*第111回 〜 第120回

2013年10月15日

連載小説「龍の道」 第120回




第120回  T E R R O R (1)



「何だ、いまの音は──────────────?」

 ビリビリと家鳴りがして、ズンと地の底から響いて来るようなその音に、不穏な状況が迫っていることを誰もが直感した。

 まるで、何かが爆発したような音である。
 宏隆のチームが敵のチームを制圧し、人質を確保して訓練は無事に終わったばかりだが、どの隊員も、もう訓練を振り返る余裕はなかった。

 その音が西から聞こえてきたことも、皆の不安を増した。
 この湾岸訓練場の基地は、神戸の中心から東に十数キロ離れた、住吉浜の埋め立て地にある。つまり、ここから見て西には三宮や南京町があるのだ。

「ガスタンクか、どこかの工場で事故でもあったのかな?」

「ガスタンクなら三宮の手前の、春日野道(かすがのみち)のところだから、ちょうど音のした方角だぞ・・・」

「いや、葺合(ふきあい)のガスタンクが爆発したんだったら、あの程度じゃ済まないだろう。あの音だと、もう少し規模が小さいはずだ」

「まさか、ウチの基地がやられたのじゃないだろうな─────────」

「ば、馬鹿、縁起でもない・・滅多なことを言うなよ!」

「南京町の基地が襲撃されるわけがないさ、まるで潜水艦の中みたいだからな」

「うむ・・だが、嫌な予感がする──────────」

 そんなことを言い合っていて、ふと、皆が沈黙したとき、

「ガーッ!、ガーッ!、ガーッッ!!・・・・・・」

 訓練場にけたたましく警報が鳴り響き、皆がハッとして一斉に身構えた。

「行くぞ───────急げ、そっちのチームもだ!!」

 隊長が、大声で皆に命じた。

「急ぐって、何処へ行くんですか?」

 ここに慣れない宏隆が、横に居た隊員に尋ねたが、

「集合場所に決まってるじゃないか、緊急事態だっ!!」

 暢気そうに聞こえたのか、怒鳴るように答えながら先へ走る。

 侵入訓練の最中に撃たれて斃された隊員も、戦闘服をペイント弾で染めたまま、起き上がって集合場所に向かう。訓練の結果など、誰も気に留めてはいない。

「整列──────っっ!!」

 訓練塔で降下していた隊員たちは、もうすでに隊列を組んで並んでいる。

「Aチーム、集合しました!」

「Bチーム、全員集合っ!」

 戦闘部隊の隊員は、整列時には足を左右に開き、拳を掌に包むように後ろに組み、不動の姿勢を取る。

「気をつけ────────っっ!!」

 気を付けは軍隊から小学生まで、今も昔も万国共通の姿勢である。

「基地司令に、敬礼っ!!」

「よし、楽にして聞け───────────訓練中だったが、たった今入った連絡では、南京町の翔龍菜館で爆音と共に火災が発生したとのことだ。周辺は大変な混乱となっているらしい。
 南京町の方角に黒煙が上がっているのが此処の屋上からも確認されたが、それ以外にまだ詳しいことは分かっていない。ガスや火を使う所だから何かの事故かも知れないが、敵から攻撃を受けた可能性も、無いとは言えない・・」

 基地司令が、静かに言った。

「翔龍菜館が──────────?!」

 隊員たちの間にどよめきが起こり、誰もが顔色を変えた。
 さっき誰かが口にした、嫌な予感が当たってしまったのである。

 神戸南京町の、高級広東料理の老舗として知られる「翔龍菜館」は、瀟洒なテラス席まで備える、店中に緋毛氈を敷き詰めた三階建ての堂々とした構えの店で、神戸っ子が贔屓にするだけではなく、政治家や著名人など、国内外からお忍びでやって来る賓客も多い、南京町きっての中華料理店である。

 そして何よりも、その店には「秘密結社・玄洋會」の地下基地へ通じる秘密の出入口が奧の個室に設えられてあり、当然ながらそこで働く従業員たちも皆、結社の要員であった。

 果たして、彼らは無事だったのか────────誰か関係者が店で会合を開いてなど居なかっただろうか、地下の秘密基地へ繋がる通路は、その混乱で見つけられたりしないのだろうかと、誰もが同じ不安な想いに囚われていた。


「司令、今日は確か─────────────?」

 宏隆のチームの隊長が言った。

「そうだ・・・残念ながらまだそれを確認できていない。これから君たちが出動して、それを含めた状況を詳しく確かめて来るのだ」

「イエッサー!!」

「ちょうど良い。いま訓練をしていたAチームとBチームとで、そのまま現場に向かって貰おう。Aチームは店の外側から、Bチームは基地の内部から、それぞれ状況を探って逐次報告を入れろ。3分間で服を着替え、CCCRにて出動せよ。降下訓練組は、隊長と共に周辺の聞き込みにあたれ。各自、警察と消防には身元を怪しまれたり悟られたりしないよう、十分に注意すること──────────以上だ、何か質問は?」

「基地司令!」

 宗少尉が手を挙げて言った。

「何かね?」

「自分とクラマは別行動を取ります。確認しなくてはならないことがあるので・・」

「うむ、分かっている。そうしてくれ」

「サンキュー・サー!」

「他に質問はないか?・・・よし、行けっ!!」

 普段から訓練を積んでいるだけあって、皆あっという間に走り去って行く。

「翔龍菜館が襲われたって・・・・」

 その場に残った宏隆が、不安そうに言う。

「どうやら、そのようね─────────────」

 さすがに、宗少尉も表情が硬く、顔色がすぐれない。

「僕らは別行動だと言うことですけど、どうしたら良いんですか?」

「着替えて、すぐに南京町に向かうわよ・・・」

「CCCRって、何のことです?」

「The Equipment of Civilian Clothes for Covert Reconnaissance・・・・日本語で言えば、隠密偵察用平服装備かしら。平服の一般人に見えるように心懸けながら、偵察用具や武器を装備している、ということ」

「つまり、士林*(シーリン)の夜市での宗少尉みたいな装備のこと?」
 (註:士林は台北にある夜市で有名な街。「龍の道」第39回〜41回を参照)

「そうね・・・」

「それと、さっき隊長が ”今日は確か・・” って司令に聞いていたのが何故か気になります。司令は、まだそれを確認できていないと答えてましたけど、あれは一体何のことですか?」

「今日、台湾から、張大人が南京町に来られているはずなのよ・・・」

「ええっ!!・・そ、そんなっ──────────────」

「ヒロタカには、後で驚かすつもりで、わざと伝えていなかったのだけれど」

「だから司令や隊長が、あんなに顔色を変えていたんですね」

「それも、ある人と、祥龍菜館で晩餐の食卓を囲んでいるはず・・・」

「え?・・そ、その、ある人というのは・・・?!」

「それは──────────────」

「ま、まさか?・・・師父は、王老師は、今日はどこに居られるんですか?!」

「ヒロタカ、今日は珍しく台湾から張大人が来られるので、王老師も祥龍菜館で会食をされることになっているのよ」

「そ、そんな─────────────────」

「大丈夫よ・・・お二人とも普通の人ではないし、とても強い星のもとに生まれてきた方たちよ。きっと、きっとご無事に違いないわ」

「そ、それじゃ、あの爆発や火災は、張大人と王老師を狙ったテロ・・・」

「残念ながら、その可能性は無いとは言えないわね」

「す、すぐ・・すぐに行きましょう!、早く行って確かめないと!!」

「いいこと?、よく聞きなさい──────────注意しなくてはならないのは、もしこれが敵のテロ行為なら、これから取る私たちの行動はすべて、詳しく観察されているに違いないということ。奴らはそれを元に分析をして、次回はその虚を突いて、さらに私たちが対応し難い攻撃を仕掛けてくるわ」

「だから、ここの隊員たちとは別行動を取ったんですね」

「もう私たちの面は割れているから、行動には細心の注意が必要よ。このうえヒロタカが再び拉致されでもしたら大変でしょ。まあ、あの頃よりは少しは兵士としての実力がついてきているけれど・・・」

「つまり、感情に流されず冷静に、敵の目を意識して隠密に行動し、反対に敵のシッポを捕まえてやる、というような意識が必要だということですね」

「そう、分かってるじゃないの・・それじゃ、行くわよ!!」

「はいっ!!」


 オープンのジャガーでは目立つので、訓練場にある乗用車を使うことにする。
 こんな時には、どこにでもあるような大衆車が一番目立たなくて良い。車の色も日本に最も多いシルバーが選ばれている。日本では、白のボディは商用車に使われることが多い。

 現場に来てみて驚いた─────────────────

 祥龍菜館の前は、消防車やパトカーが何台も停まっていて、消防士が盛んに放水をしている。南京町の周辺は警察官が大勢出て、元町の通りは無論、周囲は広い範囲で通行止めになっている。救急車も停まっていて、救急隊員やオレンジ色の制服を着たレスキューが慌ただしく走り回っているから、負傷者も出たのだろう。
 頭上には、報道のヘリコプターが何機も飛び回っている。

 宏隆と宗少尉は、群がっている野次馬たちに混じって、先ずは外から様子を見る。

「ひどいな、これは・・・・」

 祥龍菜館は2階の窓が吹っ飛んで、テラス席や外の地面にも物が散乱して、部屋から黒い煙が出ている。もう火は見えないが、消防士が放水を続けているところをみると、まだ完全に鎮火していないのかも知れない。
 それ以外の階は、外から見た分には無事に見えた。

「爆発は2階だけのようですね────────────」

「そう、せめてもの救いね・・・裏へ回るわよ」

「ラジャー・・」

 辺りを気にしながら、なるべくお互いの顔を見ないように、小声で話す。
 宗少尉が ”せめてもの救い” と言ったのは、地下の基地に通じる入口が一回の奧に作られてあるからで、その辺りに火災や爆発が発生すれば、すべてが明からさまになってしまうからだ。2階だけの被害は、取りあえずは結社にとって不幸中の幸いと言えた。


 神戸南京町は、三宮駅から歩いて10分、元町駅からは5分の距離にあり、元町商店街の南側に、東西200メートル、南北110メートルほどの範囲に百店舗あまりの店が軒を連ね、横浜や長崎と共に、日本三大中華街のひとつとして知られている。
 南京町の中央の通りは十字路になっており、その十字路が交わる広場には、天井に龍の絵が描かれた、高さ7メートル、直径3メートルの「あづまや」と呼ばれる六角堂があり、それを中心に、南京北路、南京南路、南京東路、南京西路と、四方に路が延びている。
 また、各々の路の入口には、東には長安門、西には西安門、南には南楼門と名付けられた朱塗りの大きな中華門が立つが、何故か北にだけは門が無い。

 祥龍菜館は、中央広場の「あづまや」から北に延びる、南京北路の西側に位置している。元町の商店街にも近く、これほどの爆発や火災に、さぞや周辺には混乱があったことが想像された。

「────────師父や、張大人の無事は、まだ確認できないの?」

 心配そうに、宏隆が訊く。

「まだのようね。無事が確認されたとしても、すぐには報告をしてこないわ」

「どうして?、皆が心配しているのに──────────────」

「万が一、その報告を敵に傍受されたら、すぐに手を打たれてしまうでしょ。お二人が無事でも、安全なところに移動してからでないと連絡は出来ないのよ」

「なるほど、そうか・・・」

「でも大丈夫よ、私はイヤな予感なんか、全然していないわ!」

 宗少尉が明るい顔をして、ニコリと笑って言った。
 自分の不安を打ち消すように、努めてポジティブになろうとしていることは宏隆にも分かっている。そうでもしていなければ、この不安をどうすることも出来ないのだった。

 こんな時、待つことしか出来ない立場はとても辛く、無力さが感じられて、ひどくもどかしいものだ。
 だが、かつて自分が拉致された時に、周りの人たちにどれほど心配をかけたかと思うと、反対にこうして心配する側の立場となってみることは、たとえそれがどれほど辛くとも、自分が経験しなくてはならない人生の勉強のひとつに違いないと、宏隆は思った。

 群がっている野次馬を掻き分けるようにして、二人で裏通りに回っていく。

 宏隆は未だ通信の訓練をしていないので無線器を持たせてもらえないが、宗少尉は、目立たないように無線を腰のポーチに入れ、シャツの内側にコードを通して、イヤホンと胸元の小型マイクで何度も連絡を取り合っている。
 コードやイヤホンはSP(要人警護)や刑事が使う物のように肌色にしてあるから、ちょっと見たところでは全く目立たないし、たとえ気が付いたところで、素人にはラジオ*のイヤホンにしか思えない。

(筆者註:この物語の1970年代初期には携帯電話は無論、まだ初代ウオークマンさえ発売されておらず、あるのは携帯用の小型ラジオくらいのものであった)

 祥龍菜館の裏側は細い路地になっているが、そこの地面にも消防のホースが何本も敷かれていて、何処も彼処(かしこ)も通行止めになっている。
 辺りには制服の警察官がたくさん居て、野次馬に目を光らせている。

「こりゃぁ駄目だ、これじゃとても仕事になりませんね」

「ところで・・・」

 ニコリと微笑んで、宗少尉が何か言いかけたが、

「気付いてますよ、ぼくも──────────────」

 宏隆も、前を見たまま、静かにそう言った。

 この現場に着いた時からずっと、付かず離れず、目立たないように注意しながら、そっと二人のあとを尾(つ)けてくる者が居るのだ。



                               (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第121回の掲載は、11月1日(金)の予定です

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2013年10月01日

連載小説「龍の道」 第119回




第119回  T A C T I C S (7)



 背中を超えて行ったNo.3に続いて自分も窓から飛び込み、人質が拘束されている部屋の北の隅に向かって、身を低くして進む。

「ダダダッ、ダダン、ダダダダッッ─────────────────」

 広い部屋の中ほどから、銃声が聞こえる。
 ドアを蹴破って真っすぐ突入した隊長とNo.2が、敵と交戦しているのだ。

 室内は、まだ閃光弾の煙が濛々(もうもう)と立ち篭めている。
 透明なゴーグルのおかげで煙は目に染みないが、辺りの様子はまだ判断しづらく、敵と鉢合わせをしないよう、迷路を行くように壁伝いに進む。

「No.5、目標まで約50フィート(約15メートル)────────────」

 玄洋會や台湾軍はアメリカ軍との関わりが強いので、度量衡(どりょうこう)はヤードポンド法になる。メートル法に慣れた身には換算がひどく面倒で、今時そんな大英帝国の遺物を後生大事に使っている国は世界でも珍しいのに、と宏隆は思う。

「Copy.(了解)、No.1 と No.2 は、ライフル1兵、拳銃1兵をキル(斃した)」

「Copy that.(了解しました)──────────」

 無線のヘッドセットで隊長と連絡を取り合い、さらに前に進んでゆく。
 この僅かばかりの距離の、わずかな時間が、どうしてこんなにも長く感じられるのか。
 煙で前が見えないとは言え、とてもひとつの部屋の中とは思えない。

「残る敵は、拳銃2兵とナイフが1兵、か・・・・」

 そう自分に言い聞かせ、ベレッタを両手で構えて、注意深く歩く。

 他の隊員たちはライフルを使っている。
 アサルトライフル(Assault Rifle:近接戦闘用歩兵銃・突撃用小銃)とはよく言ったもので、こんな場合に最も適しているが、宏隆はまだそれほどライフルの扱いに慣れていない。
 ようやく慣れ始めたベレッタで訓練をして良いと許可をもらったのだった。

 だが─────────────────

「おかしい────────自分の背中を超えて行ったNo.3は、もう先に目標に到達してしまったのか?」

 目標まですぐ間近に迫っているというのに、いまだにバディ(共に行動する相棒)の姿が見えず、何の連絡も無いのだ。

「No.3、No.3、Do you copy?(聞こえるか?)・・No.3、Do you copy?・・・」

 小声で呼んでみたが、応答が何も無い。
 
「これは、迂闊には近づけないな・・・」

 返り討ちに遭った可能性もある。そう思って宏隆は歩を止めた。
 目標が居る辺りの様子を探りたいが、閃光弾の煙はまだ部屋中に充満していて、ほとんど視界が無い。

「・・No.5、Did you join with No.3?(No.3と合流したか?)────────」

 宏隆の交信を聞いた No.1(隊長)から無線が入る。

「Negative.(いいえ、合流していません)、No response with No.3(No.3と連絡が取れません)、Over(どうぞ)────────」

「Copy that.(了解)、No.5、Make counter-clockwise, slowly.(反時計回りでゆっくりと行け)。No.1 は中央を直進、No.2 は壁伝いの時計回りで、分かれて行く」

「Wilco────────(ウィルコ:了解)」


 読者にはあまり聞き慣れない言葉かも知れないが、これらは古くから英語圏の無線通話に使われてきたVoice Procedure(交信話法)の用語であり、現在でも軍隊、警察、消防、特殊部隊など、様々な立場の人が、ありとあらゆる状況で通信に用いている言葉である。

 映画などでは、刑事や兵士が何でもかんでも、やたらと「コピー」とか「ラジャー」などと言い合っているのが見受けられるが、本来それらは全て細かい意味に分類されていて、宏隆と隊長の遣り取りのように、厳密に区別して用いられるべきものである。

 因みに、「Do you copy?」や「Copy、Copy that!」と言うのには意味がある。
 映画などを見ていて、なぜ通信の応答に「コピー」と言うのかと疑問に思う人も少なくないと思う。直訳すれば「コピーするか?」「コピーします」という意味なので、日本人だけでなく、英語圏の人でも一体何のことかと不思議に思える表現なのである。

 それは曾て、上官から受けた命令をそのまま ”紙に書き写す” という習慣に由来している。つまり、上官から「お前は、この命令をきちんと書き写す(コピーする)か?」と問われ、「書き写し(コピーし)ます」と答えていたのがその始まりであった。
 日本なら「忘れぬよう、ちゃんと書いておけ」といった感覚だろうか。紙に書き写す必要が無くなった今の時代にも、そんな遣り取りの言葉だけが残ったというわけである。

 「Copy」は、米軍の通信においては「 I heard what you just said. 」つまり「あなたが言ったことを聞きました、OK、All right」という意味で用いられている。ただし、それは ”情報” を受け取った後に「その情報を了解した」という意味で用いられる。何でもかんでも応答に「コピー」を使えば良いというわけではない。

 「Roger」もまた「I understand what you said; ok; all right.(あなたが言ったことを理解しました。オーケー、了解)」という意味であるが、航空関系では「I have received all of your last transmission.(私はあなたの最後の送信の全てを受け取りました)」という意味になり、その場合は「Yes」または「無回答」を要する質問に答えるためには使用するべきではないとされる。

 「Roger」は、欧米でよくあるロジャーという男子の名前だが、かつては「R」を表すフォネティック・アルファベット(Phonetic Alphabet)に Roger が使われていた。
 「龍の道・第58回」でも少し紹介したが、フォネティック・アルファベットは、無線の普及によって音声通話の共通信号を造る必要性が高まり、通信での聞き違いを防ぐために、通話の際に「言葉の頭文字」を正しく伝えるために工夫され制定されたものである。
 日本語では「朝日のア、いろはのイ、上野のウ、英語のエ」という具合になっているが、英語では Bravo, Oscar, November, Delta, と言えば Bond(ボンド)という名前を表すことができ、Arab(アラブ)という語を説明するには、Alfa, Romeo, Alfa, Bravo, と言えばよろしい・・というわけである。

 かつて無線で「R」に割り当てられていた「Roger」は「Received and Understood」の短縮形として高い頻度で使われていた。そして「Received」と応答する時にその頭文字の「R」を表す「Roger」というコードがあまりに頻繁に兵士に使われたため、誤りを避けるために、いつしか「R」のコードは現在の「Romeo」に変更されることになったのである。
 「R=Roger」というフォネティック・アルファベットは、アメリカ軍によって1941年に開発され、1956年まで使用された。アメリカ軍では「了解」を「ラジャー」と発音しているが、もしイギリス軍がこの語を生んでいたなら、英国風に「ロジャー」と呼び慣わされていたかもしれない。

 もうひとつの「Wilco(ウィルコ)」は、映画にもあまり出てこない。
 これは Will Comply(了解=遵守します)という意味で、よく Roger(ラジャー)と混同されがちだが、同じ「了解」でも、Roger が「命令を理解した」という意味であるのに対し、Wilco は「メッセージを受信し、新しい命令を理解し、遵守実行します」という意思表示が含まれている。
 宏隆は、隊長から「反時計回りに、ゆっくりと行け」という ”新たな命令” を受けたので、「Wilco(了解し、指示を遵守します)」と答えたのであり、これは「Roger」よりも的確な応答であると言える。



 さて、その ”新たな命令” を受けた宏隆は─────────────────

「バディの No.3 とはぐれてしまった以上、ここから先は自分独りで任務を遂行しなくてはならないな」

 身が引き締まる思いで、宏隆はベレッタを握りなおした。

 訓練と言えども、ほとんど実戦と変わらぬ状況で、敵味方に分かれて知恵比べをし、能力(チカラ)比べをするわけであって、さらにそれが個人ごと、チームごとに毎回教官に評価されるわけだから、どのような立場や役割であっても誰もが必死にならざるを得ない。
 況してや、使われる銃弾は実際に命中すればかなりの苦痛を伴うペイント弾であり、被弾すればその証拠がありありと残り、何処を何発撃たれたか一目瞭然となる。

 注意深く、足音を潜めて、ゆっくりと壁伝いに歩く。
 両手で銃を構えているので、肘や腿の外側で壁に触れ、確認しながら行くのである。

 と─────────────

「ズダダダッ、ダダッ、ダダダッッ!!」

 いきなり、目の前にライフルの弾が炸裂して、宏隆は反射的に身を伏せた。

「おっとっと・・・危ない、危ない・・・」

 伏せた姿勢のまま、じっと息を凝らして、様子を伺う。

 敵もこちらの様子を伺っているのだろう、コトリとも音がしない。

 だが、なぜ敵に自分の居る位置が分かったのか。

 まだ室内に濃く立ち篭める煙は、此方から相手が見えないように、相手からも此方を認識できないはずなのである。

「そうか─────────────────」

 ふと、天井の辺りを横目で見上げて、宏隆は何かを思い付いたように呟くと、床に転がったままゴソゴソと辺りを手探りで触れまわり、やがてホウキの柄のような木切れを見つけると、自分の首からスカーフを外して、その先端に結び付け、ご丁寧にヘルメットの中に被っていた帽子まで引っ張り出してそこに乗せた。

「これでよし、と・・・・」

 アイディアと言うには、あまりに稚拙かもしれない。
 だが、時にはその稚拙さゆえに、人はまんまと一杯食わされることもある。
 その、まるで子供が思い付くような事によって、これまで宏隆はどれほど難局を切り抜けてきたか知れない。

 案山子のように、棒きれの先に付けた帽子とスカーフは、己の ”影武者” であった。
 さっきの伏せたままの姿勢で、左手にその棒きれを持って、右手にベレッタを構え、床を這いながら、ずい、ずい、と前進して行く。軍隊で誰もが訓練させられる、匍匐(ほふく)前進と呼ばれるテクニックである。

 煙が立ち篭める中では、わずかな光によってぼんやりと影が反射して、その影が動けば、それはすなわち人間だということになる。先ほど撃ってきたのは、そのわずかな影の動きを見留めてのこと・・と宏隆は判断し、このような行動に出たのである。


 果たせる哉(かな)─────────────────

「ダダッ、ダダダッッ──────!!」

 敵はその影武者の影を宏隆だと思い、果敢に攻撃してきた。

「ははは、ざまを見ろ・・まさかダミーだとは思うまい」

 確かに・・敵地潜入訓練でこんなことをする人間は、まず居ないに違いないが。

 ともあれ、撃ってきた銃弾に合わせて、タイミング良くその棒きれを倒し、その場で低く寝返りを打ってバタリと大きな音を立て、まるで実際に被弾して倒れたように見せかけた。

 
「やったか──────────────?」

「うむ、今度は斃(たお)したはずだ、確かに手応えがあった!」

「よし、残るは二人だな────────────」

「そうだ、手強そうだぞ、きっと隊長とNo.2 だ、気を抜くな!!」

「おうっ!!」

 思いがけず、驚くほど近いところから敵の声が聞こえた。
 案山子のダミーは取り敢えず成功した。そして幸いにも、宏隆がいるところには机や椅子のような物があって、床に伏せている限りは容易に見つかることは無いと思える。

「ははぁ、あそこに居るな──────────」

 少しばかり、煙が薄くなってきたのかもしれない。
 ぼんやりと、敵の足元が影として見えている。

「二人か・・・あとの一人は、どこに居る?」

 煙は床や壁際の床の辺りには満ちてこない、とは、火災に遭った時の心得としてよく知られる事だ。そんな時には出来るだけ身を低くして、ハンカチなどを即席のマスクにし、床と壁の角に出来たわずかな空間で息をしながら素早く移動するのである。宏隆はこの部屋に入ってから、正にそのようにして此処まで進んできている。

 この場合、敵が窓を開けて早く煙を排除しようとしないのは、自分たちにとっても好都合であるからに違いない。恐らく、運良く閃光弾の光を目にしないで済んだ者が居たか、あるいはそのような攻撃を予期して、予めサングラスなどの用意が周到に為されていたのかも知れなかった。

 そして、もう一人の敵を確認しようと、少し部屋の中ほどに移動しようとしたとき、
 
「Freeze !!(動くな)、そこまでだ────────────」

 突然、宏隆の背中に、固い金属の銃口が突きつけられた。

「その恰好のまま撃たれたくなかったら、手を頭の上に挙げて、言うとおりにしろ!」

 敵も然る者。どこに潜んでいたのか、這いつくばっているところを、背中にピタリと銃口を突きつけられたのだから、もはや何も為す術はない。ここは、ともかく大人しく敵の言葉に順うしかない。
 
「じっとしていろ、動くと撃つぞ!!」

 銃を突きつけたまま、そう言いながら、ヘッドセットをもぎ取ろうとする。
 味方に連絡を取られる前に、先に無線を外してしまうのである。

 だが、その行為を実行するには、いかにも相手が悪かった。

「うわぁあっっ!!」

 いったい、どのように動けばそうなるのか。
 敵がヘッドセットを外そうとしたその瞬間、宏隆はフワリと相手を崩して投げ、あっという間に立場を逆転させて、敵を床に俯(うつぶ)せに転がさせた。

「・・・じっとしていろ、声を立てるな」

 すぐに背中に馬乗りになって片腕の関節を極め、同時に素早く腰からナイフを取り出して相手の首に当てる。

「むむっ、くっ・・・う、動けない!」

「それ以上動くな、動くと命が無いぞ!」

「くっ、くそぉおっ─────────────────!!」

 だが、敵は意を決して、力一杯もがいて宏隆を撥ねのけようとした。

「あっ・・・・う、ううむ・・・・」

 こうなっては、これより他に仕方がない。
 宏隆はナイフで敵のノドを掻き切って、斃した。

 無論、ナイフはプラスチックでできたトレーニング用の物である。
 訓練時には、そのナイフの刃に赤いチョークが塗りつけられている。それで喉を掻ききれば喉に赤いチョークが付くので、斃されたことが分かる。

「悪いな、殺られたので ”減点5” だ。大人しく順ってくれれば、捕縛拘束のみの ”減点3” で済んだのに・・・ここで暫(しばら)くじっとしていてくれ」

 手早く相手の手首を背中に回し、ポケットから取り出したハンドカフ(使い捨てのプラスチック製の手錠)を掛けて、拘束する。このような事も、大切な訓練のひとつなのである。

「ふう・・しかし、すごい技だ!、ロクに触れられてもいないのに」

 小声で、呆れたような顔で宏隆を見つめながら、その相手が言う。

「ははは・・・それじゃ!」

 敵の始末を終え、其処からまた匍匐(ほふく)をして先に進もうとしたが、

「No.5、Do you copy?・・・No.5・・・」

 ヘッドセットに連絡が入った。隊長の声である。

「No.5、Copy !」

「No.5、そっちは無事か?」

「Affirmative.(アファーマティヴ:Yes。Negative の逆。肯定するときに用いられる)大丈夫です。たった今、拳銃の敵を1兵、捕縛(ほばく)しました」

「Copy.(了解)、此方も残りの2兵を捕縛。人質を無事に確保したところだ。No.3 は部屋に侵入後すぐに殺られた」

「Roger.(了解)、すぐに合流します」

「Copy. Clear.──────────(了解、通話を終了する)」

 銃声が全くしなかったので、隊長たちも自分のように銃を使わずに敵を制圧したのだと、宏隆は思った。
 もう床を這って行く必要も無い。取り敢えず、この侵入訓練は無事に終わったのだ。

 そう思って、ようやく立ち上がろうとしたとき──────────


「ドォオオオーン─────────────────」

 遠くから、まるでガス爆発でも起きたような、大きく鈍い音が響いてきて、宏隆は思わずその場に立ち尽くした。

「何だ・・・いまの音は?」

 音が聞こえてきたのは、おそらく西の方角からである。


 宏隆は、なぜか胸騒ぎがした。



                                (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第120回の掲載は、10月15日(火)の予定です

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2013年09月15日

連載小説「龍の道」 第118回




第118回  T A C T I C S (6)



「時計を合わせて・・・2025(two-ou-two-five=午後8時25分)」

「2025、時計よし!」

「突入1分前─────────────────」

「1分前を確認っ!」

「突入用意─────────────────」

「突入用意よしっ────────────────」

「・・・3,2,1,突入っ!!」

「突入っ!!」


 迷路のように入り組んだ建物のセットの中へ、愛用のベレッタを構えて、あちこちを注意深く見回しながら敵の存在を確認しつつ入って行く。

 訓練とは言っても、玄洋會ではほとんどの場合実銃が使われていて、この訓練でも弾丸には「ペイント弾」がセットされている。
 ペイント弾というのは、金融機関やコンビニエンスストアに設置されているカラーボールと同じように、液体の塗料を弾頭のカプセルに詰めた弾丸で、敵側の役割をする相手をそれで撃つと染料の入ったカプセルが被弾した所で破裂し、命中したことが容易に確認できる。
 エアガンや空砲を使う訓練とは違って、普段どおり実銃が使えるので、実戦さながらの緊迫感で訓練をすることが可能となるのである。

 あれから、もう何週間か経った。
 学校が終わると、もうすでに校門の前に宗少尉が迎えに来ていて、そのまま住吉の浜にある訓練場に────────正式には「神戸湾岸訓練場」と呼ぶ、大きな倉庫や工場が群がって建つ広大な埋立地の、見事にカムフラージュを施された秘密訓練場へと連れて行かれる。
 そして、週末は訓練場に宿泊して、ウィークデーの2倍以上の訓練をこなす。

 宏隆はこのところ、そんな日々を送っている。

 今日の訓練は、建物内に囚われている人質を奪還するための、敵の制圧訓練である。
 チームは5名。作戦行動中は訓練でもNo.1〜No.5という呼称で呼び合う。
 この訓練の全くの初心者である宏隆はNo.5。開始時にはチームのちょうど真ん中の三番手の位置に居て、前の二人がやったことを真似しながら、後に続いていく。

 ──────────とは言っても、ただ単に真似をして動くわけではない。建物への侵入訓練では、チームが五人居れば五人とも異なる動きをしながら、交互に位置を変えつつ、徐々に目的の場所へと近づいて行くのである。
 例えば、五人全員が銃を同じ方向に構えながら侵入して行っても、実際にはどうにもならない。五人がそれぞれ異なる方向に注意を払いながら、主要ポイントで交互に入れ替わることを繰り返しつつ進んでいく。敵の行動を察知し、安全確保を行いながら素早く侵入して行かなくてはならない。
 ここでは、いかに合理的に、効率的に侵入するかを訓練するのである。

 敵はいろいろな所に潜んでいて、こちらを発見すれば直ちに攻撃してくる。
 ドアの陰、ソファの裏側、廊下の突き当たりの角、二階のテラスや、時には天井裏にまで敵が潜んでいる。何処に潜んでいるか分からないし、人数もおよその数しか判らない、どんな武器を用意しているのかも分からないが、そんな敵の反撃をものともせず、敵地に侵入して制圧し、目標の人質を救出奪還する訓練を行うのだ。
 

 サササッ、と────────────────
 素早く、足音も立てずに、五名の隊員が建物の内部へ向かって侵入をしていく。
 無論、誰も声を立てる者はいない。

 映画ではよく、警官やFBIが建物に入っていく時に、「クリアーッ!」と言い合いながら、各部屋に誰も居ないのを確認していくのが見られるが、このような特殊部隊では敵地に入ったら一切声を立てずに行動する訓練を積む。
 もちろん無線のヘッドセットを装着しては居るが、それはお互いが離れて見えない場合に小声で用いるもので、目視できる近距離で行動を共にする時には、前進、停止、後退、伏せろ、二人ずつ左右に二手に分かれて進め、一名は残って見張れ、一名は偵察に向かえ、などと、すべては隊長(チームリーダー)の手のサインによって、細部にわたって命令が伝達されるのである。

 そして此処でも、最も大切なことは「自分勝手なことをしない」ことに尽きる。
 つまり「チームワーク」が一番重要であり、それこそが最も尊ばれるべき事とされるのである。
 チームワークの中で訓練を積んできた兵士は単独行動でも立派に動けるが、もし仮に個人的に独りで兵士の訓練をしてきた者が居たとすれば、その人間はチームワークを必要とする作戦には全く使えない。クールな一匹狼の存在はマンガや映画の中では持て囃されるが、実際の戦闘では、たとえ単独での行動を余儀なくされる際にも、チームワークの中でどれほど訓練したかという事がそのまま本人の実力に反映されることになる。

 例えば1968年以来、現在でも雑誌連載が続いている劇画「ゴルゴ13」の主人公は、強靭な肉体と強い精神力、高い集中力を持ち、拳銃やナイフは無論、ライフル、バズーカ砲、対戦車ミサイルから吹き矢に至るまで各種の武器をこなし、パラシュート、スキューバダイビング、馬術、犬ぞり、空手、柔術、サンボ、中国拳法まで習熟し、医学や火薬、毒物の知識まで持っている。また、F-15の後部座席に搭乗し、12Gもの重力加速度で旋回して前席のパイロットを失神させたりもする人物として描かれている。

 漫画だから、と言えばそれまでだが、ここで超一流のプロとして描かれている主人公の人物像は、現実のプロとしてその世界で実務に携わっていた人間たちから見ると、決して元からの ”一匹狼” で殺し屋稼業を営んでいたスナイパーでは有り得ず、必ずどこかの特殊部隊で一定期間、厳しい訓練を積んだ人間のはずだ、と思えるに違いない。

 兵士は、チームワークの中でこそ戦闘が何であるかを学ぶことができる。ドン・キホーテにも風車という敵が必要だったように、どのような戦いも独りでは成立しない。
 したがって、戦いの訓練も独りでは出来ない。戦いを専門とする集団の中で繰り返し訓練をし、戦闘が何であるかが分かるようになれば、ようやく個人で行う戦闘を ”組み立てる” ことも出来るようになる。

 ─────────因みに、F-15は実際には外部兵装を搭載していないクリーンの状態で9Gに耐えられるよう設計されている。安全係数をとって13G程度までは耐えられるように造ってはいるが、もしその状態で飛んでしまったら、帰投後に念を入れてX線で細部の検査整備をしないと次回は怖くて使えない。
 航空自衛隊の入間基地には、12Gを発生するパイロット訓練用の遠心力発生装置がある。民間機でも航空機のパイロットになるには7Gで10秒間耐えられなくてはならない。自衛隊のパイロットは普段から8Gくらいで飛んでいるが、この装置での訓練は対Gスーツ無しで行われるから、9Gの設定でも負荷が11Gに匹敵することになる。
 ゴルゴ13がそのときに ”対Gスーツ” を着用していたかどうかは知らないが、普通は継続的に8Gや9Gに耐えられる人間は存在しないし、F-15イーグルなどは9Gになると ”Over G !!, Over G !!” と赤いランプが点いて警報が叫ぶ。警報システムを搭載していない古いタイプのF-15だと最大が7,3Gに制限されている。
 だから、12Gの旋回ともなると人間はほんのわずかな瞬間しか耐えられないはずである。
まあ「Golgo-13」と言うくらいだから、13Gまでは耐えられるのかも知れないが。

 余談ついでに、F1レースのコーナリングでは横方向に5Gの力が掛かる。体重が60㎏の人なら、その時だけ300㎏の負荷が感じられるわけだから、大変なことだ。
 けれども一般人でも、別に戦闘機やレースカーに乗らなくとも、誰でも容易にこれを体験できる乗り物がある────────遊園地のジェットコースターである。

 かつて東京・豊島園にあった「シャトルループ」で発生するGは、何と6,7Gもあった。
 これは人間が耐えられるGの限界に近いもので、ジェット戦闘機で空中戦をしている時に匹敵する数値である。これが続けば息も出来ないほどだが、パイロットはそんな状況の中でパソコンの作業のようなことを平然と続けている。
 瞬間的とは言え、そんなすごいGを発生するジェットコースターは日本にたくさんある。戦闘機の疑似体験をしてみたい方は乗ってみる価値があるかもしれない。



「ダダンッ、ダダダンッ─────────────────!!」

 二番手の位置に居た隊長が、先頭の隊員がドアを開けた途端に、素早く部屋の中に飛び込み、即座にライフルを撃った。
 敵が撃ち返す暇も無く、あっという間に室内の二人の敵の胸に2発ずつ弾が命中する。
 隊長に選ばれる人だけはある、すごい射撃の腕である。
 
 ペイント弾の塗料にまみれた敵側の隊員は、そこで倒れたまま訓練が終わるのを待つことになる。

 隊長がそのまま先頭となって進み、宏隆は必然的に二番手となった。

 先頭が右を確認すれば、二番手は左、三番手は上方や後方といった具合に、互いに異なる方向を確認しながら交互に進んでいく。
 一番手が部屋の内部を確認している間に二番手が先に進み、二番手が次の場所を確認している間に三番手がさらに前に進む────────このような行動を交互に繰り返しながら、目的地へと侵入を進めいくのである。

 窓のあるところは腰を低くして、見えないところは伸縮する警棒の先端やライフルの銃床にミラーを装着し、目立たぬように注意深く覗いて確める。

 廊下を伝って、やや広い部屋の入口に到達すると、隊長が三番手の隊員にミラーを使って内部を確認するようサインを出した。

 腰から警棒を取り出し、先端に小さなミラーを取り付けた隊員は、廊下の窓にゆっくりとかざし、回転させて、そっと中を覗き始めた。

 だが─────────────────

「ズダダダダダッッッ!!・・・」

 部屋の中から一斉に射撃を受け、粉々になったガラスが頭上に降りかかってくる。

「チィッ、見つかったか──────────────!!」

 室内灯か何かに、その小さなミラーが反射し、気付かれたのであろう。

 動物はみな、光に敏感である。ミラーを使うときには、光が反射して敵に悟られないように、光源の存在やミラーの角度に注意する必要がある。

 偵察をしていた隊員は、撃たれて壊れた窓ガラスの隙間から、これ幸いとばかりに室内を観察し続ける。

 その情報をもとに、隊長が次の行動を素早く指示した。

「敵は室内に五名、ライフルが一人、拳銃が三人、ナイフが一人。
 防弾装備、ヘルメット、ゴーグル、サングラスの装着は無し。
 北の隅に、人質が椅子に座って捕らえられ、首にナイフを突きつけられている。
 他の入口は無し。窓は西に大、南に小の一ヶ所ずつ────────」

「了解っ!!」

「作戦は、まずスタングレネード(閃光弾)を室内に投擲。
 爆発と同時にNo.4がドアを破壊し、4秒後、No.1とNo.2がドアから侵入。
 No.4はドア付近に残って後方を確認。
 No.3とNo.5は窓を破って飛び込み、人質の奪還に向かう。以上──────────」

 これだけの内容を、ほんの僅かな時間にサインで指示し、役割分担する。

 閃光弾を使用する時には、ゴーグルとマスクの着用が必須である。
 クリアレンズのゴーグルは、すでに侵入を開始したときから装着済みなので、全員が素早く防煙マスクを取り出して着用する。

 No.5の宏隆は、窓を破って飛び込み、人質を確保・奪還する役になった。
 自分の背中を踏み台にしてNo.3を先に飛び込ませ、後に続いて飛び込むのだ。

「突入用意っ─────────────!」

「用意よし!!」

「スタングレネード、準備っ!」

「準備よし────────」

 No.2が、黒い円筒形の閃光弾を手に、安全ピンに指を掛けて抜く準備をする。
 円筒形になっているのは、普通の手榴弾のような卵形だと、転がして使用するときに戻ってくる可能性が有るからである。

「レディ・・ゴーッッ!!」

 銃撃を受けた窓から、閃光弾が投げ入れられた。

「ボンッッ─────────────────!!」

 閃光弾は、ピンが抜かれてから爆発までの時間が、普通の手榴弾よりもずっと短い。
 敵に投げ返されることを防ぐために、信管の遅延秒時が約1秒程度にセットされているからである。だから投げ入れたらすぐに顔を背け、耳を塞ぎ、大閃光と爆発音を回避しなくてはならない。

「よし、カウント・スリーで突入する・・・ワン、トゥー、スリー、突入っっ!!」

 これらの指示も、すべて手によるサインのみで行われる。
 突入した後は、閃光弾の煙が充満しているため、ヘッドセットで通信が行われる。

 閃光弾・スタングレネード(Stun-Grenade=気絶用・擲弾)は、1960年代に英国陸軍特殊部隊(SAS)がテロに向けて採用して以来、世界中の軍隊や警察に用いられている。
 アメリカ軍の「M84」というスタングラネードは、百万カンデラの強い閃光で一時的に視力を奪い、160〜180デシベルの爆発音で聴力を麻痺させてしまう。これを用いられた相手は瞬時に視聴覚が奪われ、最低でも45秒間はまったく身動きがとれない。

 閃光弾はいわゆる手榴弾(てりゅうだん)の一種であるが、この場合のように人質を奪還する目的や、敵の殺傷を目的としない場合などに用いられる。敵や人質が心臓病などの病気を持っている場合はショック死する可能性もある。

 因みに、自動車のヘッドライトの光量は、前照灯一灯につき15,000カンデラ以上と定められている。また日本に5個所しかない「第一等灯台(最も大きなレンズを備えた灯台)」のひとつ、明治七年からその灯を点し続ける「犬吠埼灯台」は百十万カンデラで、光の到達距離は36㎞というから、スタングレネードはその明るさに匹敵する途方もない光量を瞬時に発するということになる。
 なお、日本にはその犬吠埼灯台の光量の10倍近くもある1000万カンデラを誇る、片手で持ち運びが出来る「懐中電灯」が市販されているというから驚きである。

 また、人間が普通に聞き取れる音は130db位で、爆発音の180デシベルというのは200m先のジェットエンジンの音が大体それに相当する。120dbを超えると音として認識するよりも痛覚として感じるようになる。
 180dbというのはそれよりも50db多いだけだが、10デシベル上昇すると聴感上は2倍になるので、50dbの増加は2×2×2×2×2=32倍の音量ということになる。
 
 使用する側は、通信用ヘッドセットがイアマフの役割を果たし、閃光弾の大音響から耳を護る役割をする。投擲後は敵が拾ったり蹴ったりする間もなく、すぐに爆発するようになっているが、耳を塞ぎ、閃光を見さえしなければ此方には支障がない。
 この訓練の場合は窓から閃光弾を投げ入れるため、自分たちが閃光の被害に遭うことはまず有り得ない。また、ここでは訓練用の閃光弾を使っているから、もちろん本物のような威力はないが、それでも大音響と共に閃光を発する迫力は一般的な日常生活からは想像もつかない。



「バァーンッッ─────────────────!!」

 予めドアを少しこじておいたドアを爆発音と同時に破壊し、数秒後に突入を開始する。
 室内の敵はパニックに陥り、もうドアを破られたことさえ認識できないはずだ。

 窓の下でじっと背中を台にして屈んでいた宏隆の上を、No.3の隊員が軽々と踏み超え、窓を割って飛び込んで行った。



                                (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第119回の掲載は、10月1日(火)の予定です

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2013年09月01日

連載小説「龍の道」 第117回




第117回  T A C T I C S (5)



 しっかりとロープが繋がっていると思えても、10メートルのステージから後ろ向きに身を乗り出すのは、なかなか勇気が要る。身長の6倍近くの高さがあるのだから、無理もない。

 高所恐怖症というわけではないが、雷(らい)士官長が言っていたように、確かにこれは高度15,000フィート(約4,500m)のセスナからパラシュートで飛び降りた時よりも、すぐそこに地面が見えている分だけ、かえって恐怖を感じるのかも知れなかった。


「クラマぁ!!、何だぁ、そのヘッピリ腰は!、もう少し腰を伸ばせっ!!」

「・・い、イエッサー!」

 ステージの縁(へり)のところに足を掛けて、ピンと張ったロープを持ちながら降下塔の外へ身を乗り出し、ピタリと空中に静止した恰好で、潘(パン)曹長から注意を受ける。


 クラマとは、宏隆に与えられた ”コードネーム” である。
 コードネームは暗号名や被匿名のことで、人の名前に限られず、ありとあらゆるものに使われている。例えば、研究開発中の車は156(アルファロメオ)や911(ポルシェ)などのように、商品名ではなくコードネームで呼ばれるし、パソコンの Mac OS-Xや Androidのように、コードネームがそのまま商品名になったものもある。
 また、世界初の女性宇宙飛行士・テレシコワのコードネームは ”チャイカ(カモメ)” であり、有名な「私はカモメ」というのはここから来ている。
 軍事的な計画や作戦にも、常にコードネームが使われる。
 300万人の兵士がドーバー海峡を渡ってフランスのノルマンディに上陸した、有名なノルマンディー上陸作戦は、コードネームが「Operation Overlord(オーバーロード作戦)」だったし、日本がポツダム宣言の受託と全面降伏を拒否した場合に決行が予定されていた上陸作戦は、ダウンフォール作戦(Operation Downfall)だった。
 ダウンフォールとは、失墜、転覆、破滅といった意味である。


「ふむ、屁っ放り腰がシリやコシの問題ではないということは分かっているようだな。
 ──────────そうだ、もっとハラを伸ばせ!!」

「イエッサー!!」

「よし、まずは壁を歩くようにして、ゆっくりと下まで行く。ブレーキングの時はしっかりと右手を腰の後ろまで回して止めること。分かったか!?」

「イエッサー!!」

「いくぞっ!・・降下準備──────────」

「降下準備よしっ!」

「降下っ!!」

「降下ぁ────────!」

 10メートルのステージから、ロープ一本で、壁を ”歩いて” 下まで行く。
 いや、ロープを二重にした ”ダブルロープ” だから、ロープ二本で、と言うべきか。

「静止っ─────────!!」

「静止!」

「降下っ─────────!!」

「降下ぁ!」

 サッ、サッ、サッと・・壁を這うヤモリのように、歩いては号令と共にブレーキを掛けてピタリと停まり、停まってはまた降下をする。これを何度も繰り返す。

 横から潘曹長に確認されながら数回降りた後は、今度は独りで降りる訓練をする。


(これは武術と、太極拳と同じだ─────────────────)

 降下を繰り返しながら、宏隆はある事に気付いた。
 身体の使い方や足の運び方が、たとえロープでぶら下がって壁を歩いているような状況でも、それは武術の稽古と何も変わらないということである。

 壁を歩くと言っても、自分の体はステージの支点からぶら下がっているわけで、壁を直角三角形の「対辺」とすると、ロープは「斜辺」、底辺に当たる自分の体は「隣辺」となり、斜辺であるロープに掛かっている力は、当然ながら地面と壁の両方に向かっている。

 ロープ降下とは、この地面と壁に向かっているふたつの力を利用しながら行うわけだが、実際にやってみると、単にロープにぶら下がっていることよりも、壁を歩こうとした時に、自分の ”身体の状態” によって随分と状況や効率が変わってくるのが分かる。

(床と壁の違いはあっても、これはまさに ”歩法” そのものじゃないか・・・・)

 身体の状態と言っても、早い話が「構造」なのである。

 その「構造」を使えるかどうか─────────────────
 ケンカだろうが、ロープ降下だろうが、すべてはそれにかかっている。
 いや、壁もロープも無いところをパラシュートで降下する事だって、ひたすらその構造にかかっているのだと宏隆には思える。

 そう考えると、垂直の壁を歩いて降りるような訓練も、また違う興味が湧いてくる。
 初めて降下訓練をする者は、降下すること自体に懸命で、兎にも角にも一応地面まで辿り着ければ良いと思うものだが、慣れてくるにしたがって、どのように身体を使うことが最も降下に適しているのかが分かってくる。決してアクション映画に出て来るような、ササササッと恰好よく、素早く降下できれば何でも良いというわけではない。

 つまり、降下のための確かな身体の使い方があるわけであって、それが高度な技術になればなるほど、”自分なりに” 運動神経や筋力に頼って適当に行うことには自ずと限界が出て来てしまう。やはりここでも「基本」が最も大切なことで、基本の内容がどのような意味を持つかを理解できる者だけが、高度な次の段階へ進めるのだと思える。

 また、この訓練は、登山のためのロープ降下ではないので、いかに効率よく敵地に潜入することが出来るか、ヘリコプターや建物から如何に素早く目的の場所に降りることが出来るかという目的で行われている。
 要するに、すぐそこに敵がいることが前提に行われているわけで、当然ながら自分の心身は常に ”実際の戦闘モード” であることが求められるのである。
 そして、その戦闘モードとは「闘うための身体構造」が最も優位に発揮できる状態であることは言うまでもない。

 これは歩法や套路と何も変わらない訓練だと、宏隆には思える。
 訓練の散手であれ、実際の白兵戦であれ、この基本の構造がしっかりと身に付き発揮できなくては何も出来ないと思えるのだ。

 宏隆には、初めに雷(らい)士官長が訓練場を案内してくれた時に、市街戦と室内戦闘のセットの入口で示してくれた ”あの動き” が忘れられない。
 『このように銃を構えて、先ずこうして内部を確認します・・・』と言いながら示されたその動きに、洗練された武人の身体の軸を嫌というほど感じさせられたのだった。
 そしてそれは、いつどのような時でも、どのような状況でも戦える、本物の「武術」の質を表していると思える。

 宏隆は、心身が正しく戦闘モードになっていれば、そして基本をきちんと学んできていさえすれば、このような ”宙吊り” という非日常的な状況でも正しく身体が動いてくれるということを改めて実感できたような気がした。


「よぉし、少しは壁を歩けるようになってきたな─────────────────」

 何本目かの降下を終えてステージに上ってきた宏隆に、潘(パン)曹長が声をかけた。

「ありがとうございます!」

「次は、途中でロープをロック(固定)する練習だ。一緒についてこい!」

「イエッサー!」

 再び、潘曹長が一緒に降下する。

 さっきと同じように10メートルの垂直の壁を中ほどまで降りて行って、号令と共にピタリと静止し、今度はフィギュア・エイト(エイト環)にグルリとロープを巻き付け、両手を離してもロープが動いていかないようにロックすることを練習する。

「よし、良く出来ているぞ。もうひとつの方法がある。より安全で確実な方法だから、そこで同時に真似をしてみろ」

「イエッサー!」

 潘曹長は壁に足を着けた宙吊りの状態で、その場でクルリとエイト環にロープを回し、手前のカラビナにもそれを通して固定すると、両手を離して見せた。

 宏隆も同じようにやってみる。見せるためにゆっくりとやってくれたのだろうが、その手際の良さに、真似をして覚えるのが大変である。
 

「そのとおりだ、なかなか覚えが良いな、クラマ──────────────」

「ありがとうございます!!」

「固定が確認できたら、そのまま、その場でこんなふうに体を真横にしてみろ!」

「・・こ、こうですか?」

 ロープに吊り下がったまま両手を離し、足も壁から離して、真一文字に体をピンと張って横にする。

「そうだ、次はこうやって逆サマになって─────────────────」

 今度は頭を下に、足を上に、壁に腹這いになるような恰好で、ピタリと静止する。

「・・よ、ヨイショっと─────────────このまま降下すれば、スパイダーという技術ですね?、初日に王老師に見せていただきました」

 潘曹長の模範に、何とかついて行けるが、やはりこの高さで宙吊りのままこんな恰好をするのは決して気持ちの良いものではない。

「そのとおりだ。まあ、これは静止してぶら下がっているだけだから、さしずめミノムシってところだな!、蓑虫の、蓑着て世間知らずかな、ってやつだ。ワハハハハ・・・・」

「あ・・あはは・・・・」

 厳しいだけではなく、潘曹長はユーモアもある人だ。
 そして、誰が詠んだ句か、こんな所で俳句を口にする余裕さえある。
 宏隆は玄洋會のメンバーから初めて俳句を聞いたような気がする。


「それでは一旦下に降りて、次はハングだ。壁を蹴りながら降りる練習をする」

「イエッサー!」

 ”Hang(ハング)” と呼ばれる、壁を蹴りながら降りる降下法は、まだほんの数回だが、さっき初心者用の壁面で教わったばかりだ。

 壁面を蹴って降下する方法は、蹴り出して壁から離れた時に少し怖さがあるが、その恐怖よりも遥かに面白さの方が勝っていて、一度出来てしまうと病みつきになる。

 宏隆はすでに、その面白さを経験していた。


「──────────同じように、初めのうちは私も一緒に降りて行く」

「イエッサー!!」

「ゆっくりと、何度に分けて降りても良いから、自分のペースで降りるのだ」

「イエッサー!!」

 てきぱきと、ハーネスのカラビナからエイト環を外して、ロープをセットし、潘曹長と共にステージの端に後ろ向きに並んで立ち、降下姿勢を取る。

「準備はいいか?・・・降下用意!」

「降下用意よしっ!!」

「降下っ!」

「降下ぁ─────────────────!!」

 潘曹長は、宏隆の降下するスピードにピタリと合わせてくる。

 ステージの縁から飛んだ初めの一歩は、綺麗に足が壁に着いた。

 だが─────────────────

「あ・・おっ・・わっとっとっと─────────────────!!」

 二歩目のジャンプで、ブーツの底が、きちんと壁面に着かない。
 つま先の方から壁面に着いてしまって、壁を正しく足でホールドできないのだ。

 焦って、壁面をブーツのつま先でわずかに蹴って、次の一歩で体を立て直そうとしたが、そのために三歩目はよけいに体勢が崩れ、ターザンのようにロープにぶら下がったまま、ドーンと壁にぶつかって行き、壁の前で正にミノ虫のようにぶら下がった恰好になった。

「う、むむぅ・・・・・」

「ははは、失敗したな・・・大丈夫か?」

 潘曹長がすぐに隣に降りて来て、声を掛ける。

「イエッサー!、大丈夫です。すみません─────────────────」

 答えながら、すぐに体勢を立て直して、元の基本姿勢に戻す。

「まあ、肘と膝にプロテクターを着けているし、大したジャンプじゃなかったから、激突しても痛くはないだろうが。それでも下手をすると怪我をしてしまうぞ」

「イエッサー!」

「何故そうなったか、分かるかな────────────?」

「体が・・・壁に対してきちんと垂直に近い角度に保たれていなかった為だと思います。
 蹴った時に充分に後ろに飛べず、少し焦ってしまってブレーキングを強くした為につま先しか壁に着地できず、次のジャンプも滑るように蹴ってしまいました。それで、こうなったのだと思います」

「ふむ、よく分かってるじゃないか・・・よし、下まで行けるか?」

「大丈夫です!」

「下まであと数メートルだ、無理にジャンプしなくても良い、歩いても良いからゆっくりと降りて行け!」

「イエッサー!!」

 降下訓練を甘く見ていたわけではない。しかし、ハングという技術がそれほど難しくはないと、どこかで思えていたのも事実である。

 体の状態によってはこういったことも起こり得るので、結局は様々な経験を積んでいくしか無いのだと思う。
 これもパラシュートと同じで、回数を熟(こな)せば熟すほど、自分の身体がどのように在れば良いのかが、だんだん分かってくる。
 失敗は成功のもとだ、と宏隆は思い直した。

「ちょうどいい、少し休め。最初のうちは腕や手に余分な力が入って、思ったよりも疲れるものだし、背筋や腹筋も必要以上に使ってしまうものだからな」

 地上に降りて、エイト環からロープを外しながら、潘曹長が言った。

「イエッサー、僕はまだ大丈夫ですが・・・」

「自分がどれほど疲れているかは、訓練を積まなければ、なかなか自分では認識できないものだよ。そして戦場ではそれが命取りになる。自分では歩けているつもりでも、傍から見るとヨロヨロしていたり、まだ余力があると思えても、実際には倒れる寸前だったりする。
 特に新兵にはそれが多い。新米は気力も体力も一緒クタに思えてしまうからな」

「熟練の人たちには、そのようなことが無いのですか?」

「いや、熟練者だって同じだよ。ただ、熟練者はみな臆病だから、自分がどのような状態なのかを常に繊細に気にする習慣があるのだ。ははは・・・」

「臆病──────────────?」

「そう、本当に戦場で働けて戦えるヤツは、決まって臆病なのだ。臆病という言葉が適さないなら、用心深さや謙虚さと言っても良い。常に細心の注意を払って自分を見つめ、自分がどのような状態であるのか、自分が何を考え、何をどのようにやろうとしているのか・・・彼らは、まるで鏡に映すように、自分自身をキッカリと意識することが出来るのだ」

「それを ”プロ” と言うんですね・・・宗少尉にも同じことを言われました」

「そのとおりだ。まあ、ちょっとそこのベンチに座ろうか────────────」

「はい・・」

「戦士というのは、敵とどれだけ戦う能力があるか、いかに素早く銃を撃ったり格闘で相手を倒したり出来るかということではなく、実際の戦闘では、自分の事がどれほど分かるか、自分自身をどれほど認識できるか、ということに係っているのだ。
 その瞬間々々に、自分が何をどう見て、どう考えて、どう処理しようとしているか、そのものごと自体を熟(こな)す以上に、”自分が何をしているのか” をキッカリ意識できる事の程度こそが、そのまま戦士のレベルと言えるのだ。
 長年、多くの訓練生を教えていると、それが本当に良く分かる。
 だから戦士として大成していける人間ほど、決まって静かで優しく、人の面倒をよく見るし、常に全体を見ながら自分の取るべき行動を考え、決して身勝手な考え方や行動をしないという特徴がある。それは、掃除の仕方ひとつ、靴の履き方ひとつ、話の聴き方ひとつ、受け答えの仕方ひとつにも、実によく表れている」

「それが出来る人というのは、そのまま小隊を率いて敵地に赴くことのできる、リーダーの質そのもののように思えますが・・・」

「そのとおりだよ。だから軍隊では、どんな小さなチームでも、一人々々がリーダーとして機能できるような訓練を積んで行くのだ。リーダーとして動ける質こそが、最も強力な戦士の質であり、それこそが個々の戦士に最も求められているものだからな」

「単独行動なら自信がある、というようでは駄目なんですね。自分勝手な考え方は、ここでも否定される─────────────────」

「そうだ、リーダーシップが取れる者は、決して身勝手な人間では有り得ない。身勝手な考え方は部隊を全滅させることにも成り兼ねないからだ。そして、部隊を全滅させるような質というのは、実生活でも友情を崩壊させ、家庭を崩壊させ、経営を崩壊させ、国家を崩壊させることにも繋がっている。それらは全て同じ質であり、同じことなのだ」

「自分も頑固で我が強いので、耳が痛いです・・・」

「自分勝手や頑固さというのは、元々とても狭い考え方から来ている。
 それは自分がこうしたい、これが欲しい、こうでありたい、という個人のちっぽけな欲望から始まっていて、全体のために、個人を超えたもっと大きなものの益になるような考え方には決して発展できない。それは恋人のため、家族のため、民族のため、国家のため、人類のために何かをする、身を捧げる、などというものには繋がって行きようのないものだ。
 だからそんな人間で構成している家族や、チームや、国家というのはとても脆弱だ。
 身勝手というのは、あくまでも ”その本人個人の領域” だけで止まってしまうもので、言ってみればただの利己主義に過ぎない。だからその利己は本人に直接還ってくる」

「・・還ってくる、と言いますと?」

「キミは王老師の拝師弟子だが、もし強くなりたいという願望が、自分が強くなりたいだけに留まれば、君が武術で大成することは決して有り得ないだろう。もっと大きな、個人の利己を超える大きな望みがなければ、王老師が伝えるような偉大な伝承は絶対に取れない。
それは、個人が強くなると言うような、そんな子供じみたちっぽけなことでは無いからだ」

「物事は、自分が望んだ分だけきっかり還ってくる、と居合の師に言われました。
 それは物事の ”質” に於いても同じなんですね。きっかり自分が望んだ ”質” しか与えられない。自分が望むことの質の程度が低ければ、その低いレベルのものがやってくる。ちっぽけなことを望んでいれば、ちっぽけな成果しか得られない・・・」

「そうだ、よく分かってるじゃないか、あははは────────────」

「僕はまだ若造で、自分の思いさえ強ければ、やり抜く気力さえあれば後は何とかなるのだと、ずっとそんなふうに考えていました。自分なりに武術を追求して行けば必ず凄いものが手に入る、高度な武術を習得していけるはずだと、タカをくくっていたんです」

「まあ多かれ少なかれ、誰でも若い時はそうかもしれないが・・・」

「でも、王老師と出会って、それがひっくり返りました」

「ふむ・・・」

「自分の常識を遥かに超えた武術のレベルを、王老師が示して下さったのです。そのお陰で自分のような思い上がった人間も、謙虚にならざるを得ませんでした。
 本物の武術というのは、単に強さを教えるのではなく、人の在り方を教えるのだと、あらためて思いました。在り方が分からなければ、遣り方も取れないと思えます」

「良い勉強をしているようだな。あの王老師の拝師弟子になるだけのことはある」

「ありがとうございます。王老師や太極門の名を汚さないよう、頑張ります」

「先ずは降下訓練でA級を取ることだな」

「ロープ降下に、レベルの評価があるのですか?」

「ここの訓練場独自の評価だが、AからCの三段階で評価している。軍隊の空挺隊員などにもテストがあって、常に個人の技能レベルを評価される。それは射撃でも、降下訓練でも、格闘訓練でも、みんな同じだよ」

「なかなか大変そうですね─────────────────」

「他人事じゃないぞ。明日はクラマは学校が休みだから、午前中が降下訓練、午後が射撃訓練だ。3回訓練を受ける毎にテストをして、評価に満たなければそのレベルができるまで、何度でも訓練することになる。せいぜい頑張ることだな!」

「は、はい・・イエッサー!!」


                                (つづく)


  



  *次回、連載小説「龍の道」 第118回の掲載は、9月15日(日)の予定です

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2013年08月19日

連載小説「龍の道」 第116回




第116回  T A C T I C S (4)



「降下用意────────────」

「降下用意よし!!」

「降下、始めっ!!」

「降下ぁっ────────────!!」


 巨大な地下訓練場に、教官と訓練生の声が谺(こだま)する。
 カーキ色の軍服にヘルメットを被り、背中にライフル、腿には拳銃とナイフを装備した十五、六名の隊員が、見上げる塔の天辺(てっぺん)から次々とロープで降下して来るのはなかなか壮観な眺めだ。

 王老師だけは、相変わらず黒い戦闘服にベレー帽を被って、降下してくる隊員たちを訓練塔の下で見守っている。腿に着けた銃とナイフは昨日と変わっていないが、よく見れば宗少尉が着けていたものと同じ、緊急時にラペリング(Rappelling=懸垂下降)が出来る、三角形の金属が付いたベルトも装備している。


 さっそく、今日から降下訓練である。
 宏隆は生まれて初めて、垂直の壁面にロープ一本で吊り下がることになった。

 ──────────と言っても、いきなり他の隊員たちのように、高さ20メートルの訓練塔から降下したわけではない。それ以前に学ぶべき事がたくさんあるのだ。

 ハーネス(骨盤部に装着するベルト)の装着方法に始まって、カラビナやエイト環の扱い方、ハーネスやロープに降下具を取り付ける方法、ロープを持つ手の位置、体の姿勢、ロープを弛めて降下しながらブレーキを掛ける方法、降下の途中で停止して位置を確保し両手を自由にする方法など、先ずはそれらの基礎知識と基本操作がきちんと覚えられるまで、平地で立ったまま指導が行われる。

 それが終わって、いよいよ降下かと思いきや、次は訓練塔の側面に造られた初心者用の低い壁を使って、壁面に垂直に立つことや、そこでのロープの扱い方、バランスの取り方を訓練する。
 壁面には足が滑らないように厚手の板が張られ、壁の前には2メートルほどの高さの所に足場が作られている。訓練生はまずそこに教官と一緒に立ち、ハーネスと降下具にロープを装着して足場の外へと身を乗り出し、宙にぶら下がりながら壁に垂直に立つ練習をする。

 つまり、降下訓練と言ってもいきなり初めから降下をさせるわけではなく、正しい用具の扱い方と、降下時の姿勢やブレーキのかけ方、正しい考え方と身体の在り方からみっちり仕込まれるのである。


 ─────────さて、宏隆は今、高さ5メートルの初心者用の壁の上の方、地上3メートルほどの所で壁と垂直に立つことを試みているのだが、わずか直径1センチの細いロープ一本で宙吊りになってみると、やはりそれなりに怖さが感じられる。
 この程度の高さでも、普通の人間にとっては充分に非日常的な状況に違いないし、こんなふうに背中を下にして吊り下がった恰好で、万が一手を滑らせて落ちてしまえば、確実に大怪我をするのは誰にだって想像がつく。

 だから真下の地面には安全のための分厚いマットが敷かれているし、訓練生はヘルメットは無論のこと、裂けたり擦(こす)れたりすることに強い丈夫な生地で作られた軍用のシャツとズボンに、さらにニーキャップとエルボーキャップを着け、しっかり壁面をグリップするビブラムソールの半長靴や、熱や摩擦に強いグローブを装着した上で、加えて降下専用のロープやカラビナ、エイト環などの降下用具も信頼性の高いものが必需となるのだ。


「もっと腰を立てて、足を伸ばして────────────!!」

(よいしょっと、こんな感じかな・・・)

「伸ばしすぎては駄目です。膝は少し曲げて、背中を丸め過ぎないように」

(むう、これじゃ背中を丸め過ぎか・・・)

「そう、そこから少し右手を弛めながら、ゆっくりと足を下に移動して!」

(右手を弛めながら、足を移動させる、と・・・)

 登山のクライミングなどでも、普通はロープを持つ手は左手が上、右手は下というスタイルをとる。これは降下の際にブレーキを掛けるのに、利き手で力のある右手で行いたいからである。
 しかし実際にロープ降下を使って任務に当たる兵士たちは、降下中でも拳銃やライフル、手榴弾や閃光弾などを手にしたり、潜入のための細かい作業をしたりする為に利き手を取っておく必要があるので、左手でブレーキングを行うスタイルも同じように訓練する。
 宏隆のような初心者は、利き手でブレーキングの練習をしないと危険なので、初めは皆、右手を下にして訓練をさせるのである。

「うわっ・・とっとっとっと・・・!!」

 その右手に握っていたロープを弛めた途端に、体が後ろの下に向かって倒れていき、慌てて壁に付けた足に力が入り、そのために頭と背中がピンと張って、宏隆は壁と垂直に、真一文字に立つような恰好になってしまった。
 当たり前のことだが、ロープを弛めながら、弛めた分だけ足を下方に運ばなければ、足が支点として壁に残って、身体だけが下に向かうことになる。そうなったら仰向けで逆さ吊りの姿勢となってしまう。

「しっかりと右手のグリップを握って!、急に弛めすぎないように!」

「は、はい・・イエッサー!」

 もちろん宏隆だって、そんな事は分かりきっている。
 ただ、さっきからずっと宙吊りの恰好で訓練を続けているので、いつのまにか握力を消耗していて、徐々に握力が効かなくなってきているのだ。
 初心者は必要以上に強くロープを握ってしまうからであるが、初めて体験する訓練では、そんなことも気がつかない。握力の強化は、軍隊の降下訓練には必須である。

(ふぅ、びっくりした────────────)

「よし、今度はその姿勢のまま、壁を蹴って!!」

(蹴るって・・・こうかな?)

 グイッと、足に力を入れて壁を蹴ってみるが、ほんの少し足が離れるだけで、ほとんど膝屈伸(スクワット)をしているような形にしかならない。

「もっと大きく、壁から離れるように、ポーンと蹴って!」

 大きく蹴れと言われても、ちっとも大きく蹴ることができない。
 考えてみれば、短い糸に吊された振り子のように、吊されたロープの支点がほんのすぐそこに位置しているのだから、そもそも大きく蹴れるわけがないのだが、慣れない宙吊りの恰好で頑張っている宏隆には、そんなことも冷静に考えられない。

「次は、そこでロープを固定して!」

「ロープ、固定しました!」

「よし、固定したら手を放して壁に転がって!」

 教わったとおりにエイト環にロープを固定し、まるで横へ受身を取るように、ぶら下がったまま壁にゴロリと体を付ける。まるで無重力空間を漂っているような恰好だ。

「そうだ、今度は反対側にも体を回して!」

 またゴロリと向きを変え、壁に背中を付ける。

「なかなか良いですね。それでは基本姿勢に戻って、ロープの固定を解除して!」

 再び壁に垂直に立ち、ロープの固定を解いて降下の基本姿勢になる。

「よし、次はさっきと同じように壁を蹴りながら、少し右手のグリップを弛め、また締めながら下降する」

 指示されるままに、壁を蹴りながら左手を少し弛めてみると、さっきとは違ってほんの少し宙に浮いたような感じで、壁からスーッと遠ざかり、また近寄って壁に足が着いた。ほんの少し体が下の方に移動している。

「よし、今度は何度蹴っても良いから、地面まで行けるように調整して!」

 一度その感覚を実地に経験してしまえば、それほど難しいことではない。
 要は蹴ることと、グリップを弛め、再び締めることのバランスなのである。

 一回目の蹴りと移動よりも、二回目の方がよりスムースにできる。
 高さは2.5メートルほど残っていたが、一回の蹴りで綺麗に、ゆっくりと着地することができた。

「OK、もう一度上がってきて、同じことをしてみましょう」

 再び初心者用の足場に上り、ロープを降下具にセットして壁に垂直に立つ。
 さっきとは違って、今度はテキパキとスムースに事が運んでいくし、何よりも吊り下がって壁に立つことが全く怖くない。

「降下用意──────────────!」

「降下用意よぉし!」

「降下っ!!」

「降下ぁ──────────────!!」

 ポーンと大きく壁を蹴っりながら、ロープを持つ手の緩急を調整して、宏隆は一回で地面にフワリと着地した。
 
「ふむ、初めてにしては中々上手いものです。運動神経が優れているというよりは、きちんと意識の制御ができるのだと思えますね」

 エイト環からロープを外している宏隆に向かって、雷(らい)士官長が感想を述べた。

「降下で最も大切なのは、右手のグリップの緩急と、壁を蹴るタイミングやチカラをバランスよく、冷静に行えることです。ヒロタカさんはもう、次のステージで訓練を始めても良いと思います」

「雷士官長・・ぼくはコードネーム ”クラマ” ですよ────────────」

 少し微笑みながら、宏隆が言った。

「・・あ、つい本名でお呼びしてしまいました!」

「それに、自分はこの訓練場にご厄介になりに来た訓練生ですから、どうか他の隊員と同様に、厳しく扱って下さい。また、自分のような若造に丁寧な言葉もご無用です。右も左も分からないリクルート(Recruit=新兵・新米)の一人として厳しくご指導いただければ嬉しく思います」

「あはは、やっぱりね───────────────」

「 ”やっぱり” と、言われますと?」

「実は昨日、ヒロタカさんの扱い方について、王老師に伺ったのです。
 ヒロタカさんは隊員たちの尊敬を集める王老師の拝師弟子ですし、同じく玄洋會の重鎮であられる加藤光興(みつおき)先生のご子息です。今回は戦闘部隊のカリキュラムを消化するために此処に来られたわけではなく、個人的に宗少尉に特別訓練を指導されているかたちでこの訓練場を利用されているわけですから、そのヒロタカさんをどのように扱えば良いのか少し迷ってしまって、王老師にご相談申し上げたのですよ」

「そうだったんですか・・・」

「すると王老師は、何も心配ない、何でも良いから好きなように扱ってごらん、どれほど厳しくしても従(つ)いて来るし、加藤家のお坊ちゃまとして持ち上げても、反対に彼の方からそれを正してくるから、と仰って笑っておられました」

「お気遣い、ありがとうございます─────────自分はそれほどの人間ではありませんが、王老師にそう言って頂けるのは嬉しいです」

「試すような事をして失礼しました。これからは玄洋會の新米隊員の一人として、他の隊員同様に扱わせていただきます、よろしくお願いします」

 雷士官長がそう言って頭を下げようとしたので、慌てて宏隆は敬礼をして言った。

「ありがとうございます、改めて、どうぞよろしくお願いします!」

「では、次は30分後に、第2ステージで訓練を行います。そこからは私に代わって、降下訓練の教官である潘(パン)曹長が指導にあたります」

「イエッサー!!」


 30分間の休憩をはさんだ後、いよいよ訓練塔に上る。

 第2ステージと呼ばれる高さ10メートルのステージは、訓練塔のちょうど中間に位置しており、塔の降下面には上下2メートルほどの開口部が設けられている。
 この空間は、塔の最上部から降下する際に、鎧戸(よろいど)を閉めて壁面を平らにすることが出来るようになっており、鎧戸が開いている時はこの空間を避けて降下したり、反対に鎧戸を小さく開けた空間へ侵入する訓練を行うこともできる。

 10メートルの高さというのは、マンションの四階の床くらいの位置に相当する。
 手摺りも何もない降下口から下を覗けば、自分の身長もプラスされて、最上部の第1ステージとあまり変わらない高さに思えてしまうほどである。

「私は教練を務める潘(パン)だ─────────────これから行う ”Hang(ハング)” は、すべての降下方法の基本となる重要な技法なので、よく覚えるように!」

「イエッサー!」

 教官の潘曹長がステージに上ってきて言った。坊主頭の小柄な人だが、きりりと引き締まった筋肉質の体で、浅黒い肌に目つきが鋭く、見るからに精悍そうな人だ。
 宏隆を他の訓練生と同様に扱うよう、雷士官長から言い渡されているのであろう。宏隆に対する言葉が厳しい命令口調になっている。

「良いか!、懸垂下降、ロープ降下と聞けば凄いことのように思えるが、技術的には極めて簡単な、バカでもできるようなテクニックだ。特に高度なことでも何でもなく、慣れれば誰にでもできる。しかし、ミスをすればグランドフォール(地面まで墜落)して、確実に死んでしまうのだ!!
 現に、軍隊で新兵が訓練中に落ちる事故は後を絶たないし、名のある登山家も何人も懸垂下降のミスで命を落としている。如何に簡単に思える技術も、どのような容易な訓練も、決して甘く考えることなく、自分を過信せず、常に細心の注意を払って行うことが大切だ。
 そして、そのような注意深さこそが、実際に敵とわたり合った時に自分が生きて帰れること、無事に生還することにつながるのだ──────────分かったか?!」

「イエッサー!!」

「よし、では先ずハーネスを装着して、キャラビナとフィギュア・エイトを着けろ!」

「イエッサー!」

 カラビナは英語圏ではキャラビナと発音し、エイト環はフィギュア・エイトと呼ばれる。
 潘曹長はそれらの降下用具を正しい英語の発音で呼んだ。

 訓練生から ”テラス” とも呼ばれるステージの上で、休憩時に取り外したハーネスを再び装着し、しっかりベルトを締める。
 それらの降下具には、ハーネスへの取り付け方やロープの通し方など、すべて正しい扱いが決められている。潘曹長の言うように、扱いが簡単ではあっても甘く考えず、それらをきちんと習得しておかなくては、即ち生命に係わってくるのだ。

「よし、次はフィギュア・エイトを外して、そこにロープを装着する!!」


 ステージの中ほどに、降下ロープの支点となる金属製の太いバーがある。
 訓練生は、そこにセットされているロープを自分のエイト環に装着する。

 一度着けてセットしたものを、どうして再び外してロープを着けるのかと、普通の人は思うかもしれない。それなら最初からエイト環にロープを通し、それをハーネスに着ければ良いではないか、と・・・

 しかし、それは違うのである。
 装備は、常に自分の側から整えて行くのが正しいのだ。それが面倒だから、この方が効率が良いからと勝手に考えて適当なことをしていると、イザという時、肝心の戦闘時には何の行動も出来ない人間ができ上がってしまう。

 太極拳でも、他の武術でも、すべては同じことなのだと宏隆は思う。
 すべては ”己の側” を整えることから始まるのであって、他を律したり操作したりすることから始められたりはしない。高度に完成された武術は、自己の在り方を差し置いて相手を制することに躍起となるような庸劣な技術ではない。
 だからこそ、太極拳には己を端正に整えることで漸(ようや)く見え始める基本があり、科学として構造を観ることで解き明かされる原理があるのだ。


「イエッサー!!」

「ふむ、もうだいぶ慣れてきたな。では、それをキャラビナにセットし、スクリューゲートを確実にロックして!」

「イエッサー!」

 カラビナには多くの種類があるが、ここで宏隆が使っている物はカラビナのゲートが容易に開かないように、スクリュー式の安全環が付けられているタイプのものである。

「よし、次は訓練塔から身を乗り出す。先ずロープを下に落とすが、大声で ”ロープ投下!” と声を掛ける。やって見せるから、続いて同じようにやれ」

「イエッサー!」

「ロープ投下ぁ!!」

 降下口から下を覗いた潘曹長がそう声を掛けると、下で誰かが「ロープ投下よしっ!」と返答してくる。宏隆もそれを真似て声を掛け、降下具に装着したロープを投下した。

「よし、次はいよいよ降下をする。私の隣に立って、私が行うのと同じようにしっかり真似をして、一緒に下まで降りて行くのだ」

「イエッサー!!」



                                (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第117回の掲載は、9月1日(日)の予定です

taka_kasuga at 23:11コメント(16) この記事をクリップ!
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