*第111回 〜 第120回
2013年08月01日
連載小説「龍の道」 第115回

第115回 T A C T I C S (3)
高さが20メートルと言うから、七階建てのビルの屋上くらいに相当するだろうか。訓練塔の外側に着けられた狭い階段を百段以上ものぼって、ようやく一番上に到着する。
「うわぁ、結構高いですね、下に居る人たちがあんなに小さく見える・・」
塔の上まで案内してくれた雷士官長に、宏隆が言った。
実際に七階建ての屋上、つまり八階の高さから下を眺めてみれば分かるが、かなりの迫力である。
「そう、下から見上げるよりも、階上(うえ)から見下ろした方が高く感じますね」
「この高さから、こんな細いロープ一本で降りるんですか?!」
ステージの中央部から塔の下に向かって、カーキ色のロープが数本下がっているが、思っていたよりも細く、10ミリ程度の太さしかない。
「そうですよ。もっとも、いきなりこの高さから訓練を始めるわけではありません。ロープも目的に合わせていろいろな太さのものを使うのです」
「あ、なるほど───────────────────」
「ははは・・・・」
「ヒロタカらしくないわね、何をビビッてるの?、消防学校の訓練塔なんか30〜40メートルの高さはザラにあるわよ。ちょっとやってみせるから、そこで見ていてごらんなさい!」
「やってみせるって・・宗少尉、ココから降りるんですか?」
塔の最上部のステージには、横と後ろの三辺には手摺りが付いているが、無論、降下する側には両端に少しだけしか付けられていない。その手摺りに手を掛けて、恐る恐る見下ろしてみると、降下面には塔の骨組みの上に板の壁が着けられていて、何ヵ所か空間が開けられている。つまり、七階建てのビルの屋上と、壁と窓を想定して造られているのである。
「そうよ、訓練塔は降下するためにあるんだから、他にやることは無いでしょ。それにね、初めて目にするモノは潜在意識にダイレクトに入るっていうから、ヒロタカの為に私がやって見せてあげようってコト!」
そう言いながら、宗少尉は平然とステージの際に立って下を見下ろし、手摺りを握ったまま少々腰が引けている宏隆を見て笑っている。
「宗少尉、ハーネスはどうされますか──────────?」
雷士官長が訊ねるが、
「ま、このままでいいわ、チョイと見せてあげるだけだし・・・」
ポン、と腰のベルトを叩いて、そう言う。
「では、これをお使い下さい」
ステージの上に設けてある大きな工具箱のようなボックスから、いくつかの金属の環を出して宗少尉に渡そうとする。それがカラビナと呼ばれる、登山や林業で使われる降下器具のひとつであることくらいは、宏隆も知っていた。
「ありがとう。でも、自分のを持っているから大丈夫───────────────」
そう言ってベルトのポーチから金属製の降下用具を二つ取り出し、ひとつをベルトに着いている三角形の金属に掛け、もうひとつの8の字形のものを、訓練塔にセットされたカーキ色のロープにぐるりと通して掛け、さらにそれをベルトに着けたカラビナにカチャリと装着した。
気にも留めなかったが、よく見ると宗少尉のベルトは普通のベルトとは違い、バックルのすぐ横に三角形の金属が付いていて、普段はそれが邪魔にならないように細いベルクロのバンドで固定されている。宗少尉はその三角形の金属にカラビナを装着したのである。
宏隆にとっては何もかもが初めての、とても興味深いものばかりだ。
「便利そうなベルトですね。何でも着けられるし、何でも出て来る!」
「 ”それ用” のベルトよ。ヘリから身を乗り出す時などには、これにランヤード(安全索)を着けるようになっているの」
「ヘリコプターから身を乗り出して、どうするんですか?」
「機上から敵を攻撃をしたり、偵察をするのに決まってるでしょ、バカね!」
「すぐにバカって言うんだから、もう・・」
「さあ!、降りるから、よく見ていなさいよ────────────────」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、いきなり宗少尉はタタタッとステージを走り、訓練塔の外へと、大きくジャンプして飛び出した。
「ああっっ──────────────!!」
あっという間の、驚く暇もないほどの素早さである。
急いでステージの端まで駆け寄って下を覗いたが、宗少尉はもう地上に降り立ってロープを外している。
「・・す、すごい!!、いったいどうやって降りたんですか?、とてもロープを使ったようには見えません。まるでそのまま飛び降りたようにしか思えませんが・・・」
宏隆にしてみれば、まるでマジックである。
たった今までそこに居た人が、細いロープ一本を掴んで、いきなり20メートルもの高さから飛び降りたのだ。そして驚いて下を覗きに行けば、そのほんのわずかな時間のあいだに、すでに宗少尉は地面に到着して、もう次の行動を始めていたのである。
「ははは、驚きましたか?、私も生まれて初めて見た時にはビックリしましたよ」
雷士官長が笑ってそう言う。
「降下と言うから、よく消防隊員がやるような、ロープを手に、壁に足を着けて、ポーン、ポーンと降りていくような恰好を想像していたのですが」
「それもラペリングの基本のひとつで、Hang(ハング)と呼ぶものですね」
「今のも・・宗少尉が飛び出したようなものも、ここで訓練するのですか?」
「はい、あれは Plunge(プランジ)と言って、最も高度な降下技術のひとつです」
「プランジ────────つまり”突進” 降下ということですか、すごい名称ですね!」
「突進とか、飛び込みなどと言われますね」
「・・・どう?、少しはこれからやっていく訓練がイメージできた?」
「あ、いつの間に──────────────?!」
何という素早さだろう。たった二言三言、雷士官長と話をしているうちに、もう宗少尉が戻ってきた。八階の高さまで、およそ百段もある所を、ほんのわずかな時間で、しかも金属の階段をごついブーツで足音も立てずに素早く上って来られるのは、やはり日頃の訓練の賜物なのだろうか。
「いきなり飛び降りたからビックリしましたよ、あんなテクニックがあるんですね」
「あはは、あんなの、ヒロタカもすぐに出来るようになるわよ」
「どれ、それでは、次は私がやって見せようか・・・・」
王老師が淡々と仕度を始めながら、そう言った。
「し、師父が────────────?!」
「ん、私がこんなことをやったら不思議かね?、こう見えても、レンジャーの訓練はひと通り受けてきているのだよ」
「王老師は、若い隊員に降下訓練を指導するほどの技術を修得されているのよ。握力なんか二十代の隊員よりも強いくらいだし・・」
「ははは・・五十を過ぎた身でも、現役の隊員と同じように働かなくてはならないからね。錆びつかないように訓練を欠かさず、よくここに来て鍛えているのだよ───────────
さて、宗くんが ”飛び込み” を見せたから、私は ”スパイダー” でもやって見せようか」
「スパイダー?・・・蜘蛛(くも)のことですか?」
「ははは・・・・」
見れば分かる、と言うことなのだろう。
皆で顔を見合わせて、笑而不答(わらってこたえず)である。
王老師はいかにもコンパクトで軽そうなハーネスを装着すると、瞬く間にそれにロープを取り着けた。宏隆が何かを質問する暇もないほど、素早く、無駄なく、テキパキと準備が行われていく。
そして、ごく当たり前の日常の事のように、高さ20メートルのステージからヒョイと身を乗り出すと、まず2メートルほどの下の壁面へ移動し、そこでピタリと垂直に立った。
今日は何という日なのだろうか。
銃やナイフを腰から下げた、黒ずくめの戦闘服に身を包んだ王老師を見ただけでも、礼を忘てしまうほどの大変な驚きだったのだが、こうして高い塔の天辺から壁面に垂直に立っている師の姿も、宏隆にはどうしても考えられない光景である。
「よく見ておきなさい──────────────────」
まだ不思議そうな顔をしている宏隆にそう言うと、垂直に立っている片方の足でロープを跨ぎ、そのまま両足を伸ばしながら、頭を下向きに、壁に腹這いになるような恰好となり、その姿勢のまま、ツゥーッと、音も立てず地面まで降りて行き、何事も無かったかのように塔の上に向かって手を挙げた。
「あ、まるで蜘蛛が糸を出しながら下がって行くような・・・」
「そう、だからこれをスパイダーと呼ぶのよ。けれど、王老師がこんなコトをされるとは思っても見なかったみたいね?」
「まったく考えられませんでした。・・というか、未だに信じられません!」
「ふふ、太極拳の達人はシルクのパジャマのような服を着てゆったりと動き、強力な気で敵を触れずに吹っ飛ばす仙人のようなヒト・・なんていうイメージを捨てることね」
流石に、そこまでは取り違えてはいないが─────────────────
ここに居ると、いったい自分が太極門に入門したのか、特殊部隊に入隊したのか、だんだん分からなくなってくるような気がするのも確かである。
「さて、ヒロタカ、次はあなたの番よ!!」
「えっ?・・ぼ、ぼくに、いきなりココから降りろと?!」
「あーら、ガラにもなく、怖がってるの?」
「こ、怖くなんかないですよ、ヤレと言うんだったら、遣りますけどね・・・」
「ははは・・ヒロタカさん、いかに宗少尉のお言葉でも、それは冗談ですよ。
訓練にはそれなりの順序というものがあります。実際の降下をする前には学んでおくことがたくさんあります。先ずはそれらをきちんと熟(こな)してからの事ですね」
「ふう、やれやれ・・すぐに脅かすんだから、もう・・・」
雷士官長の助け船に、少しほっとしたが、
「はン・・なーに言ってるの、ホントは今すぐやりたいと思ってるクセに!」
さすがに宗少尉は、宏隆をよく知っている─────────────────
「さあ、王老師をお待たせしてはいけません、私たちも降りて行きましょうか」
「ロープで降りた方が早いわよ、ヒロタカ!」
宗少尉が笑って言う。
「もう・・まだそんなこと言ってる!」
「それじゃ、あなたは階段で降りていらっしゃい!」
そう言いながら、素早くベルトにロープをセットすると、今度はいきなり飛び込むようなことはせず、きちんとステージの端に立ち、壁の方を向いたまま、ポーン、ポーンと、わずかに二度ほど壁を蹴って、あっという間に地面に降り立った。
手摺りも何も無い、20メートルの塔の上から見た地上は、初めて経験する者は誰もが足が竦(すく)む思いになり、決して気持ちが良いものではないが、宗少尉や王老師がやって見せてくれたことは、きちんと訓練を積んで行きさえすれば自分にも可能だと思える。
何より、こんな面白そうな事を学んで行くのかと思うと、今からワクワクして仕方ない。
宏隆には、この訓練場が大きな遊び場のように思えて、心底楽しかった。
◇ ◇ ◇
玄洋會・神戸湾岸訓練場─────────────────
正式には此処をそう呼ぶのだと、昨夜渡された自分のIDカードを見て分かった。
一夜明けて、いよいよ宏隆の訓練が始まろうとしている。
「宗少尉、おはようございます!」
部屋を出て、廊下を足早に集合場所に向かっていると、ちょうど宗少尉が出てきた。
「おはよう、ヒロタカ。よく眠れた?」
「まあまあです。高級ホテルのロビーみたいなエントランスだったから、部屋もさぞかし豪勢だろうと思っていたら、普通の兵士の宿舎で。窓も無いので監獄みたいですね」
「贅沢言わないの、あれでも下士官用の良い部屋を用意してくれたのよ。それに、窓が無いのは地下だから当たり前でしょ」
「それにしても、こんな早くから訓練をするんですか?、まだ朝ご飯も食べていませんよ」
腕の時計を見ながら、宏隆が言う。
確かに、愛用のオメガ・スピードマスターは、まだ午前5時45分を示している。
「あのね、世界中どこの軍人も、起床したら先ず、速やかに着替えて、各隊ごとに整列して点呼を受ける、これが常識。朝ご飯はそれからよ。そして食事を終えたら掃除を・・」
「ゆうべの食事は豪勢なチャイニーズだったけれど、今朝は何が出て来るのかなぁ・・」
「もう、食べることばっかり考えて、食いしん坊なんだから!」
「そう言う自分だって、昨夜はさんざん中華料理を平らげて、茅台(マオタイ)酒をガンガン飲んでたじゃないですか。あんな飲み方をしたら体に悪いんじゃないの?」
「平気、平気・・ロシアに偵察に行った時なんか、毎晩のようにウオッカをグイグイあおったし。お酒に強くなるのも仕事のウチよ」
「はン、支那に赴任したサラリーマンみたいなこと言ってらぁ・・・」
「馬鹿言ってないで、急ぐわよ!」
訓練場前の広場に、ここで訓練を受けている隊員と、指導にあたる教官が勢揃いする。
昨日は全く気付かなかったが、こんなに大勢の人間がこの地下訓練場に居たのだと、あらためて驚かされる。
「整列っ─────────────────!!」
やがて点呼があり、各自の名前がコードネーム(暗号名)で呼ばれる。
これは、任務に就いた者同士が不用意に本名で呼び合うことの無いようにする為であり、通信を傍受された時などに個人を特定し難くするためでもある。
昨夜王老師に伝えられたとおり、宏隆は「Kurama」という名で呼ばれ、宗少尉に教わったとおりに、気を引き締めて軍隊式の敬礼をした。
「Kurama」というコードネームは、張大人が宏隆のために考えてくれたものだという。
その命名の所以(ゆえん)を王老師に訊ねると、”クラマ” とはもちろん、源義経が牛若と名乗った幼少の十年間を過ごした京都の鞍馬寺から取ったもので、そこで天狗に武術を習いながら源氏再興のために厳しい修行を続けたことに因んでいるという。
また、鞍馬寺の本尊は毘沙門天、別名は多聞天(能く物事を聞くところの者の意)と呼ばれる武神であり、仏敵を打ち据える護法の宝棒(棍棒)と宝塔を手に捧げ、身を甲冑に包んだ戦士の形貌(けいぼう)で表される。密教に於ては北方を守護する神でもあるので、台湾や日本が北からの外敵に備えるという意味も含まれ、そのような謂われを張大人が大変気に入ったらしい。
────────────ともあれ、何よりその名前は、宏隆自身がとても気に入っていた。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第116回の掲載は、8月15日(木)の予定です
2013年07月18日
連載小説「龍の道」 第114回

第114回 T A C T I C S (2)
雷(らい)士官長が先に立って、宏隆を案内してくれる。
訓練場に立つと、上のデッキから見ているよりも、ずっと広く感じられた。
「ここはCQBやCQCの、室内戦闘と市街戦を訓練するところです」
天井の無い、壁と窓だけで出来た建物が迷路のように入り組んで造られているタクティカル・フィールドの入口に立って、雷さんが言った。
「シーキュー?・・C級のB・・?」
「CQB、つまり ”Close Quarters Battle” 、近接戦闘のことですよ」
「バカね、よく覚えておきなさい。チーズの名前じゃなくってよ!」
「ムッ・・宗少尉、僕だってそのくらいの違いは分かりますよ。QBBチーズは、神戸の六甲バター株式会社が製造する、国内第二位のシェアを誇るチーズブランドですからねっ!」
「・・それと、CQCは ”Close Quarters Combat” 、つまり近接格闘のことです」
姉弟ゲンカに割って入るように、雷士官長がつづける。
「そのふたつは、バトルとコンバットでは、何が違うんでしょうか?」
「CQBは25メートル以内で分隊が敵と遭遇した状況での戦闘を意味しています。CQCは個々の兵士が敵と接触することや、極めて近距離にある状況での戦闘の概念です」
「ははぁ、なるほど・・そんな用語が実際にあるんですね」
「Battle は複数の兵士がチームで行う戦闘。Combat は個人が戦闘行動を取ることよ」
宗少尉が付け足して説明をしてくれる。
「ふむ・・CQBに於ける ”分隊” というのは、どのくらいの人数なのですか?」
「分隊は普通、10名前後の兵士で構成されます。日本の自衛隊や警察などでは6〜7名の場合もあるようですが」
「ここのセットでは、どのような訓練を行うのですか?」
「小規模から中規模の市街戦と、普通の室内戦闘が出来るようになっています。
敵の目を掠めて侵入し、妨害してくる敵を確実に倒しながら、目的地点まで素早く到達する訓練を主に行います。所々に人形(ヒトガタ)のパネル標的や、本物の人に見えるようなダミー、人質を取っているダミー、機械操作で動くダミーなどが置いてあります。もちろん照明を落とした夜間の訓練も行います。訓練では敵の役を行う隊員とで実際の戦闘も行いますが、その場合はトイガンやダミーナイフを用います」
「なるほど・・・」
時おり、奥の方で人影が素早く動きながら射撃をしているのが見える。弾丸が標的に当たる音がするので、ここでは普段から実弾で訓練しているのだと思えた。
「面白そうでしょう?、ヒロタカさんは、このような訓練場は初めてですか?」
「初めてです。射撃はもっぱらブースのカウンターから撃つだけで────────────」
「あら、そんなコトないわ、大武號の甲板からライフルを撃ったり、北朝鮮の連中に銃を向けたり、向けられたり、すでにリアルな射撃戦を経験してるじゃないの」
「あ、確かに・・・宗少尉、つまらないことを憶えてますね」
「つまらなくなんかないわ、それもヒロタカの大切な経験でしょ?」
「はは、あまりそんな経験は重ねたくないですけれどね・・」
「────────────雷くん、皆を集合させなさい」
王老師がそう命じると、
「イエッサー、少々お待ち下さい・・・」
雷士官長が、ポケットから笛を取り出してピィーッと鋭く吹き鳴らして、
「Cease Fire!!」
続けて、訓練場に向かって野太い声を出す。
「Cease Fire・・・!!」
「Cease Fire・・・!!」
すると、そこで訓練をしていた者たちが同じ言葉を呼び合い、銃声がピタリと止んだ。
「宗少尉、何ですか、いまの ”ナンとかファイアー!” って呼びかけは?」
「シース・ファイアーよ、日本語で言うと ”撃ち方、止め!” ってコトかしらね」
「あ、なるほど。Cease(中止)と、Fire(射撃)か・・・」
「Everyone, come here!!(総員集合せよ!)」
雷士官長がそう声を掛けると、場内で訓練中の4名と、外で待機していた6名が駆け足で集まり、素早く一列横隊に並び、一糸乱れぬ直立不動の姿勢で敬礼をした。
全員が迷彩服にヘルメット、手にはグローブを着け、アソールトライフル、拳銃、ナイフを装備している。場内で射撃を行っていた者たちは、すでに腿のホルスターへ銃を収めている。つまり、この人数が「ひとつの分隊」なのだな、と思う。
「紹介する。君たちも色々と噂を聞いていると思うが、こちらは王老師の日本人拝師弟子、カトー・ヒロタカさんだ。海外にも名高い実業家で玄洋會の顧問である加藤光興先生のご子息だ。本日より当湾岸訓練場に参加することになった。ヒロタカさんの様々な武勇伝は玄洋會でも既によく知られているところだが、戦闘訓練はまだ始めたばかりと言うことなので、皆もよく教えてあげて貰いたい」
「イエッサー!!」
「初めまして、加藤宏隆です。皆さんのお邪魔にならないように心掛けますので、どうぞよろしくお願いいたします」
雷士官長に紹介され、宏隆がそう挨拶してお辞儀をしようとすると、全員が一斉にサッと宏隆に敬礼をしたので、宏隆も思わず直立して敬礼を返した。
「あ・・つい敬礼をしてしまいました。僕は軍人でもないのに、失礼しました!」
「いや、それで良い──────────────」
王老師が微笑んで言う。
「ここでは彼らも私に敬礼をし、私も同じように敬礼を返す。彼らは太極門の師兄弟(兄弟弟子)ではないし、太極拳の修行をしているわけでもないのだから、包拳礼をする必要はないのだよ」
「はい、When in Rome, do as the Romans do.(郷に入っては郷に従え)ですね?」
「うむ、中国語では ”入郷随俗” などと言うが。When in Rome(ローマではローマ人のするようにせよ)と同じ意味だよ。宗少尉、後で彼に正しい敬礼の仕方を教えてやってくれたまえ」
「イエッサー!」
思わず自分も英語の諺が出てきたが──────────やはり此処でも、訓練では英語が主に使われるのだと、改めて思う。
初めて台北で宗少尉に会った時にも、陳中尉や他の隊員も、皆英語を必要な訓練として学んでいるので英会話は堪能だと言っていた。台湾海軍の基地に行ったときも、兵士たちに対して英語で話しかけていたのが思い出される。
(つまり、それほど英語で話せることが必要とされているのだ────────────)
自分のように、単に国際語として英語を学んでいるのではない。もっと深刻な、切実な必要性があって学んでいるのだ。そう宏隆は思った。
中国が予てより台湾を併合しようと躍起になっていることはすでに国際常識であり、もし共産党の一党独裁政権である中国が台湾を併合するようなことになれば、直ちに日本にも侵略の危機が及ぶ。何しろ台湾は東京から2,040キロ、沖縄本島からはわずかに310キロほどの距離なのである。
だから台湾軍は常に中共軍の侵略に備えて訓練に励んでいるし、アメリカとの合同軍事演習も度々行われ、時に応じてアメリカから台湾へ大規模な武器の輸出も行われている。
アメリカにとっても中国の台湾併合は太平洋の脅威であり、まして同盟国である日本の尖閣諸島や沖縄に侵攻して来ればタダでは済まされない。それは決して日中だけの問題ではないのである。
もし中国が台湾を侵攻・併合すれば、中国は太平洋に向けて軍事力を拡大するための絶大な拠点を得ることになり、日本、韓国、東南アジアは大混乱に陥り、あっという間に国際的な勢力均衡(Balance of power)が変わってしまうことになるのである。
かつて「米ソ冷戦時代」には、アラスカから千島列島、本州、沖縄、韓国、台湾、フィリピンを結ぶラインは、アメリカにとって共産主義に対する重要な防波堤であった。もしソ連が崩壊することなく、強い軍事力を保持したまま米ソ大戦が始まっていたら、勝敗に関係なく日本と台湾は当初から共産国軍と激しい戦いを強いられる事になったはずである。
日米安保体制にしても、防衛大綱には「米国との安全保障体制は我が国の安全にとって必要不可欠なもの」と明確に謳われており、実際にそれは国民の間にも総体的に支持され、世論調査では、日米安保が役立っている、あるいは、どちらかと言えば役立っているという肯定論が常に70%以上を占めている。
しかし、日米安保体制には、何かしらスッキリしない国民感情があるのも事実である。
日本の安全が脅かされたときに本当にアメリカが日本を防衛してくれるのかという懸念、一体どこまでホストネーションサポート(有事に来援する同盟軍の受け入れのために、装備補給、施設・輸送・労務提供などの体制を整えておく、受け入れ国支援)を日本が負担するつもりなのかという批判、在日米軍基地にまつわる様々な問題などが、素朴な疑問として国民の間で多く聞かれている。
(しかし、自分たちの国は、自分たちで守るべきだ。日本の防衛は日本人自らが考えるべきで、安保体制は日本防衛の一手段として在るべきではないのか──────────────)
まだ勉強不足ではあるけれど、近ごろの宏隆は少しそんなことも考えるようになった。
「さあ、場内へご案内しましょうか」
「あっ・・はい、ぜひお願いします!」
けれども、いまは台湾とアメリカの関係や日米安保体制などを考えている場合ではない。この訓練場の中身を把握しておかなくては、いざ訓練が開始されたときにあたふたと狼狽えて(うろたえて)しまうに違いない。
「こんな状況では──────────────────」
少し先を歩いていた雷士官長が、土色の壁にやや大きめに開けられた窓の手前で停まり、おもむろにホルスターから銃を抜いて、宏隆に説明し始めた。
もちろん、安全装置が掛けられ、セイフティ・フインガーを伸ばしたままである。
「たとえば、このように銃を構えながら、先ずこうして内部を確認します」
その、たったひとつの動作だけでも、相当な訓練を積んできたことが窺える。
切れ味、という言葉があるが、窓に近寄り、中の様子を伺いながら銃をあちこちに向けて構える雷士官長の動きは、キビキビとして全く体軸のブレが感じられない。
(やはり、これも武術。いや、これこそが武術の真実なのだ──────────)
つくづく、宏隆はそう思う。
戦後の平和にとっぷりと浸かって安穏と暮らす日本人にとっては、武術などと言っても、ルール試合で闘うマットの上の格闘スポーツか、古武術の伝統を尊ぶ高尚な趣味とすることくらいにしか思えないかもしれないが、武術とは本来、侵略に備え、外敵に敢然と立ち向かい、打ち勝つための闘争技術に他ならない。
「武」という文字の意味にしても、春秋左氏伝(孔子の編纂と言われる史書 ”春秋” の代表的な注釈書)にある、楚の王が語った「戈を止める」という故事に由るものなどではなく、その原義は文字を構成する「戈」が尖った石を手にした原始的な武器の形を意味し、元々は足首の象形である「止」は歩く・進むという意味を持つので、「武」とはすなわち「戈を持って戦いに行く」という意味であったと───────────宏隆は、そのようにK先生から教わったことがある。
また、「武術」を英訳すれば、Martial Arts(マーシャル・アーツ)となる。
形容詞である Martial は「勇敢で軍人らしい」という意味があり、「軍の・戦争の・戦争に適する」などといった意味がある。名詞の Martialism(マーシャリズム) は「勇気があって強い」という軍人らしさを表している。
Art は芸術という意味の他にも「技術・技巧・熟練者の技芸」という意味があり、したがって Martiar Arts とは「戦争に適した闘争術、兵士の戦闘術」という意味になる。
「武術」は古今東西、その本来の意味を離れては他の何処に存在するはずもない。
いま宏隆が目にしている、説明のために何気なく銃を構えた雷士官長の動きこそ、本来の意味での「武術」そのものなのだ。
「─────────通常、軍隊では単独で敵地に潜入することはありません。軍隊の作戦は必ずチームで行われます。こうして窓から中の様子を伺い、他の隊員と合図を交わしながら中に侵入して、交互にドアをひとつずつ開け、次々に室内をクリアして目的の場所まで素早く進んで行くのです」
「何だか難しそうですね。もしもリーダーが殺されたり、誰かが動けなくなった場合には、チームはどう行動するんですか?」
「その場合には、次にリーダーに相応しいものが分隊を率います。その者も殺された場合には、また次の者がリーダーになります。そういう具合に、誰もがリーダーシップを取れるように訓練していくのです。動けない者はそこで応急処置をし、自分で安全を確保しながら仲間の任務完了を待ちます」
「なるほど。よく映画などでは、たった独りで敵地に潜入して任務を果たす、などという状況が出てきますが、やはりあれは映画の中だけの話なのですね」
「スパイと軍人とは違いますからね。スパイは単独行動が多くなりますから、そういう状況も多くあるでしょう。私たち玄洋會でも、戦闘部隊と諜報部隊では訓練内容が細かく異なっていますから・・・」
「そう言えば、陳中尉や宗少尉は戦闘部隊の武漢班で、台北の円山大飯店でボーイに身をやつしていた程(てい)さんは、武漢班とは違う班の所属だと仰っていました」
「・・ああ、程くんは ”偵知班” ね。間諜活動に従事する諜報部隊の所属よ」
宗少尉が横から教えてくれる。
「まあ兎も角、やってみればこのような訓練の必要性が分かってきますよ。この辺りはざっと説明することにして、実際にじっくり様々な訓練を受けてみて下さい」
「はい、ありがとうございます」
「では、次に行きましょうか・・・あの塔は、降下訓練をするためのものです」
上のデッキから眺めた鉄塔が、近づいて行くとずいぶん高く聳えて見える。
「高そうですね。いちばん上の足場からロープで降りてくるのですか?」
「約20メートルあります。途中のステージは15メートル、その下の壁面が5メートルです。ヒロタカさんはラペリングの経験はありますか?」
「ラペリング・・・?」
「Rappelling──────懸垂降下のことです。ヘリコプターやビル、崖などからロープを用いて降下することを言います」
「ロープ降下は経験がありません。縄バシゴなら、小さい頃から自分で作って上ったり下りたりしたことがありますが」
「ははは・・縄ばしごの方が、ラペリングよりもよほど難しいと思いますよ」
「そうですか?、でも、あんな所からロープ一本で降りるのは恐いでしょうね」
「・・何言ってンの。小春日和に鶉野(うずらの)の飛行場でさんざんパラシュートの訓練を積んだでしょう?、あれは高度15,000フィート(約4,500m)からのイグジットだから、この訓練塔の高さなんかとは比べものにならないじゃないの」
(編註:「龍の道」第85回を参照)
パラシュートの降下を教えた宗少尉がそう言った。
「ほう・・もうパラシュートの訓練をやっているんですね?」
「いえ、やったとは言っても、皆さんとは比べものになりません。ジャンプの回数も、まだわずかに25回を超えたばかりです」
「私などはヘリから降下するよりも、このような高い塔の上に立つ方が恐いですね」
「えっ、本当ですか─────────────────?」
「ははは、立ってみれば分かりますよ」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第115回の掲載は、8月1日(木)の予定です
2013年07月01日
連載小説「龍の道」 第113回

第113回 T A C T I C S (1)
宏隆が驚くのも無理はなかった。
そんな王老師の姿など見たこともないし、想像することだって絶対に出来はしない。
こうして実際に目の前で見ていても、まだとても信じられない気持ちなのだ。
「ん・・そんなにこの恰好が珍しいかね?」
「ヒロタカ、何ボーッとしてるの、ご挨拶は?、ご挨拶!──────────────」
呆然としたまま師の姿に見入っている宏隆の耳元に、宗少尉が小声でそう促した。
「あ・・し、失礼しました!」
そう言われて、まだ師に礼をしていないことに気づき、大慌てて跪(ひざまず)き、両の手を押し戴くように額の前に捧げる。拝師正式弟子の取る、厳粛な礼法である。
「師父、ご無沙汰をしております。台湾で祖母の緊急入院を報らされ、そのまま帰国させて頂いて以来ですが────────あまりにも見慣れないお姿に、ついご挨拶することさえ忘れていました。たいへん失礼を致しました」
跪いて胸元で包拳礼式を取ったまま、頭を下げたままの恰好で、宏隆がそう言った。
「うむ、久しぶりだね、元気そうで何よりだ。まあ、そう慇懃になることもない・・
さあ、立ちなさい────────で、私のこの恰好が、そんなに不思議なのかね?」
「はい、その・・何と申しましょうか・・・」
「ボクの王老師へのイメージとは、あまりにも懸け離れてオリまして、ってコトよね?」
代わりに横から、宏隆の口真似をして宗少尉が言う。
「はい、そのとおりです。師父が入ってこられた時には、ここの教官をしている軍人がやって来たのかと思いました」
「ははは・・まあ、玄洋會での私の立場は、そんなようなものだがね」
笑ってそう答える王老師の姿とは─────────────
上から下まで黒ずくめの出で立ちで、頭には黒いベレー帽、黒いシャツに黒いタクティカルパンツを履き、肘にはエルボーキャップ、膝にはニーキャップを付け、足元には良く磨かれた半長靴(はんちょうか)、黒い長袖シャツの胸には宏隆たちと同じ徽章と認識票があり、ベレー帽と肩には別のデザインのワッペンが付けられている。
そして、宏隆がもっと驚くのは Thigh Rig(サイ・リグ)と呼ばれる、腰から吊られたベルトを太腿で固定する装具を着けていて、そこに拳銃とナイフが装着されているのと、ベルトの前にはマガジンが2本ずつ入るマグ・ポーチが腰の左右に着けられていることである。
「その・・師父が身に着けておられる装備にも、ちょっと驚かされましたが・・・」
少し遠慮がちに、宏隆が言った。
「ああ、これかね────────────?」
太腿に装着したそれらの武器を見下ろしながら、王老師が答える。
「ちょうどいま、若い者たちに銃の撃ち方やナイフの使い方を教えていたところなのだよ。近頃の若者は武器の使い方が下手で困る。・・だが、ここは秘密結社の訓練場なのだから、私がこんな恰好をしていても別に驚くことはないと思うが」
「師父が?・・銃やナイフまで教えて居られるのですか?!」
「うむ、それがどうかしたかね?」
「あ、いえ・・自分にとって師父は太極拳の師ですので、その服装も装備も、なんだか不思議な感じがするのです」
そう言いながら、つい宏隆は王老師の姿に見入ってしまう。
サマになる、という言葉があるが、この出で立ちの王老師は現役の特殊部隊そのものの迫力なのである。それもただサマになっているだけではなく、その人の実力が滲み出ていて、もしこんな人と向かい合うことになったら、決して闘いたくないと思える。
いつか張大人から、王老師が未だに大陸の共産党政府に追われる身であると聞いたことがあるが、仮に誰がどこまで追ってこようとも、敵が返り討ちに遭うのは明らかではないだろうか。
「ははは・・・君はいつも我々を楽しませてくれるね。そんなに驚いてくれるのだったら、今度いつか野外訓練にでも招待しようか?」
「野外──────────師父は野外訓練まで指導をされるのですか?」
「うむ、時にはそのような事もある。それも私の仕事のひとつだからね」
「野外でも、そのような装備で訓練をされるのですか?」
「装備はそのつど色々と変わるが、野外訓練は山岳地帯やジャングルが多いので、ウッドランド・カモフラージュの野戦服を着用して行うことが多い。この黒ずくめの服は市街地用のものだからね」
「はあ・・・・」
王老師の迷彩服姿など、宏隆にとってはますます想像もつかない。
「ヒロタカ、王老師はジャングルの上空からパラシュートで降下して、降下後に敵地に潜入してミッションを果たす訓練を自ら指導されているのよ!」
「パ、パラシュートで?・・・僕が抱いていた師父のイメージとはまるで違います!!」
「あら、どんなイメージだったの?」
「師父と初めてお目にかかった時・・・K先生に連れられて南京町の祥龍菜館の地下へ行った時にお会いした王老師は、長袍(チャンパオ)という、裾の長い中国服に身を包んで居られて、スラリと細身の長身で、とても穏和そうな、神戸でよく見かける中国人の紳士という感じでした」
「でも、初対面から三十分もしないうちに ”掛かってきなさい” と言われて、勁力で天井までこっぴどく吹っ飛ばされるコトになるんだったわよね!!」
「はい、あれは本当にショックでした。師父のイメージはその時の印象が余りにも強くて、弟子入りしてからも、お会いする度にほとんど中国服を着ておられたので・・・」
「こんな無骨な恰好をされるなんて、夢にも思わなかった、ってこと?」
「そのとおりです」
「ははは、そう言う君だって、いつもとは違う精悍な恰好をしているじゃないか」
カーキ色のシャツとズボンに、半長靴のコンバットブーツを履いた宏隆をしげしげと眺めて、王老師が言った。
「そう、馬子にも衣装・・ちっとはプロに見えなくもないわね!」
「うむ、まるでウチの戦闘要員のようにも、見えるな────────────」
「あ、師父まで宗少尉に口を合わせて・・ひどいなぁ、もぅ!!」
「はははは・・・・」
「わはははは・・・・」
「さて、応接室でこんな話をしていても仕方がない。せっかくこんな所まで来てもらったのだから、さっそく訓練場に案内しようか?」
「はい、お願いします─────────────────!」
何度も思うが、神戸のこんな埋め立て地の倉庫街に、これほどの秘密訓練基地があるなどとは、この辺りに勤める人たちも、誰も思いも寄らないことだろう。何しろ倉庫ばかりではなく、製薬会社としての工場や研究室まで備わっているのだから、たとえ誰かが地下に来ることがあったとしても、何も疑う余地がないはずである。
しかし、実際には研究室のボイラールームがそのまま秘密基地への出入口となっていて、基地の中には何艘かの船が停泊できるワーフ(船着き場)まで備えられているのだ。
これらの船はどのようにここに出入りするのだろうか。海上保安庁には、その出入りの現場が知られていないのだろうか─────────────────
宏隆の興味は尽きないが、停泊する船を横目で眺めながらその部屋を後にした。
長い廊下をぐるりと巡って、また違うエレベーターに乗って、違う廊下に出る。
宗少尉が先に立って突き当たりのドアを開けると、巨大な地下倉庫のような訓練場の全体が俯瞰できるデッキに出た。
「うわぁ・・・!!」
初めて見る人が思わず唸ってしまうほど、眼下の訓練場は広く大きい。
このデッキ自体、地下倉庫の天井近くにあって、ずっと向こうの、反対側の壁まで続いている。高さは、倉庫の床から20メートルほどはあるだろうか。
長いデッキの向こうの端まで歩いて行けば、此処でどのような訓練が行われているのか、その全貌が一目で分かるようになっている。恐らくここを訪れる結社の関係者なども、こうしてデッキに立って訓練の様子を眺めるのかも知れないと思えた。
それにしても、工場や倉庫を誘致した埋め立て地とは言え、神戸市内にこれほどの規模の訓練場を秘密裏に設けられるということ自体、秘密結社・玄洋會という組織が、宏隆が想像するほど小さなものでは無いのだと、あらためて思えた。
「どうかね、なかなか面白そうな景色だろう?」
目を輝かせて訓練場を眺めている宏隆に、王老師が訊ねてくる。
「はい、大きな所で驚きました。あれは市街戦を訓練するためのスペースですか?」
手摺りから身を乗り出すように指差しながら宏隆が王老師に訊ねる。
そこには、屋根のない、壁だけでつくられた家の枠組みのセットや、三階まである、工事現場の事務所のようなプレハブの家、様々な植え込み、ドラム缶、積み上げられた木箱やダンボール箱、それに本物の自動車までが一見無造作に置かれている。
そして、実弾こそ撃ってはいないが、戦闘服を着た数人の隊員が、それらの障害物を利用しながら前方の建物に進んで行く訓練をしているのが、このデッキからありありと観える。
「そのとおりだ。敵がどこに潜んでいるか分からないし、反対に自分がそこに潜んでいる際に敵が探しに来る時もある。そんな時の行動を訓練するために造られたものだよ」
「その隣のスペースは、何をする所ですか?」
「ふむ、何だと思うかね?」
市街戦を訓練する区域と分けるように、訓練場の中ほどに天井まで聳える鉄塔が立っていて、そこから向こうは土手や窪み、草の茂みや水溜まりなどが、まるでどこかの野原のように造られている。
「おそらく・・野戦訓練と降下訓練のセットのように思えますが───────────」
「そのとおりだ。このデッキの端から向こうの鉄塔の上部までロープが掛けられているだろう?、そのロープを伝って密かに鉄塔まで渡って行き、塔の最上部から降下して二階の窓から建物の窓を破って侵入する、そこに居る敵を瞬時に制圧して、三階で人質になっている味方を救出する・・例えばそういった状況を想定した訓練をする。そして別のチームは外からそれを援護して、救出作戦を成功させるのだ」
「うわぁ・・スゴイですね、まるで映画のロケみたいですね」
「もう、暢気なこと言って・・映画じゃなくって、現実にそのような状況が起こり得るから訓練するのよ。他人事みたいに言ってるけど、ヒロタカがそういう訓練で腕を上げて、実際にそのような状況が起こった場合に正しく対処できるようにしていくのよ!!」
ちょっと怖い顔をして、宗少尉が宏隆をたしなめる。
「やっぱりボクも・・この中で、そんな訓練をするんですか?」
「当たり前でしょ!、そのような状況の中で射撃も出来るような訓練をするのよ。他に何をすると思ってるの?、何のためにそんな立派な戦闘服を着てるのよ!?」
「これは・・宗少尉が着なさいって言うから・・・」
「ははは、君たちは顔を合わせれば兄弟げんかのようになるね。宗少尉は、君がどのような状況に遭遇しても無事で居て欲しいからそう言っているのだ。君が拉致された時のような、あの不安や苦しみを、私たちは二度と味わいたくないからね・・・まあ、もうケンカは良いから、下に降りて訓練の予定でも組むことにしようか。ここのメンバーにも紹介したいし」
「はい、申し訳ありません─────────────────」
「さあ、ヒロタカ、行くわよ!」
「ふん、すぐにそうやって ”あねご面(づら)” するんだから・・・」
「・・ン、なんか言った?」
「いいえ、何でもございません」
エレベーターで階下に降りて訓練場に入って行くと、すぐに王老師と同じ黒い軍服の上下に身を包んだ男が駆けつけて来て、王老師と宗少尉に向かって丁寧に敬礼をした。
細身ながら、キビキビと動く、張りのある良い体をしていて、黒い丸天帽(上部が円形になったツバのある帽子)を被っている。
「王老師、ご指示の通り、二人ひと組で建物に潜入する訓練を続けております!」
「ご苦労さん・・紹介しよう、彼がいつも話している私の拝師弟子、カトウ・ヒロタカくんだ。こちらは雷(らい)二等士官長。この訓練場の教官のひとりだ」
(註:二等士官長は、軍曹の上の曹長に当たる階級。少尉の下)
「初めまして、雷と申します!」
宏隆に向かって背筋を伸ばし、敬礼をして言う。
軍人らしく、よく腹に響く、引き締まった声である。
「加藤です、よろしくお願いします!」
宏隆は軍人ではないので軍隊式の敬礼はせず、いつもの包拳礼で敬礼をした。
「大武號(たいぶごう)でのご活躍から、北朝鮮特殊部隊の拉致監禁から自力で脱出されたというお話は、多くの人から伺っております。本日は神戸湾岸訓練場にようこそいらっしゃいました!」
「ありがとうございます。ですが、活躍もなにも・・・ただ夢中で何とか生き延びて来ただけで、そのために多くの方々に迷惑を掛けてしまいました。軍事訓練はこれまでに陳中尉、宗少尉から少々教えて頂きましたが、もっと自分の実力をつけなくては話にならないと思って銃の訓練を望んでいたのですが────────────」
「 ”生田(いくた)さん” の夜店の射的のような狭い射撃場ではどうしようもないから、私に連れられてココまで来たってワケよね!・・ま、ヒロタカはもっと気楽な射撃場だと思っていたみたいだけれど!!」
口ごもった宏隆に代わって、宗少尉が続きを説明する。
(註:生田さん、と親しみを込めて市民に呼ばれる生田神社は、神戸の中心部にある神社。祭礼には数多くの夜店が出る。古の時代には神戸中央区一帯が生田神社の社領であり、これが神戸という地名の語源となった。創建は今から約1800年前の西暦201年。)
「なるほど、確かに南京町の射撃場は、新しい銃の試し撃ちや、日常の腕が鈍らないようにしておく程度の施設ですからね。きっとカトウさんには物足りないことでしょう」
「雷くん、この加藤くんにいろいろ教えてやってくれ給え。もちろん私が居る時は直接指導をするが、雷くんのような経験豊富な人に就いて訓練すれば、彼ももっと戦闘というものに対して豊かなイメージが湧いてくるに違いないからね」
「恐れ入ります。私に出来ることでしたら、何なりとご指導させていただきます」
「ありがとうございます・・・しかし、この施設はすごく立派ですね。こんな所が神戸にあるなんて、いまだに信じられません」
「お父君のお力添えで、このような施設が維持できるのですよ。隊員一同、特別顧問である加藤光興(みつおき)先生には、心より感謝申し上げております」
「父が────────────?」
「そうよ。この基地なんか、ほとんどお父様の出資で出来ているんじゃないかしら?」
「ええっ・・・?」
「やれやれ、知らぬは息子ばかりなりけり、ね!」
「はは、そういうものかも知れませんね。さて、皆さまはそろそろ夕食になさいますか?、食堂ではすでに準備が整っているということですが・・・」
腕のハミルトン(軍用時計)を見ながら、雷士官長が皆を気遣って言った。
「僕は先に訓練場の中を見せてもらいます!」
「ははは、そう言われると思いました。それでは私がご案内しましょう。王老師と宗少尉のお二人は先に夕食を取られていては如何ですか?」
「いや、久しぶりに弟子と会えたのだ、私も付き合おう。食事はその後でゆっくりと、皆で共に楽しもうと思うが」
「そうですね。口の肥えたヒロタカも、ここの中華料理にはウナるかも知れません」
「はははは・・・」
「あはははは・・・・」
「皆さん、ありがとうございます」
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第114回の掲載は、7月15日(月)の予定です
2013年06月01日
連載小説「龍の道」 第112回

第112回 鞆 絵 (ともえ)(10)
ゴォーッと、大きな機械音を立てて、エレベーターはクルマごと地下に降りていく。
埋め立て地ではそんなに地下を深く掘れないはずだが、もしここが本格的な秘密基地だとしたら、行政の視察などからは、その目をどう逃れるのだろうか・・・
そんな事を考えていると、程なくエレベーターが停止し、目の前のドアが大きく開いた。
「こ、これは──────────!?」
思わず、宏隆がそう呟(つぶ)やいたのも無理はない。
開いたばかりのドアの向こうに広がっている光景は、非常口を示す薄緑色の灯りの中に、ベルトコンベアーや金属の大きなタンク、大型の様々な機械類が所狭しと立ち並んでいて、まるで製薬会社の工場のようなのである。
おそらく昼間ここに来れば、白衣に白い帽子を着用した従業員が大勢で作業をしていることは容易に想像がつく。
けれども、自動車ごと運べるような大型のエレベーターであるのに、この先にはクルマが降りて進めるような場所など、どこにも無かった。
「いったい何ですか、ここは?、普通の工場じゃないですか・・このエレベーターだって、フォークリフトごと上の倉庫に荷物を運ぶためのものですよね。こんな所に来てどうするんですか?、これが秘密基地?、神戸の第二訓練場なんですか?」
不思議に思って、宗少尉にたずねるが、
「いいから──────────このまま、もう少し待つのよ」
宗少尉はドアに肘をついたまま、涼しい顔をして笑っている。
やがて間もなく、エレベーターの扉が閉まり、ガチャリとロックされる音がすると、替わって左側の壁が静かに開いた。
「・・ああっ、こんなところに扉が!!」
クルマが前向きに停まったままで、左側の壁が開いたので、宏隆はてっきりここで降りるのかと思い、ドアを開けて降りようとしたが、
「まだよ、そのまま座っていて──────────!」
宗少尉にそう言われた途端に、グゥーンと軽い機械音を立てながら、エレベーターの中がゆっくりと回転して、クルマの向きを変え始めた。
「あっ、これは・・床がターンテーブルになっているんだ!」
「あはは、ヒロタカと居ると、いちいち驚いてくれるから嬉しいわね。私もそんな時があったけど、もうこの世界にすっかり慣れてしまったわ。ヒロタカも、南京町や白月園でさんざん経験をしているのに、まだ慣れないのね?」
宗少尉はそう言うけれど、いったい誰が、自分が乗ったエレベーターの横の壁が開いて、勝手に車の向きを替えると思えるだろうか。
普通、人はエレベーターでは前の扉が開くと思っている。こんな運搬用の大型エレベーターでも、せいぜい前後が開くようになっているだけである。だから、よほど注意深く見なければ、横の壁が開くようになっているなどとは到底思いも付かないものだ。
床のターンテーブルにしても、たとえそれに気がついても、地下の工場と直結するエレベーターなら荷物の運搬に便利だからだろうと、誰もがそう思って疑わないに違いない。
入口でさえ、こんな具合なのである。
この基地の規模やその中身は、まだ宏隆には欠片も想像も付かなかった。
グルリと、九十度向きを替えたジャガーは、再びエンジンをかけてエレベーターを出た。
その先には、車が一台しか通れないほどの、細く薄暗い下り坂の通路が続いている。
(まるで台北の、あの地下通路のようなムードだな──────────)
宏隆は、初めて宗少尉と会った日のことを思い出した。
円山大飯店の地下に造られた、かつての蒋介石総統のための避難脱出路を通って、反対側の公園の機械室に出たのだった。
この地下通路も、それに似たような独特の雰囲気がある。
車は何度か左へのカーブを繰り返しながら、まるで大きなビルの地下駐車場へ向かうように、さらに坂道を下って走った。
(まだこの下に、秘密の施設があるのだ。上は世を欺くための仮の工場、か・・・)
下りて行く通路の所々には、いかにも頑丈そうな防火扉のようなものが何カ所か設えてある。これも南京町の地下基地と同じで、火災ばかりではなく、いざとなればそれを閉めて敵の侵入を防いだり、秘密を保持したりするためにも使われるのだろう。
やがて通路の坂を下りきって平らな所に出ると、正面に頑丈そうな大きな鉄の扉が見え、すぐ横には警備室のような部屋の明かりが見えてくる。
扉の前には、真っ黒な制服姿の男が二人、仁王立ちに立っている。
東洋人・・おそらく台湾から来た人間だろうと、宏隆は思った。
如何にも屈強そうな男たちは、長袖のシャツに帽子という出立ちで、腰には警棒と手錠を携え、肩には無線器のマイクを掛け、良く磨かれたブーツを履いている。
きっと警備室の中にはイザという時のための銃やライフル、ガス弾なども用意されているに違いない、と宏隆は思った。
彼らの一人が宗少尉の顔を確認すると、不動の姿勢で丁寧に敬礼をした。
こんな様子を見ても、玄洋會という組織での、宗少尉の身分が高いことが分かる。
「さあ、到着したわ。ここで降りるのよ──────────」
「クルマは、どうするんですか?」
「心配ないわ。お父様からお借りしている大切なクルマは、彼らが地下のパーキングに保管してくれるから・・・ここにはパーキングチケットは無いけどね、あはは」
見れば、横の壁には大きなスライド式の扉がある。他に通路は無いので、きっとその奧が駐車場になっているに違いない。
「少尉、こちらへどうぞ──────────────」
黒い制服の男がひとり、頑丈なドアの前に立って警備室に合図をすると、ガチャリと大きな音をたてて、ドアの電子ロックが解除された。
ドアの内側は、意外にも何処かのオフィスのように、ただ真っ直ぐ伸びる廊下があって、両側に各部屋のドアが並んでいるだけの、見るからにありふれた光景である。
部屋には所々まだ灯りが点いていて、中には少し人の気配がするし、ちょっと開いたままのドアの隙間から見える室内も、ごく普通の会社の事務机が並んでいて、残業をしているネクタイ姿の社員がいるだけの、至ってありきたりなものに見える。
しばらく歩いていると、廊下の右側の壁がガラス張りになっている広い部屋があって、誰も居ない室内は薄暗いが、机の上にはビーカーやらフラスコ、試験管などが並んでいて、ひと目見て何かの研究室だということが分かる。
「まるで製薬会社の研究室に見える、と思っているんでしょう?」
蛍光灯で照らされた長い廊下を歩きながら、宏隆の心を読んだかのように、宗少尉が笑って言った。
「ええ・・上はまるで製薬工場、ここはその事務所や研究室みたいに思えます」
「万が一の場合には、誰が見てもそう思えるように設えてあるのよ・・というか、上は本物の製薬工場だし、ここもその研究室と事務所。でも、ここのセキュリティ要員は、いざという時には直ちに銃やナイフを装備するように訓練されているけれどね」
「やっぱり・・でも、こんな普通の工場の、どこに訓練場があるんですか?」
「そこへ行くルートは幾つかあるけど、今回はここから行くのよ」
宗少尉が目の前の部屋を指差して示し、セキュリティの男も立ち止まって振り返った。
ドアには「給湯室」という普通のプラスチックのプレートが貼ってある。
「給湯室?・・はは、またですか?、白月園の地下の入口は ”総機室” でしたよね・・・」
「ウダウダ言わずに、ほら、早く入りなさい!」
給湯室に入ると、男が内側から施錠をした。
室内には食器棚やシンク、飲み物の自動販売機や簡単なテーブルと椅子が置いてある。
「やれやれ、まさに台北基地の入口そのものですね。南京町にしても似たようなものだし。秘密結社はこういうシチュエーションが好みなんですかねぇ・・・」
宏隆は、ここも同じパターンかと少々呆れ顔だが、宗少尉は笑いながら、部屋の突き当たりにある「ボイラー室」と書かれた扉を開けた。扉の中には小型のボイラーがあり、パイプが上下に伸び、幾つかのメーターが付いている。
「ご苦労さま────────────」
案内をしてきた黒い制服の男にそう告げると、宗少尉は宏隆にもボイラー室に入るように促して、ドアを閉めた。
ガチャリと、表から鍵が掛かる。三畳敷きほどの小さなボイラー室の中は、天井にぼんやりとオレンジ色の小さな灯りが点いているだけである。
「こんな薄暗い所に入ってどうするんですか?、このボイラーはダミーじゃないみたいだけど、ボイラー室じゃぁ、ちっともロマンチックじゃありませんね」
さすがの宏隆も、初めて訪れた場所でこんな所に閉じ込められると、あまり良い気分はしない。
「いいから、バカを言ってないで黙ってらっしゃい!」
「ははは、どうせどこかこの辺りの壁が開いて、ポッカリと地下に降りる階段が出て来るんでしょう?、もうすっかり慣れましたよ、ヒミツ基地には、ね・・・しかし蒸し暑いなあ。勿体ぶらずに早いトコ行きましょうよ。なんでこんな所でじっとしているんですか?」
薄明かりの中で宏隆はゴソゴソと、どこかに隠されているであろう秘密の入口を探して、しゃがみ込んで壁のあちこちを触れてまわっている。
「でも、何だか妙に綺麗ですね、このボイラー室の中は・・・」
すると、やがて、壁に黄色いランプが点いた。
「あれ?、あんな所にランプが──────────────」
気がついて、振り返って、そう言う。
「ほら、ちゃんと立っていないと頭をぶつけるわよ!」
宗少尉がそう言った数秒後、その下のランプが赤く点った。
「え・・なにが・・・?」
「グゥーン──────────!!」
「うわわっっ・・!!」
言われた通り、宏隆は屈んでいた恰好のまま、壁にゴツンと頭をぶつけた。
モーターが回るような音と共に、ボイラー室がそのまま、部屋ごと、真横に動き始めたのである。
「ほーら、言わんこっちゃない!、あははは・・・」
「こ、これはいったい──────────────?」
「まるでディズニーランドみたいだ、って言うかもしれないけど、これが私たちの秘密を守る為の仕掛けなのよ。ロマンチックじゃないけれど、この蒸し暑いボイラー室サマに感謝しなくっちゃ、ね!」
秘密を守るための仕掛け──────────────
確かにそうである。上のエレベーターだけでも、その入口を見つけるのは難しいと思われるが、そこから下る長い坂道にはいくつもの防護壁があり、終点の入口には、バズーカ砲でも破られないと思えるような分厚い鋼鉄の扉とイザとなれば武装する警備要員たちが居て、その先にはまるで製薬会社のオフィスと研究室のようなしつらえがしてある。
仮に、この地下まで部外者が来ることがあっても、これが普通の会社だと、誰もが信じるに違いなかった。
「白月園の明珠さんも、地下に行く仕掛けを ”子供だましのようなもの” だって言っていましたけど、子供ダマシもここまで行くと、ジェームスボンドもMI6も真っ青ですね」
「そうね。ここへは、絶対に限られた人しか入れないようになっているから。私たちの秘密を共有できる人たちだけが、ここに来ることができるの・・・」
やがて、そのボイラー室が停止し、表から誰かが鍵を開ける音がして、扉が開いた。
「ようこそ、湾岸訓練場へ─────────────────」
野太い声の、市街地用のグレーの迷彩服を着た屈強な男が、二人に敬礼をして言った。
「さあ、こちらへ─────────────────」
「うわぁ・・・・・」
案内する兵士について歩きながら、思わず辺りをキョロキョロと見てしまう。
「あはは、さすがのヒロタカも驚いたみたいね?」
宏隆の呆然とした様子を見て、宗少尉は楽しそうに笑っている。
狼狽する、とまではいかないが、精神状態はほとんどそれに近いかもしれない。
それもそのはず・・・宏隆が目にしている光景は、まるでニューヨークあたりの、モダンな高級ホテルか、現代アートの美術館の吹き抜けのロビーのようで、目の前には高い天井から吊り下げられたシャンデリアや瀟洒な噴水まで設けられている。いま出てきたボイラー室を振り返れば、立派なホテルのエレベーターの入口としか思えない造りであるし、床は一面の大理石のパネルで出来ているのである。
「こんな地下に、こんなものが?─────────何だかキツネにつままれているみたいだ」
「まるでモダンなホテルにでも来たみたいでしょ?」
「ええ、さっき、驚くのはこれからだと言ったのは、この事ですか?」
「いいえ、驚くのは、まだこれからよ─────────────────」
「えっ・・?」
「あはははは・・・・」
吹き抜けのロビーからは、階上(うえ)に上る円形の階段がある。
すぐ横にシャンデリアを見ながら、噴水を見下ろすようにその階段を上がり、少し廊下を歩いて広い部屋に通される。
「ここで少しお待ち下さい」
慇懃に敬礼をして、案内の迷彩服姿の男が去って行く。
四十畳ほどは、楽にあるだろうか。
その広々とした空間にモダンなデザインのソファが置いてあり、テーブルには葉巻の箱まで用意されている。その向こうには窓があって、下の階を眺められるようになっている。
何気なく、その窓に近寄って見下ろした光景に、宏隆は声を上げた。
「な・・何なんだ、此処は─────────────────!?」
「ははは、確かに驚くわよね、初めてこれを見る人は・・・」
宏隆が見たものは、船──────────────
それも、二十人ぐらいは楽に乗れそうな、真白い大型のクルーザーであった。
さらに向こうには、小型のモーターボートや漁船らしきものまで見える。
(この地下基地の中には、船の停泊所まで造られているのか・・・)
宏隆は、窓に手を着いたまま、ただ唖然とした。
「失礼します──────────────」
さっきの案内の男が、後ろに誰かを連れてやってきた。
「お二人は、こちらにご案内してあります。どうぞごゆっくりお過ごし下さい」
慇懃にそう言って、男は立ち去ったが、
「やあ、久しぶりだね・・」
男が連れて来た人を見て、宏隆は膝が抜けそうになった。
「お、王老師──────────────?!」
この基地に、王老師が居ること自体、宏隆には大きな驚きだったが、
「し、師父・・・そ、そのお姿は──────────────?」
久々に邂逅した師ではあったが、その姿を見て、それが自分の師であることを俄には信じられず、礼を取ることも忘れて、宏隆はただ呆然と立ち尽くしていた。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第113回の掲載は、6月15日(土)の予定です
2013年05月15日
連載小説「龍の道」 第111回

第111回 鞆 絵 (ともえ)(9)
「よし、銃をチェックして、マガジンをセット!!」
「了解 ────────────────────」
宏隆はゴーグルとイアマフを装着し、ブースに置いた銃を取り上げた。さっき宗少尉に制せられたので、ベレッタはマガジンがリリースされたままの、空の状態だ。
スライドが引かれたままの銃を、残りの弾が無いか、さらにチャンバーを覗いて確かめ、マガジンを装着してデコッキングレバーを下げた。無論これらの作業中は、人差し指はセイフティ・フインガーで伸ばされたままである。
初めてプロの指導で本格的な射撃を学ぶ人は、たかが銃弾一発を撃つだけのために、こんなにも煩わしい準備や手続きが必要なのかと、さぞかし驚くことだろう。だがそれは観光射撃や夜市の射的とは当然大違いなわけであって、実際に人を殺傷できる武器を手にする以上は、それらの訓練が必要不可欠なのである。
「準備よし!」
「OK、まずはマガジン一本分だけ、十五発をゆっくりと撃つ。射撃間隔は三秒以上。標的は12メートルにセット」
「イエッサー!」
12メートルというのは、この地下射撃場では最も遠い距離である。
「標的、12メートル、セットよし!」
「スタンバイ・・・!」
宗少尉からスタンバイのコールが出された。宏隆が両手で銃を構え、数秒後にビィーッとブザーが鳴る。射撃開始の合図である。
「ダーン、ダーン、ダーン─────────────────」
さっきとは違い、今度はゆっくり、じっくりと丁寧に標的を狙って撃つ。
ターゲットまでの距離が12メートルと聞くと何やら近いような気がするかもしれないが、実際に銃を手にしてその場に立ってみると、ずいぶん遠くに感じるものだ。
それが遠く感じられるのは、ターゲットの大きさが実標的(人間の大きさ)の2分の1になっているからで、それを狙う者にとっては24メートルの距離と等しい事になる。小規模な射撃場では、このように標的を小さくすることで命中度を高める訓練が行われるのである。
観光射撃などで、銃に関する何の知識も無く、ロクな指導もされたことのない素人が、勧められるままに弾丸の入った銃を渡されて撃つと、7〜8メートルほど先の標的に命中させることさえ困難を極めるものだ。それでも、やがて何十発も撃っているうちに何とか中るようにはなってくるが、それではとても銃の訓練とは言えない。
「ダーン─────────────────!!」
最後の一発を撃つと、ベレッタのスライドが引かれたままの状態になり、宏隆はアィソサリーズ(銃を手に持って伸ばした両腕両足が二等辺三角形 (isosceles) に開かれる構え方)のスタンスのまま、銃口を上に向けて宗少尉の指示を待った。
「よし、マグをリリースして台に置き、標的を戻して確認しなさい」
「はい!」
標的が、天井近くに張られた二本のワイヤーを伝って電動で戻ってくる。
宏隆が撃った十五発は全弾とも標的から外れてはいなかったが、主に標的の左下ばかりに集中していた。
「おかしいなぁ、もっと真ん中に当たっていると思ったのに・・・」
「銃ってヤツは、同じベレッタでも一丁ずつ微妙に異なるクセがあるし、何よりも射手自身の心理や体調がありのままに其処に反映されるからね。今度はこのデータをもとに、さらに命中度を高めて行くようにしていくのよ。さあ、もう一度!」
「はい─────────────────」
じっくりと、今度はよく時間をかけて撃ってみると、極くわずかではあるが、トリガーを引く時に、やや指に力みが生じていることに気が付いた。
(これだ、中心に当たらない理由は・・・!)
通常、初心者はトリガー(引き金)をチカラで引いてしまう。そして、それが銃を握っている他の指や手首に影響して狙いを外してしまうことになるのである。
プロは常に実に軽く、確実にトリガーを引くことが出来る。それが出来るようになるには最低でも数千発を撃つ訓練をしなければならない。
ただし、勿論どれほど ”自己流” でそれをやっても意味は無い。あくまでも良き指導者を得た上で、その命令や指導に従い、正しく訓練を進めて行っての話である。
因みに、このトリガーを引くという行為は、太極拳の訓練で「無駄な力を抜く」「拙力を戒める」というのとよく似ている。
稽古で拙力に気付かず、あるいは拙力になってしまうことを否定せずに、自分の都合で足の蹴りや身体の落下、相手を崩したい故の「力み」をやめられない者は、同様に、決してまともに銃を撃つことができない。
銃器の世界でも、自分流に解釈し、遣りたいようにやる、勝手に工夫する、好きに撃つ、当たりさえすれば良い、という考え方は存在する。ただ、それは言わば ”ど素人” の考え方であって、実際に銃器を携えて任務に当たる第一線のプロたちは一切の ”勝手な考え” を否定される訓練を散々積んできており、だからこそプロとして通用しているのである。
そのことが理解されなければ、銃であれ、武術であれ、当人がどれほど好きであろうと、どれほど希求しようと、結局はただのオタク趣味かコレクターで、所謂素人芸の域を出るものではない。本物を修得するには、まず自身が ”プロ(玄人)の意識” を持つ必要があるのである。
「トリガーを引くときに、わずかに手がブレていました。照準を見ている分にはピタリと合っていたんですが・・」
二度目のマガジンの全弾を撃ち尽くして、ブースから出てきた宏隆が言った。
さっきとは違い、今度は標的の真ん中近くに十五発の銃弾が集中している。
「そもそも、銃弾を標的に命中させるのは至難の業なのよ。まして実戦に於いて動く標的に確実に当てるには、よほどの訓練を積まないと不可能ね。それに、ただこうしてブースで撃つ練習をしているだけでは、銃を実戦で使うことなど出来ないのよ」
「どうすれば、陳中尉や宗少尉のように、そんなことが出来るようになるんですか?」
「ブース(隣との安全防護壁のある射撃場)での基本訓練を卒業したら、次はオープン・エア(ブースの無い射撃場)で訓練するのよ。そこでホルスターやマガジンパウチ(予備のマガジンを入れておくポーチ)を用いた射撃方法を学んで、さらには近距離、中距離、遠距離での射撃、標的の素材や種類による手応えや感覚の違い、様々な射撃姿勢での訓練などを積んでいくの」
「うわぁ、やることは沢山あるんですね。どうやら僕は、ブースでは割と当たるようになったので、ちょっと良い気になっていたようです」
「まだまだ、その先もあるのよ。次は学んだそれらの事を使ってのタクティカル・トレーニング。様々な状況に応じた銃の扱いと射撃の方法を学ぶのよ。拳銃だけではなく、アサルトライフルを含めてのことだけどね」
「わあ、楽しみだなぁ!、いつからその訓練をやるんですか?」
「今からよ────────────────」
「今からって・・・ここでやるんですか?」
「この地下基地を出て、第二訓練場に行くのよ」
「第二訓練場?・・・そんな所が在るんですか?、初めて聞きました」
「ふふふ、まあ良いから一緒についてらっしゃい。ただし、あっちにヒロタカの銃は無いから、シークレットケースに入れていくのよ」
「シークレットケース?」
「万が一、途中で検問に遭っても、X線を当てない限り分からないケース。一見すると工具箱に見えるものよ」
「へえ、さすがは秘密結社、そのあたりはしっかりしているんだなぁ」
「ははは・・私だけならともかく、宏隆をブタ箱に入れるワケにはいかないからね」
「宗少尉だけだと、逆に職務質問した警官がひどい目に遭いそうですね。ボクが一緒にいた方がよほど神戸の街の治安には良いと・・・」
「あーら、肩で風を切るチンピラも恐れる、悪名高いケンカの若大将に、そんなことを言われる筋合いは無いわよぉ!」
「うっ、しまった─────────────────」
「あははは・・・」
「ははははは・・・・・」
地下基地を出て、クルマで港の方へと向かう。
辺りはもうすっかり暗くなっていて、市章山(神戸市章の形が電飾されている山)に、扇の港を重ねて表した巨きな灯りが点っている。
確かに、南京町の地下にそんな広いスペースが取れるわけもないし、防音の面から考えても本格的な射撃場にはならないはずだ。だから別の場所に、結社の隊員たちが訓練するところを用意してあるのだろうが、それにしても・・・と、宏隆は思った。
「それにしても、神戸の町中(まちなか)に、一体いくつの施設があるんですか?、僕は根っからの神戸っ子だけれど、そんなウワサさえ聞いたことがありませんよ」
「そうでしょうね。きっと台北の人たちも、あの洗濯屋が秘密結社の基地で、地下がその訓練場だなんて誰も思ってもみないわよ。そんな噂が立ったら、もうお終いね」
「♬ あのォ〜人は、行って行ってしまった、もうオシマイねぇ〜・・ってやつですね」
「相変わらずバカなことを・・・それは神戸じゃなくて、ヨコハマ、タソガレ、っていう歌じゃなかった?」
「あ、そうか・・・」
「ははは、神戸っ子にあるまじきミステイクね!」
「うーん・・♪ 神戸ぇ〜、泣いてどうなるのか・・・」
「あはは・・・」
「ねえ、宗少尉、もう石屋川を過ぎましたよ。まさか淀川を超えて大阪まで行くんじゃないでしょうね。そろそろ何処に行くか、話してくれても良いんじゃないの?」
石屋川は、神戸中心の灘区と、隣の東灘区との境界になっている急流の川である。
川沿いには遊歩道や公園が整備されているが、かつて江戸時代には、六甲山から切り出された御影石がこの辺りまで船で運ばれ、それを加工する石屋が川沿いにズラリと軒を連ねていたので、いつしかそう呼ばれるようになった。川の東側はその名も御影という町である。
御影石は他の地域からも産出されているが、六甲山から出たものは「本御影」と呼ばれ、今も別格のブランド石材として扱われている。
潮の匂いの混じった風が、頬に心地良い。
大都会の湾岸地帯とは言え、少なくとも南京町の雑踏のすぐ足下の、狭く圧迫感のある地下施設で、硝煙を嗅ぎながら黙々と銃を撃っているよりは、よほど健康的だと思える。
南京町から東に向かって石屋川まで、距離は10キロほどはあるだろうか。
宗少尉の駆るオープンのジャガーEタイプは、高らかなエグゾースト・ノーツを響かせて国道43号線を走り、石屋川を超えて魚崎の手前を南に折れ、御影大橋を渡って新しい埋め立て地に向かった。
「もうすぐよ。ほら、そこの角を曲がった所の、次の倉庫────────────」
「・・倉庫ぉ?、ソーコー(其処)で訓練するんですか?」
「またバカな洒落を言って・・・倉庫と言っても、もちろんただの港湾倉庫とは違うのよ。きちんとした設備のある立派な訓練場なのよ」
「ううむ、またしても・・・倉庫はただ世を欺く仮の姿、而(しか)してその実体は、秘密結社の秘密訓練場ナリヨぉ、てか!?」
訓練から離れると途端に、宗少尉に本当の姉弟のように接している。生真面目な兄と二人の男兄弟だからか、姉のような女性の優しさが宏隆には妙に安らぐのかも知れなかった。
「あはは・・ヒロタカ、お腹が空いてるの?、さっきからチョイと様子がおかしいけど」
─────────宗少尉もまた、そんな宏隆を実の弟のように、玄洋會から命じられた教練という立場を超えて、宗麗華というひとりの人間として、こよなく愛していた。
「そう言えば、そろそろお腹が・・・・」
「さ、到着したわよ────────────」
大きな倉庫や工場が建ち並ぶ湾岸の新興工業地帯は、昼間とは違って夜は人の気配もほとんど無く、慣れない人はちょっと薄気味が悪いほど寂しい場所となる。
「ここは・・あまり来ることもないけど、住吉の浜ですよね?」
いま走ってきた道を振り返りながら、確かめるように宏隆が言う。
「そう、ここは人口の埋め立て地。この地域は全域が石油化学製品や酒造精米、紅茶などの大工場と倉庫群。定住人口もわずか数人しか居ないので、ウチなんかの施設を造るには正にうってつけの所ね」
神戸市東灘区の住吉浜町(すみよしはままち)は、丁目や番地の設定が無い、住居表示が未実施の町である。北は御影大橋で住吉の町と接続している。
昭和35年より、ほぼ真北に位置する鶴甲山から一千万立方メートルもの土砂を、市民生活が土埃にまみれることを嫌い、一切ダンプカーを使わず、暗渠に設けた地下のベルトコンベアーで運んで88ヘクタールを埋め立て、昭和43年に竣工した。その土砂を採取した標高327メートルの鶴甲山はその後宅地として拓かれ、鶴甲(つるかぶと)の地名がその名残を示している。
「それにしても寂しい所ですね。これじゃ夜の女性の独り歩きはできないな・・・」
「そうね、確かに、あんまり良い気持ちはしないわね・・」
「へーえ、宗少尉でも、そんなふうに感じるんだ!」
「ナニ言ってるの、私だってこう見えても女なんですからね!」
「ふぅーん・・・」
宗少尉はその大きな倉庫の脇にジャガーを停め、運転席越しにインターホンを押した。
早口の中国語で何を言っているのかさっぱり分からないが、二言三言、何やら言葉を交わすと、側にある小さな扉が開き、見るからに鍛えた体格の大男がノソリと出てきて、宗少尉と宏隆の顔を不躾にジロジロと見ていたが、二人の肩に玄洋會のワッペンを見留めてようやく納得したように頷き、また扉の中に入っていく。
やがて、ゴォーッという音を立てながら、倉庫の正面の大きな鉄の扉が左半分だけ電動で開かれ、その中にジャガーを乗り入れる。
・・とは言っても、中は真っ暗闇で、ヘッドライトの光だけが、だだっ広い、ほとんど何も置かれていない倉庫の前方を照らすだけであった。
ジャガーはさらに前へと進むと、突き当たりの大きな鉄柵の前で停まった。
「何だか薄気味が悪いなぁ・・宗少尉、先に御影(みかげ)で食事をしてきましょうよ」
ちょっと心細そうに、宏隆が言った。
「何言ってンの、ここの食堂で食べたら良いじゃないの」
「ココの食堂って?・・こんな暗くてだだっ広い倉庫の、どこにそんなものが?」
そう言ったのとほとんど同時に、目の前の鉄の柵がガァーッと横に開いた。
宗少尉はジャガーをさらにその中へと進めて行くが、目の前には剥き出しのコンクリートの壁があるだけだ。
「これって、いったい何なんだ?・・・ま、まさか!!」
「はは、やっと気が付いた?、そう、エレベーターよ。クルマごと地下に移動するの」
「すごいなぁ、車ごと地下に降りるなんて・・南京町も台北の基地も、これにはとても敵わないですね」
「まだまだ・・これからよ、驚くのは────────────────────」
悪戯っぽく、宗少尉が微笑んだ。
(つづく)
*次回、連載小説「龍の道」 第112回の掲載は、6月1日(土)の予定です