*第101回 〜 第110回

2013年02月15日

連載小説「龍の道」 第105回




第105回  鞆  絵 (ともえ)(3)



 紅い華門、叉焼(チャーシュー)を焼く匂い、行き交う人々の喧騒、所々からヌウと顔を出す京劇の面、豚まんの店にできる長い行列・・・いつ来ても、南京町は変わらない。

 もう何度、ここに通って来たことか。 
 地下に隠された秘密結社の施設────────────世界中からやって来る観光客で賑わう神戸の南京町の、多くの人が行き交う通りのすぐ下にこんな施設があるとは、いったい誰に想像ができるだろうか。(編註:龍の道・第6〜7回「南京町」の章を参照)

 宗少尉と共に「祥龍菜館」の入口を潜る。
 宏隆はドアを開けると「お早うございます」と声を掛け、従業員たちもバイト生を迎えるように気軽に対応する。ここは世界各国の賓客も訪れる、よく名の知られた高級広東料理の店であるが、実は秘密結社が経営する中華飯店であり、その収益は宏隆が台湾渡航に使った「大武號」などが籍を置く海運業や、台北の「白月園」という大手クリーニング会社と共に結社の貴重な収入源となっている。

 いつものように、店の通路の突き当たりにある、「RESERVED」という札のかけられた窓の無い小さな個室に入り、内側から鍵を掛けて、奥の壁をドンドンドンと三回叩く。
 しばらくすると壁際の大きな飾り棚が音も無く動き、壁の一部が扉の形にポッカリと開いて、薄暗い地下へと続く鉄の階段を下りる。
 K先生に連れられて初めてここへ来た時には、これらの仕掛けに本当に驚かされたものだが、今ではもうすっかり慣れてしまった。

 狭くて急な鉄の階段を下りきって、ほのかに胡麻油の匂いが漂う、曲がりくねった細い通路を歩き、一番奧の「11」というナンバーが記された重い鉄の扉を合い鍵で開けて射撃場に入る。地下施設の部屋は、どこに入室するにも鍵が必要で、宏隆は幾つかの合い鍵を渡されている。
 扉を開けるとすぐにもうひとつ鉄の扉があり、四つのダイヤルが並んだプレートがある。今度は鍵の代わりに、そのダイヤルをカチカチと回して四桁の暗証番号を合わさないと扉は開かない。まるで金庫室に入って行くような念の入れようである。それに最初の入口の所は無論、二番目の扉の頭上にも監視カメラが付けられていて、誰が来たのかをチェックされている。
 宏隆は「5286」と合わせて扉を開けた。この数字はカトウという名の暗号数である。警戒が厳重なのは、この部屋が射撃場という理由ばかりではなく、拳銃からライフル、マシンガンに至るまで、数多くの銃器がここに保管されているからでもあった。

 扉の中に入ると、射撃のブースが四つ並んでいる。的までの距離は、ざっと20メートルほどもあるだろうか。


「さて、何から始めるんですか──────────────?」

 宏隆は逸(はや)る心を抑えて宗少尉に訊ねた。やはり男の本能と言うべきだろうか。
銃を撃つときにはいつも興奮気味になってしまう。

「モチ、最初は ”講義” からよ。そこのソファにお座わンなさい!」

 宏隆の期待とは反対に、教練役の宗少尉はちょっと厳しい声でそう言った。

「・・え、ひたすらガンガン撃つから ”ガン” って言うんじゃないの?」

「バカ言ってるんじゃないの。何をやるにも、先ずは心構えからでしょ?、陳中尉に何をどれほど教わってきていたとしても、ここで教えるのはこの私、すべて私の指導方針でやっていくからね」

「そうでした、よろしくお願いします!」

 もちろん宏隆には、銃の訓練となればともかく早く撃ちたいというような、そんな軽薄さは微塵も無い。物事に向かうために必要な心身の状態を整えることについては、家庭でも、K先生の道場でも、しっかり厳しく教わってきている。宗少尉も、宏隆がそうであると承知の上で念を入れて諭しているのである。

「ヒロタカの射撃は、白月園の訓練場で少し見せてもらったことがあったけれど・・」

「はい、行き掛かり上、そこに居た ”強さん” と勝負をするようなことになってしまって。
 ・・あ、そうだ!、たしかあの時に、午後はタクティカル・シューティングの練習をするっていう約束でしたよね────────(編集部註:「龍の道」第49回参照)」

「そうよ、思い出した?、だけど残念ながらその夜に、ヒロタカはホテルから綁架(拉致)されてしまったのよね」

「うーん、もっと早くから宗少尉にキチンと指導を受けていたら、あんなふうに拉致されなかったかもしれなかったのになぁ!」

「アホ言わないの。命あっての物種、あんな目に遭って、助かっただけでも有り難いと思いなさいよ、ホント・・・まあ、タクティカル・シューティングもいずれ教えるけど、先ずヒロタカが何を学んできたかを教えてほしいわね。陳中尉と行った射撃の学習はどのようなものだったの?」

「始めは、銃を扱うための ”四つの基本ルール” から教えて頂きました」 

「じゃぁ、それを言ってみて・・・」

「はい。第一は、すべての銃は実弾が装填済みのものとして扱うこと。第二は、如何なる場合でも自分が破壊しようとするもの以外に銃口を向けないこと。第三は、銃を撃つ直前までは必ず安全装置をオンにしておくこと。第四は、実際に銃を撃つ瞬間までは決してトリガー(引き金)に指を掛けないこと──────────────以上です」

「よく覚えているわね。あれ以来、銃の訓練をしていないはずなのに、それがスラスラ出て来るところを見ると、ヒロタカは常にそれを意識していたということね?」

「はい、そのとおりです・・・」

「では、射撃の訓練に於いて、最も重要なことは何だと思う?」

「陳中尉にも真っ先にそれを訊かれました。射撃訓練では、いかに安全で効率の良い訓練ができるか、ということが最も重要なことです」

「ふむ、良く分かってるじゃないの・・・で、そのあとは何を教わったの?」

「その後、ブースで射撃訓練をする際の注意点を教えて頂いて、陳中尉がベレッタM92を手にして、実際の銃の撃ち方のお手本を見せてくれました」

「それを見て、どう思った?」

「はい、陳中尉にものすごい ”武術性” を感じました。拳銃というよりは、まるで槍を持って標的に向かっているような気迫が感じられて──────────────ヨーロッパではピストルは ”短剣” という意味なのに、中国では拳銃を ”手槍” 、ライフルを ”歩槍” と呼ぶ、ということを思い出しました。それは士林の夜市で宗少尉から教えて頂いたことですが」

「ふむ、よく覚えていたわね。それから?」

「陳中尉が銃弾を十発ほど撃った後で、銃を持つときの ”構え” について教わりました。
アソサリーズ(アソセレス)スタンスと、ウイーバースタンスです。その日はアソサリーズでの構え方を教わり、銃の持ち方についても丁寧に指導されました」

「実際に撃ってみて、どう思った?」

「銃を正しく撃つためには、正しい取り扱いの方法と、正しい持ち方、正しい立ち方が必要であると感じました。立つ位置と架式の正確さ、それに伴う構造の動きとはたらき・・・・太極拳を学ぶために重要なことと、何も違わないのだと思いました」

「なるほどね、さすがは陳中尉、基本となる事はきちんと教わったようね」

「それじゃ、さっそく実地訓練と行きましょうか!」

「はは、残念でした。これからやっと講義が始まるのよ!!」

「えーっ、何の講義をするんですか?、銃の歴史や種類なんか覚えても、実戦には役に立ちませんよ・・・」

「あのね、銃を所持しようとする人が初めに知っておくべきは、この世界には ”銃の社会” が存在する、というコトなの。その講義をするのよ」

「銃の社会─────────────?」

「ほらね、そんなコト、考えたこともないでしょう?!」

「はい・・・・」

「日本では、銃を持てる人は警察官か自衛官、海上保安官、入国警備官、麻薬取締官、税関職員などに限られているわよね。つまり、法律で一般人の銃の所持が厳しく制限されているワケでしょ?」

「そうですね。一般人が合法的に持てる銃は幾つかありますが、基本的には狩猟用の散弾銃に限られていると思います」

「ところが、たとえば日本の同盟国アメリカでは、憲法で ”市民が武装すること” が基本的に認められているのよ」

「ええっ─────────────────!?」

「何も驚くことじゃないわ。アメリカが銃を認める国だってことは知ってるでしょ?」

「けれど、あらためて ”市民の武装” が憲法で認められていると言われると・・・やっぱり、日本とはずいぶん考え方が違うな、と思います。単に銃の所持が認められている、というのではないんですね」

「まあ、日本人には ”市民の武装” という言葉は耳慣れないでしょうね。そもそも日本の武器規制は、百姓一揆を防止する目的で豊臣秀吉が実施した ”刀狩り” に始まっているワケよ。
 江戸時代になると、幕府と諸藩が ”鉄砲改め” をやって、武士だけが鉄砲を所持できるようにし、他の身分は猟師の鉄砲と、農作物を荒らす鳥獣を追い払う為の威し鉄砲に限って所持を認めたの。
 明治時代になると銃の所持が許可制になり、第二次大戦後は私立探偵が銃を持てたり、退役軍人が記念品として所持することも認められていたのよ。1945年からは敗戦の混乱に乗じて日本軍から盗まれた軍用銃が大量に市場に出回った。これは左翼や朝鮮系チンピラヤクザの暗躍も大きかったけどね。翌1946年(昭和21年)の政令で、狩猟用の銃を除いて民間人が銃を所持することは禁止され、その後も改正を受けながら現在に至っている、というワケね・・・」

「宗少尉、中国の歴史だけではなく、日本の銃の歴史についてもすごく詳しいですね!!」

「当たり前でしょ、これが正統派スパイのインテリジェンスってものよ」

「なぁーに言ってンだろ────────────────」

「・・ン、なんか言った?」

「いいえ、どうぞその先をお続け下さい」

「アメリカも州によって銃規制がいろいろ異なるけれど、オハイオ州なんかは、走っているクルマの5台に1台はダッシュボードに拳銃が入っているというし、銃を保有していない一般家庭はほぼ皆無というからスゴイでしょ。ダッシュボード以外にも、寝室には38口径を置いて、奥様のハンドバッグには22口径が一丁、旅行に行くときにはクルマのトランクにライフルを一丁積んで行く。それを合法的に行えるというわけよ───────────────」

「うわぁ!・・アメリカでは、銃はどこでも買えるんですか?」

「これも州によって違うけど、アメリカでは銃はスーパーマーケットでも売っていて、基本的には身分証明書さえあれば誰でも買えるわね。アメリカじゃ体育館の十倍ぐらいスペースがある所で、ナイフや拳銃、ライフル、マシンガン、大きな機関銃やバズーカ砲まで、ありとあらゆる武器が所狭しと置かれるスペシャルセールが頻繁に開かれたりしているし、一般市民向けの射撃場なんか、ボーリング場の数よりも多いほどなのよ。そんなコトは日本では絶対に有り得ないでしょ!」

「考えられませんね。でも、そんな催しは一度見てみたい気もします。アメリカでは銃の値段はどのくらいするんですか?」

「中古だと、オートマチックの拳銃が150ドルくらいかな。リボルバーだと100ドル程度、ライフルはハンドガンより安くて、80ドルくらいからあるわね。新品はその二倍から三倍の値段だと思えば良いわ。銃弾なんかどこでも安く売っているし。まるでタバコを買うような感覚で買えるのよ。Kマートでは歯ブラシや剃刀の隣に置いて売ってるくらいだからね」

「わぁ、手軽に買える値段なんだ。ぜんぜん感覚が違いますね」

「でもね、面白いのは武器そのものじゃなくて、その国の人たちの ”考え方” なのよ」

「と、いうと・・?」

「アメリカで、ごく普通の町の射撃場に行ったことがあるんだけれど、そこで父親と母親が中学生くらいの女の子に手取り足取り、拳銃の使い方を一生懸命教えていたのよ。たっぷり時間をかけて丁寧に基本を教えて、その後で実際の射撃に入って、30分もするとその子が良いフォルムで何十発もガンガン撃ちまくれるようになったわ。別の日にも高校生くらいの男の子が父親に連れられて来て、すぐ隣のブースで2時間も練習していたしね・・・」

「すごい、それこそ日本じゃ全然考えられないことですね!、親子でボウリングなら分かるけど、親子でシューティングかぁ・・・それも中学生の女の子が!?」

「要するに、彼らは自分の身を守る為には、銃の扱いをマスターすることや銃を所持する事が ”必要なこと” だと考えているのよ。そして、銃の存在がどうであるか、良いとか悪いとかいう問題を抜きにして、日本人にはそのような意識がまるで無い──────────」

「ああ・・・・」

「この国では銃どころか、ナイフでさえ刃渡りが何センチ以内でないと所有できないとか、キャンプや登山など、明確な目的がないと不法所持になるわけでしょ。世界でそんな国は珍しいわね。アブナイ物を取り締まるのではなく、アブナイ人間を取り締まるのが法律というものでしょ。一般市民に銃やナイフを危険極まりないモノとしてアレルギーを植え付けるようなマスメディアの報道姿勢には、何だか隠された意図さえ感じられて不気味ね。
 それだと鉛筆を削るナイフさえ持てないようになってしまう。マッチで火を点けられない子供や、ナイフで鉛筆を削れない子供が増えるはずよね。危ないから持たせないのでは、何が危ないのかも認識できないんじゃないかしら。射撃をスポーツとして広く認め、犯罪者や精神異常者の手に武器が渡らないことを法律で規制するならともかく、何でもかんでも危険だから徐々に無くしてしまえば良いだろうというのは、文化としてもどうかと思うけど」

「ちょっと話はズレますけれど、かつての日本には ”仇討ち” とか ”敵(かたき)討ち” というのがあって、主君や親兄弟を殺した相手を討ち取って恨みを晴らすということが行われてきたんです─────────────────」

「オー、仇討ちは世界に名高い ”赤穂浪士” ね。あのようなコトは日本特有の文化ゆえでしょうね。仇討ちは歌舞伎や浄瑠璃でも主題としてたくさん取り上げられているようね」

「そう、”仇討狂言” なんて言いますよね。日本では三大仇討ちとして、赤穂浪士をはじめ、曾我兄弟の仇討ちや荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘があるし、小説では ”恩讐の彼方に” や、 ”南総里見八犬伝” 、民話の ”さるかに合戦” なども仇討ちを題材にした話なんです。K先生が仰るには、仇討ちで最も古いものは西暦456年の ”眉輪王(まよわのおおきみ)の変” で、日本書紀に書かれているのだそうです」

「それはすごいわね。日本書紀に仇討ちの話があるなんて、初めて聞いたわ!」

「時代が下がって江戸幕府では仇討ちが法制化され、主君の免状や奉行所へ届け出があれば認められました。主君や親族のカタキでなくても、女房が姦通した際には女敵討ち(めがたきうち)といって、不倫の相手と妻本人を殺害することは武士の義務とされました。けれども、やがて明治時代になると、政府は ”復讐ハ厳禁ス” と政令を発し、以来、仇討ちは禁止されてしまった─────────────────」

「うん、ヒロタカの言いたいことは何となく分かるわ。復讐することの善悪は兎も角、そのような気持ちが認められるような世の中は、今よりももっと個人の尊厳が重視されていたはずだと・・そう思うんでしょう?」

「そのとおりです。アメリカの銃社会はきっと色々な問題を含んでいるのでしょうが、少なくとも現代の日本人のように、基本的に自分の敵は誰か別の人が守ってくれる、警察や軍隊が守ってくれるんだ、なんて誰も思っていない・・・・自分の身は自分で守る。自分の愛する人は自分が守るのが当たり前。自分が生まれた愛すべき祖国も自分たちで守る。そういう意識を日本人よりも基本的に遥かに強く持っているんじゃないかと思えるんですよ」

「それゆえの、銃社会ということなのでしょうね、アメリカは・・・・」

「そう、新世界と呼ばれた北米大陸に渡って来て、西部開拓でインディアンと闘って土地を自分たちの物にしてきたという歴史もあるんでしょうけれど、基本的には彼らは自分の身は自分で守るという意識が徹底しているわね。フロンティア・スピリット、開拓者精神と言って、剛健、忍耐、創意工夫、闘争性、現実性、利己性などが特徴とされるものよね」

「今の日本人には無いもののように思えます。失われたというか────────────────」



                               (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第106回の掲載は、3月1日(金)の予定です

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2013年02月01日

連載小説「龍の道」 第104回




第104回  鞆  絵 (ともえ)(2)



 もうずいぶん長いこと、宏隆は腕を組んで立ち尽くしたままでいる。

 広い庭の芝生の向こうには、爽やかな初夏の陽射しに煌めく海や港が見えているのだが、決してそれを眺めているわけではない。本来なら、傍らの真白いアイアンテーブルで珈琲でも飲みながら、その景色を心ゆくまで眺めていたいところなのだろうが、何やら難しい顔をして突っ立ったまま、せっかくの珈琲が冷めてしまうことにも頓着がないのだ。

 あれから一週間が経つが、神戸に戻ってきてからも、宏隆の頭からは、あの ”見えない動き” が離れない。薙刀の道場で見た師範の動きは、決して七尺を越す長い薙刀を下から振り上げたようには見えなかった。けれども、師範を打ちに行こうとした瞬間、すでに珠乃は首を薙ぎ払われていたのである。

 そして、自分にはそれがよく見えなかった─────────────────

 無論、そこには薙刀を扱うための、独自の方法があるに決まっている。
 だが、たとえその方法を詳しく習ったとしても、そのような扱い方が可能となる ”身体の使い方” が出来ていなくては、それは絶対に可能とはならない。八尺を超えるような長い武器を相手に識られぬまま操り、相手が打ち込もうとした刹那に逸早く技を極める、というようなことが、もうすぐ喜寿を迎えるような年齢の老婦人に可能なのは、偏(ひとえ)にその身体操作が高度に確立されているからに他ならない。

 そのことは勿論、同じ武術である太極拳にも共通しているはずだ。しかし自分はその身体の使い方を、まだ明確に掴んではいない。それが今の宏隆の、悩みの種なのである。

 思えば、海軍のリングで宗少尉と対戦した時には、居合の構えで宗少尉と向かい合った。
 少林拳の技で華麗にスピーディに動き回る宗少尉とは対照的に、居合の ”一文字腰” という不動の構えを取ることで勝機を見出そうとしたのである。
 そして、その ”間合い” の中には、自分が求めて止まなかった ”ある感覚” があった。

 また拝師入門式の直後には、地下訓練場で陳中尉と手合わせをしてもらい、散々翻弄された挙げ句、「それでは正反対だ」と王老師に指摘されたのをきっかけに、無意識の裡に、それまでの自分とは全く反対の ”変化” が出た。
 その結果、陳中尉は体を弾ませながらコマのように回転して、数メートルも飛んでいったのである。     
           (編集部註:「龍の道」第66回〜第77回「構造」の章を参照)


 それが順身、つまり日本の武術で言うところの、”順体” の原理によるものであることは、自分にも分かっている。
 いや、正確には認識だけはしている、と言った方が良い。未だそれは深い理解によるものではないし、学問的、科学的な理解などといったものにはほど遠い、多分に感覚的なものに過ぎないからだ。

 それでも、順体の原理が ”動き” ではなく ”変化” であると言うことは分かってきた。
 王老師に「構造は動かすものではなく、自然に変化するものだ」と教えられ、それを理解するためには ”どのように立つか” が重要であること、それも、見た目の形を上手く真似て立とうとするのではなく、”立つという在り方” の中で調整し続ける訓練、つまり ”站椿” がどうしても必要になるということも、今では実感として理解できる。

 要は、正しい原理や、それに伴う法則を自分のものにして身体を常に使えるように、その原理でしか動けないような、その法則でしか動けないような身体にならなくては高度な武術にはならないのだ。真正な原理と遵(したが)うべき法則を会得することこそが、何十年という歳月を費やして武術を修練することの意義なのである。

 宏隆はいつも、王老師に台湾で言われた言葉を思い出す。
 
『法則とは、すなわち拘束であり、束縛ということに他ならない。そして、従うべき揺るぎない法則とは、ひたすらそれに順(したが)ってこそ、大いなる法則としてその妙を得られるのだ。その法則の中に身を置き、法則に雁字搦めに拘束されて、ついには法則そのものになる事こそ、その法則を十全に使えるようになる唯一の道なのだ』

 けれども、その ”法則” とは何であるのか─────────────────

 その答えが時々ふと、雲間の月のように見え隠れするときがあるが、今の宏隆には余りにも漠然としていて、その実体がよく分からない。
 
 至高の武術とは、「絶対的な原理」を持つからこそ、至高と言えるのだと思ってきた。
 必殺技などというものではない。武術には必殺技など、決して無いのだと思う。
 小説やマンガの世界では、主人公が必殺技を使って敵を次々に倒していくが、実際の戦闘ではそんなことは有り得ない。個人の得意技はあっても、この武術ではこれが必殺技になるなどということは有り得るはずが無いと思える。
 高度な武術というのは、そんな事とは全く関係の無いところで、 ”ただこうするだけ” のものであり、”こうすればこうなる” という世界なのである。互いに対等に打ち合えたり、斬り合えるのではないのだ。ただひたすら、一方的に手玉に取り、こちら側から一方的に打ちのめし、斬ることのできる術理──────────────

 だからこそ、至高の武術原理と言えるのだ、と宏隆は思う。

 そのことは既に王老師や陳中尉に散々見せつけられ、体験させられてきた。
 そして今回もまた、老婦人の薙刀の術理に同じものを観たのである。


 それを可能にするものは、”順体” と言われる身体の在り方や用い方であることは、もはや疑いようもない。

 しかし、その順体を、どうやって手に入れれば良いのか──────────────


「・・・そ、そうだ!!」

 宏隆は、ある大切なことをすっかり忘れていたことに気が付いた。

「あの歩法だ!、あの歩法を忘れていた・・あれをやらなくちゃいけなかったんだ!!
 薙刀どころじゃないぞ、余所の術理を気にしているヒマなんか無い、自分が教わったことにもっと深く入って行かなくては──────────────────」

 ”あの歩法” とは、拝師入門式のすぐ後で、「白月園」の地下訓練場で王老師の後ろに従いて歩きながら見た、あの奇妙な歩法である。訓練場の中をわずか二、三回往復しただけに過ぎなかったのだが、あのとき、王老師の背中を見ながら一生懸命それに合わせて歩いたことは宏隆にとって掛け替えのない貴重な経験となった。

 あの歩法のおかげで、身体の ”左右” についての考え方が全く違っていたことが、そのときに分かったのである。宏隆が知る左右とは、”左右が存在しているひとつの機能” ではなく、 ”ひとつの物の左側と右側” でしかなかったことが分かったのだ。

 宏隆には、それはまるで竹馬と梯子(はしご)の違いのように思えた。
 自分は竹馬に横棒をつけて梯子のように構造を作り、その横棒に乗って巧く左右の脚を前に出すことが歩法だと思えていたのかもしれない。しかし、後ろに従いて見た王老師の歩法は、竹馬で喩えれば、まるで下駄でも履くように軽々と竹馬で歩ける人のようであった。
 そして、その認識を大切にして、王老師に従いて歩いている感覚を取り続けたおかげで、散手ではだんだん陳中尉が崩れるようにまでなってきて、遂には宏隆の出した拳に中尉が尻もちをついて転がることにさえなったのである。

 宏隆が強くなったわけではない。原理を得るというのは、そういうことなのである。
 原理さえ得られれば良いというわけでは無いが、原理が得られなければ、どれほどの努力精進を重ねても、何の実りにもならないのだ。

 宏隆が王老師に教わっていることのすべては、その ”原理” と直結していた。


「嗚呼、何てバカなんだ、こんな大事なことを忘れているとは────────────────」

 日本に帰ってから、何故この歩法を研究しようとしなかったのか。

 祖母が倒れた報せを受けて父と共に急ぎ帰国し、二ヶ月ほど経って宗少尉がやって来て、茶室からの帰り路にナイフを投げつけられて以来、パラシュートの降下訓練や、テキ屋の不良学生との乱闘・・・素人の集団に押さえつけられ、クラスメートの珠乃を連れ去られた屈辱を味わって、そして、思いもよらぬ中国の実情を聞いたインテリジェンスの講義・・・・

 そんな忙しい日々の中で、心ならずも自分に与えられた課題の研究を疎かにしてしまったのだと宏隆は後悔し、深く反省をした。

 宏隆は、脚を揃えて直立すると、スッと片足を横方向に出して構え、やがてゆっくりと芝生の上を歩き始めた。王老師が示した、一見奇妙にさえ見える、あの歩法である。

 身体に構造変化が起こらなければ、王老師のような歩き方は絶対に出来ない。
 こんなふうに動かせばよかろうと、筋肉を多用した運動で誤魔化していると決して正しい架式にはならないし、”順体” を理解することなど、夢のまた夢になってしまう。


 一歩一歩を、丁寧に歩く。

「王老師は、これこそが心意拳の原理で、陳氏はその至宝を取り入れたと言われたな・・」

 王老師に言われたことを思い出し、確かめるように一歩ずつ大切に歩く。

「そうだ、これは順体そのものであり・・・
 順体とは、変更できない、固定された身体のことだと仰っていた・・・・」

 
 順体 ──────────────


 Immovable Body ──────────────


 それは、変更できない、固定された、動かせない身体のことである。

 そして、その固定された、拘束された身体に吾が身を委ねるがゆえに、そこからの法則もまた、生まれてくるのだ。



           ◇      ◇      ◇



「ずいぶん精が出るわね─────────────────」

 無心に芝生の上を往復することを繰り返して、ちょうど片道を終え、折り返して再び進むために一度直って呼吸を整えていると、向こうから誰かが宏隆に声をかけた。

「あ・・おはようございます」

 慌てて挨拶をした相手は、去年の秋からこの屋敷に泊まり込んでいる宗少尉である。

「いいのよ、続けてね。訓練の邪魔をして、ごめんなさい・・・」

 宗少尉は、大きな楠(くすのき)の傍らに置かれたアイアンテーブルのところで、長い足を組んで椅子に腰掛けている。

「うわ、もうこんな時間か。ちょうど限りにして、一休みすることにします」

 腕時計を見て驚いた。
 この歩法を始めてから、もうかれこれ2時間が過ぎていたのだ。

 ひとたび何かに夢中になって集中すると、誰が側に来ようと、声をかけようと気がつかないし、時間がどれだけ経っているかも全く分からない。
 宏隆にはそんな事がしょっちゅうあって、部屋にいるときに英惠(ハナ)が珈琲を持ってきてくれても何も気付かず、気がつくと机の端に冷たくなった珈琲カップが置かれている、ということもよくある。

「珍しいカタチの歩法をやっているのね──────────────」

「ええ、入門式の後で少し王老師に教えて頂いたのですが、何やかやですっかりこれを忘れてしまっていて。ついさっきそれに気がついて、反省してずっとやっていました」

 そう言いながら、宗少尉の居るところに戻ってきて、椅子の背に掛けてあったタオルで汗を拭く。

「さっき英惠(はなえ)さんが来て、そのタオルを置いていったのよ。ヒロタカはまったく気が付かないみたいだったけれど」

「ええ、僕は何かをやり始めると、周囲のことが何も目に入らなくなるという悪いクセがあるんですよ」

「この家に居ると至れり尽くせりね。ちょっと庭で訓練をしていると、メイドさんがサッとタオルを持ってきてくれる。ご丁寧に、水差しとコップまで置いてあるわ──────────」

「僕はどうでもいいんですけどね。ただこの家がそういうスタイル、というだけで」

「世話をして貰っても、もらわなくても、ヒロタカは変わらないということ?」

「そうですね。むしろ僕なんかは、本当は独りの方が気が楽なのかもしれない・・」

「それじゃ、ジャングルの奥地で、何日も単独行動を取るのも、平気かしら?」

「ジャングルは行ったことが無いですけれど・・・虫除けのクスリさえあれば、メイドが居なくても何とかなるかもしれませんね。これがほんとのメイドの土産、って・・・」

「あはは、加藤家の人はみんなユーモアがあるわね。中国人にも、そんなユーモアが理解できたら良いのにって、いつも思うわ」

「中華民族にはユーモアが無いんですか?」

「あるわよ・・超級市場(スーパーマーケット)に行って、さんざん並んで、入口でカバンを預けて、さあ、お目当てのティッシュペーパーの箱を幾つか買って、帰ってからいざ使おうと思ったら、たったの二、三枚しか入っていない・・上げ底だったってコト!!」

「あはは、すごいユーモアですね。本当にそんなことがあるんですか?」 

「まあ中国では日常茶飯事かもね。でもそれは自分が騙されて買ったんだから、自分が悪いってことになるワケ。注意深く、これは本当にたっぷり入っているティッシュかと、確認して買うのは自分の責任というコトね」

「うーん、世界は広いというか、何というか・・・あちこち、世界中を独りで旅してみたいなぁ。いろんな人と出会って、いろんな目に遭ってみたいです」

「台湾ではすでに、ひどい目に遭ったわね・・・いつだったか、ヒロタカに言ったけれど、そのうち嫌でもアメリカに行ってもらうことになるみたいよ」

「アメリカに?・・・ああ、そう言えば──────────────」

「日本には、可愛い子には旅をさせよという格言があるでしょ。張大人と王老師は、ヒロタカに旅をさせたいみたいね」

「それは望むところですが、まだもう少し学校に通わなくてはなりませんし・・・」

「もう三年生よね。卒業してからの進路は?、あなたはお兄さんのタカノリみたいに、大学に行って勉強をしたいの?」

「それが、今になっても何も決まっていないんです。担任の教師からも毎日のように言われるんですが、ぼく自身、全然進学する気が無くて──────────────」

「じゃあ、ちょうど良いかもね・・・」

「何がちょうどいいんですか?」

「あ、こっちのハナシよ、気にしない、気にしない!」

「またぁ、また何か、ぼくの知らないところで企んでるな・・・?」

「企むなんて、人聞きの悪い。すべては貴方のことを考えてのコトよ!」

「ふーん、どぉだかなぁ─────────────────」

「さて、そのヘンテコな歩法が終わったんだったら、基地に来る?」

「ああ、良いですね。秘密結社にはウィークエンドも、休日も何もないですからね。
 ♬ 月月火水木キンキン、と・・・それで、今日は何をやるんですか?」

「私が神戸に居るあいだに、ヒロタカの銃と格闘の訓練を熟(こな)さなきゃいけないわ」

「銃は久しぶりです。何とか撃てるようにはなりましたが・・・」

「そんなもんじゃ駄目なのよ。陳中尉が教えてくれたのは、銃のイントロダクション。
あれはまだ、基礎知識にもならない程度のものだと考えなきゃダメよ」

「・・え?、あれで基礎にもならないの─────────────────」

「そうよ、あれはただ、銃というものに弾を込めて撃っただけ。それで精々ちょっと中るようになっただけのコト」

「銃を扱うのに、それより他に何があるんですか?」

「山ほどあるわよ。教えてあげるから、いっしょに来る?」

「はい、すぐに仕度してきます!」


                               (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第105回の掲載は、2月15日(金)の予定です

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2013年01月15日

連載小説「龍の道」 第103回




第103回  鞆  絵 (ともえ)(1)



「イヤァーアアッッ──────────────!!」

 静謐を破って、裂帛の気合いが堂内に谺(こだま)する。
 気合いには空手や剣道のような派手さはなく、むしろ控えめでさえあるが、腹の底まで染み込んでくるようなその響きは、スポーツ武道よりもかえって重厚に感じられる。

 百畳敷きは優にあるだろうか、格子に組まれた天井は高く、天窓からは戸外の新緑を透かした光が幾条(いくすじ)も射し込んでいる。永い歳月を経てよく磨かれた黒光りの板の間は水面のように、向かい合う二人の人間の姿を閑かに映し出している。
 こんな古めかしい道場が百万都市の町の真ん中にあること自体不思議だが、今この眼で観ている光景も、これまでに見たことのない武術の動きなのである。

 二十人ほどの門人たちが粛然と居並んで座るその板の間の、少し離れた処に正座をして、宏隆は固唾を呑みながら、じっと珠乃の動きを見守っていた。

「不思議な動きだ──────────────」

 心の中で、そう宏隆はつぶやいた。
 去年の秋、護国神社でテキ屋に襲われた時に初めて目にした、刃物で襲ってくる複数の暴漢を庭箒(にわぼうき)であしらった珠乃の武術が薙刀(なぎなた)であると聞いて、以来ずっと気になっていたのだが、昨日、自分が通っている京都の道場へ見学に来ないかと珠乃から誘われ、その稽古を間近で観る機会が得られたのである。

 その珠乃がいま、袴の裾を絡げ、凛として相手と向かい合っている。
 自然光だけの薄暗い道場では面の下の顔が誰であるか見分け難く、対する人の顔も年齢もよく判らない。お互いに面と胴は着けているが、独特の甲手(こて)や脛当(すねあて)といった防具まで装着していて、剣道よりも戦闘的に見える。
 ただ、その薄明かりの堂内では、はち切れんばかりに弾んで見える珠乃の姿よりも、対する相手の周りだけは無風の湖面のように深閑と静まり返っていて、板敷きの床にしっかりと踏まれているはずの足も、まるで水に浮かんでいるかのように、ふわふわと定まりなく立っているように見えてしまう。

 しばらくの間、向かい合ったまま、身じろぎもせず対峙していたが、

 やがて────────────────────

「ィヤァーアアアッッ─────────!!」

 機を掴んでか、珠乃の方が先に動いた。

 長い薙刀の柄を素早く振って足を薙ぎ払いに行くと、その足がフッと消えるように相手が退ってそれを躱(かわ)したので、薙いだその動きを止めぬまま、さらに進んで面を打ちに行こうとしたのだが、
 
「エエェーイッッ!!」

 後ろに退った相手の薙刀が如意棒のように長く伸びてきて、斜め下からやや掬い上げるように珠乃の面を捉え、珠乃はもんどり打って倒れた。本物の薙刀であれば、綺麗に首を刎ねられていたところである。

「勝負あった、それまで!!」

 審判役の小柄な白髭の老人が、腹の底まで響くような声で言った。

「ありがとうございました──────────」

 倒された珠乃が起きてきて、きちんと相手と向かい直して礼をする。
 やがて着座して互いに面や甲手を外すが、相手方は門人が二名ほど駆け寄って来て、その場で面を外す手伝いをしている。面を外したその女性は意外なほど年老いた人で、宏隆を驚かせた。

「なかなか良い動きでしたよ。足が随分軽くなりましたね。その分であれば、年齢さえ審査基準に適えば、昇段もできることと思います。お顔は大丈夫でしたか?」

 その人が、珠乃に向かって優しく声をかけた。

「はい、何ともございません。手加減をして頂き、ありがとうございます」

 床に手を着け、深々と頭を下げて珠乃が言う。

「只今の技では、どのように打たれたのか、よく分かりませんでした。師範が間合いを離れて行かれたように見え、追撃を加えようとしたのですが、その刹那に師範の薙刀が伸びてきて面を刎ねられました」

「それが薙刀の利点というものですね。長くも短くも、遠くも近くも、槍のようにも、刀のようにも使える。それゆえに、どのようにも自在な間合いが得られ、狭い室内でも用いることの出来る武器として、古くから重んじられてきたのです」

 閑かに、そして丁寧に、ひとつひとつを大切に言って聞かせるように、老師範が珠乃に語りかける。だが、閑かとは言っても、決して安寧といったものではない。薄明の道場で虎のように爛々と光る師範の目が、珠乃には何年経っても怖くてならなかった。

「・・はい、その通りでございますが、わたくしは未熟で、そのような間合いを取れるには到っておりません」

「間合いというのは中々難しいものです。薙刀に限らず、普通はどのような武術でもそれを相手との距離、隔たりであると考えているわけですが」

「はい。わたくしも間合いとは相手との隔たりの事であると思っております。先ほども師範が瞬時に間合いを詰めて来られ、普段の間合いを保つことも、急に狭められたその間合いを外すことも出来ませんでした」

「丁度良い機会ですから、間合いというものを勉強なさいませ───────────
 将軍家指南役であった新陰流の柳生但馬守宗矩は、その著書、”兵法家伝書” のなかで、
  ”敵とわが身の間(ま)、何ほどあれば、太刀があたらぬと云ふことをつもりしる也”、
と述べておられます。ここで言う ”間” とは、実は隔たりという性質のものではなく、相手との ”関係性” のことであり、また、互いの関係性として成り立っているものが ”合う” ことを間合いと言うのであろうと、私なりに解釈をしております」

「関係性、でございますか──────────?」

「そうです。たとえ相手との隔たりをその場その場で巧みに調整したところで、相手もまた相手なりにそのような調整をし続けているわけですから、間合いは互いに常に噛み合わず、せっかくの工夫もお互いに空しいものになることでしょう。
 しかし、隔たりというものではなく、相手との間にある関係性を工夫しようとするのであれば、またそれが正しく保たれていること、すなわち ”合っている” 状態であれば、そこで初めて本当の間合いが取れるということになると思うのです」

「そう伺いますと、わたくしの思っていた間合いというのは、単なる距離やタイミングに過ぎなかったと思われます。一体どのようにすれば、その関係性というものが掴めるようになるのでしょうか」

「武藝における関係性とは、もちろんこちらに有利に、相手に不利になるよう調整しなくてはなりません。そうでなければ相手に打ち負かされてしまいます。しかし、有利不利と言っても、始めから有利を得るために行うのではなく、先ずはきちんと相手に合うこと、相手を尊重して相手の軸に正しく合わせることがあってはじめてそれが成り立つのです。お分かりでしょうか?」

「仰ることは分かるような気もいたしますが、未だとても難しく思えます・・・」

「いま解らなくとも良いのですよ。お若いうちはひたすらご修行なさいませ。修練がすべてを教えてくれるのです。人に尋ねても、内容をどれほど丁寧に教わっても、自身の力で気が付くまでは決して自分のものにはなりません。私など、この歳になってもまだ薙刀の持ち方すら思うように出来ませず、情けないやら、恥ずかしいやら・・・ほほほ」

「師範のようなお方でも、そのような事がおありなのですか?」

「師範とは他に向かって範を垂れる立場にありますが、常に他を範として学び続けている学生であることに変わりはありません。道には、終わりが無いからです。どこまで行っても、ただそこに道があるだけで、終点は存在しないのです。道というものは、ただ歩むためにあって、辿り着くために有るのではない。修練の目的は、歩むことそのものの中にあって、何処かに行き着くことにあるのではないのです」

「ありがとうございます・・よく心に留めて、精進いたします」

「それでは──────────────」

「本日は稽古をつけて頂き、ありがとうございました」

 珠乃が姿勢を正し、床に手を着いて深々と礼をすると、師範と呼ばれた女性は閑かに立ち上がって道場を後にした。


                 ◇  ◇  ◇


「・・・いやぁ、すごかったなぁ、珠乃の面を取ったときの、師範の動きが目に焼き付いて離れないよ。とても矍鑠(かくしゃく)とされているけれど、お齢(とし)はお幾つなのだろうか?」

 道場からの帰り道、新緑の木洩れ日の中を、宏隆は珠乃と肩を並べて歩いている。
 珠乃には稽古の余韻がまだ残っているらしく、上気した顔が赤いままでいる。
 京都の町は緑が多い。樹々の間を清々しい風が通り過ぎては二人の顔を撫でてゆく。

「たしか、もうすぐ七十七歳の喜寿を迎えられるはずよ」

「七十七歳?、とてもそんなふうには見えないね!」

「そのお歳で、若い人が束になって掛って行っても掠りもしないのよ。高段者が本気で対戦しても全く敵わないの。武術に年齢は関係ないと常日頃から仰っているけれど、どんな武術に限らず、それを実際に証明できる人は少ないでしょうね」

「そうだね。太極拳でも ”四両発千斤” といって、小さな力で大きな威力を発揮できる事が真髄とされているけれど、本場の中国でも、本当にそれが出来る老師はとても少ないと言われている。正しい理解が起こらなければ必ず拙力が含まれてしまうので、本物の太極拳など滅多に存在しないらしいんだよ」

「セツリョク?」

「ああ、太極拳の術語で、拙い力と書いてセツリョクと読むんだけれど、文字どおり筋力に頼った、力むような拙い力の使い方を指すんだ。太極拳はそのようなリキミを一切使う必要のない、勁力(けいりょく)という独自の力を養っていくんだよ」

「ふぅん、面白そうね。太極拳はそういう高度な力を使う武術だったのね?、ケンカの若大将だった宏隆が、力に頼らない高度な武術を身につけたら、それこそ鬼に金棒でしょうね」

「あはは、身に着けられたらの話だけどね。相当な努力と研究を重ねないと、とても手には入らないと思うよ」

「それじゃ、頑張って精進しなきゃね。宏隆ならきっと修得できるわよ!」

「ありがとう。でも、僕は結構鈍くさいから中々前に進めない。さっきも、せっかく薙刀の稽古を見せて頂いたのに、師範が珠乃に最後に極(き)めた技がどうしても詳しく思い出せない。極めるまでにどう動いたのか、よく見えなかったんだ」

「・・ああ、あれは自分の身体に隠すように、薙刀が使われているのよ」

「隠すように?、あんな長いものが小柄な師範の体に隠れるとは思えないけど」

「向かい合った私の位置からは、薙刀の石突(いしづき=柄の終端)しか見えないのよ。
 師範は私の攻撃を後ろに退がりながら、躱すと同時に薙刀を右脇に抱えて居られたのだけれど、私に向いているのは終端の石突だけ。それがスゥーッと下がっていったかと思うと、急に反対側にある刀身が、床から這い上がってくるようにして私の面を捉えたのよ」

「わぁ、それは見えないな。状況を聞いているだけでも、ちょっと怖いね!!」

「そう、間合いも掴めないのよ。しかも先刻(さっき)は、私が追撃を打とうとしたその出鼻を挫かれる形で綺麗に極められたので、もう、ひとたまりも無かったわ・・・・」


 薙刀(なぎなた)とは、長い柄の先に反りのある刀身を装着した日本古来の武具であり、槍と共に「長柄武器(ながえぶき=柄の長い武器)」の代表として知られている。
 元々は「長刀」と表記されてナガナタ或いはナギナタと読まれていたが、日本刀の長刀と区別するために「薙刀」と表されるようになった。長刀と表わされたとおり、その長さは柄の部分だけで六尺(180cm)、刀身は二尺(60cm)、長いものでは三尺(90cm)もあったと言われている。

 薙刀の歴史については未だ詳しい研究が無いので明らかではないが、奈良時代から平安時代には寺院を守護するために同様の武器が僧兵たちに用いられており、これが日本における長柄武器の始まりではないかとする説もある。
 薙刀は源平の時代に武士の戦闘法として最も活用されたが、その後南北朝時代に入ると槍の登場や、大太刀から発展した長巻(ながまき)と呼ばれるものが戦場で用いられるものとなり、武器としての薙刀は徐々に衰退していく。特に応仁の乱の頃からは、戦闘の主流が隊列を組んで進む足軽による集団戦に取って代わり、振り回して用いる薙刀よりも槍の方が利便性を買われて発展した。さらにその後、戦国時代に鉄砲が伝来すると、長柄武器それ自体が衰退し、薙刀は僧侶や婦女子に限られた武器となり、実戦の武具としては廃れてゆく。

 やがて江戸時代に入ると、武家の婦女子が必須として学ぶ「薙刀術」として栄え、武家の娘の嫁入り道具の中には必ず薙刀が含まれていたと言われ、中には柄に金で家紋を入れ、蒔絵で装飾を施したような立派な薙刀も多く存在した。
 時代劇などでは殿中や城中に於いて襷掛けの腰元が勇ましく薙刀を振るうシーンが登場するが、野戦時のみならず狭い室内でも長柄武器の薙刀を活用できる高度な技術が日本で発達してきたと考えられる。
 近代に於いても、薙刀は明治・大正から戦後にかけて、主として女性がたしなむ武道として盛んに行われており、古武術としての「薙刀術」と、現代スポーツ武道競技としての「なぎなた」とが存在する。
 また、薙刀と大変似ている長柄武器(ポール・ウェポン)はヨーロッパや中国にもあり、スイスの「ハルベルト」、イギリスの「グレイブ」、フランスの「フォシャール」、春秋大刀・青龍大刀・三国志の関羽に因んだ関刀など、多くの別名を持つ中国の「大刀」などが知られている。


「うむ、考え方は居合とよく似ているな。居合の抜く手は相手に刀身が見えない。相手はいつ刀を抜いたのか、刀がどこから襲ってくるのか、とても認識しづらいんだ」

「なるほど、そのあたりは武術として同じ方法を取るのね」

「ただ─────────────────」

「ただ、どうしたの?」

「うん、あの師範が言われた、”間合い” というのが気になって仕方がないんだ」

「それは私もよ。間合いとは相手との隔たりの事ではない、と聞いたときには、ちょっと頭が混乱してきたわ」

「以前からずっと ”間合い” というものが気になっていたんだ。
 去年、台湾に行って早々、海軍で訓練試合に参加させられたんだけれど、その時に全く敵うワケがないような相手と対戦する羽目になって、居合の構えの応用で偶然に相手を倒せて・・・間合いということがぼんやり、何となく解ったような気がしていたんだけれど、それはそれで終わってしまって、実際にはまだ何もまとまっていない。難しいよ、間合いというものは・・・」

「それって・・宏隆が対戦したその相手って、宗さんでしょう?」

「えっ、どうしてそれが分かるの?」

「オンナの勘よ・・・男はね、悪いコトは出来ないようになっているのよ!」

「悪いことって・・ぼくは何も、そんな・・・・」

「そりゃぁ宗さんは美人だし、強くてカッコよくて、スタイルも抜群よね。最近ポッチャリ太り目の私なんかとは大違い・・・私が宏隆と近いのは国籍くらいかしらねぇ!」

「お前・・もしかして、妬いてるのか?」

「ツーンだ、宏隆みたいな鈍感オトコには、女ゴコロなんかわかりませんよーっだ!!」

「あのねぇ、宗少尉は先輩で、ぼくに特殊部隊の訓練を付けてくれている教官なんだよ」

「どぉーだか・・・恋には年齢も立場も関係ないって言うからね!」

「ば、馬鹿じゃないのか?、やってらんないね、もう。こっちはお前の立ち会いを見てから ”間合い” のことでアタマが一杯だっていうのに・・お前も、そんなアホ言ってる暇があったら、師範に言われた間合いのことでも考えたらどうだよ?」

「ま、確かにそうね。よし、今日のところは追求をやめておくか────────────」

「まだそんなこと言って・・・けど、今日はいろいろと驚かされたなぁ。薙刀というのはてっきり型だけを稽古するのかと思っていたんだけれど、京都まで来て、珠乃があんな勇ましい恰好で打ち合ってるのを観て・・・」

「確かに、初めて薙刀の試合を目にする人は驚くかも知れないわね。しかも、手にしている武器が長いので、結構迫力があるでしょう?」

「そうだね、そもそも女性が互いに武器を持って立ち合うというのも、すごく迫力がある。珠乃なんか江戸城のお女中、いや、女戦士アマゾネスって感じで、何だかすごくおっかないよね!!」

「また、そんな失礼なことを言う!、アマゾネスって、ギリシャ神話に出てくるオンナだけの勇猛な部族のことでしょ?・・私、そこまで猛々しくなくってよ!」

「ははは、冗談だよ、冗談 ────────────」

「もう、人のことをすぐにからかって。よし、罰として何か奢(おご)りなさいっ!!」

「しまった!、口は災いの元か・・仕方ない、祇園の ”くずきり” でもオゴるか」

「わぁい!、私、鍵善良房(かぎぜんよしふさ)のくずきり、大好きよ。それに、せっかく京都まで来たんだから、ついでに夕食も食べて行きましょうよ、ねっ!」

「はは・・そうだな、それじゃ ”おばんざい” でも食べていくか?」

「いいわね、祇園なら ”山ふく” っていう、手頃で味の良いお店を知っているわ」

「ふぅん、珠乃は稽古に通ってきているだけあって、京都に詳しいんだなあ」

「京都独特のトロリとした珈琲も美味しいわよ。大学前の喫茶店のケーキも!!」

「おいおい、そんなに何もかもチャンポンで食べられないよ・・!」



                                (つづく)




  *次回、連載小説「龍の道」 第104回の掲載は、2月1日(金)の予定です

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2012年12月15日

連載小説「龍の道」 第102回




第102回 インテリジェンス(11)



「中国のことについてこんなに色々と聞くのも、考えてみるのも初めてです。学校で習った歴史や、三国志、水滸伝、西遊記、成吉思汗、夕日と拳銃・・・これまで自分がイメージしていた中国や大陸とは全く違っていて、あらためて勉強をし直さなくてはいけないと思いますね」

「夕日と拳銃?・・」

「檀一雄の小説で、その年に映画化もされた物語ですよ。実際の日本人馬賊となった伊達政宗の末裔、伊達淳之介をモデルに壮大なスケールで描かれた、ほとんどノンフィクションの小説です。主人公は蒙古の独立運動を助けたり、匪賊から開拓団を守りながら満洲に桃源郷を造る夢を実現するために活躍した人です。最期は上海で銃殺刑となるのですが・・・
”夕日と拳銃” は、ちょっと父のイメージとも重なっていて、ぼくの愛読書のひとつになっています」

「ふぅん、面白そうね・・・そういえば、お父様はかつて上海の ”同文書院” に国費留学された人だったわね。欧米列強の脅威に敢然と立ち向かえる英才たちを育てるための最高学府をアジアに設置したニッポンは、本当に素晴らしい国だと思うわ。お父様は確か、その同文書院を卒業した後、大陸を放浪中に馬賊の頭目に気に入られて、しばらくそこに滞在して射撃や馬術を学ばれたのよね?」

「うわ、流石は秘密結社のシークレット・エージェント、ウチのことをよくご存知ですね。そう、馬賊に捕らえられた時に頭目の息子と素手で対決して、その闘いぶりが気に入られて馬賊の一員に迎えられたんです。夕日と拳銃を地で行くような話ですが」

「ちょっと前までの日本には、少なからずそんな人が居たみたいね。でも、今の日本の男たちは何だか頼りないというか、カネやモノ、ちっぽけな立身出世にばかり夢中になって、そんな大きな夢を持つような人はすっかり居なくなったんじゃないかしら?」

「まあ、ぼくは馬賊にはなれないけれど、今の日本の平和や繁栄は、ちょっと上辺だけで空回りしているような感じも無きにしも非ずです。大阪万博の成功に始まり、マクドナルド、カップヌードル、歩行者天国、ファミリーレストラン、一億総中流意識・・・」

「そして今回の ”日中友好” ・・と続いてくるワケよね」

「そうです。その日中友好が、宗少尉の仰るように、実は中国側の切羽詰まった国内情勢の建て直しのために、日本をダシに使って巧みに仕組まれたものだったとすると、これから先の二十年、三十年という未来を、日本人はじっくり慎重に考えて行かなければならないと思います」

「その意味で、これからの日本は中国や中国人への理解がどんどん必要になってくるわね。これまでみたいに、大昔の中国人が書いた ”漢文” を読んで中国が偉大だと思い込み、築き上げてしまった誤った価値観を捨てて、本当の中国の姿を直視して行かなくてはいけないわ」

「日本人は、漢籍が真実の描写だと考えて、長い年月を掛けて無数の漢籍に取り組んできたわけですね。けれども、実際には漢文というのはそういうメディアでは無かった・・・」

「そう。それはとても重要なポイントよ。漢籍の中で表現された中国を見る限りでは、古来から信義に篤く、礼節を尊ぶ文化人の国であると、誰もがそう思ってしまうわね。けれども現実は決してそうではない。特に現代中国では、漢籍に書かれていた美化された中国人と、現実に付き合って経験した中国人とのギャップがあまりにも違っていて、誰もがきっと戸惑うことになると思うわ」

「 ”漢文” で思い付いたんですが、中国では ”文学” とはどのようなものなのでしょうか。
恥ずかしながら、僕はさっき言った三国志や、幾つかの有名な漢詩くらいしか知りません」

「そもそも漢文というのは、人間の心情を細かく表現するのには向かない手段なのよ。
 漢文はもともと行政システムの中のコミュニケーションの手段として発達してきたものだから、本来は人の心の内面や情緒を細やかに表現するには全く不適切な形式なのよね。行政に必要である、情報を正確に表現するという事のためには、むしろ情緒や感情を否定して、事実を事実として報告しなくてはならないワケだから、そうなって当然だけど」

「それじゃ、たとえばその反対に、恋愛小説などについてはどうなんですか?」

「中国には、恋愛小説なんか無いわよ─────────────────」

「ええっ・・!!」

「驚くでしょうけれど、ホントのことよ。漢文が情緒表現に向いていないのはどうしようもない事実で、恋愛小説どころか、そのせいで中国人の恋愛感情の発達にも大きな影響があったと私は思っているの。中国人が二千年もの間、漢文だけしか表現手段を持っていなかったことは、人々の感情や情緒、心理などにとても大きな影響を与えてきたのよ」

「はぁ・・・・」

「日本は言語に限らず、古くから独自の繊細な文化を持ってきている国だから、そう言われてもあまりピンとこないでしょうけれど、細やかな情緒や感情、感性などというものは、何百年、何千年という時間の中で、優れた文化の積み重ねがあって初めて、その民族の情緒文化として豊かに育まれるものなのよ。
 日本は万葉集に始まって、源氏物語や古今集、平家物語、古の時代から江戸時代や明治時代に到るまで、多くの歌人や俳人、文人が築き上げた燦然たる文学の歴史があって、それが日本人の情緒や感情を豊かに育む役割を果たしてきたでしょう。文学という芸術が人を豊かにするのは、どこの国のどのような文化を見ても明らかだけどね」

「私たち日本人にとってはそれが当たり前になっていて、世界の殆どの国がそうであるように思ってしまいますが、それが中国には無いと・・・そういうことなのですか?」

「そういうコトよ。中国の文学や言語文化を知るのに良い例を挙げてみましょうか。
 さっき杜甫の ”春望” という漢詩の話をしたわね。日本人なら誰でも諳(そら)んじられるという、あの有名な漢詩・・・」

「国破れて山河在り、城春にして草木深し、ときに感じては花にも涙をそそぎ、別れを恨みては鳥にも心を驚かす───────────ですね?」

「そう、この詩は日本人から見たら、とても情緒が深く、詠み手の心情がたっぷり描かれていると思うでしょう?」

「はい、素晴らしい詩だと思います。これ以外にも好きな漢詩がたくさんあります」

「けれど、よく考えてごらんなさい。実際には、それは漢詩を日本語化して、日本語の情緒で読んでいるからそう思えるわけで、中国人が中国語でそれを読んでも、決して日本人と同じような、そんな繊細な感銘は得られていないのよ」

「えっ、そうなんですか・・・?!」

「中国人には漢詩がもっと平坦に、ドライに聞こえているのよ。この詩で言えば、杜甫は故国を失ったことによる自身の ”内面” を詩として表現しているわけではないの。もっと現実的というか、そもそも漢文で心の内面を表現すること自体、形式上ムリがあるのよ」

「うぅむ、それは驚きですね。確かに、少し考えてみれば分かることですが、日本人は漢詩を ”日本語の情緒” で読んでいたわけですね。そしてその感性は、もしかすると中国人の作者がその詩を作ったときの情緒よりも、もっと深いかも知れない・・・ということなんでしょうか?」

「そのとおりよ。中国人はこの無味乾燥の役人用の漢文形式が発達したために、恋愛小説どころか、実際の恋愛さえ、洗練された恋愛のカタチを知らないまま、二十世紀を迎えてしまったと言えるのよ」

「今思い出したんですが、中国には恋愛小説の最高峰と言われる ”紅楼夢(こうろうむ)” があったんじゃないですか?、確か、三国志の ”武”、水滸伝の ”侠” に対して、”情” の紅楼夢だと、それらと比べられるほどの小説でしたよね」

「確かに ”紅楼夢” は中国四大名著とか傑作古典小説に数えられていて、度々テレビドラマや映画にもなり、毛沢東も愛読しているというモノよね。そして、しばしば日本の ”源氏物語" と比較されるけれど、まあ、紅楼夢と源氏物語を比較するのは、日本に対してとても失礼だと私は思うわ。私は両方を読んでいるけれど、そもそも紅楼夢が恋愛小説と言えるのかどうかさえ怪しいと思えるし」

「ぼくは、紅楼夢は読んだことがありません」

「読まなくてもいいかも・・・というか、読めないかも知れないわよ」

「そんなに凝った内容なのですか?」

「うーん、日本人にはちょっと物足りないと思うのよ。中国の大作家と呼ばれる人たちは紅楼夢をいつもカバンに入れて数百回も繰り返して読んでいた、などと言うけどね」

「ははは、数百回ですか?、さすがは白髪三千丈のクニですね」

「紅楼夢について、台湾の作家・張明澄(ちょう・めいちょう)は、こう言っているわ。
 一回目はとても読みづらく、最後まできちんと読める人はいない。二回目はやや面白くなるけれど、まだ二回目で熱中する人はいない。けれども三回目を読み始めると中毒状態になって、仕事や学校をサボっても読みたくなる。中国人から阿片、麻雀、紅楼夢の三つを取り上げたら、たちまち産業が大発展してアメリカを追い越すだろう・・・ってね」

「あはは、そう聞くと三回以上は読んでみたくなりますね!」

「張明澄は ”誤訳・愚訳〜漢文の読めない漢学者たち” という本を日本で出版して、日本人の学者たちを痛烈に挑戦的に批判しているのよ。”間違いだらけの漢文” では、日本人学者の紅楼夢の誤訳についても言及しているし、ご丁寧に ”誤読だらけの邪馬台国” という本まで出している。彼は ”紅楼夢を読んでいると、どうしても源氏物語が退屈に思えてしまう" と何度も繰り返し発言しているわね」

「よほどお気に入りなんですね、その ”紅楼夢” という小説が。
 でも、日本人は間違っても、源氏物語を阿片や麻雀と一緒に並べたりはしません」

「紅楼夢は清朝中期(18世紀中頃)の小説で、紫式部の ”源氏物語” はそれより八百年も前の平安中期に成立した長編物語。しかも紅楼夢は全120回のうち、原作者が書いたのは初めの80回だけ。後の40回は他の作者が書いた続作で、それが原作者の意図や思想と反していることや、原作の部分まで書き換えたという汚点も指摘されているから、そもそも比較する方がおかしいと思うけれど、夷狄、異民族である日本よりも優れた恋愛小説が中国にあると主張したいあまりに、そう言うんでしょうね」

「なるほど・・・」

「源氏物語は400字詰め原稿用紙で2,400枚分、百万字の長編で、登場人物は五百人、七十年余りに亘る歳月の出来事が描かれていて、八百首の和歌が作品内に含まれる、世界中の言葉に翻訳された一大文学叙事詩であり世界最古の長編小説。いろいろな意味で ”紅楼夢” などとは全く比較にならないはずよ」

「宗少尉・・僕なんかよりよほど詳しいですね─────────────────」

「そのくらいの事は玄洋會の幹部なら誰でも教養として知っているわよ。やがて起こる中国の侵略に備えて、日本と台湾は互いによく理解し合っていかなくてはならないと、いつも張大人が仰っているわ。それに、源氏物語は世界的にあまりにも有名な小説だからね」

「五島美術館にある、源氏物語が成立して150年後に描かれた ”源氏物語絵巻” などは国宝とされるほどのものですからね。紫式部は源氏物語以外にも、紫式部日記という傑作を遺しています。鎌倉時代に絵巻として描かれたその日記も、同じく国宝になっています」

「国宝といえば、日本が中国産の陶磁器を国宝にしていることを、中国人はどうしても理解できないのよ。自国の国宝が中国産であることになぜ疑問を抱かないのか、ってね・・」

「ははぁ、なるほどねぇ・・・確かに、日本人は国産ではなくても、歴史的、美術的に優れたものが日本に存在すれば、それを国宝と認める民族ですよね。つまり、単に民族としてのメンツよりも、そこにある普遍的な芸術や美が優先されるのだと思います。その心情が中国人には理解できないということですか?」

「そうね。中国人と日本人は美意識がぜんぜん違っているのよ。日本には遣唐使の頃に中国の喫茶法が伝わり、同時に青磁の茶碗が伝えられたでしょう。12世紀に入ると栄西禅師によって宋代の抹茶喫茶法と天目茶碗が日本に伝わった。当時の茶の湯に用いられる茶碗は磁器の青磁や天目が尊ばれていた。いわゆる唐物崇拝というヤツね。
 室町中期になると、光沢が尊ばれる青磁や天目茶碗よりも地味な青磁、つまり珠光青磁を好む茶人たちが登場してくる。村田珠光や千利休の ”佗び茶” によって日本の陶器は独自の展開をし、瀬戸、志野、織部などの茶陶が新たに誕生してくるわけよね」

「ふーむ、支那人のくせに、よく日本の茶陶・茶道の歴史をご存知ですね」

「クセに、とは何よ・・ヒロタカのお母様はお茶のお師匠様だから、きちんと教えて頂こうと思って必死で勉強してきたのよ」

「それは殊勝なお心掛けですね。ニッコウ、ケッコウ、ダイワカンコウ・・・」

「またアホを言う・・もう中国の話に飽きてきたんでしょう?」

「コホン・・日本の ”国宝” の定義は、”重要文化財の中で世界文化の見地から価値が高いと思われるもの” であり、”類ない国民の宝とするもの” とされています。ここには純粋に自分たちの民族が造った、自分たち独自の宝というような偏狭な姿勢は見られませんね」

「まさしく、それが日本人というものよね。でもね、私の言いたいのは茶道の歴史ではなくて、かつて日本に伝来し、国宝にまでなっている青磁が現在の中国から完全に消失してしまっているのは何故か、ということ。あるいは、人智を越えたワザとされる曜変天目茶碗が織田信長や徳川家康に大切にされ、将軍家光が春日局に下賜したほどの日本の国宝とされているのに、なぜ本家の中国には影も形も残っていないのか、ということなのよ・・・」

「えっ、本家の中国には、それらの優れた陶磁器が残されていないんですか?」

「全然残っていないわ。それに、そもそも中国人には日本人が素晴らしいと思うような茶碗の美が全く理解できないのよ。珠光青磁などは、かつて中国のどこにでも転がっているような雑器に見えて仕方がないと言う研究家も居るほど。特にワビ・サビになるともうお手上げね。侘び寂び以前に、一般で言う ”粋な計らい” のイキなんていうことも、中国人には全然理解できないことなのよ」

「まあ、ワビ・サビ・イキなんてのは、中国人に限らず、外国人にはなかなか理解できないことでしょうけれど・・・それより、日本で国宝とされているそれらの中国産の芸術品が中国に全然無い、現代に伝えられてもいないというのは、とても不思議というか、悲しいことですね」

「日本は、かつての中国の文化財を最も多く保有している国と言われているのよ。中国人にしてみれば、日本は古くから中国を文化の母として謙虚に学習し、大量の芸術品を輸入してきた。中国の国宝を最も多く所有しているのは日本で、今日、最も中国文化に精通しているのも日本人だ・・と言いたいワケね」

「中国を文化の母として・・か。まあいいけど、それも中国とは何か、中華民族とは、中国人とは何を指すのか、歴史と民族をよく見つめ直してからの話、というコトになりますね」

「そのとおりね。さて、ここでこれまでの ”インテリジェンス講義・中国編” をまとめてみましょうか・・・」

「はい、お願いします」

「まず始めに、中国というクニは無かったし、四千年の歴史なんか有るわけがない。国としてはせいぜい秦の始皇帝以来の二千年の歴史しかないのが真実、というコトね」

「うーん、僕にはその事実の認識さえありませんでしたね・・・」

「そして、中国で言う ”クニ(國)” とは、文字どおり城壁の中の小さな領域を意味していると言うコト。王朝は繰り返し生じても国家は存在した例しがないし、国家が無いのだから領地や領民も存在しない。
 そもそも中国の皇帝たちは ”非漢民族” であることが普通であり、実際に秦の始皇帝から清朝の終わりまでの2,100年間に、漢民族以外の皇帝による支配は1,600年、それは中国全体の歴史の75パーセントに相当しているというコト」

「その事実にも驚かされましたね。広大な大陸に中国人たちが居て、その中華民族、つまり漢民族が代わる代わる王になり、王朝を造って支配していたと、そんなイメージでいたんですが、大きな間違いでしたね・・・」

「その ”中国の王” とは、広大な地域を流通で支配していた商業都市ネットワークの支配者であって、そこに各地から集まってきた雑多な異民族が混じり合い、後に言う ”漢民族” が出来上がってきた。その ”漢民族” とは、彼らが蔑んだ野蛮人である四夷・夷狄の後裔であり、それゆえに異民族のDNAを減らし、絶やすための ”民族浄化” という発想が存在し、その非道は諸外国に知らされないまま、実際にチベットやウイグルで現在も行われている。
 加えて、日本では日中平和友好の美名の下、日中記者協定のために、そのような非道圧政の事実を知っていても全くと言って良いほど報道されていない、ということ・・・」

「うーん、あきれ返るような事がたくさん出てきて、ウイグルのことを聞いたときにはハラワタが煮えくりかえるほどの怒りを覚えました。日本がむりやり侵略戦争をしたとか、一般市民に非道をはたらいたなどと強く主張するのは、実は彼ら自身の血液の中から出てきた発想なのだと改めて思えますね」

「そして、日本人が漢籍を読んで中国だと思うのは非常に危険であるということ。漢文は文法が細かく整備されていない、言語学的にも極めて特殊なもので、どれほど中国語を学んでも漢文の読解力には結び付かないし、中国人さえ漢文が理解できないし、読めない。この二千年間、中国語と漢文は何の関係もないものだった、ということ」

「それもまた、意外でした。日本人が思う中国、中国人のイメージと実際のものとはかなり懸け離れているようですね。中国の古典に恋愛小説が全く存在しないというのも、ちょっとビックリです」

「恋愛には、言葉の遣り取りや駆け引きというのが当然出て来るでしょう?、源氏物語では和歌のやり取りがあるし、時代が下がれば恋文になってくるわね。けれども中国では文字は漢文で、実際に漢文を使うことの出来る人はごく一部の男性だけだった。だから男女の恋愛では漢詩を遣り取りしたり、恋文を渡すということも有り得ない、というワケね。
 さらには、漢詩が発達した事に於いて、その世界で漢字の使用法が限定されてきたために、普通の話し言葉で感情表現に関する語彙が発達しないままになった。かくして中国語は言葉としての進化や洗練がほとんど為されないまま徒に時が過ぎていった。たとえ文才があっても中国人に恋愛小説は非常に書きにくいコトなのよ」

「なるほど・・支那人の宗少尉がそう言うと、とても説得力がありますね」

「そして、たとえ中国人が恋愛小説を書き、そこで恋文の遣り取りを表現できたとしても、中国では本が読めたり漢詩が書けたりする女性など、あまりにも現実味が無いので、読者はシラけてしまってその本は売れない。けれども反対に、相手の女性が人間ではない場合・・つまり女神の生まれ変わりや、正体が妖怪変化である女性に男が惚れるという物語なら中国には無数にあるのよ。非現実的な世界では、古典の教養を持つ女性はいくらでも居るということになるわね」

「ふーむ、勉強になるなぁ・・・」

「恋愛小説のついでに、もっと面白いのは、中国数千年という歴史を振り返っても ”心中” はただの一例もないというコトがあるわね」

「ええっ、そんな・・ウソでしょう?!」

「私の意見じゃないのよ。かつて日本大学に留学した戴伝賢(たいでんけん=戴季陶)という中華民国の政治家の著作に ”日本論” というのがあるけど、そこには日本人は情死、つまり心中するということが特筆大書されているの。彼が日本に留学して驚いたのは、日本人の男女が情が深まった結果、共に死を選ぶことがある、という事実だった。彼は日本論の中で、およそ中国数千年の歴史を振り返っても心中はただの一例も無い、と書いているわ」

「ひえぇーっ、中国に対する見方が、これでまた変わりました!!」

「他民族が混じり合う中国だけれど、彼は中国では心中というもの自体を、見たことも聞いたこともないと言っているのよ。この ”日本論” は中国人のために書かれた本だけれど、心中がどういうものか、中国人に何とか分からせようとして、一生懸命説明をしているの」

「ははぁ・・・・」

「現在では、中華人民共和国でも台湾でも、科挙が行われていた時代の漢文は公的に使われていないわ。漢字は使われているけれども、明治時代に清朝から大量に留学生を日本に送って以来、日本語の真似をして前置詞や助動詞を明確に記すようになって、古典の教養がなくても、誰でも文章が書けるようになった、というワケね」

「 ”心中” は、どうなんでしょうか?」

「心中も新聞で報道されるほどになったみたいね。日本化の影響が進んでいて、これからは北京や台北の町中で、カップルが腕を組んで歩いたり、仲良くベンチに腰掛けたりする光景が見られるようになるでしょうね。日本の流行歌も、たくさん中国に入っていくはずよ」

「中国と日本が、そんな平和な関係だけで進んで行けば良いのですが」

「日本には中国や中国人が好きな人も多く居るし、日本が好きな中国人もたくさん居るはずよね。お互いに本当の姿を理解していくことが大切なのは、夫婦や親子、友人でも同じことでしょう。お互いの国の真実の姿を、きちんと理解していくことこそ、本当の友好だと私は思うわ」

「もちろん、それなら友好も大歓迎ですね」

「ただ、そのような友好が一般市民のレベルでしか存在せず、国家や政権がエゴを向けてくるとしたら──────────────」

「だとしたら・・?」

「そのときは潔く、晴れ晴れと立ち向かって戦うしかないでしょうね」


                                 (つづく)



  *次回、1月1日は著者のお正月休暇のため、お休みをいただきます。
   連載小説「龍の道」 第103回の掲載は、1月15日(火)の予定です


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2012年12月01日

連載小説「龍の道」 第101回




第101回 インテリジェンス(10)



「日中平和友好。今回、日本と中国は国交を結ぶべきではなかった────────────────
これが私たち玄洋會の見解よ」

「え・・・?」

「日中友好条約は全く日本のためにはならない。なぜ日本人は誰ひとり ”日中友好” を疑いもせずに受け容れ、進めて行こうとするのかしら。それが私には不思議でならないわ」

「ぼくなどは、単にこの ”日中友好” ということだけを取っても珍紛漢紛です。というか、その辺りの詳しい事情はちっとも国民に知らされておらず、ただ ”友好” というムードばかりが強調されているような気がします」

「そもそも日本のジャーナリズムには、どうして今、日本が中国と国交を結ぶ必要があるのかという、その肝心カナメのところに触れた報道がまったく無いのよ。田中角栄が中国を訪問したという既成事実をもとに、いつの間にか中国情勢の渦に巻き込まれてしまっていて、それによって日本が今後どのような状況になっていくのか、その見通しを取り上げるメディアさえ皆無に近いのよ。 ”友好” という言葉は確かに美しいけれど、その友好の結果が果たしてどのような未来をもたらすのか、どうして何の心配もしないのかしらね・・・」

「そういえば、いきなり降って湧いたように始まった日中友好を、ただ国交を回復できて良かったとか、新しい時代の到来だとか、中国との友好関係を単純に喜ぶ声ばかりで、その結果がどうなっていくのか、それによって日本の未来がどうなっていくのかを予見するような報道が一切ありませんね」

「 ”国交回復” という言葉はおかしいわね。1972年以前に中国という国と日本の間に外交関係があったことは一度も無いのに──────────」

「中国と日本の間に外交関係があったことなど一度も無いというのは?・・・確かにこれまでの講義で中国というクニが無かったということは分かりましたが、古代から日本の朝廷が遣唐使を送って、中国と国交を持ってきた事実はどうなるんですか?」

「それは ”国交” じゃないわよ──────────────」

「だって、教科書でそう習いましたよ・・・」

「だから、教科書をアタマから信用しちゃいけないって言ってるじゃない。事実はそうじゃないわ。実際には日本は建国以来、ほんのついこの間、二十世紀に入るまでは中国と正式な国交を持ったことは一度も無いし、国交を持とうと思ったことさえ無かったのよ」

「ええーっ?・・またまた、そんなアブナイことを言い出すんだから!!」

「アブなくなんか無いわよ、歴史の真実なんだから。日本人は、まるで中国との国交が古くからあったかのように思わされているだけのことよ」

「遣唐使は631年からですよ。もう千三百年以上経っていますが・・」

「そうね、そしてその後、894年に菅原道真によって廃止されるまで、数十回に亘って使節が派遣されているわね」

「よく知ってますね、894(ハクシ=白紙)にもどす遣唐使、ってネ・・・・」

「ははは・・日本語だとそうやって語呂で覚えられるのね。けれど、遣唐使は正式な ”国交” ではないのよ。ここでその話をするとまた寄り道になるから次の機会にするけれど、そのあたりは、よく自分で歴史を調べてごらんなさいな。
 ともかく、わざわざ ”国交回復” という表現を使う人がいるのは何故かしらね。
 清国や中華民国と日本の間に国交が存在した時期はあっても、今の中国、中華人民共和国はそれらの国家の継承国とは異なる、まったく別の国家なのだから、国交回復という表現は本来おかしいでしょう?」

「言われてみれば、本当にそうですね。言葉のマジックというか、考えようによってはそんな所まで国民の意識をコントロールする意図が潜んでいるようにも感じられます」

「そのとおりね。そしてそれは、すでに日本のジャーナリズムが中共政府に支配されていることの証しとも言えるかもしれないわ」

「ちょっと気になるんですが・・・いまの中国はどのような情勢になっているんですか?、日本がわざわざ友好関係を結ばなくてはならないような、あるいは中国が日本と友好を結ぶような必要性が、今現在、本当にあるのでしょうか?」

「いい質問ね。そう、その問いかけが、まず第一にあるべきなのよ。
 中国は、実はいま非常に危険な状態にあるのよ・・・たとえアメリカに占領されて、戦後ボロボロの状態になっても、日本は細々とでも情報機関をきちんと維持しようとしてきたから、当然、日本政府もその事実を知っているはずだけれど」

「具体的には、どうなっているんでしょう?」

「毛沢東が行った文化大革命によって中国共産党が潰滅し、残された唯一の権力だった人民解放軍が内部から崩壊して、毛沢東を支持していた林彪が粛清され、毛沢東自身の権威が失墜して、北京の政権そのものが非常に不安定な状態になっているのよ。しかも政治だけではなくて、経済もすでに破綻している。人口が爆発的に増加しているのに食料生産が間に合わないので大飢饉は必至。産業は停滞して失業率は深刻の一途をたどっている・・・
 そして、こうなってはもはや事態を抜本的に解決する事など、もはや不可能だから、中国国内の大混乱と今後起こり得る国家の崩壊を回避するために、その破局を一年でも二年でも延命させるためには、高度経済成長の波に乗ってきた日本の資本と技術力をうまく獲得することが絶対に必要である、と中国政府は踏んだのよ────────────」

「うわぁ、そんなウラがあったなんて・・・・」

「そのためにこそ、周恩来首相はベトナムを裏切って反米闘争への支援を打ち切り、台湾統合を棚上げにしてもアメリカとの関係を改善して、日米安保で深い関係がある日本との国交を樹立させなくてはならないと考え、田中角栄首相の訪中実現に全力を尽くした、というワケね」

「な、何ですって?・・それじゃ、日中国交正常化というのは、つまり・・・?」

「そう、日中友好はすべて、中国の切羽詰まった国内情勢のために仕組まれた、崩壊寸前の中国を再建するためのものだったのよ。 ”友好” など、ただの建前に過ぎないわ」

「今日の講義の最中だけでも、宗少尉に何度も言われましたけれど、学校で僕らが学んでいる歴史や、もっと広く言えばテレビのニュースや、報道特集や、そんなものを信じていては何も分からない、真実はそんなところには無いのだと、つくづく考えさせられます」

「もうひとつ、大事なポイントがあるわ。この ”日中平和友好” よりも遥か以前に、日本と中国は ”記者協定” を結んでいるのよ」

「記者協定というと、報道に関する協定のことですか?」

「そう、”日中記者交換協定” と言うのだけれど、これがまた、とんでもないクセモノで」

「・・その話、ぜひ聞かせてほしいですね!!」

「つい最近のことだけれど、もと毎日新聞 編集主幹の三好修氏が、 ”経済往来” という雑誌に【新聞はこうして北京に屈した】と題する記事を発表をして、大きな話題になっているのよ。ヒロタカは知らない?」

「すみません、まだそういう事に疎くて────────────」

「スパイはこういう物にも興味を持って、いろいろ読んでみるコトが大切ね。日本のこんな経済誌まで、支那人の私が読んでいるんだから。あはは・・・」

「僕はスパイじゃないってば、もぉ・・・で、それは、どういう内容なんですか?」

「それを語るには、ちょっと時間を遡らなくてはいけないわね。
 1952年(昭和27年)、日本は台湾国民政府(中華民国・首都は台北)との間で【日華平和条約=日本国と中華民国との間の平和条約】を締結した。これによって、共に中国の正統な政府であると主張する台湾国民政府と中国共産党政府(1949年建国・首都は北京)のうち、日本は台湾国民政府を正統な政府と認めて国交を結んだわけだけど・・・そのくらいは知ってるわよね?」

「ええ・・まあ、なんとか─────────────────」

「つまり、日本は今回の中華人民共和国よりも20年も前に、中華民国・台湾政府と国交を結んでいたというコト────────────
 毛沢東率いる中国共産党が大陸を支配して中華人民共和国が成立し、中華民国・国民党の蒋介石が台湾に逃れた1949年(昭和24年)には、日本はまだアメリカGHQの占領下にあって、どちらを中国の正統な政権政府として認めるか、日本に自由意志は与えられていなかった。
 日本の独立をめぐるサンフランシスコ講和会議(1951・昭和26年)に於いても、中国の代表権が中華民国と中華人民共和国のいずれにあるかを巡って、連合国の中でも意見がまとまらなかった為に、けっきょくどちらも招聘されず、日中間の講和は独立後の日本の判断に委ねられる、ということになったの。
 けれども、日米安保条約でアメリカと同盟関係を結び、自由主義国家に名を連ねた日本には共産主義国家との国交という選択肢は有り得ず、1952年に中華民国と日華平和条約を結んで台湾を正統な中国の政権として認めたワケね。
 その年の12月には対中共輸出を全面禁止にする措置も執られた。中共政府が朝鮮戦争で北朝鮮を支援していたこともあって、吉田茂内閣での大陸への外交は全く絶たれていた。
これによって中華人民共和国との公の場での付き合いはすべて無くなり、1950年代は日中友好協会などを通じた民間レベルでの交流だけに留まっていたのよ。
 その後、日本の首相が替わる度に中共の態度もコロコロ変わって、いろいろと紆余曲折を経ていったのだけれど、保守政治家で親台湾・対中共強硬派だった岸信介内閣が60年安保の改定問題で退陣し、「徹底した低姿勢・寛容と忍耐」を標榜する池田勇人が首相になって、中国大陸との関係を改善し貿易の増進を模索する政策を打ち出し、民間契約による友好取引という形で貿易が再開されるようになったの」

「なるほど、教科書よりも分かりやすいです────────────」

「そして1962年には経済使節団が訪中して周恩来首相と会談、日中貿易の全面的な修復が図られ、11月には【日中総合貿易に関する覚え書き】が調印されて、経済交流が再開されることになったわけね。
 それは調印の責任者であり署名者である、廖承志(Liao Chengzhi)と元通産省の高碕達之助(たかさき たつのすけ)のイニシャルを取って ”LT貿易協定” と呼ばれた。 因みに、この廖承志は、日本語をベランメエで話せるほどの中共の対日工作の責任者だったのよ」

「ひえぇ・・何だか怖いですねぇ、ゾクッとします」

「この ”LT貿易協定” の枠組みの中で、1964年(昭和39年)9月に ”記者交換協定” が結ばれ、読売、朝日、毎日、産経、日経、西日本の各新聞社と、共同通信、NHK、TBSを合わせた9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐させることが出来るようになったのよ」

「ん?・・何だかちょっと腑に落ちませんね。そもそも、記者交換協定などというものは、政治や経済の枠組みの中で決められるような性質のものなんでしょうか?、ジャーナリズムの意義というのは、政治や経済に左右されないところで自由に報道活動ができることにあるんじゃないかと、ぼくは思いますが」
 
「そのとおり、よく気が付いたわね。ただ、日本国憲法には集会・結社・表現の自由は謳われていても、報道の自由(Freedom of Press)を認める記載は無いのよ。日本でマスコミが存在できる理由は、詰まるところ ”表現の自由” からの勝手な解釈に過ぎないわ」

「うわぁ、そんなところにもアメリカ製・占領憲法の弊害があるんだ・・・!」

「もちろん日本新聞協会は、この協定が政治や経済の枠組みの中で結ばれることに難色を示したのだけれど、最終的には ”新聞の自由” は守られると判断して受諾し、北京に9人の日本の記者を駐在させたのだけれど・・・
 1967年9月、中国共産党政府は、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の三人の記者に、
【中国側の厳正な警告を無視して文化大革命を中傷し、全世界人民の指導者、心の中の赤い赤い太陽である、最も敬愛する毛沢東主席にその矛先を向けていることは絶対に許せない】
・・という理由で国外退去を通告した。(註:この件で産経新聞は以後31年間、北京に支局を置くのをやめた)翌月には読売の記者が追放され、帰国中の日本テレビの記者も再入国を拒否され、北京駐在は9社から4社になったの」

「あはは、全世界人民の指導者、赤い太陽とは大きく出ましたね・・・キリストかブッダ、それともアマテラスの真似かいな?」

「翌年、1968年3月に ”日中覚え書き貿易会談” が北京で行われ、”LT貿易協定” に替わって ”覚書貿易” が制度化された。日本からは田川誠一、古井喜美、岡崎嘉平太らが出席、日中が協同コミュニケ(公式声明)を発表したのだけれど、この時に日中記者交換協定も改定され、そこに ”会談コミュニケに示された原則を遵守し” という文句が書かれていた。
 原則というのは、政治三原則と政経不可分の原則を指していて、中国側はこの原則を堅持することを重ねて強調したの」

「ははあ、その ”政治三原則” というのがクセモノなんですね?──────────」

「そういうこと。政治三原則というのは、1. 日本政府は中国を敵視してはならないこと。2. 米国に追随して ”二つの中国” を作る陰謀に加わらないこと。3. 中日両国の関係が正常化の方向に発展することを妨げないこと。という三つ、つまり中国共産党政府に批判的な報道は一切してはならないという内容だったわけね」

「うわ、一方的だなぁ。それは報道の自由や新聞の自由に直接関わってくる条件ですよね」

「そう。だけど問題は、田川誠一たちがそのような条件を呑みながら、日本新聞協会には一切秘密にしていたことにあるのよ」

「秘密に?・・そんなバカな!」

「バカな、と思うでしょう。けれど、田川たちはそれをやってしまったの。田川たちと中共政府の間で、この協定の結論は一般には公表しないということが決められ、その内容も一切報道されなかった。そして相手の言いなりのまま、中国の意に反するような報道をしないこと、その場合には、北京に支社を置いたり記者の常駐が禁止されることになったのよ」

「な、何という・・・・」

「その年には、産経新聞の柴田北京支局長が中国の壁新聞を翻訳して日本に紹介していたことから追放処分になり、日本経済新聞の鮫島記者がスパイ容疑で逮捕され、11月には帰国中のNHK記者が再入国できず、1970年9月には共同通信も追放され、残ったのは朝日新聞ただ一社となったのよ。ちなみに、この田川誠一は元・朝日新聞の記者で、同社の労働組合委員長の出身。河野洋平のイトコに当たる人ね」

「ははあ、僕のように政治に疎いヤングでも、何となく分かってきますね。今の朝日新聞はどんどん左寄り、中国寄りになって行っているので・・・」

「そう。朝日新聞は中国が取り決めた政治三原則を忠実に守ったおかげで、北京を追い出されなかった唯一の新聞社として名を残したワケよ─────────────────」


                               (つづく)



   *次回、連載小説「龍の道」 第102回の掲載は、12月15日(土)の予定です



【資料:日中共同声明調印(1972年9月29日)】

   




 この物語の舞台から四十年を経た、今年(2012年)の9月16日、東京都知事の「定例記者会見」の席で、ちょうどこの話が出ていました。大変興味深いので、参考資料として以下に附記しておきます。(春日敬之)

 
 石原都知事:NTVは居るかな?、日本テレビ・・・

 日テレ記者:はい。

 石原都知事:この前、あなたの所が一社だけ突然来てね、どういうソースか知らないけれど、『中国側が、日本政府が尖閣を所有して、何も作らないし、誰も人を置かないって言うなら、中国政府はこれ以上尖閣について口出ししない、って言っているんだけど、どう思いますか?』って聞かれたんだけど、アレは何?・・内政干渉でしょう?

 日テレ記者:・・・・・・・

 石原都知事:同じ局なのに知らないの?、ガセか?、他の局でも報道されていないし・・

 中国人記者:中国ではそれは報道されています。中国の三つの要求を呑めば、中国は尖閣に口を出さないと・・・

 石原都知事:おかしな話ですね。なんで日本のマスコミはそれを報道しないの?

 中国人記者:尖閣問題も含めて、日本が報道する中国の記事は、うわべだけしか報道しません。 ”臓器狩り” とか、まずい部分は報道しない・・・

 石原都知事:日本のメディアが中国のおかしいところを報道しないのは、おかしな事だ。

 中国人記者: ”日中記者交換協定” というのがありまして、元衆議院議員の田川誠一が取り決めて、それ以降ずっと、日本の記者の中国報道が縛られている。民主主義なのに、これはおかしいです。

 石原都知事:田川誠一ってのは河野洋平の従兄弟で、あの二人の政治家の中国の発言については、許せないことがたくさんある・・・ (以下略)




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