2012年06月23日

練拳Diary#46 「戦いについて」

                        by 教練  円山 玄花



 戦いとは何であるのか。
 そのようなことを考えていたのは、太極拳を学び始めるよりも以前のことです。

 一言で「戦い」と言っても、何かを勝ち得るための戦い、敵から大切なものを守るための戦い、自分自身との戦い、病との戦いなど、思いのほか様々な事柄が含まれていますが、ひとつ確かなことは、戦いとは二つの異なる物事の対立である、ということです。
 想い、考え方など、自分自身の内側の対立から、恋人、家族、ご近所の人など身近な人との対立、さらに大きく視野を広げれば、それが国家間の対立にまで広がっていきます。
 対立するものは、場合によっては三つにも四つにもなりますが、それらの根本となるところを辿っていけば、やはり二つの質に分けられると思います。つまり、それを「陰」「陽」と呼ぶことができます。
 陰と陽は、質の異なる二つの対立するものである・・・私はずっとそう思ってきたのですが、太極拳の考え方は違いました。陰と陽は対立もするけれど、その対立をも含めて大きく循環するものだったのです。

 そのために、太極拳の戦い方は相手とぶつかりません。
 相手と互いに組み合い、右足を掛けたような形を取って、双方が「大外刈り」を仕掛けるようにする対人訓練でも、決してぶつからないのです。どれほどゆっくり慎重に倒そうとしても、反対に素早く力ずくで投げ倒そうとしても、自分の力は充分出ていると思われるのにそれが相手に伝わらない。「テコでも動かない」という言葉がありますが、この場合は「テコでも使えない(役に立たない)」とでも言いましょうか。つまりその状態が「化勁(かけい=hua-jing)」が効いている状態と言えるのですが、決していなしたり躱したりしているわけではないのです。
 その証拠に、たとえば相手に充分力を掛けさせてからでも、ゆっくり崩し返していくことが可能です。もちろんこの対練はどちらが相手を倒せるかという力比べが目的ではありませんから、瞬発力などは用いずに、お互いに相手をゆっくり倒していくことの中で、自分の考え方や身体の在り方を見つめ、さらにそこから太極拳の原理を見出していこうというものです。

 さて、ここで問題となるのはお互いに相手を倒したい、というところです。
 対人訓練には「受け」と「取り」に分かれて稽古するものと、役割を分けずにお互いに倒し、崩し合う稽古とがあります。「受け」と「取り」に役割を分けて行う対練ではぶつからなかったことが、お互いに倒し合う、となった途端にぶつかり合います。しかしそこで初めて、ぶつかるはずの力がぶつからない、来た力を流したり躱(かわ)したりするのではない「化勁」というチカラの正体が見え始めてくるのです。
 それは「受け」と「取り」に役割を分けているだけでも分かりませんし、お互いに倒し合うことだけをしていても、そう簡単には理解できないものだと思います。二つの対練方法を用いて様々な対練を行うからこそ太極拳の本質が見えてくるという、真に優れた学習システムであると思います。

 私自身も、「相手と力がぶつかる」ということに関してずいぶん悩みました。もちろんまだ現在進行形ではありますが、近頃ようやく「化勁」というぶつからないチカラの質が、見えてきたように思います。
 それは、力ずくで相手に向かっても、上級者には刃が立たないどころか、訳も分からずに倒されて終わってしまいますし、反対に、何が何でも拙力を使うまい、ぶつかるまいとしても、空振りをするばかりで相手には何の影響も及ぼせない・・・というジレンマを越えたところにありました。

 そうして向かい合った師父との対練では、単純な四つに組んで相手を倒し合うという対練であったにも関わらず、此方が押せば師父は押した分遠くなり、此方が引けばその分近づいてきます。押し上げればその分だけ高くなり、押し下げればどこまでも深く下がってしまいます。
 まさに、槍術家の王宗岳が著したという、所謂「太極拳経」にある、
《 仰之則彌高、俯之則彌深。進之則愈長、退之則愈促(これを仰ぎては則ちいよいよ高く、これを俯しては則ちいよいよ深し。これを進めてはいよいよ長く、これを退きては則ちいよいよ促す)》という一文の通りであるように思えました。
 さらには、師父から投げる・倒すなどの力が伝わってきたときにも、此方が一、二回は変化することができ、真っ向から直撃されることはなかったのです。もちろん、それは師父が私の勉強に付き合ってくださったからこそ可能であったことは言うまでもありません。

 今までは、倒されないという一時的な現象が起こっても、それは私が一方的に耐えているだけで、それ以上のことはできません。それに対して相手は如何様にも変化できるわけですから、敵うわけがないのです。
 ところが、今回は少しばかり応酬ができたのです。それが勁力の応酬だとか虚実の取り合いなどというような、高度な応酬とはとても呼べない稚拙なものでしたが、少なくとも足をはじめとして全身は力まず、その結果相手との関係性をはっきりと実感できるに至ったのです。
 転がされても、転がされても、何とも言えない爽やかな心地に包まれたものです。倒されるとか、倒されないという問題ではなく、お互いに技を磨く、お互いに技を練り合うという感覚は、これが初めてであったように思います。
 なぜそれをわざわざ「化勁」と呼んだのか。追い求めるほどに想像もしなかった姿形が展開されるその様子は、正に求道者の心を捉えて放さない、太極拳の魅力と言えるでしょう。

 これなら相手とはぶつからない。そう思えるものがあっても、それを感じられたこととその境地に立てることとでは雲泥の差があります。私などは、まだまだ状況が変われば相手とぶつかり対立してしまうことは避けられないのですが、それでも、太極拳という学問を解いていく大きなヒントとなることは間違いなさそうです。
 そのときに感じられた、対立するふたつのものが循環させられることによって、倒されたり殴られたりしてしまうということ。この太極拳の戦い方を修得することが出来れば、どの様な種類の戦いであっても、双方の持つ力の大小に関係なく、勝利を修めることができるとさえ思います。自己成長のための対立然り、人との対立然り、見えない敵との対立然り・・

 但し、きちんと対立を経験していないのに循環のみを求めても、それは手に入りません。まず対立する二つの質を理解すること、勉強はそこから始まると思います。その為に站椿で立ち、基本功で四苦八苦し、套路で唸り、対練で七転八倒する。全ての課題は自分自身に真っ向から立ち向かうために用意されていると思えてなりません。
 なぜなら、そこで一点の曇りもなく自分に立ち向かうことができれば、何人(なんぴと)が立ち向かってこようが、恐れる理由はどこにもないからです。
 《 ただ功夫が純であれば、まったく一開一合に頼りて、千人の軍も一掃する 》とは、陳鑫老師の詩の一節ですが、この強烈な一文を見ても、戦いの方法は外側の技法ではなく、自身の内側にあるということを示されているように思います。
 
 さて、私たち武術を追求する者は、その奥義に至るために、強くなるために、負けないために、日々修練に励んでいます。一日として同じ稽古を繰り返すことはなく、しかし理解したいことはたったひとつであると指導されます。その稽古の中でたびたび立ちはだかるその壁に、如何にして立ち向かえば良いのでしょうか。
 私は、しばしば自分が問題に突き当たる度に、また周りの門人が壁に行き当たっているとき、それらのことは私たちが太極拳という武術に向かっているために起こっていることだと思ってきました。これが他のことなら誰もこれほどには悩むまい、と本気で考えたこともあるのですが、それは間違いでした。問題は、悩んでいた対象ではなく、対象に向かっていた自分側にあったからです。

 自分の考え方が浅く、ひとつの方向に偏りがちで、その為にそれを修正する方法を見出せずにいたことが、解決できない原因だったと、そう思えたのは、全く分野の異なる仕事をしている何人かの奮闘記を読んだときでした。取り組んでいることも、その目的も何もかも違うのに、日々悩み行き詰まっているところは全く同じだったのです。さらには、その人たちの経験が太極拳を学習する上での、新しいヒントにもなりました。

 次回の記事では少し視点を変えて、太極拳を学ぶことについて、またその本質である戦いについて、深めていきたいと思います。


                                  (了)


xuanhua at 21:37コメント(17)練拳 Diary | *#41〜#50 

コメント一覧

1. Posted by bamboo   2012年06月24日 00:32
陰陽、開合、虚実…。言葉そのものは多くの方が使われ、わたしの職業でも昔からよく言われることですが、武藝館での稽古を通じて初めて心服いたしました。
また言葉の意味が高度であればあるほど、真に理解するには結局その方の境地に達するしかないことにも、ようやく面白さというかワクワクを強く感じられるようになってきた気がいたします。
同時に、妙な恐ろしさや崇高な感覚、途方もない印象も…。だいぶ慣れましたが。
拝見していて希望が湧きました。半分くらいわからなかったですが^^ 
でもいつか読み返したとき、きっと独りでニヤニヤしていると思います。…少し喋りすぎました
 
2. Posted by ユーカリ   2012年06月24日 05:27
「戦い」に対する考え方が、180度変わりました。
生活や稽古で、常に、やるかやられるか、勝つか負けるか、正しいか正しくないか、できるかできないか‥…二つに一つ的な発想しかありませんでした。
対練で、始まりが遅く基本の動きができなくなってしまう事、相手の動きや状態に関係なく、自分だけで動こうとしてしまう事。生活の中で何か自分の思いだけが空回りし、思う通りに事が運ばない事、感謝の気持ちが忘れ去られてしまう事。
これらの原因は、私自身の在り方と、虚実に対する考え方の違いにあったと気づかされました。
自分の中の陰陽虚実が循環できる、稽古や生活をしなければいけないと思います。
次回の記事も楽しみにしております!
 
3. Posted by ゆうごなおや   2012年06月24日 16:57
今回も良い勉強をさせていただきました。ありがとうございました。
問題は自分の中に...分かっちゃいるけど、抜け出せないという、まだまだ甘っちょろい領域でグズグズしています。

>今回は少しばかり応酬ができたのです。

羨ましいです。勝つとか負けるとかいうより、そういう分かり合える稽古が出来ることが。
次回も楽しみです。
 
4. Posted by マルコビッチ   2012年06月25日 13:10
大変考えさせられる内容でした。
太極拳は深い深い学問であり、全てのことを理解できるに達するのではないかと思えます。
私が対練を苦手と感じ、なかなか”これだ!”と思えないのも、この書いてくださった内容の中にあると思います。
いくら、拙力を使わずに・・立つ位置をまもり・・基本通りに・・とお互いに動いても、空振りするか、ある所までいってぶつかってしまうか、軸の弱い方が少し崩れるかにすぎず、また、拙力でくるような人には倒されるか、自分も力んで力を使おうとしてしまうかでした。
それは全て、”相手をどうにかしたい!”という自分の意識からくる動きだと思います。
思えば、自分の生活も含め、人生の中で対立している物事の多いことか・・・

>これなら相手とぶつからない。そう思えるものがあっても、
>それを感じられたこととその境地に立てることとでは雲泥の差があります。

これからの人生においてその境地に立ちたい!と心から思います。
そして、いつも練拳Diaryの記事から玄花さんの生きる姿勢を垣間見て、考えさせられ、
気付かされ、学ばさせて頂いています。
次回もよろしくお願い致します。
 
5. Posted by 太郎冠者   2012年06月26日 00:33
陰陽虚実とは面白いものだな、と最近、稽古のみならず日常生活の中でも感じています。
字面を追えば、大層難しそうなイメージにも思いますが、実際のところは、暑くなれば自然と汗をかき、お腹が空けばご飯を食べる…
そういった生きるうえで当たり前の物事の中に、潜んでいるもののように感じます。

ところが、どれだけ暑くてもそれが分からなかったり、
「いいや俺は暑くない」などと強がったりしてしまうと、おいおい、お前おかしいだろ? と。
何かが狂ってしまうのではないか、と思います。

太極拳の戦い方が分かった!などと大それたことは言えないですが、人間にはもともとそういう、バランスをとろうとする作用があるのですから、どれだけ力を使わずに相手が崩れたとしても、それは決して不思議なことではないでしょうね。
…文章にすると、多少論理的な飛躍があるようにも見えますが(笑)
 
6. Posted by まっつ   2012年06月26日 00:47
試みに「戦(い)」と「闘(い)」の語源を調べてみると、
 戦:武器(戈)でぱたぱたと敵をなぎ倒す事(単:ちりたたきのようにの意)
 闘:二人が武器を持って立ち、切りあう事
とあり、
「戦」は一方的に敵を倒す状態で、
「闘」は拮抗した対立の状態を表しており、
両者が区別されている事がなかなかに面白いなと思いました。

(続きます)
 
7. Posted by まっつ   2012年06月26日 00:48
(続きです)

「対立」を主観的な当事者の立ち位置から見ると、
其処には自他を分ける鋭い境界があり、
「自分」と「自分ではないもの」の間の鋭利な緊張が見られます。
その二つの要素は距離があれば「対立」までには至りませんが、
互いに近づくと「対立」が生じると見えます。

自分自身の中でさえ、
「自分だと実感している部分」と「疎外化して周縁化した部分」は、
それぞれ「自」と「他」として鋭く「対立」して、
時にそれは心身の「痛み」として感じられます。

最近、「痛み」を感じる事、「痛み」が現れる事の意味を考えます。
特に何かに打ち込んだり、思い入れたりして行き詰る時に感じる「痛み」とは、
「自分」と「未だ自分ではないもの」が近づいた事で、
その「境界」の対立で「痛み」が生じているように感じます・・・。
それは「痛み」に向き合って、散々苦労して、
ある時節に忽然と「痛み」が解ける瞬間を得て、
自他を分ける境界が消えて解放される・・・という経験を後から省みて、
そのように感じました・・・と云う事です。

「痛み」に対しては、
安易に解決を図ったり、逃げたりするべきではないと思うようになりました。
それは「自分」が「自分ではない未だ知らざる何か」に近づいているサイン・・・
かもしれなくて、むしろ何かが解けるチャンス到来なのかもしれないと思うからです。
「痛み」に向き合って、その境界が認識できるまで眼を凝らしみれれば、
その「境界=痛み」を本当の意味で克服できる・・・かもしれないと思うのです。

自分自身の中で、その「痛み」に向き合って、
「境界」を認識し、「対立」を消す事ができる力とは、
他者と「戦」えるという事に、確かに繋がっていると感じられます。

・・・と、長文失礼致しました。
非常に深い内容で色々と考えさせられました。
また次回を楽しみにしています。
 
8. Posted by tetsu   2012年06月26日 21:19
大変勉強になりました。自分自身に対する向き合い方、また向き合う方向性を今一度見直し、心新たに太極拳に取り組んでいきたいと思いました。

>全ての課題は自分自身に真っ向から立ち向かうために用意されていると思えてなりません。

この一文を読んだ時には正直鳥肌が立ちました。
私自身「そうだ、そのために日々の稽古があるんだ」と深く共感いたしました。

私は自分自身に向き合える武術、太極武藝館の太極拳に出会えて本当に幸せだと感じます。
今日日、この混沌とした時代に真の目標や生きる目的を失っている人が多いと思います。
自分自身の目的ややるべきことがあれば、おかしな犯罪や余計な争いごとは起きないと思います。自身への成長や向上心に意識を向けることができず、私利私欲、おかしな方向性に意識が向いてしまうからこそ、今の日本は混沌としているように自分は感じます。

今後の記事も大変楽しみにしております。
 
9. Posted by とび猿   2012年06月26日 23:37
自分の中で対立を強く感じることがあります。
それは、相手や周りの状況等、外のものと関係なく、自身の中にあります。
その対立に対して、ぶつかり、不必要に力が入ったり、ちょうど対練で上手くいかず、
動けなくなってしまう時と同じように感じました。
そこには、ものをトータルに感じる状態もなく、循環というものも生じず、ただ、
ぶつかったり、躱したり、耐えていたりというような停滞してしまうもののように思います。
その停滞した中で、状況はどんどん変わっていき、時間は刻々と過ぎていき、
悪循環に身を置いているように感じます。
現在の自身の状態にきちんと着目し、理解し、理解を深めていかなければならないと思いました。
 
10. Posted by 円山玄花   2012年06月27日 02:14
☆bambooさん
漢字のマジックと言いましょうか、耳慣れない言葉が漢字二文字でポンポンと表されていると、
何やら神秘的なものを目の前に置かれた気がして、それだけで神妙な気持ちになってしまいやすいものですが(笑)、師父はそれを見事に科学的に分かりやすく説明してくださいます。
例えば「陰陽」などと聞くと、それだけで、ムムッ、中国ウン千年の歴史・・と構えがちですが、師父は簡単明瞭に、「いやね、これはプラスとマイナスなんですよ」と説明されます。

アインシュタインの言葉に、「全ての物理学の理論は、数式は別にして、”子どもでさえも理解できるように”簡単に説明すべきである」というものがありますが、師父の説明はまさに子どもにでも分かる方法でなされます。そして説明を聞いていると、この世に初めから難しいことなど存在しないのではないか。なぜ自分は難しいことから考えていたのだろうか、と思うわけです。

人は、目の前に提示されたものを、ただありのまま全身で受け取り、感動したり、恐れをいだいたりしますが(私などはほとんどそうですが)、ときには、目の前に提示されたものを冷静に、客観的に、また科学者のように見ることも必要なのだと思います。
これもまた、必要な、二つの質と言えるでしょうか。
 
11. Posted by 円山玄花   2012年06月27日 02:25
☆ユーカリさん
考え方の違いは大きいですね。
私自身も、かつてユーカリさんと同じように、二つに一つという発想しかなく、ずいぶん悩みました。でも、ふと自然を見回してみると、そうではないんですよね。
自然の世界こそ、「やるかやられるか」だと思えてしまいますが、そう思っているのは実は私たち人間だけなのです。木々や虫や蝶たちに私たちと同じ知恵や思考があるわけではないと思うのですが、だからこそ、絶妙なバランスで、ものすごく計算された生態系で日々を一生懸命に生きているのです。きっと遠い昔には人間もそうであったに違いありません。

失われたバランスを取り戻し、法則と共に生きるための手掛かりが、太極拳にはあると思います。
本当は、分野を問わず、その人が天から与えられた使命を全うしようとする限り、同じ手掛かりが見つかるのでしょうけれども。
 
12. Posted by 円山玄花   2012年06月27日 02:38
☆ゆうごなおやさん

>分かっちゃいるけど、抜け出せない

ありますよね、そういうの(笑)
カラダに毒だけどやめられない、後味悪いけどウソをつく、今度こそはと計画するけど計画倒れ。
挙げれば切りがないところを見ると、もしかしたらこれらの習性は人類に平等に与えられた、試練なのかなとも思えます。

大事なことは、どれほどの言い訳があろうとも、自分がそれを望んでいるということを、認識することだと思います。
ダイエットをしたいのに甘いものがやめられない。
煙草をやめたいのに吸わずにはいられない。
朝早く起きたいのに起きられない。
四頭筋を使いたくないのに使ってしまう。
・・ほんの一例ですが、これらの場合などは、甘いものが食べたい、煙草を吸いたい、朝はゆっくり寝ていたい、やっぱり便利な四頭筋を使いたい、という自分の望みを、きちんと理解していないために起こると言えます。

太極拳の練功は、全て心身を統御し、整えるためにあります。
だからこそ真っ先に無極椿があり、用意不用力という要訣が挙げられています。
つまり、なぜ抜け出せないのか、どうしたら抜け出せるのかという答えが、そこにあるというわけです。ちょっと難しいかもしれませんが、秘訣は、諦めないことです。
 
13. Posted by 円山玄花   2012年06月28日 14:15
☆マルコビッチさん

>自分の生活も含め、人生の中で対立している物事の多いことか・・・

確かに多いですね(笑)
小さい頃は、対立は憎しみや悲しみなどの好ましくない嫌な感じしか生み出さないと思っていました。でも今は、そうは思いません。
考えてみれば、自分の思考に対立がなければ新しい発想も生まれませんし、武術も芸術も発展してこなかったはずです。対立は新しい可能性を生み出すのに必要な通過儀礼とも言えるでしょうか。
ただし、その対立が、自分の要求を通すためだけのものだったり、自分だけの満足のためだったりすると、負の可能性を生み出す、醜い対立になるのだと思います。

案外、人との対立だけではなく、自分自身の対立でも、そのようなことが起こっていたりします。
それもこれも、ぜ〜んぶ含めて勉強なのだと思いますが、それらのことを稽古を通じて教えてもらえる太極拳は、やっぱり素晴らしいと思います。
 
14. Posted by 円山玄花   2012年06月29日 00:16
☆太郎冠者さん
バランスといえば、地球の南極と北極の氷が、一年の間にどの様に変化するか、
見たことはありますか?
北半球と南半球では季節が逆になるため、北極の氷は夏に減少し、冬に増加します。南極の氷は反対に、夏には増加して、冬には減少していきます。それはごく当たり前の現象なのですが、北極と南極で氷が交互に増減を繰り返す様子は、人間に生命の営みを、その本当の姿を思い出させてくれる美しいものでした。
地球の環境問題が沸き立っている昨今、ある工学者が「地球はそんなにヤワじゃない」と言ったときには、ストンと腑に落ちて、理屈抜きに嬉しくなったものです。

人が何かに対して不思議に思えるのは、大抵の場合自分が知らないことです。
勁力というチカラもまた、「知られていないチカラ」と言えるでしょう。
かつて極地の空に舞うオーロラを、”死者のダンス”や”光の風”と呼んで不思議がったり恐れたりした人々は、様々な伝説をもってそれぞれの民族の考え方を後世に伝えていこうとしましたが、現代ではオーロラの発生する仕組みが解明され、誰でもそれを理解することが可能です。

自分がまだ知らないことに対して、不思議に思えるのは幸せかもしれません。
なぜなら、それを「ありえない、インチキだ」と思ってしまったら、その人は生涯そのことを理解することは無いと思えるからです。
 
15. Posted by 円山玄花   2012年06月29日 01:06
☆まっつさん
「戦い」と「闘い」について、ありがとうございます。
今回タイトルに「戦」の一字を用いたのは、字義的な意味よりも、昔に、宮本武藏の書『戦氣』を前に、師父から武術の心得について伺ったことがあり、それが現在まで、自分の武術性の追求の原点になっているものですから、使わせて頂いた、といったところです。
そのあたりについてはまた次回以降、触れていきたいと思っています。
 
16. Posted by 円山玄花   2012年06月29日 02:03
☆ tetsu さん
先日の稽古で、師父が小学生の男の子2人に、突然突きの稽古を指導しはじめました。
まずは基本の形からはじめ、ほどなくしてパンチミットを打つようにし、最後には生身の人間に向かって打って行くように指示したのです。
最初のうちは、おそらく拳を握って物を殴ったのはそれが初めてであろうと思われるような、弱々しくも情けない格好だった2人が、最後に大の大人に果敢に立ち向かってゆく姿は、最初のものとは似ても似つかない、凛々しい日本男児の姿でした。

それを見ていた師父は、今の子どもたちがダメなのではない、自分の力を、本能を目覚めさせる機会が与えられていないだけなのだ、と、仰っていました。
本当にその通りだと思います。
きちんと相手と対立し、きちんと自分と向かい合い、そして反省する。またそれを次のステップに繋げていくという、当たり前の成長のシステムが、どこで狂いはじめてしまったのでしょうか。

太極拳の学習は「自分と向き合えない者が敵と向かい合えるはずがない」ということを真っ先に教えてくれる、素晴らしい学問だと思います。
 
17. Posted by 円山玄花   2012年06月29日 02:32
☆ とび猿さん
私自身が、自分に不甲斐なさを感じ、何とか自分の足で立ちたいと切望して全力疾走した結果、
自分の手中にあったのは、なんと、自分は自分以外のものによって立たされていた、という衝撃的な事実でした。
自分が何に因って立っているのかも分からずに、自分の足で立ってやるゾと息巻いても、所詮はお釈迦様の手のひらの中の孫悟空と同じで、自分の傲慢さが微塵も見えていない、ただの甘ちゃんだったわけです。
そうして自分が行き着いたのは、やはり無極椿で立つ、ということだけでした。
立っていると、それだけで様々な対立が生じ、様々な言い訳が生まれ、自分の中は、善の心も悪の心も溢れ、それはもう悪魔と天使が一緒にダンスを踊って宴会をしているような、凄まじい状態になり、そして・・・消えていきました。
決して站椿が分かったというわけではなく、站椿の稽古はそこから始まったように思います。

自分の置かれている状況や自分の今の状態を説明できるうちは、「今」ではなく、「過去」を問題にして、「今」から逃げていると、私は思います。少なくとも、それが前を向いて歩いてはいないということが、站椿の稽古によって教えられたのです。
 

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