その「考え方」です。
間違えやすいのは、それは「戦い方」ではなくて「戦い」そのものに対する考え方であるという点です。「戦い方」としてしまうと戦いの方法になってしまいますが、「戦い」そのものに対する考え方が違っていたとしたら、自ずと戦い方も変わるというものです。
稽古中に、何回「それは、考え方が違うんですよ」と指導されても、容易に「ああ、なるほど」とはいきません。それは、そもそも自分がどの様な考え方でそれを行っていたかが不明確であったためだと言えますが、しかし、その自覚なしに考えてしまっていたということが、ひとつのことを成し遂げるのに一体どれほどの困難を与えていることでしょうか。
ひとつのこととは、何も太極拳に限ったことではありません。それこそ、前稿で少し触れた、まったく分野の異なる仕事をしている人たちも、みな異口同音に同じことを言っているのです。
始めから自分がどの様な「考え方」でそれに取り組んでいたかが明確であれば、それが違うと分かれば、実に簡単に、一瞬にしてそれを捨てて「新しい考え方」を学ぶことができたのに・・と。
もちろん、人生で起こることの全ては、その人に与えられた勉強であり、それを上手く、楽にこなしてゆける道など在りはしないのですが、だからこそ、自分が学んだことを他の人と共有し、また他の人が学んだことを自分も共有することで、人間として大きく成長できるのだと思います。
今回はその点に踏み込むまでには至りませんでしたが、また次回以降に述べていきたいと思います。
(了)
コメント一覧
1. Posted by bamboo 2012年07月28日 12:17
反省することが多く、その分野も途方もなく広そうです…
しかし一昔前と違い、自分の考え方に向き合えるよう心身を研ぎ澄ますことに、不安よりも楽しみを強く感じているような気がします。まるで幼いころの登山遠足のような…^^
武蔵の「戦気」を初めて知りました、ネットですが初めて拝見させていただきました。(ふっといなぁ…)が第一印象です。木ともちがう、建物ともちがう…それが字に表れているということでしょうか。いつか実物を拝見してみたいです。
ただ(もしこれを武蔵作と知らずに見たとき、自分は同じように感じられるだろうか)という気もします。またそのことからも、日常の「在り方」が結局気になりますね…。同時にそれがバレずに済むことも。
「戦魂」思わずコーヒーを吹くところでした(笑)
しかし一昔前と違い、自分の考え方に向き合えるよう心身を研ぎ澄ますことに、不安よりも楽しみを強く感じているような気がします。まるで幼いころの登山遠足のような…^^
武蔵の「戦気」を初めて知りました、ネットですが初めて拝見させていただきました。(ふっといなぁ…)が第一印象です。木ともちがう、建物ともちがう…それが字に表れているということでしょうか。いつか実物を拝見してみたいです。
ただ(もしこれを武蔵作と知らずに見たとき、自分は同じように感じられるだろうか)という気もします。またそのことからも、日常の「在り方」が結局気になりますね…。同時にそれがバレずに済むことも。
「戦魂」思わずコーヒーを吹くところでした(笑)
2. Posted by 円山玄花 2012年07月29日 10:36
☆bambooさん
コメントをありがとうございます。
>もしこれを武蔵作と知らずに見たとき、自分は同じように見られるだろうか
同じようなお話を、師父から伺ったことがあります。
一番記憶に残っているのは、一休和尚のお話です。
とある富豪の家の法要に一休和尚が招かれたとき、和尚が普通の袈裟を着て行ったところ、その家の人は乞食坊主と勘違いして追い返してしまいます。次に、和尚が金襴の袈裟に緋の衣を着てその家にやって来ました。「さあどうぞ、お上がりください」と急かす富豪に、一休和尚は「この家が迎えたいのは、私ではなく、この袈裟と衣のようである」と言って、金襴の袈裟と緋の衣を置いて帰ってしまいましたという、お話。
稽古で師父の示範を見るときにも、全く同じことが起こっていると気がついたのは、ここ数年のことです。基本や套路での動きはもちろんのこと、対練での動きともなれば尚更でしょうか。
人は、自分が見たいと思うところを、見たいように見てしまう性質を持っています。でも、それでは本当にそれそのものを観ることはできません。どうしたらそれがトータルに観られるのかと言えば、私は、自分に偏りが無いこと、つまり、無極で在れることによって、はじめて物事をものごととしてみられるのだと思います。
武術の修行が、人間の成長や人類の発展にまで繋がる、理由でしょうか。
コメントをありがとうございます。
>もしこれを武蔵作と知らずに見たとき、自分は同じように見られるだろうか
同じようなお話を、師父から伺ったことがあります。
一番記憶に残っているのは、一休和尚のお話です。
とある富豪の家の法要に一休和尚が招かれたとき、和尚が普通の袈裟を着て行ったところ、その家の人は乞食坊主と勘違いして追い返してしまいます。次に、和尚が金襴の袈裟に緋の衣を着てその家にやって来ました。「さあどうぞ、お上がりください」と急かす富豪に、一休和尚は「この家が迎えたいのは、私ではなく、この袈裟と衣のようである」と言って、金襴の袈裟と緋の衣を置いて帰ってしまいましたという、お話。
稽古で師父の示範を見るときにも、全く同じことが起こっていると気がついたのは、ここ数年のことです。基本や套路での動きはもちろんのこと、対練での動きともなれば尚更でしょうか。
人は、自分が見たいと思うところを、見たいように見てしまう性質を持っています。でも、それでは本当にそれそのものを観ることはできません。どうしたらそれがトータルに観られるのかと言えば、私は、自分に偏りが無いこと、つまり、無極で在れることによって、はじめて物事をものごととしてみられるのだと思います。
武術の修行が、人間の成長や人類の発展にまで繋がる、理由でしょうか。
3. Posted by とび猿 2012年07月29日 12:55
何かを教わったり、聞いたり、やっている時に、急にピンときて
「ああ、なるほど」と思える時と、何を聞いても、やっていても、
繋がらず、分からないままが続くことがあります。
そのような時は、まるで思考が停止していて、同じ事の繰り返しや
大事なことが抜けていたりと、自分でも何をやっているんだろうと思えてきます。
自分の考え方を把握し、考えを改めていかなければならないと思いました。
「ああ、なるほど」と思える時と、何を聞いても、やっていても、
繋がらず、分からないままが続くことがあります。
そのような時は、まるで思考が停止していて、同じ事の繰り返しや
大事なことが抜けていたりと、自分でも何をやっているんだろうと思えてきます。
自分の考え方を把握し、考えを改めていかなければならないと思いました。
4. Posted by ゆうごなおや 2012年07月29日 17:14
今回もまたまた勉強、反省させていただきました。週に2回道場に行って、何となく真似してやっているだけ?になっていたように思います。↑のコメントバックのようにトータルに観れるように無極で在ることは、身体的にも精神的にもまだまだ未熟ですが、何を目的とし、意識してやるのか。このことを忘れずに歩み続けたいと思います。
燃える闘魂はハマリました。
燃える闘魂はハマリました。
5. Posted by ユーカリ 2012年07月30日 04:51
日頃から、お互いに学んだことを共有し共に高めあっていくことが苦手で、自分が何とかしなければ、自分でどうにかしたいともがいていることが多々あります。
それは、自分で立っていること、自立している事と勘違いしていたと感じます。
対練でも相手を何とかしてやろうという精神状態がベースで、自分を整えようとするために、なかなか師父が示してくださるような、ただひたすら、自分の在り方を整えることにはならず、相手との循環が起こりません。
自分が、どのような考え方で物事に向かっているかに意識的になり、示していただいている事にすぐチューニングできるようでありたいと思いました。
それは、自分で立っていること、自立している事と勘違いしていたと感じます。
対練でも相手を何とかしてやろうという精神状態がベースで、自分を整えようとするために、なかなか師父が示してくださるような、ただひたすら、自分の在り方を整えることにはならず、相手との循環が起こりません。
自分が、どのような考え方で物事に向かっているかに意識的になり、示していただいている事にすぐチューニングできるようでありたいと思いました。
6. Posted by まっつ 2012年07月30日 23:25
「考え方」を問い直す事はとても難しいだとづくづくと感じます。
それは最終的には「自分」を否定する事で、
そこからは新しく一からやり直す事で、
それはとても大変である事は間違いありませんから・・・
それまでに積み上げて、
獲得してきた「自分」を使って事を成せるなら、
それで済ましたいと考えるのは人情だとは思いますし、
そもそも何かを成そうとして、
既に動いてしまっている「自分」を、
自らが精確に捉える事は無理なのだとも思います。
「自分」を認識する。感じる為には、
先ず「不動」から、「静」から始められるようにする。
何も人為を成さない処で、自然に感じられる感覚が届くまで待つ・・・
小生の場合では、
無極椿の追求の意味が少し分かってから、
少しづつ変化が起こる事も増えてきて、
「自分」に拘る頑迷さも少しは解けてきたように思います(まだまだですが・・・)。
ありがたいと思います。
それは最終的には「自分」を否定する事で、
そこからは新しく一からやり直す事で、
それはとても大変である事は間違いありませんから・・・
それまでに積み上げて、
獲得してきた「自分」を使って事を成せるなら、
それで済ましたいと考えるのは人情だとは思いますし、
そもそも何かを成そうとして、
既に動いてしまっている「自分」を、
自らが精確に捉える事は無理なのだとも思います。
「自分」を認識する。感じる為には、
先ず「不動」から、「静」から始められるようにする。
何も人為を成さない処で、自然に感じられる感覚が届くまで待つ・・・
小生の場合では、
無極椿の追求の意味が少し分かってから、
少しづつ変化が起こる事も増えてきて、
「自分」に拘る頑迷さも少しは解けてきたように思います(まだまだですが・・・)。
ありがたいと思います。
7. Posted by tetsu 2012年07月31日 10:37
「タタカウ」ということについて、漢字の成り立ちから意味まで大変勉強になりました。
私は武藝館で学び始めてから「自分に向き合う」ということの大切さを教えていただきました。「自分(弱い自分)と闘う」ということを学んだともいえるかもしれません。
稽古を通して「いかに自分が甘かったか」「自分自身に対して妥協していたか」ということも再認識させられました。
しかし、これは武術を習得することだけではなく、自分のこれからの生き方にも大変貴重な教えと気づきました。
自分自身に向き合えなければ(自分自身と闘えなければ)、戦闘した時の敵にも戦えないと思います。
大変勉強になる記事をありがとうございます。
私は武藝館で学び始めてから「自分に向き合う」ということの大切さを教えていただきました。「自分(弱い自分)と闘う」ということを学んだともいえるかもしれません。
稽古を通して「いかに自分が甘かったか」「自分自身に対して妥協していたか」ということも再認識させられました。
しかし、これは武術を習得することだけではなく、自分のこれからの生き方にも大変貴重な教えと気づきました。
自分自身に向き合えなければ(自分自身と闘えなければ)、戦闘した時の敵にも戦えないと思います。
大変勉強になる記事をありがとうございます。
8. Posted by マルコビッチ 2012年07月31日 14:50
「戦う」と「闘う」、言葉っておもしろいですね!
自分の弱さを克服するために自分と闘い、そのうえで相手と戦う!
その自分と闘うというのがやっかいで、自分を知らなければ何と闘ってよいかも分からず、自分が壁に直面しなければ闘う必要もないのだから・・・
ここ数年、自分の考えや考え方が覆されるような事に直面しました。
と言っても、そんな大それた事ではないのですが・・
それは私とまったく正反対の考え方に出会ったときと、私の考え方を全否定しているかのような人に出会ったときです。
それまでも何回もそういう場面に出会っているはずなのですが、タイミングなのでしょうか、このときはとても強烈でした。
けっして自分の考え方だけが正しいと思っていた訳ではないのですが、心のどこかに、自分の考え方は当たり前で、他の人も自分と同じように考えているだろうと思っていたと思います。
頭が混乱してきたとき、玄花さんが「訳分からなくなったときは、無極で立ってみるんですよ!」と仰ってくださいました。
本当に偏った考えの中に浸かっていると何も見えなくなってしまう。
「考え方=自分」ではないと言うことにハッとしました。
その自分というものですら曖昧で、自分はこういう人と思っている自分、他人があの人はああいう人と思っている自分、自分も他人も知らない自分がある。
まだまだ無極の状態で立っているとは言えませんが、立とうとするだけで、自分の周りが広がっていくように感じます。
自分の弱さを克服するために自分と闘い、そのうえで相手と戦う!
その自分と闘うというのがやっかいで、自分を知らなければ何と闘ってよいかも分からず、自分が壁に直面しなければ闘う必要もないのだから・・・
ここ数年、自分の考えや考え方が覆されるような事に直面しました。
と言っても、そんな大それた事ではないのですが・・
それは私とまったく正反対の考え方に出会ったときと、私の考え方を全否定しているかのような人に出会ったときです。
それまでも何回もそういう場面に出会っているはずなのですが、タイミングなのでしょうか、このときはとても強烈でした。
けっして自分の考え方だけが正しいと思っていた訳ではないのですが、心のどこかに、自分の考え方は当たり前で、他の人も自分と同じように考えているだろうと思っていたと思います。
頭が混乱してきたとき、玄花さんが「訳分からなくなったときは、無極で立ってみるんですよ!」と仰ってくださいました。
本当に偏った考えの中に浸かっていると何も見えなくなってしまう。
「考え方=自分」ではないと言うことにハッとしました。
その自分というものですら曖昧で、自分はこういう人と思っている自分、他人があの人はああいう人と思っている自分、自分も他人も知らない自分がある。
まだまだ無極の状態で立っているとは言えませんが、立とうとするだけで、自分の周りが広がっていくように感じます。
9. Posted by 太郎冠者 2012年08月02日 19:13
太極拳で面白いと感じるところは、対立の中に和する要素があるという点であり、それを具体的な戦闘技術として昇華させている点、でしょうか。
最近の『龍の道』にも描かれている通り、戦いとはなにも武器を持って相手を殲滅するだけのものではなく、高度な情報戦も含まれます。
また、他者との対立のみならず、自身の内部にある対立もひとつの戦いのカタチといえるかもしれません。
物理的なものであれ、精神的なものであれ、人に行動を起こさしめるのはどの場合でも、その人の抱いている信念・考え方です。その意味でも、記事に書かれているとおり、戦い方=考え方といえると思います。
相手が合理的な思想の持ち主であれば、相手を殲滅し、搾取しつくす以外のやり方というのも発想として抱けるはずですが、そういっていられる相手ばかりではないというのも確かです。
ただ相手を滅ぼそうというだけの力は、太極拳で言えば拙力であるといえるのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、個人対個人のみならず、国家と国家同士の関係、また個人の中にある対立においても、稚拙な力(暴力)を使わない、真に解決の出来る方法があるのではないかと、最近はずっと考えています。
それを太極拳を通して追求できることが、歓びなのかなと思いますね。
最近の『龍の道』にも描かれている通り、戦いとはなにも武器を持って相手を殲滅するだけのものではなく、高度な情報戦も含まれます。
また、他者との対立のみならず、自身の内部にある対立もひとつの戦いのカタチといえるかもしれません。
物理的なものであれ、精神的なものであれ、人に行動を起こさしめるのはどの場合でも、その人の抱いている信念・考え方です。その意味でも、記事に書かれているとおり、戦い方=考え方といえると思います。
相手が合理的な思想の持ち主であれば、相手を殲滅し、搾取しつくす以外のやり方というのも発想として抱けるはずですが、そういっていられる相手ばかりではないというのも確かです。
ただ相手を滅ぼそうというだけの力は、太極拳で言えば拙力であるといえるのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、個人対個人のみならず、国家と国家同士の関係、また個人の中にある対立においても、稚拙な力(暴力)を使わない、真に解決の出来る方法があるのではないかと、最近はずっと考えています。
それを太極拳を通して追求できることが、歓びなのかなと思いますね。
10. Posted by 円山玄花 2012年08月04日 11:04
☆とび猿さん
>「ああ、なるほど」と思えるときと、何を聞いても、やっていても、繋がらず、
>分からないままが続くことがあります。
ありますね〜、そういうとき。
そういうときに大切なことは、決して諦めないことですね。
自分がそれを分かりたいという、意志と志とを強固に持っていれば、停止していた思考も、
抜けていた大事なことも、全部自分の中から引き出してくることができます。
たとえ、引き出すまでに何日・何年かかろうと、それは構いません。ただし、何が何でも分かってやる、取ってやるという、激しい情熱がなければ、結局は中途半端な力しか引き出せません。
また、自分の考え方は机に向かってノートを広げていても把握できない質のものだと思います。
やりながら、試行錯誤しながら、走り続ける中で、ようやく自分の考え方なるものがみえてくると、私は思います。
>「ああ、なるほど」と思えるときと、何を聞いても、やっていても、繋がらず、
>分からないままが続くことがあります。
ありますね〜、そういうとき。
そういうときに大切なことは、決して諦めないことですね。
自分がそれを分かりたいという、意志と志とを強固に持っていれば、停止していた思考も、
抜けていた大事なことも、全部自分の中から引き出してくることができます。
たとえ、引き出すまでに何日・何年かかろうと、それは構いません。ただし、何が何でも分かってやる、取ってやるという、激しい情熱がなければ、結局は中途半端な力しか引き出せません。
また、自分の考え方は机に向かってノートを広げていても把握できない質のものだと思います。
やりながら、試行錯誤しながら、走り続ける中で、ようやく自分の考え方なるものがみえてくると、私は思います。
11. Posted by 円山玄花 2012年08月04日 11:09
☆ゆうごなおや さん
>身体的にも精神的にもまだまだ未熟ですが・・・
それはきっと、ゆうごなおやさんに限らず、私を含め、みんなが自覚していることであり、
だからこそ成熟するために太極拳を学んでいるのだと思います。
やっぱり”燃える闘魂”、これが一番のエネルギー源ですよね。
>身体的にも精神的にもまだまだ未熟ですが・・・
それはきっと、ゆうごなおやさんに限らず、私を含め、みんなが自覚していることであり、
だからこそ成熟するために太極拳を学んでいるのだと思います。
やっぱり”燃える闘魂”、これが一番のエネルギー源ですよね。
12. Posted by 円山玄花 2012年08月04日 11:22
☆ユーカリさん
私が初めて「共有」という言葉を聞いたのは、師父からです。いつ頃のことだったのかは忘れてしまいましたが、それ以来「共有」という言葉がとても好きです。
誰かと何かを共有することは、確かにそう簡単ではないのですが、
たとえば、私たち人類はすでに、この大地を、この空気を、この宇宙を共有しているわけで、それは人類間のみならず、大地も、空気も、宇宙も人類を共有していると考えられます。
「何かを、こんなふうに共有したいのに」、と思えば、それは共有ではなく押しつけです。
すでに共有していること、それを感じられるセンサーを、さらに深く広くしていくためには、
やはり、自分の内側に、中心に、深く深く入っていく必要があると思います。
そのような意味でも、無極椿はスゴイ練功だなと、感心させられます。
私が初めて「共有」という言葉を聞いたのは、師父からです。いつ頃のことだったのかは忘れてしまいましたが、それ以来「共有」という言葉がとても好きです。
誰かと何かを共有することは、確かにそう簡単ではないのですが、
たとえば、私たち人類はすでに、この大地を、この空気を、この宇宙を共有しているわけで、それは人類間のみならず、大地も、空気も、宇宙も人類を共有していると考えられます。
「何かを、こんなふうに共有したいのに」、と思えば、それは共有ではなく押しつけです。
すでに共有していること、それを感じられるセンサーを、さらに深く広くしていくためには、
やはり、自分の内側に、中心に、深く深く入っていく必要があると思います。
そのような意味でも、無極椿はスゴイ練功だなと、感心させられます。
13. Posted by 円山玄花 2012年08月04日 11:31
☆まっつさん
そう、「考え方」を問い直すことは、「自分」を否定することであって、「修正」することではありません。だから「変容」することができるし、その「変容」の過程を正しく繰り返していくことが「成長」になるわけですね。
そこでまっつさんが、第一に「自分」を認識することだと発見できたこと、そして「不動」から、「静」から始められるようにする、と実感できたこと、それを大切にしてほしいと思います。
そう、「考え方」を問い直すことは、「自分」を否定することであって、「修正」することではありません。だから「変容」することができるし、その「変容」の過程を正しく繰り返していくことが「成長」になるわけですね。
そこでまっつさんが、第一に「自分」を認識することだと発見できたこと、そして「不動」から、「静」から始められるようにする、と実感できたこと、それを大切にしてほしいと思います。
14. Posted by 円山玄花 2012年08月04日 11:50
☆ tetsu さん
実際の戦闘訓練では、人と比べて自分が早いか遅いか、優れているか劣っているかが問題ではなく、いかに確実に、正確に、流すことなく身につけられるか求められますから、全て例外なく自分自身との戦いになりますね。
「自分の生を大切にできない者は、他人の生も大切にできない」
「自分の身を守れない者は、他人を守ることもできない」
「自分に負けるような者は、他人にも負ける」
・・これらの言葉は、どこに行っても聞かされます。
実際の戦闘訓練では、人と比べて自分が早いか遅いか、優れているか劣っているかが問題ではなく、いかに確実に、正確に、流すことなく身につけられるか求められますから、全て例外なく自分自身との戦いになりますね。
「自分の生を大切にできない者は、他人の生も大切にできない」
「自分の身を守れない者は、他人を守ることもできない」
「自分に負けるような者は、他人にも負ける」
・・これらの言葉は、どこに行っても聞かされます。
15. Posted by 円山玄花 2012年08月04日 12:05
☆マルコビッチさん
>他の人も自分と同じように考えているだろうと思っていた・・
これは私もさんざん行き当たったことですね。
最近はようやく、自分と同じ人間はこの世に一人もいないのだということが、実感できるに至りました。でも、だからこそ、そこで他人と同じ目標、同じ志を持って道を歩める素晴らしさも出てくるのだと思います。
その同じ目標に照準を合わせる、ということが、「無極」で立とうとすることと一致するように思います。
>他の人も自分と同じように考えているだろうと思っていた・・
これは私もさんざん行き当たったことですね。
最近はようやく、自分と同じ人間はこの世に一人もいないのだということが、実感できるに至りました。でも、だからこそ、そこで他人と同じ目標、同じ志を持って道を歩める素晴らしさも出てくるのだと思います。
その同じ目標に照準を合わせる、ということが、「無極」で立とうとすることと一致するように思います。
16. Posted by 円山玄花 2012年08月04日 12:24
☆太郎冠者さん
>ただ相手を滅ぼそうというだけの力は、太極拳で言えば拙力であると
>いえるのではないでしょうか。
そうだと思います。
けれども、こちらが非拙力を唱えているだけでは、拙力に簡単に滅ぼされてしまいます。
ちょうど、非核三原則を唱えていても、他国は核を武器に攻めてくるようなものですね。
稽古に於ける対練でも、全く同じことが言えます。
太極拳は拙力を使わないからといって、仕方なく崩されている光景を見かけますが、
そもそも太極拳は拙力を使わないわけではありません。
太極拳の基本を守れば原理が分かる、原理が分かればその基本が分かる、
その基本で動いたときには、拙力にはならない。そのとき生じているのは拙力とは異なる、
勁力と呼べるチカラですよ、ということなワケです。
それを自分に都合よく解釈して、「まずは拙力を使わないことだ」などとやっていると、
五里霧中、全く訳が分からないことになってしまいます。
「まずは基本を守ること」。それが正しいと思います。
ですから、太郎冠者さんの言う、
>稚拙な力(暴力)を使わない、真に解決できる方法・・
なるものも、基本に在ると、私は思っています。
>ただ相手を滅ぼそうというだけの力は、太極拳で言えば拙力であると
>いえるのではないでしょうか。
そうだと思います。
けれども、こちらが非拙力を唱えているだけでは、拙力に簡単に滅ぼされてしまいます。
ちょうど、非核三原則を唱えていても、他国は核を武器に攻めてくるようなものですね。
稽古に於ける対練でも、全く同じことが言えます。
太極拳は拙力を使わないからといって、仕方なく崩されている光景を見かけますが、
そもそも太極拳は拙力を使わないわけではありません。
太極拳の基本を守れば原理が分かる、原理が分かればその基本が分かる、
その基本で動いたときには、拙力にはならない。そのとき生じているのは拙力とは異なる、
勁力と呼べるチカラですよ、ということなワケです。
それを自分に都合よく解釈して、「まずは拙力を使わないことだ」などとやっていると、
五里霧中、全く訳が分からないことになってしまいます。
「まずは基本を守ること」。それが正しいと思います。
ですから、太郎冠者さんの言う、
>稚拙な力(暴力)を使わない、真に解決できる方法・・
なるものも、基本に在ると、私は思っています。
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