2010年11月18日
歩々是道場 「站椿 その10」
by のら (一般・武藝クラス所属)
「用意不用力」とは、何を意味するのでしょうか。
そして、その「意」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
陳氏太極拳の特徴の第一は「大脳の働きに基づく意と気の運動」とされていますが、それが他の特徴である虚実や纏絲、弾性運動などを差し置いて、最も初めに説かれていることを見ても、太極拳では「意を以て気を用い、気を以て身体を動かす」ということが如何に重要な問題であるかが分かります。
また、それがそのまま中国拳術の名称となった意拳(Yi-quan)では、《 ”意”とは精神支配の大意と想像であり、精神の高度な集中の下で意識誘導を用いて内在する精神の力を得ようとするものである 》と説明されています。
人間の「意識」の働きは、信じられぬほどの大きな力をもたらします。
ごく普通の主婦の手にリンゴを持たせ、それを握り潰して下さいと言うと、誰もがそんなことは不可能だと笑いますが、その人に催眠術をかけて「手のひらでリンゴを握り潰せる」という暗示をかけると、リンゴはものの見事に手の中でグシャグシャに潰れてしまいます。
或いはまた、全く一輪車に乗ったこともない中年の男性に、同じように催眠状態で「乗れること」をイメージさせると、短時間の練習で乗れるようになったりもします。
もし、このようなチカラが武術に使われたら、さぞかし凄いことになるのでしょう。初心者がいきなり発勁で人を吹っ飛ばすかも知れませんし、誰でもバランスボールの上でピョンピョンとジャンプ出来るようになるかも知れません。
ヒトの「意識」というのは、どのような構造になっているのか。
いや、そもそも「意識」とは、一体何であるのか・・・
そして、中国武術で言う「意」とは何か・・・
そんな疑問にぶつかるのは、決して私だけではないと思います。
宗教、神智学、神秘思想などの領域を別にすれば、意識はすべて「脳」の働きである、とされています。脳の働きから見れば、ひと言で云えば意識とは「自己認識の知覚」であると定義することが出来ます。つまり、この世界、この肉体、この自己を知覚できることこそが「意識」であるということに他ならないのです。
生物にとって「意識」の始まりとは、おそらく光の刺激に対する感応性であったことでしょう。それが種の進化や個体の成長と共に、その感応性のレベルが「自己認識」へと深まってきたというわけです。
西洋医学でいう「自律神経」は、「意識」と関係なく働くところから「意識の制約を受けずに ”自律” している神経」と呼ばれているものですが、近年になって実はそれは意識から全く自律などしておらず、精神活動の影響を大いに受けているのではないか、いや、実は自律神経それ自体が「意識的」にコントロール出来るものではないか、とさえ考えられるようになりました。それは今日の「心身医学」の始まりとなった観点でもあります。
しかし、実際にはこのような「意識と身体」の相関関係の例は既に古くから無数にあり、それらは西洋医学界でも長い間「暗黙知」として共有されてきていました。
少し例を挙げれば、心理的なストレスがホルモンの分泌に異常を起こし、それをコントロールする自律神経に悪影響を与えているのではないか、とか、不整脈の患者が、息を詰めると不整脈が起こりやすいことを殆どの人が体験的に知っており、深呼吸をすることで脈拍が遅くなることを誰に教わらなくても知っている、とか、てんかん患者は、深呼吸を無理に繰り返すと発作が起きやすいと言うことを体験的に知っていて、そういう呼吸を意識的に避けていたり、心臓神経症で検査では何も出ない人が、不整脈や狭心症の症状が出ることもある・・等々。
西洋医学がそれらを検証して医学の体系の中にようやく受容するようになったのは、わずかにこの数十年程度のことですが、それは『人の身体に意識の働かないところは無い』ということが西洋医学的にも実証されつつあることを示すものです。
「意識」を脳のはたらきとして観ると、「小脳」が比較的大きな役割を果たしていることが考えられます。Raptor(ラプター=猛禽類)という名が与えられた最新鋭戦闘機 F-22 よりも自由に空を飛び回り、百メートル以上も離れた水面下の魚を瞬時に急降下して獲ることの出来る鳥類たちは小脳が大脳よりも大きく発達していますが、人間の小脳は脳の最下部、脳幹の後ろ側にあって、その名のとおり、大脳と比べればとても小さな脳です。
小脳の主な機能は知覚と運動機能の統合であり、筋緊張、随意筋運動、平衡などの調節を司っています。人間が鳥のそれに比例するような大きな小脳を持つようになれば、武術も随分高度なものになるかも知れない・・・などと思いたくなりますが、見た目は小さくとも、実は皺を伸ばして広げれば大脳の2倍もの面積があり、神経細胞の数は大脳の140億個に対して、その7倍以上にも相当する一千億個もあるのです。
したがって、小脳の「中身」は大脳を遥かに凌駕していると言えるかも知れません。
小脳は、これまでは人が倒れずに真っ直ぐ立てるバランス感覚や手先の器用さを司っているだけの役割だと言われていましたが、近年の研究では「小脳は記憶する」という事実が分かってきています。いわゆる「身体で覚えること」というのは、実はこの小脳の働きであったというわけです。
小脳のすぐ側にある「脳幹」は脳の中枢であり、すべての中枢を支配しているものですが、「心と意識」の源と言われ、言わば「意」の中枢であるともいえます。
これは二億年前の爬虫類時代に形成した脳ですが、テレパシーが情報処理の媒体とされ、まだ言葉をしゃべれない胎児や赤ん坊が、母親に何を話しかけられても内容を理解できるような情報処理能力を持っています。
脳幹から大脳新皮質の右脳に通じる回路が開かれれば、肉体的・精神的にヒトを変容させる力を持つ独自のホルモンが間脳視床下部より分泌され、潜在能力が開花することはよく知られている通りですが、太極拳や他の武術での発声法(雷声・気合い)などは間脳を目覚めさせるバイブレーションとして、宗教的な祈りや読経と同じようにホルモンの分泌に大きく関わっているものであり、站椿でのイメージ訓練も同様に、そのようなホルモンの分泌を大いに促すものに他なりません。
站椿は、初心者が最も「用意不用力」を実感しやすい訓練方法です。
站椿では先ず「意」が構造への認識として用いられ、その後に構造の変化への認識、また、その際のチカラの発生への認識などと、多様に用いられることになります。
「意」によって、そこで得られた構造やチカラは、他の基本訓練や套路に活かされ、推手や散手で練られ、試され、修正されて、さらに精密なものになっていきます。
時折、「站椿」が太極拳の練功として如何に大きな意味を持つかを、一般クラスの稽古で強く感じさせられることがあります。
師父がいつもより站椿に多くの時間を取られ、それまで余り教えなかったことなどを少しばかり詳しく指導されると、居合わせた門人たちは、その日に限って「立ち方」や「動き方」がそれまでとは別人のように繊細になったり、対練でいきなり強烈に人が飛び始めたりするようになったりする不思議な現象が起こります。
また、師父によるセミナーでは、門人を床に寝かせ、身体の各部に触れながら動かすべき部位を意識させ、動きのイメージを想起させるだけで、その場で構造が調整され、立ち方や歩き方が劇的に正しくなるという、まるで魔法にでもかけられたように思えることも起こります。
実際にそのような体験を機に太極拳に対する考え方が大きく変わった人も居ますが、正しい構造で整備された「站椿」の理論や練功は、かくも驚くべきチカラを各人にもたらすのだと、あらためて驚かされてしまいます。
しかし、その時に師父が指導されたことは何ら特別なことではなく、言わば普段から耳にしている内容を基本として、それらを新たに創造的に組み立てて行ったような内容でした。
つまり取り立てて新しいものは無く、やろうと思えば自分たちでもその訓練や調整が出来たのだと思います。ただ、その創造性が自分たちには無かった、ということでしょうか。指導力もまた、脳幹や右脳に正しく働きかけられるところの能力であるに違いないと思えます。
站椿もまた、基本功で構成された、基本の構造によるものに他なりません。
基本を如何に教わるか、基本を如何に学ぶか、基本を如何に知るか・・・
かくも素晴らしい武術的な成果を生む站椿も、基本の理解なくしては正にネコに小判、ただ站椿らしきことを真似て球を抱え、原理構造がその度に変化してしまうような馬歩で立っても何ひとつ学習にならないどころか、それによる弊害さえ起こり得るのだと思います。
まずは初心に立ち返って、常に「基本」を学び直す姿勢こそが、站椿のような精密な練功を活かす最大の鍵になるのだと、強く思い知らされるこの頃です。
(つづく)
「用意不用力」とは、何を意味するのでしょうか。
そして、その「意」とは、一体どのようなものなのでしょうか。
陳氏太極拳の特徴の第一は「大脳の働きに基づく意と気の運動」とされていますが、それが他の特徴である虚実や纏絲、弾性運動などを差し置いて、最も初めに説かれていることを見ても、太極拳では「意を以て気を用い、気を以て身体を動かす」ということが如何に重要な問題であるかが分かります。
また、それがそのまま中国拳術の名称となった意拳(Yi-quan)では、《 ”意”とは精神支配の大意と想像であり、精神の高度な集中の下で意識誘導を用いて内在する精神の力を得ようとするものである 》と説明されています。
人間の「意識」の働きは、信じられぬほどの大きな力をもたらします。
ごく普通の主婦の手にリンゴを持たせ、それを握り潰して下さいと言うと、誰もがそんなことは不可能だと笑いますが、その人に催眠術をかけて「手のひらでリンゴを握り潰せる」という暗示をかけると、リンゴはものの見事に手の中でグシャグシャに潰れてしまいます。
或いはまた、全く一輪車に乗ったこともない中年の男性に、同じように催眠状態で「乗れること」をイメージさせると、短時間の練習で乗れるようになったりもします。
もし、このようなチカラが武術に使われたら、さぞかし凄いことになるのでしょう。初心者がいきなり発勁で人を吹っ飛ばすかも知れませんし、誰でもバランスボールの上でピョンピョンとジャンプ出来るようになるかも知れません。
ヒトの「意識」というのは、どのような構造になっているのか。
いや、そもそも「意識」とは、一体何であるのか・・・
そして、中国武術で言う「意」とは何か・・・
そんな疑問にぶつかるのは、決して私だけではないと思います。
宗教、神智学、神秘思想などの領域を別にすれば、意識はすべて「脳」の働きである、とされています。脳の働きから見れば、ひと言で云えば意識とは「自己認識の知覚」であると定義することが出来ます。つまり、この世界、この肉体、この自己を知覚できることこそが「意識」であるということに他ならないのです。
生物にとって「意識」の始まりとは、おそらく光の刺激に対する感応性であったことでしょう。それが種の進化や個体の成長と共に、その感応性のレベルが「自己認識」へと深まってきたというわけです。
西洋医学でいう「自律神経」は、「意識」と関係なく働くところから「意識の制約を受けずに ”自律” している神経」と呼ばれているものですが、近年になって実はそれは意識から全く自律などしておらず、精神活動の影響を大いに受けているのではないか、いや、実は自律神経それ自体が「意識的」にコントロール出来るものではないか、とさえ考えられるようになりました。それは今日の「心身医学」の始まりとなった観点でもあります。
しかし、実際にはこのような「意識と身体」の相関関係の例は既に古くから無数にあり、それらは西洋医学界でも長い間「暗黙知」として共有されてきていました。
少し例を挙げれば、心理的なストレスがホルモンの分泌に異常を起こし、それをコントロールする自律神経に悪影響を与えているのではないか、とか、不整脈の患者が、息を詰めると不整脈が起こりやすいことを殆どの人が体験的に知っており、深呼吸をすることで脈拍が遅くなることを誰に教わらなくても知っている、とか、てんかん患者は、深呼吸を無理に繰り返すと発作が起きやすいと言うことを体験的に知っていて、そういう呼吸を意識的に避けていたり、心臓神経症で検査では何も出ない人が、不整脈や狭心症の症状が出ることもある・・等々。
西洋医学がそれらを検証して医学の体系の中にようやく受容するようになったのは、わずかにこの数十年程度のことですが、それは『人の身体に意識の働かないところは無い』ということが西洋医学的にも実証されつつあることを示すものです。
「意識」を脳のはたらきとして観ると、「小脳」が比較的大きな役割を果たしていることが考えられます。Raptor(ラプター=猛禽類)という名が与えられた最新鋭戦闘機 F-22 よりも自由に空を飛び回り、百メートル以上も離れた水面下の魚を瞬時に急降下して獲ることの出来る鳥類たちは小脳が大脳よりも大きく発達していますが、人間の小脳は脳の最下部、脳幹の後ろ側にあって、その名のとおり、大脳と比べればとても小さな脳です。
小脳の主な機能は知覚と運動機能の統合であり、筋緊張、随意筋運動、平衡などの調節を司っています。人間が鳥のそれに比例するような大きな小脳を持つようになれば、武術も随分高度なものになるかも知れない・・・などと思いたくなりますが、見た目は小さくとも、実は皺を伸ばして広げれば大脳の2倍もの面積があり、神経細胞の数は大脳の140億個に対して、その7倍以上にも相当する一千億個もあるのです。
したがって、小脳の「中身」は大脳を遥かに凌駕していると言えるかも知れません。
小脳は、これまでは人が倒れずに真っ直ぐ立てるバランス感覚や手先の器用さを司っているだけの役割だと言われていましたが、近年の研究では「小脳は記憶する」という事実が分かってきています。いわゆる「身体で覚えること」というのは、実はこの小脳の働きであったというわけです。
小脳のすぐ側にある「脳幹」は脳の中枢であり、すべての中枢を支配しているものですが、「心と意識」の源と言われ、言わば「意」の中枢であるともいえます。
これは二億年前の爬虫類時代に形成した脳ですが、テレパシーが情報処理の媒体とされ、まだ言葉をしゃべれない胎児や赤ん坊が、母親に何を話しかけられても内容を理解できるような情報処理能力を持っています。
脳幹から大脳新皮質の右脳に通じる回路が開かれれば、肉体的・精神的にヒトを変容させる力を持つ独自のホルモンが間脳視床下部より分泌され、潜在能力が開花することはよく知られている通りですが、太極拳や他の武術での発声法(雷声・気合い)などは間脳を目覚めさせるバイブレーションとして、宗教的な祈りや読経と同じようにホルモンの分泌に大きく関わっているものであり、站椿でのイメージ訓練も同様に、そのようなホルモンの分泌を大いに促すものに他なりません。
站椿は、初心者が最も「用意不用力」を実感しやすい訓練方法です。
站椿では先ず「意」が構造への認識として用いられ、その後に構造の変化への認識、また、その際のチカラの発生への認識などと、多様に用いられることになります。
「意」によって、そこで得られた構造やチカラは、他の基本訓練や套路に活かされ、推手や散手で練られ、試され、修正されて、さらに精密なものになっていきます。
時折、「站椿」が太極拳の練功として如何に大きな意味を持つかを、一般クラスの稽古で強く感じさせられることがあります。
師父がいつもより站椿に多くの時間を取られ、それまで余り教えなかったことなどを少しばかり詳しく指導されると、居合わせた門人たちは、その日に限って「立ち方」や「動き方」がそれまでとは別人のように繊細になったり、対練でいきなり強烈に人が飛び始めたりするようになったりする不思議な現象が起こります。
また、師父によるセミナーでは、門人を床に寝かせ、身体の各部に触れながら動かすべき部位を意識させ、動きのイメージを想起させるだけで、その場で構造が調整され、立ち方や歩き方が劇的に正しくなるという、まるで魔法にでもかけられたように思えることも起こります。
実際にそのような体験を機に太極拳に対する考え方が大きく変わった人も居ますが、正しい構造で整備された「站椿」の理論や練功は、かくも驚くべきチカラを各人にもたらすのだと、あらためて驚かされてしまいます。
しかし、その時に師父が指導されたことは何ら特別なことではなく、言わば普段から耳にしている内容を基本として、それらを新たに創造的に組み立てて行ったような内容でした。
つまり取り立てて新しいものは無く、やろうと思えば自分たちでもその訓練や調整が出来たのだと思います。ただ、その創造性が自分たちには無かった、ということでしょうか。指導力もまた、脳幹や右脳に正しく働きかけられるところの能力であるに違いないと思えます。
站椿もまた、基本功で構成された、基本の構造によるものに他なりません。
基本を如何に教わるか、基本を如何に学ぶか、基本を如何に知るか・・・
かくも素晴らしい武術的な成果を生む站椿も、基本の理解なくしては正にネコに小判、ただ站椿らしきことを真似て球を抱え、原理構造がその度に変化してしまうような馬歩で立っても何ひとつ学習にならないどころか、それによる弊害さえ起こり得るのだと思います。
まずは初心に立ち返って、常に「基本」を学び直す姿勢こそが、站椿のような精密な練功を活かす最大の鍵になるのだと、強く思い知らされるこの頃です。
(つづく)
コメント一覧
1. Posted by リン 2010年11月19日 19:30
ご無沙汰しております。
皆様、お変わりはないでしょうか。
いつもブログを拝見しては、日々の稽古の糧や反省とさせていただいています。
なかなか改まってお礼を申し上げる機会がございませんので、一言書き込ませていただきました。
皆様、お変わりはないでしょうか。
いつもブログを拝見しては、日々の稽古の糧や反省とさせていただいています。
なかなか改まってお礼を申し上げる機会がございませんので、一言書き込ませていただきました。
2. Posted by のら 2010年11月20日 14:57
☆リンさん
ご投稿をありがとうございます。こちらこそご無沙汰しております。
ブログは、記事を寄せることも、記事を読むことも、ともにとても良い稽古になりますね。
私も、どれほどこのブログ・タイジィで勉強させて頂いたか知れません。
ブログを通じて共に稽古ができることを、とても嬉しく思います。
道場では近頃のご指導は益々高度になり、一般門人のレベルも格段に上がってきました。
私たちは完全な姿として見せられる纏絲勁の難しさに、皆ヒイヒイ音を上げている始末です。
この次はぜひ道場の稽古で、一緒に汗(・・冷や汗かな?)をかきましょう!!
ご投稿をありがとうございます。こちらこそご無沙汰しております。
ブログは、記事を寄せることも、記事を読むことも、ともにとても良い稽古になりますね。
私も、どれほどこのブログ・タイジィで勉強させて頂いたか知れません。
ブログを通じて共に稽古ができることを、とても嬉しく思います。
道場では近頃のご指導は益々高度になり、一般門人のレベルも格段に上がってきました。
私たちは完全な姿として見せられる纏絲勁の難しさに、皆ヒイヒイ音を上げている始末です。
この次はぜひ道場の稽古で、一緒に汗(・・冷や汗かな?)をかきましょう!!
3. Posted by 小周天 2010年11月21日 13:05
「意識」に対する認識は、ともすれば「想像」に陥りやすいと思っていましたが、
今回の記事によってとても明確に認識することができました。
ありがとうございます。
稽古をしていると、「こんなにも自分の身体を統御できないものか!」と、
イヤになることもありますが、そんなときは「站椿」に戻ると、よく納得できます。
ああ、站椿でこれだけ乱れているのだから、動けばメチャクチャだよなぁ、と。
自己認識の回路が塞がっていて自己統御ができるはずもなかったのです。
のらさんの、『まずは初心に立ち返って、常に「基本」を学び直す姿勢こそ…』という言葉が、
とても心に残りました。
今回の記事によってとても明確に認識することができました。
ありがとうございます。
稽古をしていると、「こんなにも自分の身体を統御できないものか!」と、
イヤになることもありますが、そんなときは「站椿」に戻ると、よく納得できます。
ああ、站椿でこれだけ乱れているのだから、動けばメチャクチャだよなぁ、と。
自己認識の回路が塞がっていて自己統御ができるはずもなかったのです。
のらさんの、『まずは初心に立ち返って、常に「基本」を学び直す姿勢こそ…』という言葉が、
とても心に残りました。
4. Posted by 太郎冠者 2010年11月21日 21:32
最近、僕もちょうど脳について調べていたのですが、多く言及されているのは、やはり大脳の働きのほうだと感じました。
まだ、小脳に関しては研究が進んでいないのか、それともいかにも「人間らしい」働きが、大脳に集約されているのでしょうか・・・。
太極拳においては思考=拙力であり、考えてから動くことは「用意不用力」の原則から外れる、と指導されています。
思考をつかさどっている部位と小脳など中枢部位での働きの違いと、指導されている内容を比べてみると、ちょっと面白いことが見えてくる・・・ような気がしました。
同じ構造の身体や脳を持っていても、使い方によって差がでてくるのなら、もっと効率よく使っていけるようになりたいものです。
まだ、小脳に関しては研究が進んでいないのか、それともいかにも「人間らしい」働きが、大脳に集約されているのでしょうか・・・。
太極拳においては思考=拙力であり、考えてから動くことは「用意不用力」の原則から外れる、と指導されています。
思考をつかさどっている部位と小脳など中枢部位での働きの違いと、指導されている内容を比べてみると、ちょっと面白いことが見えてくる・・・ような気がしました。
同じ構造の身体や脳を持っていても、使い方によって差がでてくるのなら、もっと効率よく使っていけるようになりたいものです。
5. Posted by まっつ 2010年11月21日 23:40
大変、興味深く拝見させて頂きました。とても勉強になります。
「用意不用力」の要訣とは、
簡素でありながらも、この上なくこの世界の在り方を喝破した句なのだなと思われます。
その示す処は太極拳のみに止まらず、其れは遍くこの世界の実相なのだと感じられます。
人が何かアクションを起こすプロセスを見ると、
先ず感覚や認識等、意識活動により対象を把握し、
同時、もしくはしかる後にそれを操作している事が分かります。
先に感覚する事、認識する働きがあって、何かが起こりうるのはそれからです。
単純に言えば、「認識」を操作しているとも表現できるかもしれません。
逆に言えば、現に存在していても、感覚出来ない、認識できない、
自身にとって見えない対象は、操作できるはずもありません。
よく稽古では、見えないと始まらないと注意を受けますが、
それは本当にその通りだと思います。
自分の内の世界、自分が感覚できる、操作できる世界に「無い」対象に関われる道理がありません
「站椿」とは、その感じられる世界を豊かに広げてくれる可能性なのだと思われます。
感じる事を先ず稽古するとは、内家拳の本義を直截に指し示しており、
なるほどと思わずにはいられません。
トホホなのは、なんとも貧しい自らの感覚ですね・・・
ヒントはそこら中に転がっている、という恵まれた環境なのですから、
もっとセンシティブに成らなければイカン・・・反省して、精進します。
「用意不用力」の要訣とは、
簡素でありながらも、この上なくこの世界の在り方を喝破した句なのだなと思われます。
その示す処は太極拳のみに止まらず、其れは遍くこの世界の実相なのだと感じられます。
人が何かアクションを起こすプロセスを見ると、
先ず感覚や認識等、意識活動により対象を把握し、
同時、もしくはしかる後にそれを操作している事が分かります。
先に感覚する事、認識する働きがあって、何かが起こりうるのはそれからです。
単純に言えば、「認識」を操作しているとも表現できるかもしれません。
逆に言えば、現に存在していても、感覚出来ない、認識できない、
自身にとって見えない対象は、操作できるはずもありません。
よく稽古では、見えないと始まらないと注意を受けますが、
それは本当にその通りだと思います。
自分の内の世界、自分が感覚できる、操作できる世界に「無い」対象に関われる道理がありません
「站椿」とは、その感じられる世界を豊かに広げてくれる可能性なのだと思われます。
感じる事を先ず稽古するとは、内家拳の本義を直截に指し示しており、
なるほどと思わずにはいられません。
トホホなのは、なんとも貧しい自らの感覚ですね・・・
ヒントはそこら中に転がっている、という恵まれた環境なのですから、
もっとセンシティブに成らなければイカン・・・反省して、精進します。
6. Posted by のら 2010年11月22日 18:20
☆小周天さん
站椿は、やはり「根本」を示しているものなのだと思います。
常にそこに立ち返り、立つこととは何か、動けることとは何かを、
もう一度振り返って確認することのできる、太極拳という武術の根本であると思えます。
立っていることの正しい構造と、そこから始まる動きの構造は、
実際に「そのこと」を知る師から教授され、学ぶことでしか身に付かないはずです。
認識の回路が狂っていては、自己統御ができるはずもありませんね。
そのような「自分の回路」を気に留め続ける事こそが、稽古の本質に違いありません。
私たちは恵まれた環境を活かし、それを決して無駄にすることなく、
もっともっと練拳に励まなくてはならないと、つくづく思う次第です。
站椿は、やはり「根本」を示しているものなのだと思います。
常にそこに立ち返り、立つこととは何か、動けることとは何かを、
もう一度振り返って確認することのできる、太極拳という武術の根本であると思えます。
立っていることの正しい構造と、そこから始まる動きの構造は、
実際に「そのこと」を知る師から教授され、学ぶことでしか身に付かないはずです。
認識の回路が狂っていては、自己統御ができるはずもありませんね。
そのような「自分の回路」を気に留め続ける事こそが、稽古の本質に違いありません。
私たちは恵まれた環境を活かし、それを決して無駄にすることなく、
もっともっと練拳に励まなくてはならないと、つくづく思う次第です。
7. Posted by のら 2010年11月22日 18:38
☆太郎冠者さん
人間は考える葦と言われる思惟する動物で、そのパスカルさん自身も、
「宇宙には何も無い、ゆえに吾々の尊厳のすべては考えることの中にある」
と、その著作である「パンセー」の中で語っています。
しかし東洋では「宇宙には何もない」のではなく、「何もないこと」が在ると考えてきました。
これは、常々師父の言われる「考え方」の違いですね。
そしてひとつのことに対して、何ものにも囚われない多彩な「考え方」が出来る自由さこそ、
真実を見出すことの出来る、唯一の環境なのかも知れませんね。
「思考」は拙力に違いありませんが、
「考え方(意)」を「使う(用)」ことで、「力(思考)」が「いらない(不用)」ようになる、
ということもあると思います。
人間は考える葦と言われる思惟する動物で、そのパスカルさん自身も、
「宇宙には何も無い、ゆえに吾々の尊厳のすべては考えることの中にある」
と、その著作である「パンセー」の中で語っています。
しかし東洋では「宇宙には何もない」のではなく、「何もないこと」が在ると考えてきました。
これは、常々師父の言われる「考え方」の違いですね。
そしてひとつのことに対して、何ものにも囚われない多彩な「考え方」が出来る自由さこそ、
真実を見出すことの出来る、唯一の環境なのかも知れませんね。
「思考」は拙力に違いありませんが、
「考え方(意)」を「使う(用)」ことで、「力(思考)」が「いらない(不用)」ようになる、
ということもあると思います。
8. Posted by のら 2010年11月22日 19:55
☆まっつさん
「みること」は、それ自体が稽古の核心ですね。
「目で見る」を「照らし観る」に変え、観る対象を「他から自己」へ変えていく事によって、
人は初めて、見えている物事の本質を「観る」ことができるのだと、指導されたことがあります。
理屈抜きに、如何なる私情も挟まず、物事を物事として、ただそのまま「観る」ことが、
斯くも私たち凡人には難しいものであることを、稽古のたびに思い知らされる日々です。
師父がよく冗談交じりに仰るように、
どれほどヒントがそこら中に転がっている、素晴らしく恵まれた環境であっても、
本人が、ヒントと一緒にそこで転がっているようでは、どうしようもありませんね。
私たちはもっと、「自分がどのように見ているのか」を観る必要があると思います。
「みること」は、それ自体が稽古の核心ですね。
「目で見る」を「照らし観る」に変え、観る対象を「他から自己」へ変えていく事によって、
人は初めて、見えている物事の本質を「観る」ことができるのだと、指導されたことがあります。
理屈抜きに、如何なる私情も挟まず、物事を物事として、ただそのまま「観る」ことが、
斯くも私たち凡人には難しいものであることを、稽古のたびに思い知らされる日々です。
師父がよく冗談交じりに仰るように、
どれほどヒントがそこら中に転がっている、素晴らしく恵まれた環境であっても、
本人が、ヒントと一緒にそこで転がっているようでは、どうしようもありませんね。
私たちはもっと、「自分がどのように見ているのか」を観る必要があると思います。
9. Posted by マルコビッチ 2010年11月22日 22:09
のらさん、いつも「站椿」の記事をありがとうございます。
ちょうど、意識について考えていたところでしたので、大変勉強になりました。
そのきっかけは、少し前、ある正式弟子の方と対練をする機会を頂き、
「身体から意識ではなく、意識から身体を整えて・・・」と御指導を頂きました。
考えてばかりいて身体が硬くなってしまう私にとって、とても嬉しい御指摘でした。
もっとも大切な事を、本当に大事なことだと気付いた瞬間でした。
何度も師父からお聞きしていることですのに、知識としてわかっていただけで、
日々の稽古の中で、自分の中で抜けていたことがとても恥ずかしいです。
こうして意識を脳の働きとして観る・・というようなことを読みますと、
何か構造として見えてくるので、自分の身体の働きなんだ!と
以前より近く、はっきりしてくるように思います。
また太極拳の流れに乗るべく、自分の稽古を見直して、
基本に帰って学んでいこうと思いました。
ちょうど、意識について考えていたところでしたので、大変勉強になりました。
そのきっかけは、少し前、ある正式弟子の方と対練をする機会を頂き、
「身体から意識ではなく、意識から身体を整えて・・・」と御指導を頂きました。
考えてばかりいて身体が硬くなってしまう私にとって、とても嬉しい御指摘でした。
もっとも大切な事を、本当に大事なことだと気付いた瞬間でした。
何度も師父からお聞きしていることですのに、知識としてわかっていただけで、
日々の稽古の中で、自分の中で抜けていたことがとても恥ずかしいです。
こうして意識を脳の働きとして観る・・というようなことを読みますと、
何か構造として見えてくるので、自分の身体の働きなんだ!と
以前より近く、はっきりしてくるように思います。
また太極拳の流れに乗るべく、自分の稽古を見直して、
基本に帰って学んでいこうと思いました。
10. Posted by のら 2010年11月23日 12:56
☆マルコビッチさん
正式弟子の方に教えて頂くのは、とても勉強になりますね。
私たち一般門人が正式弟子の方々を見ると、彼らが私たちよりも「秘伝」のようなものをたっぷりと教わっている、特別な立場の人たちだと思えます。
しかし私には、本当に彼らが師父からたっぷりと叩き込まれているのは、武術家や求道者としての「魂=スピリット」であって、太極拳の秘伝は、言わばその魂を磨くための道具に過ぎないのだと思えます。
何故なら、師父はすでに太極拳の原理構造を詳細にわたってご承知であり、その実体が「構造」にあることを研究し尽くされ、その上で学習体系を確立されているわけですから、才能ある選ばれた人にそれを伝えること自体は、それほど大変なことではないと思えるからです。
───────「龍の道」の第11回に、こんな一節がありました。
「先生は、なぜ僕に、あの人を引き合わせようと思ったのですか?」
「うむ、それは・・・ひとりでも多くの、まともな人間をつくりたいからだよ」
「人間を・・つくる・・・・?」
「そうだ、国ほろびて山河あり・・・
しかし、人はクニが造る。
私たちを育んできた国土の、この美しい山河が、人をつくるのだ」
「そして、美(うま)し国、美しい国は、人が造る。
まともな人間が正しく活躍できてこそ、ようやく国は立派に栄えるのだ」
師父もまた「人をつくる」ことをされているのでしょう。
だからこそ、「身体から意識ではなく、意識から身体を整えて・・」という正式弟子の言葉も、
単なる要訣からの受け売りではなく、人間として何を生きるかという教えに基づく実感から滲み出て来たものに違いありません。
私たち一般門人がどうしても分からない所を解くカギは、その「スピリット」が有るか無いかが、大きなポイントとなっているような気がします。
正式弟子の方に教えて頂くのは、とても勉強になりますね。
私たち一般門人が正式弟子の方々を見ると、彼らが私たちよりも「秘伝」のようなものをたっぷりと教わっている、特別な立場の人たちだと思えます。
しかし私には、本当に彼らが師父からたっぷりと叩き込まれているのは、武術家や求道者としての「魂=スピリット」であって、太極拳の秘伝は、言わばその魂を磨くための道具に過ぎないのだと思えます。
何故なら、師父はすでに太極拳の原理構造を詳細にわたってご承知であり、その実体が「構造」にあることを研究し尽くされ、その上で学習体系を確立されているわけですから、才能ある選ばれた人にそれを伝えること自体は、それほど大変なことではないと思えるからです。
───────「龍の道」の第11回に、こんな一節がありました。
「先生は、なぜ僕に、あの人を引き合わせようと思ったのですか?」
「うむ、それは・・・ひとりでも多くの、まともな人間をつくりたいからだよ」
「人間を・・つくる・・・・?」
「そうだ、国ほろびて山河あり・・・
しかし、人はクニが造る。
私たちを育んできた国土の、この美しい山河が、人をつくるのだ」
「そして、美(うま)し国、美しい国は、人が造る。
まともな人間が正しく活躍できてこそ、ようやく国は立派に栄えるのだ」
師父もまた「人をつくる」ことをされているのでしょう。
だからこそ、「身体から意識ではなく、意識から身体を整えて・・」という正式弟子の言葉も、
単なる要訣からの受け売りではなく、人間として何を生きるかという教えに基づく実感から滲み出て来たものに違いありません。
私たち一般門人がどうしても分からない所を解くカギは、その「スピリット」が有るか無いかが、大きなポイントとなっているような気がします。
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