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2025年02月26日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その92
『戦いと調和』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
同じ仕事をしていても、周りから見て明らかに上手く回せている人と、当人が必死にあがいてどうにかこうにか終わらせている人という二種類の取り組み方を見かけることがあります。
上手に回せている人は、するべきことはもちろん自分が行っているのですが、自分一人では出来ない事を他の人にお願いしたりしています。いうなれば段取り上手で、自分が作業をするにしても、するべきことを細分化して段取りを作るのが上手いようなのです。
かたや自分一人でどうにかしている人はというと、そもそも全体像を把握して流れを見極めるのが不得意のようで、人に仕事を上手く振り分けることが出来ていません。そのやり方で自分もやるものですから、体力や時間的余裕があるうちはいいのですがそれが枯渇してくると、とたんにペースが落ちてしまっています。
面白い事に、人との付き合い方にもその人の仕事のやり方がそのまま表れています。段取り上手な人は人と付き合うのにも気配り上手で、細かいところにも気が付きますし、特に他人がどのように感じているのかという所まで慮って自分の行動を決めています。
もう一人の人は、そもそも他の人の考えていることなど頭から気にしていないようで、自分の都合や考え方、感情を基にして人付き合いをしています。そうすると相手からの反感を買っている時があるのですが、そんなことはどこ吹く風といわんばかりに、自分のやり方を推し進めようとしています。そして時に、その衝突は大きなものとなってしまうようです。
太極武藝館で太極拳の稽古をすることは、ただ武術の修行という枠に収まらず、自分の生き方や人生、仕事との関わり方といった多岐にわたるところにまで影響を及ぼしていると私には感じられます。
武術とは畢竟すると他人との命のやり取り、ある意味では究極の関わり合いともいえるものです。自分と他人や、その他物事との関係がどうなっているのかを極限まで突き詰めるのが武術だとして、そこで得られた知見はそっくりそのまま自身の人間関係へとスライドして生かしていくことが出来るし、自分の他人との関わり合いの考え方がそのまま武術の稽古にも反映されているのが感じられます。
私事ですが、昨年、仕事における立場がそれまでのものと大きく変わりました。それまでは人の指示で動いていたことが多かったのですが、今度は自分が判断を下し指示を出して動いてもらうという状況になったのです。これまでは分からないことがあったら指示をしてくれる人に確認を取っていたのが変化し、自分で判断を下す裁量が増えた分、自分で考えて行動をするという責任が大きくなりました。
問題が生じた時に、それまでの自分の判断の仕方ではとても仕事が終わらないし間に合わないという状況になった事で、自分にとって非常に大きな変化がありました。
全体の状況がどのようになっていて何が問題となっているのか、それを解決するためにはどのような手段を取るべきか、それをすることでどういった事が予想されるのか…そういったように問題解決を図るという能力が嫌でも鍛えられていきました。
状況を俯瞰して、全体のタイムスケジュールを把握して、今どこに注力して物事を進めるべきか見定め、そうでない所は別の時に進める。そのようにして仕事に取り組む事にようやく少し慣れてきた時、それがそのまま自分の太極拳の稽古への取り組み方に反映されていた事にも気づきました。
それまでの自分は、問題を解決するつもりにはなっているものの、状況の全体がうまく把握できておらず、そこで起きている個別の現象の中の特に自分が気になる部分にだけフォーカスしてしまっているという感じでした。
問題の焦点がぼやけているから、それに対する解決策もまたぼんやりとしたものでしかありません。突き詰めると、太極拳がどのようなものなのかという理解もまた、ピントが合っていないぼやけたものでしかないかのようでした。
今にして思えば、そんなやり方をいくらやったところで問題は解決していきませんし、それではどれだけ時間があったって進展はしていきません。それでも大丈夫だとどこかで余裕を持ってしまっていたのだと思います。皮肉な事にそれでは通用しないのだと自分に教えてくれたのは、他でもない仕事という場面だったのです。
全体がどうなっていてどの部分に問題があるのか。それを解決するためにどう働きかければいいのか。それらが上手くいっている時というのは、自分ひとりが我武者羅にあがいている時ではなくて、一見関係のなさそうな他の人や物事が調和して動いてくれている時だというのが分かってきました。
一人では出来ないことでも自分が上手く働きかける事で、動いてくれるものがあります。それによって自分の目の前で停滞していた問題が動き始めてくれるのです。あたかもそれは、体が部分部分では動かず、全体がひとつの調和したものとして働いてくれるときに全身が動いてくれるというものに似ているように思います。
人との関係性もまた、それによって全く違ったものとして見えてきました。自分では出来ない分を誰かにお願いするにしても、ただこちらから押し付けるのではなく、相手がどのような状態にあって、自分のしてほしい事がそこにどう組み込められるのか、そうなった時相手はどのように感じるだろうか。そこまで意識することで、非常に円滑に進んで行くようになったのです。
共同で作業をしていると、だんだん相手にもこちらが望んでいることが理解してもらえるようになり、困った時には自然に手助けをしてもらえるようにもなってきました。
太極拳の対練の場面では、その知見が未だに生かしきれていないなぁと感じることがしばしばあります。その原因として考えられるのが、ひとつには、我々には「拙力」に対する信仰のようなものがいまだに根強く残っているからではないかと思います。これまで生きてきた中で、力を発するということはすなわち拙力に類する力を使うということだったはずです。しかしそうではないものが太極拳の力であり、それは基本としてすでに示して頂いている事の中に含まれているはずのものです。
宗師の動きを拝見していると、確かに基本と対練で違うことはしていないように見えます。相手と合わせて調和し、基本通りに動くことで、一見すると摩訶不思議な作用が生じて相手に効果が現れます。一見するとと書いたのは、ここでも拙力への信仰が物事を見る目をゆがめてしまう側面があるためです。
我々が一般的に理解している(と思っている)力学では到底不可能に見えますが、その考え方を止めて別の見方が出来るようになってくると、基本と対練が全く矛盾したものではなく、全て理にかなった一貫した体系として見えてくるから不思議です。
その観点で套路を見ると、自分程度のレベルの目で見ても恐ろしいまでの完成度に畏怖すら覚え、先人たちの残してくださった偉業に心の底から敬意を払いたくなるものです。
とはいえ、見えたものを自分で完璧に再現できるかというとそうはならないのが悲しいところで、体の奥底にまでこびりついた力への信仰を変えることが出来るか…そこにフォーカスし続けているのが今の自分の状況といったところでしょうか。
対話をするという事は、自分と対話するのみならず、人とも対話し、また、会話できるとは思えないような物事とも対話をしていく事なのかもしれません。
余談ですが、職場で円滑に仕事を進めるために一番役に立っているのは何かというと、それは普段のお喋りではないかと感じています。ちょっとした合間に仕事以外の話をすることで、その人となりがどういうものかが見えてきます。また、コミュニケーションを図り相手の事を理解出来てくると、いざ仕事に取り掛かる時にも、それぞれがスムーズに進めていくことが出来るようになるのです。
何事も、調和して円滑に動いているものが一番ダイナミックで強いし、何か変動が起きた場合も、すぐに元通りに戻ってくれるのが自然の摂理だと思います。
人との争いもまた、一見すると矛盾するかのようですが、相手の人となりを理解し、それと調和する事が出来てはじめて相手を制することに繋がり、こちらの身を守ることが出来るのかもしれません。
矛盾するように見えるのもこちらの誤った思い込みというもので、自然本来の法則は、全く違った形で働いているのだと感じられます。
太極拳とは、まさしく宇宙の法則という在り方に則った武術だと思います。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
同じ仕事をしていても、周りから見て明らかに上手く回せている人と、当人が必死にあがいてどうにかこうにか終わらせている人という二種類の取り組み方を見かけることがあります。
上手に回せている人は、するべきことはもちろん自分が行っているのですが、自分一人では出来ない事を他の人にお願いしたりしています。いうなれば段取り上手で、自分が作業をするにしても、するべきことを細分化して段取りを作るのが上手いようなのです。
かたや自分一人でどうにかしている人はというと、そもそも全体像を把握して流れを見極めるのが不得意のようで、人に仕事を上手く振り分けることが出来ていません。そのやり方で自分もやるものですから、体力や時間的余裕があるうちはいいのですがそれが枯渇してくると、とたんにペースが落ちてしまっています。
面白い事に、人との付き合い方にもその人の仕事のやり方がそのまま表れています。段取り上手な人は人と付き合うのにも気配り上手で、細かいところにも気が付きますし、特に他人がどのように感じているのかという所まで慮って自分の行動を決めています。
もう一人の人は、そもそも他の人の考えていることなど頭から気にしていないようで、自分の都合や考え方、感情を基にして人付き合いをしています。そうすると相手からの反感を買っている時があるのですが、そんなことはどこ吹く風といわんばかりに、自分のやり方を推し進めようとしています。そして時に、その衝突は大きなものとなってしまうようです。
太極武藝館で太極拳の稽古をすることは、ただ武術の修行という枠に収まらず、自分の生き方や人生、仕事との関わり方といった多岐にわたるところにまで影響を及ぼしていると私には感じられます。
武術とは畢竟すると他人との命のやり取り、ある意味では究極の関わり合いともいえるものです。自分と他人や、その他物事との関係がどうなっているのかを極限まで突き詰めるのが武術だとして、そこで得られた知見はそっくりそのまま自身の人間関係へとスライドして生かしていくことが出来るし、自分の他人との関わり合いの考え方がそのまま武術の稽古にも反映されているのが感じられます。
私事ですが、昨年、仕事における立場がそれまでのものと大きく変わりました。それまでは人の指示で動いていたことが多かったのですが、今度は自分が判断を下し指示を出して動いてもらうという状況になったのです。これまでは分からないことがあったら指示をしてくれる人に確認を取っていたのが変化し、自分で判断を下す裁量が増えた分、自分で考えて行動をするという責任が大きくなりました。
問題が生じた時に、それまでの自分の判断の仕方ではとても仕事が終わらないし間に合わないという状況になった事で、自分にとって非常に大きな変化がありました。
全体の状況がどのようになっていて何が問題となっているのか、それを解決するためにはどのような手段を取るべきか、それをすることでどういった事が予想されるのか…そういったように問題解決を図るという能力が嫌でも鍛えられていきました。
状況を俯瞰して、全体のタイムスケジュールを把握して、今どこに注力して物事を進めるべきか見定め、そうでない所は別の時に進める。そのようにして仕事に取り組む事にようやく少し慣れてきた時、それがそのまま自分の太極拳の稽古への取り組み方に反映されていた事にも気づきました。
それまでの自分は、問題を解決するつもりにはなっているものの、状況の全体がうまく把握できておらず、そこで起きている個別の現象の中の特に自分が気になる部分にだけフォーカスしてしまっているという感じでした。
問題の焦点がぼやけているから、それに対する解決策もまたぼんやりとしたものでしかありません。突き詰めると、太極拳がどのようなものなのかという理解もまた、ピントが合っていないぼやけたものでしかないかのようでした。
今にして思えば、そんなやり方をいくらやったところで問題は解決していきませんし、それではどれだけ時間があったって進展はしていきません。それでも大丈夫だとどこかで余裕を持ってしまっていたのだと思います。皮肉な事にそれでは通用しないのだと自分に教えてくれたのは、他でもない仕事という場面だったのです。
全体がどうなっていてどの部分に問題があるのか。それを解決するためにどう働きかければいいのか。それらが上手くいっている時というのは、自分ひとりが我武者羅にあがいている時ではなくて、一見関係のなさそうな他の人や物事が調和して動いてくれている時だというのが分かってきました。
一人では出来ないことでも自分が上手く働きかける事で、動いてくれるものがあります。それによって自分の目の前で停滞していた問題が動き始めてくれるのです。あたかもそれは、体が部分部分では動かず、全体がひとつの調和したものとして働いてくれるときに全身が動いてくれるというものに似ているように思います。
人との関係性もまた、それによって全く違ったものとして見えてきました。自分では出来ない分を誰かにお願いするにしても、ただこちらから押し付けるのではなく、相手がどのような状態にあって、自分のしてほしい事がそこにどう組み込められるのか、そうなった時相手はどのように感じるだろうか。そこまで意識することで、非常に円滑に進んで行くようになったのです。
共同で作業をしていると、だんだん相手にもこちらが望んでいることが理解してもらえるようになり、困った時には自然に手助けをしてもらえるようにもなってきました。
太極拳の対練の場面では、その知見が未だに生かしきれていないなぁと感じることがしばしばあります。その原因として考えられるのが、ひとつには、我々には「拙力」に対する信仰のようなものがいまだに根強く残っているからではないかと思います。これまで生きてきた中で、力を発するということはすなわち拙力に類する力を使うということだったはずです。しかしそうではないものが太極拳の力であり、それは基本としてすでに示して頂いている事の中に含まれているはずのものです。
宗師の動きを拝見していると、確かに基本と対練で違うことはしていないように見えます。相手と合わせて調和し、基本通りに動くことで、一見すると摩訶不思議な作用が生じて相手に効果が現れます。一見するとと書いたのは、ここでも拙力への信仰が物事を見る目をゆがめてしまう側面があるためです。
我々が一般的に理解している(と思っている)力学では到底不可能に見えますが、その考え方を止めて別の見方が出来るようになってくると、基本と対練が全く矛盾したものではなく、全て理にかなった一貫した体系として見えてくるから不思議です。
その観点で套路を見ると、自分程度のレベルの目で見ても恐ろしいまでの完成度に畏怖すら覚え、先人たちの残してくださった偉業に心の底から敬意を払いたくなるものです。
とはいえ、見えたものを自分で完璧に再現できるかというとそうはならないのが悲しいところで、体の奥底にまでこびりついた力への信仰を変えることが出来るか…そこにフォーカスし続けているのが今の自分の状況といったところでしょうか。
対話をするという事は、自分と対話するのみならず、人とも対話し、また、会話できるとは思えないような物事とも対話をしていく事なのかもしれません。
余談ですが、職場で円滑に仕事を進めるために一番役に立っているのは何かというと、それは普段のお喋りではないかと感じています。ちょっとした合間に仕事以外の話をすることで、その人となりがどういうものかが見えてきます。また、コミュニケーションを図り相手の事を理解出来てくると、いざ仕事に取り掛かる時にも、それぞれがスムーズに進めていくことが出来るようになるのです。
何事も、調和して円滑に動いているものが一番ダイナミックで強いし、何か変動が起きた場合も、すぐに元通りに戻ってくれるのが自然の摂理だと思います。
人との争いもまた、一見すると矛盾するかのようですが、相手の人となりを理解し、それと調和する事が出来てはじめて相手を制することに繋がり、こちらの身を守ることが出来るのかもしれません。
矛盾するように見えるのもこちらの誤った思い込みというもので、自然本来の法則は、全く違った形で働いているのだと感じられます。
太極拳とは、まさしく宇宙の法則という在り方に則った武術だと思います。
(了)
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2025年01月25日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その91
『見えていないことに自覚的になる』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
年が変わったばかりかと思いきや、早くも一か月が経とうとしています。太極武藝館での稽古も、去年にも増してより高度な、濃密な内容で取り組まれていることが肌で感じられます。
さて、今年の稽古はじめから宗師に指導していただいている事で、物事の見えていない部分に自覚的になること、という内容が挙げられます。人間というのは、何かの物事を目の前にしたときに、しっかりと見えているようで見えていない生き物です。そして、その見えていない部分を無意識のうちに自分で補ってしまい、その事に気づけていない…というお話を繰り返しして頂いています。
車の運転中に交通事故が起こる時、当事者は「相手の車が見えなかった」という証言をするのだそうです。目の前を走っているはずの車が、目には映っているはずなのに、人間の認識のメカニズム上、その人の脳内には存在しない事になってしまうのだそうです。
同様の事が、道場での稽古に取り組んでいる際にも見られます。
宗師に示して頂いた形が真似できていないという時、本来だったら示されているはずの動きを、知らずに自分が間違って理解している形で補ってしまっているという姿が、自分自身の事としても数多くみられるものです。
物事を見ていく過程で、見えていない部分を自分で補ってしまっていることが自覚出来るか。そこが稽古で真似が出来るかどうか…つまり太極拳を学習していけるかを分ける事になる、と宗師のお話は続きます。
基本功や套路など、稽古をしていれば何度も同じ形を繰り返すことになります。同じ事を繰り返す際、それはすでに知っているものだと片づけて、認識の負荷を減らすという性質が人間には生まれながらに備わっているという研究があります。
例えば道を歩いている時、元来野生生物として生きてきた人間ですが、常に100パーセントの警戒を続けていてはすぐに疲れ切ってしまいます。そのため、危険が起こりうるパターンというものを生得的な認識として持ち合わせていて、そのアラートが発せられない時は警戒を緩めるという機能があるようなのです。
現代のように、自然界で生きる危険とかけ離れてしまった環境に置かれた時、その機能はある意味、緩み切ってしまっているのかもしれません。
ただ同時に、気を付けなければならないと意識を切り替える機能も人間には同様に備わっているので、より意識的に自覚するようにしていけば、些細な違いも自分の認識の網で拾い上げることが可能なはずです。
太極武藝館の稽古でも常々言われている通り、センサーを磨き、その網目を細かくしていく事は非常に大事な事であり、そのための第一歩としてまず、自分の認識がどのように働いているか…今回の場合は、見えていると思っている事が、無意識のうちにどのようにゆがめられてしまっているかを、より意識的に自覚していく必要があるのだと感じます。
今年に入って、道場では四正手の稽古を行うことが増えました。一見すると単純な動作を繰り返しているように見えますが、宗師の動きと比べてみると違いが数多くあり、またそれらが真似出来ていないこともまた多々あります。
自分一人で動きの稽古をした後、四正手から掤(ポン)の形を取り出して対練を行います。それを行うことでよりはっきりと、自分が違う事をしてしまっているという事が分からされるものです。
対練の形としては非常に単純で、相手に構えて立ってもらったところに、こちらが掤を行い相手を崩すというものですが、その単純な形でさえ、簡単には真似できないのです。
自分でやってみても、宗師のような動きの大きさにはならないのです。それどころか、目の前に相手が立っているだけで、自分ひとりでやっている時の大きさですら動けないのです。
相手を崩すために、基本とは違う動きになってしまっている…そのように指導して頂くものの、無意識のうちに変えてしまったその動きをなかなかやめられません。常識的に見ればそれが相手を大きく動かす事だと、どこかで信じてしまっているようなのです。
何度も繰り返すうちに、ようやくそう言って頂いていた意味が理解できました。動きを基本通りに忠実に行うよう注意し続ける事で、思ってもみない影響が相手に現れたのです。
最初から言われていて、示されてもいたはずなのに、どうしてこうも真似できないものなのか…。反省し、次につなげるべきことはいくらでもあります。それと同時に、その変化を簡単に逃す手はありません。
対練で違ってしまっていた動きがどのようなモノだったかを、改めて自分の基本の動きと照らし合わせて検証しました。そうする事で、より根本的な部分で、体を大きく使って動くという事に関して、認識を改めるべき所があったことに気づくことができました。
そこには、四正手の動きに限らず他の基本功や歩法、もっと言えばただ普通に歩いている時にも表れていた体の動きの大きさについての発見がありました。
宗師の体の動きと比べると、明らかに自分の動きのほうが小さいのです。ただ闇雲に体を動かしてみてもその大きさにはならなかったのですが、今回気づいた事のおかげで改善出来そうな光明が見えたように感じられました。
「見えていない」と言われる事をいきなり見ようとしても、なかなか難しいものです。宗師に指導して頂いている通り、見えていない事にまずは自覚的になり、自分が何かを飛ばしてしまって、別のもので穴埋めしている…らしい…と思うところからスタートするのが早いのだと感じました。
示されている事がシンプルな事だとしても、それを別の形で見てしまっている限り、正しい形は絶対に見えてこないものです。そして、そう見えてしまっている事にもなかなか気づけないのが、人間の厄介なところです。
そうではないのかもしれない…と、少しずつでも自分の認識に違和感を持ち、変えていけるかが肝要なのだと感じます。
そのためには、とことん自分の執着を手放し、新しい観方を受け入れていく必要があるのが痛感させられます。真似できていない、見えていないと言われると、人間は自分の人間性が攻撃されていると勘違いし、無意識のうちに防衛本能を働かせてしまうものです。「そんな事はない」と否定するのは人間の心理としてある意味自然な事で、だからこそ精神的にも放鬆し、受け入れられる精神状態になる必要があるのだと思います。
正しい事は正しいし、違う事は違う。本当にただそれだけの事です。
太極拳に限らず、物事のそのシンプルさに目が向いた時、心身ともに自然の理に則ることが出来、それによる発見も自ずと導かれるのかもしれません。
太極拳の稽古は、同時に人間としての在り方を磨いてくれる、本当に価値のあるものだと思います。
(了)
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by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
年が変わったばかりかと思いきや、早くも一か月が経とうとしています。太極武藝館での稽古も、去年にも増してより高度な、濃密な内容で取り組まれていることが肌で感じられます。
さて、今年の稽古はじめから宗師に指導していただいている事で、物事の見えていない部分に自覚的になること、という内容が挙げられます。人間というのは、何かの物事を目の前にしたときに、しっかりと見えているようで見えていない生き物です。そして、その見えていない部分を無意識のうちに自分で補ってしまい、その事に気づけていない…というお話を繰り返しして頂いています。
車の運転中に交通事故が起こる時、当事者は「相手の車が見えなかった」という証言をするのだそうです。目の前を走っているはずの車が、目には映っているはずなのに、人間の認識のメカニズム上、その人の脳内には存在しない事になってしまうのだそうです。
同様の事が、道場での稽古に取り組んでいる際にも見られます。
宗師に示して頂いた形が真似できていないという時、本来だったら示されているはずの動きを、知らずに自分が間違って理解している形で補ってしまっているという姿が、自分自身の事としても数多くみられるものです。
物事を見ていく過程で、見えていない部分を自分で補ってしまっていることが自覚出来るか。そこが稽古で真似が出来るかどうか…つまり太極拳を学習していけるかを分ける事になる、と宗師のお話は続きます。
基本功や套路など、稽古をしていれば何度も同じ形を繰り返すことになります。同じ事を繰り返す際、それはすでに知っているものだと片づけて、認識の負荷を減らすという性質が人間には生まれながらに備わっているという研究があります。
例えば道を歩いている時、元来野生生物として生きてきた人間ですが、常に100パーセントの警戒を続けていてはすぐに疲れ切ってしまいます。そのため、危険が起こりうるパターンというものを生得的な認識として持ち合わせていて、そのアラートが発せられない時は警戒を緩めるという機能があるようなのです。
現代のように、自然界で生きる危険とかけ離れてしまった環境に置かれた時、その機能はある意味、緩み切ってしまっているのかもしれません。
ただ同時に、気を付けなければならないと意識を切り替える機能も人間には同様に備わっているので、より意識的に自覚するようにしていけば、些細な違いも自分の認識の網で拾い上げることが可能なはずです。
太極武藝館の稽古でも常々言われている通り、センサーを磨き、その網目を細かくしていく事は非常に大事な事であり、そのための第一歩としてまず、自分の認識がどのように働いているか…今回の場合は、見えていると思っている事が、無意識のうちにどのようにゆがめられてしまっているかを、より意識的に自覚していく必要があるのだと感じます。
今年に入って、道場では四正手の稽古を行うことが増えました。一見すると単純な動作を繰り返しているように見えますが、宗師の動きと比べてみると違いが数多くあり、またそれらが真似出来ていないこともまた多々あります。
自分一人で動きの稽古をした後、四正手から掤(ポン)の形を取り出して対練を行います。それを行うことでよりはっきりと、自分が違う事をしてしまっているという事が分からされるものです。
対練の形としては非常に単純で、相手に構えて立ってもらったところに、こちらが掤を行い相手を崩すというものですが、その単純な形でさえ、簡単には真似できないのです。
自分でやってみても、宗師のような動きの大きさにはならないのです。それどころか、目の前に相手が立っているだけで、自分ひとりでやっている時の大きさですら動けないのです。
相手を崩すために、基本とは違う動きになってしまっている…そのように指導して頂くものの、無意識のうちに変えてしまったその動きをなかなかやめられません。常識的に見ればそれが相手を大きく動かす事だと、どこかで信じてしまっているようなのです。
何度も繰り返すうちに、ようやくそう言って頂いていた意味が理解できました。動きを基本通りに忠実に行うよう注意し続ける事で、思ってもみない影響が相手に現れたのです。
最初から言われていて、示されてもいたはずなのに、どうしてこうも真似できないものなのか…。反省し、次につなげるべきことはいくらでもあります。それと同時に、その変化を簡単に逃す手はありません。
対練で違ってしまっていた動きがどのようなモノだったかを、改めて自分の基本の動きと照らし合わせて検証しました。そうする事で、より根本的な部分で、体を大きく使って動くという事に関して、認識を改めるべき所があったことに気づくことができました。
そこには、四正手の動きに限らず他の基本功や歩法、もっと言えばただ普通に歩いている時にも表れていた体の動きの大きさについての発見がありました。
宗師の体の動きと比べると、明らかに自分の動きのほうが小さいのです。ただ闇雲に体を動かしてみてもその大きさにはならなかったのですが、今回気づいた事のおかげで改善出来そうな光明が見えたように感じられました。
「見えていない」と言われる事をいきなり見ようとしても、なかなか難しいものです。宗師に指導して頂いている通り、見えていない事にまずは自覚的になり、自分が何かを飛ばしてしまって、別のもので穴埋めしている…らしい…と思うところからスタートするのが早いのだと感じました。
示されている事がシンプルな事だとしても、それを別の形で見てしまっている限り、正しい形は絶対に見えてこないものです。そして、そう見えてしまっている事にもなかなか気づけないのが、人間の厄介なところです。
そうではないのかもしれない…と、少しずつでも自分の認識に違和感を持ち、変えていけるかが肝要なのだと感じます。
そのためには、とことん自分の執着を手放し、新しい観方を受け入れていく必要があるのが痛感させられます。真似できていない、見えていないと言われると、人間は自分の人間性が攻撃されていると勘違いし、無意識のうちに防衛本能を働かせてしまうものです。「そんな事はない」と否定するのは人間の心理としてある意味自然な事で、だからこそ精神的にも放鬆し、受け入れられる精神状態になる必要があるのだと思います。
正しい事は正しいし、違う事は違う。本当にただそれだけの事です。
太極拳に限らず、物事のそのシンプルさに目が向いた時、心身ともに自然の理に則ることが出来、それによる発見も自ずと導かれるのかもしれません。
太極拳の稽古は、同時に人間としての在り方を磨いてくれる、本当に価値のあるものだと思います。
(了)
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2025年01月01日
謹 賀 新 年
明けましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いいたします
日頃より『ブログ・タイジィ』をご愛読いただき、誠にありがとうございます。
お陰さまで当館は昨年、創立30周年の記念行事を滞りなく終えることができ、
札幌支部は稽古会発足から数えて11年、支部設立からは7年目となりました。
門人の皆様は30年の歴史を振り返り、そしてこれから私たちが目指し歩んでゆく
道筋を観られたことと思います。
大きな節目の年を乗り越え、創立31年という新たな幕開けを迎えた本年、
ブログタイジィは、門人の皆様と共に更に気を引き締め、充実させていきたいと
思います。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
令和7年 元旦
太極武藝館 オフィシャルブログ
『Blog Tai-ji 編集室』スタッフ一同
本年もどうぞよろしくお願いいたします
日頃より『ブログ・タイジィ』をご愛読いただき、誠にありがとうございます。
お陰さまで当館は昨年、創立30周年の記念行事を滞りなく終えることができ、
札幌支部は稽古会発足から数えて11年、支部設立からは7年目となりました。
門人の皆様は30年の歴史を振り返り、そしてこれから私たちが目指し歩んでゆく
道筋を観られたことと思います。
大きな節目の年を乗り越え、創立31年という新たな幕開けを迎えた本年、
ブログタイジィは、門人の皆様と共に更に気を引き締め、充実させていきたいと
思います。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
令和7年 元旦
太極武藝館 オフィシャルブログ
『Blog Tai-ji 編集室』スタッフ一同
2024年12月28日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その90
『かくして円環は一巡する』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
早いもので、もう一年が終わりに近づいています。この時期になると、自分は今年一年何をしていただろうかと振り返ることもあるかと思います。さて自分はというと、もっぱら太極拳の稽古と仕事の繰り返しの日々で、気が付いたらあっという間だった気もします。
あっという間に感じられはするものの、中身は非常に濃い一年であったかと思います。
今年掲載させて頂いたブログの記事を振り返ってみると、この時はこんなことを考えていたのだという事が思い起こされ、たった一年の間だというのになつかしささえ感じられるものです。
太極武藝館での稽古に関していえば、特に今年は太極武藝館創立30周年という記念すべき年であり、盛大な記念式典も執り行われました。
その祝賀会の際、宗師に「套路十三勢」を演舞として見せていただいたことは、参加した門人であったらみんな強く記憶に残っていることかと思います。太極武藝館で行われる套路の稽古は一着一着を丹念に行うこともあり、私自身、稽古したことがあるのが、いちばん進んだ事があって第八勢をわずかに、というところです。聞くところによると、套路を全て見たことある門人は実は誰もいない…という話もまことしやかに囁かれているようでした。
そのような中で、記念すべき節目に宗師によってサプライズで示していただいた套路は、見たいといって見られる類のものではなく、その衝撃たるや、語るに尽くせないものであったに違いありません。演舞の終わった後の、みんなが言葉を発することができなくなってしまった状況は、なかなか忘れられそうにありません。
前々回の記事にも書かせていただいた通り、型の重要性についてちょうど注目して研究をしていた私自身にとっても、套路を見せて頂けたことは、本当にとてつもない恩恵ともいえるものでした。
それが一番知りたかった!見たかった!と言っても過言ではないものだったのです。
というのも、その研究そのものが自分独自の間違った解釈で、何か無理矢理辻褄を合わせて進めているだけではないかという不安が、必ずつきまとっていたからです。研究するためのヒントは示されていても、それが正しいという保証はどこにもありません。
そのような時に見せていただけた套路は、私が気づいた事がそうそう的外れなものではなかったと思わせてくれるのに十分…どころの話ではなく、ここから先、どのように稽古を進めていけばいいかというところまで示唆して下さるようなものに感じられました。
十三勢を通して見せていただけたことで、ひとつの円環が完結したような、太極拳の全体像という輪郭が、朧気ながらも見えたように感じられたのです。これまでは、その円環の端が閉じていないような感覚が常にあり、そのために自分が進めていくべき研究の先が漠然としていて、にわかに分かりづらいような、ふわふわとした感覚が伴っていました。
ここで繋がるはずの端と端が、もしかしたら全く違った方向に伸び始めているのかもしれない。そのような錯覚を抱く事は、自分の稽古を進める上でも迷いの感覚として自分の中に残り続け、もしかしたら…こうかも…という、自分の解釈を挟み込める余地を作ってしまっているかのようでした。
特に対練などで良い結果が伴わない時、自分の教わっていない何かが原因で分からないのかもしれないとなどと短絡的に考えてしまい、その存在するかどうかも疑わしいものを探し求めてしまうような事は、しばしば起こり得るのではないかと思います。
示されている事を正しく真似が出来ていない…本当の真相はそこにあるのですが、先が見えていないという感覚があると、自分からは見えない光の当たっていないその部分が気になるあまり、目の前に見ているはずのものさえ取りこぼしてしまうものです。
そういった迷いになるような、存在しないかもしれないもの…。それを探す必要などない…。今回の出来事で、そのような認識にはっきりと変わったことが自分には感じられたのです。
套路を通して、太極拳は何を目指そうとしているのか…逆に言うと、どういうものが間違っているのかが如実に語られたような気がしたのでした。もちろんそれは、現在の自分に理解できる範囲のものでしかないのですが、自分の中にあった迷いのうち、どれが違ってて手放すべきなのかが明確になったのは確かです。
それはある意味、ひとつの構造物の完成形として、太極拳の姿が自分の目に映ったともいえるものでした。それが感じ取れたのだとしたら、あとはそれをひたすらに鍛錬していけばいいということになります。
そこからの稽古の日々は、「すべて示されている」という言葉の意味、重みが感じられるものでした。本当に何も隠されていない中で指導して頂いている…その中で見える見えないははっきりと自分の問題であり、その問題を解決していくことで、これまでと同じ時間を稽古に費やしていても、得られるものの質が全く違ってきている事が感じられます。
分からない事が生じたとしても、示して頂いている事と、型の中に残されているものを正しく学習していく事で、多くの問題が解決していける事がはっきりと分かってきました。これまで以上に、道場で行われている稽古が「ひとつの学習体系」として有機的に繋がっているのが理解されてきます。
それに伴って、稽古中に見えるものも次第に変化が生じてきているのが分かります。朧気ながらも太極拳の全体像が認識できたような感覚が生じると、稽古のひとつひとつが、その全体の中でどのような位置づけであって、何を目的としているのかという点にまで認識が至るようになりました。それによって、問題の本質となる部分はどこか、足りない部分=訓練することで変えていける部分はどこかという所に嗅覚が働くようになり、問題に対する改善速度が早くなったのではないかと思います。
これは非常に大きな変化で、というのも道場以外で稽古をする際に、何を気にしてどう稽古していったらいいかが、より体系的に組み立てられるようになったからです。問題の本質が見抜けないまま家で稽古に時間だけ費やしても、焦点がぶれるばかりで決定的なものにならず、また同じ問題を持ちこしてしまう可能性が高くなってしまいます。
問題がどこかが明確になれば、それに対する解決策も同時に見えてきます。あとはそれを稽古してくればいいだけです。
そのために必要な材料はというと、それは全て道場の稽古で示して頂いているといっても過言んではありません。太極武藝館では本当に多種多様な稽古方法を示して頂いていますが、ただ体を作るといったものだけでなく、どのように身体を使うか、何に気を付けたらいいか、そのような情報の断片が、様々な稽古の中に散りばめられているのが感じられます。
それらの断片をつなぎ合わせてみると…本当に凄いことをやっていた…!と、腰を抜かすようなことがここ数か月のうちに一体何回あったことでしょうか。
30周年というひとつの区切りの年は、自分にとっては新しいスタートになったと感じられる年でした。稽古での発見などはもちろんの事、それに対する取り組む姿勢はどうか、自分の人生の中でどのような所に太極拳があるのか。それらの事がこれまで以上にはっきりとした形で自分の中に見えてきて、ここから先どのような事をしていきたいのかも、同時に見えてきたと思います。
今年がもうすぐ終わろうとしていますが、それによってひとつの円環が閉じ、また新しいサイクルが始まろうとしています。宗師の套路によって太極拳の全体像が見えた、と自分には感じられましたが、決して、それで終わりではありません。
ひとつの円環の輪が閉じたことで、また新しいサイクルが始まるのです。そうして新たにはじまる円環を行く旅路は、また新しい世界を自分に見せてくれるものだと思いますし、すでにそれは始まっているようにも感じられます。
円環の終わりは終焉ではなく、あたらしい鼓動の始まりです。そのようにして宇宙は循環し続けているのですから、太極の名を冠する武術が、その法則に従わないはずがないのです。
であるとすれば、太極拳を稽古しようとする私もまた、その法則に従う事になるのは自然の摂理といえます。何かひとつのものが見えたら素直に歓び、それをまた始まりとして新たに歩み始める…そのようにして進み続ける事が出来るのが、太極拳という武藝の深みであり、人間を成長させてくれる大いなる営みなのではないかと感じます。
そのような道を歩めることを大いなる歓びとし、また明日からも、一歩一歩、歩みを進めていきたいと思います。
本年も一年間、私の拙い記事を読んでいただき、ありがとうございました。
来年も、力の限り続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
早いもので、もう一年が終わりに近づいています。この時期になると、自分は今年一年何をしていただろうかと振り返ることもあるかと思います。さて自分はというと、もっぱら太極拳の稽古と仕事の繰り返しの日々で、気が付いたらあっという間だった気もします。
あっという間に感じられはするものの、中身は非常に濃い一年であったかと思います。
今年掲載させて頂いたブログの記事を振り返ってみると、この時はこんなことを考えていたのだという事が思い起こされ、たった一年の間だというのになつかしささえ感じられるものです。
太極武藝館での稽古に関していえば、特に今年は太極武藝館創立30周年という記念すべき年であり、盛大な記念式典も執り行われました。
その祝賀会の際、宗師に「套路十三勢」を演舞として見せていただいたことは、参加した門人であったらみんな強く記憶に残っていることかと思います。太極武藝館で行われる套路の稽古は一着一着を丹念に行うこともあり、私自身、稽古したことがあるのが、いちばん進んだ事があって第八勢をわずかに、というところです。聞くところによると、套路を全て見たことある門人は実は誰もいない…という話もまことしやかに囁かれているようでした。
そのような中で、記念すべき節目に宗師によってサプライズで示していただいた套路は、見たいといって見られる類のものではなく、その衝撃たるや、語るに尽くせないものであったに違いありません。演舞の終わった後の、みんなが言葉を発することができなくなってしまった状況は、なかなか忘れられそうにありません。
前々回の記事にも書かせていただいた通り、型の重要性についてちょうど注目して研究をしていた私自身にとっても、套路を見せて頂けたことは、本当にとてつもない恩恵ともいえるものでした。
それが一番知りたかった!見たかった!と言っても過言ではないものだったのです。
というのも、その研究そのものが自分独自の間違った解釈で、何か無理矢理辻褄を合わせて進めているだけではないかという不安が、必ずつきまとっていたからです。研究するためのヒントは示されていても、それが正しいという保証はどこにもありません。
そのような時に見せていただけた套路は、私が気づいた事がそうそう的外れなものではなかったと思わせてくれるのに十分…どころの話ではなく、ここから先、どのように稽古を進めていけばいいかというところまで示唆して下さるようなものに感じられました。
十三勢を通して見せていただけたことで、ひとつの円環が完結したような、太極拳の全体像という輪郭が、朧気ながらも見えたように感じられたのです。これまでは、その円環の端が閉じていないような感覚が常にあり、そのために自分が進めていくべき研究の先が漠然としていて、にわかに分かりづらいような、ふわふわとした感覚が伴っていました。
ここで繋がるはずの端と端が、もしかしたら全く違った方向に伸び始めているのかもしれない。そのような錯覚を抱く事は、自分の稽古を進める上でも迷いの感覚として自分の中に残り続け、もしかしたら…こうかも…という、自分の解釈を挟み込める余地を作ってしまっているかのようでした。
特に対練などで良い結果が伴わない時、自分の教わっていない何かが原因で分からないのかもしれないとなどと短絡的に考えてしまい、その存在するかどうかも疑わしいものを探し求めてしまうような事は、しばしば起こり得るのではないかと思います。
示されている事を正しく真似が出来ていない…本当の真相はそこにあるのですが、先が見えていないという感覚があると、自分からは見えない光の当たっていないその部分が気になるあまり、目の前に見ているはずのものさえ取りこぼしてしまうものです。
そういった迷いになるような、存在しないかもしれないもの…。それを探す必要などない…。今回の出来事で、そのような認識にはっきりと変わったことが自分には感じられたのです。
套路を通して、太極拳は何を目指そうとしているのか…逆に言うと、どういうものが間違っているのかが如実に語られたような気がしたのでした。もちろんそれは、現在の自分に理解できる範囲のものでしかないのですが、自分の中にあった迷いのうち、どれが違ってて手放すべきなのかが明確になったのは確かです。
それはある意味、ひとつの構造物の完成形として、太極拳の姿が自分の目に映ったともいえるものでした。それが感じ取れたのだとしたら、あとはそれをひたすらに鍛錬していけばいいということになります。
そこからの稽古の日々は、「すべて示されている」という言葉の意味、重みが感じられるものでした。本当に何も隠されていない中で指導して頂いている…その中で見える見えないははっきりと自分の問題であり、その問題を解決していくことで、これまでと同じ時間を稽古に費やしていても、得られるものの質が全く違ってきている事が感じられます。
分からない事が生じたとしても、示して頂いている事と、型の中に残されているものを正しく学習していく事で、多くの問題が解決していける事がはっきりと分かってきました。これまで以上に、道場で行われている稽古が「ひとつの学習体系」として有機的に繋がっているのが理解されてきます。
それに伴って、稽古中に見えるものも次第に変化が生じてきているのが分かります。朧気ながらも太極拳の全体像が認識できたような感覚が生じると、稽古のひとつひとつが、その全体の中でどのような位置づけであって、何を目的としているのかという点にまで認識が至るようになりました。それによって、問題の本質となる部分はどこか、足りない部分=訓練することで変えていける部分はどこかという所に嗅覚が働くようになり、問題に対する改善速度が早くなったのではないかと思います。
これは非常に大きな変化で、というのも道場以外で稽古をする際に、何を気にしてどう稽古していったらいいかが、より体系的に組み立てられるようになったからです。問題の本質が見抜けないまま家で稽古に時間だけ費やしても、焦点がぶれるばかりで決定的なものにならず、また同じ問題を持ちこしてしまう可能性が高くなってしまいます。
問題がどこかが明確になれば、それに対する解決策も同時に見えてきます。あとはそれを稽古してくればいいだけです。
そのために必要な材料はというと、それは全て道場の稽古で示して頂いているといっても過言んではありません。太極武藝館では本当に多種多様な稽古方法を示して頂いていますが、ただ体を作るといったものだけでなく、どのように身体を使うか、何に気を付けたらいいか、そのような情報の断片が、様々な稽古の中に散りばめられているのが感じられます。
それらの断片をつなぎ合わせてみると…本当に凄いことをやっていた…!と、腰を抜かすようなことがここ数か月のうちに一体何回あったことでしょうか。
30周年というひとつの区切りの年は、自分にとっては新しいスタートになったと感じられる年でした。稽古での発見などはもちろんの事、それに対する取り組む姿勢はどうか、自分の人生の中でどのような所に太極拳があるのか。それらの事がこれまで以上にはっきりとした形で自分の中に見えてきて、ここから先どのような事をしていきたいのかも、同時に見えてきたと思います。
今年がもうすぐ終わろうとしていますが、それによってひとつの円環が閉じ、また新しいサイクルが始まろうとしています。宗師の套路によって太極拳の全体像が見えた、と自分には感じられましたが、決して、それで終わりではありません。
ひとつの円環の輪が閉じたことで、また新しいサイクルが始まるのです。そうして新たにはじまる円環を行く旅路は、また新しい世界を自分に見せてくれるものだと思いますし、すでにそれは始まっているようにも感じられます。
円環の終わりは終焉ではなく、あたらしい鼓動の始まりです。そのようにして宇宙は循環し続けているのですから、太極の名を冠する武術が、その法則に従わないはずがないのです。
であるとすれば、太極拳を稽古しようとする私もまた、その法則に従う事になるのは自然の摂理といえます。何かひとつのものが見えたら素直に歓び、それをまた始まりとして新たに歩み始める…そのようにして進み続ける事が出来るのが、太極拳という武藝の深みであり、人間を成長させてくれる大いなる営みなのではないかと感じます。
そのような道を歩めることを大いなる歓びとし、また明日からも、一歩一歩、歩みを進めていきたいと思います。
本年も一年間、私の拙い記事を読んでいただき、ありがとうございました。
来年も、力の限り続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
(了)
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2024年11月30日
門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その89
『暗号を読み解く 〜続 型はすごい〜』
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
古代エジプトで使われていたヒエログリフという象形文字は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンという古代エジプト学の研究者によって解読されました。
ヒエログリフの解読は、かのナポレオンによってナイル川近郊のロゼッタという街で再発見された、ロゼッタストーンという石板に刻まれた文字の研究によって成されたのだそうです。ロゼッタストーンは、紀元前のエジプトの王プトレマイオス五世の勅令が刻まれた石柱で、そこにはヒエログリフ、デモティックという民衆文字、古代ギリシア語の三種類の言語が刻まれています。
シャンポリオンは、言語学の知識を総動員し、ヒエログリフに刻まれた「ラムセス」という王の名を判別することに成功しました。それをきっかけにして、ヒエログリフを解読することに成功したシャンポリオンは、「エジプト学の父」と呼ばれているのだそうです。
私はこのエピソードがとても好きで、何かの謎を解いていくために必要な普遍的な方法がここに示されているように思います。今回はこのエピソードを絡めて、太極拳の稽古で自分が行っていたことについて少し書いてみたいと思います。
ロゼッタストーンには、ヒエログリフ以外にもふたつの言語が書かれていると先に挙げました。その中でも古代ギリシャ語は特に研究が進んでいる言語で、それらを比較検討することで、シャンポリオンはヒエログリフの解読を可能としたのだそうです。同じ部位、同じ単語が出てくるところを共通のものとして捉え、そこから文章をつなげていくことで翻訳を可能とする。ざっくりとした説明ですが、なんとなくイメージがつくのではないかと思います。
さて、太極武藝館で指導されている太極拳は「暗号」であると宗師が仰っているのを、我々門人は一度と言わず耳にしたことがあるはずです。我々にとってはある種、未知の暗号=言語であるともいえる太極拳。であるとするならば、シャンポリオンがヒエログリフ解読の際に用いた方法論が、形は違えど暗号である太極拳でも適応できると考えるのは、そう荒唐無稽な話ではないと思えます。
前回の記事で私は、「型はすごい。套路は様々なことを教えてくれる」と書きましたが、実はそういった発見に至った明確なきっかけと呼べるものがありました。
それは何だったのでしょうか。実は私は、沖縄に伝わる「空手」の研究をきっかけに、太極拳に関してたくさんの発見へとつなげていったのです。それはあたかも、ロゼッタストーンに刻まれた古代ギリシア語のように、私を太極拳という暗号の解読へ導いていってくれるかのようでした。
太極拳なのに空手の研究?と首をかしげる方もいるかもしれませんが、これは何も私個人の考えではじめたものではないのです。実は以前師父が、ある空手の立ち方について研究することが、太極拳で行われる馬歩の理解につながると我々に指導してくださったことがあったのです。
正直そのころはよくわかっておらず、「太極拳ひとつでも大変なのに空手なんて研究したら余計に分からないよ!」と思ったり、「なんとなく似てる立ち方だからかなぁ…?」などという浅い考えで取り組んでみたりもしたのですが、結局良く分からないまま終わってしまい、それ以上の理解には繋がっていませんでした。
そもそもの武術の成り立ちとして、太極拳と空手には、非常に似通った所があるように思います。太極拳は、ルーツをたどれば陳家溝という村で、一族を守るために住民皆、女性や子供でも戦えるようにするための武術であったという説があります。その証拠に、少女が盗賊を槍で一撃で仕留めたという逸話が現在にも伝わっています。
いっぽう空手はといえば、基は沖縄で伝わっている「手(ティー)」と呼ばれた武術で、農民や漁民のように武器を持たない一般市民が、武装した盗賊や海賊を相手に戦えるよう、護身のために伝えられたものだそうです。この時代の海賊とは、刀で武装した九州地方の武士階級の人たちもいたそうで、いわば職業軍人である武士と市民が渡り合うための武術だと考えると、なんとも豪快で凄いものです。
つまり両者とも共通して、弱く非力な人間でも、大きくて強い人間と戦うための武術であったと言えるのではないでしょうか。
その具体的な技術体系を見ていくと、どちらも決められた形を守ることに主眼が置かれています。空手では型を徹底的に行い、太極武藝館に伝わっている太極拳では、その架式を身に付けることが目的とされます。
空手で行う最初の型は「ナイファンチ」、太極拳では馬歩での立ち方が練習され、どちらも共通して、足を大きく横に開き、まるでどっしりと腰を落としたかのような形が取られます。
目的を同じとした別の拳法が最初に行うことがこれほど似通っているという事は、そこに見いだせる形はその目的達成のために非常に理にかなっている、と言えるはずです。
その形は、非力な人間が戦えるようになるほどの、非常に強い力を備えた構造である…その至極単純な理解が、私にとっては導きの光となったのです。
一度その理解が生じると、様々に示される他の形が、全て同じものを目的とした原理の追求の別の形であることが連鎖的に理解できてくるようになります。空手に関しては、師父に示して頂いた形や動きといった断片的なものや、出回っていて見られる画像や動画の情報しかないのですが、そこに表されている段階的に力が得られる構造として作られた体系は、非常に興味深いものがあります。
また、それを通して培われた見識を持って太極拳の稽古体系を改めて見直してみると、これが本当に凄いものだということが肌で感じられてきます。套路のみならず、基本的な練功でさえその動きの端々に、太極拳の架式とそこで構造を練るための方法論が散りばめられているのが感じられるのです。
見方を変えるだけで、少しずつとはいえ急に読めるようになってくるのは、本当に不思議なものです。あたかも、ロゼッタ・ストーンに刻まれた「ラムセス」の名が理解されたシャンポリオンのように、いままで分からなかったその文章が、次第にこちらに語りかけてくるようになってきたみたいに感じられます。
なんというか、いままで横書きだと思っていた文章が実は縦書きで記されていたもので、それがわかったら途端に読めるようになってきた、という感覚に近いでしょうか。
太極拳は難しい…太極拳の功夫を深めるには時間がかかる。太極拳は架式が重要である。太極拳の套路は段階的に練習され、次第に難易度が上がっていく。まずは套路の最初からしっかりと出来るように身に付けていく。
どれも正しい表現だと思うのですが、正しいもの同士を組み合わさって間違ったものが出来るということも、現実にはあり得るのです。そうして間違って出来てしまったものを基にして勉強しようとして、遠回りしながら太極拳を理解しようとしていたことに、私は空手の研究を通して気づくことが出来ました。
そもそも必要な形、架式は一番最初に示して頂いていたのです。
それがすでにそこにあるとした上で全ての練功や套路を見たり、実際に行ってみると、太極拳という武術が一体何をしようとしているのか、ひとつのつながったものとして見えてくるのだと思います。
逆に言えば、太極拳とは架式、馬歩・弓歩ありきで作られた形や型であるため、そこから読み解き始めない限り解けないのではないかと思います。
先に挙げた通り、太極拳の功夫を深め練度を高めていくには、相応の時間はかかるのは当然のことです。
ですが極端な話、武術として戦うための構造はもっとシンプルであって、正しく理解する事さえできれば早く身に着けられるはずなのです。そうでなければ…習得そのものに何年何十年も掛かるようだったら、事の是非は抜きにして子供を戦わせることなど不可能になってしまうからです。身近に子供がいると身に染みて感じますが、彼らはあっという間に大きくなってしまうのですから。何十年も子供でいる人はいません。
また、一番大事にしなければならない一族の子供を、簡単に負けてしまうような中途半端な状態で戦いに駆り出したとは到底思えません。つまり本来は子供であっても…つまり何十年とかからなくても、相応の戦闘能力を身に付けることが可能だったと考えるべきです。
そうであるならば、事実自分がそうだったのですが、どれだけ稽古をしても理解が得られないというのならば、それは現代に生きる自分の理解の仕方が間違っていたと考えて然るべきです。
私の場合、このように間違えた認識を抱いていました。
・基本や套路を練ることで、正しい架式や動き方が「理解できる」。
一見間違っては見えないのですが、実はこれではどれだけやっても架式の上達どころか理解も覚束ないのです。
なぜなら、すでに書いた通り、基本の馬歩や套路の最初で提示されている形が、すでに正しい構造で、正しい架式だからです。
特に套路は、おそらくですが、最初に提示された架式の理解を「深めていくため」に、段階的に形や動作のバリエーションが増えて難しくなっていくように出来ているはずです。
これは、架式をわかっていない人間が正しい架式を「理解していく」ための体系とは似て非なるものなのだと思います。微妙なニュアンスの違いが伝わるでしょうか…。
車の運転で言えば、套路は初級のサーキットから徐々に難しくしながら練習をしていくようなもので、そもそも自転車と自動車の違いが分からない人が行くべき場所は、免許の講習所であってサーキットではないのです。
…ここからが一番重要な話になります。
ただ、どれだけド下手くそ(失礼)だろうがなんだろうが、足でアクセルを踏めば車が動くことが分かれば、そこから先はサーキットでプロのドライバーが隣でつきっきりで指導してくれるかのように、套路という学習体系は我々に様々な事を段階的に教えてくれるように出来ているのだと思います。
文字通り、套路の形そのものが、我々に勉強すべきことを語りかけてくれるのです。
では、太極拳の学習を行う我々にとって、車のアクセルとブレーキに該当するものとはなんなのでしょうか。それこそが架式であり、せんじ詰めれば馬歩や弓歩の、足を開いて立つあの形に行きつくはずです。乱暴だろうがなんだろうが、アクセルペダルに足を乗せて踏み込めば車が動くように、足で蹴ってようが居着いてようがとにかく馬歩で、あの形で立って始めるのです。
やっていけば繊細なアクセルワークは嫌でも身に付いてきます。そのためには、下手でもなんでもその馬歩や弓歩で立って動くことで、そこに働く力学を理解していかなければいけないのだと思います。
「正しい架式」と「架式の練度」は、おそらく分けて考えなければならないのです。そこを一緒に考えてしまうのが、混乱の始まりなのかもしれないと私は感じています。
私にとっては、その理解への第一歩が空手の立ち方の研究であり、太極拳の架式へつながるものでした。
それこそが、太極拳を理解していくための第一歩、私にとっての「ラムセス」…王の名にあたるものでした。
最近基本や套路を稽古していて感じるのは、宗師の仰る通り、太極拳とは本当に何も隠されていないのだということです。我々がしなければならないのは、姿の見えない隠された…存在しているかも怪しい石板を探すのではなくて、今まさに目の前にある石板、そこに刻まれた文書を読み解く努力なのだと思います。
一度その認識に至ると、これまで黙りこくってただの冷たい石板としか思えなかったものが、実は雄弁に語りかけてくれていたのだということが、本当に体験できるかと思います。
たとえ今は全てを読めなくとも、いずれ読み解かれる事を待っている物のように感じられてきます。
これは本当に楽しいことで、この追求に生涯を掛けるだけの価値は十分にあると、そう思わせてくれるものではないでしょうか。
(了)
☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!
by 太郎冠者 (拳学研究会所属)
古代エジプトで使われていたヒエログリフという象形文字は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンという古代エジプト学の研究者によって解読されました。
ヒエログリフの解読は、かのナポレオンによってナイル川近郊のロゼッタという街で再発見された、ロゼッタストーンという石板に刻まれた文字の研究によって成されたのだそうです。ロゼッタストーンは、紀元前のエジプトの王プトレマイオス五世の勅令が刻まれた石柱で、そこにはヒエログリフ、デモティックという民衆文字、古代ギリシア語の三種類の言語が刻まれています。
シャンポリオンは、言語学の知識を総動員し、ヒエログリフに刻まれた「ラムセス」という王の名を判別することに成功しました。それをきっかけにして、ヒエログリフを解読することに成功したシャンポリオンは、「エジプト学の父」と呼ばれているのだそうです。
私はこのエピソードがとても好きで、何かの謎を解いていくために必要な普遍的な方法がここに示されているように思います。今回はこのエピソードを絡めて、太極拳の稽古で自分が行っていたことについて少し書いてみたいと思います。
ロゼッタストーンには、ヒエログリフ以外にもふたつの言語が書かれていると先に挙げました。その中でも古代ギリシャ語は特に研究が進んでいる言語で、それらを比較検討することで、シャンポリオンはヒエログリフの解読を可能としたのだそうです。同じ部位、同じ単語が出てくるところを共通のものとして捉え、そこから文章をつなげていくことで翻訳を可能とする。ざっくりとした説明ですが、なんとなくイメージがつくのではないかと思います。
さて、太極武藝館で指導されている太極拳は「暗号」であると宗師が仰っているのを、我々門人は一度と言わず耳にしたことがあるはずです。我々にとってはある種、未知の暗号=言語であるともいえる太極拳。であるとするならば、シャンポリオンがヒエログリフ解読の際に用いた方法論が、形は違えど暗号である太極拳でも適応できると考えるのは、そう荒唐無稽な話ではないと思えます。
前回の記事で私は、「型はすごい。套路は様々なことを教えてくれる」と書きましたが、実はそういった発見に至った明確なきっかけと呼べるものがありました。
それは何だったのでしょうか。実は私は、沖縄に伝わる「空手」の研究をきっかけに、太極拳に関してたくさんの発見へとつなげていったのです。それはあたかも、ロゼッタストーンに刻まれた古代ギリシア語のように、私を太極拳という暗号の解読へ導いていってくれるかのようでした。
太極拳なのに空手の研究?と首をかしげる方もいるかもしれませんが、これは何も私個人の考えではじめたものではないのです。実は以前師父が、ある空手の立ち方について研究することが、太極拳で行われる馬歩の理解につながると我々に指導してくださったことがあったのです。
正直そのころはよくわかっておらず、「太極拳ひとつでも大変なのに空手なんて研究したら余計に分からないよ!」と思ったり、「なんとなく似てる立ち方だからかなぁ…?」などという浅い考えで取り組んでみたりもしたのですが、結局良く分からないまま終わってしまい、それ以上の理解には繋がっていませんでした。
そもそもの武術の成り立ちとして、太極拳と空手には、非常に似通った所があるように思います。太極拳は、ルーツをたどれば陳家溝という村で、一族を守るために住民皆、女性や子供でも戦えるようにするための武術であったという説があります。その証拠に、少女が盗賊を槍で一撃で仕留めたという逸話が現在にも伝わっています。
いっぽう空手はといえば、基は沖縄で伝わっている「手(ティー)」と呼ばれた武術で、農民や漁民のように武器を持たない一般市民が、武装した盗賊や海賊を相手に戦えるよう、護身のために伝えられたものだそうです。この時代の海賊とは、刀で武装した九州地方の武士階級の人たちもいたそうで、いわば職業軍人である武士と市民が渡り合うための武術だと考えると、なんとも豪快で凄いものです。
つまり両者とも共通して、弱く非力な人間でも、大きくて強い人間と戦うための武術であったと言えるのではないでしょうか。
その具体的な技術体系を見ていくと、どちらも決められた形を守ることに主眼が置かれています。空手では型を徹底的に行い、太極武藝館に伝わっている太極拳では、その架式を身に付けることが目的とされます。
空手で行う最初の型は「ナイファンチ」、太極拳では馬歩での立ち方が練習され、どちらも共通して、足を大きく横に開き、まるでどっしりと腰を落としたかのような形が取られます。
目的を同じとした別の拳法が最初に行うことがこれほど似通っているという事は、そこに見いだせる形はその目的達成のために非常に理にかなっている、と言えるはずです。
その形は、非力な人間が戦えるようになるほどの、非常に強い力を備えた構造である…その至極単純な理解が、私にとっては導きの光となったのです。
一度その理解が生じると、様々に示される他の形が、全て同じものを目的とした原理の追求の別の形であることが連鎖的に理解できてくるようになります。空手に関しては、師父に示して頂いた形や動きといった断片的なものや、出回っていて見られる画像や動画の情報しかないのですが、そこに表されている段階的に力が得られる構造として作られた体系は、非常に興味深いものがあります。
また、それを通して培われた見識を持って太極拳の稽古体系を改めて見直してみると、これが本当に凄いものだということが肌で感じられてきます。套路のみならず、基本的な練功でさえその動きの端々に、太極拳の架式とそこで構造を練るための方法論が散りばめられているのが感じられるのです。
見方を変えるだけで、少しずつとはいえ急に読めるようになってくるのは、本当に不思議なものです。あたかも、ロゼッタ・ストーンに刻まれた「ラムセス」の名が理解されたシャンポリオンのように、いままで分からなかったその文章が、次第にこちらに語りかけてくるようになってきたみたいに感じられます。
なんというか、いままで横書きだと思っていた文章が実は縦書きで記されていたもので、それがわかったら途端に読めるようになってきた、という感覚に近いでしょうか。
太極拳は難しい…太極拳の功夫を深めるには時間がかかる。太極拳は架式が重要である。太極拳の套路は段階的に練習され、次第に難易度が上がっていく。まずは套路の最初からしっかりと出来るように身に付けていく。
どれも正しい表現だと思うのですが、正しいもの同士を組み合わさって間違ったものが出来るということも、現実にはあり得るのです。そうして間違って出来てしまったものを基にして勉強しようとして、遠回りしながら太極拳を理解しようとしていたことに、私は空手の研究を通して気づくことが出来ました。
そもそも必要な形、架式は一番最初に示して頂いていたのです。
それがすでにそこにあるとした上で全ての練功や套路を見たり、実際に行ってみると、太極拳という武術が一体何をしようとしているのか、ひとつのつながったものとして見えてくるのだと思います。
逆に言えば、太極拳とは架式、馬歩・弓歩ありきで作られた形や型であるため、そこから読み解き始めない限り解けないのではないかと思います。
先に挙げた通り、太極拳の功夫を深め練度を高めていくには、相応の時間はかかるのは当然のことです。
ですが極端な話、武術として戦うための構造はもっとシンプルであって、正しく理解する事さえできれば早く身に着けられるはずなのです。そうでなければ…習得そのものに何年何十年も掛かるようだったら、事の是非は抜きにして子供を戦わせることなど不可能になってしまうからです。身近に子供がいると身に染みて感じますが、彼らはあっという間に大きくなってしまうのですから。何十年も子供でいる人はいません。
また、一番大事にしなければならない一族の子供を、簡単に負けてしまうような中途半端な状態で戦いに駆り出したとは到底思えません。つまり本来は子供であっても…つまり何十年とかからなくても、相応の戦闘能力を身に付けることが可能だったと考えるべきです。
そうであるならば、事実自分がそうだったのですが、どれだけ稽古をしても理解が得られないというのならば、それは現代に生きる自分の理解の仕方が間違っていたと考えて然るべきです。
私の場合、このように間違えた認識を抱いていました。
・基本や套路を練ることで、正しい架式や動き方が「理解できる」。
一見間違っては見えないのですが、実はこれではどれだけやっても架式の上達どころか理解も覚束ないのです。
なぜなら、すでに書いた通り、基本の馬歩や套路の最初で提示されている形が、すでに正しい構造で、正しい架式だからです。
特に套路は、おそらくですが、最初に提示された架式の理解を「深めていくため」に、段階的に形や動作のバリエーションが増えて難しくなっていくように出来ているはずです。
これは、架式をわかっていない人間が正しい架式を「理解していく」ための体系とは似て非なるものなのだと思います。微妙なニュアンスの違いが伝わるでしょうか…。
車の運転で言えば、套路は初級のサーキットから徐々に難しくしながら練習をしていくようなもので、そもそも自転車と自動車の違いが分からない人が行くべき場所は、免許の講習所であってサーキットではないのです。
…ここからが一番重要な話になります。
ただ、どれだけド下手くそ(失礼)だろうがなんだろうが、足でアクセルを踏めば車が動くことが分かれば、そこから先はサーキットでプロのドライバーが隣でつきっきりで指導してくれるかのように、套路という学習体系は我々に様々な事を段階的に教えてくれるように出来ているのだと思います。
文字通り、套路の形そのものが、我々に勉強すべきことを語りかけてくれるのです。
では、太極拳の学習を行う我々にとって、車のアクセルとブレーキに該当するものとはなんなのでしょうか。それこそが架式であり、せんじ詰めれば馬歩や弓歩の、足を開いて立つあの形に行きつくはずです。乱暴だろうがなんだろうが、アクセルペダルに足を乗せて踏み込めば車が動くように、足で蹴ってようが居着いてようがとにかく馬歩で、あの形で立って始めるのです。
やっていけば繊細なアクセルワークは嫌でも身に付いてきます。そのためには、下手でもなんでもその馬歩や弓歩で立って動くことで、そこに働く力学を理解していかなければいけないのだと思います。
「正しい架式」と「架式の練度」は、おそらく分けて考えなければならないのです。そこを一緒に考えてしまうのが、混乱の始まりなのかもしれないと私は感じています。
私にとっては、その理解への第一歩が空手の立ち方の研究であり、太極拳の架式へつながるものでした。
それこそが、太極拳を理解していくための第一歩、私にとっての「ラムセス」…王の名にあたるものでした。
最近基本や套路を稽古していて感じるのは、宗師の仰る通り、太極拳とは本当に何も隠されていないのだということです。我々がしなければならないのは、姿の見えない隠された…存在しているかも怪しい石板を探すのではなくて、今まさに目の前にある石板、そこに刻まれた文書を読み解く努力なのだと思います。
一度その認識に至ると、これまで黙りこくってただの冷たい石板としか思えなかったものが、実は雄弁に語りかけてくれていたのだということが、本当に体験できるかと思います。
たとえ今は全てを読めなくとも、いずれ読み解かれる事を待っている物のように感じられてきます。
これは本当に楽しいことで、この追求に生涯を掛けるだけの価値は十分にあると、そう思わせてくれるものではないでしょうか。
(了)
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