*#81〜#90

2018年02月13日

練拳Diary #81「常識を越えて」

               by 玄門太極后嗣・範士   円 山 玄 花



 私はこれまでに、稽古で示される「散手」などの非接触系の対練に対して、頭を悩ませてきました。
 課題は、相手との間合いの取り方や、こちらの滞りない攻撃などに始まり山ほどありますが、何より師父と同じように動けずに、足が居着く、身体を回してしまうなど、太極拳の要訣が守れない自分の身体の状態が課題になっていました。

 師父の動きの特徴は、第一に「どこに向かって、どのように動いているかが分からない」ことだと言えます。途切れることなく動き続けていて、尚かつ相手に向かって前進し続けるだけの動きではなく、稽古によっては相手は攻撃を繰り出させては貰えるものの、あらゆる攻撃は空しく中を切り、その瞬間には師父の攻撃が相手に確実にヒットしています。
 ちなみに、師父との散手の稽古では「痛めつけられる恐怖」というものが存在しません。
 これは、他門から入門してきた人が最も不思議に思える事のひとつのようですが、対練や散手の稽古中には、師父から顔面、首、後頭部、胸、腹、足など、ありとあらゆる部位に攻撃を受けても、軽く打たれるだけなので、痣(あざ)などが残ることはまずありません。防具を着けての散手なら、よほど下手な受身でもしない限り、怪我をする事はまず有り得ないと思います。
 ただし、その代わりに、「これが実戦だったら確実に殺されているという恐怖」が常にあります。相手を痛めつける為の稽古ではないので、攻撃の威力は小さくとも、攻撃に至るまでの遣り取りで、師父の攻撃成功率は100%、それに対してこちらは0%であることがはっきりと認識させられるのです。まさに「手も足も出ない」とはよく言ったもので、決して速い動きではないと思えるのに、此方は為す術もなく容易に追い詰められていきます。
 それはあたかも、四方を敵に囲まれている状況で足場がどんどん崩れていき、やっとの事で立って居るかのような状態だと言えます。だからこそ、稽古では敢えて強大な打撃力を相手に与える必要がないのでしょう。

 自分が何ひとつ動けない中で感じる恐怖の大きさは、単なる ”打撃力” に対する恐怖などとは全く比較にはならず、正直なところ生きた心地がしません。大袈裟ではなく、手足をもがれて地面に転がされているところに迫って来ているような状況に思えるのです。
 一体何がそう感じさせるのか─────それを認識し修得できない限りは自分なりに戦い方をどう工夫しても所詮は ”ドングリの背比べ” であり、いつまで経っても太極拳の戦い方にならないことは明白です。
 道場で師父の動きを見て真似をし、家で師父の動きを動画で観ては検証することを繰り返し、また稽古に反映させていきますが、なかなか師父のような、こちらが主導権を取れている散手にならない日々が長く続きました。

 ある時、師父にひとつのヒントを頂きました。そのヒントとは、今までに聞いたことも無いような新しい内容ではなく、今まで教わってきたことの「表し方」が異なるだけでした。
 けれども、それは言い換えれば自分がどれほど表現しようとしても出来なかった内容で、そのヒントを頂いたときの衝撃は、まさに頭を銃弾で撃ち抜かれたかのようであり、しばらくの間は立ち直れなかったほどです。しかも、衝撃はその時だけでは収まりませんでした。

 画面に穴が空くほど繰り返し観ていた師父の散手動画ですが、あらためて観てみると、頂いたヒントのお陰で今までよりも動きが明確に見えるようになりました。
 そして私は、『なるほど、相手が打ってきても当たらないのは、こういうワケだったのか』と独り納得をし、重要なことが見えたつもりになって、見えたものをそのまま再現しようと稽古で散手を行ったのです。
 しかし、思うようには行きませんでした。今までの散手と比べて確かに手応えは違うものの、まだ相手が自由に動ける時があり、それは大抵は自分の身体に無理が掛かっている動きのときだったのです。
 自宅に戻り、もう一度同じ映像を観たとき、それまで見えていなかった ”違い” が今度ははっきりと分かりました─────身体が動けていなかったのです。師父の動きを真似ているつもりが、実際には何もかもが足りない・・それどころか、身体の質そのものが違うようにさえ思えました。
 動き自体は決して難しいものではないのです。太極拳を学んだことがあれば誰でも知っていると思われる、ごく一般的な見慣れた歩法です。けれども、動けない。
 ショックを受け、半ば呆然と動画を観ていた私は、思わず呟きました。

 『──────────鬼だ!』

 師父の動きが、実は並大抵の練習によって得られたものではないことが、私はこのとき初めて解ったのです。この動きは歩法を「鬼のように」練習しなければ得られないのだと。
 それまで、いとも簡単にヒョイヒョイ歩いて見えていた動きが、反対に、もの凄い内容を含んでいる途轍もない動きに一変しました。師父の動きと比べると、自分の歩法など文字通りの付け焼き刃に思えてしまいます。
 なぜ、今までそのことが見えなかったのかと問いかければ、稽古中に師父が常々仰っていた言葉が聞こえてくる気がします。

 『いつも常識的な頭で見て、常識的な頭で考えて、動こうとする。だから君たちは、いつまで経っても太極拳が理解できないんだよ。もっとアタマに染み付いた常識を捨てなさい』

 私たちの稽古では、相手との接触・非接触に関わらず、相手を抵抗なく倒せても、或いは大きく吹っ飛ばせても、それが「太極の理」に適っていなければ無意味だと指導されますし、それは散手の攻防でも同じで、こちらの攻撃がいくら有効でも、原理が異なれば『そんなものは太極拳ではない』と一笑に付されます。
 それは、稽古の目的が「相手を倒せること」というような単純なものではないからであり、たったひとつの対練でも、そこに太極拳の全てが表現されているからであると言えます。
 人は、すぐに成果を欲しがりますし、目の前にいる相手を倒さなければ武術ではない、と考えがちです。けれども、そんな薄っぺらな意識の持ち方ではこの太極拳は到底理解できないものであり、もっと観て、感じて、理解しようとして、自分自身を高度に「鬼」として変容させない限りは、その片鱗にさえ触れることが叶わないのだと、今回つくづく思い知りました。

 これまでに、師父の動きを見て「すごい」と思ったことは数えきれないほどありますが、それを「超常的である」と思えたのは今回が初めてのことです。そして、この「鬼神」とさえ思える動きこそが、師父が伝承されてきたことなのだと、つくづく感じ入りました。
 また、何かを伝承することとは、決して特別な秘伝書を渡されることなどではなく、「それそのものになること」なのだと、このとき身を以て実感したのです。
 太極拳の奥義を識ることではなく、太極拳そのものになる─────つまり、鬼神ほどに稽古をして、この身に鬼を宿すことこそが伝承と呼べるのだと思いました。
 もしかしたら、それは「鬼」と言うよりも「龍」と表現した方が、適当なのかも知れません。
 そして、目の前の龍をどれほど真似しても決して龍にはなれず、それはただの龍の物真似に過ぎないのです。そのことを私たちは明確に認識する必要があるのだと思います。

 さて、今回頂いたヒントによって自分の稽古が一変したことは言うまでもありませんが、それと同時に見えてきたことは、師父の超常的な身体の使い方や稽古の次元の違い、そして伝承の意味だけに留まらず、音楽を聴いたり絵画を観照すること、そしてささやかな料理を作ってみたりする、それら芸術に関わる世界の見え方までもが、これ迄とはすべて変わってきました。
 今までは、世界を前にして自分で理解しやすいように「枠組み」を作り、その枠の中の世界を一生懸命見ようとしていたのだと思います。もちろん、まだ自分で気付いていない枠組みが有るかも知れませんが、そのような心積もりで今後も観て行きたいと思います。

 今回私が気がついたような、太極拳を学ぶ上でとても大事だと思えることは、本当に貴重な、この上ない宝物ではありますが、それを得られたことに手放しで喜んではいられないという危機感が、同時に存在しています。
 それは、その宝物が、あたかも夜明け前の野に密やかに降りた、一滴の露のようなものに感じられるからです。
 日の出を間近にして空が白んでこなければ、野に降りた露を探すことはできません。けれども、日が昇ってしまえば辺り一面の朝露は消えてなくなります。野原一面に降りた露を集めようとしているときに、たった一滴の露で喜んではいられません。それは、その日、その時限りでしか、手に入らないものなのです。

                                  (了)




xuanhua at 18:30コメント(14) この記事をクリップ!
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