*第191回〜第200回
2017年03月15日
連載小説「龍の道」 第195回

第195回 P L O T (15)
「ああ、美味しい──────味オンチのアメリカの、それも最果ての地アラスカの、田舎町のカフェでこんな珈琲が飲めるのは奇跡的な贅沢よねぇ、まるで神戸にいるみたい!」
「ん・・・・」
宏隆と宗少尉のコンビは敵の追撃を巧みに躱(かわ)し、あの館から無事に逃げ出して、Washilla(ワシラ)からハイウェイで 20kmほど東へ行った、Palmer(パーマー)という小さな田舎町に宿を取り、これまでの状況を振り返りながらひと息ついている。
パーマーは、デナリの東南にある広大な自然保護区、ネルチナ・パブリックエリアの南を流れるマタヌスカ川の下流に位置する。かつての多くの入植者たちの出身地であったアメリカ中西部の雰囲気が色濃く残る素朴な町で、現在はアンカレッジのベッドタウンとして発展している。
デナリから南にアンカレッジへと向かって流れるササイトナ川沿いとはまた違った趣きがあり、車で走っていると、まるで北海道の釧路や帯広の辺りかと錯覚するほど、風景がよく似ている。
「まあ珈琲でも飲みなさいよ、きっとオツムの回転がよくなるわヨ」
「あ・・・」
「この田舎町には、アラスカ・ステート・フェアという大収穫祭があって、毎年野菜の巨きさを比べて競うコンテストがあるんだって。ここで優勝した野菜は世界最大の野菜としてギネスブックに載るんだそうよ、面白いわね・・わぉっ、去年は何と一個 40kgのキャベツを出品した人が優勝して、2千ドルの償金を手にしたって、このパンフレットに書いてあるわ。
40キロ?!、普通のキャベツって、ひとつ1kg 程度だよね、すっごぉーいっ!!」
「ン・・・・」
「巨大な野菜が採れるのは、日照時間が一日に20時間もある、白夜のおかげでしょうね」
「ム・・・・」
「なーによ、さっきからアーとかウーとか上の空で!・・でも、そんなムツカシイ顔をしてるのは珍しいわね。ま、いいから珈琲でも飲みなさい。ね、美味しいから、ほらっ!」
「・・ん、コーシ?・・んまァ、そこそこ・・飲める」
「だから言ってるでしょ、まるで神戸のカフェみたいだって」
「ははは、台湾人はそう思うのかも知らンが・・味はまあまあだけど、神戸にしむらの豆のクオリティにはほど遠いね。多分ここのオーナーがフランス系の移民か、カナダから来てる人かも知れない」
「ふぅーん、なんでそんなコトが分かるのよ?」
「ま、フランボワーズのドーナツがあるし」
「甘ったるいドーナツなんか、アメリカ中どこにだって有るじゃない」
「カナダ人は甘い物とコーヒーに目がないんだ。フランスの影響なのかもね。フランスじゃプティ・デジュニ(朝食)は絶対に甘い物と決まってるし。カナダだと、そこに気の利いたスープやサンドウィッチが加わればもう最高ってコトになる。だから Tim Houtons(ティム・ホートンズ)が流行るんだろうね」
「あ、聞いたことあるワ、そのお店・・有名なダブル・ダブルってヤツよね!」
「そう、Double Double、砂糖とクリームを2杯ずつ!、カナダ人のお気に入り」
「レギュラー珈琲を注文すると、勝手に砂糖とミルクの入ったのが出てくる・・」
「そうそう、何も入ってないのが欲しかったら、Black Coffee か Black Original Coffee って、ちゃんと頼まなくちゃイケない。僕もつい何度か失敗しちゃった」
「あはは・・・」
「値段がウソみたいに安いのに、珈琲もサンドウィッチも、ティムビッツという小さなドーナツも美味しい。ドリンクにはカナダ産の蜂蜜を入れてもらったり、シュガーとクリームは半杯ずつ細かくオーダーできる。朝食も色々あって、アメリカ人観光客にも大人気」
「そっか、近ごろのアメリカン珈琲は、シアトルの眠れないコーヒーになったモンね」
「それって何よ?」
「コホン、何でもないわ──────それよりヒロタカ、さっきからずっと何を考えてるの?
カナダの話なんかして、拉致されたヘレンが気になって仕方がないんでしょうね」
「いや・・やっぱり変なんだよ・・何かがおかしい・・・」
「おかしいのはアナタでしょ、何がヘンなの?」
「あのとき・・宗少尉との約束どおり、館の外から様子だけ伺って、すぐに引き揚げようと思っていたんだけど」
「ふむ、スナオでよろしい」
「声が聞こえたんだよ、僕がよく知ってる人の声が・・・」
「知ってる人って、誰の声だったの?」
「そ、それが・・・」
「勿体ぶらなくても良いから、言いなさいよ」
「その声を聞いて、自分の耳を疑って、タクティカルミラーで窓の下から室内を覗いて確認しようとしたんだけど」
「どうだったの?」
「うん。部屋の照明に鏡が反射してしまったのか、見る間もなく気付かれて、すぐ護衛が窓を開けて拳銃を向けてきたので、それを叩き落として、そいつを外に放り投げて気絶させ、その勢いで思い切って部屋に飛び込んだんだけど・・」
「やっぱり無茶が始まったのね。それで、その声のヌシは誰だったの?」
「残念ながら、覆面を着けていて、おまけに声色(こわいろ)まで使われて、まったく正体不明のまま・・」
「それは、よっぽどヒロタカに正体を知られたくないってコトね」
「ぼくもそう思う」
「もしそれがヒロタカのよく知る人物だとしたら、作戦を練り直さなくちゃならないわね。声を聞いて、ヒロタカは誰だと思ったの?」
「いや、それを言ってしまって、もし違っていたら、自分たちが誤ったイメージで作戦を立てる事になるから・・」
「その反対もあるわよ。もしその人物を想定しておかなければ、もっとエラいことになるって場合もあるでしょ」
「そうか・・・」
「つまり、その人物だとは決して思えないような相手、ってコトね?」
「まあ、そうだけど・・」
「ふむ。それじゃ、私が当ててあげましょうか、その人の名前を」
「・・え、誰だか分かるの?」
「分かるわよ、その声の主は、おそらく────────」
「お、おそらく・・・」
「恐らくそれは──────────ヴィルヌーヴ中佐よ!!」
「・・ど、どうして・・どうしてそう思うのさ?」
「あの館から待避するときに、窓にヘレンの姿が見えたと言ってたでしょ?」
「そう、確かにヘレンが、あの窓に見えたような気がしたんだ」
「そのコト自体、すごくアヤシイのよ」
「怪しいって、なにが?」
「考えてもご覧なさい、そこに囚われている人間なら、窓から外なんか見せて貰えるワケがないわ・・・捕らえられた人間というのは、地下室や、窓もロクにない奥まった部屋に閉じ込められるのが普通で、明かり取りの窓にさえ鉄格子があって、部屋には監視カメラ、ドアの外には見張りが居て、本人がプロの工作員なら、さらに手足を壁や柱に繋いで拘束されるのが常識でしょ」
「そうだね・・・」
「ヘレンはカミーユ・ダリエというコードネームまで持つ情報員の卵なのよ。父親の助手として、玄洋會の准協力員としても活動をしているわけで、そんな立場の人間が誘拐されて、囚われの身となった所で、窓際から暢気に雪景色を眺めていられるワケがないでしょ!」
「・・た、確かに、そのとおりだ」
「そして父親のヴィルヌーヴ中佐は CIAや王立カナダ公安局の情報員であり、玄洋會の正式な協力員でもある。ヘレンは父親との繋がりで我々の信用を得ている、というわけよね」
「そういうことだね」
「だから、まず見方を変えましょう。つまり、言い換えればヘレンは正式な玄洋會の身内ではないということよ。そもそも准協力員のレベルでは、台湾や神戸の基地に呼ばれても殆どのゾーンに出入りできず、司令室はもちろん、訓練施設にも立ち入ることが許されないという事実を見ても分かるわ」
「でもヘレンは、僕に万一のことが有った場合には、身代わりになってでも護れと命じられている、と言っていた・・」
「それは玄洋會からの命令じゃないわ。たぶん父親からそう言われたんでしょうね」
「なるほど、中佐がヘレンに命じたのか」
「そしてそれは、協力員のヴィルヌーヴ中佐にしたって同じことよ。正式な身内でないということは、彼にしてみれば、命を懸けるほどの忠誠の義務はないと思えるはずだし」
「それじゃ、裏切って反対に我々を利用するような事も有り得ると?」
「そうね。だから、もしあの館に居たのがヴィルヌーヴ中佐だとしたら・・」
「僕らをワナに掛けて、どうにかするつもりだった───────」
「そうなるわね。そもそも、あの館の存在をヒロタカに教えたのはヴィルヌーヴ中佐よ。
ヘレン拉致の捜査の進捗をヴィルヌーヴ中佐に訊ねたら、軍病院に出入りする廃棄物運搬業者のトラックの運転手を兼ねた一人の作業員が判明し、その男のカネの流れからキャンベル曹長と関わりのある人物が浮かび上がって、その山荘がワシラにあることを掴んだと言った。ヴィルヌーヴ中佐はそこへ向かおうとしていたが、同時に出た有力な情報を先に確認したいと言うので、それではと、私たちが調査に行く事になったのよね」
「それじゃ、中佐が僕らをおびき寄せたということ?」
「これまでの流れから見ると、そうなるわね」
「そうだとすると、ヘレンはあの館に囚われているんじゃなくて・・」
「もしそれがヘレンなら、間違いなく捕囚の身ではなく、父親とそこに滞在しているという事になるわ」
「うーん・・でもやっぱり、僕はそうは考えたくないな」
「ヒロタカ、こんな場合は冷静に、感情抜きでよく物事を見ないと・・」
「もしそうだとして、中佐は僕らを罠に掛けて、どうするつもりだったんだろう?」
「分からないわ。なぜ私たちをおびき寄せようとしたか、本人に訊くしかないわね」
「何だかショックだな。僕は中佐を尊敬していたし、中佐も僕のことを気にかけてくれていたから」
「分かるわよ、その気持ちは・・・」
「パッシィーンッッッ──────!!」
突然、目の前の大きな窓ガラスが粉々に砕けた。
「危ないぃっっ──────────!!」
その瞬間、二人はほぼ同時に床に身を投げながら、互いに分かれて左右に転がり、すでにもう部屋の隅で銃を構えている。
幸い他に客が居ないので混乱はないが、従業員がふたり、オロオロしてカウンターの中で震えている。
「君たち、そこなら大丈夫だ、体を低くして奥のキッチンに行け!・・急ぐんだ!」
外の様子を伺いながら、宏隆が怒鳴る。
攻撃に対して、二人が左右の横方向に散らばり、部屋の隅まで転がって逃げたのは、次の攻撃に備えることは無論、跳弾(ちょうだん)を避けるためでもある。
跳弾とは、発射された弾丸が地面や床などに当たって跳ね返ることを言うが、拳銃弾でもライフル弾でも、着弾面に対して浅い進入角度であるほど跳弾しやすくなる。また、着弾面が硬ければ跳弾しやすいとは限らず、たとえ水面でも進入角度次第で見事に跳弾する。
この場合はカフェの店内であるから、遠くから狙撃された場合、床に当たれば弾丸の進行方向に跳弾しやすく、テーブルや椅子に当たればあらぬ方向にも跳ねることになる。
部屋の奧に行けば跳弾を喰らうリスクが大きく、最も安全なのはコンクリートの壁に護られた表側の窓に近い、店の左右の隅ということになる。
宏隆たちのようなプロは、たとえ一杯の珈琲を飲む時にも、周りの状況を全て把握する。近くの壁やテーブルの材質まで、ごく普通に確認する習慣がついているのである。
因みに、よく映画やドラマで銃撃された時に咄嗟に床に伏せる、というシーンを見かけるが、実際は床に伏せてじっとするのは大変危険な行為で、狙撃する側にすれば伏せている人間ほど撃ちやすいターゲットは無い。原野など見通しが利く場所なら地面すれすれに伏せた方が命中しにくいが、わざわざそのような狙撃し難い場所で狙われることは珍しい。
ついでながら、自分を狙ってくる銃弾に対処するには、カバー(Cover)と、コンシールメント(Concealment)の区別をよくわきまえておく必要がある。
これらは軍事訓練における専門用語で、カバーとは「銃弾が貫通しない遮蔽物」を指し、厚さ2cm以上の鉄板、防弾ガラス、鉄骨、鉄筋コンクリート、打ちっ放しのコンクリート、土嚢、大きな樹の幹、自動車のエンジン、大きな岩などがそれに当たる。
コンシールメントとは「貫通するが敵の視界から姿を隠せる遮蔽物」を指し、住宅の壁、合板、柱、コンクリートブロック、煉瓦、自動車のドア、タイヤ、家庭用冷蔵庫、洗濯機、ソファ、ベッド、テーブル、書棚、ドラム缶、空調のダクト、コルゲート鋼板コンテナなどが挙げられる。
実際に銃で交戦する際には「カバー」を利用して敵よりも優位な状況に立つ必要があり、「コンシールメント」で交戦する場合は、敵から撃ち返された時に遮蔽物を貫通するため、敵に位置を悟られてしまうと被弾しやすくなるのは言うまでもない。
「何処だ──────どこから撃った?」
宗少尉は窓の隅からそっと向こうを覗き、宏隆はバッグから小さな双眼鏡を取りだして敵の位置を確認しようとしている。敵が何処から、どのように攻撃しているかが判らなければ対処のしようがない。
「この威力はライフル弾ね、近くには誰も居ない・・角度からして多分むこうの森よ、距離は約150m・・私が飛び出て注意を引くから、ヒロタカは追いかけるクルマの準備っ!」
「ラジャッ──────!」
広大なアラスカでは、都市部以外には全くと言って良いほど高いビルを見かけない。このパーマーの町も平屋建てがほとんどで、せいぜいが2階建て止まりである。
都会のように、向かいのビルの屋上から狙撃するというわけには行かないが、その代わりに、どこも近くまで森が迫っているので、都会よりも狙撃には好都合かも知れない。
「ダンッ、ダンッ、ダンッ───────!!」
「うっ・・なかなか正確に撃ってくるじゃないの」
一歩外に出た宗少尉に向けて、容赦なく銃弾を浴びせてくる。
慌てて車の陰に隠れたが、フロントガラスが一瞬で砕け散った。
宗少尉は急いでドアを開け、後部座席の足もとに体を低くした。
普通の自動車はエンジン部分以外は銃弾が容易に貫通するので、映画のように車内で頭を低くしていれば助かる、というのは全く有り得ない。自動車を遮蔽物に使うにはエンジンを自分と敵との間に置くしかない。宗少尉は敵との角度を考え、それを守っているのだ。
「宗少尉っ、早く乗って────────!」
宏隆が建物の裏から回してきたブレイザーに素早く乗り込んだが、
「ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ──────────!」
「くぅっ・・・派手に撃ってくれるなぁ!」
あっという間にフロントガラスが破壊され、ボディが穴だらけになる。
「パシューッ・・・」
「くそっ、パンクさせられた。ブレイザーのタイヤはデカいから狙いやすいか」
「仕方ない、降りて他のクルマを探すわよ!」
「がってん・・」
「ダンッ、ダンッ、ダンッ・・ダンッ、ダンッ、ダンッ・・!!」
「うおおおぉっっ・・アブ、アブ、アブナイっっ──────!!」
車の外に出て行くことが難しいほど、素早く連射してくる。
「ヒロタカ、次のリロード(マガジン交換)で、走るわよ!」
「ラジャッ・・・途切れた、今だっ!」
「ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ──────────!!」
「だめだっ、早いっ!・・かなり手慣れたリロードだ、これじゃ動けないぞ」
「少しでも動けば撃ってくる、絶対に仕留めるつもりね。こんな時にグレネード・ランチャーで狙われたら、それでアウトよ」
「そうだ、後ろの荷室に煙幕弾があったぞ」
「体を起こした途端に撃ってくるわよ、よしなさい!」
「ま、ちとやってみるかな・・」
「ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ──────────!!」
「うわあああっ・・て、手を出しただけなのに・・」
「ほーら、言わンこっちゃない!」
「むぅ、万事休す、か──────────」
が、そう思えたとき・・
「ブォロロロロオオォーン・・・キィーッッッ!!」
野太い排気音が聞こえ、大きな黒塗りのバンが敵の攻撃を遮るように止まった。
「カトー、急げっ、これに乗るんだっ!」
クルマの中から、誰かがそう叫ぶ。
「ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ・・!!」
黒いバンはボディに銃弾を受けても貫通せず、窓ガラスも割れない。
「いったい誰が・・タイミング良く、こんなところに?」
「すごいっ、完全防弾装備のクルマ!・・あなたの知り合い?」
「い、いや、まさか・・」
「早く乗れっ! この車もグレネード・ランチャーまでは防げないぞ!」
「ヴィ・・ヴィルヌーヴ中佐・・・?!」
「・・な、なんですって?!」
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第196回の掲載は、4月1日(土)の予定です
2017年03月01日
連載小説「龍の道」 第194回

第194回 P L O T (14)
護衛が窓ぎわに飛んできて、ガラリと窓を開き、銃を向けて下を覗いたが、
「うわぁあっっっ・・!!」
途端に、叫びながら窓の外へ放り出された。
宏隆によって、まずは強力なフラッシュライトの光で視力を奪われ、タクティカルバトンで強く手首を打たれて拳銃を弾き飛ばされ、さらに痛みで反射的に押さえた手首を取られて外に放り投げられ、とどめの蹴りを喰らって悶絶したのである。
時間にして十秒も経っていない、迅速な対応であった。
「ちいっ・・護衛のくせに、役立たずめ!!」
男は、もうそこには居ない護衛を罵ると、ソファの裏へ隠れた大佐に、
「キャンベルが来るまで、どうかそのまま動かず───────」
そう念を押しながら、素早くポケットから覆面を出して被った。
覆面は人相を隠すものだが、特殊部隊では暗闇で目立つ顔の白さを隠すのに使われ、加えてスモークの掛かった戦闘用のゴーグルやサングラスを着用すれば、夜間は非常に認識し難くなる。また、眉毛を隠すように深々とニット帽を目深(まぶか)に被るだけでも、人相は容易に認識できなくなる。
だが、そのとき────────
「動くなっ・・ 両手を上に挙げろ!!」
窓枠をひらりと飛び越えて、宏隆が室内に躍り込んだ。
ピタリと、拳銃を男に向けている。
「聞こえないのか、両手を上に挙げるんだ!」
仕方なさそうに、男は言われるまま手を上に挙げた。だが、その仕草には、間近から銃を向けられているような緊迫感がなく、どこかまだ余裕が見られる。
「そのままこっちを向け・・そう、ゆっくりと、だ・・」
宏隆は、その余裕を察知して、用心をした。振り返った男は、背の高い堂々とした偉丈夫で、フィルソン製の、ゆったりとした赤いウールのジャケットを羽織っている。
「左手でジャケットのボタンを外せ、右手は挙げたままだ・・」
男は言うとおりにしている。左手を使わせるのは勿論、銃を抜かせないためだ。
「ゆっくりとジャケットの前を開いて、腋の下を見せろ」
ふっ、と少し鼻で笑い、苦笑するような仕草をして、言われたとおりにする。
「OK、次はジャケットを片方ずつ持ち上げて、腰の後ろを見せろ」
「・・・・・・」
「銃は持っていないようだな。だが、暖炉の火を囲んでコニャックを楽しむのに覆面姿とは随分ミスマッチなことだ。それを外してもらおうか」
「・・・・・・」
「覆面は顔を隠すためだろうが、何も喋らないのは、声を聞かれたくないからか?」
「・・・・・・」
「お前は何者だ? 覆面を外して顔を見せろ、この銃は脅しじゃないぞ!」
「フ・・オマエニ、ヒトヲ撃ツ度胸ガアルノカ?」
初めて口を開いた男は、巧みな声色(こわいろ)を使った。
「ヒトを撃てるのかと、以前にも敵からそんな事を聞かれた事がある。無益な殺生はしないが、生死を懸けた闘いなら容赦はしない。大切な人を守るためなら尚のこと、その覚悟は出来ている・・・だが、そんな声色を使うとは、よほど声を聞かれたくないらしいな」
「・・・・・・」
「では、その覆面を外してやろう。その床に俯(うつぶ)せになれ!」
「・・・・・・」
「早くしろっ!」
男はゆっくりと、暖炉の前の床に俯せになる。
「両手を後ろに回すんだ」
このスタイルは逮捕や拘束をする際の手段として知られているが、俯せにさせられて両腕を後ろに回されると、人は全く身動きが取れなくなってしまう。
宏隆は素早く、床に伏せた男の腿の裏を片膝で拘束し、さらに片膝で片方の腕を拘束しながら、ポケットからハンドカフ(ナイロンベルト型の手錠)を取り出し、男の手に掛けようとしたが、そのとき、
「バンッ──────────!!」
「うわっ・・・」
小さな銃弾がすぐ後ろの暖炉に弾け、その機を逃さず、間髪を入れずに、
「ターンッッ!!」
男が宏隆を跳ね飛ばし、宏隆の手首を蹴って銃を弾き落とした。
「くっ、もう一人隠れて居たのか、不覚・・・」
急いで部屋の隅に飛ばされた銃を拾いに行こうとしたが、男がさらにジャケットの後ろに手を回そうとしたので、
「ええい・・喰らええっっ・・!!」
体当たりをするように素早く組み付き、瞬時に崩して投げ、蹴りで決めようとしたが、
「ダァーン・・!!」
その片足を挙げた途端に、反対に軸足を払われて転がされ、相手が起ち上がった。
「くっ・・・」
「ソコマデダ!・・ソノママ、動クナ────────」
どこから出したか、男はすでに、小さな銃を手にして宏隆に向けている。
「ううむ・・その身の熟(こな)しは一般兵士のレベルではない。様々なところで、かなりの場数を踏んでいるな?」
「大佐、ココハ危険デス、部屋ノ外へ・・」
「・・よ、よし、分かった。すぐにセキュリティを呼ぶ」
男は、まだ銃を構えている大佐にそう言った。相変わらず無味乾燥な声色を使っている。
「後ろのポケットに銃を隠していたな。SIG SAUER(シグ・ザウエル)P230、あのワルサーPPKより軽い、わずか500グラムの小型拳銃か・・確かに、フィルソンの分厚いウールジャケットなら、入っているか入っていないか分からない程度の大きさだ」
仰向けに床に転がった姿のまま、男に向かって言う。
「・・・・・・・」
「そろそろセキュリティが来る頃だな・・だが、僕を捕らえてどうする? ヘレンもここに捕らわれて居るのか?」
「・・・・・・・」
「相変わらず無口だな。それほど顔を見られたくない、声も聞かれたくないのは────────実はボクをよく知っている、ごく身近な人間だからか?!」
「フフ・・ソウトハ限ラナイサ」
「お前たちの目的は何だ? ボクをつけ狙い、ヘレンを誘拐して、いったい何の目的で、何をやろうというのだ?」
ドカドカと、木の廊下を軍靴(ぐんか)で荒々しく走ってくる足音が聞こえる。
「急げ、まだリビングに居るぞ!」
「キャンベル曹長の声だな。少なくとも、彼は僕の敵だという事がハッキリした」
「・・・・・・・」
「コンフェラ、お待たせしました!」
キャンベル曹長がセキュリティを数名連れて部屋に入って来た。男と同じように覆面をつけて、夜でも見える軍用のサングラスをしている。
「あはは・・キャンベル曹長、頭隠して尻隠さずだ。その男みたいに声色でも使わなきゃ、正体が丸分かりですよ!」
「う・・くっ・・・」
宏隆にそんな口を利かれ、キャンベル曹長は動揺した。
「それに、”コンフェラ” ってのは暗号名だな。お前を知る手掛かりになりそうだ、後でじっくり解読してやろう」
「ム・・・・」
男は、暗号名を解読すると宏隆に言われ、少し焦ったように呻った。
「口ノ減ラナイヤツ・・マアイイ、起キ上ガッテ、後ロヲ向クンダ」
ちらりと、蹴って飛ばされた自分の銃が部屋の隅に見える。こうして話している間にも、宏隆は頭の中で細かく計算をしていた────────
(ベレッタまでの距離は約4メートル。身を躍らせてそれを手にできたとして、構えて撃つまでに7秒、いや6秒。そして・・)
「オイ・・妙ナ考エヲ起コスナヨ、マダオ前ヲ撃チタクハナイカラナ」
強かな相手は、その考えを見抜いている。
宏隆は囚われの身となった際の対処法も、さらには脱出する方法も詳しく学んできているが、やはり捕らわれてしまっては、無事に脱出できるかどうかは分からない。
(よし、イチかバチか・・)
「サア、起チアガッテ、言ウトオリニスルンダ」
(これしかない・・)
しぶしぶ起ち上がりながら、パタパタと、ズボンの埃を払うと見せかけた、
その瞬間─────────
暖炉のそばのティーテーブルに向かって、まるで目眩(めまい)でもしたようにフゥーッと柔らかく倒れ込みつつ・・左手でテーブルの上の銀のシガーケースを掴んで覆面の男の顔に投げつけながら、右手でコニャックの瓶を取り、暖炉の中へ勢いよく投げ込んだ。
「うっ・・」
「バァーン────────!!」
「うわああっっ・・!!」
絶妙のタイミングである。ズシリと重い銀のシガーケースが男の顔に飛び、ほとんど同時にコニャックの瓶が暖炉で割れて中身が飛び散り、濃度の高いアルコールが火に引火し、まるで即席の爆弾のように、意外なほど大きな炎が部屋の中ほどまで上がり、暖炉の灰が部屋中にたちこめて舞った。
宏隆はもう既に、部屋の隅で自分の銃を手にしている。
敵はこの予想もしない出来事にうろたえ、舞う灰で一瞬、宏隆の所在もわからない。
「ふっ・・忍法火炎の術、&忍法灰神楽(はいかぐら)、ってヤツだな!」
「つ、捕まえろ─────いや、銃だ、きっと銃を取ったぞ、気をつけろ!!」
「へん、遅いやいっ・・・バン、バン、バン、バンッッ!!」
「ぐわぁっ・・! 、うぐっっ・・!!」
ドアから入ったばかりの護衛が二人、その場に蹲(うずくま)った。
拳銃を取った宏隆が、奧のソファの陰に隠れて、そのまま起き上がらず、床スレスレに相手の脚を撃ったのだ。
「ダン、ダン、ダァーン!!」
「馬鹿者ッ!無暗ニ撃ツナッ、撃ツンジャナイ!、殺シタラ何モナラナイ!!」
思わず護衛が撃ったのを、男がそう窘(たしな)めて射撃が止んだが、
そのとき──────────
「ビビイィーッッ!!・・ヒロタカ、伏せてっ!」
宏隆の胸の小型無線器から、呼び出し音に次いで日本語の声がし、同時に、
「ヒュゥーウ・・・ボムッ!!」
何かが遠くから発射されるような音が聞こえ、その直後に煙が部屋の中で弾けた。
「うわああっ───────!!」
「さ、催涙ガスだ、部屋を出てドアを閉めろ、大佐を守れ!!」
「お、もっけの幸い・・宗少尉!」
もともと自分がそこから入って来た、開いたままの窓である。宏隆は素早く身を翻して外へ飛び出し、そのままガレージへと走った。
「ヒロタカ、大丈夫?・・状況は?」
無線から宗少尉の声がする。
「無事です。ガレージでアシを確保、すぐ脱出の予定!」
「Roger、途中で私を拾って」
「Copy that ・・!」
ガレージの、表の大きな出入り口を軽々と蹴破って扉を開ける。
さっきここに侵入した際に、そっと内側のカンヌキを外し、代わりに細い木切れを嵌めておいたので、蹴破るのはわけもない。
扉から最も近い所に置いてあるランクルのパーキングヒーターを外し、素早く運転席に乗り込んでエンジンを掛ける。さっきガレージに侵入したときから、宏隆はこのような状況を想定してたのだろう、手回し良く、すでにキーまで挿し込んである。
「おお、流石はFJ40、すごいエグゾーストノート(排気音)だ。よっしゃ、行くぞ!!」
「ダンッ、ダンッ、ダァーン──────!!」
「おっとぉ・・・!」
ガレージから飛び出したランドクルーザーに、すぐ追っ手が迫り、タイヤを撃とうとして狙うが、
「グォーッッッッ!!」
「うわぁっっ・・・」
宏隆の容赦ない運転に、簡単に蹴散らされてしまう。
「に、逃がすなっ、生け捕りにしろ!」
「はははは、鬼サンこちら、ってか・・・ニッポンが誇るランドクルーザーに付いて来られるかな?」
「手分けして追うぞっ、全員、クルマに乗り込めぇっ!!」
「イエッサー!」
セキュリティたちが2台のクルマに素早く分乗したが、
「カチッ・・カチ、カチッ・・・」
「あ・・あれっ・・?」
「なんだ、モタモタするな、早く行け!」
「お、おかしいな・・・」
「何をやっている? 逃げられてしまうぞ、エンジンを掛けるんだ!」
「それが、ウンともスンとも・・ちっとも掛かりません」
「ええい、なぜだっ? 原因は分からんのかっ!」
「はっ・・すぐボンネットを開けてみます」
「ええい、バカめっ!・・な、何だ、そっちのクルマも動かんのかっ?」
降りてきて、もう一台の車の方に行くが、
「動きません、ヘンだな・・・」
「キャンベル曹長、エンジンルームの中も、特に異常ありませんが」
「そんなバカな事があるか、動かないのは何か原因があるからだっ!」
「燃料もあるし、バッテリー容量も充分だが・・」
「そうだな、コードも切られていないし・・」
「く、くそぉ・・まんまと、あの小僧にしてやられたな!」
悔し紛れに、キャンベル曹長は傍のドラム缶を思い切り蹴っ飛ばした。
「ええい、原因が分かる者はいないのか、大至急メカを呼べ、メカニックだ!!」
密かにガレージに侵入した宏隆がボンネットを開けて細工をしたのは、ディストリビューター(配電分配器)という装置である。
ディストリビューター(distributor)は自動車の点火装置で、エンジンの各気筒の点火プラグに電流を分配する役割を持つ。装置のキャップを開けるのは容易で、中にはローターと呼ばれる、イグニッションコイルで発生した電圧パルスを、エンジンの回転と連動して分配する回転子が入っている。
宏隆はガレージの作業で、ランクル以外の車のディストリビューターのキャップを外し、中のローターを取り払ってしまったので、どうやってもエンジンは掛からない。
そしてそれを外されても、ただ単にエンジンルームを見渡しても、わざわざディストリビューターのキャップを外して見なければローターの不在には気付かないし、そもそも、そんな細工をされているとは、想像すらつかないのが普通であろう。
そして言うまでもなく、ランクルFJ40にだけ細工をしなかったのは、それを自分の脱出用に使うつもりであった故である。
宏隆は玄洋會の訓練で、そのような知識を得ていた。至って簡単なその作業は、驚くほど短時間で出来てしまうので、敵地から脱出の際には大変有効であることは、この場合の敵の狼狽ぶりを見てもよく分かる。このテクニックは、異国で予めクルマを盗まれないようにする事にも使えて便利である。
「はははは!・・追ってこないところを見ると、誰もあのマジックが見破れないらしいな。銃だけじゃなく、もっとよくクルマの構造を識らないとダメだよね、ほんと・・」
「ヒロタカ、ここよ!」
「宗少尉────────!!」
しばらく走った処で、雪の中から白いカムフラージュを着た宗少尉が手を振る。
「ありがとう、おかげで脱出できました」
「お礼はあとよ、無鉄砲さん。何となく胸騒ぎがしたから来たけど、来なかったらどうするつもりヨ、もう!・・・まあ小言は後にして、先ずはクルマに行って乗り替えましょう」
「アシがつかないように?」
「そういうコト」
「勿体ないなぁ、やっと憧れのランクルに乗れたのに」
「ダァーン、ダァーン・・・・!!」
「うぉっとっと、やばい、やばいぞ・・・」
フロントガラスのすぐ前に被弾し、慌ててステアリングを切ったので、クルマは少し横滑りをした。
館を出て外の広い通りに出るには、森をグルリと迂回して行く一本道しかない。
そのためには一度だけ、まるで逆戻りをするように、館にほど近い辺りを通過することになる。敵はそれを見越して、宏隆たちが来るのを待って、撃ってきたのだ。
「こりゃあ、怒り狂ってるな。車に細工されたことへの腹癒せもアルな」
館の二階の窓からライフルで撃ってくるが、宏隆たちを殺さずに威嚇して捕らえる、という気持ちがあるのか、狙っているのはタイヤの辺りで、なかなか中らない。
「すぐに追っ手が来るわ、急いで!」
「大丈夫、クルマはそう簡単に動かせませんよ」
「ローターを外したのね」
「ご名答。しかしまあ、何度もこの辺りを逃げるコトばかりだね・・」
「バカ言ってないで急ぎなさい、追いかけてくるのは車とは限らないわよ!」
「ダンッ、ダァーン、ダァーン!!」
「うわっ、こんなに離れてるのに!・・良い腕だな、誰だろう?」
正確に、タイヤを狙って、すぐそばに弾丸がはじける。宏隆は凍て付いた雪の路でステアリングの切り方や速度を一定にしないよう、巧みに運転をしている。
「ダンッ、ダンッ、ダンッ・・!!」
宗少尉が負けずに右側の窓からライフルで撃ち返し、館の窓ガラスが割れる音がするが、すでに敵の姿はない。
「ああっ・・・?」
何を思ったか、突然宏隆がスピードを緩めた。
「どうしたの? 止まらずに急ぎなさいっ!」
「ヘレンが・・・」
「ヘレン?」
「ヘレンが、あそこの・・キャンベルの居た隣の窓に、見えたような・・」
「ダンッ、ダンッ、ダァーン──────!!」
「わわっ・・また撃ってきた」
「今度はライフルじゃないわ、4時の方向、スノーモビルの新手(あらて)よ!、ヘレンを確認しているヒマなんかないわよ!」
「よ、よっしゃ・・」
「ダメ、少しスピードを落として!」
「え・・急げって言ったばかりでしょ」
「いいから、あのスノーモビルに追い付かせるのよ」
「OK、このくらいかな・・・お、だんだん追い付けてきた」
「こっちの思うツボよ・・それっ!」
宗少尉は胸に提げた黒い塊を外し、ピンを抜いて窓から後ろにポイと投げ捨てた。
「ドオォーンッッ────────!!」
「うわあああっっ・・・!!」
ルームミラーに大きな雪煙が見える。
「はい、片付いたわよ」
手榴弾は、昔も今も、軍隊に於いては最も基本的な歩兵の武器であり、どのような国の歩兵もライフルと投擲弾の訓練は念入りに学ぶことになる。
「え・・死んだワケじゃないよね?」
「やれやれ、相変わらず敵を心配してあげるのね。大丈夫よ、スタングレネードだから爆音と閃光で運転不能になってひっくり返っただけ」
「だって、僕らを殺そうとしているワケじゃないし」
「今のところはね・・だけど、捕らえられて、何処かへ連れて行かれてからは、どうなるか分かったモンじゃないわ。お優しい心だけだと、いつか敵に酷い目に遭わされるワよ」
「・・・・・・・」
「ストーップ!・・ここよ、すぐクルマを乗り換えて」
「ここって・・クルマなんか何処にもないけど?」
「よく見て。ほら、すぐそこ。ヒロタカの目の前にあるわ」
「あっ・・」
宗少尉が乗ってきたフォード・ブロンコ・レンジャーには、真っ白なカムフラージュのシートが掛けられ、さらにその辺りの草木を所々に被せて擬装している。
タイヤの跡は、再び降ってきた雪に消され、そこに駐めた事が容易には分からない。
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第195回の掲載は、3月15日(水)の予定です
2017年02月15日
連載小説「龍の道」 第193回

第193回 P L O T (13)
ガサリ──────と薮を分ける音がして、雪に埋もれた森の中から、白いカムフラージュに身を包んだ男が静かに出てきた。
たった今、館(やかた)から追って来た二人のセキュリティ・ガードが立ち去ったばかりの場所から、ほんの数メートルのところである。宏隆は彼らのすぐ傍に潜んでいた。
三頭の番犬に後(おく)れてやって来た男たちは、催涙スプレーを受けて惨めに繋がれている犬たちを発見したが、森の向こうに走って行く車のヘッドライトを目撃し、さらにその方向へ向かう真新しい足跡を見つけて、侵入者は去ったものと思い込んで、行方不明の同僚を探しに出かけた。
しかし実は、宏隆はその場から離れてはいなかった。立ち去ったと思えた足跡は、訓練で学んだとおりに、彼らの目に付きやすい所に、わざとそう見えるように付けたのだ。
「・・さて、行くか、チャンスは今しかない」
そう呟(つぶや)いて、宏隆は彼らとは反対の方向に歩き始めた。
行方が判らなくなった仲間を探すため、警備の男たち二人が館を離れ、番犬も居ない。
しかも彼らは、宏隆たちがこれ以上襲ってくる事はないだろうと考えている。敵の本拠は人数も手薄で、気持ちも弛んでいる。館を探りに行くのに、これほどのチャンスは無い。
「宗少尉との待ち合わせまで、あと2時間か。Walmart(ウォルマート)まで、急いで行けば40分くらいだが、残された時間はわずかだ。急がなきゃ・・」
凍てつく針葉樹の森を歩き、何の問題もなく館の前までやってきたが、何を思ったか、宏隆はふと、本館と少し離れた所にあるガレージに向かった。
大きな倉庫のようなログキャビンのガレージには、もう警備の人影もない。監視カメラは表側の、車の出入り口にしか無いので、裏口の小さな扉の鍵を開けて、そっと中に忍び込んだ。
鍵を用いずに錠を開ける行為をピッキングと呼ぶが、専用の道具を使って何度か練習をすれば、プロの泥棒でなくとも、一般的なピンタンブラー錠なら誰でも簡単に解錠できる。
学生寮で宗少尉がやったようなピッキングは宏隆も訓練してきている。敵地で侵入や脱出をする際に、たった一枚のドアのカギが開かないために身動きが取れないのでは哀しいからである。
西欧のガレージは元は馬小屋や納屋からの転用で、一般家庭同様、ここも壁際の棚から収納庫、ロフトに至るまで、様々な工具から野球のバット、ロープやシート、バケツに壊れた椅子など、実にいろいろな物が雑然と置かれている。
車は三台あるが、目に付くのはどの車にもナンバープレートの辺りに短いケーブルが付いていることだ。
これはエンジンヒーターで、駐めている間にエンジンが凍結しないよう、電気でエンジンを温めておく装置だ。冬季はバナナで釘が打てるという、ー40°Cの極限の寒さが襲うアラスカでは、クルマを戸外に放置すると1時間もしないうちにエンジンが見事に凍りつく。
アラスカやカナダのスーパーやレストランの駐車場には、どこでも駐車台数分のヒーターのコンセントを付けたポールが設置してあって訪問者を驚かせる。
「へえ・・アラスカで、緑のリンカーン・コンチネンタルか」
フラッシュライトの光が外に漏れないよう気を遣いながら、一番奥にあった大型の高級セダンを照らし出した。
「まあ、排気量が7.5リットルもあるどデカいアメ車は、広大な大陸を走り回るのには便利なんだろうな・・お、こっちはジープ・チェロキーか。こいつもV8・5.9リッターの大排気量。外見はのどかな大型ワゴンだが、中身はネコ科の動物のような高性能SUVだ。きっとアラスカの原野をどこまでも走って行けるんだろうな・・さて、残った奧のヤツは?」
裏口から入って来た宏隆から見れば最も奧になるが、ガレージの出入り口に一番近いところに、背の高い箱型のクルマが置いてある。
「うぉお、こりゃランクルじゃないか!、それも3.9リッターのFJ40V、125馬力・29キロのトルクだ!、あまり需要のない日本じゃ85馬力のディーゼルしか無いが、こいつはチェロキーやランドローバーと並ぶ、世界に名高い四駆だ。乗ってみたいなあ!!」
クルマ好きの宏隆は、赤いフィルターのライトに浮かび上がった憧れのトヨタ・ランドクルーザー40(ヨンマル)に興奮して、思わず敵地に居ることを忘れそうになったが、
「おっと、いけない、いけない・・早いこと片付けなきゃ」
自分にそう言い聞かせると、先ずリンカーンのドアを開け、大きなボンネットをそっと開けると、エンジンルームの中を覗き込んで、何やらゴソゴソといじり始めた。
ドアの鍵は掛かっていないので、ボンネットは簡単に開けられる。
ガレージに置かれた車は、大概はドアが開いているし、キーも付けっ放しか、近くの壁のキーボックスにまとめて置いてあるものだ。もしそこにも無ければ運転席のマットの下か、窓のサンバイザーの裏を覗けば必ずキーが見つかる。家の鍵でさえ、玄関マットの下かすぐ横の植木鉢に置いてあることが多いのである。ウェスタン(西洋人)は皆そうする、と宏隆はアラスカ大学の友人に教わっていた。
「さて、もう一台、っと・・」
隣のチェロキーも、同じようにボンネットのフードを開けて覗き込み、何かをいじっていたが、ほどなく、音を立てぬようにそっとフードを閉めて、ガレージを出た。
「─────フレッドは、まだ見つからないのか?」
いかにも苛立った顔で、その気持ちをぶつけるように、太い葉巻の頭をスパッと、まるでギロチンのようにシガーカッターで力強く切って落としたので、傍らで控えていた従者はビクリとした。シガーカッターの仕組みは、確かにギロチンを想わせる。
「イ、イエッサー・・先ほど、そのように無線の連絡がありました。三頭の番犬たちをあしらった侵入者は、こちらの警備が厳重になると察して、早々に車で引き揚げたようです」
同じ従者の立場であり、カーネル(大佐)のボディガードでもあるフレッドは、キャンベル曹長のパートナーだったヤンという学生を始末しに外へ出たまま、未だ戻ってこない。
ちょうど侵入者の騒ぎがあったのとほぼ同時だったので、彼は同僚の安否を気遣っていた。
「ふむ、そうか・・・」
憮然とした表情のまま、暖炉の前で長いマッチを擦り、太いシガーの先端を回しながら、その角を炙るようにゆっくりと火を着ける。
如何にも屈強そうな従者は、直立したままじっとその作業を見ている。主人がそれを行う仕草は何度見ても美しく、自分には真似が出来ないと、彼は思う。愛著(あいじゃく)を持つ嗜好品への、それは厳粛で神聖な儀式のようなものであるのだと、彼には思えた。
「キャンベル君、逃がした侵入者たちは何者だったか、判ったかね?」
「おそらく・・」
再びその部屋に戻ったキャンベル曹長が、直立したままで答える。
「ソルジャー・カトーと、台湾玄洋會の Secret Agent(特務工作員)と思われます」
「ふむ、予定どおりに出現した、ということだな」
「そのとおりですよ、大佐───────彼らは次の機会にこの館に忍び込んで、ヘレンが捕らわれて居るかどうかを、確かめようとするはずです」
暖炉の前で葉巻を燻(くゆ)らせている大佐のすぐ隣のソファで、まるで客人のように、足を組んで寛いで座っている男が口を開いた。
「君の思惑どおりだな。だが、その際に君が居ては何もならないぞ。まだ君の正体を知られるわけには行かないからな。しかし、まさか今夜、再びここに現れるのではなかろうな」
「戸外(そと)はマイナス30℃もあります。訓練を積んだ人間でも、そう何時間も潜んでは居られません。それに、さっきキャンベル君に気付かれて撃ち合いになり、我々に追われる立場となったので、今夜のところは引き返すのが常道というものです」
「つまり、此処でこうして私と共に寛いで居ても、心配は無いと言うのだな」
「もしご心配なら他の部屋に隠れるか、ホテルに引き揚げますが、私が彼らの立場なら今夜は出直すところです─────そう思わないか、キャンベル曹長?」
「イエス、私も同じ意見です。侵入者が二人だけなら、多勢に無勢で、なおさらでしょう。さっきは単なる偵察に来ただけでしょうし」
「分かった─────だがこの館はいま、警備が手薄だ。キャンベル君は引き続き警戒の指揮に当たってくれたまえ」
「イエッサー、外の者と連絡を取りながら、館の警備を万全にします」
「ご苦労だな、交替しながら温かい食事を取るといい」
「サンキュー、サー!」
そう答えながら、キャンベル曹長はチラと、大佐の隣に座っている男に視線を向けたが、すぐに踵を返して急ぎ足で部屋を出た。
「さて・・まあ飲みながら話そう。君はスコッチが好みか、それともコニャックかね?」
「コニャックを戴きます。この館のコニャックは、さぞかし極上でしょうから」
「それほどでも無いが、Daniel Bouju の Empereur XO、25年物で、こいつはやたらとシガーとの相性が良いので、切らさず置いてある」
「ほう、ダニエル・ブージュのエンペラーですか。近ごろ流行の、名ばかりのコニャックとは一線を画す、砂糖も色着けのカラメルも使わない、まだコニャックがコニャックらしかった頃の味わいを手間暇をかけて造り出した本物─────それを嗜まれる大佐は、まるでかつてのフレンチ・ブルジョワですな」
「酒にも詳しいな。ブルジョワを気取るつもりはないが、ソムリエに言わせると、シャトー・ラトゥールの '61年を供した食事の後に、このコニャックをディジェスティフ(食後酒)として飲むのがお勧めということだ。加えて、極上の葉巻があれば何も言うことがない・・」
「さすがに、銃撃戦の後の硝煙の臭いがまだ残る館で、'61年のシャトー・ラトゥールを飲むのは勿体ないでしょうから、フランス料理はまた次の機会として、今宵はカーネルに相応しい、エンペラーという名のコニャックを戴くことにしましょう」
「ははは、君はお世辞が上手だな・・さ、この中から、好きな葉巻を選ぶといい」
大佐は起ち上がって、デスクの上からひと抱えもある箱を取り、その男に渡した。
「おお、流石は本物のシガー愛好家、立派なヒュミドール*ですな。蓋に日本の蒔絵のような細工で描かれているのは煙草の葉でしょうか。鍵まで付いているのですね」
「厳しい気候のアラスカでは、ニューヨークに増してこれが必要になってくる」
【註*:ヒュミドール(humidor)とは、葉巻煙草の乾燥を防ぐための保湿保存箱。持ち運び用は革製が多いが、室内用は分厚い木製の箱で機密性が高い。内部には湿度計と加湿装置が付き、優れた製品は半永久的にシガーを最良の状態に保つ。上質な葉巻が好む環境は、温度が18〜20℃、湿度は約70%で、空気がほんの少しだけ流れる場所とされる】
「そうだ、これを君にあげよう────────」
その立派なヒュミドールが置かれていたデスクの上から、銀色のチューブのような物を取って、その男の前に置く。
「何でしょう・・?」
「一本用の、外出用のシガーケースだ。我々のシンボルが刻印されている」
「拝見します・・おお、ズシリと重い、銀製の見事な特注品ですな。あなた方のエンブレムが丁寧に刻まれていて・・しかし、こんな貴重な物を頂くわけには行きません」
「いいから取っておきなさい。私たちの良き協力者となってくれた記念だよ。今度はぜひ私の上座(じょうざ)の人間にも引き会わせよう。その時にそれを持ってくると良い。相手はそれだけで、きっと君への信頼が増すに違いない」
「ありがとうございます・・では、遠慮なく頂戴します」
「今日の記念に、そのヒュミドールの中から気に入ったシガーを選んで、そこに入れておきなさい」
「では、これを・・・」
「ほう、なかなか目が高いな。どうしてそれを選んだのだ?」
「私はシガーの素人ですから、ただの直感ですよ」
「ならば大した直感だ。君が手にしたのは Cohiba Siglo ll(コイーバ・シグロ・2)、それほど高価ではないが、豊かさと複雑な風味が交わり合い、珈琲や大地のフレーバーが感じられる、知る人ぞ知るトップクラスの葉巻だ」
「素晴らしいですね。しかしこの特別なシガーは、一体いつ吸えば良いのですか?」
「心から寛ぎたい時や、充分に満たされたとき、あるいは──────」
「・・あるいは?」
「明日は命懸けの戦場に出る、という夜に、独り喫するのだ」
「なるほど・・ならば私は、いつ吸っても良いと言うことになりますな」
「ん?、なぜかね」
「私の人生は絶え間なく、常に戦場に在るからです」
「ふむ、好い言葉だ。ますます頼りになる気がしてくるな、君は─────」
「畏れ入ります」
「わはははは・・」
「ははははは・・・」
「さあ、コニャックを開けようか」
「嬉しいですな、これで私も、にわかブルジョワジーです」
「それは良かったな、わはははは・・・」
「あははははは・・・」
「───────うぅむ、寒冷地用の二重の窓だから、中の声が聴き取りにくくて、何を喋ってるのか、まるで分からないな」
暖炉の火が揺れる光が窓から漏れるのを見て、宏隆はそこに集う人間たちを探るために、そっと近づいてきていた。この場所をチェックする見廻りの間隔は7分以上で、つい今しがた警備要員が寒そうに通り過ぎたばかりである。
「・・オマケに壁はぶっとい丸太ときてる、こりゃぁ集音器が必要だな」
だが、その窓から漏れる高らかに笑う声を聞いて、宏隆は驚いた────────
「えっ・・いまの声は?・・・ま、まさか?!」
聞き覚えのある声であった。宏隆は急いで腰からタクティカル・バトンを抜き、そこに丸いミラーを装着した。窓から部屋の中を見るためである。
タクティカル・バトンとは日本で言う特殊警棒のことであり、宏隆は拳銃やナイフと共に、FBIや警察官が用いているASP製のバトンを装備している。バトンの先端には、隠れたまま敵の状況を確認するための、直径7.6cm、重さ18gのプラスチック製のミラーがワンタッチで装着できる。
そのバトンの先端のミラーを、そっと窓のところまで持ち上げて、談笑する声の主を確認しようとしたが────────
「むっ・・何だ、いまの光は?!・・だれか窓の外に居るぞ!!」
大佐と親しげに話をしていた男が、険しい表情で叫んだ。
「・・な、何だと?」
思わず、大佐も起ち上がろうとしたが、男に制されて、
「大佐っ、椅子の陰に隠れて!・・ガード(護衛)っ、その窓を開けて外を確認しろ!!、無線でキャンベルを呼べっ!!」
「はっ─────!!」
立って控えていた従者が、腰の銃を抜いて窓際へ走る。
「し、しまった、光が反射したか・・?!」
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第194回の掲載は、3月1日(水)の予定です
2017年02月01日
連載小説「龍の道」 第192回

第192回 P L O T (12)
複数の犬の吠える声が、だんだん近づいて来ている。
「イヌか・・ちょっと厄介だな」
歩みを止めて、宏隆はちょっと顔をしかめた。一匹ならともかく、何匹もの犬に襲われたら厄介に決まっているし、銃を撃てばこちらの居所が敵に知られてしまい、宗少尉と分かれて独りで屋敷を探ろうとする意味がなくなる。
小型犬の人気や手軽な防犯設備が普及されたゆえか、近ごろはめっきり”番犬”という言葉を聞かなくなったが、訓練された犬は非常に勇敢で、なまじのボディガードなどよりも遥かに頼りになる存在である。
訓練された犬は敵味方を見分け、武器の所持まで判断してしまう。ゴツい体の格闘家だろうがプロレスラーだろうが、体重40キロ程度の軍用犬(MWD=Millitary Working Dogs)が牙を向き出して襲い掛かってきたら迎え撃つのは容易ではない。下手をすると首や鼠蹊部を噛まれて死に至ることも有り得るし、銃でもあれば兎も角、ナイフや棍棒などの武器を持っていても、あまり役に立たないはずである。
警察犬や盲導犬、麻薬探知犬や災害救助犬などは有名だが、一般人にあまり知られていない軍用犬は、特別な訓練を受けた頼れる兵士の一員として、千年もの昔からあらゆる戦闘地域で重宝されてきた。
特殊部隊に抱えられて共にパラシュート降下をし、ヘリコプターで吊り下ろされ、時には眼にゴーグル、顔にはガスマスクを装着し、敵地にあっては偵察、襲撃、追跡、98%の成功率を誇る地雷や爆弾の探査、前戦キャンプの見張り番から、過酷な環境を強いられる兵士の良き友人としてセラピー役までこなす軍用犬は、誠実で有能な相棒なのである。
軍用犬の歴史は米国より日本の方が古いが、第二次大戦中のハワイでは、日本やドイツの工作員上陸に備え、五千頭もの軍用犬が海岸線の夜間パトロールに充てられた。
湾岸戦争、ソマリア、イラク、アフガニスタン戦争など、現代の戦争に於いても多くの軍用犬が投入されており、どこの国でも軍用犬の訓練には力を入れている。また、特殊部隊のでは敵地で軍用犬と遭遇することを想定に入れた訓練も行われる。
「犬が居たとは思わなかったな。しかし、今ごろノコノコ登場してくるのは、軍用犬の払い下げじゃない証拠だ。民間の警備犬なら、複数でも何とかなるか・・」
何かを思いついたようにそうつぶやき、来たルートを少し戻って、剥き出しの岩が壁のように立ち塞がった場所まで来て、その岩の前の10畳ほどの広さに開けた地面を、しばらく行ったり来たりしていたが、やがて立ち止まって、
「よし、これくらいで良いだろう──────」
そう呟(つぶや)いて岩場の裾に腰掛け、何のつもりか、片方の足だけ靴紐をほどいて靴下を脱ぐと、素足のまま靴を履き直し、そこらにあった長さ1.5メートルほどの木切れを旗竿のように雪の地面に突き刺して立て、まるで何かのマジナイのように、脱いだ靴下をその先端に被せた。
激しく吠える声が、さらに近づいてくる。
「あと2分もすれば、此処にやって来るな」
傍で見ていたら、誰もがその奇妙な行動に首を傾げるに違いない。
だが、宏隆は掲げた靴下をそのままにして、ファーストエイドのポーチからアルコールの消毒液を出し、靴と手袋の全体によくスプレーすると、後ろの岩壁を2メートルほどよじ上って反対側に身を隠し、近づいてくる鳴き声を待った。
「ワンワン、ワンワンワンワン・・・!!」
ついに三匹の犬が宏隆の足跡を追ってやって来た。ツヤの良い黒いボディは90センチ、体の高さは70センチ近くもありそうな大型犬だ。
鼻を地面に擦りつけるようにして、臭いを嗅ぎ分けながら、どんどん近づいてくる。
犬の嗅覚の能力は、動物性の臭いと危険を感じ取るために最も多く使われている。犬たちは宏隆が潜んでいた森に遺された足跡の臭いを元に、宏隆を追跡してきたのだ。
犬たちはしばらくの間、岩の向こう側で宏隆の足跡を散々嗅ぎ廻っていたが、やがて木切れの先に着けた靴下にも自分たちが追いかけてきた臭いがあるのを発見して、三匹ともぐるりとそれを取り囲むようにして見上げ、各々に鼻を上に向けて臭いをかぎ始めた。
だが、そのとき・・・
「それっ────────!!」
その大きな岩の上から宏隆の右手が伸びたと同時に、強力な霧のスプレーが勢いよく犬たちの鼻先に向けて発射された。
「キャーン!!・・キャイン、キャイン・・・・!!」
前足で鼻や目を擦ったり、そこらの雪に頭を突っ込んだりして、例外なく泣き叫びながら激しくのたうち回っている。宏隆が発したのは強力な催涙スプレーであった。
犬の目は構造的に人間よりも異物が入りやすい。そして宏隆が用いた催涙スプレーは唐辛子の成分を主とするため眼と鼻に利きやすく、鼻腔の嗅細胞が人間の4倍もある犬にとっては、催涙スプレーの強烈な臭いも刺激も4倍となるに違いなかった。
犬の嗅覚は人間の百万倍から一億倍と言われているが、全ての臭いに対してその働きがあるわけではなく、発汗時に発生した揮発性脂肪酸に対して最も良く働く。それゆえに警察犬は犯人の汗の臭いを元にしてその足取りを追い、居場所を突き止めたり犯人を特定したりすることが可能となるのである。
足から出る汗はエクリン腺という汗腺から分泌されるが、汗臭いと言っても汗自体は無色無臭で、99%が水分、残り1%は塩分であり、汗そのものに臭いがあるわけではない。
臭いの原因は、汗と共に流れ出た古い皮質や角質を皮膚の常在菌がエサにするためで、それが極端になれば、誰でも足許から熟したブルーチーズや納豆、生ゴミのような臭いを発することになる。
わざわざその辺りを歩き回り、さらに靴下を脱いで立てた木切れの先に被せたのは、犬たちの意識を一点に集中させる工夫であり、さらに靴や手袋にアルコールをかけて消臭することで、犬が追跡してきた臭いを消し、岩の裏側に身を潜めた宏隆の所在を容易に辿れないようにしたわけである。
では、建物からわずか100mほどの所に潜んでいた宏隆たちが、嗅覚を誇る番犬たちに気付かれなかったのは何故だろうか。
犬にとって嗅覚とは、獲物を探したり物を識別するための重要な感覚で、軍用犬一頭の警備範囲は半径3〜4kmとも言われているが、実は犬の嗅覚は遠くまで感知できるわけではなく、実際にはわずか1メートルから3メートルの範囲でしか対象を嗅ぎ分けられない。
さらに、優れた嗅覚を実践できるようになるには相応のトレーニングが必要であり、7ヶ月の訓練を受けた軍用犬でも、3歳を過ぎた頃からはめっきり能力の衰えが目立ち、9歳からは聴力も弱ってくる。この場合の民間の警備犬たちが現役として十分使えるかどうか、どれほどの訓練を受けてきたかどうか、宏隆には少々疑問に思えたのだった。
「勘弁しろよ、欺(だま)して悪かったな。3時間も経てば楽になるからな・・」
岩の上からその様子を見下ろしていた宏隆が、ちょっと済まなさそうに言った。
が、その途端────────
「ガォオッッッ!!」
しきりに前足で目鼻を拭っていた一頭の犬が、大きくジャンプをして岩に飛び上がり、宏隆に襲いかかった。
「うわぁあっっっ・・・!」
思わず宏隆は岩の上から転げ落ちたが、犬も同時にそれを追いかけて襲ってくる。
犬は通常、高いところに向かって攻撃をすることはない。もし襲われたら、先ずは車の屋根でも、塀の上でも、何でも良いから高いところに逃げるという事を覚えておくべきだ。
しかし、軍事訓練をされた大型犬は150〜170cmの高さの障害物を難なく飛び越えてしまうし、自分より高い所にいる敵の腕にもジャンプして噛みついてゆく。
あまり催涙スプレーの被害を受けていなかったのか、あるいは嗅覚に次ぐ優れた聴覚で、岩の上に居る宏隆を見つけたのか──────犬の聴覚は人間の4倍、視覚はあまり発達していないが、動体視力は抜群で、視野も250度と人間よりはるかに広く、このような暗闇でもわずかな光で活動ができる器官が備わっている。
この場合、彼ら番犬にとっては、主人の命令で足跡の臭いを追跡してきた途中で、思わぬ邪魔をしてきた外敵に出合った、という感覚だろうか。
ともかく、宏隆を外敵として認識した犬は、猛烈な反撃を返してきた。
「くぅうっ・・な、なんて強いチカラなんだ!!」
襲ってくる首を押さえつけようとしても犬は攻撃をやめず、地面に寝転がったままの宏隆を起ち上がらせることなく、さらに噛みつこうとして襲い続けてくる。
体重が40キロを超える軍用犬の主流、真っ黒なジャーマン・シェパードである。
普通の人が襲われたら、ひとたまりも無いだろう。
片方の目は催涙スプレーの所為でひどく涙が出ている。若くはないが、にも拘わらず牙を向き出して宏隆を襲い続けるのは、かつて厳しい訓練を受けた犬かも知れない。
「ガウゥウウ・・ガゥルルルル・・・!!」
争って揉み合い、ついにその大きな口に備わった牙が、ガブリと宏隆の左腕を捉えて噛みつき、頭部を強く振り回そうとしながら、そのまま離そうとしない。
だが、宏隆は落ち着いて右手を腰に伸ばした。
犬の筋肉は人間が想像するよりも遥かに強く、体力も持久力が発達していて疲れにくい性質を持っている。猫族のチーターが瞬発力を活かして素早く走って獲物を狩るスプリンターだとすれば、オオカミから分かれた犬はマラソンランナーのように長い時間を掛けて獲物を追い、相手が疲れて逃げられなくなったところを捕らえる。狩猟方法の違いは筋肉の組成が異なるからである。
「ガツンッッ──────────!!」
「キャイーン・・・!!」
だが、大きく悲鳴を上げながら、ようやく噛んでいたその牙を離した。
宏隆が腰のベレッタを抜いて、銃床で犬の鼻筋を強かに殴ったのだ。
万一、犬と闘う羽目になった時の為によく理解しておかなくてはならないのは、犬の武器は牙しかないという事実だ。犬に襲われたら噛みに来た牙を避けるか、何かを噛ませておいて反撃するしかない。襲われても防御に専念しているだけだと、さらに興奮して必ず首を噛みに来る。
また、複数の犬に襲われたときは、一頭に噛みつかれて怯んでしまうと、これ幸いと他の犬もどんどん襲ってくる。これはオオカミと同じ習性である。
そして犬自身も、相手に喉元を噛まれたり喉を強く掴まれたりすると、自分の負けだと認識する習性があるらしく、喉への強い攻撃や急所である鼻筋への打撃を非常に嫌がる。
今は宏隆が、重さ1kgの鉄の塊・愛用の銃 M92で殴ったのだから、犬もたまらない。
動物は相手に敵わないと認識すると逃げに入るもので、案の定、宏隆に殴られた犬もそのまま何処かへ走り去った。
「ふう、やれやれ・・向かって来たのが一頭だけで良かった」
腕に巻いたタオルを解いてみると、その下の上着には牙の穴が空いている。
犬に襲われるのを想定して、近づくのを待ちながら、予め左の前腕にタオルを巻き付けておいたのは正解である。着用した軍用グローブは勿論だが、腕にもケブラー繊維でできた防刃プロテクターを着けているので、牙は皮膚まで通ってはいない。
「そろそろ屋敷の人間たちがやって来る頃だ、あまり時間が無いな」
目と鼻をやられて、まだ苦しんでいる2頭の犬の首輪に素早くロープを通し、立木に括り付ける。これで犬が回復しても、取りあえず自分が追われることはない。
だが、早く屋敷の様子を探らなくてはならない。さてどうしたものかと、宏隆は少し思案していたが、すぐに人間の声が聞こえてきたので、行く先を悟られないような歩き方で、わざと足跡を遺しながら、そっとその場を離れた。
「・・おいっ、犬たちがやられているぞ!!」
「やはりあの鳴き声はそうだったか。銃で撃たれたか?」
「いや、目や鼻を雪に擦りつけて苦しんでいる。これは催涙スプレーだ」
「当分使い物にならんな。おまけに樹に括られて・・ええい、番犬のくせに!」
「もう一頭はどうした?」
「恐らく、どこかに斃(たお)されているか、逃げて行ったか・・」
「相手は相当腕が立つ者たちのようだな。オレなら敵地でこんな見事に犬をあしらうことは出来ない。向かってきたら思わず銃で撃ちたくなるところだ」
「確かにそうだ。だが奴らはいったい何処へ消えた?」
「さっき森の向こうにヘッドライトが見えた。此処にまだ新しい足跡があるが、こいつもその方向に向かっている。そのまま立ち去ったのかも知れないな」
「この騒ぎになる前に外へ行ったフレッドも、まだ戻ってこないぞ」
「ああ、ヤンとか言う小僧の始末をしに出たまま、無線にも出ない──────」
「これだけ犬が騒いだあとだ、我々が警備を固める事は分かりきっているから、敢えてこれ以上襲ってくる事はないだろう。先にフレッドを探しに行くか?」
「それがいい、館(やかた)に無線で報告しておいてくれ」
「OK、この犬どもはどうする?」
「どうせ時間が経たないと治らない、しばらくこのままにしておくさ」
そう言い合うと、二人の男は再びライフルを構え直して、森の雪道を歩き始めた。
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第193回の掲載は、2月15日(水)の予定です
2017年01月15日
連載小説「龍の道」 第191回

第191回 P L O T (11)
「・・で、そのサーマルビジョンに対して、なにか打つ手はないの?」
言葉こそ不安気に聞こえるが、宏隆の表情は至って平然としている。
「どんなものにも、メリットとデメリットがあるのよ」
「と、いうと・・?」
「サーマルビジョンは解像度がナイトビジョンには遥かに及ばないし、映像の距離感が掴みにくいという欠点もあるわ。それに保護レンズを装着できないから、光に弱い」
「なるほど。でもここは敵陣だから距離感は関係ないだろうね。キャンベル曹長ほどの腕なら目を瞑って撃っても中るかもしれないな」
「まあ、敵はまだ私たちを発見していないワケだし」
「それが使われないうちに、ひとまず撤退するってコト?」
「そう、もしテキがそうさせてくれたらの話だけどね」
「えっ・・?」
「どうやらキャンベルという男は、話に聞くよりも鋭い人間らしいわね。この敷地には警備する人間と幾つかのカメラはあっても、赤外線センサーがあるワケではない。私たちはカメラや人目を完全に避けていたので、それを感知できるのはいわゆる Sixth Sense(シックスセンス=第六感)、つまり通常誰もが持つ五感を超えたインスピレーションが非常に優れていると考えるべきね」
「なるほど、それでヤンの部屋をヘレンと監視していた時も、すぐに気付かれたのか・・」
「ここからは分かれて行動するわよ。集合場所は、さっき車を停めた所の北東約150メートルの森の中。私が攪乱している間にヒロタカはライトを破壊、どちらかが機を見てサーマルビジョンをつぶして、集合場所に走る─────」
「そこから先は?」
「そこからは・・まぁ、臨機応変ね!」
「オーケー、この場を切り抜けても、いきなり車には戻らないってコトだね」
「誰かが待ち伏せしているとも限らないから、安全には常に念を入れるのよ」
「しかし、また敵のライトを撃つことになったか・・」
「ああ、大武號*(たいぶごう) の襲撃事件では、ヒロタカがライフルで朝鮮の偽装船のサーチライトを破壊したんだったわね」
【註*:大武號=「龍の道」第18回〜21回、澪標(みおつくし)1〜4参照】
「ライト破壊専門のスナイパーみたい・・」
「ところで、キャンベル曹長は右利き?」
「たぶん。訓練中に成績を書くのは右だし、紅茶のカップも右手で持ってたけど。そんなこと聞いてどうするの?」
「いいから、行くわよ。私は左、ヒロタカは右へ──────!」
「ラジャ・・!」
「・・Three,Two,One,GO !! 」
突然雪の中から飛び出した兎のように、宗少尉が身を低くして走り始める。
「チューンッッッッ・・!!」
その、わずか一歩前の足跡に、正確にライフルの弾がはじけた。
ほぼ同時に、宏隆が反対の方向に走るが、2発目の銃弾はまだ自分を狙わず、宗少尉を追い続けている。
「よし、今だっ───────」
宏隆が歩を止め、即座に屋根にあるふたつのライトを拳銃で狙う。
「ダンッ・・ダンッッ・・!!」
大きなライトが音を立てて割れ、瞬時に辺りは元の暗闇となる。
「やったぁ、エライぞ、ベレッタ! ** 」
そう言って、手にした銃を褒めてやるが──────
【註**:ベレッタ=イタリア製の拳銃、ピエトロ・ベレッタM92。宏隆が台湾の射撃訓練で初めて使って以来、ずっと愛用している銃】
「ダンダンッ、ダンダンダンッ・・!!」
間髪を入れず、ライフル弾が嵐のようにその木陰を襲ってくる。
「へへんっ、そんな所にいつまでも居るもんかいっ!」
宏隆も反撃を予想して、疾(と)っくに別の木陰に身を移している。
ライフルでプロに狙われて、そう簡単に避けられるものなのかと、読者は疑問に思われるかも知れない。実際に銃で標的を撃ってみると分かるが、ある程度の距離なら固定した的でもそう簡単に中るものではないし、Moving Target(動く標的)となれば、おいそれと命中するものではない。ましてや森の木立の中を動く人間、それも、どう動いていれば命中し難いかを熟知している相手に確実にヒットさせるのは、たとえ熟練者でもなかなか容易なことではない。
ここでキャンベル曹長が用いている ”M16-A2(Model 645)” というライフルは、銃口速度が800〜900m/秒、有効射程は500m、現代でも通用する優れた米軍制式自動小銃だが、実際にはどんな銃でも一発ごとに速度や飛び方にバラつきがあり、気温や湿度、風速によっても変わってくるし、十分な殺傷能力を発揮できる距離はせいぜい200m程度までである。
銃口初速というのは、弾丸が銃口を出て数メートル先の測定値であり、マニュアルの表示と10m/秒くらい違うのが普通で、弾丸自体は空気抵抗でどんどん速度が落ちてくる。
800m/秒で発射された弾丸は、800m先の地点に1秒で到達するわけではなく、大体1.5秒以上は掛かる。加えて、銃の個体によっても各々クセがあり、普段使いこなしている愛用銃なら兎も角、この場合のように、セキュリティの武器庫にあった有り合わせの銃で動くターゲットに命中させるには、熟練者でも誤差の修正に相当時間がかかることになる。
因みに一昨年、インターネットやGPSを開発したことで名高いDARPA(アメリカ国防高等研究計画局)で、EXACTO(Extreme Accuracy Tasked Ordnance)という、銃弾自体がターゲットを追跡するシステムの開発に成功したというニュースが流れた。
それは熟練のスナイパーでなくとも、素人でも銃弾発射後に動き出した標的を確実に捉えることができる画期的なシステムであった。こうなったらもう、ウデも運も関係ない。
その様子はYouTubeの『EXACTO Live-Fire Tests, February 2015』で確認できる。
「ダンッ!─────ダンダンッ───────!!」
さらにライフルは宗少尉を狙うが、右に走っては左に少し戻るような、変則的な走り方をしているので当たらない。普通右利きの者は右へ移動するターゲットを捉えにくい。まして北半球では人は左回転の方が容易になる。この現象は銃撃戦に限らず、素手やナイフの白兵戦に於いても同じである。
「どら、こっちからもお見舞いするか・・!」
宏隆がライトを破壊したので、反対に建物の中の明かりが彼ら自身の在処(ありか)をくっきりと映し出してしまっている。外から反撃をするには好都合だ。
「ダン、ダン、ダンッ──────!!」
「ううっ・・く、くそっ!」
正確に、自分のすぐ足許に着弾し、慌ててキャンベル曹長が身を伏せた。
「・・だ、誰か、屋敷の灯りを消せっ!、ブレイカーを落とすんだ!!」
自分たちの優勢を信じている者ほど、それが覆された時には非常に脆いものになる。
追う者が、常に追われる側にならないとは限らないのだ。
「サーマルビジョンを持って来ました!」
腰を低くして物陰に寄り添いながら、一人の男がキャンベル曹長の傍まで来た。
「よしっ、10時から12時の方向*** だ、探せ──────!」
【註***:移動中の場所の正面を12時として、方位を時計の文字盤に見立てる方位の表現法。クロック・ポジションという。10時から12時とは、進行方向や正面が南だとすれば、東南東付近から南までの角度になる。なお、戦闘機などでは水平方向をクロックポジションで表し、垂直方向は上方をHigh、下方をLowとして、背面上方のことは「6 o'clock high」と表現する。
日本でも船舶において古くから面舵(おもかじ)、取舵(とりかじ)の表現があるが、面舵は方位を干支で分けた ”卯(う)” の方位(東/右)の事で、”卯の舵” が徐々に ”おもかじ” へと訛っていったもの。取舵は発音どおり酉(とり)の方位(西/左)のことである。現在でも漁船から商船、自衛隊まで広く使われ続けている】
「イエッサー!!」
「どうだ、何か見えるか?」
「はい、木立の中に、ひとり──────」
「よし、オレが撃つから誘導しろ!」
「イエッサー!」
だが、そう答えた直後に、
「バァーンッッッ──────!!」
「・・う、うわぁあっっ!!」
サーマルビジョンを覗いていた男が接眼鏡から目を背け、思わず装置を手から落とした。
スコープを覗いて人影を認識した途端、スタングレネード(stun grenade=閃光弾)による強力な閃光が、すぐ目の前で炸裂したのである。
現代の最新式の機械では、一定値以上は光を増幅しないように安全回路が組み込まれるようになり、まずそのような心配はないが、この時代にようやく小型化され始めたばかりの熱赤外線暗視装置は、暗闇で密かに熱感知を行う事は出来ても、反対に相手側から強い光を照射されると、対象の認識が非常に困難となるものであった。
「くそっ、やってくれるな・・・」
キャンベル曹長が、その光量に目を背けながら、苦い顔をした。
スタングレネードは、100万カンデラ以上の閃光を発する非致死性の手榴弾である。
100万カンデラとは国際的な光度の単位で、ロウソク一本は約1カンデラの光度で光を発する。つまり100万カンデラとはロウソク百万本分の明るさである。
日本では乗用車のヘッドライトが一灯に付き1万5千カンデラ以上の規定があり、潮岬の灯台が97万カンデラの明るさで40kmほど先の海上を照らし出すことを想えば、スタングレネードの明るさが尋常ではないことが分かる。灯台の巨大なライトが突然光を発したような明るさが目の前で起こるのだから、これはたまらない。
さらにスタングレネードは15m以内で170db(デシベル)の爆発音を伴う。
ジェットエンジンの音が100db、1.6kmの先まで音が届く災害レスキュー用のホイッスルが100〜120dbで、ライフルの発射時には耳元で160〜170dbの爆発音が発生する。
ライフルや拳銃を撃つ時にはイアプラグ(耳栓)やイアマフ(ヘッドフォン型の耳覆い)の着用が必至で、着用しなければしばらく耳が聞こえない。映画などでは非着用のままで撃ちまくっているが、実弾では当分の間ひどい耳鳴りに悩まされることになる。
ハワイなどの観光射撃では、素人用に火薬を三分の一くらいに減量しているので、爆発音はそれほど大きくない。なお、プロ仕様の戦闘用の耳栓は、銃声を大幅に軽減しながら仲間の声は聞き取れるような設計になっている。
─────そして、鍛え上げた軍人であるキャンベル曹長は、当然この銃撃の最中もイアプラグを着用していたので、スタングレネードの爆発音は回避できたが、サングラスの用意もない夜間の大閃光に、しばらくは光の残像しか見えない。
「ホォーッ・・・ホゥーッ・・・」
Snowy Owl(雪のように白いフクロウ)と呼ばれる、シロフクロウの寂しげな鳴き声が、雪に覆われた森の中に響く。
日本でも北海道で希に見かけるシロフクロウは北極圏に広く生息しているが、アラスカのそれは白夜の環境のため、フクロウにしては珍しく日中でも活動する特徴がある。
「チカ・・チカ・・・」
小さな赤いライトが、そのフクロウの鳴き声の方に向かって、そっと何度か点滅した。
「ヒロタカ、ここよ─────」
「宗少尉、よかった、やっぱり無事でしたね」
フクロウの鳴き声は宗少尉の、ライトの点滅は宏隆の、互いに確認をし合うための合図であった。赤いフィルターを着けたライトは白色や黄色よりも外部から認識されにくく、自分の眼も痛めにくいため、夜間の歩行時は無論、地図を読む時にも用いられる。
「ヒロタカがライトを破壊して、タイミングよくスタングレネードを投げてくれたからよ」
「何とか上手く行きました。しかし、よくライフル弾の嵐の中を走れますね」
「あら、自分だって銃弾の雨の中を平気で撃ち合うじゃないの」
「それに、宗少尉は走り方がまるでクノイチみたいで─────」
「Oh!、女忍者のクノイチね、憧れるわぁ!」
「いや、手裏剣のウデと言い、すでに十分過ぎるくらいクノイチですが」
「それより、サッサとこの森を出ましょう、下手をすると追っ手が来るわ」
「待った────────」
「どうしたの?」
「そこに、誰か倒れています」
「えっ・・?」
よく見ると、すぐそこの木立の裏側にある窪みに、ひとりの男が倒れている。周りには争ったような、多くの足跡も雪の上に残っている。宗少尉が倒れている男に注意深く近寄ってみるが、何の反応もない。
のど元に指を当てて、脈を確認しながら、
「もう息がないわ・・だけど体がまだ温かいから、殺(や)られたばかりね。クビを折られているわ」
そう言うので、銃を構えていた宏隆も、その手を下ろした。
「誰だろう、やはりあの屋敷の人間かな?」
「無線器にフラッシュライト、ポケットのナイフはボーカーのマグナム、ヒットマンね」
「ヒットマン(殺し屋)?、包丁のゾーリンゲン製にしちゃ物騒な名前だけど、それなら警備の人間だね、体格もいいし。なぜこんな所に連れて来られて、殺されたのかな・・」
「連れてこられた、とは限らないわ」
「どうして?」
「手のところを見てごらん」
「・・こ、これは!?」
男の手には、ピアノ線のように細い、見えにくいワイヤーが巻き付いている。
「恐らく、誰かを殺すためにここに連れてきて、反対に返り討ちに遭ったのよ」
「いったい誰が、こんなことを・・・」
「さあね、でも首を絞めるつもりが、反対に首を折られるとは、皮肉よね」
「あっ、クルマだ───────!」
突然エンジン音が聞こえたのと同時に、二人は反射的にその場に身を伏せたが、森の向こう側へ、あっという間にヘッドライトの光が遠ざかって行く。
「あのクルマに乗っているヤツが、殺ったのかもしれないわね」
「この男が戻らないと仲間が探しに来るだろうし、僕らにもすぐ追っ手が来ますね・・」
「よし、サッサと退散しましょう、また出直せばいいわ!」
「いや─────宗少尉だけで行ってください」
「・・ヒロタカ、何を言いだすの?!」
「ヘレンが、あの屋敷に捕らわれているかも知れないから、自分は残ってもう少し様子を探ってみます。宗少尉は派手なエンジン音を立てて、僕らがこの場から立ち去ったように装ってください」
「・・だ、ダメよ、独りでなんて・・とても行かせられない!」
「だけど、クルマが見つかったら二人ともアウトですよ。クルマが去れば、二人で立ち去ったように想うのが自然です。そうなったら警備にも油断が出てくる」
「それは、確かにそうだろうけど・・」
「大丈夫、無茶はしないから。ただ様子を探ってみるだけで、すぐに帰ってきます」
「ふぅ・・オーケー、どうせ言い出したら聞かないだろうから行きなさい。けれど、絶対に無理をしないこと。屋敷内には潜入せず、外側から探るだけ!・・分かった?、それを約束するんなら、行ってもいいわ!」
「約束します─────次に落ち合う時間と場所は?」
「ワシラ湖の東南東、約3kmのところに 24時間営業の Walmart(ウォルマート:世界最大のスーパーマーケットチェーン)があるわ。給油ついでに色々仕入れてるから、そこで3時間後に!」
「Copy that.(了解)─────」
そう言って宏隆は、さっき来た方向とは反対に足早に歩き始めた。
番犬を離したのだろう。遠くから、複数の犬の吠える声が聞こえる。
( Stay tuned, to the next episode !! )
*次回、連載小説「龍の道」 第192回の掲載は、2月1日(水)の予定です