*第141回 〜 第150回

2015年03月15日

連載小説「龍の道」 第150回




第150回  A L A S K A (19)



「ああ、何てバカな人生だったのだろう────────────」

 ようやく温まった身体を伸ばして、独りそう呟(つぶや)いた。
 もう衣服も、靴も、すっかり乾いてきた。

 フィリップは、薮の向こうに見える湖水に向かって、ゆっくりと歩き始めた。
 冷たい風が止んだ湖は、空の青さを所々に映して、静謐さを湛えている。


 あのとき、宏隆が────────流れ弾に当たって死んだパイロットに代わって、やったこともない操縦をし、真っ逆さまに墜落するのを避けて、必死に水上機を水平に保って此処に不時着をさせたのだが、着水のショックで機体が湖面を二転三転し、その時の激しい衝撃で、不覚にも自分は気を失ってしまった。

 機体は時間が経つにつれて、どんどん水中へと沈んで行き、やがて、彼方の湖上に見えているような、片方のフロートを挙げてひっくり返った無惨な恰好となった。

 ────────そのことは、自分にも容易に想像できる。
 だが、そんな一刻を争う状況の中で、なぜか宏隆は、自分をわざわざ機内から救い出し、冷たい水の中を、この岸まで、恐らく1時間もかけて泳いで運び、焚き木を拾い集めて火を熾し、木枝のベッドに寝かせて、低体温症の危険からわが身を護ってくれたのだ。

 いま考えてみても、まるで夢を見ているような気がする。
 あのまま・・・墜落したまま、そこに放置されていたら、今ごろ自分は完全に、この湖水のように冷たくなっていたに違いない。
 たとえ途中で気が付いたとしても、全身が麻痺して、とても此処まで泳いでは来られなかったはずだ。いや、あるいはそれ以前に、機内への浸水によって、意識不明のまま、座席に座った恰好で溺れ死んでいたかも知れなかった。

 自分は周到に計画を練って、宏隆を罠にかけ、故国チョソン(北朝鮮)に拉致しようと企んでいた。水上機がデナリの山麓で濃い霧に巻かれさえしなければ、それが半ば完遂するところであった。この作戦が成功すれば、自分は将軍様から勲章を授与され、階級は上がり、軍内での株も上がって、35号室(註*)の責任者の一人として抜擢されたかも知れない。

【 註*:35号室=朝鮮労働党対外情報調査部の異名。韓国以外の第三国へスパイの浸透させることを目的とし、世界各国に対するスパイ活動、拉致、テロ活動を行っている機関。2009年に発展的解消した 】


 しかし、そんな自分を救った理由を、宏隆は、ただ目前に死にそうな人間が居たからで、他に何も考えていなかった、と言った。

「負けだ──────────俺は何もかも、あの少年に負けている。俺は敵を助けるような度量なんぞ、これっぽっちも持ち合わせていない。ヒロタカの大きさは、俺には真似できない。俺がやってきたのは人を救う訓練ではなく、人を騙し、人を殺す訓練だった。そのせいで、人間として、どこかが歪んでしまっているのだ・・・」

 同時に、宏隆にはどれほど感謝をしても足りないと思える。そして、彼が他人に対して、これほど心からの感謝を思えるのは、生まれて初めての経験なのであった。

 フィリップの中で、なにかが目覚めたのである。
 まるで心の中が洗われたような気持ちになって、 遠く静かな湖水に浮かんでいる、墜落した機体を眺めた。

「そうだ、貧しかったのだ、わが身も、わが心も──────────────」

 眼を閉じると、故国での幼い日々が思い出された。

「あの国では、国民の誰もが飢えていて、子供はみな慢性的な栄養不足の状態にあった。
それは今でも変わらない。日常的な食料を必要としている人は、常に何百万人もいる。
 だが、アメリカの、この国の豊かさはどうだ─────こんなアラスカの田舎でさえ、人々は何の不自由もなく、食い物をたらふく喰って、好きなだけ酒を飲み、多くの残飯を捨てていられる」


 北朝鮮─────朝鮮民主主義人民共和国の人口は約二千万人。このうち労働党幹部、安全部員(警察)、国家保衛部員(秘密警察)、軍人を合わせて三百万人。それに六百万人の管理された農民を加えた計九百万人は飢餓から逃れられる人たちだが、残りの千数百万の人たちは日常的な飢えや貧困に直面している。
 この国で平壌(ピョンヤン)だけにある、青々とした芝生の公園では、官憲の目を盗んで草を手提げ袋一杯に摘み取る人の姿も見られる。奉仕で雑草を抜いているのではない、食料として持ち帰るためだ。腐りかけのトウモロコシやジャガイモなどの食料さえ配給が滞ってしまう時には、誰もが道ばたのタンポポやヨモギを奪い合うようになる。他人の家に泥棒に入ることなどは、ごく普通に行われる。


「俺は、絶対に飢えるのがイヤだから、軍で頑張って、特殊部隊の兵士にまでなった・・」

 フィリップは、アメリカに来る前の自分を振り返った。

「俺の家は、いわゆる「核心(註**)」の成分(階級)に格上げになった。叔父が苦労して陸軍の大尉まで上り詰めたおかげで、一族は皆、大きな恩恵を蒙ることができたのだ。
 叔父はコツコツと真面目に出世したのではない。出世に必要不可欠な賄賂を稼ぐために、中国と密貿易をやったのだ。発覚すれば大罪だが、取締りの役人に多額の賄賂を渡しながら上手にやり、それが成功して出世した。叔父には儲けは一銭も残らなかった。
 その日から我が家に飢えは無くなり、やがて自分はアメリカに派遣されて、この国の人間に成り済まし、在アメリカ朝鮮人として生活することになった。この国の人間と同じ豊かさを味わえることになったのだ」

【 註**:「核心」は北朝鮮独自の出身成分の区分。国家への忠誠度が高い順に「核心・動揺・敵対」の三層に分かれ、中身が51種の成分に細分化される。政治犯の子孫などは自動的に「敵対」になり、日本からの帰還者は「動揺」の層に位置付けられる。核心以外に所属する者は監視の対象となる。たとえ学業成績が優秀でも天才でも、平壌の大学に行くには成分が良く、賄賂を払える余裕がなくてはならない 】


「─────外国人の拉致は、我々北朝鮮特殊部隊が暴走して勝手にやっているような事を国際社会にアピールしているが、本当は最高指導者である将軍様の承認を得た、純粋な国家政策だ。
 北朝鮮では人材が不足している。先進の科学や技術の研究者は無論、あらゆる職人、製造業者に至るまで、物を造ったり研究して行ける人間がまったく足りていない。だから目星い人間を拉致して、国家の発展に寄与させるのだ。拉致の対象は日本に限らないが、取り敢えず日本人の拉致は千人を目標としている。
 職人以外の日本人は、主に韓国に送るスパイとして育成する。スパイ教育は、これまでは土台人(註***)である在日韓国人や在日朝鮮人を使っていたが、韓国当局が数多く摘発するようになったので、今度は日本人をスパイに仕立てる必要が出てきたのだ」

【 註***:土台人(トデイン/どだいじん)=北朝鮮諜報機関の用語。対日工作活動の土台として利用する在日朝鮮人を意味する。朝鮮総連の構成員や朝鮮学校の元教職員が土台人となって日本人拉致を支援するために犯した罪で、検挙や指名手配された例も多い。
 在日朝鮮人のみならず、「よど号」の犯人帰国を支援する市民団体などが、土台人として日本人拉致問題に関する警察の家宅捜索を受けた例もある 】


「中でもヒロタカは、重要な拉致の対象だった。日本の富裕層に属し、頭脳明晰で腕っ節も強い。こんな優秀な若者をチョソン(北朝鮮)が放っておくわけがない。
 本人を再教育して洗脳し、諜報部のエリートに育て上げる。親からは莫大な身代金を搾り取れるし、いずれは親にも全面的にチョソンに奉仕させようという計画だ。加えて、玄洋會へのスパイとして協力させることもできる。ヒロタカと家族が国家に与える利益は計り知れない──────そういう計画だった」
 
 
 だが、もうそれもどうでも良い──────────

 そうフィリップは思える。このままヒロタカを解放し、自分もあの国の呪縛から開放されて、アメリカ人たちのように、のびのびと自由に生きたいと、つくづく思うのだった。

「自分は裏切り者として、当局に追われることになるだろう。
 自分だけでなく、父母や叔父にまで、厳しくその責任を問われるのも分かっている。 
 だが、もともと北朝鮮には、人民の自由も幸福も、未来も希望も、何も無い。
 民主主義とは名ばかりの、軍事が優先する「先軍思想」を中核にした、金日成、金正日という、世襲の最高指導者への個人崇拝と、絶対的服従が政治の基礎となった、恐怖の一党独裁国家───────そんなくだらないものに、大切な一生を支配されてたまるものか。追って来るなら、追ってみればいい。返り討ちにして、逃げ切ってやる!!」


「ゴォォオオオオオオンン・・・・・・・」

 また一機、セスナが低空で過ぎていった。

 音に気付いたときにはもう遅く、手を振る間もなかったが、かえってその方が良かった、とフィリップは思った。

「自分は誰かに発見されないように、ここでヒロタカと別れて、この広いアメリカの何処かで、ひっそりと生きたい、と思う。もう故国にも、部隊にも帰らない。もうあそこの暮らしは真っ平ごめんだ。
 かつてヒロタカの拉致を失敗したリーダーの徐は、生まれ育った国家を裏切ることは出来ないと、玄洋會と戦って台湾沖で船ごと沈められた。だが、俺は徐さんとはちがう。あれが国家と言えるのか、あんな国家に、あんな独裁者に、忠誠など尽くすものか」

 これからは、こんな大自然の中で、静かに自分の人生を見つめたい。もっと人間らしい暮らしがしたい、人間として生きたいと、フィリップは心からそう願うのであった。

「・・そうだ、少し魚でも釣らなきゃいけないな。このまま黙って去ってしまったら、あまりに恩知らずというものだ。せめて、ヒロタカの空腹を満たしてやらないと・・」

 手頃な枝を見つけて、ナイフを出して小枝を払い、器用に即席の釣り竿を作る。
 淡水魚は幼虫・成虫を問わず、虫を餌として食べて生活をしているのが沢山いるが、アラスカでは擬似餌はもちろん、貝か小魚で大概のものが釣れると聞いている。サーモンなどはイクラをネットに入れて放り込むだけで食い付く、中身が無くても、臭いだけ残っていても喰いに来るのだという。

 フィリップは湖岸に突き出ている岩場に行き、タイドプールのように岩間の水溜まりに取り残されている小魚を針に付けて、食いつきそうなポイントに向けて棹を振った。



「おぉい、フィリップ──────────────!!」

 少し離れた湖岸から、宏隆が呼ぶ声がした。

「おう、ここだ────────ここだよ!」

「本当に釣りをしていたんだな・・おや、ちょっとの間にずいぶん釣れたな!」

「アラスカの魚はバカでも釣れるそうだ。だから俺のような大バカでも、こんなに釣れる」

「あはははは・・・・」

「わははは・・・・・」

「森の中に少し入ったら水場があった。こんな処に人家や牧場なんか無いし、鉱山の近くでもないだろうから、たぶん安全な水だ」

「そいつはありがたいな。この湖水も澄んでいて綺麗だが、湧き水の方が安心だ」

「火に焚き木を足してくるよ、狼煙(のろし)が薄くなってきたし、風も出てきた──────その美味そうな魚を焼くための準備をしなくっちゃな」

「ああ、そうしてくれ、俺はもう一匹釣れば、気が済むから」

「ははは・・それじゃ、その前に、魚をいっぺんに持って来られるように、細い枝を切ってこよう。日本じゃ、笹の枝をエラに通して、一度に何匹も運べるようにするんだよ」

「ほう、それは名案だな!」

「ちょっと待っていてくれ、すぐに取って来る」

「ああ、ありがとう─────」



 もう、午後の2時を回っていた。
 宏隆が言うように、風も出はじめて、湖水もだんだん寒々として見える。

 だが、フィリップは、その最後の一匹が、なかなか釣れない。

「おかしいなぁ、さっきまでは、あんなに簡単に食い付いてくれたのに・・」

 もうお終いにしろ、ということかな・・とフィリップは思った。
 そんな自分が可笑しかったが、ただそういう気がするのではない。魚が釣れるのは自然の恵みであり、そんなことにも自然の声を、天の摂理を聴く耳を持たなくてはならない、と思えるようになったのである。

「おぉーい、お待たせぇ──────────!!」

 手頃な細枝を手に、森の中を小走りにやってくる。

「おう、ありが・・・ と・・・・・」

 振り返って、ありがとう、と・・そう答えようとしたフィリップの声がふと途切れ、その笑顔があっという間に蒼白になった。
 
 森の中を、薮の低い、歩き易いところを選んで、此方に来る宏隆の背後から・・・・
 今日の薄曇りの空の光では、樹々の色に溶け込んでしまって、一見それが何であるのか、よく判らないような・・・茶色がかった、大きな塊が、ゆっくりと、宏隆の跡を追ってきている。

「グリズリー(灰色熊)だ───────────────!!」

 子供のように屈託のない笑みを湛えて、薮を蹴散らしてくる宏隆には、背後に間近に迫っている獰猛なものの気配など、まだ何も感じられていない。

「ううっ・・ど、どうする・・どうすればいい──────────?!」

 ほんの少しの間、フィリップは迷った。

 大声で宏隆にそれを告げれば、きっと立ち止まって振り返るだろう。だが、灰色熊はその瞬間に、ここぞとばかりに彼に襲いかかるに違いないのだ。

 しかし、声を掛けなければ、宏隆は灰色熊に気付かないまま、此処までやって来て、二人で渾沌として熊と遣り合うことになる────────


 もう、考えている暇はなかった。

「ヒロタカ────────────!!」

 フィリップは素早く腰の銃を抜いて、宏隆の方に向けて、構えた。

「えっ・・・?」

 もう、十分な射程距離に入っている。
 
「フィリップ・・な、何をするんだ・・・・・?」

 宏隆は、突然自分の方に銃口を向けられて、呆然として立ち尽くした。

「動くな───────じっとしているんだ!!」

 まさか?・・・と目を疑った。
 せっかく、打ち解けて解り合えたフィリップが、どうして自分を撃とうとするのか。
 宏隆には目の前の光景が、信じられなかった。

「な、なぜ、そんなことを・・・?」

 やはり、フィリップは、テロ国家の手先として、使命を果たすつもりなのか?
 いや、しかし・・まさか、そんなことが─────────────
 
 ほんの一瞬、そんな思いが宏隆の頭をよぎったが、


 そのとき・・・・・


「ダァ────────ン!!」


 無情の銃声が、静謐の湖に谺(こだま)した。



                    ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第151回の掲載は、4月1日(水)の予定です


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2015年03月01日

連載小説「龍の道」 第149回




第149回  A L A S K A (18)



「GO, GO, GO, GO !! ・・乗り込めっ!、急げ、時間が無いぞ────────!!」 

 コールドフットの飛行場には、その日の朝から警察官が集結していた。
 今も、すぐにでも発進できるようにヘリコプターが風を巻き上げていて、近隣から駆けつけた武装警官や、オレンジ色の制服を着たレスキュー隊員たちが、数台のパトカーや救急車の周りを忙(せわ)しなく走り回っている。

 この土地で唯一のホテル、”Slate Creek Inn(スレート・クリーク・イン)” で、宿直の職員が暴行を加えられ昏倒しているのを、今朝出勤してきた従業員が発見し、管理室の無線機が叩き壊され、そこの電話やロビーの pay phone(公衆電話)の線まで切断されていたので、大騒ぎとなったのである。

 従業員の機転で、長距離トラックの宿泊客の無線機を借り、真っ先に頼るべき地元駐在官のバリーと連絡を取ったが全く連絡が取れない。State Police(州警察)に問い合わせてもバリーの行方が判らず、フェアバンクスから5名の Troopers(トゥルーパーズ/州警察官)がヘリコプターで駆けつけた。高馬力の州警察のヘリは、わずか30分足らずでホテルの駐車場に到着した。

 だが、現場を検証しても、不思議に金庫や備品は荒らされていない。犯人は迷彩服に黒い目出し帽を被り、人相も判らないが、何のために従業員を殴り、無線機を壊し、電話線を切ったのかが分からない。被害を受けた従業員たちには共通点も無く、強盗でもなければ怨恨による犯行でもない。そもそも何を目的とした事件なのか、誰にも見当がつかなかった。

 しばらくして、ホテルの小型ピックアップ・トラックが一台盗まれていることに気付き、それが飛行場近くに放置されていた事も分かり、昨夜からホテルに不在となっているフィリップ・ジェイソンと、ヒロタカ・カトウ、そして、連絡の取れないまま、夫婦ともに駐在所に不在となっている州警察官のバリー・ボルトンも、この事件に何らかの関わりがあると見て、捜査が始められた。
 特にフィリップ・ジェイソンは、チェックアウトをしていないのに、部屋が蛻(もぬけ)の殻であり、窓から出入りした形跡もあって、その不審な行動が怪しまれた。

 ホテルを捜査中に、その日の早朝、デナリの山麓で、軽飛行機が今にも墜落しそうな危うい様子で南下して行ったという情報が寄せられた。また、そこから少し南に行ったタルキートナ付近では、アラスカ鉄道と並行して走るハイウェイから、遠く西北の方角に水上機が墜落していくのが見えた、という通報も入った。

 The Alaska State Police(アラスカ州警察)は、ホテルで起こった暴行・破壊事件と、その墜落機との関連性を確認することを急ぎながら、デナリ周辺のパーク・レィンジャー(森林警備官)や、ワイルドライフ・トゥルーパーズ、そしてアンカレッジ(アラスカ州最大の都市)の警察隊も動員して情報収集を急ぎ、事件の解決に向けて動き出した。

【註:Troopers(トゥルーパーズ)】
 アラスカ州では、Department of Public Safety(公安省)所属の Troopers(トゥルーパーズ)と呼ばれる State Police(州警察)が唯一の警察組織として機能している。 
 Troopers には、刑法を執行する Alaska Bureau of Investigation(捜査局)、交通法を執行する Alaska Bureau of Highway Patrol(交通局)、狩猟釣魚を監督する Wildlife Troopers が存在し、常に陸上、水上、空中でのパトロールを行っている。



「ふぅ・・下手をすると、こっちが遭難しそうだな──────────」

 コックピットの、操縦席の隣にある小さな椅子に、いかにも窮屈そうに座っているヒゲ面の大男が、独り言のようにつぶやいた。
 デナリの山麓は、まだ所々に濃い霧が残っている。それが突然現れては、またウソのように晴れて、途端にいきなり岩肌が目の前に出現したりするので、気が気ではない。
 
「こんな山間(やまあい)を飛ぶのは、たとえ晴れている時でも怖いわね。もっとも、この方が人目にはつきにくいでしょうけれど────少し高度を下げてみるわ」

 美しい金髪を後ろで束ねた、濃いオリーブ色のキャップを被った女性が、操縦桿を少し前に倒しながら言った。キャップの正面の、”UAF / AD SUMMUM”と書かれた、白クマの顔のエンブレム(ワッペン)が目を惹く。

 高度を下げれば霧は晴れるが、その分、上から全体を見渡すような捜し方は出来ない。

「今度は、少し右の方へ旋回してみてくれ、Miss Dallier(ミス・ダリエ)」

「カミーユ、と呼んでちょうだい。何なら、Camille Dallier のイニシャルを取って、CDでもいいわよ!・・オーケー、高度 900ft(274m)、GS(対地速度)90kt(167km/h)、旋回半径 1250ft(380m)、右旋回30度 ────────!!」

 スロットルを調整し、計器を読みながら、機体を綺麗に傾けていく。

「アラスカじゃ、女のパイロットは珍しくないが・・・カミーユ、あんたはなかなか操縦が上手いな。フェアバンクス署の、芋パイロットどもより、よっぽど上手い!」

「まあ、Thanks、バリー!」

「おかげでオレは、こうしてあちこちを細かく探せる。やっぱり、パイロット(操縦)をしていると、目で視られるところは限られてくるからな」

 そう言いながら、双眼鏡を手に、眼下の針葉樹林帯を舐めるように観てゆく。

 憶えている読者も居られるかも知れない。この水上機を操縦しているカミーユ・ダリエとは、宏隆がアラスカ鉄道の中で出会った(・・と言うより、任務で宏隆を追って乗り込んでいた)ヘレンのコードネームであった。       (註:龍の道・第134回 参照)

 しかし、そのヘレンが水上機を操って、バリーと共に宏隆を捜索しているのは、いったいどういう訳なのか─────────


 ヘレンは、玄洋會の協力員である父親に就いて、准協力員として訓練中の身で、宏隆より早くアラスカ大学フェアバンクス校に入学し、ROTC(予備役将校訓練課程)も既に1年間こなしてきている。
 アラスカに滞在中の宏隆を常に見守りながら、その行動や結果を報告し、万が一の時には自分が身代わりになってでも護るべき大切な人間であると言われていた。しかし、その宏隆は独り旅を好んで、アラスカ鉄道を途中のデナリでさっさと降りてしまった。

 宏隆は、ヘレンはてっきりそのまま、アラスカ鉄道でフェアバンクスへ向かったと思っていたが、実は彼女も密かにデナリで降り、こっそりと宏隆を追って、彼の行動を把握しようとしていた。
 宏隆がフェアバンクスに行く老夫婦の車に乗せてもらった時にも、すぐ後ろからレンタカーで付いて行った。ヘレンにしてみれば、この際、宏隆の跡を尾(つ)けることは恰好のトレーニングでもあった。

 流石に、コールドフットへのフライトに同乗こそしなかったが、次の飛行機に乗り込み、同じ一軒宿の ”Slate Creek Inn” に来て、ハウスキーピングの従業員から宏隆のルームナンバーを探り出し、フロントで自分のラッキーナンバーだと言って、すぐ隣の部屋を取った。 
 ホテルはプライバシーを重んじるので、混んでいなければ、普通は部屋をひとつ置きに埋めていく。駐車場の空き具合から、隣室が空いていると予想できたのである。

 そして、真夜中に宏隆が警官やフィリップと話しているのを、隣の部屋からドアを少し開けて立ち聞きし、話に出てきた駐在警察官のバリーも含めて、それらの関係性に何か不穏なものを感じ、いずれ何かしらの事件が起こる予感がしていた。

 だが、ヘレンは疲れてそのまま寝(やす)んでしまい、迂闊にもその雨の夜に起こった出来事を識(し)らなかった。宏隆がその後、フィリップの部屋を調べに行ったことも全く知らず、翌朝早くホテルの騒ぎが始まって、ようやく宏隆とフィリップの不在に気付いたのである。

 慌てて、玄洋會の協力員である父親に無線で事情を話し、父の指示で直ぐに飛行場にある駐在所に向かった。昨夜の話に出てきたバリーという駐在官がこの事件のカギを握っていると、この道のプロである父が直感したからである。

 まだ近隣から州警察官が集まってくる前のことで、飛行場では、ちょうどバリーが飛行機のエンジンをかけて、スタンバイさせているところだった。
 友人の宏隆がホテルから行方不明になった、とヘレンが告げると、何を感じたか、バリーは、ちょうど自分も探しに行くところだ、一緒に乗っていくか?、と言う。
 まだ事件が発覚したばかりなのに、もうこの男は宏隆を探しに行くと言っている。父の言うとおり、この男こそ Keyman(キーマン=鍵を握る重要人物)であるに違いない、付いていけば宏隆に行き着くはずだ────────
 そう思って、ふたつ返事でOKし、自分が操縦をするから、バリーには助手席から双眼鏡であちこちを探して欲しい、と言って、さっそく離陸したのだった。


「おそらく、このコースを辿ったに違いないが──────────」

 その言葉にハッとしたが、ヘレンはそれを表情に出さず、黙って計器をチェックする振りをした。
 なぜバリーは、このコースを辿ったに違いないと思えるのか。
 赤の他人が行方不明になっているのに、この広大なアラスカで、デナリの山間部を飛ぶ危険なコースで南へ向かったに違いないと断言できる根拠は何であるのか─────

 ヘレンは、このバリーという警官が、事件の中心人物であると確信した。
 だが、相手は警官である。制服こそ着ていないが、腰に拳銃を提げ、後ろの座席には持ち込んだライフルも置いてある。迂闊なことはできない、用心の上にも用心を重ねて、宏隆が発見された時に自分が取るべき行動を考えておくことにした。

「あ・・水上機が墜落したようだって・・今、かすかに無線から聞こえてきたわ!」

 あいにく、感度の悪い周波数帯である。ヘッドセットを耳に押し付けるようにして、ヘレンが言った。

「多分そいつだ。そう滅多に落ちるヤツは居ないし、普通なら、雨上がりの濃霧の早朝に、わざわざデナリの山麓を飛んだりするバカは居ないだろうからな」

「バリー、早くAST(Alaska State Troopers)に確認を─────!!」

「ASTか・・うむ・・・・」

 やはり、バリーは、州警察本部に連絡を取りたがらないのか。

「どうしたの?、早く連絡を取らないと!!」

 わざと、急かしてみるが、

「ああ、今すぐやるよ。どこの署にしようかと思ったんだ」

 バリーは、ちょっと苦しい言い訳をした。

「AST Headquarters, AST Headquarters, This is AST248CF, Radio Check, Over...(アラスカ州警察本部へ、こちらは AST248CF、聞こえるか?、どうぞ────)」

「DE, AST Headquarters, Anchorage… QRZ?(こちらはアンカレッジの州警察本部、誰か呼んだか?)」

「This is AST248CF, Over────(こちらはAST248CF、どうぞ)」

「感度が悪い、QSU(周波数を変更せよ)155.730・・QSU 155.730────」

「Roger, QSW 155.730(了解、周波数を 155.730 に変更する)」

「DE, AST248CF, Over────(こちらはAST248CF、どうぞ)」

「QSA, Merit-4(感度良好)、コールサインを確認、Troopers ID を示せ────Over」

「COL(照合してくれ)IDは、D485FB(D派遣隊、警官番号485、Fairbanks所属)だ」

「D485FB・・Sergeant(巡査部長), Barry Bolton─────CMF(IDを確認した)」

 まだアンカレッジ警察本部には、バリーが行方知れずで事件に関わっている可能性があるという報告が入っていないのか・・・バリーが IDナンバーを示しても、何も質問しない。

「今朝、デナリ付近で軽飛行機が遭難したというが、その情報を知りたい」

「Roger(了解)、AS(待って下さい)───────2件の通報がある。位置情報は1件、
Distress, Plane crash(墜落遭難事故)だ。
 タルキートナの北、ジョージ・パークス・ハイウェイの150マイル地点付近を走行中の車両より、NW(北西方向に)、low-altitude flight(低空飛行で)、飛行場のない所に、ほぼ水平に、徐々に墜落して行った水上機を目撃。通報は 0740(午前7時40分)、現時点までに緊急および遭難信号は確認されていない────Over」

「Copy(了解)────これより、墜落予想現場付近の捜索に向かう」

「AST248CF、コールドフットおよびアンカレジから、間もなく捜索のヘリが発進するが、そちらの機が最も早く到達すると思われる。発見次第、状況報告せよ────Over」

「RRR(了解した)」

「Goodluck, Sir────────」

「TU(ありがとう)、AR(通信を終了する)─────」

【註:ここに出てくる、DE、AS、CMF、TU、RRR、などの略号は、すべて実際の無線符号であり、155.250〜155.730MHz(メガヘルツ) の無線周波数帯は、アラスカ州警察で用いられているものである】


「────────カミーユ、聞いてのとおりだ!」

「その地点に向かうわよ、バリー、ナビゲーションをして!!」

「よし、Turn left heading 150────150度(ほぼ南東)に Heading(ヘディング=機首方位)を取って、タルキートナの手前にある湖沼地帯へ向かうんだ!」

「You got it !!(まかしとき!)────」



 しかし、アラスカには、大小合わせて約300万もの湖がある。

 それに、タルキートナの湖沼地帯と言っても、ざっと地図で見ても、20マイル(30km)四方以上、つまり東京都23区の面積を上回る、広大な地域なのだ。

 その広さの原野に、ちっぽけな軽飛行機が一機、どこかに墜落しているとして、果たしてどうやって、それを見つけられるというのか────────



                     ( Stay tuned, to the next episode !! )






  *次回、連載小説「龍の道」 第148回の掲載は、3月15日(日)の予定です


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2015年02月15日

連載小説「龍の道」 第148回




第148回  A L A S K A (17)



「ここは──────────────ここは、何処だ?」

 少し体を起こして、フィリップが辺りを見回した。

「飛行機が墜落して、あんな風にひっくり返ったから、ここまで泳いできたんだよ」

 そう言って、宏隆が顔を向けた湖の真ん中には、墜落した水上機が、フロートの片脚を上げた無惨な恰好で浮かんでいる。フィリップは、ようやく自分がどこに居るかを覚った。

「俺は─────ずっと気を失っていたのか?」

「ああ、墜落のショックが大きかったからな、無理もないさ・・・」

 焚き木を焼(く)べ直して、少し火を大きくする。
 フィリップの顔に、紅い焰(ほむら)が温かく映え始めた。

「うう・・・くくっ・・・・」

「まだ動かない方がいい。大きな出血こそ無いが、あちこち打撲しているから、骨くらいは折れているかも知れないぞ────────頭は、痛くはないか?」

「うぅむ、少し痛いが・・・お前が、ここまで、俺を連れてきてくれたのか?」

「そうだよ。僕はたまたま打ち所が良かったらしく、少しばかりの打撲だけで済んだから、ライフジャケットを筏(いかだ)代わりにして、お前を曳(ひ)いてきたんだ」

「なぜ、オレを助けた──────────?」

 それが如何に大変か、ということは、フィリップにもよく分かる。
 広い湖の真ん中に浮かんでいる水上機から、秋の冷たい湖水に浸かりながら、ここまで自分を曳いて泳いでくるという行為に、どれほどの体力と忍耐を必要とするか、訓練を積んだ人間なら、容易に想像がつくのだ。

 そして、宏隆がそんな大変な思いをしてまで、罠にかけ、拉致をした敵であるこの身を、助ける理由がどこにあるのか─────そのことが、フィリップには不思議でならない。

「さあ、僕にも分からないが・・」

 さらりと、宏隆が言った。

「気絶しているお前を、機内にそのままにしておいたら、間違いなく低体温症で死んでしまうと思って───────ただ、それだけだ。他に何も考えていなかった」

「俺はお前をチョソン(北朝鮮)に連れ去ろうとした張本人だぞ。バリーの娘を拉致して、それをネタに恐喝し、助手のジェイムスを買収し、お前を巧妙なワナに掛けて・・」

「ああ、そうだな。まんまと罠に嵌まってしまった──────でも、お前も命令されてやっていることで、個人的に僕が憎いってワケじゃないだろう?」

「それは、そうだが・・」

「目の前の死にそうな人間を、岸まで引っ張ってきた─────それだけのことだよ。相手がお前じゃなくても、きっとそうしたと思う」

「日本人は、みんな、そうなのか?」

「みんなって、何が?」

「俺は、日本人ほど極悪非道な民族は居ないと、就学前教育(幼稚園)の頃から教わった。初等・中等教育を終えて軍隊に入ると、日本がいかに悪辣な民族であるか、多くの具体例を引いて教わり、そんなウジ虫のような民族など、この地球上から抹殺したって、他の民族に喜ばれこそすれ、何ら悪いことはない、と思うようになった」

(註:北朝鮮では中学卒業(17才)の直前に徴兵検査があり、男子は卒業後全員が13年間の兵役義務を負う。2003年からは10年間に短縮されたが、いずれも世界最長である。
 2014年からは満17才以上の全ての女子に7年間の兵役が義務づけられた。女性の徴兵制は珍しいが、イスラエルにも2年間の兵役義務がある)

「ああ、知っているよ。お前の国や中国、韓国なんかも、国家を挙げて、徹底した日帝残滓の排除と反日教育を、小さい頃から国民に施しているからな」

(註:「日帝残滓=にっていざんし」とは、朝鮮統治時代に日本から朝鮮に伝わった文物を一方的に ”残滓=残りカス” と呼び、排除すべき物として忌み嫌う反日思想。
 南北朝鮮には、治山治水や鉄道敷設のため測量で打った多くの鉄の杭を、朝鮮民族が信仰する風水の地脈を断ち切る為に打ち込んだと見る ”日帝風水謀略説” や、在韓国日本大使館の建物が首都ソウルの気の流れを遮断しているなどといった ”風水侵略論” まで存在する。
 同じ統治時代の文物に感謝する台湾などのアジア諸国とは全く対照的である)

「だからオレは、お前を拉致することも、場合によっては射殺することも、別に何とも思わなかったんだ」

「そうだろうな────────」

「だが、いまのお前を見ていると、はたして日本人は本当にそんな極悪な人間たちなのか、と疑問に思えてきた」

「お前を曳いて泳いで、助けたから、憎悪の気持ちが変わったのかい?」

「このアメリカにも、戦争中に日本兵に助けられたという人がたくさん居る。東南アジアに派遣されている仲間たちも、かつての戦争で日本兵の悪口を言う人間はほとんど居ないと言って、みな不思議な顔をする。学校や軍隊で教えられた事とは正反対なのだ」

「ふむ・・・」

「ブシドーというのか・・・日本人は、敵であっても、同じ人間として思い遣り、慈しみ、情けをかけるという豊かな心を持っており、それが朝鮮民族や白人たちよりも遥かに強い、と言うのが正直な感想だ」

「そうだな。戦争という状況では、もちろんお互いに理不尽なことも沢山起こるだろうが。アメリカ人も、何もリメンバー・パールハーバーと怒鳴る人ばかりじゃないだろうし、アジア諸国の多くは、先の戦争で自分たちが欧米の支配から解放されたことを日本のお陰だと実感している。なぜか日本では、そんな教育や報道はまったく行われないけれどね」

「日本を滅ぼすべきだと、俺たちは教えられている。我々とチャイナと、どちらが先に日本を獲(と)れるかという、そんな話もよく出る。中共はすでに日本の有力な政治家を落として味方に付け、メディアや企業を支配する方策を打ち出している」

「そのようだな。だから僕も、ただ単に武術の修行だけに励んではいられない。もっと強くなって、少しでも祖国の役に立てるように、アラスカ大学に入ったんだ」

「ROTC(Reserve Officers' Training Corps=予備役将校訓練課程)だな。だが、そこで学ぼうというお前が、自分を拉致しようとした反日国家の工作員の命を助けるというのが、どうにも理解できないのだ」

「人間は、極限の状況では、恨みも憎しみも、どこかへ消え去るのかもしれない。
 日本文学に、”恩讐の彼方に” という、世代を超えて読み継がれている小説がある。
 家名取潰しの原因となった父親の仇敵を探し、長年かけて遂に見つけ出したその相手が、今では自らの罪業を怖れ、僧形となって世のため人の為に、多くの犠牲者を生む難所を通行できる洞門を体を張って直向きに彫り続ける姿に打たれ、仇も恨みも罪業も超えて大慈大悲に目覚め、ついには互いを赦(ゆる)し合う、という話だが─────────」

「互いを・・赦し合う、か・・・・・」

「日本には古の昔から、神仏を尊ぶという美しい風習がある。それは、自分の利益のために神仏に祈るのではなく、自らの行いや考えを見つめ直し、身も心も浄め、大いなる教えに帰依することで、自らの成長と他人の幸福を祈ろうとする・・・・大自然と、神仏と人間性が一体となった考え方なのだ」

「うーむ・・俺が教わった日本や日本人とは随分イメージが違っている────────
 俺はアメリカに潜伏する要員として、この国で一般市民に紛れ溶け込むように訓練を受けてきた。CIAに睨まれないように、普通の学校に行き、普通の仕事をし、普通のコリアン・アメリカンとして働きながら、祖国の役に立つ日を待ち望んでいたのだが・・・」

「そこへ、ヒョッコリ僕が舞い込んできた、ということだな?」

「そうだ。お前は日帝富裕階級の生き残りである良家の御曹司で、台湾の秘密結社に入り、我々の同朋の多くを葬り去った、若年ながら腕利きの工作員だ、と聞いた」

「おいおい、後半はずいぶん勝手な作り話だぞ。確かに、台湾で拉致された時には相手をひどい目に遭わせたが、僕は誰も殺してはいない。殺されそうになったのは僕の方だよ。
 船で自爆した徐さんや、僕が倒したために、円山大飯店を仲間と一緒に脱出できず、その場で始末されてしまった隊員には、本当に気の毒なことだったと思う。
 それは長い間、僕の心の傷になったが、そもそも拉致を企てた故の結果なのだから、仕方がないことだと、ずっと自分に言い聞かせていたんだ」

「そうだったのか───────台湾の海で殉職した徐少尉は、俺の隊長の友人だ。お前を容赦なく拉致できるように、俺に対してそんな風に表現したんだろう」

「うむ・・・」

 パチパチと火が爆(は)ぜて、傍らの宏隆の袖に飛んだ。 
 
「だいぶ服が乾いてきた、やはり軍用は乾きが早いな。少しは体が温まったかい?」

「ヒロタカ─────────────」

「ん・・何だい?」

「オレは、お前に助けられて・・・何かこう、ずいぶんスッキリしたような気がするんだ。上手く言えないが、凍えた身体が、こうして焚火の炎でだんだん解れていくように、俺の中で、なにかが解れて、溶けてきたような気がする」

「・・ほう、何がほぐれてきたんだい?」

「何というか、うまく言い表せないが・・・お前を拉致して連れて帰るという任務が、もうどうでもよくなってしまった」

「そんなことをしたら、お前に厳しい罰が与えられるんじゃないのか?」

「確かに、任務に失敗したとして、何らかの処罰を喰らうだろう・・だが、それでもいい。こんな気持ちになってしまったら、もうお前と争う気持ちが起こらないんだ」

「そうか・・・・」

「そう言っても、すぐには信じてもらえないだろうが────────俺はお前を騙して、いや、お前だけじゃない、バリーの娘を拉致して、バリーを脅してまで、お前をチョソンに連れて行こうとしたんだ。そんな俺の言うことを信じて貰えるとは思えない。だが、これは本当の気持ちなんだ」

「その言葉を、信じるよ──────────────」

「え・・・」

「生きるということは、それ自体が罪深いことなのだと、禅寺の和尚に言われた事がある。
 多かれ少なかれ、誰もが自己を正当化して、他人を恨み、呪う。だが、人間の罪障宿業は誰もが等しく背負っていて、誰が悪い、誰は正しいというのは、どんな場合にも当て嵌まらないのだと・・・大事なことは、その罪業に目覚めて、他を赦し、それに躍起になっていた自分を赦せるか、ということなのだと、そう教えられたのだ。そうする事でしか、人は大きく成長していけないのだと──────────
 この度の成り行きは、僕が台湾に行ってからずっと続いている事だ。いや、多分それ以前から、お互いにまつわる多くの物事が重なって、その結果として、それらの事が廻(めぐ)り廻って起こってきたのだろうと思う。だから、そもそもお前を恨んだって仕方がない。
 フィリップ、お前の、その心を信じるよ。これからは、友達だ───────────」

 言い終わると、宏隆はフィリップに手を差し伸べた。

「ありがとう、ヒロタカ───────こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだ」

 フィリップは、目頭を熱くして、立ち上がって宏隆の手を握った。



 常識的に考えれば、奇妙な友情かも知れない。
 だが、今のフィリップの心情を裏付けるようなエピソードは、たくさんある。
 いささか長くなるが、よく知られた逸話があるので、ここに述べておきたい。


 【My Lucky Life 〜 In War, Revolution, Peace and Diplomacy】という本がある。
元英国海軍少尉、Sir Samuel Falle(サミュエル・フォール卿)の戦争体験記である。

 そこには、 1942年(昭和17年)に、インドネシアのジャワ沖で、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連合国艦隊と日本海軍が激突した「スラバヤ沖海戦」で撃沈され、重油が浮かぶ海を約24時間漂流していたイギリス駆逐艦「エンカウンター」と、巡洋艦「エクゼター」の乗組員422名を、付近を哨戒していた日本の駆逐艦「雷(いかずち)」が全員を救助した際のエピソードが詳しく書かれている。

 この海域には、日本の船舶に対し、連合国軍による無制限攻撃命令が出ており、いつ何どき潜水艦に狙われるかも知れぬ、日本同士の救助さえ命懸けの状況であり、実際にその日に日本の輸送船が撃沈されたほどであった。
 また、救助した兵士たちが反乱を起こす危険性もあった。駆逐艦・雷の乗組員は150名、救助した兵士たちの人数は、それより遥かに勝っていたのである。
 しかし、駆逐艦・雷の艦長・工藤俊作少佐は「戦いが終われば敵も味方もない、敵とて同じ人間、死線を彷徨う人を救わずにフェアな戦いはできない、それが日本の武士道である。全員救助せよ」と総員に命じた。

 そして、自力で縄ばしごを上れない兵士にラッタル(大型の階段。友軍の救助にも使用が禁じられている)を降ろし、衰弱して動けない者は日本兵が飛び込んで抱きかかえ、力尽きて次々と沈んで行く者たちは潜って助け上げ、次々と艦に引き上げ、重油と汚物で汚れた兵士の服を脱がせて体を真水で洗い、衣服・温かいミルク・肉の缶詰め・乾パンなどを提供して手篤くもてなした。
 さらに工藤艦長は、潮流で流された兵士を捜し求めて終日行動し、たとえ遠くに一人の漂流者を見つけても、そこまで艦を進め、何度も停船して救助に当たらせた。
 「石油の一滴は血の一滴」と言われた戦時中にあって、工藤艦長は敵兵を救うために貴重なガソリンと真水を惜しげもなく使用させたのである。

 救助された英国兵士たちが落ち着くと、工藤艦長は士官以上の者を集めた。彼らは始めはどうなることかと非常に緊張していたが、やがて艦橋から工藤艦長が降りてきて、彼らに対して端整な姿勢で敬礼をすると、流暢な英語でこう言った。
「You have fought bravely. Now, you are the guests of the Imperial Japanese
Navy. I respect for the English Navy.(貴官たちは勇敢に戦われた。貴官たちは大日本帝国海軍の名誉あるゲストです。私は英国海軍に敬意を表します)」
 そして心づくしのディナーを振る舞い、翌日はボルネオの港に立ち寄って、オランダの病院船に全員を引き渡した。

 救助された英国海軍の兵士たちは、まるで夢でも見ている心地であったが、その人間的な行為に大いに心を打たれたのは言うまでもない。
 当時の英国海軍の規定では、危険海域に於いては、たとえ友軍でも救助活動をする義務を持たないとされていた。それが敵兵である自分たちに、危険を顧みず全員を救助し、衣服や食料はおろか、自艦の兵士たちの靴や寝床まで提供して、手篤く看護したのである。

 長い年月が流れ、その救助された英兵の一人であった、サー・サミュエル・フォールが、 1996年に「My Lucky Life」という本を出版した。その冒頭には、『この本を、私の人生に運を与えてくれた家族、そして、私の人生を救ってくれた大日本帝国海軍・工藤俊作中佐に捧げます』と書かれている。

 このエピソードは、2007年にテレビの「アンビリバボー」で『ザ・ラスト・サムライ』というタイトルで放映され、大きな反響を得た。
 また、『敵兵を救助せよ(惠隆之介著・草思社)』をはじめ、多くの本、雑誌、DVDが出版され、小中高の学生の道徳教育の教材にもなっている。
 



「さて、と──────────先ずは、どうやってこの原生林から生還するかを、考えなくっちゃいけないな」

 辺りを見渡して、宏隆が言った。

「そうだ、まだ雨が降るかも知れない、夜になる前に、ここに簡単な屋根を拵(こしら)えて、夜露を凌ぐことにしよう」

「持ってきたロープが、リゾートハウスの屋根作りに役に立つな。ここに居る目印に、もう少し焚火の煙が出るようにしておこう。アラスカは水は豊富だが、食料はどうする?」

「俺のポケットにサバイバル用の釣りのセットが入っている。アラスカはどこで釣り針を垂れても、レインボートラウトやレイクトラウト、ドリーバーデン・・上手く行けば24インチ(約60cm)ぐらいの陸封型のサーモンが掛かるかも知れない」

「ははは、日本じゃそういうのを、 Catch your raccoon dog before you sell its skin.(獲らぬ狸の皮算用)と言うんだ。そんな、ちっぽけな釣りのセットで、サーモンが釣れるものか!」

「そりゃぁ、もっともな意見だな。でも、このアラスカじゃ、Raccoon dog(狸) じゃなくて、 Caribou(カリブー) って言うべきだろうけどな、あははは・・・・」

「ははは・・それじゃ、大分シャツも乾いたので、僕は水場を探してこよう。フィリップは釣り糸でも垂れて、デカいサーモンでも釣っていてくれ!」

「ははは、OK!・・あ、そうだ、ヒロタカ・・・」

「なんだい?」

「これを持って行け、灰色グマにでも行き合ったら大変だからな」

 フィリップが拳銃を取り出し、グリップ(銃把)を宏隆の方に向けて手を伸ばした。

「お前は、この銃さえ、俺から取り上げようとしなかった・・」

「ああ・・・でも、大丈夫だよ。そんなに遠くへは行かないし、周りをよく注意するから。まだあまり動けないんだから、お前が銃を持っていた方が良い」

「そうか、わかった─────────」



                    ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第148回の掲載は、3月1日(日)の予定です

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2015年02月01日

連載小説「龍の道」 第147回




第147回  A L A S K A (16)



 意功で身体が温まったからと言っても、ただ漫然と泳ぎ出したのではない。
 気温が10℃、水温5℃で泳ぐ千メートルの距離は、通常の3〜5倍もの体力を要する。
つまり、1,000m先に見えているはずの岸辺は、実際には3,000mから5,000mに感じられ、行けども行けども、辿り着かない距離に感じられることになるわけである。

 宏隆はそのことを承知しているので、無事に泳ぎ着くための工夫を怠らなかった。
 まず、ライフジャケットに空気を目一杯に吹き込んで浮力を大きくし、敢えてそれを装着せず、胸から腹の下に広げて敷いた。フィリップには、やはりライフジャケットの空気圧を増やし、さらに水浸しの機内に浮かんでいたダッフルバッグから中身を出し、そこにビニール袋を膨らませて入れ、即席のフロートとして膝の下にロープで固定した。バッグが浮いていたと言うことは機密性が高いことを意味する。
 これだけで、二人とも、かなり体が水に浸かっているところが減った。

 ライフジャケットにもいろいろある。ただの浮力が得られるものから、意識を失っても顔面が水上に保持される、文字どおりの生命維持用のベストまで様々なものがあって、欧米では PFD=Personal Floating Device(個人浮揚装置) と Life Vest(救命胴衣)とは明確に区別されている。
 あらゆる航空機や船舶には、ライフジャケットは必ず座席の数だけ装備されている。もちろん生命維持用で浮力も充分大きい。沢山あれば筏(いかだ)のように、もっと身体を水から浮かせることが出来たはずだが、ロープを探していたこともあって、潜って取って来るのは二人分が限度であった。水温と体力を考え、再び潜ることを断念したのである。

 さっき見つけてきたロープを「逆相巻き」に手際よく巻き直し、一端をフィリップのライフジャケットに結びつけ、もう一端は自分の腰に結び、残りのロープの束を背中に乗せる。
 このロープの巻き方は特殊部隊でも用いられていて、伸ばしたときに捩(よじ)れが生じない。巻取り機のない水道のホースや音響・映像設備のプラグケーブルなども、この方法で巻いておけば捩れることなく、使う際にスムースに伸ばすことができる。
 他人がセットしたロープはどう巻かれて、どう保管されていたか分からない。まずロープを巻き直しながら点検したのは賢明と言える。

 余談だが、太極武藝館では大きな業務用掃除機のケーブルを巻く際にもこの方法が用いられており、稽古を終えて清掃する際に、その不思議な巻き方に興味を示す者に先輩が教えていると、皆そのシステムに感心して覚えようとする。
 同様に、容易には解けない靴紐の正しい結び方や、バッグの中身の整理の仕方、Tシャツやズボンの畳み方などについても、折に触れて指導される。
 一般人から見れば非日常的、非一般的な礼儀作法である包拳礼の礼式や帯の締め方に止まらず、窓のブラインドの開け閉めといった身近なことでさえ、実は ”正しく” 行えるというのは大変な事なのだと誰もが思い知ってゆく。それは如何に意識的に、豊かで安全に実生活を過ごせるかというところに繋がっていく。こんなところでも「武術性」を学べるのだ。



「おお、これは結構イケるぞ、ちょっとしたカヌーみたいだ!」

 思ったよりもよく進むので、宏隆は少し元気が出た。
 ライフジャケットの上に腹這いになった恰好で、手の平で水を搔く。すぐ後ろには、仰向けになったフィリップが、フロートにしたダッフルバッグで足腰を浮かせて、ロープで引っ張られながら従(つ)いてくる。

「だが、やっぱり千メートルというのは、けっこう遠いな・・・・」

 宏隆が目測した千メートルという距離は、だいたい正しい。
 もうすっかり、その目測に慣れて、ほぼ正確に測れるようになっている。
 勿論その測定法は玄洋會で教わったもので、各国の軍隊でも新兵の訓練で教えられる。

 いささか冗長に過ぎるが、こんな話を楽しみにしてくれる読者も多いというので、ついでにご紹介しておこう。

 まず、距離を測る対象に向かって腕を水平に伸ばし、親指を立て、片目で対象物を見る。
 次に、閉じている目を切り替えて、反対の目で見る。その際に親指が対象物と離れるが、その対象物に対して実際にどの位の距離が離れたかを、対象物の大きさや長さを参考に概算する。その離れた距離に10を掛けると対象物までの大体の距離が出る。

 例えば、少し離れた所の建物までの距離を知りたいとすると、その建物の側に車が駐まっていたり、人が立っていたり、よく知る規格通りの大きさの物があると分かりやすい。
 それらがどの位の大きさかを見て、つぶった片目を替えた時に動いた距離を概算し、それを10倍すれば、そこまでの大体の距離が出る。

 これは両目の間隔が腕の長さの約10分の1であることを利用した三角比であり、親指を頂点に、自分側と対象物側にできる大小二つの三角形の比率が同じなので、およその距離が出せるのである。
 距離を測る ”ミル目盛り” 付きの軍用・航海用の双眼鏡などが手許に無い場合に、容易に測定できる方法として様々な場面で用いられている。
 昨今は50mくらいなら携帯のアプリで瞬時に測定できる便利な時代だが、携帯は水に濡れたらお終いなので、このような古典的な方法を知っておいても損は無い。


「この分だと、向こうまで60分は掛かるな────────────」

 腕時計のベゼルを長針に合わせて、宏隆は少しペースを速めた。

 ベゼルとは、腕時計の外周に付いている回転式の目盛りのことで、経過時間、平均速度、作業率、航空計算尺などが計測ができる便利なものまで色々ある。
 宏隆の時計はダイバーズウォッチのように経過時間を測るタイプで、ベゼルのゼロを長針に合わせておけば、どの位の時間泳いだかを確認できる。

 普通のプールなら、水泳が得意な人であれば、千メートルを10分台前半で泳ぐかもしれない。少し泳げる人が、トレーニングとして早いペースで泳いで約20〜30分、ゆっくり泳げば50〜60分というところだろうか。

「ううむ、やっぱり冷たいな、アラスカの水は────────だが、シールズなら、こんなことぐらいお茶の子サイサイ、〽富士のサイサイ、だろうな・・負けるものか!!」

 冷たさに、時おり体をブルルと振るわせて、手を擦り合わせては、また漕いでゆく。

 特殊精鋭部隊として名高いネイビーシールズでは、基礎教育課程の審査テストに、平泳ぎまたは横泳ぎで1,500フィート(457m)を12分30秒以内で泳ぐことが入っているが、勿論それは訓練用プールでのことである。
 入隊志願者の中から数々の厳しい訓練過程の篩(ふるい)に掛けられて残った15〜20%の精鋭たちは、実際の作戦部隊に配属される前に、さらに最終訓練として極寒のアラスカ州コディアック島で寒中訓練を受ける。

 宏隆はその話を思い出して自分に ”活” を入れ、手の平のパドリングを続けた。
 そう思わなければ遣(や)っていられないほど、この湖水は冷たい。

 水温5℃で1時間も手で水を掻き続けるのは容易なことではないが、宏隆の手には特殊部隊用の手袋の上に、ミトンのように重ねたウールの靴下が嵌められている。その靴下はフィリップの足のフロート用にしたバッグの中に見つけたものだ。二重にすれば保温効果は無論、即席の水かきにもなるので一石二鳥である。
 水に浸かる腕の部分には、フランネルのシャツ、ウールのコマンドセーター、手首の締る軍用レインパーカを重ね着している。そのお陰か、まだ腕は少ししか痺れていない。


 そのとき─────────────────

「グォォオオオオオオンンン・・・・・・」

 足もとの方から、独特のエンジン音が響いてきた。

「・・飛行機だ!!」

 素早く腕のポケットから反射鏡を出しながら、仰向けになって待ち構え、太陽に反射させて信号を送る。幸い、今日は天気が回復してきていて、少し陽も射している。
 反射鏡は、ライフジャケットにダイマーカー(水面着色剤)やホイッスルなどと共に装備されている事が多い。宏隆は反射鏡だけ取り出して、すぐに使えるようにしてあった。

 だが、飛行機は旋回することもなく、そのまま過ぎて行ってしまった。

「気付いてくれたかな・・?」

 普通の人なら大声を出して叫んだりするところだが、当然、飛行機まで声は届かず、体力を消耗するばかりだ。布などを振るのは有効だが、ある程度の高度では、それもあまり見えない。こんな場合は太陽光を反射させたり、煙を焚いて信号を送る方が効果的だ。

「墜落機は以外と目立つものだ、もしかすると目に入ったかも知れない────────」

 だが、期待や落胆をしている余裕はない。一刻も早く岸に到着して、生存のために行うべきことを始めなくてはならなかった。

 懸命に手でパドリングを続け、予想どおり1時間ほどで岸に辿り着いた。

 宏隆は、ブーツと戦闘服を着けたまま50メートルを泳いだり、装備を着けたまま船から海に飛び込んで陸まで泳ぐ訓練もやらされたが、いずれもこの場合とは状況が異なっている。今日この湖水に、もし体を浸けながら泳いでいたら、半分の距離も行かないうちに途中で動けなくなり、低体温症で死んでいたに違いない。

「タグボート(曳舟)をやった割には、意外と楽だったな。それに、ラッキーなことに湖岸の状態も、思ったより緩やかだ」

 よろよろと、這うようにして岸に上がる。
 身体が重く、冷えきって震えが止まらないが、曳いてきたフィリップのライフジャケットの襟元を引っ張って、水から引き上げる。

「鍛えているから、多分大丈夫だろう。息も脈も落ち着いている。気絶したまま放っておいたから、却(かえ)って体力を消耗していないんだ。暖まれば目を覚ますだろう」

 フィリップの脈を取り、呼吸と体温を確認して、少し安心した。

「だが、急がなくては────────────」

 先ずは冷えた体を温め、濡れた衣服を乾かさなくてはならない。
 宏隆は、さっきフィリップから奪っておいた大きなナイフを腰のベルトに通すと、火を熾すところを決め、燃えるものを拾い集め始めた。

「ラッキーだな。雨の後だけど、この気温なら火を造るのは簡単だ」

 宏隆は、火造りには自信がある。
 小さい頃から、六甲山に分け入っては散々キャンプをし、火を熾し、食事を作り、木や草で寝床を作って、果ては悪童たちと共に樹の上にツリーハウス(tree-house)まで拵え、編んだ縄ばしごを垂らして秘密の基地にして遊んだものである。
 
「それに、あの小説ほどの状況じゃないしな──────────────」
 
 あの小説とは、ジャック・ロンドン著の「To Build a Fire(火を熾す)」という短編で、ある男が犬一匹を従え、極寒のアラスカを子供たちが待つキャンプに向かって独りで歩き、生命を拒む極限の寒さの中で、生きるために火を熾そうとする・・という話である。
 宏隆は、同じアラスカの地で遭難し、そのストーリーを思い出していた。

「唾を吐けば、それが地面に落ちる前に凍りつき、何かが爆(は)ぜたような鋭い音がして空中で弾け飛んでしまう───────という描写があったが。果たしてマイナス60度の、厳冬のアラスカで生き残ることなんか出来るんだろうか?、もし任務でそんな所に行けと言われたら、エラいことだろうな」

 湖畔の森に一歩踏み入れれば、もう足もとがフワフワとしている。
 此処は、より緯度や標高の高いツンドラへ移行する以前の、落葉性のタイガを含んだ混合林で、ひたすら自然に落ち葉や枯れ木が堆積している森なのだということが分かる。

 昨夜までの雨に濡れた木切れや葉っぱを退かして、その下にある湿っていない小さな枯れ木や枯れ葉、そして手頃な大きめの枯れ木を集める。大小の木切れは湿っているように見えても、中までは水分が浸透していない。それに、トウヒ、モミ、カラマツ、ヒノキなどは見るからに容易く燃えてくれそうだ。

 枯れ木を確保すると、樺(かば)の木の樹皮を剥いた。樺の種類はどれも樹皮が剥がれやすく、油脂を含んでいるので、火をつければ黒い煤を出して、雨の中でもよく燃える。 
 小説の「火を熾す」にも、ポケットから取り出した樺の樹皮に火をつける件(くだり)が出てくる。寒い地方のハンターたちが樺の樹皮を持ち歩くのは、世界共通だ。
 
 
「これでよし、と──────────────」

 手際よく樺の皮と枯れ木を組み上げると、宏隆はポケットから小さな銀色のプレートを取り出した。それをナイフでパラパラと少し削り落とすと、同じナイフでその板の片側に付いた黒い棒を、マッチを点けるように何度か擦り、火花を出して、削り落とした破片を発火させた。
 まるで火薬が発火したように、火はあっという間に点いて、小枝が燃え始め、やがて大きめの薪へと、徐々に炎が回っていった。

 宏隆が用いたのは、アメリカ空軍のサバイバルキットにある、マグネシウム着火ツール、DM5(Doan Machinery US Military Magnesium Firestarter Model 5)で、横に付いている黒い棒は火打ち石の役割をする。
 マッチは水に濡れたら使えず、1975年から発売されたいわゆる百円ライターは、キャンプ場ならともかく、風に弱く、長時間点火し続けられない。このマグネシウム着火剤は、濡れても雪の中でも3,000℃の高熱を出して燃えてくれるので、慣れてしまえば、燃やす対象が多少濡れていても、ナイフ一丁で容易に火を点けることができる。
 宏隆が常時持ち歩く物は多種多様だが、これもその装備のひとつであった。
 

 間もなく、薪が大きく燃えはじめた。
 あまり火を大きくしすぎると、却って暖を取りにくい。
 適度な大きさに炎を調整しながら、シャツを脱いで水気を絞り、渇きやすくする。
 火を熾した場所は、ちょうど後ろから横まで低い壁のようになっていて、さらに周りも樹々が密に集まっていて都合が良い。風が殆ど無いので、煙に悩まされることもなかった。

 その火の前に、横の斜面を利用してモミやトウヒの枝葉で柔らかい寝床を作り、フィリップをリクライニングシートのように深く横たわらせている。

「ううぅむ・・・・・」

「やあ、フィリップ、目が覚めたかい?──────────────」




                     ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第148回の掲載は、2月15日(日)の予定です


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2015年01月15日

連載小説「龍の道」 第146回




第146回  A L A S K A (15)



「しまった・・・」

 フィリップを機外に出すことに夢中になっていて気付かなかったが、いつの間にか体がすっかり冷たくなって動き難くなっている。これでは指も利かなくなるはずだ。

「さて、どうするか────────────」

 水の冷たさに、宏隆はふと、小さいころ川遊びをした時のことを思い出した。

 護国神社から山の方へ1キロほど上がって行った所に、カナディアン・ダムと呼ばれる、杣谷(そまだに)の堰堤(えんてい)がある。
 夏の間、宏隆は友達を引き連れて毎日のようにそこで泳いだ。学校のプールよりも山中のダムの方が面白く、近くの外人の子供たちも大勢そこで遊んでいて、片言の英語と日本語、そして様々な見知らぬ国の言葉が飛び交った。
 六甲山の清冽な湧水が注ぐダムは夏でも冷たく、よくウォームアップしてからでないと、とても泳げない。ゴロゴロと石が転がっている河原を走り回って体を散々温め、高さが5メートルもあるダムの上から、奇声を上げて飛び込むのである。

 いつか、そのダムで遊んでいる時に、いつの間にか体温が下がって動きにくくなり、飛び込んで底まで潜ったものの、頭上に水面が見えているのに中々上って行けず、ドキリとしたことがあった。脚の感覚が麻痺して、思うように動けなかったのだ。
 結局、手で藻掻くようにして何とか上がってきたが、体が冷えるという事がこれほど危険なことなのだと、宏隆はそのとき初めて認識した。

 小学生のころ、ヨットの操縦を父から教わった時にも、体調が100%でないときには決して乗艇しないよう、厳しく言われた。疲れているとき、睡眠不足や飲酒、薬の影響があると思われるときには絶対に単独で海に出てはならないのである。
 玄洋會でのタクティカル・トレーニングでも、空腹、寝不足、アルコールの摂取などは、判断力、決断力、判断や反応の速さ、筋力、集中力や注意力を鈍らせ、低体温症に陥りやすく、共に行動する仲間まで危険な状況に陥れる、ということを叩き込まれる。
 それらの教育のお陰で、宏隆にはこんなときの心構えが素地としてあった。


 この場合は大地への激突を免れるための窮余の着水であった。それがフロートを装着した水上飛行機であったことも、水場を探して降りる連想を容易にさせていた。
 実は水上機の方がイザという時の着陸は難しい。タイヤの代わりであるフロートは正常に水の上に着水するには向いているが、万が一、地面に着陸しなければならない場合はタイヤ付きの脚の方がショックが少なくて済む。当然ながらフロートでは衝撃が緩和しない。今の場合も、機体が水の上で何度ももんどり打って転がったのは、フロートが水面に激突した、その反動であった。
 難しく激しい着水となったが、幸いにも身体は強いショックを受けただけで済んだ。もしこれが水の上でなかったら、機体は瞬時にバラバラになっていたかもしれない。もちろん、乗員の死亡もほぼ確実であった。
 そして、運良く助かったものの、初めての飛行機の操縦、しかも墜落するかしないかのバランスを失った状況を立て直すことに必死で、アラスカの水の冷たさまでは、実際に水に浸かるまで少しも頭になかった。

 低体温症で体が動かなくなった場合は、動かないに越したことはない。普通は体幹をできるだけ水から出して救助を待つのが常道である。
 しかし、此処でじっとしていても発見されるまでには相当な時間が掛かるだろうし、深い森の中にある名も無い湖沼では都合よく発見されるかどうかも分からない。それに、このままじっと水に浸かっていたら、1時間も経たないうちに二人とも低体温症で死んでしまうに違いない。やはりここは、墜落機の上で宛のない救助を待つよりも、何とか自力で岸まで辿り着くしかない──────────宏隆はそう思った。


 低体温症とは、ヒトの中心温度が35℃以下に低下した場合に生じる様々な症状の総称である。凍死とは低体温症による死亡のことをいう。
 ヒトを始めとする恒温動物の体温は恒常性(ホメオスタシス)によって、外気温に拘わらず常に一定の範囲に保たれているが、何らかの原因によって自律的な体温調節の限界を超えて体温保持能力が低下すると身体機能に様々な支障が生じる。これが低体温症である。
 軽度であれば自力で回復出来るが、自律神経の働きが損なわれている場合や、重度以上の場合には死に至ってしまう。

 ヒトの身体の中心温度はおよそ37℃前後で、直腸の温度が最もそれに近い。
 肛門に体温計を挿入して計測する直腸温は、外気の影響を受けにくく正確性が高いので、生命に危険があるような場合は直腸温を測定する。
 因みに、普通は体温は腋下や舌下で測定するが、健康への意識が高い北欧などでは日頃から直腸での体温測定が一般的で、個人で専用の体温計を持っていることが多い。

 直腸温が35〜33℃は「軽度」の低体温症で、まだ意識は正常である。
 33〜30℃は「中度」で、無関心や無反応の意識症状が見られる。
 30〜25℃は「重度」で、錯乱や幻覚を発症する。
 25〜20℃は「重篤」の状態で、筋硬直が起こり、昏睡や仮死が起こる。
 20℃以下になると、ほぼ「仮死状態」になる。

 また、低体温症は体内の生化学反応を破壊してしまう。ヒトの体内の酵素*には至適温度が40℃前後のものが多いが、低体温では様々な酵素の働きが低下し、ブドウ糖を酸化分解しエネルギーとして使用されるATP(adenosine triphosphate=アデノシン三燐酸)というリン酸化合物を生成する過程が狂わされ、その生産力が低下し、筋肉、神経、内臓などの生命活動部位への供給が滞り、致命的な問題に発展するのである。
 (註*:酵素は生体で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子で、生物における消化、吸収、輸送、代謝、排泄に至る、ありとあらゆる過程に大きく関与している)


「教わったとおりだ。じきに体中が動かなくなる。それまでに何とか岸まで泳いで、フィリップを引き上げなくては・・・・」

 まだ体の深部までは冷えていないことが宏隆には感じられるが、すでに指が痺れ始め、墜落して逆さまの恰好になった機体のフロート部分を抱えるようにしている腕も、どんどん感覚が低下してきている。

「やるなら今だ。おそらくチャンスは一回しかない。しかし、向こうの岸までは千メートルはあるな。日本の夏ならともかく、こんな状況で、果たして無事に泳ぎ着けるだろうか?」

 冷水の中では水泳能力は著しく減少する。水が冷たければ冷たいほど、水泳能力は容易に低下して行く。そしてそれは、中心体温が下がる前から確実に作用してくる。それを知っている宏隆は、やはり慎重にならざるを得ない。

 幸いにも、宏隆の服装はこのような場合に適したものであった。
 宏隆は訓練によって、何か行動を起こす前には必ずリスク・アセスメントを行う習慣が身に付いている。リスク・アセスメント(risk assessment)とは、事前にその行動にどのようなリスク(危険度)があるかを自問し、評価査定することである。

 例えば、宏隆はコールドフットを出る際に、こう考えたかも知れない。
 現在の気温と予想最低気温、冷たい雨の天候と、取るべき行動に合わせた最適な服装とは何か、装備は何が必要か・・・種類と大きさの異なるナイフ数丁、細いロープ、フラッシュライト、小さなナイフを中に隠せるブーツ、緊急用のホイッスル、包帯やマフラーにもなる大判のバンダナ、どんな状況でも火を熾せるファイアースターター、ホテルの売店にあったナッツ入りのチョコレートバーとクッキー・・・
 目的地の途中に危険な場所はあるか、誰かが待ち伏せている可能性は無いか、目的地でバリーが捕らわれている場合にはどのような行動を取るか、その行動パターンはいくつ用意するか・・また、自分がそこに行くことは誰も知らないので、何の目的でそこへ行き、いつ戻ってくる予定かを、誰にどのように知らせておくか・・
 そのようなことを自問し、どのくらいのリスクがあるかを予め認識し、準備を整えておくのである。


 ともあれ、コールドフットの寒い雨の夜に、フィリップの部屋やバリーの家を確認しに行くために、リスク・アセスメントによって、きちんと防寒と防雨の服装を充分に整えていたのがここでも幸いした。
 具体的には、宏隆は綿の丸首のTシャツの上に長袖のフランネルのシャツを着て、丸首のセーターを被り、さらにその上には軍用のレインパーカを着ている。
 セーターは台湾海軍に貰ったウールのコマンドセーターで、初めてこれを着たときには、どうしてこんなに窮屈な造りにするのかと不思議に思ったが、「アラスカではいつもこれを着なさい、危機に遭遇したらその価値が分かるよ」と真顔で宗少尉に言われた。実際に危機に直面している今は、その意味がよく理解できる。

 水の中では少しでも厚着をしている方が生存率が高い。衣服はキッチリと身体にフィットした緩くないものが ”動かない水の層” をつくり、体温が奪われるのを防ぐ。密着した窮屈なウールのセーターは、万一落水した際にも動きやすく、かつ身体を的確に保温するための海軍の知恵であったのだ。勿論その保温性能から、陸軍でも愛用されている。
 加えて、やはりウールの厚手の長い靴下に8インチのブーツ、手袋、そしてウールのワッチキャップ(watch cap=水兵の見張り用防寒帽)─────────実はこのような状況では、帽子が有ると無いとでは大きな差が出てくる。異説もあるが、もと英国軍人の、冷水からのサヴァイバルを解説した著書には、頭部からの熱損失は50%にも及ぶと書かれている。 

 これらの服装は、より体温を保つことに非常に都合が良い。フィリップも軍用の迷彩服とパーカーに身を固めているから、保温レベルは宏隆と同じくらいだろう。

 しかし、時間は限られている──────────────


「水温は、5℃か・・・気温はたぶん10℃を切るくらいだろうな」

 だいぶ動き難くなっている手で、ポケットから温度計を取り出して見る。登山用の小さな温度計はベルトループから細いコードで結ばれていて、手が悴(かじか)んでいても落とす心配がない。

「幸い、風はそんなに吹いていないし、水の流れもなさそうだ・・・自分とフィリップの服装と、5℃の水温と、この気温で判断すれば、生存可能推定時間は・・・まあ1時間以内、というところだな、よしっ───────────!!」

 5℃という低い水温では、生存が脅かされるどころではないが、窮すれば通ず、とはよく言ったもので、窮地に立たされたことで、何かより良い方法を思いついたのか、宏隆は新たな行動を取り始めた。

「先ずは、こうして、と─────────────────」 

 パーカの襟からフードを引っ張り出して頭に被り、アゴで紐を締めると、フィリップのパーカからもフードを出して同じように頭に被せた。体熱の放出を少しでも軽減するためである。
 次に、フィリップを出来るだけ墜落機体の上に押し挙げて水に浸かる部分を減らし、自分も空いた所によじ登って水から体を出した。幸い、まだ機体は片足と腹の一部を出して浮いている。
 水中では空気中の25〜30倍の速さで体熱が奪われていく。外気がどれほど寒く感じられても、時には水中の方が温かいと錯覚することさえあるが、できる限り水から身体を出した方が生存率は遥かに高くなる。

 普通は、岸まで泳ぐなら体力のあるうちに早く行けば良いのに、と思うかもしれないが、宏隆はなぜかそうしない。それどころか、ポケットからチョコレートバーを取り出して、それにかじり付いた。ずぶ濡れになっているが、何とか中身までは濡れていない。
 一気に食べ終わると、今度は胎児の姿勢(fetal position)を取り、呼吸を整えることに集中した。胎児の姿勢とは、胸の前で腕を交差させ、肘を脇に付けたまま、膝を出来るだけ胸の方に引き寄せた姿勢で、これにより熱損失のリスクが高い胴体の前側、腋下部、鼠蹊部および胸部のプロテクションが可能となる。

 その姿勢を取りながら、宏隆は眼を閉じてじっとしている。
 王老師に教わった ”意功” を始めたのだ。

 末端部の手足から始まり、首、腋、鼠蹊部、腹、腰、そして身体の中心まで、順に次第に暖まって行くイメージを持つのである。
 この意功は1932年にドイツの精神科医シュルツ(Johannes Heinrich Schultz)によって創始された「自律訓練法(Autogenes Training)」の自己催眠のメソッドとよく似ているが、意功とは早い話が意識による身体統御の方法であり、自律訓練法もひとつの意功だと言える。

 そして、あっという間に─────────────────わずか数十秒で、宏隆の身体各部は、それまでとは比べものにならないほど暖まってきた。顔色が紅くなってきているのが自分でも分かるほどなのである。

 現代人は、寒ければすぐに厚着をし、暖房に頼り、外出時は使い捨てカイロなどに頼ってしまうが、ヒトは本来、寒ければ温かく、暑ければ涼しくする術を自分の中に持っていると言える。
 因みに、使い捨てカイロの原型は旭化成の「アッタカサン」という物で、1975年にすでに市販されていたが、製品の参考となったのは米軍のフットウオーマー(foot warmer)で、もとは野営時の寒さを緩和するための軍用品であった。
 米軍のものは発熱が急激で難があったが、旭化成は内容物に工夫を凝らして発熱を緩やかにし、快適に使用できるようにした。日本の使い捨てカイロは現在世界一のシェアを誇る。
 ともあれ、もし米軍兵士が宏隆のような意功を知っていたら、そんな日本の使い捨てカイロも生まれなかったかも知れない。


「よし、行くぞ─────────────────」

 あらん限りの知恵で体を温めた宏隆は、再び水に浸かって泳ぎ始めた。



                    ( Stay tuned, to the next episode !! )





  *次回、連載小説「龍の道」 第147回の掲載は、2月1日(日)の予定です

taka_kasuga at 23:47コメント(15) この記事をクリップ!
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