*第141回 〜 第150回

2014年12月15日

連載小説「龍の道」 第145回




第145回  A L A S K A (14)



 ジェイムスの頬を叩いて起こすと、フィリップが急いで席に戻ってベルトを締めた。
 目は開いたものの、何が起っているのか分からない様子で、ジェイムスはまだ呆然としている。

 宏隆は初めて握った飛行機の操縦桿とは思えないほど、自分の五官をフルに使って、わずかな時間のうちに基本操作を習得しつつあった。

 だが、より安全に墜落する、とはどういうことか────────────
 安全な墜落など、絶対に有り得ないというのは素人でも分かるが、宏隆はより安全に墜落する方法を見つける、と真顔で言ってのけた。
 絶体絶命の状況で、いったいそれを、どうやって見つけようというのか。

 小さな機体は、ゆらゆらと螺旋を描くようにローリングとピッチングを繰り返しながら、眼下の原生林に向かってどんどん高度が下がっていく。
 山岳地帯を少し外れたので強い気流の影響が減り、さっきより少しはバランスを取りやすくなっているが、主翼をはじめ、機体の彼方此方を崖に当てて擦ってしまった所為で、真っ直ぐには飛べない。
 激しく振動する操縦桿を必死で押さえて、少しでも機体を水平にするよう努めながら、なんとか安全に降りられそうな地形を、宏隆は探していた。


「南無三─────────────────」

「・・・いま何か言ったか?」

ぼそりと、宏隆が独り言を呟いたので、フィリップが訊ねた。

「ナムサン、つまり南無三宝・・・・Buddha, Dahma, Sangha(仏陀・仏法・僧伽)の、
Three Treasures(三宝)に帰依する、という意味だ────────」

「キエ・・・?」

「それを正しく表した言葉は英語には無いんだ。believer(信奉者)、embrace(選んで受け容れる)、convert(改宗・転向・回心)・・どれも正確には当てはまらない」

「要は、自分を改めて何かを信じると言うことだな。だが、こんな時にブッダを信じてどうするというんだ?」

「心安らかに死ねるように、ってことさ・・」

「こころ、安らかに・・・・・?」

「サムライは、Bushido is really the "Way of Dying" or living as though one was
already dead.(武士道とは死ぬ事と見付けたり)と看破した。毎朝毎夕、常に死ぬ覚悟をしていれば、武士道の自在の境地に達することが出来る、如何に意識的に死に臨めるかが最も大切なことである、とされたんだ」

「サムライのハラキリか────────それをブッダに願えば、安らかに死ねるのか?」

「はは、宗教活動は国家権力への潜在的な挑戦とする、国家無神論の、お前たち社会主義国の連中には分からんだろうな。武士道など存在しないようだし・・・別にブッダに帰依しなくても良いが、まあ、覚悟だけは決めるんだな」

「むぅ・・・・・・」

「ううっ・・な、なんだ、このひどい揺れは!、一体どうなっている!?」

 ようやく正気を取り戻したのか、ジェイムスが突然にわめき始めた。

「見てのとおりだ。この機は墜落しかけている、お前も覚悟を決めろ」

 フィリップがそう言ったが、

「墜落?!──────────い、イヤだ、俺は!・・オレはまだ、死ぬのはいやだ!!」

「俺もイヤさ。だが、こうなってはもう、どうすることも出来ない」

「そ、そうだ、パイロットは?・・操縦席に座っているのはヒロタカじゃないか?!、あのパイロットはどこへ行ったんだ・・・」

「パイロットは死んだよ。流れ弾に中(あた)ったんだ。それで仕方なく、器用なヒロタカが操縦桿を握っている」

「なんだって?・・あんた、ヒロタカを北朝鮮に拉致して行くんじゃないのか?、それに、こんなガキに操縦なんぞ出来るもんか!・・お、降りる、オレは降りるぞ!!」

 ジェイムスが取り乱して、シートベルトを外して立ち上がった。

「・・ば、バカ、どこへ行く!・・・何をするつもりだ?!」

「お、降りるんだ。このままだと飛行機が墜落して、木っ端微塵になってしまう!!」

 そう言って、そこら中に体をぶつけて、よろけながら入口のハッチの方に歩いて行く。
 パニックに弱い人間は、簡単に普段の理性を失ってしまう。そもそも金銭のために他人を騙そうとするような人間に、強い意識などあるはずもない。

 ハッチの内側の赤いハンドルの横には、緊急時以外は手を触れないことと明記されているが、ジェイムスは素早くそこに手を掛けた。

「ハッチを開けさせるな!、ただでさえ紙一重のバランスで飛んでいるんだ、ハッチを開けたら機内に風が巻いて、機体が錐揉みを起こすぞ・・!!」


 高高度で飛ぶ民間航空機は「与圧」されているため、すべての扉は人力では開かない。機体の内側から外に向かって掛かる圧力は1平方メートルあたり6トン、国際線の大型旅客機だと12トンにも及ぶと言われている。
 この圧力のために、飛行中は乗降用のドアは常に外に向かって押されている状態だが、開口部がドアのサイズよりも小さく、ドアが機外に飛び出さないようになっている。ハッチを開く際に、一度内側に扉を動かさなくてはならないのは、このシステムが使われているためである。

 「与圧」とは、聞き慣れない言葉かもしれない。
 航空機は高度の高いところを飛行する際には、空気中の酸素が減少し、気圧が低くなることを避けるため、エンジンの動力で外部の希薄な空気を圧縮して、常に地上とほぼ等しい圧力(1気圧)を掛けた空気を機内に供給し続けている。それを与圧(pressurize)と呼んでいる。
 ちなみに、人は通常1分間に6〜8Lの空気を必要とする。ジャンボジェットに500人が乗ると必要な空気の量は毎分4KLになるが、機内に送られている空気は毎分200KLにもおよび、4〜7分ですべての空気が入れ替わるようになっている。また、余った空気は機外に排出する量をアウトフローバルブで調整し、内外の気圧に応じて自動的に調整し開閉される仕組みとなっている。
 与圧装置は、高度1万メートル(気圧は地上の4分の1、気温はマイナス50度の世界)のフライトでも、実質的に高度2,400m相当の気圧に保てるよう、気圧の変化を最小限に抑える役割をしている。

 しかし、宏隆が乗っているような軽飛行機は巡航高度が2,000〜3,500m程度なので、短時間飛行では酸素欠乏の心配は無いが、もちろん機内は与圧をされていないので、ドアは容易に開いてしまうのである。


「ま、待て!・・・待つんだ、ジェイムス!!」

 フィリップが怒鳴って立ち上がったが────────────

「ガチャリ・・・・・」

「あ、ジェイムス、やめろ・・!!」

「うわぁああああああ・・・・・!!」

 ハッチを開けた途端、機体の不規則な揺れに合わせて、ジェイムスの体は弾かれるように外へ放り出され、下に見える針葉樹の森へ、ゆっくりと吸い込まれるように落ちていった。

「ば、バカなことを──────────────」

「フィリップ、ハッチを閉めろ!、さっきよりも操縦桿が効かない!」

「ううむ・・駄目だ、閉まらない・・・巻き風に煽られて、とても閉まらないぞ!」

「もういい、座ってベルトを締めろ!、バッグでもグローブ(手袋)でも、なんでも良いからベルトと体の間に挟め!、座ったら脚を床から上げて、頭を両手で抱えるんだ!!」

「わ、わかった──────────────」

 宏隆が言っていることは悉(ことごと)く正しい。
 フィリップが訓練した特殊部隊でも、似たようなことを教わってはいるが、まだ大学に入るばかりの若さだというのに、この状況で即座に正しい判断ができ、敵である自分にまで適切なアドヴァイスができるのは、よほど緻密な訓練を受けたか、それ以前の、本人の人格や兵士としての資質が格段に優れているということに他ならない。

 果たして今の自分に、敵を思い遣るような余裕があるだろうか。
 この宏隆は、明らかに自分よりも格が上だ──────────────
 フィリップはそう思って、心の内で舌を巻いた。

「グォォオオオオオンンン・・・・・・・・」

 ハッチが開いていることで機体がさらに崩れて飛び、まるで空中に編まれてゆく糸を描くように、ゆっくりと螺旋状に落下していく。

「下は針葉樹の森だ、向こうの水場まで何とか持ちこたえられるか・・・・」

 森に突っ込むよりも、水に落ちる方が生存の確率は高くなる。河か湖か、遠くに光って見えているあの水場まで、何とか墜落するのを持たせたいと思うが・・・・・

「こ、これでどうだ──────────────」

 しかし、どこに墜落するにしても対地速度と進入角度が問題であった。当たり前のことだが、速度が速く、進入角度が大きければ、墜落の衝撃もその分だけ増加するのだ。
 宏隆はスロットルレバーを上げ下げしてエンジンの回転数を微妙に調整し、操縦桿でピッチアップ(機首を上げる)とピッチダウン(機首を下げる)を細かく繰り返しながら、失速するかしないかのギリギリのところで、出来るだけ速度を抑えてゆく。

「く、くそぉ・・・あそこまで、保(も)ってくれ・・・・・・」

 もう、針葉樹の森がすぐ目の前まで近づいていて、文字どおり天に伸びる尖った針のような樹々の先端が、満身創痍の機体を今にも突き刺すばかりに迫っている。

「ガガッッ、ガガガガガッッッッ──────────────!!」

 その森の上で低いジャンプを繰り返すように、音を立てて樹々の先端を擦ってはへし折りながら・・・しかし、幸いにもまだそれに阻まれて墜落することもなく、むしろ樹を擦ったことで機体に余計なローリングが消え、波打つような動きの度合いも明らかに減少したように思える。

 だが、向こうの水場までには、まだ距離がある。宏隆はできるだけ樹の無いところを選びながら、暴れる操縦桿を必死に押さえてコントロールを続けた。

 しかし、それもすぐに限界が来た。もう、地上が目の前に見えている。

「だ、駄目だ・・・突っ込むぞぉ!!」

「くっ・・・・・」

 フィリップは座席の上でアグラをかき、頭を両手で抱えるように背中を丸めた。

「グガガガガガッッッッッ─────────────────!!」

「うわぁあああああああっっっっ!!」

「ガガッ!、ガガッ、ガガガガガガガッッッ!!・・・・」

「バキィイイイッッッッ───────────!!」

 水場まで、あとわずかのところで片方の翼が大きな樹に当たった。
 翼が見事に真ん中からもぎ取られて吹っ飛び、その衝撃で、機体はクルクルと斜めに回転しながら、そこら中の小さな樹々を薙ぎ倒し、さらに水面を滑るように鋭い水飛沫を上げて何度も転がり、やがてフロートの片足を上にした形で、ようやく静止した。



「う、うぅむ・・・・・」

 先に気がついたのは、宏隆である。
 半ば意識を失いかけていたが、水がすごく冷たかったのが幸いして、シートベルトを着けたまま、ほぼ逆さまに、斜めに吊されたような恰好の自分に気がついた。

「ふう、生きていたか・・・」

 だが、もう肩のところまで水が来ている。腹筋のトレーニングをするように体を起こしてベルトを外そうとするが、ボタンを押しても外れないのでブーツからナイフを抜いて切り、ザブリと胸まで水に浸かる。

「フィリップ──────────────」

 すぐ後ろの席に居たフィリップは、グッタリしている。

「フィリップ・・おいっ、大丈夫か?!・・目を覚ませ、フィリップ!!」

 息はある。多分ちょっと気を失っているだけだろう、と思ったが、そうして声をかけている間にも、機内の水位がどんどん上がってきている。

「まったく、世話のやける奴め・・」

 ナイフで同じようにフィリップのベルトを切り、仰向けに水に浮かせるようにして、機外に出そうとするが、なかなか上手くいかない。この水が氷のように冷たく感じられ、思うように動けないのだ。

 それもそのはず、コールドフットからかなり南下したフェアバンクスでも、九月の気温は最高が12度、最低気温はマイナスまで下がる。東京よりもおよそ10度ほど低いのだ。これが10月を過ぎると、その差は15度にもなる。

 まして昨夜は全く眠っておらず、わずかな水分以外は何も口にしていない。宏隆の唇や頬はすでにすっかり青ざめてしまっている。寒さや冷たさに対して、エネルギー不足の体が悲鳴を上げているのも無理はなかった。

「ここは、どこかの湖だな・・・」

 ようやく、フィリップを抱えるようにして機外に出られた。
 幸い、岸はすぐ近くに見えている。もしここが河川なら流れがあるので、そう簡単には機内から脱出できなかったかもしれない。

「よし──────────────」

 もう脚のフロート以外は、機体はすっかり水に浸かってしまった。
 そのフロートに下がっている係留用の短いロープにフィリップを繋いで固定すると、宏隆は何度か素早く深呼吸をして、ふたたび機内へと潜っていった。

 一番後部の、自分が拘束されていた座席の隣に、金属製の蓋付きの道具入れがあって、それを開けると案の定、長めのロープがあった。宏隆はそれをたすき掛けに担ぐと、さらに座席の下に装備してあった救命胴衣を二人分手にして、急いでフィリップのところに戻った。
 互いに救命胴衣を着用し、ロープでフィリップの体へ結んでおき、自分が岸まで泳ぎ着いてから、ロープでフィリップを引き寄せようと考えたのである。

 しかし、湖水の冷たさに、身体はどんどん冷える一方である。

 冷水に入った時の危険性には、乾性溺水(Dry drowning)、低温ショック(Cold shock)、泳力の喪失(Swimming failure)、低体温症(Hypothermia)、救助後の虚脱(Post-resucue collapse)などが挙げられる。それらの対処については、どんな特殊部隊でも講義や実地訓練でさんざん指導される。もちろん宏隆も玄洋會でそれを教わっていた。

 そのような講義を聞いて先ず驚かされるのは、生存が脅かされるのは水温が26.5℃以下であるという事実である。この水温は8月の東京の平均気温に等しいが、人間はそんな暖かい水温でも生存が脅かされてしまう。最初の「低温ショック」の反応は25度の水温で始まり、10度から15度でピークを迎えるのである。
 
 水温が10℃以下の場合には、PFD(Personal Flotation Device)、つまりライフジャケットの類いを身に着けなくてはならない。
 それは、局所的な低体温症の影響が、人体深部の体温が生命を脅かす段階に至るよりも早く深刻な状態を生むからであり、装着すれば水に浮いていられるから、といった安易な考えによるものではなく、やがて動けなくなることを想定してのことである。

 たとえば、15℃以下の水中では手指の動きが急速に減退して行き、生存のための不可欠な作業を実行するための能力を著しく奪われることになってしまう。

 現に、宏隆にも、すでにその兆候が現れていた。

「ゆ、指が・・・指が動かない・・・・・・」



                    ( Stay tuned, to the next episode !! )




  *次回、連載小説「龍の道」 第146回の掲載は、1月15日(木)の予定です

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2014年12月01日

連載小説「龍の道」 第144回




第144回  A L A S K A (13)



「ズガガガガガッッッ──────────────!!」

 水上機は幾度となく山の斜面の岩肌に機体を擦(こす)りつけながら、まるで水面の際を跳ねて飛ぶ石つぶてのように、飛行と言うよりは、まるで飛び跳ねるような恰好になって、次第にコントロールすることが難しくなっている。

「後ろで何をやっているっ、いまにも墜落しそうだというのに・・!?」

 ガタガタと揺れる操縦桿を精いっぱい操っていたパイロットが、大声で喚(わめ)いた。

「”Cargo” が動き出したんだ。すぐに戻すから、お前は操縦に集中していろ!!」

「・・な、なんだって?!」

 ”Cargo=積み荷” とは、もちろん宏隆のことである。気になって振り向いたパイロットの目には、ジェイムスのグッタリした恰好と、この墜落しそうな状況の中でフィリップと向き合っている宏隆の姿が映った。

「どうやって拘束を解いたんだ?・・まだガキのくせに、なんて奴だ!」

「You don't have cargo insurance?(積荷は保険に入っていないのか?)」

 フィリップに向かって、宏隆が不敵に笑って言う。
 こんな状況でもユーモアを忘れないのは、やはり加藤家の血液だろうか。

「You've got a lot of nerve. I only admire your guts to do that … (いい度胸をしてやがるぜ。その度胸だけは買ってやろう・・)」

 天候の悪い山岳地帯を飛行することには大変な危険を伴う。普通の航空機は、積乱雲や雷雲が常に発生しがちな山脈の上は避けて飛ぶのが常識だし、この場合のように雲や霧で視界が悪い山岳地帯の間近を飛ぶことは決してしない。
 況(まし)てや、悪いことに、ここには強い風まで吹き始めていた。


 余談だが、かつて太平洋戦争後期に、敵に占領された基地の要員を救出するために「二式飛行艇」という飛行機が派遣されたことがあった。
 二式飛行艇は船と飛行機の性能を併せ持つ、当時世界最高の性能を誇る傑作機だったが、すでにアメリカの制空権下となった基地から兵士を救出するというのは、誰が見ても不可能に近いことであった。戦闘機と比べて素早さに劣る飛行艇が、敵の迎撃を躱(かわ)せるとは到底思えないのである。現に、すでに何機もの飛行艇が消息を絶っている危険な任務であった。
 しかし、その基地の近くまで山脈が繋がっていることに気付いた機長は、敢えてわざわざ危険な山脈の上ぎりぎりを飛行して敵地に近づいて行く作戦を立てた。仲間から神業と言われるほどのレベルを有していた機長は、雷雨と暴風が渦巻く中を数時間飛行し、苦労の末、見事に敵地に潜入することができた。誰もそんな所から襲撃をしてくるとは思いもよらない事で、敵はまったくの無防備であり、その作戦は見事に成功して基地要員を救出した、というエピソードが残っている。

 因みに、意外にも、あらゆる飛行機は風に弱い。素人には、空の上を飛ぶのだから風には強いように思えるのだが、もともと風圧を大きく受けることで飛ぶ構造になっているから、風を受けて煽られ易いのは当り前なのである。
 事実、嘉手納基地などに駐まっている米軍の戦闘機や爆撃機、大型給油機などは、沖縄に大型台風が来るたびに東京の横田基地へ避難してくる。沖縄の台風は牧場の牛を飛ばすほどの猛威を振るうことも珍しくない。飛行機のパーキングブレーキや固定ステイなどは台風には殆ど役に立たず、大型機は格納庫に入れることもできないので、台風に晒したままだと翼を地面にぶつけて損傷してしまう。後で点検や修理にかける手間と費用を思えば、多少遠くとも横田へエスケイプする方が都合が良いのである。


 ともあれ、フィリップたちは宏隆誘拐の任務達成に向けて、できるだけ人に知られず目立たず、より早く目的地に到着しようとして、この山岳コースを選んだわけだが、それが裏目に出ることになった。

 そして、またしても───────────────いま、二人が宏隆に気を取られた、そのちょっとした間隙に、突如として霧の間から新たな断崖が目前に立ちはだかった。


「うわっ!・・ま、前を見ろ!、避けろっ、避けるんだっっ!!」

 だが、フィリップがそれに気付いた時はもう、避けるには遅すぎた。

「ガガガッッ、ズガガガガッッッ──────────」

 右の翼が断崖の淵ぎりぎりに擦れ、不気味な音を立てて震えながら、今にもバランスを失いそうになって、機体が大きく揺れる。

「うわああああああああっっ──────────────!!」

 立ったままでいた宏隆とフィリップが、左側の席に飛ばされて転がった。

「グォオオオオオオンンン・・・・・・・・」

 翼がもげたり、そのまま崖に激突することだけは何とか免れたものの、翼が崖に触れて擦れたことによって、機体にローリングとピッチング(左右と上下の揺れ)が生じ、水上機はその運動を繰り返しながら、急激に高度が下がっていく。

「・・き、機首を・・もっと機首を上げろっ!・・墜落するぞ!!」

 窓際に不様(ぶざま)に転がったまま、椅子の縁(へり)にしがみついて身体を確保しながらフィリップが叫ぶ。これほど揺れる機内では立ち上がることもできないし、普通の人間ならすぐ気分が悪くなって、目も開けていられなくなる。

 しかし宏隆は、これぞ好機とばかりに、ジワジワと蜘蛛のように、徐々にフィリップの方へ這い寄って行こうとする。

(コイツは空軍出身じゃないな────────────)

 こちらを気にしながらも、時おり眼を閉じては、眩暈(めまい)を緩和しようとしているフィリップの様子を見て、宏隆はそう思った。

 空軍のパイロットは常日頃から三半規管を散々鍛えている。縦横無尽に目まぐるしく飛び回るジェット戦闘機の中でも、素早く正確にキーボードの文字を打てるような、タフな連中なのである。台湾の玄洋會にもそんな猛者が何人か居た。そして、たとえフィリップのように特殊部隊の人間でも、誰もが空軍のような訓練をするわけではない。

 普通の人は大型旅客機でちょっと激しい乱気流に遭遇しても気分が悪くなってしまうが、その点、幸いにも宏隆は物心がついた頃から父親のヨットに乗せられて外洋を航海し、自分でも小さなヨットを操って瀬戸内海を散々走り回っていたので、不規則な揺れには滅法強いのだ。

「くっ、くそぉ・・だめだ、立っていられない・・・」

 思わずフィリップがそう呟(つぶや)いた時には、もう宏隆がすぐ側まで来ていて、機体の揺れにタイミングを合わせてフィリップにのしかかり、馬乗りになって首を絞めに入ろうとした。

「こ、こんな状況で・・お前はバカか、命が惜しくないのか?、この機は墜落しようとしているんだぞ、こんな事をやっている場合かっ!!」

「墜落するのかもしれないが、そうなる前に、自分がお前の計画から開放されていないと、死んでも死にきれないからな────────────」

「な、なんて野郎だ・・くそっ、こんなヤツが相手だと知ってたら・・・こんな手の掛かるガキを拉致する任務なんぞ、引き受けるんじゃなかったぜ!!」

 機体の揺れが激しく、さすがに絞め技は上手く極(き)まらないが、フィリップもまた、どう藻搔いても宏隆を撥(は)ね除けるには至らない。

 再び断崖に向かう事こそまぬがれてはいるが、水上機はさっき崖を避けようとした際の動きと、その中で起こった衝撃によって慣性モーメントが増幅し、ローリングの動きに首振りが合成されて、機首が「の」の字を描くように螺旋を描きはじめ、しかもそれが次第に大きくなってきている。

「・・てっ、てめぇ、分かってるのか!?、機体が螺旋にロールし始めたぞ、こうなったらもう墜落するしかない、シートベルトを締めて、墜落の衝撃に備えないと・・・」

「そうか、こうなったら天国でも地獄でも、お前と道連れだな!!」

 いったい何がその自信の根元(もと)になっているのか。
 よほど肝が据わっているのか、それとも何処かが鈍いのか、特殊部隊の人間さえ動揺を隠せないこの事態にも、宏隆はなぜか、それほど心を乱されていなかった。

「くっ、くそおおおっっ・・・!!」

 渾身の力を込めて、のし掛かっている宏隆の肘や腕を押し除けながら、膝で思い切り蹴飛ばしたのと、機首が螺旋を描くタイミングが上手く合って、宏隆はポーンと大きくフィリップから離れて、ちょうど操縦席の隣にある助手席にまで、宙を舞って飛ばされた。

「うわっ────────!!」

「もう争ってる場合じゃないぞ、機は殆どコントロール不能だ。覚悟を決めて席に座り、墜落に備えるんだ・・・・」

 パイロットは必死で操縦桿を握り、飛んできた宏隆を見る余裕もない。

 翼を崖に擦ってから、未だほんの僅かな時間しか経っていないが、覚束ないローリングとピッチングを繰り返している間に、険しい山岳地帯を脱(ぬ)けたのであろう。フロントガラスの向こうには、ようやく霧が晴れつつある針葉樹林帯の森が眼下に見え始めている。

「ヒロタカ、それまでだ・・・!!」

 ようやく拳銃を取り出せたフィリップが、銃口を宏隆に向けた。

「ふん、こんな揺れる中で撃ったって命中(あた)るもんか、これでも喰らえっ!」

 フィリップの科白が終わるより早く、宏隆が助手席のヘッドセットを投げつけた。

「バァーンンン─────────────────!!」

 しかし、投げられたヘッドセットを避けようとしてか、ちょうど機体が激しく揺れてか、そのときフィリップが放った弾丸は、標的であるはずの宏隆ではなく、すぐ隣で操縦桿を握るパイロットの座席を貫いていた。

「ああっ・・・・!!」

「し、しまった・・・・」

 驚いたのは宏隆だけではない。フィリップも顔色を変えた。

 パイロットは背中から心臓を撃たれ、すでに鼓動が停止し、白目を剥いている。
 操縦席のシートは決して頑丈に造られているわけではない。至近距離から発射された銃弾は容易に座席を貫き、パイロットの心臓まで達していた。

 だが、操縦桿を握るパイロットを失った機体は急速に降下を始めている。その過ちを嘆くより、何よりも先ず、この機の操縦をどうするかが問題であった。


 宏隆は顔色ひとつ変えず、素早くパイロットのシートベルトを外し、機体の傾きに合わせて彼を助手席の方へ転がし、操縦席に座って操縦桿を起こした。
 こんな動きは高度な武術を訓練していればこそで、普通ならモタモタしているうちに、あっという間に墜落してしまうに違いない。

「・・お前、飛行機の操縦が出来るのか?!」

「いや、やったことは無い──────────────」

「じゃ、なぜ落ち着き払って、そこに座っていられる?」

「こうするより他に、方法が無いだろう?、何もやらないよりは、少しでもやる方がいい。ただ指をくわえて墜落するのを待つなんて、まっぴら御免だ。最後の最後まで諦めず、出来そうなことを何でもやるんだ!!」

「むぅ・・・・・」

 敵ながら天晴れな奴、とフィリップは感心せざるを得ない。未だ大学に入るばかりの年齢だというのに、この若さで、此処まで言える人間は、そう滅多にはいない。現に、多くの修羅場を潜ってきた自分の方が、この状況に対して明らかに怯えているではないか。
 故国チョソン(北朝鮮)の上層部たちが、拉致をしてでもこの若者を欲しがっているのも当然のことだと思える。

「コールドフットに来た時と今日のフライトで、軽飛行機の操縦がどんなものか、大体の操作は見て分かっている。だが、こんな状況じゃ、どんなプロでも着陸するのはムリだ」

「じゃぁ、どうする────────?!」

「出来るだけ機体を水平に保って、より安全に墜落する方法を見つけるんだ!!」

「より安全に・・墜落する方法を、だと・・・?」

「そのとおりだ。そこで眠りこけているバカな相棒を叩き起こせ。少しでも意識のある方が助かる確率は高いはずだ!」

 こんな時だというのに、宏隆はジェイムスのことまで心配している。

「急げっ、お前もベルトを締めるんだっ!!」

「わ、わかった──────────────」

 こうなっては、宏隆に従うしかない。

 機体は不気味な振動と共に、機首を「の」の字を描くようにして螺旋に振りながら、どんどん降下して行く。



                    ( Stay tuned, to the next episode!)





  *次回、連載小説「龍の道」 第144回の掲載は、12月15日(月)の予定です

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2014年11月01日

連載小説「龍の道」 第143回




第143回  A L A S K A (12)



「ヒロタカ、ちょいと視界が悪くてパイロットが苦労しているが、ちゃんと無事に朝鮮まで連れて行ってやるから、そこで大人しくして居ろよ!」

 フィリップが、後部座席の宏隆を覗き込むようにして言った。

 7人乗りとは言っても、やはり軽飛行機の機内は狭い。
 コックピットにはパイロット席の右にも小さめの椅子が備えられており、その後ろは客席で、二人ずつ並んだ椅子が前後二列あり、最後部の三列目だけは一人掛けで、隣には道具でも入っていそうな金属製の蓋付きのボックスが置かれている。

 宏隆は最後部の席に拘束されていて、すぐ前にジェイムス、その前にはフィリップ、そしてコックピットのパイロットと、狭い機内を少しでも広く使えるように、各自が一列ずつ席を取っていた。

「・・ふん、何を言う。狭い機内で後ろ手に手錠を懸けられ、シートベルトまでされているんだ。大人しくしているより外(ほか)にやることが無いだろう!」

 ちょっと怒ったように、宏隆が答えた。

「・・ほう、まだ悪態はつけるようだが、口の中が切れて喋りにくそうだな」

 ふて腐れてはいるが、殴られて腫れが引かない宏隆の表情が、すっかり観念をしたように見えたので、フィリップは取り敢えず安心をして、フロントガラスの方に視線を移した。


 さっきよりも霧が濃くなって、視界はますます悪くなってきている。
 標高6,168m、アラスカ山脈に属する北米大陸の最高峰、デナリ=マッキンリー山の周辺は、あっという間に天候が変わることでもよく知られ、良く晴れた日に遊覧飛行をしていた軽飛行機が突然の濃霧に襲われ、既(すんで)のところで戻ってくるようなケースも決して珍しくはない。

「高度を上げてみたらどうだ、雲の上はたいてい晴れているものだろう?、雲の上からならマッキンリーの頂(いただき)が見えるはずだ。そこからValdez(ヴァルディーズ)にコンパスを向ければいいじゃないか」

「雲の厚さが分からないですが・・・まあ、やってみましょう」

 フィリップの提案に頷いて、パイロットが機首を上げる。
 機体は上空に向かって斜めになっているが、上がれども上がれども、周りは雲ばかりで、高度が上昇しているような実感さえ、ほとんど感じられない。

「ううむ、どこまで行っても雲の中だな、これは・・・・」

「普通のエアラインで、32,000フィート(1万メートル)前後で巡行していたって雲に囲まれますからね。こんな水上飛行機じゃあ、とても厚い雲の上には出られない」

 流石にフィリップも少し不安そうな顔つきになってきた。ジェイムスは押し黙ったまま、緊張した面持ちでひたすらフロントガラスを見つめている。


 そのとき──────────後部座席の宏隆が、少し動いた。

 殴られて腫れあがった頬を、歯ぐきに物が挟まった時のようにモゴモゴと動かして、口の中にあった小さな物を口元まで導き出すと、体を捩(よじ)って、それを座席の背もたれに向けてフッと吹き出し、何事もなかったように、すぐに元の姿勢に戻った。

 始めにシートベルトを締められる時に、気付かれぬように腹を膨らませ、わざと椅子に浅く腰掛けて、少しでもベルトの弛みを持たせるようにしておいたので、容易に背中の後ろを空けることができたのである。
 目の前の悪天候に気を取られている彼らは勿論それに気付くはずもなく、殴られて腫れていたはずの宏隆の頬は、少し平らになった。


「駄目だ・・・この機だと、無理して上がってもせいぜい15,000フィート(約4,500m)がいいところだ。ターボプロップ(ターボエンジン)でも載せない限り、この雲の上には出られないだろうな」

 パイロットが、少し心許なさそうに言う。

 よく見かける二人乗りのセスナは150馬力ほどで、限界まで頑張っても富士山の高さぐらいまでしか上昇できない。四人乗りになっても上限高度が500mほど増えるだけである。
 もしこの水上機が宏隆の知るDHC-2 Beaverだとすると、二人乗りセスナの三倍も馬力があるはずだが、実用上昇限度は高度5,500mほどであり、やはりマッキンリーの山頂を超えるほどには至らない。

「それじゃぁ、どうすると言うんだ。こうしている今も、この機は有視界飛行で飛んでいるんだろう?・・だいたい、何も見えないのに、どうやって飛んでいられるんだ?!」

 ジェイムスが、ちょっと苛々(いらいら)した口調で言う。

「勘(かん)さ──────────────」

「・・か、カンだって?!」

「ああ、こんな時はカンが頼りだ。この辺りの地形はもうオレのアタマの中に入っている。高度計とコンパスがあれば、どの辺りをどこに向かって飛んでいるかは把握できる。もちろん、いつもだったら疾(と)っくにどこかに着陸して霧が晴れるのを待つんだけどな・・・まあ、肝っ玉が小さい(chiken-livered)からって、そんなに心配するなよ」

「な、何だとぉ────────────」

「二人とも、ケンカを売るような言い方はやめろ!」

 フィリップが止めに入る。

「何度言ったら分かるんだ、そんな言い合いに無駄なエネルギーを費やすよりも、今はどうやってこの霧を抜けるかということに集中するんだ」

「ふん!・・ボス、やっぱり次回からはライセンスを確認してから、慎重にパイロットを雇うべきですね!!」

「へっ、Corrupt Cop(賄賂の効く腐敗した警官)が、何か言ってやがる・・・・」

 コックピットからジェイムスを振り向いて、吐き捨てるように言った。

「また言ったな、この野郎っ!!」

「お、やるか?・・無事に目的地に着いたら、いくらでも相手になってやるぜ!」

「もう、よせと言うのに──────────う、うあっ!・・ま、前を見ろっ・・!!」

「ああっ!、うわあああっっっ・・・!!」

 ちょうどパイロットが振り向いてジェイムスに悪態をついたその直後、フロントガラスのすぐ目の前に、突然大きく山肌が現れて、皆が叫んだ。

「・・よ、避けろ!、旋回して、避(よ)けるんだっ!!」

「ううっ・・・だ、だめだ、近すぎる─────────────────!!」

 こうなっては、パイロット以外の者はどうにも為す術がない。
 大きく操縦桿を倒し、機体を傾けながらフルスロットルでその岩肌を躱(かわ)そうとするが、そのわずかな時間が途轍(とてつ)もなく長く感じられる。

「ガガガガガッッッ──────────!!」

 次の瞬間、足元に装着されたフロートから岩を強く擦(こす)る音が不気味に響き、機体がガタガタと、激しい振動に見舞われた。
 マッキンリーの山体はすべて花崗岩で出来ている。少し標高が上がれば山はすべて岩肌となる。

「うわぁああああっっ──────────────!!」

「何かにつかまれ!、墜落の衝撃に備えるんだっ!!」

 幸いにも、まだ辛うじて飛行機はバランスを保っているが、誰もが、墜落してこの岩肌を転がって行く水上飛行機の姿をありありと想像していた。


「よし、今だ・・・!!」

 だが、ひとり、この宏隆だけは違っている。

 その極めて危険な状況の中で、突然、手錠を掛けられていたはずの手を前に回し、シートベルトを素早く外した。

 一体、どうやってその拘束を解いたのか──────────────

 この水上機に乗る直前、最後にユーコン川の河原でバリーに腹を殴られたが、その場で膝を着いてかがみ込んだ時に、バリーが片手で宏隆の髪を掴み、もう一方の手でアゴを挙げるようにして顔を上向きにさせたが、実はアゴを挙げようとしたバリーの手の内側には手錠のカギが用意されており、それをフィリップたちに気付かれぬよう、そっと宏隆の口に入れたのであった。
 人は顔を打たれればのけぞり、腹を殴られれば屈み踞(うずくま)るものである。バリーが宏隆の腹を殴ったのは計算尽くであったに違いない。

 宏隆は口の中に押し込まれた物が何であるかをすぐに察し、次の瞬間、バリーを信じて胸に蹴りを受けた。案の定、その蹴りは手加減されたもので、宏隆はわざとオーバーに倒されて見せ、なかなか起ち上がって来られない状態を装ってフィリップたちを安心させ、バリーにはその行為を理解したことを伝えたのである。
 河原に蹴り転がされ、バリーの気持ちを確かめるようにじっと見つめる宏隆に「自分の運命は自分で拓くんだな」と言い放ったのは、そのカギで脱出のチャンスを掴め、という意味であった。


 宏隆が動き始めたことに気付く者はいない。
 それどころではないのだ。誰もがフロントガラスに迫る岩肌に目を釘付けにされていて、後部座席に拘束された者が密かに手錠を外し、自分たちのすぐ後ろに迫っているとは思いもよらなかった。

 その、今にも墜落しそうな、激しい振動に揺れる機内で、宏隆はこれぞ絶好のチャンスとばかりに、先ずは両足を椅子の脚にかけて身体をホールドさせながら、すぐ前に座るジェイムスの首に後ろからスルリと腕を回し、声も立てさせず、ほんの数秒で絞め落とした。

 宏隆がここで用いた絞め技は、頸動脈を圧迫して失神させる技法であり、古流柔術、コンデ・コマ=前田光世にルーツを持つブラジリアン柔術、またかつての高専柔道や合気道をはじめ、各国の軍隊でも必ず訓練されるものである。
 絞め技には幾つか種類がある。宏隆が見せたような、頸動脈を圧迫して脳に酸素が行かないようにして失神させる方法がひとつ。もうひとつは喉の隆起を押し潰し、気管を塞いで窒息をさせる方法。また、口や鼻を塞ぎ、呼吸が出来ないように絞める方法などがあり、気管を絞める技は文字どおりチョーク(choke=窒息させる)、頸動脈を絞めるものは、これも文字どおりスリーパー・ホールドと呼ばれる。
 頸動脈を圧迫する方法は相手を殺さずに失神させる場合に用いるが、気管や喉ぼとけを圧迫するものとは違って苦痛もほとんど無く、後遺症も残らない。相手は心地よく戦闘不能の状態となって眠るように落ちてゆく(失神する)のである。
 また、この機内のように高度があり、酸素も地上より少なく、突然の危機に直面して血圧も上昇しているという条件が揃った場合は、極めて容易に短時間に失神してしまう。


 まるで泥酔者のように、ジェイムスは席に座ったままグッタリとした。
 宏隆はさらに、そっとジェイムスの腰へ手を伸ばし、銃を取ろうとしたが、そのとき、

「ああっ、ヒロタカ!・・きっ、貴様ぁ、いったいどうやって・・?!」

 フィリップがその気配に気付いて振り向き、すぐ銃を抜いて構えようとしたが、

「ビュッ────────────!」

「ううっ・・・!!」

 投げつけられた手錠が、見事に顔の真ん中にヒットし、すぐには銃を抜けない。
 そもそも、シートベルトを締めたまま振り向き、その無理な恰好で銃を抜こうとしたのだから、ベルトに拘束されていない者が、後ろから手錠を投げつける方が有利であり、早いに決まっている。

 この機会を逃しては、もう脱出のチャンスは無い。飛行機が激しく揺れる中、ジェイムスの座席へと躍り出て、さっきと同じように、後ろからフィリップの首を絞めに行った。

「うぐっ────────!!」

「よしっ、極(き)まったぞ・・!」

 ジェイムスと同じく、フィリップにも絞め技が確実に極まった、と思えた。
 ジェイムスはすでに失神させた。残るこの男さえ制圧してしまえば、あとはパイロットに銃を向けて無事に着陸させるだけだ────────そう宏隆は考えていた。

「フィリップ、観念しろ、お前もあと数秒だ!!」

 だが、敵も然(さ)る者────────流石は特殊部隊で訓練を積んできた猛者である。
 首を宏隆に極めさせておきながら、素早く左手でシートベルトを外し、同時に右手でブーツに装着した小型ナイフを抜き、首に巻き付いた宏隆の腕を鋭く刺しにきた。

 絞め技が極まって失神するまでの数秒間を、無駄にそれに抗うことに遣わず、むしろ宏隆を安心させながら、スムーズに反撃に移せる時間にすることを選んだのだ。

「うわっっ!!」

 すんでの所で、宏隆はそのナイフの切っ先を躱(かわ)したが、そのためには首の拘束をやめざるを得ない。

「ズサッッ────────────」

 宏隆の拘束が弛んだ次の瞬間、フィリップが身を躍らせて宏隆に飛び掛かった。

「くうっ・・・・」

 狭い機内で、さらに横に失神したジェイムスが居るが、フィリップは構わず、宏隆に覆い被さるようにナイフで刺しに来る。
 
 椅子に押さえつけられるような恰好になったが、柔らかくそれを躱しつつ、巧みに相手の腕を拘束し、同時に両眼の瞼(まぶた)を親指で強く擦(こす)った。

「ううっ・・・!!」

 思わず、覆い被さっていたフィリップが身を起こし、眼に手を当てた。
 
 王老師から指導を受けた、粘り、纏わりつくような太極拳の手法である。
 どんな厳しい訓練を積んできた者でも、目や喉を鍛えられはしない。敵の眼を擦ってやると、しばらくの間は視力が回復せず、両目なら見えなくなり、片目なら遠近感が失われてしまう。

「お、おのれっ・・・・」

 フィリップが俄盲目(にわかめくら)になった隙に、

「ビシィッ────────!!」

 その手首を強く蹴り、ナイフが手から離れて後部座席の方に飛んだ。


 これで対等の立場になった────────と宏隆は思った。

 フィリップの脇の下には拳銃が携えられているが、長時間、飛行機に乗り込む時には当然の事として安全装置が掛かっている。銃を抜き、安全装置を外してスライドを引き、初弾をチェンバーに送り、狙いを定めて撃つまでにはそれなりの時間を必要とするのだ。

 ほんの僅かな時間、二人は互いに身構えて、向かい合った。

 しかし、飛行機は濃霧の中、両脚のフロートを何度も岩肌に擦り付けながら激しく揺れ、今にも墜落しようとしている。



             (Stay tuned, to the next episode!〜 次回を乞御期待)





  *次回、連載小説「龍の道」 第144回の掲載は、11月15日(土)の予定です

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2014年10月15日

連載小説「龍の道」 第142回




第142回  A L A S K A (11)



「ゴォオオオオーン─────────────────」

 雨にけむる朝の空に、小型飛行機のエンジン音が谺(こだま)している。

 やがて、その音の主は針葉樹の森の上にかかる霧の中から突然姿を現して、たったいま、宏隆がバリーに蹴り倒されたばかりの河原の上をぐるりと大きく旋回してから、だだっ広い川面に大きな噴水のような飛沫を上げながら着水した。

「Float-plane(水上飛行機)か、考えたな・・・・」

 転がされた体を起こして、宏隆がつぶやいた。
 バリーの家を出る前に、ジェイムスが誰かに電話をしていたのは、この水上機を手配するためだったに違いない。

「そうだ。バリーの家は飛行場の傍なのに、どうしてわざわざ車で南下するのかと不思議に思っただろうな。だがクルマはすぐに足が付きやすい、水上機なら何処から何処へ行こうと誰も気にする者はいない。広いアラスカでは軽飛行機は自家用車と同じ、ありふれた日常の風景として見慣れているからな」

「それに、飛行場に降りる必要もない────────────」

「そのとおりだ。フロート(水上飛行機の脚部に付けられた浮舟)を装着した飛行機なら、そこいらの河や湖、海の入り江でも、どこにでも降りられる。クルマよりも目立たないし、追跡もされにくい、じつに便利なものさ」

「さあ、とっとと起ち上がってあれに乗るんだ・・・ちゃんと歩け、モタモタするな!」

「ううっ・・・」

 宏隆を引きずり起こしたフィリップが、その背中を拳銃の先で強く押したので、宏隆は少しよろけた。

「ボス、ちょっと買い被り過ぎましたね、大したことないですぜ、この坊やは!、あれしき殴られただけでヨロヨロしてやがる。さっき俺が喰らわした一発で顔が腫れてまともに喋れないみたいだし。まあ、オレのパンチは結構効きますがね、あははは・・・」

 フィリップを”ボス”と呼んだジェイムスが、勝ち誇ったような顔をした。
 
「うむ、やっぱり学生は学生だな、ヒロタカに関する報告は少しばかり大袈裟なのかも知れない。イキがって台湾の玄洋會なんぞに入っているが、まあ、所詮は良家のお坊ちゃんだ。お前には顔を、バリーには腹を殴られ、胸を蹴られて・・・実戦で打たれた事がないのか、それが結構効いているみたいだな」

 たしかに、宏隆は顔が腫れて、ちょっと形相が変わってきている。
 それに、腹に喰らった一撃がよほど応えているのか、腰を少し屈ませて、俯(うつむ)き加減によろよろと足を引きずるようにして河原を歩いてゆく。

「バリー、ご苦労だった。こいつを無事にチョソン(朝鮮の意=北朝鮮の自国の呼び方)へ届けたら、約束どおり娘を開放してやる。楽しみに待っていることだな」

「うむ──────────────」

 憮然とした面持ちで、バリーが頷く。

 こんな所に桟橋など有るわけもない。フィリップを先頭に、ジェイムスが宏隆の後ろに回って、腰の近くまで水に浸かりながら水上機まで歩き、フロートに這い上がるようにして機内に乗り込む。

 乗っているのはパイロットだけだ。三人乗り込めば乗員は四人となるが、この水上飛行機の定員には、まだ数名の余裕がある。

「フィリップさん、少し遅くなってしまって申し訳ない。出かける前に州警察のパトロールが家の前を通りかかったので、慌てず普段どおりの無駄話をしてから来たんだ」

 パイロットが操縦席から顔を覗かせた。

「ああ、よくやった、その方が良い。州警察のパトロールカーがこの橋を通過する迄には、まだ三十分ほど時間がある。現職のバリーの情報だから間違いない」

「今日の”荷物”は、それかい・・?」

 パイロットが宏隆を見てそう言う。年齢は30代の前半だろうか、背の高い細身の白人で、顔つきはどこか狡賢(ずるがしこ)そうに見える。
 ”今日の荷物”という口ぶりからも、恐らくこの水上機を使って、あれやこれやと悪人の手助けをしては、幾許(いくばく)かの利益に有り付いている類いの人間に違いない。
 いや、もしかすると、半年前にバリーの娘のアンジェラが拉致された時にも、同じようにこの男が協力をしたのかも知れなかった。

「そうだ、後ろ手に手錠を掛けてあるから暴れはしない。安心して操縦しろ」

「オーケイ、離陸するから、シートベルトを締めてくれ」

 ジェイムスが一番後ろの座席に押し込むようにして宏隆を座らせて、手錠を外さないままシートベルトを締める。

 エンジンは切っていないので、機体はすぐに水の上を走り始める。
 このタイプの軽飛行機は200mほどの距離があれば離陸ができ、100〜150mあれば着陸が可能なので、このユーコン川ならほとんど何処でも離着陸ができる。
 あっという間に広い河原が小さくなり、残ったバリーの姿もすぐに見えなくなった。
 


「今日は生憎(あいにく)あんまり天気が良くない。雲や霧が多いから、気をつけて飛ばなくっちゃならないな・・・・」

 パイロットが振り返って、フィリップの顔を見た。

「ベテランのお前が、ずいぶんと弱気じゃないか」

「弱気になっているワケじゃないが、元々アラスカはとても飛びにくい所なんだ」

「ほう・・オレはずっとカリフォルニアに居たから、分からないが」

「CA(カリフォルニア州の略称)とは全く条件が違う。アラスカは州都のジュノーを含め、州の80%以上のコミュニティが高速道路や路線システムに繋がっていない。ここじゃ空路や水路を使っての移動が必須になっているんだよ」

「ああ、それは分かるが・・・」

「多くのアラスカ住民にとっては、都市へ買い物や用事で行くには、軽飛行機で数百マイル飛ぶのが当り前になっている。よその州のバスや鉄道みたいな感覚だな」

「なるほど───────────」

「しかもアラスカは非常に天気が変わりやすい。複雑な山岳地帯や蛇行する河に沿って飛ぶフライトでは、気象の急変に遭遇する割合が非常に高くて、乗員に危険をもたらすんだ。
 現に小型機の事故はアラスカ州が最も多く、10万時間あたりのフライトで14件も発生している。それはアメリカ国内の平均と比べると2〜3倍に相当しているんだ」

「ふむ。しかし今日の天候くらいなら、そんなにビビることも無いんだろう?」

「ああ、今のところは、な・・だが、大自然は気まぐれだから何とも言えない」

「ははは、脅かすなよ。まあ、ここからValdez(ヴァルディーズ)までの、わずかな距離のフライトだ、せいぜい安全な操縦をたのむぞ!」

「わずかな距離だって?、こんな軽飛行機にしちゃ結構な距離なんだけどな・・・」

 パイロットの男は、ちょっと煩わしげに顔をしかめた。

「ははは、まあそう言うな、報酬を勢(はず)んでやるから」

「はずむって?・・具体的に、幾らにしてくれるんだい?」

「How about 2,000 bucks for the flight ?(2千ドル*、ってのはどうだい?)」

「Wow、It's a deal!(わぉ、そりゃ決まりだぜ!)」

 パイロットはすっかり気をよくして背筋を伸ばし、操縦桿を握りなおした。

(*註:'70年代の米ドルは約十倍の価値とされる。2,000ドルは現在の200万円に相当)


(ヴァルディーズ、と言ったな・・・それは確か、十年ほど前のアラスカ地震で津波に見舞われた港町の名前だ。そこまで行って、やはり船でこのアラスカを出るつもりなのか・・・しかし、二千ドルとは、えらく張り込んだものだな、ははは)

 宏隆は、自分を北朝鮮に連れて行くことがそれほど価値がある事なのかと思うと、なぜか可笑しかったが、取り敢えずアラスカの地図を思い出しながら、頭の中でおよその距離と時間を測っておくことにした。

(コールドフットからダルトンハイウェイをユーコン川まで南下して来たのだから、フェアバンクスまでの距離は残り90kmほどだ。ヴァルディーズはアンカレッジから200kmほど東にある所だから、フェアバンクスからは直線で約500kmぐらい、合計600kmほどの距離ということになるな・・・
 この機体にはBeaverと書かれていた。かつて宗少尉とパラシュート降下訓練をした時に、パイロットから「ビーバー」という名前の軽飛行機が南極観測隊で「昭和号」として使われていたと聞いたことがある。足元にはフロート装備もできて、確か最大速度は250km、航続距離は1,000キロ以上ほどあったはずだ。もしそれと同じ機種なら2時間余りで到着するということか・・・)

 普通の人は、外国の観光地の地図を見ても、それほど細かくは気にしないだろう。
 だが、宏隆は日本にいる間に大学生活を送るアラスカの地図を詳細に見尽くして、鉄道、ハイウェイ、主要都市、主な国立公園などの位置と、それらのおよその距離を頭に叩き込んでいた。また、加えて南部のアンカレッジ、中部のフェアバンクス、北部のコールドフットの年間の最低・最高気温の変化なども、およその数字は把握している。
 ひとたび何かが起こった時に、そのような知識が大いに役立つことは間違いなく、現にこうして、機上の囚われの吾が身にどのくらい時間が残されているかを素早く計算することができるのである。
 

「もうどの辺りまで飛んだんだい─────────?」

 少し眠そうな、暢気な声で、ジェイムスがパイロットに訊ねた。
 ユーコン川を飛び立ってから、もう数十分ほどは経っているが、エンジン音に包まれた中で何もすることがないと、睡魔が襲ってくる。昨夜は全く眠っていないので尚さらのことであった。

「まだデナリ(マッキンリー)の山麓だよ。こう視界が悪くっちゃ、同じ距離でもいつもより時間が掛かるような気がする。それに、今日はなんだかイヤな予感がするんだ・・・」

 パイロットが、少し何かに怯え、苛立(いらだ)っているような声で答えた。
 視界こそあるが、空の上はかなりの霧が出ていて前方が見にくい。もし、さっき約束した二千ドルの報酬がなければ、こんな日は誰もわざわざ飛びたくはないに違いない。

「おい、何だか顔色が優れないが、このまま飛行していても大丈夫なのか?」

「フィリップさん、今日のフライトはけっこう難儀だよ。こんな時はつくづく、計器を見るだけで正確に飛べる奴らが羨ましく思えてしまう」

「えっ、な、何だって?・・お前は計器を見ながら飛んでいないのか?」

 ジェイムスが驚いて言う。

「ああ、オレは計器飛行の免許は持っていない───────────」

「ま、まさか、そんなバカな!、飛行機を操縦するのに、パイロットなら誰だって計器を見ながら飛行するんじゃないのか?!」

「それは素人の誤解だ。もちろん主要な計器は見るが、ただの自家用飛行機の操縦免許には計器飛行証明は付いていない。そんなものが無くても有視界飛行はできる。買い物や釣りに行くのに、いちいち計器を使った離着陸なんか、誰もやらないからな」

「何だって!・・初めからそれが分かっていたら、お前なんぞを雇ったりはしなかったぞ。ああ、何てことだ、こんな大仕事にど素人のパイロットを雇うなんて!」

 興奮したジェイムスが大声で怒鳴った。

「ふん、ど素人はお前さんたちの方だろう。オレにどんな免許があるかを、ロクに確かめもせずに雇ったんだからな」

「うぐっ、く、くそおっ・・お前には二千ドルの価値なんか無いぞ、半分の千ドルでも多すぎるくらいだ!!」

「そんなことを言っても良いのか?、お前さんたちの命は、オレが握っているこの操縦桿に掛かっているんだ。口の利き方には気をつけるこったな!」

「む、むむぅ・・・・」

「ジェイムス、パイロットの言うとおりだ。ここは彼にすべてを任せて、集中して操縦してもらうしかない。少し黙って、おとなしくしていろ!」

「フィリップさんは物分かりが良いな。それに、たとえオレが計器飛行証明を持っていたって、今回頼まれたフライトのコースでは計器飛行ができないのさ」

「・・それはどういうことだ?」

「計器飛行というのは航法援助施設をたどって飛ぶものなんだ。その施設はそこらじゅうに設置されているワケじゃないから、このアラスカでそんなものを頼りに飛んでいたら、えらく遠回りになって、しょっちゅう目的地に着く前に燃料が無くなっちまう。有視界で判断して飛ぶからこそ、目的地までほぼ一直線に、燃料や時間を節約して飛べるんだよ」

「そうか、よく分かった・・・ジェイムスの暴言を許してやってくれ。視界が悪くて、さぞかし操縦し難いだろうが、機嫌を直して目的地まで集中して飛んでくれ。無事に着いたら、さっき約束したとおり、キャッシュで二千ドルを払わせてもらうよ」

「流石はボスだな、軽薄なチンピラ悪徳警官とは違って器量が大きい。あんたがそう言ってくれるなら、一生懸命がんばってみるよ」

「な、なにぃ、チンピラ悪徳警官だとぉ・・!!」

「ジェイムス、やめろ。問題はこの悪天候を、どう切り抜けるかだ───────────」

 フィリップがそう言いながら、振り返って宏隆を見た。



                              (つづく)





  *次回、連載小説「龍の道」 第143回の掲載は、11月1日(土)の予定です


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2014年10月01日

連載小説「龍の道」 第141回




第141回  A L A S K A (10)



(やれやれ、また拉致されるのか────────────)

 持って生まれた能天気な性格が幸いするのか、それとも本当に自信があるのか、その自信に裏付けられた度胸があるのか、こんな大変な事態だというのに、宏隆にはどこか余裕のようなものが感じられる。
 それは、かつて兄と学校帰りに不良に襲われた時も、台湾のホテルで北朝鮮の潜入工作員に銃を向けられた時も、また、彼らを振り切って監禁から脱出した時も、同じであった。

 だが、実際にこの難局を切り抜けられるかどうかは、また別のことである。
 フィリップが言うように、これがワナだとは気付かず、自分はノコノコとやって来てしまった。まさかバリーまでグルだとは思いもよらず、フィリップは元より、この家に居る四人全員が敵として自分に向かい、文字どおりの四面楚歌になってしまったのだ。
 
「ヒロタカ、忠告をしておくが、下手なことを考えず大人しくした方が利口だぞ。この状況はどうあがいても多勢に無勢、お前の不利は火を見るよりも明らかだからな」

「そうらしいな・・だが、これから僕をどうするつもりだ?」

「ははは、そんなことを言うもんか!、計画を明かせば、お前が辛抱強くチャンスを待ち、間隙を突いて行動するに決まっている。敵に手の内を明かすようなバカはしないさ!」

「むぅ・・・・」

 このフィリップは、かつて台湾で自分を拉致したチームよりも頭が良いかも知れない。
 宏隆は、台湾で自分が拉致された時のことを振り返って、そう思った。

 台湾では玄洋會に潜入していたスパイの徐(じょ)が、宏隆との会食を好機として拉致のプランを実行したが、陳中尉や宗少尉たち、武漢班の迅速な捜索と的確な追跡が功を奏し、激しい戦闘の末、海路を北朝鮮へ逃亡する直前に東シナ海で宏隆を無事救出し、リーダーの徐は自ら船を爆破して事件の幕を降ろしたのであった。(第50回〜59回/綁架を参照)

 その間、彼らが宏隆に散々手こずらされたのは、多寡が上流家庭のお坊ちゃんひとり、たとえ少々武術をかじっていようと所詮は素人、味方であると油断させれば簡単に拉致できると踏んでしまった彼らの甘さであり、認識不足ゆえでもあったのだろうが、今回の敵は予め宏隆の性格までよく分析し、取るであろう行動を先に読み、それに沿って準備を整え、十分な体制で罠に掛かるのを待つという周到な戦略を取っている。
 たった独りでそのような敵に立ち向かうには、宏隆はまだまだ経験も実力も、あまりにも不足していた。


「さて、急がないと夜が明ける。朝のうちに目的地に着かないとな・・・ジェイムス、そろそろ出発するから、時間を合わせて目立たぬように来いと、向こうに電話しておけ!」

「了解 ────────────」

「ヒロタカ、今度はお前が床に伏せる番だ。おとなしく言うことを聞いてもらおうか。
 言っておくが、下手に暴れたりしたら遠慮なく撃ち殺してやる。お前は同志のカタキでもあるからな。バリーの娘も二度と両親に会えなくなる。よくそのことを覚えておけ!」

 こうなったら兎も角、相手の言うことを聞くより他に仕方がない。
 床に腹這いになりながらバリーの顔を見ると、申し訳なさそうな顔をしながらも、必死にショットガンを此方に向けて構えている。一人娘が誘拐され、北朝鮮に監禁されているのだから、敵の言いなりになってしまうのも無理はないだろう。もし自分が同じ立場だったら、そうしたかも知れないと思うのである。

 どこの誰に連絡をしたのか、電話をかけ終わったジェイムスが、腹這いになった宏隆の腕を背中に回して、持っていた手錠で拘束した。
 腰に提げたフルフラップのホルスター(上部にカバーが付いたもの)には警官用の拳銃が入っている。さっきフィリップに渡した銃は本人から預かっていたものに違いない。

「おい、ブレイザーを玄関に回すんだ。お前の運転で行くぞ。女房は置いていけ、何かあったら女房に責任を取ってもらうから、そのつもりで居ろ!」

 フィリップがそう言うと、バリーが頷いて、すぐに外へ出ていった。


 小降りになってはきたが、戸外(そと)はまだ冷たい雨がそぼそぼと降っている。

「乗れっ・・!!」

 ジェイムスが宏隆の背中を銃身で小突いて、ブレイザーの荷台に押し込むように乗せた。
 ホテルに送ってもらった時にはもちろん座席に座ったが、今度はカーペットさえ無い、鉄板が剥き出しの荷台に放り込まれた。

(クルマに乗せて、どこへ連れて行こうというんだ・・?)

 宏隆は不思議に思った。バリーの家は飛行場の側にあるから、てっきり小型飛行機で給油しながら何処かの港に近い飛行場まで行き、海路でロシアのカムチャツカ半島の南にある、アバチャ湾あたりの港にでも寄りながら北朝鮮へ向かうのかと想像していたのである。

 ブレイザーは、ダルトンハイウェイを南に向かっている。
 この辺りに道はこれ一本しか無いので、コールドフットを訪れる為のセスナに乗ったフェアバンクスの方へ戻るように走っているのだ。

 ダルトンハイウェイは、フェアバンクスから北極海に面した油田基地プルドーベイまで、原生林と荒野を貫いて延々と800km続く、小石と砂と土の混じった砂利道である。敢えてそのままにしてあるのは厳しい冬の寒さに舗装が全てひび割れてしまうからであるが、そんな道をバスも乗用車も、油田に行くトラックも、みな時速100kmの猛スピードで走って行くのである。

 けれども、こんな明け方には、さすがに他のクルマの影もない。
 ブレイザーは、すでに白み始めた極北の地を、ひたすら突っ走っている。

「バリー、あなたの気持ちは分かるが、警察官として、フィリップのこのような悪行を見過ごして良いのか、少し考えたらどうだ」

 ぶつけるように大声を出さなければ、砂利道を走るノイズで、すぐそこの運転席にも声が届かない。宏隆は怒鳴るようにバリーに声を掛けた。

「勘弁してくれ、ヒロタカ。もちろん、こんな事をするのはオレも不本意なんだ。だが、どうしてもアンジェラを無事に取り戻してやりたい。お前には本当に悪いと思っている・・」
 
「バリー、娘を拉致された親の気持ちは良く分かるが、コイツらが約束どおり娘さんを返してくれる保障はどこにもないんだ。日本で拉致された人たちは誰も帰ってきていない。あなたも警察官なら、彼らをきちんと捕らえ、国家と国民に働きかけて、北朝鮮の国家規模の犯罪に真正面から立ち向かうべきじゃないのか?」

「う・・うぅむ・・・・」

「ヒロタカよ、バリーを寝返らせようとしたって無駄なことだぜ。オレはきちんと約束を守る。お前を連れて行くことが出来たら娘を無事に帰すさ。アンジェラはオレとは何の関係もないからな。だがお前は台湾の玄洋會の人間で、そこに多大な出資をしているミツオキ・カトーの大事な息子だ。おまけに同志を散々苦しめてくれたプロフェッショナルときている。一般人ならともかく、そんな奴をバリーがそれほど哀れむ必要は無いのさ」

 助手席から、バックミラーで宏隆を覗き込むようにして、フィリップが言う。

「バリー、よく考えるんだ。こんなことをしてアンジェラが喜ぶのか?!」

「・・・・・・」

「黙って、静かに座っていろ!!」

 後部座席に居たジェイムスが、荷室と境の金網を激しく叩いた。
 バリーの車は、逮捕した犯人は無論、時には捕獲した動物を載せるために、カーゴスペースには丈夫な金網を巡らせてある。宏隆は凶悪な犯人のように、後ろ手に手錠を掛けられたまま、そこに放り込まれている恰好だ。

「ジェイムス、君も警官なら恥を知れ。幾ら報酬をもらうのか知らないが、法の番人で正義を守る警察官がそんなことをしては、市民は何を信じたら良いか分からない。君にも親があり、愛する人が居るだろう、彼らに対して恥ずかしいとは思わないのか!」

「やかましいっ!、さっきフィリップが言っていたことを窓の外で聞いただろう?、この国の警察官に、いや世界中の警察官に、一体何人まともなヤツが居るのか怪しいもんさ。
 それに、ちょいとお前を誘拐する手助けをするだけで家一軒が買えるほどの報酬が手に入るんだ。オレの親父はルソン島の戦いで、あともう少しで日本が降伏するという直前に、突撃してきた日本兵の Japanese Sword(日本刀)に斬られて死んだんだ。仇敵(かたき)であるジャップのガキのひとりやふたりノースコリアに売り飛ばしたって、天国にいる親父も怒らないさ」

「戦争は勝っても負けても哀しいものだ。戦死者はどちらの国にも居る。戦争の結果と、君がカネで人を売ることとは別のことだろう!!」

「いいや、人助けさ。お前をフィリップに渡せば、バリーには娘が帰ってくるんだからな。アンジェラは白人だ。一匹のイエローモンキーよりも大事に決まってるさ、あははは!」

「くっ、なんて奴だ・・・・」

「はははは、バリーもジェイムスも、お前の言うことを聞いてくれないな。戦後三十年経っても、まだまだジャップは世界に許してもらえないようだ──────────
 日本じゃ8月15日を終戦記念日と呼んでいるが、オレの祖国では日本の朝鮮半島統治から開放された祖国解放記念日だ。南の大韓民国も光復節と言って日本からの開放を祝うし、中国でも抗日戦争勝利の日と呼んでいる。近ごろは経済成長でデカイ顔をして世界中にのさばり始めているが、日本という国なんぞ、そのうち消えて無くなると言うことをジックリと思い知らせてやるから、覚悟するんだな」

「む・・・・・」

 

 もうかれこれ一時間半以上も、この道を走り続けている。

 ブレイザーには時計がついていないし、腕時計は後ろ手に手錠を掛けられているので見えないが、宏隆は訓練によって時間の経過を自覚することができ、およそ45分ごとに時の経過がほぼ正確に感知できるようになっている。いわば体内時計である。

 それは玄洋會の訓練で得たものではなく、睡眠を利用して自分で自覚できるようになったのだ。宏隆の場合、睡眠時間が45分毎のサイクルであることが徐々に分かってきて、それに合わせて目覚ましをかけたり、逆算して寝床に入るようにしているうちに、起きている間もそのサイクルが存在することが分かり、自然と身に付いてきたものであった。

 その便利な体内時計によれば、今はコールドフットを出発後、45分のサイクルの三回目に入って少し経ったところであった。

(この速度だと、そろそろユーコン川にさしかかる頃か・・・・)

 そう思ってから5分もしないうちに、案の定ブレイザーの前方にはユーコン川に掛けられた長い橋が見え始めた。長さが半マイル(800m)もある Yukon River Bridge である。
 クルマは橋を渡らず、橋の200mほど手前で左の小径に折れて下り、やがてその巨大な橋を間近に見上げる、広々とした河岸に出て停まった。
 だが、こんなところに来て、一体どうするつもりなのか──────────────


「よし、到着したぞ、急げ・・!!」

 助手席のフィリップが素早く降りて、後部座席から荷物を取る。

「お前も降りるんだ、モタモタするな!」

 ジェイムスがリアゲートを開けて、宏隆を乱暴に引きずり出そうとする。

「こっちは後ろ手に拘束されているんだ、そんなに早く降りられるものか・・」

 危うく転げ落ちそうになり、つい文句を言ったが、

「こいつ、ジャップの分際で、エラそうな口をたたくんじゃねぇ!」

 ジェイムスが宏隆の顔にパンチを一発叩き込み、宏隆はもんどり打って倒れた。

「ううっ・・・・」

「おいっ、北朝鮮の大事な客だ、手荒なことをするんじゃないぞ」

「大丈夫だ、コイツはこのくらいじゃ参りませんよ。多分かなり訓練も積んできている。サシで戦えば結構手こずらされるでしょうね。だが、手錠を付けていたらオレの敵じゃない。立場の違いを思い知らせておかないと、途中で暴れられたりしたら厄介ですよ」

「・・うむ、まあ、少しはいいだろう」

「こ、この野郎、手錠を掛けられた相手には、威勢が良くなるみたいだな・・・」

「なんだとぉ・・お望みなら手錠を外して勝負してやってもいいんだぜ」

「ジェイムス、挑発に乗るな。それに、お前じゃヒロタカに勝てない。この坊やを甘く見たために、同志たちは台湾で大変な目に遭ったのだ」

「ペッ!・・・命拾いをしたな、若造!!」

「命拾いをしたのは、お前の方だ!」

「な、なにをぉ──────────────!!」

「よせっ、お前を雇ったのはヒロタカを痛めつけるためじゃない」

「くっ、むかつくガキだぜ・・・」

「バリー、考え直せ。あなたはジェイムスのようなカネで動く人間じゃない。ぼくと交換に娘さんが戻ってきても、決して気持ちが良くないはずだ」

「ええい、まだそんなことを言うのか────────!!」

 言われた途端にバリーが早足で駆け寄り、宏隆の腹に一発、強烈なパンチを喰らわせた。
 クルマの中では終始無言で、宏隆に言われたことを考えている様子だったが、ここまで来てすっかり迷いがなくなったのか、怒りを露わにして宏隆を殴ったのだ。

「ぐうっ・・・・・」

 後ろ手に拘束されているところを、ガラ空きの腹に渾身の一撃を喰らうのだから、かなりのダメージがあった。思わずその場で膝を着いてかがみ込んだところへ、さらにバリーが片手で宏隆の髪の毛を掴み、もう一方の手でアゴを挙げて顔を上向きにし、その恰好のまま胸に蹴りを喰らわせた。

「ううっ─────────────────!!」

 ドォ、と蹴り倒され、小石だらけの河原に転がされながらも、宏隆はまだ何かを言いたげにバリーの顔をじっと見つめたが、

「なんだ、その眼は・・オレを恨んだって仕方がない、自分の運命は自分で拓くんだな!」

 冷たく、そう言い放った。


                               (つづく)





  *次回、連載小説「龍の道」 第142回の掲載は、10月15日(水)の予定です


noriko630 at 23:56コメント(16) この記事をクリップ!
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