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  太極武藝館のブログ、「Blog Tai-ji(ブログタイジィ)」へようこそ。
  このブログは、太極武藝館の創立15周年を記念して平成21年1月より
  開設されたものです。

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  どのように稽古し、太極拳の学習がどのように日常生活と関わっているのか・・・
  それらを中心に、新鮮で盛り沢山な内容を掲載していきたいと思っています。

  私共にとって初めての試みでもあり、至らぬ点は数多いと思いますが、
  お気づきの点などがございましたら、当方までお知らせいただければ幸いです。

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            太極武藝館オフィシャルブログ「Blog Tai-ji」編集室



2024年11月30日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その89

   『暗号を読み解く 〜続 型はすごい〜』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 古代エジプトで使われていたヒエログリフという象形文字は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンという古代エジプト学の研究者によって解読されました。
 ヒエログリフの解読は、かのナポレオンによってナイル川近郊のロゼッタという街で再発見された、ロゼッタストーンという石板に刻まれた文字の研究によって成されたのだそうです。ロゼッタストーンは、紀元前のエジプトの王プトレマイオス五世の勅令が刻まれた石柱で、そこにはヒエログリフ、デモティックという民衆文字、古代ギリシア語の三種類の言語が刻まれています。

 シャンポリオンは、言語学の知識を総動員し、ヒエログリフに刻まれた「ラムセス」という王の名を判別することに成功しました。それをきっかけにして、ヒエログリフを解読することに成功したシャンポリオンは、「エジプト学の父」と呼ばれているのだそうです。

 私はこのエピソードがとても好きで、何かの謎を解いていくために必要な普遍的な方法がここに示されているように思います。今回はこのエピソードを絡めて、太極拳の稽古で自分が行っていたことについて少し書いてみたいと思います。
 ロゼッタストーンには、ヒエログリフ以外にもふたつの言語が書かれていると先に挙げました。その中でも古代ギリシャ語は特に研究が進んでいる言語で、それらを比較検討することで、シャンポリオンはヒエログリフの解読を可能としたのだそうです。同じ部位、同じ単語が出てくるところを共通のものとして捉え、そこから文章をつなげていくことで翻訳を可能とする。ざっくりとした説明ですが、なんとなくイメージがつくのではないかと思います。

 さて、太極武藝館で指導されている太極拳は「暗号」であると宗師が仰っているのを、我々門人は一度と言わず耳にしたことがあるはずです。我々にとってはある種、未知の暗号=言語であるともいえる太極拳。であるとするならば、シャンポリオンがヒエログリフ解読の際に用いた方法論が、形は違えど暗号である太極拳でも適応できると考えるのは、そう荒唐無稽な話ではないと思えます。

 前回の記事で私は、「型はすごい。套路は様々なことを教えてくれる」と書きましたが、実はそういった発見に至った明確なきっかけと呼べるものがありました。
 それは何だったのでしょうか。実は私は、沖縄に伝わる「空手」の研究をきっかけに、太極拳に関してたくさんの発見へとつなげていったのです。それはあたかも、ロゼッタストーンに刻まれた古代ギリシア語のように、私を太極拳という暗号の解読へ導いていってくれるかのようでした。

 太極拳なのに空手の研究?と首をかしげる方もいるかもしれませんが、これは何も私個人の考えではじめたものではないのです。実は以前師父が、ある空手の立ち方について研究することが、太極拳で行われる馬歩の理解につながると我々に指導してくださったことがあったのです。
 正直そのころはよくわかっておらず、「太極拳ひとつでも大変なのに空手なんて研究したら余計に分からないよ!」と思ったり、「なんとなく似てる立ち方だからかなぁ…?」などという浅い考えで取り組んでみたりもしたのですが、結局良く分からないまま終わってしまい、それ以上の理解には繋がっていませんでした。

 そもそもの武術の成り立ちとして、太極拳と空手には、非常に似通った所があるように思います。太極拳は、ルーツをたどれば陳家溝という村で、一族を守るために住民皆、女性や子供でも戦えるようにするための武術であったという説があります。その証拠に、少女が盗賊を槍で一撃で仕留めたという逸話が現在にも伝わっています。
 いっぽう空手はといえば、基は沖縄で伝わっている「手(ティー)」と呼ばれた武術で、農民や漁民のように武器を持たない一般市民が、武装した盗賊や海賊を相手に戦えるよう、護身のために伝えられたものだそうです。この時代の海賊とは、刀で武装した九州地方の武士階級の人たちもいたそうで、いわば職業軍人である武士と市民が渡り合うための武術だと考えると、なんとも豪快で凄いものです。
 つまり両者とも共通して、弱く非力な人間でも、大きくて強い人間と戦うための武術であったと言えるのではないでしょうか。
 その具体的な技術体系を見ていくと、どちらも決められた形を守ることに主眼が置かれています。空手では型を徹底的に行い、太極武藝館に伝わっている太極拳では、その架式を身に付けることが目的とされます。
 空手で行う最初の型は「ナイファンチ」、太極拳では馬歩での立ち方が練習され、どちらも共通して、足を大きく横に開き、まるでどっしりと腰を落としたかのような形が取られます。
 目的を同じとした別の拳法が最初に行うことがこれほど似通っているという事は、そこに見いだせる形はその目的達成のために非常に理にかなっている、と言えるはずです。

 その形は、非力な人間が戦えるようになるほどの、非常に強い力を備えた構造である…その至極単純な理解が、私にとっては導きの光となったのです。
 一度その理解が生じると、様々に示される他の形が、全て同じものを目的とした原理の追求の別の形であることが連鎖的に理解できてくるようになります。空手に関しては、師父に示して頂いた形や動きといった断片的なものや、出回っていて見られる画像や動画の情報しかないのですが、そこに表されている段階的に力が得られる構造として作られた体系は、非常に興味深いものがあります。
 また、それを通して培われた見識を持って太極拳の稽古体系を改めて見直してみると、これが本当に凄いものだということが肌で感じられてきます。套路のみならず、基本的な練功でさえその動きの端々に、太極拳の架式とそこで構造を練るための方法論が散りばめられているのが感じられるのです。

 見方を変えるだけで、少しずつとはいえ急に読めるようになってくるのは、本当に不思議なものです。あたかも、ロゼッタ・ストーンに刻まれた「ラムセス」の名が理解されたシャンポリオンのように、いままで分からなかったその文章が、次第にこちらに語りかけてくるようになってきたみたいに感じられます。
 なんというか、いままで横書きだと思っていた文章が実は縦書きで記されていたもので、それがわかったら途端に読めるようになってきた、という感覚に近いでしょうか。

 太極拳は難しい…太極拳の功夫を深めるには時間がかかる。太極拳は架式が重要である。太極拳の套路は段階的に練習され、次第に難易度が上がっていく。まずは套路の最初からしっかりと出来るように身に付けていく。
 どれも正しい表現だと思うのですが、正しいもの同士を組み合わさって間違ったものが出来るということも、現実にはあり得るのです。そうして間違って出来てしまったものを基にして勉強しようとして、遠回りしながら太極拳を理解しようとしていたことに、私は空手の研究を通して気づくことが出来ました。

 そもそも必要な形、架式は一番最初に示して頂いていたのです。
 それがすでにそこにあるとした上で全ての練功や套路を見たり、実際に行ってみると、太極拳という武術が一体何をしようとしているのか、ひとつのつながったものとして見えてくるのだと思います。
 逆に言えば、太極拳とは架式、馬歩・弓歩ありきで作られた形や型であるため、そこから読み解き始めない限り解けないのではないかと思います。

 先に挙げた通り、太極拳の功夫を深め練度を高めていくには、相応の時間はかかるのは当然のことです。
 ですが極端な話、武術として戦うための構造はもっとシンプルであって、正しく理解する事さえできれば早く身に着けられるはずなのです。そうでなければ…習得そのものに何年何十年も掛かるようだったら、事の是非は抜きにして子供を戦わせることなど不可能になってしまうからです。身近に子供がいると身に染みて感じますが、彼らはあっという間に大きくなってしまうのですから。何十年も子供でいる人はいません。
 また、一番大事にしなければならない一族の子供を、簡単に負けてしまうような中途半端な状態で戦いに駆り出したとは到底思えません。つまり本来は子供であっても…つまり何十年とかからなくても、相応の戦闘能力を身に付けることが可能だったと考えるべきです。

 そうであるならば、事実自分がそうだったのですが、どれだけ稽古をしても理解が得られないというのならば、それは現代に生きる自分の理解の仕方が間違っていたと考えて然るべきです。
 私の場合、このように間違えた認識を抱いていました。

・基本や套路を練ることで、正しい架式や動き方が「理解できる」。

 一見間違っては見えないのですが、実はこれではどれだけやっても架式の上達どころか理解も覚束ないのです。
 なぜなら、すでに書いた通り、基本の馬歩や套路の最初で提示されている形が、すでに正しい構造で、正しい架式だからです。
 特に套路は、おそらくですが、最初に提示された架式の理解を「深めていくため」に、段階的に形や動作のバリエーションが増えて難しくなっていくように出来ているはずです。
 これは、架式をわかっていない人間が正しい架式を「理解していく」ための体系とは似て非なるものなのだと思います。微妙なニュアンスの違いが伝わるでしょうか…。
 車の運転で言えば、套路は初級のサーキットから徐々に難しくしながら練習をしていくようなもので、そもそも自転車と自動車の違いが分からない人が行くべき場所は、免許の講習所であってサーキットではないのです。

 …ここからが一番重要な話になります。

 ただ、どれだけド下手くそ(失礼)だろうがなんだろうが、足でアクセルを踏めば車が動くことが分かれば、そこから先はサーキットでプロのドライバーが隣でつきっきりで指導してくれるかのように、套路という学習体系は我々に様々な事を段階的に教えてくれるように出来ているのだと思います。
 文字通り、套路の形そのものが、我々に勉強すべきことを語りかけてくれるのです。

 では、太極拳の学習を行う我々にとって、車のアクセルとブレーキに該当するものとはなんなのでしょうか。それこそが架式であり、せんじ詰めれば馬歩や弓歩の、足を開いて立つあの形に行きつくはずです。乱暴だろうがなんだろうが、アクセルペダルに足を乗せて踏み込めば車が動くように、足で蹴ってようが居着いてようがとにかく馬歩で、あの形で立って始めるのです。
 やっていけば繊細なアクセルワークは嫌でも身に付いてきます。そのためには、下手でもなんでもその馬歩や弓歩で立って動くことで、そこに働く力学を理解していかなければいけないのだと思います。
「正しい架式」と「架式の練度」は、おそらく分けて考えなければならないのです。そこを一緒に考えてしまうのが、混乱の始まりなのかもしれないと私は感じています。

 私にとっては、その理解への第一歩が空手の立ち方の研究であり、太極拳の架式へつながるものでした。
 それこそが、太極拳を理解していくための第一歩、私にとっての「ラムセス」…王の名にあたるものでした。
 最近基本や套路を稽古していて感じるのは、宗師の仰る通り、太極拳とは本当に何も隠されていないのだということです。我々がしなければならないのは、姿の見えない隠された…存在しているかも怪しい石板を探すのではなくて、今まさに目の前にある石板、そこに刻まれた文書を読み解く努力なのだと思います。
 一度その認識に至ると、これまで黙りこくってただの冷たい石板としか思えなかったものが、実は雄弁に語りかけてくれていたのだということが、本当に体験できるかと思います。
 たとえ今は全てを読めなくとも、いずれ読み解かれる事を待っている物のように感じられてきます。
 これは本当に楽しいことで、この追求に生涯を掛けるだけの価値は十分にあると、そう思わせてくれるものではないでしょうか。

                           (了)








☆人気記事「今日も稽古で日が暮れる」は、毎月掲載の予定です!
☆ご期待ください!


2024年11月20日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)



第十三話
色々な基本功や柔功には名前があり伝承を感じる。実は名前のない(知らないだけ?の)柔功が沢山ある。
伝統拳術を学ぶ醍醐味だ。
いつ、だれが作ったのだろう?
柔功は身体のギアに付いた汚れや錆を落とし、ピカピカに磨いたギアに新しいオイルを挿す。パーツの一つ一つがスムースになり身体での理解も進む。
本来メンテナンスはガレージでコツコツとするものだろう。今まで走りながら慌ててメンテナンスをしていたのだ。
(※註 実際は柔功には全て名前があるそうです。)

第十三話「名前の知らない柔功たち」終




第十四話
喜怒哀楽、感動は私の原動力の一つだ。
先日とある稽古で得た喜びが時間と共に薄れていき同時に稽古の価値が薄れていく気がした。興味が減退し他の稽古にも影響した。ヤル気が失せていく、、、嫌だ。
宗師の許可をいただき先輩にこの問題について質問させて頂いた、、、こう返事があった。
「感動が自分の中から薄れても、感動を与えてくれたものの本質は変わらない。それで良いのではないのだろうか。感動が薄れて行くことも自然の事だ。」
人間だから気力にも波がある。意図的に波をなくそうとするのではなく、あるがまま自分の本質と向き合う。諦めでもなく抵抗でもない。
なんと豊かな感性だろう。
そして今の私に必要な感性だ。

第十四話「感動と本質」終




2024年11月03日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その88

   『型はすごい』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 前回の記事で、感覚を磨くことで変わってきたことがあったと書きました。体だけでなく精神的にも、それまで凝り固まっていた部分が少しずつ溶けていくような、放鬆されてくるような所がありました。その状態で稽古をしていると、新しく見えてくるものはもちろんあったのですが、同時にこれはどうなっているんだろう、と、新たな疑問もいくつか湧いてきました。
 それまで「こうだろう」と思っていた事が、どうやら違うことばかりで、一から万事新しい物事として目に映ってくるのです。そうすると、それまでやっていたことをそのまま続けることは不可能で、同じように稽古をしているようでも、全く新しい取り組みとして臨まなければならないと感じるようになりました。
 稽古中に宗師や教練の真似をさせて頂く機会があれば、とにかく真似をさせて頂きます。その上で自分でも稽古するのですが、時間配分で言えば、道場以外でひとりで稽古をする時間のほうがどうしたって長いものです。
 ひとりで稽古をしている最中に疑問にぶつかったら、どのように解決していけばいいのか…。
 実は既に、我々が迷う事がないような稽古方法を、指導して頂いていたのだということに気づきました。それは、「型」として稽古を行うことでした。
 稽古すべき型があること、それが非常に大きな事で物凄く重要な事なのだということに、私のような愚鈍な人間はようやく気づかされ、はっとさせられたのです。

 放鬆される事で多少なりとも自分の固執から離れる事が出来るようになってくると、次にはそれをどのように太極拳で必要とされる状態に合わせるか、という問題が出てきました。
 太極武藝館では多種多様な稽古方法を、様々な形で示していただいています。相手がいる対練の種類の豊富さはもちろんのこと、ひとりで取り組む基本功や歩法、套路などの稽古も、仔細な点にまで注意をしていただきながら指導をして頂いています。

 基本功ももちろんそうなのですが、型として一番イメージがわきやすいのは、套路でしょうか。太極武藝館で指導される套路は、細部に至るまで徹底的に決まった形が存在しています。
 体の立ち方や姿勢、腰の落とし方や手足の位置や向き、指先の伸ばし方や視線の向き、さらには頭の中の状態まで、事細かに取り組むべき事があります。
 私は套路が好きで自分でも稽古をしていたのですが、最近特に、套路で示されているものがそれまでと全く違って感じられてきました。これまで何百、何千回とやってきた同じ形のはずなのに、そこで示されているものが本当に全く違って見えてくるのです!
 才能のある人間だったら、站椿や基本功だけで見てくるものなのかもしれませんが、自分のような非才・凡才人間には、それだけでなんとかなるというビジョンが全く見えません。そのような人間でも太極拳が出来るよう、先人は様々な型を残して下さっていたのだと思います。

 つい先日のことですが、家で基本功を行っていた時のことです。道場で注意していただいた胯(クワ)の動きの違いに、相変わらず悩まされていました。示して頂いたことを真似しようとするものの、自分で行っているとどうしても胯が左右にぶれたり、傾く状態が出てしまうのです。
 注意点を守りながら行ってみるものの、どうしても余分な足での蹴りが発生してしまう状態が改善できませんでした。そこで基本功をあきらめ(笑)、套路を行う事にしました。セオリーでは基本を理解するまで套路なんて…となるかもしれませんが、ひとつの事に固執していても分からないものはわからないのです。
 套路の形そのものは何回もやっていて頭の中に入っています。気分転換もかねて、胯のブレなど全く気にせず、とにかく動いてみました。すると、ある事に気づいたのです。
 套路の中で何度も出てくる足の出る位置、そこへの足の出し方が、自分が思っていた方向への動きが全くない出方をしていたのです。詳細は書けないのですが、そもそも足の出ていく方向が全く違っているため、足の付け根に当たる胯のブレなど全く気にする必要がない、という所でしょうか(言葉では説明しづらいものです)。

 おや? と思いながらも套路を続けていきます。金剛搗碓、懶扎衣、単鞭と続けていくうちに、次第に疑問は確信へと近づいていきます。そして、二回目の金剛搗碓に入ったところで、動きが違っていたことの確信に至り、膝を打つこととなったのです。
 私の疑問に答えるかのように、套路の中に「こうじゃなくて、こうでしょ」という答えは用意してあったかのようでした。
 お、おおお?? と驚きに満ちながら、もう一度套路の頭に戻り、最初の一歩で足を横に開いた時に、あまりの衝撃に崩れ落ちそうになりました。そもそも、套路に入る一番最初に答えは置いてあったではありませんか(伝わらなかったら、ごめんなさい…)。

 これだけで、私の中の基本のイメージが全て吹っ飛んでがらりと変わってしまいました。それまで見えていたと思っていたものが、また違った世界として目に映るようになってしまったのです。
 ここ最近で私がずっと取り組んでいた事に、「順体の理解」というものがありました。
 宗師に「それくらい理解してしまいなさい!」と発破を掛けられて以来、ずっと研究し続けていたのですが、なかなか理解のための取っ掛かりも掴めず悪戦苦闘していたのです。
 自分だと、基本功や順体その場歩きなどを行ってもどうしても違っている所がありました。その違いにこそヒントがあるはず!とは思うものの、未だ霧は晴れず、という状況でした。光明は思ってもみないところから差し込むものです。

 太極歩の重要性、そこで示されているものの大きさに最近ようやく思い至っていたのですが、自分にはそれだけでは理解できていなかったものが、套路の最初の動作の中に見えたのだと思います。自分にとっての太極歩の理解もまた、それだけで変わってしまうほどの発見に感じられました。
 以前師父が、套路は最初の動作だけでいい…とお話をしてくださっていたのを記憶しているのですが、そこに含まれるエッセンスは、太極拳全体に染み渡るに十分なものという事だったのかもしれません。
 少なくとも自分にとっては、そのひとつの単純な動作が、順体の体と軸の考え方を理解するためのスタート、取っ掛かりになったように感じられています。
 その認識で始める套路は、また格別に違ったものとして私の体に反映されてきました。

 型は、先人たちが武術を正しく伝えるために、我々後世の人間へと残して下さった正真正銘の宝物のように感じられます。戦いの場は千差万別であり、こうしていればいい、というものは極論すればあり得ないのかもしれません。ところが、型として残されている動きを、理論や理合を基に丹念に紐解いていくと、その武術が何をしようとし、何を示しているのかが読み取れるように出来ているのだと思います。
 もしかしたらそれを作り出したのは、一人の人間の天才性だったかもしれませんが、ただ一世代で終わることなく、後々の我々でも研究、発展させていけるように作られたそれらの型は、まさに汲めども尽きない泉のように、武術とは、太極拳とは何なのかを教えて続けてくれているかのようです。

 疑問がわき、その答えがそこにあり…物事の見え方が一瞬で変わってしまうような事が体験できる。それだけでも、現代で武術を学ぶべき価値はあるのではないかと思います。
 その大きな宝物を、我々の代で終わりにしてしまわぬよう、一層気を引き締めて稽古に励みたいと思います。
                            (了)







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2024年10月01日

門人随想「今日も稽古で日が暮れる」その87

   『見えるもの 見えないもの』

                    by 太郎冠者
(拳学研究会所属)



 毎回のように道場で行われる柔功や圧腿などの稽古は、一見すると簡単な動きで、知らなければ本格的な運動の前の準備体操のように思われるかもしれません。
 ところが、その簡単にさえ思える動きが、自分で家で行うものと、道場で宗師と一緒に行うものでは、その体に現れる影響が異なって感じられるものです。
 もちろん自分で行ったものでも成果はあったのですが、宗師と一緒にやらせていただく事で自分に通る軸にはなかなかならないのです。
 端的に言えば、自分ひとりで行っているものは、正しい形で動けていない…真似できていないのです。真似をすることの大切さは、何度も何度も言葉や形を変えて我々の前に示されています。しかし、その全てをきちんと真似することは、なかなか難しいものです。

 しっかり目を見開いて見ているはずなのに、何も隠されていないはずの内容の全貌が自分の目には見えていないという、もどかしさ。
 私も真似できないということには、散々悩まされてきました。
 自分には一体何が見えていないのだろう? 何を見落としているのだろうか…。

 人間というのは、なかなか目の前で見ている事を否定するのは難しい生き物なのかもしれません。そもそも私が見えていると思っているものは、本当に正しく見えていたのでしょうか。
 また、人間は目で見る以外にも、外界のことを五感などのあらゆる感覚を通して感じているものです。それらの感覚と、見えていると思っているものと、指導されている内容は、果たして自分の中で明確に結びついていたのでしょうか。

 宗師と一緒に動いている時、「真似できていない、合っていない」と指摘されると、しばしば多くの人は目を凝らし、眉間に皺をよせながらとにかく集中しようとするのではないかと思います。かくいう自分がそうだったのですが、それではどれだけ目を凝らしても、宗師の示して下っていることが見えてきませんでした。
 それならばと、意識を変え、考え方を変えると称し、まるで空念仏を唱えるかの如く、
(虛領頂勁、気沈丹田…)と要訣を浮かべても、一向に体は整ってはくれないし動きは変わらないものでした。

 多少誇張した表現ではあるものの、なんとなく身に覚えがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。両極端ではあるものの、どちらも自分が見えていないという問題点から目をそらし、正反対の方向に走り去りながら解答を探そうとしているかのようです。
 正確に言えばどちらも間違いではないものの、その間で理解されるべき問題、解決されるべき問題が見えていないのではないか、という点が挙げられるのではないかと思います。
 見えている世界から一足飛びに見えない世界に飛び込もうとしても、よほどの感性かセンスがない限り難しいのではないかと思います。その中間は何なのか。間にあるグラデーションを理解できないことには、その先の世界には飛び込めないのだろう、という気がします。

 では、その中間にある世界を見せてくれるものと何なのでしょうか。
 それは先に挙げた、視覚だけに頼らず五感を通して体で感じられている世界、その部分に焦点を当てなければならないと思ったのです。感覚や感性、太極武藝館においては、センサーを磨かないといけないと言われている部分にあたるかと思います。

 人間の脳は、すごく乱暴な言い方をすれば、体を動かすための器官として存在しています。体を動かす機能が発達した結果、副産物として、喋ったり考えたりすることが出来るようになったとのことです。つまり、考え方を変えるには脳の使い方を変えればいい。では、脳の使い方を変えるには? 体の使い方を変えればいいという事になります。
 考え方の受容性を広げる必要が感じられた時、ダイレクトにそれは体の感覚の受容性を広げる必要性とつながるのではないかと思います。受容器官の使い方を変えることも、体の使い方を変えることに繋がるはずです。

 私がまず取り組んだのは、とにかく自分の体を感じる事でした。稽古で凝り固まり、ほぐす必要があったことも要因ですが、自分の体のどこが力み、緊張しているのか。動かすとそれがどのように変わるのか、どう緊張が抜けていくのか。それらを頭の先から手足の先、皮膚の表面から内臓感覚に至るまで、つぶさに観察をすることにしました。
 そうしてみると、どれだけ自分が無用な緊張を持っているのかがリアルに感じられてきました。また、稽古を通して体に余分な力みが残っていることもわかりました。
 毎回あれだけ派手に崩されていれば当然なのですが…それを意識的にほぐす事で、次の日以降に持ち越される疲れがかなり軽減されるようになりました。
 同時に対練で宗師に相手をしていただいた時は特に注意深く、自分の体がどのような影響を受けているかを注視します。ただ崩されて喜んで終わるのではなく、どのように取られ、崩され、どのような力や運動エネルギーが自分に生じているのかをひたすらに味わう事にしました。

 稽古と日常生活を通してそれらを継続していると、次第に今まで気づけなかった感覚が自分に生じているのが感じられてきます。すると不思議なことに、全く意図していなかったのですが、人の気配に以前より敏感になりました。うまく説明はできないのですが、離れている人の事が色々と「分かる」のです。自分に生じた感覚の変化が、そのまま他人を感じることに繋がっているようでした。

 ここで、最初の「真似をする」問題に戻ってきます。そのようにして感覚を磨く事に結果的に取り組んでいたことで、宗師の後ろで動いている時にも、その感覚は生きてくるようになりました。今まで見えていなかったことが、見えるようになってきました。
 今までも見えていたけど分からなかった動きの意味が感覚的に理解され、指導されている要訣や言葉が指している意味と繋がってくるように感じられるようになってきました。
 それによって、隠されていたわけではないはずなのに、見えていなかった動きも同時に見えてくるようになりました。自分が意味を間違えて捉えていた事は、ひとつやふたつではありませんでした。ただ、これをやらなければならない、と明確に感じられたものがあるので、引き続きじっくりと取り組んでいきたいと思いました。

 急に全てが変わって問題が解決したというわけではないのですが、継続して取り組み続けていけることがわかるというのは、かなりの収穫だったかと思います。
 目に見えない世界、などというとかなり不思議なものに聞こえてしまいますが、自分の体で感じられる世界も、視覚を通さない目に見えないものでもあります。
 しかし確かにそこに存在していて、世界を構成する大きな要素を占めています。ただ、今のような生活を送る現代の人々からは見過ごされやすい世界であるのもまた事実であり、それを味わう、体感できるようになるためにも、我々は取り組み方を工夫しなければならないとも感じています。
 そこから先の「意識の世界」がどのようなものなのか、今の私には到底分かり得ないものではありますが、今はこの、少し広がって感じられた世界を存分に味わいながら、自分を磨き続けていきたいと思います。
                              (了)





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2024年09月11日

「徒然日記」

                     by ハイネケン (札幌支部)


第十一話
我々の稽古は真似る。向き、高さ、速さ、質感、雰囲気。宗師の身体や空間を真似て構造、架式の習得を目指す。
今回宗師を真似て、先輩でもある指導者から各所の指摘して頂くと言う同時に2人から指導を受けられるとても貴重な機会があった。指摘され次々と修正し真似ていくと、突然視野が広がり全身が合ったような気がした。
いつもより身体が全体的に動く。初めての感覚だ。
「ただずっとこのまま合わせていたい。」と思った。
三分後、独りで同じ動作を行うと悲しいくらい出来ない。何を真似していたのだろう?
真似る先にあるものを一瞬垣間見れたのだろうか。
次に宗師の後ろで稽古ができるのはいつだろう。

第十一話「真似る」終



第十二話
同じ柔功でも宗師との稽古と自分独りとでは異なる。
宗師と共に行うと自分の「 より深い処 」にアクセスして来る。自分独りでは動作を繰り返している様だ。
自分の意識のあり方が変化するのだ。

第十二話「解(ほぐ)すだけでも」終

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