2010年07月29日
歩々是道場 「站椿 その8」
by のら (一般・武藝クラス所属)
站椿は「勁」という太極拳独自のチカラを造りあげます。
勁とは「弸勁(ポンジン)」という名前で表されるところの、陰陽の整った全方位的に均等に用いることのできる武術的なチカラであり、站椿の練功はその「勁」が発生する構造を修得することと、武術として用いられる様々なカタチの「弸勁」を培うことを目的としています。
站椿を理解するためには「放鬆(ファンソン)」が必要となりますが、実は放鬆の状態とは「弸勁」そのものを指しています。
放鬆は往々にして、日常一般的な「リラクセーション」や「脱力」と混同されがちですが、武術的には放鬆が生じていなければ弸勁もまた有り得ず、弸勁には放鬆も必ず存在していなければならないもので、これらは同義語であるとさえ言えます。
太極拳の練習に於いて、何ゆえにかくも放鬆、放鬆と、幾度となく繰り返して指導されるのかと言えば、この放鬆こそが太極勁、即ち「弸勁」の核心であるということに他なりません。
この二つは一見すると異なるものを表しているようにも思えますが、弸勁とは放鬆の現象であり、放鬆とは弸勁の実質を表した言葉であると言えるのです。
多くの太極拳学習者は「放鬆」を「弸勁」とは別のものと考え、この事実を見過ごしているようですが、站椿によって正しい構造が得られ、弸勁の何たるかが理解できれば、実はそれが放鬆そのものであったことを正しく実感できるはずです。
この問題は古くから斯界に度々論争を引き起こしてきたようで、中国の関係資料を紐解けば「鬆と緊」「柔と剛」「鬆柔と弸勁」「放鬆と勁力」等々の関係について、様々な人たちが様々な論を以て争ってきたことが分かります。
しかし、それらの論争の内容を見ても、少なくとも「放鬆」とは日本人にお馴染みの脱力でもなければリラクセーションでもなく、ましてや身体を柔らかくすることや、単に筋肉を弛緩させることでもないことは明らかです。
そもそも「脱力」という言葉自体が中国語に存在せず、従ってそのような考え方が太極拳に存在するはずもなく、物理的に見ても高度な武術原理には成り難いことについては、すでに太極武藝館のホームページにある『太極拳を科学する』で指摘されていますが、この「放鬆」も日本人にとってはなかなか理解し難く、多くの誤解の中にその実態が隠され、誤解がさらに新たな誤解を生んで、学習者を悩ませ続けてきたものなのかもしれません。
それは、王宗岳訣文にある《 双重之病 》や、《 立如平準、活似車輪 》などということについても、また然りであると思われます。
教えられるとおりに、余分な力を抜こうとして脱力し、リラックスしようとしても、
一体どこを脱力し、何をリラックスすれば良いのやら・・・
何のために、どこをどうやって緩め、何を抜けば良いのか・・・
ともかく肩の力を抜き、肘を落とし、背中の力みも抜き・・・と、やってはみるものの、
いざ動き始めれば元の木阿弥、イケナイと言われる無駄な力みはサッパリ抜けず、
仕方なく、心地良いリラクセーションが我が身を包み込む想像ばかりが膨らんでいく・・・
・・いや、しかし、これでは「健身気功」と何が違うんだか・・・
リラックスすることが放鬆なら、然らば、眠っている時はずっと放鬆なのか・・・
むむ・・・それでは太極拳は酔拳ならぬ「睡拳」とでも言うべきか・・??
・・・他門の太極拳を学んできた入門者から、長年そんな疑問に大いに悩んだという話を聞いたこともあります。
かく言う私も師父に指導を受けるまでは、「放鬆」とは緊張やリキミの無い整ったリラックス状態であり、反対に「弸勁」とはバランスの取れた整った緊張である、などと勝手に思い込んでいました。今想えば汗顔の至りですが、正しい指導を頂いていたにも関わらず、自分勝手にイメージしやすい方向に解釈し、思い込みを膨らませていたのです。
一般的な太極拳では、「放鬆」さえ出来ればどんどん学習が進む、といったような感覚さえあると言います。しかし、そこで説かれる「放鬆」は単なるリラクセーションや筋肉の弛緩を指していることが多く、それが太極拳と何処でどう繋がっていくのかという ”肝心なトコロ” について、指導者から納得のいく指導を受けることは非常に希なことらしく、そのために未だに多くの人々を悩ませ続けているようです。
太極武藝館では、かつて「放鬆」をテーマにしたセミナーが開かれました。
そこでは様々な実験を交えて放鬆が詳しく解説指導され、参加者たちは放鬆の本質を実際に体験し、よく理解することができたと思います。
このセミナーでは、まず「緊張」とは何か、武術的な構造にとって「緊張」はどのように作用するのかという「緊張の構造」から学習が始められ、心身両面に亘ってその詳細が解明されていきました。
また、身体が「正しい構造」に整えられることによってそれが解決されていく事にも詳しい説明がなされて行きました。それはこれまで様々な太極拳関連の書物や資料でも全くと言って良いほど言及されたことのない、たいへん貴重な内容であると言えます。
太極武藝館の門人には、精神科を含む現役の医師が数名居りますが、人間の心身両面から「放鬆」を深く掘り下げて解明したこのセミナーの内容は、現代医学の立場からも彼らを納得させ、大いに共感させていました。
「放鬆」は、単なるリラクセーションや弛緩ではありません。
リラクセーション自体は、放鬆が生じるためのひとつの要因に過ぎないのです。
例えば「自律訓練法」や「催眠療法」でも心身にリラクセーションを生じさせることはできますが、それが武術的な意味においての「放鬆」にならないのは誰にも明白なことでしょう。
もし放鬆の実体がそのようなリラクセーションであるのなら、身体はほとんど眠る直前の心地よい ”癒し” のような状態となり、そのままではとても高度な武術の技法を駆使しながら目の前の敵に立ち向かえるとは思えません。
単なる脱力や弛緩も、もちろん「放鬆」には成り得ないものでしょう。
按摩やマッサージ、鍼灸治療や筋弛緩剤を用いても筋肉を弛緩させることはできますが、それらの刺激の効果が無くなった時点から、筋肉は徐々に元の状態に戻ってしまいます。それは筋肉本来の性質でもあります。
人間は自ら生み出した緊張を自ら更に強化してしまうような動物であり、もし正しい構造を造る上で不要となる緊張があるのなら、それを弛緩ではなく「変性」させなくてはならず、そうしない限りは、毎瞬毎回、放鬆と称して弛緩を繰り返さなくてはなりません。
放鬆とは、ただ《こう在ればこうなる》という、至って単純明快な「武術のための構造」であって、どこかを弛めたり抜いたりしながらそれを求めるような方法とは全くアプローチが異なるものです。
そもそも、ありとあらゆる「緊張」は、本人の「主観的な感覚」や「内的な体験」から生じているものであって、筋肉の弛緩を求めようとする時には、たとえそこに緊張が存在していたとしても、本人の感覚通りの「筋緊張」が存在するとは限らないのです。
そして、そうであるなら、いったい何を「弛緩」させようというのでしょうか。
構造を整えようとして必要な筋肉だけを使い、不要な筋肉を使わないように「弛緩」させるなどということには、そのような意味からも大変無理があります。
それ自体は不可能ではないかもしれませんが、恐らく武術の構造としては雑駁(ざっぱく)に過ぎるものであり、部分に偏る懸念もあって、肝心の「正しい構造」が生じなくなってしまうのではないでしょうか。
そもそも、ヒトはこの筋肉はこれに使おう、あの筋肉はこの用途に使おう、というようには身体を使っていません。特に太極拳のような高度な武術では、身体を「全体=ひとつ」でトータルに用いることが要求されているのです。この筋肉を此処で使ってしまうことがイケナイと言われても、何かの為に身体が運動を始めた時には、すでに全身の筋肉が総動員して働いているわけであって、実際には何処かの筋肉だけを弛めたり、それを全く使わずに運動することなどは、ほとんど不可能であると思えます。
筋肉というものは、多かれ少なかれ、各々が筋緊張を行うがゆえにその働きをしてくれているわけで、筋緊張を弛緩させて構造の働きとなるような身体のシステムはどこにも見当たりません。身体を弛めて使えるのは、「落下」や「居着き」ぐらいのものでしょうか。
もしそのような部分的なことが可能となるように筋肉をひとつひとつ ”教育” しなくてはならないとしたら・・・まぁ、太極拳というのは何という難儀な、修得するまでに恐ろしく時間のかかる、気が長い武術であることでしょうか。
何よりも、放鬆や弸勁は「構造の整備」によって ”生じる” ものであり、そのつど部分的な整備をしなければならないような回りくどい方法を必要としません。
また、「弛める」ことから「柔らかさ」が発想されるのでしょうか、柔らかいコトが当たり前のように言われることの多い太極拳ですが、この「柔らかさ」というものにも大いに誤解があるように思えます。
動と静、開と合などと同じように、太極拳で求められる「柔」は「剛」の対語であって、日本語の「柔らかさ」のニュアンスとは大きく異なるものです。
「静」が「静けさ」であると誤解されやすいように、「柔」が「柔らかい状態」という日本語的な認識になってしまうと、フニャフニャした弛みや脱力、柔軟性といった誤った観念が幅を効かせるようになってしまうかもしれません。やはり、指先でツツかれたらそこから腐るような(?)柔らかさでは、太極拳の構造にはならないのだと思えます。
では、太極拳は「柔らかく」はないのでしょうか?・・・・
確かに太極拳では身体は柔らかく使われていますが、それは決して身体を柔らかくしているのではなく、正しい構造が整えられたことによって「柔という性質」が身体に生じていると捉えるべきでしょう。身体を柔らかく動かそうとしても、構造が間違っていればその状態はすでにそれ自体が「拙力」であり、そのような柔らかさは正しい構造から自然に生じる「柔」の性質とは全く異なるものです。
太極拳の正しい構造である「弸勁」は、《 ただこう在れば良い 》というものです。
それは高度な技藝を得るという名目でアレコレと余分な材料で構築された複雑怪奇な構造では決してありません。
そして、弸勁がそうであるが故に、放鬆もまた、アレをこうしてドコがこうなってナニをどうするというものではなく、単に《 ただこう在れば良い 》というだけのものです。
その「ただひとつのこと」を見つけるために、「站椿」が練られるのです。
放鬆を得るためには、確かに心身の余分な緊張を解きほぐす必要があります。
一般的には、その過程で必要となる「リラクセーション」のみが取り上げられ、それ自体が「放鬆」の定義とされるようになったのではないか、とも考えられます。
近ごろの中国では「鬆」の文字を簡略化して「松」と書くようになったので、なおさら実際のイメージが希薄になってしまいました。
ン?・・松を放る?!・・・松の木ばかりがマツじゃない〜♪(・・かなり古いですが)
英語と違って、象形である漢字は見るだけでヒトの潜在意識に働きかけてくるので、これから太極拳を学ぶ人たちは「放松」の ”松” という文字を見て、単に『目出度さが放散されている!』などと感じるようになるかも知れません(笑)。
利便の追求で変更され、そのために正しく意味を為さなくなった文字は、今後徐々に伝統文化を歪め、侵していくことになる可能性もあります。
かつて古い時代に於いての「放鬆」は、太極勁=弸勁を生み出すための ”要素” としてではなく、放鬆の状態そのものが、すなわち「弸勁」であると捉えられていたはずです。
一着一勢を練る間に、何度も何度も繰り返して「放鬆」が意識されなくてはならないのは、それが「弸勁の構造」をそのつど捉え直す意味に他ならないからではないでしょうか。
放鬆と弸勁が別のものとして区別されるようになってきたのは、近年に入って太極拳の大流行が見られるようになってからのことかもしれません。
放鬆が生じる構造とは、すなわち弸勁であり、
弸勁が生じる構造とは、すなわち放鬆である・・という事実があります。
放鬆、あるいは弸勁は、もともと同じひとつの在り方であり、同じひとつの方法であって、
ただそのように「在る」だけで、太極拳の構造が生じるという性質のものです。
そのふたつに於ける「在り方」や、それに至る「方法」は全く同じものです。
つまり、それらは元々「ひとつの構造」である、ということになります。
そして、その「ひとつの構造」こそが站椿で求められるべき構造であり、
基本功や套路、散推や技撃に至るまで、変わることなく求め続けられる構造である、
ということになります。
(つづく)
站椿は「勁」という太極拳独自のチカラを造りあげます。
勁とは「弸勁(ポンジン)」という名前で表されるところの、陰陽の整った全方位的に均等に用いることのできる武術的なチカラであり、站椿の練功はその「勁」が発生する構造を修得することと、武術として用いられる様々なカタチの「弸勁」を培うことを目的としています。
站椿を理解するためには「放鬆(ファンソン)」が必要となりますが、実は放鬆の状態とは「弸勁」そのものを指しています。
放鬆は往々にして、日常一般的な「リラクセーション」や「脱力」と混同されがちですが、武術的には放鬆が生じていなければ弸勁もまた有り得ず、弸勁には放鬆も必ず存在していなければならないもので、これらは同義語であるとさえ言えます。
太極拳の練習に於いて、何ゆえにかくも放鬆、放鬆と、幾度となく繰り返して指導されるのかと言えば、この放鬆こそが太極勁、即ち「弸勁」の核心であるということに他なりません。
この二つは一見すると異なるものを表しているようにも思えますが、弸勁とは放鬆の現象であり、放鬆とは弸勁の実質を表した言葉であると言えるのです。
多くの太極拳学習者は「放鬆」を「弸勁」とは別のものと考え、この事実を見過ごしているようですが、站椿によって正しい構造が得られ、弸勁の何たるかが理解できれば、実はそれが放鬆そのものであったことを正しく実感できるはずです。
この問題は古くから斯界に度々論争を引き起こしてきたようで、中国の関係資料を紐解けば「鬆と緊」「柔と剛」「鬆柔と弸勁」「放鬆と勁力」等々の関係について、様々な人たちが様々な論を以て争ってきたことが分かります。
しかし、それらの論争の内容を見ても、少なくとも「放鬆」とは日本人にお馴染みの脱力でもなければリラクセーションでもなく、ましてや身体を柔らかくすることや、単に筋肉を弛緩させることでもないことは明らかです。
そもそも「脱力」という言葉自体が中国語に存在せず、従ってそのような考え方が太極拳に存在するはずもなく、物理的に見ても高度な武術原理には成り難いことについては、すでに太極武藝館のホームページにある『太極拳を科学する』で指摘されていますが、この「放鬆」も日本人にとってはなかなか理解し難く、多くの誤解の中にその実態が隠され、誤解がさらに新たな誤解を生んで、学習者を悩ませ続けてきたものなのかもしれません。
それは、王宗岳訣文にある《 双重之病 》や、《 立如平準、活似車輪 》などということについても、また然りであると思われます。
教えられるとおりに、余分な力を抜こうとして脱力し、リラックスしようとしても、
一体どこを脱力し、何をリラックスすれば良いのやら・・・
何のために、どこをどうやって緩め、何を抜けば良いのか・・・
ともかく肩の力を抜き、肘を落とし、背中の力みも抜き・・・と、やってはみるものの、
いざ動き始めれば元の木阿弥、イケナイと言われる無駄な力みはサッパリ抜けず、
仕方なく、心地良いリラクセーションが我が身を包み込む想像ばかりが膨らんでいく・・・
・・いや、しかし、これでは「健身気功」と何が違うんだか・・・
リラックスすることが放鬆なら、然らば、眠っている時はずっと放鬆なのか・・・
むむ・・・それでは太極拳は酔拳ならぬ「睡拳」とでも言うべきか・・??
・・・他門の太極拳を学んできた入門者から、長年そんな疑問に大いに悩んだという話を聞いたこともあります。
かく言う私も師父に指導を受けるまでは、「放鬆」とは緊張やリキミの無い整ったリラックス状態であり、反対に「弸勁」とはバランスの取れた整った緊張である、などと勝手に思い込んでいました。今想えば汗顔の至りですが、正しい指導を頂いていたにも関わらず、自分勝手にイメージしやすい方向に解釈し、思い込みを膨らませていたのです。
一般的な太極拳では、「放鬆」さえ出来ればどんどん学習が進む、といったような感覚さえあると言います。しかし、そこで説かれる「放鬆」は単なるリラクセーションや筋肉の弛緩を指していることが多く、それが太極拳と何処でどう繋がっていくのかという ”肝心なトコロ” について、指導者から納得のいく指導を受けることは非常に希なことらしく、そのために未だに多くの人々を悩ませ続けているようです。
太極武藝館では、かつて「放鬆」をテーマにしたセミナーが開かれました。
そこでは様々な実験を交えて放鬆が詳しく解説指導され、参加者たちは放鬆の本質を実際に体験し、よく理解することができたと思います。
このセミナーでは、まず「緊張」とは何か、武術的な構造にとって「緊張」はどのように作用するのかという「緊張の構造」から学習が始められ、心身両面に亘ってその詳細が解明されていきました。
また、身体が「正しい構造」に整えられることによってそれが解決されていく事にも詳しい説明がなされて行きました。それはこれまで様々な太極拳関連の書物や資料でも全くと言って良いほど言及されたことのない、たいへん貴重な内容であると言えます。
太極武藝館の門人には、精神科を含む現役の医師が数名居りますが、人間の心身両面から「放鬆」を深く掘り下げて解明したこのセミナーの内容は、現代医学の立場からも彼らを納得させ、大いに共感させていました。
「放鬆」は、単なるリラクセーションや弛緩ではありません。
リラクセーション自体は、放鬆が生じるためのひとつの要因に過ぎないのです。
例えば「自律訓練法」や「催眠療法」でも心身にリラクセーションを生じさせることはできますが、それが武術的な意味においての「放鬆」にならないのは誰にも明白なことでしょう。
もし放鬆の実体がそのようなリラクセーションであるのなら、身体はほとんど眠る直前の心地よい ”癒し” のような状態となり、そのままではとても高度な武術の技法を駆使しながら目の前の敵に立ち向かえるとは思えません。
単なる脱力や弛緩も、もちろん「放鬆」には成り得ないものでしょう。
按摩やマッサージ、鍼灸治療や筋弛緩剤を用いても筋肉を弛緩させることはできますが、それらの刺激の効果が無くなった時点から、筋肉は徐々に元の状態に戻ってしまいます。それは筋肉本来の性質でもあります。
人間は自ら生み出した緊張を自ら更に強化してしまうような動物であり、もし正しい構造を造る上で不要となる緊張があるのなら、それを弛緩ではなく「変性」させなくてはならず、そうしない限りは、毎瞬毎回、放鬆と称して弛緩を繰り返さなくてはなりません。
放鬆とは、ただ《こう在ればこうなる》という、至って単純明快な「武術のための構造」であって、どこかを弛めたり抜いたりしながらそれを求めるような方法とは全くアプローチが異なるものです。
そもそも、ありとあらゆる「緊張」は、本人の「主観的な感覚」や「内的な体験」から生じているものであって、筋肉の弛緩を求めようとする時には、たとえそこに緊張が存在していたとしても、本人の感覚通りの「筋緊張」が存在するとは限らないのです。
そして、そうであるなら、いったい何を「弛緩」させようというのでしょうか。
構造を整えようとして必要な筋肉だけを使い、不要な筋肉を使わないように「弛緩」させるなどということには、そのような意味からも大変無理があります。
それ自体は不可能ではないかもしれませんが、恐らく武術の構造としては雑駁(ざっぱく)に過ぎるものであり、部分に偏る懸念もあって、肝心の「正しい構造」が生じなくなってしまうのではないでしょうか。
そもそも、ヒトはこの筋肉はこれに使おう、あの筋肉はこの用途に使おう、というようには身体を使っていません。特に太極拳のような高度な武術では、身体を「全体=ひとつ」でトータルに用いることが要求されているのです。この筋肉を此処で使ってしまうことがイケナイと言われても、何かの為に身体が運動を始めた時には、すでに全身の筋肉が総動員して働いているわけであって、実際には何処かの筋肉だけを弛めたり、それを全く使わずに運動することなどは、ほとんど不可能であると思えます。
筋肉というものは、多かれ少なかれ、各々が筋緊張を行うがゆえにその働きをしてくれているわけで、筋緊張を弛緩させて構造の働きとなるような身体のシステムはどこにも見当たりません。身体を弛めて使えるのは、「落下」や「居着き」ぐらいのものでしょうか。
もしそのような部分的なことが可能となるように筋肉をひとつひとつ ”教育” しなくてはならないとしたら・・・まぁ、太極拳というのは何という難儀な、修得するまでに恐ろしく時間のかかる、気が長い武術であることでしょうか。
何よりも、放鬆や弸勁は「構造の整備」によって ”生じる” ものであり、そのつど部分的な整備をしなければならないような回りくどい方法を必要としません。
また、「弛める」ことから「柔らかさ」が発想されるのでしょうか、柔らかいコトが当たり前のように言われることの多い太極拳ですが、この「柔らかさ」というものにも大いに誤解があるように思えます。
動と静、開と合などと同じように、太極拳で求められる「柔」は「剛」の対語であって、日本語の「柔らかさ」のニュアンスとは大きく異なるものです。
「静」が「静けさ」であると誤解されやすいように、「柔」が「柔らかい状態」という日本語的な認識になってしまうと、フニャフニャした弛みや脱力、柔軟性といった誤った観念が幅を効かせるようになってしまうかもしれません。やはり、指先でツツかれたらそこから腐るような(?)柔らかさでは、太極拳の構造にはならないのだと思えます。
では、太極拳は「柔らかく」はないのでしょうか?・・・・
確かに太極拳では身体は柔らかく使われていますが、それは決して身体を柔らかくしているのではなく、正しい構造が整えられたことによって「柔という性質」が身体に生じていると捉えるべきでしょう。身体を柔らかく動かそうとしても、構造が間違っていればその状態はすでにそれ自体が「拙力」であり、そのような柔らかさは正しい構造から自然に生じる「柔」の性質とは全く異なるものです。
太極拳の正しい構造である「弸勁」は、《 ただこう在れば良い 》というものです。
それは高度な技藝を得るという名目でアレコレと余分な材料で構築された複雑怪奇な構造では決してありません。
そして、弸勁がそうであるが故に、放鬆もまた、アレをこうしてドコがこうなってナニをどうするというものではなく、単に《 ただこう在れば良い 》というだけのものです。
その「ただひとつのこと」を見つけるために、「站椿」が練られるのです。
放鬆を得るためには、確かに心身の余分な緊張を解きほぐす必要があります。
一般的には、その過程で必要となる「リラクセーション」のみが取り上げられ、それ自体が「放鬆」の定義とされるようになったのではないか、とも考えられます。
近ごろの中国では「鬆」の文字を簡略化して「松」と書くようになったので、なおさら実際のイメージが希薄になってしまいました。
ン?・・松を放る?!・・・松の木ばかりがマツじゃない〜♪(・・かなり古いですが)
英語と違って、象形である漢字は見るだけでヒトの潜在意識に働きかけてくるので、これから太極拳を学ぶ人たちは「放松」の ”松” という文字を見て、単に『目出度さが放散されている!』などと感じるようになるかも知れません(笑)。
利便の追求で変更され、そのために正しく意味を為さなくなった文字は、今後徐々に伝統文化を歪め、侵していくことになる可能性もあります。
かつて古い時代に於いての「放鬆」は、太極勁=弸勁を生み出すための ”要素” としてではなく、放鬆の状態そのものが、すなわち「弸勁」であると捉えられていたはずです。
一着一勢を練る間に、何度も何度も繰り返して「放鬆」が意識されなくてはならないのは、それが「弸勁の構造」をそのつど捉え直す意味に他ならないからではないでしょうか。
放鬆と弸勁が別のものとして区別されるようになってきたのは、近年に入って太極拳の大流行が見られるようになってからのことかもしれません。
放鬆が生じる構造とは、すなわち弸勁であり、
弸勁が生じる構造とは、すなわち放鬆である・・という事実があります。
放鬆、あるいは弸勁は、もともと同じひとつの在り方であり、同じひとつの方法であって、
ただそのように「在る」だけで、太極拳の構造が生じるという性質のものです。
そのふたつに於ける「在り方」や、それに至る「方法」は全く同じものです。
つまり、それらは元々「ひとつの構造」である、ということになります。
そして、その「ひとつの構造」こそが站椿で求められるべき構造であり、
基本功や套路、散推や技撃に至るまで、変わることなく求め続けられる構造である、
ということになります。
(つづく)
コメント一覧
1. Posted by トヨ 2010年07月30日 02:19
人間は、自分が理解できないことに関しては、何かしらの理由をつけたがるものだと思います。
戦場にいる人間が全員リラックスして、“癒し”が生じていれば、そこではもう戦いは起こらないかもしれないので、それはそれで良いのかもしれませんけどね。
>象形である漢字は見るだけでヒトの潜在意識に働きかけてくる
む、ということは『放鬆』という字を見続ければ、おのずと理解が生じて・・・しょうじて・・・
・・・地道に站椿を練ったほうが早道かな、と(笑)
戦場にいる人間が全員リラックスして、“癒し”が生じていれば、そこではもう戦いは起こらないかもしれないので、それはそれで良いのかもしれませんけどね。
>象形である漢字は見るだけでヒトの潜在意識に働きかけてくる
む、ということは『放鬆』という字を見続ければ、おのずと理解が生じて・・・しょうじて・・・
・・・地道に站椿を練ったほうが早道かな、と(笑)
2. Posted by まっつ 2010年07月31日 11:56
「ひとつの構造」に起こっている事を、
状態と現象の2つの側面から表現した概念が、
「放鬆」と「弸勁」なのですね。
それらはコインの表と裏のように、
まったく同じものの違う名前である・・・
省みると稽古においては、
この二つが分かれて意識されている事が多いように思われます。
その偏りによっても「構造」は歪んでしまうに違いありません。
大変、勉強になります。
状態と現象の2つの側面から表現した概念が、
「放鬆」と「弸勁」なのですね。
それらはコインの表と裏のように、
まったく同じものの違う名前である・・・
省みると稽古においては、
この二つが分かれて意識されている事が多いように思われます。
その偏りによっても「構造」は歪んでしまうに違いありません。
大変、勉強になります。
3. Posted by とび猿 2010年07月31日 12:14
私は武藝館の太極拳しか知らないのですが、市販されている書物等を読んでみると、
説明に無理があったり、実質的でないものがあるように思います。
秘伝として明確に言えないこともあるのでしょうが、中には、別の武術や運動の理論を
持ってきたり、拳理に照らし合わせても矛盾しているように思える原理を新たに
打ち立てているものもあるようです。
私としては、研究の方向性が違うのではないかと思えてきます。
説明に無理があったり、実質的でないものがあるように思います。
秘伝として明確に言えないこともあるのでしょうが、中には、別の武術や運動の理論を
持ってきたり、拳理に照らし合わせても矛盾しているように思える原理を新たに
打ち立てているものもあるようです。
私としては、研究の方向性が違うのではないかと思えてきます。
4. Posted by マルコビッチ 2010年08月02日 15:33
これはとても衝撃的な始まりでした。
「放鬆」の状態とは「弸勁」そのものを指しています・・!?
放鬆がなければ何も起こらないというのは感じていたのですが、
やはり、別のこととして考えていました。
こうして、このブログを読んでいると、いろいろな事が
繋がってくるような気がします・・・なるほど!!
この認識があると無いとでは大きな違いがあると思います。
セミナーに受講させて頂いた頃は、放鬆がこんなに重要な事だとは
感じていませんでしたし、新しい知識として受け止めただけでした。(汗)
現在の自分と、あの時教えて頂いた事を重ねると・・
放鬆って・・なんて難しいんだろう・・師父と対した時の、あの手の軽さ・・
めまいがしそうだけど、站椿するしかありませんね!!
とても勉強になりました。ありがとうございます!!
「放鬆」の状態とは「弸勁」そのものを指しています・・!?
放鬆がなければ何も起こらないというのは感じていたのですが、
やはり、別のこととして考えていました。
こうして、このブログを読んでいると、いろいろな事が
繋がってくるような気がします・・・なるほど!!
この認識があると無いとでは大きな違いがあると思います。
セミナーに受講させて頂いた頃は、放鬆がこんなに重要な事だとは
感じていませんでしたし、新しい知識として受け止めただけでした。(汗)
現在の自分と、あの時教えて頂いた事を重ねると・・
放鬆って・・なんて難しいんだろう・・師父と対した時の、あの手の軽さ・・
めまいがしそうだけど、站椿するしかありませんね!!
とても勉強になりました。ありがとうございます!!
5. Posted by のら 2010年08月03日 17:12
☆トヨさん
>人間は、自分が理解できないことに関しては、何かしらの理由をつけたがるものだと思います。
人間というのは、とても勝手な生き物ですね。
捕鯨の文化が無い人間たちにとっては年間700頭の捕鯨が「悪」となり、調査捕鯨を暴力で妨害するシー・シェパードは「善玉」になったりもします。繁殖し過ぎたので「環境を守るため」に年間360万頭ものカンガルーを ”駆除” し、カンガルーは沢山居るがクジラはあまり居ない、と開き直りつつ、実はカンガルーの居なくなった土地を売却して金儲けをする─────
これには流石の豪州人も非難囂々でしたが。
まあ、実はそこに在るのは「白人至上主義」であって、本当はクジラとは何の関係もない・・・・
クジラは「日本バッシング」のための口実、ということでしょうか。
それとも・・・・オーストラリアに根強い ”白人至上主義” を「利用」した、
どこかの誰かさんが誰かさんと企んだ、《 国際的排日風潮大推進計画・第二部分》!!・・
・・アルのコトかもしれません。
何にしても、世界で最も多くの哺乳動物を殺し、最も多くの種を絶滅させてきたオーストラリアにそんなことを言われる筋合いはありません。クジラは国際法で保護されていますが、カンガルーを保護する法律は彼の国には無いのです。私はクジラを好んで食べませんが、こうなったら意地でも食べてやろうかと・・・
捕鯨問題でも、「環境」「保護」「残酷」とかいう文字を見続けていると、あまりよく考えることなく、自ずと単純な意識が芽生えてくる例なのかもしれません。
・・あ、オーストラリアは横文字でした!(汗)
>人間は、自分が理解できないことに関しては、何かしらの理由をつけたがるものだと思います。
人間というのは、とても勝手な生き物ですね。
捕鯨の文化が無い人間たちにとっては年間700頭の捕鯨が「悪」となり、調査捕鯨を暴力で妨害するシー・シェパードは「善玉」になったりもします。繁殖し過ぎたので「環境を守るため」に年間360万頭ものカンガルーを ”駆除” し、カンガルーは沢山居るがクジラはあまり居ない、と開き直りつつ、実はカンガルーの居なくなった土地を売却して金儲けをする─────
これには流石の豪州人も非難囂々でしたが。
まあ、実はそこに在るのは「白人至上主義」であって、本当はクジラとは何の関係もない・・・・
クジラは「日本バッシング」のための口実、ということでしょうか。
それとも・・・・オーストラリアに根強い ”白人至上主義” を「利用」した、
どこかの誰かさんが誰かさんと企んだ、《 国際的排日風潮大推進計画・第二部分》!!・・
・・アルのコトかもしれません。
何にしても、世界で最も多くの哺乳動物を殺し、最も多くの種を絶滅させてきたオーストラリアにそんなことを言われる筋合いはありません。クジラは国際法で保護されていますが、カンガルーを保護する法律は彼の国には無いのです。私はクジラを好んで食べませんが、こうなったら意地でも食べてやろうかと・・・
捕鯨問題でも、「環境」「保護」「残酷」とかいう文字を見続けていると、あまりよく考えることなく、自ずと単純な意識が芽生えてくる例なのかもしれません。
・・あ、オーストラリアは横文字でした!(汗)
6. Posted by のら 2010年08月03日 17:17
☆まっつさん
「放鬆」と「弸勁」は、フツーは別のものと考えられているようですね。
仰るように、その偏りによって「太極拳の構造」は著しく歪むことになるでしょう。
何てったって哀しいのは、その歪みによって「発勁」が習得できなくなることです。
私はそれらを「別モノ」と考えていないのに、なかなか発勁が習得できません・・(涙)
「放鬆」と「弸勁」は、フツーは別のものと考えられているようですね。
仰るように、その偏りによって「太極拳の構造」は著しく歪むことになるでしょう。
何てったって哀しいのは、その歪みによって「発勁」が習得できなくなることです。
私はそれらを「別モノ」と考えていないのに、なかなか発勁が習得できません・・(涙)
7. Posted by のら 2010年08月03日 17:26
☆とび猿さん
>研究の方向性が違うのではないかと・・・
まったくその通りですね。
太極拳とは全く異なる武術やスポーツの原理を持ってきても、どうなるものでもありません。
ドクターバディも言っていましたが、師父の説かれる「構造原理」は、物理学や筋肉構造学と見事に一致するので、原理の説明に全く無理がありませんね。
>研究の方向性が違うのではないかと・・・
まったくその通りですね。
太極拳とは全く異なる武術やスポーツの原理を持ってきても、どうなるものでもありません。
ドクターバディも言っていましたが、師父の説かれる「構造原理」は、物理学や筋肉構造学と見事に一致するので、原理の説明に全く無理がありませんね。
8. Posted by のら 2010年08月03日 17:41
☆マルコビッチさん
>セミナーに受講させて頂いた頃は・・・
「放鬆のセミナー」が懐かしいですね。
あのセミナーには、放鬆を理解するための多くのヒントが入っていました。
ぜひ教材ビデオを繰り返して観て下さいませ。
>師父と対した時の、あの手の軽さ・・
これはホントに目眩がしそうですね。
日々、自分たちが想っている太極拳のイメージが覆されることばかりです。
また下手な原稿を書いていきますので、よろしくお願いします。
>セミナーに受講させて頂いた頃は・・・
「放鬆のセミナー」が懐かしいですね。
あのセミナーには、放鬆を理解するための多くのヒントが入っていました。
ぜひ教材ビデオを繰り返して観て下さいませ。
>師父と対した時の、あの手の軽さ・・
これはホントに目眩がしそうですね。
日々、自分たちが想っている太極拳のイメージが覆されることばかりです。
また下手な原稿を書いていきますので、よろしくお願いします。
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