2010年09月11日

歩々是道場 「站椿 その9」

                     by のら (一般・武藝クラス所属)


 「站椿」を練らない太極拳が多くなった・・・
 そんな話を、よく耳にすることがあります。

 いやいや、果ては、
 『へぇ・・太極拳にも站椿があるんですか?』
 とか、
  『站椿は、意拳を創始したオー・コーサイさんが考えたんですよね。
   近ごろは太極拳も站椿をするようになったんですか?』
 などと、ノタマウ人まで居る始末───────

 アチョーッ、ドラゴン怒りの鉄拳!!・・と行きたいところですが、
 私のジツリキは、せいぜいタツノオトシゴ程度なので、
  『ええ、そりゃもー、站椿は太極拳にもありますとも!、ハハ・・』
 などとお茶を濁したりしております。(笑)

 最近東京から見学に来られた米国人なども、かの国で陳氏の有名老師に就いて長年学んでいながら、站椿 (zhan-zhuang) なんぞジャンジュアン(全然)知らンと言い・・ (^^;)
 それを聞いた私たちは大いに驚いたものでした。
 やはり、站椿を重視する所と、そうでないトコロに分かれるのでしょうか。

 実際に、陳炎林が楊家太極拳の全体系を著した『太極拳刀剣桿散手合編』には先人たちが行った古の訓練内容が説明されており、初学には先ず「馬歩站椿」を練り、これを基本功夫として長い期間を充てた後にようやく「十三勢套路」に入ることを許された、ということが記されています。
 また「十三勢」自体も、一勢一式ごとの訓練にそれぞれ数ヶ月の時間が充てられ、入門後、数年を経てもなお、套路が最後まで完成されないことはごく普通のことであったと書かれています。

 そのような教授方法を取る門派が、この時代に果たしてどれほど存在するのかは分かりませんが、武術としての太極拳にあっては、その方法は全く正しいと思えます。
 現に太極武藝館で行われている教授法は正にその方法が守られており、一般門人の私でさえ初めの5年間ほどは「文勢」と称される第五勢までのところを、ひたすら繰り返して練ることしか許されていませんでした。
 ごく普通の太極拳教室に通っている人がこれを聞いたら、ちょっと驚かれるかも知れません。当館の一般門人には、入門から数年を経ても未だ套路を最後まで教わっていない人が多く存在するのです。

 かつて毎日欠かさず老師の元に通い、或いは老師宅に住み込み、日々老師のもとで拳を練らない日は無かった時代にさえ、数年経っても套路が完成されなかったような教授法が存在したという事実は、動作を憶えさえすればどんどんその先を教えてくれることが多い今の時代から見れば、まさに隔世の感があります。
 太極武藝館に於いて、拝師正門人が十年余りの歳月を経ても十三勢・第二段階の半ば辺りを練っていることは初めは奇異にさえ思えましたが、昔日の教授の実態やその在り方を師父から説明されてからは、実はそれこそが本来の教授法であったのだと認識を新たにしたものです。 そして「站椿」もまた、そのような教授法の下で指導され、その中身が理解されるように導かれていくべきものなのだと思います。


 ・・・さてさて、站椿のお話です。
 実は「静」の站椿では、まだまだやることが沢山あります。
 この「静」の段階でコツコツと積んだ功夫こそが、将来の全体の功夫を決定付けると言っても過言ではないのです。
 しかし、それを詳しく語ることは私には許されておりませんので、ここからのお話は「動」の站椿へ進むことにします。

 「動」の站椿は「太極椿」と呼ばれています。
 この太極椿は、初めのうちは、やはり正馬歩で行われるべきでしょう。
 それは、これまでに実感できた太極拳の構造を壊してしまわない為であり、その同じ構造の中で「動」を体験するためでもあります。
 ここでは「三開合」と呼ばれる、三種類の基本となる開合を「動」の環境の中で整備していきます。これによって漠然としていた「弸勁(ポンジン)」の感覚をより鮮明にしていき、方向性の変化の中でより具体的に実感していくのです。
 もちろん、その馬歩に「站椿・その6」でお話しした「”実際に” 椅子に腰掛けている」正しい状態が馬歩の構造として生じていなくては、開合の欠片も理解できません。
 それは「まるで腰掛けているような」ものではなく、本当に腰掛けている状態なのです。

 弸勁は、開合勁によって「動」として機能するようになります。
 「静」の站椿で培った「静中の動」が、「動」の站椿では明確な開合の作用となって現れてくるのです。
 開合勁は、腰勁を中心とする他の様々な勁と共に、その機能が生じます。
 「静」の站椿を始めたときに、未だ暗中模索の状態であった「弸勁」は、この開合勁の理解によって格段にそのレベルが飛躍することになります。

 また、このレベルになれば、対練によってそれを確認することが出来ます。
 ・・・早い話が、少しばかり相手を飛ばせるようになるのです。
 弸勁の構造を得ることが出来れば、軽く触れただけで(実際には触れる前から)相手の身体が崩れ、浮き上がるようになります。
 つまり、相手はまるで自分だけ重力が少ないところに居るような「足が地に着かない」状態になり、こちらに力の作用を向けると自分の方が飛んで行ってしまい、反対にこちらからは容易に相手を崩し、飛ばせる状態になるのです。

 このような対練は、自分が習得した弸勁がどの程度のチカラを持つのかを実際に体験出来るので、間違っている勁の中身を修正することにたいへん役立ちます。
 拙力では、相手をグイーッと押したり、ドッカーンと強く弾くだけに過ぎません。
 拙力だと「勁」が効かないので、相手はその作用を受けてもすぐに回復してしまいます。
 飛ばしても倒しても何事も無かったかのようにすぐ戻ってきますし、相手が筋骨隆々の人だと、打撃を打ってもまるで効かないパンチになってしまうのです。

 何発打っても相手が平気でいるようなパンチは「勁」の無い打撃だと言えます。
 本当に「勁」が効いた打撃は、不思議なことに、軽く触れるように打っただけで相手が苦しそうに踞ってしまいます。
 そのような打撃を、実際に身体で体験した人に感想を聞くと、本当に軽く触れられた感覚しか無いのに、余りに非日常的な作用のためか、身体が拒否反応をし、本能的に戦闘意欲が萎えて、二度と向かって行きたくなくなってしまうそうです。

 相手を飛ばすにしても、打つにしても、相手の身体に「勁(チカラ)」がいつまでも効いているようでなくてはなりません。相手が簡単に身体を元の状態に戻せるような力は、勁とは言い難いものです。 太極武藝館の稽古では、勁を受けた人が天井に頭が着くほど壁を駆け上って行ったり、濡れ雑巾のように壁に貼り付けられたり、師父の「アン(四正手・An)」を受けた人などは中々立ってこられない様子もよく見かけます。


 太極椿の第二段階目では「円圏開合」を行います。
 これは「纏絲勁訓練」などとも呼ばれている、お馴染みのものです。
 円圏開合は先の三種類の弸勁が複合的に組み合わさったものですが、ここでは開合勁や腰勁を用いることによって弸勁をより深く理解していくことができます。
 大切なことは、いわゆる「いかにも纏絲に見えるようなフォルム」を求めないことです。
 纏絲勁は「站椿」の理解如何に係っており、単にそれらしく腕をグルグル回したり、身体に蔦が巻いたようにグリグリと捻る練習をすることなどでは、決して修得できないものです。
 間違ったイメージを持ってしまうと、習得に不要な手間が掛かってしまうので、充分に正しい理解をすることが必要です。まず身体の正しい構造が得られ、その上で正しく「動」が生じさえすれば、纏絲勁の習得はそれほど難しいものではない、とされています。
 纏絲勁は、決して天才のみが修得できる高度な秘伝ではなく、初学の段階からきちんと順を追って指導されるべき、太極拳の「基本」なのです。

 お馴染みの「四正手」もまた、太極椿の訓練に適したものです。
 四正手の站椿では、初めは正馬歩のまま左右に四正手の技法を行い、各々の勁が作用する姿勢でしばらく静止し、各々に「意」を用いて勁を練っていきます。
 ただし、その静止した時の「身体の在り方」が問題です。これらは開合勁の理解がなければ何ら意味のない、ただのポーズとなってしまうことでしょう。
 正しい構造のもとで開合勁が働くときには、身体の向きを変える際に変化の結果として脚が返るようになりますが、そうなればもう、身体にはすでに様々な勁が自然に働き始めるようになっています。
 これは馬歩の架式構造が持つ優れた特徴でもあり、ここで否応なしに動き始める身体の構造は、かの陳清萍さんの編み出した「四つの架式」の練法そのものでもあり、習熟していけば高いレベルでの虚実の転換なども自然に起こるようになりますが、ここでは未だそれらを気に掛けることなく、ひたすら「意」を以て勁を練ることに専念します。
 
 様々な円圏開合によって「意」の実際の使い方と「勁」の概要が理解できたら、次には弸勁の主要な変化を学ぶために「技撃椿」を練ります。
 技撃椿の基本訓練は、主に半馬歩の片足をさらに外に向けた歩幅の狭い半馬歩(側馬歩)の形をとり、四正手の勁を用いて訓練が始められます。
 今度は正馬歩と違って、左右に向きを変えることはありません。
 歩幅は、馬歩の基準を三尺とすれば、半馬歩は一尺から一尺半というところでしょうか。
 これは、より技撃性が意識された実戦性の強い立ち方ですが、技撃、実戦と言っても、間違って拙力でリキんでしまってはお話になりません。あくまでも「勁」を練るために「站椿」の訓練が為されなくてはならないのです。
 
 ここでも、先ずは「立ち方=架式」の精度が問われることは言うまでもありません。
 半馬歩では、片足が前方に向き、軸足がやや外に向いている形になりますが、この立ち方は足を横に並行に開いた普通の馬歩よりも遥かに難しい構造です。
 歩幅も他の内家拳の架式より少々狭く、多くの人はこのカタチになると途端に馬歩の要求を失い、構造が崩れ、架式として成立しなくなります。
 ここでは架式の訓練がどれほど重要であるかを誰もが思い知ります。
 しかし、すでに馬歩で「起き上がり腹筋」や「腰相撲」「グラウンディング」「壁抜け」などの補助訓練をある程度こなせていた人は、馬歩の構造を実際に体験し正しく使えていたので、半馬歩の調整が容易になります。

 半馬歩の站椿で四正四隅手を練るものは、馬歩での站椿とは「意」の用い方が少々異なります。馬歩では「勁」そのものを意識している状態でしたが、ここでは一歩進んで「勁力」や、勁がもたらす「作用」までもが意識されるようになり、四正四隅の各勁に合わせて身体の細部への意識の用い方が詳細に要求されます。

 站椿は、套路を正確にこなすためにも、套路訓練をトータルなものにするためにも、大変重要な練功です。套路自体は、言わば一着一着がすべて「站椿」であるとも言えるわけですが、これらの站椿を「基本功」として練ると練らぬとでは、套路の精度そのものが著しく違ってくることになるでしょう。

 站椿に限らず「基本功」の重要性は師父が常々声を大にして説かれるところですが、私たちの言う「基本」とは、基本の運動ではなく、太極拳の「基本原理」のことです。
 つまり、基本功とは「基本原理を修得するための練功」であると言えます。
 そして、基本原理を修得するためには、日常的な身体を武術的な身体の構造に造り替える必要があります。基本功には、その「造り替える方法」が山ほど提示されているのです。これを活用しない手はありません。

 基本功が全く存在しなくても、たとえば套路のみで基本原理を修得することは、いわゆる「天才」ならば不可能ではないと思われますが、私のようなごくフツーの人間には充実した基本功があった方が、そりゃもう、良いに決まっています。(笑)
 私などは、基本功の存在なくしては太極拳の ”た” の字も理解できないと思われますが、優れた基本功というのは決して私のような愚鈍児への救済措置ではなく、実はそれ自体が凡夫から多くの天才を生み出すことのできる偉大なチカラを持っているものだと思えます。
 つまり、美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに・・という具合に、凡人は限りなく天才に近づくことが出来、天才はその天賦の才能にさらに磨きを掛けて、より大きな成長が期待できるものであるものである、と・・・

 天才とは、ある意味では反対側からの発想が出来る人だと思います。
 凡人がワン・ウエイの思考回路だとすると、天才というのはその裏側や別の角度からもルートを取れる。数式や論理ではなく、図や絵のイメージで立体的にモノとコトを観ることができたりする・・・

 虚だけではなく実も。 実だけではなく虚も。
 陰だけではなく陽も。 陽だけではなく陰も。

 だから「双重の病」なんぞも、「正しい構造」から容易に読み解いてしまい、「病」の本質と、そうでないコトをスパッと発見し、見事に立証してしまう・・・
 そこに屁理屈や余分な理論など欠片も入らない。至ってシンプルに、そのものズバリを解読し、誰もがその結果にナルホドと納得させられてしまうのです。
 彼らは物事をより広く深く見ることができたり、第三者として自己を観照できたり、一般日常的な考え方を超えたところで世のモノゴトを冷静に見つめ、右脳をフルに活用して新しい発想ができたりするのでしょう。

 しかし、天才という名を恣(ほしいまま)にする人たちは、どんな事でもピンとイメージしてスイスイとこなすのかと思いきや、彼らのエピソードを見ると、実はほとんどの天才たちは意外と思えるほどコツコツと地道な努力をしていたり、普通の人生には有り得ないようなハプニングが続いたり、ひとつのことに向かって失敗に失敗を重ねて、ようやく結論にたどり着いたりしていることが共通しています。

 こう見ると、ある意味では天才とは凡人から眺めたところの「見え方」であって、実は私たちと同じ世界で同じように必死に努力精進している、謙虚な孤高の努力家のようにも思えてくるのです。
 そして、どのような分野に於いても、彼らはまずその「基本」を自力で見出し、自分なりの「基本功」を創って、それを活用しているはずです。

 まあ、それが出来ること自体が凡人とは違うところなのでしょうが、実際にはそのような基本を見出すことや、基本を追い求める具体的な方法無しには、如何なる天才といえども、新たな発見や上達は望めないはずだと思えます。

 そして、たとえ独自に創造したものであっても、基本は基本、
 それは結局のところ、「基本功」に変わりはありません。
 きっとその人たちも、後進を指導する際には、その「基本」を使うことでしょう。

 だから、やっぱり「基本功」は大切なのだと、私は思っています。


                                  (つづく)

disciples at 20:13コメント(4)歩々是道場 | *站椿 

コメント一覧

1. Posted by 太郎冠者   2010年09月12日 21:14
站椿を練らない太極拳。
なるほど、そういう考え方もありますか。

自分のような凡々の凡人には、站椿に基本功など、
充実した体系があってもじつにムズカシイのですが・・・
(それはそれで、問題なのかもしれませんけど・・・)

身体をただ鍛えるのではなく、
>日常的な身体を武術的な身体の構造に造り替える
ことこそが、重要なのだと感じます。
ただ立つだけなら、誰でも出来るはずのことですが、
それをあえて「站椿」という名前をつけて、練功にした。

本当に、先人の知恵は偉大なものだと思います。
 
2. Posted by まっつ   2010年09月13日 00:09
無極椿、三開合、円圏開合、四正手・・・と続く、
太極拳の段階訓練の理論的な構成は、
とんでもなく緻密で驚嘆するばかりです。
どれだけ透徹した先人方の眼差しが、
これだけの原理の塊を顕わされたのでしょうか?
基本功が戦闘法ではなく、武術原理として究められ、
体系化されたという点は、当に技芸の奥、文化の粋と言うしかありません。
しかしながら、その意味を紐解ける正師は世に多くはおられないと思われます。
武藝館で師父に就いて学べる幸運に、つくづくと感謝致します。
 
3. Posted by のら   2010年09月15日 19:46
☆太郎冠者さん

>站椿を練らない太極拳

表演太極拳などでは站椿など練る必要が殆ど無いでしょうし、武術的な太極拳門派に於いて
站椿がどのような学習体系として存在しているのか非常に興味がありますが、実際のところ、
私たちの道場のような「站椿の理論」がそのまま「散手の戦闘法」になっているものが
果たしてどれほど存在するのか、確かめる術もありません。

>ただ立つだけなら、誰でも出来るはずのことですが

武藝館で学んでいると、この「ただ立つだけ」ということが如何に深く、如何に高度な事かを
思い知らされます。
師父は、站椿勢で長時間立っていても身体が全く崩れませんが、私たちですと、だんだん架式が
弛んで低くなってきて、肩が凝って、足が限界を感じてブルブルしてきます。
その「全く崩れない立ち方」に、站椿の本質があるというのですが、未だ私には理解出来ません。
 
4. Posted by のら   2010年09月15日 19:55
☆まっつさん

>基本功が戦闘法ではなく、武術原理として極められ、体系化されたという点は・・・

武藝館に入門してくる他門で学んできた方たちも、当にこのところで苦労されていますね。
先に基本功を「戦闘法」として学んでしまうと、高度な武術原理が何であるか、
イチからのスタート、いやゼロから、或いはマイナスからのスタートとなるので大変です。
考えてみれば、確立された原理が無いところから、戦闘法が如何様にも構成される筈など無いわけですが、それが昨今の武術や武道に多く求められてきた中身ということなのでしょうか。

原理から正しく確立された武術も、それを元にした戦闘法も、今の世の中には非常に少なく、
よって、それを伝えられた人も、それを知る人間も、極めて数が少ないはずであり、
絶えざる研究によってそれを更に高めていける人などは、もっともっと些いはずです。
文化として武術を観れば、正にこれは大きな危機であると言えるでしょうね。
 

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