*#81〜#90

2018年08月16日

練拳Diary #82「稽古と非日常」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花


 太極拳の稽古修練の世界。そこでは、古く常識的な考えで凝り固まった頭を叩き割り、新しい考え方と価値観を知り、直向きにそこに広がる全てを受け容れることが求められます。
 そして、そのような非日常の新しい世界に身を投じれば、自分の力ではどうすることもできなかった「自分の殻」を破り、新たに生まれ変われる気がするからこそ、人はわざわざ非日常の門を叩いて入門を乞うのではないでしょうか。

 問題はそこから、いざ新しい世界で新しい考え方に出会ったとき、どのように受け取るのか、はたまた受け取らないのか──────。
 この非日常の世界でどれだけ受け容れられるか、ということは、言い換えればどれだけ自分をやめられるかということなのだと思いますが、それがなかなか難しいことです。なぜなら、人の性質には、変化を求めるよりも現状を維持したい、今が心身ともにそこそこ平穏ならそれで良いと思えるヤワな傾向があるからだと思います。
 それこそ、何かのきっかけでふと立ち止まり、自分を振り返る機会があっても、まるで考え方にも ”慣性の法則” が働くかのように、それまでの自分の古い考え方が押し寄せてくるのです。
 そこで古い考え方を落として、新しい自分として一歩を踏み出せるかどうか。その原動力となるのは、未知なる世界、未知なる自分への興味ではないでしょうか。

 失敗を恐れず、危険を顧みず。誰かのためではなく自分のために歩くこの人生。
 生まれた時に「自分はこの様に生きたい」・・と思ったかどうかは、もう覚えていませんが、「今の自分はこの様に生きている」と、胸を張って生まれた時の自分に言えるなら、自分の人生、自分の足で歩いていると言えるような気がします。

 ところで、稽古中よく耳にする「非日常」という言葉ですが、この言葉を聞くと、皆さんはどのようなイメージを持つのでしょうか。
 「非日常的な力」「非日常的な考え方」「非日常的なアプローチの仕方」・・と、様々に表現される「非日常」という言葉は、もしかしたら発した人の意に反して、異なる捉えられ方をしているかもしれない、と思います。
 例えば、先ほど挙げた3つの文章を違う言葉に置き換えて見ると、
 「日常からかけ離れた力」「凡人の自分にはとても及ばない考え方」「一般的ではない、一部の卓越した人にしかできない取り組み方」・・などとなるかも知れません。
 実は、これらの言葉は私が考えたものではなく、その昔道場で小耳に挟んだ門下生のリアルな感想ですが、これらの文句からは「非日常」という言葉が「自分には到底実践できない理想の世界」というイメージに置き換えられていることが分かります。

 自分にとって未知の世界に対し、自分の考え方では及ばない、かけ離れた世界だと思うこと自体は、間違っていないと思います。特に、武術や芸術の世界のように特殊な技術が必要とされ、そのための学習体系が存在するようなところでは、まずはじめに「自分とは全く違う」という正しい認識がなければ、新しいことを学んで行けないからです。
 しかし、先ほどの言葉のように「自分には到底実践できないナントカ」という方向に行くと、学習としては前に進めなくなってしまいます。
 大体、「自分には出来ない」と思いながら何かをやっていて、楽しいはずがないのです。
 自分とはかけ離れたとてつもない何かに対して憧れを抱き(それは、武術的な強さでも、たとえば身体の健康でも変わらないことですが)、尚かつ幸運にもそこに至る道筋を示してもらえたなら、あとはひたすら前向きに突き進むことが求められ、その中では当然自分とぶつかることもあるし、自分を超えるためには自分を変える必要があり、たとえ七転八倒しながらでも、遥か遠い憧れだったある意味不確かなものが、自分の歩く先に現実的に見えてくるのです。同時に、自分の中には「歩いてきた」という確かな実感が感じられます。だから取り組む甲斐があって楽しいし、追及することをそう簡単にはやめられないのだと、私は思います。

 それでは、なぜ人は自分が学ぶために入門したはずの道場で、発せられた師匠の言葉に対し、ともすれば否定的なマイナスのイメージを持つ場合があるのでしょうか。
 もちろん、人それぞれに色々な想いがあるはずですが、理由のひとつとしては、自分が思うように学習を進めていけないことが挙げられると思います。
 しかし、そもそも人は既に自分にできることに対して新たに「やってみよう」とは思わないはずで、自分にできないことをこそ習得するためにこの道に入ったはずですが、どうやらそのような状況でも人は自分の好きなように学習したいと思う気持ちがままあるようです。
 もうひとつの理由は、「非日常」という言葉の取り違えです。カエサルの言葉ではありませんが、人は物を見たいように見て、聞きたいように聞く傾向があります。私たちはまず、師匠が何を「非日常」であると言い表しているのか、そのことに耳を傾ける必要がありそうです。


 ここでひとつ、興味深くて美味しい話をしましょう。
 ある時、師父がお夕飯を作ってくれました。
 「自分が食べたいものがあるから」と、仰った時には立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認しながら買い物に必要なものをピックアップし、そのまま近所のスーパーに買い物へ出かけられました。・・その作業と行動の早いこと、早いこと。台所によく慣れた主婦だって、そうはいかないのではないかと思ったとき、あるひとつの考えが浮かびました──────この光景は、まるで軍人が武器庫から必要な武器を持ち出している時のようだ、と。

 急いでいるわけでも、慌てているのでもなく、言って見れば状況把握と必要となる行動の認識、そして判断から実行の過程がもの凄く早く、その過程には「思考」の時間が入っていないとさえ見受けられました。

 そこで感じられた「早さ」は、師父が買い物から帰られた後も続きます。
 材料を出して、刻んで、火にかけて・・・出来上がり!?
 「はい、どうぞ!」と言われて私が真っ先に見たのは時計でした。
 ・・ええっ?、キッチンに立たれてから40分位しか経っていませんよ、師父!
 「なんでこの立派な料理がこんなに早いのですか?」と聞きながらも、手にスプーンを持ってお皿に飛びつく自分には、もはや師父の言葉は耳に入っていなかった気がします。
 そうです、この芳しい香りには、誰も抗えないはずです!

 出てきたのは、ラム肉の軽い煮込みにクスクスが添えられたモロッコ料理。一応写真を載せておきますが、美味しさのあまり食べる勢いがついて、悪しからず半分近く平らげてから撮影したものとなってしまいました。


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 「う〜ん、ラム肉は私の好物ですが、それにしても美味しい。見た目はゴロッとした野菜とお肉が入っているだけなのに、それらの素材の味が全て引き出されていて、その旨味がシンプルなクスクスに見事に移ってベストマッチング〜!!」とホクホクしながら食べていたら、キッチンから師父が出てこられて食卓に座り「お味は、どうかな?」と言いながら、一緒に食べ始めたのです。
 おや?、と思いキッチンに目を向けると、なんと、全て綺麗に片付いています。出てきた料理は、子羊の煮込みとクスクス、それにサラダですが、料理が出来上がって器に盛り付けた時には、鍋から流しまで元の使用前のキッチンになっているとは、誰が思うでしょうか。
 「一体、いつの間に片付けたのですか?」と問いかける私に、師父は「料理が終わった時には片付けも終わっていた方が、次の仕事が楽でしょ」と仰います。
 ここでまたしても、ひとつの考えが浮かびました──────確かに、師父が一発殴った時には、すでに次のパンチが打てる身体の状態が整えられていて、ご自分の攻撃によって居つくことはありえない、と。

 そうです。買い物も、料理も、後片付けも、全て日常の所作です。けれども、師父が示してくださったのは、食事を考えるところから実際の行動、そしてご自分が食べるまで、どれも非日常的なアプローチの仕方でした。
 つまり、自分の好きな考えを挟まず、そこで必要となることを見極めながら動き続け、同時に結果を出す。そして師父はそれを楽しみ、なんの制約もなく料理を味わいながら仕上げて、最後には片付けながら食べている人の感想に耳を傾けたりしているのです。


 師父お手製の料理は、モロッコ料理にとどまらず、
 フレンチの豚肩ロースとキャベツのワイン煮、

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 鶏肉の煮込み、フェットチーネ添え、

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 牛肉とキノコの煮込み、

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 究極の肉じゃが(命名は玄花)

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 ・・と続いていきます。

 どの料理も、どこのスーパーでも手に入るありふれた材料が使われていて、メインディッシュだけではなくサイドディッシュも組み合わせ、それらを僅か一時間足らずで調理し、食べる時には片付けまで終わっている状態です。

 もしも自分が同じ料理を作ったなら、どのような味わいになるのか、そしてその後の台所はどうなっているのだろうか───────

 そう考えたときに思い浮かぶのは、やはり稽古の取り組み方や考え方などで感じられる、師父との「違い」と全く同じことでした。
 これはきっと、掃除をしても、本を読んでも、車を運転しても、野外で火を熾しても、それこそ暴漢に襲われても、災害に巻き込まれた時でも、同じ「違い」があるはずで、そうだとしたら、師父の所作を見て感じる繊細さや常識に捉われない柔軟な考え方、行動力の早さなどは、師父がもともと性格や能力として持っていたものではなくて、恐らくは太極拳の修行の中で必要なこととして身につけて練り上げてこられた、真の功夫(コンフー)なのだと言えるはずです。

 日常を、非日常的に取り組むこと。
 それは自分が人生を生きることに対して意識的になることとイコールだと感じられます。
 それを、自分の怠惰さを棚に上げて、やれ高尚だ非凡だ特殊だからと理由をつけて自分では何もしないのは、武術家の風上にも置けないのはもちろん、ひとりの人間としても自分の魂を腐らせているに等しいことだと、私は思います。

 私が学生の頃には、遠方に住む祖母に電話を掛ける度に、必ず『お勉強していますか?』という言葉を頂きましたが、今なら、祖母の話した「勉強」が日常の全てに当て嵌まることを実感できます。
 自分と関わる全てのことに対して、勉強できるかどうか。それは自分の物事に対する向かい方次第だということを、幼い私に分かりやすい言葉で示してくれたのだと思います。

                                 (了)


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2018年02月13日

練拳Diary #81「常識を越えて」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私はこれまでに、稽古で示される「散手」などの非接触系の対練に対して、頭を悩ませてきました。
 課題は、相手との間合いの取り方や、こちらの滞りない攻撃などに始まり山ほどありますが、何より師父と同じように動けずに、足が居着く、身体を回してしまうなど、太極拳の要訣が守れない自分の身体の状態が課題になっていました。

 師父の動きの特徴は、第一に「どこに向かって、どのように動いているかが分からない」ことだと言えます。途切れることなく動き続けていて、尚かつ相手に向かって前進し続けるだけの動きではなく、稽古によっては相手は攻撃を繰り出させては貰えるものの、あらゆる攻撃は空しく中を切り、その瞬間には師父の攻撃が相手に確実にヒットしています。
 ちなみに、師父との散手の稽古では「痛めつけられる恐怖」というものが存在しません。
 これは、他門から入門してきた人が最も不思議に思える事のひとつのようですが、対練や散手の稽古中には、師父から顔面、首、後頭部、胸、腹、足など、ありとあらゆる部位に攻撃を受けても、軽く打たれるだけなので、痣(あざ)などが残ることはまずありません。防具を着けての散手なら、よほど下手な受身でもしない限り、怪我をする事はまず有り得ないと思います。
 ただし、その代わりに、「これが実戦だったら確実に殺されているという恐怖」が常にあります。相手を痛めつける為の稽古ではないので、攻撃の威力は小さくとも、攻撃に至るまでの遣り取りで、師父の攻撃成功率は100%、それに対してこちらは0%であることがはっきりと認識させられるのです。まさに「手も足も出ない」とはよく言ったもので、決して速い動きではないと思えるのに、此方は為す術もなく容易に追い詰められていきます。
 それはあたかも、四方を敵に囲まれている状況で足場がどんどん崩れていき、やっとの事で立って居るかのような状態だと言えます。だからこそ、稽古では敢えて強大な打撃力を相手に与える必要がないのでしょう。

 自分が何ひとつ動けない中で感じる恐怖の大きさは、単なる ”打撃力” に対する恐怖などとは全く比較にはならず、正直なところ生きた心地がしません。大袈裟ではなく、手足をもがれて地面に転がされているところに迫って来ているような状況に思えるのです。
 一体何がそう感じさせるのか─────それを認識し修得できない限りは自分なりに戦い方をどう工夫しても所詮は ”ドングリの背比べ” であり、いつまで経っても太極拳の戦い方にならないことは明白です。
 道場で師父の動きを見て真似をし、家で師父の動きを動画で観ては検証することを繰り返し、また稽古に反映させていきますが、なかなか師父のような、こちらが主導権を取れている散手にならない日々が長く続きました。

 ある時、師父にひとつのヒントを頂きました。そのヒントとは、今までに聞いたことも無いような新しい内容ではなく、今まで教わってきたことの「表し方」が異なるだけでした。
 けれども、それは言い換えれば自分がどれほど表現しようとしても出来なかった内容で、そのヒントを頂いたときの衝撃は、まさに頭を銃弾で撃ち抜かれたかのようであり、しばらくの間は立ち直れなかったほどです。しかも、衝撃はその時だけでは収まりませんでした。

 画面に穴が空くほど繰り返し観ていた師父の散手動画ですが、あらためて観てみると、頂いたヒントのお陰で今までよりも動きが明確に見えるようになりました。
 そして私は、『なるほど、相手が打ってきても当たらないのは、こういうワケだったのか』と独り納得をし、重要なことが見えたつもりになって、見えたものをそのまま再現しようと稽古で散手を行ったのです。
 しかし、思うようには行きませんでした。今までの散手と比べて確かに手応えは違うものの、まだ相手が自由に動ける時があり、それは大抵は自分の身体に無理が掛かっている動きのときだったのです。
 自宅に戻り、もう一度同じ映像を観たとき、それまで見えていなかった ”違い” が今度ははっきりと分かりました─────身体が動けていなかったのです。師父の動きを真似ているつもりが、実際には何もかもが足りない・・それどころか、身体の質そのものが違うようにさえ思えました。
 動き自体は決して難しいものではないのです。太極拳を学んだことがあれば誰でも知っていると思われる、ごく一般的な見慣れた歩法です。けれども、動けない。
 ショックを受け、半ば呆然と動画を観ていた私は、思わず呟きました。

 『──────────鬼だ!』

 師父の動きが、実は並大抵の練習によって得られたものではないことが、私はこのとき初めて解ったのです。この動きは歩法を「鬼のように」練習しなければ得られないのだと。
 それまで、いとも簡単にヒョイヒョイ歩いて見えていた動きが、反対に、もの凄い内容を含んでいる途轍もない動きに一変しました。師父の動きと比べると、自分の歩法など文字通りの付け焼き刃に思えてしまいます。
 なぜ、今までそのことが見えなかったのかと問いかければ、稽古中に師父が常々仰っていた言葉が聞こえてくる気がします。

 『いつも常識的な頭で見て、常識的な頭で考えて、動こうとする。だから君たちは、いつまで経っても太極拳が理解できないんだよ。もっとアタマに染み付いた常識を捨てなさい』

 私たちの稽古では、相手との接触・非接触に関わらず、相手を抵抗なく倒せても、或いは大きく吹っ飛ばせても、それが「太極の理」に適っていなければ無意味だと指導されますし、それは散手の攻防でも同じで、こちらの攻撃がいくら有効でも、原理が異なれば『そんなものは太極拳ではない』と一笑に付されます。
 それは、稽古の目的が「相手を倒せること」というような単純なものではないからであり、たったひとつの対練でも、そこに太極拳の全てが表現されているからであると言えます。
 人は、すぐに成果を欲しがりますし、目の前にいる相手を倒さなければ武術ではない、と考えがちです。けれども、そんな薄っぺらな意識の持ち方ではこの太極拳は到底理解できないものであり、もっと観て、感じて、理解しようとして、自分自身を高度に「鬼」として変容させない限りは、その片鱗にさえ触れることが叶わないのだと、今回つくづく思い知りました。

 これまでに、師父の動きを見て「すごい」と思ったことは数えきれないほどありますが、それを「超常的である」と思えたのは今回が初めてのことです。そして、この「鬼神」とさえ思える動きこそが、師父が伝承されてきたことなのだと、つくづく感じ入りました。
 また、何かを伝承することとは、決して特別な秘伝書を渡されることなどではなく、「それそのものになること」なのだと、このとき身を以て実感したのです。
 太極拳の奥義を識ることではなく、太極拳そのものになる─────つまり、鬼神ほどに稽古をして、この身に鬼を宿すことこそが伝承と呼べるのだと思いました。
 もしかしたら、それは「鬼」と言うよりも「龍」と表現した方が、適当なのかも知れません。
 そして、目の前の龍をどれほど真似しても決して龍にはなれず、それはただの龍の物真似に過ぎないのです。そのことを私たちは明確に認識する必要があるのだと思います。

 さて、今回頂いたヒントによって自分の稽古が一変したことは言うまでもありませんが、それと同時に見えてきたことは、師父の超常的な身体の使い方や稽古の次元の違い、そして伝承の意味だけに留まらず、音楽を聴いたり絵画を観照すること、そしてささやかな料理を作ってみたりする、それら芸術に関わる世界の見え方までもが、これ迄とはすべて変わってきました。
 今までは、世界を前にして自分で理解しやすいように「枠組み」を作り、その枠の中の世界を一生懸命見ようとしていたのだと思います。もちろん、まだ自分で気付いていない枠組みが有るかも知れませんが、そのような心積もりで今後も観て行きたいと思います。

 今回私が気がついたような、太極拳を学ぶ上でとても大事だと思えることは、本当に貴重な、この上ない宝物ではありますが、それを得られたことに手放しで喜んではいられないという危機感が、同時に存在しています。
 それは、その宝物が、あたかも夜明け前の野に密やかに降りた、一滴の露のようなものに感じられるからです。
 日の出を間近にして空が白んでこなければ、野に降りた露を探すことはできません。けれども、日が昇ってしまえば辺り一面の朝露は消えてなくなります。野原一面に降りた露を集めようとしているときに、たった一滴の露で喜んではいられません。それは、その日、その時限りでしか、手に入らないものなのです。

                                  (了)




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