2011年01月13日

歩々是道場 「站椿 その11(最終回)」

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



 站椿とは何だろうか ──────────

 このシリーズの最初に問うた「站椿とは何か」ということを、この最終回でも改めて自分に問うてみようと思う。

 幾つかの拳術には未だ站椿の練功法が残されているが、ちょっと見渡したところでは、この時代にそれが練功として体系的に行われているものと言えば、やはり「意拳」が名高い。
 そのせいかどうか、どこかでも述べたように、站椿を発明したのが意拳の創始者・王薌齋(オウコウサイ)であると信じる人も居るほどで、太極拳の站椿は「ただ馬歩でじっと立つ」程度のものだと思っている人も多い。

 かく云う私も、初めて站椿を学んだ頃は、そんなものだと思っていた。毎日ひたすらじっと足が震えるまで立ち尽くしていれば自然と解ってくるのかも知れない、などと非科学的なことを本気で考えたこともある。
 ある拳法の門派に在籍していた人たちは、毎回の練習に必ず站椿がたっぷりと充てられていたという。站椿を理解する為には兎にも角にも、ただひたすら毎日立つことであると教えられ、昨日は15分、今日は20分という具合に日々グラフに記入し、一年でどれほどの時間を站椿に充てたかが一目瞭然に分かるようにし、累計で年に何時間以上を超えるようでなければ決して站椿は解らない、と指導されていたという。
 しかし肝心カナメと思える、站椿が何ゆえ武術の練功として存在するのかという説明や、それを何の為に、どのように行うのかについては全くと言って良いほど指導されることがなく、ただ黙々と先生の姿を見ながら、自分がイメージするまま自然に任せて立っているしかなかったという彼らは、それで練られたものが推手や散手にどう活かされるのかを遂に見出せず、そこを離れて更に幾つかの道場を経ながら、最後に太極武藝館と出会うことになった。

 彼らは武藝館へ来て初めて、「站椿が何のために在るのか」を知ったという。
 ウチでは站椿をした時間をグラフに付けなさい、とは言われないが、その代わりに站椿がどのようなメカニズムで出来ているかを、様々な稽古のシーンに於いて、文字どおり手取り足取りして教えられる。それが「開合勁」や「纏絲勁訓練」等の基本功とどのような関わりがあり、何のために武術の訓練に站椿が存在するのかが、数多くの対練、推手、散手などに於いても、そのつど具体的に教授され、証明までされていくのだ。

 それは拳学研究会や玄門會などの上級クラスに限った話ではない。たとえ一般クラスでも、相手が小学生の門人であっても、惜しげもなくそれを指導して、太極拳の本質を門人と分かち合う姿勢が一貫して見られるのが武藝館の稽古の特徴である。
 その内容は、我々一般門人の立場から見ても非常に緻密で驚嘆に値するものであり、つい先日の稽古などでは、套路を練っている際に、余りにも詳細に指導された師父に対し、ついに『そんなことを私たちに言ってしまっても良いのですか?』という言葉が門人の口から飛び出したほどであった。門人の口からそんな言葉が飛び出すと言うことは、単にそれを知って驚いたということではなく、実際にそれを聞けば「解ける」ことであったからに他ならない。
 師父はその時『おお、これが凄いことだと分かってくれるのだね!』と嬉しそうに言われ、『何であれ、私がお教えした事はどんどん取って頂いて結構です。もっと詳しく教えたいけど、まずこれが解らなければその先は絶対に理解できない。その先へ行くには、今示されたことをきちんと解ることが第一です』と言われた。
 

 これを書いている今日の稽古でも、そんな貴重なお話が幾つも出てきた。
 例えば、左の軸には乗れて、右の軸には乗りにくい場合・・つまり「懶扎衣」はやり易いけれど「単鞭」はやりにくい、右の軸には乗り難い、と言うような場合には、先ず纏絲勁訓練の「左単手順圏」の基本功に立ち返り、自分の立つ位置、乗る位置、胯の位置、足の位置、特に右半身のそれらを念入りに確認し、その後「馬歩站椿」でそれがどうなったかを確認しながら「静中の動」としてじっくり練らなければ、決して太極拳の構造には至らない、と言われた。
 無論、片足に乗れるかとか、片足で立てるか、などということではない。あくまでも太極拳の構造として、武術的な身体軸に乗れるか、乗れないか、という話である。
 それは、ごく普通の歩法訓練の際の、五十歳を過ぎた女性門人への指導の言葉であった。
 私はただ傍らでそれを聞いていただけだったが、その時、二十数名の門人がひしめき合う道場の中で、師父がそっとその女性だけに話をし始めると、ほとんどの人が回りに集まって来て、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだて、誰もが我が事として熱心に聴き入っていた。

 その際、師父はその女性にそれを説明しながら、自ら馬歩や弓歩を示して指導をされた。
 三尺に足を開いて馬歩になり、左の単手順圏をじっくりと示されながら、『ここではこう、ここでは、もっとこうなりますよね・・・』と言われ、馬歩になった所でピタリと静止し、『さあ、これでもう何時でも勁力が出せる状態です。今私はとても充足しているけれども、とても寛いでいて、息を溜めたり、何処かの筋肉を故意に収縮させていたり、グッと意識を高めたり、気を集めたりなど、全くしていません。勁力というのは、メカニズムによって出される、極めて科学的でシステマチックなチカラなのです』と、微笑んで言われた。
 そして『勁力は、元の構造がとても小さなものなのです。その意味でも、これを ”小架式”と呼ぶのは正解ですね。それは丁度、大きな雪崩を引き起こす原因が、たったひとつの小さな石ころであったりするのと、とても似ています・・』と、言われるのである。

 「科学的な態度」というのは、実践することの中で気付いたことを基に、そこから仮説を立て、さらなる実践を繰り返しながら検証して行き、幾度となくその仮説を修正することを繰り返して行くことに他ならないが、太極武藝館で指導を受けていると、誰もが太極拳の中身が非常に科学的なものであることに気付かされ、科学する目が養われていく。
 站椿は「神秘の力」を養うものではなく、ひたすら「構造」を識り、それを意識的に練り上げていくことにより、独自の非日常的なチカラを得るものなのである。

 「構造」とは、一般的に言えば、ひとつのものを造り上げている各々の素材の組み合わせ方によって出来た正しい「カタチ」のことであり、その正しいカタチによってもたらされる仕組みや、組織的・系統的な「システム」のことでもある。
 太極拳では、そのカタチの最たるものが馬歩と弓歩を柱とする「架式」であり、そのカタチに如何に至るのかを示したものこそが「無極椿」と呼ばれる、簡潔な要訣で表された最も基本とされる、最も高度で重要な站椿に他ならない。
 つまり「無極椿」とは、ありとあらゆる太極拳のカタチが真性であるかどうか判断することの出来る、最高最上の「規矩」なのだと言える。これ無しには太極拳は始まらないし、それが何を意味しているのかが真に理解されなくては、何をどう工夫しようと太極拳にはならない。
 丁度、大工が家を建てる際には、錘重(すいじゅう=糸をつけた円錐形の錘・下げ振り)や矩尺(かねじゃく)、水準器などが必要なように、太極拳の構造を理解するには「無極椿」という規矩・規準が絶対に必要なのである。

 しかし、その「無極椿」を正しく教えて貰えるかどうかも、大きな問題である。
 無極椿の要訣自体は、今日では誰にもよく知られるものだが、単にそれを自分なりに整えていても「無極椿」は出現してこない。優れた仏師の手に成れば、ただの木塊から得も言われぬ御仏の姿が現れ出でるように、何の取り得も無いように思える有りふれた日常の構造の中から、畏怖さえ覚える非日常の武術構造が突如として吾が身の上に現れ出て来るのである。
 そして、およそ高度な武藝として太極拳を志す者であれば、それを希求しない人は居ないに違いない。


 無極椿は、まず「正しく立つこと」から始められる。
 正しく立つこと、というのは、「どこで立っているか」というコトが最大の問題になる。
 立つんだからアシで立つに決まってるじゃないか、というのは武術的に見て余りにお粗末であり、やれ爪先で立つこと、いや母趾こそ重要だ、本当は母趾の付け根だ、いいやカカトで立つことこそが絶対ナノダ、と言ってみても、それが何ゆえ「武術」として成立し、実際にどう証明されるのかが問題になる。
 何であれ、「そう立つこと」によって何がどのように武術として成立するのかが最も重要なことであり、その根拠はもとより、太極拳が何故そのように立たねばならないのか、それが基礎基本とされる所以が科学的に実証されなくては、ただの推論や勝手な思い込みのレベルとされても仕方がない。

 「小架式」や「大架式」という区別もまた同じである。それが動作の大小に過ぎず、技術的にも根本的な相違はないという論には、個人的には少々首を傾げたくなる。
 もしそれが動作の大小に過ぎないならば、何ゆえ「小架式」と、敢えてわざわざ名を付けてまでその区別を表明しなくてはならなかったのか。また、小架式と大架式の伝承を各々の家系として分けなくてはならなかったのか。
 外部から見ると陳氏は大架式・老架式が主流に見えるが、実は小架式こそが古より陳氏太極拳の本流であったと聞く。小架は大架の家系とは全く違っていて、第九世の陳王廷よりもっと以前に小架と大架の各々の家系が分かれ、陳家溝の中の居住する地域まで異なっていたという。 
 小架式の代々の家系は生活にゆとりがあって、外に出て拳を教授したり、保鏢などの仕事で稼ぐ必要がなかった為にそれが世間一般に流出せず、外部から見てそれが本流の太極拳であるとは考えにくかった、ということらしい。
 しかし、そんなことよりも最も大きな問題は「小架」というものが一体何を意味するのかという真の理由である。円山洋玄師父は、その理由を端的に「構造の違い」だと言われる。
本来の小架と大架の架式には、明らかな「構造の違い」があると言われるのだ。

 では、その「構造の違い」とは何であるのか ──────────
 それをここで書いてしまったら、私は「龍の道」の ”玄洋會” に暗殺されるかも知れないので決して明かしたくはないが(笑)・・・・しかしまあ、私の知っている程度のコトなら案外許されるのかも知れない、とも思える。

 確かに、小架と大架、ふたつの架式の間には技術的には大きな違いは無いのかも知れない。
 しかし、少なくとも太極武藝館に入門して十年以上の歳月を経た門人であれば、現代陳氏に見られる大架式と、私たちが学んでいる小架式とには、極めて明確な「構造の違い」を見て取ることが出来るはずだ。それは練習段階を進めるにつれて徐々に圏を小さくしていったところの小圏・小纏・小架といったものの解釈といった話ではなく、あくまでも小架式という独自の「構造」を持った架式のことに他ならない。
 しかし、そんなことはもはや今日では小架系統の嫡孫でさえ口にせぬことかもしれないし、むしろ「構造の違いなんぞ有りはしない」と否定するかも知れない。

 けれどもなお、その「構造の違い」は余りに歴然としている。武術としての太極拳の構造を研究し、構造を解き、構造を識り得た人であるならば、基本功や套路の動きさえ観れば容易に見抜くことが出来るものであり、推手や発勁の有りようを見れば、その違いを判別するのはそれほど難しいものではない。


 「站椿」は、太極拳が武術としての絶対的なチカラを追求した果てに見出された、それを理解する為の非常に効率の良い独自の訓練法なのだと思える。そして、それを経験し、それを練り、それが分かるようにならなければ、「勁」というものは決してトータルには理解されることがないのだと思える。
 站椿とは「立つこと」に他ならないが、立つこと自体は余りにも身近なことであって、誰もが日常的に行ってしまっていることでもある。けれども、その「立つこと」を意識的に、ある規矩に則って行うことによって、ある「理解」が生まれる。
 最初の理解とは「認識の違い」への理解であると言える。自分がこうであると思って信じ込んでいたことが音を立てて崩れ落ち、その代わりに二度と崩れようのない、至って科学的な「武術構造」への認識についての理解が生まれるのである。

 太極拳にとって「立つこと」とは、馬歩で立つことに他ならない。
 その「馬歩の構造」は余りにも奧が深く、余りにも高みに向かって聳え立っているが、それは至ってシンプルな構造でもある、と円山洋玄師父は言われる。
 馬歩はどの高さで立っても、どの足幅で立っても、そこからどう動こうとも、どう表現されようと全く関係なく、構造が馬歩である限りそれは馬歩なのである。そのことは、馬歩の構造自体が非常にシンプルであることを示している。
 しかし、どれほど美しい馬歩に見えても、どれほど腰の位置が低く、足幅が常識を越えるほど広く見えても、馬歩の構造でないものは、やはり馬歩とは言えない。そして、その真の構造を識る者だけが、それが馬歩であるか否かの真贋を判別できるのであって、外見上の要求が一通り整って見えるかどうかなど、「正しい馬歩」を判断する何の材料にもならない。

 その「正しい馬歩」であれば、站椿を「練功」として練ることが出来る。
 站椿を練功として続けていさえすれば、いつの日か「正しい馬歩」が現れるわけではない。先ずは「正しい立ち方」を詳細に教授されることによってのみ「正しい馬歩」が理解でき、正しい馬歩が理解できれば、その馬歩を使って「正しい站椿」の練功に入っていくことが出来るということなのである。その「正しい站椿」が理解できれば、どのような練功を練っていても、それはすなわち「站椿の練功」となる。
 そして、站椿を練功として練ることが出来るようになれば、それが定歩の纏絲勁訓練であれ、歩法であれ、套路であれ、柔功であれ、すべての練功が「勁」を練るためのものであったことを学習者はようやく実感することになる。いわゆる「以意行気」「以気運身」「一挙一動が等しく意を用いて力を用いず、意が先に動き、その後に身体が動く、意が至れば気が動き、気が至れば勁が動く」ということが、身を以て明らかに実感できるようになるのである。

 ここで重要なことは、站椿が「気」を出すためのものでも、「気」を練る為のものでもないということである。「気が至れば勁が動く」のだから、気はあくまでも「勁を動かすためのもの」という意味なのである。
 站椿は「意」で整えられ、整えられた身体がまた意で動くことによって「気」が至り、それによって「勁」が動くのである。それはつまり、「気そのもの」が何かをするというのではなく、意を気が媒介することによって勁が動く、ということに他ならない。

 陳鑫先生の「中気」と「内勁」の解説を見ると、『中心である丹田から気を発しなければ、気はその元とするところを失い、たいへん出鱈目なものとなる。気は筋肉や皮膚の末端に至るまで充溢していなければ功夫が低く、気が不足しているということであり、外見は強そうに見えても内側は空っぽであるために必ず失敗をする。これは内勁を練っていない故であって正しくない。正しく勁を練れば神技を表すことが出来る』・・と、ある。
 内勁を練るには「用意不用力」の原則を守り、正確な「カタチ(構造)」が取れるように架式を整えるしか他に方法がない。カタチを正しくしたことによって可能となった練功に励めばこそ、『古い力が去り、真の力(勁力)が生じる』のである。
 その「カタチ」を私たちに理解させてくれるものは、やはり「站椿」しかないのだと思う。



                                   (了)

disciples at 20:54コメント(15)歩々是道場 | *站椿 

コメント一覧

1. Posted by のら   2011年01月13日 21:01
長々と「站椿」シリーズをお読み下さり、本当にありがとうございました。
站椿の記事は、取りあえず今回で区切りとさせて頂こうと思います。

ミクシィに掲載したものに多少の手を加えたものが9回、このブログ用に新たに書いたものが
2回となり、全部を合計すると原稿用紙にして136枚余り、いつの間にか5万4千文字を超える
文章を書いていたことが分かります。
しかし、書きたいことはまだまだ沢山あって、私たち一般門人の日頃の稽古体験の中には、
ブログの記事などには到底書ききれないほどの大きな内容が存在しているのだと思えます。

読み返せば取り留めもないことばかりで、内容的には却って師父の教えを歪めてしまう懸念さえ
あって、まさに汗顔の至りですが、初めにもお断りさせて頂いたように、これは私の個人的な
「学習メモ」をまとめたものに過ぎませんので、どうぞ呉々も、これが太極武藝館の「站椿」の
正式な学習システムであるなどとは、決してお考えになりませんように。

拙い文章にも係わらず、皆さまには多数のご訪問やコメントを頂戴し、本当にありがとうござい
ました。門の内外を問わず、太極拳を学んでいる方々が如何に「站椿」というものの本質や正しい
練功法を求めて居られるかがひしひしと伝わってきて、原稿を書くのにも熱が入りました。
今後また、厚顔にも再々何かをシリーズで書くようなことがあるかも知れませんが、その際にも
変わらず御高覧を頂ければ誠に嬉しく思います。
 
2. Posted by とび猿   2011年01月15日 12:59
站椿功は、傍から見ると、いろいろな解釈が出てきそうですが、実際に教えを受けると、
様々な解釈が生じるようなものではなく、観念的なものでもなく、それらとは逆で、
とても大切な根本をきちんと理解し育てる練功のように思います。
武藝館に入門し、いろいろな練功を学んでいますが、站椿功から離れたものなど、
何一つありません。
站椿功無くして太極拳を理解していくことなど、無理なのではないだろうかとも思えてきます。

長期に渡る連載、大変勉強になりました。
ありがとうございました。
 
3. Posted by マルコビッチ   2011年01月15日 17:19
長いこと「站椿」について連載してくださり、ありがとうございました。
毎回、ハッとさせられる文章があり、とてもありがたく感謝致します。

思い起こせば、私にとって站椿は、意味の解らない、足の裏がじんじん痛くなる
練功でしたが、今になってようやっと、無極椿は架式の整備があってこそのものだと、
理解出来るようになりました。
そして正しく立てた位置から、さらに練っていかないと動けないのだと今回の記事で
再認識致しました。

「構造」とは・・・正しいカタチによってもたらされる仕組みや、組織的・系統的な
「システム」のことでもある。・・・・・なるほど!!!

いかに多くの思い込みやとらわれによって生きているかが、太極拳を学んでいる中で
少し見えてきたように思います。
 
4. Posted by マガサス   2011年01月17日 13:59
 
>けれどもなお、その「構造の違い」は余りにも歴然としている

このようなことに論及したのは、のらさんが初めてではないでしょうか。
私もずっと、何を「小架」と言っているのか、よく分からずに悩みました。
巷で発売されている嫡孫の套路を見ても何も解明できませんし、表演を見たら尚更分かり難い。
小架なのか大架なのか、いったい何をもって小架だと言っているのでショウカ・・・
それらを見ただけで「コレはナ二架だ!」と分かる人はスゴイと思いますけど。

しかし武藝館で学び続けているうち、特にこの二年ほどは、師父が核心である「纏絲勁」を
詳細に公開され、ようやく小架が何を意味しているのかを実感できるようになりました。
それこそ、こんなに細かく教えてしまって良いのかと門人たちの方が心配するほど、
ソレは余りにも詳細にわたって教授されて(しまって)おります。

昨年、外門のお客様が訪問されたときにも、一緒に稽古されて一番ご覧になりたかったのは
其処のところではなかったかと思います。私だったら、絶対にソレに最大の興味を持ちます。
すぐ目の前で、じっくり有り有りと展開される纏絲勁の構造妙味・・・・
もう、それを観ただけで、その傍で、それと一緒に動けるだけでも、本当に幸せです。
そして、ソレは「站椿」が ”理解” されなくては絶対に出来ない、というのがスゴイ。
これがホンマモンの、太極拳のシステムなのですね。

長期間にわたって「站椿」のシリーズを掲載して頂き、本当にありがとうございました。
上手く纏まって書かれている、というよりは、態々上手く纏まらないように書かれている、
といった感もしないではないですが(笑)、このシリーズがどのような架式を学ぶ、
どのようなレベルの人にとっても、大きく練拳に役立つことは疑いようもありません。
 
5. Posted by 円山玄花   2011年01月17日 15:08
私にとって「站椿」は、長いこと太極拳最大のミステリーでした。
站椿の姿勢を教わり、守るべき要訣を学んでも、その要訣が頭の中をテロップが流れる如く、
右から左へと通過してゆくのみで、站椿を練る意味も、長時間立つ意味も分からなかったのです。
それらのミステリーがようやく解けはじめたのは、ひたすら諦めなかったからだと思えます。

「ただ立つこと」に、これほどの真理と法則が在るとは、誰が思うでしょうか。
それも、特別隠されているわけではなく、それを解くのに小難しい公式が必要なわけでもない。
探しものが目の前にあるのに見えなかったとき、大抵の場合はそれが見つかったときに、
「あれ、これってこんな形だったっけ?」とか、「こんな色だと思わなかった」など、
自分の頭にあるイメージのモノを探したがっていて、結局はそれが傷害となっていたことが
分かります。

太極拳でも、「站椿では意識を練るに違いない」とか、「足腰を鍛えるのだ」などと自分勝手に
想像したり思い込んでいると、目の前にあるのに見つからない、なんてことが起こります。
私自身もまた、站椿に耳を傾け、太極拳に学ぶようになってから、ようやく見えてきた次第です。

のらさんの「站椿シリーズ」は、今站椿を学んでいる人も、これから站椿を学ぶ人にとっても、
「站椿」というものを正しく認識するために、また自分の太極拳観を見直すのに、
きっと役に立つことと思います。
どなたも諦めずに、黙々と、コツコツと稽古して頂きたいと、切に願います。
 
6. Posted by 春日敬之   2011年01月18日 11:21
 
>古い力が去り、真の力(勁力)が生じるのである

ぼくは、陳鑫老師のこの一文に、すごく痺れます。
真のチカラである「勁力」は ”古い力” ではなく、
そのような古い力が去ることによってのみ、生じるものであるということ。
これは、真にそのチカラを修得した人、
真伝を修錬することによって、本物の勁力を得た人の言葉であると感じます。

そして、のらさんによれば、それを理解させてくれるものは、やはり「站椿」しかないのだと。
「站椿」とは、馬歩の恰好をして何かしらの意念を持ち、
ポンジンを膨らませつつ、足がブルブルしても我慢して立ち尽くすようなことではなく、
ただひたすら「太極拳の武術構造」を理解するためのものであり、
その構造が理解されてからも、その構造自体を練るために「站椿」が存在している。
つまり、正しい武術構造を取るためにカタチを整え、
カタチを正しくしたことによって可能となった武術の練功に励む、
ということですね。

その「正しい構造」や、武術としての太極拳の「練功」を教えてくれる処が、
現代の中国や日本に果たしてどれほど存在するのかは分かりませんが、
少なくとも「玄門・太極武藝館」には、それが詳細に亘って正しく伝えられており、
門人である私たちは、それをきちんと、余すところなく学ぶことが出来る。
そして、幸運にもそれを嗅ぎつけた人たちが、たとえ遠く離れた所からでも通ってくる。
それは本当に素晴らしいことであると、心底そう思えます。

長期に渡って五万四千文字の力作を書いて頂き、ご苦労さまでした。
次のシリーズを楽しみにしています。
 
7. Posted by bamboo   2011年01月18日 19:59
入門する前を思い出しました。意味もわからずフラフラになるまでスクワットしてましたよ^^;
また同時に、今もこれからも変わり続けたいと思えることを幸せに感じます。
これも武藝館に入門し、師父はじめ多くの人から教えをいただいたおかげです。
今年こそは結果を・・!
 
8. Posted by のら   2011年01月19日 12:21
☆とび猿さん

>実際に教えを受けると、様々な解釈が生じるようなものではなく

本当にそのとおりですね。様々な解釈が生じてしまうのは、それが本物の原理によって教授されてはいない故かもしれません。

>站椿功から離れたものなど、何一つありません

そうきっぱりと言えるとび猿さんは、とても幸せですね。
站椿を「どうやるか」ではなく、站椿が「何であるか」を理解することこそ、
練拳の最も重要なポイントなのだと思えます。

ご愛読をありがとうございました。
 
9. Posted by のら   2011年01月19日 12:28
☆マルコビッチさん

>毎回、ハッとさせられる文章があり

気儘に、支離滅裂に書き綴っただけのものに過ぎませんが、
そんなふうに言って頂けると、とても嬉しく思います。

>無極椿は架式の整備があってこそのものだと、理解できるようになりました

その「整備」の仕方を教えてくれる人が居なければ、
架式の構造はさぞかし滅茶苦茶なものになることでしょう。
三年掛けて良師を探す、という言葉もありますが、
まずは教えてくれる人のレベルや理解度を見極めることこそ、
学習者にとって最も重要なことなのかもしれませんね。

ご愛読をありがとうございました。
 
10. Posted by のら   2011年01月19日 12:40
☆マガサスさん

>論及したのは、のらさんが初めてではないでしょうか

あらま、そうだったのでしょうか。
以前にどなたかが同じことを言っていないか、さっそく調べてみましょう(笑)

>ソレは余りにも詳細にわたって教授されて(しまって)おります

ほんまに、ほんまに。
誤解を恐れずに言えば、纏絲勁がこんなに簡単なものだとは・・・
嗚呼、一体その事実を誰が知るでしょうか。
まさに燈台下暗し、他へ探しに出かけていては、何も分からないのだと思います。

ご愛読をありがとうございました。
少しでも皆さまの練拳のお役に立てて頂ければ幸いです。
 
11. Posted by のら   2011年01月19日 12:50
☆玄花さん

ご愛読をありがとうございました。

自分勝手に想像したり思い込んでいると、目の前に在るのに見つからない、というのは
私もさんざんやってきているのですが、ただ、中々それに懲りていない(笑)。
素晴らしいものを見つけられるのは、結局は自分自身の整備と、
自己を挟まず、ただ純粋に、直向きに求め続けていける真摯な心なのだと、
武藝館に入ってからつくづくそのことを思い知らされました。
太極拳がただの武術、闘争術ではなく、「道」として存在し得る所以であると思います。
私もあきらめずに、モクモク、コツコツ、稽古していきます。
 
12. Posted by のら   2011年01月19日 13:01
☆春日さん

>ぼくは、陳鑫老師のこの一文に、すごく痺れます

シビレますよね~、この言葉には!!
本当のことを識り、本当のことを練ってきた人の言葉にはズシリと重みがあって、
誰もがそれを真実であると直感できますが、
ロクに分かってもいないのに分かったようなクチを利くヒトの言葉は軽々しくて、
そのつど、言うことも違っていて、学習者に混乱を招きます。
知らないのなら言わなければいいのにナ、と思うのですが、
ご本人は言わなくては気が済まない・・・・(笑)
ウチの師父は冗談は仰っても、その冗談の中にさえ真実が隠されている。
門人は、そのところを決して見落とさないようにしないといけません。

ご愛読をありがとうございました。
 
13. Posted by のら   2011年01月19日 13:11
☆ bamboo さん

>入門する前を思い出しました

私も思い出しますね~
太極拳を始めるから、走り込まなきゃならないな、なんて思ったりして。(笑)

ボディビルなどはいくらやっても良いと思う、なんて仰る老師もおられますが、
武術界には太陽がいっぱい、危険がイッパイで、強い鑑識眼こそが要求されますね。
ますます本物の太極拳にのめりこんでいらっしゃるご様子、
今年も頑張って下さいね!!

ご愛読をありがとうございました。
 
14. Posted by まっつ   2011年01月21日 00:21
「科学的な態度」を証明するプロセスとして、
「知の妥当な形式は、指示、開示、確認の三つの要素からなる」
と説く考え方があります(「統合心理学への道」ケン・ウィルバー)。

三つの要素とは下記の通りの単純なものです。
指示:手順を示す
開示:指示の実行(実践)によって開示されるデータ(経験)の直接的把握
確認:同じように指示を実行した人との間でのデータ(経験)の相互確認

このプロセスを通す事で、どのようなアプローチに対しても、
その妥当性が反復、証明、もしくは反証が可能である・・・とされます。
小生もこのプロセスは客観性が担保されており妥当であると支持しています。

そして站椿及び太極拳の理解に対する太極武藝館のアプローチを見ると、
明確な指示を示し、指示の実践により站椿の理解が経験される事が生じ、
>その真の構造を識る者だけが、それが馬歩であるか否かの真贋を判別できる・・・
によりその妥当性を確認し、明確にその真偽が証明されています。

一般的に認知され難い対象は、一概に「神秘の力」で括られてしまいがちですが、
それはプロセスが明確ではないが故の致し方ない事情によるのだと思われます。
太極武藝館の稽古において、学問とは深いものだと経験出来る事は幸せです。

連載「站椿」シリーズでは、太極拳の最も基本的な練功である「站椿」に関して、
文字において可能な限りの指示を示して頂きました。
誠にありがとうございました。
是を実践し、内容を開示する事が読み手の努めであるかと思われます。
・・・きっと妥当ではない事が証明されるのでしょうが、
それもまた幸せな事なのだと思います。
 
15. Posted by のら   2011年01月23日 19:10
ご愛読をありがとうございました。

ケン・ウィルバーの「知の妥当な形式要素」は、それ自体は妥当な形式であり、
科学的に物事を見るためには大変シンプルで分かり易い方法であると思えます。
站椿や太極拳自体の理解に対する太極武藝館のアプローチについても、
その三つの要素を以て為されている、と観ることも勿論できます。

しかし、それは如何にも西洋人の合理的な解釈の仕方で括られていて、それだけでは決して
高いレベルでの太極拳の「知」とは成り得ないこともまた明らかです。
例えば、「禅」の不立文字、隻手音声如何といったことを理解するのにその形式が使える筈はないように、太極拳を十全に理解するには、そのような西洋式 ”知のシステム” では不足となることでしょう。

太極拳は歴とした学問であり、科学的な態度を以て解明できるものには違いありませんが、
かと言って、それがすべて ”科学する手順” で解明できるものでもないと私は思っています。
その解明できないものを仮に「神秘」とすれば、師父のような俊逸の学究は、その神秘を科学的に解明しようとするのではなく、神秘そのものを受け容れ、神秘それ自体に入って行くことによって十全にそれを体験し、故にそれがトータルに理解され、結果として科学的に解明された、ということが起こっているのかもしれません。
 

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