2010年06月10日

歩々是道場 「站椿 その7」

                     by のら (一般・武藝クラス所属)



 站椿は、低く辛い姿勢を取って足腰を鍛えるものでもなければ、ボールを膨らませるイメージで擬似的に「弸勁(ポンジン)」をつくることでもない、ということは既に書きました。

 站椿の訓練体系は、
 《「意」を用いて「勁」という独自のチカラを発生させる構造を造ること 》
 ・・ただひたすら、それに尽きます。

 ここで言う「意ヲ用イテ」とは、正しい構造理論を理解した上で、それを力感によってではなく、正しい意識とイメージで構造を正しく機能させる、という意味です。

 「勁」は太極拳の全ての瞬間瞬間の動きに使われ続けている ”原動力” であって、ひとつずつの技法にそのつど発生させて用いられる力ではありません。太極拳として身体が動くためには、どのような小さくささやかな動きであっても、「勁のはたらき」以外の力は微塵も用いられていないのです。

 陳氏太極拳図説を著された陳鑫先師が仰るところの《 開合虚実是為拳経 》とは、大変意味深い言葉です。太極拳の全ての動きとチカラが「開合虚実」によるものであることが分からなければ、足を蹴り、身体を落下させることで自分を動かす、などといった、開合や虚実とはおよそ無縁の「日常」の運動システムからしか太極拳を捉えることが出来ません。

 『勁はバネチカラで、拙力はバカチカラ・・・』とは、かの笠尾恭二先生の言葉ですが、師父はこれを、中々言い得て妙であると仰いました。太極拳で用いられるチカラのひとつは、正にそのバネチカラを中心とする《 身肢放長的弾性運動 》に他なりません。
 しかしながら、いったい何を以て「弾性運動」とするのかが問題です。
 その「バネチカラ」は、まるでトランポリンのようなチカラを持っていますが、不思議なことに、それは人がトランポリンを使って跳ねることの中には存在していません。
 つまり、弾性運動を実感したり習得するためにトランポリンで跳ねたり、空中に舞い上がる際、或いは落下する際にどう動くかを練習しても全く無意味であって、そのほかに、走り込もうが、縄跳びをしようが、スクワットをしようが、膝をウンと曲げて超低架式で套路を練ろうが全く何の役にも立たない・・そのあたりが太極拳のたいへん面白いところです。

 勁力とは、このバネチカラを中心とする複合的な「構造力」であると言えますが、これは正しい学習体系の訓練を許されてもなお、修得することがたいへん困難なものです。
 「日常」という構造の中で太極拳を練ってしまっていると、そのようなチカラ自体が全く発想できなかったり、あるいは「バネ」自体を勘違いして、わざわざ日常的な拙力の亜流を造り、それをバネであるかのように思い込まざるを得なくなる場合もあります。
 そうなるともう、何をやっても「バカチカラ」にしか・・なりません。(笑)
 しかし正しい構造を学習させて頂いてもなお、日常という土壌でたっぷり鍛えてきた我がアタマの固定観念と身に染みついた習慣はそう簡単には否定できるものではありません。正しい構造を学んでいると、「勁力」というものが決して世に広く伝えられることが無かった理由が改めて実感されます。


 さて、抱球勢で練功を続けていくと、やがて「弸勁」が発生するようになります。
 ・・・もちろん「正しい構造」で抱球勢の站椿を続けていれば、の話です。
 本来は、正しい構造であれば、站椿で立ったその瞬間から弸勁が”発生”するのであって、何も起こらないのは、ひたすらその「構造」が間違っていたということになります。

 この抱球勢での弸勁の実感は「勁」を習得するためのささやかな第一歩となります。
 抱球勢は、もともと胸の前に抱えた一個の大きな球に限られることではなく、そのようなイメージは抱球勢站椿の全体から見れば単なる初めのきっかけに過ぎません。
 太極拳では、身体中に存在する多くの球が複合的にはたらくのであって、もし前述のごとき「膨らませた弸勁のボール」のようなイメージだけで抱球勢に臨んでいると、身体のあちこちに存在する「球」が意識されにくくなり、弸勁自体がとても貧しいものになってしまうおそれがあります。
 また、加えて「馬歩」の構造への要求が正しく追及されないようであれば、もうその站椿は決して太極拳の練功には成り得いものになってしまいます。

 抱球勢は、胸の前で球を抱えるもの以外にも、上腹部の前で抱えるものと、下腹部の前で抱えるものの三種類を行うのが一般的であるようです。
 抱球勢では主としてそれら三種の弸勁を整えていくわけなのですが、そうすることによって胸の前で抱えるだけでは分かりにくかった「構造の変化」によるチカラの発生がより明確になり、理解されやすくなってきます。
 しかし、一旦理解されればその三つの種類をいちいち行う必要はなく、意念により、胸の前で抱えるものだけでも、同じ結果を導くことも出来ます。
 また、これが理解されれば他の基本功・・例えば纏絲勁の練功などにもスンナリと入っていくことができます。

 抱球勢の目的はあくまでも太極拳の基本的な構造を整えることにあり、その根元的なチカラである弸勁を体感し、徐々にそれを大きくしていくことにあります。
 しかし弸勁は、抱球勢で練られるだけでは、武術としては使い物になりません。
 ここで得られた弸勁は「太極勁」へのささやかな第一歩に過ぎず、その遠い道程の初めの一瞥(いちべつ)に過ぎないのです。

 弸勁は、様々な方法によって、様々な種類の勁力として、もっと広く、もっと深く、さらに繊細に認識される必要がありますが、それは抱球勢の次の段階として行われる「動の站椿」に存在しています。
 「動」の站椿では、実際に武術としての戦闘に用いられる「勁」が練られます。
 それを練るためにも、つまり太極拳が強力な武術として存在し続けるためにも、まずは馬歩による抱球勢を限りなく正しく取れなくてはなりません。
 馬歩の抱球勢は、それ自体が「静中の動」であることはすでに書きましたが、次の「動」の站椿では、その「動」自体が動き始めます。
 このように、馬歩の精度は、すなわち武術としての「技撃」の精度になっていくのです。

 実際には、正しい馬歩が理解されなくては、基本功はおろか套路なども何ひとつ始まりません。それ以前では予備式も起勢も、本来はまったく微動だに出来ない状態なのです。
 それを余りにも気軽にやってしまえたり、敢えて省いてしまったりすることのできる状況は現代という時代の太極拳の質を端的に現しているように思えてなりません。


 「馬歩」の要求が、果たして正しく身に付いているかどうかは、このブログやホームページの中でも度々触れられている、《 グラウンディング 》と呼ばれる練習法があります。
 これは「腰相撲」の直立バージョンとでも言えるものですが、ホームページでは、『正しく立つこと自体が、すでに居着かない状態を意味する』・・と説明されています。
 かつてホームページにこの練功の写真を出したところ、某掲示板で「トーテムポール」と名付けられ「こんなもの絶対にできるワケがない、インチキだ!」と騒がれたことが思い出されますが、論より証拠、太極武藝館を訪れてみれば誰もがそれを体験できます。

 グラウンディングは他の記事と重複することになりますが、站椿を理解しやすいのでこの稿でも少し触れることにしましょう。

 まず肩幅の並歩で立ち、前に出した両掌をパートナーにゆっくり押してもらいます。
 この時、膝はほとんど曲げず、軽く曲がっている程度で、パートナーに寄り掛かることで耐えることのないよう真っ直ぐに立ち、決して前傾しないようにし、お尻を後ろに突き出さないようにします。
 つまり、押されている最中に、相手が手を離したら前に崩れるようでは誤りです。
 このような状況では、普通は前に身体を傾けて相手の押す力に耐えようとしますが、前傾せずに正しく立つことによってのみ、「馬歩の構造」が理解できます。
 自分を横から見た姿が鏡などで確認できると分かりやすいでしょう。

 普通の人は、軽く押されても後ろに崩されてしまいますが、正しい馬歩の構造が理解できれば、不思議なことに、パートナーがかなりの力を入れても押せません。
 しかし、押されている側には頑張っている気配が何もありません。
 ただ真っ直ぐに、或いは後ろに立っているとさえ思えるような姿勢なのですが、押されたまま殆ど手を動かさずに相手を大きく飛ばしたり、その場で片足で立ったり、足踏みをすることさえ出来てしまいます。
 ただ抱球勢で立っているだけでは、そこで練られるべきことをなかなか理解し難いものですが、このような練功で「馬歩の構造」が理解されれば、站椿に於ける馬歩の抱球勢は、さらに有意義なものになることでしょう。

 先に述べたように、「抱球勢」は空気でボールを膨らませるイメージで弸勁を養成していくのではなく、「球」を抱えるその行為自体がすでに弸勁となるような「意」の要求によって、身体の構造が整えられていきます。

 ・・・では、何故、まずそこに「弸勁」が求められるのか。

 それは弸勁、つまり《 陰陽虚実が存在する球状のチカラ 》こそが、太極拳の武術的な動きとチカラを発生する根本的な環境となるからです。
 「球を抱える」スタイルにするのは、それがシステムを学ぶために効率的な形であるからに他なりません。

 そして、抱えられた「球」は、そのシステムゆえに、その後、馬歩の構造に実に様々な変化をもたらしていきます。
 いや、正確には、変化がもたらされるように ”仕向けていく” のですが・・・

 その変化こそが、太極拳の「勁力」を生み出すことになります。


                                   (つづく)

disciples at 20:26コメント(4)歩々是道場 | *站椿 

コメント一覧

1. Posted by トヨ   2010年06月10日 21:25
複数の記事で内容がリンクしているのはおもしろいですね。
もっとも、太極拳が目指す「ひとつのところ」について書かれようとしているので、
当然といえば当然なのかもしれませんけど。

>『勁はバネチカラで、拙力はバカチカラ・・・』
これ、おもしろい言葉ですよね。
日常的な発想で「弸勁(ポンジン)」をボールが膨らむようなチカラととらえて、
それを練ろうとすれば、確かに筋肉にバネのようなチカラが生じる感覚がありますけど、
それはどこまでいってもただの力感であって、「用意不用力」からは外れてしまいます。

では、太極拳がいわんとするバネチカラとはなんなのか?
日常的な身体感覚・発想からは決して出てこないものだと思います。実に面白いです。
 
2. Posted by まっつ   2010年06月10日 23:44
本稿を拝見して感じましたが、
正しく立つ事を起点に導かれる弸勁の実感とは、
彫刻に喩えるなら堅実な素材と言えるのでしょうか?
彫り上げて形を成し、磨き上げて細部までの表現を可能にする原石・・・

もし氷やドライアイスのような、
環境に左右される不確実な素材であれば、
せっかく形を模した所でも残していく事は難しいでしょう・・・
まず彫り始める前には、落ち着いて素材を吟味しなければ、
以後の如何なる努力も実らないかもしれません。

現代といういかにも喧しい時代では、
小生も含めて多くの人が、足元も見ずに前のめりに生き過ぎてしまって、
大事なものを通り過ぎた「先」に何かを求めて生きてしまっているように思われます。
何かをする前に見つめるものがある事を站椿で学びたいと改めて感じました。
 
3. Posted by のら   2010年06月12日 13:30
☆トヨさん

>『勁はバネチカラで、拙力はバカチカラ・・・』

これは面白いですね。
師父もホームページの「太極拳はどう戦うのか・第3回」で、その言葉に触れ、

  いくら学んでも発勁が出来ないと言うことは、太極拳をいくらやっても
  バカチカラしか出せないということであって、それでは余りにも哀しい・・・

と書いておられますが、勁力が解らないうちは、構造を正しく整えていくのと同時に、
バカチカラが・・・いや、拙力が何であるのかを研究していくことも、とても重要ですね。

よく身体を縮めていって力を溜め、それを開放することを発勁だと思っている人が居ますが、
とんでもありませんね。それを勘違いしないように、それを戒めるために、
「用意不用力」という言葉が遺されたたのだと思います。
トヨさんが仰るように、バカチカラは「ただの力感」と言うことも出来ますね。
 
4. Posted by のら   2010年06月12日 13:39
☆まっつさん

弸勁の実感に、「素材」と言う考え方は大切かも知れません。
その素材を吟味しなければ遺されていかない・・・それは確かでしょう。

世界最古の木造建築である法隆寺は607年に建造されましたが、今でも立派に残っています。
この高温多湿の国で、それは殆ど奇跡のように思えますし、世界中がその事実に驚愕し、日本人以外には絶対に出来ないと断言します。
では、法隆寺に使われている素材が吟味され尽くした堅実な素材であるが故に千四百年も無事でいるのかというと、決してそれだけである筈はない・・・

師父は、全てのものは、どのようなものでも互いに繋がり、相互依存しているのだと言われます。
一は全であり、全は即ち一であるのだと、それ故に、全体性としてトータルに物事を捉えなければ何ひとつ理解できない。太極拳は「全体性」であり、その全体性の中に身を置くことでこそ学び得る高度な武藝なのだと、私たちに教え諭されます。

法隆寺の素材に使われた名木も、それがただ吟味され尽くしただけではなく、法隆寺の建立という
「全体性」の中で吟味された故にこそ、千四百年の歳月を耐えて存在しているのだと思えます。
その「全体性」こそが唯一の「素材」であると、私たちは深く理解しなくてはなりません。
 

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

Categories
  • ライブドアブログ